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中原龍山文化(B.C.2500?~B.C.2000?)【黄河中流域】
中原龍山文化の陶器 | 中原龍山文化の背景 | 中原龍山文化の玉 | 中原の三皇時代 | 中国初代の帝・黄帝 | その後の苗族と日本の稲作の起源|
新石器持代晩期の城壁 | 龍山文化の墓制 | 龍山文化の土器 | 龍山文化の生活 | 龍山文化の占卜 | 龍山文化の石器と刻文陶片| 龍山文化の占卜 | 龍山文化の銅器
大汶口文化の土器 | 大汶口文化の生活 | 大汶口文化の発展段階 | 黒陶 | 灰陶 | 白陶
半坡遺址の粗描 | 環濠集落の意味 | 半坡遺跡の土器製作 | 半坡遺跡の生活環境 | 半坡遺跡の生業 | 半坡遺跡の墓制
臨潼姜寨遺址社会 | 臨潼姜寨遺跡の墓制 | 臨潼姜寨遺址の文化 | 北首嶺遺跡 |
古代黄河中下流域の気候 | 古代黄河文明の土器 | 環濠集落 | 母系社会 | 仰韶文化の墓制| 古代黄河文明の生業

 ① 長江文明の暦年 | ② 日本の稲作の伝来| ③ 長江の稲作と都市文化| 長江の良渚文化 |


 ① 中原龍山文化の陶器
 中原龍山文化は、陝西龍山文化・山西龍山文化・河南龍山文化に分かれます。 中原龍山文化は仰韶(ヤンシャオ)後期文化を継承し、灰陶が主流で、籃紋・縄文文様が多く見られ、三本の袋足を持つ炊器の鬲(れき)が、よく出土します。  
 陝西地方で、龍山文化類型(B.C.2500~1500)の紅陶雙耳鬲が出土しています。直接火にかけて水を沸しているので、全体に煤が付着していました。鬲には把手の耳が付いています。この点が、陝西龍山文化の特徴で、山東龍山文化とは大きく異なります。竜山文化の大半は、泥と砂で作られた灰黒陶と、紅陶の土器で、粒子の細かい泥で作られ黒光りする黒陶は、全体の一割にも満たないそうです。そのほとんどが陶器の表面に紋様がなく、素朴ではあるが渋い趣があります。中には、簡単な紋様があるものもあります。
  陝西省西安市西南の西安客省庄遺跡からは、文字・符号の刻された骨片が出土しました。既に卜辞による占卜が行われていたようです。土器は、黒く彩色された紅陶と円点紋の彩文灰陶で、最下層は仰韶文化です。 河南省洛陽市の西の郊外、谷水鎮付近で発見され洛陽王湾遺址の王湾三期は、河南龍山文化(B.C.2390)です。土器は、3本足の儀式用の酒器・?(ji?)と、 中空の3本足の鼎の鬲が登場して、彩陶・円形台の圏足盤・高脚の柄杯(へいはい)等が見られなくなります。方形の区画線を巡らせた方格文・籃文、縄文壺等が流行しました。
 湯陽市の白営遺址(B.C.2590~B.C.2100)は、早期(B.C.2590)・中期・晩期(B.C.2200~B.C.2100)の遺跡が発掘されました。早期から、井戸が見つかりました。土器は、早期は鬲、中期は扁腹?、晩期は炊器と鼎等の三足器です。高圏足盤に、二つ乳を露出した裸体像が刻されています。原始線刻芸術品とされます。
 山西省襄汾件陶寺村の陶寺遺址(B.C.2500~B.C.1900)の面積は約300 万㎡もあります。太鼓、木製の器物、軟玉器が出土しました。良渚文化の影響が見られますが、饕餮は刻されていません。土器は灰陶が主で、彩絵蟠龍図形陶盤は、龍がとぐろを巻く蟠龍(ばんりゅう)図形で、中原地区の原初的意匠です。大皿の彩り豊かな美しい彩絵陶器で、出土状況から判断して一種の礼器と思われています。龍紋は氏族・部族の紋章で、商周青銅器の花紋に近似しています。仰韶文化の土器の鈴と同形の銅の鈴が出土しました。
② 中原龍山文化の背景
 中国新石器時代の、少なくともB.C.5000年以前には、北方畑作農耕と南方稲作農耕の2つの文化圏が形成されました。その後、B.C.5000~3000年の間に、農耕経済と土器・石器・玉器等の製造業の発展に伴い、社会人口の増加によって、集落規模が拡大し、2つの文化圏の接触が、考古学的に認識できるようになりました。
 B.C.3000~2500年の間になると、黄河、長江流域の周辺地域では、かなり高いレベルの地方文化が、隆盛を極めます。これらの文化圏は、独自の特徴をもち発展するのですが、互いに複雑な交流をもち「多元一体」と呼ぶ巨大な中国文明を成立させます。
 B.C.3000年以降には、周辺の幾つかの地方文明が、中原地域に影響を及ぼすようになると同時に、集約集中され、中原文化圏が形成し始めるようになります。その文化圏相互の拡大と影響をみると、黄土地域の仰韶文化が、新石器時代晩期、各地の文化圏のなかで優勢な地位を占めるようになります。
 隣接する山東龍山文化圏の環濠集落にも、極度の緊張がみられます。城子崖遺址でもわかるように、集落の規模の拡大のみならず、環濠はより広くなります。さらに、この時代以降、初めて長大な城壁が、構築されます。
 中原龍山文化期(B.C.2500~B.C.2000)になると、その影響が、中原のみならず、中国の大部分の範囲に及んでいることがみてとれます。地方文明は対外関係の重点を中原に向けて、それ以外には刺激を及ぼさず、発展は停止状態になります。
 長江中流域の屈家嶺(くつかれい)文化や長江の下流・太湖流域周辺を中心とした良渚文化は、相前後して消滅します。 中国数千年の歴史の大部分は中原地域が政治活動の中心であったと同時に、文化の中心でもありました。その始まりが、B.C.2500年頃で、古代中国の中原に、最初の覇者が登場した時期と符合します。
 この時期、中原地域に現れた現象をみると、十数種類の新規陶器様式と陶器製作技術・装飾技術、精緻な石器と玉器の製作加工技術、長列の建築、墓の大規模化とその葬具・副葬品の豊富さ、死者の身分階級を如実に表す埋葬制度等があります。 その後の中原文化の中核をなす、刻字符号・龍及び動物造型・青銅器具・占卜の風習・璧等の玉器が、そろって登場します。
 結果、中原文化と地方文明との実力は、劇的に逆転します。中原勢力の軍事的優位は、周辺地帯を辺境として差別をし、汝水と漢水の間の地・汝漢(じょかん)の黄金、長江の銅資源や象牙、その他の産物の収奪と、巡狩という名の奴隷獲得の軍事行動を専らにします。また、王の遠征は、財貨獲得の経済行為でもありました。 
 こうして、地方文明は、度々の収奪によって、衰退します。地方文明の中心地域に起こった変化は、たとえば、もっとも辺境にある南越と呼ばれる嶺南(れいなん)地域でもみてとれます。この時代以降の長江流域の文化遺物が、数多く出土します。長江流域の文化は、中原勢力に敗れ、その後繰り返される収奪に抗いながらも、もっと南の方へ逃げざるをえなかったのです。
③ 中原龍山文化の玉
 1955年に陝西省西安市客省庄が発見され、客省庄二期文化・客省庄文化とも呼ばれます。西安客省庄遺跡・斗門鎮遺跡・米家崖遺跡・長楽坡遺跡・趙家湾遺跡・岐山双庵遺跡・興平張耳村遺跡・武功趙家来遺跡等は、渭水(いすい)と涇水(けいすい)流域に分布しています。涇水、渭水、洛水は、陝西省で黄河にそそぎ込む、いずれも長安北岸の支流で、渭水は黄河最大の支流でもあります。
 1956年、総称としての龍山文化から分れて、中原龍山文化命名されました。仰韶文化期よりもさらに大きな集落が形成されます。既に分業が始まり、農具や農業技術が進歩し、その他の生産工具が改良され、建築技術も向上して、専門職業生産段階へと移行します。余剰生産品がうまれ、原始氏族社会が解体し、私有財産制が芽生え、貧富の差が生じ、階級が出現しました。
 山東・湖北等で産する高柄土器は、中国西北部の山西龍山文化に伝わりました。 良渚文化で産する玉琮・玉璧も山西龍山文化に伝わり、さらに陝西龍山文化・甘粛省广河県斉家坪の隝河西岸の斉家文化に達しました。山東龍山文化で産する玉璋・玉斧・玉刀も山西龍山文化に伝わっています。 一方、中原西北部から河南・山東地域には、鬲形土器や羊の飼育、羊の肩胛骨による占卜の風習が伝わっています。
 これらを見るに、相互に生産物や風習の交流が、行われていることがわかります。それは隣接する地域の間を少しずつ伝わっていき、しかも各種ある生産物のなかから一部だけが選択的に受容されていったものであり、各地の生活方式を一変させるようなものではありませんでした。
 中原龍山文化圏からは、玉または石の打楽器の磬(けい)・玉璧・玉鉞・玉環・玉琮(そう)等と、銅器も出土しました。古代社会で、磬は「石」や「鳴る球」と呼ばれて、農耕や漁や狩猟等一日の生業が終わった後、この石を叩きながら、様々な獣の動きを真似て、踊ったということです。このとき叩かれた石がその後、徐々に改良され打楽器の磬となりました。その後、編鐘(へんしょう)と同じように、古代の権力者が、戦や祭り等の場面で使うようになります。
 この中原龍山文化時代になって、黄河流域で、初めて、玉璧・玉鉞・玉琮が同時に出土しました。玉璧は、富の象徴といわれています。古代の人たちは、天はすべての富の源であると考えていました。その天をかたどった玉璧を持つことは、富の集中を意味し、それは経済を掌握する権力を象徴するものでした。その源流は長江文明にありますが、この時代以降、中国で最も愛好され玉となります。
 玉琮は、B.C.2~3000年、長江下流の太湖流域の良渚文化時代、神々や祖先を祭る際に用いた大切な礼器です。良渚文化時代の出土例として、国立故宮博物館に、縦15.7cm 横7cm 奥行き7cm玉琮が所蔵されています。長江文明の最後を飾った良渚文化期に、祭政一致のシンボルとして玉琮はきわめて精緻につくられていました。
 玉琮は、立方体の外形で、水平面の中央に円形の穴を掘り、その円形は天を表し、四角は地を表して天地を象徴したものとされています。玉琮の内側は上から下まで円をくりぬかれており、その穴は天の神と地上の人間とを結ぶ通り道とされています。四角い大地と円い天、この玉琮を持つ者こそ、神の意志を地上に伝える王で、玉琮こそは王の権力、すなわち政治権力の象徴と考えられていました。
 玉鉞とは「まさかり」で、古代中国では、「鉞」を武器としてさかんに用いていました。また首切り処刑の具でもあります。玉の鉞(えつ)は、王権力の象徴であり、軍事統帥権の象徴であるといわれています。
 魂が宿る聖なる石・玉で、古代の人達は、玉琮、玉璧、玉鉞の3つの形を作り出し、国家権力、3権の象徴としました。B.C.2500年、中原には、すでに政治、経済、軍事という3権を保持する王が統治する、国が誕生していたのです。
 (良渚文化の影響をうける夏王朝以降にも、刀剣の形をした祭祀用の玉璋が、よく出土します。)
④ 中原の三皇時代
 苗族は、黄河中流域の先住民でもありました。仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化を築きます。B.C.3000年頃、その大首長は、中国史上初めて、黄河中流域の中原で、王となったのです。
 仰韶文化の担い手は、苗族です。 仰韶文化の中核的な半坡遺跡の51体の男性成人の遺骨を、調査した結果が、報告されています。当時、かなり混血が進んでいましたが、人種は当然、モンゴロイドで、現代のモンゴロイドと比較しますと、華南系とインドネシア系に、骨格からにしても最も近く、次に華北系に近くなることが分かりました。チベットB系、モンゴル系、アラスカエスキモー系等とは、全く類似性を有していなかったそうです。
 三皇は、伏羲(ふっき・ふくぎ)氏、女渦(じょか)氏の苗族より始まりますが、黄帝のように、あらぶる神では、ありません。伏犧と女?についての伝承は、現在は主に貴州省・雲南省に住む苗族のあいだに多く、彼らの祖先ではないかという説が有力です。伏犧と女?は、蛇身人首とされ、新疆ウイグル自治区の東部、天山山脈の南麓にあるトルファン(Turpan)盆地から出土した彩色絹画では、2人は蛇の体を互いに巻き付け合い、手にはコンパスと定規を持っています。その絹画は、7世紀前半に滅びた、高昌国の貴族の墓地の埋葬者を覆う絹布に描かれていました。
 農耕民族の典型ともいえる苗族の王のイメージには、黄河の洪水の度に、コンパスと定規を持って、農民のために、農地の再区画整理に奔走する姿が浮かび上がります。結局、遊牧民や狩猟民同士の日常的な紛争に鍛えられている、チベット系の遊牧民・羌族の神農(しんのう)氏が、中原の富の収奪を意図して西方より侵攻して来ますと、環濠の深さと広さだけでは防御できず、簡単に政権は、簒奪されます。この頃からでしょうか、環濠集落が、城壁を構えるようになったのは?
 中原の聖なる嵩山(すうざん)には、夏王朝の始祖・禹(う)の住居がありました。「春秋左氏伝」によれば、羌族は「嵩山の後裔」としています。チベット系の人々も、既に中原土着の民となっていました。少なくとも、庶民生活では、その生活様式の違いがあったにしろ、自然な文化交流が行われ、発展的に根付いていったようです。後世、儒家の華夷思想が強まると、夷狄(いてき)を蔑視して、周辺文化を受容するのに、抵抗を感じるようになります。
 三皇・神農氏の天下は8代530年続くと「史記」は記します。今日だから言えるのですが、ほぼ当たっているのです。中国では、神話時代から、事実に即しいく努力がなされているのです。木簡、竹簡の資料と語部による伝承と、その分析によるものです。
 木を切って鋤を作り、木をたわめて鋤の柄をつくり、鋤鍬の使用法を広めて、はじめて耕作を教えたため、神農氏と号したといわれています。また、発見した数々の有用な植物を育てる方法を、人々に教えたことから、農耕の祖とみなされてもいます。  
 太陽に光と熱を充分に出させ、五穀を成長させる功を称えて、炎を司る神でもあり、火徳をもって王となったことから、炎帝とも呼ばれます。「炎帝」の称号の由来については、神農氏が油性の木を束ねて、火をつける「松明」を発明したため「炎帝」と呼ばれた、という説もあります。 また、日が南中するときに市を開き交易することを始めた結果、人々に各種の生業が営まれたのも、その治世下でした。
 神農氏の統治下で、農耕具の発達により、耕地は広がり、生産に余剰が生じ、専門職人階層が現れ、集合集落内で市が開かれ、都市文化を発達させます。
  「史記」によれば、神農氏支配下であっても、苗族との確執は長く続いたようです。蚩尤(しゆう)は古代苗族の英雄神で、剣・鎧・鉾・戟・弩等の兵器を発明した神とされます。蚩尤は九黎(れい)の君ともいわれ、九つの黎族を統合した大勢力で、羌(きょう)族の支配者・神農氏一族との確執が生じていたのです。蚩尤一族は、侮りがたい勢力として存続し続けます。黎とは、黒い頭を意味します。帽子をかぶらず、黒髪をさらす人、平民を指します。時には戸外で、帽子をかぶらず働く人、奴隷を表すこともあります。
 したがて、九黎とは、9つに近い多種族の平民集団と、それを率いる、神農氏の与力諸侯になりえなかった新興首長、ないしは部族長連合の軍勢だったのでしょう。
 その時代、中原には苗族をはじめ多様な民族がいて、羌族の支配を受けていたのでしょうが、その統治の有り様は、多年にわたる政権の腐敗により、軋轢が絶えなかったようです。 B.C.2500年頃、神農氏の有力諸侯の一人、黄帝一族率いる中原龍山文化勢力が台頭してきます。神農氏は、500年を超える長期政権ですが、子孫に人を得ず、軍事的に弱体化したようです。蚩尤勢力に対抗するには、有力諸侯の黄帝の軍事力と統率力に頼らざるをえなかったようです。
 台頭する黄帝に、他の諸侯の人望が集まり、政権交代の世論はたかまります。終に、黄帝は、神農氏一族打倒の挙兵をします。神農氏は三度戦うも、坂泉の野に惨敗して、仰韶文化の辺境の地であった、黄河上流域の甘粛に逃れるのです。
 『史記』三皇本紀では、神農氏の子孫として州・甫・甘・許・戯・露・斉・紀・怡・向・呂という、姜姓の各諸侯の名をあげています。周建国の軍師、斉の始祖太公望は、呂尚(りょしょう)です。甫侯と、上には名前があがっていないが申侯は、周王朝の宰相となり、斉侯・許侯は春秋時代まで有力な諸侯として生き残っています。
 その後の羌族の華北一帯への広がりを考えると、すべてが、神農氏に味方したのではなく、むしろ羌族諸侯の主力勢力のほとんどは、神農氏の退嬰をみて見限り、黄帝の指揮下で、軍役に服していたとおもわれます。
⑤ 中国初代の帝・黄帝
 蚩尤も、黄帝の支配を嫌い、反乱を起こします。善戦しますが、終に、琢鹿(たくろく)の野(や)で敗れます。蚩尤は、青丘の山で捕らえられます。蚩尤は、平民を先導して、諸侯軍に挑む、諸悪の根源として殺されます。 「書経」は、“蚩尤、惟(こ)れ始めて乱を作(な)し、延(ひ)いて平民に及ぶ”と。
 このとき逃げられるのを恐れて、最後まで手枷と足枷を外さず、息絶えてからようやく外したそうです。身体から滴り落ちた鮮血で、赤く染まった枷は、その後「楓」となり、毎年秋になると赤く染まります。蚩尤の血で染められた恨みが宿っているからだ、という伝説を生みます。
 蚩尤に味方して破れた苗族のほとんどは、黄帝が支配する諸侯連合の奴隷にされたようです。しかし南方に逃れた人々もいます。司馬遷の「史記」に、三苗と呼ばれた苗族たちは南下し逃れ、雲南省や貴州省へ移る、と記されています。三苗ですから、苗族であっても、いくつかの部族があったようです。  長江下流域の苗族は、海洋民族でもありましたから、難民として、黒潮と対馬海流に乗り、日本列島へと民族移動をしたとも、考えられます。近年の研究成果により、稲の痕跡が、縄文時代中期の遺跡で検出されています。
 中国に住む苗族は、現在では少数民族ですが、貴州省が主で、湖南省、雲南省、四川省、広西省、湖北省、海南省等に住みます。そのほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどにも広がっています。
 黄帝は、中原の諸民族を統治した五帝、その最初の帝であるとされています。黄帝は有熊国の君主、少典国の君主の次子で、姓は公孫ですが、後に姫姓に改姓します。名は軒轅(けんえん)といいます。有熊国は河南省にあります。尚、少典とは、諸侯の国の号ですから、当初は、神農氏諸侯の一人であったといえます。
  軒轅は、諸侯の軍隊を徴集して、蚩尤の軍と対決します。攻め寄せる蚩尤との戦いは苦戦を強いられますが、?鹿の野で蚩尤を滅ぼします。黄帝は、?鹿山下の平地に都城(黄帝城・?鹿故城)を定めます。山東省西南部の曲阜(きょくふ: Q?fu)市に位置します。 黄帝の即位にあたって景雲の瑞祥があったため、官名すべて雲にちなんだものをつけ、それぞれの長官を「雲師」と名付けます。
  しかし遠征に明け暮れたようで、一定の場所に腰を落ち着けることが無かったとも言われています。「遷徒往来して常処無く、師兵を以て営営と為す。」 常に戦火の中にあって、支配領域を広げていきます。 その治世は、山野に道を開いて、従わない者を討ち、後世の春秋戦国時代に、中国とされる領域のすみずみまで統治します。開国の帝王の時代と称されています。
 中国では、天子は天地を祀らねばなりません。これを封禅の儀式といいます。天を祀るため、天により近づくために山に登ります。その山頂で、土を盛り上げるのが「封」です。地を祀るのには、山を下って低いところで、土をはらうのが「禅」です。 泰山(標高1,545m)の頂で、檀を築いて天を祀ったのが封祭です。次に、山麓の梁父(りょうほ)で、地を均(なら)して地の神を祀るのが、禅祭です。
 黄帝は、東は、泰山を越え海にまで及び、山東省の泰山に登り封禅をします。 西は空桐(甘粛省)を支配し、鶏頭山で登り封禅をします。南は長江に至り、熊山(湖南省)・湘山(湖南省)に登り封禅をします。北は葷粥(くんいく;匈奴)を追い払います。 そして、釜山で会盟をおこないます。諸侯を集めて、違命無きことを確かめます。
 黄帝は外征ばかりしていたわけではなく、良臣を重用し、左右の大監を置いて諸侯を監督させます。風后・力牧・常先・大鴻の四人を登用して人民を治めさせます。 一方艶福家で、25子をもうけたそうです。その内、姓を得たる者14人です。これを諸侯に配します。ji姫、you酉、qi祁、ji己、teng籐、zhen?、ren任、gou苟、xi僖、ji?、huan?、yi依等とされます。さらに諸侯と血縁関係を結び、黄帝一族の安泰を企図します。
 少昊氏は、黄帝の長子で、『十八史略』では、黄帝の後を継いで帝位についたとされています。少昊氏の姓は?(えい)姓とされ、春秋時代の秦、趙、梁、徐、江、黄など九ヶ国の先祖とされています。興味深いことに、『史記』五帝本紀では、少昊氏「くだって諸侯になり、江水のほとりに居住し」、「帝位につくことができなかった」となっています。黄帝時代、既にその支配が長江に及んでいることになります。
 黄帝は、首山という山で、銅鉱脈を発見し、その銅を採って、湖北省北部の荊山の麓で鼎(かなえ)を鋳造します。 これに関連した伝説があります。広東省西部の肇慶市の東北に、鼎湖、鳳来、鶏篭、伏虎、青獅等、連綿と続く山並があります。その中の鼎湖山は、華南の4大名山の一つです。鼎湖山は、 山頂に湖があって、黄帝が、山頂で鼎を鋳造した跡だという地元の伝承があります。鼎湖山の名称はこれからつけられたそうです。
 古代の人々は、露出した銅鉱脈を探します。商周時代以前の銅の産地は、長江の中、下流域、現在の湖北、安徽省等に多く存在しました。黄帝以後、苗族への侵攻が止まらない、大きな要因だったのです。
 鼎は王権の象徴でした。王族の厳粛な儀式を、執り行うのに欠かせないのが鼎であったそうです。黄帝の鼎の、その後の伝承がわかりません。 後世、夏王朝の祖・禹が、中国を九分割統治し、その九州の長官に命じて銅を献上させ、これを用いて9個の鼎を鋳させました。 この意味を考えます。戦国時代末期、伝説的な帝王を、3人または5人にまとめる考えが生まれ、三皇五帝の伝承が始まります。それ以前は、天皇・地皇・人皇の三皇説でした。天皇氏、地皇氏に続いたのが人皇氏で、人皇氏は合計九人が王位に就きました。その兄弟九人が、中国全土を九つの州に分け、それぞれの長となり、それぞれが都に城邑を築きます。人皇は「泰皇」とも呼ばれます。夏王朝の禹は、当然、この伝承にのっとった、と思われます。
 この9鼎は、中国全土に王権を確立した証として、「伝家の宝物」として、継承されていきます。夏の桀王の世に、鼎は商に移り、商の紂王の時に周に移りました。以後、周・赧王(たんおう)に至るまで25代の周王、515年、禹より1,800年間、継承されて来たのです。周の滅亡時、秦に運ばれる途中、泗水に沈んだと伝えられています。
 秦王政は、中原のみならず、北辺の燕から、東は斉、山東半島全域、南は楚と呉越含む長江流域すべて、西は、巴蜀全域に及びます。自身を単なる王権の継承者としてみません。泰皇になぞらえて、始皇帝を自称します。彼の自負心は、9鼎自体を軽視したものと考えられます。しかし、その傲慢さが、政権を誕生させる原動力となると同時に、その極端な法家主義に、服しきれない平民の自暴自棄的な反乱を誘発するのです。王権誕生と同時に、政権の崩壊が始まっていました。

 鼎が完成すると、一匹の竜が、髯を垂らして、黄帝を迎えに来ます。黄帝はそれに乗って昇天します。黄帝の陵墓は、陜西省黄陵県の西北にある黄帝陵とされています。 黄帝の墓とされている黄帝陵には、歴代王朝のみならず、今の中華人民共和国政府も、毎年参拝の使者を送って、中国の現状を報告しているそうです。  
 次帝は??で、名は高陽、??高陽氏(せんぎょくこうようし)です。黄帝の次子・昌意の子ですから、黄帝の孫に当たります。 第3帝は?(こく)で、名は高辛、黄帝の長子・少昊氏(しょうこうし)の孫ですから、黄帝の曽孫に当たります。
 名乗った名前が「夋」という説があり、帝?と舜はもともと同一人物で、また商王朝の卜骨の朴辞から、商王朝時代では、始祖・舜としてあがめられていました。 第4帝は堯(ぎょう)で、名は放勲、陶唐氏とも称します。帝?高辛氏(ていこくこうじんし)の次子としてその位を継ぎます。黄帝の玄孫に当たります。 堯帝以降、舜、禹と禅譲が、行われますが、舜、禹も黄帝の後裔です。
⑥ その後の苗族と日本の稲作の起源
 晋・干宝『捜神記』によれば、「呉の国の夷狄がさかんに辺境を侵略したので、帝?は、将軍を派遣して夷狄の大将を捕らえようとしたが、失敗続きであった。」と、長江下流域勢力との確執が語られています。 中国には、「昔者、舜は有苗に舞い、禹は裸国に袒(たん)せり」の故事があります。五帝の舜が、長江流域の苗族を征服するとき、人心を得るため、苗の庶民と交わり、一緒に舞ったのです。
 軍を率いての大遠征中のことでした。舜が、華南を巡狩中、蒼梧(そうご)の野(や)で崩御します。江南の九嶷(きゅうぎ)山上に、埋葬されます。これが「史記」でいう零陵(れいりょう)の地です。現在の湖南省南部で、広西と広東との省境、寧遠県の南60里にあります。舜陵、またの名を永陵、古代より禁足地とされ、陵の守人が置かれています。清代の国家的儀式の記録・『大典』によれば、必ずここに官吏を派遣して、祭祀がなされました。
 その地方は、舜の異母弟・象(しょう)が封じられた有?(ゆうび)の地であったといわれています。後年、孟子は弟子の万章(ばんしょう)に、「帝舜はなぜ不仁の象を諸侯に封じたのですか」と問われます。それに応えて「自分の身が天子でありながら、弟を一介の平民のままに放っては置けない。象は不徳の人だから、直接その国を治めたのではなく、別に役人を派遣して国を治めさせた」と…・決定的な所で孔孟の教えに、疑問が生じます。 儒教は、孔子以来、ある種の宗教的な教団集団でした。従って、教徒たる弟子の質問に、その理解を超える事でも答えなければなりません。しかし、今となっては、自ずと分かります。統治能力はもとより、無能な義弟をこの偏狭の地に追いやって、諸侯に封じても、子飼の家臣もなく、与力諸侯もない状態で、誰が 統治できたでしょうか。はっきりいって、死地に追いやったと考えるのが正解でしょう。
 舜帝埋葬の地は、人々がよく道に迷うから九嶷山と名づけられ、九峰があり、九渓が流れ、九峰のなかに舜源峰があり、そこから流れる舜源水という渓流があります。道県あたりで、瀟水(しょうすい)に合流し、やがて湘江に至り、その流れは洞庭湖で交わります。
 中原で敗走した苗族は、長江文明も破られて、ここまで追い詰められています。 現在、九嶷山の南麓は、少数民族の居住する江華瑤族自治県になっています。  
 夏王朝・禹も、東に巡狩中に、浙江の会稽(かいけい)で、みまかったといわれています。禹は、長江をはるか越えるこの地で、諸侯と会盟して、その功績を評価します。「史記」によれば、それが「会稽」の地名の由来と伝えます。  
 2代続いて、王帝が江南の地で、それも奥深く、遠征中に亡くなります。銅鉱脈の発見のためと、依然と止まない剽悍な苗族の反抗が、理由なのでしょうか?  
 B.C.26世紀頃から、華北地方は、アジアモンスーンの弱体化により、夏季が寒冷化し、降雨量が極端に減少したのが原因とする説もあります。その乾燥化により、旱魃が常態となり、一度降雨が続くと、一転して大洪水になり、最早、農耕地が放棄される事態に至ったというのです。確かに、3皇の伏犧と女?の時代と堯・舜・禹の5帝の時代、ともに大洪水に苦闘する伝承が残っています。  
 また、後代の夏の時代(B.C.2070~B.C.1600)と商の時代(B.C.1600~B.C.1046)、度々遷都をします。その理由は、主に、焼畑農業と人口増加による大規模都市の建設があげられます。要するに、周辺の森林資源の枯渇です。焼畑による森林破壊は、論ずるまでもなく、その時代の都市生活を支える燃料源は、木材しかありません。その上、この時代より以前から、銅は活用され、商の時代には、中国の史上、最大最高の青銅器文化を生み出します。その銅を冶金し、鋳造するのに、どれほどの木材を使用したでしょう。また焼畑で耕地する大地が、都市周辺から、その余地がなくなれば、肥料源に乏しい時代ですから、連作障害はその生産性を、著しく減退させます。  
 新石器時代、中国は長江流域と黄河流域で、世界史においても、希に見る延命の古代文化を誕生させました。同時に、中国各地で、互いに影響しあいながらも、独自の地方文化を発生させました。ところが、中原龍山文化以降、地方文化は、その中原に近いほど、衰退します。残念ながら、文明は、文化力で支配されません。軍事力のあるところが、恣意的且つ独善的に介入し、各地の文化を蹂躙します。こうして、中原に最初の覇者が誕生すると、地方文化は、その搾取の対象になり消滅いていくのです。 
 中原勢力の進攻は、経済行為なのです。生きるがために、降雨多湿で生産性豊かな長江流域を収奪します。それにより、苗族が圧迫されて南下しますが、その過程で長江上流と下流に分断され、下流の人は「越人」と呼ばれるようになります。一方『漢書』にも記されているように、江南から交趾(現在の北ベトナム)にいたる広大な地域には、越族系の多くの種族が分布していきます。  
 後世、「会稽」の地名は、春秋末期の「会稽の恥を雪(そそ)ぐ」の故地として、有名になります。新興国の越王句践(こうせん)は、奇手を使って隣国、呉王闔閭(こうりょ)に勝ち、負傷死させます。呉王の太子扶差は、臥薪し再起を図ります。その後、呉王となり、攻め寄せる句践に大勝し、逆に根拠地の会稽に追い詰め、包囲して降伏させます。今度は、越王句践が、「会稽の恥を雪(そそ)ぐ」ため、嘗胆(しょうたん)して再起をはかります。
 B.C.482年、呉王扶差が、中原の覇者になり、黄池(こうち;河南省)で会盟します。越王句践は、その留守を狙って、呉都の蘇州を襲い、太子を殺します。呉王扶差は、再度、再起を図りますが、その4年後に戦が始まると、越王句践との各地の戦いに敗れ、呉都に逃れるも3年に亘って包囲され、援軍の当てもなく自殺して呉は滅びます。B.C.472年のことです。
 1954年南京近く、江蘇省丹徒県で出土した青銅器・「宜侯??(ぎこうそくき)」の銘文に、周王が「?」に宜の侯となるよう命じ、土地と人民を与えたことが記述されています。?(き)の内側の底に120字の銘文があり、周王朝成立時、分封を実行したことに関する重要な史料が記されています。「封建制度」の実施の記録です。これで、中原の小諸侯が、早くから長江流域に封じられて、呉楚の住民を支配したことが分かりました。
 古公亶父(ここうたんぽ)は、周王朝初代武王の曽祖父ですが、彼には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいました。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、更に季歴の子の昌(後の文王)が優れた子であったので、古公亶父は常々「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていました。
 兄である太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと出奔しました。荊蛮の地とは、呉と考えます。2人は、呼び戻されないため、断髪し文身します。周の使者が、2人を迎えに来ますが、2人は髪を切り、全身に刺青をしているので、中原へ帰るに相応しくないとしてこれを断わります。B.C.12世紀末の頃のことです。
 太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従ったといわれています。継嗣がいなかったために、弟の仲雍が跡を継いだそうです。 「呉」はその後裔と称していました。 断髪は、海中に潜る際、邪魔にならないように、刺青は、鮫等に対する威嚇となります。この2つの風習は、呉越地方の素潜りをして魚を採る民族的特徴です。倭に関する記述でも同じような風習を伝えています。これが元となって、中国や日本で、倭人は太伯の子孫であるとする説があります。例えば『魏略逸文』や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う」とあります。
 日本に水田稲作が、広く伝わったのが、B.C.400年代以降ですから、この呉越争覇の動乱期に当たります。呉越文化の高揚期でありましたが、それに関わった呉と越の王ともども、余りにも徳がない戦乱の過程から推測しますと、多数の難民が発生したことは十分考えられます。