諏訪地方の縄文時代(草創期)縄文文化の黎明期
(1万数千年~約1万前)
 曽根遺跡はこの千本木川の河口から300m先の湖底
総論 縄文時代草創期 縄文時代期早期 縄文時代前期 縄文時代中期 縄文時代の民俗 縄文時代後期 縄文時代晩期 歴史散歩 車山高原リゾートイン・レアメモリー

総説 | 曽根遺跡 | 白樺湖は語る |池の平の自然の変化


総説  
 最終氷期から約1万年前から始まる後氷期(約1万年前から現代までの時代をさす)にかけて、急激な寒暖変化が繰り返される。この時期を晩氷期という。最終氷期最盛期以降の1万8,000年前頃から徐々に温暖化傾向が進む。それが顕著になるのが1万5,500年前後だ。海進により、日本海が形成され、対馬暖流が流入すると、寒暖差の激しい大陸型気候から、日本海からの季節風により冬の寒冷化が抑えられ、その暖流は日本列島を多雨多雪化させた。1万5,500年前後からの顕著な温暖化は、針葉樹林が優占する最中に、中部・東北地方を1万年前前後からコナラ亜属やブナ属、クリ属などの落葉広葉樹林帯に遷移させていった。それでも現在の関東地方以西をおおう照葉樹林は、縄文時代草創期初頭では、南西諸島に限られていた。落葉広葉樹林帯は暖流親潮が洗う関東地方の海岸部に及んでいたに過ぎない。関東地方北部や内陸部の殆どは亜寒帯針葉樹林帯であった。その後の温暖化が落葉広葉樹林帯を日本列島に拡大し、集落の出現が明白となる縄文時代早期初頭と重なっていく。植生や動物相も地域や年代により大きく変化し複雑となった。
 最も温暖であったのは縄文前期頃の約6,300年前から5,000年前で現代より暖かった。植生の変化は緩慢で、その適応力のすごさか、現代の植生となるのは後期初頭の4,000年前頃であった。
 縄文文化の黎明期、次第に、気候の温暖化が進み、北海道を除く日本列島のほぼ全域で土器の使用が始まり、一部の地域では初源的な竪穴住居も作られるなど、少しずつ縄文文化的な定住社会を形成し始めた。 その証拠は、遺物の組合せの急激な変化によって、はっきりと跡づけることができる。縄文時代草創期以降、大型哺乳動物が絶滅に瀕し、石槍よりも小形の動物を狩るのに適する弓矢が登場し、石鏃が盛んに作られた。大型哺乳動物の狩具の投槍器と投げ槍から、鹿・猪など中小形の動物用の弓矢の石鏃へと変化し、その次の段階になると、採集された堅果類や根茎類などを、すり潰す用具としての磨石・石皿を中心とした植物性食料の加工具が飛躍的に増加した。それに伴い根茎類や穀物栽培用の掘削具打製石斧が重用される。こうした重量のある石器類に頼らざるを得ない生業の変化は頻繁な移動を困難にさせた。 縄文草創期の1万年以上前の鹿児島県志布志町内之倉の東黒土田遺跡(ひがしくろつち だ)で、シラス層に掘り込まれたドングリが入った貯蔵穴が発掘された。縄文人は冬季の食料不足に備えて、堅果類を貯蔵穴にたくわえた。貯蔵穴は弥生時代まで存在するが、縄文時代を特徴づける遺構といえる。宮城県里浜貝塚の発掘調査と分析では、秋に採集された堅果類は春までに食べられていた。四季が顕著で、特に冬季には食材が不足する日本では、それに備えてドングリ類やトチの実などの食糧を獲得し保存する事が最重要な課題であった。縄文早期には九州の開地のみならず低湿地にも貯蔵穴がつくられ、中期には近畿地方にまで広がった。低地に設けられた水漬けにする湿式と開地にある乾式のものがあり、しばしば共に群在する。東日本では早期から集落内の乾燥地に大型の貯蔵穴を設ける事が多く、主にクリが貯蔵された。栗の栄養素は可食部の食材100g当たり、156カロリーで、食物繊維が4.2g・カルシウムが30mg・鉄が0.8m・ビタミンB1が0.21mg・ビタミンB2が0.07mg.・ビタミンB6が0.27mg.・ ビタミンCが33mgである。栗の一粒が10g程度で、だいたい16kcal/粒である。

 定住生活は旧石器時代の初期から営まれていた。この時代、既に南関東地方の平野部台地上と赤城山麓に、軒を並べる様な集落が存在していた。群馬県富士見村の小暮東新山遺跡から竪穴住居が発掘された。直径約3mの円形で炉跡はなく、深さは約20㎝ある竪穴と7本の柱穴が遺存していた。その7本の柱を結束し、獣皮・萱・小枝などで円錐形の屋根が葺かれたとみられている。この伏屋(ふせや)式平地住居の状態は石材原産地でも同様で、解体・可搬を繰り返す、この簡易式の組み立て方式で周回移動する狩人の住居環境が端的に物語っている。移動するに際し、重要な個人財産であった石器・石材と共に携帯したのが小屋の建材であった。定住生活を支える生業、即ち移動せず食料を得る環境が整わなければならない。その一つが旧石器時代の黒曜石原産地で、何万年と続く黒曜石製ナイフ形石器・有茎尖頭器・石鏃とその需要は止まる事無く旺盛であった。その採掘者と加工業者こそ、寧ろ定住を余儀なくされた人々であった。それを遠く需要地へ運ぶ交易人一族の動静も興味深い。
 もちろん、定住化が一気に、同じ地域において起こったのではない。日本列島の各地で、遊動生活を繰り返していた旧石器時代終末期の人々の集団が、その地域ごとに、その環境に適合をしていく過程で、それぞれの変革を遂げた。 今のところ、これらの変革が真っ先に始まったのは九州地方南部、続いて関東平野一円、そしてこれにやや遅れて北海道東部地方と三重県周辺から近畿地方へと考えられている。縄文草創期の複数の竪穴住居は、鹿児島県掃除山遺跡(そうじやま)と三角山遺跡と三重県では粥見井尻遺跡(かゆみいじり)、草創期末になると長野県の「お宮の森裏遺跡」で、同時代に居住したのではないが10棟前後が発見されている。
 日本列島の縄文時代は、まさに旧石器時代の遊動生活から定住生活へという転換を可能にした温暖化が大きな契機になった。長期間移動をせず食料を確保できる自然環境に恵まれ、それを有効に活用する知恵と技術により定住生活が保障されると知った。移動に伴う時間とエネルギーを費消することなく、移動を前提に置かない調理設備・木製道具・多岐な石器・多用途の土器などを開発し大量に保管されるようになった。移動が一番の重荷となる乳幼児を抱える働き盛りの親や経験的知識が豊富な高齢者にゆとりが生じ、次第に定住のムラは人口が増大し、生業が安定すると画期的技術開発が促進されてゆく。狩猟具である弓矢・植物質食料の調理に使われる磨石と敲石、万能ナイフの石匙・樹木を切り拓く磨製石器などが縄文文化を創造していった。
 堅果類の採集が期待できないシベリアのアムール川ガーシャ遺跡から魚油などを貯蔵する土器が発見されている。 縄文時代と年代が重なる遺跡から出土した非常に薄い土器であった。 魚油の内の肝油(かんゆ)は、本来外海のクジラ・タラ・サメ、エイの肝臓に含まれる液体、およびそれから抽出した脂肪分の油の総称である。サメの仲間は浮き袋を持たないため、海水より比重の軽い油を肝臓に蓄え、浮力とした。油の内の肝油は戦後の1970年代後半にかけて、日本人の食生活で不足しがちだったビタミンAやDを補給する手段として広く用いられていた。魚油はまた鯨油同様、灯油として貴重であったようだ。瓦灯(がとう)は島国日本では魚油の利用が多く、明治時代初期まで灯りとしていた漁村もあった。しかし燃やすと悪臭を発することから、屋内の灯火には不向きで、江戸時代に入ってからの菜種油が普及した。
 
 温暖化の流れを受けて、東北地方ではそれ以降、安定した縄文文化の華が開く。縄文文化の幕開け、それは東北地方の文化的基盤の確立と軌を一にする。 土器の様式は、当初は、関東地方で盛行した撚糸文土器(よりいともん)様式までを指していた。しかし、その後の発掘で、旧石器時代の影響を残す石槍などの石器群と同時に、初源期の石鏃などを伴い隆起線文土器多縄文系土器(たじょうもん)、爪形文土器(つめがたもん)など、撚糸文土器より古い土器群が出土した。最近では、これよりさらに古い無文土器群が出土している。それで当初の縄文文化の早期を、さらに遡る「草創期」という大別が設けられた。
 縄文時代草創期の遺跡群の中で、全国的にその密度が高く、また様々な遺物が発見されているのが、山形県高畠町の洞窟遺跡群である。この地は、草創期に人々が住んだ跡として、凝灰岩の洞窟と岩陰が19ケ所ほど知られ、その内の一ノ沢岩陰や日向洞穴・尼子岩陰など、隆起線文土器や多縄文土器などが、多くの石器類と共に出土している。
  それ以外に、東北地方では、開地に比較的大規模な遺跡も存在している。縄文時代草創期の遺跡として、完形の隆起線文土器を出土した青森県表館遺跡、復元された爪形文土器を出土した岩手県大新町遺跡などがある。しかし、高畠町の洞窟遺跡群ほど質量ともに纏まった遺跡はない。近年、福島県西部の阿賀野川流域で、横断道建設に伴って調査された塩喰(しおばみ)岩陰には、草創期以前に遡る遺物包含層が発見された。
 このような洞窟遺跡群は、広島県帝釈峡(たいしゃくきょう)遺跡群や新潟県小瀬ケ沢・室谷(むろや)洞窟など、いずれも草創期に形成され、断続的な居住痕跡を残しながら弥生文化にまで至る場合が多い。 開地の竪穴住居という住様式が普及する直前段階、草創期の人々が積極的に洞窟や岩陰を利用した背景には、年間を通じてほぼ完全な遊動生活を送っていた旧石器時代の人々が、ある程度の逗留を可能とする、ベースキャンプとして、手軽で最適であったからだ。その洞窟・岩陰の利用が、定住化のきっかけになったようだ。
 人々は、定住の便利さを知り、定住志向へと転換をすすめ、その延長上に竪穴住居を生み出し、集落を形成し、縄文文化的定住を実現していった。  
 東北地方には、他にも岩手県龍泉新洞(りゅうせんしんどう)洞窟、秋田県岩井堂(いわいどう)洞窟など、各地に洞窟遺跡は散在している。その北部の洞窟遺跡では、いずれも早期以降の遺物しか出土していない。  
 縄文時代黎明期の東北地方の文化は、高畠町洞窟遺跡群から、次第に東北地方南部地域の洞窟遺跡、北部の開地遺跡へと拡大していったようだ。 今から約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前に始まる温暖な後氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期があった。この温暖化は大型哺乳類の生息環境の悪化を招き、同時に人類の人口増加による乱獲と相まって大型哺乳類の絶滅を引き起こし、新たな食糧資源を探す必要性を生じさせた。 一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成することとなり、半ば必然的に植物性食料へと人々の目を向けさせることとなった。
 ドングリ・トチの実・生食も可能なシイの実・ハシバミ(カバノキ科)の実等の堅果類は、その採集時期が秋の1カ月程度に限定されているが、集中的な採集、長期貯蔵が可能な事で主食として縄文人の生活基盤を支えた。その採集には技術が不要で、性別、年齢に関係なく、誰でも収穫できた。採集保存が簡単な食料であるにも拘わらず、カロリーは予想以上に高く、”米”は100g当たり148kcalなのに対し、”栗”は156kcal、”シイ”256kcal、”胡桃”に至っては、673kcalと、驚くほどの数値を示す。
 ”胡桃”の食経験は、それほど古くなく、紀元前7,000年前から人類が食用としたとも言われている。脂質が70%をしめるが、ビタミンB1、ビタミンEも多いようだ。 縄文人の主食は栗、ドングリなどの堅果類であるが、カロリーこそ提供するが、、”胡桃”は別格として、タンパク質、脂肪、ビタミン類が殆ど含まれていない。クヌギのドングリの栄養成分は100g当たり、 カロリー202kcalで水分 49.3g・糖質 44.2g・たんぱく質2.1g・脂質1.9g・食物繊維1..2g・灰分1.3g・タンニン1.3gである。その為、以前ほど、狩猟、漁労による食料の依存度は減少するが、依然として必須の食物であった。なにより、美味なごちそうで、得がたい食料でもあったが、動物性食料の全体に占める比率はそれ程大きくはなかった。

諏訪の曽根遺跡と片羽町遺跡
 諏訪市大和(おわ)区千本木川沖の曽根遺跡 (そねいせき)が、この時代のものだ。 現在は諏訪湖面(海抜759.3m)から約2mの湖底で、大和湖岸から約300m沖にある。湖底の西方に突き出た平坦な台地上であった。曽根遺跡の全容を明らかにした藤森栄一によれば、遺跡を覆う砂礫層は、その湖岸に貫流する千本木川の川床に堆積するものと同一であるという。従って、遺跡は日々泥土で埋没されている。
 発見は明治41(1908)年で、諏訪湖の湖盆形態の調査中であった。諏訪湖の研究を委嘱された、日本の湖沼研究の嚆矢となる田中阿歌麿(たなか あかまろ)の助手橋本副松が、その調査中、湖底に硬い場所がある事に着目したのが発端であった。橋本副松はその辺りの泥土をを幾度も掻き除く作業を厭わず没頭し、終に泥土と水草に混在する多量の石鏃を陸揚げした。それを翌年『東京人類学会誌』に発表した。その後、坪井正五郎と東京帝国大学人類学教室による調査が行われた。その湖底遺跡の特殊性により世間に注目され、多くの研究者が諸説を発表した。日本列島に曽根遺跡を遺した人々は誰だったかといった観念的な人種民族論争や、湖底になぜ遺物があるのか、そして湖上に住居が営まれた理由などに研究が片寄り本質的な解明にいたらなかった。
 多くの研究者にとり上げながら、研究成果も無く忘れ去られていた。昭和11年、八幡一郎が「信州諏訪湖底曽根の石器時代遺跡」を『ミネルヴァ』誌上に発表した。漸く曽根遺跡の遺物を考古学的研究の俎上にのせた。かつて発掘され特徴的遺物として坪井正五郎が発表した爪形文土器が縄文時代草創期のものであり、横幅よりも長く脚部をもつ石鏃が、小形で製作技術が高度であると指摘した。しかも日本の旧石器時代末期の細石器文化も視野に入れていた。しかし学界は反論し、その学説を封殺した。
 昭和29年、芹沢長介の論文「関東及び中部地方に於ける無土器文化の終末と縄文文化の発生とに関する予察」が.『駿台史学』に発表された。芹沢は曽根遺跡の爪形文土器は近畿地方に類例がみられ、ほぼ縄文前期と比定した。しかも小形石槍は縄文時代以前に属するとした。それは長さ4㎝にも満たない両面調整の木の葉形尖頭器であった。2万年前頃の旧石器時代、日本列島に登場した。
 その後昭和33年、岐阜県中津川市坂下町の椛ノ湖(はなのこ)遺跡で爪形文土器と長く脚部をもつ石鏃が伴出した。群馬県みどり市の西鹿田中島遺跡の同年昭和33年の発掘調査でも爪形文土器が出土した。いずれも草創期にあたる。昭和60(1985)年、土地改良事業に伴う発掘調査で、東金井町の下宿(しもじゅく)遺跡の土坑の中から出土した爪形文土器2点は、草創期(約10000年前)の土器とされている。神奈川県大和市深見諏訪山遺跡出土の爪形文土器も草創期とみられている。芹沢より八幡一郎の方が正確に時代を比定していた。

 昭和35(1960)年、藤森栄一は『信濃』に「諏訪湖底曽根の調査」を発表した。ここに漸く、曽根遺跡の特殊性ゆえに紆余曲折した論点が、考古学的に研究され全容が明らかにされた。これ以前に山形県高畠町で昭和33年に、蛭沢湖の北東、標高400mの山腹に一の沢岩陰遺跡が発見され、土器や石器が縄文早期後半と草創期と層位的に出土され、その変移が明確となった。その後も類例の遺跡が多く出土し、曽根遺跡が縄文時代草創期から、それ以前へと遡る遺跡として明白になった。藤森栄一は現在の諏訪湖の湖面下から発見された多くの遺跡を分析し、その垂直分布による調査から、諏訪湖は調査の範囲内でも4回の増水と、5回の減水を経ている事、依然として沈降が続いている事が分かった。諏訪湖の湖底は400m以上の厚さで20万年前以降の比較的軟らかい地層が堆積している。第一回の減水期は旧石器時代晩期から縄文時代早期初頭のようだ。遺跡は約1万坪の沈下地域に含まれていた。その後の理化学調査からも、曽根遺跡は当時、沼か低湿地であった事が分った。藤森栄一の綿密な研究により、従来論争の対象であった石鏃や土器以外にも、多様で豊富な遺物が考古学研究の俎上へあげられた。曽根遺跡の面積は、23,000mの広さがあり、我が国の水中考古学研究の嚆矢となった。
 諏訪湖は本州中央部を横断するフォッサマグナの地溝部にあって、断層の陥没によって出来た断層湖であった。 諏訪湖の最南端から西側を走る比較的直線的な湖岸は、糸魚川-静岡構造線である。湖の西側は、安山岩や集塊岩石、東側は石英閃緑岩というふうに地質が異なっている。ちょうど諏訪湖のあたりが、断層で陥没したというわけだ。 そして諏訪盆地は、フォッサマグナの海が造った糸魚川-静岡構造線と、諏訪から発し九州まで続く中央構造線が交わる、地質的に極めて複雑な所といわれている。
 地表の大部分は塩嶺累層や霧ヶ峰・八ヶ岳などの火山噴出物でおおわれているが、断層にそって湧き出る温泉、底なしと呼ばれ沈降をする活断層など、その下には大小多くの断層が交錯し、今でも大地は活動を続けている。砂泥層が深く、400m掘ったが岩盤に達しなかったという記録が、上諏訪に残っている。
 それに北側の上諏訪、下諏訪には、温泉が湧き、南側は、天然ガスが湧出している。諏訪湖は、古墳時代から平安時代にかけて最大になり、その後は減水縮小して現在に至ったと考えられている。一方、人為的働きも加わって、その沈降作用は、一段と促進されている。 近年の諏訪盆地の地下の人工地震探査により、諏訪湖の湖面の下500mに硬い岩があることが分かった。この岩盤が湖面より数100m高い周囲の山々の「塩嶺溶岩」と同じならば、諏訪湖は、約1,000m沈降したことになる。しかし30を超える周囲の河川から流れ込む泥土で埋められ、現在の諏訪湖の水深は7mしかない。
 曽根遺跡当初の縄文草創期、旧石器時代からの細石器その他の石槍の技術を承継した。その一方、オオツノシカなどの大型獣の絶滅による動植物相の変化が、新たな狩猟採集活動を登場させた。氷期終末期、徐々に進む温暖化に伴い大量に果実を結ぶ落葉広葉樹林に依存するイノシシ・ニホンシカ・ナヌキなど中小獣が増殖し、それを標的とする石鏃に代表される弓矢が広く伝播した。画期的な発明であるがため、世界に広く瞬く間に展開した。それに伴い旧石器時代に確立した犬を使う狩猟法が、ここに至って定着した。
 東京都秋川市(現あきる野市)にある前田耕地遺跡は、多摩川とその支流である秋川の合流点にあたる秋川左岸の河岸段丘上に遺存する。この遺跡の草創期の竪穴住居址から多量のサケの骨が出土した。旧石器時代の狩猟技術を生かし、環境変化に適応した漁労活動が本格的に始まっていた。

 曽根遺跡は旧石器時代末(1万5千年前)から縄文時代草創期にかけての遺跡と推定され、出土品は数万点を遥かに超えている。依然として旧石器時代の石器文化が継承され、石槍としての細石器の技術も日常的に活用されていたが、石鏃にその使用が認められる弓矢が出現する。曽根遺跡はその多量な黒曜石の石鏃の出土から、石鏃製作場を主とした址と考えられている。旧石器時代や縄文時代を通して剥片石器の代表的素材に黒曜石とサヌカイトがある。ともに産出地は限られていて、希少な石材・石器製品として交易の対象になっていた。長野県小県郡長和町の鷹山遺跡群では、主に関東地方の平野部へ石器を運び出すため、旧石器時代より盛んに黒曜石が採取され、縄文草創期には採掘のための鉱山活動も大規模になされていた。一方鷹山川沿いに広く展開する石器製作工業団地であったといっても過言ではない。周辺の各地にも黒曜石の貯蔵例が多く存在し、諏訪湖東岸遺跡群などにみられるように黒曜石石器の大規模な製作もなされていた。曽根遺跡に集中する大量で精巧な石鏃も、交易品として広く流通していた証である。
 出土土器の型式は、草創期の土器としては爪形文土器だけであった。爪形文は半截竹管(はんせつちくかんもん)を器面に押圧し、横や斜めに密接施文する単純な文様である。爪痕に似ているため、その呼称となった。
 曽根遺跡で採集された土器には、沈線文土器無文土器が含まれていた。沈線文は半截竹管の内側で器面に平行する線を描くか、細い棒の先やへらで一本づつ線刻する。出土例では爪形文土器よりも後期になる。
 近年、1万年前を遡る土器がシベリアを中心とする極東各地で発掘され、縄文土器が日本列島だけに単独に存在するものでないことが知られた。中国南部でもこれに匹敵する年代の土器が多く見られるようになった。その器形には椀や壺形があり、深鉢形土器主体の東北アジアとは明らかに異なっている。土器文化はそれぞれの道具立ても違い、単純な伝播交流論だけでは解けない、それぞれが環境に適応して発展させてきた側面が大きいのだ。
 無文土器は青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡で、16,500年前の文様のない土器のかけらが発掘され、現段階で日本最古の土器といわれている。曽根遺跡の無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は上諏訪駅前のデパート周辺の片羽町遺跡(かたはちょうー)でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。神奈川県大和市深見諏訪山遺跡では、縄文草創期層から出土したのが、無文土器・爪形文土器・撚糸圧痕文土器であった。無文でえあれば、日常消耗される土器でる事が殆どで、草創期のみならず、縄文後期から晩期にあたる長野県篠ノ井信更町(しんこうまち)の大清水遺跡で大量の無文土器が発見されている。信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の湿原の中にある。器形と大きさにおいて斉一性があり、大きさは口径が25cm~40cmのものが中心である。内面は丁寧に仕上げられているが、実用重視で短時間に粗製仕上げされたようで、器面には継ぎ目が残り粗略であった。縄文時代を通して各地方で製作量と形体は異なるが、深鉢の煮沸機能を専らにする無文の土器の方が大量に生産されていた。多量の木の実を短時間で調理する無文の粗製土器が、生産性と機能を重視した土器として主流となっていた。

  かつて曽根遺跡は陸続きの岬で、野辺山高原矢出川遺跡の後期旧石器時代の細石刃文化、伊那市の御子柴(大型槍先)文化よりも後出の遺跡である。石器の器種は、細刃器・ナイフ形石器・台形様石器・石核・掻器・石錐・木の葉形尖頭器などの尖頭器・石鏃などと、その仕掛品などが諏訪湖から混在した状態で引き上げられた。藤森栄一は剥片(はくへん)を利用した石鏃を、根元が二つに割れた長脚鏃三角鏃・細長い長身鏃円脚鏃などに分類した。だが縄文時代の矢尻の大半が打製で、縄文草創期から早期にかけてと、晩期の一部地域で部分磨製石鏃がみられる。消耗品であれば矢柄に装着する茎が無いものが一般的で、茎がある石鏃はそれでも東日本に広く分布している。石鏃と矢柄を固定するアスファルトが付着するものもある。この他左右非対称で2cm前後の片脚が欠けているものを、諏訪湖とその周辺河川で使われた漁労用のモリなどの細刃器とみた。特に石鏃は、極めてた多様で多量に出土した。燧石(すいせき;火打石)、骨角器、鹿の角等も採集されいた。曽根遺跡には多量な石鏃・用途不明な石器や石屑が出土した割には、縄文早期の局部磨製石鏃がわずかであることから、この時期を境にして、既にこの地は住める状況ではなくなっいたようだ。
 
 諏訪湖の東岸には、地表下深く、当地特有の地下水を多量に含むスクモ層や砂層に覆われた遺跡がいくつか出土している。スクモ層は含水比が極めて高い「腐植土層」で、その水分が押し出されることによって生じる諏訪盆地の圧密沈下の最大原因となっている。その東岸地域の遺跡の多くは、旧石器時代末期から弥生時代中期に営まれている。特に縄文草創期の片羽町遺跡が注目される。曽根遺跡の直後に形成された遺跡だが、石鏃はなく石器製作の痕跡すらもない。ただ曽根遺跡の石器群にない石斧などが遺存していた。またその後数千年単位で断続的に地点を変えて、縄文中期と弥生中期の痕跡を遺存させている。
 諏訪湖周辺で断層が原因となる地盤沈下もあって、片羽町遺跡の縄文草創期の原地表面は海抜755m.前後で、諏訪湖の現湖面759mよりも4m低い。デパート駐車場の拡張工事で発見された片羽町B遺跡の縄文中期層からは舟の櫂と2本の杭の列が発掘された。約4,000年前の中期終末期の遺物には磨石(すりいし)などの石器類・椀状の木製容器・クルミなどに混じり土器片錘が伴出した。このB遺跡は、集落遺跡というより諏訪湖の畔の船着き場か漁労用の作業場であったようだ。
 上諏訪駅前に位置する片羽町A遺跡は、絡条体圧痕文土器(らくじょうたいあっこんもんどき)・押圧縄文土器無文土器など、その出土土器の現存する42点の型式学的分析と包含層の調査から約1万年前の縄文草創期後半のものとされた。これら土器の特徴は胎土に砂を含むものが多く、特に輝きを増す雲母を混入させたものが一定量存在する。絡条体圧痕文の絡条体の条とは、繊維の束や細い軸棒に撚紐(よりいと)を絡(から)めた束をさし、それを器面に押しあてて施文する縄文である。垂直や水平に施文するのが通常で、その方向を変化させれば幾何学的文様を構成できる。押圧縄文(線状縄文)は、撚紐をそのまま土器面に押圧して付ける文様であって、こより状に撚りを与えた一段の撚紐を二本に撚り合わせた撚紐を原体としたものが多い。
 片羽町A遺跡の草創期の文化層から土器の他、僅かばかりの石器が出土した。ここから約1km程の曽根遺跡では、石槍を含め石鏃製造址とおもえる程、多量の石鏃が発見されていた。だが片羽町A遺跡からは石鏃は全く出土していない。若干の石器の中で目立つのが、4点の蛇紋岩製の「局部磨製石斧」である。いずれも縁辺までも整形加工され刃部は入念に磨がれ、その内2点は、重厚な蛤刃(はまぐりば)である。刃物は通常、ナイフ・包丁・日本刀が典型で、刃先から峰に向かって直線にして、その切れ味を重視する。これに対して蛤刃は、合わさった蛤のように、刃先の両断面が広がり、側面から見ればなだらかな曲線を描き、その分厚みが生じる。この構造は切れ味は落ちるが、叩き切る、叩き割るといった、力量溢れる使い方には強靭であり、主に鉈や斧に使われた。大形のものは15㎝あり、最小品は7㎝ある。その外「礫斧(れきふ)」が1点出土しているが局部磨製とまではいえない剥離加工が施されている。他には蛇紋岩製の棒状石器、黒曜石製の掻器と剥片、鉄石英製の削器などが出土した。

  柏原地籍の大門街道沿い、音無川を見下ろす栃窪岩陰遺跡からも、縄文時代草創期の神子柴系の槍先形尖頭器が出土している。ただし石器以外の遺物・遺構は見られず、生活の痕跡は希薄だ。ただ一時的な、キャンプ・サイトと考えられている。それは近年までも続いて、狩猟・漁猟・山菜採集の好適地として時代ごとの遺物も発見されている。
 縄文時代、白樺湖池の平周辺に、遺物散布地が点在しているが、旧石器時代の延長で、主要な生活地とは言いがたいようだ。


白樺湖は語る
 火山国日本は、酸性土壌のため骨・角・木材等有機物は、百年も経たずに融解する。人類が活動した痕跡は、一部の例外は別として、ほとんどが石器と土器と土坑祉、そして石組みとに限られている。唯一沖縄のみ石灰岩質のため、縄紋人の祖先、日本列島における後期旧石器時代の人・港川人が、沖縄島の南部、具志頭村港川で、それも石灰岩採石場で少なくとも9個体分発見された。しかし沖縄県内全域で、未だ旧石器時代の遺物が発見されていない。今後の研究成果が待たれる。
 長野県白樺湖周辺は白樺湖が温水溜池として造られる前は、池の平と呼ばれていた。蓼科山・八子ヶ峰・車山の溶岩台地が区切れて形成する盆地状の湿地で、それまでは忘れ去られた峠道であった。だが池の平からは周辺の重々たる山稜からの湧水を集め音無川となり、山間を抉り蛇行し急流をなし渓谷を形成した。それが旧石器時代からの要路となり、諏訪の平から大門峠を境にして、小県・上田に通じ、蓼科山の山麓・雨境峠から迂回し佐久から碓氷峠を越えれば、当時から先進文化を発展させていた北関東の高原台地に通じていた。池の平の豊富な遺跡群の出土品は、旧石器時代から八島ヶ原高原周辺の黒曜石産出地からの石材・石器の搬出ルートであったため、白樺湖周辺の琵琶石遺跡・御座岩遺跡をはじめ音無川沿いの山裾の狭いテラスや岩かげにある栃窪岩陰遺跡(とちくぼいわかげ)などに生活の痕跡を留めている。栃窪岩陰は、現在、唐松林に遮られてりるが、当時は八子ヶ峰のから連なる山裾から八ヶ岳連峰と富士山を眺望する絶好の岩陰で、狩猟・川漁とドングリ採集に最適地であった。
 白樺湖は標高1,416mあり、その南岸上の八子ケ峰の裾野、尾根状地形の中断斜面に、旧石器時代の遺跡群が集中している。その石器組成から考えて、最古の遺跡と思われるのが、標高1,436mの対山館遺跡(たいざんかん)である。出土したナイフ形石器、削器等は、剥片の剥離法も一定の技法を持たない粗雑なものであった。ここから西より100m下った三井山荘の付近に標高1,425mの南岸遺跡(なんがん)があり、対山館遺跡に続く古さとみられている。大形のナイフ形石器、大形の刃器状剥片、槍先形尖頭器、彫器、削器、揉錐器等が出土している。これらの遺跡のナイフ形石器は、大形の剥片を用い、その加工度は低く粗製で完成度は高くはないが、旧石器時代の石器群である。一方、縄文時代早期及び前期の胎土中に植物繊維を混入させる繊維土器や茅野市北山芹ヶ沢の下島遺跡に由来する下島式土器片(しもじましき)や石鏃なども伴出した。狩猟の際のキャンプサイトと思われる。
 この両者共に、石材の黒曜石は、冷山・麦草峠産で、その後代の遺跡になると和田峠産のものになる。和田峠産は純度の高いガラス質が主となる良質な素材だが、冷山・麦草峠産は、内部に気泡や混入物を多量に含んでいるといわれている。
 これら遺跡のある溶岩塊群の前面の台地と渓流を隔てる西側の尾根は、白樺湖の南岸においても遺物が特に濃い場所である。対山館遺跡の西隣りに琵琶石遺跡(びわいし)がある。八子ケ峰(1669m)の南斜面末端の白樺湖に露頭する溶岩塊群の一角、その根元の亀裂の岩陰で遺物が発見された。標高は1,440mである。白樺湖の湖面と比高すると24mある。白樺湖として観光地開発される前から各所で旧石器時代の石器などの遺物が出土していた。その根元の亀裂は自然石の岩陰で高さ2m、入り口の幅2mの三角状で奥行きがある。昭和18年、三井不動産が社員の厚生施設として、茅野市豊平塩之目の茅葺き屋根を移築した。昭和29年、山荘の管理者竹内昭氏が、その敷地の琵琶石の岩陰に椎茸栽培の原木を貯蔵するため黒土を除去した。すると1片の土器片が出土した。これが契機となり昭和30年5月、宮坂英弌氏は諏訪清陵の高校生3人と調査し、石塊に囲まれて遺存する赤褐色の深鉢の土器を発掘した。縄文時代早期の楕円押型文(だえんおしがたもん)土器であった。しかし周辺域からは、生活の痕跡を留める炭化物や石材一つ発見できなかった。
 池の平は旧石器時代から縄文時代にかけて、黒曜石文化を支える枢要な場所であるが、主に、狩猟、漁猟、山菜採取のキャンプ・サイトとして後世までの利用され続けられてきた。先土器時代の多数の石器の多くは、黒曜石製であるが、一部チャート製、頁岩製、サヌカイト製のものもあった。地中に埋もれた他の岩陰にも、この時代を特徴付ける重要な生活の痕跡が隠されている。しかしながら、現代では多くのホテル、旅館等が乱立するため、発掘は困難になっている。

 池の平に温水溜池を造る計画が昭和13年に立てられ、昭和15年に工事が開始され、戦後昭和21年に完成した。
 戦後の深刻な食糧不足は食糧増産の必要性に迫まられ、池の平の高冷地にも農業開拓事業の進展が試みられた。厳しい自然条件に挫折する者が多く困難を極めた。一転して、30年代高度経済成長時代に なると、世界的に食糧過剰となり農林業に成長が見られず、増産意欲 が減退し、結果、不安定で苦労の多い開拓事業から転業する者が増え、拓村の人口は順次減少した。一方 、第2次、第3次の産業部門が成長して、白樺湖畔を一大観光地へと変貌させていった。
 この地が実に、数千年間、高地交通の要衝であったこと、即ち池の平の頂上、大門峠を堺に、北流する大門川は千曲川の支流で、松代・佐久へと通じ、南流する音無川は諏訪から甲府と伊那へと通じる自然の通路であったこと、八島ヶ原高原周辺と和田峠の黒曜石の大産地から、他地域へその原料、製品を運ぶ人々の重要な拠点であったこと、それが今甦った。
  チャートは、主にケイ酸質の殻をもった0.1mm程度の放散虫という海産浮遊性原生動物が堆積してできた2億年前の中生代ジュラ紀のガラス質の化石である。硬い岩石で層状をなし粘りのある鋭利な剥片を得ることが可能となる。近畿南部や四国南部、東九州周辺域ではチャートが多く産出する。
  サヌカイトは、火成岩である古銅輝石安山岩の一種で、北海道・関東・九州地方で石器に多く利用されている。割れると鋭い縁をもつサヌカイトは石器に適しており、黒曜石同様盛んに使われていた。サヌカイトが石器に多く利用される傾向は、次の縄文時代や弥生時代になっても変わらない。香川県坂出市に位置する金山(かなやま)は、一大産出地として知られている。和名は讃岐石。
 頁岩(けつがん)は堆積岩の一種で、1mm以下の粒子粘土・泥が水中で水平に堆積したものが脱水・固結してできた岩石で、堆積された石理面に沿って薄く層状に割れやすい性質がある。愛媛県僧都川産頁岩下関市安岡産赤色頁岩が知られている。
 頁の字は本のページを意味し、この薄く割れる性質から命名された。
 粘土・泥が堆積してできた岩石のうち、薄く割れる性質を持たないものを泥岩と呼ぶが、泥岩と頁岩の間に本質的な違いは無い。頁岩は泥岩の一種とする考え方もある。 また、弱い変成作用を受けて硬くなり、やや厚い板状に割れるものを粘板岩と呼び区別している。)
      

池の平の自然の変化
 池の平は日本列島の尾根、中部高地地方の中央部に位置し、約1,410mから1,450mの標高範囲とみられる。白樺湖ができるまでは諏訪側からも小県側からも、急峻な山道を登りつめると、忽然と開ける盆地状の地形であった。地元の柏原の両角万仁武老が営む山小屋が一軒だけあった。中央を音無川の清流が蛇行して、岩魚・山女(やまめ)・鰍(かじか)等がたくさん棲息していて、地元の川干漁の絶好の場所であった。山菜採り、秣(まぐさ)刈りの村人、峠越えの杣人(そまびと)と、たまさか出合うハイカーとキャンプの若者、その人影は少ない。
 気候は高冷地型の内陸性で雨量は比較的少なく、冬の乾燥した寒さは厳しい。昭和59年度の平均気温は、4.3℃の記録が残っている。
 池の平も今から2万年前をピークにする、第4紀更新世最後の氷河期の洗礼をうけた。その時に先土器時代という日本最初の人類文化の最盛期を迎えた。諏訪湖盆地区、八ヶ岳や蓼科山の山ふところ、そして八島ケ原を中心にした高原台地上と周辺の沢沿いと、人々の懸命な生活の痕跡が刻まれていく。当時と現代の気候差は、現在地より標高で400m超の高さを足し上で、推定されるとしていう。実際の各地のデータではもう少し気温が低い結果が出ている。日本列島全体の年平均で7℃~8℃も低い、すると池の平の当時の平均気温は、-4℃位になる。それでは草木も生えないツンドラ状態ではないか考えるのは、間違いで、現在八ヶ岳、蓼科山の2,000mの高山地帯には、北海道東北部に多い亜寒帯針葉樹林で覆われている。白檜曾(しらびそ)・樅(もみ)・ぶな・岳樺(だけかんば)の樹木が繁茂し、山肌の比較的太陽のあたる所は一面熊笹で、高木に遮られて日の差さない岩場には、厚い苔が敷き詰められている。これが2万年前~1万年前の池の平の風景と推測される。 氷河期を通して、常に厳しい寒気が続いたわけではない。氷河期であっても、寒い時期の氷期、暖かい時期の間氷期が繰返されていた。
 氷河期の池の平も樹木で覆われ、その木々の間に鹿・かも鹿・野兎が多棲していたようだ。そこには大角鹿(おおつのしか)・ナウマンゾウ等の氷河期時代の大形動物もいたであろうか。
 鹿には樅・ブナ・岳樺等の果実・芽・樹皮等が、1年を通しての良好な食糧で、たっぷり食べると鹿は、見通しのきく平坦な熊笹の休息地で反芻を始める。鹿の交尾期は初冬だ。その時期、池の平の音無川の水辺には、多くの鹿が集まって来た。こうした場所こそ鹿などの動物の絶好の狩場となった。先土器時代から縄文時代にかけて、人々はその厳しい自然環境の中、獲物の生態を十分理解をして、生業に励んでいた。