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大汶口文化(黄河下流域の黒陶文化)
大汶口文化の土器 | 大汶口文化の生活 | 大汶口文化の発展段階 | 黒陶 | 灰陶 | 白陶
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 ① 長江文明の暦年 | ② 日本の稲作の伝来| ③ 長江の稲作と都市文化| 長江の良渚文化 |

 大汶口文化 
 ① 大汶口文化の土器
 大汶口文化は、B.C.4300~B.C.2400です。わが国の縄文時代の前期と中期に当たります。1959年、山東省寧陽県堡頭村で遺跡が発見され、後に、1962年中国科学院考古研究所が、山東省泰安県大汶口(だいぶんこう)、寧陽(Ningyang)と泰安(Taian)の間の汶河(もん/ぶんが)畔・泰山周囲地区から、曲阜(きょくふ)西夏侯を発掘し、集落遺跡と墓葬群が発見されました。以降、これが代表遺跡となり、1964年、大汶口文化と命名されました。
 大汶口文化は、黄河流域の山東省と江蘇省北部一帯に分布しています。 縄文土器の秀作といえるものは、造形表現としての強烈な個性的発露が、その圧倒的な迫力で、我々に感銘を与えてきました。大汶口の土器も、一見粗野ですが、その力強い造形意思の激しさが、存分に具象化されています。 特にB.C.4000年頃以降の彩文土器は、原始農耕文明の発祥とともに登場し、世界各地で製作されていています。南東ヨーロッパと中央アジアから南アジアにかっけての先史時代の土器には、必ずといってよいほど彩文が施されています。やがて各文明で到達する精緻で独創的な文様は、多様でありながら類型性があり、相互の文明間の交流が感じられます。
 土器は、原始農耕同様、自然発生的に中央アジアから南アジアの各地で、必要不可欠なものとして誕生した、人類史上最初の偉大な発明です。「人類は、火の使用開始以後、狩猟によって得た獲物を焼く内に、土が熱を受けると硬化することを知りました。さらに長時間焼成すれば、水漏れを防ぎ、食物の煮炊きにも使用することが可能となり、また粘土と水を混ぜることのより成形が容易になり、必要とする容器を作り出すことができます。最初の土器は、その必然的な意思から発明されました」   
 山東省博物館蔵の「紅陶獣形器(こうとうじゅけいき)」は、日本の国宝に当たる「一級文物」に指定されています。大汶口文化中期のもので、高さ21.6cm、全長22.7cmで、酒器もしくは水器で、誠に愛嬌のある造形です。この「紅陶獣形器」は、首から上は豚ですが、足は犬のように見えます。それは、古代の人にとっての「素朴な思い」を表現したものでした。 古代中国では、動物をかたどった土偶が、各地で出土しています。それとは別に「動物形容器」があり、対象となる動物は、豚、犬、鶏、フクロウ等です。これを山東省に限ると、出土した動物形容器は、豚と犬形がほとんどです。
 中国では、土器のことを「陶器」と表記します。色調によって、紅陶、灰陶、黒陶、白陶等と呼ばれます。大汶口文化前期は、いわゆる「手びねり」だったのですが、中期になると轆轤が使用され始めます。そして専門の陶工が登場します。前期は焼成の温度も、800℃前後の酸化炎で焼成された紅褐色土器の紅陶が主です。そして赤色、黒色、茶色、白色等で文様が描かれた紅陶を彩陶といいます。 中期以降になって窯の構造が進歩し、窯の中の温度は1000℃以上に高められます。還元炎焼成も試みられ、灰陶や黒陶ができるようになり、さらに窯を高温にすることによって磁土を原料として使うことが可能となり、白陶が作られるようなります。
 灰陶は、還元炎で焼成された灰青色の土器です。黒陶も、還元炎焼成の黒色磨研土器で、表面は黒色ですが、胎土は暗灰色か灰白色で、焼成終了直前に、いぶして黒色に仕上げられます。
 白陶は鉄分の少ない良質の陶土を用いた白色土器です。 土器の焼成温度が高く、轆轤の使用が一般的になると、器胎の厚さが均一となり、器形も均整がとれ、胎質は硬くなるのが特徴となります。灰陶が主で、紅陶・白陶は稀になります。
 黒陶には卵の殻のように薄い卵殻黒陶(らんかくこくとう)もみられます。 大汶口文化の山東省で出土した卵殻黒陶高柄杯(らんかくこくとうこうへいはい)は、高さ 22cmで、器胎は卵のように薄く、漆黒の黒陶です。白陶でも同様の器が作られています。日常の生活器というより祭祀用で、器胎の厚さは1~2mm程で極めて薄く、器壁もほぼ均一です。高脚上に、細長い楕円形を重ねた模様の七宝文(しっぽうもん)を透孔に、5列に連ねた洗練されたデザインです。 卵殻黒陶は山東龍山文化に引き継がれ、山東龍山文化時代の土器の典型となり、胎質はきめ細かく、表面は黒く光沢があり、器壁の厚さは 0.5~1㎜、作りは精巧で、造形も美しいものになります。
② 大汶口文化の生活
 大口汶文化の各遺跡からは、粟やヒエの植物が検出され、豚、羊、犬等の骨が見つかっています。また、石、貝、骨製の鎌や収穫具としての刀等の他、原始的な農具、漁労、狩猟用具等も出土しています。大汶口文化は、粟を中心とした農業経済が主で、豚・犬を飼育し、牛・羊を保有して、狩猟・漁業をも営む定住生活者とみられています。
 晩期段階では、食糧は相当の余剰を持つようになりました。 各期を通じ、後頭骨を人工的に変形させたり、成年が上の門歯を抜歯したり、亀の甲をおびたり、死者の手にキバノロ鹿の牙を握らせる等、大汶口文化に、一種独特な習俗がみられます。
 古代中国ではよく狩猟動物として、ノロとかキバノロがよく登場します。同じシカ科の動物で、ノロは非常に臆病で、水面にうつる自分の姿を見てもびっくりするとまで言われています。ノロは体重が30Kgくらい、地面から背中までの高さが70Cmくらい、雄には先が三つ又になった独特な角があり、犬のように吠えるそうです。ヨーロッパやアジアの森林地帯に棲息して、どちらかというと夜行性です。地面から背中までの高さは70Cmくらいです。 中国では古くから良く知られた動物で、商代(B.C.1600年頃~B.C.1023年頃)の遺跡からも、骨がたくさん出土しており、古代から重要な食料源だったようです。キバノロとは似ているが別種です。
  2005年11月24日, 朝鮮日報の記事に、韓国済州道北済州郡(プクチェジュグン)の主要道路周辺174.3km区間に、菜の花道を設け、種蒔きをしました。アブラナの幼い葉が上がってきて、冬季異色な見どころになっていました。 ところが、冬を迎えて、餌が不足した漢拏山(ハルラサン)のノロ鹿らが道路周辺に降りてきて、まさに上がってきたアブラナの幼い葉はもちろん、その根元まで食べてしまった。 北済州郡は、ノロ鹿被害を防ぐために“ノロ鹿忌避剤”を、菜の花道にばら撒いた。 北済州郡(プクチェジュグン)関係者は、“ノロ鹿忌避剤はノロ鹿が嫌いな臭いと味を出す薬剤で、他の動物や植物の生育等には何の支障もない”としているが、“ノロ鹿をうまく、追い出すことができるのかが心配だ”と、記されています。
 キバノロは、中国中央部から東北部、及び朝鮮半島の川辺に棲息しています。イギリスでは、動物園から逃げ出したものが野生化しているようです。川沿いの葦原や、丈の高い草の茂る草地にすみ、主に単独ですが、時にペアで見られます。葦の葉など植物質のものを食べます。キバノロは、これまた臆病で知られた鹿で、ちょっとした物音にもおびえ、姿を見ることは希です。ノロよりは小型で、雄にも雌にも角はありません。キバノロには名前の通りオスだけに、犬歯が発達した牙があります。交尾期は秋から冬にかけてで、翌年の春に子を産みます。鹿にしては多産で、1回のお産で平均3匹、多いと7匹も子供を産むそうです。子育てはオス・メスのつがいで行います。背中までの高さは50Cmくらいです。
③ 大汶口文化の発展段階
 大汶口文化の早期(B.C.4300~B.C.3500)は、母系氏族共同体の段階です。土器は、古代中国で儀式に用いられた大型の酒器で、細い筒形の胴に朝顔状に開いた口縁と足とがつく觚(こ)形器・三足器・高台付きの豆(とう)・紅陶鼎(てい;釜形鼎・鉢形鼎・盆形鼎・罐形鼎)・彩陶等で、焼成温度は低く、800℃~1000℃、紅陶が圧倒的です。
 「豆」は中国古来の高坏(たかつき)状の皿・鉢で、食器、または祭器として使用され、陶製・青銅製・木製などがあり、蓋(ふた)がつくものとつかないものとがあります。 器の種類は少なく、器形も簡単ですが、「八角星紋彩陶豆」には星形紋様があり、夜空を仰ぎ見て、天候を占った証しとされています。天文学を学び、季節の移り変わりを天文暦法によって表わし、農耕の作業日程の参考にしたと考えられます。  
 中期(B.C.3500~B.C.2800)は、父系氏族共同体への過渡期・確立の段階です。土器は灰陶・黒陶の比率が増加し、胎質のきめ細かい灰白陶も出現しました。  器種も増え、全体が丸くて大きな背壺・大きな透し彫りを施した台座をもつ豆等、器形も動物の形等、変化に富んだ複雑なものになります。
 平均気温が今より4~5 度高く、雨量も多く、木が繁茂していたようです。中期から晩期にかけ、西隣り、河南の地、仰韶系の文化の本地に進出しました。土器・彫刻の発展状況から中・晩期には手工業と農業は分離し、専門化しつつあったと思われます。
 晩期(B.C.2800~B.C.2500)は、父系氏族共同体の末期にあたります。土器は紅陶の占める割合が減少し、灰陶・黒陶が優勢になります。轆轤の使用や、脚の長い作りで、精巧な、器胎の薄い黒陶杯などが出現し、その造型・技術は、後代・龍山文化の卵殻陶高柄杯(らんかくとうこうへいはい)出現の基礎となります。 器胎が薄く、胎質が硬く、色艶が鮮やかで、均整の取れた造型の白陶は、焼成温度は1200度で、希少な素材、江西省景徳鎮近くの高嶺に産する、カオリナイトを主成分とする鉱物を含む粘土・高嶺土(こうりょうど)を使用しています。
④ 黒陶
 素焼きの赤い紅陶土器から、還元焔焼成窯・轆轤成形へと技術進歩したのが、B.C.2200年頃です。5世紀に築窯技術の入った日本とは、実に2600年以上の差があります。黒陶はその名のとおり、水中で沈殿させ精製した黒色粘土を、1000度を超える温度で還元焼成することで表面が黒色化します。また轆轤で非常に薄く成形し、表面が光沢を持つまで研磨されるのが特徴で、卵の殻ように薄くするので卵殻黒陶とも呼ばれています。器胎の厚さが均一で、器形も均整がとれていて、胎質が硬いのが特徴です。作りは精巧で、造形も美しく、山東龍山文化陶器の典型となります。
 還元焔焼成窯による焼成を簡単にいえば、燃焼に必要な酸素量が不足して、炭素の多い状態による焼成によって、素地や釉薬中の鉱物の酸素が失われてしまい、還元焼成特有の発色が得られるのです。たとえば青磁や青白磁、辰砂(しんしゃ)等が還元炎焼成によってしか焼けない代表的なものです。
  「辰砂」は本来、硫化水銀の俗称であり、朱色をしているために、その色になぞらえて紅色をしたものを辰砂と呼んでいます。陶芸で用いられる辰砂釉は、この辰砂と同じく美しい赤色を発色する釉薬ですが、透明釉の中に色彩を出すための呈色剤(ていしょくざい)として銅を含ませて、赤い釉薬として用いたものを「辰砂釉」、そして、透明釉の下に銅を含む絵具によって文様をあらわしたものを「釉裏紅」と呼びます。還元炎焼成によって赤く発色し、酸化炎焼成によって緑色に発色する銅の性質を利用します。
 山東龍山文化の薄い卵殻黒陶の出土例として、卵殻黒陶高柄杯は、高さ 19cm× 口径 7.cmで、ワイングラス形でした。上部の杯部と下部の脚部を、別々に轆轤引きして結合しています。厚さは、0,5~1,0mm前後で、極めて薄いです。脚部の透孔模様といい、全体の造型は、無駄のない均整のとれた、洗練されたものでした。
⑤ 灰陶
 灰陶は、B.C.2000年前後に現れ、B.C.700年頃再び流行を見せます。青銅器の代替品、死者への副葬品としての需要増加が原因でした。その中から派手に彩色された灰陶、いわゆる加彩灰陶が出現します。  
 新石器時代後期、馬家窯文化の灰陶しきょう土器は、高さ 24cm× 口径 10.cm、胴部の荒い櫛目が印象的で、おおぶりで、原始的な素朴さが感じられます。初期の日本の土偶に通じるものが有ります。「しきょう」とは、フクロウ・ミミズクの類を指します。肉食で性格が猛々しい事をもって、悪を制するの観念から造られました。B.C.700年頃、死者への副葬品として、フクロウ形の容器が墓に埋められ、棺にも描かれています。冥界において死者を守るとの考えです。器壁は暗灰色で、BC2000年頃の出土例です。
 始皇帝陵墓の兵馬灰陶が1970年代に発掘され、世界中が驚愕しました。この灰陶製作中、低温焼成の800から900℃程度に適した上薬が発明されました。それが鉛釉であり、鉛釉陶の出現が、これより始まります。鉛釉陶は、漢代陶芸における一大革新事となり、数々の創作釉陶を生み黄色、緑色、褐色等があり、鉛釉に酸化銅を少量加えた緑釉が流行しました。これは融点が、さらに低いため、700℃から800℃火度でよく、また胎の上に薄く平均的にかけることができます。南方では青釉陶が盛んに生産されました。これは焼成温度が高く、釉質が硬いもので、後に発展して青磁になるものです。 唐三彩は、唐時代の7世紀から8世紀に焼成された鉛釉陶器のことで、鉛釉を掛けた上に、酸化銅、酸化鉄、酸化コバルトなど掛け分けることによって、緑、褐色、藍色等の発色を得る色彩豊かな陶器です。白、緑、褐の三色のものが多いのですが、藍が加わった四色のもの、二色のもの等も含めて唐三彩と称されます。
⑥ 白陶
 白陶は黒陶とほぼ同じか、やや後のほぼ同時期に出現しました。カオリナイトを含む白色粘土を水中で沈殿させ精製し、1200度前後の温度で還元焔焼成します。巻き上げ技法から轆轤成形へとステップアップしながら、黒陶とは違う道を歩み始めます。それは使用した白色粘土が、カオリナイトを含んでいたからです。ここに磁器の始まりを予兆させる陶器が登場したのです。
 カオリナイト(Kaolinite)は、アルミニウムの含水珪酸塩鉱物で粘土の一種です。 カオリナイトの名は、中国の有名な粘土の産地である江西省の高嶺(カオリン:Kaoling)に由来します。高嶺で産出する粘土は、景徳で作られる磁器の材料として有名です。また同質の粘土はカオリン(Kaolin)と呼ばれています。 日本では岡山県備前市三石、広島県庄原市勝光山が産地として有名です。