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山東龍山文化(中国新石器時代晩期)
新石器持代晩期の城壁 | 龍山文化の墓制 | 龍山文化の土器 | 龍山文化の生活 | 龍山文化の占卜 | 龍山文化の石器と刻文陶片| 龍山文化の占卜 | 龍山文化の銅器
大汶口文化の土器 | 大汶口文化の生活 | 大汶口文化の発展段階 | 黒陶 | 灰陶 | 白陶
半坡遺址の粗描 | 環濠集落の意味 | 半坡遺跡の土器製作 | 半坡遺跡の生活環境 | 半坡遺跡の生業 | 半坡遺跡の墓制
臨潼姜寨遺址社会 | 臨潼姜寨遺跡の墓制 | 臨潼姜寨遺址の文化 | 北首嶺遺跡 |
古代黄河中下流域の気候 | 古代黄河文明の土器 | 環濠集落 | 母系社会 | 仰韶文化の墓制| 古代黄河文明の生業

 ① 長江文明の暦年 | ② 日本の稲作の伝来| ③ 長江の稲作と都市文化| 長江の良渚文化 |


 ① 新石器持代晩期の城壁
 1930から31年にかけて、山東省歴城県龍山鎮(りゅうざんちん)の城子崖(じょうしがい)遺跡が発掘され、長大な城壁を構える黒陶文化の存在が明らかになりました。黒陶文化は、その代表遺跡の龍山にちなんで、龍山(ロンシャン)文化とも呼ばれるようになります。この新石器時代晩期の遺跡の発見は、学会に大きな衝撃を与えたと同時に、翌年、殷墟の本格的調査が始まるきっかけともなりました。
 B.C.2000年~B.C.1500年、中国黄河下流流域の文化は、大村落農耕文化となり、黒陶や灰陶を特色とした黒陶文化へ発展します。この龍山文化期になると農具・農業技術はさらに進歩し、その結果、仰韶文化期よりもはるかに大きな集落(邑)が形成されるようになります。この農耕文化大集落が、後に都市国家へと発展していきます。
 華北に城壁都市が出現したこの時代、城子崖遺跡の城壁址は三層からなり、最下層においてすでに430m×530mの城壁が確認され、陽谷県景陽崗遺跡や荏平県教場鋪遺跡からも30万㎡を超える都城址が発見されています。
 仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化では、存在しなかった城壁の発見でした。それは、夏王朝期に重なるのですから、首長連合から、覇権を争う時代への変貌を物語るものでした。敵の侵入が日常的な脅威となりました。城子崖の城壁は、深さ1.5mですが、幅は13.8mもある環濠の上に構築されています。残存している城壁の高さは、3mと発表されています。版築法で石と土を固めて作られています。村落全体が城壁に囲まれ、後世主流となる中国の城郭都市が、ここに初めて出現したのです。当時、中原に覇権を唱える「夏」王朝が、出現しました。それとの緊張関係が想定されます。
 泗水尹家城(しすいいんかじょう)遺址は、山東省・省都済南(さいなん)の南100㎞の泗水県尹家城の、南から北に流れる小さい川に挟まれた南北約130m、東西約90mの岡で、発見されました。近年の調査では、人工的な築造岡とみられています。この発掘により、それまで環濠集落が、自然の岡を利用したものと考えられていましたが、再検討の必要が生じました。強権的な大首長が、登場する推測年代を、更に、さかのぼる契機となりました。
 早期は竪穴式住居で、入口を南西隅に南向きに作り、それぞれの家屋が一定の秩序を持って建てられています。それに続く時代は、平地上の家屋です。壁にする部分に溝を掘り、そこに柱を立て、溝に土を戻し、築き固めています。床に石灰を1~2㎜上塗りしています。
 山東省日照県の東南部、東海峪村西北の東海峪遺址では、原始的な版築造りの、長方形の土台をもつ建物が出土しました。建築技術の進歩を示します。
 鄒平県丁公遺址は、山東省北部、城子崖遺址の東北東50㎞の鄒平県丁公で発見されました。南北約350m、東西約310mの城壁が見つかり、龍山文化の中期に築かれ、後期に修理されています。 山東省寿光県辺綫王の辺綫王遺址からも、1984年、山東龍山文化の城壁が見つかりました。城内に住居跡はありますが、いずれも、宮殿跡は未発見です。
② 龍山文化の墓制
 半坡遺跡では、共同墓地は濠の外でしたが、龍山では濠内の居住地のなかにあります。墓地の規模の差も広がっています。埋葬法は半坡同様、仰身伸展葬 ですが、俯身葬も一部ありました。もし奴隷を埋葬したとものとすると、奴隷の数は村民と比べて、極めて希少です。  
 山東省寧陽県堡頭の龍山系遺跡の120余基の埋葬墓の調査報告によると、規模の差が大きいようです。大きいのでは、長さ4m、幅3mで、小規模の墓穴は、遺骸の大きさしかありませんでした。氏族共同体的集落から、私有財産の蓄積を前提にする、貧富の格差が甚だしい、都市国家への転換が見て取れます。  
 墓には、豚等の動物の頭骨が、通常副葬されています。ここでも、14個から1個と相当の格差があります。他の副葬品もさまざまで、容器、櫛、笄(こうがい)、鋸、針等の日常品が関心を呼びますが、主役は陶器でした。  
 轆轤で薄く製作して、器壁を研磨しています。灰陶が主流で、黒陶は1割、次が白陶、彩陶と続きます。墓一基あたりの出土で、最も多かったのが160点で、皆無のものもありました。 注目されるのは、数は少ないのですが、夫婦合葬も見られるようになります。私有財産制度は、「家」の観念を強化します。
③ 龍山文化の土器
 龍山の城壁都市遺址から、黒色土器を持った文化、黒陶文化遺跡が出土しました。その後の調査で、黒色土器は、黄河中・下流域に広く分布し、華北の新石器文化を代表的するものの一つであることがわかりました。特に大?口(だいぶんこう)文化を継承する卵殻黒陶高柄杯(らんかくこくとうこうへいはい)は、山東龍山文化期の典型的な土器です。器胎が卵の殻のように薄く、漆黒を呈する研磨された光沢が美しい黒陶の器は、山東龍山文化期に特に発達します。
 白陶でも同様な器が作られ、いずれも精製された素材で成形され、日常の生活器というより祭祀のために用いられたものと考えられています。新石器時代後期の洗練された造形能力を示す土器です。 この卵殻黒陶が、よく龍山文化の製陶嗜好を、如実に物語っています。仰韶の彩陶のように、器面の装飾に拘らず、むしろ余分なものを廃し、シンプルでありながら洗練された造形美に、心血を注ぐようになります。
 専門化した陶工は、轆轤の機能を十分活用し、器体を卵殻のように、より薄くし、焼成時に器壁を燻し、その上で器面を漆黒に研磨したのです。この煙で燻して表面を黒くする技法は、長江・良渚文化の特徴とするもので、それを受け継いだのでしょう。仰韶では希だった、三本脚の鼎(てい)が、多くなってきます。B.C.1600~B.C.1046の商(殷)文化に連なる、鼎や壺などの各種の形状の土器が発見された点でも重要視されます。仰韶文化と商周青銅器文化の中間の集合文化と位置付けられます。
 陶器の器形は、盆形鼎(てい)・鬲(れき)・豆・坏(つき)・鉢・碗等で、鍋・釜の用の器で三本脚の鼎(てい)、古代中国で用いられた三足の器で足は中空で煮炊きに用いたる鬲(れき)等、十数種の器形分化をみせ、素朴な尖った底や丸底の器は見られません。蓋・把手・リベット形の飾り・大小の耳・大小の注ぎ口を付けたもの等、造形的にも変化に富みますが、余分な飾りを省いた、実用的な美しさが特徴です。 表面は無文で、磨かれて光沢があるものと、繊細な貼付けの突帯文(とったいもん)・透かし彫り・篦描沈線文(へらがきちんせんもん)等の文様や、うってかわって意匠に凝った雲雷文・饕餮文(とうてつもん)に類似した文様も出現しています。その形はすべて商周時代の青銅器の祖形をなすとみられています。
  饕餮(とうてつ)は、「商」の青銅器に最も多い意匠で、神の護衛を務める神話上の怪獣の文様で、中央に鼻筋が通り、その左右に角・眉・目・耳・鼻・口が左右対称に配されています。それは、牛と虎の特徴を様式化したもので、時代が下るにつれ、次第に抽象化されていきます。 山東省日照県の東海峪遺址から、饕餮(とうてつ)を刻んだ軟玉の斧も出土しています。
 長江、良渚文化の反山遺跡の発掘で、富の象徴とされる玉璧、軍事統帥権を表す玉鉞、そして王のシンボルである玉琮が出土しました。その玉琮の下段に、饕餮が彫られています。饕餮文は、良渚文化が龍山文化への影響力を示す証の一つです。
 各種の磨製石器や骨角器も、同時に出土しています。龍山文化の特色は、貝具の豊富さです。城子崖では、淡水産の貝殻でした。そのまま容器として用いられているのはもとより、鎌等の農具、包丁や鋸等の工具、鏃等の武具、装身具も目立ちます。 この類似の文化は遼寧・江蘇・甘粛各省に及び、大?口(だいぶんこう)文化と分布範囲がおよそ一致しています。墓等の面でも大?口文化の習俗を継承しています。一つの遺跡で山東龍山文化が、数多く、大?口文化の上に堆積しています。 この文化的重なりの中から、移行期の特徴的な遺物が多数発見され、大?口文化晩期から山東龍山文化早期への伝承関係が、明白になりました。
 そして、大?口文化(B.C.4300~2400)・山東龍山文化は、中国東部黄河下流地区に居住していた、東夷の部族の文化が発展して形成した、相前後する二つの文化であることが解明されました。 しかしながら、既に、大?口文化時代、鳥をモチーフにした文様や象牙製品・玉製品等、南方文化の影響が強く顕れもいるのです。
 廟底溝遺跡は、河南省陝県の、仰韶文化から竜山文化にかけての積層的遺跡です。仰韶文化層の上層に、初期竜山文化層が確認されました。仰韶文化と竜山文化の相関関係が初めて確認されました。 それにより、山東龍山文化前期は、廟底溝(びょうていこう)第2期文化にあたり、炭素14放射年代測定法により、ほぼB.C.2900~B.C.2600年という数値がでて、龍山文化では最古とわかりました。この龍山文化は、陝西省から河北省南部、安徽省北西部にかけての黄河中流域にもひろがります。
④ 山東龍山文化の生活
 河南省三門峡市の西南部に位置する廟底溝第2期文化の住居は、地上の家屋生活で、土塁をめぐらせた大村落を構成しています。しかしながら、早期は円形の竪穴式住居が主で、円形の半地下式で、床には石灰で1~2㎜上塗りをしています。住居内に、いくつかの袋状貯蔵穴と、住居に近接して陶器窯(かま)と共同墓地があります。
 石器は、磨製石器が増え、伐採石斧は重厚で大型になり、石包丁や石鎌(いしがま)も作られます。麦・粟を主体とする農耕文化は、大?口文化より高い水準に達しています。豚・犬・牛・羊・鶏を飼育していますが、石製・骨製・貝製などの鏃(やじり)があり狩猟・漁労も行っています。 後期は地域によって様相が異なりますが、住居は半地下式や平地地上建築、竪穴式等で集落の規模は拡大します。
 集落の周囲に、1辺70m以上の方形城壁がみつかったこともあります。住居近くに窯や井戸があり、墓地は、環濠内ですが、住居から、やや離れています。 農耕開始で最も重要な点は、人類が穀物の大量生産により、余剰食物を貯蔵・保管できるようになったという点です。これにより、日々の食物獲得に追われる生活から解放されと、職業の分業化と、商人の登場により、都市文明を築き上げていくことになります。
 野生動物の家畜化は、狩猟民によってなされたとする説と、農耕民によってなされたとする説がありますが、遊牧の開始は、農耕の始まりよりも遅いものと考えられるようになってきています。 華北地方での発掘調査の進展の結果、黄河流域でも初期農耕は、B.C.7000年ころまで、遡ることがほぼ確認されています。
 従来、農耕はメソポタミアで始まり、そこから世界へ広がっていったという一元説が唱えられてきました。メソポタミアの研究では、まず北イラクの山麓地帯(ザクロス山脈やレバノン山脈の西側)で雨水を利用して始まり、ジャルモ、ハッスーナ、ハラーフ、サッマラ、エリドゥと伝わり、しだいに南下して、やがてティグリス、ユウフラテス川下流の大規模な灌漑農耕へ発展していったと考えられていました。  
 今日では、自然発生的に世界の各地で、粟・麦・瓜・リョクトウ・甘藷類等の自然種の原始的栽培が行われ、その内のいくつかの地域で、独自に焼畑農耕が始まり、その農耕知識の蓄積、技術の進歩が、やがて大河のほとりの有用性を認識させ、各地で大河の水を利用した大規模な灌漑農耕が始まります。それが豊かな収穫を可能にし、大量の余剰生産物を生みだしました。その大規模灌漑は、集団的な組織、権力機構を必要とします。これが、文明の発生へとつながります。従って、農耕=文明ではなく、大規模灌漑農耕の発展過程で、文明を生む社会的な権力機構が確立されていったのです。
⑤ 山東龍山文化の占卜
 龍山文化遺跡から、牛・鹿の肩胛骨の卜骨(ぼっこつ)も出土しました。このほど、湖北省文物研究所王善才教授を初めとする専門家達は、湖北省長陽県香炉石遺跡で中国最大の卜骨を発見しました。香炉石遺跡は長陽県城から東に97k離れています。この遺跡は中国長江以南の湖北西部の夏、商、周時代の遺跡です。占卜は香炉石遺跡の先住民の間に流行ったもので、出土した甲骨の数は多く、時代も早く、今回発見された卜骨は魚類の鰓骨(えらぼね)で制作されており、今まで発見された卜骨の中で最も大きいのです。  
 残念ながら、これら文化には、文字がありません。何を占い、その結果、何が起きたか、それが分かりません。後世、「商」の時代なると、文字による卜辞が刻まれる占卜がなされ、何を占ったか、いわゆる「貞問の辞」を知り、占いの結果は何か、いわゆる「?辞(ようじ)」が知りえました。
 商王は、特に22代、武丁以降、異常ともいえるほど、日常の瑣事にまで占卜に頼ります。それは卜辞を伴い、その?辞までも刻みます。出兵、祭祀、狩猟、その他の催事全てが、占卜の結果次第です。病を得れば、先王の祟りでは占卜します。それは王朝として、余りにも無為で、人民の共感がえられません。やがて統治機能を失う事となります。そして、圧倒的な兵力を有しながら、実態が奴隷軍のため、最後の決戦で、王のために忠誠を尽くし戦う兵がいませんでした。むしろ、王への恨みと憎しみの方が、強かったのです。周の武王に滅ぼされます。
 しかしながれ、現代では、商王の性癖が、専ら占卜に頼り、それが日常の瑣事に及ぶことにより、その時代の世相の細部まで知りえる貴重な資料となりました。
 三浦半島の三浦市間口洞窟遺跡から卜骨が検出され、日本でも占卜が行われたことが、初めて立証されました。遺跡は弥生後期のものと鑑定されました。占いに使われたのは大部分が鹿で、猪が少し、ということでした。その後、他の遺跡の発掘から、実はイルカも、卜骨に用いられていたことがわかりました。 弥生の卜骨は61.2%までがニホンジカの肩甲骨で、猪の肩甲骨はその大きさ等が似ているので、代用品として使われていました。イルカの場合は脊椎骨で、猪よりもさらに稀な代用品で、1%にはるかに及びません。 ところが、奈良時代から平安時代への過渡期の800年前後になると突然、イルカが卜骨の主流になり、8割までをイルカの骨が使われています。しかもイルカの使用はごく限られた年代のものであって、その後まもなく、亀にとってかわられっています。  
 日本の「占卜」は、弥生時代以降とされていますが、「稲」は、稲作の長江文明が、日本の縄文中期中頃、B.C.26世紀に、黄帝一族の侵略により、崩壊の危機に瀕し、多くの難民が発生しました。長江文明の人々は、水上生活をも発達させた海洋民ですから、難民の一部が、黒潮と対馬海流に乗り、野生の「稲」の生息しない日本に、「稲」の種と共に伝来したとおもわれています。
 しかし「占卜」の伝来は、遥か後世の弥生時代です。長江文明の下流域の良渚文化には、「占卜」は存在しません。「占卜」を伴う文化の日本伝来の起源は、龍山文化以降の黄河流域の文化ですが、それ以上のことは、わかっていません。
⑥ 山東龍山文化の石器と刻文陶片
 石器は磨製で、すべての遺跡から半月形・長方形の双孔の石包丁が見つかりました。穀物を刈り取るに用いた新型の道具です。狩猟や戦闘に使う石の鏃も出土しました。柳葉形・菱形で、中央には脊が突き出し、矢柄に装着しやすくなっています。しかも切っ先は、極めて鋭利になっています。 
 襄汾陶寺遺址は山西省南部から発見されました。木製の器物と軟玉器が出土しました。良渚文化の影響が見られますが、饕餮は刻されていません。太鼓、とぐろを巻いた蟠龍(はんりゅう)紋の大皿土器、仰韶文化の土器の鈴と同形の、銅の鈴が出土しています。
 鄒平県丁公遺址では、横7㎝ばかりの刻文陶片が出土、文字の可能性があります。鉢の平らな底の一部に、尖ったもので刻されています。馮時氏は、当時、東夷の部族であった彝(い)族の文字(古彝文)だとし、解読しています。 現代中国の彝族は、遥か遠く西方に流れ、四川省の西南部に位置する涼山州、海抜3,000メートルの険しい山岳が連なる地に居住しています。彝族と呼ばれる民族を中心に、約400万人の人々が暮らしています。どういう流転の結果なのでしょうか?  
 山東龍山文化は、山東省歴城県龍山鎮を代表遺跡とし、同省日照県両城鎮、河北省唐山市大城山、河南省鄭州市、陝西省廟底溝、遼寧省上馬石、江蘇省徐州市高皇廟等の遺跡が、特に知られています。いわゆる、中国の黄河河口・下流域にあたる山東省を中心とし、山東半島から河南・山西南部・陝西省に伝播し、北は遼東半島、南は浙江省北部に及びます。  
 そして重要なことは、浙江の河姆渡文化の影響を受けていることです。山東の城子崖で発見された薄手の黒陶は、龍山文化を代表する遺物とされましたが、後に、大汶口文化や南方の河姆渡文化の影響を受けた結果と判明しました。龍山文化は、後世の中国中原文化の伝統となる中核的要素を有しているので、極めて重要です。
⑦ 山東龍山文化の銅器
 山西省襄汾件陶寺村南部の襄汾陶寺遺址(B.C.2500~B.C.1900)から、仰韶(ヤンシャオ)文化の土器の鈴と同形の銅の鈴が出土しました。 龍山文化後期には、銅器の鋳造も盛んに行われ、特に鉱石が採掘される甘粛省南部、青海省東部の文化(B.C.2300年~B.C.1900年)が、量・種類とも豊富になります。
 瑤県三里河遺址(B.C.2405~B.C.2030)からは、1975年、人工的に鋳造した小型の銅器が発見されました。錐のような工具で、冶金技術があったことを示します。
 甘粛省永靖県蓮花の西南部から発見され大何庄遺址(B.C.2000前後)からも、銅器が出土しました。 中国西北地区の甘粛省・青海省で、1924年斉家坪遺址が発見され、その後の調査で、90余の遺址を発見しました。同時に、冶金された銅が出土しました。 さらに龍山文化遺跡からは、真鍮(銅と亜鉛の合金)の錐も出土しています。
 その当時、中国最初の古代王朝・夏が、中原の地に誕生します。夏王朝の版図は、山西省安邑(あんゆう)を本拠に、河南省南・中・北部と山西省南部に拡大します。 その黄河中流域の夏王朝文化を、二里頭文化と称します。それは、四期に分かれ、一期から三期までは拡大期で、四期は衰退期と考えられています。この一期から二期までが夏王朝で、三、四期が商代に入るとされています。
 中原に夏王朝の二里頭文化が発展した当時、河北省一帯は先商文化(下七垣文化)が続き、両者は共存していました。先商文化は、B.C.2000頃、中原龍山文化の後を受けて、河北省に発展した下七垣文化の別称です。
  三皇五帝(さんこうごてい)とは、最初の世襲王朝とされる夏(紀元前2070年頃~紀元前1600年頃)以前に、中原を支配していた帝王達のことです。その五帝の一人・堯(ぎょう)の治世で、「商」の始祖・契(せつ)は、夏王朝の創始者・禹(う)を補佐して、治水工事で功績があったといわれています。 司馬遷「史記」によれば、堯の摂政・舜(しゅん)は、禹を、民生を担当する司空に、契を、文教を担当する司徒に任じています。その当時は、共に行政官として活躍していたのです。
 その後、夏王朝の桀(けつ)を倒して、湯(とう)が商王朝を創建します。湯は、契から14代目にあたります。その間、商一族は、夏の諸侯として、河北省の「商」という国の地方政権であり続けていたのです。かつて、商王朝は、東方の夷族が、その出自であるとみられていましたが、実は河北省に封じられていたのです。
 二里頭文化三期頃に、下七垣文化は河北省南部の輝衛文化を吸収し、二里頭文化四期には河南省北部に拡大し、黄河を渡り、河南省杞県一帯まで南下をします。やがて河南省東部や黄河北岸へ広がり、夏王朝の二里頭文化や山東省の岳石(がくせき)文化と接触します。 遂には、二里頭文化の担い手である中国最初の古代王朝・夏を駆逐して、商王朝を創始したのです。その過程で先商文化は二里岡文化へと段階的に移行し、偃師(えんし)商城を建設して、商王朝を確立したものとみられます。
 偃師商城は、1983年の春、洛陽から西に約30キロにある偃師市で、壁と城門をもつ都城址として発見されました。 偃師商城は、二里岡文化下層前期の遺跡で、実に、面積は、約200万m2を優に超え、城壁の総延長は5500m、五カ所に城門があり、城外には濠が巡らされています。
 城内の宮殿区からは、少なくとも九座の宮殿址が見つかっています。 湯王が作った商王朝の初期の首都・西亳(せいはく)であるとみられています。夏王朝のかつての都に近い偃師に、都城を置くことは、二里頭の夏人を、その根拠地近くから、監視支配してゆく意図があったものと考えられています。
  B.C.16世紀頃に、二里岡文化が中原に起こり、二里頭文化に取って代わりますが、この二里岡文化が初期商王朝なのです。二里頭文化四期が、衰退期されるのは、こうした王朝の交代をなぞるものなのです。
 青銅器の製造は、商の成立以前に、二里頭期・夏代のB.C.21世紀に始まりました。二里岡文化は、二里頭文化から、初期の礼器としての青銅器や玉器の製作技術の他、若干の儀礼的用途の土器を継承します。 古書には、「夏の禹が九鼎を鋳て天下の九つの州を象徴した」という伝説が記載されています。
 1950年代終り、考古学者の徐旭生が、河南省偃師県で二里頭遺跡を発見、商王朝時代に匹敵する規模の、大建築群の宮殿・住居・墓等が発掘されました。現在、その夏王朝の遺跡からは、まだそれほど多くの青銅器は見つかっていませんが、青銅で鋳造された刀、錐、手斧、鑿、鏃、鉾、酒盃の爵等の道具、武器、容器が出土し、それと同時に、青銅の鋳造所の遺構も見つかり、そこで、焼き物の鋳型、青銅の破片、るつぼの残片も検出されています。
 人類と金属の出合いは、B.C.7000~8000年頃の新石器時代にまで、さかのぼれると言われています。最初に利用した金属は金、もしくは銅だといわれています。その理由は、金は露出金属鉱としてはもっとも多く、しかも柔らかいために、叩くだけで成形でき、その輝きは装飾品に適します。 銅も世界中どこにでもあります。地上に露出している銅塊も少なくありません。そのかたまりも比較的大きく、最初は金同様、叩いて成形していました。そのうち、火によって簡単に溶けることがわかりました。溶融点が低いため、用具は簡単です。
で土器を焼くうちに、銅鉱石が混入していて、その焼成後の滑らかな光沢の美しさに、感動したのが、発端でしょう。「商」の人は、銅のことを金と称していました。鉄が登場すると、銅は良金、鉄は悪金と呼ばれます。銅は、新石器人とって「柔らかく、形を変えられる石」として重宝したようです。しかしながら、金も銅も、純度が高ければ、軟らかすぎて、道具、武器としてなじみません。
 山西省襄汾件陶寺村南部の襄汾陶寺遺址、甘粛省永靖県蓮花の西南部の大何庄遺址等の銅器は、未だ青銅器ではありません。 その銅に10%ほど錫を混ぜると青銅になります。青銅は銅単体に比べ一気に固さが増し、道具としての価値も高くなります。その合金方法は、古代メソポタミアで発見されたといわれます。
 銅と錫、あるいは銅と鉛の合金で鋳造される青銅器は、融点が比較的低く、鋳造に適しているうえ、製品の硬度がかなり高い等で、その用途が大幅に広がります。 この青銅は、B.C.4000年頃、現在のイラク・メソポタミア南部を占めるバビロニアの南半分の地域で、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えたシュメールのウル第一王朝の誕生よりも、更に、1200年前のテルーハラフ文化の遺跡から発掘されたものが、最古といわれています。その後パレスチナ(B.C.3600年)、イラン(B.C.3200年)、ギリシャ・トルキスタン(B.C.2900年)、エジプト(B.C.2800年)、シベリア(B.C.2700年)へと伝播しました。
 青銅器が使用され始めた時期から、鉄器が使用され始めるまでの期間を青銅器時代と呼びますが、四大文明の中で、他の三地域がおよそB.C.3500年前後に、青銅器時代を迎えたのに比較して、中国の青銅器時代の到来は遅れています。このことから、中国の青銅器文化は、他の先進地域より青銅器が持ち込まれた結果、発達したとみられています。 しかしながら、青銅器ではないにしても、石器、銅器の併用時代があったことから、青銅器も中国大陸で独自に発達したとの見解も根強いのです。