② 臨潼姜寨遺跡の墓制 環濠の外側に、元は5区あったと思われる3区画の墓地に,成人のみを埋葬する300基以上と、幼児は環濠内の住居付近に甕棺で埋葬されています。日本の縄文時代でも、乳幼児の埋葬は住居内か、その出入り口周辺である場合が多いのです。宗教観や文化伝統では縛りえない、肉親の情愛が感じられます。
この集落は、族内婚(ぞくないこん)制をとる、5つの小婚姻族に分けられる一氏族だったろうと推測さています。帰属集団内部での通婚を行うことを、族内婚といいます。
共通の先祖をもつ、あるいはそう考えられた人々により形成される、小婚姻族のアイデンティティーが、そこにあったのでしょう。なぜ環濠内婚姻まで発展しないのか、その不自然さが解りません。
墓には、1つの墓に1人を葬る方法と、一度埋めて肉を腐らせ後、骨を掘り出して、主要な骨をそろえて埋葬し直す再生墓とがありました。亡骸を特定の場所に置き、肉体を朽ちらせてから骨を集め、再び埋葬し直します。肉体より魂に価値を置く葬儀形式です。日本の縄文時代遺跡でも検出されています。
二次葬の場合、単独で埋められる場合と、何人かをまとめて一つの穴に埋めるケースも見つかり、共同墓地かと思われます。墓の副葬品の中に、赤鉄礦の小塊と、それを磨りつぶすのめの石皿と石棒、コップ形の土器が見つかり、彩文を描く道具と筆洗具でないか、専門の絵付け師を彷彿させます。
③ 臨潼姜寨遺址の文化
紡錘車も見つかり、糸が作られ、織物が織られていました。また、骨製の針が出土し、衣服の縫製が行われていました。
楽器は、甕形の土器で、口縁の近くに複数の突起を付けたものが見つかり、太鼓の胴ではないかと考えられています。口に張った皮の縁に縄を通し、口縁の周囲の突起に掛けて引き、皮をピンと張ったと思われます。 また、7音階が出せるオカリナ、中に玉が入っている土器のガラガラ、上から見ると平たく、横から見ると梯形の土器の鈴が見つかりました。こら鈴は、B.C.2000頃に銅で作られる鈴と同形です。
刻画符号も見つかり、王志俊氏の統計では、129件38種とあります。刻画符号は、大体は黒色帯紋陶鉢の口沿に刻まれています。多くは残片で、まれに墓中の殉葬品の甕棺の陶鉢等に、完整のものが出土します。陶器に刻された刻画符号の最古のものは、山東省騰州市北辛からB.C.5000年頃と推定される、陶辺符号が出土しました。また仰韶文化の遺跡から、B.C.4000年頃の土器に符号が刻まれています。いずれも刻符は、一器に一個だけ刻されており、エジプト文字(ナイル)、楔形文字(メソポタミア)が、紀元前3000年頃ですから、それに比べると随分古いですが、文字と呼ぶには未熟です。
今まで一番古いとされてきた甲骨文には、会意(かいい)と形声文字が多く、すでに文字としての基本的な構成要素を備えています。 会意文字の例として、「衆」は、上半分を「太陽」とみます。下の字は「3人の人」を表します。太陽の下で働く人々をさします。郭沫若(かくまつじゃく)は、この文字を「奴隷」の意とします。文字は「商」の時代に、ほぼ体系的に完成されました。その時代は、中国史上希に見る、酷薄な奴隷制社会です。要するに、そんな時代、太陽の下で、懸命に働く者は、奴隷が主であったからです。これが、後世「商」の滅亡原因になります。
「武」は「戈(ほこ)」と「止(とめる)」から構成され、これは『春秋左氏伝』宣公12年の、「戈を止める意で武と為す」にもとづいて解釈されていましたが、「止」は「足」を表す字でもあるので、武器をもって行進することと考える方が妥当でしょう。
会意文字は、既成の象形文字、または指事文字を組み合わせることによって作られた漢字です。 形声文字は、事物の類型を表す記号(意符)と発音を表す記号(音符)を、組み合わせて新しい字を作ります。形声によって作られた文字は、漢字の90%以上がこれにあたります。例えば?(ブン)、潼(トウ)のように、左半分の「?」(さんずい)によって、水に関することであることが類推でき、右側の「文」や「童」で、その字が表す語の音を推測できるのです。最近の研究では、新石器時代から殷、周時代にいたる陶器上の刻符をふくめた陶文が注目されて、これらの刻符の中でも殷代以前のものは、文字とみるか記号とみるか論議されています。
④ 北首嶺遺跡
陝西省(せんせいしょう)宝鶏市区金陵河西岸にある龍泉中学の裏庭で、今から7000年前の新石器時代の北首嶺遺跡が発見されました。面積は6 万㎡。1958~1960と、1977~1978年に、中国社会科学院考古研究所が7
回にわたって発掘し、3つの層の文化が出土しました。
半地穴式住居が約40、穴倉が15、墓が439基、約1700の生産工具や生活道具等が出土しました。 住居は居住地区に規則的にならんでいて、多くは長方形で、まれに円形の家屋もありました。家の中には大きな炉のような場所があって、その周りには大量の白い灰がありました。いわゆる炉辺です。 墓は非常に密集した公共墓地になっています。その埋葬方は、やはり仰身直肢が一般的で、一部、身を屈めている屈葬もあります。
早期は、北首嶺下層文化(B.C.5150~B.C.5020)で、老官台文化晩期から仰韶文化早期(半坡類型)の過度期の文化です。土器は、紅陶・紅褐陶が主で、肉は比較的薄く、縄文がありますが、紋様が彩色されているものもあります。
紅土を貯蔵する灰坑と陶器を焼く窯・陶窯(とうよう)、各1 基が発見されました。また、同形式の長方形で浅い竪穴の墓葬7基も見つかり、1基は男女5人の合葬墓で、仰身直肢で二次葬を兼ねていました。そして、南海産の紅・黄色顔料と東海の巻貝が出土しました。
遠隔地との交流が推測されます。
中期は、仰韶文化半坡類型(B.C.4840~B.C.4170)です。墓葬は、単人仰身直肢が主ですが、2~3人の合葬も見つかりました。土器は、小直口尖底瓶・直腹小平底罐・円底鉢・蒜頭(さんとう; 蒜とはニンニクの意味で、頭がニンニク型)壺・舟形壺・水鳥啄魚紋蒜頭壺が出土しました。刻画符号も発見されました。
この北首嶺遺跡の晩期は、仰韶文化半坡類型晩期(B.C.4080~B.C.3790)に当ります。土器は、鉢に三角形図案のある彩陶が出土しました。集落遺址は、中心に南北100m、東西60mの広場があり、北・西・東南に3ケ所の住居群落がありました。竪穴式住居で、入り口は広場に向いています。
さらに、石斧や磨石などの石器や針、釣り針などの骨器もあります。
墓地は、住居の南側にあり、土器等が比較的多く埋葬されていました。丁寧に死体に筵を掛け、頭蓋骨がなく頭の所に土器がおかれていて、肋骨や上肢の骨がない状態で見つかりました。外出先で襲われ首を取られ、獣に食い荒された状態で発見・埋葬されたと推定され、首狩の風習があったことを示しています。 |
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