景行天皇の時代               Top  車山高原 諏訪の散歩 車山日記 

      
目次 
 1)景行天皇と70余の御子
 2)小碓尊、大碓皇子を惨殺
 3)古代ヤマトとは
 4)景行天皇、筑紫へ行幸
 5)土蜘蛛征伐
 6)熊襲の八十梟帥討伐
 7)熊県平定
 8)火国を平定
 9)実在する景行天皇の晩期
 10)御諸別王を東国へ派遣、景行天皇崩御
 


1)景行天皇と70余の御子

 景行天皇は、『古事記』・『日本書紀』で第 12代に数えられ、和風諡号は大足彦忍代別天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)、古事記では大帯日子淤斯呂和気命の字をあてる。
 『日本書紀』には「大足彦忍代別天皇は、活目入彦五十狹茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらもこと)の第三子で、母は皇后の日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)と申す。丹波道主王(たにはのちぬしのおおきみ)の女であった。活目入彥五十狹茅天皇37年に、皇太子に立てられた。時に年21。
 99年春2月、活目入彥五十狹茅天皇が崩じた。 景行天皇元年秋7月11日に、太子は天皇の位に即かれた。よって改元された。この年は、太歲(たいさい)辛未(かのとのひつじ)である」  
 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、崇神天皇の孫であるが、景行天皇と、吉備臣の祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の娘である播磨稲日大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)との間に生まれた小碓命(おうすのみこと)である。
 「2年春3月3日、播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ;一説には、稲日稚郎姫;いなびのわきいらつめ)を立てて皇后とした。后は2人の男子を生んだ。第一を大碓皇子(おおうすのみこ)、第二を小碓尊(おうすのみこと)という。一書では、皇后は三人の男子を生み、その第三を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)という、とある。
 大碓皇子・小碓尊は、双生児として生れた。天皇は異なことと碓に激しくあたった。これ故に2王を大碓・小碓と名付けた。小碓尊は、またの名を日本童男(やまとおうな)、あるいは日本武尊(やまとたけるのみこと)という。幼くして雄略の気があり、壮年になると容貌が魁偉となり、身長一丈、力は強く鼎を持ち上げるほどであった」
 当時、難産のとき、夫は碓を背負って家の周りを廻る習俗があった。

 「3年春2月に、紀伊国に行幸し、天神地祇の諸神を祭祀することを卜った。吉兆ではなかった。そのため車駕の出御を止めた。 その代わりに、屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと;一説では武猪心(たけいごころ))を遣わし、祭らせることになった。屋主忍男武雄心命は、阿備の柏原(あびのかしわばら;和歌山市松原字柏原付近)に詣で住まいし天神地祇を祭祀した。そこで9年居住した。その間、紀直(きのあたい)の遠祖菟道彦(うじひこ)の娘影媛(かげひめ)を娶って、武内宿禰を生ませた」
 「4年の春2月11日に、天皇は美濃に御幸した。側近が奏すには『この国に弟媛(おとひめ)と申す佳人がいます。容姿は端正で、八坂入彦皇子の娘です』という。 天皇は、妃に迎えたいと望まれ、弟媛の家に御幸された。弟媛は、天皇の輿を車駕に乗せたと聞き、直ちに竹林に隠れた。
 天皇は、弟媛に命ずるため泳宮(くくりのみや;現在、可児市;岐阜県可児郡久久利村)に行き住まいした。鯉魚を池に放ち、朝夕眺めながら遊んだ。ある時、弟媛は、鯉魚が回遊するのを見たいので密かに池を見下ろした。天皇は直ちに留め通って来た。 弟媛は『夫婦の道は、昔も今も決め事通りですが、私には不都合です』と思えばこそ、天皇に願うのです。
 『私は、生まれつき交接を望みません。今、天皇の威厳のある命令に逆らえませんので、暫く帷幕の中に召されていましたが、心中は快くはありません。容姿は劣り賤しいため、長く後宮に使えるのに値しません。ただ私には姉がおります。八坂入媛(やさかのいりびめ)と申し、容姿麗美で、志操が貞潔です。ぜひ後宮にお召ください』 天皇はこれを許され、八坂入媛を召されて妃とした。7男6女が生まれた(後略)」
 「(前略)そもそも天皇の子女は、前後合わせて80の御子がいた。
 日本武尊・稚足彥天皇・五百城入彦皇子を除いた外の、70余の御子は、皆国郡に封じられ、それぞれの国へ赴かれた。そのため、当今、諸国の別(わけ)というのは、その別王(わけのみこ)の苗裔なのである。 この月、天皇は、美濃国造、名が神骨(かむぼね)の娘、姉の名が兄遠子(えとおこ)・妹の名が弟遠子(おととおこ)、それぞれ皆、絶世の美女と聞き、大碓命を遣わし、その婦女の容姿を視察させた。ところが大碓命は、密かに女たちと通じ復命しなかった。それゆえ、大碓命は恨まれた。
 冬11月、天皇は輿に乗り美濃より戻った。その時、また纏向を都とした。これが日代宮(ひしろのみや)である」 大和の纒向に日代宮を構えた。ヤマト王権の勃興期にあたり、その全国統一事業は『古事記』と『日本書紀』において、大部分が 10代に数えられる崇神朝からこの景行朝にかけて語られている。 近年の考古学が明らかにしているように、邪馬台国は纒向の地で、古墳時代初期に列島の政治的統合をほぼ達成していた。
 別王の苗裔が、諸国の別となったという所伝は、景行天皇の九州と東国の巡幸説話や、日本武尊の熊襲・蝦夷の征討説話と一体でとらえられ、ヤマト朝廷の全国支配が、景行紀に確立し、景行天皇が、地方官として、各地国郡に70余の御子を国郡に封じ派遣した。
 別の初めは、皇族の子孫、とりわけ王族将軍で、派遣先に領地を得た者の称号として用いられた。それは4世紀前半の垂仁天皇から景行天皇、及び日本武尊が日本を支配した時代と重なる。彼ら「別王(わけのみこ)」に由来する「別」は、和気・和希・和介・委居・獲居とも表記され、ヤマト王権における称号および姓の一つとみられるが、後代に、地方の氏族の称号となったようだ。
 「天皇の中にはワケを称号にもつものが6名存在する。景行天皇はおしろわけ(大足彦忍代別)、応神天皇はほむだわけ(誉田別、凡牟都和希)、履中天皇はいざほわけ(大兄去来穂別、大江之伊邪本和気)、反正天皇はみずはわけ(多遅比瑞歯別)、顕宗天皇はいわすわけ(袁祁之石巣別命)および天智天皇はひらかすわけ(天命開別)など、「わけ」を称号にもっている。
 本来「別」は、先述するように、天皇や皇族が称した称号であったが、5世紀前半、允恭天皇の氏姓制度の改革により、臣連制が作り出されると、連や臣の姓に変更され、ヤマト政権への協力度が高い地方豪族には、「直」を、低い者には「君」という姓を与えた。また地方官としての官名、「稲置」もあった。それ以来、「別」は、地方の豪族に下賜された。そのため「別」を称する豪族は、天皇家の分流と伝えられ、一種の称号となり、畿内とその周辺国にとどまらず、西国にも分布し、後世、国造となる事例も多かった。


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 2)小碓尊、大碓皇子を惨殺  
 『古事記』は記す。「天皇は小碓命に詔して『なぜ汝の兄は、朝夕の大御食(おほみけ;天皇の食事)に陪席しないのか。 よく汝が優しく教えさとせ』といった。
 このような仰せがあてから5日経っても、大碓皇子は陪侍しなかった。 それで天皇は小碓命に『なぜ汝の兄は長い間、出仕しないのか。もしや未だに教えていないのでは』と尋ねた。それに答えて『既に優しく教えさとしました』という。天皇は『どのように優しくした』という。答えて『明け方兄が廁(かはや;川の上に架け渡して作った屋)に入った時、待って捕え、つかみひしぎその手足をもぎ取り、薦に包んで投げ捨てました』という。

 天皇は、御子の勇猛で荒々しい性質を恐れ、詔して『西の方に熊曾建(くまそたける;熊襲は熊本県南部から南九州に及ぶ地で、勇猛な首長兄弟がいた)が二人いる。かれらはまつろわぬ不敬な輩どもだ。その者どもを始末せよ』と命じ、遣わせた。
  この当時、小碓命の髪が、額の上に瓠(ひさご)の花形を束ねているように、15・6歳の少年にすぎなかった。
 小碓命は、叔母である斎宮の倭比売命(やまとひめのみこと)の御衣裳を給わり、剣を懐中に入れ出発した。
  熊曾建の家に到着して周囲を見渡せば、その家の周辺を軍勢が三重に囲んでいた。 彼らは、室を作って居住していた。それで、新しい室の落成祝いの酒宴の準備で騒ぎ、食物の準備に余念がない。小碓命はその周辺をぶらつき、祝宴の当日を待った」
 こうして、倭建命による熊襲建や出雲建、そして東国の征伐が始まった。 なぜか、景行天皇に関する記紀の記事の多くが、日本武尊の物語に割かれている。

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3)古代ヤマトとは
  『日本書紀』に「(崇神)天皇、践祚して68年、冬12月5日に崩じた。時に年120歳。明年の秋8月11日に、山辺の道の上の陵に葬った」。
 『古事記』は崇神天皇陵を「山辺道勾の岡上(やまべのみちまがりのおかのうえ)」にありと記している。その陵墓が4世紀前半~中ごろ造営の「行灯山古墳(あんどんやまー)」であるといわれている。
  同じ山辺の道に沿って、行灯山古墳の近くに渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)がある。景行天皇陵とされている。行灯山古墳も含む柳本古墳群の中では、最大規模の前方後円墳で、全国7位にランクされている。この古墳から古式の土師器や須恵器が出土しており、行灯山古墳より少し遅い4世紀中頃と推定されている。
 墳丘は東西に主軸をとり、墳長は約300mある。 他にも、時代が近接する、こうした巨大な前方後円墳が、山の辺の道沿いに築かれている。
 倭迹々日百襲姬命の墓と伝えられる「箸墓」の被葬者を埋葬する後円部は、約150mあり、『魏志倭人伝』が卑弥呼の墓と記す径百余歩とほぼ合致する。
 天理市中山町の「西殿塚古墳」は、全長234m、桜井市外山(とび)の「桜井茶臼山古墳」は、全長207mある。いずれも古式の前方後円墳であれば、3世紀中頃から次第に王権を強化してきた磯城地方の豪族が、4世紀に入ると奈良盆地を越えて勢力を拡大させた構図と重なる。
  崇神天皇は師木水垣宮(しきのみづかきのみや;奈良県桜井市)で天下を治めた。稲荷山古墳出土の鉄剣銘にある上祖「意富比垝」により、ヤマト王権は東国にまで勢力を伸ばすほどに、4世紀初頭には既に確立していたとみられる。「意富比垝」に比定される大彦命(おおひこのみこと)の子が武渟川別で、阿倍朝臣らの祖と伝えられる。
 『古事記』の「崇神紀」によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が相津(会津)であるとされている(会津の地名由来説話)。その真偽は定かではないが、大彦命の一族が東夷征伐の氏族として、北陸や東国に勢力基盤を築いたのは確かなようだ。
  『日本書紀』に「(崇神)3年秋9月、磯城に遷都した。これを瑞籬宮(みつかきのみや)という」。古代の大和国は、奈良盆地東南部にあたる磯城郡(城上郡;しきのかみ・城下郡;しきのしも)を中心としていた。
 城下郡に大和郷(おおやまとごう)の地名が残るように、ヤマト王権が誕生し大和発祥の地となった。当地の箸墓古墳や柳本古墳群の存在により、大王家は3世紀中ごろから王権を強化し、4世紀になると大和国磯城郡周辺の豪族たちを兵力として、奈良盆地を越えて勢力を拡大し、5世紀に入ると全国の殆どを制覇した。
 磯城県は4世紀ころの成立とみられるが、その地域が中心となって奈良時代の城上郡(しきのかみー)、城下郡(しきのしもー)ができる。
 『日本書紀』には、崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや)・垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)・景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)・欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれたことを記す。 この地域は、磐余(いわれ)とともに、ヤマト王権の発祥の地で、古代の政治・経済・文化の中心であった。
 埼玉県稲荷山古墳出土の鉄剣銘にみえる獲加多支大王(わかたけるのおおきみ)は雄略天皇で、その斯鬼宮(しきのみや;泊瀬朝倉宮:はつせのあさくらのみや)は大和の磯城の宮であった。 雄略天皇の斯鬼宮は、奈良県桜井市黒崎にある脇本遺跡として発掘された。その居住の証となったのが鉄剣である。
 奈良県桜井市脇本の「脇本遺跡」は、昭和59(1984)年、桜井市と橿原考古学研究所が中心となって、磯城から磐余(いわれ)一帯における諸宮を調査し、飛鳥時代を代表する遺跡群として発掘された。ここは奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(とかまやま;忍坂山;おさかやま)に挟まれた初瀬谷の入り口にあたる。その基本調査の結果、脇本から慈恩寺にかけての一帯が、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)と推定され、発掘調査が継続された。
 まず昭和56年から朝倉小学校校庭の調査が行われた。数次にわたる発掘によって、5~6世紀の建物や溝の遺構が朝倉小学校の校庭から見つかった。昭和59年の発掘調査では、灯明田地区で、下層から5世紀後半の宮殿遺構の一部が発掘され、それが雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と確認された。その上層からは7世紀後半のやはり大型建物の遺構が出土した。さらに灯明田地区の東北の苗田地区の発掘でも、その全域に5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。 この発掘調査の成果が総合的に検討され、三輪山東南麓にある脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物と確認された。しかし私有地のため完全な調査ができないまま埋めもどされた。
 大和盆地の西南部の二上山・葛城山・金剛山(金剛山地)の東麓を拠点とした姓が臣の葛城氏、その北方の生駒山の山麓を経済基盤とした姓が臣の平群氏、東北部の春日・大和国添上郡和迩(天理市和爾町)を勢力圏とした姓が臣の和珥(和迩)氏、大和国山辺郡石上郷付近(天理市前栽町から布留町)を本拠にしていた姓が連の物部氏、大和国高市郡巨勢郷(奈良県御所市古瀬)を基盤とした姓が臣の巨勢氏(こせうじ)などが、勢力を誇示していた。これら蟠踞する豪族と並存するよう、大和盆地の東南にあたる三輪山山麓一帯を発祥の地として、大王家が台頭していた。
 この地は古代の大和国磯城郡で、「敷島(磯城島)の大和」と呼ばれ、日本の別称となり、「敷島の」は大和の枕詞となった。この周辺地域に流れる河川は、寺川・初瀬川・巻向川などと多く、「敷」にはかつて「分つ」「散らす」という訓読みがあり、多くの河川とそれをつなぐ掘割が、条里化された水田景観と重なり、美しく緑の水田を分つ、その流下する風景を「敷島」と称えた。  
 大和盆地の山麓地帯は、比較的早くから開発されていた。この山麓を通す古代の道を「山辺の道」と呼んだ。その「山の麓」は「山の入口」でもあったため、「ヤマト」は「山門」「山跡」「山本」と表記された。  「ヤマト」の「ト」は「戸」つまり「入口」である。河川の入り口が「水門(みなと)」「水戸(みなと)」となるのも、古代では海岸に船を直接停泊するのは困難で、河川を少し遡った所に船を舫った。そこが「水門」、つまり「港」である。「江戸」というのも入り江に面した場所の意である。  
 大和の豪族の勢力は、長らく拮抗していたが、北九州・山陰・瀬戸内海などの要衝の地は、水田稲作のみならず、朝鮮半島との交易・砂鉄の産出・海や山の資源などや、海や山の民による兵力を背景に、強大な豪族が出現し、勢力を膨張させていた。更に、その地理的条件から、大陸の先進文化や技術を一足早く導入し、強国化していったようだ。  狭い大和盆地に小さく割拠していては、西国の大豪族に併呑される危機感から、大和の豪族は連合して強力な政権を樹立しようとした。

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4)景行天皇、筑紫へ行幸

  「12年秋7月に、熊襲が叛いて朝貢をやめた。8月15日に、筑紫へ行幸した。9月5日に、周芳の娑麼(さば;山口県防府市佐波)に着いた時、天皇は南の方を望み、群卿に詔し「南の方に煙が多く上がっている。必ず賊がいるに違いない」といわれ、そこに留まり、まず多臣(おおのおみ)の祖武諸木(たけもろき)・国前臣の祖菟名手(うなて)・物部君の祖夏花(なつはな)を遣わし、その状況を偵察させた。
 ここに、神夏磯媛(かむなつそひめ)という女人がいて、その徒党は甚だ多かった。一国の魁帥(ひとごのかみ;かいすい;賊徒などの頭目)ほどであった。
 天皇の使者が来ると聞き、直ちに磯津山(しつのやま)の賢木(さかき)を抜き、上の枝に八握剣(やつかのつるぎ)を掛け、中の枝に八咫鏡(やたのかがみ)を掛け、下の枝に八尺瓊(やさかのに;「瓊」は赤く美しい玉)を掛けた。
 また白旗を船の舳に立てて参向して来て『どうか派兵しないで下さい。我ら輩(ともがら)は、決して叛きません。今直ぐ帰順します。ただ残虐な賊がいます。
 ひとりは鼻垂(はなたり)といい、御名を僭称し、山谷に糾合し、菟狭川(うさがわ;大分県宇佐市の駅館(やっかん)川)の上流に群集しています。
 二人目は耳垂(みみたり)といい、この残虐な賊は貪欲で、しばしば人民を略奪しています。これは御木川(みけかわ;大分県中津市と福岡県築上郡・豊前市の県境付近を流れる山国川)の上流にいます(木は、これを開(け)という)
 三曰人目は麻剝(あさはぎ)といい、秘かに徒党を集め、高羽川(たかはがわ;福岡県田川郡を流域とする彦山川)の上流にいます。
 四曰人目は土折猪折(つちおりいおり)といい、緑野川(みどりのかわ;北九州市小倉南・北区を流れる柴川)の上流に隠れ住み、独自に山川の険に頼り、多くの人民から掠めて奪っています。
  この4人の拠点は、みな要害の地で、各々が眷属を支配し、一所の長におさまっています。4人とも、みな『皇命に従わない』といっています。急いで撃滅して下さい。機を逸しないように』と申し上げた。 そこで、武諸木らは、先ず麻剥の徒党を誘った。赤衣・褌(はかま)及び種々の珍しい物を賜い、合わせて服属しない三人も差し招いた。
 その三人は集団を率いてやって来た。悉く捕え誅殺した。
 天皇は遂に筑紫に行幸され、豊前国の長峡県(ながおのあがた;現福岡県行橋(ゆくはし)市付近の京都郡;みやこぐん)に到着し、行宮を建てて住まいした。故にそこを京と名付けた」
 行橋市域も京都郡に属していた。この地域はかつて豊前国の中心地で、国府跡がみやこ町(旧豊津町)で発見されている。
 福岡県田川市夏吉に鎮座する若八幡神社(わかはちまんー)は、夏吉地域開発の祖神とされる地主神の神夏磯媛を祀り、また、その後裔で神功皇后の暗殺を企てた夏羽(なつは)と田油津媛(たぶらつひめ)を祀る神社といわれる。小倉南区にある貫山は、古くは芝津山と呼ばれた。磯津山に通じるようだ。

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5)土蜘蛛征伐
  「冬10月、碩田国(おおきたのくに;大分県大分市;「おほきた」が訛った)に着いた。その地形は広大で麗しかった。それで碩田と名付けた(碩田は、これを「おほきた」という。碩には、広く大なる義)。
 速見邑(はやみのむら;別府市から杵築市辺り)に着いた。女人がいて、速津媛(はやつひめ)といった。一所の長であった。
 天皇の車駕が来たと聞き、自から奉迎し問われて「この山に大きな石窟(いわや)があり、鼠の石窟といいます。二人の土蜘蛛が、その石窟に住んでいます。ひとりは青、二人目は白といいます。
 また直入県(なおりのあがた;大分県竹田市と熊本県阿蘇郡の一部)の禰疑野(ねぎの;竹田市今)に、3人の土蜘蛛がいます。打猨(うちさる)、八田(やた)、国摩侶(くにまろ)です。
 この5人は、いずれも強力で、また徒党も多く、皆、『皇命に従わず』といい、若し強いて喚べば、挙兵して拒むでしょう」と告げた。天皇はこれを憎むが、手が打てなかった。
 来田見邑(くたみむら;大分県竹田市久住町都野・直入町辺り)に留まり、仮の宮室を建て居所とした。 そして群臣と議って
 「今、大いに軍兵を動員し、土蜘蛛を討つ。若し吾が軍勢を畏れて、山野に隠れたら、必ず後の憂いとなろう」といわれ、そこで海石榴(つばき;椿)の木を採って、椎(つち)を作り兵器とした。勇猛な兵卒を選び、兵器となった椎を授け、山を穿ち、草を払い、石室の土蜘蛛を襲い稲葉川(久住川は、竹田市内で稲葉川に合流し、その稲葉川が大野川に合流)の上流で破り、悉くその徒党を殺した。その血流が踝に達した。
 故に、時の人は、海石榴の椎を作った所を海石榴市(つばきち)と呼んだ。また血流があった所を血田(ちだ)と呼ぶ。
 また打猨を討とうとして、愚かにも禰疑山(ねぎやま;大分県竹田市今に禰疑野神社あり)を越えた。その時、賊どもの矢が、横の山より射られ、官軍の前に雨ように流れた。天皇は、城原(きはら;竹田市木原)に返し、川の上(ほとり)で卜した。そこで兵を統御し、先ず八田を禰疑野で擊破した。ここに打猨は勝てないと思い降伏を請うた。然し許さず、皆、自から渓谷に身を投じ死んだ。
 天皇は、初めて賊を討ったとして、柏峡の大野(かしわおのおおの;大分県豊後大野市)に宿った。その野に石があり、長さ六尺・広さ三尺・厚さ一尺五寸あった。天皇は誓約(うけい)をされ「朕が土蜘蛛を滅ぼせるなら、この石を蹴ったらば、柏の葉のように挙げてみせよ」といった。そこで蹴ると、柏の葉のように大空に上がった。故に、その石を踏石(ほみし)と名付けた。この時に祈った神は、志我神(しがのかみ)・直入物部神(なおりのもののべのかみ)・直入中臣神の3柱の神であった。 11月、日向国に着いた。行宮を起てて居住した。これを高屋宮(たかやのみや;宮崎県西都市岩爪)と呼んだ」

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6)熊襲の八十梟帥討伐
 『日本書紀』が記す襲の国とは、景行天皇12年「11月、日向国に到り、行宮(あんぐう)を建てて居住された。これを高屋宮(たかやのみや)という。
 「12月5日に、熊襲を討つことを議った。天皇は群卿に詔して『朕が聞くには、襲国(そのくに)に厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや)というものがいる。この両人は熊襲の首領で、仲間が甚だ多く、熊襲の八十梟帥(やそたける)という。その鋭鋒は当たるべからざる勢いだ。寡兵では、賊は滅ぼせない。多くの兵を動員すれば、百姓の害となる。何とか武威に頼らず、坐してその国を平定できないか』といった。
 その時、ひとりの臣が進み出て『熊襲梟帥には二人の娘がいます。姉は市乾鹿文(いちふかや;乾、これを“ふ”という)いい、妹は市鹿文(いちかや)といい、容姿は端正で、気は勇ましい、たくさんの贈り物をして、お側にお召し入れ下さい。それにより梟帥の消息を伺わせ、不意を襲えば、会しても刃を血でぬらさず、賊は必ず自ずと敗れるでしょう』という。天皇な詔して『それでよい』と申した。

 それで、贈り物を見せて2女を欺き、幕下にいれた。天皇は市乾鹿文と通じ寵愛を装った。その時、市乾鹿文が天皇に奏して
 『熊襲が服しないのを心配なさいますな。私に良い謀(はかりごと)があります。一、二の兵士を私に従わせて下さい』というと家に帰った。
 たくさんの濃厚な酒を用意して、自分の父に飲ませたので、たちまち酔って寝てしまった。市乾鹿文は、密に父の弓弦を切り、そこに従兵の一人が進み熊襲梟帥を殺した。
 天皇は、その不孝の甚だしさを憎まれて、市乾鹿文を誅殺した。それで妹の市鹿文に火国造(ひのくにのみやつこ)を賜った」
 源順の編纂した『和名類聚抄』に、大隅国姶羅郡にある郷の一つに「鹿屋郷」があるが、「鹿屋」の正しい読みは「かや」という。襲の国は、この辺りをさすとみられる。

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7)熊県平定
 「13年夏5月に、悉く襲国を平定した。天皇が高屋宮おられてから、既に6年経過した。ここ襲国に美人がいた。御刀媛御刀(みはかしひめ;此云彌波迦志)という、直ぐに召し出し妃に迎えた。豊国別皇子(とよくにわけのみこ)生んだ。これが日向国造の始祖である。
 17年春3月12日に、子湯県(こゆのあがた;宮崎県児湯郡)に行幸され、丹裳小野(にものおの;宮崎県西都市の西都原古墳群にある台地)に遊ばれ、その時、東の方を望見され、側近に『この国は真っ直ぐ、日の出の方に向いている』といわれ、それでその国を名付けて日向といった。この日、野中の大石にのぼり、京都を想い、歌を詠まれた。

 何と懐かしいことでしょう 我が家の方より
   雲がわき立ち 流れてくることよ
 倭は 国のまほろば(国中で一番素晴らしいところ)
   幾重にも重なる 青々とした 山々の垣に囲まれ
 倭こそ 麗しい
 命ある全ての人々よ 
   山が連なる平群の山に行き、 白樫の葉を
   髻華(うず;古代、髪や冠に挿し、飾りにした草木の花や枝)にして
 その髪に挿し さらなる長寿を願がおう

 これを思邦歌(くにしのびうた)という」

 景行天皇の巡幸で立寄った所は「県」が多い。長狭県・直入県・子湯県・熊県・高来県・八女県である。
 既に、垂仁天皇の27年に「この年、来目邑(橿原市久米町辺)に屯倉を興した」とあり、景行天皇の57年「冬10月に、諸国に令して田部と屯倉を置いた」とある。
 成務紀では
 4年の春2月に詔して「(前略)天下みな王臣でないものはなく、すべての者は、みなその所をえた。今、朕が皇位を嗣ぎ、朝に夜に震え畏れている。しかるに人民は、うごめく虫のように野心を改めない。
 これは国郡(くにこおり)に君長(ひとごのかみ)がおらず、県邑(あがたむら)に首渠(おびと;首領)がいないからだ。今後は、国郡に長を立て、県邑に首(かみ)を置く。
 それぞれの国で、すぐに才幹ある者を選び、国郡の首長(ひとごのかみ)に任ぜよ。これにより王城の地を守護する藩屏となるであろう」といわれた。
 「5年の秋9月に、諸国に令して、国郡に造長(みやつこおさ)を立て、県邑に稲置(いなぎ)を置いた。ともに盾矛を賜って表(節;しるし)とした。
 山河を界として、国県(くにあがた)を分け、阡陌(せんぱく;南北東西の道)に随って邑里(むら)を定めた」と書かれている。
 大化前代に国造・県主・稲置などの地方官が置かれたのは事実で、稲置は屯倉などの稲穀を管理収納する官職で、後には姓の一つとなった。
 4世紀に、これらの制度があったことを疑問視する説もあるが、ではヤマト政権の経済基盤は何だったのか、と問いたい。少なくとも、大化前代に、国造・県主などの地方官が置かれたことは事実である。

 『古事記』中つ巻の崇神天皇記に「また伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に命じて、神聖な平たい土器を多数作り、天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)の社を定め祭った。また宇陀墨坂神(うだのすみさかのかみ;宇陀郡榛原町の墨坂神社)に、赤色の楯と矛を祭り、また大坂神(おほさかのかみ;北葛城郡香芝町穴虫の大坂山口神社)に、黒色の楯と矛を祭り、また坂の御尾(峠)の神及び河の瀬の神すべてに、もれなく幣帛(みてぐら)を奉った。これにより疫病の流行は悉く止み、国家は平安となった」とある。赤黒と対比する盾矛は、祭具として供えられた。
 また墨坂と大坂は、ヤマトの東西の要衝で、峠や河の神は地域の境界を守護する神であれば、結界を作る意図が濃厚である。
 『日本書紀』の崇神紀には「天社(あまつやしろ)・国社(くにつやしろ)及び神地(かむどころ)・神戸(かむべ)を定む」とあるので、同時期に神祇制度を定めたとみられる。
 18年春3月に、天皇は京へ向かうため、筑紫国(当時、広義に九州全域をさすことがある)を巡行した。初めに夷守(ひなもり;夷守岳の山麓に宮崎県小林市細野夷守の地籍あり)に着いた。この時、石瀬河(いわせのかわ;小林市内を流れる岩瀬川)の辺に群衆が集まっていた。
 天皇はこれを遥かに遠望し、側近に詔して
 「あそこに集まっている者たちは、若しかして賊か」という。
 それで兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)の兄弟2人を見に遣らせた。直ぐに弟夷守が戻り答えて「諸県君泉媛(もろかたのきみいずみひめ)が、天皇のお食事を献上しようとして、その一族が集まっています」と奏上した。

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8)火国を平定
 夏4月3日に、熊県(くまのあがた;熊本県球磨郡・人吉市)に到着した。そこに熊津彦という兄弟2人がいた。天皇は、先ず兄熊(えくま)を召し出した。直ぐに使者に従い参上して来た。つぎに弟熊(おとくま)を召し出したが来なかった。それで兵を遣り誅殺した。
 (「熊県」とは、熊本県球磨郡を中心とする地域で、その住民を肥人(くまびと)とも称した)
 11日に、海路から葦北(熊本県葦北郡)の小島(こしま)に停泊し食事を貢進させた。その時、山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖小左(おひだり)を召して、冷水の献上を命じた。
 たまたまこの時、島に水が無く、なす術がなかった。そこで天神地祗をあがめ祈ると、忽ち冷泉が崖のほとりから涌出した。直ぐに酌んで献上した。それで、その島を水島(八代市の球磨川河口)と名付けた。その泉は今もなお、水島の崖に湧いている。

 5月に、葦北より出航し火国に着いた。日が没していたので、夜の闇で着岸の手立てがなかった。遥かに火の光が見え、天皇は船頭に詔して「まっすぐに火の所を目指せ」という。それで火を目指して行くと、着岸ができた。天皇はその火光の場所を「なんという村か」と問うと、国の人が「ここは八代県の豊村」と答えた。また「これは誰の火か」と尋ねた。然し主は分からない、という。それで人の火ではないと知った。それでその国を火国と名付けた。
 (八代海を不知火海という。上記の蜃気楼現象に因む)

 6月3日に、高来県(たかくのあがた;島原半島、諌早市の北東に高来(たかき)町という地名がある)より玉杵名邑(たまきなのむら;熊本県玉名市)に渡った時に、そこの土蜘蛛の津頬(つつら)を殺した。
 16日に、阿蘇国(熊本県阿蘇郡)に着いた。その国は郊原が広遠で、人家が見えない。天皇は「この国に人はいるのか」というと、阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)という2柱の神が、忽然と、人に化して遊(ある)いて参り「われら二人がいますので、無人であるはずはございません」という。それでその国を阿蘇と名付けた。
 秋7月4日に、筑紫後国(つくしのみちのしりのくに;筑後国)の御木(みけ;福岡県三池)に着いた。
 高田行宮に居た。そこに倒木があった。長さ9百70丈。役人たちはその木を踏んで往来した。
 
 当時の人が歌うには、

  朝霜の 御木の さ小橋よ
  群臣(まえつきみ)が 渡られよ 御木の さ小橋よ

 天皇は「これはなんの木か」と聞くと、一老夫は「この木は歴木(くぬぎ;檪)です。かつて倒れていない時は、朝日の光が当たれば杵嶋山(きしまのやま;佐賀 県杵島郡・武雄市)を隠し、夕日の光が当たれば阿蘇山を覆ったものです」と答えた。
 天皇は「この木は、神木だから、この国を御木国と呼ばせよ」といわれた。
 7日に、八女県に着いた。そして藤山(福岡県久留米市)を越えて、南の粟岬(あわのさき;あわみさき;幾つかの山の頂が重なり合って見えるさま)を望まれた。
 詔して『その山の峰々は重畳にして、美麗なること甚だしい。若しや神がその山にいるのだろうか』といった。
 その時、水沼県主の猨大海(さるおおみ)が「女神がおられ、名を八女津媛(やめつひめ)と申し、常に山中に坐す」奏言した。
 八女国の名は、これより起こった。8月に、的邑(いくはのむら;福岡県浮羽郡)に着いて食事の貢進を受けた。この日、膳夫らが盞(うき;酒杯)を忘れた。それで当時の人は、盞を忘れた所を浮羽(うきは)と呼び、今は、的(いくは)と訛っている。昔は筑紫では、俗に盞を浮羽と呼んだ。

 19年秋9月20日に、天皇は日向から大和へ還幸した。

 20年春2月4日に、五百野皇女(いおののひめみこ)を遣わされ、天照大神を祭らせた。

 25年秋7月3日に、武内宿禰を遣わし、北陸及び東方諸国の地形と百姓の消息を視察させた。

 27年春2月12日に、武内宿禰が、東国より帰り奏言し
 『東夷の中に、日高見国(ひたかみのくに;北上川流域)があります。その国の人は、男女ともにみな、もとどりを結い文身(いれずみ)をし、本来、勇悍で、これをすべて蝦夷といいます。また土地は肥沃で、しかも広大です。攻撃し奪うべきです』という。
 秋8月、熊襲がまた反し、辺境を侵して止まない」

 武内宿禰は、古代、ヤマト朝廷初期に活躍した伝承上の人物で、上記の東国視察の記述は『古事記』にはない。「日本書紀」によれば、神功皇后の新羅征伐に従軍し、景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の各紀に仕え、2百数十年間、内廷に近侍する者達の中心であった。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。しかし3百年の長寿を保ったとすれば、当然、実在性が疑われる。

 6世紀前後、ヤマト王権が九州南部に勢力を拡大するなか、隼人の一部は早くからヤマト政権とのつながりを深めており、国造・県主となった者もいたようだ。

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  9)実在する景行天皇の晩期
 「52年夏5月4日に、皇后の播磨太郎姫(はりまのおおいらつめ;日本武尊生母)が薨じられた。秋7月7日に、八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)を立てて皇后とした(父は崇神天皇の皇子の八坂入彦命、成務天皇・五百城入彦皇子ら7男6女の母)

 53年秋8月、天皇は群卿に詔して『かわゆうき子を朕が偲ぶのは、いつ止むのだろう。願わくは小碓王が平定した国を巡幸したい』と言われた。

 この月、伊勢に行幸し、転じて東海に入った。冬10月、上総国に着き、海路から淡水門(あわのみなと;館山)に渡った。この時、聞覚賀鳥(かくかのとり;みさご)の声が聞こえた。その鳥の形を見たいと思い、探しながら海の中に入った。そこで白蛤(うむき;はまぐり)をとった。その時に、膳臣(かしわでのおみ)の遠祖で磐鹿六鴈(いわかむつかり)という者が、蒲をたすきにして、白蛤を膾(なます;魚・貝・獣などの生肉を細かく刻んだもの)にして進めた。それで、六鴈臣の功を褒めて膳大伴部(かしわでのおおともべ)を賜った(部の管掌者に任じられた)。
 12月、東国より戻り、伊勢に留まり、これを綺宮(かにはたのみや;三重県鈴鹿市加佐登町)といった。
 (古墳から酒槽(さかふね;酒を発酵させる容器)や酒器類が出土している。酢、特に米酢(よねず;こめす)は、酒とほぼ同時代に製造されたと考えられる。膾に、酢が使われたとおもえる)

 54年秋9月19日に、伊勢より還り、倭の纏向宮(既にある日代宮)に居住した。
 三輪山・巻向山・穴師山などを源にする細流が巻向川に合流し、その扇状地上に形成される纒向遺跡は、奈良県桜井市の三輪山の北西麓一帯に広がる。3世紀に始まる古墳遺跡・前方後円墳発祥の地である。
 邪馬台国はここにあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳が現存する。遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、その「纒向」の村名は、垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代宮」に由来とする。
 纒向というのは「纒に向く」という意味であれば、どこに「向く」かというと、纒向川を挟んだ対岸にあたる、三輪山の裾野に広がる、現在の三輪の地域とみられる。
 大和盆地の東南にあたる三輪山山麓一帯が、大王家発祥の地といえる。この地は古代の大和国磯城郡で、「敷島(磯城島)の大和」と呼ばれ、日本の別称となり、「敷島の」は大和の枕詞となった。この周辺地域に流れる河川は、寺川・初瀬川・巻向川などと多く、「敷」にはかつて「分つ」「散らす」という訓読みがあり、多くの河川とそれをつなぐ掘割が、条里化された水田景観と重なり、美しく緑の水田を分つ、その流下する風景を「敷島」と称えた。
 その大地に育まれた大王家は、三輪山の祭祀を司る家系を出自としていた。時代が下るにつれ、大神を斎く司祭から疎遠になっていった。ヤマト王権が、広く畿内(きだい)の国々を王化するにつれ、三輪山信仰は維持しながらも、農耕神としての「水神」「山神」である大神を、遥かに超える天照らす太陽神を創始した。
 三輪山の真東にあたる三重県多気郡明和町斎宮(さいくう)の地に、伊勢神宮で「日の巫女」が斎き祀る「天照大神」が住まう斎宮(いつきのみや)を設けた。
 その「纒」を『書紀』は「御間城」と書き、『古事記』は「御真木」と書いている。その「御」は尊敬の接頭語だが、「纒」は『日本書紀』が記す「間城」、『古事記』が記す「真城」であれば、「纒」とは場所を表記し、本来は「城(き)」とみられる。
 「城」とは、「大字典」では、明快に「都邑を防御し、人民を保護して盛ならしむ為に設けしシロのこと。故に土篇。成には国土を成就する義あり。且つ成(せい)を音符とす」とある。また「城」は、「くに」・「みやこ」・「むら」とも訓む。
 大王家歴代が、尊崇する地であり、しかも「敷島の大和」に向き合う地であれば、まさに「纒向」する地に比定される。
 纒向日代宮跡の石碑は、垂仁天皇の纒向珠城宮跡石碑から東へ10分ほど歩いた道沿いにある。
 この道から北西方向の奈良県桜井市穴師の地籍に景行天皇陵(山辺道上陵;やまのべのみちのえのみささぎ)がある。これは考古学を学ぶ者として、敢えていうが、これほど史跡に恵まれながら、その信憑性の判断を、明治以来「宮内庁」がなぜか阻み、それを考古学の歴代の泰斗までもが、依然として発掘調査を拒否されても、それを受け入れる歴史観が不思議でならない。




  10)御諸別王を東国へ派遣、景行天皇崩御
 55年春の2月5日に、彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)が、東山道15国の都督に任命された。この人が豊城命(とよきのみこと)の孫で、春日の穴咋邑(あなくいのむら;その穴咋邑の比定地は明らかでないが、奈良市にある穴吹神社とする説が有力である)で、病に臥し薨去した。この時、東国の百姓は、その王が来られない事を悲しみ、秘かに王の尸(かばね;死体)を盗み、上野国に葬った。

 56年秋八月、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔して
 「汝の父彦狭嶋王は、任所に赴けず早く薨じた。それで、汝は専ら東国を治めよ」といった。
 御諸別王は、天皇の命を承けて父の職務を成就しようとした。それで東国へ行き治めた。早々に善政をしいた。時に、蝦夷の騷動には、直ちに兵を挙げて撃った。
 その時、蝦夷の首帥(ひとごのかみ;首領)足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おおはふりべ)・遠津闇男辺(とおつくらおべ)らは、叩頭しながらやってきて、頭を地につけて受罪した。その土地悉く献じた。そこで、降伏すれば許し反抗すれば誅した。これにより東国は久しく平穏となった。そんため、その子孫(上毛野君・下毛野君)は、いまでも東国にいる。

 57年秋9月に、坂手池(さかてのいけ;奈良県田原本町阪手)を造り、その堤の上に竹を蒔(うえ)った。冬10月、諸国に田部と屯倉を置かせた。
 (この事に関して『古事記』は、より詳細に「この天皇の御世、田部(朝廷の直轄領・屯倉の耕人)を定め、また東国の淡水門(あわのみなと;相模からの海路となる安房の湊は、館山市の平久里(へぐり)川の河口あたりではないかといわれている)を定めた。また御食(みけ)を掌る大伴部を定め、また倭の屯家(屯倉)を定めた。また坂手池を造り、竹をその堤に植えた」と記す)

 58年春2月11日に、近江国へ行幸し、志賀に3年いた。これを志賀の高穴穗宮(たかあなほのみや;滋賀県大津市穴太)という」
 『日本書紀』仁徳即位前紀に倭屯田(みた)と記す畿内にあった屯田は、歴代大王の地位に付属する日常的に供御される食料田であった。そこには、後世の田部のような既存の農民は存在せず、王権が周辺領主に命じ、その外部の農民による徭役労働によって経営されていた。
 天皇や個々の皇族の生活の資に充てられた後世の屯家が、朝廷が運営する直轄領であったのとは違い、農民支配を伴わない農業経営体であった。『日本書紀』も「屯田」と「屯倉」は明らかに区別していた。
 『日本書紀』の仁徳11年と13年の条にある茨田屯倉(まんだのみやけ)のように、初期の屯倉は王権による大規模な灌漑と治水により、水田開発がなされ、5世紀に入ると畿内地方で活発に開墾がなされた。この段階に入ると、農民は他の地域から移植され、倉庫や官家も設置され、屯倉首(みやけのおびと)などの原地管理者が置かれた。
 屯倉とはヤマト朝廷の直轄地であり、それらの地は、田地であったり、狩猟場であったりした。それまでは、その地を治める豪族などからの貢納が収益であったが、直轄地であれば、迅速に収益を上げる事が出来る。
 また、田部(たべ)とは、直轄地である屯倉を耕作する者たちで、官有民という事になる。
 崇神・垂仁・景行紀の3世紀後半~4世紀に、そのヤマト政権を各地の貢納だけで運営したとは考えにくい。
 初期のヤマト王権は、畿内のヤマト内部に、後世「御県(みあがた)」と呼ばれる朝廷の直轄領を配置していった。古文献にしばしば載る「倭の六御県(やまとのむつのみあがた)」がそれで、磯城・十市・高市・葛城・山辺・曾布(そふ;開化天皇紀にあり、後世、2つに分けられ添上郡・添下郡となった)である。「県」は国造の「国」より古く、ヤマト王権初期から配置された直轄領で、その密度が最も高いのが畿内ヤマトであった。
 『延喜式』巻8の祈年祭の「六御県」の祝詞にあるとうに甘菜(あまな;アマドコロの古名)・辛菜(からな;辛みのある野菜の総称)・酒・水などの貢献地が「県」となり、当時の王領を監察する首長が「県主」に任じられていた。やがて「県」の農民は王民化した。
 特に三輪王権の本拠地である磯城県主家の祖先となる后妃が、特に多いのは、磯城地方の首長らを服属させ、三輪山の祭祀権を掌握すると、そこに磯城御県を置き、それぞれに御県神社を祭らせ王領とした。しだいに十市・高市・葛城・山辺・曾布にも拡大し県主家の系譜を継がせ、その地域にあった奉斎神を御県神になおさせ、祭政を伴う王権を拡充させた。
 崇神天皇紀に記されるように、新たな貢納物を収奪する体制を拡大させ、男には弓端の調(ゆはずのみつぎ;弓矢で獲った獣皮など)、女には手末の調(たなすえのみつぎ;織物・糸のみつぎ)の貢進が要求された。)

「60年冬11月7日に、天皇は高穴穗宮で崩御した。その年百六歲」
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