雄略天皇の時代  (5世紀後半)         Top  歴史散歩  車山高原日記
 
目次 
 (1)雄略天皇と日本
 (2)治天下大王・雄略天皇
 (3)江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘
 (4)雄略天皇時代の脇本遺跡
 (5)倭政権と朝鮮半島
 (6)葛城氏滅亡
 (7)雄略天皇期の朝鮮半島情勢
 (8)平群真鳥誅殺
 (9)高句麗と百済の台頭
 (10)石上神宮の七支刀
 (11)高句麗の広開土王の南下策の影響
 (12)広開土王碑
 (13)広開土王による朝鮮半島動乱
 (14)渡来人による竈とオンドルの導入
 (15)5世紀初頭の技術革新
 (16)5世紀初頭、加耶からの渡来人
 (17)七支刀と倭国の鉄資源
 (18)倭王武・雄略天皇
 (19)平群真鳥の親子誅殺される
 (20)雄略天皇の晩年の百済情勢
 (21)雄略天皇崩御
 (22)雄略天皇と蝦夷の関係
 (23)ヤマト政権の拡大
 (24)雄略天皇による吉備氏弾圧
 (25)高句麗軍を撃破
 (26)新羅征伐
 (27)倭政権の半島政策の挫折
 (28)星川皇子の反乱
 (29)清寧天皇即位


 (1)雄略天皇と日本 目次へ
  雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、『日本書紀』では大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのすめらみこと)と記され、『宋書』、『梁書』にある「倭の五王」中の倭王武に比定されている。
 『宋書』倭国伝、昇明2(478)年に、宗主国であった宋の皇帝に奉る「倭王武の上表文」が記される。 「倭という封国(ほうこく;諸侯の領地の一つである日本)は偏遠(へんえん)にして、藩(はん)を外に作(な)す(国境外の属国として存在する)。昔より祖禰(そでい;先祖代々)は、躬(みずか)ら甲冑を身にまとい、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ;安んずる処)に留まる遑(いとま)もあらず。東方五十五国を征し、西のかた六十六国を服し、渡りて海の北、九十五国を平らぐ 。王道融泰(ゆうたい;滞りなく行き渡り)にして、土を廓(ひら;領土を広げ)き畿(王城を中心とした直隷地)を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう;累代の諸王が拝謁)して歳(としごと)に愆(あやま)らず(拝謁を毎年行い、怠ることはなかった)」
 『日本書紀』に幾たびか「天下」という語が使われ、『古事記』の各天皇段の冒頭に常用されるのが「…の宮に坐(ま)しまして天の下治めたまう」である。
 その文言は『日本書紀(神代から持統天皇まで)』『続日本紀(文武天皇から桓武天皇まで)』『日本後紀(桓武天皇から淳和天皇まで)』『続日本後紀(仁明天皇の代)』『日本文徳天皇(文徳天皇の代)』『日本三代実録(清和天皇から光孝天皇まで)』の6つの一連の正史や、日本の律令国家が編纂した「六国史」や『万葉集』『風土記』などでも常用されている。
 日本の国内で史料として初見された「天下」は、昭和53(1978)年に発見された5世紀に遡る埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣銘から検出された。それには「獲加多支鹵大王(ワカタケルノオオキミ)」、即ち雄略天皇が斯鬼宮(しきのみや;泊瀬朝倉宮:はつせのあさくらのみや:奈良県桜井市黒崎にある脇本遺跡として発掘されている)に居住していた当時の証となるという説が有力に語られる鉄剣である。
 斯鬼宮の地には、崇神天皇の磯城瑞籬宮(みずがきのみや)・垂仁天皇の纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)・景行天皇の纏向日代宮(ひしろのみや)・欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)などが営まれていたことが『日本書紀』にあり、この地域は磐余(いわれ)といわれ倭政権初期の交易・政治・文化の中心であった。雄略天皇の泊瀬朝倉宮の所在地であり、脇本遺跡の出土により、その実在が証明された。
 『古事記』には、雄略天皇が吉野の宮に赴いた折に詠んだとされる歌が載る。
 呉床居(あぐらい)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女(おみな) 常世にもがせ
 「呉床居(あぐらをかいている)の神みずからが、神の御手で弾く琴に合わせて舞う乙女よ。その美しさが永久(とこしえ)であってほしいもの だ」
 雄略天皇が吉野の宮に行幸した時、吉野川のほとりで、姿の麗しい乙女と出会い、その乙女を妻問いして、大和の長谷朝倉宮に戻った。後日、吉野宮を再び赴いた時に、その乙女と再会し、大王は呉床居して自ら琴を弾き、乙女を舞わせた。その舞姿がとても美しく、その時に詠んだのが、この歌とされる説話であった。
 古くから伝わる独立した歌謡を『万葉集』の編纂の際に、雄略天皇の説話に挿入した、というのが通説となっている。
   ただ雄略天皇が、天武天皇に先んじて、神として古文献に記される最初の大王であった事は重要である。

 (2)治天下大王・雄略天皇 目次へ
 5世紀後半の雄略天皇(倭王武)の時代に、中国王朝と決別する。『日本書紀』では大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのすめらみこと)と記され、その尊が「獲加多支鹵大王(ワカタケルノオオキミ)」に相当すると考えられている。この大王は独自の「天下」観を有し、自らを「治天下大王」を名乗り列島を支配した。「治天下」の訓読みは、本居宣長の『古事記伝』以来、「天(あめ)の下(した)治(しら)しめす」とされている。
 「シラス」とは「智る」の尊敬語で、「智」とは、言葉や文章により報らされると、矢が飛ぶ速さで心に覚るという会意文字で、「知」は知るで、「一の下に」は言語の意であるが、IMEパットで手書きでも不能、ただ『大字典』に記されている。「日」は明白の「白」である。
  天下支配の根本が知られる。「治天下大王」には、「天下」の情報を瞬息に伝達させる体制が不可欠で、そのため「天下」に道路網の敷設が最低限欠かせない。
 『日本書紀』に「治天下」と記していれば、素直に「治山」「治水」「治内」「治人」などの統治権を誇示する意味に解される。国境という観念のない時代であれば、そもそも「天下」とは、雄略天皇の倭王権が及ぶ領域を漠然と示していたに過ぎない。それが「治天下」の実態であった。
 倭は「天下」を「アメノシタ」と訓読したが、中華では「天」とは、地上を支配する天上の至上神で、「天帝」とも呼ばれ、宇宙の万物を支配する造物主と考えられている。「天」は地上における最も有徳な者に天命を下し、天子とし地上の支配権を委ね王朝を開かせた。夏代後期に完成した観念といわれ、商(殷)の甲骨文に上帝の名がみられ、古代中国より天子は天帝を祀ることが天義とされ、それが歴代の王朝に受け継がれている。
 周代では、民はその天帝の存在すら知らず、天子のみ拝することのできる一方、天帝を祀ることは天子にしか出来ない天子の天権でもあった。やがて世代を経ると、暴君が登場し、「天帝」はやむなく「王朝」を見放し、別の有徳者を探して天子とする「天命」が下ると天下が治まる。これが中国に深く根ざす「易姓革命(えきせいかくめい)」で、中国を支配すれば、朝貢する周辺の他領域の「夷狄」も属国として「天下」に組み入れた。
  一方、日本でいう「天(アメ)」とは、『古事記』『日本書紀』の神代巻がその典拠となる天上の国「高天原(たかまのはら)」で、国つ神の地上の世界に対して、天上界にある天つ神の国をいう。『古事記』に含まれる日本神話および祝詞において、天津神が住んでいるとされた場所で、様々な個性をもった神々が住むとされる。
 大和葛城山の南のある金剛山(奈良県御所市高天;たかま)と呼ばれる山は、古代では、大和側からは高天山(たかまやま)と呼ばれていた。河内側からはコンゴウセンと呼ばれていた。江戸時代初頭までは、その金剛山(高天山)の中腹にある高原台地が高天原だというふうに考えられていた。
  この高天原を含む葛城地方は、ヤマト政権誕生以前から強大な勢力を誇った葛城氏という豪族の本拠地であった。 高天原よりすこし山を下った御所市大字極楽寺の極楽寺ヒビキ遺跡から、この葛城氏の祭祀場跡と推定される、石葺きの護岸をもつ濠で区画された、四面庇付きの大型掘立柱建物など巨大な遺跡が発見された。濠で囲まれた区画が造られた時期から、5世紀前半とみられている。この地が古代の信仰にとって、特別な場所であったことが推測された。高天原の伝承地に所在する高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は、社務所もなく、それほど大きな神社ではないが、社殿の背後に聳える美しい円錐状の神奈備山(かんなびやま)が、御神体の白雲嶽(しらくもだけ;694m)である。
  天香具山(あまのかぐやま)、または香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市に位置し、その南麓には天照大神の岩戸隠れの伝承地とされ、岩穴や巨石を御神体とする天岩戸神社(あまのいわとー)がある。
 王都に居住する人々が認識する「高天原」とは、地上世界の造物主である天上世界の神々が住み、ヤマト王権の守護神となり、その「アメノシタ」とは、大王の支配が及ぶ領域と見なされていた。
 また大王はオオキミと訓み、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫という観念はあったであろうが、王の中の大なるもの、即ち首長の中の最有力、列島の君主とみられていた。大王は「王中の王」ではあるが、本質的には、それを支える連合政権の構成メンバーと同列で、その盟主的存在にすぎなかった。
 奈良時代以降のように、天照大神の直系の子孫として「現神御宇天皇(あきつみかみとあめのしたしろしめす・すめらみこと)」と、自らを「この世に現れた神として天下を統治される神聖なお方」を称する皇統観念までには至らなかった。
  しかも大王になるには、群臣の推戴が前提となり、王宮を造る場所には小高い壇を作り、そこに昇り、天つ神を祀り、神々から地上を支配する権威を付託される「事依(ことよ)させ」という祭祀を経て、初めて王位に就くことができた。
 5世紀後半、雄略天皇は「治天下大王(ちてんかだいおう)」と名乗り、独自の天下観で列島支配を行った。それを示す刀剣銘が2つ発見された。 埼玉県行田市の埼玉古墳群中にある稲荷山古墳出土の鉄剣銘や熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、雄略天皇の証とする説が有力である。
 1,978年9月、奈良県の元興寺文化財研究所で保存処理中の一本の古墳時代の鉄剣から銘文が検出された。この鉄剣は1,968年に墳丘長120mある稲荷山古墳から出土した。その後、錆の進行が激しく、保存処理を研究所に委託した。その作業中に所員が錆の下に光るものを見つけ、X線写真を撮った。
 全長73.5cm、中央の身幅3.15cmの鉄剣の表裏に、全文115字からなる金象嵌の銘文が記されていた。表に57字、裏に58字が、完全な形で検出された。
 貴重な史料だ。記紀だけでは不明なことが多い時代であった。中国も動乱の極み、鮮卑拓跋氏の北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立する戦乱の南北朝時代であるため、文書資料の遺存も少ない。そこに新たな文字史料が完読できる状態で発見された。しかも大王の名まで刻まれていた。タガネで鉄剣の表裏に文字を刻み、そこに金線を埋め込んであった。

 「表の銘文」は「辛亥年七月中記。乎獲居臣上祖、名意富比。其児、多加利足尼。其児、名弖已加利獲居。其児、名多加披次獲居。其児、名多沙鬼獲居。其児、名半弖比」
 【訓読】 辛亥(しんがい)の年七月中、(銘文を)記す。乎獲居臣(おわけのおみ)、上祖(始祖)、名は意富比(おほひこ)。其の児、(名は) 多加利足尼(たかりすくね)。其の児、名は弖已加利獲居(てよかりわけ)。其の児、名は名多加披次獲居(たかひしわけ)。其の児、名は多沙鬼獲居(たさきわけ)。其の児、名は半弖比(はてひ)」

   「裏の銘文」には「其児、名加差披余。其児、名乎獲居臣。世々為杖刀人首、奉事来至今。獲加多支鹵大王寺、在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也」
 【訓読】 其の児、名は加差披余(かさひこ)。其の児、名は乎獲居臣(おわけのおみ)。世々、杖刀人(じょうとうじん)の首(かしら)と為り、奉事(ほうじ)し来り今に至る。獲加多支鹵(わかたける)の大王の寺(てら;寺の字源が説く如く、その本義は朝廷)、斯鬼(しき)の宮に在る時、吾、天下を左治(さち)し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。

 辛亥年は471年とするのが有力で、その年に、刀剣に銘文を刻んでいる。通説通り辛亥年が471年とすると乎獲居臣(おわけのおみ)が仕えた獲加多支鹵大王とは、大泊瀬幼武(おおはつせわかたける)で雄略天皇である。『宋書』倭国伝にみえる倭王武が朝貢したのが478年であれば、雄略天皇と比定されても矛盾は生じない。近年では、稲荷山古墳の築造が5世紀後半とみられている。大王という称号が5世紀から使われたことの確実な証拠となっている。
 刀剣にある父系の縦の銘文系譜により、それまでの口頭伝承としての祖先系譜が、この5世紀後半になると、地方豪族においても漢字による筆録がなされていた事が知られた。
 乎獲居臣(おわけのおみ)の上祖(始祖)の名が、意富比(おほひこ)であれば、「孝元天皇の皇子」であり「崇神天皇の代」に北陸平定に派遣された大彦命をさすとみられ、『日本書紀』に記されえる四道将軍のひとりが位置付けられていることになる。北陸へ大彦命(おおひこのみこと)、東海へ武渟川別(たけぬなかわわけ)、西海へ吉備津彦(きびつひこ)、丹波へ丹波道主命(たにわのちぬしのみこと)の4将軍を派遣した。
  稲荷山鉄剣銘文の系譜では、乎獲居臣(おわけのおみ)の上祖の意富比(おほひこ)、その児の多加利足尼(たかりすくね)、その児の弖已加利獲居(てよかりわけ)、その児の多加披次獲居(たかりすくね)、その児の多沙鬼獲居(たさきわけ)、その児の半弖比((はてひ))、その児の加差披余(かさひこ)、その児の乎獲居臣(おわけのおみ)と、「ひこ」「わけ」から「おみ」へ、その称号が推移している。
 4世紀頃の各地有力豪族は、首長の称号として「わけ」を称していた。「わけ」とは「分」または「別」で「ワカツ義」があり、分けて支配する「分統」に由来する。「彦(ひこ)」は、その字源から「立派な男子は、その言美にして(あや;文彩)あり」に由来する。「すくね(宿禰)」は4世紀頃までは、貴人の人名につけて尊称とした。
 5世紀の応神王朝は、大王の宮と御陵が河内に多いことから河内王朝ともよばれている。この王朝が「ワケ王朝」と別称されたのは、応神天皇(ほむたわけ)から顕宗天皇(けんぞうてんのう;をけのいはすわけ)まで、大王やその兄弟に「ワケ」を称していた事による。
 元々、「ワケ」は大王家や各地の有力豪族の首長の称号であった。それが大王家の称号として独占される5世紀後半以降は、各地の有力首長は、大王家を頂点とする氏姓制度に組み込まれ、そのなかでも乎獲居臣(おわけのおみ)の「臣」は、大王家としばしば婚姻関係を結んだ大和の有力豪族や地方の伝統ある豪族が持つ称号となった。
 「多沙鬼獲居」の「多沙鬼」は、『日本書紀』神功皇后 50 年 5 月の条に見える「多沙城」に由来する名と推定される。「多沙」は加耶の地名である。
  銘文は、刀を作った乎獲居臣が、始祖の意富比(オホヒコ)から8代目の子孫であり、その累代の名を刻み、代々、杖刀人の首(大王の親衛隊長)として奉仕し、今でも続いている。
 杖刀人とは「刀を杖(つえ)つく人」であり、刀をいつも身に帯びて、大王に近侍する武官であった。
 雄略天皇が、斯鬼宮(泊瀬朝倉宮:はつせのあさくらのみや:奈良県桜井市黒崎にある脇本遺跡)で天下を治めていたとき、乎獲居臣が大王の統治を「左治(補佐)」し、この鉄剣を作らせて「吾が奉事の根原を記す也」を記し、王家に直属する家系の事績の証とした。
 古代、刀剣は武器であると同時に、悪霊や邪気を払い、それを帯刀することによって、願いを叶えるなど長寿・吉祥をもたらす呪具(じゅぐ)ともなった。乎獲居臣が、銘文の末尾に「吾が奉事の根原を記す也」と刻んだのも、一族が累代、大王に近侍する杖刀人首として仕えたことを「天下を左治(さち)し」と誇示するだけの歴史的根拠を刻銘することにより、自分の子孫がこの地位を継承し現実の政治力を持続せんとする願文となっている。
  ただその系譜には、名前だけで氏名(うじな)がない。少なくとも、雄略朝の時代には、一般的な地方の豪族にまで、氏名が浸透していなかったようだ。 5世紀の地方の首長たちは、大王に直属して奉仕していた事が、稲荷山鉄剣銘により明らかになった。それが6世紀以降と大きく異なっていた。乎獲居臣は、一族とその周辺の中小豪族の子弟を組織し杖刀人の部隊を編成し、大王に親衛隊として直属した。他にも同様の杖刀人部隊が直属し、王権の武力を組織化し強大にしていた。
  天平勝宝8(756)年の『東大寺献物帳』に「杖刀一口」として「刃長一尺九寸、鋒者偏刃、鮫皮把、金銀銭押縫、以牙作頭」とあり、更に「杖刀一口」として「刃長二尺一寸六分、鋒者偏刃、金鏤(きんる)星雲形、紫檀樺纏、眼及把並用銀」と記さた程、天皇の側近として、まして帯刀して近侍する程の名誉の職であれば、その剛刀は、各地から派遣された杖刀人間の見栄(みえ)となり、儀仗用の刀的な豪華さを競うようになる。金鏤とは金の鑢粉(やすりふん)を漆に混ぜて文様を描く技法で、それが星雲のように散りばめられていた。その豪華さであれば「天下を左治(さち)し」と誇示する自奮となった。
 杖刀人首は、天皇に直属する、それぞれの部隊長であった。それが大王の指図に従う杖刀人首という大王直属の武官の長であれば、その有力地方豪族が王宮に出仕し、直接王命に服する地位であるため、その恩恵は多大であった。
 しかも乎獲居臣一族は、代々大王に杖刀人として直属していることを力説している。大王への奉仕は十数年に及んだであろう。その間、郷里へ様々な先進文物・技術をもたらし続けたため、在地での一族の声望を高めたであろう。
 乎獲居臣は、鉄剣の表裏に銘文を刻み、そこに金線を埋め込んで故郷に持ち帰った。死後、その古墳に副葬した。王権との深い政治関係を、在地の権力者が誇示したのであった。
 卑弥呼の古墳時代前期から中期、首長の在地における政治権力の強化に、威信財の確保が不可欠であったが、倭王政権下では、中央政権内での政治的地位が、威信財に取って代わった。
 昭和43(1,968)年に、稲荷山古墳の後円部を発掘調査したところ、墳頂から粘土槨と礫槨の2基の埋葬施設が発見された。国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」は礫槨の副葬品であった。粘土槨の方が中央にあり、しかも古い。礫槨の方は追葬された人物であった。
 稲荷山古墳は粘土槨に葬られた首長のための墳墓であって、乎獲居臣は、その後に追葬された首長の子か弟であったようだ。杖刀人として首長自ら、長年月、朝廷に奉仕はできない。ごく身近な近親者に奉仕させ、中央から在地の首長を補佐させていたのが、杖刀人の実態であった。

 3)江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘 目次へ
  明治6(1873)年、熊本県玉名郡菊水町にある江田船山古墳(えたふなやま)は、全長61mの前方後円墳で、横口式家型石棺が出土した。内部から多数の豪華な副葬品が伴出した。その中に全長90.6㎝で、茎(なかご)の部分が欠けて短くなっているが、刃渡り85.3㎝の直刀があり、その峰に銀象嵌(ぎんぞうがん)の銘文があった。字数は約75字で、剥落した部分が相当あるが、稲荷山古墳出土の鉄剣銘の解釈に重要な史料となった。
 「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸上好刊刀服此刀者長寿子孫洋々得□恩也不失其所統作刀者名伊太和書者張安也」
  【訓読】 天の下治らしめし獲□□□鹵大王の世、典曹に奉事せし人、名は无利弖(ひりて)、八月中、大鉄釜を用い、四尺の廷刀(刃物用の鋼で板状の鉄鋌)を并(あ)わす。八十たび練り、九十たび振う。三寸上好(じょうこう;上等)の刊刀(かんとう;文字を刻む刀)なり。此の刀を服する者は、長寿にして子孫洋々、□恩を得る也。其の統ぶる所を失わず(刀剣は長寿・吉祥をもたらす呪具であった)。刀を作る者、名は伊太和、書するのは張安也。
 江田船山古墳の大刀銘には、作刀年は記されていないが、ワカタケル大王(雄略天皇)の時代に、ムリテは典曹という外交文書など文書関係を司る役所に仕えていた文官であった。八月に大鉄釜で丹念に作刀とされた。この刀を持つ者は、長寿となっては、子孫まで恩恵を得て、領地を失うことがない。大刀を作ったのは伊太和で、銘文を書いたのが張安である。 乎獲居臣は杖刀人首、ムリテは典曹(てんそう)人であった。雄略紀には養鳥(とりかい)人、宍人(しし)、船人(ふね)などのツカサ(官)人が登場する。大化期前代までの「人」とは、倉の出納・管理を職務とする「倉人(くろうど)」、機(はた)を織る「服人(はとり)」などのような「官人」をさした。
 この時代の王権の政治組織は「人制(じんせい)」と呼ばれる。人制では、多くの杖刀人首のように、職務分掌集団ごとに統率者が置かれる。その統率者は中央豪族ばかりでなく、乎獲居臣のような有力な地方首長の近親者が殆どであった。倭王が任命する官人は、その統率者どまりで、その構成員は彼らの裁量に任せた。その支配力・実務能力に依存していた。
 しかも、乎獲居臣やムリテは刀剣を作る能力があり、前者は墳丘長120mある稲荷山古墳に、後者は全長61mの前方後円墳に埋葬されている。その銘文は、いずれにも朝廷における地位が記されている。
 こことからも推測されるように、現段階では、国造制度は史料的に、6世紀前半まで遡ることはない。乎獲居臣は杖刀人首であり、ムリテも刀剣銘を作り前方後円墳に埋葬される程の権勢があった。首長自ら舎人のように中央に出仕することはあり得ないが、それに極近い有力親族が倭朝廷へ派遣された。
 雄略天皇の治政下では、「国造」のみならず地方官制度が設けられていなかったようだ。
 記紀に登場する有力地方豪族の多くは、国造であった。国造は大化前代の地方豪族とって、その在地支配権をヤマト政権に認知され、国々の最高位の地方官に任用される事により、在地で最も重要な政治的地位が得られた。
 律令制下で公地公民となり、国造の制度は消滅し、伝領の支配権は失っても、かつての「国造」の政治的地位は、形骸化せず、寧ろ地方官任用の際に優先されたため、依然として在地での声望は大きかった。
 しかも2本の鉄剣銘には、本来誇示されるべき、後世では欠かせないウジ名(姓)が記されていない。 倭政権の国造・部民(べのたみ)・氏姓制度は、6世紀以降に成立したようだ。

 (4)雄略天皇時代の脇本遺跡 目次へ
 宋書など中国の史書に登場する5人の王と、記紀に記される倭国との関係が次第に明らかになってきた。  
倭王は、5世紀後半の雄略天皇の時代に、日本独自の「天下」観が明確となり、「治天下大王」を名乗り始め、中国王朝と決別する。倭王政権の勢力が朝鮮半島にまで及ぶほど拡大すると、その自立を誇るほどの独自の政治理念が確立していく。
 奈良県桜井市脇本の「脇本遺跡」は、昭和59(1984)年、桜井市と橿原考古学研究所が中心となって、磯城から磐余(いわれ)一帯における諸宮を調査し、飛鳥時代を代表する遺跡群として発掘された。ここは奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(とかまやま;忍坂山;おさかやま)に挟まれた初瀬谷の入り口にあたる。その基本調査の結果、脇本から慈恩寺にかけての一帯が、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)と推定され、発掘調査が継続された。
 まず昭和56年から朝倉小学校校庭の調査が行われた。数次にわたる発掘によって、5~6世紀の建物や溝の遺構が朝倉小学校の校庭から見つかった。昭和59年の発掘調査では、灯明田地区で、下層から5世紀後半の宮殿遺構の一部が発掘され、それが雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と確認された。その上層からは7世紀後半のやはり大型建物の遺構が出土した。さらに灯明田地区の東北の苗田地区の発掘でも、その全域に5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。
 この発掘調査の成果が総合的に検討され、三輪山東南麓にある脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物と確認された。しかし私有地のため完全な調査ができないまま埋めもどされた。

 (5)倭政権と朝鮮半島 目次へ
 4世紀から5世紀にかけて倭政権は、邪馬台国の卑弥呼同様、朝鮮半島ルートを確保し続け、その政権の重要拠点とした。 近年における朝鮮半島南部の発掘調査は著しく、扶余軍守里の斉月里古墳・月松里造山古墳・金海(キメ)の大成洞古墳群・月城路古墳など多くの主要遺跡に倭系遺物が多数伴出している。日本列島と朝鮮半島南部との人的文化的交流と相互の交易の実態が明らかになっている。特に金海を中心にした加耶地域から倭系遺物の出土が目立ち、弥生時代に相当する倭系遺物の大半は、北九州産であったが、古墳時代になると畿内産が主流となる。
 金海の良洞里遺跡(りょうどうり)は、2~3世紀を中心とする墳墓群であるが、そこから出土する倭系遺物には、小型仿製鏡(ほうせいきょう)や中広形銅矛(どうほこ)など、弥生時代後期に北部九州で制作されたものが少なくない。
 同じ金海の大成洞古墳群や東(とんね)の福泉洞遺跡(ふくせんどう)など4世紀代の墳墓から出土した巴形銅器・碧玉製石製品・筒型銅器などの倭系遺物は、いずれも畿内のヤマトを中心に分布するものと同一系統であった。
 4世紀になると加耶の金海を中心にする地域との交流の主体が、ヤマトの勢力圏に代わったためとみられ、それは北九州の勢力を倭政権が権力的に支配統合したことが推測される。しかも朝鮮半島と日本列島との人的な交流は一段と濃密になる。古墳時代の列島で日常的に使われて土器といわれるのが土師器で、その系譜に連なる土器が、金海・釜山を中心に慶州(キヨンジユ)・馬山(マサン)などで出土している。
 土師器系土器は4世紀後半から5世紀前半の遺物として出土している。その土器形式は、畿内の布留式ないし、その系譜の布留系に限られ、しかも列島内における時代的な変遷を共有しつつも、その一方、朝鮮半島の軟式土器の器形や製作技術の影響もあり独自に発展進化させていた。
 朝鮮半島から日本列島への流入が強調されるが、倭人の方も少なからず朝鮮半島へ集団的に移住し定着してもいたようだ。彼らが製作していた軟式土器が、畿内の布留式系の系譜を引くものであれば、倭政権の影響下にあった畿内の出身者であり、しかも王権の意向が及んでいたとみられる。
 加耶に定着した日本から移住した子孫は、当地の軟式土器の系譜を引き継ぎながら独自の土師器系土器を生み出していった。 倭政権は加耶諸国と百済と軍事同盟関係にあったようで、半島には相当数の兵士が派遣され、その見返りが半島からの先進文物・技術者・知識者や鉄素材などの供与であった。
 342年、高句麗は前燕(337~370)に大敗した。その前燕は、鮮卑族の慕容部(ぼようぶ)が建国した。慕容(かい)のときに興り、昌黎郡棘城(きよくじょう;現在の遼寧省義県の西方)を拠点に西晋に従い、他の鮮卑部族と抗争していた。その子慕容(ぼくようこう)の時代、西晋が崩壊すると、その中原の地に南匈奴の単于の末裔である劉淵が前趙を建国する。それに対抗すべく燕王を称し、咸康3(337)年竜城(遼寧省朝陽市)を都とした。
 北九州の玄界灘の無人島・沖ノ島にある宗像神社(むなかた)が、航海神・宗像3女神を本格的に祀ったは、4世紀後半以降であった。その岩上祭祀で奉献された銅鏡・碧玉製腕飾(わんしょく)・滑石製祭具・武器・工具・勾玉・管玉などは、この当時、倭政権の影響下にあった北部九州の古墳の副葬品と共通するが、その質・量ともにはるかに勝り、その祭祀を主宰したのが、朝鮮半島への渡海の安寧を祈願した倭政権であったとみられている。

 (6)葛城氏滅亡 目次へ
 『宋書』順帝紀、昇明1(477)年「11月、遣使して貢物を献ずる。これより先、興(安康天皇)が死に、弟の武が立ち、持節使を遣わし、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した」
 安康天皇は皇后(中蒂姫命;なかしひめのみこと)の連れ子・眉輪王(まよわのおお)により暗殺された。そのため皇太子を指名することなく崩御した。この動乱に乗じ、大泊瀬幼武皇子(おおはつせわかたけのみこ)は、兄である八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を、『古事記』では小治田(おはりだ;奈良県明日香村)で生き埋めにした。次いでの同母兄弟の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王を、葛城円(かつらぎのつぶら)宅に追い込んで、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ;仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃し、11月に雄略天皇として即位する。
  葛城氏は、古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置く有力な古代在地の豪族である武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とみられていた。
 『万葉集』第2巻の始めに記される磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)は、5世紀前半、仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭(いんぎよう)と続く3天皇の母である。奈良盆地の西南にあたる葛城地方は、古代より倭政権には枢要な地方で、葛城氏の本拠地であった。
 高天原の実在地が葛城地方だとする説もある。その葛城氏は、葛城を本拠として、勢力を拡大してきた。その葛城一族を、雄略天皇は没落させ、平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣に、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)を大連に任じて、その軍事力を背景にしながら
杖刀人など地方の有力豪族の舎人集団を直属させるなどして専制王権を確立し、大王家の地位を不動にした。連(むらじ)の中でも、軍事を司り有力軍事氏族に成長した伴造出身の大伴氏と物部氏が大連となった。
 物部氏は河内の渋川郡(大阪府布施市・八尾市西部・大阪市東住吉区)あたりに、大伴氏は摂津の住吉から河内の南部に勢力を保有していた。

 (7)雄略天皇期の朝鮮半島情勢 目次へ
  「官爵」とは官職と爵位からなる称号で、438年、倭王珍(反正天皇)が授かった安東将軍・倭国王であれば、安東将軍が官職、倭国王が爵位となる。本来は中国の皇帝が臣下に王・公・侯などの爵位と采邑(さいゆう:領地)を賜与するのであるが、やがて周辺諸国の王たちとの外交関係にも適用し、皇帝が彼ら王に冊書(叙任の辞令)を賜い官爵を授与し朝貢関係を築くと、それを「柵封と称した。
 中華思想を、漢民族が古代から誇りとしていた漢民族中心主義の思想と通常言われている。雄略天皇が朝貢した南朝の宋を建国した劉裕は、漢の高祖劉邦の弟である楚の元王劉交の子孫を自称していた。 後漢末期の黄巾の乱の蜂起(184年)を契機に三国時代の戦乱が、西晋による中国再統一(280年)までの百年近く続き、その西晋の武帝が統一事業を完成させると突然堕落し、漁色にはしった。
 八王の乱以降の戦乱でも明らかなように、八王の東海王司馬越が自軍に鮮卑を、成都王司馬穎が匈奴など、諸王が、漢民族の著しい減少により、少数異民族の諸軍団を利用したため、多くの小数民族が中原に流入する事になった。
 五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、304年の匈奴によって建国された前趙の興起から、439年の鮮卑族の拓跋氏によって建てられた北魏による華北統一まで、五胡と称される匈奴・鮮卑・羯・・羌など、複数の民族が混在し制覇を競い、結果、16か国以上が建国された。中華思想でいう夷狄により、匈奴は前趙・夏・北涼を、鮮卑は前燕・後燕・南燕・南涼・西秦を、羯は後趙を、は前秦を建国した。
 中華という名称は「華夏」という古代名称から転じて来たものともいわれる。古代中国の呼称は夏、華、あるいは華夏(かか)と云はれていた。漢民族の発祥地が黄河流域で、国都も黄河の南北に建てたので、そこが国の中央となり「中原」や「中国」と呼ばれ、周辺の「蛮夷戎狄」の異民族とは、「中原」地域の遠近を表わすために用いられたとする。五胡十六国時代、その「中原」の地を支配したのが、「蛮夷戎狄」出自の皇帝であった。それでも中華世界の外周の民族を「蛮夷戎狄」として差別する中華思想は継承されていた。依然として、「蛮夷戎狄」を王者の徳により、中華世界の文化圏に取り込む王化思想は厳然として維持され、中国の皇帝に朝貢してくる「蛮夷戎狄」は、皇帝の徳を慕って来たと見なされた。朝貢する周辺国が多数であれば、中華世界を支配する「蛮夷戎狄」出身の皇帝にとって、その王朝の中国国内での権威を高めるとして歓迎されていた。
 倭国と朝鮮諸国との外交関係や朝鮮諸国相互の間、中国以外の東アジア諸国相互で、朝貢がなされたことはあったが、柵封の形式がとられたことはなかった。倭国にとって、柵封は複数ある対中国外交の一つの手段で、列島の君主で柵封されたのは、卑弥呼と倭の五王だけに過ぎない。7世紀から9世紀にかけての遣隋使・遣唐使でも朝貢の形式であっても柵封はされていない。
 倭の五王の権威が確立されまでは、中国王朝の権威を借りる必要があったが、それも倭王済の代までで、最後の倭王武は臣下の将軍号の除正(正式な任命)を要請していない。倭王武の代になると倭王権が強化され、独自の権威が備わると「治天下大王」という称号を自ら用い始め、柵封関係から離脱すると、聖徳太子により遣隋使が派遣されるまでの120年余り、中国との外交関係は長期わたって途絶する。
 438年、南朝の「宋書」には「倭王珍(反正天皇)の朝貢の遣使が、自ら使持節・都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称して、その除正をもとめるが、安東将軍・倭国王に任じられる。また倭王の臣下の倭隋ら13人に、平西(へいせい)・征虜(せいりょ)・冠軍(かんぐん)・輔国(ほこく)の将軍号の除正を求め認められた」
 宋朝は百済に対しても、その求めに応じて、王族や有力貴族に臣下への叙爵を何度か行っている。倭隋は「倭」の姓から倭王家の人とみられる。倭王珍の安東将軍は第三品である。倭隋や臣下がもらた平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍も同じ第三品であった。安東将軍の一級下が平西将軍、その三級下が征虜将軍、ついで冠軍将軍、輔国将軍と一級ずつ下がっていく。宋王朝から除正された官爵からみられるように倭王とその主だった臣下の間には、隔絶した身分差はなかったようだ。倭王は未だ連合政権の明主という地位に留まっていた。 『宋書』によれば、珍(反正天皇)が讃(履中天皇)の弟であり、興(安康天皇) が済(允恭天皇)の世子で、武(雄略天皇)は興の弟であることが知られる。
 462年に宗の孝武帝が興に下した詔には、「奕世(えきせい;代々)忠を載(かさ)ね、藩を外海に作(な)す・・・・」とあるように、倭王の王統は累代にわたって継承され、忠誠は継続していた。
 三韓は、1世紀から5世紀にかけて、朝鮮半島南部にいた種族と地域の呼称で、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓(慕韓)・弁韓・辰韓(秦韓)の3つに分かれていたという。朝鮮民族について最も古く,
かつ詳細に伝えた『三国志』魏志東夷伝によれば、3世紀後半頃朝鮮半島南部は、馬韓50余国・辰韓・弁辰(弁韓)がそれぞれ12国あり、部族が乱立する状態であった。
 4世紀には馬韓の地から百済が、辰韓から新羅が興起し国家を形成した、弁辰は依然として小国分立で「加耶」と呼ばれていた。朝鮮半島の三国時代の始まりであった。ただ百済や新羅にしても、その全域を統合するに至っていなかった。重要なことは、5世紀代になっても部分的に小国が残っていた事にある。しかも三国は激しく争い、新羅は他の2国に圧迫されていた。
 4世紀中頃には日本が弁韓に進出し、任那(みまな:加耶の一部)を支配した。倭王は倭本国以外に、この慕韓・秦韓・任那(倭王は金官国一国だけでなく加耶全体を差した)の領有と、それに百済と新羅地域の軍事権の承認を宋王朝に願った。それは高句麗支配地以外の半島南部の全域を含む軍事権の承認であった。『日本書紀』や『宋書』、『梁書』などでは『三国志』中にある倭人の領域が任那に、元の弁韓地域が加羅になったと記録している。任那は倭国の支配地域、加羅諸国は倭に従属した小国家群で、倭の支配機関が現地名を冠した国守や、地域全体に対する任那国守、任那日本府などを存続させていた。
 だが倭国が高句麗支配地以外の半島南部の全域を、現実支配しているわけではない、この時期の百済や新羅は独立した国家で、加耶の小国群も倭の支配下にあったわけではない。
 新羅は5世紀中頃に倭に従属して、その加勢を得て高句麗の駐留軍を全滅させた。高句麗の長寿王は南下政策を推進して475年に百済の首都・漢城(ソウル特別市)を陷落させた。北の高句麗の圧迫から逃れるように、百済は南下して統一された国の存在しない朝鮮半島南西部への進出を活発化させた。統合されて間もない新羅は、機に乗じ秋風嶺を越えて西方に進出するなど、半島情勢は大きく変化した。
 5世紀末に百済の南下と新羅の統合により、任那加羅のうち北部に位置する加羅地域への倭国の支配力が衰えると、加耶小国群に自衛の為の統合の機運が生じ、高霊地方の主体勢力だった半路国(または伴跛国)が主導して後期伽耶連盟を形成した。479年、南斉に朝貢して「輔国将軍・加羅王」に冊封されたのが、この大加羅国と考えられている。
 『宋書』孝武帝紀、倭国伝、大明6(462)年に「済(允恭天皇)が死に、世子の興(安康天皇)が遣使を以て貢献してきた。倭王の世子の興、奕世(えきせい;累代の倭王)忠を掲げ、外海に藩を作(な)す(海外で宗室の藩屏となっている)、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め(中国に貢物を納め)、新たに辺業(辺境を守る務め)を嗣ぐ、宜しく爵号を授け(柵封)、安東将軍、倭国王にすべきなり」。
 安東将軍などの将軍号は、本来「軍を将(ひきい)る」指揮官に与えられた官号であったが、次第に将軍号が増加すると、武官の身分の上下を表すようになった。「倭国王」は爵号で、倭国内の民生権を保有していることを示す。
倭王興は第20代安康天皇とみられる。安康天皇は在位3年で暗殺されており、推定没年は462年である。そのため倭王武は雄略天皇となる。
  『宋書』倭国伝「世祖の大明6(462)年、興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓7国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す。
 順帝の昇明2(478)年、使を遣わして上表す。(中略) 『窃(ひそ)かに自ら開府儀同三司(かいふぎどうさんし)を仮(仮称)し、その余(ほか)も咸(み)な仮授(仮の授与)として以て忠節を勧(はげ)む』と。
 詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に除す。」
  「使持節」とは、皇帝大権の賞罰権の委譲を証する節(節刀など)を授与された官号で、他の将軍達を指揮する上級の将軍には、その節が与えられて権限を行使した。同一の官号を称する中でも官爵の格の高さを示した。
 「都督」は、三国時代に諸州の軍権が民政から独立していき、都督が諸州諸軍事の長官として軍事を統轄した。多くは州の長官である刺史を兼ね、都督府を置いて府官を任じた。
  「開府儀同三司」とは、中国の後漢の時代、高級武官や皇帝の外戚などに、三司すなわち三公(太尉・司徒;しと・司空;しくう)と等しい待遇を与え「儀、三司に同じくす」と呼んだことに由来する名誉的な官号であったが、宋朝では、都督府も開設できた。南朝宋で「開府儀同三司」の官号を許された諸国王は、文帝劉義隆の6男の劉誕(りゅう たん;433年~ 459年)や高句麗の全盛期を築き上げた高璉(コウレン;広開土王の子;長寿王)など僅か4名しかいなかった。倭王武の武略天皇が、その叙任を願ったのも高句麗王と対抗する意識があったからでる。しかも、高句麗征伐の意志を、強硬に主張したのも、自国が高句麗と同等な国力ある事を、宋朝に印象づけたかったようだ。
 倭王武の堂々たる駢儷体(べんれいたい)「上表文」の漢文には「臣は下愚(かぐ;はなはだ愚か)であるが、忝くも後裔を先に残し、統べる所を駆率(くそつ;馬上して率いる)し、天極を崇め奉る(雄略が臣下を率い、天を極めた皇帝に帰属する)。百済を遙(へ)る道中、舫(もや)う船を修理・補強した。しかし高句麗は無道にも、周辺国を併呑しようとする野心がある。我国の辺隷(へんれい)を掠抄(りゃくしょう;かすめと取る)しようとし、虔劉(けんりゅう;無理に奪い殺す)をやめようとしない。毎年の貢献が滞り、良風を失った。朝貢する進路も通れたり、通れなかったりしている。
 臣の亡き父済(允恭天皇)を思えば、実にi宋朝への天路を塞ぐ仇なすものと怒り、弓を引く百万の兵で、義声を発し激昂し、大挙して高句麗を討とうとしたが、にわかに父と兄(安康天皇)が亡くなり、あと一歩のところで成就に至らなかった。喪に服する期間は、武器と甲冑は動かせず、休止ししたまま逸(はや)れない。喪が明けた今、軍備を整え、父と兄の志を継ぎ、義士と勇猛な軍隊が、文武に功(いさお)を尽くし、白刃にまみえても、再び危険を顧みようとしない。若し皇帝の德にによる恩恵をこうむれば、この強敵を摧(くじ)き、克(よ)く妨(さまた)げとなる難を靖(やす)んじれば、先王のように朝貢し忠誠を尽くします」と訴えている。
 「辺隷」とは、当時の倭国が百済を隷属国視していたことによる。 高句麗・百済・倭国が南朝宋から除正された将軍号は、高句麗王が征東大将軍・車騎大将軍、百済王が鎮東大将軍、倭国王の武は安東大将軍であった。宋朝の大将軍号は、いずれも第二品に格付けられる、最上位に車騎大将軍があり、次に征東大将軍などの東西南北を号する四征大将軍、次いで鎮東大将軍などの四鎮大将軍、次が安東大将軍などの四安大将軍があり、第三品に四征将軍⇒四鎮将軍⇒四安将軍と順位が下った。倭王が任じられた安東将軍・安東大将軍は、辺隷すると記す百済の王の鎮東大将軍はもとより、高句麗王の征東大将軍・車騎大将軍より更に格が下であった。
 宋朝にしてみれば大海の彼方の倭国より、南北朝時代に両属外交をしていた高句麗であっても、強国だけに、前秦崩壊後に独立し、華北を統一し、五胡十六国時代を終焉させた強国北魏の包囲網からは外せなかった。百済は472年に、高句麗が辺境を侵すので、北魏に朝貢し救援を要請していたが受諾されていない。だが、おおむね南朝とは友好関係にあった。
 倭王武の官爵の要求は、新たに認められた安東大将軍だけで、倭王武がもっとも望んだ都督諸軍事の管轄内に百済を含める事や、高句麗と同等の開府儀同三司の仮授も認められなかった。当時の朝鮮半島の情勢上、倭王武の外交戦略にみあった官爵が得られないと見通したとき、中国王朝との断交も辞さないと決断したようだ。
 『梁書』武帝紀によると、天監1(502)年「4月、車騎将軍・高麗王高雲、号を車騎大将軍に進めた。鎮東大将軍・百済王余大、号を征東大将軍に進めた。安西将軍・宕昌王梁弥頭、号を鎮西将軍に進めた。鎮東大将軍・倭王武、号を征東大将軍に進めた。鎮西将軍・河南王吐谷渾(とよくこん;tǔyùhún;青海一帯)休留代、号を征西将軍に進めた」

 (8)平群真鳥誅殺目次へ
   雄略天皇の死後、第3子の白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)・清寧天皇が即位した。清寧天皇は名のように生まれつき髪が白かった。『日本書記』には「生来白髪であるが、成人すると民を大切にし、大泊瀬天皇(雄略天皇)は、多くの皇子の中で特に霊異ありとみて、雄略22年、皇太子とした」とあり、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)が、雄略天皇に焼き殺される際に代償として奉った娘の葛城韓媛(かつらぎのからひめ)であった。葛城氏系の大王の再登場は、再び奈良盆地西南部の臣グループの復権を伴うものであった。
 武内宿禰の後裔と伝えられ、葛城氏とは同族となり、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ平群真鳥(まとり)が大臣となり、「大臣」を歴任して一族の興隆を極めると、仁賢天皇の崩御後、真鳥大臣は大王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにし、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられた小泊瀬稚鷦鷯太子(おはつせのわかさざきのひつぎのみこ;後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)が誅殺された。

 (9)高句麗と百済の台頭 目次へ
 日本列島は、氏族の形成どころか、中国・朝鮮半島同様、一応の種族的なまとまりも難しかった。 『日本書紀』では5世紀の豪族を、葛城・平群・和珥・吉備・上毛野などの氏族が登場するが、単にそれはその氏族の先祖を称していたと解しているが、雄略天皇の時代以前から、大陸から渡来し、大陸と陸続きであった旧石器時代に日本列島の混血種族が誕生し、弥生時代にも中国及び遼東半島・朝鮮半島の各種族が渡海し、日本列島に水耕稲作を普及させた。
 朝鮮半島でも、・扶余・漢人・倭人・靺鞨・契丹・匈奴が入り乱れていた。やがて中国でも、かつての漢民族が希薄となっていた。 吉林省長春市周辺からアムール河までを居住域とした、ツングース語系諸族の部族の国家名は扶余であった。古来、中国では天下の覇者になることを「中原に鹿を追う」と表現した。扶余とはツングース語の鹿(ブヨ)を漢字表記したといわれている。
 扶余は、満州のその松花江流域の平原で、農耕と牧畜を生業にし、一方、馬・珠玉・毛皮などを特産品として交易していた。扶余は、1世紀初頭から、王国として成立し、中国と外交関係を結ぶ。しかし北には鮮卑、南には高句麗と接し、3世紀末、鮮卑に侵略され国力は衰退して、494年、同族の高句麗に併呑された。やがて扶余の一族が南下し、百済の王族となる。この時代、既に、百済には楽浪・帯方遺民の中国系人士が少なからず移住していた。
 3世紀中葉の卑弥呼の時代以前から、後漢の光武帝が57年に奴国の王に賜綬した「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の刻字のある金印が、福岡県志賀島で出土したことからも明らかなように、古代から朝鮮半島を経由して、その関係は深く、相互に4世紀以降も大量に人と物が交流していた。
 卑弥呼没後間もなく、280年、中国を統一した晋は、その直後から武帝の堕落により大混乱となり、司馬氏同族間が争う「八王の乱」により帝国の実態がなくなるばかりか、後漢没落後の長い戦乱により、中原の漢民族は流民化し、4世紀に入ると華北は急速に衰える。その一方、流民が各地の豪族の隷属下に置かれ、地方勢力は、私民・私兵を抱え込み自立を強めた。
 後漢末以降、漢民族の流民化により、匈奴の多くが華北へ移住した。「八王の乱」の当事者諸王は北方の異民族、五胡の匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの遊牧民族を軍事力として導入した。その八王の乱に乗じて、304年、南匈奴の単于の末裔である劉淵が自立し漢王を称した。308年には帝位につき、309年1月には平陽(山西省南部;西側の陝西省との境には黄河が流れ、伝説上の五帝の一人堯の故郷とされる)に遷都した。劉淵の甥にあたる劉曜は、嘉平元(311)年6月に洛陽を陥落させ、晋の懐帝を捕虜とした。大略奪となり、晋の王公以下3万余人を虐殺した。8月、漢(後の前趙)の第4代皇帝劉粲(りゅう さん)の後継で長安を陥落させた。車騎大将軍・開府儀同三司・雍州牧となり、始平王から中山王に改封され、長安の鎮守となった。嘉平2(312)年4月には、その長安を奪い返された。その際、8万人を平陽に連行した。建元2(316)年11月、長安を攻めて初代皇帝武帝の孫にあたる愍帝(びんてい)を捕らえ降伏させ西晋を滅ぼした。その都長安は「八王の乱」に続く、五胡による「永嘉の乱」により、100戸余りしかないほど荒廃を極めていた。
 西晋4代皇帝愍帝は平陽に連行され、狩りの時の先導役とされ、宴会では杯を洗わさせられるなど屈辱的な処遇を受けた後、建興5(317)年12月に処刑された。劉曜は国号を漢から前趙に改めた。
 その4世紀、漢民族がほぼ不在となった中国北部に、つぎつぎと各種遊牧民が長城を越えて侵入し、様々な王朝を建国し、覇を競い滅んでいった。「五胡十六国(ごこじゅうろつこく)」の時代である。晋は316年に一度は滅ぶが、 晋の王族の一族が江南に逃れ、建康(けんこう;南京)に晋王朝を再建し「東晋」を建国した。
 西晋の没落は、朝鮮半島に大きな影響をあたえた。313年頃、高句麗は晋の半島支配の拠点となっていた楽浪・帯方両郡を攻め滅亡させた。中国の勢力を半島から駆逐したが、漢族のほとんどは、百済や加耶へ移住した。
だが晋の衰退後、モンゴール高原に拠っていた鮮卑族慕容部(ぼようぶ)が、朝鮮半島の付け根にあたる遼東・遼西に建国した前燕が盛大となり、高句麗と激突する。
 342年、高句麗は前燕に大敗し、翌年、高句麗王は前燕に臣従する。高句麗王の故国原王(ここくげんおう)は、この敗北の痛手を回復させるために、楽浪郡の故地である平壌を拠点として南進策を画した。これにより4世紀前半に馬韓の地に建国したばかりの百済と敵対する。百済の近肖古王(きんしょうこおう)は激し防戦し、371年には、太子貴須(きす)と共に高句麗の平壌城を激しく攻めた。迎え撃つ故国原王は、流れ矢に当たり戦死した。
 百済にとって大国の高句麗の南下策は亡国の危機で、隣接する加耶と通交するする倭国の軍事力に期待した。

 (10)石上神宮の七支刀 目次へ
 飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神であったとされる奈良県天理市の石上神宮は、「山の辺の道」の中間にあり、その神宮に伝来した七支刀(しちしとう)は、刀身から両側3箇所で鹿の角状に枝分かれしている鉄剣である。全長74.8cm、下から約3分の1のところで折損している。剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌されている。この七支刀は『日本書紀』に神功皇后摂政52年9月条に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたる。銘文の「支」は「枝」に通じ「七つに枝分かれした刀」という意味である。
 「52年秋9月丁卯(ひのとのう)朔丙子(ひのえね;9・10)、久(くてい)等が千熊長彦(ちくまのながひこ;倭国が半島に派遣していた)に従い来謁した。その時、七枝刀一口・七子鏡(ななつこのかがみ)一面と種々の重宝を献上した。その際、啓して『臣の国の西方に河があり、その源流にあたる谷那(こくな)の鉄山(黄海道谷山;応神朝の谷那は、全羅南道の谷城)より出ています。そこは遠く7日行ても及ばず、まさにこの鉄山の水を飲むことで、安んじてこの山の鉄を取ることができ、それにより(百済の)聖朝に永く奉ってきました』と申し上げた。すると百済王は孫の枕流王(とむるおう)に『今、我が通交している海東の貴国は、天啓による大地、その結果、その天恩により海の西側を割き我が国に賜った。このことからも、国の基を永く固めるため、汝らも善く興和に務め、土物(くにつもの)を揃えて奉貢することを絶ってはならない。それができれば、死んでも何の悔いも残らない』その後も、毎年の朝貢が続けられた」と語った。
 その3年後『日本書紀』は「神功皇后摂政55年、百済肖古王薨」と記す。 この『日本書紀』の記述は『百済記』を原本としている。『百済記』とは『百済新撰』・『百済本記』とともに『日本書紀』の編纂にかかせない文献資料で百済三書(くだらさんしょ)と略記される。いずれも百済の歴史を記録した歴史書で、現在には伝わっていない逸書であるが、その逸文が『日本書紀』にのみ引用された。
 百済三書の成立過程は判然としないが、当然、『日本書紀』成立の養老4(720)年以前に成立していたのは確かであるが、後世、『三国史記(さんごくしき)』が、高麗17代の仁宗の命を受けて金富軾(キム・プシク)らが作成した。朝鮮半島の三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までを記す紀伝体の歴史書である。それが朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。それは1,143年に執筆が開始され、1,145年完成した全50巻であるが、余りにも後代の編纂であった。
 井上光貞氏は、660年の百済滅亡に、当時交流の盛んだった倭が大量の亡命者を受け入れたことで百済の記録も日本にもたらされ、これらを元に当時の知識人によって百済三書が編纂された可能性を指摘した。この説に従うと、三書の成立は663年から720年の間となる。
 『日本書紀』では「百済本記」から、継体紀及び欽明紀の13項目の記事に18回引用されている。これは『書紀』中に、引用されている外国系の史書中、最多である。「百済本記」は『書紀』の編纂過程で、最も信頼された、重宝された文献であったようだ。
 「百済本記」「百済記」「百済新撰」の「百済三書」は、その内容から『日本書紀』編纂時に、日本の朝廷に官人として仕えていた亡命百済人が、立場上、その当時の編纂意向に迎合し、歴史的事実を改変した記事も少なくないとみられている。ただ『日本書紀』は、現代、盛んに行われている考古学的成果と殆ど矛盾していない程の最重要な史料として再確認されている。

  (11)高句麗の広開土王の南下策の影響目次へ
 古代の朝鮮半島の4世紀末から5世紀初頭にかけて、高句麗の広開土王が強力に展開した南下策は、半島を大規模な戦乱の時代へと突入させた。これ以降も半島で、しばしば大規模な戦乱が勃発するが、日本列島の考古学の成果を検証すると、この第一波からして、古代の渡来人は大規模な戦乱を避けて、集団で列島に来住している。それを受け入れる倭王政権も望んでいたようだ。
 その渡来人の多くは、王権の管轄下に置かれた。彼らの知識や技術を独占し王権に奉仕させた。それにより列島の生活文化を大きく改変させていった。その代表的なものが韓式土器であった。これには軟質土器と陶質土器とがあるが、倭の古墳時代の土器は土師器と須恵器に大別される。軟質土器は、ロクロや窯を用いず、酸素を十分供給した酸化炎で、1,000℃未満の熱で焼成した赤みを帯びた土器をいう。その基本的な窯業技術は、縄文土器・弥生土器・土師器に共通するものである。ただ列島の土師器にはなかった器種と器形があった。陶質土器は須恵器の祖型といわれ、ロクロで成形し、窖窯(あながま)で燃料を多めにして、高温の還元炎で焼成する土器である。これまでの列島にはない高度な技術を必要とする高級な土器あった。その半島からもちこまれ、やがて列島で制作された土器年代は、4世紀後半から5世紀末の古墳時代中期から後期初頭のものが最多となった。
 出土した韓式土器の分布は、大阪府が他を圧倒し、しかも河内地域に特に集中している。応神天皇朝とのかかわりが深いのではないだろうか。 倭政権は、邪馬台国同様、カラ伝来のヒトとモノの半島ルートを独占的に掌握することで列島支配の原動力としてきた。列島各地の有力首長は半島伝来の先進文物・必需物資を入手するためには、王権に服属し直接分与してもらうしか手立てがなかった。在地首長も、当初は王権との結びつきを権威とし、現実に先進文物を分与してもらうことで、その権力の明確な証としてきた。やがてカラのヒトとモノの伝来が繁くなると、有力首長層の要請により、次第にヒトが各地に拡散した。またその技術指導を受けた倭人も増え、5世紀以降、鉄素材を含め鉄製品や須恵器ばかりでなく、鍛冶・窯業及び最新の農具や土木灌漑技術も列島各地へ拡散していった。須恵器も通常の集落などに急速に普及した。それまでの素焼の土師器は、耐火性に優れ調理器に向いていたが、多孔質のため水が沁みやすい欠点があった。新たに登場した須恵器は緻密で堅牢のため液体貯蔵に適している。須恵器と土師器は用途によって使い分けられいく。
 『日本書紀』応神天皇には  「7年秋9月、高麗人・百済人・任那人・新羅人が共に来朝した。その時、武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じ、その諸韓人等を宰領して池を作らせた。それで以後、韓人池(からひとのいけ)と号した」
 その諸韓人等は灌漑土木に通じていた。 「8年春3月に、百済人が来朝した。百済記は『阿花王(あかおう)が立ったが貴国に礼を欠いたため、我が国の枕彌多禮(トムタレ)・南(ケンナム)・支侵(シシム)・谷那(コクナ)・東韓(トウカン)の地が奪われた』。そのため王子の直支(トキ)は天朝に使者を派遣し、先王の好みを永く留めようとした」。阿花王は朝鮮正史では阿王(アシンワン;在位392-405)にあたる。
 『日本書紀』によれば、応神天皇3年「(前略)この年に、百済の辰斯王が即位した。貴国の天皇に対して礼を逸した。それで紀角宿禰(このつののすくね)・羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)・石川宿禰(いしかわのすくね)・木菟宿禰(つくのすくね)を遣わし、その礼を欠いたありさまを詰責した。そのため、百済国は辰斯王を殺し謝罪した。紀角宿禰らは、都合よく阿花を王に立てて帰ってきた」。
 阿花は、第15代の枕流王(チムニュワン)の長男であったが、枕流王が在位2年にして385年11月に死去した。阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王(チンサワン)が第16代の王位を継いだ。392年に高句麗の広開土王が4万の兵を率いて侵略してくると、漢江以北の諸城はほとんど高句麗に奪われることとなった。辰斯王がその年の11月、百済の国臣に殺され、枕流王の太子だった阿莘王が第17代の王位についた。
 『日本書紀』に「応神20年秋9月、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿知使主(おちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が、自己の党類17県すべてを率いて来帰(渡来)した」とある。

 阿王は、即位の直前の392年10月に高句麗に奪われた関彌城(クァンミソン)は、百済北辺の要衝の地であるとして奪回しようとした。勇将であった真武(王妃の父)を左将に据えて、393年8月に、一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城作戦が功を奏し、しかも兵站が絶たれたため撤退することとなった。翌年にも高句麗と戦い敗れ、さらに396年には好太王により、漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗した。阿王は高句麗への服属を誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることとなった。服属を誓いながらも、倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとした。
 そのため自らのかつての欠礼を謝し、王子の直支(とき)を日本に遣わして関係を修復しようとした。その阿王は405年9月に在位14年にして死去した。

 (12)広開土王碑 目次へ
 広開土王(こうかいどおう;374~413…)は、広開土王碑文には、諡号を「国岡上広開土境平安好太王」と刻まれ、好太王とも永楽太王(えいらくたいおう)とも呼ばれる。高句麗がかつて敗れた前燕は、既に370年に滅び、その時代、青海(現在の青海省)周辺で遊牧していた民族(てい)の苻堅(ふけん)が、前秦を建国し覇権を握り、383年には、その苻堅が南北統一を目指し、112万と号する東晋討伐の軍を興す。しかし漢族将軍の裏切りなどもあり、大敗した。この「水の戦い(ひすいのたたかい)」以降、前秦の国内の諸部族が、後涼・西秦・後秦・北魏・西燕・後燕などの国々が独立し一気に没落していく。394年には西秦によって完全に滅ぼされた。
 後燕の始祖である慕容垂は前燕の皇族で、前燕の初代皇帝慕容皝の5男である。その将軍としての実績と名声が、叔父で太傅の慕容評と皇太后の可足渾氏に疎まれ、慕容垂は苻堅の下に亡命していた。「水の戦い」後、苻堅の子・苻丕と争いながら勢力を拡大し、河北一帯を支配した。394年8月には、前燕の継承権をめぐって抗争していた同族の西燕を滅ぼし、さらに東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げ、かつての前燕をも凌ぐ版図となった。
 慕容垂は、395年5月、皇太子の慕容宝に10万の兵を託し北魏を侵攻させた。その大軍に北魏の道武帝はオルドスまで撤退して対陣した。気候条件の悪化のため後燕軍は参合陂に後退、11月に天候の急変もあり北魏軍の奇襲を受けた後燕軍は「参合陂の戦い(さんごうはのたたかい)」で大敗し、逃げ延びたのは皇太子をはじめ2割ほどの兵士といわれ、降伏した4.5万人の兵は穴埋めにされた。後燕の壊滅的敗北のより、鮮卑6部族の一つ拓跋部の北魏が中原へ進出し、439年、華北を統一する。これより中国は南北朝時代に入る。
 こうした中国の情勢下、高句麗は西方からの脅威が薄らぎ、半島南下策を一層強力に進め、410年には東夫余を討ち滅ぼし版図を拡げ、広開土王の在位22年間で64城1,400村を獲得したと碑文にかかれている。
 広開土王碑は、鴨緑江(おうりょくこう;ヤールージャン)の北岸、中国吉林省集安に、息子の長寿王が414年に建てた。高さは6.34m,幅平均1.3~1.9mと偉容を誇り、高句麗の旧都・国内城(こくないじょう)の地に聳え立つ。付近には広開土王の陵墓と見られる大王陵があり、広開土王陵碑とも言われている。
 碑文には、391年に倭が渡海して百残(百済)・新羅など敗り倭の臣民とした、と読みとれる字や、倭軍と高句麗軍とが交戦した記載があった。4世紀から5世紀にかけては「謎の四世紀」と呼ばれ、史料に乏しい空白期で、外国の金石文ながら全部で1,800字ほどもあり、明治17(1,884)年に、参謀本部の砲兵大尉、実はスパイの酒匂景信(さこう かげあき)が、その拓本を日本へ持ち帰り、参謀本部でこの拓本の解読がなされた。 その後長く、碑文の改ざん説があったが、王権群など中国吉林省考古学研究所の詳細な調査により、改ざん説は否定され、むしろ酒匂景信の原本拓本が、最も史料的価値が高いとされている。
 日本では好太王というが、同名の高句麗王がほかに3名いて、広開土王と呼ぶことが多い。
  原本拓本は碑面に紙をあてて文字の輪郭を写し、その外側を墨で塗りつぶしたもので、風化によって読めなくなっている文字もある。辛卯(391)年条に倭の記事や干支年が、『三国史記』などと1年異なる。それでも史料価値は高く、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史、古代日朝関係史を知る上で、最重要史料となっている(東京国立博物館蔵)。
 碑文は3段から構成され、1段目は高句麗の開国伝承・建碑の由来、2段目に広開土王の業績、3段目に広開土王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。この碑文から、広開土王の時代に永楽という元号が用いられたことが知られた。
 碑文では広開土王の即位を辛卯年(391年)としており、文献資料(『三国史記』『三国遺事』では壬辰年(392年)とする)の紀年との間に1年のずれがあることが広く知られている。
 2段目の部分  百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡■破百残■■新羅以為臣民。
 「新羅・百残(百済)は、旧(もと)より(高句麗の)属民にして、由来(元来)、朝貢す。而(しか)るに、倭が辛卯の年(391年)よりこのかた、■(海)を渡り百残を破り、新羅を■■し、以て臣民と為す」と読める。
 以六年丙申、王躬率水軍、討伐残国
 「以て六年(396年)、広開土王自ら水軍を率い、倭の臣民たる百済を討伐」 このあとに、「残主(百済王)」が広開土王に跪(ひざまず)き、「奴客」となることを誓った、とある。
 『日本書紀』と同様『広開土王碑』にも半島との関わりに誇張があり、「高句麗の属民にして、由来朝貢す」・「倭が辛卯の年(391年)よりこのかた、■(海)を渡り百残を破り、新羅を■■し、以て臣民と為す」など、考古学的史料でも明らかなように、当時の倭と高句麗双方の実力から鑑みて、高句麗の勢力を半島南部にまで拡大したとする広開土王の偉業は、余りにも際立て過ぎている。
 多くの誇張はあるが、広開土王碑に永楽9(399)年、百済が誓約を破って倭と和通したとする。1,145年に成立し、現存する最古の朝鮮史書の『三国史記』によれば、397年、百済の阿王(あかおう)が倭国と友好を結ぶため、長男で太子の腆支(チョンジ;直支;トキ)を「質」として倭国に送った。「質」は「ムカハリ」と訓み、王の「身代り」というのが本来の意味で、通常、王族が選ばれた。
 『日本書紀』では「応神8(397)年春3月、百済人が来朝した。『百済記』には『阿花王(阿王)が立ったが貴国への礼がそぞろになったため、我が枕彌多禮(とむたれ)・及南(けんなぬ)・支侵(ししむ)・谷那(こくな)・東韓(とうかん)の地を奪われた。それで、遣王子直支を天朝に遣わし、先王の好を修めたい』と記す」
 百済が倭に質を送ったのは、広開土王碑が記すように、396年、高句麗の水軍に大敗し、高句麗に帰属した年である。百済は、一端、倭国との同盟を破棄したが、やがて再び倭国の軍事力を頼り、止むことのない高句麗の侵攻に対抗しようとして、太子を送ったのであった。
 一方、新羅も400年前後、王子美海(びかい;微叱許智;みしこち)を倭に人質として出している。後に毛麻利叱智(もまりしち;朴堤上)の奇計で新羅に逃れたことが、次の『日本書紀』に記されている。
 『日本書紀』の神功皇后の条「摂政5年春3月癸卯(みずのとのう)朔己酉(つちのとのとり;3.7)に、新羅王は禮斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(はらもち)等を遣わし朝貢した。それは先の人質の微叱許智伐旱(みしこちほつかん)を返してほしいためであった。誂叱許智伐旱は紿(あざむ)いて言う。使者の禮斯伐・毛麻利叱智等は、臣に告げて『我王は、無為に臣が久しく帰らないので、悉く妻子を没収し官奴としてしまった』と申します。どうか暫く本土へ帰って、その虚実を確かめたいと願います。皇太后は、これを聴(ゆる)されて、そのうえで葛城襲津彦を添えて遣わした。
 共に対馬に到着し海(さいのうみ;対馬の北端の鰐浦?)の水門(みなと)に泊まった。その時、新羅の使者の毛麻利叱智等が、秘かに船と水手を手配して、微叱旱岐を乗せて、新羅に逃れさせた。そこで蒭霊(くさひとかた)を作り、それを微叱許智の床に置いた。詳(いつわ)って病者を装い、襲津彦に告げて「微叱許智が、忽(たちまち)病になり死にそうです」という。襲津彦は、人を遣り病人を見に行かせた。既に欺かれたと知り新羅の使者三人を捕え、檻の中に入れて火を焚き殺してしまった。それから新羅に赴き、次に蹈鞴津(釜山の南、多大浦)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め取って帰ってきた。この時の俘人(とりこ)らは、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ;葛城市)など、およそ四つの邑の漢人(あやひと)等の始祖である」
 新羅王子美海の質の記述は、『三国史記』や『三国遺事』にもみられる。両書は、美海の兄・宝海(ほうかい)が、5世紀初めに高句麗に質として送られていると記す。
 このころの新羅は、領内に侵入した倭兵を高句麗の援軍を借りて掃討した。しかし倭の脅威は依然としてあり、王子美海を人質に出す代わりに、新羅への侵攻中止を願った。4世紀末から5世紀初めにかけて、新羅は倭国と高句麗へ、百済は倭国へ質を出していた。

 (13)広開土王による朝鮮半島動乱 目次へ
  『日本書紀』の「応神16(西暦400年前後)年春2月、王仁(わに)が来朝した。太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ;応神天皇の皇子で、仁徳天皇は異母兄にあたる)は、王仁を師とし、諸典籍を王仁に習い、通暁できないところはなかったという。王仁は、書首(ふみのおびと)らの始祖であった。
 この年、百済の阿花王が薨じた。天皇は、直支王(ときおう)を召していうには『汝は国帰って、王位を嗣ぎなさい』。そして東韓の地を賜い、その地に遣わした。東韓には、甘羅城(かむらのさし)・高難城(こうなんのさし)・爾林城(にりむのさし)がある。甘羅城は全羅北道咸悦、高難城は全羅南道谷城、爾林城は全羅北道堤郡那利城という説がある。
 8月、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅へ遣わした。精兵を授けて詔してた。『葛城襲津彦(かずらきのそつびこ)が久しく還らない。必ず新羅が阻び留めているようだ。汝等は急いで往って新羅を討ち、その道筋をあけよ』と仰せられた。それで木菟宿禰等は、精兵を進め、新羅との境で対陣した。新羅王は、驚いてその処罰に服し、ようやく弓月の人夫を率い、襲津彦と共に戻っていた」。

 太子とされた菟道稚郎子にとって、応神天皇の第4子の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)、後の第16代仁徳天皇は異母兄にあたる。応神天皇崩御後、互いに皇位を譲り合った。大鷦鷯尊は、『日本書紀』に「幼きより聡明にして叡智を深め、容姿も美麗であった。長ずるにつれ仁寛と慈恵(愛し恵む事)が備わった」と記されている。そのため菟道稚郎子は、大鷦鷯尊に皇位を譲るため諸々の画策した。そのため3年に及ぶiお互いの譲り合いとなり、大王が空位となった。遂に「太子は『我が兄王の志を奪うべきでないことを知っている。自分が生き長らえれば、天下を煩わす』と言われて自死された」。大鷦鷯尊は「哀哭し大声で泣き悲しみながら、菟道の山の上に葬った」とある。菟道となれば、京都府宇治市宇治塔川と考えられるが、それを裏付ける発掘実績はない。

 405年9月に阿王が亡くなると、いったんは腆支王(てんしおう;チョンジワン)の次弟の訓解(くんかい;フンネ)が政治をみて腆支王の帰国を待ったが、末弟の礼(せつれい、ソルレ)が訓解を殺して自ら王となった。倭国で阿王の死を聞いた腆支王は、哭泣するとともに帰国することを倭国に請願し、倭国の兵士と共に帰国した。国人は礼を殺して腆支王を迎え入れ、ここに即位がなった。

 『広開土王碑』に記された内容とは
  ① 辛卯の年の391年、倭がしばしば渡海し、半島の百残(百済)・新羅を臣民とした。
  ② 永楽5(395)年、無礼を働いてきた沿海州地方の稗麗(ひれい;沃祖地方)を、広開土王自ら軍を率いて討伐した。3部落、6,700集団を破り、牛・馬・羊の群、無数を捕獲した。
  ③ 永楽6(396)年、広開土王は、また自ら軍を率いて、倭の臣民となった百残を撃ち、漢江を渡り王城を攻めた。百残王の弟や大臣を人質にとった。
  ④ 永楽8(398)年、王は兵を粛慎に派遣し撃ち、朝貢させた。
  ⑤ 永楽9(399)年、百残が倭と和通したので、王は平壌にまで南下し百残に備えた。また倭に侵入された訴える新羅の救援を決定した。
  ⑥ 永楽10(400)年、王は新羅救援のため5万の高句麗軍を派遣し、新羅の王都・新羅城(金城;現慶州市)近辺にいた倭の軍勢を駆逐し、逃げる倭兵を追撃し任那加羅(金官国)の従抜城(じゅうばつじょう)を陥落させ、また安羅(アラ)を撃ったが、安羅人などに反撃されて北帰した。以後、新羅は高句麗に朝貢するようになった。
  倭国と金官・安羅などの加耶南部諸国が連合し高句麗と戦い退却させた。この時の戦いが、加耶南部の住民を列島へ大規模に移住させる契機となった。永楽10(400)年の半島の戦乱は、百済・新羅・加耶などの朝鮮半島南部に広汎な打撃となったはずが、その時代、列島に渡来した考古遺物の大半は加耶南部地域のもので、主戦場となった新羅や亡国の危機にある同盟国の百済の遺物は殆ど確認されていない。加耶とヤマトの人々相互の交流が、歴史的にも長く形成されてきており、加耶から集団的に移住することを可能にさせられたばかりか、ヤマト政権から厚遇されて迎えられていた。
  ⑦ 永楽14(404)年、倭の水軍が半島の西海岸沿いに北上し、帯方郡まで侵入してきたので、王は自ら軍勢を率いて迎撃した。倭に壊滅的な打撃を与えた。
  ⑧ 永楽17(407)年、王は5万の兵を派遣し、百残を撃った。
  ⑨ 永楽20(420)年、王は自ら率いて東扶余の国都にせまった。
   最後に王がおおよそ撃破したところは、城が64、村は1,400と記されていろ。広開土王は、南方の百済・倭、北西方の燕と厳しく対立しながら、朝鮮中央部から遼河に至る地域を確保した。息子の長寿王は、広開土王の勲功を書き残した。
  『日本書紀』の「応神天皇の条」に「20年秋9月、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖・阿知使主(おちのおみ)とその子都加使主(つかのおみ)が、自分の党類17県を率いて来帰(来朝;「帰」は本来、行く、嫁ぐの意ある)した」ある。記紀はともに、応神朝に渡来人の記事を集中さている。しかも代表的な渡来人となる倭漢・秦の両氏が応神朝に移住してきている。 倭漢は平安初期には、後漢霊帝の子孫などと漢室の後裔と系譜を仮託するが、倭漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族で、最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、後漢の先祖伝承を共有し次第にまとまっていった。
  西漢氏は、韓半島の加耶地域から5世紀末から6世紀前半に渡来してきた氏族で、河内氏・山背氏が有力氏族であった。西漢(かわちのあや)と呼ばれるように、河内を本拠にした物部氏と深い関係にあったようだ。
  西漢氏出自の河内氏は、『日本書紀』の「欽明2(541)年7月条」に「秋7月、百済は安羅(アラ)の日本府(やまとのみこともち)が新羅と通謀していると聞き、前部(ぜんほう;百済の貴族組織・五部のひとつ)奈率(なそつ;百済の官位)の鼻利莫古(びりまくこ)・奈率の宣文(せんもん)・中部奈率(ちゅうおうなそつ)の木刕?淳(もくらまいじゅん)・紀臣奈率(きのおみなそつ)彌麻沙(ままさ)等を遣わして来た。
 紀臣奈率は、かの紀臣が韓の婦人を娶って当地で産んだ子で、そのまま百済に留まり、官人となり奈率となった。未だその父は詳らかではない。他の皆も同様のようである。安羅に使いし新羅に行った任那の執事(加耶諸国の君子を旱岐;かんき;という。執事はその下で使える官人)を召来し、任那の再建を諮った。別に安羅の日本府に仕える河内直が新羅と通謀したので、激しく責め罵った。『百済本記』には、加不至費直(こうちのあたい)・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)らと記されるが未だ詳かではない」。河内氏には、半島にあって官人として仕えていた者が少なからずいたようだ。更に新羅からの圧力に加耶諸国は存亡の危機にあった。
 応神朝に渡来した倭漢直の祖阿知使主やその子の都加使主らが檜隈邑(ひのくま;奈良県高市郡明日香村南西部の古代地名)を本拠とし、その子孫が栄えて檜隈忌寸(いみき)と称される。忌寸は『日本書紀』に、天武 13 (684) 年に制定した八色の姓 (やくさのかばね) の第4位とされ、主として連であるが、直・造・首姓の国造や帰化系有力氏族に賜わった。
  雄略朝に、新来の渡来系の人々といわれる今来漢人(いまきのあやひと)もこの地に住むようになり、東漢(やまとのあや)は、飛鳥に近い檜隈を中心に勢力をひろげ、巨大な氏族として存続した。 「漢」は「アヤ」と読む。倭漢はその先祖を、「漢」王朝の後裔の系譜をかたるが、「漢」は「アヤ」と読むため、この氏族は加耶南部の「安羅(アラ)」出身が多く、「漢」を「安邪(アヤ)」と読み、「ヤ」と「ラ」「は朝鮮語では通用するので、その渡来人は「安羅」を「漢」として、倭国での氏族名としたようだ。
 先述したように代表的な渡来人となる秦氏も応神朝に移住してきている。後世、秦の始皇帝の裔ということで秦氏(はたうじ)を称するが、倭漢氏の詐称に倣い付会したようだ。 『日本書記』の「応神天皇の条」にある 「(前略) 応神14(403)年、この年、弓月君(ゆづきのきみ;秦氏の先祖とされる渡来人)が百済よりヤマトに来朝しました。そのため奏し『私は自国の、120県の民を治めています。その総べてが帰化いたします。それを新羅人がこれを阻み、皆が加羅国に留められています』と申し上げた。そのため葛城襲津彦(かずらきのそつびと)を遣わし、弓月の民を加羅から召された。然し、その後3年経つが襲津彦は戻らなかった」
 「応神16年8月、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と的戸田宿禰於加羅(いくはのとだのすくね)を遣わすにあたり、精兵を授けて、詔して『襲津彦は久しく還ってこない。必ず新羅の侵攻を阻み留められているはずだ。汝らは速やかに新羅を伐ち、その通路を開けよ』と仰せられました。こうして木菟宿禰等が、精兵を進め、新羅の境で対峙した。新羅の王は、この強硬策に恐れ驚きその罪に服した。漸く弓月の民を率いて、襲津彦が戻ってきた』と仰せられた。
 平安時代初期、弘仁6(815)年に、嵯峨天皇の勅により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の「左京諸蕃の条」には、「秦始皇帝の三世孫孝武王より出ずるなり。功満王は、帯仲彦天皇(仲哀天皇) 8年に来朝す」。 
 「太秦公宿祢(うずまさのきみ)の」の条では 「功満王は、帯仲彦天皇(仲哀天皇)8年に来朝した。融通王は、一に云う、弓月王は誉田天皇(応神天皇)14年、27県の百姓を率て来て帰化した。金・銀・玉・帛等の物を献上した。大鷦鷯天皇(仁徳天皇)の御世、127県の秦氏が、諸郡に分置された。それから養蚕をし織絹を貢献するようになった。
 天皇が詔で『秦王が糸・綿・絹・帛を献上するが、朕が服用すると柔軟で、肌膚(きふ)のような温もりがある』。それで波多の姓を賜った。後代には登呂志公(とろしのきみ)や秦酒公(はたのきみさけ)を賜り、大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の御世には、糸・綿・絹・帛を山のように積み上げて献上した。天皇が、これを喜び、賜号したのが禹都万佐(うづまさ;太秦)であった」

  (14)渡来人による竈とオンドルの導入目次へ
 渡来人はまた竪穴住居内に竈(かまど)という囲炉裏に代わる煮炊きの設備を持ち込んだ。もともと囲炉裏が、竪穴式住居の真ん中で、煮炊きや暖を取るための基本的な住居設備であった。それは竪穴式住居以前の伏屋式住居の時代から、人類の居住の在り方として不変であった。
 やがて、周囲を壁で囲み、正面に焚き口を設け、天井に煮炊き用の鍋・釜などを置く穴を設けた厨房施設を備える。京都府埋蔵文化財調査研究センターが2,009年9月17日、京都府の中央部から北西にあたる亀岡盆地内の南丹市八木町諸畑(もろはた)の大谷口遺跡で、古墳時代中期・5世紀前半の竪穴住居跡で竈跡2基が見つかったと発表した。その竈跡は、幅約1.5m、奥行き約1.8mと、幅約60㎝、奥行き約80㎝あった。大谷口遺跡の東約500mの諸畑遺跡と、西約800mの室橋遺跡でも、同時代の竈跡が出土し、当時、最先端の調理技術を持つ集団が、亀岡盆地に住んでいたことを改めて再確認ができた。周りから土師器の一種「布留式土器」の甕や高坏が見つかった。

 朝鮮半島から伝来した竈の登場は、近畿地方では5世紀前半とみられ、当時としては河内や大和地方では、最先端の設備・技術導入のため、倭政権との密接な交流を絶やさない一途な有力者の姿が垣間見られる。
 朝鮮半島においてはすでに三国時代から使用の痕跡が見られ、飛鳥時代の日本に渡来した高句麗や百済出身者はオンドルを備えた家に住んでいた。古墳時代後期には関東地方以西で広く認められるようになり、多くの竪穴住居の壁に接して竈が築かれるようになる。
 須恵器の生産に従事した渡来人は、この竈により、調理者が裸火による直接的な放射熱を浴びることなく、より安全でしかも高温の炎で調理するこが可能となり、調理時間を短縮させ、なにより調理方法に様々なバリエーションが工夫され、今日ある調理方法のほとんどは、この竈によって確立された。長胴の甕や把手の付いた鍋を竈の上に据え、さらには甕の上に甑(こしき)を重ねて蒸し器とする。
 土師器や、弥生式土器・縄文土器は黄褐色または赤褐色の土器で、整形された粘土素地を大気中の酸化焔で焼成されるため、多孔質で硬化の度合いが低い。須恵器は半密閉の竈の還元焔で、時間をかけて焼成され、陶器に近い硬度がある帯青灰色の土器であるため、竈による高温調理を可能にさせた。
 そこに朝鮮半島から竈という、煮炊きと蒸し物が専門だが、極めて効率的な設備が導入されたのである。それ故に、これは最近まで西日本地区の住居では標準的煮炊き設備として常設されていた。
 一方、東日本地区でも、その効率性のゆえ竈が広がったが、平安時代ごろになると再度囲炉裏が普及した。気候の寒冷な北陸や東日本では、煮炊きの効率よりも部屋全体を暖めることが優先されたようだ。

 オンドルの基本は、台所の竈で煮炊きしたときに発生する煙を床下に通し、それによって部屋全体をも暖める床暖設備である。床下に石を並べて煙道をつくり、その上に薄い板石をのせて泥で塗り固め、その上に油を浸み込ませた厚紙を貼り床とするものである。朝鮮半島のオンドル遺構としては、高句麗領域にあたる魯南里遺跡第2号住居址(慈江道時中郡;チャガンド・シジュン=グン)で発掘されている。紀元前1世紀頃とみられる。韓国南部地域では3~4 世紀代にカマドが普及するようである。
 日本同様に四季のある韓国だが、大陸性気候であるからシベリア方面から寒気が直接流入する。冬場の寒さは、12月~2月では最低気温が-10度以下になることもしばしば、乾燥した冷たい強風が猛威を振るう。緯度では、ソウルは新潟や福島と並ぶが、冬場の気候は北海道なみとなり、冬は零下が当たり前で、積雪も多い。韓国では冬の寒さを凌ぐ事が優先された。そのため開口部を低くし、また狭くして部屋の温度を逃がさないようにした。
 一見、台所で調理する際の排気を利用した暖房システムは極めて合理的でようだが、炊事を行わない時も暖房用として竈に薪をくべる必要がある。台所が無い別棟には、暖房目的の焚口を作る。また、暖房の必要が無い夏季では、オンドルに繋がらない夏専用の竈を別途設けて炊事する。しかも床下の殺菌・殺虫のため、半月に一度ほどオンドルに火を入れる必要があった。
 日本は列島であるため夏の多湿と猛暑が重なる、むしろその対策が優先された。出来るだけ開口部を多くして、更に床下の通気を考える。
 オンドルの発祥は漢時代の中国とも言われている。しかし紀元前4~3世紀の住居址から既に遺構が出土している。ロシア沿海州だけでなく、中国東北部さらには華北でもみられる。高句麗以降の朝鮮王朝時代を経て改良が重ねられたが、もっぱら一部上層階級の専用設備だった。『李朝実録』には、朝鮮王朝中期の王宮ですら、オンドルの設置は王の居処や一部の建物に限られていた。それが17世紀にオンドル奨励策がとられて一般住民の間にも急速に広がった。中国でも東北部に同様の仕組みがあり、ある程度南に行くと、全く家の作りが変わっている。オンドルは、手間が掛かる床暖設備である。そのため寒気に耐え難い地域に限定的に普及した。
 日本の住宅は約600mm程度の高床と、開口・開放面積を多く取る。窓の通風と日光の効能を重視する住居であるため、開口から流入する外気により、屋内の温度が直ち下がる。冬には温熱を逃がさない炬燵が有功であり、それが今日にいたっている。

 一方、木炭の普及も早かった。木炭は、低酸素のまま高温で焼く事で炭化した木材で、日本列島においては1万年前の頃から木炭が用いられていたと推定されている。原始的な焚火から、縄文時代の住居には、囲炉裏の原型である炉が既に恒久的な設備となっており、木炭が生活の中で重要な役割を果たしていた。木炭は煙が余り立たず、長時間の燃焼も可能で、食物を煮焼きし、体を暖め、夜の闇を照らす囲炉裏は、原始の生活の中でも重要な役割を果たしていた。
 弥生時代には鉄器づくりのために木炭がさかんに生産される。奈良時代には、大仏をつくるために大量の木炭が使われた。平安時代になると、用途別の木炭がつくられた。この時代には、山間部を中心に炭焼きが広く行われて商品化され、荘園などの年貢としても徴収された。
 古代では、木材を積み重ねて火をつけた後に土をかけて蒸し焼きにする伏炭法で作られた柔らかい和炭(にこずみ)、土や石で築いた炭窯で焼くか、硬質の木材(クヌギ・ナラ・カシ)を伏炭法で焼いた荒炭(あらずみ)、和炭・荒炭を二度焼きした炒炭(いりずみ)の3つがある。和炭は製鉄・冶金用に、荒炭・炒炭は暖房・調理用に用いられた。
 囲炉裏は、屋内に恒久的に設けられる炉の一種で、伝統的な日本の家屋において床を四角く切って開け灰を敷き詰め、薪や炭火などを熾すために設けられた一角のことである。主に暖房・調理目的に用いる。古来、北陸地方では、通常の住居では、あらゆる煮炊きが、囲炉裏で行なわれていた。竈が作られるのは昭和30年代が中心であった。温暖な西日本では夏季の囲炉裏の使用を嫌い、竈との使い分けが古くから行なわれていた。
 「囲炉裏」も『竪穴式住居』 の頃からあった。置炉としての火鉢は奈良時代に登場した。薪のように煙が出ないことから上流の武家や公家に使用されていたものが、江戸時代から明治にかけて庶民にも普及した。

 (15)5世紀初頭の技術革新 目次へ
 既に、箸墓古墳の濠から鐙(あぶみ)が出土しているが、5世紀初頭、朝鮮半島から馬と馬具、それに乗馬の風習が、本格的に流入された。同時に甲冑や鋲留めの技術、耳飾りや帯金具などの金属製品に金メッキを施す技術などが伝えられた。さらに鉄・鉄鉾(てつほこ)・胡(ころく)・鉄製農具なども、金海・釜山地域の金官国に、その系譜がたどれる先端的用材・用具が普及した。
 これらは渡来した支配層や技術者が持ち込んだもので、かつてのような単発的なレベルではなく、騎馬技術や鍛冶技術・金工技術・窯業ばかりでなく、文物も体系としてもたらされた。
 和歌山県和歌山市大谷の大谷古墳は、全長67mの前方後円墳で、後円部中央の埋葬施設から組合式の家形石棺が出土し、銅鏡や装身具・武器・武具、・馬具・農工具などが、石棺内外から副葬品として出土した。馬具は馬の頭部を守る鉄製の馬冑(かぶと)と多数の鉄小札(てつこざね)を綴じ合わせた馬甲(ばこう)が出土した。加耶では馬と人が重装備する甲冑(かっちゅう)が揃って出土するが、列島では、馬は軽装備であったようだ。
 5世紀前半に流入した多くの先進技術・文物により、列島は技術革新の時代を迎える。奈良県御所市元町字横井の石光山古墳群(せっこうざんこふんぐん)は、御所市市街地の西側に近接した東西長約300mの独立丘陵上にあって、4基の小型の前方後円墳がある。他の殆どは10~15m程度の円墳からなり、かつては100基ほどの群集墳があったとみられている。前方後円墳の被葬者を首長とした単一の氏族集団が、5世紀後半における前方後円墳の築造を契機として造営が開始されたようだ。
 近隣の葛城地域と関連する渡来系氏族が想定される。渡来人は列島の鍛造・窯業・農耕などの主要産業に革新的な技術開発をもたらし、その実績により倭政権は、その技術者集団の主導者を優遇した結果、石光山古墳群のような技術者集落が形成され、結果的に群集墳となり、やがて後期古墳時代の幕開けとなる。
 この古墳群の副葬品には、勾玉・管玉・金環などの装身具や、刀・鏃など鉄製品の武器・武具類、轡・鐙・杏葉(ぎょうよう)などの馬具類、須恵器、埴輪などであるが、斧・鋤・鎌など鉄製農工具類を副葬する傾向が高い。
 石光山古墳群では、鋤・鎌などの農耕具の先端に付けるU字形刃先や現代と同じ稲刈り鎌が出土している。いずれも半島伝来の農具であって、この時代に列島の農具の基本形が定まったといわれている。
 大阪市東南部から東大阪市・八尾市あたりの河内低地には、5世紀代の韓式土器が出土する遺跡が群集する。5世紀初頭に渡来した人々の集住地域であった。八尾市の久宝寺北遺跡・亀井遺跡などでは、大規模な堰や護岸施設が出土している。中国の殷代から既にみられる、大建造物や堤のの基礎工事に欠かせない版築(はんちく)に似た新工法が用いられていた。
 計画された建造物の範囲の底部を堀下げ、その底部に木材列を打ち込み、その上に草などを混ぜた土と粘土を交互に突き固めていく工法であった。王権の管轄下にあった渡来人が導入した最新の鉄製農具や土木灌漑技術により、ヤマトの王の直轄地であった河内地域で大規模な開拓が行われ、荒蕪地が耕地化されると同時に、単位あたりの収穫量も著増させ、新たな集落として展開していく。やがて先に渡来し、定住に成功した集落を頼り、拡大するばかりの半島の戦乱を忌避する次世代の渡来人が継続して渡海し、半島情勢と共に最新技術と文物を継続的にもたらし、5世紀の主要産業に革新的な発展を長期的に実現させていった。
 榛名山の東、伊香保よりにある群馬県高崎市箕郷町(みさとまち)下芝にある下芝谷ツ古墳(しもしばやつこふん)は、発掘当時、榛名山の側火山である二ツ岳の6世紀末の噴火にともなう火砕流により大部分が埋もれていた古墳であった。その形状は、列島と朝鮮半島双方の特徴を残す珍しい二段式の方墳であった。かなり急な傾斜をなし、下段の1辺が20m、高さ4m、上段は、1辺8.5m、高さ0.7m以上あった。下段上部の平坦面には、埴輪列がめぐる列島の古墳の特徴を備えていた。その上段が特異で、全体が、河原石を積む積石塚古墳のであった。その築造年代は5世紀末ごろと、ほぼ確定した。
 積石塚は香川県から徳島県の一部の地域と長野県から山梨県の一部の地域では、特に顕著であるが、列島各地でも広く確認されている。その特徴となる積石塚方式は、それまでの列島の古墳にはみられず、それでありながらも積石塚古墳の多数が、5世紀以降、広く点在するようになる。
 美ヶ原を源に松本市里山辺を流れる薄川(すすきがわ)流域で発掘された針塚古墳では、墳丘をめぐる周溝の中から、土師器と須恵器特有の鼠色をした高杯が出土した。須恵器は朝鮮半島から日本に流入した硬質土器の窯業技術をもとにしていた。しかも、その須恵器は大阪の古代須恵邑の須恵器窯・高蔵光明寺池208号の窯の製作方法による5世紀の後半に造られた須恵器であった。針塚古墳の墳頂に、わずか30cmの浅い長方形の堅穴式の石室があって、そこからは後漢代の銅鏡の一つである内行花文鏡が出土した。
 下芝谷ツ古墳の埋葬施設は、上段中央に堅穴式石室があり、f字鏡板付轡(fじかがみいたつきくつわ)や鞍の装飾具であった杏葉など、入念な作りの馬具類や挂甲類(けいこうるい)などが出土した。また豪華な金製装飾品などの副葬品類が共伴した。その中の金銅製の飾履は、金銅板を鋲(びょう)留めし、外装全体には垂れ飾りの歩揺(ほよう)とガラスがはめ込まれていた。さらに透かしとたがね彫りを施す贅を尽くした逸品であった。
 朝鮮半島で流行した飾履の技法で、当時の先端ともいえる製作技法が結集している。列島では、実用性に乏しいためか、今まで15例程しか発掘されていない。
 下芝谷ツ古墳と同じ箕郷町に隣接する集落遺跡がある。その下芝五反田遺跡では、朝鮮半島系の軟質甕が出土し渡来人の居住生活が垣間見られた。
 現在の群馬県を拠点とした豪族であった上毛野氏は、『日本書紀』に度々登場する。
 「応神天皇15年の秋8月、百済の王が、阿直岐(あちき)を遣わし良馬2匹を奉った。その阿直岐が経典をよく読んだので、太子の師とした。
 天皇が『そなたより優れた博士がいるのか』と問われた。
 『王仁(わに)の方が優れています』と申し上げた。それで、上毛野君の祖である荒田別と巫別(かんなきわけ)が百済に派遣され、王仁をお召になった」。翌16年、王仁が来朝した。 阿直岐は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖であり、王仁は書首(ふみのおびと)らの始祖となった。
 仁徳天皇53年「新羅が朝貢をしなくなった。夏5月、上毛野君の祖である竹葉瀬(たかはせ)を遣わし、新羅に貢調しない理由を問責し質すことになった。その途中で白鹿を獲たため、一旦還り仁徳天皇に献上し再度赴いた。後に、弟の田道(たぢ)も新羅を討ったという」。
 上毛野氏は5世紀には、倭政権の要請により何度か将軍として半島に派遣されていた。その度ごとに半島から先進技術者を連れ帰り、度重なる王権への半島戦役の奉仕の見返りとしたようだ。大王の承諾により、その渡来人を上毛野地方に住まわせた。その技術により上毛野氏は、在地の開発と技術革新を進展させ、北関東の経済基盤を優位に確立した。同様のことが、河内・大和はもとより、葛城・吉備・紀などでの主要豪族でも行われていた。
 
  (16)5世紀初頭、加耶からの渡来人 目次へ
 400年前後、王子美海(びかい;微叱許智;みしこち)を倭に人質として出している。後に毛麻利叱智(もまりしち;朴堤上)の奇計で新羅に逃れたことが、次の『日本書紀』に記されている。
 前述した『日本書紀』の神功皇后の条にあるが、新羅が王子美海を倭に人質として送っていることが記されるため、400年前後の年代であったはずだ。「(前略)葛城襲津彦を添えて遣わした。共に対馬に到着し海の水門に泊まった。その時、新羅の使者の毛麻利叱智等が、秘かに船と水手を手配して、微叱旱岐を乗せて、新羅に逃れさせた。そこで蒭霊(くさひとかた)を作り、それを微叱許智の床に置いた。詳(いつわ)って病者を装い、襲津彦に告げて『微叱許智が、忽(たちまち)病になり死にそうです』という。襲津彦は、人を遣り病人を見に行かせた。既に欺かれたと知り新羅の使者三人を捕え、檻の中に入れて火を焚き殺してしまった。それから新羅に赴き、次に蹈鞴津(釜山の南、多大浦)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め取って帰ってきた。この時の俘人(とりこ)らは、今の桑原・佐糜(さび)・高宮・忍海(おしぬみ;葛城市)など、およそ四つの邑の漢人(あやひと)等の始祖である」
 葛城襲津彦が俘人らを連れてきたにしても、その多くは先端技術者一族であったはずだ。しかも葛城氏の勢力圏に抱えたようだ。 5世紀初頭、列島に大規模の技術革新を到来させたが、先進物や技術・知識は、終始一貫して倭政権が主導した。卑弥呼の邪馬台国を彷彿させる政策を継承している。
 遺物のなかでも土器は、日本の縄文時代以来、その地域性が顕著であるのが特徴で、列島でも5世紀前半までの陶質土器の多くの生産地が、洛東江(ナクトンガン)の下流域の加耶南部に偏っている。しかも加耶南部諸地域の複数の工房集団による製作とみられている。
 堺市の大庭寺遺跡(おばでらいせき)出土の初期の須恵器は、釜山・金海を中心に昌原(チャンウォン;卓淳国)・咸安(ハマン;安羅国)など、おおむね金海・釜山地域の金官国圏にその系譜がたどれる。4世紀前半、ヤマトの人々が集団で渡航した加耶南部であったが、高句麗の広開土王の南下策により、4世紀末になって今度はその地域の住民が、少なからず集団で日本列島に渡って来るという、逆の流れが起こったというをことになる。

 朝鮮の歴史では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していた時代を三国時代と呼び、それ以前の馬韓や辰韓、弁韓(弁辰)地方に小国が分立していた時代を三韓時代あるいは原三国時代と呼んでいる。
 武帝(司馬炎)にその才能を買われた陳寿(ちんじゅ;233~297年)は、その西晋時代に『三国志』を編纂した。その中の「魏書」東夷伝弁辰の条に、「国(弁韓)鉄を出す。韓・濊・倭は、みな従(ほしいままに)これを取る。諸(もろもろ)の市買(市場での売買)にみな鉄を用い、それは中国の銭を用いるが如し」という鉄に関する記事がのる。日本列島の倭人たちは、この時代、鍛造の技術はあったが、製錬ができず、鉄鋌を求めて弁韓の人々と交易していた。
 朝鮮半島南部の三韓から三国時代の製鉄遺構は、弁韓の地である洛東江流域から辰韓の地である慶州の周辺で見つかっている。年代的には、現在の金海(キメ)市周辺が最も早く、一帯の遺跡から鉄鋌にいたる先行形態である板状鉄斧が出土している。この地域で鉄生産が始まったのは紀元前1世紀であるとされているが、考古学的には、紀元前4世紀まで遡る。
 鉄器文化は、加耶を代表する文化であり、その最も代表的なものが、鉄素材である鉄鋌と原初的な板状鉄斧である。
 加耶地域での鉄生産の始まりも紀元前1世紀とされているが、日本列島で発掘された最も古い鉄器は、縄文時代晩期、つまり紀元前4~3世紀のもので、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址などから、稲作の始まりを裏付ける土器群や石器と共伴した。それは鍛造された板状鉄斧の頭部であった。日本列島では、稲作農耕の始まった当初から、鉄器と石器が共用されていた。稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示する。
 弥生時代の中期から後期にかけての鉄剣や鉄矛の殆どは、朝鮮半島からの舶載品だろうとみられている。弥生時代の後期、すなわち紀元1世紀以降になると、列島でも鉄器を作る鍛造の技術が発達して、農具や工具を作り出せるようになる。しかし、鉄を精錬する技術は未発達で、鉄または鉄素材は弁韓地方との交易によって入手していた。

 『三国志』「魏書」東夷伝倭人条には、さらに注目すべき記述がある。邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨していた3世紀前半、朝鮮半島の南岸に狗邪韓国(くやかんこく)という国があったという。
 「(帯方)郡より倭に至るに、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其の北岸の狗邪韓国に到る。
 七千余里。始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国に至る」。
 同じ『三国志』「魏書」東夷伝韓条では「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」とし、韓と倭は接して陸続きである、と記述している。
 「魏志韓伝」には弁辰(弁韓)十二国に狗邪国が載る。狗邪は加耶(かや)の意で現在の慶尚南道金海・釜山の地とみられている。帯方郡から邪馬台国へ赴くルート上にあり、現在の金海地方を支配した金官国の前身であった。陳寿など当時の西晋の人々は、狗邪韓国が朝鮮半島南部の金海周辺まで進出していた邪馬台国の北端と認識していた。邪馬台国の勢力は、既に朝鮮半島南岸にまで及んでいたようだ。

 近年の金海を中心とした加耶地域の発掘調査により、当時の倭と半島の興味深い関係が明らかになってきた。
 現在の金海市近辺は加耶の故地である。加耶の遺跡としては、慶尚南道の金海良洞里遺跡(キメヤンドンニ)・金海大成洞遺跡(キメテソンドン)・東莱福泉洞遺跡(トンネポクチョンドン)などが知られている。
 金海良洞里遺跡は、2~3世紀を中心とした墳墓群である。木棺墓など弁韓時代の墓39基と同時に木槨墓・石槨墓などが出土した。三国時代に作られた木槨墓・石槨墓は、丘陵上に造成されたおり、支配者層の墳墓であることが確実視されている。
 この遺跡から出土した倭系遺物には、小型仿製鏡や中広形銅矛など、弥生後期に、北部九州で制作された輸入品が少なくない。特に、儀礼用大型銅矛・変形細形銅剣など北部九州で盛行していた儀礼用青銅器の代表例である。良洞里遺跡の90号木槨墓と200号木槨墓から大型銅矛、427号木槨墓からは変形細形銅剣が出土した。55号木棺墓・162号木槨墓・427号木棺墓からは、漢鏡を模倣した内行花文型倣製鏡が出土した。当時、北部九州で盛行していた銅鏡であった。

 金海大成洞遺跡群は、標高22.6mの「ウェッコジ」と呼ばれる丘陵を中心に墳墓が築造されている。この遺跡群は慶星大学博物館により1990年から1992年まで3度にわたる発掘調査が行われた。その結果、加耶支配者集団の共用墓地であったことが判明した。
 調査された墓は全て合わせて136基で、種類は木棺墓・木槨墓・甕棺墓・石槨墓・橫穴橫口式の石室墓で、その中でも木棺墓が主流といえる。その多くは、丘陵の斜面にバラバラに埋葬され、墓域すら明確に分離されていなかった。
 だが、木槨墓の段階になると、墓域は平地から丘陵に移り、支配者層の墓は、自らが治めた領域を俯瞰する最も立地条件のよい稜線部に築造された。さらに、支配者層の墓は、被支配者層のそれとは比べものにならないほど王墓級に大型化し、副葬品埋納の専用施設を持つ墳墓まで登場してくる。
 丘陵の稜線に形成された大型の木槨墓は、埋葬主体部の大きさと副葬された遺物の量と質の豊富さから見て、3世紀後半~5世紀前半にかけて形成された金官加耶支配者たちの墓であると推測された。特にこの遺跡の大型木槨墓の調査により加耶の成立と衰退の過程が考古学的解明された。
 3世紀末に、初めて人と馬が殉葬され、武器を副葬する習慣とともに、騎馬用の鉄製の鎧と兜や、北方遊牧民族的な墓祭・馬具類・陶質土器・青銅製甕である銅復など北方遊牧民族の習慣が反映された遺物が多く出土した。それと同時に、筒形銅器・巴形銅器・各種碧玉製の石製品など古代日本との交流を証明する遺物が伴出している。 4世紀前半頃になると、金海大成洞遺跡群では、倭国から輸入された青銅器や石製品が、威信財として副葬さる例が多くなる。大成洞遺跡13号墓から巴形銅器・石鏃類、18号墓からは紡錘車形石製品など、倭政権の王墓に副葬されるほどの先端技術を誇示する威信財であった。大成洞遺跡群では、筒形銅器の出土例が多い。筒形銅器も倭政権の王墓から発掘例が多い威信財であった。
 4世紀前半頃になると倭国から加耶へ輸入される威信財の多くが、倭中央の畿内との関連が深まる。その交易ルートは、倭畿内の河内の津から瀬戸内海の航海を経て、北部九州・壱岐・沖ノ島・対馬を経由する。
 東莱福泉洞遺跡群は、釜山の東莱区にある標高50mから60mの大砲山丘陵上に散在している。1969年に最初の発掘調査から6次にわたる発掘調査が続けられ、現在までに170基の遺構が見つかっている。その結果、三韓時代から三国時代にかけての金官伽耶を代表する古墳群であることが確認された。副槨がある木槨墓20基・木槨墓73基・副槨がある竪穴式石槨墓8基・竪穴式石槨墓54基がある。
 調査研究の結果、この古墳群は、三韓時代から三国時代にかけての、加耶を代表する史跡であった。出土した遺物は10,000余点に上り、土器類が3,000余点、鉄器類を含んだ金属類が 3,000余点、ガラス玉を含んだ裝身具4,000余点などのほか、人骨が5体分・馬の歯など動物の骨7点などであるが、特に鉄製遺物が多いのが特徴であった。
 1969年出土した、馬冑(ばちゅう)と呼ばれる馬の顔に付ける冑は、日本でも和歌山県の大谷古墳、埼玉県将軍山古墳の2例しかなく、その形式と材質は同じではないかと指摘されている。馬冑は中国大陸・朝鮮半島においても出土例は極めて少なく、おそらく常習の用具として用いられていたはずの高句麗であっても、未だ出土していない。騎乗文化の源流地される中国東北地方においても、現在のところ「朝陽十二台郷磚廠88M1号墳」出土の馬冑1点が報告あるのみである。
 これらの遺跡の発掘調査の成果により、三韓時代から三国時代へと変遷したのが、3世紀中葉から末頃だったことが、考古学的に明らかになった。260頃、邪馬台国の卑弥呼が死んだ年代と重なっていた。狗邪韓国(くやかんこく)があった地は、現在の金海市近辺の金官国の故地にあった。
 弁韓すなわち狗邪韓国の時代に行われていた木棺墓は、支配者の墓も一般大衆の墓も、大きさはほぼ同じで、いずれの墓も墓域が区別されておらず、平地に互いに混在していた。せいぜい支配者と被支配者の副葬品に質の格差が認められた程度であった。加耶の時代になると木槨墓に変わり、木槨墓からは騎乗用の甲冑・馬具類・各種の鉄製武器類が大量に埋葬されるようになった。また、木槨墓からは殉葬の風習も確認されていて、この時代には比較的大規模な征服戦争が行われたことが想像される。
 鉄鋌の先行形態である板状鉄斧が、木棺墓からも見つかっている。3世紀中葉以降の木槨墓では、大型の板状鉄斧や鉄鋌が大量に埋納されるようになり、4世紀中葉には板状鉄斧から鉄鋌に完全に移り変わったとされている。
 こうした鉄器文化を基盤に、3世紀後半から3世紀末頃までに建国された加耶をはじめとする加耶諸国は、4世紀前半頃には倭畿内が威信財として誇る文物が最盛期を迎えた。たとえば、金海大成洞遺跡からは4世紀のものとされる騎乗用の甲冑や馬具が見つかっている。
 金官加耶が既に4世紀には、騎馬軍団をもっていたことを伺わせ、軍事的色彩の濃い政治組織や社会組織を備えた国家だった。

 加耶領内の遺跡でもう一つ特徴的なことは、筒形銅器・巴形銅器・碧玉製紡錘車形石製品、碧玉製の各種石鏃、碧玉製の玉杖といった古代日本に関係する出土品がかなり多い点である。これらの品々は、当時の加耶が日本列島の倭と活発な交流を重ねた証拠とされている。当時の倭国は加耶との交流によって製錬された鉄素材を入手していた。しかし、こうした交流は民間レベルで行われたのではなく、両国の有力首長レベルで行われていた。倭は交易品として首長クラスの品々を半島にもたらした。それが儀式などに使用される特異な日本系遺物だった。
 興味深いのは、金海大成洞遺跡では、列島の首長墓から出土品する威信財とみられる筒形銅器が多く出土している。それにより、近畿地方と深く関わっている証左となった。対して、金海良洞里遺跡から出土するものは、北九州を中心とする弥生時代後期のものである。つまり、両遺跡からの出土品には、時代と系譜に違いがある。
このことにより、狗邪韓国時代は倭との交渉は、北九州が窓口であったが、4世紀前半頃になると、倭政権との交流が深まり、その畿内から加耶へ輸出される威信財が増加する。加耶の 首長墓に倭系譜の威信財が副葬されるようになった。
 4世紀頃、倭の畿内から金官国への航海は、瀬戸内海・北部九州・壱岐または沖ノ島・対馬を経由した。瀬戸内海航路の起点である難波津があり、津国(つのくに)と呼ばれた。和銅6(713)年の諸国郡郷名著好字令(好字二字令)により摂津国と改称された。摂津の国名は、津(港)を摂(管掌)する意味である。5世紀、河内湖に難波津があり、5世紀後半には、上野台地上には大陸との交易品を保管する大倉庫群が並んでいた。
 その河内の八尾市にある九宝寺遺跡から、4世紀初頭の船首・船尾・舷側の板材などを合わせて造る準構造船の一部の船材が出土した。大阪府文化財センターに復元された準構造船があり、その全長は10m以上となった。
 3世紀後半に築造された墳長139mある前方後円墳、天理市の東殿塚古墳では、円筒埴輪に船の線刻画が描かれていた。三重県松阪市宝塚町から光町にまたがる5世紀初頭の前方後円墳である宝塚古墳から、全長140cmある船形埴輪が出土している。大阪府長原高廻り1・2号墳からは、それぞれ形が異なる船形埴輪が出土した。その4世紀末葉の高廻り2号墳から出土した埴輪は、船底に丸太の刳りぬき材を、舷側に板材を用いた凖構造船を模していた。船首と船尾はワニが口を開いたように二段構造で、 船体中央部の両舷側には、櫂を掛ける突起が4対みられることから、8人以上で操船する大型の船であることがわかる。これらのことから3~5世紀頃の倭の船は、櫂で漕ぐ凖構造船であった事が明らかになった。そのため水主の休息と飲食の補給のため、航海中に、瀬戸内海の多くの港に停泊しながら博多津に到着したとみられる。

 広開土王碑文に「永楽10(400)年、王は新羅救援のため5万の高句麗軍を派遣し、新羅の王都・新羅城(金城;現慶州市)近辺にいた倭の軍勢を駆逐し、逃げる倭兵を追撃し任那加羅(金官国)の従抜城(じゅうばつじょう)を陥落させ、また安羅(アラ)を撃ったが、安羅人などに反撃されて北帰した。以後、新羅は高句麗に朝貢するようになった」とある。
 この時、倭国と金官・安羅などの加耶南部諸国が連合し高句麗と戦い退却させたが、この時の戦いが、加耶南部の住民を列島へ大規模に移住させる契機となった。永楽10(400)年の半島の戦乱は、百済・新羅・加耶などの朝鮮半島南部に広汎な打撃となったはずだが、その時代、列島に渡来した考古遺物の大半は加耶南部地域のもので、主戦場となった新羅や亡国の危機にある同盟国の百済の遺物は殆ど確認されていない。加耶とヤマトの人々相互の交流が、深く歴史的にも長く継続されたため、加耶から集団的に移住することを可能にさせたばかりか、ヤマト政権から厚遇されて迎えられた。
 5世紀初頭の広開土王による加耶への侵攻を阻んだとはいえ相当な打撃となり、北部九州の博多津から朝鮮半島東南部をつなぐ外海ルートが維持できなくなったようだ。すると加耶から得られた製錬済み鉄鋌の輸入に支障を来した。倭政権は、その打開策として百済との外交ルートを強化した。
 4世紀末葉から本格化する広開土王の南下策は、新興の百済・新羅・加耶諸国と倭政権を巻き込む朝鮮半島における最初の動乱期となる。
 405年、百済で阿莘王(阿花王)が没すると王位継承争いが生じる。応神天皇は、直支王(ときおう)を召していうには『汝は国に帰って、王位を嗣ぎなさい』。そして東韓の地を賜い、その地に遣わした。東韓には、甘羅城(かむらのさし)・高難城(こうなんのさし)・爾林城(にりむのさし)がある。甘羅城は全羅北道咸悦、高難城は全羅南道谷城、爾林城は全羅北道堤郡那利城という説がある。
 高句麗による侵攻が、百済・新羅などによる支援要請となり、しばしば倭政権による半島への出兵が繰り返され、倭政権は、半島諸国との外交関係を朝貢とみなし、やがて倭の五王が半島南部の軍政権を南朝の宋に主張し、「任那」や百済を大王家の「官家(みやけ))」と主張するようになる。官家とは大王家の直轄領と解される。

 中原の地では、漢(前趙)の劉淵は既に先年死去していたが、その息子劉聡は、311年6月に、劉曜と王弥そして石勒に大挙して西晋の首都洛陽を攻めさせた。洛陽は略奪暴行の果て破壊され、晋の王公以下3万余人が殺害された。懐帝は玉璽と共に前趙の都平陽に拉致され捕虜となった。ついで同年8月、劉曜は長安を陥落させたが、翌念、嘉平2(312)年4月、長安を奪い返された。その際、劉曜は8万人を、強制的に平陽へ連行した。西晋は匈奴出自の国家に、事実上滅ぼされた。
 316年、西晋の諸王の援軍もなく、前趙により長安が陥落して愍帝は降伏した。平陽に拉致された。こうして西晋は完全に滅亡した。その後、華北の地は五胡と呼ばれる中原周辺の異民族が入れ替わり立ち替わり短命王朝を建て、乱れに乱れた五胡十六国時代へと入っていく。その影響は既に朝鮮半島に現れていた。漢民族の植民地だった楽浪郡と帯方郡は、後ろ盾を失って孤立無援の状態に陥った。この機を捉えて、高句麗は313年に楽浪郡を、その翌年には帯方郡をそれぞれ占領した。
 こうして、漢代以来数百年におよぶ中国漢人王朝による朝鮮支配は終わり、朝鮮半島南部の三韓と呼ばれた時代も終止符を打った。
 まず、朝鮮半島の北部は、高句麗が制覇するようになった。一方、南部では、馬韓54か国の中の伯済が、百済という国名で馬韓の地方をほぼ統一した。辰韓12カ国はその中の斯廬(しろ)という国が、ほぼ統一して新羅を建国した。三国時代の到来である。
 ところが、弁韓と呼ばれていた洛東江流域の諸地域だけは、百済や新羅のような統一国家が形成されずに小国群が分立していた。後世に加耶諸国と総称される国々である。加耶諸国が小国分立の状態だった理由として、大国に隣接せず、山地・丘陵・沼沢が多い地理的条件などが指摘されている。小さな盆地とか洛東江の支流に形成された平野を単位に、それぞれの小国が存続した。
 加耶諸国の「加耶」とは、朝鮮の三国時代、百済や新羅に併呑されずに存立し続けた朝鮮半島南部の諸小国群の汎称である。古書の中では伽揶(かや)、伽耶(かや)、加羅(から)、加良(から)、駕洛(から)、任那(みまな)などさまざまな別名で表記されている。朝鮮語ではヤとラが通用するため、カヤであろうとカラであろうと同じとされている。 『三国志』「魏書」東夷伝倭人条に「(帯方)郡より倭に至るに、海岸に循(したが)ひて水行し、韓国を歴(へ)、乍(あるい)は南し乍(あるい)は東し、其の北岸の狗邪韓国に到る。
  七千余里。始めて一海を度(わた)ること、千余里にして対馬国に至る」とある。

 3世紀、邪馬台国までの里程記述に、半島から列島への渡航地として、狗邪韓国という国が記される。この国が半島南部の大河、洛東江河口の右岸に所在した、後の金官国(慶尚南道金海市付近)であった。金官国は、または「駕洛国(からこく)」とも「金官加羅」ともいう。「カラ」とは、本来は金官国の固有名であった。やがて「韓」と表記し、朝鮮の総称となった。
 金官国は洛東江河口の良港であり、古来より列島との交流の拠点であった。倭政権が誕生すると「任那」と称し、大陸外交の機関を置いた。やがて4世紀代から5世紀前半にかけて金官国の全盛期となり、加耶諸国の最有力国となる。すると金官加羅の固有名であった「カラ」が加耶諸国の汎称となった。5世紀後半、倭国ともっとも緊密であった金官国が衰退すると、代わって北の慶尚北道高霊の伴跛国(はへこく)が有力となる。伴跛国を「大加耶」と呼ぶようになる。
  「加耶」は、本来、朝鮮半島南部の慶尚南道を中心に、その周辺もある程度含んだ地域名であった。やがて朝鮮の三国時代、百済や新羅に併呑されずに存続した諸小国群全体を指すようになった。その範囲は時代により変動する。一般には洛東江下流域が中心だが、時には中流域まで及ぶこともあった。
 狭義の加耶は、たとえば六加耶などの特定の国を指す。ちなみに、六加耶とは、以下の国々をいう。
 『三国遺記』には、金官伽耶(きんかんかや;金海)・阿羅加耶(あらかや;咸安)・古寧加耶(こねいかや;咸昌)・大加耶(おおかや、だいかや;高霊;コリョン)・星山加耶(または碧珍加耶;星州)・小加耶(こかや;固城)の六加耶を、その他に、卓淳(とくじゅん;大邱)・非火(ひか;昌寧)・多羅(たら;陝川)、己汶(こもん;蟠岩・南原)・多沙(たざ;河東)などが加耶に含まれた。
 『日本書紀』の「任那」とは、加耶諸国の汎称として使われたが、加耶は、一般に言われているように、朝鮮半島南部の小国群の呼称ではなく、実は、加耶諸国の一国である金官国の別名にほかならない。
 「広開土王碑」に、永楽10(400)年、新羅に進軍した高句麗軍が、新羅王都の倭軍を追い払い「任那加羅」まで追撃したと記されている。
 924年に慶尚南道の昌原の鳳林寺に建てられた「昌原鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑(しょうげんほうりんじしんきょうたいしほうげつりようくうとうひ)」には、「大師は諱(いみな)を審希(しんき)といい、俗姓は新金氏(しんきんし)、その先祖は任那の王族に連なる、・・・我が国に投ず」とある。「我が国に投ず」とは、532年に金官国最後の王金仇亥(きんきゅうがい)が、妃・長男の金奴宗・次男の金武徳・三男の金武力とともに新羅に投降したことをいう。この碑は、現在はソウルの景福宮内にある。
 『三国史記』の強首(きょうしゅ)伝にも「臣本任那加良人(良民)」という一文がある。その他に、倭の五王が要求した都督諸軍事の称号の中に「任那」が頻繁に入っている。 「任那」という地域名は、『日本書紀』の独善で使われたのではない。古来、朝鮮半島の一地域の呼称として厳存していた。

 百済から贈られた七支刀より、 日本列島の倭が朝鮮半島南岸の諸国と4世紀後半に通交していたことが確認された。『日本書紀』によれば、神功皇后47年(367)、百済が初めてヤマト朝廷に朝貢してきた。その一年前にその仲立ちをしたのが、現在の昌原地方にあった卓淳国であるという(田中俊明氏などの説)。百済としては、北の高句麗に対抗するには、どうしても倭の強力な軍事支援を必要とした。以来、毎年のように使節を派遣する。
 5年後の神功皇后52(372)年には、百済が現在、石上神宮にある七支刀を送ってきたとある。倭から派遣された千熊長彦(ちくまながひこ)と百済王は百済の古沙山に登り、磐の上で同盟の誓いを立てたという。七支刀はこの同盟を記念して作られた。
 広開土王の顕彰碑によれば、399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通したため、広開土王は百済を討つため平譲まで進軍してきた。ちょうどそのとき新羅から使者が来て、「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としてしまった。どうか高句麗王の救援をお願いしたい」と申し出た。そこで、広開土王は新羅救援軍として5万の大軍を新羅へ派遣したという。400年のことである。

 広開土王の碑文によれば、その頃、倭軍は男居城から王都の新羅城まで満ち満ちていた、という。高句麗軍はその倭軍を追い払い、更に退却する倭軍を追って任那加羅(金海)の従抜城まで来ると、城は帰服したという。しかし、安羅(咸安)の軍などが逆をついて、新羅の王都を占領したとされている。

 顕彰碑の碑文の性格を考えれば、国境に満ちていたとする倭軍の規模や派遣された5万の高句麗軍の記事などは、割り引いて考えなければならない。だが、一定の史実を背景とした記述とされている。この頃の加耶諸国は、侵入してきた高句麗軍を反撃するほどの強力な軍事力があり、倭政権とは緊密な協力関係にあったことが知られる。

 だが、5世紀の前葉になると、金官国の丘陵の稜線に築かれてきた王墓が急に中断され、その後は、これらの王墓が破壊され、その上に小型墳が造られるという現象が生じている。これは加耶地域の中で金官国があった金海地域だけに見られる特別な現象である。他の加耶地域では5世紀中葉から、支配者の墓として竪穴式石室をもつ壮大な円墳が築かれるようになるのとは、極めて対象的である。このことがどのような歴史的事実をはらんでいるのか、非常に興味深い。

 高句麗の攻勢と勝利、倭と結んだ金官・安羅・卓淳などの加耶南部の敗北が、大成洞古墳群の5世紀前葉からの衰退と、何らかの関係があると思われる。高句麗の武力を伴う脅威は新羅を越えて加耶に及んだ。こうした高句麗や新羅の外圧に対して、3つの可能性が指摘されている。南部加耶の支配者集団が解体し、他の政治集団に吸収された。加耶の北の方の大加耶あるいは伴跛(はへ)へ移住した。または倭へ移住した。以上の3つである。

 加耶諸国の発展段階は4世紀から5世紀前半段階と、5世紀後半から滅亡する562年に至る6世紀中葉の段階とに大きく分けることができる。洛東江の流域に割拠する金官・安羅・卓淳などの諸国が成立するのは、4世紀の中葉を中心とする時期だろうと想定されている。5世紀後半になると新羅勢力が東の方から侵攻してくる。その影響で倭国と最も緊密な関係にあった金官国などが衰退し、代わって北の大加耶(伴跛国・はへ・慶尚北道高霊)が台頭する。470年代には、この大加耶を盟主に、加耶北部から西部にかけての諸国が連盟を結成する。この大加耶連盟は、はやくから倭国と友好関係にあった金官・安羅・卓淳などの加耶南部諸国とは一線を画し、別個の政治勢力を構成していた。479年に大加耶国王の荷知(かち)が南朝の斉に初めて朝貢し、柵封されている。

 雄略天皇は、「加耶」を中心とする渡来人の先進技術・文物を独占的に掌握する事により、列島支配が強化され、その理念とした「治天下大王」が名実ともに結実する。倭政権は478年の倭王武の遣使を最後に、600年の第一回遣隋使まで、120年以上にわたって中国王朝との通交を絶った。

 加耶諸国の中心勢力の交替は、倭と加耶との交流にも大きな変化をもたらした。5世紀後半以降、加耶諸国との関係では、金官国の比重が大きく低下し、新たに大加耶との交流が始まった。須恵器(陶質土器)・馬具・甲冑などの渡来系文物の系譜は、5世紀前半までは、金海・釜山地域を中心とした加耶南部地域に求められる。しかし、5世紀後半になると、おおむね高霊を中心とした大加耶圏から伝来する。

 この時期、加耶諸国の新しい文物と知識を持って、日本列島に渡来してくる人々が多かった。出身地を安羅とする漢氏(あやうじ)や金海国を出自とする秦氏(はたうじ)などは、倭政権との関係が深まり、その代表的な渡来系氏族となる。
 5世紀末になると、武力による百済の勢力が加耶諸国に侵入してきた。加耶諸国は新羅や倭政権に仲介を求めてきた。一方、百済は倭の朝廷に五経博士などを送り、加耶諸国西部の領有を国際的に認めさせようとした。

 『日本書紀』によれば、512年、百済は任那にある四つの県の割譲を、倭国に要求してきている。この地域は百済と国境に接する半島南部の西海岸沿いの地域である。物部氏の頭領だった物部麁鹿火(もののべのあらかい)は、この任那割譲に反対したが、継体天皇の擁立を推進した大伴金村(おおとものかなむら)は「百済が要求する地域は倭国にとってあまりに遠方すぎ、影響を及ぼすのは困難である。しかし百済にとっては地続きの好地ですから、ここで百済に好餌を与えておけば、先々の両国関係を良好に維持することにも繋がる」と主張し、加耶につながる四県の百済割譲を許した。

 この軽率な割譲処置は、隣接する加耶諸国に大きな衝撃を与えたばかりか、倭国と百済に対する不信感が一挙に高まり、加耶諸国は高霊加耶を中心に、新羅と同盟を結んだ。この倭政権の軽率な決断により、新羅はこれを契機に積極的に加耶地域に勢力を拡大した。525年には、洛東江中流域を、沙伐州(さばつしゅう)として軍政を敷き百済と対立するようになった。こうして、百済と新羅に挟まれた加耶諸国は、両国の草刈り場の様相を呈した。新羅、百済の勢力が強まるにつれ、金海の金官国をはじめとする南部地域の勢いが弱まり、加耶諸国は自衛のために高霊の大加耶を中心とする連盟を結成して、これに対抗した。

 連盟体制下に、加耶諸国の支配者層の代表が集まって外交・軍事の実務を協議した。しかし各国の利害が対立し、親百済派と親新羅派が生じて連盟体制の内部に大混乱が生じた。その混乱を巧みに利用して新羅が勢力を広げた。532年には金海国などを、562年には高霊加耶を中心とする残余の勢力を併合してしまった。

 『日本書紀』は「継体6(512)年夏4月の辛酉(かのとのとり)の朔丙寅(ひのえとら;6日)、穗積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に遣わした。そのため筑紫国の馬40匹を賜った。冬12月、百済が使者をつかわし調(みつぎもの)を献じ、別に上表して任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あるしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の4県を賜ることを請うた。哆唎国(たりのくに)の宰(みこともち)穗積臣押山は奏上して『この4県は、日本からは遠隔であるが、百済に近接し、旦夕に通交がし易く、鶏や犬の鳴き声もどちらのものか区別がつかないくらいです。今、百済に賜い同国と合わせれば、固く保たれるため、これに過ぎたる施策はありません。それでも恣に百済と合わせ賜えば、後世、いっそう危うくなるかもしれませんが、離間したままでは、幾年も守り通せません』。大伴大連金村は、この意見に添えて、同じく計策し奏上した。物部大連麁鹿火(ものべのむらじあらかい)を、勅を宣する使いとした」。
 この決定には異論が多く、大連麁鹿火の妻も猛反発し、大連がその答弁として『その意見はもっとだが、天皇の勅命に背くことは恐れ多い』と言う決まり文句に対して、妻は強く諫言し『病と称し、勅宣しないことです』。大連は妻の諫に従った。(中略)
 そのため、使者を代えて勅命を宣べさせた。賜物と制旨を、上表に添えて任那4県を賜った。大兄皇子(後の安閑天皇)は、「前もって他用があり、国を賜う件に関わらなかった。後に宣勅を知り驚き悔しがって改めようとした。令曰『胎中之帝(ほむたのすめらみこと)以来、官家(直轄地)を置いていた国を、なんじらは蕃国が乞うままに軽々しく従い賜ったものよ』。それで日鷹吉士(ひたかのきし;吉士は朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた古代の姓)を遣わし、百済の使者に改めると宣べると、使者は敬いつつも答えて『父君の天皇が、便宜を図られて賜る勅命が既に下されました。子の皇子が、どうして帝勅を違えて、妄りに改められるのでしょうか。これは必ず偽りごとでしょう。たとえ事実としても、杖の太い頭で打つ方のと、小さい方で打つのと、どちらが痛いでしょうか』というと退出した。このため疑われ、流言となり『大伴大連と哆唎国守(宰;みこともち)の穗積臣押山は、百済から賄賂を受け取っている』と言われた」。
 上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の4県とは、朝鮮半島西南端の全羅南道栄山江(ヨンサンガン)流域から蟾津江(ソムジンガン)の求礼(クレ)付近の当時馬韓と呼ばれた地域に比定されている。
 哆唎国守の穗積臣押山とあるが、「国守」とは律令制下の国司の長官であるから、この時代では「宰(みこともち)」と呼ばれる倭政権の地方の長官であった。押山はこの継体6(512)年から、哆唎地域の宰として派遣され17年以上に亘って駐在していた。「四県割譲」のように、百済の要望を取り次いだり、百済の使者を倭国へ帯同したりする大使館の駐在官的な使臣であった。時には、百済の要請を受けて軍事行動もしていた。
 現在まで5世紀後半から6世紀半ばに集中する前方後円墳が、全羅南道の栄山江流域を中心に13基、全羅北道地域に1基の計14基出土している。周濠をめぐらし、埴輪を立て並べ、盛土を階段状に段築するなど、列島固有の前方後円墳であった。前方後円墳は首長墓であるから、475年の熊津(ウンジン)遷都から6世紀にかけて、馬韓地方に穗積押山のような首長クラスが派遣され、やがて列島式の首長墓に葬られる人物が少なからずいたことになる。5世紀後半における熊津遷都以降、新羅勢力が西の方へ侵攻する形勢となり金官国の凋落が目立ち、倭政権は百済との関係をより緊密にした。
 『日本書紀』は「継体7(513)年夏6月、百済は姐弥文貴将軍(さみもんきしょうぐん)・洲利即弥将軍(つりそに)を遣わし、穗積臣押山(百済本記には、委⦅やまと⦆の意斯移麻岐弥⦅おしやまきみ⦆とある)に付き添わせて五経博士段楊爾(だんように)を奉った。別に奏上して「伴跛国(大加耶)が、臣の国の己汶の地(コモン;蟾津江流域)を略奪した。伏してお願いいたします。天恩で判断いただき本属に返させて下さい」。
 東城王が501年12月に暗殺された後、王都熊津で即位した即位した武寧王は、新羅と共同して北の強国高句麗と戦い、しばしば漢江(ハンガン)流域で高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。熊津は大いに繁栄した。
 武寧王は「四県割譲」という半島西南の馬韓地方を制圧した。その見返りとして武寧王から五経博士が交代制で貢進された。五経とは『詩経』・『書経』・『礼経』・『楽経』・『易経』・『春秋経』の六経であり、すべて孔子以前からの書物である。
   武寧王は、馬韓の東北に隣接する加耶へ進出をはかった。「四県割譲」の際、倭国の対応に不信を抱いた加耶諸国の懸念が、早くも現実のものとなった。百済は蟾津江の上中流域にあった己汶を略奪したことで、大加耶連盟の盟主の伴跛国と戦闘状態に入った。武寧王は、倭国に軍事援助を要請してきた。
 同年、伴跛国も倭国に珍宝を貢上し軍事援助を要請してきたが、百済支持を変えなかった。
 『日本書紀』は「継体8(514)年3月、伴跛は、子呑(しとん)・帯沙(たさ;蟾津江の河口近くに姑蘇城あり)に築城し満奚(まんけい)と結ぶ百済に対する防御ラインとした。烽候(狼煙台)と邸閣(武器庫)を置き、日本に備えた。また、爾列比(にれひ)と麻須比(ますひ)に築城し麻且奚(ましょけい)・推封(すいふ)と結び大加耶の南側の防御ラインとした。その上で士卒と兵器を集め、新羅に迫った。子女を追いかけ回して略奪し、村里を剥奪した。その凶悪な軍勢が襲った所には生存者はまれで、その暴虐は度が過ぎ、犯された惱害により、厳しく責め殺された者が甚だ多く、詳細に記せないほどであった。
 9年春2月の甲戌(きのえいぬ)の朔丁丑(ひのとのうし;4日)、百済の使者文貴将軍らが帰国を願った。勅して物部連(名は伝わらない)を添えて帰国の際に遣わした(百済本記には、物部至至連⦅ものべのちちのむらじ⦆とある)。この月、沙都嶋(さとのしま;巨済島)についた時、伴跛の人が恨を懐き悪意に満ち、强さを頼んで暴虐の限りを尽くしている、という風評が聞こえた。それで、物部連は、水軍五百を率いて、直ちに帯沙江(たさのえ:蟾津江の河口)まで進んだ。文貴将軍は、新羅から百済へ向かった。
 夏4月、物部連は、帯沙江に停泊して6日間止まった。伴跛は、軍勢を揃えて討伐してきた。果敢に攻めかかり、身体を拘束し、衣服を脱がし、所持品を略奪し、帷幕(きぬまく;露営用の天幕)を悉く焼いた。物部連らは、畏怖し逃げるばかりであった。僅かに逃延びた者たちが、汶慕羅に停泊した(汶慕羅;もんもちと;は蟾津江外にある島名)。
 継体10(516)年夏5月、百済は前部木刕不麻甲背(ぜんほうもくらふまこうはい;前部とは百済の貴族組織、上部・前部・中部・下部・後部からなる)を遣わし、物部連らを己汶に迎え労わり、先立って百済に導いた。群臣が各々衣裳・斧鉄(おのかね)・帛布(きぬ)を出し、国物(くにつもの;国からの賜物)と合わせて朝廷に積置き、その苦境に対して賞禄(たまいもの)し慇懃に慰問した。
 秋九月、百済は州利即次將軍(つりそし)を遣わし、物部連に添えて来朝し、己汶の地を賜ったことに謝意を示した。別に五経博士漢高安茂(あやのこうあんも)を貢上し、博士段楊爾に代えることを願った。その願いにより代えた。戊寅(つちのえとら;14日)、百済は灼莫古將軍(やくまくこ)・日本の斯那奴阿比多(しなのあひた)を遣わし、高句麗の使安定らに付き添わせて来朝し修好した。
 12年春3月9日、弟国(京都府乙訓郡)に遷都」。
 522年、百済は蟾津江を南下し、遂に多沙(たさ;帯沙)津を確保した。帯沙は伴跛の外港でもあり、それが百済に併呑され、大加耶連盟に大きな痛手となった。以後、大加耶は新羅に接近していく。このとき倭国は大加耶と戦い敗北している。
 「17(523)年夏5月、百済国王武寧が薨じた。18年春正月、百済太子明(聖王=聖明王)が即位。
 20(526)年秋9月13日、磐余の玉穗に遷都(ある本では7年とある)」。
 529年、金官国が、遂に新羅に武力制圧された。隣国の安羅は、それを脅威として倭国に救援を要請した。急遽、近江毛野臣が派遣された。『日本書記』には「近江毛野臣率衆六萬」とある。
 『三国史記』には、532年、金官国主の金仇亥(きんきゅうがい)が新羅に投降し金官国は滅亡した、とある。
 『日本書記』「継体24(530)年秋9月、任那の使が奏上した。『毛野臣は、既に久斯牟羅(くしむら)に舍宅を築造してから、滞在が2年(一本には3年とあるのは、往来も年数に含めたからである)になります。政務を聴くのを怠っています。ここでは日本人と任那の人の間でよく子供が生まれます。その帰属の訴訟で判じかねると、毛野臣は、楽(この)んで誓湯(うけいゆ;古代日本で行われていた神明裁判)を置き、『真実であれば爛れず、嘘であれば必ず爛れる』。これにより湯に投じられて爛れ死ぬ者が多いのです。
 又、吉備の韓子(からこ;大日本⦅おおやまと⦆の人が蕃国⦅朝鮮諸国⦆の女を娶って産んだ子が韓子である)である那多利(なたり)・斯布利(しふり)を殺し、常に人民を悩まし宥和心がありません』という。天皇はその行状を聞き、人を遣わし召喚しようとしたが、来ようとしなかった」。
  「冬10月、調吉士(つきのきし;調伊企儺は、難波の人で、応神天皇の代に弩理使主という者が百済から帰化し、その曾孫弥和は顕宗天皇の代に調首の氏姓を賜わった。吉士も古代の姓の一つで朝鮮半島より渡来した官吏に与えられた。伊企儺の子孫は、調吉士を号した。)が任那より戻った。
 奏言して『毛野臣は、人を侮り恨み、世の治め方にも通じず、結局、宥和心がないため加羅を擾乱させた。愚かにも自分の意のままに振舞うため禍を防げるとは思えません』。
 故に、目頰子(めづちこ)を遣わし召喚した(目頰子は、未だ詳かではない)。この歲、毛野臣は、召喚されて対馬まで来たが、病となり死んだ。送葬の舟は、河を沿い近江に入った」。
 「継体25(531)年春2月、天皇の病が酷くなった。丁未(ひのとのひつじ;7日)、天皇は磐余の玉穗宮(たまほのみや)で崩じた。時に御年82。冬12月丙申(ほのえさる)の朔庚子(かのえね;5日)、藍野陵(あいののみささぎ;大阪府高槻市郡家新町⦅ぐんげしんまち⦆にある今城塚古墳)に葬られた。
 金官国の独立回復策は、継体天皇の死で頓挫するが、欽明天皇の即位後、百済・加耶諸国と連携する「任那復興」が度々建策された。安羅に置かれた「任那日本府」が倭王権の拠点となった。欽明紀には、「日本」という国号は未だなかったから「倭府」とでも呼ばれていたはずだ。
 欽明15年冬12月の条に「百済王臣明(聖明王)、及び安羅に在る諸倭臣ら・任那諸匤の旱岐らが奏申」とあるから、安羅に駐在する倭の使臣集団を中心に、古来、倭国と友好関係にあった加耶南部の国々、金官・卓淳(とくじゅん)・喙己呑(とくことん)なども「海北の宮家」として位置づけられていたようだ。特に6世紀初頭、安羅は加耶南部諸国でも最有力国になっていた。
 ところが、継体天皇が病没した継体25(531)年、百済の軍が安羅に進駐し軍事制圧下に置いた。一方、新羅も時をおかず、その東隣の卓淳(慶尚南道昌原;チャンウオン)を攻撃して支配した。百済と新羅は、安羅の東で直接対峙するようになった。これが「任那日本府」の実態であった。
 「任那日本府」は、卿(大臣)・臣・執事の三等官の制度であったが、その下には父は日本人、母は安羅の人という佐魯麻都(さろまつ)や阿賢移那斯(あけえなし)・河内直など安羅在住の倭系の者を多く採用していた。彼らは倭王権の方針に従うより、生まれ育った安羅や自己の利益を優先させた。しかも安羅を征服する際の百済の軍事行動により、その不信感が募り、百済主導の任那再興をしばしば妨害した。安羅の住民の多くは、新羅よりになっていた。
 『日本書紀』「欽明2(541)年、夏4月、安羅の次旱岐夷呑奚(しかんきいとんけい)・大不孫(だいふそん)・久取柔利(くすぬり)、高霊加羅の上首位古殿奚(おこししゆいこでんけい)、卒麻(そつま)の旱岐(かんき;旱岐王)、旱岐王の子の散半奚(さんはんげ)、多羅の下旱岐夷他(あるしかんきいた)、旱岐の子の斯二岐(しにき)、子他の旱岐などと、任那日本府の吉備臣(名は伝わらない)が百済に赴き、共に詔書を聴いた。百済の聖明王が、任那の旱岐らに「日本の天皇から任那を復建せよと詔があった。今何らかの策を用いて任那を再建し、各々が忠誠を尽くして天子の御心を安んじなければならない」といった。
 545年、高句麗で大きな政変が起こり、王の外戚同士が争い2千人以上の死者がでる。その最中に安原王(アヌォンワン)が死亡し、わずか8歳の陽原王が即位する。
 『日本書紀』の欽明7(546)年の条に「この歲、高句麗に大乱、おおよそ闘死した者2千余り。『百済本記』には『高句麗、正月の丙午(ひのえうま)に中夫人(くのおりくく)の子(よも)を王(陽原王)と為した。年八歲。狛王(こくおりこけ;安原王)には三夫人がいたが、正夫人には子が無く、中夫人には世子(まかりよも)が生まれ、その舅氏は麁群である。
 小夫人(しそおりくく)も子を生み、その舅氏は細群である。狛王が篤疾となると、細群・麁群が各々の夫人の子を即位させようとした。故に、細群の死者が2千人余りとなった』とある」。
 高句麗王権に大きな亀裂が生じたとみて、百済の聖王は攻勢に出て、551年、漢城を奪回する。翌年、同地域は、高句麗と百済の戦闘に乗じる新羅に奪われてしまった。その後も、百済の危機が続き、連年、聖王は欽明天皇に援軍を要請している。554年に新羅と管山城(忠清北道沃川郡)で戦っている最中に、孤立した王子昌(後の威徳王)を救援しようとして、狗川(忠清北道沃川郡)で伏兵に襲われ戦死した。
 聖王の死により新羅による加耶諸国への侵攻が加速された。安羅の最後と「日本府」の末路の記録は残っていないが、この時期に併呑されたようだ。新羅の勢いは止まらず、562年、加耶の有力国大加耶も、その総攻撃にあっけなく降伏し、加耶諸国のすべてが新羅の支配下にはいった。倭国の狗邪韓国以来の朝鮮の足掛かりが一切喪失した。

 欽明天皇の条では、ほぼ毎年のように、任那関係の事件が詳細に記される。同天皇23(562)年の条に「春正月、新羅は任那の官家を打ち滅ぼした(一本には、21年、任那を滅ぼす)。総称して任那というが、個別には加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん)、稔礼国(にむれ)を合わせて1 0か国の総称であった」。


  (17)七支刀と倭国の鉄資源目次へ
 〔表〕 泰和四年五月十六日丙午正陽造百錬鉄七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■
 大意は、 泰和(太和)四(369)年五月十六日丙午(ひにえうま)の正午に、百たび鍛錬した鉄で七支刀を造った。この刀は多くの兵を防ぐことが出来る。付き従う諸侯が佩びるに相応しい。
 〔裏〕 先世以来未有此刀百済王世子奇生聖音故為倭王旨造伝示後世
 判読は、 先世以来、未だこれほどの刀は、百済には無かった。百済王の世子(太子) 奇生王子(キスセシム;貴須王;「聖晋」は、古代朝鮮語で王子の意で「セシム」と読む)が、それ故に倭王のため造らせた。後世まで永くこの刀を伝え示されんことを。
 日本書紀等の史書では、百済が倭に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されているが、この七支刀献上に関しては、日本書紀神功皇后摂政52年条に、百済と倭国の同盟を記念して神功皇后へ「七子鏡」一枚とともに「七枝刀」一振りが献上されたとの記述がある。紀年論によるとこの年が372年にあたり、年代的に日本書紀の「七枝刀」と七支刀の合致が認められる。
 『日本書紀』は、神功皇后を卑弥呼と比定したため、年代が繰り上がっている。百済系の資料を『日本書紀』が引用している場合は、『百済記』に基づく神宮記の年代は、その紀年を干支(かんし)二運分(一運は60年)繰り下げると、実年代が得られる。神宮記五十二年は西暦に換算すると252年になるが、干支二運分(120年)繰り下げると372年となる。七支刀名分の369年とは、僅か3年の差となる。
 一方、倭国にとっても、百済は馬韓時代から、国内統一の有効手段である威信財の供給源であり、それ以上に重要視されたのが、倭国の鉄資源の保全であった。
 3世紀頃を記した『魏志』弁辰伝に「国は鉄を出し、韓・(わい)・倭、皆従(ほしいまま) に之を取る。諸(もろもろ)の市買(市場の売買)に皆、鉄を用い、中国が銭を用いるようにした」とあり、弥生時代から日本列島の倭人は鉄資源の多くを朝鮮半島に依存していた。倭人はそのため鉄を産出する加耶に採掘拠点を設けていたようだ。このような状況は、雄略天皇の5世紀末頃まで続いていたようで、武器・農具・大工具などの鉄製品は殆どが国内で制作されていたが、その鉄資源の大半は朝鮮半島に頼っていたようだ。
 5世紀の古墳から鉄鋌(てつてい)と呼ばれる短冊形の鉄素材が、まとまって出土することがある。その成分分析から、金海(キメ)・釜山(プサン)が産出地の可能性が高い。その鉄鋌の重さに一定の規格があり、貨幣のように使われた。
 むしろ卑弥呼の邪馬台国以来続く王権の威信財として活用され、その服属する諸国にとっても、不可欠な必需品となっていた。

 (18)倭王武・雄略天皇 目次へ
 倭政権は4世紀から5世紀にかけて朝鮮半島ルートを介して中国王朝との関係を重視していた。
 奈良県桜井市脇本の「脇本遺跡」は、昭和59(1984)年、桜井市と橿原考古学研究所が中心となって、磯城から磐余(いわれ)一帯の諸宮を調査することになった。ここは奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(とかまやま;忍坂山;おさかやま)に挟まれた初瀬谷の入り口にあたる。そして基本調査の結果、脇本から慈恩寺にかけての一帯が、雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)と推定され発掘調査が行われた。
 まず昭和56年から朝倉小学校校庭の調査が行われた。数次にわたる発掘によって、5~6世紀の建物や溝の遺構が朝倉小学校の校庭から見つかった。
 昭和59年の発掘調査では、灯明田地区で、下層から5世紀後半の宮殿遺構の一部が発掘され、雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡と確認された。上層からは7世紀後半のやはり大型建物の遺構が出土した。さらに灯明田地区の東北に位置する苗田地区の発掘でも、全域に5世紀後半の広場のような整地された層が見つかった。
 こうした発掘調査の結果を総合的に判断して、三輪山東南麓にある脇本遺跡の5世紀後半の建物遺構は、『記紀』にみえる雄略天皇の泊瀬朝倉宮にかかわる建物と確認された。私有地のため完全な調査ができないまま埋めもどされた。
 『宋書』順帝紀、昇明1(477)年「11月、遣使して貢物を献ずる。これより先、興(安康天皇)が死に、弟の武が立ち、持節使を遣わし、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した」
 安康天皇は皇后(中蒂姫命;なかしひめのみこと)の連れ子・眉輪王(まよわのおおきみ)により暗殺された。そのため皇太子を指名することなく崩御した。この混乱に乗じ、大泊瀬幼武皇子(おおはつせわかたけるのみこ)は、兄である八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を、『古事記』では小治田(おはりだ;奈良県明日香村)で生き埋めにした。
 次いでの同母兄弟の坂合黒彦皇子(さかいのくろひこのみこ)と眉輪王を、葛城円(かつらぎのつぶら)宅に追い込んで、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃し、11月に雄略天皇として即位する。
  葛城氏は、古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族で、武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とみられていた。
 『万葉集』第2巻の始めに記される磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)は、葛城襲津彦の娘で、5世紀前半の仁徳天皇の皇后で、履中・反正・允恭(いんぎよう)3天皇の母となった。奈良盆地の西南にあたる葛城地方は、古代より倭政権には枢要な地方で、葛城氏の本拠地であった。高天原の実在地が葛城地方だとする説もある。その葛城氏は、奈良盆地の西南部にある葛城を本拠として、勢力を拡大してきた。
   その葛城一族を、雄略天皇は没落させ、平群真鳥(へぐりのまとり)を大臣に、大伴室屋(おおとものむろや)と物部目(もののべのめ)を大連に任じて、軍事力で専制王権を確立し大王家の地位を不動にした。
 『宋書』孝武帝紀、倭国伝、大明6(462)年に「済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり」。倭王興は第20代安康天皇とみられる。安康天皇は在位3年で暗殺されており、推定没年は462年である。そのため倭王武は雄略天皇となる。
 『宋書』倭国伝、昇明2(478)年に、宋の皇帝に奉る「倭王武の上表文」が記される。 「倭という封国(ほうこく;諸侯の領地の一つである日本)は偏遠(へんえん)にして、藩を外に作(な)す(国境外の属国として存在する)。昔より祖禰(そでい;先祖代々)は、躬(みずか)ら甲冑を身にまとい、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ;安んずる処)に留まる遑(いとま)もあらず。東方五十五国を征し、西のかた六十六国を服し、渡りて海の北、九十五国を平らぐ」
 『 南斉書』倭国伝、建元1(479)年「新たに持節・都督を遣わし、倭・新羅・任那・加羅・秦韓(慕韓を誤って落としたか)の六国諸軍事・安東大将軍・倭王武を叙し、鎮東大将軍に進めた」

  (19)平群真鳥の親子誅殺される目次へ
 雄略天皇の死後、第3子の白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめたみこと)・清寧天皇が即位した。清寧天皇の名のように生まれつき髪が白かった。『日本書記』には「生来白髪であるが、成人すると民を大切にし、大泊瀬天皇(雄略天皇)は、多くの皇子の中で特に霊異ありとみて、雄略22年、皇太子とした」とあり、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)が、雄略天皇に焼き殺される際に代償として奉らせた娘の葛城韓媛(かつらぎのからひめ)であった。葛城氏系の大王の再登場は、再び奈良盆地西南部の臣グループの復権を伴うものであった。
 武内宿禰の後裔と伝えられ、葛城氏とは同族である、大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)を本拠地とした古代在地豪族の一つ平群真鳥(まとり)が大臣となり、「大臣」を歴任して一族の興隆を極めると、仁賢天皇の崩御後、真鳥大臣は大王になろうと専横を極めて、国政をほしいままにしたため、天皇家をも凌ぐその勢力を怖れられた小泊瀬稚鷦鷯太子(おはつせのわかさざきのひつぎのみこ;後の武烈天皇)の命を受けた大伴金村により、真鳥とその子の鮪(しび)が誅殺させた。

  (20)雄略天皇の晩年の百済情勢目次へ
 蓋鹵王(がいろおう;ケーロワン)の475年9月、高句麗の長寿王の攻撃を受けて、百済の王都・漢城(ハンソン)は陥落し、蓋鹵王をはじめ大后、王子らの殆どが敵の手にかかって殺害された。百済は一時滅びた。その直前、父蓋鹵王の命で文周(ムンジュ)は、新羅に救援(羅済同盟)を求めて南に向かっていた。10月、新羅の兵1万を率いて都に戻ったときには、既に漢城は高句麗支配下のあり、蓋鹵王は処刑されていた。
 文周は、新羅の助けにより王位について熊津(忠清南道公州市)に遷都した。翌476年2月に大豆山城(忠清北道清州市)を修復し、解仇(ji? chou)を佐平(軍事担当の1等官)、王弟の昆伎(昆支;こにき;東城王と武寧王の父)を内臣佐平に任命し、長子三斤(サムグン)を太子に封じた。昆伎はまもなく倭国へ質として送られた。昆伎はまもなく病没し、その後、解仇が専横を振舞う。文周王は、一度は制したが、解仇が放った刺客によって477年9月に暗殺された。在位3年であった。
 『日本書記』雄略天皇2(458)年の秋7月、天皇が百済の池津媛(いけつひめ)のもとに、将に御幸しようとした時、石河楯(いしかわのたて;旧本では石河股合首;いしかわのこむらのおびと;の祖)と密通ししていた。天皇は大いに怒り、大伴室屋大連に詔して、来目部(大伴氏に隷属した軍事的民部;かきべ)を使い、その密通者同士の手足を木に張り付け、桟敷に置き、火をつけて燒死させた。(『百済新撰』では「己巳(つちのとのみ)の年、蓋鹵王が即位すると、天皇は、百済に阿禮奴跪(あれなこ)を遣わし、女郎(えはしと;身分ある女子)を探し求めた。百済は慕尼夫人(むにはしかし)の女を厳かに飾り、適稽女郎(ちゃくけいいえはしと;適稽には常に稽首する意あり)と言い、天皇に貢進した」とある)
 その間の情勢を『日本書記』雄略天皇5(461)年では「夏4月、百済の加須利君(かすりのきし;蓋鹵王也)は、百済の王族の池津媛(いけつひめ;チャクケイ・エハシト)は、雄略が床入りしようとした時、石川楯と通じたことが知られ、池津媛と石河楯を捕らえ、両手両足を縛り、火をつけて焼き殺した。それを報らされ、池津媛が適稽女郎(ちやくけいえはしと)と知り協議した。
  『古来、女人を貢ぎ采女(うねめ)として仕えさせてきたが、礼を逸しては、我が国の名を汚す。今後、女を貢いではならない』と決まった。それで、弟の軍君(こにきし;昆伎)に告げた。『汝は日本に往き、天皇の命に服せよ』。軍君は『上君(きみ)の命に、違うことはありませんが、お願いできれば、君の婦(みめ)を賜り、その後、奉使いたします』と、
 加須利君は、その意図を察し、妊娠した婦を嫁がせると、軍君に『我が子を身籠った婦は、既に産月になっているので、若し往路でお産となったら、できることなら同船し、どこまでも随い、母子共に、速やかに百済に送って欲しい』と、互いに別れを告げ、軍君は倭国の朝廷に奉遣した。
 6月丙戌(ひのえいぬ)朔、妊婦が果して加須利君がいうように、筑紫の各羅嶋(かからのしま;現佐賀県東松浦郡鎮西町の加唐島;かからしま)で誕生したという。その子を嶋君(せまきし)と名付けた。軍君は、直ちに婦(みめ)と嶋君を同船させ百済に送った。嶋君が後の武寧王(ムリョンワン;漢江流域で対峙する高句麗を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与え、百済を再興する)で、百済の人々は、この嶋を主嶋(にりむせま)と呼んだ。「ニリムセマ」のニリムは古代朝鮮語で国主をいう。
 秋7月、軍君が入京した。既に5人の子がいた。(『百済新撰』には「辛丑(かのとのうし;461年)の年、蓋鹵王が、王弟の昆支君を遣わし、大倭に参向させ天皇に侍らせた。それにより兄王との好;よし;みが適った」とある。
 翌年462年、『宋書』では、倭国王の世子・安康天皇の興を安東将軍とするとある。雄略天皇の兄で先代である安康天皇が遣使していた)。
 477年9月に、文周王は暗殺された。在位3年であった。三斤はわずか13歳で三斤王(サムグンワン;『日本書紀』雄略天皇紀では文斤王;もんこんおう)として即位した。
 解仇は、軍事・政治の一切の権限を握っていたが、翌478年、解仇は大豆山城に拠って反乱を起こした。三斤王は佐平の真男、続いて徳率(4等官)の真老に命じ討伐させた。
 『三国史記』百済本紀第四、三斤王には「三斤王、或は壬乞という。文周王の長子なり。王が薨り、その位を繼ぐ。年13歳。軍事・政事の一切を佐平の解仇(ji? chou)に委ねる。 2年、春に、佐平の解仇と恩率(3等官)の燕信が衆を聚(あつ)めて、大豆山城を主要拠点として叛いた。王は、佐平の眞男に命じ、兵2千を以て之を討たしめたがかなわず。更に德率(4等官)の眞老に命じて、精兵5百を帥(ひき)いさせ、解仇を切り殺した。燕信は、高句麗に逃れた。その妻子を捕え、熊津の市で斬刑に処した。(中略)3月己酉朔、日有りて之を食す(日食)」。「3年、春夏、大旱、秋九9月、大豆城を斗谷に移す。冬11月、王薨ず」が、その事績であった。

 (21)雄略天皇崩御 目次へ
 それまでに至る過程を『日本書紀』雄略天皇の条で更に詳しく記す。「23(479)年夏4月、百済の文斤王(もんこんおう)が薨じた。天王(天皇;大王)は、昆支王(こんきおう)の5子の中の第2子・末多王(またおう)が、幼年であるが聡明であるため、勅して内裏に呼ばれた。親しく頭と顔を撫でられ、慇懃に教誡し、百済の王として差し向わせた。そこで兵器を賜い、あわせて筑紫国の軍士500人を遣わし、百済国へ護衛し送らせた。これが東城王(とうせいおう;トンソンワン)である。
 この年、百済の調賦(貢納)は、常の例より益(ま)していた。筑紫の安致臣(あちのおみ)・馬飼臣らが、船師(ふないくさ;水軍)を率いて高麗を攻撃した。
 秋7月の辛丑(かのとのうし)朔、天皇は病臥して不予になる。詔して、賞罰・支度(おきて)の事、巨細に関わらず、すべて皇太子(白髪皇子;しらかのみこ;清寧天皇)に付託した。
 8月の庚午(かのえうま)朔丙子(ひのえね;8.7)、天皇の病がいよいよ酷くなった。百寮に別れを告げ、皆の手を握りすすり泣きされた。大殿で崩御された。
 大伴室屋大連と東漢掬直(つかのあたい)に遺詔があり、『まさに今、天下は一家に画された。飯を炊ぐ煙火が万里に及び、百姓はおさまり安じ、四夷も来朝し服している。これもまた天意に、天下を平安にする意思があったからである。その訳は、細心に自分を励まし日ごと慎んで、百姓のために尽くしてきたからである。臣・連・伴造は毎日、朝廷に参上し、国司・郡司は随時、朝廷に参集している。それに深く感じ入り、戒めの勅も慇懃にならざるを得なかった。
 義においては君臣、情においては父子でもある。どうしても臣・連の智力に頼りたい。内外の人々を喜ばせ、あまねく天下の安楽を永く保って欲しい。いきなり病となり、いよいよ大漸(たいぜん;重病)に至った。これは人生の常であり、いまさら言及するに及ばない。ただ朝野の衣冠を、未だ鮮麗にしえなかった。教化や政刑についても、なおも最善を尽くしたとは言い難い。これらを合わせて言えば、ただ心残りである。この年では若いといえず、夭折とも言えないが、筋力と精神が、一時に尽き果てた。このような事をいっても、身のためにならないから止めるが、百姓を安養する念がいわせる。
 人が子孫を産む。その誰がその思いを繋ぐのか。既に天下をなしたが、気にかける必要なことがある。今、星川王(雄略天皇の皇子;母は吉備稚媛;きびのわかひめ)は、心に違背をいだき、その行為は兄弟間の義を欠いている。古人は“子のことを知るという点で父に及ぶ者はいない。”という。
 ほしいままに星川王がその志に適い、国家を治めれば、必ず戮辱の念が、臣・連に行き渡り、酷い毒が庶民に流れるであろう。その悪い子孫は、既に百姓達に憚ることなく嫌われ、気に入られた子孫は、大業を受け継ぎ、その任に堪えるに足る。これは朕の家の事と雖も、理(ことわり)において隠すべきではない。
 大連たちの民部(かきべ;豪族が私有した民の総称)は広大で、国に充満している。皇太子の地位は天皇を嗣ぐために儲けられ、その仁孝が世上に聞こえ、その行業においても、朕の志を成就させるに値する。これにより、共に天下を治めれば、朕が瞑目しても、なんの恨事も残るまい』と仰せになった」。
 ある本では「星川王は、腹に悪心があり、しかも粗野であると、天下に広く聞こえている。不幸にして朕の崩御後に、当然、皇太子を害しようとする。汝等は、民部が甚だ多い、互いに助けるよう努めてほしい。けして慢心して侮ってはならない」とある。

 (22)雄略天皇と蝦夷の関係 目次へ
 『日本書紀』雄略天皇紀末尾に「この時(雄略天皇崩御の時)、征新羅将軍の吉備臣尾代(おしろ)が、吉備国の家に立ち寄った。あとに率いる五百の蝦夷らが天皇の崩(かく)れたと聞き、互いに語り合い「我国を支配する天皇が、既にお崩れになった。時を逸してはならない」と互いに集結し、周辺の郡を侵冦した。そのため尾代は、家来を従え、蝦夷と娑婆水門(さばのみなと;広島県か山口県の海岸)で会戦となり弓の射撃戦となった。
 蝦夷らは、臨機応変で、有る者は踊り、あるいは伏し、よく弓矢を脱したので、終に射ることができなくなった。尾代は、空に弓弦を弾き邪気を払い、海浜で、踊り伏す2隊を射殺し、2つの矢(やなぐい)が既に無くなっていた。直ちに船方を呼んで矢を探させようとしたが、船方は怖がって逃げてしまった。尾代は、それで弓を立てて、その末弭(うらはず;弓はずの上になる方)を取って、歌を詠んだ。

 瀰致阿賦耶 鳴之慮能古 阿母舉曾 枳舉曳儒阿羅毎 矩々播 枳舉曳底那
 (道にあふや 尾代の子 母にこそ 聞えずあらめ 国には 聞えてな/新羅への出征の途中で戦闘となった尾代の子よ。このことは、母には伝わらないだろうが、故郷の人々には聞こえて欲しい)
 詠い終わると、自ら数人を斬り、更に追撃し丹波国の浦掛水門(うらかけのみなと;京都府熊野郡久美浜町浦明)に至った。その悉くを迫り寄って殺した。ある本では「追って浦掛に至った。人を遣り悉く殺させた」
 この5世紀後半の479年に、吉備臣尾代は、征新羅将軍として500の蝦夷らを率いて朝鮮半島に出征したとある。既に、倭政権は、蝦夷の領域に侵入していたことになる。
 大化の改新以前に、部民制における集団で、一定の役割をもって倭王権に奉仕する大王家直属の集団があった。王家直属ゆえ御名代(みなしろ)とも呼ばれることがある。大王・王妃・王子の名をつけた王家所有の民であった。名代から王家に近侍する靱負(ゆげい)や舎人(とねり)・采女(うねめ)・膳夫(かしわで)などを、国造など地方の在地首長の一族から徴発したが、それば地方にとって極めて有益であったため、その資質に適う人材を育成した。
 5世紀に入って倭王権が関東南部を王化すると、安康天皇以降、名代の多くが東国に設置された。允恭天皇の王子で、しかも母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)である安康・雄略天皇の兄弟は、その名を後代に伝えるために刑部(忍坂部)を、上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部・茨城県南西部・東京都東部)・武蔵(埼玉県・東京都)などに設けたという。安康天皇(穴穂命)の名代が、孔王部(あなおべ)であり、下総に允恭天皇の王妃である藤原衣通郎女(ふじわらのそとおりのいらつめ)の名代部がある。
 雄略天皇の子である清寧天皇の白髪大倭根子(しらがのおおやまとねこ)の名を負うた白髪の氏姓が、武蔵・上総・下野・美濃などの東国と山背・備中などにみられ、後代、光仁天皇の諱(いみな)である白壁を避けて真壁と改められたが、その真壁郷は駿河・常陸・上野・下野・備中などにみられ、いずれも東国に偏っている。
 倭国の王は、侵攻地を独占的に支配し、その土着していた民を恣意的に酷使していたようだ。東国の蝦夷に、その統治に伴う苛政と東国からの兵役負担が加重された結果、雄略天皇の死により暴発した。

 (23)ヤマト政権の拡大 目次へ
  「清寧元(480)年冬10月、癸巳(みずのともみ)の朔辛丑(かのとのうし;9日)に、大泊瀬天皇(おうはつせのすめらみこと;雄略天皇)を丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ;宮内庁が比定する河内の高鷲の地には、日本書紀に偉大な天皇として記され、現に壮大な事績を遺す雄略天皇を葬るほどの巨大な前方後円墳は存在していない)に葬(ほうむ)りました。その時に、隼人が昼夜、陵のほとりで泣き叫ぶ続け、食べ物与えても口にすることなく、7日後に死んだ。造墓の司は陵の北に葬礼に従い埋葬した(後略)」。
 先述したように『宋書』倭国伝、昇明2(478)年に、宋の皇帝に奉る「倭王武の上表文」が記される。 「倭という封国(ほうこく;諸侯の領地の一つである日本)は偏遠(へんえん)にして、藩を外に作(な)す(国境外の属国として存在する)。昔より祖禰(そでい;先祖代々)は、躬(みずか)ら甲冑を身にまとい、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ;安んずる処)に留まる遑(いとま)もあらず。東方五十五国を征し、西のかた六十六国を服し、渡りて海の北、九十五国を平らぐ」とあり、5世紀前後の倭政権の国内統一の内容を「東方五十五国を征し、西のかた六十六国を服し、渡りて海の北、九十五国を平らぐ」と記し、その国数がそのままの実数とはみられない誇張があるが、5世紀後半の雄略天皇朝の勢力圏を語る貴重な史料である。
 しかも「東は毛人を征し」、「西は衆夷を服す」と解されている。それは『古事記』や『日本書紀』に語られる四道将軍の派遣伝承やヤマトタケルノミコトの蝦夷や熊襲の征討伝承に由来するとみられ、それは単なる虚構・誇張とは言えない。
 古代、三輪山の麓一帯を「大和(やまと)」と呼び、奈良盆地の北方の「飛鳥」や「平群」「斑鳩」「額田」「岡本」といった他の地域とは区別されていた。奈良時代のように奈良県全体を「大和」と呼ぶのは7世紀以降とみられている。三輪王権は、三輪山の麓一帯の「大和」と称される添(そふ)・山辺(やまのべ)・磯城(しき)・十市(とおち)・高市(たけち)・葛城(かつらぎ)の六御県(むつのみのあがた)を中核にした県制を拠点に拡大した。
 『日本書紀』に記されている4人の将軍は、崇神天皇10年に、諸国平定のために「北陸へ大彦命(おおびこのみこと)、東海へ武渟川別(たけぬなかわわけのみこと)、西海へ吉備津彦(きびつひこのみこと)、丹波へ丹波道主命(たんばのみちぬし)と、4将軍を四道へ派遣した」という。
 北陸道へ派遣された大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)で垂仁天皇(すいにんてんのう)の外祖父になり、開化天皇の兄にあたる。稲荷山古墳鉄剣銘文に刻まれる「意富比
(おおひこ)」とみられる。
 大彦命の子が武渟川別で、阿倍朝臣等の祖と伝えられる。『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている(会津の地名由来説話)。
 吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)で、吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、『古事記』は3道へ遣わしたとあり、吉備津彦の名は記されない。
 丹波道主命は、古事記によると開化天皇の子の彦坐王の子である。母は息長水依比売(おきながのみずよりひめ)、娘は垂仁天皇皇后の日葉酢姫(ひばすひめ)。景行天皇の外祖父に当たる。
 四道将軍いずれも王族である。ヤマトタケルノミコトの説話と重なる。7世紀後半から8世紀の初めに『古事記』と『日本書紀』が成書化され、現存する日本最古の文書史料となった。両書はヤマトタケルノミコトを、『古事記』では倭健命と表記し、『日本書紀』では日本武尊として語っている。「日本」と「天皇」は、天武・持統天皇以降・7世紀後半、絶対的な表記となった。「尊」は両手で祭祀に捧げる酋(酒樽)からなる会意で、「尊し」「品位あり」「高貴」などの意があり、御言(みこと)を発するお方にも通じる。『日本書紀』の「神代上」の初めに「至りて貴きをば尊と書き、その他をば、命と書く」とあるように、「ヤマトタケルノミコト」を王族将軍として「至貴」の地位にあり、その英雄譚を語る象徴としたようだ。
 「ヤマトタケルノミコト」は、『古事記』『日本書紀』ともに景行天皇の皇子で、幼名を小碓命(おうすのみこと;『日本書紀』では小碓尊)という。気性が激しいため天皇に敬遠され、九州の熊襲(くまそ)や、東国の蝦夷(えぞ)の討伐に遣わされたという。西方の熊襲征伐には、髪を解いて童女に扮し、川上梟帥(かわかみのたける;『古事記』では、熊曽建;くまそたける)の祝宴の部屋に入り、酒の酔いがまわった時、衣の中に隠した剣を取り出し、その胸を刺した。川上梟帥は小碓尊に殺される際、その強さを称えて、ヤマトの勇者として日本武尊(やまとたけるみこと)の名を献呈した。
 古代の勇者は若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)のように「たける」を称している。『古事記』孝霊天皇の段で、孝霊の皇子である若建吉備津日子命が、兄の大吉備津日子命(おおきびつひこのみこと)とともに吉備国平定に派遣されている。雄略天皇では、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣に「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」の銘文があった。『古事記』では大長谷若建命(おおはつせのわかたけのみこと)、『日本書紀』では大泊瀬幼武天皇と表記される。
 県(あがた)は、大化の改新以前、諸国にあったヤマト政権の直轄地、または支配地とみられ、その県主(あがたぬし)が県を統治した首長であった。その県の分布によりヤマト政権が、大和・河内から最初に西日本へ統治圏を拡大させた様子が知られる。熊襲に関して『日本書紀』では、景行天皇13年夏5月条に、「悉く襲(そ)の国を平らぐ」とあり、18年夏4月に「熊県に到ります」とある。
 『日本書紀』が記す襲の国とは、景行天皇12年「11月、日向国に到り、行宮(あんぐう)を建てて居住された。これを高屋宮(たかやのみや)という。12月の癸巳(みずのとのみ)の朔、丁酉(ひのとのとり;5日)、熊襲討伐を議題にした。そこで天皇は群卿に詔して「朕は、襲国に厚鹿文(あつかや)・鹿文(さかや)がいると聞く。この両人が熊襲の渠帥(きょすい;悪人の頭目)で、仲間が甚だ多い。それで熊襲の八十梟帥(やそたける)と呼んでいる。その威勢は鋭く当たるべからず、率いる軍勢は少な過ぎるため賊を滅ぼすことは適わない。多くの兵を動員すれば百姓の害となる。なんぞ兵器の威力に頼らず、簡単にその国を平定できないものか」と申された。
 源順の編纂した『和名類聚抄』に、大隅国姶羅郡にある郷の一つに「鹿屋郷」があるが、「鹿屋」の正しい読みは「かや」という。襲の国は、この辺りをさすとみられる。
 6世紀前後、ヤマト王権が九州南部に勢力を拡大するなか、隼人の一部は早くからヤマト政権とのつながりを深めており、国造・県主となった者もいたようだ。
 『日本書紀』が記す「熊県」とは、景行天皇18年「夏4月の壬戌(みずのえいぬ)の朔、甲子(きのえね;3日)、熊県(熊本県球磨郡・人吉市)に到る。そこに熊津彦という兄弟2人がいた。天皇は、先に兄熊(えくま)を召し出す使いをいかせた。直ちに使者に従い参った。つぎに弟熊(おとくま)を召されたが来なかった。そのため兵を遣わし誅殺した。
 壬申(みずのえさる;11日)、海路より葦北(熊本県葦北郡)の小島に停泊し食事を召された。その時、山部阿弭古(やまべのあびこ)の祖である小左(おひだり)を召して、冷水の進上を命じた。たまたまこの時、島の中に水がなく措置の施しようがなかった。そこで天神地祗を仰ぎお祈りをすると、忽ち冷泉が崖の傍より涌出した、直ちに酌み取り献上した。故にその島を名付けて水島(熊本県八代市内の球磨川河口の水島の地)と呼んだ。その泉は今もなお、水島の崖に流れる」
  「熊県」とは、熊本県球磨郡を中心とする地域で、肥人(くまびと)とも書かれる。

24)雄略天皇による吉備氏弾圧 目次へ
 安康3(456)年、同母兄の安康天皇が、熟睡中に眉輪王に刺殺された。眉輪王は大草香皇子(おおくさかのみこ;仁徳天皇の皇子)と中蒂姫皇女(なかしひめのひめみこ)の子であったが、安康天皇は大草香皇子を殺し、その妃である中蒂姫皇女(なかしひめのひめみこ)を奪って自分の皇后とした。それで眉輪王は安康天皇を殺害し、父の仇に報いた。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと:雄略天皇)は、同母兄たちを疑い、自ら将軍となって兵を率い、兄の八釣白彦皇子(やつりのしろひこのみこ)を生き埋めにし、同じく兄の坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)が、眉輪王と語らい葛城円大臣の邸宅に逃げ込むと、円大臣が「私の娘韓媛と葛城の宅(やけ;直営地)7か所を奉ります。それにより皇子の贖罪を願います」という助命嘆願を許さず、大泊瀬皇子は邸宅ごと3人共々に焼き殺してしまった。さらに履中天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)を巻狩に誘い、馬上から射殺している。
 御馬皇子(みまのみこ)も履中天皇の子であったため、市辺押磐皇子の謀殺を知り、かねてより親しい三輪君身狭(みわのきみのむさ;奈良県桜井市にある神奈備山;ヤマト政権初期からの在地豪族)と相談するため向かうが、待ち伏せに遭い戦うが、多勢に無勢、三輪の磐井(いわい)で捕らえられ処刑された。
 同年、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや;桜井市脇本の脇本遺跡)を設けて、11月13日に、雄略天皇は即位した。平群真鳥(まとり)を大臣(おおおみ)とし、大伴連室屋と物部連目(め)を大連(おおむらじ)とした。
 (円大臣は「宅7区」を差出して、助命を願った。5世紀代の有力豪族は、本拠地に保有する「宅」と呼ばれる広大な農業経営地を権力基盤とした氏族であった)
 翌、雄略紀元(457)年3月3日、草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ;仁徳天皇の娘)を皇后とし、この月、3人の妃を立てた。最初の妃は葛城円大臣の娘の韓媛(からひめ)であった。雄略天皇は、それまで王家の地位を窺うほどの権勢を誇っていた葛城氏を葬りながら、葛城円の助命を拒絶し、結局、そのすべてを奪っていたようだ。韓媛は雄略天皇を嗣ぐ白髮武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと;清寧天皇)を誕生させた。次の吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の娘稚媛(かかひめ)、ある本では、吉備窪屋臣の娘という。二人の皇子を産んだ。長子は磐城皇子(いわきのみこ)、少子は星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)という。次に春日和珥臣深目(かすがのわにのおみのふかめ)は、春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)を産んだ。元は采女(うねめ;飛鳥時代迄、地方の豪族は、その娘を率先し、天皇家に献上し仕えさせた)であった。
 『日本書紀』の雄略天皇7年の条に「8月、官者(舎人;とねり)の吉備弓削部空(きびのゆげべのおおぞら)は、取り急ぎ吉備の家に戻った。吉備下道臣前津屋(きびのしもみちおみのさきつや;或本では、国造の吉備臣山;やま)が、空が都へ戻るのを留めて使役した。何か月経っても京都にのぼることを聴き入れなかった。天皇は、遣身毛君大夫(むけのきみますらお)を遣わし、再度、召された。空は、召されて戻って「前津屋は、小さい女をもって天皇その人となし、大きい女を自分に見立て、競い闘わせた。いとけない小さな女が勝つと、即座に刀を抜き斬殺した。また小さい雄鶏を天皇と呼び、毛を抜き翼も切り、対して大鶏を自分の鶏と呼び、鈴・金の距(あこえ;けづめ)を著させ、競い闘わせた。羽をむしられ禿た鶏が勝つと、再び拔刀して斬殺した」と語った。天皇はこの話を聞くと、物部氏の兵士30人を遣わし、前津屋と合わせて一族70人を誅殺させた。
 この年、吉備上道臣田狹(きびのかみつみちおみたさ)は、殿の側に侍り、盛んに稚媛(わかひめ)を称えて朋友に語り聞かせた。『天下の麗人で、我妻に及ぶものはないと、極めてゆったりとして、諸々の良さを備え輝きながら、しかも心は穏やかで、その他の種々も満たし、化粧気もなく、蘭沢(化粧油)を必要としない。世にも稀なこと、当世、ただ一人際立っている』
 雄略天皇は、それを噂に聴き情心を寄せた。それにより自らが求めるまま稚媛を女御になすため、拝(ありがたく)も田狹を任那お国司(くにのみこともち)に任じた。程なく、天皇は稚媛と親密になった。田狹臣は、稚媛を娶り兄君・弟君を産んだ。別本に『田狹臣の婦は、毛媛(けひめ)という。葛城襲津彦(かずらぎのそつびこ)の子・玉田宿禰の娘という。天皇は、容姿と面貌が閑麗(かんれい;雅やかで麗しい)と聞き、その夫を殺し、自ら親密になった』という。
 田狹は、既に任地にあった時、天皇が、自分の妻と親密になった聞き、思い巡らし新羅に求援を願い亡命した。当時、新羅は中国(みかど;倭匤)と通じていなかった。天皇は、田狹臣の子の弟君(おときみ)と吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)を召して「汝らは、新羅へ往き罰せよ」と命じた。
 すると、西漢(かわちのあや;5世紀末から6世紀前半に渡来してきた氏族で、おもに大和国を本拠とした東漢氏に対して、河内国丹比郡・古市郡を本拠とし、河内氏・山背氏・台氏を中心とする氏族集団であった。朝鮮半島の加耶地域から河内に渡来してきた氏族であれば、東漢氏と同族とみられる。物部氏と結びつきが深かった)の才伎(てひと;諸種の技術者)の歡因知利(かんいんちり)が天皇の側に仕えており、君前に進み奏上し『天皇の奴である私より巧な技能者が、韓国に多く在住しています。是非、召されて使われる可きです」申し上げた。
 天皇は群臣に詔して「それなれば、歡因知利を、弟君らに付き従わせ、その道中、百済へ向かい、勅書を下し、技巧者を献上させよ」と仰せられた。 このため弟君は、御命を受けて衆を率いて、百済に向かいその国に入った。国神(くにつかみ)が老女に化けて、忽然、路上に思いがけず現れた。弟君は訪国、新羅の遠近を尋ねた。老女は報(答)えて『なお一日の行程がある、その後に到着する』という。
 弟君は、その後に生じる様々な事態に対処するため、その路は、遥かに遠くなると思い、新羅討伐を止めて還った。 百済が貢いだ今来(いまき)の才伎(てひと;今来才伎とは新たに渡来した工人)を大島の一所に集め、順風をうかがうとこじつけて、数月にわたり淹留(えんりゅう;滞留)した。【注記;『三国志』中の「魏書」に書かれる「東夷伝」馬韓伝に「又有州胡在馬韓之西海中大島上(また馬韓の西海中の大島上に州胡あり)」とある】
 任那の国司の田狹臣は、弟君が新羅を討伐しないで帰還すると知り喜んで、百済に密使を遣わし、弟君を戒めて「汝が大領(長官)となり、その束縛下にあって、どのようにして攻伐しようか。伝聞によると、天皇は我が妻に通われ、遂に子供までも誕生した。子供のことは既に前の文で知らされた。今恐れるの事は、禍が我が身に及ぶことである。足待(足を爪立てて、事態の出来;しゅったい;をまっている)。我が子である汝は、百済にも拠点を築き、日本と通交してはならない。私自身は任那を拠点としてはいるが、再び日本と交流すつことはない」と言った。
 弟君の妻の樟媛(くすひめ)は、国家に対し情愛が深く、君臣間の義が強く、忠誠心は太陽の輝きを超え、節義の程は青松をも凌ぎ、そのため、かかる謀叛を憎悪し、その夫を秘かに殺害し、寝室内に埋めて隠し、海部直赤尾と共に百済が献じた手末(たなすえ;指先の意;手先を使う諸種の技術)の才伎を引き連れて大島に留まった。
 天皇は、弟君の不在を聞き、日鷹吉士堅磐固安銭(ひたかのきしかたしわこあんぜん)を賜姓された堅磐(かたしわ)、これを柯陀之波(かたしは)ともいう使者を遣わし復命させた。最終的には、倭国の吾礪(あと;河内国渋川郡跡部郷;現大阪府八尾市植松町)の広津に定住させた。広津は、盧岐頭邑(ひろきつむら)とも呼ばれた。
 なぜかその才伎達に病死者が多発しため、雄略天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じ、新漢陶部高貴(いまきのあやのすえつくりこうくい)・鞍部堅貴(くらつくりけんくい)・畫部因斯羅我(えかきいんしらが)・錦部定安那錦(にしごりじょうあんなこむ)・訳語卯安那(おさみょうあんな)らを、飛鳥の上桃原((かみももはら)・下桃原(しもももはら)・真神原((まがみはら;天武天皇は飛鳥浄御原宮を真神の原に造営した)の3か所へ遷居させた。ある本では「吉備臣の弟君が、百済より還り、漢手人部(あやのてひとべ)・衣縫部(きねぬいべ)・宍人部(ししとべ)を献じたとある。
 (この時代の前後に、檜隅から高取町域一帯は今来才伎が加わり急速に開発された。豊富な鉄資源を保有している伽耶地域から、鉄が渡来人の流入により、大量にもたらされた。
 鉄製農具や新たな灌漑土木などの農業技術は、地形や土壌が複雑に入り組んだ檜隅から高取町地域の原野を、収穫が可能な耕地へと開墾させた。『日本書紀』欽明天皇7月7日条に、檜隅から高取町にかけた地域には今来郡が設けられた。天武朝の時、高市郡に統合された。また、『日本書紀』推古天皇34(626)年5月22日条に、蘇我馬子が桃原に墓に葬らるとある)」
 雄略(大泊瀬幼武尊;おおはつせわかたけるのみこと)は、眉輪王と共に王家の外戚として勢威を振るっていた葛城氏を滅ぼし、従兄弟にあたる葛城氏系の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ;仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺して大王に即位した。
 一方、地方豪族でありながら、墳長が約350~360mの全国4位の巨大古墳である造山古墳(つくりやまこふん;岡山市新庄下)や全国9位の墳長約286 mの作山古墳(つくりやまこふん;岡山県総社市)など、全国屈指の巨大前方後円墳により、5世紀に一大勢力を誇っていたとみられる吉備氏も、雄略朝紀の反乱伝承に記されるように、その勢力を大幅に削がれた。吉備氏は東部(岡山市山陽町付近)の上道氏(かみつみちし)と、西部(岡山市西部・総社市)の下道氏を中心とする氏族連合であった。先に記す雄略天皇7年には、下道臣前津屋(しもつのみちのおみさきつや)が、雄略天皇の官者(とねり)により、雄略呪詛の発覚により物部氏の兵士30人が遣わされ、前津屋と合わせて一族70人が誅殺された。
 その後、雄略天皇は、上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)の妻稚媛が美しいことを知って、田狭を任那の国司に任じて赴任させ、その留守に稚媛を奪った。田狭はこれを恨み反旗を翻した。雄略は、田狭と稚媛との子である弟君に討伐を命じられた。弟君は、百済まで赴いたが、父子共に任那と百済を拠点として反乱を余儀なくされた。弟君は妻の樟媛に殺害されて、あっけなく謀反は頓挫した。
 後世、下道真備が唐に留学し、帰国してからは聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て朝政に参画し、天平18(746)年10月には、吉備朝臣を賜姓される程、重用された。

 (25)高句麗軍を撃破 目次へ
  「雄略8(464)年春2月、身狹村主靑(むさのすくりあお)と檜隈民使博德(ひのくまのたみのつかいはかとこ)を、呉国(南朝の宋)へ使者として遣わした(奈良県高市郡明日香村檜前の於美阿志神社;おみあしじんじゃ;は、東漢氏の氏寺の檜隈寺の跡地に鎮座している。その由緒によれば、檜隈の地に、雄略天皇2(475)年、渡来人の身狭村主青、檜隈民使博徳が最初に移住してきた。雄略8年、その身狭村主青と檜隈民使博徳が、雄略天皇により南宋の使者として渡り、雄略14年1月、その身狭村主青と檜隈民使博徳は、 南宋の使者ととも帰国し、南宋の王から下された漢織;あやはとり・呉織;くれはとり・衣縫;きぬぬい;などの手伎らを檜隈野に住まわせたとある)。
 天皇が即位されてからこの年まで、新羅国は背き偽り、苞苴(ほうしょ;貢物)を今に至るまで8年間進上していなかった。それでも中国(みかど;倭)の心中を大いに恐れていた為、高句麗と修好していた。それで高句麗王は、精兵一百人を、新羅を守るため駐留させた。
 暫くして、高句麗の軍士の一人が、束の間の帰国が許され、その間、新羅人を典馬(これを麻柯;うまかい;という)に雇い従わせた。道中、顧みて言うには「汝の新羅国を、我国高句麗が破ることもそれほど先の話ではない」と語った。ある本では「汝の国は、結局、我国の領土に間も無くなる」と言ったとある。典馬は、これを聞き、うわべ腹を患ったとして退き後方に付き従った。遂に逃げて新羅に入り、高句麗の軍士が語ったことを話した。
 それで新羅王は、高句麗が偽って守備していると知り、使者に馬を馳せらせ、国人に「人々は、家内で養鶏している雄鶏を殺せ(新羅語のtarkは鶏、高句麗語のtar,takは軍隊・軍人をいう)」と告げさせた。国人はその意味を理解し、国内にいる高句麗人を悉く殺した。ただ高句麗の一人が生き残り、隙に乗じて脱出し、国へ戻った。皆につぶさにこの変事を話した。高句麗王は、ただちに軍兵を発し、筑足流城(つくそくろのさし;現、大邱)に駐屯した。或本では、都久斯岐城(つくしきのさし)という。
 高句麗王は、歌舞と楽を演奏させた。それで新羅王は、夜、高句麗軍が周囲で歌舞をするのを聞き、賊が悉く新羅の地に入ったと知り、使者を任那の王へ遣わし「高句麗の王が我国を征伐しようとする当にこの時、吊り下げられた旗のように高句麗に振りまわされ、新羅は累卵の危うきにあり、その命運の長短は、甚だ計りがたい。伏して日本府の行軍元帥(いくさのきみ)らの救援をお願い申し上げる」と言わせた。
 (『日本書紀』の雄略紀が、日本府の初見である。ただ当時、日本という国号はなく、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む地に任那があったとみられ、倭国の「ヤマトノミコトモチ」と称された出先機関や軍があったようだ。7世紀末の天武・持統朝に「日本」という国号と「天皇」という称号が定められた。)
 宋書倭国伝によると、451年に、宋朝の文帝は、倭王済(允恭天皇)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けた。また、478年に、宋朝の順帝は、倭王武(雄略天皇)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたとある)
 これによい、任那の王は、膳臣斑鳩(かしわでのおみいかるが;斑鳩は、これを伊柯餓;いかるが;という)・吉備臣小梨(おなし)・難波吉士赤目子(なにわのきしあかめこ)を勧め、新羅へ救援に行かせた。膳臣らが、未だ陣営を構える前から、高麗軍の諸将は、膳臣らと対戦を皆恐れた。膳臣らは、自ら軍を労わるよう努めながら、軍中に指令し、攻具の用意を促し進攻を急がせた。高句麗軍と対峙すること10余日、夜間、険しいところに地下道を掘り、すべての輜車を通し、奇兵を送った。夜が明けて、高句麗軍は、膳臣らが逃げたと言い、全軍が追撃した。
 膳臣らは思う存分に奇襲をかけて歩兵と騎兵で高麗軍を挟撃し大破した。二国の怨み、これより生まれた。二国とは、高麗国と新羅である。膳臣らは新羅に「汝は、至って弱いのに至って強い兵に当たった。官軍(倭軍)が救わなければ、必ず人民と領土の殆どがこの戦を機に乗っ取られたであろう。今より以後、決して天朝に背いてはならない」

 (26)新羅征伐 目次へ
  『日本書紀』「雄略9(465)年3月、天皇は新羅親征を考えたが、神は天皇を戒めて『往ってはならない』といった。天皇はこれにより、征くことが果たせなくなった。それで紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)・蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)・大伴談連(おおとものかたりのむらじ;談は箇陀利という)・小鹿火宿禰(おかひのすくね)らに勅して「新羅は、元から西方の故地に居た。累代臣を称してきた。朝見を違えることもなかった。貢献を欠かすこともなかった。
 朕が天下の王になるや、新羅はヤマトとの交流の窓口である対馬に近づこうとせず、その窓口を加耶に近い匝羅(サフラ;現在の慶尚南道梁山市、梁山は倭政権にとって対新羅の戦略上、重要な拠点となるため、そのまま新羅方面を指す呼称となった)の地に竄(かく)し、高句麗からの貢を阻み、百済の城(サシ;古代朝鮮語でいう城)を併呑した。ましてや朝貢の再開は行われぬままである。朝見も既になく、貢献も行われないまま、狼の子が山野に戯れ、跳び飽きて飢えれば懐いてくる呈だ。汝ら4人の卿を、大将の任に拝命した。小気味よく王師(みいくさ)で討伐する、天罰を加えるための出征に備えよ」
 「この時、紀小弓宿禰は、大伴室屋大連に頼み、その憂いを天皇に伝言してもらった。『天皇の臣であれば、拙く弱いと雖も、勅を敬い奉ります。但し、臣の妻が亡くなった今、臣をよく世話する者がいません。貴殿は、この事を詳らかに天皇に申し上げて欲しい」
 それで大伴室屋大連は詳らかにそれをお伝えすると、天皇は悲嘆にくれるが、吉備上道出自の采女である大海(おおしあま)を紀小弓宿禰に随身し世話をするようのと下賜され、自ら采女が乗る車を押して遣わされた。
 紀小弓宿禰らは、直ちに新羅入りし、近くの郡を行屠(ゆきほふ;行屠とは並行並撃;並び行き並んで攻撃)った。新羅の王は、夜、官軍が四方で打つ鼓声を聞いて、喙(トク;慶尚北道慶山)の地が尽(ことごと)く奪われたと知り、数百の騎兵と共に算を乱して逃げ去り大敗した」
 小弓宿禰は、追撃し敵将を陣中で斬り、喙の地、悉くを平定しが、残った衆人は降伏しなかった。紀小弓宿禰は、再び兵をまとめて大伴談連らと集結し直すと、兵力が回復し大いに奮い立ち、衆人との戦ができた。その夕刻、大伴談連と紀岡前来目連(きのおかさきのくめのむらじ)が力闘の末に戦死した。談連の従者で同姓の津麻呂が、その後、軍中に入り、自分の主人を探し求めたが、所属する軍では見つけ出せず「私の主人の大伴公(おおとものきみ)は、どこにおられるのでしょうか」と尋ねた。それに答えてくれた人が「汝の主人らは、勇敢であったが敵の手で殺された」と屍が置かれた所を指差した。津麻呂はこれを聞くと、失敗したと、自らを叱り『主人が既に敵の手に落ちたとなれば、どうして私独(ひと)りが生き長らえようか』と言いながら、再び敵の中に突入し、瞬く間に落命した。
 ある日、衆人が自ら退却した。官軍は追撃し更に退けた。大将軍の紀小弓宿禰は、病にかかり薨じた。 夏五月、紀大磐宿禰(きのおおいわのすくね)は、父が既に薨じたと聞き、直ちに新羅へ向かい、小鹿火宿禰(おかひのすくね)が所掌していた兵馬・船官及び諸小官を掌握し、厳しい命令を専らに発した。それで、小鹿火宿禰は、大磐宿禰を深く恨んで、韓子宿禰に偽りを告げた。「大磐宿禰が私に『韓子宿禰が所掌する官も、我が間もなく執行に当たるであろう、といわれた。どうか貴方が所掌する官を固く守って下さい』。
 以後、韓子宿禰と大磐宿禰にわだかまりができた。それで百済王は、日本の諸将が、小事に拘り隙が生じていると聞き、韓子宿禰らに人を使わせ『国堺をお見せしたいので、どうぞご臨席下さい』と言わせた。韓子宿禰らは轡を並べて赴いた。河に出た時、大磐宿禰が河で馬に水を飲ませた。その時、韓子宿禰は、その後に従い大磐宿禰の鞍几後橋(鞍几;くらぼね;は鞍の前後の高くなったところ、後橋;あとはし(ごきょう);はその後ろの方)を射った。大磐宿禰は、驚いて振り向き、韓子宿禰を射落とした。中流に流れて死んだ。この3人の臣は、以前から競い合い乱行が絶えなかった。百済の王宮へ行かず、その場から戻っていった。
 この時期、采女の大海は、小弓宿禰の喪に従い日本帰り、大伴室屋大連にその憂いを申し上げた。『私には、小弓宿禰を葬る場所がわかりません。良地をどうかお示し下さい』。
 大連は直ちにこれを奏上し、天皇は大連に勅して『大将軍紀小弓宿禰は、竜が天に昇り、虎が睨むように威勢が盛んで、旁(あまね)く八方を睥睨し、逆らえば掩討(えんとう;不意を付いて討つ)し、天下の敵を撃滅した。しかしながら、その身は万里遠き地で苦労を重ねて、三韓において命を落とした。視葬者(はぶりのつかさ)に当たらせ、よく哀矜(あいきょう;哀れみ敬え)いたさせよ。また汝ら大伴卿と紀卿らは、同国で近隣の人であれば、昔からの由来もあろう』(『大伴卿と紀卿が同国で近隣の人』であれば、大伴氏と紀氏の勢力圏は、大和ではなく、和泉と紀伊で隣接していたようだ)。
 大連は勅を奉じて、土師連小鳥(はじのむらじおとり)を使い、田身輪邑(たむわのむら;大阪府泉南郡岬町淡輪)に塚墓を作ららせここに葬った。これで、大海は喜び、黙ってもいられず、韓奴室(からのやつこむろ)・兄麻呂(えまろ)・弟麻呂(おとまろ)・御倉(みくら)・小倉(おくら)・針(はり)の6人を大連へ送った。吉備上道の蚊嶋田邑(かしまだのむら;岡山県岡山市)の家人部(やけびとべ)がこれである」
 「別に小鹿火宿禰は、紀小弓宿禰の喪に従ってきた。その時、独り角国(つののくに;周防郡都濃郡)に留まった。倭子連(やまとごのむらじ;倭子連の姓は未詳)を使い八咫鏡(やたのかがみ)を大伴大連に奉っり祈請して言った。『私は、紀卿(紀大磐)と共に天朝に奉事する事に堪えられない。そのため角国に留住することをお願いします』。それで、大連は天皇に奏上して留居する角国に使わし、これ以後、角臣らは、初めて角国に留居し、その賜姓の由来となった」。

 (27)倭政権の半島政策の挫折 目次へ
   雄略天皇の時代、争乱の絶えない半島諸国では、倭国は常に軍事的に優位にたっていた。高句麗の長寿王は平壌に遷都し、華北の鮮卑拓跋部の北魏孝文帝との関係を安定させると、南下策をとり一段と百済に対して攻撃的になった。これに対して百済は、この頃に高句麗の支配から逃れた新羅と同盟(羅済同盟)を結び、北魏にも高句麗攻撃を要請したが、475年にはかえって都・漢城を落とされ、蓋鹵王(ケーロワン)は捕えられて斬殺された。
 王都漢城を失った475年当時、新羅に難を逃れた蓋鹵王の子文周王は都を熊津(ゆうしん;現・忠清南道公州市)に遷したが、百済は漢城失陥の衝撃からなかなか回復できなかった。この時期、百済は倭国と従来以上の提携を強化し、新羅と共同して北の強国高句麗に立ち向かうようになった。
 『日本書紀』によれば、雄略23(479)年、百済の文斤王(もんこんおう;三斤王;サムグンワン)が在位3年目の479年11月に死ぬと、雄略は倭国に来ていた昆支王(こんきおう;蓋鹵王の弟)の次男末多王(またおう)に武器を授け兵士5百人に護衛させて百済に送った。これが東城王(とうせいおう;トンソンワン)である。東城王の時代になると、中国・南朝や倭国との外交関係を強化するとともに、国内では王権の伸張を図り南方へ領土を拡大した。
 東城王は王位に嗣ぐと直ちに、文周王を暗殺させた解仇の反乱を収めた真老を徳率(4等官)から兵官佐平(1等官)に昇進させ、軍の統帥権を委ねた。百済の大姓(たいせい;勢力のある家柄)である8族に含まれる燕氏・沙氏を重用して、既存の政治体制を改革しようとした。東城王は、480年に南朝の宋の順帝から禅譲を受けて開いた南斉に朝貢して、その冊封体制下に入った。
 梁の蕭子顕(しょう しけん)が書いた紀伝体の史書『南斉書(なんせいじょ)』には、南斉の初代高帝(蕭 道成;しょうどうせい)の建元 2(480)年に、百済王牟都(東城王?)が、使臣を遣わし貢献した。「詔があって、『天子の命令が新たになされ、その徳沢が遠く離れた地域にまで及んだ。牟都は代々東方を藩領とし、その遠隔の領地で職分全うしたため、使持節都督・百済諸軍事・鎮東大将軍を授与する』と宣う」とある。
 『百済本紀』では、493年に、新羅に通婚を要請した。伊(イチャン;2等官)の娘が嫁いできた。翌494年には高句麗が新羅を攻めたところに救援を送って高句麗兵を退け、さらに495年には高句麗に侵入された際には新羅から救援が来て高句麗兵を退けている。このように新羅との同盟で高句麗に対抗する姿勢をとっていた。501年7月、炭(タニョン;京畿道高陽市一山西区徳耳洞)に城柵を築いた。
 王権と国力の回復をはたし、外征にも成果を挙げた東城王であったが、晩年には暗君と化した。 武烈天皇元年にあたる東城王21(499)年、夏の大旱魃により、被災した国民が飢餓に苦しみ、盗賊が各地で横行した。群臣達は国倉を開錠し救荒するよう請うが、王は拒否した。10月には、疫病が蔓延した。『高句麗本紀』には「百済の民が餓えて2千名が投降して来た」とある。
 その状況下、500年の春、王宮の東、忠清南道公州市錦城洞に高さ5丈(じょう;丈は身のたけの意で、古来180cm、5丈は9m)もの臨流閣を築き、池を掘りに珍しい鳥を飼うなどの贅の限りを尽くした。臣が上書して諫言したが、その臣下を遠ざけた。同年も旱魃があったが、側近とともに臨流閣で一晩中の宴会をするなどしていた。こうした腐敗振りに、501年11月、衛士佐平の白加(ハクカ;白はくさかんむりに白)の放った刺客に刺され、12月に死去した。諡されて東城王を称した。
 東城王の後に即位したのが、第2子の武寧王(ぶねいおう;在位:501年 ~ 523年)であった。昭和46(1971)年に、古代の熊津の地である忠清南道公州(コンジュ)の宋山里古墳群から、排水工事中に、武寧王墓が全く盗掘されていない状態で発見され、墓誌(買地券)も共伴し、王墓と特定された。
 墓誌には「寧東大将軍百済の斯麻王、年62歳、 癸卯(523)年5月7日に崩到」と記されている。王の生没年が判明する貴重な史料となっている。古墳は、王妃を合葬した磚室墳(焼成煉瓦を積み重ねた墳墓)で、その棺材は日本にしか自生しないコウヤマキと判明した。
 武寧王が最新の南朝文化の摂取につとめ、王都が大いに繁栄していたとみられる、金環の耳飾り・金箔を施した枕・足乗せ・冠飾などの金細工製品・中国南朝から舶載した銅鏡・陶磁器など約3,000点近い華麗な遺物が伴出した。
 その6世紀に入ると、半島情勢は大きく転換し、新羅の法興王(ポップンワン;在位:514年 ~ 540年)は、「兵部」を設置するなど国家組織を整備し、520年には官位制を中心とする「律令」を発布し、翌521年には、中国南朝の梁に朝貢する。台頭する新羅は高句麗南部へ領土を拡大させた。
 一方、百済の武寧王の南進策により、半島の西南端にあった馬韓地域が、更にその東方、倭国の半島の拠点があった加耶諸国が次々と両国に併呑され、遂には滅亡した。
 その間、慶尚南道金海付近にあった金官国に、新羅が洛東江(ナクトンコウ)を渡り入り込んでくる。金官国は侵攻を受けつつ532年降伏、倭国は金官国の独立回復を画策したが562年には滅亡した。
 このような中で武寧王の次に即位したのが、その子の聖王(ソンワン)である。日本では仏教を伝来させた聖明王として有名だ。聖王は中国南朝と結び、梁からは524年に、持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王に冊封され、新羅と修好し新羅・倭との連携を図って高句麗に対抗しようとした。しかし高句麗の安臧王(アンジャンワン)の親征に敗れ、529年には再び百済に侵入され、五谷(黄海道瑞興郡)で大敗し、首級2千余をあげられた。538年に首都を熊津から、錦江(クムガン)を少し下った泗(忠清南道扶余郡)に遷し、「南扶余」と国号を改めた。
 新羅との連携は、南方の加耶諸国の領有を争って不安定なものとなり、倭国との連携を強化した。541年には任那復興を名目とする新羅討伐を企図し、倭王権の介入を要請した(任那復興会議)。
 欽明天皇から武具や援軍が送られたのは欽明天皇9(548)年であった。「冬10月に、370人を百済に遣わし、城を得爾辛(とくにし)に築くのをたすけさせた」とある以降のこととなった。この頃には百済は再び新羅と連合(羅済同盟)して高句麗に当たるようになっており、551年に漢山城(京畿道広州市)付近を奪回した。

 『日本書紀』では「欽明12(551)年の春3月、麦の種1千斛を百済王に賜った。 この年、百済の聖明王は、自ら百済の国人と2国の兵(二国とは、新羅・任那をいうなり)を率い、高句麗討伐に往った。漢城の地を得て、又、進軍して平壤を討ち、おおよそ6郡の地の故地を回復した。
 その間も新羅の真興王(チヌンワン;在位:540年 - 576年)は、その領土を飛躍的に拡大させ、その勢いは高句麗をも凌いでいく。 552年には、高句麗と百済の戦闘の機に乗じて、百済が高句麗から奪回した漢城(ソウル)を奪い取り、遂に西海岸まで領土を広げた。百済は、553年10月に王女を新羅に通婚させているが、百済との関係は悪化するばかりで、554年、反百済を鮮明にした新羅を、聖王自らが加耶と連合して管山城(忠清北道沃川;オクチヨン)に攻め入った。だが聖王が孤立した王子余昌(後の威徳王)を救援しようとする途上、狗川(忠清北道沃川郡)で新羅の伏兵に遭い戦死した。百済と加耶の連合軍2万9千600の兵が殲滅した。
 『日本書紀』は聖王の死を鮮明に語る。「その父、明王は憂慮していた。余昌が長く陣中にあって苦行し寝食もままならず、父の慈愛が多いまま、子の孝行が叶えられていない。自ら戦場に往き慰労したい。新羅は、明王が親征して来たと知り、国内の兵を悉く発し、その行路を断ち、王一同を撃破した。
 この時、新羅の真興王は、謂佐知村の飼馬の奴(やつこ)苦都(こつ;または谷智;こくち)に『苦都は賤しい奴で、明王は名のある主(こきし)だが、今は、賤しい奴に名のある主を殺させよう。それが後世に伝承され忘れられないようにしたい』という。
 苦都は、明王を捕えるが、再拝して『王の首を斬らせて欲しい』と言うと、明王は答えて『王の頭は、奴の手で斬られるべきでない』。苦都は『我国の法では、盟約に違背すれば、国王といえども、奴の手にかかる』と言う(ある本には『明王は、床几(しょうぎ)に腰掛け佩刀をはずし授け、谷側で斬首させた』とある)。
 明王は、天を仰ぎ、大いに涕泣し、許諾に『自分は、それを思うたびに骨髄に至る程に常に痛んでいる。それを思えば決して生き長らえようもない』。直ちに首を差出し斬られた。苦都は、斬首後、穴を掘って埋めた(ある本は言う『新羅は、明王の頭骨を埋めて、残りの骨は礼に従い百済に送った。今、明王の骨は北庁(きたのまつりごとどの)の階段下にあり、この庁を曰都堂(とどう)と名付けた』)。
 「余昌は、遂に囲繞され、脱出できず、士卒は慌てふためくばかりで、なす術がない。弓の名手である筑紫の国造が、前進し弓を湾曲させ、新羅の騎卒で最も勇壮な者を狙い定め射落とした。その放つ矢は、鞍の前後の橋(くらぼね)を貫き、その被る甲の首筋まで達した。それを続けざまに雨のごとく矢を放ち、益々勢いが増し弛まず射続けたため、包囲軍は退却した。これにより、余昌と諸将らは間道を通って逃げ帰れた。余昌は、国造の射撃を称え、鞍橋君(くらじのきみ)と尊称した(鞍橋は、これを矩羅膩;くらじ;という)。 新羅の将らは百済が疲弊し切ったと知り、最終的には跡形もなく滅亡させようとした。一人の将軍が『それはすべきでない。日本の天皇は、任那の事では、屡、吾国を責める。況してや今また百済の官家(みやけ)を謀滅させたら、必ず後患を招くであろう』と主張したため取り止めとなった」。
やがて真興王は、562年、異斯夫(イサブ)と斯多含(サダハム)とを派遣して加耶を滅ぼし、洛東江下流域を制圧した。

 (28)星川皇子の反乱 目次へ
  『日本書紀』巻第15の白髮武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、即ち 淸寧天皇の「即位前紀」に
 「白髮武広国押稚日本根子天皇は、大泊瀬幼武(雄略)天皇の第3子で、母は葛城韓媛(かずらきのからひめ)と言う。天皇は、生来白髮で長じて民を愛された。大泊瀬天皇は諸皇子の中でも特に靈異ありとし、雄略22(478)年、皇太子に立てられた。
 23年8月、大泊瀬天皇が崩御された。吉備稚媛は、密やかに幼子の星川皇子に告げて『天下の位に昇ろうとするなら、先ず大蔵(大王の財庫を管理)の官を奪いなさい』と言う。長子の磐城皇子は、自分の母でもある夫人が、その幼子に教える事を聴き『皇太子は、我が弟であっても、安易に欺く可き事ではない』と星川皇子に語り聴かせたが、聴くことなく、輙(たやす)く母夫人の意見に従い、遂に大蔵の官を略取した。
 その外門を閉錠し、難事に対して一定の備えをし、権勢を恣にし、官物を費消した。ここに至って、大伴室屋大連は、東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)に「大泊瀬天皇の遺詔どおりの事態が今出来したようだ。宜しく遺詔に従い、皇太子を奉じよ」と命じた。直ちに軍隊を発して大蔵を囲繞し、外から閉じ込め、火を縱(はな)ち焼き殺した。
 この時、吉備稚媛と磐城皇子や異父兄の兄君(えきみ;先夫である吉備上道田狭との子;弟君の兄)と名前までは不明であるが豪族の城丘前来目(きのおかさきのくめ)は、星川皇子に従っていたため焼き殺されてしまった。
(中略)
 この月、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは、朝廷で反乱が起きたと聞き、娘の稚媛が生んだ星川皇子を救おうと思い、船師(ふないくさ;水上兵力)40艘を率い、渡海をはじめたが、既に焼き殺されたと聞き、海上より戻っていった。
 天皇(白髪皇子)は、直ちに使者を遣わし、上道臣らを叱責しその所領の山部を奪った。冬10月己巳(つちのともみ)の朔壬申(みずのえさる;4日)、大伴室屋大連は、臣や連らを率いて、皇太子に璽(しるし;鏡と剣)を奉った」
 
 この一連の吉備氏の反乱の失敗により、その勢力は大きく後退した。かつて、吉備氏の勢力は出雲勢力とも近い関係にあったようだ。 『日本書紀』巻第一(神代巻上)の第三の「一書」に「素戔嗚尊の蛇を断りし剣は、今吉備の神部(かんべ)のもとにあり」とあり、「その蛇を断ち剣は、蛇之麁正(おろちのあらまさ)と号した。これは今、石上に坐す」とある。石上とは、備前国(岡山県赤磐市)石上布都魂神社(いそのかみふつみたまじんじゃ)で、その御神体となっている。
 以後、倭政権と同盟して列島の統一・治世に貢献し、古墳時代から飛鳥時代まで繁栄した地方として重きをなしていた。河内王朝時代には、倭政権中央部に対抗するほどの勢力を誇ったが、これが倭政権の警戒を呼んだのか、やがて雄略天皇の謀略なのか、その勢力は大幅に削減された。
 雄略朝の時代、5世紀の倭政権を支えるが、その一方、その地位を脅かす葛城氏と並ぶ二大豪族でもあった。それが相次いで没落させられた事により、雄略天皇は「治天下大王」として、従来の倭王権を遥かに超える権力を掌握した。

 (29)清寧天皇即位 目次へ
  「元(480)年春正月、戊戌(つちのえいぬ)の朔壬子(みずのえね;15日)、有司(つかさ)に命じ、壇場を磐余(いわれ)の甕栗(みかくり;橿原市東池尻町?)に設け、天皇(清寧天皇)の位にのぼった。ここに王宮を定めた。皇后でなかったため、葛城韓媛を尊んで、皇太夫人(おおきさき)とした。大伴室屋大連を大連に、平群真鳥大臣を大臣となし、共に従前通りに再任された」
 治天下大王の即位には、天つ神を祭ってその「事依させ」を受けることが不可欠であった。大王は代替わりごとに天つ神から統治権の付託を受ける必要があった。また治天下大王の王宮は、通常、壇が築かれた場所に営まれた。しかも、律令制以前は歴代遷宮が原則であり、代替わりごとに新宮を設けた。
 清寧天皇の母の葛城韓媛は、『日本書記』が編纂された令制後であれば、皇后は天皇の死後、皇太后となるが、皇后でなかったため、皇太夫人と尊称された。
 雄略天皇は、壇を泊瀬(はつせ)の朝倉に築き即位し、その地に新宮を築いた。その息子の清寧天皇も、壇場を磐余の甕栗に設け、そこを王宮の地として定めた。『日本書紀』は、清寧天皇の即位に際し、大伴室屋大連を大連に、平群真鳥大臣を大臣となし、その他の臣・連・伴造らも共に従前通りに再任されたとある。
 天武天皇以降の奈良朝時代と違い、治天下大王の即位には、群臣の推戴が必須であった。大王自らの意志で後継者を選ばれなかったようで、しかも譲位の慣行も定まらず、王権の継承には、実力本位の紛争が当たりまいであった。その一方、群臣にも新大王による地位の承認が必要であった。たとえ留任であっても、『日本書紀』は執拗に、その事実を記録する。治天下大王の即位には、相互の地位の承継と確認を前提にしていた。官僚機構が整う奈良時代以後は、天皇が『現人神』として君臨すると、その儀式の意味も無くなった。
 脇本遺跡では、飛鳥時代にかかる6世紀後半~7世紀初めの大型建物跡も見つかり、県立橿原考古学研究所が平成22年6月、その旨を発表した。発見された大型建物跡6箇所の柱穴径は48~58cmと太く、脇本遺跡のある「磯城・磐余(いわれ)」と呼ばれる地域には、第29代欽明天皇(在位:539~571年)の金刺宮址が出土した。
 初瀬谷を東に、宇多市榛原(はいばら)あたりの墨坂(すみさか)を越えれば、伊賀・伊勢に至る要地であった。その地にある金刺宮で、欽明朝による32年に及ぶ王権支配がなされた。

 雄略天皇の時代では、国内外に、軍事・政治共に倭政権の国威を発揚させた。欽明紀になると、半島勢力の百済や新羅による、したたかな国益優先の一方的な外交戦略に翻弄された。
 軍事では『日本書紀』に克明に記されるように、倭政権の戦術・戦略が欠如した半島出兵であったため敗北を重ねた。新羅の真興王は、562年、親征の必要もなく、家臣の異斯夫と斯多含らを派兵し加耶を滅ぼした。洛東江下流域をこうして制圧した。倭政権は3世紀の邪馬台国卑弥呼以前から半島に影響力を与えてきた狗邪国や任那の橋頭堡とその周辺地の権益の総てを失った。