(チャートは、主にケイ酸質の殻をもった0.1mm程度の放散虫という海産浮遊性原生動物が堆積してできた2億年前の中生代ジュラ紀のガラス質の化石である。硬い岩石で層状をなし粘りのある鋭利な剥片を得ることが可能となる。近畿南部や四国南部、東九州周辺域ではチャートが多く産出する。
サヌカイトは、火成岩である古銅輝石安山岩の一種で、北海道・関東・九州地方で石器に多く利用されている。割れると鋭い縁をもつサヌカイトは石器に適しており、黒曜石同様盛んに使われていた。サヌカイトが石器に多く利用される傾向は、次の縄文時代や弥生時代になっても変わらない。香川県坂出市に位置する金山(かなやま)は、一大産出地として知られている。和名は讃岐石。
頁岩(けつがん)は堆積岩の一種で、1mm以下の粒子粘土・泥が水中で水平に堆積したものが脱水・固結してできた岩石で、堆積された石理面に沿って薄く層状に割れやすい性質がある。愛媛県僧都川産頁岩・下関市安岡産赤色頁岩が知られている。
頁の字は本のページを意味し、この薄く割れる性質から命名された。
粘土・泥が堆積してできた岩石のうち、薄く割れる性質を持たないものを泥岩と呼ぶが、泥岩と頁岩の間に本質的な違いは無い。頁岩は泥岩の一種とする考え方もある。 また、弱い変成作用を受けて硬くなり、やや厚い板状に割れるものを粘板岩と呼び区別している。) |
池の平の自然の変化
池の平は日本列島の尾根、中部高地地方の中央部に位置し、約1,410mから1,450mの標高範囲とみられる。白樺湖ができるまでは諏訪側からも小県側からも、急峻な山道を登りつめると、忽然と開ける盆地状の地形であった。地元の柏原の両角万仁武老が営む山小屋が一軒だけあった。中央を音無川の清流が蛇行して、岩魚・山女(やまめ)・鰍(かじか)等がたくさん棲息していて、地元の川干漁の絶好の場所であった。山菜採り、秣(まぐさ)刈りの村人、峠越えの杣人(そまびと)と、たまさか出合うハイカーとキャンプの若者、その人影は少ない。
気候は高冷地型の内陸性で雨量は比較的少なく、冬の乾燥した寒さは厳しい。昭和59年度の平均気温は、4.3℃の記録が残っている。
池の平も今から2万年前をピークにする、第4紀更新世最後の氷河期の洗礼をうけた。その時に先土器時代という日本最初の人類文化の最盛期を迎えた。諏訪湖盆地区、八ヶ岳や蓼科山の山ふところ、そして八島ケ原を中心にした高原台地上と周辺の沢沿いと、人々の懸命な生活の痕跡が刻まれていく。当時と現代の気候差は、現在地より標高で400m超の高さを足し上で、推定されるとしていう。実際の各地のデータではもう少し気温が低い結果が出ている。日本列島全体の年平均で7℃~8℃も低い、すると池の平の当時の平均気温は、-4℃位になる。それでは草木も生えないツンドラ状態ではないか考えるのは、間違いで、現在八ヶ岳、蓼科山の2,000mの高山地帯には、北海道東北部に多い亜寒帯針葉樹林で覆われている。白檜曾(しらびそ)・樅(もみ)・ぶな・岳樺(だけかんば)の樹木が繁茂し、山肌の比較的太陽のあたる所は一面熊笹で、高木に遮られて日の差さない岩場には、厚い苔が敷き詰められている。これが2万年前~1万年前の池の平の風景と推測される。
氷河期を通して、常に厳しい寒気が続いたわけではない。氷河期であっても、寒い時期の氷期、暖かい時期の間氷期が繰返されていた。
氷河期の池の平も樹木で覆われ、その木々の間に鹿・かも鹿・野兎が多棲していたようだ。そこには大角鹿(おおつのしか)・ナウマンゾウ等の氷河期時代の大形動物もいたであろうか。
鹿には樅・ブナ・岳樺等の果実・芽・樹皮等が、1年を通しての良好な食糧で、たっぷり食べると鹿は、見通しのきく平坦な熊笹の休息地で反芻を始める。鹿の交尾期は初冬だ。その時期、池の平の音無川の水辺には、多くの鹿が集まって来た。こうした場所こそ鹿などの動物の絶好の狩場となった。先土器時代から縄文時代にかけて、人々はその厳しい自然環境の中、獲物の生態を十分理解をして、生業に励んでいた。
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