古事記は偽書にあらず Top 車山高原 諏訪の歴史散歩 車山日記 |
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1)古事記の原点 現代では、近代科学で説明できるが、古代では風雨・雷・地震・山火事や太陽の変容などの自然現象を惹き起こし、また、あらゆる生物・無生物、その他の事物に宿り、そこに出入りし、あるいは空中に浮遊するみられた超自然的存在を、精霊として意識した。人間の生死に関しても霊魂が関わるとした。いわば、人間をとりまく自然現象すべてを、精霊崇拝(アニミズム)によって説明づけようとした。 古代の日本人も、自然の摂理を精霊のはたらきで説明しようとした。日本神話に出てくる神々も、有力な精霊に他ならない。 縄文時代の精霊や霊魂崇拝が、弥生時代になると人間の霊を自然物に宿る精霊の上位に置く祖霊信仰が有力になり、邪馬台国王権が誕生すると、王家や有力豪族の祖先を、特別なものとして尊崇する首長霊信仰が登場する。 現代の神道は、精霊崇拝を基本に祖霊信仰や首長霊信仰をとりこんでいるが、現世利益に拘泥するあまり混沌としている。 『古事記』の書き出しは 「天地(あめつち)初めて発(おこ)りし時、高天の原に成りませる神の名は、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)」とあり、日本の天地創造は、まずこの神があらわれ、次に夫婦の神が、どろどろした混沌の世界から日本列島をつくり上げた。 前漢の武帝の時代、淮南王(わいなんおう)劉安(紀元前179年~紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書『淮南子(えなんじ)』の俶真訓(しゅくしんくん)に記される「天地未開未不判、陰陽不判」を典拠にしている『日本書紀』は 「古(いにしえ)に、天地は未だ分かれず、陰なるものと陽なるもが分かれていなかった。すべてが卵のようにどろどろして渾沌としていたが、陰陽をうみ出す溟涬(ほのか)な牙(きざし)はあった。その清くて陽なるものは、薄靡(たなび)いて天となり、重く濁ったものは、固まり沈んで地となった」と天地の起こりを説明する。 『淮南子』には、思想・哲学・地理・天文・兵法・説話集など幅広い記述があるが、儒家・法家思想などを取り入れながらも、圧倒的に老荘思想によって展開されている書物であった。6世紀はじめに渡来人により日本列島に伝来したとみられる。 7世紀末の天武天皇は陰陽五行説を重んじ、それを研究する陰陽寮を置いた。そのため記紀の編纂過程では、その学説に大きく影響されていた。 『古事記』の序文の冒頭に「臣安万呂(しんやすまろ;太安万侶)が申す。そもそも、天地万物の根元は、混沌として既に固まっていた。万物の生命のきざしと形も現われていなかった。名もなく何事も生ぜず、誰がその形を知り得たであろうか。やがて、天と地とが初めて分かれ、天御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神の三神(みはしらのかみ)が天地創造の初めをなし、陰陽がここに開け、伊邪那岐・伊邪那美の二神(ふたはしらのかみ)が万物の祖神(おやがみ)となった」とあるように、陰陽五行説に頼らなければ、日本神話の天地の起こりを説明できなかったようだ。 『古事記』は造化三神(むすびのみはしら)として、天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日尊(たかみむすびのかみ)・神御産巣日尊(かみむすびのかみ)を登場させた。 伊邪那岐・伊邪那美の二柱の神は、神々から「この漂える国を治め固めよ」と命じられ、沼矛(ぬぼこ)を天から下ろして塩を固めた島の上に、日本列島の島々を生んだ。こうして日本神話が編まれる前置きとして整えられた。 本来、古代から伝承されていたのは、大国主命神話であった。大国主命信仰は、古代の先進地であった出雲で発祥し、やがてヤマト王権に受け入れられ三輪山の神祀りとなった。おそらくは雄略天皇紀の6世紀はじめ以降、三輪山の神の上に、王家の祖神として天照大神を置き、それを権威づけるため高天原神話が創作されたとみられる。 大王家は三輪山の祭祀を司る家系を出自としていたが、時代が下るにつれ大神を斎く司祭から疎遠になっていった。ヤマト王権が、広く畿内(きだい)の国々を王化するにつれ、三輪山信仰は維持しながらも、その農耕神としての「水神」「山神」である大神を、遥かに凌駕する天照らす太陽神を創始したようだ。三輪山の真東にあたる三重県多気郡明和町斎宮(さいくう)の地に、伊勢神宮で「日の巫女」が斎き祀る「天照大神」が住まう斎宮(いつきのみや)を構えた。 『律令』の官撰注釈書である『令義解(りょうのぎげ)』で、「天より降りなされし神、地になり顕れし祇」(跡記)とあるように、「天神地祇」として区別する。「神祇令義解」には「天神(てんしん)は、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造(いづものこくそう)が斎(いつ)く神などの類(たぐい)これなり。地祇(ちぎ)は、大神(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛木(かつらぎ)の鴨、出雲の大汝神(おおなむちのかみ)などの類これなり」と具体的な神名が挙げられている。ここに地祇の筆頭に大神(大三輪の神)をあげ、皇室が祀る神でないとしている。 『日本書紀』は高天原にいる天神を、特に偉い神として「尊(みこと)」と呼び、地祇の神々は「命(みこと)」と書く、国神の殆どは例外がなく「命」を呼称する格の低い神となった。また別世界の神の一柱に「一言主神(ひとことぬしのかみ)」がいる。 『古事記』は、雄略天皇4(460)年、雄略天皇が葛城山で鹿狩りをしたとき、紅紐の付いた青摺の衣を着た、天皇一行と全く同じ恰好の一行が向かいの尾根を歩いているのを見つけた。雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言に、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えた。 天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がして一言主神に差し上げた。一言主神は喜んでそれを受け、山を下って天皇を見送ったという。一言主神は、一言で言い放つ託宣神であり、葛城神(かつらぎのかみ)であった。 『日本書紀』では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じだが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっている。 『続日本紀』の巻25では、大泊瀬(雄略)天皇が、葛城山で狩をした時、高鴨神(たかかものかみ;一言主神)が天皇と獲物を争ったため、天皇の怒りに触れて土佐国に流された、と記している。 一言主神に関する上記により『古事記』の撰録は、『日本書紀』の編纂より時代を遡ることは明らかだ。 やがて一言主神や三輪山の大物主神などの国神でも、「命」を呼称する格の低い神となった。素戔嗚尊だけが、かつて高天原の有力な神であったため「尊」をもつ神々の一柱となっている。また天神であっても、天照大神の家来筋にあたる大伴氏の祖神の天忍日命(あめのおしひのみこと)や、中臣氏の祖神の天児屋根命(あめのこやねのみこと)にも、「命」があてられている。 最後に高千穂に代表される日向神話や神武東征神話が、『古事記』や『日本書紀』が書かれた時代に近い7世紀末に創作された。 目次へ |
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2)『古事記』撰録の過程 中国の史書編纂過程では、皇帝の側近が、日々の皇帝の日常を記録していく文書、起居注(ききょちゅう)を作成していく。それをふまえて、皇帝一代の皇帝実録が編年体で記録され、宮廷の奥深くに架蔵される。その王朝が倒れると王朝史が編纂された。 一方、『古事記』と『日本書紀』は、4世紀前後の崇神・垂仁天皇紀における草創期と、その後の景行天皇の拡大期から7世紀前葉の推古紀までの日本史研究には不可欠で、しかも優良な史料である。 『古事記』は8世紀の初めに成書化された。『古事記』の「序」では、天武天皇の勅命により、舎人の稗田阿礼(ひえだのあれ)が勅語旧辞を誦習(しょうしゅう)し、それを太安万侶(おおのやすまろ)が撰録し、和銅5(712)年正月28日に元明天皇に「献上」したとある。 「天武天皇の詔は『朕が聞くところでは、諸家に伝わる帝紀(帝の系譜が中心)や本辞(神話・伝説・歌謡などの言い伝え)は、既に正実と違ってきており、多くの虚偽が加えられている。当(も)し今この時、その失(過ち)を改めておかなければ、幾年も経ずに、その本旨が消滅してしまう。 それは国家組織の根本と天皇徳化の基本にかかわる事だ。そのため帝紀を撰録(整理記録)し、旧辞(旧い出来事)を調べ正し、偽りを削り正実を定めて、後世に流布させたい』との意向であった。 時に近侍する舎人に、姓を稗田(ひだ)、名を阿礼(あれい)というものがいた。年齢は28歳。その人は生来、聡明で、一度、目にすれば暗誦し、聞けば心に刻ま忘れない。それで、阿礼に勅し、帝皇の日継と先代の旧辞を誦習させた。しかし、運(とき)が移り、天皇の御代も代わりはしたが、いまだその事が行なわれないままであった」と記されている。 「運移り世異りて」とは「時世が移り、天皇の御代が代わって」であるから、天武天皇が「諸家が伝えている帝紀及び本辞、既に正実に違い、多くに虚偽が加わる」として「邦家の経緯、王化の鴻基」、即ち「国家の根本と天皇徳化の基本」を正確に正し、後世に明らかにしようとした。そのため稗田阿礼に勅語し「帝皇日継及び先代旧辞」を誦習させた。勅語とは、天武天皇が、直接口頭により、稗田阿礼に語り聞かせる意思の表明であった。 『日本書紀』に天武天皇10年、「帝紀及び上古の諸事」の記定とあるように、『日本書紀』とは別の修史事業として『古事記』の編纂が開始された。そして「稗田阿礼が誦む所の勅語旧辞を撰録」とあるが、太安万侶による筆録以前に稗田阿礼の誦習は終わっていた。その後、朱鳥元(686)年に天武天皇は崩御している。 稗田阿礼の誦習後、太安万侶は、元明天皇の詔をうけて「ここに、旧辞の誤謬を惜しみ、先紀の謬りの部分を正さむとして、和銅4年9月18日、安麻呂に詔があり、稗田阿礼が誦む所の勅語や旧辞を撰録して献上せよと詔旨(おおみこと)があり、謹んで仰せの随(まにま;まま)に、子細に採録した。 しかし、上古の言葉やその意味が素朴で、文章を分け文節をつくり、それを漢字で表すのが難しかった。 全てを漢字の訓により記述すれば、詞が心に通じない。音だけで詞を連ねれば冗長になる。そこで、或る場合には一句の中に、音訓を交えて用い、ある場合は、全て訓を用いて録した。 文意が通じにくければ、注を用いて明らかにした。 意味が解(さと)り易ければ、注を付けない。また、氏の「日下」を「玖沙訶(くさか)」と訓み、名の「帯」の字を「多羅斯(たらし)」と訓ませるなど、これに類することは、元のままの記述に従い改めない。 (そのため『日本書紀』が漢文体であるのに、『古事記』は漢文式和文体となった) 大抵(おほかた)記す事柄は、天地開闢から推古天皇時代まで、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)から天津日高日子波 限建鵜草葺不合命(あまつひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)までを上巻とし、神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこすめらみこ;神武天皇)から応神天皇までの記述を中巻とし、仁徳天皇から推古天皇までを下巻とした。合わせて3巻に著し、謹んで献上した」 上記の太安万侶のこの序文に「敷文構句。於字即難」と書かれていた。 太安万侶が稗田阿礼の「誦む所」にしたがったい、『古事記』の文には、訓注のみでなく、「上」・「去」などのアクセントの注記があり、音を長く引く「音引」の注記までなされている。 稗田阿礼の「誦習」は、単なる暗誦ではない。司馬遷の『史記』「儒林伝」に「高皇帝(漢高祖)が項籍を誅殺し兵を進め魯を囲んだとき、魯中の諸儒は、尚、講誦習礼楽し弦歌の音絶えなかった」とあるように、「誦習」とは、既に文字化されていた「帝紀」や「旧辞」を、当時の詠み方のまま、声を出して繰り返し、節をつけて音読する事に意義があった。しかも、天武天皇が直接命じる「親宣」によったことが、その「勅語」の意味を深めた。 「誦習」といえば、当時 『古事記』の序文末尾に 「謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。 和銅5年正月28日 正五位上勳五等太朝臣安万侶」とあるように、元明天皇の詔があった翌年1月28日、撰録を終え「謹みて献上」している。 8世紀の研究に不可欠な『続日本紀』の編者たちは、ヤマト言葉をどのようして、漢文風に仕上げたのだろうか。『古事記』にしても、上記では現代語に代えているが「上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長」と、撰録する過程に生じた苦衷を如実に語っている。 奈良時代が漢文社会と変わる過渡期の労作『古事記』を、平安時代の偽作とする説がある。現代では理解できない母音の更なる差異による万葉仮名の使い分け「上代仮名遣い甲類・乙類」が、奈良時代前期まで行われていたことが実証されている。『古事記』の本文もその例外ではなかった。万葉仮名の使い分けがなされていた。 間も無く、その奈良朝も、公文書はもとより知識者間の私信も、漢文表記となると、「上代仮名遣い甲類・乙類」の差違が閑却されるようになった。 太安万侶の父は、壬申の乱で、大友皇子側の将・田辺小隅の軍を、莿萩野(たらの;伊賀の北部)で防御し撃退した多品治(おおのほんち)とされる。安万侶は、『日本書紀』の編纂にも加わり、霊亀元(715)年正月に従四位下に、翌年9月に、太(多)氏の氏長となっている。民部省の長官・民部卿を最後の官職とした。 昭和54(1979)年1月20日、奈良市此瀬町(このせちょう)の茶畑で、所有者の竹西英夫さんが、茶樹の植え替えのため深く掘ると、奥行き40㎝ほどの墓穴を発見した。白い灰の中に数cmほどの小さな骨が一つ出土した。灰の下にあった箱の底板をひっくり返すと、「…太朝臣…」と文字が判読できたという。 木管と共伴した、長さ29cm・幅6cm・厚さ1mm程の銅板の「太安万侶墓誌」は、現在、橿原考古学研究所に保管されている。 そこには41文字が記されている。 「(平城京の)左京四条四坊にいた 四位下 勲五等の太朝臣安万侶は 癸亥(きがい)の年(723年)7月6日卒之 養老7(723)年12月15日埋葬」 安万侶は、平城京左京四条四坊に住み、官位は従四位下勲五等を最後に、養老7(723)年の7月6日に歿していた。 目次へ |
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3)『古事記』撰録年代の傍証 奈良・平安時代に、勅命によって、国史である『日本書紀』の講義を行う宮中行事を、「日本紀講筵」と称した。養老5(721)年に、最初の講筵が行われた。これは『日本書紀』の完成を記念した行事とみられているため、平安時代初期以降の講筵とは、趣旨が異なるようだ。 大学寮において主に中国史を教える紀伝道の学者が、博士となり『日本書紀』の講義を行なった。その「日本紀講筵」は、数年かけて全30巻の講義を行うため、ほぼ30年間隔で開かれた。宮廷の人々が、その勤務期間内に、総じて参加できるように配慮されていた。 しかも、出席者は太政大臣以下の公卿や官人で、熱心に聴講され、意見交換が行われた。博士は、ふつう前回の補佐役であった尚復(しょうふく)などを務めた者の中から任命され、前後の講究との一貫性が保たれていた。博士がその講義に当たって作成した『日本書紀』の覚書・注釈書を『日本書紀私記』といった。 『養老5(721)年私記』・『弘仁4(813)年私記』・『承和6(839)年私記』・『元慶2(878)年私記』・『延喜6(906)年私記』・『承平6(936)年私記』・『康保4(967)年私記』など計7回行われた。しかし、現在はすべてが逸書となり、諸書に逸文として伝わるだけである。 『承平6(839)年私記』に「問う、本朝の史は、何書を以て、初めと為すか、師説、先師の説、古事記を以てなす」とある。次いで「其の序に云く」、「上古の時、言意並びに朴(すなお)にして」から「即ち辞理の見えがたきは、注を以て意を明らかにす」まで引用している。承平6年以前、既に、史(史書)の初めを『古事記』とする見解が通用していた。 太安万侶は、『古事記』の撰録により、ヤマト言葉を漢文風に仕上げなければならない困難に直面した。 『古事記』が『日本書紀』の「巻第28」に記す壬申の乱を参考にしたとする見解があるが、久安5(1149)年3月13日の日付の『多神官注進状』に、「天武天皇即位13年に天下万民の姓を改めた。多清眼11世の孫、小錦下品治多朝臣の姓を賜う。 和銅5年五位上太安麻呂(品治子也。安麻呂、氏を改め多の字を太となし、旧氏名にもどるという)古事記三巻を勅撰し、之を献上す」とある。 太安万侶の父は、多品治(おおのほんじ)だ。壬申の乱が勃発したとき、多品治は美濃国安八万郡(岐阜県安八郡)の湯沐令(とうもくのうながし)であった。湯沐令とは、皇子の生計を支えるために置かれた封戸を管理する役職である。多品治も、大海人皇子の領有地の管理者であった。壬申の乱で、その勝利に貢献した功臣の一人となった。 安万侶は、壬申の乱の顛末を、父の生前中に、しばしば、その詳細を語り聞かされていたようだ。 その序に「飛鳥清原(明日香村;飛鳥浄御原)の大宮で大八洲(おおやしま)を治める(天武)天皇の御世に及び、皇太子(潜竜元;せんりょうげん)であったため、皇太子時代(洊雷期;せんらいき)を送っていたが、 夢の中で歌を聞き、業(ひつぎ)を嗣ぐ事と占い、夜の水で禊をし帝業を継ぐと覚った。しかし、天の時は未だ至らず、南山(吉野)で蝉蛻(せんぜい;出家)した。 やがて軍勢が満ちると、東国を虎歩した。天皇の輿は直ちに整えられ、山川を馳せ渡り、天子が統率する六師は雷のごとく威を奮い、(高市皇子が率いる)三軍(周代の兵制では、上軍・中軍・下軍それぞれ12,500人)が稲妻のように疾行した。 長い矛を奉げて示威し、勇猛な兵士が諸方で決起した。絳(あか)い旗を輝かせる攻兵の勢いに、凶徒は、ばらばらに瓦解した。12日間も経ず、すみやかに、妖気はおのずから去り、清らかになった。 それで、戦塵にまみれた牛を放ち馬を休ませ、軍勢は奢ることなく大和に帰った。旗を巻き武器を納め、舞詠(ぶえい;舞歌う)しながら飛鳥の都邑(とゆう)に停(とど)まった。 歳は大梁(たいりょう;酉年)、月は夾鍾(きょうしょう;2月)、酉年(673年)2月27日、飛鳥清原の大宮に昇殿され、天武天皇は即位された。 政道は軒后(黄帝)を軼(こ)え、聖德は周王(文王・武王)を越える。天子の符節(三種の神器)を継ぎ、六合(りくごう;天下)を統べる。皇統に即き八荒(はっこう;国の八方の果て)まで治め、陰陽の正しい気に乗じ、五行の運行を正した。神祇祭祀の理(ことわり)を設(もう)け、良俗を奨励し、優れた徳風を布いて国を広めた。加えるに、智は海のごとく広く、上古の事績を深く探求し、心の鏡は光り輝き、先代の御世を明察した」。 『古事記』の「序」を後世の偽作とする説の中には、『日本書紀』の「巻第28」の壬申の乱の記述を参考にしたという。 しかしながら『古事記』には「飛鳥清原の大宮で大八洲を治める天皇の御世に及び」から「舞詠して都邑に停まる」まで、672年の壬申の乱までの記述がある。 その117字にわたり詳述する「杖矛挙威」「絳旗耀兵」「舞詠停於都邑」などは、壬申の乱で軍功を挙げた太安万侶の父多品治が、写実的に、如実に語る皇軍の光景そのものであった。 目次へ |
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4)『古事記』『日本書紀』『帝紀』『旧辞』とは 和銅5(712)年に『古事記』が献上され、その8年後の養老4(720)年に『日本書紀』が奏上された。同時代ともいる年月の間に、なぜ同様の歴史書が編纂されたのだろうか。 『古事記』には「邦家の経緯」、「王化の鴻基」を定めんとする明確な編集目的があった。壬申の乱に勝利し皇位を簒奪した天武天皇の御世の正統性を、天照大御神以来の皇統のいわれに見出さんとする「世継ぎ」の帝王書であった。そのため成書化されても『日本書紀』のように貴族や官僚に講読されず、ましてや講筵が催されることもなかった。 それが、奈良・平安時代を通して、『古事記』の古写本が全く発見されない理由であった。その一方『日本書紀』には、白村江の大敗で生じた「日本国」の危機と国家意識の高まりを反映し、「日本国」の紀としての面目もあり、その記述に誇張や潤色が加えられていた。 中つ国平定の派遣神が『古事記』と『日本書紀』で異なっている。『古事記』では剣の神「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と船の神「天鳥船神(あめのとりふねのかみ)」である。『日本書紀』では「武甕槌神(たけみかづちのかみ)」と物を断ち切る音の「フツ」に由来する「経津主神(ふつぬしのかみ)」が登場する。『日本書紀』の武甕槌神は鹿島神宮、経津主神は香取神宮の主神である。その二柱は中臣氏、後の藤原氏の氏神を祀るために神護景雲2(768)年に創設された春日大社の第一殿と第二殿に奉斎された。 藤原不比等は、鹿島神宮の祭神建御雷神を分祀勧請し、春日大社を創建した。その不比等こそが、『古事記』を監修した当時の政権の実力者であった。 『古事記』では、中臣・藤原氏の祖神天児屋命(あめのこやねのみこと)は、天照大神が、天の岩戸に隠れた際、岩戸の前で祝詞を唱え、天照大神が岩戸を少し開いたときに、布刀玉命(あめのふとだまのみこと)とともに鏡を差し出した、とあり、その後、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に従った五神の一柱とあるが、存在感に乏しい。不比等は、そのため『日本書紀』でも大活躍する建御雷神を祖神にする。 極めて不自然であるが、その記紀に表れる神話自体が、考古学的な史料からみれば、多くの矛盾をはらんでいた。なぜ、3世紀中葉に栄えた、巨大政権であったはずの卑弥呼に関連する記述がないのか。 『古事記』は帝紀的部分と旧辞的部分とから成る。 『帝紀』は神武天皇から第33代天皇までの歴代天皇・后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地や、その治世の主な出来事などを記している。これらは朝廷の語部(かたりべ)などが暗誦して、天皇の大葬の殯(もがり)の祭儀などで誦み上げられる慣習があった。6世紀半ばになると成書化された。 『旧辞』は、祭祀の思想を内容とし、それに関連して伝承されたものや、氏族の歴史と氏族に伝承されたもの、歌謡や物語など芸能を中心に伝承されたものなど、 『帝紀』と同じ頃に書かれた。 その両書の特徴的な差異は、『帝紀』が王位継承を主にし、『旧辞』は、氏族伝承を中心とした内容であるが、『帝紀』にも『旧辞』的要素も含まれ、それを截然と分つことはできない。 『古事記』の「序」に、「諸家に賷(もと)る帝紀及び本辞」とあるように、『古事記』の完成前には、成書化されていた帝紀及び本辞があった。 『古事記』の大帯日子天皇(おおたらしひこのすめらみこと;景行天皇)の条に「おおよそ、この大帯日子天皇の御子らは、記録した21王と、記録されない59王、合わせて80王のうち、若帯日子命・倭建命・五百木之入日子命の3王を、太子とした。その他の77王は、悉く諸国の国造・和気(わけ;天皇を先祖とする氏族に与えられた姓)・稲置(いなき;地方の小豪族に与えられた姓)・県主を別途賜った」とあり、皇子・皇女らの系譜に、記録されないものの方が多かった、とある。と言うことは、既に「記録した21王」がいたことになる。 『日本書紀』の欽明天皇2(541)年3月の条の注に、「帝王本紀には、多くの古字があり、撰集の人が、しばしばかわったため、後任の人が習い読むときに、意のままに削り改めた。伝写も既に多く、遂には誤って錯雑となり、前後の順序を違い、兄弟がくい違ったりした。 今、古今を考究し真正な姿に戻した。識別し難ければ、一方を選ぶが、その異説を詳しく注釈にした。他の場合も皆、これに倣った。」とあるように、『帝王本紀』と称される歴代天皇の系譜を記した成書があったばかりか、異本も多かったようだ。 『日本書紀』の顕宗天皇(けんぞうてんのう)即位前紀にも、「譜第(かばねのついでのふみ)に曰く『市辺押磐皇子(いちべのおしはのみこ)は、蟻臣(ありおみ)の娘の荑媛(はるひめ)を娶った。遂に三の男、二の女を儲けた。其の一を居夏姫と曰す。其の二を億計王と曰す。更の名は嶋稚子。更の名は大石尊。其の三を弘計王と曰す。更の名は、來目稚子。其の四を飯豐女王と曰す。亦の名は、忍海部女王、其の五を橘王と曰す。』」として市辺押磐皇子(顕宗天皇の父)の系譜を記す。 「譜第」も成書されており、『帝紀』同様のものとみられる。 聖徳太子の伝記集『上宮聖徳法王帝説』に「帝紀を案ずるに」とあり、『古事記』や『日本書紀』以前の古い成書が基礎になっていると思料され、特に仏教的事績や冠位十二階の詳述も成書化された史料が前提にあったとみられる。 『続日本紀』に大宝2(702)年4月13日の条に、「詔で諸国の国造の氏を定め、その名を国造記に具える」とある。それに先立って同年2月13日条に「この日、大幣を班(わか)つため、馳駅を諸国の国造等に送り入京」とあるため、諸国の国造を召集し、諸国の国造の氏を定め、その名を記し、氏族伝承をからめて「国造記」を編纂したと理解される。 目次へ |