崇神天皇の時代(4世紀初頭)        Top  車山高原 諏訪の散歩 車山日記 
 
 目次
 1)ヤマトとは
 2)三輪山
 3)ヤマトと邪馬台国
 4)崇神天皇によるヤマト政権誕生
 5)崇神天皇、出雲勢力を牽制
 6)出雲の鉄器と薬草
 7)崇神天皇、行灯山古墳に埋葬


 1)ヤマトとは     
 奈良県の北西部をしめる大和盆地は、断層運動によって落込んで生じた盆地で、北は奈良市街地北部一帯の奈良山丘陵、東は奈良・三重・滋賀・京都の4府県の境をなす木津川峡谷以南の大和高原、南は竜門岳 (904m) を主峰とする、奈良盆地の南端と吉野川渓谷の間を北東から南西方向に連なる竜門山地、西は生駒・金剛の両山地により明確に限られる。
 その大和盆地は標高40~80mからなる平坦な沖積地で、その発展の基礎となった大和川やその諸支流が、ヤマト政権の支配地へ導く舟運を発達させ、かつての邪馬台国の交易都市を再興させていく。それが倭政権にも引き継がれ列島支配に大いに貢献した。やがて、この大和盆地を基盤とする諸豪族が台頭し、その諸勢力が連合することによりヤマトを政権都市としていく。
 大和盆地の西南部の二上山・葛城山・金剛山(金剛山地)の東麓を拠点とした姓が臣の葛城氏、その北方の生駒山の山麓を経済基盤とした姓が臣の平群氏、東北部の春日・大和国添上郡和邇(天理市和爾町)の姓が臣の和珥(和迩)氏、大和国山辺郡石上郷付近(天理市前栽町から布留町)を本拠にしていた姓が連の物部氏、大和国高市郡巨勢郷(奈良県御所市古瀬)を基盤とした姓が臣の巨勢氏が勢力を強めていた。これらの豪族と並存するよう、大和盆地の東南にあたる三輪山山麓一帯が、大王家発祥の地となっている。
 この地は古代の大和国磯城郡で、「敷島(磯城島)の大和」と呼ばれ、日本の別称となり、「敷島の」は大和の枕詞となった。この周辺地域に流れる河川は、寺川・初瀬川・巻向川などと多く、「敷」にはかつて「分つ」「散らす」という訓読みがあり、多くの河川とそれをつなぐ掘割が、条里化された水田景観と重なり、美しく緑の水田を分つ、その流下する風景を「敷島」と称えた。


 2)三輪山   目次
 三輪山は、奈良盆地の南東部に位置し、標高467.1m、三諸山(みもろやま)ともいい、なだらかな円錐形の美しい姿により、まさに神奈備山と崇められた。
 ヤマトの西方、金剛山地の北部にあり、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町に跨がり、北方の雄岳(おだけ;517m)と南方の雌岳(めだけ;474m)の2つの山頂がある二上山(にじょうさん)は、かつては大和言葉で「ふたかみやま」と呼ばれた。古代、石器の材料として使われたサヌカイトの産出地であった。
 奈良盆地南部の人々には、西の二上山と東の三輪山は、目立つ山容でもあり、方角の目安となっている。特に三輪山は、秀麗な姿により縄文・弥生時代を通して、神奈備山即ち神宿る山と呼ばれ、三輪山自体が神体として崇拝され神祀りの対象となった。
  三輪山山麓に広がる磯城の盆地からは、東方にあたる三輪山の山頂から昇る朝陽が、夕べには西の二上山に没する。春分と秋分の彼岸の日、三輪山の山頂の真東から太陽が誕生する聖山となり、それが夕陽となり、辺りを赤く染めながら二上山の雄岳と雌岳の間に落ちていく。その太陽が没する光景から、二上山は死の山と称された。そのためか、二上山山麓にヤマト王権一族の墓が少なからず築造されるようになる。
 天武天皇の第3皇子、母は大田皇女〈天智天皇の長女〉である大津皇子は、天武15(686)年9月9日、父帝が崩じると、翌月2日、謀反が発覚したとして、同心した者達と共に捕えられた。翌3日、居宅のあった磐余の訳語田(おさだ)の宮で自害させられた。大津皇子は二上山に葬られた。
 西側山麓の大阪府南河内郡太子町にある叡福寺(えいふくじ)には、聖徳太子が葬られた磯長(しなが)の陵がある。その叡福寺北古墳には、聖徳太子本人とその母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が合葬されている。
 叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
 古代では春の彼岸から2ヵ月後に稲の播種が行われた。播種は水田稲作の豊凶に関わる重要な日である。その日を決定するため太陽の位置を測定するのが、祭祀を司る君主の重要な役割であった。それを「日知(ひじ)り」と呼び、太陽の日々の動き観察し、年次ごとに祭祀日を決める者をいい、それで共同体の首長や君主は「日知り」と称された。
 『漢書』に「聖主(天子)は危うきに乗ぜず(近寄らず)」とあるように、「聖」が天子を称するようになると「聖」の字があてられた。

 『日本書紀』、崇神天皇10年の条に「この後、倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)は、大物主神の妻となった。然しその神は昼に見えず、常に夜に来た。倭迹々姫命は夫に話した。『我が君は常に昼に来ないので、はっきりとその尊顏を見ることができません。暫くここに留まり願えませんか。明朝にその美麗な威儀を仰ぎ見たいのです』。大神は答えて『そなたの言う通りだ。わしは明朝、そなたの櫛笥(くしげ;櫛箱)に入っている。どうか、わしの形に驚かないでくれ』。
 倭迹々姫命は、心中、密かに異な事をと思った。明けるのを待って櫛笥を見ると、美麗な小蛇がいた。その大きさは衣の紐ぐらいであった。驚いて泣き喚いた。大神は恥じて、直ぐに人の形に化け、妻に告げた。『お前は堪えられずに、わしを辱めた。わしは帰ってそなたを辱めよう』。大空を歩んで、御諸山(三輪山)に登って行った。倭迹々姫命は、その雄姿を仰ぎ見て、悔いて動揺の余り座り込んでしまった。その際に“つきう”という事態が生じた。たまたま置かれていた箸に陰部を突かれて薨じた。大市(おおち;桜井市北部)に葬られた。
 その当時の人は、その墓を箸墓と呼んだ。この墓は、昼間は人が作り、夜となれば神が作り、大坂山の石を運んで造り、山より墓所に、人民が互いに踵(かかと)を接し、手伝いに渡して運んだ。
 時の人が歌った
  大阪に、上まで続く、石の群れを、手渡しで、もち越したなら、もち越せるかな」

 『日本書紀』では三輪山の神(大物主神)は「美麗な小蛇」として姿を現した。蛇は古代、「水霊(みずち)」ともいわれ「水神」として信仰の対象となった。その水とは、主に淡水で、農耕民とって水は最も重要な生産資源であり、その状況次第で収穫が左右されることは現代でも変わらない。そのため日本における水神は、田の神と結びついた。田の神と結びついた水神は、田のそばや用水路沿いに祀られていることが多い。やがて水源地に祀られる水神が、山の神とも一体化していった。
 三輪山の神は「美麗な小蛇」となって、 三輪山山麓に広がる磯城の盆地を中心とした農耕の神として祀られた。倭迹々日百襲姫命は、三輪山の神(大物主神)に仕える巫女だったと考えられる。その姫を「卑弥呼」に比定する有力な説がある。両者とも箸墓古墳の被葬者としてみられるからである。一方、「卑弥呼」は固有名詞ではなく、「日の巫女」という職分の呼称とするならば、倭迹々日百襲姫命は天照大神や神功皇后と並ぶ「日の巫女」の一人とみられないこともない。

 大和王権の本拠地の磯城で最も尊崇されてきた三輪山の神を、ヤマトの大王は斎(いつ)く神とせず、天皇家の祭神にもしなかった理由がここにあるような気がする。
 『律令』の官撰注釈書である『令義解(りょうのぎげ)』に、「天より降りなされし神、地になり顕れし祇」(跡記)とあるように、「天神地祇」として区別する。「神祇令義解」には「天神(てんしん)は、伊勢、山城の鴨、住吉、出雲国造(いづものこくそう)が斎(いつ)く神などの類(たぐい)これなり。地祇(ちぎ)は、大神(おおみわ)、大倭(おおやまと)、葛木(かつらぎ)の鴨、出雲の大汝神(おおなむちのかみ)などの類これなり」と具体的な神名が挙げられている。ここに地祇の筆頭に大神(大三輪の神)をあげ、皇室が祀る神でないとしている。
 大王家は三輪山の祭祀を司る家系を出自としていたが、時代が下るにつれ大神を斎く司祭から疎遠になっていった。ヤマト王権が、広く畿内(きだい)の国々を王化するにつれ、三輪山信仰は維持しながらも、農耕神としての「水神」「山神」である大神を、遥かに超える天照らす太陽神を創始したようだ。三輪山の真東にあたる三重県多気郡明和町斎宮(さいくう)の地に、伊勢神宮で「日の巫女」が斎き祀る「天照大神」が住まう斎宮(いつきのみや)を設けた。
 「伊勢」は海に近いことから「磯」を語源とした地名で、まさに日向(ひむか)の海に臨む光景から、大和の人にとっては日輪が昇る聖地とみえた。
 かつて司祭した三輪山の神を超える太陽神を祖神として殊更に仰ぐようになると、自らを天神が降臨した天孫として権威づけ、大王家は天神達が主宰する日輪が昇る聖地を重視し始めた。やがて天孫降臨の地を「日向の襲の高千穂の峰」となし、それが初代天皇の神武東征の出征の地とされた。
 記紀の物語の高千穂については、神話世界に倭政権が政策的に介入した証であった。万葉集において高千穂は1例しか確認されていない。その例とは、大伴家持の詠んだ「族を喩す歌一首」がある。
 ひさかたの 天の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし 皇祖の神(すめろきのかみ)の御代より

 倭迹々日百襲姫は、「日の巫女」、太陽に仕える巫女であったとみられる。巫女も「日知り」を補佐し、太陽のつつがない運行を祈った。「迹々日」は「トトビ」、即ち「鳥飛」であれば、「天上界の太陽の光または霊を運ぶ飛鳥」といえる。姫は太陽神の祭祀に直接かかわっていたとみられる。二上山は太陽が死ぬ山とみなされてきた。倭迹々日百襲姫は「日の巫女」でり、その死を祀るための箸墓の石材を、二上山から手渡しで運んだのであった。

 棚機の棚は宛字ではなく、古代には夏秋が交叉する季節に、棚にある機で神に奉げる神御衣(かんみそ)を織る巫女が棚機姫(たなばたひめ)で、その神につかえる巫女は、村落の喧騒から隔絶し、精進潔斎をして忌小屋(いみごや)に篭り、別火を用いて生活していた。海または海に通じる清流の畔で、そこを辿って来る若神のために機を織っていた。その光景が中国の天の川伝承と結びつき7月7日の節句を「七夕」と書きながら「たなばた」祭と読むのである。
 卑弥呼も女王になると殆ど人前に姿を現さなかったという。神の託宣をただ一人の男に伝えたと記される。神殿の奥深くで神事をなす巫女は、その身自体が神聖視 されるようになる。
 神や神霊の憑依者であれば「玉依姫(たまよりひめ)」として一層神格化し、やがて「神妻」として神の御子を宿す者も「玉依姫」と称するようになると、若神の聖母として尊崇された。
 神の託宣を憑依する巫女が、祀る神と一体化し、あるいは同一視され、祀る者から祀られる者へ昇格していった。


 3)ヤマトと邪馬台国   目次
 『日本書紀』崇神天皇10年の条に「冬10月1日、群臣が奏上した。『今反逆者悉く誅伐し、畿内(うちつくに;天が下)は無事に治まっている。ただ海外(わたのほか;未だ服していない地域)には荒ぶる風俗があり、その騷動は未だ止んでいない。四道将軍らは、急ぎ出発せよ』。22日に、将軍らは皆征途についた」。
 崇神天皇「11年夏4月28日。四道将軍は戎夷(じゅうい;東夷西戎;えびす)を平定した状況を天皇に奏上した。この年、異俗(風俗が異なる人々)が多く帰属し、国内は安寧となった」。

 「大和」は通常、奈良県全域、律令制下の大和国をさすが、ヤマト政権誕生当初は、北方の物部氏領域の山辺郡と城下郡(しきのしものこおり)の境界辺りが「ヤマトの中のヤマト」であった。この「ヤマト」と便宜的に表記される「古代ヤマト」は、通常、卑弥呼の邪馬台国が基盤していた纒向のある奈良盆地東南部であり、三輪山の東南麓にあたるシキ(式:磯城)とトオチ(十市)を中心にし、北側のヤマノベ(山辺)と南のタケチ(高市)の一部を含んでいた。
 奈良盆地の東南にある三輪山の麓から東北部の春日山の麓まで、盆地の東縁にあたる春日断層崖下の山々の裾を縫うように南北に通ずる古道が「山辺の道」と呼ばれた。邪馬台国以来、王権の中心として栄え、大陸からの物資も出回る市場都市であった。北上し東西に通じる「山辺の道」が陸運、初瀬川とその周辺の河川をつなぐ運河からなる大和川を経由して河内湖と摂津へ、そして瀬戸内海に繋がる海運、それぞれの起点となったのが「ヤマト」であった。この山麓地帯は、比較的早くから水田開発され、地震その他の風水害が稀で、その富の蓄積が大和の諸豪族の経済的な基盤となり、小領域でありなが他地方の大豪族を圧倒していった。

 ヤマトという地名は、奈良県以外にもかなりある。代表例としては、九州の筑紫には山門県山門郡が、肥後には山門郷があった。 その「ヤマト」の文字の解釈が、「邪馬台国」の所在地の解明に重要な要素となっている。
 奈良時代までの古文献に使われる上代特殊仮名づかいが鍵となる。平安時代以前には、音読みに区別があり、それを仮名づかいで甲類と乙類で分類していた。「上」の「み」では「可美」・「加美」など甲類の「mi」で表記を区別していた。「神(かみ)」にあたる「み」には、「加微」・「加未」・「可未」・「可尾」など、「微」・「未」・「尾」など乙類の「mi」の音で表記した。「ヤマト」の「ト」の仮名づかいも、甲類では「外」・「戸」・「門」が用いられ、山の入り口や、その外を表記した。
 畿内の「ヤマト」の仮名づかいは、古事記では「山跡」・「夜麻登」、日本書紀では「野麻登」「夜麻苔」・「椰麼等」・「椰磨等」、万葉集では「山跡」・「山常」・「也麻等」・「夜麻登」・「夜末等」・「夜万登」・「八間跡」など様々であるが、甲類の「山門」「山外」「山戸」などの用字は見られない。乙類の「跡」「登」「苔」「等」「常」が当てられている。このことから、畿内「ヤマト」は、山の入り口・門・戸など山の外周を表現するのではなく、山間・山の麓・山の懐・山の本などを意味したようだ。
 纒向の古代都市は、三輪山方面から流れる巻向川や初瀬川などの河川流域に誕生し、大和盆地の南部にある大和三山の香久山・耳成山・畝傍山方面から流れる寺川・飛鳥川・曽我川流域に発展した。東の三輪山に対峙するように西側には南河内との境となる二上山・葛城山の峰々が連なっている。それらの山々からとれる木材は、ヤマトの人々にとって、建築材・家萱・土器製作や調理用燃料となる薪・木炭・水田の灌漑用材などになり、特に弥生時代以降急速に進化した木工具の用材として、その使途は多様であった。また豊富な山菜やシカ・イノシシ・クマなど貴重なたんぱく源の供給地であった。葛城川に遡上する川魚漁も食生活をより豊かにしてくれたであろう。周辺の麗しい山々を霊山として信仰の対象としたのも、保護し守らなければ、到るところが裸山となり森林資源は枯渇し、いかに高温多湿な日本列島でも、自然の再生には時が必要だったからだ。

 「更更(こもごも)相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年13なるを立てて王と爲(な)し、国中遂に定まる。政等、檄を以て壱与を告喩す」。
 「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等20人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口30人を献上し、白珠5千孔・青大勾珠2牧・異文雑錦20匹を貢す」。

 卑弥呼と壱与没後の3世紀末、「倭国乱」となり、関東への外来系土器の流入を減少させた。邪馬台国に市を開く余裕もない争乱が続き、交易ルートの秩序も維持できなかったようだ。この時代に東海と畿内を中心とした2大勢力があり、互いに拮抗していた。
 一方、大和の豪族が勢力争いをする間に、日本列島の各地、特に北九州や瀬戸内の要衝に巨大勢力が出現した。ヤマトの争乱を好機として、さらに地理的な好条件から、独自に大陸から先端文化や技術を積極的に導入していた。このまま抗争を続ければ、大和の諸勢力は、西国の大豪族に併呑されかねなくなった。そのためヤマトの諸豪族は、連合して外部の侵入を阻もうとした。
 卑弥呼死後の中国も三国時代が終盤期となり、265年8月に、魏晋革命を決定づけた司馬昭が急死し、嫡男の司馬炎が継いで相国となった。同年12月には魏の元帝から禅譲を受けて即位し、年号を泰始と改め晋王朝(西晋)を立てた。司馬炎・武帝である。

 『日本書紀』神功皇后66年の条に「是年、晋武帝泰初2(266)年、『晋書』の起居注にいう。「武帝泰初2年10月、倭の女王が通訳を連れて貢献した」とある。壱与(台与)の派遣とは書かれてはいないが、おそらく親魏倭王の称号を継いだ壱与による遣使とみられる。このことは梁書にも記されている。 この年に派遣したのは、壱与の後に立ったと思われる男王だという記録が『梁書』にあるが、後の時代に書かれた書物で信頼性が乏しい。この朝貢の記録を最後に中国の史書から邪馬台国や倭に関する記録が途絶えた。
 晋は290年代頃、宗室内の権力闘争から「八王の乱」となり、中原の地を中心に漢民族が徴用され、殺戮と処刑が繰り返され荒廃し、生き残った中原の民は逃散したため、兵力を増強するため周辺の多民族の部族長軍団を傭兵とせざるを得なくなった。結果、304年、匈奴の大首長劉淵が、山西省西部の離石(りせき)で晋より自立して匈奴大単于を称した。この漢(前趙)の興起から、永嘉の乱(えいかのらん)と呼ばれ、匈奴・鮮卑・羯(けつ)などの異民族が軍閥化し、その族長が中原で覇権を争った。316年には前趙が西晋を滅ぼした。西晋の王族・司馬睿(しばえい)は江南に逃れ、建業(南京の古称)で東晋を建国した。永嘉の乱から439年の北魏による華北統一までを五胡十六国時代とされる。
 漸く『晋書』に、東晋の義熙9(ぎぎ;413)年、倭の五王の一人、讃(履中天皇)の朝貢が記される。この間、中国の歴史文献に倭国の記述がなく詳細を把握できないため、「空白の4世紀」と呼ばれていた。
 この「空白の4世紀」こそが、倭国にヤマト王権が成立し、王権が強化され統一されていった時代であった。現在、全国に所在する前方後円墳は、約5,000基といわれている。その規模・内容・基数とも奈良県と大阪府を中心に近畿地方が圧倒している。この古墳時代に、卑弥呼時代の偉業を継承して「ヤマト王権」を成立させた。
 前方後円墳は、政権のシンボルとして創立され、約350年間にわたり築かれたが、その間、新たに開発された築造技術により進化した。戦乱の終息が見通せない中国・朝鮮半島の流民からもたらされた土木技術が、大いに貢献した。朝鮮半島から帰化した技術者集団により、鉄製・金銅製の優れた製作技術が発揮され、馬具などの豊富な副葬品文化、卑弥呼以来顕著となった中国の道教思想がより深化した時代でもあった。
 前方後円墳の誕生は、ヤマト政権の確立過程と一致する。墓域の円墳と祭祀を行う方墳が一体化する。それがヤマト王権の祭祀であり、その王権の権勢支配のシンボルとなった。その後350年間、東北地方以南の主力首長の墓制と重なり、各地の首長の権力・威光のシンボルとなった。しかも中国・朝鮮半島から伝播した金銅製品や馬具・甲冑などの鉄製品などの先端技術により、時代ごとに発展の節目となった。ヤマトの王は、新たな技術と道教思想の進化を反映させる前方後円墳を創出した。それが諸国の首長層の墓制となり、大陸の先端技術が広く各地に伝播する契機となった。
 弥生・縄文時代の列島における文化の伝播は、広域的な物々交換経済を可能する物流ルートを介していた。ヤマト王権の誕生期にも、既に重要な要素となっていたが、古墳時代草創期に、情報の発信と受信が、意図的に列島のほぼ全域にめぐらされたネットワークにより、中央と地方の直接交流が達成されていたようだ。

 纒向遺跡でも、築造年代が4世紀後半と考えられている直径20m前後の円墳、もしくは前方後円墳の可能性もある、箸中ビハクビ古墳や箸中イヅカ古墳の墳丘は、歴年削平され尽くされ、地表からは全くその存在が確認できない状態にある。箸中イヅカ古墳の墳形は馬蹄形周濠を持つとみられ、後円部の直径は45~50m、全長は100mを超える、かなり大きなものであった。 確認された周濠の幅は10m前後で、多くの埴輪や木製品・土器などが出土しており、築造年代は4世紀後半が有力視されている。当時の纒向は、少なくともヤマトの政治経済の中心ではなくなっていた。
 

 4)崇神天皇によるヤマト政権誕生   目次
 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)は、『日本書紀』では大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのすめらみこと)と記され、『宋書』、『梁書』にある「倭の五王」中の倭王武に比定されている。『宋書』倭国伝、昇明2(478)年に、宗主国であった宋の皇帝に奉る「倭王武の上表文」が記される。
 「倭という封国(ほうこく;諸侯の領地の一つである日本)は偏遠(へんえん)にして、藩(はん)を外に作(な)す(国境外の属国として存在する)。昔より祖禰(そでい;先祖代々)は、躬(みずか)ら甲冑をめぐらし、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ;安んずる処)に留まる遑(いとま)もあらず。東方五十五国を征し、西のかた六十六国を服し、渡りて海の北、九十五国を平らぐ 。王道融泰(ゆうたい;滞りなく行き渡り)にして、土を廓(ひら;領土を広げ)き畿(王城を中心とした直隷地)を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう;累代の諸王が拝謁)して歳(としごと)に愆(あやま)らず(拝謁を毎年行い、怠ることはなかった)」

 『日本書紀』の「景行紀」には、景行天皇が親征し熊襲征伐に赴いたことが記されているが、戦いの様子を詳細に記述していない。史実では、大王自ら戦闘にはたたず、「倭健命」に集約されているように、天皇の代理として派遣された皇族将軍が、物部や大伴などの軍事的伴造や畿内の豪族を中心にした兵力を率いて遠征したとおもわれる。雄略天皇の親征は稀有な例とみられる。雄略天皇時代は、その支配領域を東は北武蔵まで、西は九州中部まで拡大し、国力は飛躍的に発展させ、しかも大王に侍る杖刀人を中心とした軍事力は、他の豪族を圧倒していた。

 昭和53(1978)年に発見された5世紀に遡る埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣から文字が検出された。それには「獲加多支鹵大王(ワカタケルノオオキミ)」、即ち雄略天皇が斯鬼宮(しきのみや;泊瀬朝倉宮:はつせのあさくらのみや:奈良県桜井市黒崎にある脇本遺跡として発掘されている)に居住していた時代を解く有力な史料となる鉄剣銘であった。 5世紀後半の治政(456~479年)、雄略天皇は「治天下大王(ちてんかだいおう)」と名乗り、独自の天下観で列島支配を行った。それを示す刀剣銘が2つ発見された。埼玉県行田市の埼玉古墳群中にある稲荷山古墳出土の鉄剣銘と熊本県玉名郡菊水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘である。「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、雄略天皇を称するという説が有力となった。

 稲荷山古墳出土の鉄剣銘には、上祖「意富比(おおひこ)」より8代にわたって杖刀人として仕えてきた乎獲居臣(おおわけのおみ)が「獲加多支鹵(わかたける)の大王」の朝廷にいたるまでの代々の履歴を誇示している。1世代を20年弱とすれば、8代はおおよそ150年である。雄略天皇の治政から遡れば4世紀初頭となる。仁徳天皇の在位が5世紀前半であるから上祖「意富比」となれば、更に5,6代前に遡り、応神天皇、仲哀天皇、成務天皇、景行天皇、垂仁天皇そして崇神天皇となり、その崇神前後が4世紀の初めにあたる。
 意富比(おおひこ)は、「孝元天皇の皇子」であり「崇神天皇の代」に北陸平定に派遣された大彦命をさすとみられ、『日本書紀』に記されえる四道将軍の一人が位置付けられたことになる。北陸へ大彦命(おおひこのみこと)、東海へ武渟川別(たけぬなかわわけ)、西海へ吉備津彦(きびつひこ)、丹波へ丹波道主命(たにわのちぬしのみこと)の4将軍が派遣された。北陸道へ派遣された大彦命は、孝元天皇の第1皇子で、母は皇后・鬱色謎命(うつしこめのみこと)で垂仁天皇(すいにんてんのう)の外祖父となり、開化天皇の兄にあたるから、崇神天皇の伯父となる。4世紀初め、崇神天皇は、ヤマト王権誕生に大きく関わっていた。

 『古事記』の「孝元記」に「大毘古命(おおひこのみこと)の子、建沼河別命(たけぬかわわけのみこと)は安倍臣らの祖なり」とあり、『新撰姓氏録』「左京皇別上」に「安倍朝臣孝元天皇の皇子、大彦命の後なり」とあり、そこではまた「杖部造(はせつかべのみやつこ)」を大彦命の後裔氏族としている。その原義は「駆使部(はせつかべ)」で、大王に所属する軍事的性格の強い氏族で、大王の命令を奉じるため全国に派遣され、地方豪族の動向を探る任にあたっていたとみられる。大和国十市郡が、その氏族発祥の地といわれている。

 『古事記』では、崇神天皇を「初国知(はつくにしらしし)御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)」と記している。『日本書紀』では初代神武天皇を「始馭天下之天皇(はつくにしらすのすめらみこと)」と称している。聖徳太子の時代に、神武天皇即位年を中国でいう「革命」の年、「天帝の命が改まる年」と考えられる「辛酉年」にあたる紀元前660年に遡らせるために、皇紀を無理矢理に引き延ばした。しかも神武天皇から8代の天皇の事績は曖昧であるため、欠史八代といい、しかも天皇家の家譜である『帝紀』からしか伝わっていないため、その記載は簡略で、しかも各天皇が極めて長命であるため架空の存在とみられている。だが崇神天皇には詳細な記載がある。

 『日本書紀』「(崇神)10年9月9日、大彦命を北陸へ派遣、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海へ派遣、吉備津彦を西道(山陽道)へ派遣、丹波道主命(たにはのみちぬし)を丹波へ派遣した。詔があって、『若し教化を拒めば、直ちに兵を挙げ討伐せよ』と、それぞれに印綬を授け将軍とした。
 9月27日、大彦命が、北陸への派遣途中、和珥坂(天理市和珥)の峠に差し掛かった時、少女がいて歌っていた(一書には、大彦命が山背平坂〔奈良市の北の木津川の辺〕についた時、道脇で少女が歌っていた)。

 ミマキイリヒコはよ、自分の命が奪われようとしているのに、知らずに姫遊びするとは
 (一書には、「ミマキイリヒコはよ、大き戸から窺われて 殺されようとしているのに 知らずに姫遊びするとは」)

 それを聞いて大彦命はあやしみ、童女に訊ねた。『お前は、今、何を言った』。それに答えて『何も言っていない。ただ歌っただけ』というと、もう一度、先ほどの歌をうたうと、忽然と消えた。大彦は遠征を中断し、直ぐに戻り、具にその状況を奏上した。それで、天皇は姑(おば;祖父孝元天皇の皇女)の倭迹々日百襲姫命が、聡明で英知があり、よく未然を予知できるため尋ねた。
 姫命は、その歌を不吉とし、天皇にいった。『これは武埴安彦(たけはにやすひこ;葛城を本拠地とした孝元天皇の皇子)がまさに謀反をしようとする兆の表れです。私が聞くには、武埴安彦の妻吾田媛(あがたひめ)が密かに来て、倭の香具山の土を取り、頭巾の内側に入れて祈り、『これは倭国の物種』と言って帰った、そうです(物種は、望能志呂〔ものしろ〕という)。これは有事です。早く対策を講じないと、必ず遅れをとります』。
 そのため、諸将軍の派遣を、一旦中断しこれを議した。それから幾時も経たないうちに、武埴安彦は妻の吾田媛と反逆した。挙兵して直ちに攻めてきた。それぞれ道を分ち、夫は山背より、婦は大坂より、同時に帝京(みやこ;磯城)を襲撃しようとした。
 時に天皇は、その謀略を事前に察知していたため、対応は万全で、五十狹芹彦命(いさせりひこのみこと)を派遣し、吾田媛の軍を撃たせた。大坂でその進軍を遮り大いに破った。吾田媛を殺し、その軍卒悉く斬った。
 また大彦と和珥臣の遠祖彦国葺(ひこくにふく)を派遣し、山背に向う埴安彦を撃たせた。この時祭祀用の瓶を、和珥の武坂(たけすきさか)の峠に鎮座させ勝利を祈念した。精兵を率いて、那羅山(奈良市奈良坂付近)に登り布陣した。時に官軍が多く集まり草木を踏みならした。それでその山を那羅山と呼んだ(蹢跙はふみならす、という)。更に那羅山を去り輪韓河(わからかわ)まで進んだ。埴安彦と河を挟んで対峙し互いに挑みかかった。それで時の人はその河を挑河(いどみかわ)と呼んだ。今にいう泉河(いずみがわ;木津川)はそれが訛ったことによる。
 埴安彦はこの事態に直面して、彦国葺に問うた。「なんで、お前は軍兵を率いて来たのだ」と。答えて「お前は天に逆らい無道をなし、王室を傾けようとした。そのため義兵を挙げて、お前の反逆を討とうとしている。これは天皇の命だ」。それで互いに先に射ようと競った。武埴安彦が、先に彦国葺を射ったが当たらなかった。次に彦国葺が埴安彦を射ると胸に当たり絶命した。そのため謀反軍は脅えて退いた。直ちに彦国葺の軍は追撃し、河の北で撃破した。斬首は過半となり、屍骨が多く溢(古語では、はふ)れた。故にそこを羽振苑(はふりその;京都府相楽郡精華町祝園)という。またその兵が怖れ逃走して、屎(くそ)が褌から漏れ、それで甲(よろい)を脱いで逃げたが、逃げられないと知り、叩頭して「我君(あぎ)」といった。故に時の人は、その甲を脱いだ所を伽和羅(かわら)と名付けた。褌と屎の所を屎褌(くそはかま)といった。今では、樟葉(くすは;大阪府枚方市楠葉)というが、その訛である。又、叩頭した所を我君(あぎ)と名付けた(叩頭は、これを迺務〔のむ〕と読む)」。

 崇神天皇の実在性は『日本書紀』に記される政策が、具体的で、しかも現実味があることで明らかである。
 「(崇神)12年春3月11日、詔して『朕は初めて天位を承け、宗廟(みたまや)を護持したが、明徳が遮られ民を安んじることができなかった。これにより、陰陽が錯綜し、寒暑が不順となり、疫病が多発し百姓に禍が及んだ。そのため今、天罪を祓い、神儀を正し、厚く天神地祇を祭礼した。また教化を垂示し国の果てに住まう者達を安んじ、兵を挙げて不服な者を討伐した。これにより、朝廷は廃れず、下には逸民がいなくなった。教化は行き渡り、庶民は生業を楽しんでいる。異俗の人は、通訳を伴い来朝し、畿外(とつくに)の人も帰化してきた。この時に当たって、更に人民の戸口を調査し、長幼の次第や課役の先後を知らしめよ』
 秋9月16日、初めて人民の戸口調査をして、調(調・労)役を課した。これが男の弓弭調(ゆはずのみつき;獣肉・皮革などの狩猟生産物)で女の手末調(たなすえのみつぎ;絹・布などの手工業品)である。これにより、天神地祇は共に和み風雨は季節通りとなり、百穀は成熟に実り、家々に衣食が十分に行き渡り、天下は大平となった。それで、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と申し上げた。
 17年秋7月1日、詔があり『船は天下に欠かせない。今、海辺の民は、船がないため、陸路の運搬となり甚だ苦しんでいる。諸国に命じて、船舶を造らしめよ』。冬10月、初めて船舶を造った」。

 この12年の条は重要で、「朕初承天位」の承の意味は、通常「前のものを受け継ぐ」か「相手の意向を受け入れる」かである。後者であれば「相手」とは「天位」であり、天子の位・皇位・帝位を創始した者で、当然、それが初めとなれば、初代ヤマトの「大王家」は崇神天皇となる。そのため御肇国天皇の称号も神話上の神武天皇と同一となった。 人民の戸口調査を行い、課税項目と実施手順を定めた。また邪馬台国同様、舟運の開設に尽力している。
 「(崇神)62年秋7月2日、詔して『農業は、天下の大本であり、民が生きる拠り所でもある。今河内にある狹山(大阪府南河内郡狭山町)の埴田(はにた;狭山町に半田の地籍があるが、その土地は粘土質の田地であった)は水が不足しているため、その国の民が農作を怠っている。その解決策として、多くの溜池と溝を開削し、民の農業を豊にせよ」と仰せられた。
 冬10月に、依網池(よさみのいけ;堺市池内)を造った。11月に、苅坂池と反折池(さかおりのいけ)を作った」。


 5)崇神天皇、出雲勢力を牽制   目次
 「60年秋7月14日に、群臣に詔して『武日照命(たけひなてるのみこと:一書では武夷鳥〔たけひなとり〕、別の書では天夷鳥〔あめひなとり〕;出雲国造などの祖)が天よりもたらした神宝が、出雲大神(いずものおおかみ)の宮に蔵されている。それを見てみたい』。それで矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖武諸隅(たけもろすみ)を遣わした献上させた(一書では、大母隅とある)。
 当時、出雲臣の遠祖出雲振根(いずもふるね)が、神宝を主管していたが、この時、筑紫国に出かけていて会えなかった。その弟飯入根(いいいりね)が、皇命を受けて、神宝を弟の甘美韓日狹(うましからひさ)と子の濡渟(うかずくぬ)に持たせて貢上した。
 既に出雲振根は、筑紫より出雲へ戻る途中にあった。神宝を朝廷に献じたと聞き、弟の飯入根を責めて『数日は待つべきであった。何を恐れて、たやすく神宝の献上を聞き入れたのだ』という。こうして、既に年月を経ったが、なおも憤恨を懐き、弟を殺そうとしていた。
 それで弟を欺いて「近頃、止屋(やむや;塩冶郷;出雲市今市町・大津町・塩谷町)の淵にたくさんの(も;あさざ)が生えた。一緒に行って見ようではないか」。直ぐに兄に従って出かけた。これより先に、兄は密かに木刀を作り、その形を真剣に似せた。当日、自からこれを佩いて、弟には真剣を佩かせた。共に淵の畔につくと、兄は弟にいった。「淵の水は清冷だ。一緒に泳ごう」。弟は兄の言葉に従った。各々が佩刀を解いて、淵の畔に置いた。水中で水浴びをした。兄が先に陸に上がり、弟の真剣を取り佩いた。弟は驚いて兄の木刀を取り撃とうとするが、木刀であったため抜くことができなかった。兄は弟の飯入根を撃ち殺した。それで当時の人は歌って、

 八雲立つ 出雲梟帥(たける)が 佩ける大刀(たち) 葛多巻き(つづらさはまき;葛を沢山巻いてあったが) さ身無しに(中身がなくて) あわれ

 それで、甘美韓日狹と濡渟が、朝廷に参上して、詳らかにその状況を奏上した。直ちに吉備津彦と武渟河別(たけぬなかわわけ)を遣わし、出雲振根を誅殺した。故に出雲臣らは、この事態に畏まって、しばらくの間、大神を祭らなかった。

 時に、丹波の氷上(ひかみ;兵庫県氷上郡氷上町)の氷香戸辺(ひかとべ)という人が、皇太子の活目尊(いくめのみこと)に啓(もう)しあげた。「吾が子は小児ですが、自然に出た言葉で、『玉鎮石(たまものしづし;あさざの下に沈む玉のような石)。出雲人の祭る、真種の甘美鏡(またねのうましかがみ;立派な美しい鏡)。押し羽振る(威厳のある)、甘美御神、底宝御宝主(そこたからみたからのぬし;美しい神は水底に静まる美しい鏡の主)。山河を水泳(くくる)る御魂。静挂る甘美御神(しづかかるうましみかみ;挂るは掛けて吊るす意あり)、底宝御宝主なり(は、これを“も”という)』。
 これは小児の言葉と思えません。若しや神の託言かなと・・・。皇太子はこの間の経緯を崇神天皇に奏上した。直ちに勅命が下り大神を祭祀させた」。

 『出雲国風土記』には、「熊野山謂わゆる熊野大神の社坐(いま)す」と記している。松江の中心市街地から南へ約15km、松江市八雲町熊野の静かな山間に鎮座している「熊野大社」は、出雲大社と共に出雲国一宮としてある。熊野大社の元々の宮地は、斐伊川の支流である意宇川(いうがわ)の源流にあった。
   出雲の国造家が継承する聖なるものは、火おこしの燧臼(ひきりうす)と燧杵(ひきりきね)である。この道具で神聖な神火を鑚り出す。出雲国造がその職を継ぐとき、家宝の火打臼と火打杵を用いて、神火を継ぐ儀式を火継(ひつぎ)の神事という。
 出雲国造の末裔である出雲大社宮司家の千家(せんげ)では、その世継の神器として、出雲の熊野大社から燧臼・燧杵を拝受する。燧臼は約1m×12㎝×3㎝の桧の板、燧杵は長さ80㎝、直径2㎝の卯木(うつぎ)の丸い棒である。
 燧杵を燧臼に立てて、両手で力強く錐揉む、その摩擦で煙が出始め、やがて発火する。新嘗祭など祭祀用の調理に用いる別火として神聖視されている。熊野大社では、平素、鑚火殿(さんかでん)で保管し、鑚火祭の時にこの燧臼と燧杵を出雲大社の宮司に授け渡す。

 『日本書紀』の「神代紀」では、「天照大神、乃ち天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)に、八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)及び八咫鏡(やたのかがみ)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)、三種(みくさ)の宝物(たから)を賜ふ」とある。鏡・剣・宝玉の三種の副葬品が、弥生時代や古墳時代の族長級の古墳からセットで出土することが多い。天皇家もこの祭祀形式に倣い王権の神器としたようだ。
 『古語拾遺』は、平安時代前期に斎部広成 (いんべのひろなり)が著した歴史書で、神代以降,奈良時代の天平年間 (729~749) にいたるまでの天皇家の祭祀にかかわった忌部(斎部)氏の伝承を記した。そこには、特に鏡と剣を重視し、八咫鏡・草薙剣の種の神宝を皇孫に授け永遠の天璽(あまつみしるし)としたと記されている(後漢の学者・許慎の『説文解字』には、「咫(あた)、ふつうの婦人の手の長さ(親指と人さし指とを広げた長さともいう)八寸で、これを咫という、周を計る尺度なり」ある。「後漢の一寸」は2.3cmだから、一咫は2.3×8 = 18.4cmとなり、八咫は約147cmとなる。八咫鏡は直径46cm 前後の円鏡となる)。
 それには、「崇神天皇の時代に、宮中に祀られていた天璽の鏡と剣に、天皇が威圧を感じ、同じ宮殿に住むことに不安をおぼえられた。それで、斎部氏に、鏡を作った神の石凝姥命(いしこりどめのみこと)と、製鉄・鍛冶の神である天目一箇命(あめのまひとつのみこと)の子孫の2氏を率(したがわ)せ、さらに鏡を鋳造し、剣を作らせて、天皇の護身用のものとした。これが、いま、践祚する日にたてまつる神璽の鏡と剣である」とある。その記述によると神璽を模造したものが作られ、その鏡と剣が践祚の日に献上さる。

 『日本書紀』の「神代紀」に「吾(あ)が児(みこ)、此の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさんこと、当に吾(あれ)を視るがごとくすべし。与(ともに)に床(みゆか)を同くし殿(みあらか)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いわいのかがみ;神聖な鏡)とすべし」と記す。
 天照大神が賜った斎鏡こそが、太陽神である天照大神そのものとして、「与に床を同くし殿を共にせよ」と神勅した。「天照」は「天上にあって地上を日の光で照らす」意と解されているが、「照(てる)」は「垂(た)る」と同義であるため、「天照」とは「日光を天上から地上へ垂らす神」とみる。そのため「日の光」こそが「天照」そのものであり、鏡はその「日の光」を反射するから、太陽神である天照大神の身代りの聖器として祭られた。


 6)出雲の鉄器と薬草   目次
 古代では、鉄は極めて貴重な金属であった。鉄製の農具・工具は、青銅製や木製のものとは比較にならないほど鋭利で硬い。武器となればなお更で、鉄を制する者が優位となる。
 『出雲国風土記』の飯石郡(いいいしのこおり)の条に
 『波多小川(はたのおがわ;神戸川の上流)。鉄(まがね)あり。』
 『飯石小川(いいいしのおがわ;斐伊川の上流)。鉄(まがね)あり。』
 風土記の時代、飯石郡の神戸川(かんどがわ)と斐伊川の支流では鉄が採れたとされている。
 『出雲国風土記』には、もう一ヶ所、鉄が採れたとの記述がある。仁多郡(にたのこほり)で、そこには、三処郷(みところのさと)、布勢郷(ふせのさと)、三沢郷(みざはのさと)、横田郷(よこたのさと)とあり、『以上の諸々の郷より出す所の鉄は、堅くして、もっとも雑具(くさぐさのもの)を造るに堪(た)ふ。』とある。
 出雲には大きく二系統の砂鉄の産地があったことがわかる。神戸川水系の波多小川と仁多の斐伊川水系の産地である。どちらの水系の鉄も、同じ中国山地の花崗岩からの砂鉄で、出雲で採れる鉄は良質なものといわれている。
 出雲は朝鮮半島から直に大陸の先進文化を取り入れられる地理的な条件が整っていた。日本海には対馬海流が流れ、その海流の流れと操船のコツさえのみこめば、容易に、その海に突き出た島根半島や能登半島の西海岸を良好な船着場にできた。朝鮮半島から日本列島への航路は、大きく分けて北九州と出雲の二筋となる。徳川時代でも漂流した朝鮮の漁民の多くが島根半島にたどりついている。
 出雲は銅や鉄の産出地であったから、早くから青銅剣や鉄剣の製造方法が大陸から流入した。古代から出雲国が大きな勢力を保持できたのも、大量の砂鉄の産出と踏鞴(たたら)に代表される製鉄技術があったからだ。踏鞴は、世界各地でみられた初期の製鉄法で、大量の木炭を燃焼させる製鉄反応に必要な空気をおくりこむ鞴(ふいご)を呼んだ。踏鞴製鉄の原料となる良質な砂鉄が豊富だったため、特に島根県東部と鳥取県西部は古来より踏鞴製鉄が盛んで、明治以降西洋式の溶鉱炉による製鉄が主流となるまでは全国一の産鉄地として知られた。

 さらに古代出雲は「古代の呪医」としての宗教的権威を兼ね備えていた。『出雲国風土記』には、どこの郡にも、数多くの草木についての記載がある。意宇郡では36種の草木が、出雲郡では18種の草木が記載されている。その記載された植物の多くは漢方薬にもちいられている。出雲には、医薬の歴史や、医薬の神話があるが、大和の神々が医薬を使って人や動物を治療したという話はない。
 『延喜式』の「典薬寮」の条に見える、当時、出雲から朝廷に貢進した薬草『出雲国53種』であったが、そのうち36種は『出雲国風土記』に見えるものである。ちなみに「近江国73種」、「美濃国62種」に次ぎ、「播磨国」と並んで多かった。

 『日本書紀』の「神代紀上」第8段1書第6の条にも大国主神の業績を称え「さて大己貴命(おおあなむちのみこと)と少彦名命(すくなびこなのみこと)は力を戮(あわ)せて心を一つにして天下を経営(つく)った。また、この世にある蒼生(あをひとくさ;青人草;人民)と家畜のために、療病の方法を定めた。また鳥獣や昆虫の災異を攘(はら)うため、まじないで病気や災害を防ぐ方法を定めた。これにより人民は今に至るまで、皆、この神の恩を受けている。」
 『古事記』には、因幡の白兎(しろうさぎ)が、わに(熊鰐)に毛皮を剝されて赤むけになった素兎(しろうさぎ)に、大国主神が、真水で体をあらい、蒲(がま)の花粉をまぶせば傷が治ると教えている。平安時代中期の辞書『倭名類聚鈔』には、蒲の花の黄色い花粉は、蒲黄(がまのはな)と訓読みされ、止血・傷薬・利尿などの漢方薬とされている。
 大国主神が兄弟の八十神(やそがみ)に迫害され、赤く焼けた大岩を猪だといわれて抱き止めて大やけどをして殺された。御祖神(みおやのかみ;母神)が、神産巣日之命(かんみむすびのみこと)に願い、きさ貝比売(きさがいひめ)と蛤貝比売(うむがいひめ)を集め、きさ貝(赤貝)と蛤(はまぐり)の貝殻を削り、この2つの貝の汁に混ぜて火傷に塗って蘇生させた。この治療も民間療法であった。
 大国主神の国造りを助けたとされる少名毘古那(すくなひこな)は、まじないや除虫、除草剤で害虫や害草を取り除き、また疫病を防いだとされている。この国造りに協力した神は、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造など多才であった。


 7)崇神天皇、行灯山古墳に埋葬   目次
 崇神天皇は師木水垣宮(しきのみづかきのみや;奈良県桜井市)で天下を治めた。稲荷山古墳出土の鉄剣銘にある上祖「意富比」により、ヤマト王権は東国にまで領域を伸ばし、4世紀初頭には既に成立していたとみられる。「意富比」に比定される大彦命(おおひこのみこと)の子が武渟川別で、阿倍朝臣等の祖と伝えられる。
 『古事記』の「崇神紀」によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が相津(会津)であるとされている(会津の地名由来説話)。真偽は定かではないが、大彦命の一族が東夷征伐の氏族として北陸や東国に勢力基盤を築いたのは確かなようだ。
 『日本書紀』に「(崇神)天皇、践祚して68年、冬12月5日に崩じた。時に年120歳。明年の秋8月11日に、山辺の道の上の陵に葬った」。『古事記』は崇神天皇陵を「山辺道勾の岡上(やまべのみちまがりのおかのうえ)」にありと記している。その陵墓が4世紀前半~中ごろ造営の「行灯山古墳(あんどんやまー)」であるといわれている。
 天理市柳本町のアンド山にあり、墳長は242m、後円部の径158m、高さ23m、前方部の幅102m、高さ15m、周囲に水をたたえた周濠をめぐらしている。水不足解消のために濠を広げたりされたため、築造当時から周濠であったかは疑問視されている。
 文久2(1,862)年、尊王思想が隆盛していた時、天皇・皇后・皇室の古墳を修復、礼拝所を設けるばかりでなく、形を変えたものもあった。大修理が始また当時、この古墳は「景行陵」に比定されていた。修陵事業の完成直前の慶応元(1865)年2月に、古墳の名称は「崇神陵」に改められた。
 同じ山辺の道に沿って行灯山古墳の近くに渋谷向山古墳(しぶたにむかいやまこふん)がある。景行天皇陵とされている。崇神天皇の孫であるが、日本武尊(やまとたける)は景行天皇と、吉備臣の祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の娘である播磨稲日大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)との間に生まれた小碓命(おうすのみこと)である。
 行灯山古墳も含む柳本古墳群の中で最大規模の前方後円墳で全国7位にランクされている。この古墳から古式の土師器や須恵器が出土しており、行灯山古墳より少し遅い4世紀後半と推定されている。墳丘は東西に主軸をとり、墳長は約300mある。
 奈良盆地東南部の南北を結ぶ山辺の道沿いには、巨大な前方後円墳が築かれている。桜井市箸中にある倭迹々日百襲姫命(やまとととひももそひめ)の墓と伝えられる箸墓古墳は、墳長278mあり、3世紀中葉の築造とされ、最古の前方後円墳とされている。
 天理市中山町の西殿塚古墳(にしとのづかこふん)は墳長234mあり、箸墓古墳の次に造られた大王墓と推測されている。4世紀前半~4世紀初めの築造で、卑弥呼の後継者、壱与の墓説があり、宮内庁の調査で、前方部頂上に巨大な石積みの方形壇が築かれていたことが、2014年4月8日に公表された。方形壇は一辺22m、高さ2.2m、墳丘を覆う葺石と同様のこぶし大から人頭大の石が大量に見つかった。壇全体が石積みだった可能性が高いという。
 桜井市外山(とび)の桜井茶臼山古墳は、南北を中心軸する墳長207mあり、4世紀初頭の古墳時代前期に築かれた大型前方後円墳であった。竪穴式石室が完存する最古の古墳でもあった。自然丘陵を利用して築造されたため、埋葬施設は、後円部の中央に、岩山を削りだし、長方形の墓坑を掘り、竪穴式石室を造り木棺を納めた。その石室上を埋め立てて葺石の方形壇を築き、「丸太垣」をめぐらせた。方形壇の裾には、幅・深さともに1.4m前後の溝が掘られ、その中心に沿って、直径約30cmの柱が合い接するように立て並べられて、その柱の総数は約150本と推定された。
 『日本書紀』に「(崇神)3年秋9月、磯城に遷都した。これを瑞籬宮(みつかきのみや)という」。奈良盆地東南部は、古代の大和国は磯城郡(城上郡;しきのかみ・城下郡;しきのしも)を中心としていた。城下郡に大和郷の地名が残るように、ヤマト王権が誕生し大和発祥の地となった。当地の箸墓古墳や柳本古墳群の存在により、大王家は3世紀中ごろから王権を強化し、4世紀になると大和国磯城郡周辺の豪族たちを兵力として、奈良盆地を越えて勢力を拡大し、5世紀に入ると全国の殆どを制覇したようだ。