諏訪地方の縄文時代(早期)縄文文化の成立期
(1万年前~約6千前)
 御座岩岩陰遺跡は白樺湖北側、先土器時代から続く
 縄文時代の全期を通しての史跡
 黒曜石剥片、黒曜石石塊が周辺に多量に散布
  石器時代の石器製作所と思えます。

総論 縄文時代草創期 縄文時代期早期 縄文時代前期 縄文時代中期 縄文時代の民俗 縄文時代後期 縄文時代晩期 歴史散歩 車山高原リゾートイン・レアメモリー

総説 | 諏訪地方の縄文早期時代 | 梨久保遺跡 | 後田原遺跡 | 細久保遺跡 | 十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡 | 棚畑遺跡 | 高風呂遺跡

          
総説  
 縄文文化の成立期としての「早期」である、約1万年前~6千年前までの時代である。この時期、一部の地域から順次、住様式としての竪穴住居が確立、初期的な縄文集落が形成され始めた。鹿児島県鹿児島市川上町の標高約170mの舌状(ぜつじょう)台地上にある加栗山遺跡(かくりやま)や同県国分市上野原遺跡で、縄文早期前葉の約9千年前の、前者で竪穴住居跡が15棟、後者で52棟が発見された。各種の炉跡や貯蔵穴が多数発掘され、両者とも定住集落と考えられる。ただ二枚貝の貝殻の腹縁で、器面に直線、刺突、或いは押圧したりして、三角形や菱形など幾何学紋様を施文したりする貝殻文土器期に限られ、その文化を継承する集落遺跡は、当地のみならず鹿児島県下でも未発見である。
 関東地方では集落遺跡が漸次増加し、その生活残滓の集積地として貝塚が出現する。1,000年以上に亘る撚糸文土器期全体で、発掘例として約300棟に過ぎないが、その出土状況は南九州とは明確に異なり、一定の構造とその継続性が確認される。
 長期に亘る撚糸文土器様式が続いて、近畿・中部地方に押型文(おしがたもん; 多縄文)土器様式が、さらに北海道東部の帯広市八千代A遺跡でも、無文や条痕文、絡条体圧痕文、刺突文などがある、底が平らで、底面にホタテ貝のあとが付けられたことに特徴がある暁式土器(あかつき)など、それぞれの地域的特色を持つ土器様式が確立した。特に、この時代に、西日本に広く流行した押型文土器が、縄文早期のこの時期に確認されていない。
 また尖底土器が縄文草創期と早期全般に見られる型式で、他の時代の、平底の土器のように地面にそのまま置けず、地面に突き刺して置くしかない。煮沸具としての熱効率や土器の製作技術の必要性から工夫されたようだ。縄文土器製法の一般的なものは、作る際、上下逆で口縁を下にして、上に積み上げて順次、凸状にして完成させた。
 東北地方はこれにやや遅れ、草創期から早期に入っても、東北地方ではしばらく土器様式のはっきりしない時期が続いた。
 早期前半、関東地方一円に撚糸文土器様式が展開し始めた頃、東北地方ではその南半分の地域まで、僅かにその撚糸文土器を携えた人々の往来があるのみで、草創期の高畠町の洞窟遺跡群周辺では、その後の活動址が見られない。
 しかし、早期中葉になると様子は一変した。日計式押型文土器(ひばかりしきおしがたもん)が登場し、この段階で東北地方にも竪穴住居が普及し、はじめて初源的な集落が形成された。
 日計式押型文土器は、同じ頃中部地方で盛行する単純な山形文の押型文土器とは違い、棒状の施文具に複雑な連続鋸歯状文(れんぞくきょしじょうもん)を刻み、それを尖底土器の外面にころがして、幾何学的な連続文を付ける土器である。名称はこの土器が初めて学術的に調査された、青森県日計(ひばかり)貝塚に由来する。
 この土器を持つ文化は、東北地方ほぼ全土に広がり、明確な様式としての特徴を備えた最初のものとなった。
 そして、間もなく、今度は土器の文様施文具に貝殻を多用する、サルボウやアカガイなどの二枚貝を押し当ながら引いて沈んだ線状の文様(沈線文)などを施す貝殻沈線文土器(かいがらちんせんもん)様式に移行した。この時代になると、極めて密度の高い縄文社会が確立していき、目まぐるしく土器様式は様相を変えていく。他の地方の比ではなく、東北地方における縄文人の急速な生活様式の変革が読み取れる。
 この様式は、細かな型式の変化で、古い方から白浜・小船渡平(こみなとたい)、寺の沢・物見台、吹切沢の各型式に別れる。物見台式や吹切沢式の時期には、青森県千歳や岩手県長瀬などで7~8 軒から10数軒の規模を持つ集落が各地につくられていた。 もちろん、一時期に存在した竪穴はせいぜい2~3軒だ。まだ中期の大集落とは較べものにはならない規模ではあるが、縄文時代の地縁的集団の芽生えが、ここには確かに認められた。
 長瀬の遺跡では長径10m近く、竪穴の堀込みの深さが1mにも達する堅固な住居跡が発見された。何よりも、この貝殻沈線文土器様式は、北は津軽海峡を越えて北海道南部まで、南は撚糸文土器様式の後に生み出される関東地方の沈線文土器様式にまで、驚くほどの浸透力でその影響を及ぼし、中部地方以西の土器様式を代表する押型文土器様式とともに、日本列島を東西に二分するほどの文化力を示した。
 この段階で、竪穴住居、集落、貝塚、土偶、磨石(すりいし)・凹石(くぼみいし)など植物性食料加工具としての石器など、縄文文化の主な要素をすべて獲得し、縄文時代前期以降揺るぐことのない“縄文王国”としての「東北」の地位が確立した。

 北海道函館市の函館空港現滑走路の東側にある中野B遺跡では、縄文時代早期中葉の段階、約7,000~7,500年前まで居住が繰り返され、竪穴が700軒以上という集落跡が発掘された。
 

諏訪地方の縄文時代早期
  近年の発掘調査により、土器と稲作は長江中流域で誕生していたことが判明した。広西チュワン族自治区桂林(guilin )廟岩遺跡、同柳州大譚遺跡では最終氷期最盛期後半、暦年代2万年前に遡る土器が発見されている。 中国南部は氷期から後氷期へ気候変動する晩氷期、いち早く森林環境が拡大した。その「森の民」が土器作りを開始した。世界に先駆けて定住生活に入ったようだ。湖南省で発見された1万8千年前の玉蟾岩遺跡((ぎょくせんがん:ユイチャンイエン:Yuchanyan)の Cave(洞窟)から出土した土器と4粒の稲籾は、相当信頼がおける発掘例と見られている。玉蟾岩遺跡の土器の暦年代は1万8千~1万7千年前まで遡るようだ。これまでの結果を見る限り、稲作は長江中流域で始まったとみてよい。近年の発見によって、稲作の起源が麦作と同じか、さらに年代を遡る可能性さえ出てきた。稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴っていなかった。稲作農耕民はタンパク源を森の野生動物や湖沼に生息する魚類に求めていた。その後、土器製作は、日本列島北部からロシアのシベリア極東地域にも展開した。シベリア極東地域のガーシャ遺跡フーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡、中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前頃の土器が発見された。ガーシャ遺跡やフーミ遺跡では魚油の貯蔵に使ったようだ。

 縄文土器は野焼きの土器で、粘土に砂などを混ぜ焚き火で焼上げた。土器の形式は尖底の深鉢が主流で、当時の製作工程から必然といえた。尖底は炉の中につきさして煮物を調理するのに便利で、熱効率でも優れていた。
 縄文早期、長野県をはじめ西日本一帯は押型文土器が主流であった。その原体に彫られた文様ににより、楕円文・山形文・格子目文・市松文など名付けられた。昭和20年代後半、長野県の諏訪地方で押型文土器が立て続けで出土した。その出土例は、岡谷市の下り林遺跡と樋沢遺跡・諏訪市の細久保などがある。樋沢遺跡(岡谷市樋沢)を標式とする押型文という特殊な文様の土器は、汎日本的な流行を見せた最初の縄文土器で、縄文文化が列島に定着して安定した社会を確立した時期といわれる。
 今から8000年前、樋沢をはじめ、下り林(岡谷小学校上)、梨平(湊西山)といった高原上地形に生活の主舞台をおいた狩猟・採集社会の時代があった。樋沢遺跡は、岡谷市街地から勝弦峠を越え、県道を塩尻市へ向かって下って行くと両側からせり出した段丘に挟まれた場所にある。塩嶺王城県立公園内にあり、山並みの頂上(1030m)付近にあるので、南に八ヶ岳、南アルプス、富士山が見える。
 塩尻市桟敷の向陽台遺跡では縄文早期の径9mの円形を呈した大型住居を含む大小4軒の住居址と集石炉4基がムラを営むようにまとまって確認された。豊富な石器類と押型文土器が伴出した。初期の竪穴住居址の多くは、当然規模が小さく、平面形態は不整円で主柱穴も備えていなかった。その遺跡の多くは山間部の尾根や谷の肩など狭い地域に在るため、集落としての広がりは想定できない。ただ植物性食料が安定的に入手できる環境になっていたといえる。遺構として竪穴住居に炉跡が殆どみられず、屋外に集石炉を設け調理施設としていたようだ。ストーン・ボイリングで肉や山野草・根菜類をホウバ(朴葉)などに包んで蒸し焼きにする事が盛んに行われたようだ.。

 縄文の宝庫とよばれる諏訪地方の一画を占める諏訪市内の縄文遺跡は、諏訪湖と諏訪盆地平坦部を挟む東山地区と西山地区の山麓部が主で、東側の霧ヶ峰高原やそれに連なる丘陵地と西側の赤石山脈の末端部の山間にわずかばかりの小規模な遺跡を留める。縄文草創期と早期の遺跡は、特に山間部では比較的急な斜面などに立地するせいもある。標高が比較的低い山麓末端部では台地上の遺跡もみられるが、もっとも遺跡が濃密に分布するのも中央平坦地から比高約百mまでの東西山麓の末端である。
 諏訪盆地平坦部には殆ど遺跡はない。現在でも諏訪湖の南に広がる平坦地の大部分は、諏訪湖からの比高は0m~数mの範囲である。その地表下は、当地特有の地下水を多量に含むスクモ層や砂層に覆われている。スクモ層は含水比が極めて高い泥炭質の「腐植土層」で、厚く堆積したその層は、東西の山塊から流入した土砂とアシ・カヤなどの植物遺体を主な成因としている。その水分が押し出されることによって、諏訪湖平坦部が圧密沈下する最大原因となる。それは日本一の地盤沈降率を計る。古来、平坦地には諏訪湖の水が深く入江状態で入り込み、水生植物などが繁茂する湿地帯が大部分を占めていた。本格的な縄文時代の大規模遺跡の存在は想定しにくいが、地表から5mの深さからしばしば縄文時代の遺物が発見される。諏訪湖の東側の山沿いに近い片羽町遺跡(かたはちょう)も地表下約5m下から縄文草創期や中期の土器や石器が出土した。諏訪湖湖底に在る曽根遺跡も、現在の湖底から約5mの深さに沈んでいる。しかし縄文時代人は多くを湿地の水辺に依存していた。湖沼の魚介類や水場に集まる鳥獣たちは、その生業には欠かせない資源であった。

 縄文早期になると遺跡は諏訪全域で増加した。茅野市内でも八ヶ岳・蓼科山地が遺跡数で圧倒的に多く、次に守屋・入笠山麓がその半分位で、その更に半分位で霧ケ峰南麓と八ヶ岳山麓と続き、永明寺山麓になると更にその半分になる。
 早期前半に押型文土器を出土する遺跡数が、急激な増加を示した。また早期前半と後半とでは遺跡数にほとんど変動がなく、早期前半に集中する増加現象の背後には、何か諏訪地方に文化的な画期があったようだ。諏訪市内で押型文土器が出土する遺跡は20数ヵ所を超える。ただいずれも出土量が僅かで器形を復元できるまでに至っていない。
 旧石器時代の人々は、冷山(つめたやま)や八島ヶ原高原周辺の黒曜石の原産地周辺で、ナウマンゾウやオオツノシカといった大形獣を追いかけ、広範囲にわたる移動の多い、それも不安定な狩猟生活をしていた。狩猟具は、ナイフ形石器、槍先方尖頭器、細石器などで、自ら身体ごと動物に接近しなければならない危険な生業であった。しかも獲物はそれほど豊富ではなかった。
 大形獣がいなくなる縄文時代早期になると、蓼科・八ヶ岳・霧ケ峰の山塊に張り付いた御座岩岩陰遺跡栃窪岩陰遺跡などでは、その時代の特徴である押型文系土器と同時に多数の石鏃が出土する。飛び道具・弓矢の活用で、より安全で中小動物に有効な狩猟活動が可能になった。
 栃窪岩陰遺跡からは、槍先形尖頭器5・刃器6・ナイフ形石器1が昭和38年までの発掘調査で出土していた。縄文時代早期から平安時代まで、狩猟の拠点として使われていた。そこからは野兎・狼・日本犬・狸・日本熊・鹿・カモシカ・猿等、多数の骨が検出されている。鳥類の中趾骨(ちゅうしこつ)もあったが、種類は特定できなかった。イシガイ・オグラシジミ・オオタニシ・カワタニシ等の陸水産の貝と、海水のハイガイ(灰貝)・サルボウガイ(猿頬貝)の二枚貝も混じっていた。ハイガイ・サルボウガイは、おそらく貝殻状痕文の施文具として中部高原の当地まで流通して来たようだ。ヒキガエルの骨片も検出されいる。そしてそこには当然、栗・胡桃・団栗・栃・榧(かや)等の実もあった。針葉樹系ナッツとして榧の実は、ローストするだけでよい。外種皮は奥歯で噛めば簡単に割れる。かさぶた状の内種皮は、まずは剥ぐのが至難で煩わしい、しかし共に食べてもわずかにえぐみがあるだけだ。 日本では群馬県・福島県あたりを北限とするが、アク抜きをせずに食せるため意外に重宝されていたとおもえる。
 縄文早期で縄文時代の石器文化を確立した。石鏃の出土は当り前で、次第に定住生活に依存するようになると石斧は、住居用と燃料としての木材の伐採と加工、根茎類のの掘起しと穀物栽培、栗・クルミなどの樹木の移植用の土坑具として重用された。食物加工具としては、穀摺石(こくずりいし)をも含む磨石・凹石(くぼみいし)・石皿・敲石等が、主体になっていく。
 こうして山地に住む縄文人は、食料資源の多様化を図り、その生業活動を安定化させ、それが人々の定住化を可能にし、各地に特色のある独自性をもった文化を花咲かせていった。竪穴住居址、屋外炉、土坑などの遺構が、新たに発見されるのは、未発達な竪穴住居址の形態ではあっても、次第に定住性を増してきたことの表れである。
 しかし遺跡が山間部にかたより小規模であるのは、未だ集団の規模が小さく生業が狩猟中心であったことを窺わせる。また霧ケ峰南麓の遺跡の多くが早期のもので、黒曜石搬出ルートに沿うことから、未だ石鏃製造にかかわる時代と想定される。

梨久保遺跡
 長地山地は横河川の水源域である鉢伏山(はちぶせやま;1,928m)や二ツ山(1,826m)から続く諏訪湖盆の北壁となる山塊である。その長地山地の大扇状地上の傾斜に沿って扇平(おんぴら)・上ノ原・上屋敷・梨久保などの大遺跡が展開している。山田孝助が明治34年発行の『東京人類学会雑誌』第188号に、表題『信濃国諏訪郡神明原の石器時代遺蹟』を掲載した。それが梨久保遺跡の研究の発端であった。長野県岡谷長地中村の梨久保遺跡のある一帯は、戦前から戦中にかけて一部桑畑があったが殆どが原野であった。昭和24年当時、戦後の食糧難のため長地小学校の教職員と生徒により開墾がなされた。その際多くの遺物が出土した。特に、岡谷工業高校生宮坂光昭により諏訪考古学研究所へもたらされた一群の土器が注目された。その時の完形土器が梨久保式土器を代表し、梨久保遺跡を標式遺跡とした。
 大正7年、当時
諏訪中学だった八幡一郎が何度か訪れ、大正7(1918)年「2月23日、長地村村中村区ギョウゲンジ沢(常現寺沢)畑中より無柄石鏃1個拾得す、畑隅の石積中を崩壊せしに石皿および磨製石斧の頭部を発見せり。3月20日、帰途長地村西山田の諸遺跡を巡りしが暮色既に迫り無為して帰る。4月1日、午後常現寺沢に採集試む、中村古くは中屋・横川の2部落と共に西山田と称せしが、今は分立す。常現寺沢とは広き地域にして、遺物を発見する場所は僅か10分の1計りに過ぎずと雖も、遺物の豊富なるは今井上原遺跡に譲らず、就中石鏃の夥多、土器文様の珍なる注目に値すと信ず、2時間余りにて石鏃6、黒曜石製石匙1を拾得せり。聞く諏訪高女武井伊平氏はこの地において多数なる石鏃と石槍を得て、小井川小学校に寄贈せしに、石槍は紛失せりと。8月6日、常現寺沢にて硅石製石鏃1、燧石(すいせき)製石鏃1、黒曜石石鏃4、小石匙1、珪石製石錐1、凹石を採集。8月21日、常現寺沢踏査、凹石1、石鏃5、打製石斧1、半月形石器(黒曜石にて製し打石斧の一種の破片かと考えられる)、石ノミ1を採集」と記している。
 
梨久保遺跡は当時、常現寺・上ノ平・神明原の3遺跡として地名表に記録された。神明原は扇状地の西半、上ノ平は東半、そして常現寺沢によって形成された標高830~860m小扇状地の上立地する遺跡は上ノ平・神明原の領域を包含する。それで現在では一括して梨久保遺跡と呼ぶ。
 諏訪地方は縄文中期初頭の研究では、日本考古学界ではパイオニア的成果を上げている。藤森栄一の縄文農耕論は、未だ何故か数々の批判に晒されているが、その後の出土史料から疑いの余地が無い学説となった。藤森栄一は昭和10年、「古式縄文土器の終末と厚手式土器の進展」「諸磯式土器における竹管文と浮線文」といった論文を発表した。それは諏訪地方で隆盛を極めた縄文中期の発生と発展過程を、土器の型式の変化の関わりで論じた。また宮坂英弌の第二次世界大戦の戦前戦後をとおしての尖石遺跡研究の成果による縄文集落論など、いたずらに土器形式を細分化しその新旧を論じる編年学的研究を超え、縄文時代を民俗学的研究の対象とした。戦後藤森栄一に指導された高校生たちにとって、遺物調査は魅力のあるパイオニア的成果が期待できるため若きロマンを刺激した。それが大きく開花し多くの旧石器時代と縄文時代の遺跡発見に繋がり、郷土研究家に留まらない戸沢光則・松沢亜生など考古学研究者の第一人者を輩出させた。
 そうした背景が宮坂光昭を刺激し、考古学史上、旧石器時代と縄文時代の画期となる梨久保土器の発見に繋がった。昭和24年夏から25年秋にかけて、諏訪清陵高・二葉高・岡谷工高の地歴部員を中心に発掘調査が断続的に10回以上も行われた。狭い区域でありながら多量の土器片が出土した。その成果が昭和26年、『諏訪考古学』第7号に「長地村梨久保遺跡調査報告ー中期初頭縄文式土器の研究資料編Ⅰ」が発表され、以後考古学界で「梨久保式土器」が縄文時代の編年学上、欠かせない標式となった。
 梨久保式土器の特徴は器面を飾る文様が複雑で、先行型式としてはなじまないが、多様な文様を組み合わせ、特に口縁部を主に土器面を煩雑に装飾し、上下重層的に自由な構図で器面を飾った。特に口縁と上胴部に2重のふくらみのある深鉢平底が特徴である。
 冬にはシジュウガラが、春にヒバリが飛び交い広々とした
常現寺沢扇状台地に宅地開発の波が押寄せる。駆り立てられるように岡谷市教育委員会は、昭和45年12月から47年春まで、4回に亘って梨久保遺跡を緊急調査し、第一次と二次で梨久保式土器の発見という大きな成果を上げた。続いて第三次から六の調査で、12ヵ所の住居址と24ヵ所の小竪穴が密集する地区の発掘に成功した。梨久保式土器と共伴した様々な住居構造や生活遺構により集落の存在が明白になった。梨久保期以外の縄文前期前半の住居址ばかりか、現在までの調査で確認された竪穴住居は、繩文前期7・中期58・後期8・不明21の計94棟であり、中期のものが圧倒的に多い。さらに縄文早期以降から連綿と続いた居住を窺わせる時々の型式の土器も発見された。

 
八幡一郎が大正7(1918)年 「聞く諏訪高女武井伊平氏はこの地において多数なる石鏃と石槍を得て、小井川小学校に寄贈せしに、石槍は紛失せりと。」と記していた。八幡一郎は昭和13年「先史時代の交易」と題して、『人類学・先史学講座』に3回にわたって掲載した。さらに昭和31年「物質の交流」と題して、『図説日本文化史大系 1』に黒曜石の交易について詳述した。黒曜石交易を先駆的に論じた研究者であった。八幡一郎は岡谷市出身で東京帝大を卒業し、東京国立博物館考古課長・東京教育大教授,・上智大教授を歴任した。
 その石槍が、戦後間もない昭和24・5年、梨久保遺跡が盛んに発掘調査された際、道路をへだてた東側の畑で、その一員であった当時中学生の松沢亜生(つぎお)が、この上ノ平の地籍で一本の木の葉形尖頭器を採集した。この石槍が、岡谷市内で唯一確実な旧石器時代の遺物となった。その後昭和45年、早出昭雄が、扇平遺跡の北方の長地山地に分け入った小さな谷にある長久保遺跡で有茎尖頭器を発見した。白い縞のある黒曜石を表裏両面の調整剥離がなされた、断面は凸レンズ状になる。この石槍は全国各地で出土し、旧石器時代約2万年前頃から縄文草創期に及ぶ狩猟具と見なされている。
 梨久保遺跡の石器群の中で、とりわけ石鏃の出土が多い。第3・4次の調査では88点採集された。茅野市の与助尾根遺跡では合計28ヵ所の竪穴住居祉を含め集落全体が完掘りされながら、石鏃の総数はわずか10点であった。梨久保の人々は長地山地を主舞台に狩猟を生業の主体にしていたようだ。与助尾根は八ヶ岳の裾野にあり標高1,070m、角名川(かくみょうがわ)と鳴石川に挟まれた台地・広野原は、豊富な湧水地に恵まれ植物性食料に生業の多くを依存していた。
 梨久保遺跡から多量に出土した石器の中に6点の石錘があった。遺跡付近で採集できる頁岩を原石として断面が三角状の砥石などを使う擦切り技法で製作されていた。多くは欠損しているが両端に糸掛けの切り込みを付けた長形にして小形軽量であった。諏訪湖から直線にして3km以上離れている。近年の乱開発後の河川を想定してはいけない。常現寺沢のような渓流こそ岩魚・山女(やまめ)・鰍(かじか)などの漁獲が、節度を保てば長期期間、期待できた。梨久保式遺跡は旧石器時代・縄文草創期
から引き続けられた資料豊富な古代文化であった。

後田原遺跡
 川岸新倉丸山の上垣戸遺跡(うわかいと)は、川岸小学校の南西にひろがる高燥な洪積丘陵地にある。計画的な学術調査はなされていないが、遺跡の範囲は広く、遺物も多いという。特に18mmも無い小形円形の掻器は黒曜石製であり、その形状の特徴から拇指形掻器(おやゆび;thumb scraper)と呼ばれ旧石器時代の遺跡からしばしば出土する。その後、槍先形尖頭器の破片が採取された。また最古の縄文式土器とおもわれる土器砕片群が遺存していた。上垣外遺跡の発見により、岡谷最古の文化遺跡がこの周辺に散在する可能性が高まった
 岡谷市北辺の長地に流れ下る横河川の東岸、諏訪湖北盆地に大扇状地が形成されている。そこから長地山地に入ると小さな谷があり、長久保と呼ばれる。谷底であるが比較的広く平らで、一部起伏もある台地上に、長地横川の長久保遺跡がある。ここで5㎝程度の長さの有茎尖頭器が出土した。白い縞のある黒曜石で、表裏両面を調整剥離加工をしている。旧石器時代から縄文草創期への転換期に本州各地で発見されている。
 長地中屋スクモ塚地籍の榎垣外遺跡(えのきがいと)では、旧石器時代の槍先形尖頭器が2点出土している。いずれも一端を欠損させている。完形であれば約10㎝の黒曜石製と8.5cmの頁岩製、典型的な柳葉形である。他に黒曜石製で全長23㎝もあり、両側縁が左右対称的に大きく凹む石槍も出土していた。また縄文草創期に隆盛した5㎝超の有茎尖頭器も発見された。

 岡谷市川岸新倉の夏明にある後田原遺跡(ごたつぱら)は、古くから注目されていた遺跡であった。岡谷に製糸業が隆盛を極めていた頃、川岸区夏明に大きな工場が建設された。その際にもかなり多くの土器や石器が出土したが、漸く大正11(1922)年刊行の『諏訪史一』にその遺跡名が記録され、厚手式(かつて縄文中期の土器形式を総称)・薄手式(縄文後期と晩期)・弥生式などの土器の分類名をあげている。その成果も太平洋戦争をむかえ、神国日本の狂騒の最中、後田原遺跡も忘れ去られ川岸小学校や塩坪公民館に保存されていたはずの出土された石器や土器が、教育の場であり、地元が誇れる遺物を預かる公民館でありながら、その殆どを喪失していた。
 戦後の昭和25年、川岸村は岡谷市との合併を直前にし『川岸村誌』を作成し正しい村史を後世に残そうとした。その一節に「軍国日本、神国日本を不当に評価するために、神や軍人以外すべてが不用であった日本歴史が、終戦後大規模に書き換えられた。とりわけ古代史は豊富な遺物を科学的に研究した考古学の力によって、その大部分が生まれ変わり、よろずの神々に代わって、狩りをし、米を食べる人間が登場した。 川岸村の正しい歴史も人間によってひらかれ、人間のたゆみない努力によって発展していったのである。」 とある。
 『川岸村誌』の編纂過程で郷土の歴史に関心をもつ川岸村の人々が、考古学史料を懸命に探し始めた。教職者中島英太郎もその一人で、住居に近い後田原の畑を耕していたとき、多くの土器片を発見した。それから数日かけて3mもない範囲から、すべての土器片を収集した。それが諏訪考古学研究所の藤森栄一に届けられた。やがて土器片が接合され2個の完形土器となった。さらにもともと底が壊れていたが、完形に近い2個の土器も復元された。これが梨久保式土器に次ぐ「後田原式土器」の命名となり、後田原遺跡が縄文中期の標式遺跡として注目されるようになった。後田原式土器は、平底で重厚な形と粗放であるが立体的な文様を描くのが特徴だ。関東の縄文中期最盛期の直前の型式である、千葉県香取郡小見川町阿玉台(おたまだい)貝塚出土の土器を標式とする阿玉台式土器の文様テクニックを要素にして、梨久保式の型式を飛躍させたが、縄文前期末以来の中部高地の技術的伝統までもは変えてはいなかった。
 後田原遺跡のある岡谷市川岸地区は、諏訪湖を源流として延々216㎞南下し遠州灘に注ぐ天竜川の最上流域の沿岸にある。その諏訪の平と伊那谷を結ぶ約10kmは、諏訪湖の落ち口・釜口水門から天竜川となり、まもなく両岸に山腹が迫る川岸地区の谷間となる。その右岸にある三沢区の高尾山の麓にいくらか開けた丘陵地があるほか、おおむねは天竜川が抉る地峡の渓谷である。しばしば激流となりがちな天竜川が急峻な山腹を創造するが、それでも狭いながらも侵食されずに扇状地や崖錐・丘陵が形成され、中でも橋原・三沢・志平(しびら)・新倉・鮎沢・夏明・駒澤など現在の地籍に、橋原遺跡、三沢地区の広畑・西除入(にしよけいり)・熊野神社境内遺跡、志平元屋敷遺跡、新倉の長塚遺跡、鮎沢大塚遺跡、夏明の後田原遺跡、駒沢の堂山・峯畑遺跡などが川岸地区の中心的遺跡となり、比較的長期間にわたる集落を維持していた。
 天竜川の下流域にあたる東西文化を融合させ発展してきた東海地方から、中流域の伊那谷に先進文化を呼び込み豊富な遺跡遺産を遺存させてきた。山深い諏訪の地に古くから活発な人間交流の足跡を遺し、先進文化が流入し続けてきたのも天竜川の存在が大きかった。やがて古代文明の先進地である畿内文化圏とも直接関わり合い、歴史上重要な数々の文化遺産を築き続けてきた。
 川岸地区でもとりわけ天竜川の西岸には、比較的広い扇状地があり、そこに広畑・長塚・後田原などの縄文中期を最盛期とする大集落が営なまれてきた。急峻な唐沢山塊をV字形に抉る後田沢が、天竜川に張り出してつくる扇状地上に後田原遺跡がある。天竜川から20m近い比高の急崖の台地に径100mを超す環状ないし馬蹄形の大集落があったとみられている。日当たりのよい高燥な後田沢扇状地は狩漁労と採集を生業とする縄文時代では、大集落を営むに最適な立地条件であった。
 戸沢充則(岡谷市出身)が昭和42年、『岡谷市史』編纂の過程で、中島英太郎宅を訪れた。その際中島が言うがままに、戸沢は幅1m、長さ2mの狭い試掘坑をあけた。すると後田原式土器」の典型といえる土器片が出土した。さらにその下はローム層を踏み固めた住居址の床面が現れた。中島の熱意が報われた。岡谷市教育委員会と岡谷市史編集室は、翌年43年8月3日~11日までの9日間、多くの市民の協力を得て後田原遺跡の発掘調査を行った。その本調査で、先の住居祉が第二号住居址として完掘されるなどの大きな成果を挙げた。
 当時の調査は、南北10m、東西50mの発掘区域であった。それは後田原遺跡全体の5%に満たないが、7ヵ所の住居祉を発見した。第一~第三号の住居址は完掘で、第七号住居址は耕作地であったため一部の調査だけで終わった。
 第一号住居址は後田原扇状地の東端の懸崖から3m手前の台地にあり、おそらくは最も東端にあった住居とみられている。その住居址は10~30㎝ほど掘られた竪穴式で、南北4.1m、東西3.7mの楕円形であった。炉跡が北側に在り、南側が低く崩れていることから、出入り用の開口があったとみられる。
 上屋を支える主柱穴が4ヵ所、他に3ヵ所の補助柱穴があった。その穴には礫石が詰められていた。炉跡は北と東西の3方向を河原石で囲み、南側は焚口として2個の石を低く並べている。40×34㎝の方形石囲炉で、当時としては比較的小形に分類される。炉の北側約50㎝ほどの所に拳大の礫石が径1mの範囲で敷き詰められていた。何か湿気を防ぐ保管方法で薪などの貯蔵品を蓄えたか。炉の南西約80㎝には、径40㎝、深さも40㎝ほどの小竪穴があった。ただ第一号住居址の南端の壁からはみ出しているため、この住居以前の遺構である。クリ・ドングリなどの堅果類の貯蔵用であろう。また炉付近から出土した完形土器は典型的な後田原式土器であった。礫群がクリなど植物性食料を調理する石焼施設とすれば、貯蔵穴は旧石器時代から既にあったとみられる。炉による調理には、器としての土器を前提としない。カルフォニアインデイアンのマイドゥ族は、緻密に編んだ篭に水と食料を入れて、ストーン・ボイリングを行っている。日本列島でも、先土器時代から獣皮製容器や樹皮・笹など植物製容器を使用していたようだ。
 第二号住居址はかつて中島英太郎が4個の完形土器を出土させ、後田原式土器を標式的史料とした住居祉であった。東西6.4m、南北7.5m
と大形の楕円形の竪穴住居址であった。中央より北寄りに5個の石で囲んだ炉址があった。しかし径60㎝ほどで住居址に比べ小さい。この炉址の南東約1mの床面にも径40㎝ほどの地床炉がある。いずれも焼土や灰がかなり堆積していた。住居祉の外壁より1~1.5m内側に溝がめぐらされて、溝の外側は一段と高くなっている。柱穴は15ヵ所あり、それも不規則な配置であった。そのうち数ヵ所は重複する他の住居祉である。以上を検証すれば、一口に縄文時代と称するが1万年を優に超える年月である。当然、住居の改築・拡張が繰り返されて当たり前である。第二号住居址からは、多くの後田原式土器と石器が出土している。
 第三号住居址からは完形土器と一部破損のある土器が3個と多数の土器片が床面付近から出土した。それは全て縄文中期中葉の井戸尻式土器であった。その標式遺跡は諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡である。八ヶ岳南麓、編笠山の末端、海抜800m~1,000mの尾根や台地上に立地する。
その釜無川に向かって緩やかに落ち込む傾斜地に縄文早期より住居を構え中期に全盛期を迎えた。

 昭和41年、岡谷市小尾口にあった諏訪湖尻北岸に発達した大遺跡、標高764m~769mの海戸遺跡では穴の上から小石を積んだ小竪穴が環状集落の中央付近からまとまって発見された。
 昭和45年12月から47年春まで、4回に亘って梨久保遺跡を緊急調査し、第一次と二次で梨久保式土器の発見という大きな成果を上げた。続いて第三次から六の調査で、12ヵ所の住居址と22ヵ所の小竪穴が密集する地区の発掘に成功した。
 昭和45年に発掘された長地横川の扇平遺跡は、横河川の東岸の扇状地にあるが百ヵ所を超える小竪穴が広く分布していた。
 近年、日本列島の度重なる乱開発により、遺跡の発掘が大規模になり、遺跡全体の大集落を前提とした発掘調査が常態化した。縄文時代の集落の民俗学的視点からの広域的な調査研究が当然となり、その発掘過程で必然的に小竪穴の遺構が注目された。
 こうした背景下、後田原遺跡で22ヵ所の小竪穴が発掘され、その内8ヵ所で形状・大きさ・包蔵されている土器・石器とその埋蔵仕様が明らかにされた。小竪穴の平面は正円形が主で、直径は90㎝~110㎝、深さは20㎝~60m、穴は意識的に埋没され、その土は同じ土壌であった。それにより一気に埋められた埋没墓と推測された。
 ロシア・ ヴラデミール市近郊の後期旧石器時代のスンギル遺跡では、2万5千年前の埋葬人骨が 多数発見されている。その中の3体は、何千というマンモス牙製のビーズその他で 念入りに装飾されていた。13歳位の少年は、4,903個のビーズをまとい、キツネの歯で飾られたビーズつきの帽子をかぶり、250本以上の北極熊の犬歯を装着したベルト、さらにマンモス牙製の動物形のペンダントを掛けている。左肩の下にはマンモス牙製のマンモス像が置かれてあった。
 ネアンデルタール人も、死者を丁寧に埋葬していた。フランスのラ・フェラシー遺跡では巨大な岩陰の洞穴に、合計7体のネアンデルタール人が埋葬されていた。体を強く折りまげられていたり、頭のうえに平石が置かれていた。イラク、イラン、トルコ3国の国境が交わる山岳地帯にあるイランのシャニダール洞窟遺跡では、28体ものネアンデルタール人の骨が見つかった。落石で事故死した遺骨もあった。障害のある者も含まれていた。花粉分析から墓には数種類の花が添えられていたことが分かった。
 大坂府藤井寺市のはさみ山遺跡では小さな谷を挟んで、住居祉から東南20m 余り離れたところに土坑が一基あった。副葬品らしい石核が2個並べてあった。大分県豊後大野市清川町の岩戸遺跡では、長軸1.7mの台形をした河原石を深さ10㎝ほどで配列した集石墓と思われる遺構が発見された。北海道今金町美利河1遺跡(びりか)では、土坑は発見されなかったが、かんらん岩製の玉7点が出土した。それはバイカル湖周辺の石材を使った大陸の製品で死者の着装品とみられている。
 後田原遺跡のいくつかの小竪穴には特別な遺存状態で置かれた土器や石器が包蔵されている。小竪穴Bは深さ30㎝の浅いタライ形で、打製石斧3・凹石1・石鏃1が置かれてあった。その外にもE・H・J・O・S・Tなど6ヵ所の小竪穴にも石器が遺存した。小竪穴Tでは底に2枚の平石を敷き、上に深鉢型土器が口縁部を下にして置いてあった。小竪穴Sでは埋め土の真上に、1個分の土器を砕いてばらまいてあった。いずれにしても作為的である。
 22ヵ所の小竪穴の内、1個の土器を出土したものが9ヵ所、2型式以上の土器が包蔵されていたのが5ヵ所あった。いずれにも梨久保式土器が必ずあり、それに下島式と後田原式が共伴した。その一連の土器形式が縄文中期初頭の先駆となった文化であれば、集落が営まれる過程で、古い土器は、家族と共に埋葬され、新しい土器は住居内で大切に使われていたと考えられる。
 後田原遺跡は八ヶ岳山麓の縄文中期の遺跡と比べて打製石斧・乳棒状磨製石斧・粗大皮剥などの耕作用の土掘具と見られる石器が少ない。石鏃や小形?片石器など狩漁労の道具が目立つ。特に漁網用の石錘が1点出土している。天竜川沿岸の遺跡としての特徴である。


細久保遺跡
 細久保遺跡は霧ケ峰池のくるみの西方約2km、角間川の上流左岸の、通称科ノ木平の南辺部の足倉山から北西に延びる丘陵地に位置する。標高は1,330m、角間川まで400m、比高40mある。沢が流れ小丘陵が入り組んだ地形で、遺跡のある丘は15度から20度の傾斜があり、平坦部は幅5m程度の痩せた尾根であるが、狩猟には好条件を備えている。
 科ノ木平とその周辺は第二次世界大戦から畑地として開墾され、その際遺物が採集されていた。発端は、この畑の地主が採集した遺物が、松沢亜生の慧眼に触れたことでにあった。松沢の調査により細久保の地籍には押型文土器が出土する地点と、それ以降の縄文土器が出土する地点の2つの遺跡の存在が知られた。諏訪考古学研究所は前者の遺跡を重視し、昭和25年から2年間、藤森栄一・戸沢充則・松沢亜生により発掘調査が行われた。延べ7日間、特に遺物が集中すると思われた約20m2~25m2の限定された範囲の発掘調査で土器と石器が集中的に出土した。その土層の堆積状態は黒色土が約40㎝と厚く、その下層がロームへの漸移層である褐色土が10㎝、それからローム層となる。遺物は黒色層約30㎝~45㎝下から出土した。この狭い範囲から土器片が601点、石器類が10数点が伴出した。破片数であるが押型文土器片が558点、撚糸文及び縄文土器片43点や無文土器片30点・その他型式の土器片8点・文様が剥離して不明なもの24点などが採取された。結果として分かったのは、縄文早期の押型文土器期の遺跡で、集落的な物は無く、食料確保のための狩場であり、堅果類など山菜採集の一時的滞在場所と想定されている。
 この時代になると、今まで遺跡の無かった諏訪湖西南の西山地区にも、大安寺遺跡・本城遺跡などが営まれる。諏訪地区でも竪穴式住居が普及し、小規模な集落が出現する。
 栃窪岩陰遺跡・御座岩遺跡・棚畑遺跡でも、押型文土器が発見されている。押型文土器を特徴とする早期前半、上川流域の蓼科・霧ケ峰山麓と、宮川を臨む八ヶ岳山麓の丘陵先端部にも、生活の本拠としての遺跡がみられるようになる。


棚畑遺跡
 棚畑遺跡(たなばた)は、茅野市本町の北・旧矢ケ崎にあり、現字名は城山入で、永明寺山裾から山腹に入り込んだ谷間の高台にあり、標高は850mである。現在、城山(じょうやま)と呼ばれ、その急峻な地に昭和45年、市営の住宅団地が造成され、この遺跡は消滅したばかりか、往時の面影も失った。城山の地名は、築城年代は定かではないが矢崎氏が居城とした齢松山城(しろやまじょう)に由来する。
 開発前は山腹から流れる湧き水により、南の入り口部は狭く浅い谷があった。西側はテラス状台地の棚畑であった。東側は永明寺山支峰の鬼場城である。
 棚畑遺跡の同じ場所で、主に縄文時代早期から中期まで、何回も居住が繰り返されてたのは、山腹からの湧き水の存在と背後の霧ケ峰に連なる丘陵が育むミズナラ林などによる堅果類と、鹿・猪等が水場として集まる上川沿いを見渡す丘であったからと考えられる。
 茅野市教育委員会は市営団地造成に先立ち緊急に発掘調査をした。縄文早期の遺構と推定される配石群、中期初頭の住居址1、弥生時代と平安時代の住居址が各1ケ所、小竪穴4ヵ所が発掘された。特に注目されたのは、拳大から乳児頭大の河原石や角礫を並べた配石遺構8群が、ほぼ6m四方に集中して発掘された。それは地表から40㎝~60㎝の褐色土層に埋もれていた。埋葬のため土坑の周囲に巡らせた周石墓遺構であり墓標にもなっていた。
 長野県明科町(あかしな)の北村遺跡は縄文中期から後期の集落で松本平の東北端にあり、町の中央を流れる犀川沿岸の丘陵に立地している。ここで300体にのぼる縄文時代の人骨が発掘された。湧水に守られ、指の先まで骨が残るほどの良好な保存状態であった。
 棚畑遺跡の共同墓地一帯の地下8mほどから発見された。成人男女の人骨にはイノシシの牙製ペンダントやブレスレットで装飾されたり、顔面が土器で覆い隠されていたり、枕石が頭部に添えられていたり、埋葬も伸展葬や屈葬などがあり、抜歯の風俗までも確認された。石と墓坑を組み合わせた約80基の配石墓に、側縁部に長方形の河原石を並べた例、内部に大形の扁平礫を敷いた例、内部に小形の河原石を敷いた例、遺跡内部に敷石を詰めた例、大形の扁平礫を円形土坑の周囲に立て並べた例など、肉親の死者対する思いが様々に表現されていた。
 棚畑遺跡では磨石が多量に出土し、特に特殊磨石である穀摺石(こくずりいし)とよばれる摩痕のある長楕円形や棒状の石器が破片を含め70点が検出された。穀摺石は凹石にドングリなどの堅果類を置き、それを砕く調理具である。湧水が最も多い南側の緩斜面に共同の調理場があったのか、集落共同体のその配石群の中に焼石と焦土の堆積が見られた。古代の伏屋式や竪穴式の家屋では、寒冷期には地床炉の暖は有難いが、夏季では種火を保存するのが精一杯で、通常屋外の炉を活用した。その内外では、縄文早期の特徴である尖底土器8点も出土している。押型文土器・撚糸文土器・条痕文土器・無文土器等で、特に押型文土器は出土点数が多い。その文様は格子目文を最多として、楕円文が次に多く、次の山形文は少なく、特殊な井桁状文は僅かに出土する。
 また条痕文土器は縄文早期後半の土器で、出土遺跡数も増え、同時に分布範囲も広がっている。 未発達な段階であったが中期初頭の竪穴住居址が1ヵ所発見され、径は3.9m×3.3mの楕円形であった。上川流域を一望する谷頭にあり、孤立の呈であるが狩猟には適していた。この住居祉は、はっきりした柱穴や周溝までは確認できなかった。しかし地床炉があり、焼土が堆積していた所から球形の磨石が出土した。住居址の北側には平らな花崗岩が敷かれ、その近くから棒状の石器と半截竹管による平行沈線と三角形陰刻文が施文された中期初頭の梨久保式土器の大破片も遺存していた。キャンプサイトとは考えられず一定期間の定住性が窺われた。ここの床面から口の欠けた、高さ8.5㎝、底部は円形だが口縁部が長楕円形の小形土器が出土した。富山県の布尻遺跡では縄文後期の高さ9.3cmの成形痕が明らかでありながら美しい姿の小形土器が出土している。同県A遺跡では縄文中期の素朴なワイングラス的な高さ9.2cmの小形土器が出土している。鹿児島県の上野原遺跡でも縄文早期後葉、約7,500年前の小形土器が多数出土している。
 この住居祉の覆土の上には、埋甕炉を備える弥生時代の住居址が遺存していた。
 乳棒状磨製石斧
(にゅうぼうじょう)が一つだけ西壁の上の載せられていた。その石斧は木の柄を着けて、木を切ったり細工したりする道具で、敲打技法といい石核などのハンマーでコツコツ敲いて打ち削る方法で形を整え、刃部を磨いで石斧に作りあげたものである。
 
 弥生時代および平安時代の住居址も各1ケ所、縄文中期・後期・弥生式等と各年代の土器も見られ、土師器・須恵器なども出土した。また小竪穴4ケ所も発見されている。2ヵ所は配石墓よりやや下った場所にあり、1個は配石と重なり、別の1個は1.8m離れた斜面に並列するように配置されている。それぞれ径1.2m と90㎝の円形で、断面形は椀形とたらい状で、底部に小孔が穿たれてあった。比較的浅い竪穴で、湧水地にも近く「落とし穴」とみられている。
 昭和40年、茅野市蓼科の城ノ平遺跡で23基の小竪穴が発見された。その調査報告で狩猟目的の落とし穴ではないかと指摘され論議を呼んでいた。
 霧ヶ峰南麓の標高約1,300~1,550mの高原地帯から、旧石器時代から縄文時代の遺跡が多数発見されジャコッパラ遺跡群と呼ばれている。その「池のくるみ」の東のイモリ沢を水源とする桧沢川の上流を下れば霧ヶ峰高原直下の山腹にある大久保A遺跡に出る。縄文時代、黒曜石の集石と搬出の中継拠点となった遺跡である。そのまま桧沢川沿いを進めば塩沢・北大塩・米沢を経て上川と合流する。
 昭和61年から62年にかけて緊急調査が行われたジャコッパラ第一遺跡(ジャコッパラNo.1)から縄文時代の「落とし穴遺構」が発見された。その遺跡は棚畑遺跡の北方、桧沢川と横河川が形成する二筋の谷を見下ろす広い尾根上にある。標高約1,410~1,460mあり、縄文早期から前期の土器などや旧石器時代のナイフ形石器・槍先形尖頭器などが採集されている。発掘調査により尾根の中央部で4基、尾根の西側斜面を抉る小さな支谷の最深部で10基が発見された。さらに黒曜石製石鏃数点が見つかり、縄文時代の狩場であったことが明らかになった。形が似た同士の遺構の並び具合をみると、それぞれが地形に沿って規則的に並んでいる。また西側の支谷には流水の痕跡があり、かつてこの水場に集まる動物を狙った「落とし穴」だったと確認された。その底からは小枝や葦のような植物遺体があり、落とし穴をカムフラージュした覆いとみられている。この調査区以外の周辺にも、数基一組の落とし穴群が展開し埋没している可能性が高い。
 ジャコッパラ第一遺跡の落とし穴は平面形が楕円形や円形で、底部にむけてすぼまっている。その底部に多くは小穴が一つないし複数掘られている。それは遺構の長軸に沿って数基配列されたものや、中心に小穴が集中するものがある。東京多摩ニュータウン遺跡では縄文中期の逆茂木が遺存している落とし穴があった。逆茂木でなくとも、ターゲットにするシカやイノシシの脚より長い杭を立てておけば、その杭に胴体が突っ掛かり身動きができなくなり生け捕りも可能である。穴の幅を狭べれば落ちて、はまり抜け出せない。興味深いのは、しばしば落とし穴遺構の周辺から拳大の礫石が多数発見されることだ。穴に落ち死にもの狂いとなった獰猛な獣たちに対蹠する石つぶてのようだ。

 富士の裾野にある静岡県愛鷹山遺跡では旧石器時代の約3万1千年前頃に落とし穴が掘られていた。箱根山麓の三島市の初音ヶ原遺跡では、約2万7千年前と推定される落とし穴が60基発見され、径約1.4m・深さ約1.8mあり、台地に沿って75mほどの弧状に並んでいた。集落全体のマンパワーを総動員し、比較的広範囲に落とし穴を敷設し、一気に追い込む猟の遺構と推測される。棚畑遺跡のように単独で僅かな落とし穴で獣道に仕掛けをする待ちの猟と、ジャコッパラ第一遺跡のように獣の逃げ道を予想し多数の落とし穴を効率的に配置し、縄文時代であれば犬による追い込み猟がなされた。柵などを配置し誘導もしていた。
 棚畑遺跡の落とし穴遺構の覆土から条痕文土器や前期末から中期初頭の土器片と石鏃が出土している。
 棚畑遺跡の配石墓群より北側に、赤土で厚く塗り固められた竪穴が発掘された。径130㎝、深さ70㎝で粗雑に椀状に穿われている。小穴もある。竪穴内の覆土は黒褐色で、縄文早期の押型文や条痕文土器片と中期の土器片が出土し、凹石・石鏃・その他黒曜石屑が伴出した。その上に赤土で厚さ30㎝~40㎝が盛土され緻密に塗り固められていた。その東側には余った赤土が堆積していた。
 棚畑遺跡の縄文中期初頭の住居祉からやや北寄りに、調査報告書で第一号住居祉とした、径180㎝の円形で、深さ55㎝あり、壁が斜坑しているため底部の径は110㎝になる。平らな底部の壁際の南北に相対する斜面に、11個の小孔が不規則に垂直に穿かれている。その竪穴を囲んで径7㎝前後、深さ30㎝の小孔が等間隔に配置されている。おそらくは上屋を架した貯蔵庫とみられる。

 石器は縄文早期の特徴をよく備えた石鏃が、配石遺構一帯から73点出土した。鍬形鏃・その他の剥片鏃などで2.6cmにも満たない小ささだが精巧な作りであった。鍬形鏃は諏訪湖の湖底に遺存する曽根遺跡からも出土し、縄文早期と特定できる数少ない史料となっている。また3㎝以下の粗い両面調整の尖頭器形の石鏃も曽根遺跡同様出土している。恐らく石鏃が登場した初期のものと思われる。それ以降の前期・中期の分も含めると109点になり、断続的にこの丘陵上で生活が営まれてきたとしても、多量の石鏃が製作され使用されていた。狩猟も依然として欠かせぬ生業であった。小型の掻器・削器の他、石匙3点、磨製石斧3点、打製石斧27点、凹石16点、磨石が83点と多量に出土している。特に穀摺石70点は、側面に磨き痕のある長楕円形や棒状のもので、植物性食料の調理用石器といわれている。
 余り類例のない石器では、鉄平石や砂岩等を石材とする板状石器が10点発見された。時代の確定はできないが、板状の石を手ごろな大きさに割り、最も薄い側縁の両面を敲いて直線または弧状に粗い刃を付けていることから、堅果類を砕く調理具と推測される。 棚畑遺跡でも一定期間の定住性を推定できるが、永明寺山麓の遺跡群のうち、山懐の狭い平地や段丘上に立地するものは、当然小規模なものとなる。
 棚畑遺跡の縄文早期は押型文を主体とする土器群であるが、早期末葉には厚手の繊維土器が登場し、絡条体圧痕文貝殻条痕文が施文されている。前者は細い縄を棒に巻きつけてそれを押し付けながら転がす文様である。後者は、貝殻を押しあててつける文様を貝殻圧痕文というが、そのうち二枚貝の腹縁部を 押しあてて施した文様を貝殻腹縁文といい、口縁部を押しあてたまま引きずると貝殻条痕文と呼ぶ。縄文早期は、様々なバリエーションに富んだ土器が登場した時期で、その文様は、関東地方一帯では縄や撚糸を土器面に転がして施文する「縄文」や「撚糸文」が主流であった。前期前葉では、全国各地に貝殻条痕文が一般的となるが、棚畑遺跡では出土量が特に多い。
 土器は粘土紐を巻きながら積み上げて製作される。粘土だけでは通常、乾燥した時にひびが入り、稀にひびが生じなくても焼くと破裂する。 そのため耐火性をつけるため混和材をまぜる。砂が主であるが、砕いた石・赤土・黒土などや獣毛を入れる。適度の配合が要求され、入れ過ぎると粘性と腰が弱くなる。繊維土器は植物繊維を混和材としている。富山・長野・岐阜県の縄文早期の、帯状施文で上から下まで押型文が施文されている沢式押型文土器黒鉛を混ぜている。棚畑遺跡では前期前葉に無文の繊維土器も登場している。
 
 茅野市宮川茅野の御社宮司遺跡もこの時代のもので、宮川が形成する扇状地の末端にある。縄文時代から近世に至る遺跡である。
 一方茅野市の中心部の本町や塚原・上原・横内は、上川沖積地に接する広い段丘にあり、その周辺の段丘から湧き出る豊富な水源と、上川での漁撈も可能な好条件から、大規模集落が営まれていた。この一帯は塚原の名のごとく古墳が数多く分布していたが、水稲耕作地として早くから拓かれ、最早、開発しつくされたといえる。

高風呂遺跡
 高風呂遺跡(たかぶろ)には、縄文早期後半の住居址がある。茅野市湯川の音無川の西岸、標高965mの尾根上台地にある。車山山麓の南縁にあたるカシガリ山の南斜面は枝状に分岐し、多数の尾根上の台地を形成している。高風呂遺跡はそうした孤立丘陵化した台地上にある。台地の北西側と東側に大きな湧水地があり、その水量は豊かだ。古くから遺跡と知られ、当遺跡を地元の人は「タケブロ」と呼んでいる。 高風呂の台地は開田による削平が著しかったが、昭和59年の約2千mに及ぶ発掘調査により、縄文時代早期から中期末に亘る遺構が発掘された。

 八島ヶ原周辺から和田峠にかけては、旧石器時代以来、縄文時代に至るまでの数万年に及ぶ長い年月、当時の生業に欠かせない大事な石器の石材・黒曜石の供給地帯であった。特に東日本の人々にとって、まさに「宝の山」で、星糞峠星ヶ塔などでは黒曜石の廃坑が多数遺存しており、その時々の生活痕跡が彼らが持ち運んだ様々な縄文土器にとどめられている。霧ヶ峰南麓に入り組む谷間や峠道に沿って黒曜石を運ぶ幾筋もの「かもしかみち」が通じ次第に各地に広く繋がっていった。それは各地の産物や文物を運ぶ入れる「交易の道」でもあった。旅の途中で仮宿とした栃窪岩陰遺跡のような場所には、置き忘れられた遺物が時代の推移を語ってくれる。
 高風呂遺跡から西側のホウロク峠を越え藤原川を北上し、カボチョ山カシガリ山の谷筋を抜け、そこで車山の山腹に沿うように西側に方向転換すれば、それが古来からの「クマウチルート」である。霧ケ峰「池のくるみ」の東側に出る。そこには旧石器時代から縄文時代の「池のくるみ遺跡群」が広く埋没している。さらにイモリ沢を北上し車山肩に登れば、八島ヶ原高原が眼下に広がる。
 昭和59年の調査により高風呂遺跡は縄文早期末から中期末にわたる遺跡で、特に縄文時代前期初頭から中葉のものが主体であった。 竪穴住居址は49ヵ所・土坑38・方形柱穴列(ほうけいちゅうけつれつ)1・集石6ヵ所が発掘された。住居址は伴出土器により、早期末葉3・前期初頭5・前期中葉13・前期末葉4・中期初頭1・中期中葉8・中期末葉2・不明13に分類された。この49ヵ所に及ぶ住居址の出土は予想を超えていた。縄文時代早期末葉の最も大きい本核的な竪穴住居址は、長軸5.4m、短軸4.6mの長方形で、4本柱の主柱穴と径10cm~15cmの孔が数十ケ所の壁柱穴として住居址内を全周する構造であった。合掌造りではなく、壁柱や梁・桁がなく、垂木の上部を束ねて、下部を地面に拡げるだけで、萱などを屋根を兼ねる斜形の垂木にのせる「伏屋式』あった。炉址は発見されていない。この時代になると定着性が増し、数件の集落が列島各地で確認されている。 高風呂遺跡では縄文早期末から前期初頭にかけての土器がまとまって出土している。主に貝殻条痕文土器破片が多数で、それに混じって押型文土器破片も数点出土した。
 
 石器は早期以降の黒曜石製石鏃が多量に出土し、石錐などの黒曜石製の小型で簡単な剥片石器も豊富に共伴した。また特殊磨石と呼ばれる断面が三角形の安山岩石器も、この時代の特徴で、石皿同様出土例が多い。他には流紋岩剥片を粗雑に加工した横刃形石器も目立つ。狩猟後の動物の皮剥ぎ用か、ヒエやアワなどの雑穀を栽培し、その穂摘具(ほつみぐ)ともみられる。この遺跡の全時代を通して打製石斧は少なく、あっても小型である。
  前期初頭の住居址は5例あったが、それ以降の時代と重複し入り組み全容は明らかにならなかった。ただ8号住居址で全体の遺構が明らかになり、平面形は不整形な長方形で、約4.5m×約3mである。主柱穴がコーナーあたりで発見された。炉跡は床面を簡単に掘るだけの地床炉であった。この時代以降、炉が住居内に取り入れられるようになる。焼土の範囲は広いが住居址のほぼ中央にある。また屋内に黒曜石を貯蔵するピットも発見された。
 この8号住居祉は遺物の遺存状態、焼土、炭化物の堆積状態から火災で焼失した痕跡がある。尖底土器が床に突き刺さった状態で出土し、東海系の薄手土器と尖底の繊維土器が重なって発見された。石器は石皿、砥石、磨石で奥壁に置かれた状態で遺存して、植物性食料の比重が増したことを窺わせった。
 前期中葉になると、大幅に住居址が増え、47号住居址のように7m×5mほどの大形なものが登場する。構造的には前期初頭から進歩した様子は窺えず、ただ屋内に炉が設けられるのが常態化する。さらに深さ1mの孔が周囲する4m四方の方形柱穴列も発見された。それは縄文前期前半に集中する諏訪地方に特有の遺構で、原村阿久遺跡(あきゅう)で17基、茅野市阿久尻遺跡(あきゅうじり)で20基、遺跡諏訪市十二ノ后遺跡(じゅうにのき)で3基と住居並みに建てられていた。 ただ住居というよりは倉庫、或いは祭祀場などのような特殊な用途があったとみられている。23号住居祉は壁際に全体を巡る小孔が確認された。屋内には各地で出土例が多い黒曜石の貯蔵穴があった。
 特記すべきは、加熱後のベンガラ(赤鉄鉱)11.1kgを保管している住居址の存在である。ベンガラは赤色塗料の原料で、その住居址には、それを潰す際に利用した台石もあった。ベンガラは、酸化鉄で、かつてインドのベンガル地方産出のものを輸入していたことから、その名称の語源とされた。旧石器時代のフランスのラスコーやスペインのアルタミラの洞窟壁画にも用いられており、世界中どこでも土の中から採取できる
。日本では、北海道から東北部にかけて、その縄文後期から晩期にかけてベンガラがまかれた遺跡が発掘されている。縄文時代後期後半、約3,500年前北海道の恵庭市カリンバ遺跡では、墓の底に赤いベンガラが数㎝の厚さでまかれていた。縄文時代の屈葬において、遺体の頭から胸部にかけてベンガラを散布する風習もみられた。一方、ベンガラは縄文・弥生時代の土器の彩色や、高松塚古墳の魔よけの「赤」に使用されている。
 高風呂遺跡は縄文時代早期末葉から1千年は優に超える遺跡であるから、縄文中期になるとj住居はかつての住居址の上に構築されて混在し構造上の細部を調査し難くなる。ただ前期では台地の外辺に展開している。未だ狩猟が重要な生業で、音無川流域に集まるシカやイノシシなどの動静が常に気になっていたようだ。中期になると内部に集合していく傾向があるが、後背に深く広がるミズナラ林のドングリやクリ・クルミ・カヤ・トチなどの堅果類の方に生業の重点が移ったようだ。24号住居祉は一軒だけ離れて孤立する様子も窺えた。いずれにしろ基本的な集落の形は、音無川を見下ろす台地に沿うように営まれたため馬蹄形に近いものとなる。
 縄文早期末から前期初頭にかけての土器がまとまって出土した。高風呂遺跡でも特に東海系の土器など目立ち、中部高原台地にある遺跡が旧石器時代から関東地方との繋がり深い事は明らかだが、東海地方との関連がある遺物が諏訪の諸所に、しかも多量に出土していながら、確たる分析調査が未だ進んでいない。尖底土器の底部が突き刺さった状態で出土し、同じく東海系の薄手土器と尖底の繊維土器が重なり床面に倒れた状態で出土した。いろいろなことが想定され興味深い。
 14号住居址から特別多くの土器が発見された。その中に胴部に顔面を配した有孔鍔付土器(ゆうこうつばつき)の破片が出土した。棚畑遺跡では縄文時代中期の完形に修復された有孔鍔付土器が出土し、尖石縄文考古館で展示されている。器高は、それぞれ16.5cm・13.5cm・10.0cmなどと小形である。尖石遺跡では器高51.0cm、最大幅40.0cmもある縄文時代中期前半の大形のものが出土している。有孔鍔付土器は、一様に土器の口が平らに作られている。その下に刀の鍔(つば)のような粘土の帯が付けられ、更にその上部に幾つもの小さな孔(あな)が一定の間隔であけられ貫通している。
 中部から関東地方の前半期に浅鉢形の有孔土器が出現する。墓の副葬品として出土する事が多く、酒を造る発酵器と考えられ、ムラの祭りの時に使われようだ。三内丸山遺跡からは、畳3畳分の場所から植物遺体で固まった厚さ約5~10㎝の堆積層が出土した。ヤマブドウ、サルナシ、ヤマグワ、キイチゴなど「酒造用」植物の種が検出されている。そのうち大部分がエゾニワトコだった。縄文前期の秋田県大館市釈迦内の池内遺跡(いけないいせき)では、植物繊維が絡まったニワトコの果実の種が発見された。縄文人が、植物繊維で果実を絞り発酵させ果実酒造っていた痕跡であろう。
 有孔土器は扁平広口で、口の周りに数多くの孔が開けられている。平らな口は蓋をし果実を発酵させて酒を作るためであり、孔はガス抜き用と考えられている。ヤマブドウなどの木の実で酒作りをしたようだ。中期前半には、口の下に帽子の鍔のような隆起が巡り、口と鍔の間に貫通孔が巡らされる有孔鍔付土器となり中部から東北地方まで伝播する。