ニホンジカの生態(車山高原にて)

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 シカの生態

1)日本列島のニホンジカの特性 2)鹿革  3)日本の森林状態 
4)シカ狩り 5)ニホンジカとは  6)ニホンジカの繁殖期 

1)日本列島のニホンジカの特性
 大陸のニホンジカの分布は、北は極東ロシアのハバロスクあたりから南はベトナムと、その緯度差は40度近くにもなります。ニホンジカは進化の過程でインド南部から東アジアへと北上しました。 もともといた暖温帯の常緑広葉樹林帯ではシカの食料は夏でもさほど多くありませんが、緩やかに秋が来て、冬になっても緑があります。食料もそれほど少なくなりません。シカが北上して落葉広葉樹林帯に進出した時、明瞭な四季の変化に出合います。それに食料となる植物が同調します。
 春になると植物は一斉に芽吹きます。夏6月~7月、植物はすくすく育ち次から次へと花を咲かせ、あり余る食料に満ち溢れます。秋には落葉広葉樹林の多くが堅果をつけ、特にナラ類のドングリはシカにとっても重要な食料となります。 ただドングリの結実は年次変動が大きく、その豊凶が県をまたがる広い地域で同調して起こることが知られています。
 毎年安定して結実させると、その捕食動物も順調に繁殖し、折角、芽吹きした実生が食べ尽くされる可能性が高くなります。通常年は少なめに生産し、捕食動物の個体数を抑え、ある年に突然、豊作にすれば翌年の実生が食べ尽くされることなく残ります。その年から次年度に掛けては捕食者の個体数は増えますが、翌年凶作にすれば多くが餓死します。翌年にも順調に育った実生が存続する可能性が高くなります。
 大量のドングリが生産されれば、動物の方も豊作の木に集中します。その結果、大量の種子が遠くに運ばれる機会が多くなります。通常年ですとドングリは12月頃には食べ尽くされますが、豊年には2,3月に採取したシカの胃内容物からも大量に検出されています。
 世界的にみても有毒植物は温帯よりも熱帯に多く、常緑広葉樹林は落葉広葉樹林よりも有毒植物が多いのです。また有毒でなくとも、シカは特殊な二次物質を含む植物を避けます。常緑広葉樹林に多いクスノキ科ハイノキ科ミカン科などの木本種(もくほんしゅ)には、タンニンリグニンを多く含む種が多いのです。それらの化合物は食害への抵抗性を有する成分であり草食獣の消化を阻害いたします。
 草本でも体内に特殊な成分物質を含んで不味さやいやな臭気を出し、虫類や草食獣に食べられないようにします。これを植物の「化学防衛」といいます。ハーブなどが、その典型です。カリガネソウハンゴンソウワラビクリンソウレモンエゴマなどは、シカはまず食べません。カリガネソウはAPG分類ではシソ科に属します。シソ科特有の美しい花を咲かせますが、有機物が変質したような不快な臭いがあります。ハンゴンソウはタンニンが含まれていてシカなどの反芻獣は、消化不良となるから食べません。発酵胃内の微生物の活性が失われるからです。
 ワラビはウシやウマ・ヒツジなどの家畜が、ワラビを摂取すると急性ワラビ中毒症として出血などの骨髄障害を起こします。また人間でもアク抜きをせずに食べると中毒を起こします。ワラビには発癌物質があります。クリンソウはかつて、麻酔薬や下剤に用いられましたが、毒性が強いため現在は使われません。特に根茎は猛毒を持っています。レモンエゴマもシソ科で花は美しいのですが、反芻獣はカリガネソウと同様で食べません。
 サンショウ・メギ・ニガイチゴなどはトゲでシカの食害を阻みます。これを「物理防衛」といいます。 インド南部から北上して日本に到達し出合ったのが、初めての雪景色でした。ニホンジカにとっては大事態の到来でした。有蹄類はオープンな環境で有れば、外敵の侵入に逸早く気が付くように大きな群れを形成します。落葉樹林帯でも落葉すれば見通しよくなり、特に積雪地ではその傾向が強くなります。
 この季節変化は常緑広葉樹林帯と違った環境に適応する生態変化を促しました。 なによりもイネ科の植物はタンニンやリグジンが少なく、ススキは春から秋まで、なによりの採食植物であり続けました。 ニホンジカは暖温帯では一年中同じ場所に定着します。しかしエゾジカとなれば、その生息地は、季節により極端に生活条件が変化します。北海道根室標津町(しべつちょう)のエゾジカは、春から秋までは広範囲に展開しますが、12月以降は降雪で追いやられ海岸部で越冬し、2月~4月には川沿いの狭い範囲の針葉樹林帯に閉じ込められます。知床でも同様の調査結果がでています。エゾジカは、北海道の平原部をかなり移動していました。
 北アメリカでは数百㎞を超える水平移動を、トナカイは生存をかけて年毎に行っていました。 日本列島の降雪地では、シカの特に子ジカの死亡率が高く、それを補うように出生率を高めました。また長い冬を克服するには脂肪を蓄えるため大型化し、積雪に屈せず闊歩するには脚が長くなります。 シカにとってススキはイネ科で、タンニンやリグジンが少ないため春から秋までの優良な食料であり、ササも無毒で大量に繁茂するため冬期から初春かけ特に依存するようになります。
 草原では陽性植物の典型であるイネ科のススキが優占します。ススキは草原を最大限に活用し繁茂します。日本の草原は火入れと刈り取りを行わなければ、数年もしないうちにニセアカシア・ミズナラ・ネコヤナギ・アカマツなどがすごい勢いで繁茂します。 樹木に遮られない空隙には、場所を選ばず繁茂します。キイチゴ類・タラノキ・ヌルデ・クサギなどの木本類も同類で、その侵入種は、既に林内に生育しる木本類よりも数倍早く食べられます。その周辺に繁茂する木本植物は、森林内で太陽光の恩恵に浴するため高くそびえるため、地上性の草食獣は食べられません。また栄養価も低いようです。
 ニホンジカが本州を北上し遭遇した難関が冬の雪でした。日本に生息する有蹄類はいずれも蹄が小さく深い雪では動きがとれなくなります。厳冬期の吹雪は草食獣の体温を奪います。落葉広葉樹林帯は積雪や強風を緩和させます。特にオープンな草原より、微気象の変化を和らげます。しかも高層木、特に常緑の針葉樹林帯では降雪が、枝や葉に留まるため林床は意外に雪が少ないのです。吹雪のときシカは風雪を避けて林内に留まります。シカの寝床が雪の少ない林の中の木の下によくみられるのは、厳しい冬の避難所でもあるからです。しかも太平洋側の雪の少ない地方ではミヤコザサが繁茂し、シカの主に冬季の食料源となっています。
 丹沢山地では、林床を広く覆っていたササの一種スズタケが東丹沢を中心に1980年代から急速に衰退しています。エゾジカもクマイザサ・ミヤコザサ・スズタケを食べます。 草食獣にとって視界の悪い森林がなにより安全で、人の気配を察知したら逸早く逃げ込む場所です。そのダッシュ力は優れているが、体が上下に揺れ、長距離走は不向きのようです。

2)鹿革
 動物の行動の多くは試行錯誤によって変化するようです。本能行動のようでも、多くは学習や試行錯誤が繰り返され、次第に環境に適応し、それが遺伝子に変化をもたらし子孫へ伝達されていくようです。
 牛・豚・馬などの皮革に比べて鹿皮は薄く軽く柔らかいため、なめせば細かい手先作業も可能となり、農作業用手袋などに適し、またソフトな質感から柔らかい靴やソファーなどの材料になります。鱈油でなめした鹿革がセーム革と呼ばれ、鹿革の特徴である繊維の細かさから、磨き革として非常に優れています。
 セーム革で磨くと独自のツヤがでることや、眼鏡や宝石・貴金属・刀剣・骨董品のホコリや脂汚れを綺麗に拭き取るクリーナーとしても活用されています。カメラのレンズ磨きには無くてはならない物です。
 革としては珍しく洗濯も可能です。柔らかく手触りもよく、油なめしをしていることから耐水性も高いので手袋や洋服などにも利用されます。日本には、多くの鹿がいたため、独自の加工法が発達し、日本最古の足袋も鹿革で、奈良時代の刀剣の鞘や武具部品が発見されています。
 湿気の吸収力が優れ兜の内張や、鎧装着時の下着として使われていました。夏の高温多湿では湿気を吸収し、乾燥した冬の寒さには保温性があり、未だに防具材料や竹刀の握りとして好んで採用されています。しかし現代では、皮革全体の国内生産量が減少している中で、日本の鹿皮輸入量は、平成8年の2倍程度に増加しています。日本の鹿皮革の多くが、中国・ニュージーランド・オーストラリア・アメリカ産の鹿皮をなめし加工したもので、国内日本鹿の皮は埋却し廃棄されています。
 枝角(えだつの)はナイフの柄やボタンなどに用いられています。鹿の袋角(ふくろづの)を乾燥したものを鹿茸(ろくじょう)と呼び、その乾燥粉末や黒焼末は漢方では、増血・強精剤などに用いられています。 日本では鹿肉のことを「もみじ」と呼び、味も見た目も一般的に牛肉に近いですが、やや硬く味は淡泊です。ちなみに馬肉は「さくら」、イノシシ肉は「ぼたん:山鯨」と呼ばれます。

3)日本の森林状態
 産業が高度に発達した日本でありながら、世界でも有数の森林国家でもあります。 2010年3月にFAO(国際連合食料農業機関)が公表したデータによると、世界の森林面積は約40億ha、全陸地面積の約31%を占めています。面積ではヨーロッパが最も広く1,001百万ha、南米が832百万ha、北中米が706百万haの順となっています。また、面積に占める森林の率では、南米の51%が最も高く、次いでヨーロッパ46%、北・中米26%と並びます。その森林率を「国別」にみると、トップがフィンランド73.9%、2位が日本で68.2%、スウェーデン66.9%、韓国63.5%、ロシア47.2%と続きます。ドイツやフランスは30%で、日本はその倍を超え、いかに豊かな森林の国土であることがわかります。自然保護を誇るイギリスは、僅か10%以下でした。
 森林の種類には、原生林天然林人工林があります。原生林とは、過去に人の手が加わったことがなく、しかも重大な災害などの被害も受けていない自然のままの森林です。世界的にみても、原生林はブラジルやインドネシアなどに広がる熱帯雨林の中に部分的に含まれ、アラスカ、ロシア、カナダなどでは亜寒帯林の一部などに残るにすぎません。日本は、火山列島ですし古代から林業が盛んでしたから殆どないでしょう。
 ヨーロッパでは産業革命の頃に伐採し尽し原生林は殆どなく、中国も森林の4分の3を失うほどの乱伐を重ね植林を進めているぐらいですから、原生林はほぼ残っていないのが現状です。
 日本は産業が高度に発展しながら、豊かな自然が維持されてきました。しかも農業者の高齢化・次代の担い手の不足・専業農家の著しい減少などにより、特に山間部とその縁辺部における農地の放置が重なり森林化が急激に進んでいます。 日本列島の豊かな森林に育まれた動物もまた大変豊かで、哺乳類130種・鳥類623種・爬虫類76種・両生類48種が生息しています。その数値はヨーロッパ全域に匹敵します。イギリスに生息する哺乳類60種・鳥類218種・爬虫類5種・両生類9種にすぎません。
 日本列島とその海域は、世界でも稀な多種な生物が生息する圏内で、その国土の地形は全体的に急峻で平野部が少なく、雨が多く夏が極めて暑い高温多湿を特徴とします。それが植物の生育に理想的な条件となり、その植生は豊かで、基本的に森林帯が占有しています。 日本列島は中緯度にあるため北半は落葉広葉樹林帯が、南半では常緑広葉樹林帯が、本州の亜高山帯では針葉樹林あるいは針広混交林が優占するという多様性があり、しかも狭い地域内で極端な地形の高度差があるため、その多様さで垂直に展開しています。その結果、植生に依存する動物が、ごく狭いエリアでありながら他種類が分布することになります。
 植生の南北環境の違いは、シカの食性にも大きく影響を与えています。南半は常緑広葉樹林帯ですから年間を通して安定し、北半は長い冬があり不安定です。 ニホンジカの亜種は南から北へゆくほど大きくなる傾向があります。体色も暗色からオレンジ色と明るくなり、枝角も複雑になりより進化しています。
 落葉広葉樹林帯ではナラ類の結実量が多く、そのデンプン質に含む栄養価が高いため、夏・秋とあり余る食物に恵まれますが、冬になると大半の植物が枯れてしまいます。そのため植物が豊富な夏と秋に十分な食物を摂取し、脂肪として蓄え、冬を乗り切ろうとします。ニホンジカのみならずアカシカ・ノロジカ・ヘラジカ・トナカイなどの温帯以北のシカ類は、夏秋に採食量を増やし冬に備えて体内に脂肪を蓄積させます。
 晩秋から冬にかけて食物の質も量を激減するので、ニホンジカは枯葉を食べるようになります。沿海州のニホンジカも雪の少ない冬には枯葉を食べるようです。 またニホンジカ・アカシカ・ノロジカ・ヘラジカ・トナカイなどは、秋から冬にかけて大きく採食量を減らす習性があります。冬に食物が枯渇する冷温帯に生息するシカの適応能力を示すものです。
 そして訪れる初春は歓びに迎えらるはずですが、長い冬に耐え忍んできたシカが力尽きる季節でもあります。シベリアからの寒波が漸く止みますが、この頃から頻繁に寒の戻りがあり、しかも太平洋高気圧は、しばしば寒冷地や標高の高い地域に湿った重い雪を降らせます。これが体力を消耗し尽したシカ達に決定的なダメージを与えます。あれだけ切望してきた新緑の大地の草の中に力尽きてしまうのです。
 車山では、カラスやキツネなどに食い荒らされたシカの死体が現れ騒がれるのが、3月の中下旬頃です。特に前年に誕生した子ジカの死亡例が多いのです。その一方、成獣したメスの胎内で、胎児が順調に育ち、明らかに外から見ても分る程になっています。

4)シカ狩り
 シカはイノシシとともに縄文人の代表的な狩りの対象で主要な食物でした。角や牙は、釣り針や・もり・やす・縫い針やあるいは髪飾り・腰飾り・首飾り・ペンダントなどに加工されました。皮はなめして服や紐に利用しました。 弥生時代以降、本州で水田稲作などの農耕が盛んになってきてからも、シカ・イノシシは依然として貴重なタンパク源であり続けました。その一方、農作物を食害する害獣でもありました。
 獣垣(ししがき)は、これらの獣が田畑に侵入してこないように築かれた垣のことです。江戸時代以前に築かれた石積みや土盛りの遺構が、今でも各地に残っています。獣垣と道が交わるところには木戸口が設けられ、木戸口にはイノシシやシカが入ってこないように頑丈な板などをはめることで、通行の際には戸締りを厳重に行う必要がありました。

 17世紀後半期、農村は急速に耕地を拡大させました。そのため、害獣駆除用の「農具」としての鉄砲が大量に普及しました。「鉄砲改め」は繰り返し行われたようですが、「農具としての鉄砲」は、むしろ増加しています。
 江戸時代は基本的に農村のことは農村で管理していました。実務は全部、庄屋を始めとする豪農・地主が会合を開いて決めていました。銃の管理も、最終的な文書としての届け出は幕府や藩にしましたが、領主側が農村に立ち入ってまでの検分は滅多にしなかったようです。
 江戸時代を通して百姓たちは、武士よりも多く鉄砲を保持し続けました。しかも武士は城内に大事に保管するだけで、殆ど使うことがなかったのに対し、百姓たちは実際に野鳥やクマ・イノシシ・シカ・オオカミなどを駆除していました。  猟銃が数多く村に保持されながら、鉄砲相互不使用原則があって、百姓も領主も一揆で鉄砲を使うことを自制していました。19世紀に入ると、状況は一変しますが、それでも領主側が、鉄砲不使用の原則を逸脱した事例は殆どなかったようです。
 将軍が吉宗だった時代、享保2(1717)年から、幕府が鉄砲改めをおこなったのは、鷹場を維持するためで、不足がちな鳥を確保する狙いがありました。それだけ鳥が激減していました。
 享保10(1725)年3月27日、初回の大規模なシカ・イノシシなどの狩りが行われた。小金原御鹿狩(こがねはらおししかり)と呼ばれました。それ以降、徳川将軍が現在の千葉県松戸市の中野牧を中心として、大規模な御鹿狩が行われました。狩は将軍の慰安・将軍の示威・軍事演習だけではなく、周辺住民からの鳥獣被害対策の要望に応じるという側面もあったそうです。 江戸の東方、現千葉県松戸のあたりには、馬を育成するための牧場が幾つかあり、その総称を小金牧といって、そのなかに中野牧という牧場がありました。農耕地に囲まれた小金牧原は平坦で、、大規模な鹿狩の場所として適していました。農作物の被害だけでなく、小金牧の馬と餌が競合する草食動物や馬を襲う野犬の駆除などの目的もありました。 将軍自らによる御鹿狩で、たくさんの勢子を配置して、仕留め易い場所に獣を追い立てる大規模な巻狩りだったようで、シカが826・イノシシが5・オオカミが1・キジ10とかなりの成果をあげています。
 翌享保11年3月27日にも、吉宗は同じところでまた、御鹿狩を行いました。成果は、シカ470、イノシシ12、オオカミ1でした。『東葛飾郡誌』掲載の『下総国小金中野牧御鹿狩一件両度之書留』には、同行した9人の名前のほか、騎馬204人、幕府の794人を含め徒歩1036人と記しています。その後も家斉が寛政7(1795)年、家慶が嘉永2(1849)年に御鹿狩を行っています。 寛政6(1794)年、11代将軍家斉の行った小金原での狩の時の絵図が、嘉永2(1849)年、第11代大学頭林復斎が幕府の命により編纂し、嘉永5年に完成し献上されました。それが『寛政御鹿狩勤方荒増追駈騎馬猪鹿追出之図(かんせいおししかりつとめかたあらましおいかけきばちょろくおいだしのず)』です。
 江戸時代の代表的な料理書の一つとされる『料理物語』によると、シカ肉は汁・煎焼、イノシシは汁に田楽、そしてウサギ・タヌキ・クマ・カワウソ・イヌなどは汁や貝焼・田楽にして食べられていました。
 享保12(1727)年に発表された『落穂集』巻10では「扨又我等若き頃ハ御当地の町方において犬と申ものハ稀に見当り不申事に有之候。 武家・町方共に下々の給物(たべもの)に犬に増(まさ)りたる物ハ無之ごとく有之候ニ付、冬向に成り候へハ見合次第打殺し賞玩(しょうがん)仕るに付ての義と有之候也(又、私たちが若い頃は江戸の町では犬は稀にしか見ませんでした。これは武家、町方ともに下々の食べ物として犬に勝るものは無いと言う事で、特に冬になると見掛け次第打殺し賞味したためです)」と記します。
 文化文政頃になると、オランダ医学の輸入で、肉食が体によいことが知られたことから、「ももんじい屋」が現れます。ももんじい屋は、江戸近郊で農民が鉄砲などで補殺した農害獣のシカ・イノシシを利根川から舟で江戸へ運んでもらい、イヌ・ウシ・ウマなどの肉と共に調理し供し、またクマ・オオカミ・キツネ・タヌキ・サル・カワウソなどの肉も売っていました。表向きは肉食忌避の風習があり、これらを「薬喰い」と呼びました。  

 北町奉行曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ)は、明和6(1,769)年に江戸北町奉行に就任し、政(まつりごと)や経済にも精通する名奉行として約18年間に渡って奉行職を務めました。御家人根岸鎮衛(ねぎしやすもり)も累進して、寛政10(1,798)年に南町奉行となり、文化12(1,815)年まで18年の長期にわたって在職し、曲淵と伯仲する名奉行として、庶民の人気が高かったのです。
 天明3(1,783)年3月12日岩木山が噴火し、各地に火山灰を降らせました。浅間山の噴火は既に5月9日に始まり、大爆発が7月5日に起こり、その後噴火が続いて灰が降り続いたのです。噴火は次第に激しさをまし、7月29・30日より後は軽井沢から東の空が真っ暗になったと記されます。
 被害を拡大し長期化させたのが、天明7年までに及ぶエルニーニョ現象でした。浅間山に先立ちアイスランドのラカギガルム火山が大噴火、同地のグリームスヴォトン火山もまた同年から1785年にかけて大爆発しました。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスを放出します。
 成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に冷害をもたらし、テムズ川セーヌ川も凍りついたようです。それがフランス革命の一因となったといわれています。
 火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、全国的な長期に及ぶ日射量低下による冷害をもたらし、農作物に壊滅的な被害を与えたのです。そのため、天明6(1,786)年、天明の大飢饉と凶作によって米価が高騰して深刻な米不足が江戸でも起こりました。その対処に当たった町役人が米穀支給を願い、奉行景漸の役宅へ押し掛けました。
 景漸は激昂し、その請願を一蹴したばかりか「飢饉はこれまで度々あった。昔は米が払底していた時は犬を食ったと聞く。犬1匹なら7貫文程度で買える。米が買えなければ犬を食らえ」と放言します。その舌禍が町人の怒りを買い、数日間に亘り大規模な打ち毀しに発展します。翌天明7年、その舌禍を咎められ奉行を罷免、西ノ丸留守居に降格させられました。後に松平定信が老中に就任すると、経済に通暁しているとして勘定奉行に登用されました。

 意外に、江戸時代、仏教の戒律が云々されますが、シカ・イノシシ以外のイヌ・ネコも食べられていたようです。安土桃山時代のポルトガルの宣教師ルイス・フロイスも、「僧は表向きは肉など食っていないと言っているが、裏では結構食っているらしい」と書き記しています。彦根藩井伊家では代々、牛肉の味噌漬け・粕漬け・干し肉などを、将軍や御三家をはじめ諸大名に贈答していました。  
 一方『松屋筆記』では「文化・文政年間より以来、江戸に獣肉を売る店多く、高家近侍の士も、これをくろう者あり、イノシシ肉を山鯨と称し、シカ肉を紅葉と称す。クマ、オオカミ、タヌキ、いたち、きねずみ、サルなどの類獣店に満ちて、其処をすぐるにたへず、またガマをくろう者ありき、いずれも蘭学者流に起これる弊風なり。かくて江戸の家屋は不浄充満し、祝融(しゅくゆう;中国古代神話の火の神)の怒り(火災)に逢うことあまたたびなり、哀むべし、嘆くべし」とまで書いています。  
 14代将軍家茂時代の記録には「鳥は鶉(うずら)、雁の外一切用ひず、獣肉は兔の外一切用ひず。」とある。今でもウサギを一羽、二羽と数えるのは、「鳥の仲間で獣肉ではない」と強弁して食べていた時代の名残です。天明から嘉永にかけて、彦根城主から将軍へ、寒中見舞として牛肉の味噌漬が樽で献上されていたとの記録が残されています。 中世のヨーロッパではシカ猟が日常的で、現在でも行われ、北アメリカでは釣り同様ポピュラーなスポーツとして愛好されています。撃ったシカは森の恵みとしてありがたくいただき、豊かな森のバランスを保っています。ドイツやハンガリーなどでは、鹿肉を始めとする狩猟野生動物の肉(game meat)は高級レストランで特別に食べられる「最上」の肉として扱われています。

5)ニホンジカとは
 ニホンジカの学名・Cervus nipponとは「日本のシカ」の意味ですが、日本の固有種ではありません。大陸に広く分布し東アジアの沿岸部、ロシア沿海州アムールから朝鮮半島・中国・台湾・ベトナムにまで及ぶシカの一種です。日本では北海道から九州、その他の島々に広く生息しています。
 日本列島では約2万年前に多くの大型哺乳動物が絶滅しました。特にマンモス・サイ・ウマ・ヤギュウなどの乾燥草原生の哺乳類が多く含まれている事が注目されます。日本海ができ日本列島が湿潤になり森林化が進み、一方、大陸から切り離され、大型哺乳類は一定数の集団を維持するには相当広い行動圏が必要でありながら、その生活空間を奪ったためとみられています。また人類が投槍器を発明し槍による狩猟効率を高めたことも絶滅を加速させたといえるでしょう。ヘラジカ・オオツノシカ・ジャコウジカ・キョンなども消滅しています。
 日本列島の有蹄類はニホンジカ・ニホンカモシカ・イノシシの3種だけが残りました。ニホンジカ1種が生き残りましたが、生息地の植生その他の環境が極めて多様で、その南北変異は、最大のエゾジカと最小のヤクシマやケラマジカと比べれば体重で2~3倍の差があり、角もヤクシマやケラマジカは3尖しかありません。
 日本のシカの研究者は、ニホンジカを5亜種に分け、本州・四国・九州に分布するグループをホンシュウジカとし、北海道のエゾシカ・馬毛島のマゲシカ・屋久島のヤクシカ・慶良間諸島のケラマジカと分類しています。 これらの亜種は南から北へゆくほど大きくなる傾向があります。ケラマジカは成獣のオスでも40㎏ほどで、キュウシュウジカは50㎏、ホンシュウジカは70~80㎏ほど、エゾシカになると130㎏になります。 日本列島内のニホンジカは、大きく2つのグループに分かれます。北海道から本州の兵庫県あたりまでの北東日本のグループと九州を中心とする馬毛島・屋久島から対馬と本州の山口県あたりまでの南西日本のグループです。後者のグループには中国の集団が含まれ、山口・対馬・慶良間の3群には遺伝子上のまとまりがあるようです。 ニホンジカの南北2グループは日本に渡る前、30万~50万年前に大陸で分化し、日本へは本州から北海道へ北上したとも、南の集団は朝鮮半島経由で、北の集団はカラフト経由とも推定されていますが、未だ実証されていません。
 津軽海峡を境として大きな動物地理学上の差異があるといわれています。津軽海峡を北限とするものにツキノワグマ・ニホンジカ・ニホンザル・ヤマネ・ノウサギ・ニホンリス・ライチョウ・ヤマドリ・アオゲラ・ニホンカモシカ・ムササビ・ハタネズミ・カワネズミ・ヒミズが、また、海峡を南限とするものにはエゾヒグマ・エゾシカ・エゾシマリス・ミユビゲラ・ヤマゲラ・シマフクロウ・ギンザンマシコ・クロテン・ナキウサギ・ユキウサギ・エゾヤチネズミなどがいます。タヌキやキツネも別亜種となっています。ヒグマは2万年前までは本州にも生息していました。
 ニホンジカは津軽海峡が開く前、大陸の東端であった時代10万~15万年前に分布し、体格や生態の違いは海峡ができて阻まれた以降に生じたといわれます。最終氷期7万~1万年前にも海面が下がり、海峡の幅は数百mと極狭くなりシカは十分泳いで渡れたという説もあります。ニホンジカは生息環境に応じて植物採取や消化機能や繁殖という様々な生理を適応させ、体型から生態まで大きく変化させてきました。
 シカ科には中国東部や台湾にいるキヨンは、通常、森林や低木林に生息します。主に南アジアにいるジャコウジカは、山岳の森または潅木地帯に生息します。いずれも小型で原始的なタイプで、角も短く枝分かれしていないか、していてもごく単純です。単独あるいは小群でいます。 アカシカやトナカイは進化した大型のタイプで、草原的な環境で大群をなします。角も1mを超え複雑に枝分かれしています。
 ニホンジカは中型で角は50㎝前後で枝は4本で、トナカイやヘラジカと比べると貧弱です。早いもので3月頃から、大体は4月にオスの頭から角が落ちる。5月から6月にかけてボソボソと抜けていた冬毛が落ち、その下に鮮やかなオレンジ色味をおびた夏毛がみられるようになります。やがて全身が夏毛におおわれます。バングラデシュ・ネパール・ブータンやインドの森で見られるアクシスジカ同様、ニホンジカの夏毛はオレンジ色で鮮やかな白い斑点があり、優美なシカとされています。 そのころから角が落ちた角座(かくざ)から紫褐色したビロード状の袋角(ふくろづの)が伸びてきます。皮膚で覆われ、柔らかいこぶ状をしています。
 典型的なニホンジカの成獣の角は4尖で、主軸が一本伸び、それに沿い3本の枝角が伸びます。袋角は角座から盛り上がり伸び始め、数㎝伸びた所で二股に分かれます。前方へ伸びるのが最下位の枝角で、主軸はさらに後方へ伸びます。このあと2本の枝角を前方に伸ばします。最終的には40㎝~50㎝ほどの長さになり、この袋角は触ると暖かな血液が流れています。 8月中旬頃に角が伸びきり、内部の角化が終わると表皮は剥がれます。この時期、オスははち切れんばかりに肥太り、胸から首にかけて前半身が発達し、体中に冬毛がまじるようになり黒味を帯びてきます。 9月になると首や胸が太くなり、首が胴体と一体になるように見えます。この交尾期になるとオスは泥浴びをします。湿った場所の地面を前足でかき、表土を剥ぎます。その泥の中に興奮状態になったオスが首をこすりつけます。さらに激しく首をつけてゴロゴロ転げ回ります。この行為を「ヌタうち」いい、泥浴びをする場所を「ヌタ場」と呼びます。体に泥をこすり、体臭と混じったその泥を、木などにこすり付けていきます。発情期のオスジカが縄張りを作り、その強さをアピールするためにします。やがて全身が黒々し、目は充血し猛々しくなります。オレンジ色に白い鹿子斑(かのこまだら)があった夏までの姿が一変します。

6)ニホンジカの繁殖期
 交尾期には1頭の大きなオスが数頭のメスを率いる交尾群を形成します。子供は1子です。 植物食で、草や木の葉、ササ、果実などを採食し、餌の乏しい冬季には樹皮も食べます。
 交尾期は9~11月で、オスジカは7.8歳で壮年期になると男盛りを誇示する雄叫びをあげ、メスシカ達に自分の存在を誇示し縄張りを主張します。「ナワバリ・オス」の登場です。この年齢期以降、体格も最大級になります。枝角も長さ・質量ともに他の非ナワバリ・オスを圧倒します。
 メスの発情は2週間ほどの周期でめぐってきます。秋は交尾の季節です。発情したメスは外陰が膨潤し粘液を分泌します。嗅覚が発達しているシカは、それで確実に発情を知ることになります。
 「ナワバリ・オス」はナワバリに侵入しようとするオスを追い払うため攻防が繰り返されます。 メスジカの発情は、1日しか続かず、2週間後に再度発情を繰り返します。発情している間、メスは複数のオスと交尾します。発情したメスに、オスは執拗に追い、匂いをかいだり体を舐めたりして性的興奮に誘います。それからマウントして射精します。その瞬間、オスは後肢で飛び上がるので、その勢いでメスは前のめりになります。
  「ナワバリ・オス」は、その後もメスに他のオスが近付かないようガードします。交尾後、10時間もガードしたと観察されています。実験的に、そのガードを妨げると、そのメスは32分の間に6頭のオスと7回交尾したといいます。 メスは特定のオスと交尾すると他のオスを近づけないということはなく、オスが「フィー」と聞こえる鳴き声を発し求愛を行なうと、それに応えて複数のオスと複数回交尾をします。しかも同じオスとも何回か交尾します。まさに乱交状態です。
 「ナワバリ・オス」が採食する間もなくメスの群れをガードし続け、メスの発情をチェックし、メスを巡るオス同士の激しい攻防を制し、交尾するのは10月を中心にした1ヵ月ほどです。ただ交尾の頻度は少なくなりますが冬まで行われます。 麻布大学教授高槻成紀(たかつきせいき)先生の著書『シカの生態誌』には、麻布大学獣医学部講師南正人氏が、昭和64(1989)年から宮城県金華山島で、神社周辺のすべてのシカ100頭以上を個別識別する徹底的な調査を行い、個体それぞれに名前を付けて、その一生を追い、どのようなシカが子孫を繁栄させるのかを調べていました。20年間で対象は600頭以上になりました。
 南正人氏が観察する金華山で成獣となったオスのうち46頭のうち、「ナワバリ・オス」になったのは僅か8頭にすぎなかったようです。ニホンジカは「一夫多妻」で、その観察された交尾期間、全体の交尾は259回のうち「ナワバリ・オス」は178回となり68.7%と片寄るが、「非ナワバリ・オス」もただ我慢しただけではなかったようです。
  「ナワバリ・オス」の壮年期は8歳位から数年は続き、やがて角も小型化し繁殖活動も勢いを失い、死亡率も高くなります。 ニホンジカの妊娠期間は約230日で、5月下旬頃から出産が始まり6月の初旬が出産のピークとなります。多くの個体は6月に出産を終えます。ニホンジカは1産1子です。ヘラジカは通常1産2子で双子を産みます。
 新生児は、誕生後暫くは地面に伏しじっとしています。これはシカの多くの種に共通します。「隠れ戦略」の一つです。北アメリカの森林に棲むワピチはユーラシアのアカシカのなかまで、ヘラジカに次いで大きなシカですが、ワピチの母ジカは極端に慎重で子ジカの尿や糞まで食べ、その痕跡を隠そうとします。 母ジカも人が近付けば、自ら身をさらし子ジカからできるだけ遠く離れたところに誘導しようとします。
 子ジカは生後2週間ほど、藪の中や窪みに蹲り身を隠します。母ジカが授乳に戻るまでじっと待ちます。危機が迫り、その恐れのあまり「ギャッ」という悲鳴をあげ走り出すこともあります。子ジカは母ジカが採食の必要で離れると、「ミー」という甘え声を発し母親の庇護を求めます。母ジカも「ピィー」と初めに高く、急に低くなる鳴き声で応じます。この「ピィー」という甲高い響きは、子ジカが母シカに同行した際に、人が子ジカに近付く時もしばしば発します。
 この時期、新生児を狙っているのがカラス・キツネ・タヌキなどです。臆病なメスジカも分娩後は攻撃的になり、人が近付けば前肢を突いて攻撃の姿勢を示し噛みつこうとします。
 出生体重は、生息地の栄養環境に左右され、地域的格差が極めて多く、一概に標準値は定めがたいのですが、ホンシュウジカは5㎏前後、エゾシカは6㎏前後でしょう。しかも出生の段階から体重に性差があります。オスの方がやや重いのです。授乳期の体重の増加はオスの方が大きい、その差はその後も開いていきます。
 6月初旬、車山高原は漸く新緑の季節になります。新芽や新葉はタンパク質の含有量が高く良質です。これにより母ジカは、厳しい冬の間を妊娠期間として過ごした疲弊しきった体力を、急速に回復させます。
 これより前ですと、寒の戻りにより新生児の死亡率が高まります。これより遅くなれば体力をつける前に、食物が不足する冬季を耐え抜く脂肪を蓄積できず迎えることになります。それでなくとも積雪地の子ジカの死亡率は極めて高いのです。 授乳は朝・昼・夕と1日3回程で、子ジカはお腹がすくと母ジカの腹の下にもぐり激しく突き上げて授乳します。
 ニホシカの母乳は良質で、タンパク質や脂肪は牛乳の2~3倍と極めて良好です。授乳時間は1日3回~4回程度と少なく、しかも1回当たり1分以内と短く、その合計時間も6,7月がピークで8月になるとしだいに短くなり、9月は更に短くなります。母ジカは短い授乳時間で、子ジカを育てられる濃厚なミルクを生産するために、採食に長い時間と労力を消費します。出産後しばらくは子ジカを藪陰などに隠して採食に出掛けます。

 母ジカは常に子ジカに気配りし、成長し一緒に採食に出掛けるようになっても緊張して絶えず見守っています。一人っ子で母乳の栄養分が高ければ、子ジカの成長が速くなり、徐々に自立し草を食べるようになります。夏までに十分な栄養をとり成長すると体重も10㎏を超えるようになります。 子ジカの世話も経験が物を言うようです。若い母ジカは捕食者からの逃げ方や護り方に未熟さがあるようです。新生児に対するカラスの攻撃をかわすのも経験が重要です。母ジカにとって出産と育児は大きな負担となり、生息地の生産性が高ければ、幾分和らぐでしょうが、採草事情が悪ければ、秋の交尾期に発情しなくなるようです。特に授乳量の多いオスを出産すると、その年は妊娠しにくくなります。
 シカは反芻獣ですから、食べた植物は第1胃にためこまれ、そこで発酵されます。大きな植物片は第2胃から食道を逆流して口に戻され咀嚼されます。そのため第1,2胃が満たされていればそれ以上採食できません。そのため子育てした年の夏だけで、急速に体重を増やすことができません。このような栄養状態ですから発情できなくなり、そのためメスの成獣の妊娠率が50%前後と低くなります。
  シカ類のメスは成長しても母親の行動圏に残り、母親が死ねばその行動圏を引き継ぎます。生誕地の食料生産力に、その生涯がかかってきます。オスは角が伸びる2歳頃には放浪をはじめ、やがてオスの群れに加わります。

 シカの蹄には、ヤマビルが穴をあけて寄生することが知られており、もともと山奥の森林に生息するものでありましたが、平成年代頃より人里にも出現し、その生息地の拡大がシカの繁殖域の拡大と軌跡を一緒にするようです。
 中国大陸では、ニホンジカの亜種は絶滅状態で、野生で生息する集団は殆どいません。