◆ 総論 縄文時代草創期 縄文時代期早期 縄文時代前期 縄文時代中期
 縄文時代の民族 縄文時代後期 縄文時代晩期 諏訪歴史散歩 車山高原リゾートイン・レアメモリー


臨潼姜寨遺跡と北首嶺遺跡
臨潼姜寨遺址社会| 臨潼姜寨遺跡の墓制 | 臨潼姜寨遺址の文化 | 北首嶺遺跡 |
古代黄河中下流域の気候 | 古代黄河文明の土器 | 環濠集落 | 母系社会 | 仰韶文化の墓制| 古代黄河文明の生業

 ① 長江文明の暦年 | ② 日本の稲作の伝来| ③ 長江の稲作と都市文化| 長江の良渚文化 |

 臨潼姜寨遺跡 
 ① 臨潼姜寨遺址社会
 臨潼姜寨(きょうさい)遺跡は、陝西省臨潼(りんとう)の北1Kの臨河(りんが)・東郊外の小高い丘陵にある仰韶(ヤンツヤオ)文化の集落遺跡で、総面積は5万mで、その内既に1万mが発掘され、半坡遺跡に続いて発見された新石器時代の村落址です。
 200m×150mばかりの楕円形の村落で、周囲に幅2~3m、深さ2~2.5mの濠を切り、半地下式の竪穴式住居の環濠集落が発掘されました。今からB.C.4,000~5,000年にかけて、農業・狩猟・漁猟を行なう共同生活を営んでいました。  
 姜寨遺跡は、半坡遺跡よりより小規模ですが,居住区、窯場、墓地などを含むこの村落の配置など、ほぼ集落全体の構造を知りうる点で貴重な遺跡です。集落中央が広場で、住居は広場を囲うように5群に分かれて建っています。各群は大型・中型の住居を各々1戸と小型住居を約20戸位で構成され、全体で100戸ほどです。人口は4~500人程度と推定され、木柵・出入口・望楼を持ち、日本の同時代の縄文時代中期と比較して、随分と緊張感のある環濠集落です。
 遺跡からは仰韶文化や竜山文化の特色をもった道具や食器等が約1万点、出土しました。中でも仰韶文化層から出土した銅と亜鉛の合金・黄銅片と、特殊な文字が刻まれた陶器は、最も重要なものです。
 姜寨遺跡の発掘により、当時の社会の性質や組織、生産技術、婚姻制度、文化芸術、墓制習慣などで多くの研究資料が発見されました。
  竪穴式住居の壁は、木の芯に壁土を塗り、それが乾かないうちに棒や指を使って幾何学紋を刻みます。豚の家畜は、発掘された骨で判定できるものは1~2歳のものが多く見られます。村の中央に、豚を追い込んでおく囲いと考えられる遺跡も発見されました。  
 土器の弾丸も出土しました。二つに折って長さ数10㎝になる太い紐を編み、真中に弾丸を承ける凹みのある幅広い部分を作っておきます。ここに弾丸を挟んで折り曲げ、一方の端に環を作って親指に通し、一方の端は他の指で握って、腕ごと振り回し、勢いのついたところで指を放すと、紐は残って弾丸は飛んでゆく、という飛び道具です。鳥や小動物を捕るのに使ったとされています。  
 貯蔵用の竪穴からタニシの殻・魚の骨が大量に発見され、塩辛のようなものにして保存していたと考えられます。秦嶺山脈(しんれいさんみゃく)から流れてくる水は、今よりもずっと澄み、水量も多く、魚も豊富でした。緑豊かな森林があり、現在の西安の気候では、生息できない亜熱帯性の竹鼠・水牛等の骨が出土しています。現在よりも温暖多湿の気候で、恵まれた環境で育まれた文化でした。 竹鼠の現代の棲息地は、ネパール東部からビルマ、ベトナム北部が主で、食性でいうとタイ等の熱帯地方特有の植物を食べる個体が多いのです。  
 一人位しか作業できない大きさの、土器作り用の小屋が発見され、専門化されていたことが解りました。直径2m強の円い竪穴が発見され、北半分は少し高くなって、焼いていない土器の置き場になり、南の壁際には粘土が一塊置かれていました。
 臨潼姜寨(きょうさい)遺跡の代表的出土品に、「彩陶人面魚文鉢」があります。1977年、名古屋市博物館の開館記念の催事、「中華人民共和国出土文物展」に、百点の中国の代表的遺物が、厳選出展されました。その時、年代順に並べられた先頭が、「彩陶人面魚文鉢」でした。図録の英文名は"Basin with human mask and fish design"でした。何千年にも及ぶ歴史的文物を表現するにしては、余りにもお粗末です。
 この時代幼児が死ぬと、甕棺に収めて、埋葬をします。甕棺は、穴をあけた陶蓋で、蓋(ふた)をします。この「彩陶人面魚文鉢」が出土した状態は、この鉢が、まさに甕棺の口を塞いでいたのです。蓋の内面に、黒で文様が施されているのですが、それは土偶のような顔を描いた呪術的な人面でした。
 「彩陶人面魚文鉢」は、人間の顔が中心に描かれている高さ18cmの鉢です。円形に素朴に描かれている人面の頭上には、三角形の尖った帽子のようなものをかぶっています、それが宝冠でしょうか?人面の目の上は、左側が三角形で、右側は、円1/4の図柄です。文身(いれずみ)でしょうか?顔の両耳を魚が、つついています。口の下は広く文身をされ、その顎両サイドから、左右に髭のようなもが伸びています。まるで、水中に漂うように描かれています。
 姜寨と半坡の人々は、魚をトーテムとする部族で、画像は、河の神・祖神そのもので、魂の復活を祈ったのでしょうか?
② 臨潼姜寨遺跡の墓制
 環濠の外側に、元は5区あったと思われる3区画の墓地に,成人のみを埋葬する300基以上と、幼児は環濠内の住居付近に甕棺で埋葬されています。日本の縄文時代でも、乳幼児の埋葬は住居内か、その出入り口周辺である場合が多いのです。宗教観や文化伝統では縛りえない、肉親の情愛が感じられます。
 この集落は、族内婚(ぞくないこん)制をとる、5つの小婚姻族に分けられる一氏族だったろうと推測さています。帰属集団内部での通婚を行うことを、族内婚といいます。 共通の先祖をもつ、あるいはそう考えられた人々により形成される、小婚姻族のアイデンティティーが、そこにあったのでしょう。なぜ環濠内婚姻まで発展しないのか、その不自然さが解りません。
 墓には、1つの墓に1人を葬る方法と、一度埋めて肉を腐らせ後、骨を掘り出して、主要な骨をそろえて埋葬し直す再生墓とがありました。亡骸を特定の場所に置き、肉体を朽ちらせてから骨を集め、再び埋葬し直します。肉体より魂に価値を置く葬儀形式です。日本の縄文時代遺跡でも検出されています。  
 二次葬の場合、単独で埋められる場合と、何人かをまとめて一つの穴に埋めるケースも見つかり、共同墓地かと思われます。墓の副葬品の中に、赤鉄礦の小塊と、それを磨りつぶすのめの石皿と石棒、コップ形の土器が見つかり、彩文を描く道具と筆洗具でないか、専門の絵付け師を彷彿させます。 
③ 臨潼姜寨遺址の文化
 紡錘車も見つかり、糸が作られ、織物が織られていました。また、骨製の針が出土し、衣服の縫製が行われていました。  
 楽器は、甕形の土器で、口縁の近くに複数の突起を付けたものが見つかり、太鼓の胴ではないかと考えられています。口に張った皮の縁に縄を通し、口縁の周囲の突起に掛けて引き、皮をピンと張ったと思われます。 また、7音階が出せるオカリナ、中に玉が入っている土器のガラガラ、上から見ると平たく、横から見ると梯形の土器の鈴が見つかりました。こら鈴は、B.C.2000頃に銅で作られる鈴と同形です。  
 刻画符号も見つかり、王志俊氏の統計では、129件38種とあります。刻画符号は、大体は黒色帯紋陶鉢の口沿に刻まれています。多くは残片で、まれに墓中の殉葬品の甕棺の陶鉢等に、完整のものが出土します。陶器に刻された刻画符号の最古のものは、山東省騰州市北辛からB.C.5000年頃と推定される、陶辺符号が出土しました。また仰韶文化の遺跡から、B.C.4000年頃の土器に符号が刻まれています。いずれも刻符は、一器に一個だけ刻されており、エジプト文字(ナイル)、楔形文字(メソポタミア)が、紀元前3000年頃ですから、それに比べると随分古いですが、文字と呼ぶには未熟です。
  今まで一番古いとされてきた甲骨文には、会意(かいい)と形声文字が多く、すでに文字としての基本的な構成要素を備えています。 会意文字の例として、「衆」は、上半分を「太陽」とみます。下の字は「3人の人」を表します。太陽の下で働く人々をさします。郭沫若(かくまつじゃく)は、この文字を「奴隷」の意とします。文字は「商」の時代に、ほぼ体系的に完成されました。その時代は、中国史上希に見る、酷薄な奴隷制社会です。要するに、そんな時代、太陽の下で、懸命に働く者は、奴隷が主であったからです。これが、後世「商」の滅亡原因になります。
 「武」は「戈(ほこ)」と「止(とめる)」から構成され、これは『春秋左氏伝』宣公12年の、「戈を止める意で武と為す」にもとづいて解釈されていましたが、「止」は「足」を表す字でもあるので、武器をもって行進することと考える方が妥当でしょう。
 会意文字は、既成の象形文字、または指事文字を組み合わせることによって作られた漢字です。 形声文字は、事物の類型を表す記号(意符)と発音を表す記号(音符)を、組み合わせて新しい字を作ります。形声によって作られた文字は、漢字の90%以上がこれにあたります。例えば?(ブン)、潼(トウ)のように、左半分の「?」(さんずい)によって、水に関することであることが類推でき、右側の「文」や「童」で、その字が表す語の音を推測できるのです。最近の研究では、新石器時代から殷、周時代にいたる陶器上の刻符をふくめた陶文が注目されて、これらの刻符の中でも殷代以前のものは、文字とみるか記号とみるか論議されています。
④ 北首嶺遺跡
 陝西省(せんせいしょう)宝鶏市区金陵河西岸にある龍泉中学の裏庭で、今から7000年前の新石器時代の北首嶺遺跡が発見されました。面積は6 万㎡。1958~1960と、1977~1978年に、中国社会科学院考古研究所が7 回にわたって発掘し、3つの層の文化が出土しました。
 半地穴式住居が約40、穴倉が15、墓が439基、約1700の生産工具や生活道具等が出土しました。  住居は居住地区に規則的にならんでいて、多くは長方形で、まれに円形の家屋もありました。家の中には大きな炉のような場所があって、その周りには大量の白い灰がありました。いわゆる炉辺です。  墓は非常に密集した公共墓地になっています。その埋葬方は、やはり仰身直肢が一般的で、一部、身を屈めている屈葬もあります。  
 早期は、北首嶺下層文化(B.C.5150~B.C.5020)で、老官台文化晩期から仰韶文化早期(半坡類型)の過度期の文化です。土器は、紅陶・紅褐陶が主で、肉は比較的薄く、縄文がありますが、紋様が彩色されているものもあります。
 紅土を貯蔵する灰坑と陶器を焼く窯・陶窯(とうよう)、各1 基が発見されました。また、同形式の長方形で浅い竪穴の墓葬7基も見つかり、1基は男女5人の合葬墓で、仰身直肢で二次葬を兼ねていました。そして、南海産の紅・黄色顔料と東海の巻貝が出土しました。 遠隔地との交流が推測されます。 
 中期は、仰韶文化半坡類型(B.C.4840~B.C.4170)です。墓葬は、単人仰身直肢が主ですが、2~3人の合葬も見つかりました。土器は、小直口尖底瓶・直腹小平底罐・円底鉢・蒜頭(さんとう; 蒜とはニンニクの意味で、頭がニンニク型)壺・舟形壺・水鳥啄魚紋蒜頭壺が出土しました。刻画符号も発見されました。
 この北首嶺遺跡の晩期は、仰韶文化半坡類型晩期(B.C.4080~B.C.3790)に当ります。土器は、鉢に三角形図案のある彩陶が出土しました。集落遺址は、中心に南北100m、東西60mの広場があり、北・西・東南に3ケ所の住居群落がありました。竪穴式住居で、入り口は広場に向いています。 さらに、石斧や磨石などの石器や針、釣り針などの骨器もあります。 
 墓地は、住居の南側にあり、土器等が比較的多く埋葬されていました。丁寧に死体に筵を掛け、頭蓋骨がなく頭の所に土器がおかれていて、肋骨や上肢の骨がない状態で見つかりました。外出先で襲われ首を取られ、獣に食い荒された状態で発見・埋葬されたと推定され、首狩の風習があったことを示しています。