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半坡遺址(中国古代黄河文明)
半坡遺址の粗描 | 環濠集落の意味 | 半坡遺跡の土器製作 | 半坡遺跡の生活環境 | 半坡遺跡の生業 | 半坡遺跡の墓制
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古代黄河中下流域の気候 | 古代黄河文明の土器 | 環濠集落 | 母系社会 | 仰韶文化の墓制| 古代黄河文明の生業

 ① 長江文明の暦年 | ② 日本の稲作の伝来| ③ 長江の稲作と都市文化| 長江の良渚文化 |

 半坡遺址 
 ① 半坡遺址の粗描
 半坡遺址は、1952年、西安第二発電所建設の際に、陝西省西安市半坡村で発見され、遺址の面積は7万㎡です。そのうちの約半分の3万㎡が居住区です。遺址は完掘されているわけではなく,現在までに発掘調査が行われたのは約1万㎡に過ぎません。陜西省の省都である西安から東に6k行った渭水の支流・滻河(さんが)の東河岸段丘上にあります。余談ですが、発電所は別の場所に建てられました。
 現在、滻河は遺跡から800m離れたところを流れています。元々は河床から約10mの高さにあった段丘上の環濠集落でした。周囲を幅6~8m・深さ5~6mの、かなり大規模な防御濠で囲み、外敵を防いでいます。
 半坡遺跡は長期間にわたり生活が営まれていた所で、4つの文化層が確認できる大集落跡です。また、いろいろな埋葬形態をもつ共同墓地を伴っています。  1954年~57年、中国科学院考古研究所石興邦が、5回にわたり発掘・調査しました。結果、前期(B.C.4800~B.C.4300半坡類型)と後期(廟底溝類型から西王村類型)の2層に分れいました。
  この遺址は、黄河流域の母系氏族共同体の村落で、遺址は住居・墓地・窯場の3つの区域から成り立っています。51体の男性成人の遺骨を調査した結果、当時かなり混血が進んでいましたが、人種は当然、モンゴロイドで、現代のモンゴロイドと比較しますと、華南系とインドネシア系に、骨格からにしても最も近く、次に華北系に近くなることが分かりました。チベットB系、モンゴル系、アラスカエスキモー系等とは、全く類似性を有していなかったのです。
 この時代既に、長江文明を担ってきた人々が、北上していたのか、或いは、現在の華南系の人々が、先住民で、後世、黄帝の部族が、九黎(れい)の居住民を襲い、その大首長・蚩尤(しゆう)を攻め滅ぼし、その一族を華南の地に追いやったのでしょう。
 最盛時には、約200軒の住居があり、2~3人の家族構成であったとすれば、人口は500~ 600人ほどの集落ではなかったかと考えられます。  磨製石器の斧・鍬・刀・錐・鑿・鏃・投石球と、骨角・貝殻の道具の針・錐・鋸・釣針・叉(さす)・鏃・矢・矛が出土しました。 窯場は住居区の東側にあり、土製の刀・鑢(やすり)・紡錘車も見つかりました。織物や蓆(むしろ)には、模様の痕跡が認められました。
② 環濠集落の意味
 古代羌族(きょうぞく)は、陜西省から寧夏回族自治区(ねいかかいぞくじちく)にいた遊牧民族で、白狼を崇拝し、自らを白狼の子孫一族としています。羌族との民族的関係は、定かではありませんが、北方系の犬戎(けんじゅう)や古代匈奴のトーテムは、犬であり、後には、高車、鮮卑、突厥、契丹等も犬を、トーテムとして崇拝します。何か民族的な、つながりか交流が感じ取れます。
 羌族はチベット系民族ですが、その呼称文字の「羊」から知られるように、西アジア地域の遊牧民族で、やがて、中国西部に広く勢力を伸ばしてきます。三皇五帝以前より、度々中原に進出し、葛藤と同化を繰り返します。やがて同化し、漢民族とし漢水の上流にいる羌族を南羌族、青海周辺に居る羌族を西羌族と呼ばれます。南羌族は周王朝建国の功労者「太公望」の故国であり、後に漢民族の大姓となります。その時代になると、南羌族のトーテムは「羊」に変わっています。「白狼」崇拝は、西羌族だけとなり、彼ら一族は、時に胡人とも呼ばれるようになります。中原の漢民族による、周辺の遊牧民族に対する分類呼称は、錯綜して、大分混乱があります。
 古代東北民族・匈奴は、B.C.9世紀からB.C.8世紀頃、中華の人から「厳允(けんいん)」と呼ばれていますが、その前には「北戎(ほくじゅう)」、あるいは「胡人」と呼ばれていました。歴史の黎明期、中原の漢民族は、胡人が当時の中国辺境、すなわち山西省北部と河北省北部の遊牧民族だと思っていました。北戎(ほくじゅう)は「北方の戎(じゅう)」、現在の北京市西部と西北部に分布して暮らしていた胡人でした。
  なぜ集落周辺に、大規模な環濠を設置するのかの理由の一つが、羌族や北戎の存在でした。後代、中国中原を支配する王朝総てが、その勢力の侵攻に悩ませされ、政権の維持に危殆が生じます。 有史以前であっても、中国のみならず、ユーラシア大陸の文明地帯において、周辺遊牧民族の存在は、外敵として、かなりの脅威でした。
 生産力で、定住民に劣る遊牧民が、農村集落を襲撃して略奪し、中には征服して定住化するものもいました。 遊牧民の侵攻以外にも、周辺集落相互の水争いも含む農業好適地を巡る紛糾と、富や人間の略奪を目的とした争闘もありました。人類は古くより集落を築いていましたが、新石器時代以降、その規模は飛躍的に発展し、ユーラシア大陸の文明地帯、東西でよく似た発展過程をたどっています。初期には、生産力が低かったため、略奪等は稀でした。また人口が少ないため農地や水争いもあまり生じなかった、それで囲壁や環濠のような防御施設がないか、あっても貧弱でした。
 生産力が向上して、富が集積されると略奪行為が増え、また人口も増加すると、集落規模の拡大に伴って、更なる農地の獲得争闘が、熾烈化します。古代の農具や開拓用具と技術は、未熟でしたから、水利も含めての農業好適地は、後世と比較して、著しく限定的でした。生存を賭けて、必然的に集落間の闘争が、頻繁に起きることになります。
 日本の縄文集落にはない、環濠と囲壁は、上記事情で、その防御施設をより強化させていきます。半坡遺址の周囲を幅6~8m、深さ5~6mの大規模な防御濠で囲む集落が、各地で建造されていきます。ユーラシア大陸において、その防御施設は、囲壁であることの方が多いのです。  
③ 半坡遺跡の土器製作
 世界最古の土器の創作地を言い当てるのは、未だ早急過ぎると考えます。ただ、土器製作の開始が、特別早い地域の大半は、森林地帯、ないしはそこに近接しています。そこには、日本の縄文人のように、小柄な「森の民」が生活しています。
 今から2万年前頃、ヴュルム氷河期(第四紀氷河時代の最後の氷期;第4氷期、5万3千年から1万年前、旧石器時代の最後期) の最終氷期の最寒冷期にあたります。年平均気温も現在より7~8度も低い、海水面は地球状の水分の凍結により120mほど低下しました。 かつては、最終氷期最盛期が終末に近づき、寒冷化が弱まり始める1万年前頃、新石器時代が始まり、土器製作も開始されたと言われてきました。それが、近年、世界各地で、発掘調査が進むにつれ、「森の民」が、いちはやく土器作りを開始したのは、最終氷期の最寒冷期に近い頃、中国南部の長江流域において、2万~1万8000年前頃とみられています。1万6500年前には、極寒の地、日本列島北部から沿海州においても、土器作りが始まっています。 過去に於いては、寒冷化が弱まり、温暖化に向かう頃、土器の製作は始まるといった、先入観がありました。むしろ、厳しい寒気の最中、火の存在は、当時の人々にとって生存の唯一の拠り所でした。そこで寄り合うことで、極寒の悪条件に耐えられ、日常的な作業が行われ、いろいろな知恵が生まれたのでした。その火の周辺から、土器は誕生したのです。
 半坡遺跡は、彩文土器を有する文化ですから,土器製作が盛んに行われていました。しかし、まだ轆轤は使用されず、回転台が使われていました。回転させながら形を整える台で、轆轤ではありません。その回転台上で、いわゆる巻上げ法といって,泥質の土を輪にしてそれを積み上げていく手法でつくった土器です。一般的には広口で浅底の平らまたは丸っぽい盆や鉢、そして甕などが多数出土しています。 土器には、甕・罐・鉢・盆・碗で、精良なものと粗雑なものがあります。精良なものの多くは地が紅陶で、黄土層のさらに下にある、深い所の紅土層から採取された土を、水底に沈殿させ、その粘土を使用しています。そのものの色が出ています。その上に人の顔・魚・鹿などをかたどった黒色(マンガンと鉄をすりつぶす)か、褐色の文様(彩文)が描かれています。焼成温度は、950~1050度です。仕上りは、粒子が細かく粘り気があり、土器の表面が滑らかです。既に、専門の職人が存在したと考えられています。
 農婦が膝の上に麦藁帽を乗せて腰掛けている姿を映す、食べ物を蒸す道具の甑(そう)、いわゆる「こしき」も出土しています。水汲み用の尖底瓶で、面白い工夫がなされています。紐の付いた尖底瓶を水面に落とすと、重たい口の方から水が流れ込むと、膨らんだ胴が重くなり、徐々に瓶は、自然に立ちます。重心移動の原理を応用した瓶です。こうした日常用の土器は、女性によって、生活の合間々々で作られていたのでしょう。
 彩文土器は、特に晩期の文化層から多く出土しています。なかでも半坡遺跡の代表的かつ特徴的なものが、魚をモチーフにした文様の鉢です。その文様は、前期では、写実的に描かれています。後期になると、魚は連結 されたり、分離されたりと、装飾性が強くなります。半坡遺跡出土の「彩陶魚文鉢」が、有名ですが、広口で、高さ17cmあり、その器壁に魚が、装飾的なモチーフで描かれています。
 半坡の彩文土器は、中央アジアのアナウやウクライナのトリポリエの土器に似ていることから、アンダーソンは、この文化は西方から伝わったとする彩陶西来説を唱えました。彼は「彩陶の道」をたどるとして、甘粛へ調査研究に赴きました。そこで、かなりの甘粛彩陶を収集し、6期に編年分類しました。
 しかし、その後半坡をはじめ、多くの仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)遺跡が発掘され、さらに放射性炭素測定法により、時代推定が、より正確になりと、甘粛の最も古い曹家嘴(そうかし)遺址より、半坡遺址のほうが1000年以上も古く、逆に、彩陶は東から甘粛へ伝わったことがはっきりしました。故に、彩陶西来説は誤りとされています。
 放射性炭素測定値によると、半坡遺跡は、B.C.4080年からB.C.3600年、甘粛の最も古い曹家嘴(そうかし)遺跡は、B.C.2540年、最も新しい青崗岔(せいこうふん)は、B.C.2090年です。仰韶文化は、その根拠地・黄河中流で、龍山文化に圧倒され、仰韶文化の辺境の地であった黄河上流域の甘粛に逃れたのです。
④ 半坡遺跡の生活環境
 住居は円形と長方形の二種類ありますが,一般的には円形の方が古いものとされています。河に近い平坦な場所を選んでいます。住居の直径は4~6mほどで,周壁があって,杭列が内部と外部に作られていました。屋根は崩れ落ちていましたが,幸いにもそれが床に積み重なる状態で発見されたので復元が可能となりました。家屋の下半分は竪穴で、上半分が地上に露出した半地下式竪穴式住居で、定住生活をしています。木の柱を支柱とし、泥で壁を築き、樹の枝や茅で屋根を葺きました。
 小家族(2~4人)単位の生活です。 家屋は、大部分が10㎡余で、屋内には竈の穴がありますが、窓がありません。部屋の大きさにへだたりがないことから、身分格差がなかったとされます。門口は南向きで、寒冷な西北風が容易には吹き込まない仕組みです。数10棟の家屋が一地域に集中し、村落を形成し、200戸程の家屋がありました。土器の底の圧痕に、筵の類があり、屋内に敷かれていたと推測されます。
  村全体の食糧貯蔵庫があり、陶の窯場は共有でした。 今でこそ黄土の荒れた大地ですが,仰韶文化が育まれていた半坡遺跡一帯は,当時、今よりもっと温暖湿潤な気候であり,森林に覆われていたため,樹木や竹が群生していました。そこには?河が流れ、沼沢地も多くあって、水が豊かでしたから水草が繁茂し、魚などが多く棲む良好な自然環境でした。それで環濠集落として、河を巡らせることができたのです。そうしたなかで半坡遺跡の人々は、狩猟環境にも恵まれて、生業の助けにしていましたが,安定的な半農業・半牧畜的生活を営んでいました。つまり、社会経済的には農業主体の粟栽培を営みながら家畜を飼育し,また、それと同時に狩猟・漁撈といった採集生活を行っていたのです。
 住居近くの貯蔵穴からは、穀物の粟のほか、牛・豚などの動物骨も発見されており,人々の生活ぶりが明らかになりました。その基本的には粟を主体とした原始農耕でした。粟は黄土地帯の土壌にまことに適合した植物でした。成熟期間も短く,保存方法も簡単であることから,この辺りでは、もっぱら栽培されていたのです。黍(きび)も栽培されていましたが、ほかに野菜などもありました。発掘調査により住居内からは白菜やからし菜等の種がみつかっています。白菜・からし菜等で、漬物・泡菜(パオツァイ;野菜を塩水・老酒・唐辛子などで漬け込んだもの。)に、調理していたようです。
⑤ 半坡遺跡の生業
 農耕生活の遺物には、他に耕地を切り開くのに必要な石器も、約1000点出土しています。石鋤や石斧は森林を伐採し、開墾して耕地にするための道具でした。この一帯は黄土地帯ですから、農具自体に大がかりなものは必要なく、ツルハシのような用具があれば、簡単に土を掘り起こすことができます。  家畜は,犬や豚が飼育されていました。ほかに馬・羊・牛・鶏の骨も数は少ないけれども出土しています。羊・牛・鶏は家畜の可能性はあるものの,現段階ではまだ学説的には認められていません。また、林や沼沢地に棲息するノロ鹿・牙ノロ鹿・兎・穴熊等や鳥,鯉等が狩猟漁撈の食料とされていました。  農耕・牧畜が主な生業ですが、狩猟・漁撈も重要だったようです。その644点の用具が出土しました。 農耕生活の遺物には、ほかに耕地を切り開くのに必要な石器も約1000点出土しています。石鋤や石斧は森林を伐採し,開墾して耕地にするための道具でした。
土地・家屋・道具・家畜は氏族の公有で、労働は共同作業で、家畜も平等に消費していました。 土器は、当初、その原初的機能である“煮る”、“貯蔵する”の2つで、十分であったでしょう。その経験的使用から、“煮沸”すれば、“あく抜き”と“柔らか味”が生じ、それまで食材として不向きな物までも食せるようになり、食糧資源が広がりました。“貯蔵”するうちに、“防腐機能”と“携帯性”に有効であることが理解されました。そのうち、成形や焼成等の技術的な知識が累積していくと、創造的領域まで、その範疇を広げ、文化的領域にまで達していきます。
 ここでは、収穫した食糧を貯蔵するという機能が、社会的役割を果たしていく過程を述べます。資源の貯蔵は、その後に継起する諸行為、つまり食糧物資を集団内に再分配し、外部との交換財に利用するといった社会的活動を可能にしました。貯蔵された食糧資源の再分配によって、集落における氏族内の紐帯関係を強固にし、さらに余剰食糧は、交換財として他集落との流通資源となったのです。それを端的に示すのが、日本の縄文時代同様、中国でもその時代各々特有の、土器様式の広域的な共通性が認められることです。
 居住地の中心に1 棟の大家屋があり、全体で5 棟あります。集会所でしょう。その床面積は、160mです。重要な事は氏族単位で、相談して決めていました。しかし、本家の当主の住居との説もあります。家々は弧を描くように中央の集会所を取り巻いて建っています。  大家屋の室内壁際の床下に、人間の頭蓋骨が埋められていました。この家屋を守護させる目的で、首狩りの風習があったとされます。  男女は分業で、女子は作物の栽培・食物の煮炊き・家を守り幼児の世話をし、糸を紡ぎ麻布を織り、魚網を編みました。
⑥ 半坡遺跡の墓制
 墓地ですが、集落濠を越えた郊外区にありました。埋葬者は成人のみで、仰向けに真っ直ぐ寝かせ、両腕は身体の両脇に沿って垂らされる睡眠葬・仰向け伸展葬の形態で共同墓地に埋葬されていました。共同墓地は、住居区の北側にあり、178体の遺骨が発見されました。172体は単独葬で、1つの穴に1人を埋葬しています。6体は、女4人と男2人の合葬で、埋葬方法は同じです。兄弟姉妹が同時に亡くなったためかと推測されています。他に、うつぶせ葬15体があり、不意の死を遂げた者とされています。例外的に屈葬もみられます。  頭の下に麻布や草が敷かれ、足元には壺や鉢・瓶などの生活用品が備えられていました。しかし、副葬品に差がなく、貴賤・貧富の別がありませんでした。
 墓穴はすべて一定の方向に規則的に配列されています。平均身長169.45㎝、死亡推定年齢30~40歳です。霊魂不滅の信仰があり、魂は現世の人々の精神に深く作用すると考え、死者に対して、崇敬と恐畏の念を抱いていたようです。 また、子どもは甕棺に入れて住居の床に埋められていました。
 ところが、成人墓の中に、丁重に埋葬されていた子どもの墓が、一基発見されたことが注目されます。甕棺埋葬が常態であるはずが、四方を木片で囲む矩形の穴に葬られていました。当時、平等な生活を営んでいたはずなのに,特定の子供が、特別、手厚く埋葬されているものが発見されると,そこには一種特別な地位をもつ長(おさ)の子供か,それに関係のある子供が埋葬されていたのではなかったかとも考えられています。
 数百人が共同生活をした、外敵を想定した濠集落であるならば、ある程度の階層的組織が必要で、その役割が、身分或いは階層の萌芽となったのでしょう。
 装身具には、飾りの付いたヘアバンド・赤色の焼き物の腕輪・石を磨いて作った首飾があり、特殊なもので、粘土が軟らかい時に、小粒の九個の種子をめり込ませて凹凸を作り、垢すり具にしたものも発見されました。
 刻画符号は、土器の回りに刻されています。半坡遺址・姜寨遺址・北首嶺遺址から270余の点数の発見ですが、50種の異なる符号とみられています。 刻画符号には、陶器を焼成する前に刻したものと、陶器を焼成した後に刻したものの2種類があります。結縄や刻木から発展した文字的性質をもつ符号で、特殊な事物の記録、特定の意義を持つ符号と推測されています。