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高風呂遺跡 高風呂遺跡(たかぶろ)には、縄文早期後半の住居址がある。茅野市湯川の音無川の西岸、標高965mの尾根上台地にある。車山山麓の南縁にあたるカシガリ山の南斜面は枝状に分岐し、多数の尾根上の台地を形成している。高風呂遺跡はそうした孤立丘陵化した台地上にある。台地の北西側と東側に大きな湧水地があり、その水量は豊かだ。古くから遺跡と知られ、当遺跡を地元の人は「タケブロ」と呼んでいる。 高風呂の台地は開田による削平が著しかったが、昭和59年の約2千m2に及ぶ発掘調査により、縄文時代早期から中期末に亘る遺構が発掘された。 八島ヶ原周辺から和田峠にかけては、旧石器時代以来、縄文時代に至るまでの数万年に及ぶ長い年月、当時の生業に欠かせない大事な石器の石材・黒曜石の供給地帯であった。特に東日本の人々にとって、まさに「宝の山」で、星糞峠や星ヶ塔などでは黒曜石の廃坑が多数遺存しており、その時々の生活痕跡が彼らが持ち運んだ様々な縄文土器にとどめられている。霧ヶ峰南麓に入り組む谷間や峠道に沿って黒曜石を運ぶ幾筋もの「かもしかみち」が通じ次第に各地に広く繋がっていった。それは各地の産物や文物を運ぶ入れる「交易の道」でもあった。旅の途中で仮宿とした栃窪岩陰遺跡のような場所には、置き忘れられた遺物が時代の推移を語ってくれる。 高風呂遺跡から西側のホウロク峠を越え藤原川を北上し、カボチョ山とカシガリ山の谷筋を抜け、そこで車山の山腹に沿うように西側に方向転換すれば、それが古来からの「クマウチルート」である。霧ケ峰「池のくるみ」の東側に出る。そこには旧石器時代から縄文時代の「池のくるみ遺跡群」が広く埋没している。さらにイモリ沢を北上し車山肩に登れば、八島ヶ原高原が眼下に広がる。 昭和59年の調査により高風呂遺跡は縄文早期末から中期末にわたる遺跡で、特に縄文時代前期初頭から中葉のものが主体であった。 竪穴住居址は49ヵ所・土坑38・方形柱穴列(ほうけいちゅうけつれつ)1・集石6ヵ所が発掘された。住居址は伴出土器により、早期末葉3・前期初頭5・前期中葉13・前期末葉4・中期初頭1・中期中葉8・中期末葉2・不明13に分類された。この49ヵ所に及ぶ住居址の出土は予想を超えていた。縄文時代早期末葉の最も大きい本核的な竪穴住居址は、長軸5.4m、短軸4.6mの長方形で、4本柱の主柱穴と径10cm~15cmの孔が数十ケ所の壁柱穴として住居址内を全周する構造であった。合掌造りではなく、壁柱や梁・桁がなく、垂木の上部を束ねて、下部を地面に拡げるだけで、萱などを屋根を兼ねる斜形の垂木にのせる「伏屋式』あった。炉址は発見されていない。この時代になると定着性が増し、数件の集落が列島各地で確認されている。 高風呂遺跡では縄文早期末から前期初頭にかけての土器がまとまって出土している。主に貝殻条痕文土器破片が多数で、それに混じって押型文土器破片も数点出土した。 石器は早期以降の黒曜石製石鏃が多量に出土し、石錐などの黒曜石製の小型で簡単な剥片石器も豊富に共伴した。また特殊磨石と呼ばれる断面が三角形の安山岩石器も、この時代の特徴で、石皿同様出土例が多い。他には流紋岩剥片を粗雑に加工した横刃形石器も目立つ。狩猟後の動物の皮剥ぎ用か、ヒエやアワなどの雑穀を栽培し、その穂摘具(ほつみぐ)ともみられる。この遺跡の全時代を通して打製石斧は少なく、あっても小型である。 前期初頭の住居址は5例あったが、それ以降の時代と重複し入り組み全容は明らかにならなかった。ただ8号住居址で全体の遺構が明らかになり、平面形は不整形な長方形で、約4.5m×約3mである。主柱穴がコーナーあたりで発見された。炉跡は床面を簡単に掘るだけの地床炉であった。この時代以降、炉が住居内に取り入れられるようになる。焼土の範囲は広いが住居址のほぼ中央にある。また屋内に黒曜石を貯蔵するピットも発見された。 この8号住居祉は遺物の遺存状態、焼土、炭化物の堆積状態から火災で焼失した痕跡がある。尖底土器が床に突き刺さった状態で出土し、東海系の薄手土器と尖底の繊維土器が重なって発見された。石器は石皿、砥石、磨石で奥壁に置かれた状態で遺存して、植物性食料の比重が増したことを窺わせった。 前期中葉になると、大幅に住居址が増え、47号住居址のように7m×5mほどの大形なものが登場する。構造的には前期初頭から進歩した様子は窺えず、ただ屋内に炉が設けられるのが常態化する。さらに深さ1mの孔が周囲する4m四方の方形柱穴列も発見された。それは縄文前期前半に集中する諏訪地方に特有の遺構で、原村阿久遺跡(あきゅう)で17基、茅野市阿久尻遺跡(あきゅうじり)で20基、遺跡諏訪市十二ノ后遺跡(じゅうにのき)で3基と住居並みに建てられていた。 ただ住居というよりは倉庫、或いは祭祀場などのような特殊な用途があったとみられている。23号住居祉は壁際に全体を巡る小孔が確認された。屋内には各地で出土例が多い黒曜石の貯蔵穴があった。 特記すべきは、加熱後のベンガラ(赤鉄鉱)11.1kgを保管している住居址の存在である。ベンガラは赤色塗料の原料で、その住居址には、それを潰す際に利用した台石もあった。ベンガラは、酸化鉄で、かつてインドのベンガル地方産出のものを輸入していたことから、その名称の語源とされた。旧石器時代のフランスのラスコーやスペインのアルタミラの洞窟壁画にも用いられており、世界中どこでも土の中から採取できる 。日本では、北海道から東北部にかけて、その縄文後期から晩期にかけてベンガラがまかれた遺跡が発掘されている。縄文時代後期後半、約3,500年前北海道の恵庭市カリンバ遺跡では、墓の底に赤いベンガラが数㎝の厚さでまかれていた。縄文時代の屈葬において、遺体の頭から胸部にかけてベンガラを散布する風習もみられた。一方、ベンガラは縄文・弥生時代の土器の彩色や、高松塚古墳の魔よけの「赤」に使用されている。 高風呂遺跡は縄文時代早期末葉から1千年は優に超える遺跡であるから、縄文中期になるとj住居はかつての住居址の上に構築されて混在し構造上の細部を調査し難くなる。ただ前期では台地の外辺に展開している。未だ狩猟が重要な生業で、音無川流域に集まるシカやイノシシなどの動静が常に気になっていたようだ。中期になると内部に集合していく傾向があるが、後背に深く広がるミズナラ林のドングリやクリ・クルミ・カヤ・トチなどの堅果類の方に生業の重点が移ったようだ。24号住居祉は一軒だけ離れて孤立する様子も窺えた。いずれにしろ基本的な集落の形は、音無川を見下ろす台地に沿うように営まれたため馬蹄形に近いものとなる。 縄文早期末から前期初頭にかけての土器がまとまって出土した。高風呂遺跡でも特に東海系の土器など目立ち、中部高原台地にある遺跡が旧石器時代から関東地方との繋がり深い事は明らかだが、東海地方との関連がある遺物が諏訪の諸所に、しかも多量に出土していながら、確たる分析調査が未だ進んでいない。尖底土器の底部が突き刺さった状態で出土し、同じく東海系の薄手土器と尖底の繊維土器が重なり床面に倒れた状態で出土した。いろいろなことが想定され興味深い。 14号住居址から特別多くの土器が発見された。その中に胴部に顔面を配した有孔鍔付土器(ゆうこうつばつき)の破片が出土した。棚畑遺跡では縄文時代中期の完形に修復された有孔鍔付土器が出土し、尖石縄文考古館で展示されている。器高は、それぞれ16.5cm・13.5cm・10.0cmなどと小形である。尖石遺跡では器高51.0cm、最大幅40.0cmもある縄文時代中期前半の大形のものが出土している。有孔鍔付土器は、一様に土器の口が平らに作られている。その下に刀の鍔(つば)のような粘土の帯が付けられ、更にその上部に幾つもの小さな孔(あな)が一定の間隔であけられ貫通している。 中部から関東地方の前半期に浅鉢形の有孔土器が出現する。墓の副葬品として出土する事が多く、酒を造る発酵器と考えられ、ムラの祭りの時に使われようだ。三内丸山遺跡からは、畳3畳分の場所から植物遺体で固まった厚さ約5~10㎝の堆積層が出土した。ヤマブドウ、サルナシ、ヤマグワ、キイチゴなど「酒造用」植物の種が検出されている。そのうち大部分がエゾニワトコだった。縄文前期の秋田県大館市釈迦内の池内遺跡(いけないいせき)では、植物繊維が絡まったニワトコの果実の種が発見された。縄文人が、植物繊維で果実を絞り発酵させ果実酒造っていた痕跡であろう。 有孔土器は扁平広口で、口の周りに数多くの孔が開けられている。平らな口は蓋をし果実を発酵させて酒を作るためであり、孔はガス抜き用と考えられている。ヤマブドウなどの木の実で酒作りをしたようだ。中期前半には、口の下に帽子の鍔のような隆起が巡り、口と鍔の間に貫通孔が巡らされる有孔鍔付土器となり中部から東北地方まで伝播する。 |