『日本書記』日本武尊 Top 車山高原 諏訪の散歩 車山日記 | ||||||||
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1)日本武尊、熊襲を平定 景行天皇「27年春2月12日に、武内宿禰が、東国より帰り奏言し 『東夷の中に、日高見国(ひたかみのくに;北上川流域)があります。その国の人は、男女ともに、みな、もとどりを結い文身(いれずみ)をし、本来、勇悍で、これをすべて蝦夷といいます。また土地は肥沃で、しかも広大です。攻撃し奪うべきです』という。 秋8月、熊襲がまた反し、辺境を侵して止まない」 「冬10月13日に、日本武尊を遣わし熊襲を撃たせることになった。時に年16歳。それでも日本武尊は 『我は、よく弓を射る者を同行したい。どこかにそうした者はいないか』というと、ある者が謹んで『美濃国によく弓を射る者がいます。弟彦公(おとひこのきみ)といいます』と申し上げた。それで日本武尊は、葛城の人、宮戸彦(みやとひこ)を遣わし、弟彦公を呼ばせた。弟彦公は、ついでに石占(いしうら;三重県桑名市)の横立(よこたち)及び尾張の田子之稲置(たごのいなき)・乳近之稲置(ちぢかのいなき)を率いて来た。そして日本武尊に従って行った。 12月、熊襲国に到着した。そこで、その消息及び地形の険易を探らせた。時に、熊襲に魁帥(たける;首領)がいて、名を取石鹿文(とろしかや)、または川上梟帥(かわかみのたける)といった。親族全員を集めて宴会の準備をしていた。 日本武尊は、髪を解き童女(奈良時代、童女は放(はな)り髪といって結わずに垂らしていた)の姿になり、密に川上梟帥の宴会の時を伺った。剣を衣の中に佩びて、川上梟帥の宴の部屋に入った。女人の中にいた。川上梟帥は、その童女の容姿に魅せられて、手を引いて同席し、坏をあげての飲まし戯れもてあそんだ。夜がふけて人がまばらになった。川上梟帥も酒に酔った。そこで日本武尊は、衣の中の剣を引き出し、川上梟帥の胸を刺した。 まだ落命せず、川上梟帥は叩頭して 『しばらく待ってくれ、我には言いたいことがある』という。 日本武尊は、剣を留めて待った。川上梟帥は謹んで『あなたという方は、どういう人なのですか』という。答えて『我は大足彦天皇(おおたらしひこ・景行天皇)の皇子で、名は曰本童男(やまとおぐな)という』。 川上梟帥は、さらに敬い『我は、熊襲の国の中では最強で、これまで、当代の誰もが、我の武威に勝てず、従わない者はいなかった。我は、多くの武人と遇ったが、若い皇子ほどの者はいなかった。それで、賤しい賊の卑しい口で尊号を奉る。聞き入れてくれますか』というと 『許そう』と答えた。 そこで恭しく 『今より、皇子は、日本武皇子(やまとたけるのみこ)と称すべし(号皇子応称日本武皇子:応はベシ)』と言いおわると、皇子は直ちに刺して川上梟帥を殺した。それが、今に至るまで日本武尊と称する由縁となった。 その後、弟彦らを遣わし、悉くその党類を斬り、残党はいなくなった。間もなくして、海路より倭へ向かい吉備に到着し、穴海(あなのうみ)を渡った。そこに荒ぶる神がいたので殺し、また難波に帰り着いた時、柏済(かしわのわたり;淀川河口付近の船着場)の荒ぶる神を殺した」 (戦国時代まで、現在の岡山平野は、幾つかの島嶼が点在する一面の浅海で、当時は「瀬戸の穴海(あなうみ)」と呼ばれた。海流の速い讃岐海峡を避けるため、瀬戸内海を航行する主要航路となっていた。古代からのタタラ製鉄による砂鉄採取と、その製造に欠かせない燃料源となる樹木の伐採による開発が、山を荒廃させ土砂を河口に流入させ、緩い砂の堆積地を形成していった。それが江戸時代以降の干拓熱を刺激し、中国地方最大の平野部となり、結果、現在の岡山平野の耕地約25,000haのうち、約20,000haが干拓による造成で形成された)。 「28年春2月、日本武尊は熊襲の平定した状況を奏上し『臣は天皇の神霊を頼み、兵をもって一挙に、熊襲の魁帥を誅殺し、悉くその国を平定しました。こうして、西洲(にしのくに)は既に平穏となり、百姓は無事に治まりました。ただ、吉備の穴済神(あなのわたりのかみ)及び難波の柏済神(かしわのわたりのかみ)が、ともに害心があり毒気を放ち、行路の人を苦しめ、ともに禍の原因になっていました。それで、その悪神を悉く殺し、双方の水陸の径路を開きました』と申した。 天皇は、日本武の功を美(ほ)めて、その以来、特別に愛するようになった」 目次へ 2)日本武尊、東国平定を命じられる 「40年夏6月、東夷が大いに叛いて、辺境を騒がした。秋7月16日に、天皇は群卿に詔して 『今、東国が不穏で、荒ぶる神が大いに決起している。また蝦夷が悉く叛き、しばしば人民を略奪している。誰を遣わして、その乱を平定すべきか』という。群臣は皆、誰を遣わすか答えられなかった。日本武尊が奏言して『臣は先の西征で労(つかれ)ました。この役は、当然、大碓皇子(おおうすのみこ)の仕事となすべきです』というと、大碓皇子は愕然として、草の中に逃げ隠れた。それで使者を遣わし召し出させた。そこで天皇は責めて『汝が望まないのに、強いて遣わすわけがない。なんで、まだ賊と対峙していないのに、はなからそんなに恐れるのか』というと、美濃に封じ、封地へ行って治めさせられた。これが、おおよそ、身毛津君(むげつのきみ)・守君(もりのきみ)二族の始祖となった。 日本武尊は、雄叫(おたけ)びを上げて『熊襲は既に平定されから、まだ幾年も経っていません。今、更に東夷が叛きました。大平となるのはいつの日でしょうか。臣は労(つかれ)ていますが、即座に、その乱を平定させます』という。 天皇は斧と鉞(まさかり)を持って、日本武尊に授けて 『朕が聞くには、(以下の東夷記事は、礼記(らいき)・史記などから剽窃;蝦夷の実態を歪曲している)その東夷の本性は強暴で、侵犯を当然として、村には長(おさ)がいず、邑には首(おびと)もいない。それぞれが領界を貪り、互いに盜掠しあっている。 山には邪神がいて、野には、よこしまな鬼がいる。四つ辻を渡れなくし、大いに人々を苦しめている。その東夷の中で、蝦夷が最も強く、男女が雑居し、父子の区別もない。冬は穴に宿(ね)、夏は木の棚に住み、毛皮を着て血を飲み、兄弟は相疑い、山に登るときは飛鳥のように、草中にあっては走(に)げる獣のように行く。恩を承けても忘れ、怨(あだ)となれば必ず報いる。 そして、矢を頭のもとどりに隠し、刀は衣の中に佩び、ある時は党類を集め、辺堺(ほとり)を侵し、ある時は農桑(農耕と養蚕)を窺い、人民を略奪する。 攻撃すれば草に隠れ、追えば山に入る。それ故、往古以来、未だ王化に染(したが)わず。 今、朕が汝の人となりを察(み)れば、身体は長大、容姿は端正、力は鼎を持ち上げるほど、勇猛さは雷電の如く、向かう所、敵がなく、攻めれば必ず勝つ。それで知った。形は我が子であるが、実は神人(かみ)だと。 まことに、天は朕の不明と国の乱れを哀れみ、天業(あまつひつぎ;天子の仕事)を経綸させ、宗廟(くにいえ)を絶やさないようになされた。 この天下は、汝の天下であり、この位は、汝の位である。願うことは深謀遠慮をもって、奸計を探り変乱を窺い、威勢を示し、德で懐柔し、武力を用いず、自ずと臣隸(しんれい)させよ。即ち言葉を巧みにして、荒ぶる神を調伏し、武を振るう悪鬼を攘(はら)え(振武以攘姦鬼;以はナス・ヤムと訓む)』 日本武尊は斧と鉞を受け取って、再拝し奏上した。 『かつて西征した年は、皇霊の威勢を頼み、3尺の剣を提(さ)げて、熊襲の国を撃ちました。余り日数も掛けず、賊首を伏罪させました。今、また天神地祇の霊に頼り天皇の威勢を借りて、往(い)けば、その境に臨んでは、德をもって教化します。なお不服とあれば、直ちに挙兵し撃ちます』 それで重ねて再拝した。 天皇は、吉備武彦(きびのたけひこ)と大伴武日連(おおとものたけひのむらじ)に命じ、日本武尊に従わせた。また七掬脛(なつかはぎ)を膳夫とした。 (かしわで;膳夫は、周代の紀元前1,046年頃から 紀元前256年の間に、既に天子の飲食を司る官職と明記され、カシワはブナ科の柏で、飲食を盛るための柏の葉の意があり、デは盤で食器の意である。 中国では比較的大きく深い皿を盤、小皿は碟(die;saucer)という。日本でも古くは佐良・沙羅と呼んで盤の字をあてた。のち皿の字も用いるようになった。 今日、皿と書く場合は、主に陶磁器を指し、木製品や金属製品に対しては盤が使われる) 冬10月2日に、日本武尊は行路についた。7日に、寄り道し伊勢神宮を参拝した。そこで倭姫に別れを告げるため 『今、天皇の御言(みこと)により東征して、諸々の叛逆者を誅殺するため、お別れを告げに参りました』といわれた。倭姫命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)をとって、日本武尊に授け『慎重に、決して油断のないように』といった。 目次へ 3)日本武尊、焼津を平定 この年、日本武尊は初めて駿河に着いた。そこの賊は従うと見せて欺き「この野には、大鹿甚だ多く、吐く息は朝霧のようで、足は林を茂らせたようです。お出でになって狩をなさいませ」という。 日本武尊はその言葉を信じ、野中(のなか)に入り獣を探した。賊は尊を殺そうとして、放火し野を焼いた。尊は、欺計と知り、直ぐ燧(ひうち;火打ち石)で火を起こし、その迎え火で免れた。 (一説では、尊が佩く剣の藂雲(此云茂羅玖毛)が、自ずと抜かれ、尊の傍の草を薙ぎ払ったため免れたという。そのためその剣を名付けて草薙と称した) 尊は『危なかった。欺かれていたか』といい、直ちに、その賊衆悉くを焼き滅ぼした。それでそこを焼津(やきつ;やいづ)と名付けた。 目次へ 4)日本武尊、関東を平定 また相摸に進み、上総へ往こうとした。海を臨まれ、高言して「この小海であれば、駆け飛びしてでも渡れよう」という。 ところが海中に入ると、暴風が突発して、尊の船は漂流して渡れなくなった。そこに、尊に従う弟橘媛(おとたちばなひめ)という妾(おみな)がいた。穗積氏(ほづみのうじ)の忍山宿禰(おしやまのすくね)の娘であった。媛が尊を敬して 『今、風が起ち浪が疾(はや)く、尊の船は沈もうとしています。これは海神のなせる業です。願わくは、賤しい私の身ですが、尊の命の代わりに海に入らせて下さい』いうやいなや、大波に入っていった。暴風は直ちに止み、船は著岸ができた。それで、時の人は、その海を名付けて、馳水(はしりみず)といった。 日本武尊は、上総より転じ、陸奧国に入った。時に、大きな鏡を尊の船に掛けて、海路で葦浦へ廻り、玉浦を横切り渡って、蝦夷の境に達した。蝦夷の賊首の嶋津神(しまつかみ)・国津神(くにつかみ)らが、竹水門(たかのみなと)に屯して距(ふせ)ごうとした。しかし尊の船を遥かに見て、かねてより、その威勢を怖れ、心中勝てないと思っていたため、悉く弓矢を捨て、仰ぎ拝んで 『君のお顔を仰ぎ見て、人より秀で、もしや神ではと、、、、お名前を教えてほしいのですが』といい、尊は答えて『我は現人神(あらひとがみ)の子である』という。 これに、蝦夷らはすっかり畏まり、着物をつまみあげ浪をかき分け、自から尊の船を扶(たす)けて着岸させた。そして面縛(めんばく;両手を後ろ手にして縛り、顔を前に突き出してさらす こと)し服罪した。 そのためその罪を免(ゆる)した。 よって、その首帥(ひとごのかみ)を俘(とりこ)にして従身させた。蝦夷は既に平定され、日高見国(ひたかみのくに)より帰還し、西南の方の常陸を経て、甲斐国に至り、酒折宮(さかおりのみや;甲府市酒折)におられた。その時、灯火を捧げて食事を差し上げた。 (金田一京助は、「北上川」は「日高見」に由来するという説を唱えるなど諸説ある。 「日高見」は、日の出る方向からイメージされている。 時代ごとに拡大する、王権が支配する領域の東方、つまり日の出の方向にある国で、ヤマト政権や律令制国家の東漸とともに、北方に移動していったと考えられる。 宮城県内の神社(約900社以上)を包括している宮城県神社庁は「日本武尊は、上総から海路陸奥に入り竹水門(七ヶ浜塩釜港附近)から日高見の国に到り賊を平定したとしている。この時、尊は武運を祈願し、皇祖天照大神を祀ったことから、北上川の東、石巻市桃生町に日高見神社が建立されたと伝えられる」と記す) この夜、歌を詠んで侍者に尋ねた。 新治(にひばり) 筑波(つくは)を過ぎて 幾夜か寝(ね)つる 従者たちは答えられなかった。その時、手に灯火を持つ者(秉燭;燭(ともしび)を秉(と)る)が、尊の歌の後に続けて歌を詠んだ 日々並(かがな)べて 夜(よ)には九夜(ここのよ) 日(ひ)には十日(とをか)を その灯火を持つ者の機知を褒め厚く賞された。この宮に居た時、靫部(ゆけいのとものお)を大伴連の遠祖の武日(たけひ)に賜った。 (靫部は「靫負」とも書く。大化前代の兵士で、ヤマト政権の宮廷武力集団の一つ。矢を入れる道具である靫(ゆき)を背負って、宮廷の諸門を警護した品部(ともべ;しなべ)であった。主に西日本の中小豪族の子弟から編成され、大王の直轄領である名代の部によって資養された。5世紀半ば、大伴氏が統率した。しかし、それ以前にも、その任務を担う舎人がいたはずである。その組織は律令制には継承されなかったが、衛門府またはその官人の別名として残った) 日本武尊は「蝦夷の凶悪なものは、みなその罪に服した。ただ信濃国・越国だけが、偏って未だ王化に服していない」といい、甲斐より北、武藏・上野に転じて廻り、西の碓日坂に着かれた。その時、日本武尊は、常に弟橘媛を偲んでいたため、碓日の峰に登り東南を望み、三度嘆かれ「わが嬬よ、恋しい!」といわれ、それで東山道の諸国を名付けて、吾嬬国と呼んだ。ここで、道を分けて、吉備武彦を越国へ遣わし、その地形の険易及び人民の順逆を監察させた。 日本武尊は、信濃に進入した。この国は、山高く谷深い、翠(みどり)の峰が幾重にも連なり、人は杖に倚(よ;頼)っても登り難く、巌(いわお)は険しく石の坂道がめぐり、髙い峰が数千、馬は轡を地に付けて進まない。 しかし日本武尊は、霞みを分け入り、霧を凌ぎ、遥か遠い大山を渡り、ようやく峰にたどり着けば、飢えて山中で食した。 山の神が、尊を苦しめようとして、白鹿になって尊の前に立った。尊は怪しまれて、一箇の蒜(ひる;ネギ・ニンニク・ノビルなど臭いの強いネギ属で、食用となる多年草の古名)を白鹿に弾かれた。それが眼に中って殺してしまった。ところが尊は急に道に迷われ出られなくなった。その時、白い犬が自ずとやって来て、尊を導く様子を示した。犬に従って行くと、美濃に出られた。 吉備武彦が、越より戻り会った。これより前、信濃の坂を越える者の多くが、神の気に中り病に臥した。しかし白鹿を殺した後は、この山を越える者、蒜を噛んで人及び牛馬に塗れば、自ずと神の気に中らなくなった。 目次へ 5)日本武尊の死 日本武尊は、再び尾張に戻り、そこで尾張氏の娘の宮簀媛(みやすひめ)を娶り、淹留(えんりゅう;滞在)して踰月(ゆげつ;月を越えた)した。 そして近江の五十葺山(いぶきやま;伊吹山)に荒ぶる神がいると聞き、剣を解いて宮簀媛の家に置き、徒歩で行かれた。膽吹山に着くと、山の神が、大蛇になって道を遮っていた。日本武尊は、主神が蛇となっていたとは知らずに 『この大蛇はきっと荒ぶる神の使いだ。主神さえ殺せばいい、この使者に関わる必要はあるまい』といい蛇を跨いで更に進んだ。 その時、山の神は雲を起こし、氷を降らせた。霧が峰にかかり、谷を暗くし、更に行ける道がなくなった。それで早くも彷徨われて、どこを跋渉(ばっしょう)しているか分からなくなった。それでも霧を凌いで強行し、どうにか出られた。しかし正気を失い酔ったようになった。それで山の下の泉の傍らに休み、その水を飲むと酔いが醒めた。それでその泉を名付けて、居醒泉(いさめがい;米原市醒井にJR醒ヶ井駅あり)といった。 日本武尊は、ここで初めて病にかかった。ようやく起って、尾張に戻った。ここで宮簀媛の家に入らず、更に伊勢に移り尾津(おつ;桑名市多度町戸津)に至った。 以前、日本武尊が東へ向かった時に、尾津浜(多度町小山)に止まり食事が進上された。その時、一剣を解かれて松の根本に置かれた。それを忘れて去ってしまった。今ここに来きてみれば、その剣がそのままあった。 それで歌を詠まれた。 尾張に 直(ただ)に向へる 一つ松あはれ(心うたれる) 一つ松 人にありせば 衣(きぬ)着せましを 太刀佩(たちは)けましを (尾張に まっすぐ向き合っている 一つ松に心うたれる 一つ松が男であったなら 衣を着せるのに 太刀を佩かせるのに) 能褒野(のぼの;三重県亀山市田村町に能褒野神社あり)に着くと、病が酷くなった。そこで俘(とりこ)にした蝦夷らを、伊勢神宮に献上した。また吉備武彦を遣わし、天皇に奏上して 『臣は天朝(天皇)の受命により、東夷の遠征に向い、神の恩を被り、皇威に頼って叛く者を伏罪させ、荒ぶる神とも自ずと和合しました。それで甲(よろい)を巻き 戈 (ほこ)を戢(おさ)めて、愷悌(がいてい;心安らぎ楽しむ)して戻ってきました。いつ日か、いつの時か、天朝に復命したいと願っていましたが、天命が忽然と下り、隙駟(げきし)は停め難く、ここに、独り広野に臥し、誰に語ることもありません。我が身が亡びることは惜みませんが、ただ哀しむのは、御前に仕えられないことです」 こうして能褒野で崩じた。その時の年30。 (隙駟難停の隙駟とは、4頭立ての馬車が走るのを壁のすきまから見ると、あっというまに通り過ぎる意から、月日の過ぎ去ることが早いこと。隙駒;げきく) 目次へ 6)景行天皇、日本武尊の死を悼む 天皇はこれを聞きと、安眠がとれず、食事も美味しくなく、昼夜、咽び泣き、胸を敲いて泣き悲しまれた。 大いに嘆かれ 『我が子小碓王は、以前、熊襲が叛いた時、まだ総角(あげまき;みずらとも言い、古代から平安時代の成人の髪型で、髪を左右に分け耳の上で束ねた)もしていないのに、長い間、征伐で難渋し、それ以後、常に側にいて、朕が及ばないところを補ってくれた。 しかし、東夷の騷動が起こり、討伐に使わすほどの者がいなく、愛情を抑えて賊との境に入らせた。それでも、一日とて顧みないことはなかった。朝な夕なに、帰る日を佇んで待っていた。何の禍(わざわい)か、何の罪か、思いがけず、我が子を亡くしてしまった。これからは、誰と共に、鴻業(あまつひつぎ;天子の仕事)を治めたらよいのか』 群卿に詔し、百寮に命じて、伊勢国の能褒野陵(三重県亀山市にある前方後円墳)に葬られた。 時に、日本武尊は白鳥となって、陵(みささぎ)より出て、倭国(ヤマトの国)をさして飛んでいった。群臣たちが、その棺櫬(ひつぎ)を開いて見たら、明衣(みそ;死者が浴後に着る衣)だけが空しく残り、屍骨は無かった。 それで、使者を遣わし白鳥を追求し、倭の琴弾原(ことひきはら;奈良県御所市冨田北浦)に止まったので、そこに陵(琴弾原白鳥陵)を造った。白鳥は更に飛び河内に至り、旧市邑(ふるいちのむら;阪府羽曳野市軽里)に止まった。またそこに陵(軽里大塚古墳)を造った。それで、時の人はこの三つの陵を名付けて、白鳥陵といった。 それから遂に高く飛び天に上がった。それで、ただ衣冠だけを葬った。 日本武尊の功名を録(しる)そうとして、武部(たけるべ)を定めた。この年は、天皇が踐祚して43年となる。 (この『日本書紀』の日本武尊の白鳥の「然遂高翔上天」から「さらに白鳥は舞い上がり、埴生の丘を、羽を曳くがごとく飛び立った」とある羽曳野市古市の白鳥神社の縁起にちなんで、羽曳野の地が命名された) 51年春正月7日に、群卿を招いて宴を数日続けた。時に皇子稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)と武内宿禰が、宴の庭に参らなかった。天皇は召して、そのわけを尋ねた。それで奏上し「その宴楽の日、群卿百寮は、必ず戯遊(あそび)に心が傾き、国事を忘れています。若し狂者がいて、宮の墻閤(みかき;しょうこう;垣や門)の隙を窺うのではと、門下に侍(つか)えて非常に備えていました」というと、天皇は 「灼然(いちじるしいこと)。灼然(いちじるしいこと)。」とことのほか褒め寵愛した。 (『日本書紀』は、「灼然」を、此云、以椰知舉と訓むとしている) 秋8月4日に、稚足彦尊が立って皇太子となった。この日、武内宿禰は命じられ、棟梁之臣(むねはりのまえつきみ)となった。 (棟梁之臣とは、屋根 の棟と梁のように国家の重任に耐える臣、即ち大臣である。 成務天皇(稚足彦尊)3年1月7日条で、「武内宿禰を大臣とした。天皇と武内宿禰は同日生であり、それで特別寵愛した」 (正史で最初に大臣として見えるのは、成務天皇の時代の武内宿禰である。その後は、武内宿禰の後裔といわれる葛城氏・平群氏・巨勢氏・蘇我氏などが、大臣の地位を継いだ) 初めに日本武尊が佩びていた草薙の横刀(つるぎ)は、現在、尾張国の年魚市郡(あゆちのこおり)の熱田社にある。 目次へ 7)伊勢神宮に献じられた蝦夷 伊勢神宮に献じられた蝦夷は、昼夜喧嘩し、出入も無礼だった。時に倭姫命は 「この蝦夷どもを、神宮に近付けてはならない」といわれ、朝庭に進上された。 それで御諸山(みもろのやま;三輪山)のほとりに置いた。いくらも時が経っていないのに、悉く神山の樹を伐り、隣の村里に出ては、大声で喚き人民を脅えさせた。天皇はこれを聞き、群卿に詔して『その神山のほとりの蝦夷は、元来、獣心があるため、ヤマトには住まわせられない。それでは、その心の願いのまま、京畿の外にわけて置け』 これが今の播磨・讚岐・伊予・安芸・阿波、ほぼ5国の佐伯部(さえきべ)の祖である。 目次へ |