車山高原 さわやか信州 旅日記 9月

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 霧ヶ峰. 雄大に展開するススキの花穂と富士山!
この広大な霧ヶ峰高原こそが、諏訪の人々の生活の糧でした。
薪炭用材・田畑の肥料・家萱・秣・厩肥・その他建材など限りがありせん。
9月末頃、八島ヶ原湿原ならではの草紅葉が美しく高原を紅色に染めます。
秋の車山高原に咲く花々

2015年 9月の車山日記 
 
車山高原のジゴボウ
 8月末頃から
 レア・メモリーの裏庭で
 ジゴボウが 採れ始めました

 今日 早朝に 収穫した 
 ジゴボウです

 朝は 味噌汁の具
 昼は 豆腐のあんかけに

 夜は 長ネギと一緒に焼いて  
 牛ステーキのソースに
(2015.9.24[Thu])

車山の紅葉
 レア・メモリーの前庭も
 大分 紅葉が 始まってきました

 ドウダンツツジ レンゲツツジ カエデ ニシキギなど
 そういえば 前庭の石垣に這う
 ツタヤマウルシも 紅葉を 一段と 速めています
 シラカバ ズミ コシアブラなどの
 黄葉も 秋の深まりを 告げています

 大門街道の 
 ヤマザクラ ナナカマド カエデなどの紅葉も 

 ナナカマドの
 鮮やかな 鈴なりに 垂れる
 赤い実とともに 美しい 車窓風景となっています
(2015.9.23[Wed])

白樺湖の黄金アカシヤとアサザの花
 車山高原のレア・メモリーから 
 車で5分の 東白樺湖の湖畔沿い

 黄金アカシヤと 黄色いアサザの花がきれいです 

 ナナカマドの赤い実も 鮮やかです

 車山高原の ススキの花穂も 
 大分 膨らみ始めました
2015.9.20[Sun]

真田三代の写真
 昨日 上田城で 遊んできました 
 レア・メモリー
  三代の写真です
(2015.9.18[Fri])

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 2014年 9月の車山日記
車山湿原漂秋四
 車山湿原の木道を歩いていますと、モズ特有の金属的な「キリキリ」と繰り返される地鳴きが、紅葉するタカネザクラの方から、聞こえてきました。
 桜類の紅葉は、車山高原では、今が一番の主役です。
 白樺湖周辺の桜の紅葉も、見頃を迎えています。

 車山高原から諏訪に下る大門街道(国道152)では、ヤマザクラ・ナナカマド・ヤマボウシの紅葉が、車窓から楽しめます。この辺りのカエデの紅葉は、あと一週間は必要かもしれません。
2014.9.27[Sat]

車山湿原漂秋三
 キビタキは、木の穴などに巣を造ります。

 春、繁殖期、雄は、縄張りの宣言と、雌の関心を引く「さえずり」を、車山湿原の日の出頃から、谷間に反響させ、高らかに響き渡らせます。

 キビタキの雄でしょうか、よく繁った、紅葉するレンゲツツジの茂みから、[ピーピービリビリ][ピーピービリビリ]と、車山湿原に別れを告げているようです。
(2014.9.26[Fri])

車山湿原 漂秋二
 6月下旬、車山湿原一面に、花を咲かせたレンゲツツジの、暗紅色の紅葉です。

 鉢伏山上空の西陽に透かして見て下さい。
 鮮やかな朱色に変じ、実に美しいです!

 ここから先の、八島ヶ原湿原は、今まさに、草紅葉の景観!
 時季は短いです。
(2014.9.25[Thu])

車山湿原 漂秋一
 夫婦岩から、なだらかな車山湿原をミズナラの樹叢まで下っていきます。
 ススキ野原に、レンゲツツジの暗紅色の群生が美しいです。
 時々見られる、姿が美しい紅葉の木は、タカネザクラです。その実は、既に、落ちているでしょうね。
 まめなホホジロが、つまんだようです。

車山の中腹に、清明な朱色が鮮やかな紅葉を見つけました。マユミとオオカメノキでした。その枝に真っ赤なツタウルシが絡まっています。
(2014.9.24[Wed])

八島ヶ原湿原の草紅葉がお勧め
 八島ヶ原湿原の八島ヶ池が、澄明な秋空を映して、青く輝き、実にきれいでした。
 木道沿いのユモトマユミの朱色の紅葉から、透かして眺めると一段と輝いて見えます。
 八島ヶ池の浮島のシツゲンヤマウルシの紅葉は、既に終わっていますが、ヌマガヤ・チャミズゴケや矮小化したノリウツギが朱色に染まる草紅葉の風景に一変しています。
 丁度、ツバメが20羽以上、八島ヶ池の水面すれすれに滑空する光景が、なお一層の興趣を誘います。
 「八島ビジターセンターあざみ館」の方にお尋ねしましたら、イワツバメも、時には飛来するそうです。
 八島ヶ池から鬼ヶ泉水にかけてヤマドリゼンマイが大群生していますが、丁度、赤褐色に染まり、木道沿いのアサマフウロ・タカトウダイ・ヤナギラン・ワレモコウなどが鮮やかな紅葉となり、それらがgradateされ、八島ヶ原湿原ならではの草紅葉風景となります。
 また萱類の紅葉も美しいものだと、再認識させられました。
 意外にも、クサキョウチクトウの白い花が、今だに咲き残っていました。
(2014.9.23[Tue])

車山高原のススキの尾花が満開
 車山の展望リフトの駐車場から、山頂へ登る遊歩道沿いから見渡す景観は、ススキの尾花の大群落が、、広大な車山高原を絶え間なく覆い尽くす光景でした。
 巻雲が静まる青空から降り注ぐ陽射しを、それを超える銀色の輝きで返照しています。
 写真は白樺湖から撮影した、車山の全景です。
 車山高原は、車山山頂から、たおやかな起伏となって白樺湖へ下って来ています。その草原台地すべてが、ススキの尾花で覆われています。
 ここから佇望する車山高原は、遍く、黄金色に輝いて見えます。
(2014.9.22[Mon])

白樺湖の黄金アカシヤ
 現在、信州では、白樺湖の黄金アカシヤが最大の話題です。
 その黄金アカシアの森「ゆるゆるの丘」には、約50万株500万輪の山野草の花園となっています。
 白樺湖の黄金アカシヤが、一番美しい景観となるのが、車山高原のビーナスラインから白樺湖に向かう車窓からの眺めです。 
 車山高原のススキの尾花の群生も、圧倒的な迫力があります。
 
2014.9.21[Sun]

白樺湖のウルシの紅葉
 白樺湖の遊歩道沿いのウルシの紅葉が、今が一番きれいです。
 前方には、車山山頂からなだらかに稜線を描く車山高原が望めます。
 車山高原は、一面ススキの原野となっています。
 その波打つ花穂群が西陽を浴びて銀色に映えて美しい!。
2014.9.20[Sat]

八島ヶ原湿原のハバヤマボクチがきれい
 この季節、八島ヶ原湿原を歩いて一番目立ったのが、「ハバヤマボクチ(葉場山火口)」でした。
 日当りのいい秋の八島ヶ原の高原に、草丈100~200cmの大型の多年草が、他の山野草より、一際大きく育ち、辺りから抜きん出て背が高いからです。
 また青紫色の総苞は、遠目にも美しく映えます。
 この季節では、八島ヶ原高原の代表的な花です。
 葉場山火口という漢字を当てます。
 葉場山は、草刈場のある山、火口(ボクチ)は、火打石で発した火花を、火種として移し取るもので、葉を乾燥させてその綿毛を集めて用いた事からの名前といわれています。
 葉裏についた綿毛を、何時頃、どうやって採ったのでしょうか?
 忙しい野良仕事の合間に、真夏の頃、葉っぱを集めて、葉裏をブラシのような物でこすって集めたとは・・・・
 そんな暇があるとは思えません。
 ボクチの仲間には、地方によってオヤマボクチ(雄山火口)・キクバヤマボクチ(菊葉山火口)などがあります。
 いずれのヤマボクチも、枯れた花殻や枯れた葉の裏の綿毛を集めて、火打ち石から火を起こす火種(火口)としました。
 秋の終わり、農作業が一段落した頃、山に入ってヤマボクチやホクチアザミ(火口薊)の枯れ葉を集めてきます。
 それを手で、よく揉んでやれば、葉脈がはずれ、綿毛の部分だけを集めることができます。
 ただ、ノアザミ・ヒヨドリソウ・ヤナギランなども、綿状の花殻を付けますから、それを集めるだけで、いくらでも火口(ボクチ)が得られたと思えるのです。

 オヤマボクチ(雄山火口)の綿毛は、古くから飯山市富倉地区では、蕎麦のつなぎとして使用しています。いつの時代からかは、定かではありません。
 現在、北信州の6市町村のそば屋さんで提供されています。
 蕎麦粉500gに対して「オヤマボクチの綿毛」は2.5gで、この比率を保つため、綿毛を0.5g単位で正確に計れる秤で計量するそうです。
 オヤマボクチは、自生していますが、蕎麦店では、とても足りなく、栽培もしています。
 収穫は7月から雪が降る直前まで行われています。
 オヤマボクチの収穫の大変さ、つなぎになる繊維を取り出す作業と、その繊維が入るためにこねる大変さ、そして延ばしにくいため量に限りがある、それで、この北信州の地にとどまったまま広がらなかったようです。
 それで「幻のそば」と呼ばれるそうです。
 通常のそばでは考えられない蕎麦の味だそうで、一度食べた方は必ずやみつきになるようです。
 年内、飯山で食べるつもりです。
(2014.9.19[Fri])

八島ヶ原湿原ではユモトマユミが紅葉を始めました
 ユモトマユミの葉が、紅を差し始めています。鷲ヶ峰上空にかかる綿雲の間から降り注ぐ陽射しを浴びています。その紅色の木漏れ日を、小さな実に朱色に凝縮させています。
 鎌ヶ池のほとりに屹立するユモトマユミから、八島ヶ原高原を一望すると、遥か彼方にミズナラの車山樹叢が樹海となり、その上空に車山の全景が浮かび上がります。
 今、八島ヶ原高原では、ヤナギラン・ハクサンフウロ・アサマフウロ・コウゾリナ・ヤナギラン・ヒヨドリバナ・タカトウダイなどが色付いています。今年は、ヨツバヒヨドリの紅が、一際美しいようです。
 ミゾソバが 可憐な花を咲かせながら、その葉は、既に紅葉の気配です。草紅葉は鮮やかな赤です。
 ヌマガヤやミタケスゲが紅色を強めています。
 
(2014.9.18[Thu])

八島ヶ原湿原のシツゲンヤマウルシ
 八島ヶ原湿原の固有種、草丈30cm前後のシツゲンヤマウルシの真っ赤な紅葉は、ほぼ終わっていました。八島ヶ池の浮島に、遠目に数個、真っ赤なシツゲンヤマウルシが見られたに過ぎません。他は完全に枯れて、茶色く変色していました。
 八島ヶ池から鬼ヶ泉水の間では、白くて小さい綿毛のようなイワショウブが、遠くの方まで咲き続いていました。今、まさに、湿原から誕生したばかりの白い妖精のように、ふわふわと風に揺れるのを楽しんでいます。
 アケボノソウも見つかりませんでした。帰りに、「八島ビジターセンターあざみ館」の方にお尋ねしましたら、ほぼ終わりかけていて、雪不知沢が鬼ヶ泉水に流入する辺りで、9月の上旬頃咲き誇るようです。
 来年の楽しみに、とっておきます。

 ちょうど車山の裾の方に、長く霧雲が棚引いていました。
(2014.9.17[Wed])

白樺湖の黄金アカシヤ
 まだ黄金とは言えませんが、車山から大門峠を走る車窓から眺める白樺湖周辺では、黄金アカシヤの黄葉が一際、目立っています。
 白樺湖の黄金アカシヤから眺める車山高原の風景は、今では、白樺湖には欠かせない景観となっています。
 白樺湖周辺のサクラも紅葉し始めています。やがてウルシ・タカネザクラ・カエデ・ドウダンツツジ・ナナカマド・オオカメノキ・ヌルデ・ヤマブドウなどの紅葉を中心に、ミズナラ・シラカバ・ズミなどの黄葉が多彩な色を添えるのが、例年では10月中旬頃です。
 車山高原のビーナスライ沿いの展望駐車場から眺望する、白樺湖周辺の全山に亘る紅葉風景は圧巻です。
(2014.9.16[Tue])

車山のレンゲツツジが紅葉し始めました
 車山のペンション、レア・メモリーの庭では、レンゲツツジ・タラの木・ツタウルシ・カエデ・ニシキギ・ドウダンツツジなどが紅葉を始めています。
 シラカバ・ズミ・コシアブラの黄葉も目立ち始めました。

 国道152の大門街道沿いでは、ススキの尾花が開花し、ナナカマドの実も、真っ赤に染まり始めています。
 白樺湖の黄金アカシヤも、かなりきれいに輝き出しています。
 八島ヶ原湿原の山ウルシの紅葉も、そろそろでしょうか?明日、観察してきます。
 八島ヶ原湿原には、今の時季、アキノウナギツカミ(秋の鰻掴)の花が咲きます。変わった名前のタデ科の草本です。
 茎はよく枝分かれし、四方に広がり、下部は地に伏し、上部は立ち上がって稜角があり、逆刺があって他物にからみ、1m位伸びます。
 その茎に生えている密で鋭い逆刺を利用すれば、ヌルヌルして滑りやすい鰻(うなぎ)でも、容易に掴(つか)めることから、アキノウナギツカミの名が付きました。
(2014.9.15[Mon])

車山に群生するノコンギクの花
 落日の残照が、光のスペクトルとなって、八ヶ岳・阿弥陀岳上空の積雲を、淡く朱色に染めています!
 現在、車山高原では、幾箇所かに群生するノコンギク(野紺菊)の花が、きれいに咲き誇っています。
 古くから観賞用に栽培されてきた紺菊は、この種の栽培品種で、花の色はより鮮やかです。ノコンギクの和名は、野にある紺菊という意味ですが、その紺菊の原種です。
 ノコンギクとヨメナの花はどちらも淡紫色をしていて、よく似ていますが、野菊の中で、もっとも群生するのは、このノコンギクです。
 属名の Aster はギリシャ語の「aster(星)」からきています。ノコンギクの頭花を、端的に表現しています。

 車山高原から霧ヶ峰・八島ヶ原湿原にかけて、ハバヤマボクチ・ヤマラッキョウ・アサマフウロ・タチフウロ・コウゾリナ・トネアザミ・タムラソウ・ユウガギク・エゾリンドウ・ゴマナ・ヤマハハコ・マツムシソウ・ツリガネニンジン・アキノキリンソウ・ウメバチソウ・ツクバトリカブト・ソバナ・ミゾソバ・ワレモコウ・アキノウナギツカミ・アケボノソウなど、まだまだ秋の高原の花は多種にして豊富です。
 今では、過ぎ去りし夏の日の思い出でしょうが、夏の花は、ニッコウキスゲ・キンバイソウ・ヤナギラン・シモツケソウなどが大群落となり、圧倒的な迫力と壮大にして華麗な大花園高原を眼前に展開してくれていました。
 秋の花は、ゴマナやノコンギクが、車山高原・霧ヶ峰・八島ヶ原高原に、幾箇所に群生を作りますが、ニッコウキスゲやヤナギランなどのように草原を一面に支配するほどの繁殖力はありません。
 かつては、マツムシソウやウメバチソウなど、秋の花らしい可憐な花の小群生が、高原の秋の風物詩として、よく語り継がれてきました。
 近年、鹿の食害は激しく、夏の花の大群落や秋の花の小群生も、辛うじて、ビーナスライン富士見台や八島ヶ原高原で、かつての景観を、小規模に維持されているに過ぎません。
2014.9.14[Sun]

本日、車山高原でジゴボウ20本を採取
 雨上がりに、ジゴボウを採りに行きましたら、大中小20本、瞬く間に獲得!
 写真がそれです。
 今日のお客様は、本当に幸せです。

 丁度、北山の柿沢さんから[河童瓜(かっぱうり)]をいただきましたので、それと炒めてみようと考えています。
  [河童瓜]は、カッパキュウリとも呼ばれています。キュウリより大きくなってから収穫しますが、より瑞々しく柔らかいです。

 ジゴボウを塩茹でし、[河童瓜]をスライスして生のまま、塩昆布と和えると美味しいです。
2014.9.7[Sun]

美ヶ原の可憐な花シャジクソウ
 車山高原から車で1時間も掛からない美ヶ原の山本小屋から、徒歩20分の「美しの塔」へ向かいました。
 途中、柵際で牧草を頻りに食べ続ける乳牛に声を掛けると、何故か、頭を上げて近寄り、顔を近づけてくれたり、鼻の穴を膨らませたり、それぞれ反応があって楽しませてくれます。
 美ヶ原の最高峰は、標高2,034mの「王ヶ頭」で、「美しの塔」から歩いて40分と、比較的なだらかな散策コースとなっています。ぜひ歩いてみて下さい。
 「王ヶ頭」から西方向には、松本市街地が俯瞰され、北側には坂城町が見えます。
 東南方向には、頂上の気象台がシンボルとなる車山方向が眺められ、その八ヶ岳まで万岳が波涛となって漂う山岳風景に圧倒されます。
 その途中にシャジクソウ(車軸草)が、美ヶ原の標高2,000m前後の高燥台地の冷風に耐え咲いていました。その生息地の苛酷さにより矮小化したためか、ことさら美しく可憐な花となり、思わず感嘆の声をあげてしまいます。
 シャジクソウは、小葉の長さが2~5cmあって、しかも5~6枚、車軸状にぐるりと並ぶ姿が、王朝時代に、公卿の乗った牛車の車軸の形と似て見えることから、その名前の由来となりました。
2014.9.6[Sat]

車山高原のジゴボウ初収穫!
 写真は、昨日、車山高原のレア・メモリーの裏庭で初収穫した茸・ジゴボウ(ハナイグチ)です。
 芝生のテラスに、有毒なオオシロカラカサタケが生えていましたので、レアメモリーの裏庭の唐松林に入ってみました。

 早くも「ジゴボウ」の収穫時季の到来です!

 採り立て「ジゴボウ」が入った高原野菜の香りスープが人気です。
 薄めの昆布出汁に大根おろしを入れて熱し、焼き立てのジゴボウと和え、メイン料理の付け合わせにします。
 個人的には、車山高原の秋の宵は肌寒いので、白髪ネギとジゴボウ入りの湯豆腐の餡かけソースを作ります。
(2014.9.4[Thu])

車山から車で60分の美ヶ原の景観
 車山から車山肩→強清水→八島ヶ原湿原→和田峠→三峰山・扉峠→落合→美ヶ原高原台地とビーナスラインを走って、60分弱です。
 美ヶ原高原は、ほぼ平坦で、南北に8k、東西に4k、 標高は2,000m近い溶岩台地です。
 360度の眺望が楽しめ、天候に恵まれると、北アルプス槍穂高連峰から後立山連峰・妙高戸隠・四阿山・浅間連峰・八ヶ岳・富士山・南アルプス・中央アルプス・御嶽山など、乗鞍岳とアルプスの山々が、ほぼ一望できます。
 美ヶ原高原の今、マツムシソウ・ツリガネニンジン・ウメバチソウ・ハナイカリなど美しい花の高原でもあります。
 かつては、松本周辺の人々によって東山または王ヶ鼻と呼ばれていました。美ヶ原という名が定着したのは、大正10(1,921)年に木暮理太郎が、日本山岳会の会報『山岳』に登山の記録を掲載してからだそうです。
 美ヶ原では現在、約400haの広大なエリアに、350~400頭の牛が、例年5月半ば頃から10月半ばまで放牧されています。最盛期には300頭近くの牛が、同時期に放牧されます。
 美ヶ原高原の最高峰は、王ヶ頭(2,034m)です。王ヶ頭の石碑は、王ヶ頭ホテルを裏手に回った崖頭にあります。そこからは松本の市街地が俯瞰されます。
 また王ヶ頭から眺める南西断崖の荒々しい美しさが、印象的でした。
 牛伏山にも、既に大分疲れ、ゆっくりとした足取りで、1時間30分ほど掛けて登頂しました。そこから眺める王ヶ頭周辺の景観は、実に幻想的でした。
(2014.9.3[Wed])

美ヶ原高原のハナイカリが美しい
 ハナイカリ(花錨)とは、きれいな名前です。後ろに反り返った4個の距が、錨を連想させるのです。
 一見地味ですけど、その淡黄色の色合いが優しく美しい、この花も、一度、出合うと忘れられない花となります。
 美ヶ原高原は、標高2,000m近い草原台地ですから、ハハコグサ・ツリガネニンジン・ハクサンフウウ・アキノキリンソウなど亜高山帯植物が咲いていますが、草丈が短く矮小化しているように見えます。
 それでハナイカリやウメバチソウ、今だ咲き残るエゾカワラナデシコなど、里山地帯から亜高山帯の日当たりが良好な場所を植生とする草本類には、かけがいのない草原となっています。私にとっても、毎年、季節を変えながら、必ず訪れる高原です。
 ハナイカリは、美ヶ原[美しの塔]から王ヶ頭へ向かう遊歩道を歩いていると、マツムシソウやウメバチソウなどが咲く、その脇に、ひっそりと咲いています。稀に小群落も見られます。

 ハナイカリは、やがて距の先が色づいて、やがて全体が赤く染まります。
 
 広大な草原で、突然、濃霧に包まれたり、吹雪に見舞われた折りに、方向を見失った方々の拠り所を知らせる鐘が、「美しの塔」です。
(2014.9.2[Tue])

車山高原周辺の白樺湖の景観
 白樺湖までは、車山から車で5分もかかりません。大門峠周辺から東白樺湖へ向かうビーナスライン沿いから眺める周辺の多数の黄金アカシアの葉が、明るい黄緑色に染まって、一際、美しいです。
 やがて9月下旬頃から10月上旬頃になると、文字通りの黄金色に色付きます。白樺リゾート『ゆるゆるの丘』あたりの5haの敷地内には、1,000本の黄金アカシアの樹木があり、一面、黄金色に染まります。独特な見事な景観です!
 八子ヶ峰の麓、白樺湖の湖畔にある温泉「すずらんの湯」は、大浴場の広いガラス窓から、蓼科山を借景にする白樺湖を直下に眺めている間に、美しい景観とゆったりと流れるゆとりの時間が、優しく体をほぐしてくれます。
 ずらんの湯にはサウナ・露天風呂もあります。
 午前10時から午後9時まで(午後8時30分受付終了)
 ただし、火曜日は午前12時から午後9時までです。
 大人 700円
 小学生 400円
 小学生未満 無料
 車山高原レア・メモリーでは、割引券を用意しています。

 「すずらんの湯」近くの遊歩道沿いには、今、黄色い花のハンゴンソウが咲いています。その白樺湖の対岸上部には、今だ万緑の車山高原の全景が望めます。
(2014.9.1[Mon])

2013年 9月の車山日記

編笠山・観音平からの眺望
 観音平は山梨県の小淵沢町の地籍で編笠山への登山口になっています。無料駐車場が整備されていますが、周辺に樹木が繁茂して眺望が妨げられています。
 観音平に到着する手前に僅かな駐車場があります。ここから、編笠山の東方に展開する眺望が楽しめます。南アルプスどころか、眼下の甲府盆地と、秩父山脈を源流とする笛吹川と諏訪平の釜無川が合流し、箱根山系と南アルプスの山間部の谷筋を流れる富士川などが景観できます。
 甲斐駒ケ岳は、諏訪や甲府の人々にとって、富士山に次いで日常的に仰がれる、峻険な山容で屹立する山です。
 仙丈ケ岳は、諏訪周辺の山々から天竜川流域の伊那谷の殆どで眺められる荘厳な姿の山です。観音平からは、その奥に佇む主峰・北岳も見えました。富士山に次ぐ日本第二の高峰で、火山でない山としては日本で最も高い! 車山の我が家からも、真南に三角形の山頂が見られます。
 身延山系と秩父の山並みが眼下に展開する光景が感動的でした。
(2013.9.30[Mon])

原村のそばの花
 車山から八ヶ岳エコ-ラインを通って編笠山南麓を巡り、小淵沢の観音平展望台へ出掛けました。
 八ヶ岳エコ-ライン沿いのそばの白い花は、既に黒ずみ結実期に入っていました。原村の農家の方に尋ねると、10月中旬に刈り取り、10月下旬にはそば粉に挽くそうです。今年も、やはり信州産の「秋そば」が出揃うのは11月上旬のようです。
 途中、エコ-ライン沿いの原村にある「808キッチン・テーブル」で【きのことえびのパスタ】サラダ付1,100円を注文しました。海老を炒めトマトピューレと合わせた濃厚なソースですが、パスタによく絡み、ワインとオリーブ油で仕上げられているせいか、爽やかな酸味が味わいを和らげてくれます。トッピングはフライドオニオンと、桜海老のパウダーでした。
 こちらのパンも美味しいです。湯河原のブレッド・サーカスように、パンの味を濃縮するかのように外側を確りと固めに焼き上げ、内側はしっとり・ふんわり!絶妙です。「808キッチン・テーブル」のテラスで、手でちぎりながら食べることをお勧めします。
 オーブンで、ピザ風に焼き上げられたパンを、「808キッチン・テーブル」のテラスで食べながら、阿弥陀岳と横岳の景観を眺望する贅沢は、まさに至福の極みでした。
 隣の「たてしな自由農園」では、長野県のオリジナル品種の葡萄「ナガノパープル」と「信州黄金シャモ」を買って、再び観音平へ向かいました。
2013.9.29[Sun]
「赤そばの里」の「赤そば盛り」
 「赤そばの里」の上伊那郡箕輪町の古田の里で、赤そばを食べました。以前食べた「留美庵」は営業を止めていました。「赤そばの里」は「古田の里赤そばの会」の方々が運営管理されているのですが、その赤そば畑の入り口で小屋掛けをした場所で、「赤そば盛り」を900円で提供してくれています。
 仄かな香りがあり、コシが強すぎず、なめらかな味わいがなによりです。そばつゆはやや甘めで、しかもコクがあります。そば打ちもする箕輪町町議会議員の唐澤さんにその話をしましたら、そばつゆを完成するまで、30種位作ってから選び抜いたようです。
 その時、「マタタビの塩漬け」でしょうか、サービスしてくれました。マタタビの熟した実は生食もできますが、えぐ味と香りちょっと強すぎます。「マタタビの塩漬け」は、その独特のえぐ味と香りが和らいで、コリコリした歯ごたえあり、口の中をさっぱりさせてくれます。
 マタタビの実を塩漬けにして保存し、必要なときに塩抜きする、上信越地方の名物にもなっています。
2013.9.28[Sat]

信州産の「新そば」は11月早々に出揃います
 昔から蕎麦といえば【信州】と言われてきました。そばは本来、冷涼多湿を好みますが、耐旱力にも優れ、しかも、種まき後2?3ヶ月程度で収穫できる生育期間の短さと、なにより気候に対して順応性に優れ、吸肥力が特段に強いなど、信州の山間地や米の生育に適さない高冷地や痩せ地で盛んに栽培されるようになりました。かつては、そばの栽培に、平均気温が12度、花がついてからは日中と夜の温度差が10度以上という中部地方特有の高原気候が、そばの実の糖度と旨みを増すといわれてきました。決して多湿ではありませんが・・・・
 そばの気候変動の適応性は抜群で、今の日本列島では北海道が主産地で、山形・福井・福島・長野の各県と続きますが、南の鹿児島県でも年に3回収穫が可能で、主要な産地となっています。
 元々、そばは救荒作物ですから安価で流通していました。1940年代から1960年代にかけて、世界的規模で、高収量品種への改良や化学肥料の大量投入などにより、穀物類の耕地単位の収量を飛躍的に増加させる『緑の革命』が推進されました。一方、そばは、施肥すると葉茎がやたらに伸びて、むしろ花芽の育成にマイナスに働きます。
 『緑の革命』もそばの品種改良にまで及ばなかったようです。未だに開花しても結実歩合が非常に悪く、「赤そば」ほどでないにしても、過半がしいな【粃】状態になります。
 現在では他の穀物よりも単位面積あたりの生産量が低いため、むしろ流通価格は高値で、調理内容は依然として素朴でありながら、専門店レベルでは高価な素材となっています。
 11月は、「新そば」の時期です。年に3回収穫されるそばなのですが、秋に収穫されたそばは別格とされています。香りが高く、甘味や旨みが一段と増しているからです。美味しい「新そば」の実を育てるには、「寒暖の差があり」、「霧が発生し」、「湿度が低い」などの諸条件が必要です。
 その条件を満たすそばが、秋に収穫される「新そば」なのです。特に、国産のそばでも「信州そば」が高い評価がえられるのも、その諸条件を充分に満たし、香り高く、旨みを増しているからといわれています。
 日本のそばの自給率は20%程度で、国産では賄えないのが現状です。やはり中国産が主流になっています。今、既に長野県のそば屋さんでも、「新そば」を掲げている店があります。それは信州本来の露地物の「新そば」ではありません。私が行きつけの長和町のそば屋さん「和紙の里」でも、茅野市の「更科長寿」でも、「新そば」は早くて10月末です。
 蕎麦はまだ  花でもてなす  山路かな   松尾 芭蕉
 その信濃路の白い美しいそばの花が、今現在、伊那谷から「諏訪の平」にかけて、漸くしおれ窄んで黒くなっている時季です。そばの結実はこれからです。「赤そばの里」の上伊那郡箕輪町の古田の里の刈取りも11月早々です。
 「信州そば」の「新そば」は、未だ松代以北では、「花でもてなす  山路かな」と美しい純白のそばの花を観賞できます。
(2013.9.27[Fri])

今年も「古田の里 赤そば」へ出掛けました
 「古田の里 赤そば」は、長野県上伊那郡箕輪町上古田区金原地籍にあって標高900mにあります。周囲を幾筋かの沢水が川となって滾り、伊那谷の特徴である田切台地を造りました。面積は4.2haと広大で、ゆったりとした緩斜面となっています。
 車山からは、長野県道50号諏訪辰野線で、諏訪市街地の湖南豊田の有賀峠から上野に下り辰野へでれば、1時間半位でいけます。
 「古田の里 赤そば」は、元は、50枚を越す段々畑であり総面積も5ha以上あり、桑・とうもろこし・そば・麦・粟・稗などの作物が主な畑地だったそうです。
 その後、種子とうもろこしを作付しましたが、経ヶ岳の深い山麓ですから猪・鹿の食害が甚大で10年程で放置されたようです。
 平成9年、箕輪町により、現在のような雄大なスロープを持った圃場として整備されました。そこへ信州大学の氏原暉男名誉教授が、昭和62(1,987)年に、ヒマラヤの標高3,800mの大地に咲く赤い花のそばの種を日本に持ち帰り、宮田村のタカノ(株)と共同で品種改良を成功させました。その真紅の花を「高嶺ルビー」と名付けました。
 普通のそばより背丈が低く収量は1/3程度です。そばの栽培では、結実させるためにかえって肥料を与えません。それでも「高嶺ルビー」は殆どが実を結ばない粃(しいな)で終わるそうです。
 紆余曲折があって、平成9年から平成17年までは中箕輪そば組合が、平成18年からは「古田の里赤そばの会」が耕作し現在に至っています。見ごろが、9月20日頃~10月15日頃になるように播種しているそうです。
 今年は、今が赤そばの花の最盛期と言われました。
 そばの花は直径3~4mm、花が各枝の先端にたくさん集まり、総状をなし、たくさんの蕾を付け、日々下部から少しずつ咲き、次第に先端に進み、花が密集するようになります。雄しべの下部には、8個の蜜線があり、蜜の分泌はたいへん多く、日本でも昔から蜜源作物として重要視されてきました。
 信州のそばの花は、今の時季、急激に枯れてきます。そばが結実する時季です。「古田の里 赤そば」は、11月早々、「古田の里赤そばの会」の方々が収穫を始められます。
(2013.9.26[Thu])

車山から陣馬形山へドライブ
 陣馬形山は、上伊那郡中川村大草のほぼ北端にある山で、北は駒ヶ根市、西は同郡飯島町に接しています。国道153号を松川町から北上すると、伊那山地の大鹿村横谷から駒ヶ根方面の中北部へ延びる山容は、西の飯島町からの眺めが最も雄大で、標高1,445mの陣馬形山を先端とする山稜が、伊那谷に堂々と独立して突き出しています。
 陣馬形山は伊那山地から四徳川を挟んだ西側手前の山並みにあります。伊那山地とそれに近い山々がみなそうであるように、南アルプスと中央アルプスが余りにも近景過ぎるため、その迫力に圧倒されます。
 陣馬形山は伊那谷からよく目立つ山頂で、戦国時代は武田勢の「のろし台」があったという説もあります。山頂から見晴す展望は、目を見張るばかりで、「のろし台」にはうってつけであったでしょう。頂上からは、西に中央アルプスの仙涯嶺・南駒ケ岳・空木岳などが、東に南アルプスの塩見岳・悪沢岳・赤石岳などが眺められ、快晴下であれば北アルプスまで望められます。
 西方眼下に伊那谷が広がり、南北に流れる天竜川の流域が雄大に眺望され、伊那谷随一の景観を楽しむことができます。陣馬形山から飯田や駒ヶ根を一望する暮景も、月下であれば、なお素晴らしい!
 中央アルプスの山脈が蒼黒い影となって連なり、その稜線上を既に沈んだ夕陽がなぞる様に帯状に明るく照らします。その山麓には伊那谷の各市街地の生活灯が蜜に展開し、その幹線を通過する車列の明かりが線状となって行き先を教えてくれます。
 陣馬形山の山頂までは、赤蕎麦が食べられる「いろりなかがわ亭」から陣馬形林道に車を乗り入れて、道幅が狭いため擦れ違いで緊張しますが、約15分位です。ただお盆には、暫定規制があるようですから事前に確認して下さい。
 中川村役場の近くにある望岳荘からは、車山高原や霧ヶ峰同様、ハイキングコースもあり、冬はスノートレッキングもできるそうです。
(2013.9.24[Tue])

車山高原の紅葉が始まりました
 現在、大門峠から車山展望リフト乗り場までのビーナスラインと車山南麓・カシガリ山から霧ヶ峰・強清水にかけて、ススキの花穂の群落が美しいです。
 また、ヤマブドウ・ヤマウルシの紅葉が最盛期で、レンゲツツジ・タラの木・ナナカマド・ツタウルシなどの紅葉も始まりました。
 写真は先ほど裏庭で採ったジゴボウを、紅葉するヤマブドウの葉にのせて撮りました。小粒ですが、傘が開かない前の、この状態が一番美味しいのです。ちょっと贅沢ですが、今日のお客様にお出しします。
(2013.9.23[Mon])

車山湿原のユモトマユミ(湯元檀・真弓)が紅葉
 ニシキギ科は落葉小高木であるはずなのに、車山の東斜面の沢筋には、風衝が遮られるためか、大きいものでは高さ6~7mに達しています。マユミは北海道から九州、および朝鮮半島、樺太に分布し、東アジアから極東にまで植生域を広げています。低山地では、身近にあるせいもあり、櫛・こけしや将棋の駒などの普及品の用材として使われています。
 山菜でも有名で、若葉は特に灰汁やえぐ味が殆どないので、信州では、長めにゆでて柔らかくして「お浸し」や味噌汁の具材など、日常的に親しまれています。
 倒四角錐形の小さな紅色の実と 美しく輝く朱色の紅葉が、秋の最盛期を装う最高の演出となり、江戸時代以降、庭木や鉢植えのほか盆栽にも仕立てられています。マユミは漢字で「 真弓」と書きます。木質が緻密でゆがみが少なく、耐久性に優れているため、弓の素材ととして重用されたことに由来します。
 縄文時代草創期以来、マユミは1本の木や竹で、簡単に作られる素朴な丸木弓の用材でした。1万年を優に超える縄文時代の技術進化は著しく、竹と木を接着する為に「にべ」というニカワ質のものを用い、その上に漆を塗った複合弓を登場させ、簡便な丸木弓と併用していました。
 「真弓」の語源は、本来、まゆみの木で作った小弓をさします。生育が速いヤナギ製の小弓同様、平安時代から公家のお座敷遊びに、手軽入手できぬ用材として重宝されていました。
 車山高原・霧ヶ峰・八島ヶ原・蓼科・高ボッチなど、標高が高い亜高山帯近辺に自生する種は、総てがマユミの変種のユモトマユミ(湯元檀・真弓)です。葉裏の脈上に短毛が密生しているのが特徴です。
 冷涼な車山高原のマユミの紅葉は早く、ヤマウルシ・山ブドウの紅葉をなぞるように染まっていきます。車山湿原ではレンゲツツジの紅葉が始まりかけています。湿原に咲き残るウスユキソウのそばで、一本だけユモトマユミが実も葉もオレンジに染まっていました。やがて鮮やかな朱色に変じていくことでしょう。
 秋が深まり落葉すると紅色の果実だけが残ります。この時季前後、荒ぶる野趣風情と朱を主体とした季節感が、多彩な考案を誘発させるせいか、生け花の材料として好まれています。
 実が熟すと中から、紅色の仮種皮(かしゅひ)に覆われたタネが現れます。その赤い仮種皮が有毒なのです。
 マユミは日本に古来から自生する植物です。栽培は容易で、病害虫に対して耐性もあります。花は緑白色で径8mmほどで地味ですが、それでも日なたに植えれば、毎年、初春の山菜、晩秋の美しい紅葉と果実の彩りなど、四季を通して折々の楽しみがあります。 

 車山高原では、この季節、カエデの種が、風に乗ってくるくると舞い落ちて来る光景に、度々出合います。カエデの仲間の種子は、「翼果(よくか)」とよばれる2枚の羽をもつ果実の中にあります。この一枚の羽の片方の先端に種があります。その翼果が風に吹かれて、翼となって遠くに運ばれます。新たな植生地の始まりです。
2013.9.22[Sun]

「いろりなかがわ亭」の赤蕎麦と五平餅
 蕎麦はタデ科の一年草で、その原産地は最近では中国西南部山岳地帯の雲南省の雲貴高原だと言う説が有力です。中国雲南省からヒマラヤにかけては、蕎麦の花は白だけでなくピンクや赤色の蕎麦があるそうです。
 高知県佐川町で約9300年前の地層から蕎麦の花粉が検出されました。日本では、縄文時代草創期には、既に栽培されていたのでしょう。
 昭和62(1987)年、信州大学の氏原暉男教授が、ヒマラヤの標高3,800mの地に咲く赤い花の蕎麦を日本に持ち帰り、宮田村のタカノ(株)と共同で品種改良を行い、真紅の花の蕎麦を作りました。それが赤蕎麦「高嶺ルビー」です。
 信州伊那谷中川村の蕎麦処「いろりなかがわ亭」は、中川村内で蕎麦を栽培・製粉し、店内で手打ちし蕎麦切りにします。白蕎麦に加え、限定ですが、通年で赤蕎麦も提供しています。原材料の蕎麦のみならず、副食材の野菜や米・味噌・山菜なども近隣農家と共に作り、五平餅はもとより、その串までも自作です。
 ややピンク程度の赤蕎麦の蕎麦切りは淡泊で、香りもコシも控えめで、口の中で直ぐ砕けてしまうような食感でした。それはそれで味わいがありました。三人家族ですから写真のように三人前盛(2,610円)を注文しました。そこに薄緑のカエデの実が添えられていました。
 五平餅は3串頼みました。1串150円と安い。お米はもちろん、大豆から味噌・黍・山椒・くるみなど村内産のもので作った五平餅です。山椒の味と香りが際立っていますが、甘味もほどよく、実に美味しかった!車山からでは、度々、出かけられないのが残念です。
(2013.9.20[Fri])

2、秋の味覚・長野県のオリジナル農産品種
 【ナガノパープル】は、平成2年に須坂市にある長野県果樹試験場で、「巨峰」に「ロザリオビアンコ」を交配し、その実生の中から選抜し、平成13年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したそうです。その後、平成22年12月22日に、花粉親が「リザマート」であったと、長野県果樹試験場が発表しました。
 【ナガノパープル】のぶどう狩りができる場所は、上伊那郡中川村の『中川赤そば花まつり』が行われている赤そば畑から見下ろせる広大なビニールハウス群の中です。高台の赤そば畑から、その「西原ぶどう園」を撮った写真を掲載しました。駐車場も十分あり、観光バスも入って来るくらいです。
 「西原ぶどう園」で試食しました。香り豊かな黒系のぶどうで、果肉は確りしていて、「優しい酸味」と「さわやかな甘さ」が印象的でした。
 2013年の『中川赤そば花まつり』の開催は、9月21日(土)~10月14日(月・祝)で、昨日行った時には、準備に余念がない様子でした。
 車山→諏訪IC迄40分、中央自動車道諏訪IC→駒ヶ根IC迄39分・松川IC迄51分、駒ヶ根ICから「西ヶ原ぶどう園」迄20分、松川ICから「西ヶ原ぶどう園」迄10分です。上伊那郡中川村は、眺望絶佳の陣馬形山や通年赤そばを食べられる「いろりなかがわ亭」や、桜の名所望岳荘・坂戸橋と坂戸峡・大草城址公園など見所が多い村です。

 長野産【サマ―クリスタル】も長野県のオリジナル品種のネクタリンです。ネクタリンの黄色い果肉と違って、紅色で中心が白い、まるで桃のような果肉です。やや歯ごたえがあるため硬めの桃のような食感ですが酸味はありません。旬は「7月中旬~下旬」で、売り出し中の珍しい品種です。
 【信州サーモン】はニジマスとブラウントラウトを交配させた品種です。ニジマスはサケ目サケ科サケ属です。ブラウントラウトはサケ目サケ科タイセイヨウサケ属で、いずれもサケの仲間です。
 サケ科の仲間は豊富で、しかも生態も多様で、ニジマスのように、一部海に下る個体もいますが、殆どの種は河川や湖沼で生涯を終えます。ニジマスもブラウントラウトもほとんどが河川や湖沼で一生を過ごします。
 降海型と言って、海に下り再び川へ戻る種もありますが、それは一部で、ちなみに海に下りた場合、ニジマスはスチールヘッド、ブラウントラウトはシートラウトと名前を変えます。
 日本でいう「鮭」の殆どは、シロザケ・ギンザケ・ベニザケ・キングサーモン・サクラマス・カラフトマスなどで、食用となるサケ・マス類は豊富です。
 かつて鮭といえば、サーモンでした。サケ科の一部の魚に対して呼称される英語です。今は国内のみならず国外からも様々なサケ科の魚が、食用として日本に入ってきています。しかもサーモンとうい名もだんだん広義に使われるようになっています。
 【信州黄金シャモ】は長野県畜産試験場で開発した信州独自の地鶏です。信州黄金シャモは、広い鶏舎でのびのびと清潔な環境で育てられた、「歯ごたえ・おいしさ・風味」を兼ね備えた、肉汁たっぷりの新品種の地鶏です。
 父鶏にシャモ、母鶏に名古屋種、そうして生まれたのが信州黄金シャモです。長野県が定めた厳しい飼育基準と、国産地鶏100%の血統が守られています。黄金に輝く色から、料理研究家の服部幸應さんが「信州黄金シャモ」と命名されました。エサはマイロという雑穀が主体で抗生物質は入っていません。こうした飼い方では大量生産はできませんが、健康な地鶏を食べて頂くために「少数飼い」を厳守しています。
(2013.9.18[Wed])

車山で今日もジゴボウが採れました
 台風18号の影響で昨夜から降り続いた雨でしたが、昨日午後に、止みましたので、裏庭でジゴボウを探してみました。昨日より多い、13株採れました。今日、お泊りのお客様にも、スープの具として、また牛レバー・オニオンと炒めて荒塩で味付けをしてガロニとして、お出しします。
 ジゴボウは中国・ヨーロッパ・ソビエトの沿海州・北米など、カラマツ属の分布域では一般的で、日本列島では晩夏から秋にかけてカラマツの林内に発生します。写真のように形は極めて美しく整い、優しい香りと味わいがあります。それで信州では「ジコボウを食べないと秋が来た気がしない」という人が多いのです。信州では雑木林に生えるクリダケ同様、珍重され、傘は径3cm以下の円錐形をとどめる時が、贅沢ですが一番歯ごたえと香りがあって美味しいのです。それ以上大きくなると、大概、虫が侵入しています。
傘は初め半球形で、大きくなるにつれ開いてほぼ平らになります。 表面は赤茶色で、のち色あせて黄茶色になり、ナメコのように粘液で覆われています。一見して、傘の裏の管孔は濃い黄色、若いときは黄ないし薄い茶色の膜で覆われています。柄は黄色から赤褐色でつばを持ちます。
 ジコボウは、カラマツ林では最も一般的な茸で、各地で食用茸として利用されています。胞子を林内に散布することによって増殖することができるようになり、 特産品の茸として利用しようとする試みも行われています。気候次第では6・7月に、車山のレア・メモリーの裏庭で採取できた年もありました。
 ジコボウの仲間は、異種も多く、和田峠を下る和田川流域は、傘が白いのが特徴です。八島ヶ原高原の沢渡近くの林道脇や、霧ヶ峰の防火帯の林縁で赤土の見える様な、比較的遷移の新しい日当たりのやや良い場所で、木漏れ日のさす笹の葉の陰に、黄金色に輝くものが見えたら、最高の良品と出合ったと思って下さい。
(2013.9.16[Mon])

車山で初物ジゴボウ(ハナイグチ・花猪口)が採れました
 今日、裏庭のカラマツ林でジゴボウを収穫しました。ミヤコザサの茂みの中で黄金色に輝いていました。早速、高原野菜スープに入れて、お客様に旬の味わいを堪能していただきました。
 カラマツジゴボウとも呼ばれように、夏から秋にかけ、カラマツ属の樹下に生えます。外生菌根が形成できる樹種がカラマツ属に限られるため、それ以外の針葉樹の下では見られません。カラマツ林の樹齢15年生以上に多く出るそうです。
 『傘』の裏面は管孔がスポンジ状をなしており、まだ出だしの頃は薄い膜に覆われています。次第に露出し、淡い黄色から濃レモン色に変色します。軸には鍔があり、鍔より上は鮮やかな黄色で粘性があり、下は赤褐色でややパサパサしていますが、それはそれで歯ごたえがあります。
 ジゴボウは市販されているナメコよりも、しっかりとして 「ぬめり」 もあります。『傘』はとろりと口の中でとろけるようです。特に太い軸はシコシコとした食感と独特の香りがあり美味しいです。
 調理する直前に、濡れフキンで汚れを取り除くのがポイントです。
 ちょっと贅沢ですが、幼菌はそのまま熱々の味噌汁に入れます。やや硬めの歯ごたえがたまりません。
 成菌は調理直前に湯がくことです。大根おろしとポン酢で素朴に食べるのが一番です。オニオンと塩胡椒バタ炒め・すき焼きなどの鍋物が定番です。我が家では、湯通ししてたっぷりの白髪ねぎと生姜の千切りと和えて、冷や奴にのせて、「もやし酢」を掛けて食べます。血圧の高い方にお勧めです。
2013.9.15[Sun]

秋の味覚・長野県のオリジナル農産品種
 長野県の広さは全国第4位です。その8割を占めるのが広大な山林です。日本列島の中部高原・「日本の屋根」から流れ下る沢水・湧水を集める中小河川は、中南信地の天竜川・木曽川・釜無川となり、やがて太平洋へ流入します。
 北上する河川は、長野県側では千曲川と呼ばれる日本で一番長い信濃川となります。古代では筑摩川と称されていました。
 肥沃な大地と寒暖差が激しいため糖度が増す冷涼で湿度が低い乾燥台地に育つ果物・野菜・米・蕎麦などの農産物を特産品としてきました。その中でも、消費者の好みに合わせて長野県で独自に開発育成した農産物が「オリジナル品種」と認定されます。品種は14種あります。
 長野県といえば味に定評があるりんごの名産地です。10月は、長野県オリジナル品種の「りんご3兄弟」が旬になります。「りんご3兄弟」とは、9月下旬から10月下旬に収穫される3品種で、秋映・シナノゴールド・シナノスイートと命名されています。
 【秋映】は「千秋」に「つがる」を交配したもので、濃い赤色のリンゴで、強い甘みと程よい酸味があり、蜜も果汁も豊富です。
 【シナノスイート】は「ふじ」に「つがる」を交配したもので、強い甘みと果汁の多さが特徴です。2,009年8月31日付けの日経流通新聞でのりんごのブランドの調査で、堂々の全国1位になっています!
 【シナノゴールド】は「ゴールデンデリシャス」に「千秋」を交配したもので、その名の通りゴールドのような黄色のリンゴで、甘みと酸味のバランスが良く、パリッとした食感が特徴です。
 車山からの帰路には、長野県内の「道の駅」にお立ち寄りいただいて、是非、購入して下さい。
2013.9.14[Sat]

「信州立岩和紙の里」の美味しいそば!
 車山から国道152の大門街道を、上田に向かって車で40分、長野県小県郡長和町古町にある「信州立岩和紙の里」は、約300年の歴史をもつ「立岩の紙すき」が体験できる施設です。館内には和紙製品の売店があり、手打ちそばが味わえる食堂もあります。
 地粉だけを使った「そば特有の香りと味」を楽しみながら、「のどごし」よく食べられます。自らの手で製粉して打ち上げたそばを、長門の沢を流れ下ってきた清冽な水で、きゅっとしめる「そば切り」です。
 ふっくらしたきび餅2つに、おはぎや味噌餡かけを添えた一品も、大盛のざるそばに加えて必ず注文します。
 一般的には長野県で作られるそばの総称となっていますが、「信州そば」は、長野県信州そば協同組合により登録商標され、そば粉を40%以上配合した良質の「干しそば」をいうそうです。
 山間部の救荒食であった蕎麦ですが、伝統的には団子状の「そばがき」や「すいとん」、薄く焼いた「お焼き」・「煎餅」などにして食べられていたのです。現在食べられている麺線状の「そば切り」は信州から始まったといわれています。「そば切り」の最古の記録は天正2(1,574)年、信州木曽の大桑村にある定勝寺にみられます。落成祝いに「そば切り」を振る舞ったという。その発祥はおそらくは、戦国時代以前に遡るでしょう。
 「そば切り」に関してはもともと紋日のごちそうという性格が強く、江戸時代中期以降、江戸庶民の嗜好品として「そば屋」が普及したのです。
 そばは高冷地の土地を好むことから、信州の風土に合い栽培する農家が多く、野沢菜漬け同様に各地域というより各家の自家製料理として多様なそばうちが行われています。

 信濃では  月と仏と  おらが蕎麦    小林一茶
 一茶は上水内郡信濃町大字柏原出身で、野尻湖に近い中農の長男でした。
(2013.9.13[Fri])

白い蕎麦の花でもてなす信濃路
 蕎麦はまだ  花でもてなす  山路かな   松尾 芭蕉
 信濃では  月と仏と  おらが蕎麦    小林一茶

 9月、八島ヶ原湿原の秋の花が美しいこの季節、信州では秋の収穫期を間近に控え、10月の「新蕎麦」が待ち遠しい季節となります。
 車山高原から国道152号・大門街道を下り、浅間山や烏帽子岳が眺められるようになりますと、山間の蕎麦畑に、おびただしい数の白い花の群落を見ることができます。信濃路が一番美しくなる季節です。海野宿に向かう長和町長久保辺りは、御牧ケ原台地の麓まで、車窓からでも充分見晴らすことができます。

 車山高原から諏訪湖に下り、国道20号で塩尻峠を越え、長畝の交差点で左折しますと、牛伏寺から松本へ抜けられます。松本平を眺めながら、秋空に遥か飛騨山脈の山並みが美しく、写真のような蕎麦の花の群落が果てしなく続きます。
 車山高原では、白樺湖あたりから金色のススキの花穂が、穏やかな秋の風に緩やかにさざなみ、秋の虫の音が静かに響いています。
(2013.9.12[Thu])

海野幸親と幸氏
 公地公民の制度が藤原氏による朝廷政治により無力化し、荘園制下に入ると海野庄として近衛家領となり、それが南北朝期になるまで続きます。荘園化した以降、海野庄の領地を現地支配してきたのが滋野一族で、海野氏を称しました。木曽義仲に従い、海野の千曲川の白鳥河原に結集した「白鳥河原の勢揃い」は、平氏政権に蹂躙され疲弊する海野氏をはじめとする滋野一族の切なる願いでもありました。
 海野幸親は、養和元(1181)年、木曾義仲軍にあって、越後の城氏と横田河原の戦いに参戦しています。そのまま義仲に従い上洛します。
 寿永2(1183)年閏10月1日、四国讃岐の屋島に拠点を置く平氏が、再上京を果たすべく海戦を挑んできます。その「備中水島(岡山県倉敷市玉島付近)の戦い」で、本隊の平知盛・重衡と、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍と激突します。
 義仲軍の総大将は矢田義清で、搦手の大将が幸親の嫡男幸広でした。義清は船戦に慣れた平氏軍に大敗を喫し、その際、海野幸広や矢田義清の同母弟義長らはともに矢の雨を浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた事が『源平盛衰記』に記されています。矢田義清は足利氏の祖である足利義康の庶長子でした。
 海野幸親は同年の11月19日、義仲が院御所・法住寺殿を襲撃し、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉し、政権を掌握しようとする軍事クーデターに参加ます。
このクーデターでは、楯親忠の矢が、馬で逃げようとした天台座主明雲の腰を貫き落馬したところを、その郎党が首を取っています。一方、村上其国は義仲を見限り、法皇に味方しますが討ち取られています。
翌寿永3(1184)年1月20日、範頼・義経軍と近江の勢多と京の宇治で戦い、5千にも満たない寡兵の義仲軍は脆く、その入京を許します。翌21日、義仲は三条河原と六条河原でも敗退し、北陸道へ逃れる途上、近江の粟津で討死します。海野幸親も討ち取られています。義仲は、その幕僚、海野幸親・今井兼平・根井親忠・高梨忠直らと共に七条河原で獄門にかけられます。
 幸親の子海野幸氏は、少年時代、木曽義仲の子義高が頼朝の人質となった時、これに随従し鎌倉にいました。義仲が敗れて没落し、義高が鎌倉を脱出しようとしたとき、その寝床に入り身代わりになります。幕府を樹立した頼朝は、その幸氏の忠義を称え、かえって幸氏を重用します。
建久4(1193)年3月、頼朝は下野の那須野と信濃の三原で狩倉(狩競;かりくら)を挙行します。幸氏は特に弓馬の道に長じていたことが知られ、この時、「弓馬に達し」「隔心なき」者として御家人から22人が選ばれました。この中に望月太郎・小笠原長清・諏訪(金刺)盛澄・藤原清親の名が記録されています。望月氏と藤原氏は小諸氏・志賀氏、金刺氏などと義仲の挙兵に参集した信濃武士でした。彼らも、義仲の子義高が頼朝の人質として鎌倉に赴いた際に従っていました。
 金刺盛澄は諏訪郡の下社勢として義仲の挙兵に従ったため、鎌倉で頼朝に処刑されかねませんでした。頼朝は源平争乱期の経緯時を問わず、当初から挙兵に従わなかった諸豪族は、その御家人としませんでした。
 その武技・弓馬の腕を惜しむ梶原景時の嘆願もあって、流鏑馬でその妙技を頼朝に披露し、御家人入りしたと『吾妻鏡』に記されています。
 また『吾妻鏡』によると、仁治2(1,241)年3月の甲斐国守護の武田信光と、上野国三原荘(群馬県吾妻郡嬬恋村三原)と信濃国長倉保(北佐久郡 軽井沢町大字長倉)の境界について争いがあり、幸氏が勝訴しています。幸氏の代には、既に海野氏の勢力が、信濃から上州西部にも及んでいたのです。
 天文10(1,541)年、武田信玄・村上義清・諏訪頼重の連合軍に攻め入られ、28代海野幸義が神川で戦死し滅亡するまで、海野氏一族は、非常に大きな勢力を誇る信濃きっての名族でした。その所領は、村上と武田の勢力下に二分されます。
(2013.9.11[Wed])

信濃国海野「白鳥河原の勢揃い」
 治承4(1180)年8月の頼朝の挙兵をきっかけに平氏打倒の勢力が全国各地で蜂起しました。これが治承・寿永の内乱です。信濃で蜂起した武士団の代表が、木曾義仲・岡田親義・平賀義信で、いずれも信濃に土着した清和源氏の流れです。
 義仲の当初の攻撃目標は、筑摩郡の信濃国府にありました。その養父は中原兼遠(かねとお)で、中原氏は木曽の北部一帯の木曽福島町・日義村・木祖村あたりにあった大宮司宗像(福岡県宗像市にある宗像大社の宮司)氏の大吉祖荘(おおぎそのしょう)の荘官でした。平氏の時代には、国衙の権頭(ごんのかみ)という役職にあり、兼遠の子に樋口兼光、今井兼平、巴御前、山吹御前がおり、兼光と兼平はともに義仲左右の重臣、娘の巴御前は義仲の妾となっています。またもう一人の娘山吹御前は義仲の長男義高を生んでいます。今井兼平の正式な名のりは中原兼平です。父は中原兼遠で、義仲の乳母子です。樋口兼光は兄で、信濃国筑摩郡今井(現松本市)が根拠地であるため今井を称しました。
 治承4(1180)年、似仁王の令旨によって誘発され平家追討の挙兵をします。当初の目的は、筑摩郡の信濃国府でした。国衙の権頭であった養父中原兼遠一族の後援と筑摩郡岡田を本拠とする岡田親義一族の力添えもあって、容易に制圧できたようです。
その後、木曾党という小武士団であったため苦戦します。善光寺平へ進軍する途上、会田(東筑摩郡四賀村)と麻績(東筑摩郡麻績村)に平家領があり、その平家勢におされ国府を放棄し、一度、東信地方へ後退します。
 東信の海野(東部町)には海野幸親いました。幸親は兼遠の兄が海野家に養子に入ったものだとも言われています。海野氏は、祢津(東部町)・望月(望月町)・桜井(佐久市桜井;伴野荘内)氏などの滋野一族有力武士団の一角を担っていました。望月氏は、望月御牧の牧監(ぼくかん)となった滋野一族が武士化したのです。
また義仲軍に四天王と称される4人の側近武将がいました。中原兼遠の子の樋口兼光と今井兼平、根井行親もその一人で、佐久市根々井を名字の地とし、正式名は根井大弥太滋野行親と呼び滋野一族です。もう一人が義仲に従う佐久党の武士団の重鎮、館(たて;佐久町館)を名字の地とする楯六郎親忠です。彼は根井行親の6男ですから、滋野一族となります。
 義仲が丸子の依田城を根拠にし、軍馬・軍兵・食糧・武器を調達しながら、反平氏の佐久軍勢を掌握します。東信に散在する私牧から、北陸進出のための機動力ある軍馬を得るためでもあります。
 義仲の動きに呼応するように高井郡村山(須坂氏村山)を根拠とする村山七郎義直が、治承4年9月7日、善光寺平(長野市栗田)に所領を有する栗田氏と図り反平氏として決起します。村山氏は、清和源氏の一族が高井郡井上を拠点として、信濃源氏の名門となった井上氏の支族です。
 平家に味方する信濃の笠原牧(中野市笠原)を根拠とする豪族・笠原平五頼直が、源義仲討伐のため、木曾への侵攻を企てました。それを察した源氏一族の村山義直が、笠原氏とそれに与力する築摩郡の栗田寺別当大法師範覚(長野市栗田)らの軍勢を、信濃国市原(長野市若里)付近で阻止しようとして合戦となります。これが市原合戦(いちはらかっせん)、または「善光寺裏合戦」とも呼ばれた戦いです。勝敗は容易に決着せず、ついに日没になり、矢が尽きて劣勢となった村山方は、義仲に援軍を要請します。それに呼応して救援に駆けつけた義仲軍の勢いに押され、笠原勢は即座に退却します。そして、越後の豪族・城氏の元へ敗走したのです。この勝利で、東信の武士たちがこぞって駆けつけ、義仲軍は急速に膨張します。その中に諏訪上社の千野太郎光弘もいました。光弘は樋口兼光の甥でした。
 治承4年10月、義仲は内山峠を越え父義賢の根拠地であった西上野に入り、義賢の所領であった多胡荘で父とかかわりのある武士たちを召集します。それが瀬下・那和・桃井・木角・佐井・多胡などの諸氏で高山党と呼ばれていました。しかし当時、上野は既に頼朝の勢力がおよび、それ以上の拡大はできず、12月には信濃に戻ります。
治承5年6月、現在に残る海野宿の入り口にある白鳥神社前に広がる千曲川の「白鳥河原」で勢揃いをします。いわゆる平家物語・源平盛衰記で語られる「白鳥河原の勢揃い」です。木曽義仲は丸子町の依田城を拠点に、木曽四天王の家臣団をはじめ、地元の海野・祢津・小室・望月などの滋野一族などの東信と西上野の武士団を、ここ「白鳥河原」に終結させました。その数2,000騎とも3,000騎ともいわれる軍勢です。北上し京に攻め上がります。この海野から源平の合戦が始まったのです。
 佐久地方を根拠にする武士で義仲に従った氏族は、根井(佐久市)・楯(佐久町)・小室(小諸市)・志賀(佐久市の東部・志賀流域)・野沢(佐久市役所の南)・本沢(望月町)・矢島(浅科村)・平原(小諸市)・望月(望月町)・石突(佐久市石突川)・落合(佐久市伴野の北隣)などがいました。義仲は木曾党同様、佐久党も根井行親とその6男楯親忠親子が義仲軍四天王に数えられたように、その直属の中核軍として重用したのです。
(2013.9.10[Tue])

北国街道海野宿の町並み
 全長約650m、海野宿中心部の左下に流れる用水堰「表の川」のせせらぎが落ち着いた風情を醸し出しています。海野宿本陣は旅篭屋づくりの典型で、その隣の「海野宿資料館」の2階は、「出桁造り(だしけたづくり)」で、その外装に独特の海野格子が見られます。 出桁造りは、梁または腕木を側柱筋より外に突出して、その先端に桁を出した構造です。江戸時代以来一般的になった、店舗兼住宅の町家は、軒を深く前面に張り出す「出桁造り」により、盛況な商店の格を示し見栄となりました。海野宿の町屋は、旅籠屋造りと明治以降の養蚕農家の特徴を兼ね備えている点でも特有です。
 旅籠屋には、宿振興のため寛政10(1,798)年、一軒につき2人の飯盛女の抱えが15年の期限付きで許可されました。それ以降、許可と禁止が繰り返されたようです。
 格子戸の家が続く海野宿ですが、一階の格子戸のほとんどは明治以降に作られたようです。二階格子の多くは江戸時代のもので出格子になっていて、長短2本ずつ交互に組み込まれ、その様子が美しく「海野格子」と呼ばれています。また、江戸時代の旅籠屋の多くは、一階より二階の方が張り出して造られた出桁造りの家になっていました。
 「海野宿資料館」の建物は、寛政年間の1,790年頃に建てられた旅籠屋造りで、玄関の東側には馬屋があり、左手には帳場のあり、店の間から表座敷・中座敷・奥座敷と続いています。2階は出桁造りで、海野格子と呼ばれる出窓がはまり、壱の間から参の間までの大部屋が続き、旅人たちの多くは相部屋で泊まっていました。
 裏庭には、味噌部屋や地下室になっている桑屋、物置などがあり、海野宿特有の「江戸時代の旅籠屋造り」と明治以降の「養蚕農家」の様式を兼ね備えた設備が重なり、より重厚な装いとなっています。
 明治維新により宿場の主な役割が終わりました。幕末期の安政6(1859)年、幕府は諸外国との貿易を認めました。当時、最大の輸出品は生糸で、それは明治から大正時代と引継がれました。こうして製糸業は発展し、明治以降諏訪地域から小県地方などでも、製糸業が発展するとともに養蚕が盛んになり、農家では自給用に稲作を営み、現金収入源の大半を養蚕に依存する、養蚕業により傾斜する形の穀桑式農業が行われるようになります。
 海野宿でも広く大きな部屋を利用して養蚕が始められ、火を焚いて室内を保温しました。その煙出し用の小屋根を気抜き窓といい、2階の切妻屋根の上に取り付けられました。
 「卯建(うだつ)」は、平安時代は「うだち」と言い、室町時代以降「うだつ」に訛ったといわれています。本来は梁の上に立てる小さい柱のことをいったそうです。いくつかの種類があり、江戸時代の「本うだつ」は建物の両側にある妻壁を、屋根より一段高く上げたもので、隣接する切妻屋根の防火壁の役割を果たすことから「火回し」とも呼ばれました。その防火壁を、1階屋根と2階屋根の間に、特別に誇示するように張り出して「うだつ」と、意図的に呼ぶようになります。
 海野宿のように町屋は、通常、隣り合い連続して建てられているため、隣家からの火事の類焼を防ぐための防火壁として造られたと言われますが、江戸時代中期頃になると、装飾的な面に重きが置かれ、明治時代に入ると、海野宿でも見られる豪壮な「袖うだつ」も設けられるようになります。いずれも富裕の家でなければできない贅沢な見栄を誇示する様式で、ここから「うだつがあがらぬ 」という言葉が生まれました。
 海野宿の道の中央を用水が流れ、その両側に格子戸のはまった美しい家並みが続き、江戸時代の宿場の建物が、明治以降の養蚕を営む設備を兼ね備え、現代により調和した姿で、歴史の流れを語り掛けてくれるのです。
 車山高原のリゾートイン レア・メモリーに宿泊される方々の行き帰りに、是非立ち寄って欲しい歴史的価値が高い宿場街です。
(2013.9.9[Mon])

北国街道海野宿の成立ち
 江戸時代の寛永2(1,625)年になる信濃の国の北国街道に海野宿があります。北国街道は関ヶ原を出発点として、越前・金沢・富山・糸魚川・高田・越後を経て津軽半島にまで通じていました。また高田から野尻宿・牟礼宿・善光寺・上田・海野・軽井沢の追分までの山道も北国街道でした。
 越後の高田では、新潟方面を奥州街道、善光寺方面を善光寺街道、富山・金沢方面を加賀街道と呼んでいました。
 金山の佐渡への金の道、加賀藩・富山藩・松代藩・上田藩などの諸大名の参勤交代の道、京阪や江戸から善光寺への参詣の道でした。
 「戌の満水(いぬのまんすい)」は、寛保2(1,742)年8月1日に松代方面から信濃国の千曲川上流域で発生した大洪水です。特に佐久地方の被害が甚大でした。
 田中宿と海野宿は合宿といい、両方で1つの宿場でした。田中宿が本宿で、本陣・脇本陣がおかれていました。海野宿は、間宿として半月交代で伝馬役のみを行い、本陣はありませんでした。
 「戌の満水」により、田中宿は上田市と東御市にまたがる烏帽子山麓の所沢川からの鉄砲水が土石流となり、水路が全部流れてしまい、本陣問屋の機能を失うほどに壊滅いたしました。田中宿よりも比較的被害の少ない海野宿に宿場の機能の全てを譲り、海野宿を本宿としたのです。問屋藤田家が本陣を兼務するようになりました。

 その痛手から立ち直れず、宿場内の家屋敷をお上に買い上げてもらい、他所に移った家もありました。明治政府になって、その家の所有が通産省となり、塩尻(西上田)から、養蚕教師が赴任して来て、その家に住み、海野の養蚕業が盛んになる契機となりました。「宿場町から養蚕の町へ」と変遷したのです。もともと豪族海野氏の居館があり、交通の要衝、商業の中心地でした。

車山から車で、約1時間の海野宿です!
2013.9.8[Sun]

黄金アカシアの森(2013年9月7日撮影)
 白樺湖の黄金アカシアの森は、国内随一だそうです。秋になると一面黄金色に美しく染まります。車山高原から白樺湖に下るビーナスラインからの眺めが、実に見事です。その1,000本のアカシアの森の黄葉が、そろそろ見頃を迎えています。
 アカシアは、マメ科アカシア属の樹木の総称で、特にオーストラリア大陸に多く、アフリカ・アラビア・アメリカなどの熱帯から亜熱帯に約650種分布するそうです。日本では関東以北では育たないとされています。
 日本では、「アカシアはちみつ」などのように、ニセアカシアをアカシアまたはアカシヤと呼び、実は、マメ科ハリエンジュ属のニセアカシアのことです。明治時代に輸入されたニセアカシアを、当時から現在にいたるまで混同しているらしいのです。札幌のアカシア並木、石原裕次郎が「赤いハンカチ」で歌う「アカシアの花」もニセアカシアです。
 そして黄金アカシアも、おそらくはニセアカシアに属する「ゴールデンアカシア」で、「フリーシァ」でしょう。北米原産です。
 5月の下旬頃、信州では、松代方面から長野の犀川の河川敷や堤防で、ニセアカシアの白い花が満開になります。車窓から甘い香りが漂ってきます。
 現在、車山高原や霧ヶ峰高原・八島ヶ原高原では、森林化の勢いが止まりません。特に、ビーナスライン沿いでは、ニセアカシアの繁殖力がすさまじいのです。
2013.9.7[Sat]

サラシナショウマ(2013年9月6日撮影)
サラシナショウマの車山高原の開花は8月下旬~9月上旬です。この時季、八島ヶ原湿原や車山湿原の林縁部では、細長い白い花の群落が、秋のそよ風にたわむれて、艶やかな白絹の舞を演じてくれます。
 黄色い花が美しいハンゴンソウも、通常、極近くで群生します。ビーナスライン沿いの展望駐車場から、白樺湖と蓼科山・八ヶ岳・諏訪の平・甲斐駒ケ岳・入笠山を眺望していましたら、その眼下の傾斜地で、白樺湖から吹き上げる山谷風に、 写真のサラシナショウマの群落がゆっくりと揺れていました。ハンゴンソウの群生も多数、近くで見られました。
 サラシナショウマの茎の長さは約1m位で、その茎の上部に長さ30cm以上もある円柱形の総状花序をのばすのです。それに純白の径約1cmの花を一面に、円筒形に咲かせるのです 名の由来は、若葉をゆでて水にさらして食べる山菜という「晒し菜」です。本種やイヌショマ・オオバショマなど同属植物の根茎は、升麻(ショウマ)という日本薬局方に収録された生薬で、解熱、解毒、抗炎症などに有効です。
(2013.9.6[Fri])

蓼科第二牧場
 10万坪の広い草原に、300頭近い牛や馬が放牧されています。日本百名山の一つ、蓼科山の北麓に広がる広大な裾野に、ホルスタインや馬が放牧されています。初夏から10月ごろまで、のんびりとした風景は心を癒してくれます。
 時には、浅間山をバックに颯爽と走る馬の姿を見ることができます。
 女神湖近くの蓼科第一牧場から車で2・3分のところにある蓼科第二牧場に設けられた、蓼科ふれあい公園です。
 牧場脇の、木のチップ材を敷いた白樺の小径を散策しながら、蓼科山や浅間山を眺望して下さい。そこがコスモスで有名な「朝日の丘公園」です。白樺の道は、立科町が日本1長い白樺並木を目指して県道沿いに白樺を植栽しています。やだて左手の柵内に、たくさんの馬が寄り集まる「水浴び沼」が見られます。
 近くには絞り立て牛乳やアイスクリームを販売しているお店もあります。
2013.9.1[Sun]


2012年 9月の車山日記

 霧ヶ峰の蛙原上空を滑空するグライダー
 蛙原には、諏訪市グライダー協会の霧ヶ峰滑空場があって、晴れた休日には、秋の高原の高い空に浮かぶ「扁平雲」の下を、グライダーがゆったりと飛行します。
 見事なまでのススギの花穂が広がる草原の前方には、車山・蓼科山・八ヶ岳・富士山・甲斐駒ケ岳が地平の彼方にあって、グライダーの下に浮かんで見えます。目の前の2つ並んだ山は、高ボッチです。池のくるみにスキー場があった時代、そこにはジャンプ台が備えられていました。
 
 私が見惚れるグライダーを、天空に曳き挙げるロープは、この後、45度にグライダーを反り上げ、その頂点に達すると引き離され、落下傘と共に、ゆっくり滑走路脇に落ちてゆきます。
2012.9.30[Sun]
八島ヶ原湿原の草紅葉
 秋の八島湿原は草紅葉が有名、夏の喧騒が去って、人の気配が余りなく、広々とした紅茶色の世界が展開します。
 湿原の周囲には、散策用の木道が整備されて、男女倉山や車山連峰の雄大な景観を満喫しながら1時間ぐらいで一周できます。
 アサマフウロ・ヤナギラン・ヨツバヒヨドリなどの紅色が特に印象的です。
 ヤマドリゼンマイの茶褐色も、群生していますから、草紅葉の風景に厚みを与えています。
 木々では、レンゲツツジの紅色とマユミの薄桃色の紅葉が、それぞれ特徴があり、散策の道々の楽しみになります。
2012.9.29[Sat]
霧ヶ峰高原のススキ
 ススキの白い花穂と未だ緑の草原を保つ高原の景色が美しい!ヤマラッキョウが所々で紅紫色の花を咲かせていました。夏の終わりごろから、ワレモコウやユウガギクの花の周囲を飛び交っていた赤トンボは、里へ降りてしまったようです。
 赤とんぼは梅雨頃に羽化し、広く人目に触れるようになる秋まで車山から八島湿原などの高地で過ごします。
 赤とんぼは、今では日本列島の特産種ですが、祖先種はユーラシア大陸の北部であると考えられています。氷河期に日本列島まで南下し、その後の日本列島の温暖化にともない体が大形化すると共に、高地への移動習性を身につけることにより、日本列島に定着し、アキアカネとなったとみられています。暑い夏を涼しい車山や霧ヶ峰の高地で過ごすことで、温暖化していく日本列島に適応したようです。
(2012.9.27[Thu])
山里の稲穂の輝き
 長野県小県郡長和町古町の稲穂が黄金色に輝いていました。美しい実りの秋の風景です。
 そこから先に、車山から車で40分もかからない古町立岩地区に『立岩和紙の里』という和紙をすく工房があり、その玄関口から表が「手打ち蕎麦」の食堂です。立岩和紙は300年の伝統があるそうです。最盛期には50戸ほどの紙すき農家があり、主に障子紙を作っていました。依田川の清流のほとりですいていました。
 機械化が進み、紙漉く農家の経営もままならなくなり衰退しました。
 我が家は、20数年、『和紙の里』に通っています。新蕎麦は来月からのようです。そこから旧道へ入り100m位すると中立岩地区となります。クルミの大木がありました。たくさんの実をつけています。
 そこから、依田川を越えた前方に、その地区の名称となった立岩が眺められますた。ここの秋の紅葉は見応えがあります。
(2012.9.26[Wed])
長野県長和町 和紙里の紅葉
 長和町の「信州立岩和紙の里 長門町ふるさとセンター」で、ざる蕎麦を食べました。 信州立岩和紙の里は、その名の通り和紙の製造・販売をしている施設ですが、手打ち蕎麦も好評で、もう20数年通い続けています。新蕎麦は10月に入ってからだそうです。

 依田川が流れる、裏の立岩の紅葉が、素晴らしい!

 依田川は大門峠を源流とする大門川、八島湿原を源流とする男女倉川、和田峠を源流とする和田川などを支流とし、上田原で千曲川に流れます。
(2012.9.20[Thu])
ユウガギク
 ユウガギクは秋の山野を彩るいわゆる野菊と呼ばれている仲間です。日当たりのよい山野に生える多年草です。柚が菊、あるいは柚香菊の意とされています。
 柚の香る菊といわれるが、葉はちぎって食べてみても、その香りはほとんどありません。ただ、爽やかな香りがして美味しいです。花の中心部にある黄色の筒状花を食べてみると、かすかな苦味を伴いますが、柚の香りがいたします。
 ユウガギクは山菜でもあります。春から夏にかけて新芽・若葉を摘み、そのまま天ぷらにします。
 また軽く茹でて冷水に晒し、胡麻和えやおひたしにしたり、スープの具にします。
 ユウガギクの花びらを冷酒に浮かべて飲んだりもします。
2012.9.15[Sat]
深山に生えるハンゴンソウ
 車山湿原から沢渡に向かう樹叢内と八島ヶ原高原には、ハンゴンソウの大きな群落があります。
 ハンゴンソウは車山のレア・メモリーの裏庭にも、群生しています。ハンゴンソウがこれだけ群落するのは、香りが強く鹿が食べないからだそうです。秋の山で必ずといっていいほどよく見かける大型の植物です。ハンゴンソウは反魂草と書き、供花として用いられ、死者の魂を呼び戻すという説と、強い香りで、死者を蘇らせたという言い伝えとがあります。
 ハンゴンソウは山菜です。6月初旬、葉が開く前の若芽を根元から鎌で切り取ります。天ぷらでもいいのですが、茹がいてから、下の方から皮を剥き、特有の香りと苦味が強いので、水に数時間さらして灰汁抜きをします。
 茎を3~4cmの食べやすい大きさに切りそろえて、かつお節をのせ、ポン酢をかけるか、酢味噌で和えて食べます。
 葉が開く前の若芽の頃は、猛毒なハシリドコロと似ていますから気を付けて下さい。
(2012.9.12[Wed])
車山の宿泊通りに咲くツリフネソウ
 釣船草と書きます。花の形が帆掛け船を吊り下げたように見えるからだそうです。また活け花の釣船型の花器に似ているから、という説もあります。

 北海道から九州と広く分布する一年草です。秋の野山ではどこにでも見られる花で、マツムシソウやハンゴンソウと同じように、車山の山道を歩いていてこの花を見かけると、秋の到来をしみじみとした感傷を伴い知らされます。
 茎の高さは50cmぐらい、花は径3cmほどの紅紫色で、7~8個の帆掛け船を、細い柄にぶら下げます。
 ホウセンカ(鳳仙花)と同じ仲間で、熟した果実に少し触れるだけで種をはじきとばす特徴があります。
 
 ツリフネソウより少し高地では、花の径4cmほどの黄色いキツリフネ(黄釣船)も見られます。
(2012.9.11[Tue])
車山ではアキノキリンソウが最盛期
 車山山頂ではアキノキリンソウが見ごろとなりました。ヤマラッキョウも咲き始めました。アキノキリンソウは、日当たりのよい山野を好む典型的な陽性植物です。伝説の動物である麒麟を連想させるキリンの名は、花が美しいベンケイソウ科のキリンソウに似ているからで、それが秋に咲くのでアキノキリンソウの名があるのです。若苗の葉の柔らかい部分は山菜として食べます。揚げ物にしたり、お浸しや胡麻和えにします。
 車山山頂から車山湿原の遊歩道沿いでは、ウメバチソウ、アキノキリンソウ、オミナエシ、ツクバトリカブト、アカバナ、サラシナショウマ、ヨツバヒヨドリ、ゴマナ、ノコンギクなどの花が楽しめます。マツムシソウは終わりかけですが、車山中腹から山麓の遊歩道沿いでススキの花穂の大群落が、秋の陽射しに映えて美しいです。
(2012.9.10[Mon])
車山高原に咲くトリカブト
 車山高原から車山乗越・山彦尾根・男女倉山(おめくらやま)・八島ヶ原湿原と高燥な高原を散策すると、今一番きれいに咲いているのが、美しい青紫のトリカブトの花です。
 毒草とは思えない気品を備え、初秋の透明度の高い青空に、次々と券雲や券層雲が湧き出ては流れてゆく、そんな爽やかな日射しの中、群生することもなく気高く屹立する姿は、余りにもまぶしいものです。
2012.9.8[Sat]
車山ビオトープのサワギキョウ
 山間の沢辺などの湿った草むらにしばしば群生します。花形は全く似ていませんが、草姿や花の色がキキョウに似ていることから沢桔梗と名付けられました。同じキキョウ科でも他のキキョウ類とは花形が全く異なります。
 茎は分枝せず直立し、50cmから90cmほどになり、上部に鮮やかな紫色の花の蕾を多数つけ、下の方から順次、美しい花を咲かせていきます。
 秋の高い青空に映えます。
 美しい山野草でりながら、有毒植物としても知られ、有毒物質ロベリンを全草に含み、麻酔などに利用された例もあったそうですが、危険が大きいようです。
(2012.9.3[Mon])
山ウドの実が美味しい季節になりました
 車山高原のリゾートイン、レア・メモリーでは、庭に自生する山ウドの花の部分を天ぷらにしてお出ししています。苦味はあまりなく、むしろ優しいハッカのような香りと味が楽しめます。
 山ウドの花は真っ白な粒を球形にし、それを幾段にも上部へ伸ばしていきます。珍しいし、美しくもあり壺に生けますが、残念ながら直ぐ黒ずんでしまいます。自然の中で、そのままの状態を観賞する方が適っているようです。
 レア・メモリーでは、開花後の実の粒を摘まんで、料理の薬味として使っています。
2012.9.1[Sat]

2011年 9月の日記

レンゲツツジの紅葉
 車山のレア・メモリーの庭のレンゲツツジが紅葉をし始めました。レンゲツツジとナナカマドの紅葉と白樺の黄葉との競演は、あと1週間はかかるでしょう。
 来年の花芽が、既に冬芽となり1cm程に育っています。こうして-20℃の厳しい冬に耐え、来年の5月下旬頃から急激に大きくなって、6月中旬には鮮やかな朱色の花を咲かせます。
 レア・メモリーのレンゲツツジの紅葉状態からみて、車山湿原・八島湿原と美ヶ原の草紅葉は、10月上旬位と思われます。車山全山が紅葉するは中旬頃でしょう。すると白樺湖の紅葉は、下旬と予想されます。
(2011.9.26[Mon])
車山の火口跡
 車山肩から車山の西側のなだらかな斜面中腹に、火口跡がみられます。丁度、その辺りにススキの花穂が群生し、他の笹が茂る高原から独立して白く浮かび上がって見えます。
 40万年前にほぼ火山活動が終息したころは、安山岩による柱状節理の岩肌を晒していたと思われます。その後、木曽御嶽山と乗鞍岳などの頻発する大噴火による噴出灰が、偏西風に乗って、降り積り、ローム層と呼ばれる赤土を堆積層させました。
2011.9.25[Sun]
八島ヶ原湿原の今
 9月24日車山肩で撮影!
そろそろ草紅葉が始まりそうな八島ヶ原湿原です。
時季は短いです!
 霧ヶ峰高原はススキの花穂が夕陽を浴びて、銀色に輝いてきれいです。八島ヶ原湿原も鷲ヶ峰・三峰山・美ヶ原を背景に、草紅葉の到来を待ち望んでいます。
 三峰山の山頂近くにある大岩は「神の椅子」と呼ばれ、恋人同士で訪れると恋が成就すると言うサンクチュアリです。
2011.9.24[Sat]
車山高原にリンドウが咲き始めました
 マツムシソウが終わりかけ、漸く濃い青紫色のリンドウが咲き始めました。その他、ヤマトリカブト・ヤマラッキョウ・ハバヤマボクチなど、紫から青色系統の花々が、秋の高く穏やかな澄み渡った空に映えます。
 ススキや丈の高い草花に隠れがちですから、注意深く観察して車山を散策して下さい。
(2011.9.19[Mon])
昼間は晴る車山高原
 ここ数日、朝晩曇りがちです。夕方からめっきり冷えてくるからです。そこに太平洋高気圧が張り出していますから、独立峰的な車山は靄や霧で包まれることが多いのです。
 写真にうっすらと見える富士山方向から吹き上げてきます。眺望に恵まれた車山高原の宿命です。朝10時近くなれば、晴れ渡ってきます。
 朝、曇っていても諦めず、霧ヶ峰高原や八島ヶ原湿原などを散策して下さい。それから車山の山頂を目指せば、途中から晴れてくるでしょう。写真のような眺望が期待できます。
(2011.9.12[Mon])
車山高原のヤマラッキョウ
 車山高原のヤマラッキョウは、眺望に恵まれた日当りのよいススキの草原に生えています。
 可憐な薄紅色の花をポイントに、車山高原から見晴らす八ヶ岳・富士山・甲斐駒ケ岳・守屋山をバックに撮影します。
 地下に細長い球根がありますが、らっきょうのように球根が太くならないので、食用にはしないようです。 花はらっきょうよりきれい。
2011.9.11[Sun]
蛙原の霧鐘塔
 霧ケ峰高原のシンボル蛙原(げいろっぱら)の頂点にある霧鐘塔は、霧の深い時など鐘を鳴らして、その位置を報せます。昭和34年12月に建設されました。平林たい子の詩が銅版がはめこまれています。

 鐘がものをいふ、霧だ霧だと 霧がものをいふ 生きろ生きろと

 霧鐘塔からのは眺望は、夕陽に映える霧ヶ峰高原と、茜色に染まる富士山、八ヶ岳、南アルプスが幻想的です。360°の大パノラマは日本百景の一つ、美ヶ原高原の姿が優しい!
(2011.9.9[Fri])
霧ヶ峰高原のウメバチソウ
 富士山撮影の絶好のスポット、強清水の日当りのよいススキの群生地に数輪ごとのウメバチソウの小群落が見られます。ウメバチソウは高山の岩の間に咲くことが多く、小形でありながら目立ちます。日本全土および北半球の温帯、寒帯に広く分布しています。花の形が天満宮の紋章の梅鉢紋に似るのでこの名がつけられたそうです。
 小さく可憐ですが、純白の気品溢れる美しい花です。
(2011.9.8[Thu])
霧ヶ峰高原の初秋
 霧ヶ峰高原は、一面ススキの尾花で、広く銀色に染まっています。今日は、久しぶりの快晴で、富士山もくっきりと眺められました。八ヶ岳と南アルプスの間に浮かぶ美しい風景です。
 強清水を散策すると、ススキの群落の間々に、マツムシソウ・ヤマラッキョウ・ハハコグサ・アキノキリンソウ・オミナエシなど、たくさんの秋の花々が咲いています。
 特にウメバチソウの可憐な純白の花が目立ちます。
(2011.9.7[Wed])
八島ヶ原湿原の宿り木
 8月31日撮影しました。御射山に向かう木道沿いです。宿主(しゅくしゅ)はミズナラです。
 宿り木の果肉は粘液を含んでおり、枝などにひっついて定着します。発芽すると根を幹の中に喰い込ませ、樹木から水分と養分を吸収します。落葉樹に寄生する常緑の小低木で、冬でも青々として生命力を感じさせます。
 御射山の方は、ススキの花穂で覆われていました。土壇の様子がよく分かります。
 
(2011.9.1[Thu])

2010年 9月の日記

車山のジゴボウ(茸)と朴葉焼き
 本日、初物の「ジゴボウ(茸)」を収穫しました。小ぶりですが、噛むとシコシコして、口の中に香り広がります。
 レアメモリーの裏庭の唐松林の下草から生える「ジゴボウ」の収穫時季の到来です。採り立て「ジゴボウ」の香りスープが人気です。今年は、朴葉焼きにしても、お出ししています。
 その香りと歯ごたえを味わうため、余り手を加えないことです。お勧め料理は、塩を入れて湯通しして、そのまま冷まし大根おろしと酢醤油で食べます。みそ汁の具としても美味しいです。バターで炒め薄口醤油とワサビをからめると赤ワインと合います。
「ジゴボウ」の正式名は「ハナイグチ」ですが、地元では「リコボウ」とか「カラマツタケ」とも呼ぶようです。
(2010.9.27[Mon])
車山の朴葉焼き
 近くに朴の木があり、葉はまだ緑色です。今、メインの肉料理は朴葉焼きにしてお出ししています。豚の肩ロース肉ブロックを、昆布・干し椎茸とたっぷりの高原野菜で茹でます。長ネギを揉んで入れ、天然塩を使うことがポイントです。茹で上がり過ぎないよう注意して下さい。柔らかなチャーシューを作るのです。
 取り出したら熱いまま、タレに一昼夜漬け込みます。タレは酢を沸騰させ続け、甘味が生じたものをベースにします。
 朴葉の上に、厚くカットしたチャーシューと秋ナス・里芋・レンコン・ゴボウ・ニンジンなど旬の高原野菜を載せます。ただ、野菜類は前もって和風味で調理しておきましょう。先ほどの椎茸も厚めにスライスして並べますが、収穫できれば裏庭のジゴボウを使います。新鮮で香りがよいですから・・・・。
 ソースはしつこくならない様に、鳥ひき肉と信州味噌をベースにします。私は入れませんが、プロはコク出しに砂糖を多用します。朴葉焼きは、野生風味が最大の味わいです。入れるならマヨネーズをお勧めします。ショウガを少しだけ磨って入れます。ニンニクは朴葉の香りの邪魔となりますから入れません。どうぞ、アツアツの出来立てを、ご賞味下さい!
2010.9.25[Sat]
霧ヶ峰のカボッチョ山
 江戸時代、茅場の場合、草刈りや火入れを定期的に行うことで、ススキ草原の状態を維持してきました。車山高原と霧ヶ峰高原は、諏訪の人々が生きていくための必要最低限度の資源の供給地でした。住居の屋根を葺くための家萱、田畑の肥料としての刈敷、馬の飼料としての厩萱(まやかや)とそれが肥料化する厩肥(うまやごえ)など、大切に保護されてきた天然資源でした。
 花穂は黄色ぽいが、種子、性格には穎果(えいか;果皮が薄く木質で、種皮と密着している果実)に白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなるので、陽射しを受けると白銀色に輝くのです。この時、初めて車山の住民は秋を知るのです。種子は高原の風に乗って飛び散ります。
 カボッチョ山の「カボッチョ」とな、何の意味でしょう?「株切」から転訛したのか、それを意味する古代の方言か?カボッチョ山周辺は古来、優良な萱の採集場所で、現在でも広く展開するススキの花穂が美しい高原です。大字典によれば「株切」は「同じ長さに切りそろえた小児の髪」をも表現するそうです。すると里の人々が、萱を採集しそろえて束ねたものを称したようにも思えます。
 秋の七草の一つで15夜の月見には、ハギとともにススキを飾ることが多いのです。
 山上憶良が万葉集にて、『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また藤袴 朝顔の花』と詠んだように秋の七草の一つに数えられています。
2010.9.12[Sun]
カボッチョ山の森林化
 ススキ(芒、薄)とは、イネ科ススキ属の植物で萱とも尾花ともいわれます。花穂を獣の尾に見立てて、尾花とも呼ばれてもいます。野原に生息するごく普通の多年生草本です。地下には短いがしっかりした地下茎があり、そこから多数の花茎を立てます。植物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階と言えます。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られませんが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになります。ススキの草原を放置すれば、ミズナラ、アカマツなどの先駆者的な樹木が侵入して、次第に森林限界近くではしばしば純林に近いダケカンバ林となり、森林へと変化していきます。
 カボッチョ山も森林化が進み、車山肩の南斜面・イモリ沢辺りに小さな松が群生し始めています。
2010.9.11[Sat]
カボッチョ山一
 霧ヶ峰の中心、カボッチョ山の標高は1,681mあります。本日、9月10日、散策してきました。山頂から眺める諏訪の平は、明るく穏やかで、広々とした山里風景でした。デイダラボッチ伝説で有名な小泉山が右で、大泉山が左に見えますが、カボッチョ山の山頂からは、小泉山の方が圧倒的に大きく見えます。
 めづらしき 君が家なる 花すすき 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも  「万葉集」
 『注釈』懐かしいあなたの家の花すすきが穂を出している秋、この美しい秋が過ぎ行くのは何とも惜しまれてなりません。
 9月中旬、今まで余り目に付かなかったススキの花穂(かすい)が開き、西日を浴びて、車山高原一面、白銀色で覆い尽くします。諏訪の平から吹き上げる高原の山風が、広大に展開する白銀の花穂を揺りさざめかします。
 箱根の仙石原も雄大ですが、規模、ボリューム共に、車山から霧ヶ峰に広がるススキの原野の方が勝ります。また東の蓼科山から、南アルプスと伊那山地、西の三峰山、美ヶ原と望洋される山岳風景は、車山高原、霧ヶ峰高原ならではの景観です。カボッチョ山の山頂からは、諏訪大社上社の御神体・守屋山が一段と大きく眺められます。
 9月の末頃から、霧ヶ峰連峰の最高峰・車山の山裾に広がるレンゲツツジとズミの葉が、色彩豊かな紅と朱で色づき始めます。
(2010.9.10[Fri])
2009年 9月の日記
美しきススキ野の車山高原
めづらしき 君が家なる 花すすき 穂に出づる秋の 過ぐらく惜しも  「万葉集」
 『注釈』懐かしいあなたの家の花すすきが穂を出している秋、この美しい秋が過ぎ行くのは何とも惜しまれてなりません。

 9月下旬、高原の草木の緑は色あせ、今まで余り目に付かなかったススキの花穂(かすい)が開き、西日を浴びて、車山高原一面、白銀色で覆い尽くします。白樺湖から吹き上げる高原の山風が、広大に展開する白銀の花穂を揺りざざめかします。
 箱根の仙石原も雄大ですが、規模、ボリューム共に、車山から霧ヶ峰に広がるススキの原野の方が勝ります。また東の蓼科山から、南アルプスと伊那山地、西の三峰山、美ヶ原と望洋される山岳風景は、車山高原、霧ヶ峰高原ならではの景観です。
 霧ヶ峰連峰の最高峰・車山の山裾に広がるレンゲツツジとズミの葉が、色彩豊かな紅と朱で色づき始めます。
 ススキ(芒、薄)とは、イネ科ススキ属の植物で萱とも尾花ともいわれます。花穂を獣の尾に見立てて、尾花とも呼ばれてもいます。野原に生息するごく普通の多年生草本です。地下には短いがしっかりした地下茎があり、そこから多数の花茎を立てます。植物遷移の上から見れば、ススキ草原は草原としてはほぼ最後の段階と言えます。ススキは株が大きくなるには時間がかかるので、初期の草原では姿が見られませんが、次第に背が高くなり、全体を覆うようになります。ススキの草原を放置すれば、ミズナラ、アカマツなどの先駆者的な樹木が侵入して、次第に森林限界近くではしばしば純林に近いダケカンバ林となり、森林へと変化していきます。
 特に江戸時代、茅場の場合、草刈りや火入れを定期的に行うことで、ススキ草原の状態を維持してきました。車山高原と霧ヶ峰高原は、諏訪の人々が生きていくための必要最低限度の資源の供給地でした。住居の屋根を葺くための家萱、田畑の肥料としての刈敷、馬の飼料としての厩萱(まやかや)とそれが肥料化する厩肥(うまやごえ)など、大切に保護されてきた天然資源でした。
 花穂は黄色ぽいが、種子、性格には穎果(えいか;果皮が薄く木質で、種皮と密着している果実)には白い毛が生えて、穂全体が白っぽくなるので、陽射しを受けると白銀色に輝くのです。この時、初めて車山の住民は秋を知るのです。種子は高原の風に乗って飛び散ります。
 秋の七草の一つで15夜の月見には、ハギとともにススキを飾ることが多いのです。
 山上憶良が万葉集にて、『萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花(おみなえし)また藤袴 朝顔の花』と詠んだように秋の七草の一つに数えられています。
(2009.9.24[Thu])

信州蕎麦と役小角
 修験道の開祖と呼ばれる役小角(えんのおずぬ)が、奈良時代に、中央アルプス駒ケ岳を修験道の修業の場として開山する際に、伊那市小黒川上流の荒井区の内の萱に立ち寄ったという伝説に依拠し、内の萱を信州蕎麦発祥の地と宣言しています。山岳信仰の開祖と呼ばれる役小角(えんのおずぬ)が、駒ケ岳を修験道の修業の場として開山する際に、内の萱の人々に親切にしてもらったお礼に、蕎麦の種を残し、その食べ方を教えたという伝説です。これが、いつの頃からか伊那谷の人々に語り継がれてきた「行者蕎麦」伝説です。
 JR飯田線伊那市駅から西に6km、小黒川沿いに 駒ヶ岳登山道に通じる道路を上流にたどると、途中に 駒嶽神社の鳥居があります。その山の斜面に広がる境内に「行者そば発祥の地」の石碑と、その由来を記した副碑が建ち、さらに 商工会議所が設置した「信州そば発祥の由来」の説明板などが並んでいます。
 その副碑には、「遠く奈良時代の始め西暦七〇〇年頃、修験道を確立した役小角が最後の修行の場として、駒ヶ岳に登る途中、内ノ萱の村人の温かいもてなしの礼にと、山間の高冷地でも実る一握りの蕎麦の種をおいて行ったという。やがて、数百年を経てこの行者そばは、信州一円に拡がって行ったと伝えられている。」と記されています。
 稲作に恵まれない信州の山間部などでは、蕎麦はアワ・キビなどの雑穀と共に古くから主食となっていました。そして、昔から蕎麦の実をする潰し、粉を練ったもののみが、5穀を絶つ山岳修験道者に唯一許されていた携行食として用いられていました。それは蕎麦粉が、穀物では唯一、火を通さないでも食べられる利点があるせいでもあります。
  「信州そば発祥の由来」には、「今からおよそ1,300年の昔修験道(密教宗教の一つ)の開祖として知られる呪術を修めた高名な僧役小角という人が、西駒ヶ岳に登り修行したといわれております。
 役小角は全国各地に霊山を開き山岳信仰を広めた行者の元祖といわれ、宗派確立に向けた最後の修行の場として信濃国は西駒ヶ岳をえらび、東山道を通って小黒川沿い駒ヶ岳に登山したのです。
 途中立ち寄った小さな部落、この内の萱の里人たちにお世話になったお礼にと、一握りの『そば』の種を手渡されたのです。内の萱の里人たちは役小角からもらった一握の『そば』の種を大事に育て『行者そば』と呼んでおりました。
 やがて信濃国も山岳信仰の広がりと共に、各地に霊山が開かれ信仰の場となった 戸隠などをはじめ霊山のふもとの人里に、この内の萱で収穫された『行者そば』の種が、行者たちの手によって運ばれ信濃国全域にひろがっていったのです。それが今『信州そば』といわれ全国的有名なそばと発展したのです。」
2009.9.20[Sun]

信州蕎麦切の歴史
 信州の蕎麦切の発祥地は、いったいどこなのでしょうか?
 作付面積では、北海道が国内第一位で、続いて福島、青森、新潟、長野ですが、10a当たりの収穫量で比較すると、鹿児島、熊本、宮崎と南国の九州各県が上位を占め、寒冷地各県の2倍近い収穫量となっています。蕎麦は寒冷で痩せた土地でもよく育ちますが、温暖な土地の方が優位になっています。
 それなのになぜ「信州蕎麦」が、「蕎麦切」の代名詞のようになっているのでしょうか?気候や土壌に恵まれた土地とはいえない信濃の地は、南国を原産地とする稲の作付けの適地とは言い難く、冷害や青立ち被害なので随分苦労をしてきました。2ヵ月と育成期間が短い蕎麦は、栽培が容易であった事が大きな要因と見られます。
 江戸時代、善光寺参りで全国各地から人々が往来するようになり、善光寺信仰の広がりとともに国中に「信州蕎麦」が知れ渡り、その結果、更級や戸隠は蕎麦の冠詞や代名詞のように使われるようになったのです。
「信州蕎麦」の発祥地で、最も有力視されているのが塩尻市本山(宗賀)説です。大久保長安によって慶長7(1602)年、五街道の一つとして中山道が開かれた時、塩尻は通らず、下諏訪から三沢(岡谷市)、小野(辰野町)、牛首峠(うしくびとうげ)を越えて木曽桜沢に至る最短距離で設置されました。長安の死後、元和2年(1616)、新たに下諏訪から塩尻峠を越えて塩尻・洗馬・本山の三宿を経て木曽に向う道筋に変更されたのです。本山宿の一つ江戸寄りの洗馬宿は、南下して美濃へ向う中山道と、北上して善光寺門前に至る街道が分岐していました。この追分は今でも車道に踏襲され、「右中山道 左北国往還、善光寺道」と彫られた道標が保存されています。
本山宿は、江戸時代の宝永3年(1706年)に出された「風俗文撰」という書物に、「蕎麦切は信濃の国本山宿より出て…」との一文があることが論拠となり、既に「信州蕎麦発祥の地」の碑が建てられています。 
一方、木曽谷説があります。こちらは「風俗文撰」より130年前、木曽郡大桑村の定勝寺文書の中に、室町時代の天正2年(1574年)2月10日、仏殿等の修理を始めた際、「徳利一ツ、ソハフクロ一ツ 千淡内」及び「振舞ソハキリ 金永」という記述があります。金永という人物が、そば切りを振舞ったとあります。この常勝寺文書は、現在のところ信濃ばかりでなく、「蕎麦切」に関するわが国最古の史料となっています。
2009.9.19[Sat]

蕎麦とは?
 蕎麦の原産地は中国の雲南という説や、カスピ海沿岸とアムール川流域が原産という説があります。
 蕎麦の歴史は、日本だけでなく、中国、ヨーロッパ、北アメリカなどにもあり、いろいろな食べ方をされてきました。日本では、約3,000年前埼玉県岩槻市の遺跡や9,330年前、高知県土佐市の遺跡から蕎麦の種子が見つかっています。当然もっと古い痕跡が出てくるでしょう。
 一般に稲や麦類などイネ科に属する植物の種子を主食として利用する作物は 「穀類」と呼ばれ、それ以外のイネ科作物、ヒエ、アワ、キビなどは「雑穀」と呼ばれています。信州の代名詞でもある、お馴染みの蕎麦も含まれます。
 イネ、ムギと比較して一穂籾数が少ないため、生産性は低いが、劣悪な環境にも育ため、小規模に作付けされる草本ということで、「雑穀」と呼ばれます。世界中の乾燥地及び半乾燥地における主要な食物資源でもあります。
 信州は、蕎麦の産地で、そばの旨い土地柄として認知されています。寒冷地を好み、痩せ地でも育つ蕎麦は、暖地を原産地とする稲作の生産に苦労してきた信州には、古くから栽培が容易な貴重な食料として栽培されて来ました。今でも、9月頃、白い花を付けた蕎麦畑が、各地で見られます。
(2009.9.18[Fri])

国産蕎麦の自給率
 2007年の資料によると、国産そばの自給率は、24.6%、そして北海道がこの国内生産の中の49.4%を占めています。従って、そばについては、北海道が国内需要に占める割合は12%となり、第2位の長野産の占める割合は、わずか2.4%となります。    
 製粉業者が「信州産」と表示する蕎麦粉や、「信州蕎麦」と看板を掲げる手打ち蕎麦が、すべて「信州産」というと大分疑問が生じます。日本の蕎麦の栽培面積は、それほど広がりません。今の取引価格では、生産意欲が湧かないようです。
 長野県の蕎麦店主には、自ら蕎麦を栽培する人もあり、休耕地が多い畑を借りて、自ら耕作面積を増やそうとする意欲のある人も少なくないのですが、現状では、農家との話し合いは、なかなか難しそうです。政府や農協の積極的な役割が期待されています。
日本以外の主要なそば産地は、中国、カナダ、米国、豪州です。
(2009.9.17[Thu])

暑中寒晒蕎麦
 江戸時代、諸国276藩から将軍家への献上物は、年始、歳暮など、定式(じょうしき)の物のほかに、その時候に従った「時献上」があり、高島藩から将軍家への「時献上」として「鮒鮨(フナずし)桶(おけ)」、「氷餅」、「寒晒蕎麦」がありました。
  この寒晒蕎麦は、信濃国の2藩だけが献上していました。 一つは、伊那郡高遠城主から「暑中信州寒晒蕎麦」として、もう一つは、諏訪郡高島城主から「暑中寒晒蕎麦」として、いずれも真夏に献上されていました。
  当時、蕎麦を献上品としていたのは全国で9藩ありました。それぞれ「寒中挽抜蕎麦」、「10月蕎麦」、「10月挽抜蕎麦」、「寒中穀蕎麦」、「11月蕎麦」などで、いずれも収穫時の「新蕎麦」か、蕎麦の美味しさが増す寒中蕎麦で、夏に蕎麦を献上したのは信濃国の2藩だけでした。
 「暑中寒晒蕎麦」の発祥地は、信濃国の高遠藩と高島藩でしたが、両藩は隣接しており、互いに蕎麦の有数な生産地でした。当然「新蕎麦」の特上品はいくらでも生産出来たでしょう。それを「新蕎麦」として献上品とせず、あえて夏に「暑中寒晒蕎麦」を献上しました。
「寒晒蕎麦」の由来では、江戸時代初期、収穫したそばの実・玄蕎麦を種子として保存する為に行われていた手法だったと言われています。
「新蕎麦」の玄蕎麦を袋に入れ、大寒から立春まで冷たい山の清流に浸し、それから約1ヵ月、戸外で天日と寒風に晒し乾燥させるのです。そして、土蔵の中で夏まで熟成させます。寒の時期に冷たい水に漬け込む事で、そばのアクが取れ、蕎麦自体の甘みが増し、更に蕎麦の実の真中部分だけを取り出し蕎麦打ちをするので、純白で甘味が深い、モチモチ感が味わえるそうです。茹で上がりも純白だそうです。
(2009.9.16[Wed])

「新そば (秋そば) 」の季節がやってきました。
 そば好きにはたまらない「新そば (秋そば) 」の季節がやってきました。「信州そば」を目当てに訪れる観光客は、県内産そば粉の使用が当然と思われていますが、そば粉の大半は輸入品や北海道産なのが実体です。
 信州の「新そば」は、早いところでは、9月下旬から収穫がはじまり、10月になると県内各地で「新そば祭り」が行われます。それから11月まで採れる「秋そば」を年内にたべるから「新そば」と呼ばれるのです。
 実は、その「秋そば」より早く収穫される「夏そば」があります。6月中旬から8月中旬に収穫されます。
 「秋そば」は「夏そば」より、格段に味と香りに優れているため、あえて「新そば」と、もてはやされたのです。
 今年の「秋そば」の生育状況は、7月下旬から8月上旬に雨が降り続き、種まきが遅れました。その後も天候不順で生育が遅れ実入が少ないようです。
(2009.9.15[Tue])

諏訪の人々が愛する山・鷲ヶ峰(五)
 独立峰である鷲ヶ峰の稜線からの眺望は、我々にいろいろな事を教えてくれます。霧ヶ峰高原には、特に江戸時代以降、諏訪郡の東山山麓の上桑原、神戸、小和田(こわた)地区や山浦地方と呼ばれた茅野市の塩沢、埴原田、北大塩、福沢、柏原から登る山道が幾筋もありました。上諏訪から角間新田を通って池のくるみへ出て、そこから沢渡から旧御射山を経て男女倉集落に達する道は、男女倉越(おめぐらごえ)と呼ばれ、中山道に通じっていて人馬の往来が多い生業道路でした。現在、なぜか男女倉越というと男女倉山を越える山道をさしますが、当時は最近まであった登山道、八島湿原の八島ヶ池と鬼ヶ泉水の中間あたりから下り、本沢から男女倉集落に出て、和田川と合流するあたりで中山道に出たと考えられます。和田宿を通って上田、松代方面へ向った事でしょう。生業では、この道筋の方が近く楽で、理に適っています。ハイキングに来ているのでは、ありませんから!!
 鷲ヶ峰の稜線から見下ろすと、鷲ヶ峰と男女倉山の間の渓谷が男女倉集落へ通じる様子をたどることができます。昭文社の地図では、破線で記される登山コース(難路)になっていました。鷲ヶ峰から八島湿原へ下り、その道を探すとロープが張られて危険という表札が吊るされていました。残念ですが断念しました。
 旧御射山(もとみさやま)の東端の沢渡から下諏訪宿の諏訪大社下社秋宮や春宮へ下れます。また現在、なぜか車両止めをしている八島湿原ビジターセンターから合倉沢、東俣川、そして落合で砥川に出、中山道へ下る車道があります。恐らくは地元の人も、余りにも急峻な和田峠越えを避け、東俣川を遡上して八島湿原から本来の男女倉越で和田村へ出、中山道を下ったと考えます。
 東に進めば大門峠から小諸、佐久へ通じます。或いは山彦尾根を越えて大門川へ下って大門道に出たかもしれません。八島湿原、霧ヶ峰、車山などのこの高原は、刈敷や家萱、秣の採集などの生業の営みと人馬の往来とで、もっと賑わっていたと考えられます。
 「池のくるみスキー場」があった時代、蛙原(げえろっぱら)のグライダー滑走場の西端、諏訪湖が一望できる場所に薙鎌神社があり、霧ケ峰の守護神となっています。昭和7年、スキーとグライダーの始まりを記念して建立されました。そこにはスキーのジャンプ台がありました。また池のくるみの踊場湿原の東端、カボッチョ山にもジャンプ台があり、いまでもその痕跡があります。
 カボッチョ山は、古図では隠深山(かくれみやま)とも記されています。「カボッチョ」とは、今では誰もその名前の由来を知りません。ただこの霧ヶ峰周辺では、アイヌ民族がいて名付けたと言われます。アイヌと蝦夷を混同しています。アイヌ民族は、余程の例外が無い限り、この地にはいなかったはずです。ただ倭人と血統的に大差がない蝦夷は、古代、当地に、移配されていました。その交代として、信濃の人々も東北へ移配されました。
(2009.9.14[Mon])

諏訪の人々が愛する山・鷲ヶ峰その(四)
 鷲ヶ峰の頂上へ向う稜線からの景色は、素晴らしい!!南方向に、諏訪湖の西側が徐々に見え始めると、かつて下筋といわれた地区、岡谷の中心市街地が現れ、次第に下諏訪町も見え始めます。すると西山山麓の湊や小坂も望洋され、その後方の有賀峠にあるホテルの青い屋根が目立ってきます。その峠を越えれば、沢庵漬けで有名な上野大根の産地・上野の集落です。諏訪の人々は、11月頃漬け始めます。本当に美味しい!!
 鷲ヶ峰の山頂からは、諏訪大社の御神体・守屋山が大きく見えます。その後方に連なるのが伊那山地です。その左側に南アルプスを代表する北岳と甲斐駒ケ岳が並びます。その両側に、東に富士山が、西に御嶽山も展望されます。
 鷲ヶ峰の西側下には、星ヶ台と星ヶ搭(1,590m)が小高い丘のように見下ろせます。旧石器時代からの黒曜石の採掘地です。今から約80?140万年前、噴火活動が終息する過程で、粘度の高いマグマが急速に冷却し、安山岩・流紋岩などと共に黒曜石を形成したといわれています。鷲ヶ峰の周囲1,500m前後の等高線に沿って、和田峠・星ヶ塔・星ヶ台・星糞峠・男女倉などの黒曜石産地が連なり、黒曜石の露頭も見られますが、地下では円筒形の巨大な岩層となっていると考えられています。
 その先には高ボッチと鉢伏山が大きく見られます。北側を望むと旧中山道の和田峠の山筋があって、その右手後方が三峰山で、円錐形の美しい姿が、次の登頂を誘います。その北側の背景が、澄明な青空に浮かぶように見える美ヶ原の高燥台地です。
2009.9.13[Sun]

第二次大戦前の諏訪郡の国民運動
 明治時代に行われた地租改正と、田畑永代売買禁止令の廃止により寄生地主が増大化した。地租改正により土地所有者は、金銭によって税金を払う義務が課せられ、度重なる増税に、貧しい農民は、その重い負担に応えられず、裕福な者に土地を売り渡し小作人になっていった。
 一方、当時の政治家の給料は驚くほどの高給で、明治元勲大久保利通は、現代に換算すれば月収1,000万円を遥かに越えていたといわれている。その元勲の殆どは、薩長の下級武士が出自でありながら、召使には「殿さま」と呼ばせ、愛人を囲い、井上馨を筆頭に蓄財にうつつを抜かしていた。大久保が死後にも借金があったことを、美徳と錯覚されているが、豪邸を立て、暗殺された時点、未だ借金を返済し終わっていなかっただけのことであった。
小作争議は、地主から農地を借りて耕作し、小作料を払っていながら、耕作権を法によって認められていなかった小作農が、地主に対して小作料の減免や様々な条件改善を求めて起こした争議のことである。農業恐慌や労働運動の発展とあいまって、大正から昭和初期にかけて激化した。
 従来の小作争議においては、小作人は多く農民組合または小作料不納同盟等をつくり、この組織的統制のもとに、地主との団体交渉を行った。他方、デモ行進・共同耕作などの大衆動員の戦法をもって闘う事も多かった。また公租公課の滞納を申し合せたり、時には児童の同盟休校の実施など、子供をふくめて部落全体を地主・小作の両陣営に真二つに分裂させ、深刻な対立抗争となる場合もあった。
 不況下で米穀類の盗難事件や自殺者が急増する。大正14年から昭和8年までの長野県の親子心中事件は124件で、全国2番目に多かった。その内諏訪郡内は13件を占め県内では最大であった。その動機は借金苦と生活難が殆どで、その手段は猫いらず、剃刀、出刃包丁などで、実に惨酷な状況であったという。
 農村恐慌が、学童たちにも深刻な影響を与え始めると、青年教師の間で、大きな問題意識の高まりとなって真剣に討議され、やがて秘密読書会として根を広げ、遂には先鋭的な新興教育運動となり、組合結成運動へと変質していく。日本教育労働者組合(教労)は昭和5(1930)年11月、東京と神奈川の現職教員20数名を組合員として非合法のうちに結成されたが、日本労働組合全国協議会(全協)傘下の教育労働者組合へと繋がった。やがて、この運動が共産党の影響下で反体制的な社会運動となって拡大すると、官憲は治安維持法違反として弾圧していく。
1920年代に入ると、小作争議は、大正デモクラシーの影響を受けて各地で頻発するようになった。小作農たちは、小作組合・農民組合を組織して団結を図り、大正11(1922)年にはその全国組織である日本農民組合が、杉山元治郎・賀川豊彦らによって結成された。
 20年代には小作料減免を要求する大規模争議が中心であったが、30年代に入ると農地の耕作権をめぐる小規模争議が増加するといわれている。
 地主側はこれに対し、優越した経済力と社会的地位を利用して小作人に威圧的態度をもってのぞみ、地主組合をつくって組織的に対抗したり、あるいは懐柔や法的手段にうったえ、あるいは暴力団をやとって争議団を襲撃させるなどの手段を用いることもあった。また官憲は農民の大衆動員に対して厳重な態度をもって取締りにあたることが多く、このためしばしば農民との衝突事件をひき起こし、時には流血事件・刑事事件が発生し、局地的暴動状態に至った事もあった。
一方、政府は大正13(1924)年に小作争議調停法を施行し、各府県に地主・小作関係の実情に通じた小作官を置いて、法外調停を図るなどした。しかし、小作農の耕作権を公認する小作法は、地主を有力な支持基盤とする帝国議会ではなかなか成立せず、第2次大戦後の農地改革によって寄生地主制が解体されるまで、争議の背景にある根本的な矛盾は解決されなかった。
 小作争議調停法が施行された年、風水害による不作から、小作料軽減を要求する小作争議が多発し、長野県下でも過去最高の22件を記録した。戦争前は、小作争議が紛糾激化すると、地主側は一挙にこれを解決しようと裁判所に訴訟を提起することが多く、ことに小作料の請求や土地返還請求などの民事訴訟の提起は増加する傾向をたどった。
 大正14(1925)年、上条寛雄、土橋富幸らを中心に、政治研究会諏訪支部が20数人で結成された。軍事教練反対運動を広く展開した。翌大正15年、アナーキストの湖東村の海野高衛は「天皇を主義のため暗殺する」と友人に話し、密告され検挙されている。
昭和2年、日本農民組合(日農)長野県連合会が結成されると、小作人組合の直接交渉から、日農が引き受け調停を成立させる事が多くなった。こうして農民運動が急速に高まっていった。諏訪地方を襲ったこの年の大霜害は深刻で、小作争議は養蚕農家によるものが、稲作農家のそれを上回った。
 高揚する農民運動の挫折も早かった。昭和3年3月15日と翌4年4月16日、県下一斉検挙が大きな打撃となった。諏訪地方では、3年の検挙で3人の労農運動指導者が獄に繋がれた。
 昭和5年7月、下諏訪農民団による「不況対策郡民有志大会」が下諏訪町御田で開催された。茅野南諏地区を除く各町村から集まった参加者は、約3千人で会場になった御田劇場を埋め尽くした。そこで製糸操業の継続援助、失業者救済、繭価の補償、官吏の減棒と恩給の減額が決議され、関係大臣の陳情団として24人が選ばれた。彼らは、上京のため野良着のまま下諏訪駅で乗車した。しかし上諏訪駅で、岡谷、塩尻、松本、伊那富(辰野町)の各署から非常召集されて来た約80名の警察官が乗り込み、全員検束された。
 過酷な取調べに、団長の黒田新一郎は「集団陳情はしない。今後の運動は警察と相談する。」と供述せざるをえず、ここに諏訪の農民運動は、大きく後退した。
 昭和6年以来、共産党、共青同盟の再建運動を内偵していた長野県の特高課は、翌7年の夏、下諏訪と長地の両小学校の御真影盗難事件捜査や私服警官による電話盗聴、全協繊維活動家の逮捕などから全貌が明らかになり、翌8年2月4日未明、上諏訪、松本、伊那、飯田の各警察署に動員をかけ86人を一斉検挙した。以後6カ月まで608人を逮捕した。警察の取調べは過酷で、黙秘権を行使すれば残酷な拷問が待っていた。
 長野県の特高課は、その成果を「根底より潰滅せしめて総決算を終れるの観あり。2・4事件は本県に於ける画期的検挙と言ふべし」と誇っている。その目的が、長野県内の労農無産者運動を壊滅させる弾圧にあった事が知られる。事件後、岩波茂雄は文部省の質問に「大げさに騒ぎ、一概に赤だといって圧迫し、彼等の理想主義的な改革的、進歩的精神をいじけさせないことを願う」と、卓見を語っている。また取り調べに当った警察官も「貧困児童の欠食、学用品の不足、雨具無きための欠席等に対し同情心を起したる事」が、事件の背景にあると認めている。こうした弾圧は教育の場を、政府の政策実現に奉仕させていく契機となった。その一方、教員給を全額国庫負担とし、その給与遅払をしないよう行政指導を各県に対し行わった。

 昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに発生した世界大恐慌と、翌年1月の井上準之助蔵相の金解禁による経済環境の悪化で地主層にも経済的困難が襲い、訴訟費用が重い負担になって来たため、地主側は訴訟よりも小作調停によってこれを解決しようとし始めた。このため昭和5(1930)年ころより訴訟件数は減少し、ことに日中戦争以後は激減した。司法省民事局の調査によれば、昭和5年には全国で訴訟件数2,855件を数えたものが、昭和12(1937)年、この年の12月13日、 日本軍が南京城を陥落させ、以降、中国の首都であった南京を占領し、その経過で「南京大虐殺」を犯した時代のせいもあり、2,175件と減り、昭和16(1941)年には858件に落ちた。この年、地域別にみると、これら民事訴訟事件の多い府県は、新潟・秋田・徳島・長野・北海道・鳥取等であった。
http://www.geocities.jp/rarememory/
2009.9.12[Sat]

諏訪の人々が愛する山・鷲ヶ峰その(三)
 鷲ヶ峰は、信州・霧ケ峰高原の北西の一角に位置する八島湿原を見下ろし、標高1,798m、登り口からの標高差160m、登り1時間位の山です。6月中旬のレンゲツツジから9月下旬のリンドウまで、いろいろな花が咲き、まさに花の宝庫です。
 今現在、ヤマトリカブト以外では、梅鉢草、薄雪草、葉場山火口、山辣韮などが目を惹きました。
 梅鉢草はユキノシタ科ウメバチソウ属で、花は、8月末~10月、花茎の先端に梅の花に似た白色5弁花を1個つけます。梅鉢は、菅原道真や前田利家の家紋として有名です。湯島天神など天神社でよく見かけますが、その花の名前の由来となっています。山地帯から亜高山帯の日の当たりの良い草地に生え、目立ちませんが気品を感じさせる花です。
 薄雪草は、キク科ウスユキソウ属、薄く雪をかぶったような白い花を咲かせます。ただし、本当の花はごく小さく、花のように見えるのは花序の周囲を飾る苞葉と呼ばれる葉です。その表面に白い綿毛が密生しているため、まるで雪をかぶっているように見えることから名前が付きました。鷲ヶ峰、車山、霧ヶ峰、男女倉山では、今でもたくさん見られますが、枯れかかっています。
 葉場山火口(はばやまぼくち)はキク科ヤマボクチ属で、和名の由来は、葉場山(ハバヤマ)が草刈り場のある山の意味で、火口(ホクチ)が葉の裏にはえている白い綿毛を乾かしたものを、火打ち石から火を移し取るものに用いたことからによると言われています。まさに、葉場山を焼く、火口(ほくち)として用いられたのです。少なくとも、江戸時代、車山から霧ヶ峰、八島湿原一帯は、草刈り場として山焼きが行われていました。
 山辣韮山(やまらっきょう)は文字通り、野生するらっきょう、の意味で、ゆり科ねぎ属、茎の先端にピンク色の球状の花をたくさんつけます。ユニークな形ですが、秋の草原風景にふさわしい点景となります。地下に細長い球根がありますが、らっきょうのように球根が太くはならないので、食用にはしませんが、花はらっきょうよりきれいです。
(2009.9.11[Fri])

諏訪の人々が愛する山・鷲ヶ峰その(二)
 林の中のヤマトリカブト、鷲ヶ峰から見る諏訪湖と車山、八ヶ岳そして富士山!
 現在、鷲ヶ峰を登って一番目立つ花が、ヤマトリカブトです。農紫の花が、明るい陽光に美しく映えています。ここでは、日当たりのよい稜線に、小群生が見られ、背景の八島湿原、男女倉山、美ヶ原、三峰山、伊那山地、南アルプスと四方へ広がる風景と一緒に楽しめます。
 ヤマトリカブトは、日本が原産で、本州の関東地方西部と中部地方東部の限られた地域に分布する在来の固有種です。
 普通、霧ヶ峰や白樺湖では、ミズナラやズミの林の中で見られる事が多いのですが、鷲ヶ峰でも、ダケカンバやオオカメノキ(大亀の木)が喬木化した群叢の中でも育っています。一方では、レンゲツツジが雪、風、寒さなどで低木した合間の広い草場にも生え、周囲の山岳風景と一体化しています。
(2009.9.10[Thu])

諏訪の人々が愛する山・鷲ヶ峰その(一)
 八島湿原の駐車場(標高1640m)から鷲ヶ峰山頂まで2kmほどの行程、標高差160m、コースタイムは登り1時間位です。登山口から見る山は、山頂ではありません。そこから多少の起伏があって、3つ目の尾根が山頂です。途中、展望の良い稜線が続き楽しいです。まさに風光明媚です。
 山名の由来は、諏訪湖周辺の西山麓のから見ると、南北に延びる稜線の形が、鷲が羽を広げているようだからと言われています。
 山頂からは、諏訪湖が一望され、守屋山、有賀峠、湖南などの西山麓が見渡せ、岡谷市街、下諏訪町の下筋もはっきり見下ろせます。
 鷲ヶ峰ほど、多くの事を語ってくれる山は、余りないでしょう。
 ビーナスラインの霧ケ峰と和田峠のほぼ中間に八島湿原の駐車場があります。ここは無料で50~60台が駐車できます。ただ連休や夏の観光シーズンには、朝9時を過ぎると、駐車場に入りきれない車が、駐車待ちで道路に長い列を作り渋滞します。できれば、9時前迄に到着するようにして下さい。鷲ヶ峰と八島湿原の散策には、いずれもこの駐車場が基点となります。
(2009.9.9[Wed])

車山のレア・メモリーから白樺湖すずらんの湯へ
 冬になるとスキー客で賑わい、また夏は避暑地として観光客で賑わう白樺湖は、諏訪ICから車で40分、 茅野駅からバスで50分です。車山のリゾートイン、レア・メモリーから白樺湖温泉すずらんの湯まで約3.5km、近道を使えば5~8分です。
 対山館(たいざんかん)遺跡、南岸(なんがん)遺跡、琵琶石(びわいし)遺跡など有名な遺跡群も白樺湖にはあり、考古学に興味ある人も訪れる人気スポットです。その白樺湖畔にある日帰り温泉施設が白樺湖温泉「すずらんの湯」です。
 綺麗な施設で、リラックスルームやラウンジも広々としてゆっくりできる、いい雰囲気の温泉施設です。浴室は、ジェット気泡浴、ジャグジー、サウナ、水風呂、そして源泉を利用した半露天風呂があり、その半露天風呂は一応屋根があり窓があり、通常、窓がオープンになっていて大変気持ちがよいです。
 最近人気なのが、カヤック&カナディアンカヌーで湖をゆったり漕ぐレジャーです。蓼科山を背景に、自然の中に溶け込むような美しい光景です。ゆったりと風景を眺めてくつろげる休憩室も用意されています。
 四季折々に変化に富んだ自然をまとう白樺湖のほとり、特に白樺湖の紅葉は10月下旬頃で白樺湖を囲む山々が全山紅く染まります。幅広い効能と心休まるロケーションをごゆっくりお楽しみ下さい。
 入浴時間;AM10:00~PM10:00、火&木曜日;AM12:00~PM10:00
入浴料;大人700円 子供400円ですが、レア・メモリーは、100円引きの割引券を用意しています。
(2009.9.8[Tue])

車山高原を彩る秋の花
 今現在、車山高原ではマツムシソウが、最盛期で、手軽にビーナスラインを走ると、道路の崖沿いに、群生しています。特に白樺湖から上がり、大門峠から車山展望リフトの乗り場へ至る道筋、右手に群生しています。時々、トリカブトの農紫の美しい花も見られます。
 ツリガネニンジンとハバヤマボクチは、孤独な花です。余り群生はしませんが、多くを語りかけてくれます。ツリガネニンジンは春の若芽は『ミネバ』『トトキ』といって美味しい山菜です。 北海道から九州の各地に、広く分布し、千島列島までにも生育しています。和名の釣鐘人参の由来は、その大きな根が育つと朝鮮人参に似るからです。
 ハバヤマボクチのハバヤマとは、葉場山と書き、山の葉場、つまり草刈場の意味です。ホクチとは、火口(ホクチ)のことで、火打ち石などから火を移し取るために用いるもので、葉の裏に生えている白い綿毛を乾かしても作ります。
 ハバヤマボクチ(葉場山火口)の名前は、「山の葉場(草刈場)に生える、火口(ホクチ)の材料となるアザミ」の意味です。福島県以南の本州・四国・九州に分布するキク科の多年草です。車山では、花は9月、既に咲いています。花の色が黒っぽく、くすんでいるので、花が枯れているのかとみえますが、花の盛りです。
(2009.9.7[Mon])

車山高原の秋の高原野菜料理
 食欲の秋、旬の食材が美味しい季節です。この時季、車山高原では高原野菜が美味しく食べられます。茅野市山浦地区の旧北山村の高原は、八ヶ岳連峰と霧ヶ峰山塊とに囲まれた山辺にあって、澄んだ空気と八ヶ岳の清らかな水、豊かな森の台地で美味しい野菜が育てられます。
 そこから朝採りの高原野菜が届けられました。標高1,100メートルの所にある畑で採れる、ナス、シマウリ、トウモロコシ、クリカボチャ、ソーメンカボチャなど、種類豊富な秋野菜です。
 高原野菜って何故美味しいのでしょう。薄い空気や寒さに耐えるため、野菜自身が糖度を増やすためで、その朝採りは、比較的短い昼間の成長を期して、夜のうちにいっぱい栄養をためている、そのままの状態で採るから、野菜そのものが美味しいのです。
 金糸瓜ですが、その名のとおり、茹でてほぐすと金の糸のように細くなり、ツルツル食べるソーメンとなり、ソーメンカボチャとも呼ばれています。
 冷やしたあと、麺つゆや三杯酢などで食べます。 又は、味噌とマヨネーズと練り胡麻を合わせるとよいです。シャキシャキの歯ごたえと、さぱっりとした口当たりは、夏の涼を感じさせてくれます。 しかもカロリーはソーメンの1/5以下です。
2009.9.6[Sun]

高原のトウモロコシは、とにかく甘い!
ゴールドラッシュという品種のトウモロコシは、特に美味しい!
今日、朝採りのトウモロコシです。茅野市北山柏原の畑から収穫されたものです。標高1,150mの山間の高原野菜です。昼と夜の気温差が激しい、この気温差が、自然の旨味がたっぷり詰まった野菜を生み出すのです。特に水源が豊かです。東側は八子ヶ峰を源流とする上川が、西側は車山と白樺湖を源流とする音無川が流れ下っています。きれいな水と空気、この最高の環境で生育したとうもろこしは、甘さが濃厚で、これを食べてしまったら、もう他のものが食べられない!!と感じられてしまう。旨みとプチプチとした食感は格別で、生のままでも美味しくいただけます。
ゴールドラッシュの特長は質のよい甘さと、穂の全体に並んだ黄金色の粒、そして今までになかった粒皮のやわらかさにあります。それで生でも食べられるのです。大きな穂にならぶ黄色い実は、見た目にもずっしりとしており、もともとは「皮がやわらかいとうもろこし」を目標としてつくられた品種でした。開発に、10年もかかったといわれています。
2009.9.5[Sat]

八島湿原が現代に語るもの
 「雪不知遺跡」は、八島湿原の北東、標高1,650mに位置する日本で最高位にある遺跡です。男女倉山(おめぐらやま)と物見石(ものみいわ)に挟まれた沢沿いで、八島湿原を一望する小高い台地、湧き水が豊富な雪不知という地籍にあります。隠れた名水とも言われています。
 八島湿原周辺には、「雪不知遺跡」の外に、その近くの「物見岩遺跡」、霧ヶ峰の踊場湿原周辺の「ジャコッパラ遺跡」、「池のくるみ遺跡」、旧御射山神社近くの「八島遺跡」など、今から約4万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が点在しています。
 これらの遺跡群は、周辺にある和田峠、星ケ塔、星ケ台、東俣、男女倉、星糞峠など全国屈指の黒曜石産地の有様や、そこを生業にしていた人々の生活環境と様子などの研究により、考古学研究の発展に大きく寄与しました。星ケ塔などでは、黒曜石を採掘した凹地が40か所余発見されており、中から縄文晩期の土器などの検出があり、縄文時代からの採掘が確認されています。
 青森市の三内丸山遺跡、また、西は神戸市の桜ヶ丘遺跡でも、八島湿原周辺の黒曜石が見つかっており、八島湿原周辺は約3万5千年前の旧石器時代から縄文時代に至る3万年を超える間、全国に石器用材を供給し続けたのです。鏡は第一段階として、縄文時代以前、金属がない時代は石鏡であり、黒曜石で製作していたようです。
 また和田峠、鷲ヶ峰、八島湿原、車山、大門峠が分水嶺であることも重要です。それぞれを源流とする川筋は、太平洋と日本海の両方面へ黒曜石の流通を可能にしたのです。

 八島湿原の生成は、今から1万2,200年前から始まったといわれています。その地層の花粉分析から
   現在~ 700年前    750年間 アカマツ期
    700~ 2,000年前  1,250年間 ミズナラ期
   2,000~ 3,000年前  1,000年間 トウヒ期
   3,000~ 7,500年前  4,500年間 ミズナラ期 
   7,500~ 9,000年前  1,500年間 トウヒ期
   9,000~ 10,200年前  1,200年間 ミズナラ期
   10,200~ 12,200年前  2,000年間 トウヒ期
   
 日本の森林限界より手前、亜高山帯における植生は、主にモミ属・トウヒ属・コメツガなどの常緑針葉樹林ですが、今現在の八島湿原周辺は、白樺湖同様、温帯性の落葉広葉樹ミズナラが繁茂しています。
 「八島遺跡」では、今から約4万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が点在しています。八島湿原の生成より人類の生業歴史の方が古いのです。氷河期は、約7万年前からの最終氷期の後半に入り、約3万年前から1万年前の最寒冷期には、日本列島では年平均気温の等温線は、現在よりも約1,500m低下したといわれています。まさに最終氷期の車山や八島湿原の大地は凍土でした。
 しかし、八島湿原の地層の花粉分析により、大きく言えば気候の変動は、単純ではなく、氷河期でも、近代でも様々な様相を、時々に現出していた事が知られます。既に、氷河期の最寒冷期に当る12,200年前以降にも、寒暖の変動が激しかったことが分かります。1万年前の最寒冷期、長期のツンドラだけを想定するのは誤りで、トウヒ属の高木が茂る時期もあったのです。旧石器時代でも、人類は様々な気候変動に耐え、早くから生業を営んでいたのです。

 「雪不知遺跡」は、昭和38(1963)年発掘されました。規模は小さく、ナイフ形石器、雪不知掻器(そうき)などが出土しました。特にナイフ形石器は、諏訪圏内で最高レベルの加工技術です。
 「雪不知」という名水場があります。その豊富な湧き水は、旧石器時代から、黒曜石採掘集団にとって、重要な生活の糧であったのでしょう。
 「雪不知」の地籍名を知り、その地域が雪深いのになぜ「雪不知」なのかとおもわれますが、その場所は、地理的に見ても「男女倉山」と「物見石」の狭間にあたり、雪原の最深部にあたります。すると入ると迷って出てこられない場所として畏れられていたことから、「雪不知」と呼ばれたのでしょうか? 或いは近世、山浦地区の塩沢の人が、この周辺、霧ヶ峰奥野といわれた一帯を入会内に、地元からかなり遠いため、ここに豊富な湧き水がある事を幸いとして、入会地では禁じられていた秘かな畑地として、芋などを栽培し、遠出の昼食時に代用食として利用していたとも考えられます。
 しかも、この場所は江戸時代以前より上桑原村の入会地(いりあいち)であり、他の地域の住民はみだりに入ることが許されず、また入会地として絶好の土地であったため、その土地の存在を隠すため「雪不知」と隠語を使ったとも考えられます。  
 入会地とは、元肥としての刈敷や厩肥(うまやごえ)などの自給肥料、屋根葺き材や生活燃料として、萱や柴などの確保し、農業牧畜生産を維持する目的で、特定地域住民が共用する場所として定められた土地です。「雪不知」も入会地であったことから上桑原村の住民からすると、やたらに利権外の人が入ると恐ろしい目にあう場所として、牽制する意図があったのでしょうか?現実に、入会権を侵し進入し発見されると、その証拠として、鎌・鉈・鞍などを取り上げられました。鉄砲を撃ち掛けもしました。 さすがに、元禄時代、郡中法度で「境論水論の義、武道具を持つ者は曲事」とされ、以後、鎌や鉈などを振るう実力行使はなくなりました。但し、利権侵入者の証拠として、鎌・鉈・鞍の奪取は依然行われていました。
(2009.9.4[Fri])

車山の茸・ジゴボウ【花猪口】の料理
ジゴボウは、軽く湯通しして、大根おろしと醤油と生姜でシンプルに食べるか、キノコ汁にしていただくといいです。
又、ごま油で炒めて醤油を少し加えただけでも、美味しい! 軸のシャキシャキとした食感がいい、ネギと炒めて、味噌を足し、鰹のたたきと一緒に食してもいい、ズッキーニやきゅうりの板ずりとのバター炒めも簡単で美味しいです。
 今日は、鍋にオリーブ油を熱し、ジゴボウとナスを炒める、醤油と少量の砂糖で味付けをしました。ヌメリのある美味しい一品に完成。
(2009.9.3[Thu])

今日初収穫車山の茸・ジゴボウ【花猪口】
 今日、車山のレア・メモリーの裏庭で、茸・ジゴボウを初収穫しました。お泊りのお客様へ、吸い物にして、お出しします。
ハナイグチ(花猪口)という茸で、長野県ではジコボウ、またはリコボウとも呼ばれています。マツタケ目イグチ科の食用キノコで、カラマツ林だけに生えるのでカラマツイグチ、カラマツタケなどの地方名があります。長野県では雑木林に生えるクリダケ同様、珍重され、傘は径4cm以下の円錐形をとどめる時が一番歯ごたえと香りがあって美味しいです。それ以上大きくなると、大概、虫が侵入しています。
傘は初め半球形で、後には開いてほぼ平らになります。表面は赤茶色で、のち色あせて黄茶色になり、著しい粘液で覆われています。一見して、傘の裏の管孔(くだあな)は濃い黄色、若いときは黄ないし黄茶色の膜で覆われています。柄は黄色から赤褐色でつばを持ちます。ジコボウの仲間は、異種も多く、和田峠を下る和田川流域は、傘が白いのが特徴です。
晩夏から秋にかけてカラマツ林内に発生します。樹齢15年生以上で発生量が多くなるようです。ジコボウは、カラマツ林では最も一般的な茸で、各地で食用茸として利用されています。胞子を林内に散布することによって増殖することができるようになり、特産品の茸として利用しようとする試みも行われています。気候次第では6、7月に、車山のレア・メモリーの裏庭のカラマツ林で採取できます。
八島湿原近くの沢渡の林道脇や、霧ヶ峰の防火帯の林縁で赤土の見える様な、比較的遷移の新しい日当たりのやや良い場所に生えるジコボウは、最高の良品といえます。
(2009.9.2[Wed])

今日の霧ヶ峰、ヤマトリカブト
 ヤマトリカブト(山鳥兜)は、キンポウゲ科トリカブト属の疑似1年草です。多年草は、地下部と地上部、又は地下部が多年に渡って生きる植物ですが、疑似1年草は、母根が1年で枯れ、新しい地下茎を作る植物です。サツマイモ・ダリアなど、植物の根が肥大して養分を蓄える働きをする貯蔵根を、塊根(かいこん)と言います。ヤマトリカブトの根も、いわゆる塊根で、表皮が茶色でニンジンに似た紡錘形です。前年の根に新しい根が出て古い根は枯れます。
 ヤマトリカブトは、日本が原産で、本州の関東地方西部と中部地方東部の限られた地域に分布する在来の固有種です。トリカブトの名の由来は、花の形状が舞楽の被り物である鳥兜に似ている事から、或いは、古来の烏帽子(えぼし)や鶏の鶏冠(とさか)をなぞるとも言われています。トリカブトの英名は、aconite monkshoodで「修道士の頭巾」という意味です。  
 中国名では鳥頭(ウズ)、附子(ぶし)と言い、漢方ではその母根をウズ(鳥頭)と言い、子根をブシ(附子)と言います。したがって、ヤマトリカブトとは、山に生えるトリカブトとの説もありますが、中国産生薬の鳥頭に対する日本産のトリカブトの意味になります。トリカブト属は、北半球の寒帯から温帯に亜種を含めて約300種類が分布しています。
 山地の林下や林縁に生えます。林縁では斜上し、高さ60~200cmになります。葉は互生します。長さ幅とも6~20cmの掌状で、3~5中裂します。車山周辺では、その芽吹き、5月頃斑入りの若葉を出します。ちょうどニリンソウが咲く頃です。ニリンソウ(二輪草)は、おしたしにすると美味しいのですが、葉がそっくりです。同じように、渓流沿いの林縁の湿地を好みます。ニリンソウと間違えた誤食死亡事例があります。
 全草が有毒ですが、根は特に猛毒です。成分はアルカロイド毒のアコニチンやメサコニチン等です。ヒトの致死量は3~5mgと言われて極めて微量です。舌の痺れ・流唾・嘔吐、酩酊状態、不整脈・昏睡、心停止の経過をたどります。
ただ根を致死量まで生食するとなると親指程の大きさとなり、苦味が強い事もあって食べるのは困難です。ただ特別な治療法も解毒剤もありません。フグ(河豚)毒に次いで強い毒と言われています。
 トリカブト属には本種の他、日本には約30種自生しています。 花の色は紫色の他、白、黄色、ピンク色など、多くは多年草です。
 北日本に分布し葉が5~7裂して、世界で2番目に強毒であるオクトリカブト(奥鳥兜)、北海道に分布する世界で最も強毒のエゾトリカブト(蝦夷鳥兜)があります。前者は、北海道は札幌以南から本州は中部地方以北の高原や林縁などに生育しています。日本産の種は多くは有毒ですが、サンヨウブシ(山陽附子)のように無毒の種もあります。サンヨウブシは、長野県では、上高地や信濃町古池(ふるいけ)でも見られました。また有毒種であっても、産地によって毒力に差があるようです。中国では紀元前から加熱して減毒する方法を用いており、減毒したものを炮附子(ほうぶし)と呼んでいます。
 蜜、花粉にも中毒例があり、このため、養蜂家はトリカブトが自生している所では採蜜をしないか、開花期を避けています。
(2009.9.1[Tue])

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