垂仁天皇の時代(4世紀前葉)

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 目次 
 1) 垂仁天皇の即位
 2) 崇神天皇の和風の諡号・御間城入彦と任那の関係
 3) 皇后狭穂姫と狭穂彦王の謀反
 4) 誉津別王と名代の関係
 5) ヤマト王権の「県」
 6) 垂仁天皇、帰化人を優遇
 7) 殉死の禁止と埴輪の関係
 8)垂仁天皇の灌漑池




 1)垂仁天皇の即位
 『日本書紀』の「垂仁天皇」の条
 「活目入彦五十挟茅天皇(いくめいりひこいさちのすめらみこと)は、御間城入彦五十瓊殖天皇第(みまきいりひこいにえのすめらみこと;崇神天皇)の第三子である。母の皇后は御間城姫(みまきひめ)で大彦命(孝元天皇の皇子)の娘である。
 垂仁天皇は、御間城天皇29年、春正月1日に瑞籬宮(みずかきのみや)で生まれた。生まれた時から立派な姿であった。
 壮年になると卓抜して大度となり、天性の純粋さに陰り無く、直し飾る必要がなかった。崇神天皇は愛されて、手許に置かれた。24歳、祥夢により、皇太子に立てられた。
 崇神天皇68年冬12月、御間城入彦五十瓊殖天皇が崩じた。
 元年春正月1日、皇太子は天皇に即位した。冬10月11日、御間城天皇を山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)に葬った。11月2日、皇后を尊んで皇太后と申し上げた。
  (10世紀に編纂された『延喜諸陵式』には「山辺道上陵は磯城瑞籬宮御宇崇神天皇、大和国城上郡に在り、兆域(墓場の堺;壇域)東西二町、南北二町、守戸一烟(東西約220m、南北220mくらいの墓所、墓守一戸)」とあり、それが行燈山古墳である。なお景行天皇陵の渋谷向山古墳も山辺道上陵と称している。)
 垂仁2年春2月9日に、狭穗姫(さほひめ;開化天皇の孫)を皇后に立てた。后は誉津別命(ほむつわけのみこと)を生んだ。天皇は皇子を愛され、常に側に置かれていた。だが、壮年になっても言葉が話せなかった。
 冬10月、更に纏向を都とした。これを珠城宮(たまきのみや)といった。この年、任那人、蘇那曷叱智(そなかしち)が「帰国したい」と願い出た。実は、先皇(さきのみかど)の御代に来朝して以来、未だ帰国していなかった。
 故に厚く蘇那曷叱智に賜与した。すなわち赤絹一百匹を持たせて任那の王(こきし)に賜った。しかし、新羅人が道を遮り奪った。この2国間の怨みが、初めてこの時に生じた」。
 「一書には、御間城天皇(崇神天皇)の代、額に角のある人が、一船に乗り、越国の笥飯浦(けひうら;敦賀郡気比神社)に停泊した。それ故、そこを角鹿(つるが)と名付けた。 『どこの国の人か』と尋ねると、『大伽耶国の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名は于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本国に聖皇がいると伝え聞き、ここに帰化した。
 穴門(あなと;長門の古名;山口県西南部)に着いた時、その国の人、伊都々比古(いとつひこ)と名のった人が臣に言うのには『我がここの国王だ。我を除いて王はいない、だから他所に往くな』と、しかしながら臣が、その人となりを見極めると、絶対に王ではないと分かった。直ぐに船を還したが、海路が分からず、島や浦を留まり続けて、北の海より、出雲国を経てここに回って来ました」と答えた。この時、たまたま天皇の薨去があり、そのまま留まって、活目天皇に仕えて3年に及んだ。
 垂仁天皇は、都怒我阿羅斯等に「汝の国へ帰りたいか」尋ねた。「切に望んでいます」と答え、天皇は阿羅斯等に詔して「汝が道に迷わず速やかに参上していたら、先皇に遇い仕えていたであろう。そこで、汝の本国の名を改めて、御間城天皇の御名を追贈する。汝の国名となせ」と命じた。
 赤織の絹を阿羅斯等に下賜し、本国へ返した。それ故、その国を彌摩那(ミマナ;任那)と呼ぶ由縁となった。
 阿羅斯等は給わった赤絹を、自分の国の郡の府(くら)にしまった。新羅人はこれを聞くと、起兵してやってきて、その赤絹全部を奪った。この二国は以後互いに怨むようになった」。



 2)崇神天皇の和風の諡号・御間城入彦と任那の関係
 垂仁天皇は、大伽耶国の王子の都怒我阿羅斯等を本国に返すにあたり、父の御間城天皇の御名を追贈した。
 この事を根拠に、崇神天皇の前身を「任那」王とし、海外からの征服者、北方系の騎馬民族の最初の統率者とする見解が、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」であった。
 その説は、当時、朝鮮半島南部にあった弁韓を支配した辰王が、騎馬民族出身であったという。『日本書紀』や『古事記』の編者が、それぞれ崇神天皇を、敢えて御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)、所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と記した事を根拠にする。さらに上記にある「任那」朝貢の記事を傍証とする。
 しかし、大きな成果をあげている現代の発掘調査からは、朝鮮半島南部の辰王が騎馬民族であったことや、4世紀の段階で騎馬が風習化していたという事まで確認できていない。しかも4世紀の古墳からは、大陸の墓制の影響による急激な転換が生じていた痕跡が見られない。その事はヤマトの前方後円墳にも通じることであった。既に、箸墓古墳の濠から鐙が出土しているが、朝鮮半島から馬と馬具、それに乗馬の風習が、本格的に流入したのは5世紀初頭である。「広開土王碑」から推測されるように、倭国や百済の歩兵軍が、高句麗の騎馬隊に蹂躙されたことが契機となったようだ。
 『日本書紀』の「任那」とは、加耶諸国の汎称として使われていたが、加耶は、一般に言われているように、朝鮮半島南部の小国群の呼称ではなく、実は、加耶小諸国群の一国である金官国の別称であった。
「広開土王碑」に、永楽10(400)年、新羅に進軍した高句麗軍が、新羅王都の倭軍を追い払い「任那加羅」まで追撃したと記している。

 また辰国は、どの時代に成立したのか、どの民族が創建したのかも不明とされている。中華を誇示しながらも多民族の流入を伴う戦乱を繰り返す大陸と遼東・沿海州地方からの移住を止める術がない朝鮮半島の性格上、今後も韓族のルーツを解明するのは困難だろうといわれている。史書に明確に記されるのは、朝鮮半島北部の衛氏朝鮮が出現した前漢初期だが、半島南部になると、『三国志』中の「魏書」に登場するまでは、中華王朝は、蛮夷の住む異郷とみて、その正史が詳細に記すことはなかった。

 4世紀前半、高句麗や鮮卑の圧迫を受けて扶余国は滅亡するが、一人の王子が逃れて、東扶余国を建てる。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れた後に、朝鮮半島南部に侵入し、馬韓を部分的に征服する。これが百済の建国であった。馬韓は農耕の民であった。侵掠した王族扶余氏一族が、騎馬民族であったに過ぎない。軍兵は歩兵であった。その南端の全羅南道は、以後も小国分立していた。
 記紀が崇神天皇を、敢えて「はつくにしらす」と書いたのは、ヤマト王権成立の史実を蔽い隠せない歴史的根拠が、その撰録・編纂当時、十分に認識されていたからだ。

 4世紀には馬韓の地から百済が、辰韓から新羅が興起し国家を形成した。弁辰は依然として小国分立で「加耶」と呼ばれていた。朝鮮半島の三国時代の始まりである。ただ百済や新羅にしても、その全域を統合するに至っていなかった。重要なことは、5世紀代になっても部分的に小国群が残っていた事実である。しかも、高句麗・百済・新羅の3国が激しく争うとみられるが、新羅は他の2国に圧迫される弱小国であった。そのため朝鮮半島南端部の全羅南道や弁韓は、侵掠されないまま閑却されていた。
 4世紀中頃にはヤマト政権が弁韓に進出し、任那(みまな:加耶の一部)を支配した。ヤマトの歴代王は倭本国以外に、この慕韓・秦韓・任那(倭王は金官国一国だけでなく加耶全体の領有を主張した)の領有と、それに百済と新羅地域の軍事権の承認を宋王朝に願った。それは高句麗支配地以外の半島南部の全域を含む軍事権の承認であった。
 『日本書紀』や『宋書』『梁書』などでは、『三国志』中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那はヤマト大王の韓半島南端の支配地域の呼称で、加羅諸国は倭に従属した小国家群で、倭の支配機関が現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府などを存続させていった。
 だがヤマトの王権が、高句麗支配地以外の韓半島南部の全域を、現実支配しているわけではない。この時期の百済や新羅は独立した国家であったが、高句麗の南下策の脅威もあって、馬韓に残存する小国群や加耶の小国群も含みヤマト王権の影響下にあった。
 「加耶」は、本来、朝鮮半島南部の慶尚南道を中心に、その周辺もある程度含んだ地域名であった。やがて新羅に併呑されたが、その範囲は時代により変わる。一般的には洛東江下流域が中心で、時には中流域まで及ぶこともあった。
 狭義の加耶は、たとえば六加耶などの特定の国を指す。ちなみに、六加耶とは、以下の国々をいう。
 『三国遺記』には、金官伽耶(きんかんかや;金海)・阿羅加耶(あらかや;咸安)・古寧加耶(こねいかや;咸昌)・大加耶(おおかや、だいかや;高霊;コリョン)・星山加耶(または碧珍加耶;星州)・小加耶(こかや;固城)の六加耶を、その他に、卓淳(とくじゅん;大邱)・非火(ひか;昌寧)・多羅(たら;陝川)、己(こもん;蟠岩・南原)・多沙(たざ;河東)などが加耶に含まれた。
 『日本書紀』の「任那」とは、加耶諸国の汎称として使われたが、加耶は、一般に言われているように、朝鮮半島南部の小国群の呼称ではなく、実は、加耶諸国の一国である金官国の別名にほかならない。金官国が、他の加耶諸国の盟主的存在であった時代であれば、その範囲内で影響力を行使したようだ。

 924年に慶尚南道の昌原の鳳林寺に建てられた「昌原鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑(しょうげんほうりんじしんきょうたいしほうげつりようくうとうひ)」には、「大師は諱(いみな)を審希(しんき)といい、俗姓は新金氏(しんきんし)、その先祖は任那の王族に連なる、・・・我が国に投ず」とある。「我が国に投ず」とは、532年に金官国最後の王金仇亥(きんきゅうがい)が、妃・長男の金奴宗・次男の金武徳・三男の金武力とともに新羅に投降したことをいう。この碑は、現在はソウルの景福宮内にある。
 『三国史記』の強首(きょうしゅ)伝にも「臣本任那加良人」という一文がある。韓国では良と耶は同音という、「任那加良」は「任那加耶」である。その他に、倭の五王が要求した都督諸軍事の称号の中に「任那」の2字が頻繁に入っている。
 「任那」という地域名は、『日本書紀』の独善による創始ではない。古来、朝鮮半島の一地域の呼称として厳存していた。



 3)皇后狭穂姫と狭穂彦王の謀反
 垂仁天皇は彦坐王(ひこいますのみこ;開化天皇の皇子)の娘の狭穂姫を皇后に立てていたが、4年秋9月に、皇后の兄の狭穂彦王(さほびこのみこ)が謀反を企てた。天皇は近くの県(あがた)の兵士を招集し、上毛野君の遠祖の八綱田(やつなだ)に撃たせた。狭穂彦王も挙兵し即座に頴稲(えいとう;穂首で刈り取った稲穂が付いた状態の稲)を積んで堅固な城(き)を作った。これを稲城(いなき)という。天皇は包囲軍を増強し完全包囲させた。八綱田は稲城に火を放った。皇后と狭穂彦王は焼死した。
 『日本書紀』垂仁天皇「4年秋9月23日、皇后の同母兄の狭穂彦王は、謀反して社稷を冒そうとした。皇后が燕居(えんきょ;家でくつろぐ)する様子をみて『汝は兄と夫のいずれを愛しているか』と話しかけると、皇后はその問いかけの真意を知らぬまま、気軽に『兄の方です』と答えた。
 それに乗じるように皇后に『容姿で人に仕えれば、それが衰えると寵愛が緩む。今や天下には多く佳人がいる。それぞれが順次寵愛を求めて進み出るため、永く自らの容姿に頼ってはいられなくなる。
 そのため、我が天皇の位に登ることを切望した。必ず汝と共に、天下に君臨し、高枕して永く百年を過ごせるようにしたい。不快ではあろうが、我がために天皇を弑逆して欲しい』と頼み、匕首を取り、皇后に託し『この匕首を衣の中に佩びて、天皇の寝所で、首を刺して弑殺せよ』と言った。
 皇后はここに至って、心中恐れ戦(おのの)いたが、対処する術を知らなかった。然し兄王の志となれば、簡単に諌められず、その匕首を受け取った。
 所蔵もできず着衣の中に秘めたが、やがて兄の気持ちを諌める気でいた。

 5年冬10月1日、天皇は、来目(橿原市久米町)に行幸し高宮(行宮)に居た時、皇后の膝を枕にして昼寝をした。ここで、皇后は、事を成し遂げることも出来ないまま、虚ろに『兄王の謀りごとは、この時であれば適えられる』と思うと、涙が流れて帝の顔に落ちた。天皇はうつらうつらしながら、皇后に『朕は今夢を見た。錦色(きんしょく;模様が美しい色)の小さな蛇が、朕の首にまとい付いた。また大雨が狭穗(奈良市法蓮町辺り)から降って来て顔を濡らした。これは何の兆か』と問う。
 皇后は、もはや謀略は隠しきれずと知り、恐懼し地に伏せ、兄王の反逆を詳しく奏上した。
 『私は、兄王の志に違うことができません。また天皇の恩にも背けません。告白すれば兄王を亡くし、言わねば社稷を傾けます。それで、恐れたり悲しんだりして、日々咽び泣き、遂には進退が窮まって血涙を流しました。日夜怏怏とするばかりで哀訴することもできません。
 ただ今日ここで、天皇が私の膝を枕にして休まれました。ここで、私は一度思ったことは、若し狂女であれば、兄の志を成就される好機で、労せず成功するかなと、その思いに浸っていると、なぜか涙が自然と流れ、袖で涙を拭きましたが、その袖から涙がこぼれ帝の顔を濡らしました。
 今日の夢は、この事に相応し、錦色の小蛇は私が授かった匕首で、大雨が忽然と降ったのは、私の涙でした』と言った。

 天皇は皇后に『これは汝の罪ではない』と告げ、直ちに近くの県(あがた)の兵卒を発して、上毛野君の遠祖八綱田(やつなだ)に命じ、狭穗彦を攻撃させた。狭穗彦も、挙兵して抗戦した。直ちに穎稲を積み上げて城(き)を作った。
 堅固で破れず、これを稲城という。月を越えても降らなかった。皇后は悲しみ『私が皇后であっても、兄王が亡くなってしまえば、なんの面目で、天下に臨めようか』と言われ、王子誉津別命を抱いて、兄王の稲城に入った。天皇は更に軍勢を増やし、その城の周囲を遺漏なく囲み、城中に勅して『急いで皇后と皇子を出すよう』にと命じたが出て来なかった。
 将軍八綱田は、その城に火を放ち焼いた。ここで皇后は皇子を抱いて、城の上を越えて出て来た。そして奏請して『私が兄の城に逃げ込んだ時には、若し私と我が子により兄の罪が免れればなとおもいました。今となっては適いません。私も有罪です。それでも面縛されたくありません。自剄して死ぬのみ、ただ私が死んだとしても、天皇の恩は決して忘れません。
 願うことは、私が所掌した后宮の事を、好い後添いに授けることです。丹波国に5人の婦人がいます。心がみな貞潔です。丹波道主王(たにはのみちぬしのみこ)の娘です。道主王は、稚日本根子太日々天皇(わかやまとねこふとひひ;開化)の子孫、彦坐王の子です(一書には、彦湯産隅王(ひこゆむすみ)の子とある)。掖庭(うちつみや;皇妃,宮女などの居住する宮)に召し入れ、后宮の数を満たして下さい』と願った。
 天皇は聞き入れた。その時、火興り城が崩れ、軍兵悉く敗走した。狭穗彦と妹は共に城中で死んだ。天皇は、将軍八綱田の功を美(ほ)めて、倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)と名付けた」。



 4)誉津別王と名代の関係
 誉津別王(ほむつわけのみこ)は垂仁天皇の第一皇子で、母は皇后の狭穂姫命であった。皇后は、その兄の狭穂彦王の謀反に加担し焼死した。天皇が謀反とはいえ妻を殺したわけである。御子にとって、自分の母親を殺したのが父親の天皇であれば、その心理的な葛藤は大きかった。
 垂仁23年秋9月2日、群卿(まえつきみたち)に詔して「誉津別王は、既に生年30歳、髯は八掬(やつか;掬はこぶしの幅)に伸びている。それなのに赤子のように泣くばかりで、言葉を発する事がないのは何故なのか。役人で議(はか)ってくれ」といった。
 「冬10月8日、天皇は大殿の前にたった。誉津別皇子が侍っていた。その時、鳴きながら白鳥が大空を渡った。皇子は白鳥を仰ぎ見て『あれは何か』といった。天皇は皇子が白鳥を見て言ったのを知り喜ばれ、近侍に詔して『誰かこの鳥を捕えて献上せよ』と、それで、鳥取造の租の天湯河板挙(あまのゆかわたな)が奏上して『臣が必ず捕え献上します』と、天皇は湯河板挙に勅して『汝がこの鳥を献上したら、必ず厚く賞する』といった。湯河板挙は、白鳥が飛んでいった方を遠望して、追い尋ねて出雲まで行き捕獲した。異伝では、それは但馬国という。
 11月2日、湯河板挙が白鳥を献じた。誉津別命は、この白鳥をもてあそび、遂に話せるようになった。これにより、厚く湯河板挙を賞し、姓を賜い鳥取造(ととりのみやつこ)という。また鳥取部・鳥養部(とりかいべ)・誉津部(ほむつべ)を定めた」
 垂仁天皇は、誉津別命の経済基盤の一つとして、因幡国の国内に誉津部という御名代を置いた。
 古事記によると、太占(ふとまに;鹿の肩甲骨を焼き、骨のひび割れの形によって吉凶を判断する)で占ってみると、出雲大神の祟りであることがわかった。それで御子が詣でるに当たり、占いにしたがって曙立王(あけたつのみこ)を副わせることにした。
 その男がいろいろと誓約(うけい)を試みてみると、ことごとく誓約どおりに物事が起こった。そこで、曙立王と菟上王(うなかみのみこ)をお伴にして紀伊国に通じる木戸から出て出雲へ旅立ち、赴く所ごとに品遅部(ほむちべ;誉津部)を定めた。皇子、出雲大神を拝みに、ヤマトから出向かれる時、到る所に誉津部を置いたようだ。
 『和名類聚抄』の因幡国邑美郡(おうみ)の五郷の一つに鳥取郷がある。この郷名も屯倉として設置された鳥取部に由来する。
 垂仁天皇「27年秋8月7日、祠官に兵器を神幣とすることを占わせた。吉とでた。それで、弓矢と横刀(たち)を諸神の社に納めた。さらに神地(かんどころ;神の料田)・神戸(かんべ;神社の民戸)を定め、時季ごとに祀らせた。兵器を神祇に祀るのは、この時から興った。この年、来目邑(橿原市久米町辺)に屯倉を興した」
 鳥取造は、誉津別命が話すきっかけとなった白鳥を捕獲したことから、垂仁天皇から賜与された姓で、屯倉を現地で管掌する田令(たつかい)としての姓といえる。
 鳥養部は鳥の飼育を職として朝廷に仕えていた品部(とものみやつこ)であった。品部には、ヤマト朝廷に直属した手工業者とその他の技術者集団や、朝廷で労役に従事する者と特定の産物を貢納する者とがあった。いずれも「品部」といった。「品」は「しなじな」、即ち「諸々」の意である。「部」の制度自体、大和朝廷の官司の伴を中心に編成された。特に古くから編成された内廷的な伴は、豪族の一族が担い、その伴に貢納する民も含まれていた。
 朝廷・中央豪族の私有民が部で、朝廷の私有民は「田部」といい、豪族のそれは「部曲」といい、集団ごとに豪族名・地名・職能名をつけ、伴造に率いられて朝廷に仕えた。



 5)ヤマト王権の「県」
 磯城に水垣宮(みずがきのみや)を置いた崇神天皇を「みまきのいりひこ」といい、同じく磯城の玉垣宮(たまきのみや)に朝廷を置いた垂仁天皇は「いくめいりひこ」とあるように、「いり」の辞は、崇神・垂仁天皇の代を中心に、崇神天皇の王統に繋がる者に多い。いずれも三輪山塊周辺で即位した王朝の系譜であれば、三輪の王権は、三輪祭祀権を新たに掌握した朝廷であったとみられる。
 卑弥呼と台与の女王2代、神祀りをする女王と、政治を行う男弟との共治であったが、新たな崇神王朝の体制では、神祀りの機能まで男王のもとに包摂されるようになった。
 「いり」の原義は神代の巻にある。『日本書紀』の「神武即位前紀」にある初代神武天皇の兄である三毛入野命(みけいりののみこと)や、神功皇后の条にある事代主神(ことしろぬしのかみ)の別名は「たまくしいりひこ」である。
 ヤマトに入来する穀霊の神格化が「みけいりののみこと」であり、ヤマトに入来する事代主神の神霊が「たまくしいりひこ」である。事代主神は、出雲の大国主の子とされているが、元々は葛城の田の神で、「事代」は「言知る」の意で、一言主の神格の一部を引き継ぐ、託宣を司る大和の神であった。国譲り神話の中で出雲の神とされるようになった。
 「敏達天皇10(549)年春潤2月、蝦夷数千人が辺境に危害を加えた。これにより、その首領の綾糟(あやかす)らを召して(首領は、大毛人(おおえみし)である)、詔して『考えてみれば、汝ら蝦夷は、大足彦天皇(おおたらしひこ;景行天皇)の世に、殺すべき者は斬り、慎む者は赦した。今、朕はその前例に従い、元凶を誅殺した』。
 これで、綾糟らは、おどおどと恐懼し、泊瀬川の中流に下りて、三諸岳(みもろのおか;三輪山)に面して、水で漱いで盟(ちか)い『臣ら蝦夷は、今からは子々孫々(古語では、生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)という)、清明の心を用い、宮門に仕え奉ります。臣らが若し違盟すれば、天地諸神及び天皇霊は、臣の種族を絶滅させるでしょう』といった」
 敏達天皇の時代になると、天皇霊が三輪山の御神体を仮託する迄になっていた。
 崇神天皇が三輪の地に入来した伝承を、「いり」の辞が語っていた。4世紀前半の伝承や考古学上の研究成果により、三輪王権は、三輪の地に入り新たな大王となり、磯城地域を中心とするヤマトの統合を重要な政治課題とした。
 神武天皇の次代にあたる綏靖天皇(すいぜい)から崇神天皇の前代にあたる開化天皇の時代を闕史時代と言うが、考古学を学ぶものとして残念なのは、綏靖天皇の前王にあたる初代神武天皇自体、考古学的な調査によるも、その事績をたどれない。
 しかしながら、その闕史時代に、記紀の王室に登場する后妃の多くが、後世のヤマトの県主が祖先とする系譜に属していた。「神武紀、神武東征伝」において「兄磯城(えしき)」「弟磯城(おとしき)」として初出するが、記紀に登場する最初の古代豪族の1つである。闕史八代には事績の記載はないが、『日本書紀』では磯城県主の祖女と明記する后妃は、7例(古事記は3例)もある。十市県主祖女は、2例(記は1例)。春日県主祖女は、2例(記は1例)となっている。
 元々ヤマト(三輪山西麓)の在地豪族で、大王家誕生の際に、重要な役割を果たしようだ。それによりヤマト大王家の姻族となり、磯城地域を中心とするヤマトの統合に重要な功績を果した。
 『日本書紀』には丹波大県主の1例が載る。丹波国は、より古代に遡ると、その領域は曖昧に広がる。本貫地の丹後、それに但馬、若狭、さらに山城や摂津の一部までも含んでいたようだ。広大であるが山間部が殆どで、それほど広くもない小盆地が飛び飛びにある。
 また三輪山の麓、天理市には丹波市町(たんばいちちょう)があった。丹波市町は、昭和29(1,954)年まで、奈良県山辺郡にあった町で、現在の天理市中心部から東の山間部にかけての一帯にあたる。山辺郡の郡衙の所在地でもあった。
 『日本書紀』には崇神天皇10年9月「大彦命を以て北陸に遣し、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣し 吉備津彦を西海に遣し 丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)を丹波に遺したまう。よって詔して日く 若し教(のり)を受けざる者あらば 乃ち兵を挙げて伐て」とある。いわゆる四道将軍が派遣された記事である。丹波道主命は第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父である。
 開化天皇の妃竹野媛(たかのひめ)は、丹波の大県主の由碁理(ゆごり)の娘である。その時代の大県主は、大和の以外では丹波と河内の志幾大県主とがあるだけであり、皇妃を出している多くが大和の県主であった。他には丹波の大県主のみである。後に丹波の国名ができるが、県主の名がそのまま国名と採用されるのは、丹波と対馬しかない。
 『日本書紀』には「冬10月、更に纏向を都とした。これを珠城宮(たまきのみや)といった。この年、任那人、蘇那曷叱智(そなかしち)が『帰国したい』と願った。というのも、先皇(さきのみかど)の御代に来朝して以来、未だ帰国していなかったためである。故に厚く蘇那曷叱智に賜与した。すなわち赤絹一百匹を持たせて任那の王(こきし)に賜った。しかし、新羅人が道を遮り奪った。この2国間の怨みが、はじめてこの時に生じた」。
 「一書には、御間城天皇(崇神天皇)の代、額に角のある人が、船に乗り、越国の笥飯浦(けひうら;敦賀郡気比神社)に停泊した。それ故、そこを角鹿(つるが)と名付けた。
 『どこの国の人か』と尋ねると『大伽耶国の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)、またの名は于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)という。日本国に聖皇がいると伝え聞き、ここに帰化したい』」とある。敦賀や若狭は、ヤマト政権の初期から、朝鮮半島との外交・通商の中継地で、琵琶湖を漕ぎ渡りし、淀川を下り、当時河内で合流していた大和川を遡上し磯城ヤマトに至っていた。
 初期のヤマト王権は、畿内のヤマト内部に、後世「御県(みあがた)」と呼ばれる朝廷の直轄領を配置していった。古文献にしばしば載る「倭の六御県(やまとのむつのみあがた)」がそれで、磯城・十市・高市・葛城・山辺・曾布(そふ;開化天皇紀にあり、後世、2つに分けられ添上郡・添下郡となった)を通常呼んでいる。「県」は国造の「国」より古く、ヤマト王権初期から配置された直轄領で、その密度が最も高いのが畿内ヤマトであった。
 『延喜式』巻8の祈年祭の「六御県」の祝詞にあるとうに甘菜(あまな;アマドコロの古名)・辛菜(からな;辛みのある野菜の総称)・酒・水などの貢献地が「県」となり、当時の王領を観察する首長が「県主」に任じられていた。やがて「県」の農民は王民化した。
 特に三輪王権の本拠地である磯城県主家の祖先となる后妃が、特に多いのは、磯城地方の首長らを服属させ、三輪山の祭祀権を掌握すると、そこに磯城御県を置き、それぞれに御県神社を祭らせ王領とした。しだいに十市・高市・葛城・山辺・曾布にも拡大し県主家の系譜を継がせ、その地域にあった奉斎神を御県神になおさせ、祭政を伴う王権を拡充させた。
 崇神天皇紀に記されるように、新たな貢納物を収奪する体制を拡大させ、男には弓端の調(ゆはずのみつぎ;弓矢で獲った獣皮など)、女には手末の調(たなすえのみつぎ;織物・糸のみつぎ)の貢進が要求された。



 6)垂仁天皇、帰化人を優遇
 「3年春3月、新羅の王の子、天日槍(あめのひほこ)が渡来した。持って来た物は、羽太(はふと)の玉一箇・足高(あしたか)の玉一箇・鵜鹿々(うかか)の赤石玉一箇・出石(いずし)の小刀一口・出石の桙(ほこ)一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろき)一具、合わせて7つの物を但馬国に納め、長く神物とした。
 一説には、初め天日槍は、艇(はしぶね)に乗ると、播磨国に停泊し、宍粟邑(しさわのむら;宍粟郡;しそうぐん)に停泊した。
 時の天皇が、三輪君の祖大友主(おおともぬし)と倭直の祖長尾市(ながおち)を播磨に遣わし天日槍に尋ねさせた。「汝は誰なのか、そしてどこの国の者か」と、天日槍は答えて「僕(やつこ)は、新羅国の主の子です。日本国に聖皇(ひじりのきみ)がおられると聞き、自分の国を弟の知古(ちこ)に授け参りました。
 それで貢献物は、葉細(はほそ)の珠・足高の珠・鵜鹿々の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日鏡・熊の神籬・胆狭浅(いささ)の大刀と合わせて八つの物があります。そこで天日槍に詔があり「播磨国宍粟邑、淡路島出浅邑(いでさのむら)、この2つ邑を、汝の意のままに居住せよ」という。その時、天日槍は謹んで「臣(やつかれ)が住む所は、若し垂天恩(あめのみめぐみ)を垂れて臣の情(こころ)からの願いお聞きいただけるならば、臣親(みずか)ら諸国(もろもろのくに)を巡り見て、臣の心に適う地を賜りとうございます」と申し上げた。これが聞き入れられて、天日槍は、菟道河(うじがわ)より遡って、北の近江国吾名邑(あなのむら;滋賀県米原市箕浦付近)に入って暫く住んだ。更に近江より若狭国を経て、西の但馬国に至り住居を定めた。
 近江国の鏡村(鏡宿に須恵の地名が残る)の谷間の陶人(すえびと)は、天日槍に従った人々であった。天日槍は、但馬国の出嶋(いずし;兵庫県豊岡市出石)の人、太耳(ふとみみ)の娘麻多烏(またを)を娶って、但馬諸助(たちまもろすく)を生んだ。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生み、日楢杵は清彦を生み、清彦は田道間守(たじまもり)を生んだ」
 「88年秋7月10日、群卿に詔して『朕は、新羅の王子天日槍が、初めて渡来した時に将来した宝物が、今、但馬にあると聞く。元より国の人から貴ばれ、神宝とされていた。朕はその宝物を見たい』と仰せがあり、その日に、使者が遣わされ、天日槍の曽孫清彦に詔して献上させた。
 清彦は勅命により、自から神宝を捧げ献上した。羽太(はふと)の玉一箇・足高(あしたか)の玉一箇・鵜鹿々(うかか)の赤石玉一箇・出石の桙(ほこ)一枝・日鏡一面・熊の神籬(ひもろき)一具、ただ小刀一つ、名を出石(いずし)という、清彦は、簡単にその刀子は献上できないとして、袍(ころも)の中に隠して自分で佩びた。天皇は、小刀を隠したわけが分からず、清彦を持て成そうと、お召しになって御所で酒(みき)を賜った。時に、刀子が袍の中より出て、天皇がこれを見た。みずから清彦に問い『汝の袍の中の刀子は、どういうわけである』と、もはや清彦は、刀子を隠しえず、はっきりと『献上した神宝の類です』と申し上げた。天皇は清彦に『その刀子は、どうしても他の神宝と別にはできない』と仰せられ、清彦は刀子を外し献上した。皆、神府(みくら)に収めた。
 (鎌倉時代末期の文永11(1,274)年~正安3(1301)年頃に成立したと推定される、卜部兼方による『日本書紀』の注釈書『釈日本紀』の「述義」に「天皇曰、八十八年秋七月己酉朔戊午。詔覧新羅王子天日槍所来献神宝。使蔵石上神宮」とある。従って「神府」とは、物部氏が管理する石上神社にある「神庫;ほくら」を指す。以下にある「宝府」も同じ場所と言える。
 また崇神天皇「60年秋7月14日に、群臣に詔して『武日照命が天よりもたらした神宝が、出雲大神の宮に蔵されている。それを見てみたい』。それで矢田部造の遠祖武諸隅を遣わした献上させた。
 当時、出雲臣の遠祖出雲振根が、神宝を主管していたが、この時、筑紫国に出かけていて会えなかった。その弟飯入根が、皇命を受けて、神宝を弟の甘美韓日狹と子の濡渟に持たせて貢上した。」とある)。
 しかし、その後、宝府を開けてみると、小刀が自ずと失せていた。直ちに清彦に人を遣り尋ねた。「汝が献じた刀子が忽然と消えた。若しや汝の所に戻っていないか」と、清彦は答えて「昨夕、刀子が自ずと臣の家にやって来た。ところが今朝には失せていました」という。天皇はこれにより慎まれ、更に求めるようなことはしなかった。
 この後、出石の刀子は、自ずと淡路島に至り、島人は、神とおもい刀子のために祠を立てた。これは今でも祀られている」。
 (垂仁天皇は、3年春3月、新羅の王の子、天日槍が渡来した時、「播磨国宍粟邑、淡路島出浅邑、この2つ邑を、汝の意のままに居住せよ」と下賜していた。)
 「昔、一人で小舟に乗って但馬国に停泊した。それで尋ねて『汝はどこの国の人か』と聞くと、『新羅の王子、名は天日槍という』と答え、そのまま但馬に留まった。その国の前津耳(めつみみ;一説では太耳)の娘麻能烏(またのお)を娶り、但馬諸助を生んだ。これが清彦の祖父である」。

 「90年春2月庚子(かのえね)朔、天皇は田道間守(清彦の子)に命じて、常世国(とこよのくに)へ遣わし、非時(ときじく)の香菓(かくのみ)を求めさせた。今でいう橘がこれである」。
 (雄略天皇22年7月の条に、「蓬莱山」に「とこよのくに」の傍訓がある。「応神紀」に、同様な内容で「登岐士玖(非時)能迦玖能木実」とあり、「非時」は時を定めず、「四時」にあたれという意。また「四時(しいじ;しじ)」とは、春夏秋冬の四季、又は、1か月中の四つの時、晦(かい)・朔(さく)・弦・望の意。
 天平8(736)年11月11日の条に「天皇、誉忠誠之至。賜浮杯之橘。勅曰。橘者、果子之長上。人之所好。柯凌霜雪而繁茂。葉経寒暑而不彫。与珠玉共競光。交金銀以逾美。是以、汝姓者、賜橘宿禰也」とあり、「橘」を「最上の木の実で、人々は好んでいる。柯(枝)は霜雪を凌ぎ繁茂し、葉は寒暑にあっても凋まず。輝きは珠玉とも競うほどで、金銀の中にあっても、まして美しい」)。
 「99年秋7月戊午(つちのえうま)朔、天皇は纏向宮で崩じられた。時に年140歳。冬12月10日、菅原伏見陵に葬り申し上げた」。
 垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)は、磯城郡にあって、磐余地域とともに狭義のヤマトにあった。菅原伏見陵は、奈良市尼辻西町にあり、唐招提寺の西北にある前方後円墳、墳長227m。
 「明年春3月12日、田道間守が常世国より戻って来た。その時に持ち帰ったものは、非時の香菓の八竿八縵(やほこやかげ)であった。田道間守は、ここに至って、泣いて悲歎して『命を天朝(みかど)より承け賜り、遠く絶域に往き、万里の波濤を越えて、遠く遥かな河川を渡った。そこの常世国は神仙が隠れた所で、俗人には到達できない。そのため、行交う間に、自ずと10年が経ってしまった。思えば、どうして独り高い大波を凌ぎ、再び本土へ向かうことができたのか。けれども、聖帝の神霊により、どうにか帰って来られました。今、天皇が既に崩じ、復命ができないとあれば、臣が生きていても、なんの益がありましょう』。
 それから天皇の陵へ向かい、叫哭して自死した。群臣はそれを聞き、皆涙を流した。田道間守は、三宅連の始祖である」。
 八竿八縵は、橘の実を串刺しの団子のように竿(竹串)に刺し、干し柿のように縵(蔓)に吊るした形状をいう。
 『新撰姓氏録』の「摂津諸蕃」に「三宅連、新羅国王子天日桙命之後也」とあり、同族に橘守・糸井造がある。



 7)殉死の禁止と埴輪の関係
 「(垂仁天皇)28年冬10月5日、天皇の母の弟倭彦命(やまとひこのみこと)が薨じた。
 11月2日、倭彦命を身狭(みさ;橿原市見瀬町)の桃花鳥坂(つきさか)に葬った。このため、近習が集められ、悉く陵域に生きたまま埋め立てられた。数日、死なないまま、昼夜、泣き呻いた。遂に死ぬと腐乱して臭った。犬や烏が集まり食んだ。天皇はこの泣哭の声を聞き、心の悲傷となった。群卿に詔して『近習が生前に愛(めぐ)みがあったにしても亡者に殉(したが)わさせるのは、甚だいたいたしい。古くからの風習とはいえ、よくない事であれば従わず、今後は、殉わぬよう議(はか)れ』と仰せられた。

 30年春正月6日、天皇は兄の五十瓊敷命(いにしきのみこと)と弟大足彦尊(おおたらしひこのみこと;次代の景行天皇)に詔して「汝ら各々が、お願いしたい物を申せ」と仰せになると、兄の王が「弓矢が欲しいです」と申し、弟の王は「皇位が欲しいです」と申された。
 それで、天皇は詔して「各々が望むようにしよう」と、五十瓊敷命に弓矢を賜い、よって大足彦尊に詔して「汝は必ず朕の位を継げ」と仰せられた。

 32年秋7月6日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと;一説には、日葉酢根命)が薨じた(『日本書紀』はなぜか、崩と記さない)。その葬にあたり日数に余裕があった。天皇は群卿に詔して『殉死の風習に従うのは、その前例からよくないと分かった。今度の葬礼は、どうしたらよいか』と仰せられた。
 時に、野見宿禰が進み出て『その君王の陵墓に、生きた人を立てて埋めるのは、よいはずはなく、後世に伝えてはなりません。願わくは、今、直ちに適切な方策を議(はか)り、奏上いたします』。
 直ぐに使者を遣わし、出雲国の土部(はじべ)を百人召して、自からの土部らも使い、埴(はにつち;赤い粘土)を取り、人・馬及び種々諸物などを造形し、天皇に献上した。『今後は、この土物(はに)で生きた人に代えて陵墓に立て、後世の法則(のり)といたします』と申し上げた。
 天皇は、大いに喜ばれ、野見宿禰に詔して『汝の方便は、まさに朕の心に適う』といわれ、初めて土物を日葉酢媛命の墓に立てた。その土物を埴輪と名付け、または立物とも称した。よって命が下され『今後、陵墓には必ずこの土物を立てよ。人を痛めてはならない』といわれた。天皇は、野見宿禰の功を厚く賞し、さらに鍛地(かたしところ;製造地)を賜った。そして土部(はじ)の職に任じ、それにより本姓を土部臣(はじのおみ)と改めた。
 これが土部連らが、主に天皇の喪葬(みはぶり;そうそう)を司る由縁である。こうして野見宿禰が、土部連らの始祖となった」。
 「土部」は陵墓の埴輪作りから、転じて葬礼に預かる伴部となり、その管掌者を「土師連」といい、その部民を「土師部」ともいった。
 『続日本紀』「天応元年6月の条」に「出雲国土師部300余人」とある。
 埴輪の起源は、弥生時代後期後葉の吉備地方の首長墓と考えられている楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)から出土する特殊器台型土器・特殊壺型土器が初源とされている。その埴輪は、畿内では、6世紀後半に前方後円墳の終焉にともない消滅した。
 『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が、日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに、人馬をかたどる埴輪を立てることを提案した。これを埴輪の起源とまではいっていない。重要なことは、垂仁天皇が「殉死」の儀礼を廃止したことにある。

 「34年春3月2日、天皇は山背に行幸された。その時、側近が奏言し、この国に佳人がおり綺戸辺(かにはたとべ)と申します。容姿が美麗で、山背大国の不遅(ふち)の娘です。天皇は、そこで矛を執り祈請(うけい)をされて『必ずその佳人に遇えるとなれば、道中、瑞兆が現れよう』と申された。行宮近くで、大亀が河中から出てきた。天皇は矛を挙げて刺した。大亀は忽然と白石に化した。側近に『これにより、必ず霊験があると推測されます』と語り、綺戸辺を召して後宮に入れた。磐衝別命(いわつくわけのみこと)を生み、これが三尾君の始祖であった。
 これより前に、山背の苅幡戸辺を娶り、3人の男を生み、第一を祖別命(おおじわけのみこと)、第二を五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)、第三を胆武別命(いたけるわけのみこと)といった。五十日足彦命の子が石田君の始祖であった」。
 『和名類聚抄』に「以錦而薄者也加無波太(かにはた)」とある。
 『古事記』には「山代大国之淵」とあり、「大国」は山城国宇治郡大国郷とみられが、遺称地がなく、音羽・大塚・大宅・椥辻(なぎつじ)と見る説と石田・日野・醍醐方面とする説があり、後者が有力といわれている。
 「三尾君」は近江国高島郡三尾郷(高島市今津)が本拠である。



 8)垂仁天皇の灌漑池
 「35年秋九月、息子の五十瓊敷命を河内国へ遣わし、高石池(たかしのいけ)と茅渟池(ちぬのいけ)を作らせた。冬10月には、倭の狭城池(さきのいけ)及び迹見池(とみのいけ)を作った。この年、諸国に命じ多くの池溝を開削し、その数8百余り、農事のためである。これにより、百姓(おおみたから)は、富み豊かになり天下は太平となった。 37年春正月、大足彦尊を立て、皇太子とした」。
 高石池は、大阪府南西部、大阪湾岸の大阪府高石市。
 茅渟池は、大阪湾岸の大阪府泉佐野市にあった。高石市の南にあたる。『和泉志』に「珍努池は日根郡野々村西に在り、広さは330畝(せ)。相伝するは、五十瓊敷命が鑿(うが)つ所、今は布池という」。
 五十瓊敷命が、(垂仁)39年冬10月に、剣1千口を作ったという茅渟の菟砥の川上宮(うとのかはかみのみや)にある「菟砥」とは、泉佐野市の南、同じ大阪湾岸にあたる阪南市尾崎町に菟砥橋(うどばし)に名が遺っている。
 狭城池は、奈良市佐紀町にあった。奈良丘陵の南西斜面に佐紀盾列古墳群(さきたてなみこふんぐん)があり、後に大和国添上郡となった佐保川西岸・佐紀の地に所在する。佐紀盾列古墳群にある五社神古墳が、なぜか神功皇后の治定陵とされているが、佐紀石塚山古墳が成務天皇の治定陵、佐紀高塚古墳が称徳天皇(孝謙天皇)陵と伝承、市庭古墳が平城天皇の治定陵とされるなど、多くの古墳がある。
 『大和志』に「添下郡(そえじもぐん)狭城盾列池は、常福寺村に在り、広さ1千2百余畝、一名西池、又の名水上池」とある。日葉酢媛命の陵も、その傍らにある。
 迹見池は、大和郡山市池ノ内町にあり、『大和志』に「添下郡池内村」にある。『行基年譜』の天平3年条に「大和国添下郡登美村」とあり、『延喜神名式』に「登弥神社」が記されている。