富士見高原から眺める八ヶ岳の赤岳・阿弥陀岳・西岳・編笠山 |
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鹿増加の背景 |
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1)雌鹿の妊娠と出産
歯根は歯が歯槽骨の中に入っている部分で、通常目に触れることはありません。歯槽骨は顎骨(がっこつ)の中でも特に、歯を支えている部分のことです。歯根の表面はセメント質で覆われていて、加齢や歯周病などで歯肉が下がるとセメント質で覆われた部分が露出することがあります。 ニホンジカのセメント質に形成された年輪が、雄と雌とでは、大きな違いがあったのです。雄は年を重ねるにつれ、年輪幅が徐々に狭くなりますが、年毎では、ほぼ一定しています。雌の場合は、明らかな年輪幅の違いが生じています。個体ごとで高齢・病気・体調不良など様々あり、また主に夏季とその前後の異常気象により草木類の生育不全などにより採草がままならない例外的事態などを捨象すれば、雌の出産期の年輪幅は、狭くなっています。通常、ほぼ隔年毎に著しく狭まっています。 ニホシカの母乳は良質で、タンパク質や脂肪は牛乳の2〜3倍と極めて良好です。授乳時間は1日3回〜4回程度と少なく、しかも1回当たり1分以内と短く、その合計時間も6,7月がピークで8月になるとしだいに短くなり、9月は更に短くなります。母鹿は短い授乳時間で、子鹿を育てられる濃厚なミルクを生産するために、採食に長い時間と労力を消費します。 出産後しばらくは子ジカを藪陰などに隠して採食に出掛けます。 母鹿は常に子鹿に気配りし、成長し一緒に採食に出掛けるようになっても緊張して絶えず見守っています。一人っ子で母乳の栄養分が高ければ、子鹿の成長が速くなり、徐々に自立し草を食べるようになります。夏までに十分な栄養をとり成長すると体重も10sを超えるようになります。 子鹿の世話も経験が物を言うようです。若い母鹿は捕食者からの逃げ方や護り方に未熟さがあるようです。新生児に対するカラスの攻撃から避けられるのも体験によります。母鹿にとって出産と育児は大きな負担となり、生息地の生産性が高ければ、幾分和らぐでしょうが、採草環境が悪化すれば、秋の交尾期に発情しなくなるようです。特に授乳量の多い雄を出産すると、その年は妊娠しにくくなります。そうした母体の負担が、セメント質に形成された年輪幅の違いとして表れるのです。 ニホンジカの出生率が高いため、個体群繁殖率は、採餌条件に影響されますが、年に16〜20%の勢いで増加し、4.5年で個体数は倍になります。 生息地の植生の質と雌鹿の妊娠率とは密接な関係があります。1,953(昭和28)年のテイバーの報告では、カルフォルニアに生息するオグロジカは、通常双子を産みますが、伐採された若い林では、雌鹿の1頭あたり新生児数は1.47頭、山火事に遭った地域では1.16頭、成熟し萌芽しなくなった低質な林では0.84頭であったとあります。オジロジカの実験的観察では、高栄養な条件で飼育すると1.74頭、低栄養では0.95頭と顕著な差が確認されました。ノルウェーとカナダの3つのトナカイ集団の調査では、食物条件のよい集団ほど若い年齢で妊娠し、悪い条件になるほど遅れるという結果が出ました。 南三陸金華山国定公園の金華山島は、かつてはブナやモミなどの原生的な森林帯でありましたが、鹿による稚樹・幼樹の採食により後継樹が育たず、アズマネザサ・ススキ・シバの3種による草原化が進行しています。アズマネザサは「東根笹」と書き、篠竹の代表的な一種で、東日本に多いため東篠(アズマシノ)とも呼ばれます。 当地に生息するニホンジカの妊娠率は50%前後で出産時期は、通常、5月下旬から6月上旬にかけてで、時には7月の頭に出産する例もあります。まれにある7月や8月といった遅い出産の子鹿は死亡率が高いのです。遅い時期の出産は、特に若齢雌や栄養状態の悪い雌に多いのです。妊娠期間は230日前後と、雄と雌で違いはなく、ただ新生児の平均体重は雄が3.38kg、雌が3.07kgで雄の方が重く、以後、雄の外形的な優位が続きます。 新生児の生後1週間の死亡率は極めて高く、天敵も烏・熊・狐・狸など結構多いのです。新生児は、誕生後暫くは地面に伏してじっとしています。これはシカの多くの種に共通しています。「隠れ戦略」の一つです。北アメリカの森林に棲むワピチは、ユーラシアのアカシカのなかまで、ヘラジカに次いで大きなシカですが、ワピチの母ジカは極端に慎重で子ジカの尿や糞まで食べ、その痕跡を隠そうとします。出産場所の選択と安全確保には、母鹿の経験と能力に全てが依存します。妊娠時、当然群れから離れます。秘密裏に出産します。出産後、人間を含めて外敵が接近すれば、母鹿は突然身をさらし、遠くに誘導し新生児を守ります。このテクニックにしても、かなりの個体差があります。 金華山島でも夏秋と安定し、11月以後になると、幾度も到来する寒波で、新生児の死亡率は再び急激に上がり、春先3月頃にピークとなり、誕生時に匹敵する死亡率となります。その後、5月後半頃に漸く安定し、夏の豊富な食料で脂肪を蓄え冬期を迎えます。未だ体型が小型なため、貯える脂肪量に限りがあり、2年目の冬期も、死亡率はかなり高い数値となります。3年目位からやや落ち着きますが、成獣となっても2.3月頃の越冬時期が極めて厳しい生存環境である事は、その積算死亡率が証明しています。 雄雌間で著しい死亡率の差異があります。生後1週間で雄15%雌6%と、雄の死亡率がかなり高いのです。その後に来る冬も数%近く雄の死亡率が高く、1年目程ではありませんが、2年目の春先3月も試練となります。雄鹿は雌鹿に倍近く死んでいます。結果的に2歳までに雄は44.9%が死ぬ一方、雌は27.5%です。 |
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2)鹿の食餌
ナキリスゲはカヤツリグサ科の多年草で、生育範囲の広い種で、日本の本土では山地から海岸、森林内から乾燥した道端まで様々な環境で叢生しています。常緑性です。花期が夏から秋で、大きな株をつくり、高さ30〜60cm、葉は長さ30〜80p、幅2〜3mm、茎頂の小穂(しょうすい)は雄性、残りは雌性であす。関東地方以西の本州から九州、および朝鮮半島南部、中国、ヒマラヤに分布しています。本州中部以南ではごく普通のスゲです。名前の由来は「菜切り菅」の意で、葉の縁に珪酸質のざらつきがあり、菜っ葉が切れるほどだといわれ、実際手にかかったまま、うっかり引くと以外に深く切れ、かなりの痛みをともないます。典型的な「物理防衛」です。同様なことはススキでもあり、シカは葉が硬くなる夏以降はあまり食べなくなります。 イネ科も被子植物の単子葉植物です。イネ・ムギ・サトウキビ・シバ・ススキ・ササ・タケ・ヨシなど種類が多く、人類にとって有用で必要不可欠な植物群で、人類の歩みとも深く関ってきた植物です。野原に生える植物の多くがイネ科で、ほとんどが草本です。ササなどのように茎が木質化するタイプもあり、タケのように幹が太り、細胞壁が木質化して堅くなり巨木化することもあります。タケやササは、草本と木本の特徴とを併せ持った植物と考えられます。 イネ科とカヤツリグサ(蚊帳吊草)科は風媒花として進化し互いに似た点が多い、また花が地味で小穂を形成するなど共通性も多く、その割に種類が多くて同定が難しいのです。 イネ科やカヤツリグサ科・イグサ科といった草食動物の食害に耐性がある植物は、鹿の採食により他の植物が生息機会を奪われると、次第に優占していきます。小型のイネ科のシバ・スズメノカタビラ・ヌカボなどの他、地表面を這う匍匐茎によって広がり群落を形成するオオチドメ・アリノトウグサ・ニオイタチツボスミレ・オオバコなどが採食されながらも増殖していきます。関東地方から九州の道ばたや庭・林内などに自生する匍匐茎で地を這い、節から根をだしてふえるツボグサも再生力が高いのです。 以上の草本群の殆どは、草丈が低い陽性植物で、鹿の食餌となって草丈の高い草木類が消滅すると、その優れた再生力と繁殖力で、ほぼ独占的に草原を支配します。 鹿の種こそ違いますが、その採食影響はヒマラヤの高山帯やモンゴル草原でも一貫して発生しているようです。日本列島は高温多湿の時期が長いため、鹿の食害が繰り返されても森林の遷移が進むだけで草原が維持され、緑の豊かさには変わりがありません。その一貫して変わらない緑のマスクの実相は、大変な変化を遂げています。上記の特異な草本類の群落を優占させる一方、森林の実生による自然再生を阻んでいきます。林野庁でも、「平成23年度のシカやクマ等による被害面積の都道府県合計は約9千ヘクタールとなっています。」「シカによる枝葉の食害や剥皮被害が全体の6〜7割程度を占めていて、大きな問題となっています。」と伝えてきています。やがて山野に崩落災害を多発させるでしょう。 霧ヶ峰・車山高原・八島ヶ原などで代表される森林景観は、ダケカンバ・ミズナラ・コナラ・深山ガマズミ・オオカメノキなどの落葉広葉樹が繁茂し、その林床にミヤコザサが優占する現在の植生実態こそが、ニホンジカの絶えまない採食に晒され、一時的に保たれた植生の平衡状態なのでしょうか。ミヤコザサは、草原に低木類が繁茂すると被陰され小型化するといわれています。 車山山頂から白樺湖にかけての車山高原は、毎年行われる草刈りと山焼きにより二次草原が維持されています。そこでもニホンジカが旺盛に採食に励んでいます。そのため、ここでもミヤコザサは小型化しています。 近年、ニホンジカの著しい食害による生態系の遷移が頻りに伝えられる日光や大台ヶ原に、低木が乏しくなりミヤコザサが優占する景観も、現在漸く保たれた一時的な植生状態なのでしょう。かつて日本列島は、これほどまで草食獣に蹂躙された経験がありません。果たして大型草食獣たる鹿の爆発的な増殖により、破壊された自然界のバランスの果てに生じる事態とは、どんなものなのでしょうか。 旧石器時代から狩猟は、人類にとって重要な生業であり続けました。縄文時代から大型建造物が建てられおり、それを支える木材加工技術はかなり高度でありました。狩猟の民のマタギ社会や山窩の民も、近年まで現にいたのです。日本列島が誕生する前からユーラシア大陸の東端であった時代に、旧人と新人が入り乱れて入り、現在の日本の大地を狩猟に駆け巡っていました。それ以来、日本の山野が、北海道も含めて、手づかずにあった時代があったでしょうか。 旧石器時代に生息していた鹿類だけでもヘラジカ・オオツノシカ・ジャコウジカ・キョンなどや、その他ヤギュウ・ウマ、さらに当時、本州にはヒグマもいました。これら知力に優れた哺乳類が、マンモス・ナウマンゾウなどと同様、気候変動だけで絶滅するでしょうか。 ニホンシカの学名はCervus Nippon=ケルウス・ニッポンです。ケルウスとは、ラテン語のシカの意味で、ニッポンの名が冠されています。大陸に広く分布し東アジアの沿岸部、ロシア沿海州アムールから朝鮮半島・中国・台湾・ベトナムにまで及ぶシカの一種です。日本では北海道から九州、その他の島々に広く生息しています。 台湾のニホンジカは、ハナジカ(梅花鹿)とよばれ、かつては台湾の山岳地域や森林に生息していましたが、角や鹿革を取るために乱獲され野生では絶滅しています。日本産のニホンジカと異なり、冬にも白斑がみられ、今では動物園で繁殖したものが残っているだけです。ニホンジカは、極東ロシアにも僅か生息しているようですが、情報は限られています。 ベトナムでは平成5(1993)年にオオホエジカ、1997年にヒメホエジカ、1998年にまた別のホエジカと新発見が重なりますが、ニホンジカは確認されていません。 中国・朝鮮半島のニホンジカは、すべての生息地で地域的な絶滅状態に陥っています。中国東北部・朝鮮半島・ロシア沿海州などに生息するシカの内、ニホンジカ種の満州ジカ(梅花鹿;メイホアルー)及び満州アカジカ(馬鹿)の、未だ骨質化していない袋角を漢方として用いるからです。 シカの雄は生後2年目の春から角が生えます。角は毎年生え変わり、春に角座から紫褐色の毛の生えた瘤のような袋角が隆起し、夏から秋に角化します。その成長期の角を、漢方では鹿茸(ろくじょう)として用いるのです。 Cervus Nippon=ケルウス・ニッポン種では、日本列島のニホンジカだけが、隆盛を極めているようです。 |
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3)豪雪による鹿の食料難
1,984年の晩冬、鹿の大量死が起きました。通常の冬でも生き抜くのが難しく、死ぬ個体が多いのに、豪雪が続けば、生き延びる子鹿は稀で、次いで老齢な個体が動けなくなり、やがて本来丈夫であるはずの成獣までも力尽きてゆきます。 翌年の春、日光の山中の雪上で発見された鹿の死体から採取された胃の内容物には、割り箸ほどの木片が混じっていました。宮城県の金華山の鹿も、食料不足により多くが死に絶えました。その胃の内容物には、普段食さない太い木片やススキの茎などが異常に多く含まれていました。当時の鹿たちは痩せ細り、脇骨や腰骨を浮き出させ、意識も混濁し朦朧としてふらついていたと記されています。 生き残った個体にも深刻な後遺症が残りました。 鹿達は栄養不足となり、全体に体が小さくなり、雄の角の発育が遅れます。本来1歳の夏には20pほどに伸びるはずが、僅か3pほどの突起にしかならない例もありました。しかもナワバリ・オスに達するまで相当な年数が掛かるようになります。雌にしても栄養状態の悪化は、性成熟を遅らせ、本来1,2歳から始まる初産が4,5歳にまでずれ込んだようです。 |
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4)雌鹿の高い妊娠率
カモシカの妊娠は3歳位から発情し始まります。しかも3歳の妊娠率は30.8%と鹿と比べればかなり低いです。4歳でも60.5%、その後でも70〜80%位です。1個体の平均を算出すると3年に1回しか妊娠しないことになります。 一方、ニホンジカの出生率は極めて高いのですが、子鹿の死亡率も高く、出産直後の新生児がカラスに攻撃される観察例が少なくないのです。名古屋市は、2,012年6月26日、名古屋城の内堀で放し飼いされているシカ2頭のうち1頭が、24日に出産したとみられる子鹿が死んだと発表しました。脇腹や頭にカラスにつつかれたような痕があり、右の後ろ脚を骨折していた、と報じています。 金華山では初期死亡率が20%ほどに達しています。他の地域では、熊や狐による捕食の危険が更に加わります。 より大きな危機が確実に冬期に起こります。子鹿は摂取した栄養を自分の活動と成長に充てるため、成獣ほど脂肪を蓄積できません。また脚が短いため雪中の移動がままならず、採餌環境が悪化すれば、短時日に死を迎えます。 近年の鹿の異常繁殖は、暖冬による子鹿の生存率の上昇も大きな要因となっています。 戦中・戦後を通じて日本の列島の森林が伐採されてきました。 「日本の森林は第2次世界大戦の混乱の中で荒廃したが、 1,950(昭和25)年代の後半頃には、伐採跡地への植林が一応終了し、民有林においても1970(昭和45)年代に入る頃まで 毎年30万ヘクタールの前後の規模で拡大造林が進んでいる。」と林野庁は報告します。それを促進した背景の一つに、 1,960(昭和35)年前後がピークとなる炭・薪の需要の増加がありました。 実は、1970年代でも、広く森林伐採が行われていました。 下記の表は、林野庁林政部企画課「森林・林業統計要覧」の抜粋です。国有林・民有林共に合わせた主伐(皆伐・漸伐・托伐被層伐)面積です。 単位はヘクタールです。
上記の伐採実績と、酸性雨の影響は、森林破壊の原因の一つとなっていました。1,970年代以降も、森林の面積が減っていた事実があるのです。それは、私たち日本国だけでなく、ヨーロッパ・アメリカ・カナダ・中国も同様です。 森林の減少は、林床の草本類を増殖させます。金華山・五葉山・日光・大台ヶ原では、ミヤコザサが急速に繁茂しているのです。他の地域でも植物の種類や量に地域差があるにしろ、鹿の採餌環境が著しく好転しているのです。林野庁は、「民有林においても1970年代に入る頃まで 毎年30万ヘクタール前後の規模で拡大造林が進んでいる。」と1,950年代から1,960年代にかけて造林を拡大させてきましたが、その植林された幼樹が鹿にとって格好の食餌となっていたのです。それが当時誰も予想しえなかった、鹿の増殖という事態を引き起こしたのです。 しかも当時の林野庁の造林は、国内の伐採量に追い付いていませんでした。 かつてニホンジカの強力な繁殖力を抑えていたのが、オオカミでした。それを明治政府が絶滅させるための諸施策を、日本列島の民は、農耕が主体でありながら、何故か疑うことなく、積極的に従い実行してきたのです。オオカミは、古来、鹿の食害から、田畑を守る益獣と認識されていた筈なのですが・・・・ |
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5)狼と鹿
ニホンオオカミは1,905(明治38)年、奈良県で狩猟された若い雄鹿を最後に、以後確かな生息情報が絶えました。日本にはエゾオオカミやホンドオオカミがいました。かつて狼は、ユーラシア・北アメリカ・メキシコなど広く分布していました。いまでは西ヨーロッパやアメリカ合衆国の大部分からほとんど姿を消し、イギリス、ポーランド、スイス、日本などでは絶滅しています。 狼は鹿類を主要な食料源とし、鹿の個体数が増えると、狼の密度も高くなります。アラスカに生息するヘラジカが、夏から秋にかけて高標高へ移動を始めると、狼も追尾します。 モンゴルでは、「狼は羊の医者だ」と言われています。羊などの牧畜が有史以前から主たる生業で、羊の天敵である狼を退治する際には、狼の巣穴を襲い新生児を殺しますが、巣穴に4匹の子がいた場合、1匹だけ残します。その理由は、狼が絶滅すれば、羊の伝染病が蔓延し羊が全滅する恐れがあるからです。狼が捕殺する羊の多くは、弱っている羊が殆どで、その中には病気に罹っている羊が多く、狼による適量の捕殺は伝染病をくい止める働きとなります。モンゴル人はそれで、1匹だけ残すことを掟としています。狼は羊にとって大事な医者の働きをしていることになるわけです。また鹿の群れの中に混じる質の悪い個体を駆除し、優良な種を保存する担い手となっています。 北米で最も盛んなビッグゲーム(big game)は、large animals that are hunted for sportです。2,011年の時点で総人口の約6%に相当する1,370万人が狩猟を行い、銃や弓矢・クロスボウで、年間700万頭のオジロジカや2万頭のアメリカクロクマが獲られています。その結果でも、狼同様の効果となっているようです。 ミネソタでは、2,008年に2,922頭の狼がいると推定されています。年に一頭の狼が15〜19頭のオジロジカの成獣を獲るという推定値があります。その総頭数は43,800から55,500頭になります。ハンターは、2,007年の猟期に、およそ26万頭のシカを狩猟しています。ミネソタ州のオジロジカでも、狼に捕食される個体の多くが子鹿か高齢個体に偏っています。アラスカのケナイ半島やスペリオル湖の最大の島、アイル・ロイヤル島(面積72km×10km)のヘラジカでも、主に捕殺されるのは、0歳と高齢個体が殆どでほぼ同様の観察結果でした。ロイヤル島の通常の状況下では、狼が捕食したヘラジカの蓄積脂肪の調査でも、脂肪量の少ない個体が多かった事から、狼は栄養状態が悪い老齢個体・病弱な個体と新生児が、捕殺し易いために、主なターゲットになっていました。 2,002年にはロイヤル島に1,000頭以上のヘラジカが生息していました。その後、相次ぐ異常に暑い夏が、この島の生態系を壊したようです。ヘラジカの弱点は暑さで、猛暑で食欲がなくなり、冬を乗り切るだけの脂肪を体内に蓄積できずにいます。一方、その気候変動がダニを大発生させ、それが2,008年現在でもおさまる気配のないのです。ヘラジカ1頭には数万のダニが一度にたかり、草を食べるどころか、自分の体を木に擦りつけたり、毛を歯で引き抜いたりして寄生虫を何とか取り除こうとします。その結果、多くのヘラジカが、出血と体重減で死に到ります。 狼の餌資源であるヘラジカの減少により、過去にも幾度も繰り返された群れ同士の抗争を惹き起こしました。この島の1群が、隣接する群のリーダーを攻撃し殺すところが目撃されています。翌年、そのリーダーの伴侶だったメスも殺しています。ロイヤル島では、狼とヘラジカの捕食関係で、数十年間、個体数の増減を同調させてきました。 かつてロイヤル島では、ヘラジカの増殖による食害から、狼が人為的に導入されたのです。ヘラジカは、主に針葉樹林や針葉樹と落葉樹の混合樹林に生息するので、針葉樹の樹皮や実生を食べます。ヘラジカが過剰になると森林の適正な更新が阻害されるので、狼による密度抑制が不可欠となったのです。狼の密度自体は、ヘラジカの密度の低下により抑制されます。 本来、ニホンジカが1歳から妊娠し、2歳以降ほぼ毎年出産するのは、狼や人類による高い捕食圧に適応するためであり、それは日本列島が形づけられる前から、おそらく十数万年に及ぶ捕食者狼と人類、被捕食者ニホンジカ三者の密接な関係から、共進化の歴史が積み重ねられてきた結果とみられます。その日本列島で、明治政府の方針により狼が異常な手段で絶滅され、戦後の昭和期になると大きな生活文化の転換が起こり、ニホンジカの獣皮や肉の需要が激減し、本来の猟師が不在となり、列島の生態系の維持に普遍的役割を担ってきた、これら捕食者の喪失は、ニホンジカを大膨張させました。反面、それがニホンジカの健全な生存を脅かしているのです。 ニホンジカが繁殖する車山・霧ヶ峰では、ミヤコザサ・イチイやモミの樹皮・タラの芽・ギボウシ・ニッコウキスゲ・ヤナギラン・ウメバチソウ・マツムシソウなど四季折々の植物が食べ尽くされ、本来、彼ら忌避してきた有害・有毒植物のトリカブトやオダマキをはじめとするキンポウゲ科の草本や、ハーブ類・山菜類など今まで嫌忌してきた植物までも食べ始めています。それはネコヤナギやカラマツの樹皮・コバイケイソウ・ハンゴンソウ・フッキソウなど限りがありません。フッキソウ・ハンゴンソウなどは、鹿は食べると消化不良になるため嫌忌していました。近年では、フッキソウの根の部分に苦みが少ないことをエゾシカが学習し、洞爺湖中島などでは根こそぎ引き抜き、根の部分を食べるエゾシカの個体が増えてるようです。 車山・霧ヶ峰を華やかに彩ってきた豊富な陽性植物の大群落と、それを食害するニホンジカの健全な発育にも危機が迫っています。 |
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6)日本列島の狼
米国人エドウィン・ダンは、北海道開拓使顧問トーマス・ケプロンの要請で、牧畜振興のために明治6(1873)年、彼が24歳のとき、牛とめん羊を引き連れて来日しました。後世、「北海道酪農の父」と呼ばれます。ダンが江戸で食堂に入ったところ狐が現れ、食卓に上がりご馳走を食べたと記録しています。 当時、海岸部や農山村に野生動物があふれていただけでなく、世界的な大都市であった江戸でも、少なからず同様な光景があったようです。 その野生動物は明治時代になると、日本各地で急激に減少し、ニホンオオカミは明治38(1,905)年に絶滅しました。なぜ絶滅に到ったかは、強烈な狩猟圧によるとみられています。 毛皮は近年まで、獣毛フェルト・毛皮縁飾り・マフラー・衣類などを製造するための主要な産品でした。明治時代になると幕府や藩の統制が消滅し、鉄砲による狩猟が事実上無法状態におかれました。特に氈鹿(かもしか)や鹿は獣肉・獣皮共に需要は旺盛でした。氈は「せん」ともいい、敷物の一種で、獣毛を平らに敷きつめ、水などを含ませて圧力や摩擦を加え縮絨(しゅくじゅう)として製作されたフェルト、即ち毛氈のことです。毛氈は草原の遊牧民が天幕内で使用する敷物として重宝され、以後アジアの乾燥地帯から世界各地に広まりました。近代でも、カモシカの肉は旨く、毛皮は水を通さず、保温性も高いので、軍用防寒服や腰当てとしては最高という評価があり乱獲されました。狐の毛皮のマフラーは、戦後の昭和でも、合成繊維が普及するまでは不可欠な防寒具でした。こうした世相下で、充分生業となりえる山住の狩猟は、明治25(1,892)年に早くも狩猟規則が制定され、それまで野放しであった狩猟の制度化とともに保護鳥獣が指定されるなどしましたが、事実上、戦後の昭和にいたるも管理不能のまま放置状態にありました。 日本列島の鳥獣が危機的な状況下にありながら、岩手県では初代岩手県令・島惟精(しま いせい)が明治8(1,875)年に発布した県令で、懸賞金を掛け狼退治が推進されていたのです。雄が8円・雌7円・子狼2円でした。明治時代、狼に懸賞金を掛けたのは岩手県と北海道だけです。この当時米1石が3円でした。米1石は約1,000合(1合は約150g)で、150sとなります。雄狼1匹が8円であれば、通常の家族の年間の生活費を賄えます。猟師たちは必死に狼に襲いかかったのでしょう。 岩手郡盛岡に城を構える南部藩では、北上山地における牛馬の放牧が盛んでした。寛文年間の1,667年〜1,671年の4年間で、南部藩北部だけで狼による被害にあった馬は報告されただけでも120頭いました。 北海道では明治維新後、開拓時代に入ります。特に内陸部では、牧畜が推奨されますが、エゾオオカミは、成れない大地で励む開拓者にとって、極めて憎むべき害獣でありました。対策にアメリカ式の徹底した撲滅作戦がなされ、ストリキニーネによる毒殺までも行われました。ストリキニーネは、植物のマチンの種子から得られる毒薬で、狼など有害動物の駆除に19世紀末頃からよく使われるようになりました。使用法としては、鹿などの屍体にストリキニーネを埋め込み、それをオオカミらが食べることにより効果が発揮されます。更に狼の排除法としては、まず巣穴を探し、そこにいる仔を捕まえ、それを鳴かし、寄ってきた親狼を狙い撃ちするのです。これらの作戦で駆除され、賞金が払われた狼は1,539頭に達しました。 エゾオオカミは結局、1,900年頃には絶滅したと考えられています。その原因は、獲物となるエゾシカの激減、明治12年の大寒波、懸賞制度、狂犬病の流行など様々考えられていますが、賞金目当ての過剰な狩猟圧が影響した事は間違いありません。この作戦は明治22(1,889)年に完了しました。 |