④ 中原の三皇時代
苗族は、黄河中流域の先住民でもありました。仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化を築きます。B.C.3000年頃、その大首長は、中国史上初めて、黄河中流域の中原で、王となったのです。
仰韶文化の担い手は、苗族です。 仰韶文化の中核的な半坡遺跡の51体の男性成人の遺骨を、調査した結果が、報告されています。当時、かなり混血が進んでいましたが、人種は当然、モンゴロイドで、現代のモンゴロイドと比較しますと、華南系とインドネシア系に、骨格からにしても最も近く、次に華北系に近くなることが分かりました。チベットB系、モンゴル系、アラスカエスキモー系等とは、全く類似性を有していなかったそうです。
三皇は、伏羲(ふっき・ふくぎ)氏、女渦(じょか)氏の苗族より始まりますが、黄帝のように、あらぶる神では、ありません。伏犧と女?についての伝承は、現在は主に貴州省・雲南省に住む苗族のあいだに多く、彼らの祖先ではないかという説が有力です。伏犧と女?は、蛇身人首とされ、新疆ウイグル自治区の東部、天山山脈の南麓にあるトルファン(Turpan)盆地から出土した彩色絹画では、2人は蛇の体を互いに巻き付け合い、手にはコンパスと定規を持っています。その絹画は、7世紀前半に滅びた、高昌国の貴族の墓地の埋葬者を覆う絹布に描かれていました。
農耕民族の典型ともいえる苗族の王のイメージには、黄河の洪水の度に、コンパスと定規を持って、農民のために、農地の再区画整理に奔走する姿が浮かび上がります。結局、遊牧民や狩猟民同士の日常的な紛争に鍛えられている、チベット系の遊牧民・羌族の神農(しんのう)氏が、中原の富の収奪を意図して西方より侵攻して来ますと、環濠の深さと広さだけでは防御できず、簡単に政権は、簒奪されます。この頃からでしょうか、環濠集落が、城壁を構えるようになったのは?
中原の聖なる嵩山(すうざん)には、夏王朝の始祖・禹(う)の住居がありました。「春秋左氏伝」によれば、羌族は「嵩山の後裔」としています。チベット系の人々も、既に中原土着の民となっていました。少なくとも、庶民生活では、その生活様式の違いがあったにしろ、自然な文化交流が行われ、発展的に根付いていったようです。後世、儒家の華夷思想が強まると、夷狄(いてき)を蔑視して、周辺文化を受容するのに、抵抗を感じるようになります。
三皇・神農氏の天下は8代530年続くと「史記」は記します。今日だから言えるのですが、ほぼ当たっているのです。中国では、神話時代から、事実に即しいく努力がなされているのです。木簡、竹簡の資料と語部による伝承と、その分析によるものです。
木を切って鋤を作り、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤鍬の使用法を広めて、はじめて耕作を教えたため、神農氏と号したといわれています。また、発見した数々の有用な植物を育てる方法を、人々に教えたことから、農耕の祖とみなされてもいます。
太陽に光と熱を充分に出させ、五穀を成長させる功を称えて、炎を司る神でもあり、火徳をもって王となったことから、炎帝とも呼ばれます。「炎帝」の称号の由来については、神農氏が油性の木を束ねて、火をつける「松明」を発明したため「炎帝」と呼ばれた、という説もあります。 また、日が南中するときに市を開き交易することを始めた結果、人々に各種の生業が営まれたのも、その治世下でした。
神農氏の統治下で、農耕具の発達により、耕地は広がり、生産に余剰が生じ、専門職人階層が現れ、集合集落内で市が開かれ、都市文化を発達させます。
「史記」によれば、神農氏支配下であっても、苗族との確執は長く続いたようです。蚩尤(しゆう)は古代苗族の英雄神で、剣・鎧・鉾・戟・弩等の兵器を発明した神とされます。蚩尤は九黎(れい)の君ともいわれ、九つの黎族を統合した大勢力で、羌(きょう)族の支配者・神農氏一族との確執が生じていたのです。蚩尤一族は、侮りがたい勢力として存続し続けます。黎とは、黒い頭を意味します。帽子をかぶらず、黒髪をさらす人、平民を指します。時には戸外で、帽子をかぶらず働く人、奴隷を表すこともあります。
したがて、九黎とは、9つに近い多種族の平民集団と、それを率いる、神農氏の与力諸侯になりえなかった新興首長、ないしは部族長連合の軍勢だったのでしょう。
その時代、中原には苗族をはじめ多様な民族がいて、羌族の支配を受けていたのでしょうが、その統治の有り様は、多年にわたる政権の腐敗により、軋轢が絶えなかったようです。
B.C.2500年頃、神農氏の有力諸侯の一人、黄帝一族率いる中原龍山文化勢力が台頭してきます。神農氏は、500年を超える長期政権ですが、子孫に人を得ず、軍事的に弱体化したようです。蚩尤勢力に対抗するには、有力諸侯の黄帝の軍事力と統率力に頼らざるをえなかったようです。
台頭する黄帝に、他の諸侯の人望が集まり、政権交代の世論はたかまります。終に、黄帝は、神農氏一族打倒の挙兵をします。神農氏は三度戦うも、坂泉の野に惨敗して、仰韶文化の辺境の地であった、黄河上流域の甘粛に逃れるのです。
『史記』三皇本紀では、神農氏の子孫として州・甫・甘・許・戯・露・斉・紀・怡・向・呂という、姜姓の各諸侯の名をあげています。周建国の軍師、斉の始祖太公望は、呂尚(りょしょう)です。甫侯と、上には名前があがっていないが申侯は、周王朝の宰相となり、斉侯・許侯は春秋時代まで有力な諸侯として生き残っています。
その後の羌族の華北一帯への広がりを考えると、すべてが、神農氏に味方したのではなく、むしろ羌族諸侯の主力勢力のほとんどは、神農氏の退嬰をみて見限り、黄帝の指揮下で、軍役に服していたとおもわれます。
⑤ 中国初代の帝・黄帝
蚩尤も、黄帝の支配を嫌い、反乱を起こします。善戦しますが、終に、琢鹿(たくろく)の野(や)で敗れます。蚩尤は、青丘の山で捕らえられます。蚩尤は、平民を先導して、諸侯軍に挑む、諸悪の根源として殺されます。 「書経」は、“蚩尤、惟(こ)れ始めて乱を作(な)し、延(ひ)いて平民に及ぶ”と。
このとき逃げられるのを恐れて、最後まで手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外したそうです。身体から滴り落ちた鮮血で、赤く染まった枷は、その後「楓」となり、毎年秋になると赤く染まります。蚩尤の血で染められた恨みが宿っているからだ、という伝説を生みます。
蚩尤に味方して破れた苗族のほとんどは、黄帝が支配する諸侯連合の奴隷にされたようです。しかし南方に逃れた人々もいます。司馬遷の「史記」に、三苗と呼ばれた苗族たちは南下し逃れ、雲南省や貴州省へ移る、と記されています。三苗ですから、苗族であっても、いくつかの部族があったようです。
長江下流域の苗族は、海洋民族でもありましたから、難民として、黒潮と対馬海流に乗り、日本列島へと民族移動をしたとも、考えられます。近年の研究成果により、稲の痕跡が、縄文時代中期の遺跡で検出されています。
中国に住む苗族は、現在では少数民族ですが、貴州省が主で、湖南省、雲南省、四川省、広西省、湖北省、海南省等に住みます。そのほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにも広がっています。
黄帝は、中原の諸民族を統治した五帝、その最初の帝であるとされています。黄帝は有熊国の君主、少典国の君主の次子で、姓は公孫ですが、後に姫姓に改姓します。名は軒轅(けんえん)といいます。有熊国は河南省にあります。尚、少典とは、諸侯の国の号ですから、当初は、神農氏諸侯の一人であったといえます。
軒轅は、諸侯の軍隊を徴集して、蚩尤の軍と対決します。攻め寄せる蚩尤との戦いは苦戦を強いられますが、?鹿の野で蚩尤を滅ぼします。黄帝は、?鹿山下の平地に都城(黄帝城・?鹿故城)を定めます。山東省西南部の曲阜(きょくふ:
Q?fu)市に位置します。 黄帝の即位にあたって景雲の瑞祥があったため、官名すべて雲にちなんだものをつけ、それぞれの長官を「雲師」と名付けます。
しかし遠征に明け暮れたようで、一定の場所に腰を落ち着けることが無かったとも言われています。「遷徒往来して常処無く、師兵を以て営営と為す。」
常に戦火の中にあって、支配領域を広げていきます。 その治世は、山野に道を開いて、従わない者を討ち、後世の春秋戦国時代に、中国とされる領域のすみずみまで統治します。開国の帝王の時代と称されています。
中国では、天子は天地を祀らねばなりません。これを封禅の儀式といいます。天を祀るため、天により近づくために山に登ります。その山頂で、土を盛り上げるのが「封」です。地を祀るのには、山を下って低いところで、土をはらうのが「禅」です。 泰山(標高1,545m)の頂で、檀を築いて天を祀ったのが封祭です。次に、山麓の梁父(りょうほ)で、地を均(なら)して地の神を祀るのが、禅祭です。
黄帝は、東は、泰山を越え海にまで及び、山東省の泰山に登り封禅をします。 西は空桐(甘粛省)を支配し、鶏頭山で登り封禅をします。南は長江に至り、熊山(湖南省)・湘山(湖南省)に登り封禅をします。北は葷粥(くんいく;匈奴)を追い払います。
そして、釜山で会盟をおこないます。諸侯を集めて、違命無きことを確かめます。
黄帝は外征ばかりしていたわけではなく、良臣を重用し、左右の大監を置いて諸侯を監督させます。風后・力牧・常先・大鴻の四人を登用して人民を治めさせます。
一方艶福家で、25子をもうけたそうです。その内、姓を得たる者14人です。これを諸侯に配します。ji姫、you酉、qi祁、ji己、teng籐、zhen?、ren任、gou苟、xi僖、ji?、huan?、yi依等とされます。さらに諸侯と血縁関係を結び、黄帝一族の安泰を企図します。
少昊氏は、黄帝の長子で、『十八史略』では、黄帝の後を継いで帝位についたとされています。少昊氏の姓は?(えい)姓とされ、春秋時代の秦、趙、梁、徐、江、黄など九ヶ国の先祖とされています。興味深いことに、『史記』五帝本紀では、少昊氏「くだって諸侯になり、江水のほとりに居住し」、「帝位につくことができなかった」となっています。黄帝時代、既にその支配が長江に及んでいることになります。
黄帝は、首山という山で、銅鉱脈を発見し、その銅を採って、湖北省北部の荊山の麓で鼎(かなえ)を鋳造します。 これに関連した伝説があります。広東省西部の肇慶市の東北に、鼎湖、鳳来、鶏篭、伏虎、青獅等、連綿と続く山並があります。その中の鼎湖山は、華南の4大名山の一つです。鼎湖山は、
山頂に湖があって、黄帝が、山頂で鼎を鋳造した跡だという地元の伝承があります。鼎湖山の名称はこれからつけられたそうです。
古代の人々は、露出した銅鉱脈を探します。商周時代以前の銅の産地は、長江の中、下流域、現在の湖北、安徽省等に多く存在しました。黄帝以後、苗族への侵攻が止まらない、大きな要因だったのです。
鼎は王権の象徴でした。王族の厳粛な儀式を、執り行うのに欠かせないのが鼎であったそうです。黄帝の鼎の、その後の伝承がわかりません。 後世、夏王朝の祖・禹が、中国を九分割統治し、その九州の長官に命じて銅を献上させ、これを用いて9個の鼎を鋳させました。 この意味を考えます。戦国時代末期、伝説的な帝王を、3人または5人にまとめる考えが生まれ、三皇五帝の伝承が始まります。それ以前は、天皇・地皇・人皇の三皇説でした。天皇氏、地皇氏に続いたのが人皇氏で、人皇氏は合計九人が王位に就きました。その兄弟九人が、中国全土を九つの州に分け、それぞれの長となり、それぞれが都に城邑を築きます。人皇は「泰皇」とも呼ばれます。夏王朝の禹は、当然、この伝承にのっとった、と思われます。
この9鼎は、中国全土に王権を確立した証として、「伝家の宝物」として、継承されていきます。夏の桀王の世に、鼎は商に移り、商の紂王の時に周に移りました。以後、周・赧王(たんおう)に至るまで25代の周王、515年、禹より1,800年間、継承されて来たのです。周の滅亡時、秦に運ばれる途中、泗水に沈んだと伝えられています。
秦王政は、中原のみならず、北辺の燕から、東は斉、山東半島全域、南は楚と呉越含む長江流域すべて、西は、巴蜀全域に及びます。自身を単なる王権の継承者としてみません。泰皇になぞらえて、始皇帝を自称します。彼の自負心は、9鼎自体を軽視したものと考えられます。しかし、その傲慢さが、政権を誕生させる原動力となると同時に、その極端な法家主義に、服しきれない平民の自暴自棄的な反乱を誘発するのです。王権誕生と同時に、政権の崩壊が始まっていました。
鼎が完成すると、一匹の竜が、髯を垂らして、黄帝を迎えに来ます。黄帝はそれに乗って昇天します。黄帝の陵墓は、陜西省黄陵県の西北にある黄帝陵とされています。
黄帝の墓とされている黄帝陵には、歴代王朝のみならず、今の中華人民共和国政府も、毎年参拝の使者を送って、中国の現状を報告しているそうです。
次帝は??で、名は高陽、??高陽氏(せんぎょくこうようし)です。黄帝の次子・昌意の子ですから、黄帝の孫に当たります。 第3帝は?(こく)で、名は高辛、黄帝の長子・少昊氏(しょうこうし)の孫ですから、黄帝の曽孫に当たります。
名乗った名前が「夋」という説があり、帝?と舜はもともと同一人物で、また商王朝の卜骨の朴辞から、商王朝時代では、始祖・舜としてあがめられていました。
第4帝は堯(ぎょう)で、名は放勲、陶唐氏とも称します。帝?高辛氏(ていこくこうじんし)の次子としてその位を継ぎます。黄帝の玄孫に当たります。
堯帝以降、舜、禹と禅譲が、行われますが、舜、禹も黄帝の後裔です。
⑥ その後の苗族と日本の稲作の起源
晋・干宝『捜神記』によれば、「呉の国の夷狄がさかんに辺境を侵略したので、帝?は、将軍を派遣して夷狄の大将を捕らえようとしたが、失敗続きであった。」と、長江下流域勢力との確執が語られています。
中国には、「昔者、舜は有苗に舞い、禹は裸国に袒(たん)せり」の故事があります。五帝の舜が、長江流域の苗族を征服するとき、人心を得るため、苗の庶民と交わり、一緒に舞ったのです。
軍を率いての大遠征中のことでした。舜が、華南を巡狩中、蒼梧(そうご)の野(や)で崩御します。江南の九嶷(きゅうぎ)山上に、埋葬されます。これが「史記」でいう零陵(れいりょう)の地です。現在の湖南省南部で、広西と広東との省境、寧遠県の南60里にあります。舜陵、またの名を永陵、古代より禁足地とされ、陵の守人が置かれています。清代の国家的儀式の記録・『大典』によれば、必ずここに官吏を派遣して、祭祀がなされました。
その地方は、舜の異母弟・象(しょう)が封じられた有?(ゆうび)の地であったといわれています。後年、孟子は弟子の万章(ばんしょう)に、「帝舜はなぜ不仁の象を諸侯に封じたのですか」と問われます。それに応えて「自分の身が天子でありながら、弟を一介の平民のままに放っては置けない。象は不徳の人だから、直接その国を治めたのではなく、別に役人を派遣して国を治めさせた」と…・決定的な所で孔孟の教えに、疑問が生じます。
儒教は、孔子以来、ある種の宗教的な教団集団でした。従って、教徒たる弟子の質問に、その理解を超える事でも答えなければなりません。しかし、今となっては、自ずと分かります。統治能力はもとより、無能な義弟をこの偏狭の地に追いやって、諸侯に封じても、子飼の家臣もなく、与力諸侯もない状態で、誰が
統治できたでしょうか。はっきりいって、死地に追いやったと考えるのが正解でしょう。
舜帝埋葬の地は、人々がよく道に迷うから九嶷山と名づけられ、九峰があり、九渓が流れ、九峰のなかに舜源峰があり、そこから流れる舜源水という渓流があります。道県あたりで、瀟水(しょうすい)に合流し、やがて湘江に至り、その流れは洞庭湖で交わります。
中原で敗走した苗族は、長江文明も破られて、ここまで追い詰められています。 現在、九嶷山の南麓は、少数民族の居住する江華瑤族自治県になっています。
夏王朝・禹も、東に巡狩中に、浙江の会稽(かいけい)で、みまかったといわれています。禹は、長江をはるか越えるこの地で、諸侯と会盟して、その功績を評価します。「史記」によれば、それが「会稽」の地名の由来と伝えます。
2代続いて、王帝が江南の地で、それも奥深く、遠征中に亡くなります。銅鉱脈の発見のためと、依然と止まない剽悍な苗族の反抗が、理由なのでしょうか?
B.C.26世紀頃から、華北地方は、アジアモンスーンの弱体化により、夏季が寒冷化し、降雨量が極端に減少したのが原因とする説もあります。その乾燥化により、旱魃が常態となり、一度降雨が続くと、一転して大洪水になり、最早、農耕地が放棄される事態に至ったというのです。確かに、3皇の伏犧と女?の時代と堯・舜・禹の5帝の時代、ともに大洪水に苦闘する伝承が残っています。
また、後代の夏の時代(B.C.2070~B.C.1600)と商の時代(B.C.1600~B.C.1046)、度々遷都をします。その理由は、主に、焼畑農業と人口増加による大規模都市の建設があげられます。要するに、周辺の森林資源の枯渇です。焼畑による森林破壊は、論ずるまでもなく、その時代の都市生活を支える燃料源は、木材しかありません。その上、この時代より以前から、銅は活用され、商の時代には、中国の史上、最大最高の青銅器文化を生み出します。その銅を冶金し、鋳造するのに、どれほどの木材を使用したでしょう。また焼畑で耕地する大地が、都市周辺から、その余地がなくなれば、肥料源に乏しい時代ですから、連作障害はその生産性を、著しく減退させます。
新石器時代、中国は長江流域と黄河流域で、世界史においても、希に見る延命の古代文化を誕生させました。同時に、中国各地で、互いに影響しあいながらも、独自の地方文化を発生させました。ところが、中原龍山文化以降、地方文化は、その中原に近いほど、衰退します。残念ながら、文明は、文化力で支配されません。軍事力のあるところが、恣意的且つ独善的に介入し、各地の文化を蹂躙します。こうして、中原に最初の覇者が誕生すると、地方文化は、その搾取の対象になり消滅いていくのです。
中原勢力の進攻は、経済行為なのです。生きるがために、降雨多湿で生産性豊かな長江流域を収奪します。それにより、苗族が圧迫されて南下しますが、その過程で長江上流と下流に分断され、下流の人は「越人」と呼ばれるようになります。一方『漢書』にも記されているように、江南から交趾(現在の北ベトナム)にいたる広大な地域には、越族系の多くの種族が分布していきます。
後世、「会稽」の地名は、春秋末期の「会稽の恥を雪(そそ)ぐ」の故地として、有名になります。新興国の越王句践(こうせん)は、奇手を使って隣国、呉王闔閭(こうりょ)に勝ち、負傷死させます。呉王の太子扶差は、臥薪し再起を図ります。その後、呉王となり、攻め寄せる句践に大勝し、逆に根拠地の会稽に追い詰め、包囲して降伏させます。今度は、越王句践が、「会稽の恥を雪(そそ)ぐ」ため、嘗胆(しょうたん)して再起をはかります。
B.C.482年、呉王扶差が、中原の覇者になり、黄池(こうち;河南省)で会盟します。越王句践は、その留守を狙って、呉都の蘇州を襲い、太子を殺します。呉王扶差は、再度、再起を図りますが、その4年後に戦が始まると、越王句践との各地の戦いに敗れ、呉都に逃れるも3年に亘って包囲され、援軍の当てもなく自殺して呉は滅びます。B.C.472年のことです。
1954年南京近く、江蘇省丹徒県で出土した青銅器・「宜侯??(ぎこうそくき)」の銘文に、周王が「?」に宜の侯となるよう命じ、土地と人民を与えたことが記述されています。?(き)の内側の底に120字の銘文があり、周王朝成立時、分封を実行したことに関する重要な史料が記されています。「封建制度」の実施の記録です。これで、中原の小諸侯が、早くから長江流域に封じられて、呉楚の住民を支配したことが分かりました。
古公亶父(ここうたんぽ)は、周王朝初代武王の曽祖父ですが、彼には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいました。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、更に季歴の子の昌(後の文王)が優れた子であったので、古公亶父は常々「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていました。
兄である太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと出奔しました。荊蛮の地とは、呉と考えます。2人は、呼び戻されないため、断髪し文身します。周の使者が、2人を迎えに来ますが、2人は髪を切り、全身に刺青をしているので、中原へ帰るに相応しくないとしてこれを断わります。B.C.12世紀末の頃のことです。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従ったといわれています。継嗣がいなかったために、弟の仲雍が跡を継いだそうです。
「呉」はその後裔と称していました。 断髪は、海中に潜る際、邪魔にならないように、刺青は、鮫等に対する威嚇となります。この2つの風習は、呉越地方の素潜りをして魚を採る民族的特徴です。倭に関する記述でも同じような風習を伝えています。これが元となって、中国や日本で、倭人は太伯の子孫であるとする説があります。例えば『魏略逸文』や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う」とあります。
日本に水田稲作が、広く伝わったのが、B.C.400年代以降ですから、この呉越争覇の動乱期に当たります。呉越文化の高揚期でありましたが、それに関わった呉と越の王ともども、余りにも徳がない戦乱の過程から推測しますと、多数の難民が発生したことは十分考えられます。 |
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