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目次

一、衛氏朝鮮

二、漢の武帝

三、武帝による朝鮮出兵

四、弥生時代の王権

五、伊都国

六、青銅器の鋳型

七、古代朝鮮半島南部

八、『三国志魏書』倭人伝

九、甘木・朝倉地方の青銅器

10、卑弥呼の時代

 


 一、衛氏朝鮮
『三国志魏書』馬韓伝

「韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大首領は自らを臣智と称し、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。

 

 爰襄国、牟水国、桑外国、小石索国、大石索国、優休牟涿国、臣濆沽国、伯濟国、速盧不斯国、日華国、古誕者国、古離国、怒藍国、月支国、咨離牟盧国、素謂乾国、古爰国、莫盧国、卑離国、占卑国、臣釁国、支侵国、狗盧国、卑彌国、監奚卑離国、古蒲国、致利鞠国、冉路国、兒林国、駟盧国、内卑離国、感奚国、萬盧国、辟卑離国、臼斯烏旦国、一離国、不彌国、支半国、狗素国、捷盧国、牟盧卑離国、臣蘇塗国、莫盧国、古臘国、臨素半国、臣雲新国、如來卑離国、楚山塗卑離国、一難国、狗奚国、不雲国、不斯濆邪国、爰池国、乾馬国、楚離国、おおよそ五十余国が在る。

 

 大国は万余家、小国は数千家、総計十万余戸。辰王は月支国で統治する。臣智或いは優呼(臣智の別呼称)、臣雲遣支報・安邪足叔支濆・臣離兒不例・拘邪秦支廉の号を称する。その官に魏率善邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長などがある。

 

 すでに侯・準は王を僭称していたが、燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る。

 注記① 魏略に曰く。昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周朝の衰退を知った燕が自ら王と尊称して、東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。

 禮を西に遣わして燕を説くと、燕は進撃を止め、攻撃をしなかった。その後、朝鮮侯の子孫がやや驕慢で暴虐だったので、燕は秦開将軍を派遣して、その西方を攻め、二千余里の地を奪い取って、(平安北道の博川の)満潘汗を以て国境とした。これが遼東長城である。以後、朝鮮は衰退した。

 

 秦が天下を統一するに及んで、蒙恬に遼東に至る長城を築かせた。その時、朝鮮王の否が立っていたが、秦の襲撃を恐れ、秦に軍装を脱いで服属するが、入朝はしない。否が死に、その子の準が立った。二十余年の後、「陳勝と呉項の乱」が起き、天下は戦乱となる。燕、斉、趙の民は辛苦から徐々に準(朝鮮)に逃れて行った。準はこれを西方に置いた。

 

 漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は浿水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の浿水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢の軍隊が十方面の道から進攻して来ますので、王に宿衛に入るように願います。」と準に告げさせ、帰還した準を逆に叛いて攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。

 

 その左右の王族を率いて、海に出て韓族の地域に入り住みつき、みずから韓王と称した。

注記② 魏略に曰く、準の子や親族で、逃亡せずに朝鮮国に留まった者は、準の一族であることを憚って、姓を韓氏と詐った。準は海外の国を支配し、朝鮮とは往来しなかった。

 

 その後、絶滅したが、今なお韓人は彼を奉じて祭祀する者がいる。漢代は楽浪郡に属し、季節ごとに楽浪郡に朝謁して来た。

注記③ 魏略に曰く、初め衛右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めたが用いられず、東の辰国に亡命した、そのとき彼に随行して国を出た住民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに往来しなかった。

 

 王莽の地皇年間(20年-22年)、韓の廉斯(れんし=地名)の人、鑡(さく)は辰韓の右の渠帥(きょすい;廉斯邑の副首長)であったが、楽浪郡の土地が肥沃で、人民は豊かで安楽に暮らしていると聞き、逃亡して降伏することを望んだ。そして、鑡がその邑落を出ると、田中で雀を追い払っている一人の男と出会ったが、言葉が韓人とは違っていた。彼に問うと、男が言うには「我らは漢人で、名を戸来と言い、我らは仲間の千五百人と材木の伐採しているところを韓に襲われ、全員が断髪され、奴隷にされた。もう三年にもなるかな」と応えた。

鑡は「私は今から漢の楽浪郡に降るところだが、おまえは行きたくないか?」と言った。

 戸来は「よし。行こう」と応えた。

 

 鑡は戸来を連れて辰韓を出て、楽浪郡の含資県(黄海北道瑞興郡)に詣でると、県は郡に伝え、郡は鑡を通訳として、芩中から大船に乗って出発し、辰韓に入り、戸来に伴われて降伏して来た人々を迎えいれた。ほぼ仲間の千人を奪還したが、すでに残り五百人は死んでいた。鑡は辰韓に諭して言った。「汝ら五百人を還せ。もし返還しなければ、楽浪郡は万余の兵を船に乗せて、汝を攻撃しに来るだろう」

 辰韓は「五百人はすでに死に、我は人数に値する弁償をするしかない」と言った。

 辰韓は一万五千人、弁韓は布を一万五千匹、それぞれが提出した。鑡は値を徴収して郡に還る。楽浪郡は鑡の功義を表し、冠幘(かんさく=後部に飾りがない帽子)と田と家宅を賜う。鑡の子孫は、数代の後、安帝の延光四(125)年の時になって、この功績の故に再び官位を受けたのである。

 

 桓帝と霊帝の末(146年-189)、韓と濊が強勢となり、楽浪の郡県では制することができず、多くの民が韓国へ流出した。

建安年間(196年-220)、公孫康、楽浪郡の屯有県(黄海北道黄州郡)以南の荒野を分けて帯方郡とし、その帯方郡に公孫模・張敞らを遣わし、残留していた漢の遺民を結集して戦いを始め、韓・濊を攻撃した。そこで、韓・濊の地にいた遺民たちも、少しずつ出て来るようになった。この後は、倭も韓も遂に帯方郡に属するようになった。

 

 三国時代に入り、景初年間(237年-239年)、魏の明帝は密かに帯方郡太守の劉昕、楽浪郡太守の鮮于嗣を派遣して、海を渡って朝鮮に軍を送り、帯方郡と楽浪郡との二郡を平定した。諸々の韓国の臣智らに邑君の印綬を加賜し、その次には邑長に与えた。韓の人々の風俗は、衣服と頭布を好み、庶民が楽浪郡や帯方郡に来て朝謁する時にも、みな衣服と頭布をもらっている。自らすすんで帯方郡から与えられた印綬を持ち、衣服と頭布とをつけている者は、千人以上もいる。

部従事(官職名)の呉林は、楽浪郡が以前に韓族の諸国を統治していたことを理由にして、辰韓の八国を分離して、楽浪郡の領有とした。その際、帯方郡の通訳による説明が、しばしば変更した。これには、韓諸国の臣智だけでなく韓人たち全体が激怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。この時帯方郡の太守弓遵と楽浪郡太守劉茂は、軍隊を率いて臣智たちを伐った。この戦いで弓遵は戦死したが、二郡はとうとう韓族を鎮圧した。

 

馬韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥(首長)がいるけれども、村落が整備されず入り乱れていたため、よく統治することができていない。人々の間に跪拝の礼がない。住居としては草屋根の土室(穴)を掘り、外形は塚のようだ。その扉は屋根のところにあって、家族全員が土室で生活している。家族の間では、長幼男女の別はない。埋葬には、遺体を納める棺がなく、槨にそのまま土葬する。また牛馬に乗ることを知らない。牛馬はもっぱら、死体を運送することのみに使用している。また珠玉を財宝として珍重し、或いは衣服に綴りつけて飾りとし、或いは頸にかけたり耳に垂らしたりしている。金や銀また錦織りや繍などは珍重しない。

 

 馬韓の族人の性質は剛胆で勇猛、頭髪を分けてぐるぐる巻きにし、髪を露わにしている。炎天下の兵のようで、綿入れの衣と足には革の草履を履く。国中をあげて行事を行なう時、または国が城郭を築かせる時には、少年で勇健な者たちは皆、自分の背の皮に穴をあけて太い縄を貫き、そのうえ一丈ばかりの木をその縄に挿み、一日中大きな声をあげて力づけ、これを苦痛とはしない。かくて村人たちがこの作業を励まし、そのうえで少年たちを一人前の健児と認めるのである。

 

毎年五月には種を播きおわり、鬼神を祭る。群衆で歌舞し、昼夜飲食する。その舞は、数十人が一緒に立ちあがって調子をあわせ、地を踏んで高く低く舞い、手と足とは同じような調子で動き、そのリズム銅鐸の舞に似たところがある。十月に農耕が終われば、またふたたび同じようにする。

鬼神を信じ、国邑で各一人を天神の祭の司祭に立て、これを天君と呼ぶ。また諸国の各々に別邑があり、これを蘇塗(そと)という。大木を立てて鈴や鼓を懸けて鳴らし、鬼神に仕える。諸々の逃亡者が、その中に入ると、皆、無罪放免になり、これを悪用して犯罪者が増加する。その蘇塗を立てる儀式は浮屠(仏寺の塔)に似ておるが、その所行の善悪の判断は異なっている。その北方近郷の諸国は礼俗の習熟に格差があり、その遠くに住む者達は囚人や奴婢の集団のようである。

 

韓には珍宝の類はなく、動物や草木はだいたい中国と同じである。大きな栗を産出し、大きいのは梨のようである。また細い尾長鷄を産出する、その尾は皆長さ五尺余あり。男子には、ときどき文身(いれずみ)している者がいる。
 また馬韓の西海中の大島上に州胡あり、そこの人は、馬韓の人々よりやや体が小さく、言語も韓族と同じではない。皆、頭髪を剃っていて鮮卑人のようである。ただし、なめし皮を衣にし、牛や豚を上手に飼育する。その衣服は、上部があって下穿きはなく、ほぼ裸体である。彼らは船に乗って海上を往来し、韓族の居住地で商売をしている。

 

上記解説

福岡県前原市浦志A鐸は、銅舌を伴い完形で出土した小銅鐸で、後期後半以降のものとみられています。総高6.55cm、裾幅3.65cmと小型で文様などの装飾が無いことが特徴です。同じような小銅鐸は、福岡市の板付遺跡でも銅舌を伴う小銅鐸が発見されていますが、国内では20例ほどしかない非常に珍しいものです。弥生時代に近畿地方を中心に出土するいわゆる「銅鐸」は、文様がつけられ装飾性に富むものであるのに対し、浦志遺跡の小銅鐸は装飾が無く、系統が異なると考えられます。どちらかといえば朝鮮半島でみつかる小型で装飾の無い「馬韓式小銅鐸」に近く、これをまねて日本で作ったものと考えられています。「銅鐸の舞」とは、この小銅鐸を腰に吊るすか、手で振って舞ったのでしょう。

「蘇塗」に関して民俗学的考証がなされています。長崎県対馬市の厳原町(いづはらまち)に卒土(そと)の浜があります。この地は明治9年まで人の居住が禁じられていました。ここに逃れた罪人は、免罪されたといわれています。『日本書紀』の「神功皇后即位前紀」の冒頭で、神功皇后が託宣を得る際、審神者(さにわ)、即ち神がかりした皇后の託宣を判じる大役を務めたのが審神者(はんしんしゃ)の中臣烏賊津使主(なかとみいかつおみ)でした。中臣は神と民の間に在って神を祀るのが職掌ですから、烏賊津使主の原義は「厳(いか)つ使主」です。「使主(おみ)」は、「御身 (おみ)」という尊称ですから、「厳(いか)つ」の意味が重要になります。それは「神威が強い」ことを表します。「雷」「厳(いか)つ霊()と言い、「宮島」「厳島(いつくしま)と呼び、そして「対馬」「厳原町(いづはらまち)は、神域の尊称となったのです。

『魏志東夷伝馬韓条』には,大木を竿(さお)として立て、それに小銅鐸と鼓をかけて,神を祀る儀式があったことが伝えられています。蘇塗の祭りは、竿を神木に見立て、小銅鐸、鳥の羽、布を結びつけて天神を降ろし、民がこれをとりまいて歌い踊る祭りのように表現しています。その神木の竿を蘇塗(そと)、あるいは鳥竿(そって)というのだそうです。そこから、鳥形の木製品を竿の上に飾り、ムラの出入り口に立てて、村内に悪霊が入らないように結界とするソッテ信仰と神社の鳥居にまで変化していきます。

朝鮮半島南東部、洛東江(ナクトンガン、らくとうこう)が流れる慶尚南道(キョンサンナムド、けいしょうなんどう)河東郡(ハドンぐん)10月中旬から末まで2週間位、青鶴紅葉祭りが開かれています。この期間内に蘇塗祭天とも呼ばれる開天大祭が催されます。蘇塗祭天は、昔は、蘇塗という聖域を立て、天に祭を捧げ、檀君神話に基づく経典とその徳目を教えたそうです。

『すでに侯準は王を僭称していたが、燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る

 注記① 魏略に曰く。昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周朝の衰退を知った燕が自ら王と尊称して、東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。

 禮を西に遣わして燕を説くと、燕は進撃を止め、攻撃をしなかった。その後、朝鮮侯の子孫がやや驕慢で暴虐だったので、燕は秦開将軍を派遣して、その西方を攻め、二千余里の地を奪い取って、満潘汗を以て国境とした。朝鮮は衰弱した。

『秦が天下を統一するに及んで、蒙恬に遼東に至る長城を築かせた。その時、朝鮮王の否が立っていたが、秦の襲撃を恐れ、秦に略服して属すも、入朝は拒んだ。否が死に、その子の準が立った。二十余年の後、「陳勝と呉広の乱」が起き、天下は戦乱となる。燕、斉、趙の民は辛苦から徐々に準(朝鮮)に逃れて行った。準はこれを西方に置いた。

『漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は浿(ばいすい;清川江)と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の浿水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めます」と準に告げさせ、そして帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。

『その左右の王族を率いて海に逃れ、韓地に居を構え、韓王を自称した。

注記② 魏略に曰く、その子や親が国に留まり、韓氏の姓を犯す。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来しなかった。

『後漢書』東夷列傳に『その後四十餘世、朝鮮侯の準に至り、自ら王を称す。漢の初め大いに乱れ、燕・齊・趙の人の往きて地を避ける者は数万口。而して燕人の衞は準を擊破し、而して自ら朝鮮に王たり。 伝国して孫の右渠に至る。元朔元年、濊君の南閭(なんりょ)等、右渠に畔(そむ)き、二十八万口を率い遼東に詣(いた)り内属す。 武帝はその地を以って蒼海郡と為し、数年にしてすなわち罷(や)む。 元封三年に至り、朝鮮を滅ぼし、分かちて樂浪(らくろう)・臨屯(りんとん)・玄菟(げんと)・真番(しんぱん)の四郡を置く。』

その後、四十余代の朝鮮侯準は王を僭称。漢の初め大乱あり、燕・斉・趙の民は難を逃れて朝鮮の地に数万人も逃げ込んだ。そして、燕人の衛満は準を撃破して、自ら朝鮮王となり、伝国は孫の右渠に至る。元朔元年(B.C.128年)に至って、君南閭らが右渠に叛き、28万人を率いて遼東に詣でて内属し、武帝はその地に蒼海郡を設置したが数年で廃止した。

 

その燕王・盧綰が匈奴に逃走後は、その部将・衛満(えいまん: ウィマン)は同調者1,000人を率いて、朝鮮半島北西部に亡命します。まず衛満は箕准(;じゅん)を頼り、その信任を得て、西方燕の辺境に居住し、その守備の任務に当たります。

この頃より半島北西部朝鮮と呼ぶようになります。鴨緑江豆満江(とまんこう、 トゥマンガン)以南の半島全域を、朝鮮とするようになるのは近世以降のことです。衛満は、短期間で、そこに居住する燕・斉・趙の流民勢力を統率します。その勢力を中核にして、次第に勢力を拡大します。

やがて在地勢力を討伐吸収してB.C.194年頃、王険城(平壌)を攻めて、准王を追い出し、王険城を奪って建国します。衛満は入国したとき、朝鮮人の服を着ていたといわれます。彼もまた、燕に住む「箕」一族の流れで、かつての本拠地・遼寧地方に東帰し建国した「箕氏朝鮮」と同族の後裔であったのでしょう。その政権の高官に土着民出身者が多かったのも、頷けます。

箕国簒奪後も、国名をそのまま『朝鮮』とします。「衛」は、前漢時代の朝鮮国の俗称です。また、衛氏朝鮮(ウィシチョソン)を創建した満についても、従来は 衛を姓とすることが定説となっていましたが、衛は辺境を意味するもので、必ずしも姓ではないとする説も有力です。後世の史家の独善で、無理に、こじつけされ、他の政権と区別されるため、便宜上、国名を定められたという説もあります。当時、政権が代わっても、『朝鮮』は『朝鮮』でした

衛満は鉄器文化を本格的に導入します。それにより鉄製の農具と武器を中心に手工業を発展させます。漢に対しては遼東太守の外臣として帰順しますが、内実 は独立国家と大差なく、活発に周辺諸族を征服するとともに、その朝貢を妨害します。広大な領土を占めると、地理的な利点を利用して、東方の(わい)や南方のとの交易を妨げ、仲介貿易の利益の独占をはかります。は吉林省の東部から北朝鮮北西部、韓国江原道にかけて存在した古代の種族で、A.D.3世紀の夫餘・高句麗・沃沮・の四種族の前身です。その当時の『朝鮮』における先住民とみていいでしょう。

もともと、B.C.194年に建国された衛氏朝鮮は、征服王朝であったため常に土着の朝鮮民族の抵抗に遭い、3代にして衰徴に向かいます。

 

二、漢の武帝

B.C.141年、高祖劉邦の曾孫、7代皇帝・武帝が、16歳で即位します。「清静無為」。高祖の死後から武帝が即位するまでの50数年の政治の有り様を、そう評します。武帝の父の景帝は、先代の父・5代皇帝・文帝と共に、漢の基盤を固める善政を行ないます。外征を控え、内政を重視し、倹約に努め減税を行い、重農政策を打ち出し、当時の人口90%の農業従事者の活力を涵養します。「漢書(かんじょ)」は、文帝「藉田(せきでん)」を造り、皇帝自らこれを耕し、勧農の模範を示したと記します。その天子親耕の儀式は、日本では現在まで伝わっています。この結果、経済は安定し、政治体制は順調に確立され、財政は豊かになり、後世、文帝景帝の時代を合わせて文景の治と称えられます。官庫は中央も地方も、税収の銅銭で満たされ、その穴あき銅銭の孔を通しまとめて吊るしておくと、長い間使う事がないため、紐が腐って銅銭が散乱したとまでいわれています。食糧倉庫は、その大量の穀物を収容しきれず、露天積みとなり、腐って捨てられもしたそうです。

高祖は、秦が郡県制を布き、藩塀がないため脆く滅びたため、郡県制を採り入れながらも、劉氏一族を諸侯王として封じます。郡国制です。高祖が崩御して40年も経過すると、藩塀として長安の皇室を守るべき一族の全諸侯王国の半ばが、反乱を惹き起こします。漢の版図の東南部の諸侯王国で、呉と楚を中心にまとまる7国です。それまでも漢政府から、宰相や太傳(たいふ)を派遣して、皇室の意向に従う指導をしていました。善政が続き、国力は大いに増強されましたが、諸侯王も富強になりました。

文帝の時代から、中央は諸侯王の力を削()ごうとします。次代の景帝が即位すると、側近の晁錯(ちょうそ)が、副首相にあたる御史大夫(ぎょしたいふ)に任じられますと、諸侯王の封地の削減を強行します。劉氏一族で、最初に楚王が標的になります。文帝の母薄太后(はくたいこう)の喪中に女性をはべらしたとして、東海郡38県を没収されます。次に膠西王(こうせいおう)は、売爵事件で6県を削られます。趙王は常山郡18県を奪われます。皇族の最長老の呉王劉濞(りゅうび)の領土も召し上げられようとします。呉は銅や塩の国営により豊かで、税の徴収を必要にしなかったといわれています。景帝の3(B.C.154)年正月、呉国の塩の産地・会稽郡と銅の産地・豫章郡(よしょうぐん)を譲るよう迫られると、呉王は9国の諸侯王と連合して決起します途中2国が脱落し7国が挙兵します。これが呉楚七国の乱」です。

反乱軍は、長安を目指して淮水を渡り、その北の梁を攻めます。進軍中、背後を襲われないようにするためです。しかし梁の国都の?(すいよう)で、梁王劉武が頑強に進軍を阻んでいる間、長安から周勃(しゅうぼつ)の子・周亜夫(しゅうあふ)が大尉として、自ら討伐軍を率いて、?陽の北西の昌邑(しょうゆう)に入り、籠城します。呉楚軍との直接対決を避け、城を基地として、その背後の糧道を断つ戦術です。対陣が長引き、やがて呉楚軍に餓死者が続出すると、将兵は見切りを付けて脱走を始めます。そのため呉楚軍が撤退をせざるをえなくなると、その背後を周亜夫が襲いかかります。楚王劉戊(りゅうぼう)の軍は、脆くも壊滅しますと、楚王は孤立し進退窮まって自害します。呉王軍は、辛うじて兵力を維持しましたが、夜間、親衛隊のみを伴い、軍を捨て遁走します。長江を渡り江南の地まで逃れます。挙兵して3ケ月後の事でした。呉の南方の同盟国であった東越の軍に裏切られ殺され、その首級は長安に届けられます。

呉楚軍以外の同盟軍の膠西、膠東、菑川(しせん)の諸侯王は、斉の国都・臨淄(りんし)を包囲していましたが、呉楚軍の敗走を知り撤退したところを追撃され、諸侯王は皆、自害しました。ただ趙王劉遂(りゅうすい)だけは、国都・邯鄲(かんたん)10ケ月堅守しますが、漢軍に攻め立てられ、やはり自害しました。

乱後も郡国制は維持されますが、大国はなくなり、10数県の領国支配程度に限られます。しかも、今までは中央から宰相や太傳の派遣程度でしたが、さらに中央から出向する官僚が増え、徴税その他の行政の殆どが、彼らの手に握られます。

景帝の代に勃発した呉楚七国の乱により、有力な封王が悉く倒れた事で、武帝には中央集権化への道が開けます。巨万の財で溢れる国庫を相続して武帝は、父祖の代までは自重していた外征を積極的に行い、宿敵匈奴への作戦を開始します。車騎将軍・衛青、驃騎将軍霍去病かく きょへい)等の武将が活躍し、まずは成功します。尚、車騎将軍驃騎将軍衛将軍大将軍の地位は、三公の丞相御史大夫大尉と同格です。大尉は国防相にあたりますが、通常、軍を指揮するのは将軍です。

の時代から既に、外戚が軍事上重要な役割を果たしてきました。特に漢代以降、それが鮮明になります。軍事力を有する者が、政権の存続に重要な役割を果たす事は言うまでもありません。それで軍隊を指揮する者を身内にするのですが、劉氏一族の皇族にすれば、兵権を握ることは皇帝の地位を得た事に等しいので、それに代えて外戚に頼るのです。武帝は、衛皇后の弟・衛青と甥・霍去病兵権を授けたのです。確かに、彼らは天才的な能力を発揮しました。同時代の、歴代の将軍一族の公孫敖(こうそんごう)、公孫賀、李広、張騫(ちょうけん)等の武将達が、敗北の苦杯を嘗め、軍事的に素人の衛青霍去病のみが勝利するのです。その訳は武帝が、2人に精兵を集中して、最強・最多の武器を与え、兵糧の補給に万全を期したからでしょう。その上、冒頓単于は既に亡くなっています。その孫の軍臣単于は、衛青の第3回遠征の翌年に身罷っています。その後内訌が生じ、政争に敗れた軍臣単于の太子・於単(おたん)にいたっては、漢に降りました。匈奴は昔日の面影がありません。

元狩2(B.C.121)年の春、霍去病は僅か20歳で、驃騎将軍に任命されると、河西回廊を制圧して、シルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、1万の騎馬隊を率いて隴西(ろうせい;甘粛省定西地級市内)の匈奴の支配領域に深く侵入します。またもや、奇襲に転じると、折蘭(せつらん)王と盧侯(ろこう)王を殺し、焉支山(えんしざん)を経由して、渾邪(こんや)を破り、その王子を捕えて首を切り、酒泉にまで至り、捕虜8千9百を連れて凱旋します。霍去病の戦術は、匈奴の御株を奪う奇襲です。

遊牧民である匈奴は、食料源であり経済源でもある羊を養うためと大切な馬を肥やすため、分散し周遊しなければなりません。単于であっても、常に大軍を集合させておくことは不可能です。衛青は、その匈奴の攻撃には強いが、部族ごとに「ゲル」住まいをするため奇襲には脆い、そこに着目しました。分散する部族ごとに、大軍で奇襲するのです。匈奴としては、なすすべがなかったのです。甥の霍去病も、この遊牧民の根源的な弱点を、衛青から学んだのです。

霍去病は、同年夏、河西(かせい)に再度遠征します。当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、霍去病が武威・居延を越えて、河西回廊の裏口から攻撃をかけ、挟撃するということになっていましたが、公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻します。しかし霍去病は単独で、作戦を敢行します。
 休屠王と渾邪王の部族は、先の戦いで隴西を失い、現代でいえば、同じ甘粛省内ですが、遥か北西の地・酒泉より約15Kのところに集結し、東側の漢の方向で防備を固めていました。西側は無防備でした。霍去病はその背後から、居延沢(きょえんたく;現在の内蒙古自治区額済納<エチナ>旗)を奇襲し、さらに南の祁連山まで追撃します。捕虜、戦死者合わせて3万以上の大敗北でした。匈奴の王室、貴族、将軍等100余人も捕虜とされています。

伊稚斜単于(いちしゃぜんう)は、老上単于の子ですから冒頓単于の孫にあたり、先代、軍臣単于の弟でもあります。B.C.126年、軍臣単于が亡くなると、自立して単于となり、軍臣単于の太子の於単を撃ち破り、匈奴族の主流になります。同年、代郡(河北省)・雁門(山西省)に侵入し、翌年には代郡・定襄(山西省の中部より北)・上郡に侵攻しました。その伊稚斜単于元狩2(B.C.121)年の春、霍去病に敗れ隴西を失いました。予想される漢軍の再度の遠征に備えて、休屠王(きゅうとおう)渾邪王らに酒泉を防備させていたのです。単于は、うちつづく敗戦の責任を、この二王に負わせようとして、出頭を命じます。彼らは恐れて、その地をあげて漢に降り、漢は張掖郡、酒泉郡、敦煌郡、武威郡を置き、直轄します。その後また金城郡を置き、これらを河西五郡と呼びます。そして漢は、周の時代からの地名、雍州を改めて涼州とします。中央アジアとの交易路が確保され、西域諸国の入貢が続きます。

B.C.120年、霍去病の軍が、ゴビ砂漠を越えて進撃して来ると、伊稚斜単于は対陣すらできず、包囲を突破して逃走するしかありません。匈奴は完全に弱体化し、以後、ゴビ砂漠以北に逼塞します。
 先のB.C.121年の秋、匈奴の渾邪王休屠王は、伊稚斜単于により度重なる敗戦の責任を問われる事を恐れて、漢に投降したいと思い、長安に使節を送ってくれるように要求します。武帝はそれを降伏と偽って奇襲しようとしているのだと考え、霍去病に軍隊を率いて行くように命じます。二王も長安に向かいますが、途中休屠王が投降にためらいを示します。渾邪王は彼を殺害して、その衆も合わせて前進します。匈奴の兵士には、この長安への行軍が、投降のためと報らされていなかったようです。霍去病は、黄河を渡り、渾邪王と会見すると、いざ降伏の段になって、従わない衆が騒ぎます。霍去病は、その衆8千人を斬り殺しますが、降伏者は4万人を超えます。

それから渾邪王を先導させ、霍去病は兵を率いて渾邪王の指揮下にあった数万人の兵士を伴い黄河をわたり、順調に任務を完了します。武帝は、大いに喜び、2万乗の車をもって迎えさせます。1乗は4頭だて馬ですから、相当の大失費です。さらに、千七百戸の領主にして霍去病を賞します。渾邪王には、一万戸をあてがい、その他の匈奴族の貴族にも恩賞を与え、その恩賞総額は数十鉅万銭に及びといわれています。辺境が落ち着いたことにより、隴西、北地、上郡の守備隊が半減され、結果、人民の負担が大きく軽減されました。しかし、『漢書』「食貨志」は、この年、漢は、百余鉅万銭の費用を支出したと記します。「鉅万」は「万万」、即ち「億」という単位です。

次に大宛(だいえん)を征服します。現在のウズベキスタン領で、中央アジア東部、フェルガナ盆地です。さらに、嶺南地方の南越に遠征し、郡県に組み入れます。終に、武帝の軍事的野心は、朝鮮にも及びます。ここまで来ますと、中華思想による王化の国策では、説明しきれない絶対的権力者の妄執すら感じられます。武帝の軍事的成果のほとんどが、実効支配にまで至りません。後世、武帝の治世は前漢の全盛期と称されますが、文景の治の蓄えを消耗させた時代で、前漢の版図は最大にまで広がりますが、その果実を得たとは思えません。武帝時代も後半になると長年の遠征と、泰山の封禅を始め度重なる大旅行、そして神仙にあこがれ、甘泉宮(かんせんきゅう)の通天台、飛簾桂館(ひれんけいかん)、益延寿館(えきえんじゅかん)等の巨大建築、極め付きは柏梁台(はくりょうだい)に20丈(古代中国では、丈は男の身のたけを表しますから、1丈は180cmか?)の仙人像を建造、その上、武帝自身の奢侈により財政は悪化し、それを補うために、元狩4(B.C.119)年、塩・鉄の専売制を布き、後に酒も専売となります。同年、「五銖銭」(銖は重さの単位)を鋳造させ、貨幣の私鋳と物価高騰を防ごうとします。さらに財産税を課し、元鼎2(B.C.115)年には、均輸官を郡国におき、特産物を税として強制的に貢納させ、これを不足地に転売して物価の平均を図る均輸法を施行します。これは、物価調節の名の下に国庫の収入増をねらった政策です。元封元(B.C.110)年には、物価を安定させる名目で、相場の安いときに購入し、高くなると販売するという平準法も行ないます。いわゆる商品の流通と相場に介入する官営経済です。そのうえ売位・売官まで行ったので社会不安が増大します。これらによる民の負担は大きく、また度重なる外征の軍役と、大建造物造営の人夫にも徴用され、各地域、各分野で働き手を失い、生業が全うできなくなり、民衆が流民化し、各地で盗賊が跋扈します。父祖が築き上げた文景の治の成果は、一代で潰えるどころか、その政権前期で蕩尽しています。以後、前漢は没落の過程を歩みます。

 

三、武帝による朝鮮出兵

B.C.134年、武帝は遼東郡の東北方面、のちの蒼海郡の地・穢州を取らんとして城邑を築きます。

 B.C.128年冬に、衛氏朝鮮に反対する(わい)君の南閭達が、28万人を率いて遼東郡に降ります。武帝は、その朝鮮半島の東岸の領有地に蒼海(そうかい)郡を置いてこの地方を支配しようとしますが、度々首長の反抗に遭い安定しません。

B.C.126年春、蒼海郡を廃止。この時、現地の首長・南閭に「穢王之印」を授けて独立を認めます。BC1341269年間は漢帝国と穢族の戦いが継続していたのではないかとみる説もあります。穢王の印璽を持つ族について「体形は大柄で勇猛だが、謹厳実直で略奪をしない」と『三国志魏書』扶余国伝に記しています。この誠実で勇敢な性質が、移住した先々で接する狩猟、牧畜を生業とする他の民族や部族に信頼され、定住農耕を発展させていったのです。

漢の武帝の時代、朝鮮王は衛満の孫の右渠(うきょ;Wei Youqu)でした。武帝は渉何(しょうか)を使者にたて、漢の諸侯王となり、3年に1度の入朝を要求します。右渠は、初代の祖父の代から朝貢はしていない、朝鮮国はあくまでも独立国である、として拒否します。しかしながら、朝鮮の副王・長に命じ、使者を丁重に清川江(チョンチョンガン;平安南道を経て黄海に流れる川)まで送ります。ところが使者の渉何は、その使命の失敗を繕うため、その副王を殺害して帰朝します。「詔に従わなかったので、朝鮮の将軍を殺しました」と復命します。武帝の政権も30年を超えています。武帝が限りなく親愛した霍去病B.C.117年、僅か24歳で病死し、武帝の最初の外征を成功に導いた衛青も、衛氏朝鮮が滅んだ2年後のB.C.106年に逝去しています。その軍功により大司馬大将軍にまで出世し、その後、武帝の姉の平陽公主を妻としますが、政治には口出ししなかったようです。衛青性格からして、老いても過去の功績を公言することなく、命ぜられもしないのに、逼塞状態にいたようです。

帰朝すると渉何の、この復命が通り、その功により遼東の東部の朝鮮との国境に近い部署に、2千石の軍官・都尉(とい)に任命されます。朝鮮が怒るのは当然です。出兵して渉何を殺害します。小才知の彼は、捨石の役目だったのです。これが、武帝による朝鮮へ遠征軍を派遣する理由になります。

 B.C.109年、武帝は衛氏が遼東を侵すと、楼船(ろうせん)将軍楊僕に5万の兵を与え、山東半島から海路、朝鮮へ侵攻させます。陸路は左将軍・荀彘(じゅんてい)に、遼東から出征させます。楊僕は、斉の海上から王険城(平壌)を攻める際、講和開城を図って力戦しませんでした。そのため僚将の左将軍の不信を買い、その讒言により捕えられます。しかし王険城陥落の後、不和独走のために左将軍は処刑され、棄市されます。楊僕は死罪をあがなって庶人に貶されます。朝鮮平定後、遠征軍の軍官の誰一人、列侯に封じられていません。
 楊僕は、先年、路博徳らと共に、武帝に南越攻略を命じられました南越国(なんえつこく)B.C.203年からB.C.111年にかけて593年にわたって中国南部からベトナム北部の嶺南地方に自立した王国です。首都は番禺(現在の広州市)です。嶺南地方とは、その時代ごとに、多少の変動があるようですが、一般には、現在の広東省及びベトナム北部と広西壮族自治区の領域とみられています。

激しい戦闘は1年間続き、B.C.111年冬、楼船将軍楊僕が精鋭を率いて尋峡を攻略、その後番禺城の北の石門を占領し、南越の戦艦と糧食を奪い南に向かって進撃を続けます。これに伏波(ふくは)将軍である路博徳の軍隊が合流、共に南越の首都である番禺を目指します。楼船将軍伏波将軍のように、臨機に命名される将軍を、雑号将軍といいます。楊僕は、武力開城を求めて激しく力戦しますが、城内の越人は、講和を勧める路博徳に降り、結果的に楊僕は、武帝にこのことで叱責されました。朝鮮の役では、南越攻略での経験から、講和開城を図って、消極的とみられたのです。尚、南越が講和したのは、当時、先住していた越部族の中に、漢民族が少なからず移住していて、雑居状態にあったことも影響しています。南越丞相・呂嘉(りょか)は、幼少の南越王・趙興(ちょうきょう) と太后の樛氏(きょうし)が漢に臣従しょうと決したとき、漢の使節と共に攻め殺し、独立を図り造反をしたのです。殺害された太后は河北省、趙の旧都、邯鄲の樛家が、その出自です。

しかし、漢軍が首都・番禺に到着する前に、丞相・呂嘉は、海上に逃れざるを得なくなり、間もなく捕らえられるのです。捕らえたのは、南越の官吏であった漢族の都稽(とけい)でした。南越国の官吏には漢族が多く登用されていたのです。都稽は、この功により、臨蔡侯(りんさいこう)に封じられています。このようなことは、後に武帝が遠征軍を派遣した王険城周辺にも、あてはまる状況だったのでしょう。

武帝南越を滅ぼすと、儋耳(たんじ)、朱崖(しゅがい)、南海、蒼梧(そうご)、鬱林(うつりん)、合浦(ごうほ)、交阯(こうし)、九真(きゅうしん)、日南(じつなん)の9郡を置いて直轄領とします。そして儋耳と朱崖の2郡は海南島にあり、交阯、九真、日南の3郡は北部ベトナムです。

 

当時の朝鮮王・右渠(ウゴワン)は、一時、漢の大軍を迎え撃ってこれを破り、その海軍も撃破しています。右渠には、本名が伝わっていません。右渠は官職名なのです。『史記』朝鮮列伝には「王険城を攻略するため、樓船将軍の楊僕の率いる水軍が河口に向かいますが、すぐに右渠が城から出撃してきて漢の水軍を撃ち払った」と記されています。河は大同江でしょう。楊僕は、左将軍・荀彘(じゅんてい)の軍の到着を待たず、7千の軍を先行させますが、右渠は直ぐ、その兵力の少なさを知り、出城し襲撃したのです。漢軍はその突然の急襲に、先行軍はもとより楊僕の本隊まで潰散して、10日間以上も山中を逃げ惑います。ようやく潰散した兵が集結した頃、荀彘の軍も到着します。この時から、荀彘は楊僕の資質を知り、信用しなくなったのです。両軍は清川江で対陣しますが、決着をみません。漢の武帝は和戦両様の策をとり、勅使・衛山を派遣します。

『三国志魏書』馬韓伝に「魏略には、初期、右渠がまだ破れていない時、朝鮮の宰相である歴谿卿が右渠に諌言をしたが用いられず、東の辰国に亡命した。そのとき朝鮮の民も二千余戸が彼に従って出国した」と記します。

朝鮮政府は、一枚岩にまとまっては、いなかったのです。そういった事情もあったとおもわれます。右渠(ウゴワン)は、一旦は帰順し、太子・請和に降伏を命じ、その率いる万余の兵士の兵器までも手渡すよう指示します。ところが衛山と荀彘は、清川江をわたる際、太子に刀剣の引渡しを求めたのです。当然、副王・長の危難を想起します。太子は同行した兵卒を集め、逃げ帰ります。荀彘は、再度軍を進め清川江朝鮮軍を破り、王城の西北側を臨みます。楊僕は城南に駐屯します。ここで両将の意見が対立します。楊僕は和平的解決を望みますが、荀彘は、先の失敗もあり、不断の猛攻を主張します。漢軍は両将不協調で、城を包囲するまま、数ヶ月たっても落とせません。武帝は濟南太守・公孫遂を派遣し調糾正させます。

公孫遂は王城下で、荀の意見を聴聞して納得すると楊僕を拘禁します。その所属部隊を併せると、苟は直ぐ王城に攻勢をかけます。皮肉にもこの時、既に、楊僕の調略は功を奏していたのです。朝鮮の大臣の路人と韓陰(一作陶)、副大臣・尼谿相(地方行政の長官職)の参(チャム)及び将軍・王峽等は、漢軍の攻撃の激しさに恐れをなし、城門を破り、走って投降します。翌B.C.108年の夏、尼谿相・参の命を受けた者に、朝鮮王・右渠は刺殺されます。それで兵卒の多くは、投降したようようですが、漢軍がまさに入城しようとしたとき、大臣の成已(ソンイ)が起ちあがり、残留する兵士を集めて、漢軍を攻撃します。しかし、荀彘が既に降伏していた右渠の子・長や路人の子・最(さい)に、城の軍民に降伏を勧告するよう命じますと、城の軍民は決起し、右渠王の息子・長降(チャンハン)らに成已は誅殺れ、残余の兵は、皆、投降します。ここに衛氏朝鮮は滅びます。

漢の武帝は、衛氏朝鮮の故地に「楽浪(らくろう)郡」「真蕃(しんばん)郡」「臨屯(りんとん)郡」「玄菟(げんと)郡」を置いて、朝鮮四郡の半島北半の直接支配に乗り出します。それが、在地勢力の抵抗にあって次第に縮小し、平壌地方の楽浪郡に機能を集中しますが、他の3郡は実質的に撤収したとおもわれます。その実効支配は一時的だったのです。

B.C.108年の前漢時代、朝鮮半島北部にあった衛氏朝鮮が滅びると、B.C.82年、(わい)が再登場します。もともと広域に分布していた族が、歴史の表舞台に復活したのです。B.C.108年、衛氏朝鮮を滅ぼし、その跡地に楽浪郡を、周辺に真番・臨屯の二郡を設置しますが、このうち臨屯郡は現在の韓国江原道にあたり、穢族の居住地の最東端にあたります。

B.C.107年、玄菟郡を設置します。これはかつての蒼海郡を復活させたものです。玄菟郡は吉林省の東部から北朝鮮の慈江道・両江道・咸鏡道を通って日本海にぬけるものです。この時「穢王之印」を所持した穢人の政権は、北へ逃亡し「鹿山」の地に依って「夫餘国」を建てます。夫餘とは穢人の言葉で鹿の意味といわれます。

B.C.82年、真番郡・臨屯郡が廃止され、臨屯郡の故地は穢人の首長たちの多くが、「県侯」に任じられ、治めさせたとようです。

B.C.75年、玄菟郡が西へ縮小移転(第二玄菟郡という)され、日本海沿岸部(咸鏡道)が放棄されると、「沃沮」として独立します。沃沮とは、玄菟郡の最初の郡治「夫租県」の地を中心に定住する穢族を指しますが、夫租県の県侯を代表させて称したのでしょう。フソだったものがなぜヨクソになったかは不明で、何らかの原住民の言葉が関係していようです。単なる文字の間違いとする説もあります。
 B.C.59年、玄菟郡はさらに西方へ縮小移転を開始し、中国と朝鮮の国境山岳部も放棄されると、「高句麗」として独立します。玄菟郡の第二の郡治「高句驪県」を中心とした穢族です。最初に放棄された高句麗県の県城に割拠して自立した先住民が高句麗国の起源なのです。高句麗の王都「丸都城(がんとじょう)」が、玄菟城(げんとじょう)であったのです。また高句麗は、当初、「高句驪侯」として歴史に登場します。「侯」は高句驪県の県侯の意味です。これが、後の高句麗国の名の起こりになったのです。そして、高句驪侯はA.D.32年には王を称します。この時までは、五部族の連合体で、他の部族も、玄菟郡の他の県城に割拠していました。
 ここにおいて族は、穢(韓国江原道)・沃沮(北朝鮮咸鏡道)・高句麗(吉林省東部と慈江道)・夫餘(吉林省北部)の四つに分かれることになります。この四種族を「穢系種族」とか「夫餘系種族」と呼びます。

 

四、弥生時代の王権

武帝により布かれた4郡のうち3郡が、穢とその一族・高句麗等の反抗により維持できず消滅しますが、楽浪郡だけはA.D.313年に、高句麗が占領するまで、420年の長きわったて存続したのです。楽浪郡は、日本の弥生時代の先進地・末廬国、伊都国奴国の交易中継地として、重要な役割を果たします。

『隋書』倭国伝で、『有軍尼一百二十人、猶中國牧宰。八十戸置一伊尼翼、如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。』と述べています。

『軍尼(クニ)に一百二十人おり、中国の牧宰(州の県の長官)のごとし。八十戸に一伊尼翼を置き、今の里長のようである。十伊尼翼は一軍尼に属す。』

ここに記載される軍尼(クニ)こそが、八十戸に一伊尼翼の、いわば80戸の集落が、十伊尼翼、いわば10集落を統括する大首長・「オウ」の「クニ」なのです。その「クニ」が、更に、いくつか連合して、小さな盆地や平野部で大規模な共同体としてまとまると、日本の弥生時代の「王」となり「国」となるのです。

B.C.3世紀末の弥生時代前期末、玄界灘に面した唐津平野早良(さわら)平野等で、青銅器の鏡、腕輪の銅釧(どうくしろ)等の装身具や銅矛、銅剣、銅戈(どうか)等の武器を副葬する「王」墓が出現します。銅戈とは、鎌に似たもので、柄の先端に取り付け、敵を刺す、斬る武器です。日本の銅戈の起源は、河北省を領有する戦国の七雄の燕とみられていました。その燕の武器が、朝鮮半島を経由して日本の弥生時代前期に伝わっと?朝鮮と日本の銅戈の最古の型式は同じで、B.C.321年以降のもの、しかもほとんど同時期に使われていました。ところが、近年の発掘調査で、銅戈はB.C.5世紀頃、既に遼西地域で広く使用されていた青銅武器の一つであることが明らかになりました。いずれにしても、燕、朝鮮、倭の交易は、さらに相当遡るのでは、ないかと思われますが、当時の倭は、何を持って交易の場に参加したのでしょうか?糸魚川原産のヒスイだけでは、心もとない、海産物?未だ、研究が足りないようです。

魏志倭人伝に末盧国と記される以前の「マツロ」国の時代から、宇木汲田(うきくんでん)遺跡は、弥生前期前半のB.C.3世紀前半から後期後半のA.D.2世紀まで続く甕棺墓地を後世に残します。唐津市大字宇木字汲田に所在し、夕日山から北東に延びた二つの小丘陵の前面、松浦川の右岸平坦地域に立地しています。ただ、その一帯は、縄文時代晩期から続く集落跡で、そこからやや北よりにある貝塚からは、土器、貝殻、獣や魚の骨等と共に炭化米も出土しています。貝塚の北の谷と集落の南の谷沿いには、水田が営まれていました。しかも縄文晩期の支石墓が14基あり、それも朝鮮半島の形そのままですから、当初から渡来系のムラだったとみられています。宇木汲田の周辺には、岸高(きしだか)葉山尻(はやまじり)迫頭(さこがしら)森田割石(わりいし)等に支石墓群があって、渡来人が6ケ所以上に分かれて集落を営んでいました。

その周辺の遺跡の分布から、唐津平野には、松浦川の右岸と左岸で、2つのクニがあったとみられています。右岸平野の宇木汲田遺跡は、9つ前後の家族墓がある甕棺墓地で、それぞれ1辺数mの方形の墓域で、時代によって規模も様式も副葬品も変わっています。

弥生前期前半では、碧玉(へきぎょく)製の管玉(くだたま)を着装した人を埋葬する家族墓が2つあります。「オウ」に至る前のムラの首長家族の墓とみられます。宇木汲田遺跡では、この碧玉製の管玉が25基の甕棺から310個以上発見されています。その大半が大陸から渡来物です。九州に原産しないヒスイの勾玉も、縄文系6個、弥生系9個が発見されています。弥生時代に、貴少な勾玉が、これほど集中して出土した事例はありません。

弥生時代前期末に、朝鮮製細形銅矛を副葬する2人が居た家族が居住していました。「クニ」の「オウ」が現れたのです。このB.C.2世紀初め、その2つの家族に限り、青銅器を副葬する甕棺墓が増え、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)のほか、細形銅剣・細形銅戈・細形銅矛・銅釧・碧玉製管玉・勾玉等が数多く出土し、この時から末廬国における王権が始まったと考えられています。しかもこの家族の墓域は、他の家族の倍ほどに広がっています。ただ同時代、同墓域内の他の家族でも、銅戈や銅剣を副葬しており、唐津平野では突出した支配者階級一族の集落だったのです。墓地の北側と南側には、竪穴住居群がありました。

宇木汲田遺跡では、青銅の剣が特に多く出土して、しかもその武器は、実用的なものです。筑紫野市永岡の永岡遺跡の甕棺墓では、銅剣の切っ先が骨に突き刺さっていたものが2体あり、深緑色の銅剣の切っ先が腰骨あたりを貫く、生々しい状態のものもありました。うち1体は石剣の切っ先も体に刺さっていたようです。また、石剣の切っ先が刺さっていたと考えられる木棺墓も1基ありました。吉野ヶ里遺跡の甕棺からは、首がないまま埋葬された人骨が発見されています。それは戦闘中に手首に深手を負い、首を取られた戦死者の墓でした。当時、一段と激しくなってきた争闘では、銅剣のほか、弓や石剣も重要な武器でした。宇木汲田遺跡では、その甕棺から銅剣や磨製石族、打製石族が発見されています。みな戦死者を埋葬したものです。

北部九州に大陸から渡来してきた人々は、苛烈な戦乱の過程で敗残した集団か、戦乱、天災、為政者の悪政等で生活の基盤を失った流民か、縄文晩期の日本列島の人口の少なさを知り、平穏な緑滴る未開の新天地とみて、入植した開拓者もいたのでしょう。縄文晩期には、既に灌漑用水路を備えた水田稲作が始まっていました。菜畑遺跡では、豚の家畜化も行われていました。当然、従来から居住する縄文人との軋轢もあったでしょうが、寧ろ、渡来人相互との争闘の方が、頻繁で惨酷を極めたものでした。渡来人は、水田稲作とともに、著しい緊張感のなかで、防御的環濠(環壕)集落を伴う弥生文化を伝来させたのです。縄文人は狩猟の道具を工夫しても、人を殺戮する武器までは考えもしませんでした。渡来人は大陸の緊張を、そのまま日本列島に持ち込んだともいえます。その上、水田稲作につきものの、上下流域の水争いは、近年まで続いた日本の農村の常の出来事です。殊に、この時代、河川の治水・分水を総合的に統括する組織は存在しません。そのため玄界灘沿岸の平野部には、元々広く広がる沖積平野部は少なく、まして水田適地はそれほど多くはありません。糸島平野や早良平野では、扇状地性の浅い谷地が水田開発されていたのです。そうした新天地で既存住民を駆逐した後、集落基盤の経済的安定が得られると、当然人口が増大し、新田開発か分村を考えます。しかしその地勢から、その限界に達するのは早かったようです。また北部九州一帯の集落は、地形的にも気候的にも、常に水害の危険に曝されますから、丘陵上に設けなければなりません。弥生時代前期後半のB.C.3世紀末から既に、「弥生銀座」とまでいわれる密集地になっていました。

おそらく渡来系集落は、当初から慢性的な食糧不足に苦しんでいたでしょう。縄文時代晩期は、それまでの恵まれた縄文資源を枯渇させ、破壊しきったつけによる慢性的な食糧難の時代でした。また水田稲作には、宿命とも言える水争いと土地争いが伴います。九州特有の大雨による河川の氾濫と蝗害等、不慮の災害による凶作で食糧争い生じ、B.C.3世紀後半から急増する戦争犠牲者の物語る実情がこれなのです。北部九州が中期前葉、銅矛と銅戈を祭具の中心的シンボルにしたわけが、ここで明らかになります。武力こそが、かれらの集落とクニを守り、戦争に勝利する事が彼らの生存を保障し、更なる王国への道を約束したのです。

宇木汲田の人々は、B.C.500年前頃から朝鮮半島から渡り、その縄文時代晩期には、その墓地を標高32mのムラの西にあたる丘に支石墓という故郷の墓式に則り営んだのです。弥生時代になると、ムラの墓地は中央広場の宇木川左岸の標高8~9mに東西75mに亘る長さで、129基の甕棺墓と3基ほどの木棺墓で埋葬します。その宇木汲田の首長が末盧国の王であり続けられたのは、中期中頃のB.C.100年頃までです。それ以降もA.D.2世紀まで、集落は続きますが、青銅器を副葬することはなくなります。王位は柏崎遺跡、桜馬場(さくらのばば)遺跡へと継承されていきます。

柏崎遺跡は、宇木汲田遺跡より宇木川下流の低台地上で、夕日山北麓の低く舌状に延びた、段丘状に立地する縄文から古墳時代の遺跡です。柏崎には幾つか発掘調査された地点があり、それぞれ柏崎xx遺跡とその地区の字名を付けて呼ばれています。柏崎石蔵遺跡からは、我が国では出土例が少ない触角式把頭(しょっかくしきはとう)飾りの有柄銅剣(ゆうへいどうけん)が、甕棺墓内から中細銅矛と共に出土しました。触角式銅剣の出土例は希で、この他に、対馬市峰町三根サカドウ遺跡と福岡県糸島郡前原町三雲遺跡、山口県西端の向津久保遺跡、韓国大邸市飛山洞、中国遼寧省西盆講が知られています。当時でも入手が困難な貴重な出土物から、柏崎石蔵遺跡は「魏志倭人伝」に記されている末廬国の王墓に比定され、有柄銅剣は唐津平野の王権を象徴するものとされました。弥生中期後葉から後期に亘る王墓の可能性が高いのです。

その触角式把頭飾りの有柄銅剣は、49.0cmあって、内、外モンゴル方面に分布していた北方式の騎馬民族スキタイ風銅剣という珍しいもので、取手が丸みを帯びており、刀身も全体的に厚みがあって重量感があります。中央アジアの銅剣が、この地まで伝承されたのです。

柏崎田島遺跡からは「連孤日光銘鏡」という前漢中期の鏡が出土し、中国の連雲港市(れんうんこう;リェンユンカンシ)海州の霍賀墓(さいがぼ)でも同型の鏡が出土していて、日本と中国の関係を示す遺物として、これまた注目を浴びました。この日光鏡は直径6.9cmの小型の舶載鏡で完形品です。鏡面は凸面で、鏡背に「見日月之明光田貞(卓)」の八文字の銘文があります。

 唐津市桜馬場遺跡は、弥生時代中期のB.C.1世紀からA.D.1世紀後半あたりの甕棺墓地です。松浦川左岸砂丘上にあり、戦中防空壕構築中に桜馬場3丁目の宅地から甕棺が出土し、棺内から副葬品として、後漢鏡2面、銅釧26個、巴形銅器3個、鉄刀片1個、ガラス小玉1個が発見されました。なお、縄文時代晩期の水田稲作遺跡で有名な菜畑遺跡も西方の近くにあります。昭和30年に発掘調査が行われ、これらの副葬品を納めていた甕棺が、弥生時代後期初頭のものと位置づけられ、銅鏡2面は、「方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう)」と「方格規矩渦文鏡(ほうかくきくかもんきょう)」でいずれも王莽の新代から後漢初期の鏡です。腕輪に鋭い鉤(かぎ)のつく有鈎銅釧(ゆうこうどうくしろ)は、南海産のゴボウラ製貝釧をモデルとしたもので、幅は9cmで26個出土しました。巴形銅器(ともえがたどうき)は、護符として盾等にはめ込んだようです。径6.cm、中央で突起した有鈎のもの2個、無鈎のもの1個が発見されました。国産の広形銅矛の切っ先部分、19.7cm、厚さ0.5cmも採集されています。鉄刀片は長さ5.6cm、厚さ1.1cmで錆だらけですが、本格的に鉄製武器を使う「王」の姿が髣髴されます。その豊富な副葬品から、宇木汲田遺跡、柏崎遺跡、桜馬場遺跡と続く、弥生中期末までの「末廬国」王墓とされています。

 中期末以降、「末廬国」から王族墓が出現する事はありません。伊都国(いとこく)属国になったと思われます。ツシマ(対馬)、イキ(一支)等の国々とともに伊都国連合の一つになったのです。伊都国現在の前原(まえばる)市を中心として、二丈町志摩町福岡市西区の一部を含む糸島地方を領有していました。特に、弥生時代後期後半以降、末廬国の遺跡は極端に少なくなっています。大陸との航路変更による物流の変化で衰退してしまったようです。伊都国対馬、壱岐をおさえ、朝鮮半島へのポートターミナルとして発展すると、かつての港湾国家・末廬国は、役割を終え衰微します。

 

五、伊都国

伊都国は、魏志倭人伝にもみえる倭の国の一つです。魏志倭人伝によれば、末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとあります。

『東南陸行五百里 至伊都国。官曰爾支 副曰泄謨觚・柄渠觚。有千余戸 世有王 皆統属女王国。郡使往来常所駐』

(末廬国から)東南へ陸を五百里行くと、伊都国に到る。そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。千余戸の家があり、代々王がいるが、代々女王国の統治に属してきた。帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来する時、常に、ここにとどまる。

さらに次のように書かれている。

『自女王國以北、特置一大率、検察諸國、諸國畏揮之。常治伊都國、於國中有如刺史。王遣使詣京都・帯方郡・諸韓國、及郡使倭國、皆臨津捜露、傳邊文書・賜遣之物詣女王、不得差錯。』

女王国より北には、特別に一人の大率(たいすい、だいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国はこれを畏(おそ)れている。大率はいつも伊都国で政務を執り、それぞれの国にとって中国の刺史(しし)のような役割をもっている。帝都や帯方郡や諸韓国への王の遣使が帰参する時、及び帯方郡が倭国へ郡使を遺わす時は、いつも津(しん・水上交通上の関)に臨み、一大率が品物の装封をとき、その数を点検する。また下賜の目録と賜与された物品を点検して、女王のもとへ届ける前に、間違いがないかを確認する。

この地域が伝統的に朝鮮・中国との交易の拠点として重要な意味を持ち、そのため一大率が、伊都国に常駐して北部九州を行政的・軍事的に統括する任務や、女王の行う外交の実務を担当し、厳格に監督する任務をもっており、女王の命を受けて、すべての外交実務を担当する伊都国をも掌握していました。一大率は、卑弥呼の王権によって任命された倭国の派遣官であって、郡守の役割を果たしていたようです。その官名は城郭の四方を守る将軍の大率に由来します(『墨子』の「迎敵祠」条)。

 

前原市大字三雲の三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)は江戸時代に発見されました。以前は、怡土(いと)郡と呼ばれていました。発見当時の様子を記録した青柳種信(あおやぎたねのぶ)著『柳園古器略考(りゅうえんこきりやくこう)』には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」とあり、高さが90cm以上、胴の直径が60cmほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていたと書かれています。1号甕棺のことです。
 銅剣、銅戈が発掘され、甕棺の中からは、朱入りの小壺とともに、直径27cm以上の大型鏡ほか大小34面、銅鉾大小2本、勾玉1個、管玉1個、鏡に間に挟まれたガラス璧(へき)1枚が出土しています。この璧は、ガラスで作られ扁平な円盤形で、中央に円孔があって、表面に粒状文があります。その円盤は天をかたどり、真ん中に穿けた円孔は、魂を天に送り還す結界とみます。これは玉璧(ぎょくへき)と呼ばれ、古代中国、
B.C.3500年頃からB.C.2200年頃の長江文明・良渚文化(りょうしょぶんか)では、王権と巨万の富の象徴とみられていました。いまとなれば、中国古代芸術の白眉といえるでしょう。

これらの出土品は現在ほとんど残されていませんが、わずかに銅鏡1面と銅剣1本が、博多の聖福寺に伝えられおり、国の重要文化財に指定されています。その銅鏡は、直径が16.cmあり、「潔清白而事君」から始まる銘文を有することから、連弧文「清白」鏡と呼ばれています。もう一つの重要文化財の銅剣は、「柳園古器略考」にも図示されている有柄中細銅剣です。この銅剣は青柳種信によると、1号甕棺外に切っ先を上に向けて埋没していました。その切っ先部分が欠け、長さ51.5cmでしたが、その後の発掘調査で、失われていた切っ先が出土しましたので、全長は53cm前後に復元されています。銅剣は刀身・柄・柄飾(つかかざり)が同時に鋳造された、いわゆる一鋳式銅剣(いっちゅうしきどうけん)です。国内での一鋳式銅剣発見は、他に佐賀県の吉野ヶ里遺跡、山口県の向津具(むかつく)遺跡、佐賀県の柏崎遺跡の4例のみ確認されています。

150年後の昭和49(1974)年、福岡県教育委員会は、1号甕棺の痕跡と銅鏡の破片多数、ガラス製の璧、金銅製四葉座飾り等の残片を発見しました。それにより、1号甕棺が弥生時代中期末のA.D.1世紀初めのものと判明いたしました。中国の皇帝が、王侯クラスの者に、葬具として与えたとされる金銅製四葉座飾り金具(こんどうせいしようざかざりかなぐ)は、中国では木棺を飾るため用いられるもので、1号墓被葬者に対して、前漢の皇帝が下賜したものと考えられます。三雲の王は、当時埋葬具として、木棺を使用しません。それで、甕棺の中に入れられたと考えられます。いずれにせよ、通常に手に入るものではありません。伊都国は、中国の漢王朝を宗主とする冊封体制に、既に組み込まれていたのです。

冊封の原義は「冊(書)を以って封爵を授ける」と言う意味です。漢代に始まります。中国の皇帝が外国の国王を臣下として認め、王、公、侯等の爵位封土を賜与するのです。冊封を受けた国の君主は、中国皇帝と君臣関係を結びます。そして臣下となる国のことを冊封国といいます。冊封国には毎年の朝貢と中国の元号・暦を使用すること等が義務付けられます。時には、中国から出兵を命令されることもあり、その逆に冊封国が攻撃を受けた場合は、中国に対して援軍を求めることが出来ます。ただ、これら冊封国の権利義務は、多くが当面の軍事及び政策的なものから派生します。これを逐一遵守する方がむしろ例外に属します。

むしろ現実的に解釈すれば、中国における中原の地を中心に置く華夷思想(中華思想)の表れで、天帝により有徳者(うとくしゃ)として天命を下され、天下の支配を委ねられた天子の皇帝が、周辺の夷狄(いてき)に、そのを及ぼし感化する王化思想の顕在化の証明であったのです。遠来の夷狄の朝貢は、皇帝の徳の高さを証明し、直属の臣下に絶対的権威となり畏怖させます。一方、周辺諸国の王も、中国王朝に認知されることが、その国における最高の権威になりえたのです。さらに周辺諸国は後代になると、倭国のように官位までもねだるようになります。言わば、より強い結びつきと政治的野心を充たすため直属の官職までも要求するのです。倭にあっては、412年以来、5王が、継続して南朝の宋に朝貢して冊封されますが、官位を得ています。「安東将軍」がそれです。

昭和50(1975)年、福岡県教育委員会によって、再度、発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見されました。2号甕棺も高さ120cm、胴の直径が90cmの巨大な甕棺二つを、口を合わせて埋めたものです。これも盗掘されていましたが、副葬品として銅鏡22面以上、瑠璃即ちガラス製勾玉12個、硬玉勾玉1個、ガラス製の垂飾1個等が出土しています。銅鏡はすべて中国製のものです。

この調査では2基の甕棺のまわりをとり囲む周溝の一部も発見されており、甕棺はこの墳丘の中に埋葬されたのです。墳丘は東西32m×南北22mの長方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものです。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものとみられます。伊都国建国の英雄がいたのでしょう。その事跡を知る術が無いのが残念です。
 このように、他では見られない豪華な副葬品と共に、巨大な墳丘に埋葬されていることから、この遺跡は伊都国の王の墓であると考えられます。また、副葬品の内容から1号に王が、2号に王妃が埋葬されたとみられます。三雲南小路遺跡に並ぶ程のものは、福岡県春日市の奴()国の王墓がある須玖(すく)岡本遺跡以外にはないことから、伊都国王は、その時代を代表する強大な権力者だったと考えられます。現在、遺跡は埋め戻されていますが、説明板が設置されており、出土品の一部は近くの伊都歴史資料館に展示されています。

 

六、青銅器の鋳型

 1980佐賀県鳥栖市安永田遺跡(やすながたいせき)」で、九州で初めて銅鐸の鋳型が発見されました。鳥栖市基山町にまたがる標高約50メートルの柚比(ゆび)丘陵上に立地する、弥生時代中期を盛期とする大規模な集落跡・墓地からなる遺跡です。大正2年に甕棺墓や銅戈・銅矛などの青銅器が発見されたことで、古くから注目されていました。昭和54年に、鳥栖市教育委員会の遺跡範囲の確認調査で、使用痕跡が明らかな、黒変した銅鐸鋳型片が発見され、この地での銅鐸生産が確実になりました。これは、九州地方の「銅剣・銅矛文化圏」、近畿地方の「銅鐸文化圏」という従来の画一的青銅器分布の定説に、その見直しを迫る画期的な発見となりました。さらに昭和5556年の発掘調査では、多数の住宅跡・甕棺墓・炉跡状遺構・溝と共に、銅鐸鋳型片・銅矛鋳型片・ふいごの羽口などが出土しており、この遺跡集落での青銅器鋳造が揺ぎ無いものとなりました。北部九州では、これとは別に朝鮮式の小銅鐸やその鋳型が発見されていますが、起源、年代共に、まだ不確定です。ただ1982年に、京都府向日市(むこうし)鶏冠井(かいで)遺跡」の銅鐸の鋳型は、弥生前期にさかりぼることが指摘されています。

現在国内で知られる青銅器の最古のものは、宗像郡津屋埼町「今川遺跡」出土の銅鏃、銅鑿(どうのみ)であり、弥生時代前期初頭のもので、B.C.300年頃に遡ります。これらは中国の遼東半島を中心に、朝鮮半島まで分布している遼寧式銅剣を、再加工品していることも明らかになっています。日本でも溶解鋳造が始められたのです。遼寧式銅剣は、中国では時代区分が明らかな青銅器と共に出土していることから、それを手がかりに年代が推定されています。今川遺跡は、津屋崎町宮司の海岸砂丘上にある弥生時代前期初頭の遺跡で、断面 字形の径60メートルの環濠を備えています。集落内の住居跡は、環濠集落の伝来より以前の、韓国忠清南道の松菊里(しょうぎくり)遺跡等でみられる朝鮮無紋土器文化時代の、『松菊里型』と呼ばれる2本主柱の竪穴住居跡に類似しているため、朝鮮半島の渡来人の集落と考えられています。今川遺跡の出土品と同様のものは、韓国松菊里遺跡の石棺墓からも出土しており、それらに近い年代と考えられ、年代は確定できていませんが、B.C.4世紀からB.C.5世紀と考えられています。銅鏃、銅鑿のほか、鉄鏃、磨製石鏃、石斧、石錘、打製石鏃。黒曜石片、勾玉、管玉、夜臼式土器、板付Ⅰ式土器片等が出土しています。

1992年、同じ津屋崎の下の原遺跡B.C.5世紀後半の竪穴式住居から、朝鮮半島に多いオンドルの跡が確認されました。オンドル跡は他にも福岡県では遠賀郡岡垣町小郡市、朝倉郡夜須町でも確認されています。九州以外でも滋賀県大津市安太(あのう)遺跡、長野県麻積、神戸市などでも確認されています。しかし、朝鮮半島とは違い、湿度の高い島国の日本では、湿気で土間や壁が結露だらけになり、オンドルは普及しませんでした。 

北部九州の甕棺墓や土壙墓から発掘されることによって明らかなのですが、前期末~中期前半の時期になると、朝鮮製の青銅製武器(剣、矛、戈)や多錘細文鏡、小銅鐸が出土します。しかし、前期後半以降、既に鉄器の普及の兆しがみえてきます。斧、鉇(やりがんな)、刀子(とうす)等の小型工具が近畿地方でも出土します。

 

七、古代朝鮮半島南部

B.C.2世紀頃から朝鮮半島南部でも、小部族国家が形成されはじめ、これらを地域ごとに区分して西部を馬韓、東部を辰韓、南部を弁韓あるいは弁辰と呼び、これらを 三韓と総称します。漢江以南の3地域に割拠した韓族の総称で、これを記録する中国最古の文献は『三国志』魏志の東夷伝韓の条です。

『三国志魏書』馬韓伝

「韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、四方は四千里ばかり。韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。」

『後漢書』馬韓伝

「韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡、南に倭と接している辰韓は東に在り、十二国、その北に貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。土地は合わせて四方四千余里、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である。」

半島の西南部(忠清・全羅の諸道)の地域を占めていたのが馬韓で、54の小国からなっています。大きな国でも戸数は1万余戸、小さいものは数千戸でした。馬韓・辰韓はそれぞれが次第に部族連合体を形成するようになり、34世紀にそれぞれ統一国家に発展します。4世紀半ばになるとこのなかの一国・伯済国を中心として政治的統一がなされ百済国が成立します。また半島東南部の洛東江以東の慶尚道には辰韓があり、12の小国よりなっていました。

両書が述べる「南に倭と接する」とは、当時の北九州勢力が、日本海を渡り、朝鮮半島に邑落国家を設けるほど成長していたとは考えにくいので、半島に進出したのではなく、日本列島に移住せず、朝鮮半島に残留した「倭人の国家」が存在していたのでしょう。少なくとも、北九州に居館」を構える王達のルーツが、そこにあったのです。

 

『三国志魏書』は、「辰王は月支(げっし)国を治める」後漢書「すべての三韓の地の大王」と表現が異なりますが、 辰王は月支国に都に置いて三韓地方を統治していたようです。月支国は、月氏の1支族が建国しました。中国の秦から漢代に中央アジアで活躍したイラン系騎馬民族で、モンゴル高原の西半分を支配していましたが、匈奴冒頓単于が立つとB.C.206年とB.C.176年、冒頓による攻撃を受けて、中央アジアの中心ともいえる西のイリ地方に逃れます。この時に一部は甘粛・青海に残こります。中国の史書では、残ったほうを小月氏、西遷した方を大月氏と呼んでいます。故地を追われた大月氏は、天山山脈を越え、アフガニスタンのアムダリア河を渡って、バクトリア王国に侵略し、B.C.150頃バクトリアの地に大月氏国を建国します。 一方、天山山脈を越えず河西(黄河の西)に移住した一族は、小月氏と呼ばれました。月支国は、その小月氏の支族が、朝鮮半島に流入して建てた国家と推測されます。

『後漢書』弁辰伝

「初め、朝鮮王準が衛満に滅ぼされ、数千人の残党を連れて海に入り、馬韓を撃ち破り、韓王として自立した。準の後裔は滅絶し、馬韓人が再び辰王になった。」

辰国は、どの時代に成立したのか、また、どの民族が創建したのかも不明です。辰国の国王が、韓王を号したことから、韓族が建てた国家とみられますが、遺跡等により実証されてはいません。韓族のルーツを解明するのは、困難だろうと思われています。辰国以前から、多民族が多方面から流入し、混血を繰り返してきたからです。辰国の時代、北西部には箕子朝鮮、北部から東北にかけては族の集団、西南に馬韓がありました。

『後漢書』辰韓伝辰韓では、「古老は、苦役を避けて韓国に行った秦の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと言う。彼らは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒(酒盃を廻すこと)を行觴(ぎょうしょう; 。【觴】はさかずき【杯・盃】の意)と言う。皆のことを徒と呼ぶ。秦語に似ていることから、辰韓を秦韓ともいう」

『三国志魏書』辰韓伝では、「辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。城柵あり、言語は馬韓と同じではない。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)、皆のことを徒と呼び合い、秦語に相似しているが、燕や斉に由来する名称の物はない。楽浪人は自らを阿残と呼ぶ。東方人は自分を阿と言う。楽浪人は本来、その残余の人だと言われる。今はこの国名を秦韓とする。始めには六国あり、その後十二国に細分化した。」

「秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者」で、「秦語に相似している」、更に念を押すように「燕や斉に由来する名称の物はない」ことから、その辰韓の言葉は、陝西(せんせい)方言の秦語です。長安周辺からの難民だったようです。辰王は、その難民に馬韓地域の一部を割譲して弁韓と辰韓とします。辰王は、月支国に王宮を構える大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であったのです。

B.C.2世紀初め、朝鮮北部で異変が起こります。北部の衛氏朝鮮が、辰国等の朝貢を妨げたことが討伐の名目とされ、B.C.108年に衛氏朝鮮は滅ぼされます。その支配領域に設置された楽浪郡など朝鮮四郡に、辰国は属していません。時代は遡りますが、B.C.194年頃、衛満によって国を追われた箕氏最後の準侯が、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、一時、韓(辰)王となったのです。ただ一代の短期で終わり、再び韓人が復位します。ただ当時、辰王の月支国が建国されていたかは、資料がありません。それでも侵略的王族を短期間で、放逐できたのは、当時、既に民族的纏まりがあったのでしょう。

辰韓では、秦人は他国者のため王にはなれず、王族は馬韓人だったようです。元々、六国でしたが、後に十二国に分かれます。その一国、慶州(キョンジュ)盆地にあった斯廬国(しろこく)を中心にして、4世紀半ばに新羅国が成立します。当初の「斯蘆」という文字の発音は、現代日本語では「しろ」で、現代韓国語では「サロ」ですが、漢字の上古音では「シラ」であるそうです。日本では習慣的に「新羅」を「しらぎ」と読むが、奈良時代までは「しらき」と清音だったようです。穀物と稲を育て、養蚕を生業として、頭は扁平短頭であり、風俗は倭人に似ていたと言われています。渡来系弥生人のルーツの1つが、見えてきます。

京畿道は、漢江に沿って肥えた平野が発達して、先史時代から人々が定着した地です。B.C.2世紀頃、京幾北部地域には『辰国』があったと推定されます。以後京畿地域は馬韓連盟体に属しますが、連盟54ケ国のなかの10余の小国が京畿道地域に分布します。B.C.75年、辰国は三国に分立し、馬韓の地となった京畿道は、漢江以南の地域にまで勢力を及ぼし、政治的には月支国の盟主である辰王の支配下にあったのです。その境は、南にある弁韓と接しており入り組んでいました。

『三国志魏書』辰韓伝は、「名樂浪人為阿殘;東方人名我為阿、謂樂浪人本其殘餘人」と記しています。樂浪の支配階層の多くは、当然、漢民族であったでしょう。しかし、民は東界のであったようです。古代の朝鮮半島北部の血流は、のようです。

『晋書』粛慎伝に、「周の武王の時代、楛矢と石砮を献じる。周公が成王を補佐していた時代に遣使が朝賀に来た」とあり、粛慎(しゅくしん)は周王朝に朝貢していたが、その後は一千年も来朝が途絶え、突然、三国魏に来貢してきたとあります。粛慎は、後漢時代、ロシア沿海地方付近で勢力を張る挹婁(ゆうろう)に代わられています。周の時代に朝貢してきた粛慎とは、当時、粛慎の居住領域にいたではないかと、粛慎の貢献品は「楛楛矢(こし)、石砮砮、貂皮(黒テンの毛皮)」ですが、後の高句麗や濊貊の特産品とも同じです。が進出した吉林省から遼寧省にかけての土地は、周王朝に通貢する途上の道筋です。北から遼河を越え、数多くの国境を通過すれば、周都に到達できます。中原に到る通交ルートを熟知したが粛慎から分立し、西南に移住したことで、粛慎からの朝貢が途絶えたのです。北東アジア地域のツングース語系の民が、古代長きに亘って朝鮮半島北部で勢威を振るっていたのです。

313年高句麗族が楽浪を覆滅すると、相前後して帯方郡を滅ぼしたのが、馬韓族とされています。それ以後小国の一つ伯済国が中心となって馬韓の北半部、漢江南岸を中心にして百済国が建国されます。百済の王の姓は””ですが、先祖の種族名の・扶余が、その由来となっています。4世紀に、帯方郡の故地に伯済国を建国しますが、百済は支配層と民衆の言語が違い、百済王族は当初、扶余姓を名乗り、後に中国風にと一文字に略したのです。

楽浪郡の所在地が、現在の平壌の郊外、大同江を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はないようです。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた状態といえます。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、帯方郡は黄海道鳳山郡文井面石城里にある唐土城の北方4.5kmの地で、付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が見つかりました。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(せん;煉瓦)・銭等が出土しています。帯方太守・張撫夷(チョウイブ)墓や郡治址のある智塔里(チタムニ)土城のある黄海道(ファンヘド)信川(シンチョン)郡が、それにあたるでしょう。

扶余国3世紀末、鮮卑の首長・慕容廆に侵略され国力は衰退して、494年、終に、同族の高句麗に併呑され滅亡します。しかし、一人の王子が逃れて、東扶余国を建てます。王子は王位継承問題がこじれて再び逃れ、その夫余族と共に南下して、馬韓の北方の伯済国を領土とし、次第に馬韓諸国を併合して百済を建国します。このとき辰国は解体します。

『後漢書』辰韓伝

「国内で鉄を産出し、濊、倭、馬韓などが、これを求めに来る。おおよそ諸々の交易では皆、鉄を以て通貨とする。」

弁韓国は12国に分かれており、鉄の一大産地で、倭や楽浪郡等も、この地で鉄を求めていたようです。風俗や言語は、馬韓より辰韓に似通っていたといわれています。弁韓辰韓の墓のつくり、土器、鉄器、いずれも区別ができないほど類似しています。

釜山市の莱城(ネソン)遺跡鍛冶遺構からは、鉄素材と思われる長さ6.3 cm、幅4.4 cm、厚み1.5 cmの鉄塊が出土しています。この遺構が、特異なのは、出土土器の94%が北部九州の弥生時代中期前半の土器だったことです。住居跡から集中して須玖(すく)式土器が発見されています。この鍛冶遺構を含む住居址の集落が、倭人の生活の場であったようです。貴重な鋳造鉄器を再利用しながら、鍛造鉄器生産を開始するこの時期に、北部九州の倭人と同系の現地倭人が、弁辰の鉄山で直接製鉄・鍛冶に携わっていたと想定されます。まさに「弁辰」条の「国出鉄、韓、濊、倭皆従取之」を彷彿とさせます。「従取之」とは「縦(ほしいまま)に之を取る」と読めます。

ただ北部九州では、これとは比較なら無い数の韓系遺物が出土している事は明らかです。

慶尚南道(キョンサンナムド、けいしょうなんどう)泗川市(サチョンし)の三千村(サンチョンチョン)の沖合にある落花生型の勒島(ヌクト)にある勒島遺跡から、朝鮮の土器とは明らかに文化圏を異にする縄文土器や、縄文の道具類が発掘されています。この島では,勒島式土器のころに、弥生中期前半の北部九州の須玖Iを中心とした時期の土器がいくつも出土しています。勒島遺跡で出土する弥生土器には,現地で作ったものも多いようですが、基本的には北部九州の弥生時代中期中頃までの型式変化に沿っているようです。遺跡から出土した大量の土器の5%程度で、目立ちはしませんが、絶対量は相当なものといわれています。ただ後期の遺物の発見がみられません。釜山広域市影島区(ヨンドグ)にある東三洞(トンサンドン)貝塚からも、B.C.5000B.C.1,000年前頃の、縄文人が日本列島から齎す縄文土器や、交易品であった九州産の黒曜石製石鏃、鋸歯鏃、2枚貝製腕輪等が数多く出土しています。釜山市から閑麗水道(ハンリョスド)にかけての多島海域では、古代より倭人その他の民族にとらわれない往来と雑居があったのです。

弁辰(弁韓国)は12国に分かれており鉄の一大産地で、だいたい洛東江本・支流域にあった小国家群です。「弁辰の鉄」は、原三国時代初期から生産量は相当なもので、鋳造鉄斧や板状鉄斧の形で各地に搬出されています。弁韓と辰韓の地にまたがり、鍛冶炉、金床石(かなとこいし)、砥石、この時代の特徴である銑鉄塊を溶かし、断面が台形の鉄斧を鋳造する溶解炉等の遺構が出土しています。

辰韓の一国であった斯盧が強大となり、辰韓諸国を統一して新羅を建国すると、これに対して、弁韓諸国は結束を固めて加羅(加耶)六国として分立します。狗邪韓国は、その後、加羅六国の一つ、A.D.42年建国の金官加羅又は任那と呼ばれます。

狗邪韓国は『三国史記』に「金官伽耶」とあり、洛東江下流右岸にある「金海(キムヘ)」という地に比定されています。慶尚南道昌原(チャンウォン)市東邑徳川里(ドクチョンリ)で、1992年に慶南大学校(キョンナムデハッキョ)博物館が発掘調査した結果、支石3基、石棺墓5基をはじめ、支石墓の墓地施設と推定される東西17.5m、南北56m規模の石垣等が確認されました。青銅器時代の銅剣、紅陶、管玉等の遺物も出土しています。

徳川里の支石墓は 所洞村の真ん中にある栗の木の下にあり、覆い石の大きさは、長さ238cm、幅225cm、厚さ30cmで、上には10余個の穴が開いています。1989年に檀國大学博物館で、所洞地域の発掘調査を行った際に、この支石墓から東江側に4m程行った所で、ひどく毀損して形がわからないくらいの支石墓が3基、畑の両端にありました。破れた覆い石が積まれていることからして、畑にあった支石墓を壊して運んできたものです。東江の周辺に残っている支石墓の中で、形が最も完全に残っているものとしては、古城里の支石墓があげられます。古城分校の浦にあるこの支石墓は、上部がやや丸い石灰岩を覆い石にしており、その上には20個以上の穴が開いています。覆い石の大きさは、長さ263cm、幅254cm、厚さ70cmで、東江流域にある支石墓の中で最も規模が大きく、覆い石の東側はこぶし程の石が詰まっており、西側は長さ163cm、厚さ32cmの支え石があります。この支石墓から南側に10mばかりの所に、長さ 200cm、幅130cmの支石墓が東側に傾いて横たわっています。

昌原の上南支石墓は国立昌原文化財研究所によって199712月に発掘調査され、内部に死体を安置するため石棺を作り、その上に多くの割石と大型の蓋石が覆い、その上さらに、支石と覆い石をのせた独特な構造をしている支石墓が発掘されました。この支石墓は近くで発見された昌原徳川里の支石墓とともに、韓国の代表的な南方式支石墓として注目され、埋葬の主体部である石棺が深くて堅固に築造されており、大型の床石を利用して墳墓の強度を高めている、当時の最高権力者・首長の墓と推定されています。床石の大きさは270 cm×185 cm、厚さ190 cm、位です。

慶南(キョンナム)地域支石墓の特徴は、普通の支石墓が覆い石の規模でその威容を誇示しますが、昌原徳川里のドルメンの場合、槨内の深さと幅を極大化して築造したという点で、首長の納棺の安置場所を重視しています。ここでは再加工された琵琶形銅剣と石剣が出土しています。日本では、縄文時代晩期後半から弥生時代前期初頭の遺跡です。狗邪韓国の基盤が確立されていく時代でした。ただ国までには至らず、次代を担う首長層が登場してきた段階です。

慶尚南道昌原に位置している茶戸里遺跡(タホリイセキ)は、原三国時代初期の墳墓遺跡群で、地理的に狗邪韓国内にあたり、豪華な出土遺物から狗邪韓国首長層の墓とみられるものも存在しています。この時期には鉄が量産され、剣や槍のような武器類だけでなく、小型の鋤や鎌等の農機具、各種の工具類等も鉄製で作られています。また、出土遺物の中で中国の鏡や銭等が発見されて、中国との交易が活発であったことが分かります。茶戸里遺跡の木棺墓から数多くの鉄器と青銅で作られた剣や装身具等が出土していますが、その木棺の中から、黒い漆が塗られた器、柄だけ発見された羽毛の扇、筆軸5本鉄製素環頭刀子(そかんとうとうす)1口、弓等も発掘され、この墳墓は、当時、この地域でかなりの地位にいた首長層のものであろうと推定されています。ただ群衆墓地の中の1つである点で、同時代の北部九州の福岡県前原市三雲南小路遺跡の伊都国王墓福岡県春日市須玖(すく)岡本遺跡の奴国王墓が、他と隔絶した独立墳丘墓であったのと比べると、狗邪韓国が弁韓の有力な盟主でありながら、加羅六国をまとめ切れなかった要因の一端がそれで知られます。

原三国時代初期の出土品の筆と硯は、その朝鮮南部で出土されたものの中でも一番古く、その当時すでに文字が使われていたことが分かる重要な遺物です。平均23.4cmの木製筆軸は、両端に筆毛があり、黒漆で仕上げられています。鉄製素環頭刀子は木簡や竹簡に墨書された字を削り取るために使用されたと考えられます。現代の消しゴムです。

福岡市博多区下月隈C遺跡(しもつきぐまCいせき)博多区雀居遺跡(ささいいせき)からは、木製案()が出土しています。調理台もあるでしょうから、すべてが筆記用文机(ふみづくえ)とまではいえないにしても、特に下月隈と雀居では、脚だけで30点近く出土しており、相当な数のセットが存在したことが窺えます。完全な形では、雀居遺跡で発掘されています。同じ構造、デザインの遺物は、福岡はもとより大分、長崎、佐賀等、北部九州一円に広がっております。

弥生時代中期後半、B.C.1世紀中葉、朝鮮南部と北部九州で漢製品が急速に数を増してきます。その当時、倭と密接な関係があった狗邪韓国での筆記用具の使用、北部九州における木製案の登場、これらにより、既にこの海域沿岸部では、漢字文化圏に組み込まれていたと考えられます。

木器の漆器容器類は土器に比べて高級な容器として多く利用され、漆はほとんどすべてが黒漆ですが、茶戸里1号墳墓で出土した中で蓋のある函の底には朱漆が塗られていました。器の形は朝鮮南部の後期無紋土器の形と類似したものが多くて、特に、高い柄がついた豆(ドゥ)が流行していたようです。
 茶戸里1号墳墓から筆軸鉄製素環頭刀子ともに出土した鋳造された鉄の斧は地金で、五銖銭は地金を得るため使われる貨幣の役割をしたもので、いずれも商取引に使用されたものです。伽耶の歴史を前・後期に分けたとき前期伽耶を代表する金官伽耶では,鉄製素材と対外交易の仲介によって成長し、鉄の製作による代表的な鉄器遺物である短甲等による対外交易で齎された外来製品が繁栄の基礎となりました。

 

八、『三国志魏書』倭人伝

『倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。昔は百余国、漢代には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。

帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。

また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国(壱岐)に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。四方は三百里ほど。竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。

また別の海を渡り、千余里で末盧国に至る。四千余戸あり、山海に沿って暮らしている。草木が盛に茂っており、前を行く人の姿が見えない。上手に魚や鰒(アワビ)を捕り、水深の深浅にかかわらず、皆が水中に潜って、これを採取する。

東南に陸行すること五百里、伊都国に到る。官は爾支、副は泄謨觚、柄渠觚という。千余戸あり、代々王がおり、皆、女王国の統治下に属し、郡使の往来では常にここに逗留する。

東南の奴国(博多湾沿岸の那の津や那珂川付近)に至るには百里、官は兕馬觚、副は卑奴母離といい、二万余戸ある。

東に行き、不彌国に至るには百里、官は多模、副は卑奴母離といい、千余家ある。

南に投馬国に至るには水行二十日、官は彌彌、副は彌彌那利といい、五万余戸ほどか。

南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。

女王国より北は、その戸数、道程を簡単に記載しえたが、その余の国は遠くて険しく、詳細を得ることが出来なかった。次に斯馬国、已百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、これが女王の領域内の全部である。

 その南に狗奴国があり、男性を王と為し、官には狗古智卑狗があり、女王に従属していない。郡より女王国に至るには一万二千余里である。

男性は長幼の別無く、顔と身体に刺青を施している。古より、そこの遣使が中国を詣でると皆が大夫を自称した。

夏后(夏王朝)の少康(第六代皇帝)の子(庶子の無余)が会稽に封じられ、蛟龍(伝説上の怪物)の被害を避けるため、短髪にして身体に刺青をした。

今の倭の海人は水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥が厭うからである。後にやや装飾的になった。諸国の文身は各自に異なり、左や右、大や小、身分の尊卑で差がある。その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる。

その風俗は淫乱ではない、男性は皆が露紒(ろしょう=頭に何も被らない)で、木綿を頭に巻いている(鉢巻き)。そこの衣は横幅があり、互いを結束して連ね(ラマ僧の巻衣)、簡単な縫製もない。婦人は髮を曲げて結び、衣は単被(ひとえ)のように作り、その中央に穴を開け、これに頭を突き出す(貫頭衣)。

水稲、紵麻(カラムシ)の種をまき、養蚕して絹織物を紡ぐ。細い紵(チョマ=木綿の代用品)、薄絹、綿を産出する。その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)がいない。矛、楯、木弓を用いて戦う。木弓は下が短く上が長い、竹の箭(矢柄)は鉄、あるいは骨の鏃で、すべてが儋耳(ダンジ)や朱崖(シュガイ。ともに海南島の地名)と同じである。

倭の地は温暖、冬や夏も生野菜を食べ、皆が裸足で歩いている。屋室があるが、父母兄弟は寝室を別とする。朱丹を身体に塗り、中国の白粉を用いるが如きである。飲食には御膳を用い、手で食べる。死ねば、棺(かんおけ)はあるが槨(かく=墓室)はなく、土で密封して塚を作る。死去から十余日で喪は終わるが、服喪の時は肉を食べず、喪主は哭泣し、他の人々は歌舞や飲酒をする。葬儀が終われば、家人は皆が水中で水浴び(禊だと思うが、原文の入浴に従った)をする。練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。

そこの行き来では、海を渡って中国を訪れるが、常に一人、頭髪を櫛で梳(けず)らず、蚤(ノミ)や蝨(シラミ)を去らせず、衣服を垢で汚し、肉を食べず、婦女子を近づけず、喪中の人のようにさせる。これを持衰(じさい)と呼んでいる。もし航行が吉祥に恵まれれば、共に訪れる(者)が生口(奴隷)や財物を与え、もし疾病が生じたり、暴風の災害などに遭ったりすれば、これを殺す、その持衰の不謹慎が(災いを招いた)というのだ。

真珠や青玉を産出する。そこの山には丹(丹砂=水銀)があり、樹木には楠木、栃、樟、櫪(くぬぎ)、橿(かし)、桑、楓。竹には篠、簳、桃支。生姜、橘、椒(はじかみ;サンショウの古名)、茗荷があるが、滋味なることを知らない。猿や黒い雉がいる。

そこの風習では、事を起して行動に移るときには、為す言動があり、すなわち骨を焼いて卜占で吉凶を占う。先ず卜占を唱えるが、その語句は令亀の法の如く、火?(熱で生じた亀裂)を観て兆(きざし)を占う。

 そこでは会同での起居振舞(たちいふるまい)に、父子男女の差別がない。人々の性癖は酒を嗜む①。大人(高貴な者)への表敬を観ると、拍手を以て跪拜(膝を着いての拝礼)にあてている。

 注記① 『魏略』によれば、そこの風習では、一年に四季があること(歴)を知らない。ただし、春に耕し、秋に収穫をすることを計って年紀としている。

そこの人々は長寿で、あるいは百年、あるいは八、九十年を生きる。そこの風俗では、国の高貴な者は皆、四、五人の婦人、下戸(庶民)はあるいは二、三人の婦人を持つ。婦人は淫乱ではなく、嫉妬をしない。

窃盗をせず、訴訟は少ない。そこでは法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその一門と宗族を滅ぼす。尊卑は各々に差別や序列があり、互いに臣服に足りている。租賦を収めている。邸閣(立派な高楼)の国があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている。

女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。一大率はつねに伊都国におかれるが、これは中国の州の刺吏のようだ。王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、女王が使を遣わして、洛陽や帯方郡・諸韓国にいたり、また逆に、帯方郡からの使が倭に来たばあい、何れも伊都国の港で、その目録と賜物の点検を行い、女王のもとに間違いなく届けられたかを確認します。

賎民が高貴な人物と道で出会えば、後ずさりして草群に入る。言葉で伝達すべき説明事は蹲(うずくま)るか、跪(ひざまづ)いて、両手を地に着けて敬意を表す。応答する声は噫(いい)と言い、これで承諾を示す。

その国、本は男性を王としたが、七、八十年で中断し、倭国は擾乱、互いの攻伐が何年も続くに及んで一人の女性を王として共立した。名を卑彌呼といい、鬼道(五斗米道の教え)に従い、(呪術で)よく衆を惑わす。年齢は既に高齢で夫はなく、弟がいて国の統治を補佐した。王位に就いて以来、会えるものは少なく。婢(下女)が千人、その側に侍り、ただ一人の男性が食事を給仕し、伝辞のため出入する。居住する宮殿や楼観、城柵は厳重に設けられ、常に武器を持った守衛がいる。

女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黑歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。

景初3239年六月、倭の女王は大夫難升米(ナショウマイ)を帯方郡に遣わし、魏の天子に朝献したいと願います。
帯方太守劉夏(リュウカ)は、役人を遣わし、送使を引率して洛陽に至らしめた。
その年の十二月、魏の明帝は詔して、倭の女王に次のように述べた。

「親魏倭王卑弥呼に命令を下す。帯方太守劉夏が使いを遣わし、汝の大夫難升米と次官都市牛利(トシギュヴリ)を送り、汝の献じた男の生口四人、女の生口六人、班布二匹二丈を奉り、わがもとに至った。汝の国ははるかに遠いのに、使いを遣わし朝貢したのは、汝のわれに対する忠孝の現れで、感心なことである。

今、汝を親魏倭王に任じ、金印・紫綬を与えることにし、それを包装して帯方太守に託して、汝に授けることとした。汝はそれをもって国内を綏撫(すいぶ)、われに孝順をなせ。汝が送った難升米牛利は遠路の労をいたわり、ここに難升米(なんしょうまい)率善中郎将(「中郎將」は官名で、前漢時代には皇帝の親衛隊「五官中郎將」があった。その地位は「將軍」に次ぐ)牛利(ぐり)を率善校尉(校尉は「宮城を守る武官)とし、銀印青綬(銀製の印。青は紫に次ぐ位を表すと思われる)を与え、謁見して労をねぎらってから復命させる。ここに絳地(「絳」は「説文」で「大赤也」で真紅の意。真紅の厚繪(あつぎぬ)のこと)の交龍錦(龍の図柄のある錦)五匹、絳地の縐(ちりめん)、縐粟罽(毛皮の一種)十張、蒨絳(「蒨」は「茜」と同義で、「大赤(真紅)」のこと)五十匹、紺青(紺青」は織物のことらしい)五十匹をもって、汝が献上した貢直の返礼とする。また特に汝には、紺地の句文錦(「句文」とは「曲がった模様」のこと。曲線模様のついた錦のこと)三匹、細班華罽(「班」は「斑」と通じ、文様のこと。細い模様のついた毛皮のこと)五張、白絹五十匹、金八兩、五尺(120cm)刀二口、銅鏡百枚、眞珠・鉛・丹各五十斤を賜るが、行李(こうり)に収納して封緘をして、難升米、牛利には、その目録のみを託します。これら全てを汝の国民に示し、国家(魏国)が汝に付いていることを知らしめるがよい。故に、重々しく良い品を賜るのである。

現物は翌、正治元年(240年)、帯方郡太守の弓遵は、建中校尉の梯雋(テイシュン)らを派遣し、詔書、印綬を奉じて倭国を訪れ、倭王に拝受させ、并わせて詔によって齎(もたら)された金、帛(しろぎぬ)、錦、毛織物、刀、鏡、采(色彩鮮やかな)物を賜り、倭王は使者に上表文を渡して、詔勅に対する謝恩の答礼を上表した。

その四年(243年)、倭王は再び大夫の伊聲耆(イセイキ)、掖邪狗(エキヤク)ら八人を遣使として奴隷、倭錦、絳青縑(深紅と青の色調の薄絹)、綿衣、帛布、丹、木彳付(弓柄)、短い弓矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を拝受した。

その六年(245年)、少帝は詔を以て倭の難升米に黄幢(黄旗。高官の証)を賜り、帯方郡に託して、これを授けさせた。

その八年(247年)、同八年、帯方郡の太守(オウキ)があらたに任官された。

 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は、もともと不和。倭は載斯(サイシ)、烏越(ウエツ)らを派遣して、帯方郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。帯方郡は、長城守備隊の曹掾史(ソウエンシ)である張政らを派遣し、詔書、黄幢(黄旗)もって行かせ難升米に、これを授けて、檄文つくって卑弥呼に教えさとした

卑彌呼は既に死去しており、大きな墓を作る。直径は百余歩、殉葬する奴婢は百余人。更新して男の王を立てるが、国中が服さず、更に互いが誅殺しあい、当時は千余人を殺した。再び卑彌呼の宗女(卑弥呼と同じ血筋)の「壹與」を立てる。十三歳で王となると、国中が遂に鎮定した。張政らは檄文を以て壹與を告諭し、壹與は倭の大夫の率善中郎将「掖邪狗」ら二十人を遣わして張政らを送り届けたによって、臺(皇帝の居場所)に詣でて、男女の奴隷三十人を献上、白珠五千、孔青大句珠(孔の開いた大きな勾玉)二枚、異文雑錦二十匹を貢献した。』

 

ここで重要な事は、倭王等の支配者階級は、中国皇帝から与えられた目録と賜り物を照合し、詔書を拝受し、その皇帝の使者に上表文を託しているのです。倭人社会は、既に漢字文化になじんでいたのです。そして、卑彌呼が帯方郡に最初に使者を派遣した景初3239年は、魏が公孫氏を平定した年で、魏が楽浪・帯方郡を直接支配して間もない時期でした。

公孫氏は後漢末期の動乱期、董卓(とうたく)により遼東太守に任命され、その後自立し、子の康(こう)、孫の淵(えん)と3代にわたって遼東地方を支配しました。帯方郡は公孫康が後漢末の建安年間(196220)に、楽浪郡を2分して、その南の荒廃した地域に設置したのです。従って、後漢の正式な郡県ではありませんでした。

楽浪郡の遺跡は、朝鮮北部に土城6所と墳墓があります。楽浪郡治の楽浪(ナンナン)土城は、650×500mで、内城があったとみられ、楽浪太守の大きな役所があり、その広場で太守は倭王の使者と接見したのでしょう。土城内の東北隅に200m四方に、瓦、武器、銅銭、封泥、塼(せん)等の遺物が集中し、ここには瓦葺の官庁が立ち並んでいたのでしょう。 「塼」とは焼いた煉瓦のようなものです。

帯方郡は、帯方太守・張撫夷(チョウイブ)墓や郡治のあった智塔里(チタムニ)土城のある黄海道(ファンヘド)信川(シンチョン)郡が、それに該当します。楽浪郡址と同時代の瓦・塼・銭等が出土している他、漢・魏時代の遺物・遺構も多いのです。智塔里土城は600×7500mの面積があり、県城とみられる遺構です。

『漢書』地理誌の楽浪郡含資県につけられた原注「帯水、西に発して帯方に至り海に入る」とあります。すると西流する帯水という河川があって、その上流に含資県があり、下流に帯方県があったとすれば、含資県は先述した辰韓の右の渠帥(きょすい;副首長)廉斯(れんし=地名)の人、鑡(さく)が楽浪に降る途上の地名として現れています。それは辰韓と楽浪を結ぶ最短ルートのはずです。となると帯水は漢江となり、それも東南から流れる南漢江となります。この文献に比定されると、ソウルになります。しかし、漢代の遺物に乏しく、城等の遺構もありません。日本国内でも、特定の地域の勢力の移動に、よくその地名を伴います。弦菟郡の高句麗県なども、郡の移動に伴って位置が変わっています。この時代の為政者も、当然、便宜的に地名の移動をしました。確かに、当初、帯方県はソウル方面でしたが、帯方郡設置の時代に、黄海道に移っていたのです。その後、帯方郡は建興元年(313)、遼東へ進出した高句麗が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は雪崩をうって瓦解します。その民や財貨、技術、文化は、近接する馬韓・弁韓・辰韓によって広く吸収され、次の時代の百済・伽耶・新羅という新しい国々を育む豊かな財源となります。

甘木・朝倉地方の弥生前期

縄文人の耳飾は、埼玉県鴻巣市滝馬室(たきまむろ)遺跡のみみずく土偶等で知られますが、玦状耳飾として京阪神地域から北海道まで広く出土して、耳たぶに孔をあけて、始めは小さな耳飾からだんだんと大きな耳飾となり、大きなものでは直径5cm位の孔が必要となります。現代でも西南中国の苗(ミヤオ)族では、直径1cm以上の孔をあけた婦人達がいて、孔が塞がらないよう木栓をしている人もいるそうです。このピアス式耳飾は、東南アジアでは広く行きわたっています。南方系の人は、福耳が多いのです。ところが北方系の人は、寒冷地のせいでしょう、耳たぶが狭く切れ上がっています。とても玦状耳飾の装着は無理です。

弥生時代の遺跡からは、吉野ヶ里遺跡等一部の例外はあっても、玦状耳飾はもとより、耳飾自体の出土例は無いに等しいのです。北九州に弥生文化を根づかせ育み、やがて日本列島に弥生時代をもたらした主体の人々の血脈が、明らかになったといえるでしょう。

青銅製武器の初期の細形のものは、実戦用としてその機能を果たしていたものと考えられます。また、その製作は、佐賀県「吉野ヶ里遺跡」での細形銅矛の鋳型の発見によって、前期末の段階からすでに国産化が開始されたことが明らかとなっています。しかし、考古学的には、そうであっても、歴史的に考証すれば、当然、大陸渡来人による生産は、もっと早かったとおもわれます。まず、朝鮮半島の無文土器を特徴とする、そのオリジナルな青銅器文化が水田稲作をともなって伝来しました。ついで前期後半の前漢時代、漢文化の影響を受け漢化された初期鉄器文化といえる原三国時代の朝鮮文化が伝来します。そして弥生時代中期中頃、鉄製武器が普及してきますと、青銅製武器は、非日常用の祭器として、また銅釧、巴形銅器のように装身具として特異な発達を遂げます。漢文化が直接伝播してきます。朝鮮系青銅器は激減し、銅鏡で代表される中国系青銅器が普及します。 

現在のところ、我が国で見つかった最も古い鉄器は、縄文時代晩期のB.C.3~B.C.4世紀のもので、水田稲作出現期で、福岡県糸島郡二丈町の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧の頭部です。鍛造品でした。鉄器が稲作農耕の始まった時期から石器と共用されていたことは、稲作と鉄が大陸からほぼ同時に伝来したことを暗示するものです。通常、初期金属器時代は、青銅器にはじまり、次に鉄器の時代が来ます。日本列島では、鉄器が最初に到来したようです。いまでは最古の板付水田の畦畔(けいはん)用の杭すべてが、鉄斧で削られている事がわかっています。しかも、その当時、中国でも鉄器が登場したばかりです。しかし、その後の板付水田の畦畔の杭は、磨製石器で製作されるようになり、普及しませんでした。普及するのは前期後半以降で、斧、鉇(やりがんな)、刀子(とうす)等、小形の鉄製工具が、近畿地方の遺跡からも出土するようになります。  

ところで福岡県甘木市中寒水(なかそうず)や、その西側の有明海に面する小郡市でも、中国式銅剣、鋼境の出土が伝えられています。宗像郡の「今川遺跡」出土の銅鏃と考え合わせると興味深い資料です。

甘木市馬田「上原遺跡」では、縄文時代晩期末の夜臼式期の甕棺墓、籾の圧痕のある鉢、形はシンプルでありながら、姿が美しい有柄式石剣2振りも採集されて、筑後平野のこの地にも、先進地・朝鮮系渡来人の集落が営まれ、水田稲作も行われていたようです。またこの地域は、第二次世界大戦時の旧大刀洗飛行場の東北端に位置します。鹿児島の知覧から飛び立った特攻隊は、ここから知覧へ飛んでいったのです。旧大刀洗飛行場建設ため、この附近にあった膨大な遺跡は破壊尽くされ、その中に、おそらく卑弥呼の墓もあったと推測されています。軍人政治のつけを、未だに我々は払い続けているのです。

馬田中原遺跡は、甘木市馬田町字中原・上原にあり、旧大刀洗飛行場の東北端に位置します。遺跡は東側約900mに小石原川を望む、比高差約10mの段丘の東端部にあります。遺跡の付近では、古くから甕棺や石棺が出土する事が知られていて、その包含層に縄文早期の押型文土器片があるものの、弥生土器・土師器と混在しており、しかも、それらの土器片に混じって、穀粒が1片出土しました。これは、その後発掘された、馬田上原遺跡の夜臼式甕棺に籾痕があったり、附近から有柄石剣が出土したりしたことから、この地方でも夜臼式土器の時代(縄文晩期)に、水田稲作が行われていたとみられています。

三重県嬉野(うれしの)町の貝蔵遺跡から出土した2世紀後半の壷に「田」が墨書されています。この「田」の字は水田意味するのでしょうか?中国の黄河流域では水稲が北方に伝承されていく以前に、畑作が広く行われていました。黄河流域の中原の地で確立された漢字です。「田」は畑でした。中国では今でも、その意味で理解しています。朝鮮半島では、「田」の本来の原初的意味で解し、畑と理解しています。水田稲作は連作障害が生じません。そこで繰り返される耕作と、柴や獣糞と人糞の施肥で有機化し、地味が肥えて黒田化します。畑の場合は、表層が乾燥し白化します。それで「畠」の字が生まれたのです。

 福岡県朝倉郡三輪町の栗田遺跡は、北の朝倉山塊からの河川により形成された扇状地上の、標高45mほどの低い丘陵上にあります。弥生時代から古墳時代の住居跡と墓がみつかっており、特に弥生時代中期から後期の甕棺墓等が多いのです。また、埋葬時の祀りに使われた赤色の土器・「丹塗り(にぬり)磨研土器」も大量に発見され、それは表面を赤く塗って、さらに磨き上げた土器です。

三輪町「栗田遺跡」の旭の下では、前期末の石製の把頭飾が出土しており、これは石剣の柄につける装飾品ですから、磨製石剣の存在を裏づけるものです。またこの遺跡では、弥生時代の丹塗り祭祀土器出土しました。前期末の時期、北部九州沿岸部の先進地域では、青銅器等の副葬が開始されますが、朝倉平野には今のところその出土例は、希なようです。それはこの地が、当時、政治的あるいは社会的に後進の状況にあったのでしょう。また、このころ石戈も登場しますが、青銅製の代用として、中期前半代まで使用されています。

 

 九、甘木・朝倉地方の青銅器

安本美典氏の研究により、甘木・朝倉地方と、奈良地方とでは21の地名のうち、17の発音の一致がみられ、その相互の方角もほぼ一致していることから、この地方の民族大移動により、奈良、大和にその地名が移ったのではないかと言われています。安本氏は、邪馬台国=高天原を説き、朝倉地方には「甘木」をはじめとして「天」に関係する地名が多く見られ、笠置(奈良県では、笠置山)があり、三笠山(御笠山)があり、高取山(鷹取山)があり、吉野(星野)があり、池田、田原、平群郡、三井、上山田、長谷山等は同名です。岩屋・岩戸がある等日本神話に現れる地名が集中的に残っていること、その発音がほとんど一致し、その相対的な位置関係もほとんど同じである等の理由から、邪馬台国を福岡県の甘木・朝倉地方、現在の朝倉市一帯と比定しています。

 

 現在国内で知られる青銅器の最古のものは、宗像郡津屋埼町「今川遺跡」出土の銅鏃、銅ノミであり、弥生時代前期初頭のものです。朝倉地域で現在知られる最も古い時期の青銅武器は、朝倉郡夜須町・東小田の「峯遺跡」の376号甕棺墓から出土した銅剣で、時期は、弥生時代中期中頃のものです。「峯遺跡」からは、銅戈6点と毛抜きも出土しています。

前期末から中期前半の時期、朝鮮製の青銅製武器の銅剣、矛、戈等や多錘細文鏡、小銅鐸が登場します。これらは主として北部九州の甕棺墓や土壙墓から出土することによってよく知られています。青銅製武器のうち、初期の細形のものは実用としてその機能を果たしていたものと考えられます。

福岡市有田遺跡」では細形銅戈が、弥生時代前期末の甕棺墓から出土しています。この時期に出土される細形鋼戈は、玄界灘沿岸部の先進地域に限られており、福岡須玖、佐賀吉野ヶ里遺跡からは、矛、剣、戈の鋳型が出土していますが、現在まで、細形タイプの鋼戈の鋳型は発見されていません。

宗像甜福間町「久保長崎遺跡」では弥生時代後期初頭の竪穴式住居跡から中細形鋼戈の鋳型が出土し、 これにより、遅くとも中細形の段階では、国内で生産が開始されたことが明らかとなりました。 

 夜須町の四三島から小郡市乙隈にかけて広がる「乙隈天道町(おとぐま てんどうまち)遺跡」では、銅剣の鋳型が一点出土しています。これは、その後、砥石として転用されたためその形状、時期等については不明で、後期前半のものと考えられています。  

夜須町大字東小田「中原前遺跡」では中広形銅戈の鋳型が一点出土しています。これは工事中に偶然発見されたもので、鋳型は、全長30.9cm、幅8.813.0cm、厚さ6.9cmの砂岩系の石材を用いて陰刻しています。鋳型は一部欠失しており磨滅が著しいためその全容については不明ですが、おおよそ全長389cm前後とみられています。鋳型の出土地点は、「峯遺跡」の北二2300mの低丘陵上です。一帯に広がる遺跡は、昭和60年度に調査された「中原前遺跡」をはじめ、平成元年~2年度にかけて調査された「迫額遺跡」があり、弥生時代中期から後期前半代を中心とした遺構が濃密に広がっています。しかし現在までのところ青銅器鋳造に関する遺構、遺物は出土していません。  

青銅器製作に関する資料は、奴国の中心地である春日丘陵(春日市)において集中的に出土しており、この地はさながら青銅器一大供給センターの様相を呈しています。この時代文化の流れは、圧倒的に朝鮮から日本へ伝播しています。それは青銅器によくあらわれています。中国鏡を模倣した小形倣製鏡(ぼうせいきょう)は、日本列島に弥生時代前期末のB.C.200年に、朝鮮製が対馬、福岡、佐賀にもたらされます。その後、中国鏡も伝来しますと鏡の需要が一段と高まります。しかし前漢末期の動乱で、中国鏡の流入が停滞したため、弥生時代中期末頃、日本製の小形倣製鏡の製造が開始されます。

春日市には須玖遺跡群という今から18002000年ほど前の弥生時代に隆盛をきわめた遺跡があります。この遺跡は金印を授かった奴国の王都で、この須玖遺跡集落において、青銅器生産が行われていたが、これまでの調査・研究から明らかにされました。青銅器の生産と流通を全体的に管理する者の存在も想定されています。そして奴国の中心部の須玖遺跡集落の小形倣製鏡が、朝鮮の嶺南(ヨンナム)地域(慶尚道;キョンサンドの別名)の遺跡に分布しています。しかしながら,前述のように青銅器生産の証拠ともなるべき鋳型は,須玖遺跡群以外の周辺の遺跡からも多数発見されています。

重要な事は、小形倣製鏡の鏡背面文様により鏡群を分類し、それぞれの出土分布を検討しますと、文様に豊富なバリエーションが認められる時期には,鋳型も須玖遺跡群以外から出土し、分散した生産と流通がありました。画一的で規格性の高い文様の鏡群が製作される時期になると、鋳型は須玖遺跡群から出土して、集約された生産体制が認められます。しかしながら青銅器の生産と管理を行う主体が、常に安定していたのではないこと、終末期の青銅器生産については、集約した生産体制であっても生産量が減少していたようです。

奴国は筑前国那珂郡一帯を領有し、現代でいえば春日市から福岡市のほぼ中央を流れる那珂川流域を中心としていました。その博多湾は大陸交通の要衝の地です。後漢の建国にいちはやく反応して、A.D.57年、光武帝に朝貢の使者を派遣しています。使者は、自らを大夫(たゆう)と名乗っています。この時代から、大夫という官名が、倭にあったのです。それが卑弥呼の時代にも登場します。このとき『漢の委()の奴()の国王』の蛇鈕金印(だちゅうきんいん)を下賜されています。それが江戸時代、博多湾の北の志賀島(しかのしま)で発見されたのです。

前漢の武帝以来、周辺国の朝貢・冊封体制が明確なものになりますが、中原に大国が形成されやすかったことの結果のことで、朝貢・冊封したのは、周辺の外国ばかりではなくて、かつて既に、本国の諸侯も冊封され朝貢していたのです。本国、属藩・外国という意識よりも、中央に近く御しやすいか、或いは、縁辺の国として防衛上枢要なところかが重要です。遠方で経済的・軍事的に自立していれば、日本のように朝貢も冊封も必要としないのです。むしろ、中国に対する儀礼以上のものは求めず、朝貢貿易を許すという形をとるのです。朝貢する側にとっては、朝貢は名目で、実質的な貿易により、直接的な利益を得ようとします。 朝貢させる中国にとっては、朝廷の権威づけとなり、朝貢する外縁国には、 国際的に認知された程の国として、その実力を証明された事になります。

倭というより日本にとって、重要な事は、朝貢貿易を認められ、金印を下賜されたことにより、を盟主とする漢語漢文の文化圏に組み込まれた証となったことです。盟主・漢は漢文という文書通信が、交流・交渉の最低条件となります。武帝の時代ともなれば、その条件が充たされていなければ、相手にもしませんでした。そのためにも印が多用され、直属していなくとも、交渉や権勢の位置づけに印を必須としました。ほとんどが銅印なのです。むしろ金印は、直属しない外臣に下賜されました。奴国は、後漢の光武帝により蛇鈕金印を授けられ、漢字文化圏の国際舞台で、初めて認知されたのです。これで奴国が、当然、漢字を駆使しえたことが明らかになります。

光武帝の時代、倭から朝貢する国が30国に及びと『後漢書』の「東夷伝」に記されています。この弥生時代後期初頭、百余国が並存し、そのうち朝鮮半島に近い30国ほどの国が、競うようにして光武帝に朝貢の使者を派遣したのです。余りにも鋭敏な国際感覚です。中国周辺地域で、こんような例があるのでしょうか?弥生時代の「国」とは、律令時代でいえば「郡」程度の領域です。それが、競って、朝貢するのです。それも権威付けのためにです。

 吉野ヶ里遺跡も、この「国」に相当し、「奴国」同様、A.D.1世紀を中心にします。佐賀県神埼市、神埼郡吉野ヶ里町にまたがっています。1986年から佐賀県教育委員会によって発掘調査が開始され、現在もなお継続した調査が行われています。これまでの調査より、弥生時代前期初頭に小規模な環壕集落が丘陵南端に形成され、前期には3ha、中期には推定20ha超、後期には40haを超す大規模な環壕集落へと発展したことが判明しました。2.5kmに及ぶ深い空濠がめぐらされ、平行して城柵を備え、常に戦時体制にあったようです。後期後半には、巨木で造られた望楼を備え、敵国の侵攻をいちはやく察知しようとしています。この後期には、環壕がさらに拡大し、二重となり、内環壕によって囲まれた北内郭と南内郭の2つの内郭ができます。特に北内郭は吉野ヶ里の最盛期にあたり、主祭殿となる大型の掘立柱建物跡がみられ、祭祀はもとより、重要な事柄を決める会議所でもあったようです。司祭者の居住場でもありました。南内郭は支配階層一族の居住区とみられています。南内郭西方に存在する大規模な高床倉庫群と目される掘立柱建物跡は、その規模・構造から稲等の租税の対象物を収納していたようです。それを財源に、平時にあっては、王家の財として、中国漢への朝貢外交の資として、しかしその殆どが「国」の運営に費消されたでしょう。他国の王が所持しない珍宝を求めて浪費する者もいたでしょう。また、これらの建物の北辺には、墳丘墓があり、前期末から既に、大型甕棺墓が盛行し、中期の600mに及ぶ長大な列状の集団墓地等とともに、歴代首長を埋葬したと考えられる大規模な墳丘墓が存在します。埋葬品として、銅剣やガラス製管玉、鏡、絹布片等が出土し、階層分化による首長権確立が認められます。「国」の中心集落へと発展した姿を読み取ることができます。現在、吉野ヶ里歴史公園では、弥生時代後期後半のA.D.3世紀頃、即ち卑弥呼の時代を復元整備対象時期として、これまでの発掘調査をもとに復元を行っています。ここが邪馬台国、卑弥呼の都かといえば、卑弥呼にかかわる物証は、未だ1点も出土していません。

中広形、広型銅矛・銅戈も鋳型の出土は日本のみで、土器との共伴資料を欠き、時期は不明ですが、佐賀県鳥栖(としす)市「安永田遺跡」では、弥生時代中期末~後期初頭の中広形銅矛の鋳型がみつかっていることからみて、中広形鋼戈もこのころには製作が開始されたものと考えられています。朝倉郡夜須地方においても中広形の段階で、独自に青銅器の製作を開始していました。中広形、広型以降の銅矛・銅戈は、日本では副葬品ではなく、ムラ、国、国々のマツリの祭器で、マツリに際して埋納されました。銅矛が最高位で、次に銅戈が位置づけられます。それが日本から朝鮮に渡ると生活の中で使われ、副葬品となります。これにより三韓と倭が、それぞれ独自の文化を確立していく時代に至ったといえるでしょう。

有鈎銅釧、人は太古の昔より身を装うということに情熱を注ぎ、また、支配者層においては、いかにして自らの権威を外形に示せるかに腐心してきました。古くは縄文時代に赤貝、ペンケイ貝等の2枚貝で貝製の釧(腕輪)をつくっています。弥生時代の中期になると、当時入手が極めて困難であった南海産のゴホウラ貝イモ貝等の大型巻貝を用いて貝釧をつくっています。ゴホウラ貝自体生きたものを見るのは稀で、幼貝も非常に少ないそうです。沖縄県久米島では、珊瑚礁の崖下水深50m辺りで棲息して、2月頃には産卵のため外洋から珊瑚礁内にかなりの数が入って来ます。この沖縄以南の海底深くから入手され、縦割りして腕輪にするため1つの巻貝から1個しか作れません。当然、高価貴重で、祭祀者の男性に限って、主に右腕に装着しました。イモ貝も南西諸島原産ですから希少で、これは輪切りして女性が両腕に装着しました。北海道伊達市有珠十遺跡でも発掘されています。これら南海産巻貝製腕輪の装着は、首長層ではなく祭祀的統率者がおこなったと考えられています。

弥生時代も後期になると南海産巻貝製腕輪が急速に減少し、青銅製の、これを模したものが、北部九州を中心とした地域で鋳造されます。有鈎銅釧とは鈎状の突起をもつのでその名があり、これは、ゴホウラ製貝釧のうち「立岩型」と呼ぼれるものに、その祖形を求めることができます。  

夜須町字朝日の「宮ノ上(みやのうえ)遺跡」では、この有鈎銅釧の鋳型1点見つかっています。遺跡は、標高30mの山家川左岸の低段丘上に立地し、 弥生時代後期の集落跡で、竪穴式住居跡12軒、掘立柱建物跡12棟のほか周溝状遺構、土壌等が見つかっています。有釣銅釧鋳型は、11号竪穴式住居の覆土中から出土しました。時期は出土した土器から弥生時代後期中頃のものと知れました。鋳型は砂岩系の石材を用い、長辺12cm、短辺9cm、厚さ6cmの大きさで、表面の一部が黒変しており、この地で実際に製作されたことを物語っています。環部は一部を欠損するが、上下、左右がほぼ対称の線形を呈し、その大ききは、外縁の長径8.1cm、短径6.5cm、幅0.81cmです。断面は、左右が甘い「V」字形で、外周は、「U」字形でその深さは4.55mmあり、突起都は若干湾曲するが直線的に伸び、その長さは1.8cmです。有鈎銅釧の鋳型は、福岡市の香椎多田羅(かしいたたら)で出土したものに次いで二例目ですが、遺構から出土し年代を特定できるものとしては初出のものです。ただ、この鋳型から製作された製品は現在までのところ出土していません。夜須町では、他に東小田の「中原前遺跡」で銅戈鋳型が出土しています。  

弥生時代後期前半代までの拠点的集落は、平野部の低位丘陵上に立地していました。しかし、中頃以降後半代になると、「曽根田宮ノ前遺跡」の環濠集落や、その至近距離にある後漢鏡出土の三牟田「下町遺跡」の土壙墓にみられるように、平野部でも比較的高所の急峻な段丘上に拠点的集落が移動していることがわかります。この時期、北部九州では甕棺墓葬が糸島地方を除いて姿を消し、前代まで続いた「王墓」も途絶えています。これらのことは、 『魂志倭人伝』にいう「倭国大乱」の社会的状況を反映しているのです。

隈・西小田遺跡の東方、約3km離れた所にある福岡県朝倉郡夜須町東小田峯遺跡では、昔から前漢鏡・鉄戈などが発見されています。最近の調査で弥生時代中期後半の10号甕棺から内行花文精白鏡日光鏡という二つの前漢鏡、ガラス壁(へき)を加工した円盤2個、鉄剣、鉄戈、瀟子(しょうす:ピンセット状の鉄器、毛抜きか?)と銅釧鋳型がみつかっています。これらから、ここが弥生時代の一つの国の中心地であったと考えられています。日本では、鉄器の鋳型の出土は、奈良時代以後の遺跡からで、弥生時代には鋳造品や銑鉄は海外から入手しました。しかし、国産の鍛造品もかなり作られています。では日本に豊富にある砂鉄を製錬しなかったのかというと、砂鉄は鉄塊の精錬鍛冶の過程で、その中に含む炭素を取り除く脱炭剤として使用した可能性が高いようです。

日本に伝わった初期の鉄器は中国製で、溶かした鉄を鋳型に流し込んで造った鋳造の斧がほとんどした。それらは木を伐採するのに絶大な威力を発揮しました。また、たとえ割れても、一辺を砥石で磨き刃をつけ、ノミや小型の斧として再利用されています。こうした工夫は弥生時代の石器にもみられます。鋳造された鉄斧は炭素をたくさん含むために堅い、それで衝撃に弱くて壊れやすい、これを補うために表面の炭素を減らして柔軟性を持たせる“脱炭”処理を施していました。弥生時代の製錬遺構のなかに、砂鉄製鉄器は、未だ発見されていまあせん。この時代の鉄素材には、長方形と三角形の板状と棒状の2形態があり、鋼鉄もあれば鋳鉄もあります。近年の発掘では、朝鮮嶺南産の断面が台形の鋳造鉄斧を加工した鉄器が各地で出土しています。中国漢代では鋳型で棒状と板状の鉄素材を製造しています。当然、朝鮮、日本に流入していたでしょう。

 鉄器の普及の兆しは、前期後半以降で、斧、鉇(やりがんな)、刀子(とうす)等の小形鉄製工具が、京都府中郡扇谷遺跡等近畿地方まで出土例が及びます。その殆どが鍛造品です。中国で生産工具類の多くが青銅器から鉄器へと変化するのは、戦国中・晩期で、武器は春秋末から戦国中期に至るまでは、青銅製が中心であり、鉄製武器類は戦国晩期以降になります。そしてその地域は、現在の発掘資料では燕と楚の地域に限られ、鉄製武器類はその両地域から普及しはじめたと考えられています。近年まで中国東北部を領有するのは燕も、他の中国諸国同様、鋳造鉄器文化とみられていました。

 しかしでは、戦国時代中期から後期に、鍛造による鉄製の武器・武具が発達していました。それで、東方の青銅器社会より優位に立ったと思われます。遼寧省の大凌河(だいりんが)と小凌河流域の青銅短剣墓の終末は、中国の戦国時代中期、B.C.4世紀頃まででしょうが、戦国中期まで遡る燕系の墓が同一墓地で出土しています。燕山以北への燕の進出は、『史記』に記される以前から始まっていたました。遼西と遼東、そして鴨緑江下流域との間に、燕の勢力拡大と共に当然、鉄器文化の伝播もあったのは当然です。

戦国時代後期、B.C.3世紀以後、遼東では農具や工具はそれまでの石器や一部の青銅器が急速に鉄器に置き換わります。青銅器には武器が多く、鉄器には農具が多いのが特徴で、農業生産力の向上に大いに寄与したでしょう。日本でも、ほぼ同時期、小形鉄製工具が、少数ながら近畿地方にまで伝来していました。その殆どは鍛造品です。鉄斧は、同じ伐採用の太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)より10倍以上の能力を持つといわれています。さらに鉄工具の使用で、石器では困難な細工が可能になり、木製農具の器種を増やし、耕作具がより機能的になり、生産性が向上しました。こうして日本でも、工具の鉄器化が大いに進捗しますが、鉄の素材自体希少で、農具本体の鉄器化が本格化するのは、次の古墳時代です。

戦国晩期から前漢初期の遼寧省北部の撫順(ぶじゅん;ピンイン)の蓮花堡遺跡の出土品をみると、農具の比率が高く、钁(かく)と呼ばれる斧形の土掘り具や穂積み具には石製と鉄製があり、まさに石器から鉄器への転換期でした。それが東方に伝播するにつれ土掘り具等の鉄製農具が見られなくなり、農具等の木器を作る工具が主となります。それだけ鉄器が貴重であった事を示しています。福岡市板付遺跡比恵遺跡(ひえいせき)では、刃先だけを覆う木製の鍬が出土しています。

戦国中期、B.C.4世紀、河北省易県に建てられた燕の都・下都は、この時期における最大の城市でした。鉄の工房施設を備え、この燕、下都の戦国早期のB.C.5~4世紀半の墓から多量の鉄器が出土しています。燕下都一六号墓から、環頭鉄刀子1、鉄鍬先5、鉄鋤1、鉄槌1が出土しました。環頭鉄刀子は、全長20cm前後で、切っ先が欠損した鍛造品です。鉄鍬先は、長方形を呈し偏平方形の袋部をもち、袋部の端部付近に二条の隆帯をめぐらすものと、無いものがありました。長さ14.4cm,刃部幅6.5cmなどがあり、断面方形の袋部ならびに隆帯の存在から鋳造品と考えられています。鉄鋤は、長さ21.6cm,基部の幅9.8cm,刃部の幅16cm,厚さ1cmで梯形の平面をなした板状のもので、全体にゆるやかに内彎しています。鉄槌は、長さ11.2cm,5.4cmの隅丸方柱形で中央に柄を挿入する長方形の孔があります。鉄器は、数は少ないが工具・農具からなり鍛造品と鋳造品の両者が存在したようです。

戦国中期の出土例は少なく晩期のものが多く、鉄器類の普及が戦国中期から晩期にかけての頃と知られます。燕下都二二号墓遺跡の付近には、鋳兵器址、鋳鉄址等が確認されて、手工業の工房が集中したとみられています。出土鉄器の中で渦巻き形の環頭刀子、円形の袋部をもった幅広の鑿、環状の柄のある錐は、鍛造品の特徴を持ち、斧・叉鍬・鎌などは鋳造品とみられますが、鍛造品は工具類に多いといわれています。日本の鉄製工具の由来が推測されます。

朝鮮中部地方の原三国時代の住居遺跡から、竃に長い烟道が付いたトンネル形の炉跡が検出されています。このトンネル形の炉跡は、遼東半島の鉄器時代遺跡である撫順・蓮花堡遺跡でも発掘されています。B.C.300年前後、戦国期の鉄器文化がこの地域に波及していたのです。

 

10、卑弥呼の時代

古代中国の歴史書によると、B.C.1世紀の弥生時代中期の頃には、北部九州に「国」が成立していて王が君臨していたことが知られています。そのうち対馬(つしま)国、一支(いき)国、末盧(まつろ)国、伊都(いと)国、()国の5国については、すでに所在地が明らかにされています。末盧国は、唐津平野の宇木汲田(くんでん)遺跡・桜馬場遺跡(唐津市)に、伊都国は糸島平野の三雲遺跡(前原町)に、奴国は福岡平野の須玖(すく)岡本遺跡(春日市)にそれぞれ中心地が比定されています。そのなかで王墓とみられる甕棺には、多数の前漢鏡や青銅武器、玉類などが副葬されており、中国と交渉力をもった強大な王がいたことがうかがえます。

不弥(ふみ)国は、福岡県糟屋(かすや)郡宇美(うみ)町と考えられます。『魏志倭人伝』の日程を、幹線道路整備が充実する江戸時代以降の人が割り出すためには、現代の感覚を捨て、当時の行路条件を想定するため、より克明な調査と研究が必要です。先の大戦で、旧陸軍の参謀が、愚かにも南方の前線の地理的条件と気候風土も考えず、コンパスを当てて、白地に近い地図で日程を割り出し、前線に転戦指示を出したのと同様の過ちを犯します。兵糧の手当てすら出来ない無能な参謀本部の命令は、前線の兵士をただ疲弊させ、戦闘前に風土病と飢えと疲労で兵力の大半を損耗させたのです。

卑弥呼の時代、九州地方の地理的環境を斟酌し、その行程の難度までも研究した資料が未だ現われないのが残念です。照葉樹林が鬱蒼と生い茂る中での徒歩が、どれほどの困難を伴いますか?毒蛇、蜂、ヒル、熊や狼への恐怖、その時代、内陸部は河川沿いが道のはず、その様相は多岐です、未整備の河川沿いを歩くとなれば、日程となると結果次第としかいいようがありません。当時と比較して大分、人の手が加わっていますが、山間部の未整備な川沿いを100m歩いてみて下さい。多分歩けないでしょう。河川を舟で行くにしても、流れの途上の岩等の障害で、長距離は相当危険を伴います。山の峰を踏破するとなれば、これは言葉上いえることで、通常は困難です。

不弥国の南に位置するのが、投馬国(つまこく)ですから、音に頼れば筑後国上妻郡と下妻郡の「妻」が該当しそうです。現在の八女郡、八女市あたりでしょうか?投馬国の南に接して邪馬台国となると、福岡県柳川・八女市一帯の筑後国山門郡(やまとぐん)が比定されます。縄文、弥生にかけて九州では、有明海沿岸や筑後川流域に人口が集中していました。江戸時代や明治時代でも、福岡市より九州中部のほうが人口は多く、邪馬台国の戸数7万戸が、有明海沿岸や筑後川流域に存在した可能性が十分あります。卑弥呼の王都が大和の纒向(まきむく)にあったとすれば、人口30万位の国が統括されていなければなりません。邪馬台国が、九州最大の筑紫平野を支配していたと素直に考えた方が、現実味があります。

 

余談になりますが、国学者の賀茂 真淵かもの まぶち;元禄101697〉年~明和61769〉年)は、荷田春満(かだのあずままろ)の弟子で、荷田春満本居宣長平田 篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされています。賀茂真淵は、邪馬台国は九州にあると唱えました。

真淵は、8代将軍徳川吉宗の次男、田安宗武により、延享3(1746)年に田安家の和学御用として召し抱えられました。宗武の援助を受け、真淵の研究は進展するようになり、『冠辞考(かんじこう)』・『伊勢物語古意』・『源氏物語新釈』等の著書を著します。とりわけ『冠辞考』は、『万葉集』の冠辞、即ち枕詞の音韻・名義等を研究したもので、古代日本の言語を知ることにより、「古人の心」を深く考察する研究姿勢で体系化し、真淵の主著となります。

本居宣長は、かねてより『冠辞考』という書物を通して真淵に敬慕していましたが、本居宣長に深く影響を与えた書物として知られています。宝暦13(1769)年、真淵が松阪を訪れた際、その旅宿を訪ねて待望の対面がかない、その後宣長は真淵に入門しますが、この師弟が直接面会したのは、その旅宿の一夕が最初で最後でした。宣長は、入門から真淵が没するまでの7年間、彼は『万葉集』や『続日本記』等についての質問や自説を書状にして、松坂から次々と送ったのです。江戸の真淵もまた、これらの質問に書状で答えます。特に、『万葉集』に関する質疑・応答は『万葉集』の全巻を二巡したといわれています。その成果は『万葉集問目(もんもく)』にまとめられましたが、十八冊に及ぶものだそうです。その弟子の本居宣長は、邪馬台国は大和にあると主張します。邪馬台国論争がいかに古くから論じられたかがわかります。

 

弥生時代後期前半(A.D.1世紀後半)代までの拠点的集落は、いずれも平野部の低位丘陵上に立地しています。それが後期中頃(A.D.2世紀中頃)以降から後半になると福岡県朝倉郡夜須町「曽根田宮ノ前遺跡」の環濠集落ように、平野部でも比較的高所で急峻な段丘上に拠点的集落が移動します。地形をみると、標高43mの急峻な段丘上の縁辺部に遺跡は立地しています。縁辺部から始まろ環濠は半月状の弧を描いて区画されています。ここでは高床式倉庫が29棟以上の掘立柱建物跡が確認されています。それが環濠内の区画された領域に、竪穴式住居跡とともにあるのは、「権力支配者所有」のものであったのでしょう。倭国は2世紀後半の180年前後に倭国大乱を迎えます。

「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」は、当時の日本の状況を「倭人は、帯方郡の東南の大海の中にあり、山や島によって国や村をなしている。もと100余国に分かれていて、漢の時代に朝見してくるものがあった。現在では魏またはその出先の帯方郡と外交関係にあるのは30国である。」と、つまり100余国が30国へ統合されていくその過程こそが、倭国大乱でした。

福岡県筑紫野市隈・西小田(くま・にしおだ)地区遺跡は、弥生から古墳時代を中心とした遺跡群で、弥生時代中期の甕棺が、約130基発見されました。そのなかで中期前半・B.C.100年頃の甕棺から、細形銅剣と右腕にゴホウラ貝製の腕輪8個を装着した40才代と推定される男性の人骨が発見されました。この人物は、甕棺群に葬られた集団を率いる首長と思われるが、同遺跡13地点では中期前半の首長墓につぐ中期後半の首長墓も発見されています。注目すべきことは、他の甕棺群から被葬者の体内に打ち込まれたと思われるおびただしい数の鏃や折れた石剣、首を切断された人骨等が出土しました。これは、ムラからクニへの統合が、激しい戦闘によって実現されたことを物語っています。

 

かつて伊都国の男王が北九州地区を支配しました。その後の長い戦乱を経て、政権を確立したのが、邪馬台国に治所を置く勢力でした。その当時の記録では、対馬国千余戸、一支国3千許戸、末廬国4千戸、伊都国千余戸、奴国2万余戸、不弥国千余家、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸であり最大です。邪馬台国は最大勢力を有しながらも、かつての伊都国王のような権力を確立できず、卑弥呼の特異な宗教的能力に頼らなければならなかったのです。しかしながら、倭王の権力は強大で、邪馬台国30国ばかりを統治下に置いていました。その俗的権力までも卑弥呼が握っていたのか、あるいは別に邪馬台国を統治する男王がいたのかは分かっていません。確かな事は、卑弥呼の下に、政治を助ける弟がいて、さらに弟を補佐する大夫(たゆう)と称する中央官僚達がいました。官職には伊支馬があり、その下に彌馬升、その次に彌馬獲支、その次に奴佳鞮がありました。筑波大学名誉教授の井上 辰雄先生の著書から援用すると、伊支馬(いきま)は「活目(いくめ)」と解して監察官、彌馬升(みます)は「見回(みまわ)す」と解しています。すると目付(めつけ)でしょうか?尚、彌馬獲支は「御間垣(みまかき)」、奴佳鞮は「抜き手(ぬきて)」と解釈されています。

甘木市出土例をみてみよう。この周辺での弥生時代中期の拠占的集落は甘木市「栗山遺跡」や、三輪町「栗田遺跡」に見るように平野部でした。その青銅祭器の出土からみて弥生時代後期後半になると、拠点的集落が倭国大乱により山麓の高地へと移動したものとみられます。夜須町でも同様の現象がみられ、後期後半代の拠占的集落は高地に移動しています。事実、三牟田「下町遺跡」の土坑墓から出土した後漢鏡から、弥生時代後期と推定されますが、平野部でも比較的高所の急峻な段丘上に拠点的集落が移動しています。

この時期、北部九州では甕棺墓葬が糸島地方を除いて姿を消し、前代まで続いた「王墓」も途絶えています。これらは、「魂志倭人伝」にいう「倭国大乱」後の社会的状況と関わりがあるのです。

朝倉郡杷木(はき)町大字池口の「西ノ迫遺跡(にしのさこいせき)」は、標高130mの尾根の先端郡に位置し、山麓の水田面からは、90mの比高差を有します。ここでは、同時併存の12軒の竪穴式住居跡と、それを囲む大規摸な環濠が発見されています。環濠は、幅1.34.0、深さ11.5m、全長46mが半円状に巡っていて、溝の中央部に陸橋部をつくり、その内側に2個の門柱跡があり、出入を制限していたことがわかります。時期は、出土土器から弥生時代後期後半のものと考えられています。要害ですが、通常の生活の場としては不便であることからみて、防禦的性格のつよい「砦」的なものとみられています。更に筑後平野東半を見渡せる絶好の地形は、「狼煙」等により危機を報せる役割も担っていました。「倭国乱れ、相攻伐」する軍部的緊張が高まった、いわゆる倭国大乱A.D.147188年)の時代です。居館」が造営されます。それは王が生活し、政治やまつりを行う支配の拠点であると同時に、王一族を特別に防御するための区画がムラの中に生まれたのです。戦乱に勝利すれば王権力は巨大化し、兵力、財力も増しますが、守らなければならないものも増えます。やがて居館」の存続が、「国」の消長の決め手となっていくのです。

倭国大乱は、弥生時代後期後半(A.D.2世紀中頃以降)に、瀬戸内海沿岸部を中心として高地性集落を出現させます。およそ目常生活をするには不便な山陵の高所に、居住地を設けます。これは倭国大乱の最中に育ちつつある北部九州勢力の軍事力への「脅威」によるものと考えられ、防御能力を最大限重視した集落となっています。

高地性集落の建設の動機は、瀬戸内海沿岸部から近畿諸国にわたる部族国家群にとってはより深刻で、鉄製武器とそれを経済的に支える先端の水田稲作を有する北部九州が、中国本土の後漢や魏等の大国の後見を受け、圧倒的な軍事力を以って侵攻しつつある脅威への対応策でした。有事には、攻撃と防御の前線基地となり、守勢となれば安全な砦となります。その緊張が、瀬戸内海沿岸の吉備国大阪湾沿岸と大和の地を結ぶ狼煙による連絡網を生み出し、他国の使節の往来を監視し、次には軍を集結させる軍道が整備されていきます。それが平時に日常の物資の交易道となります。しかし、双方が雌雄を決する大戦争に至った痕跡は、未だ発掘されていませんが、この過程が、大和と瀬戸内の吉備国を連携させ、国内最大の統一国家を生む契機となりました。やがて軍道が物流の大動脈となって、瀬戸内海から近畿地方を貫き、一部は伊勢湾沿岸地方へ、別流は越の国々へと北上します。倭の中心が大和に移る契機となりました。

邪馬台国は、「卑弥呼」の宗教的能力のみに依存する古代国家ではありません。その当時の倭王は、倭国の治所を邪馬台国に置き、遠く離れた先進地、かつての王国・伊都国を中心する勢力圏に、軍事的、行政的に統治するための一大卒(いちだいそつ)を派遣します。それは朝鮮、中国への外交と通商の役割も担っていました。

それ以外の地方の諸国にも、郡守的役割の官を派遣していました。とくに朝鮮半島に近い、対馬国と一支国(壱岐)には、長官の卑狗、副官の卑奴母離を配置しています。副官の「卑奴母離(ひなもり)」は、「夷守(ひなもり)」に通じ、辺境を防備する軍官でした。それは対馬国、一支国のほか、奴国、不弥国の4国に置かれました。

魏の明帝が、景初2(238)年に遠征軍を派遣して、公孫氏を滅ぼし楽浪、帯方2郡を接収して朝鮮半島に進出すると、同年6月既に倭の女王として擁立されていた卑弥呼は、すばやい対応で帯方郡に使者を送り、詔書・『親魏倭王』金印・鏡100枚等が与えられます。魏より『親魏倭王』の称号を得て、敵対する狗奴国等に対して優位に立とうとしたのです。

「卑弥呼」共立の時代、中国本土は魏・呉・蜀の3国が鼎立(ていりつ)します。当時、遼東を制する公孫氏は、隣接する北方に台頭する高句麗の圧力の中、魏と呉の権力抗争に翻弄されます。公孫淵は遼東郡の太守・公孫康の子であったが、父が死去したときはまだ幼年であったため、後を継げず、やがて成人し、228年、父の後を継いで太守となっていた叔父の公孫恭を脅迫して、太守の座を奪うと城内に幽閉します。公孫淵が4代目に就任すると、魏の皇帝・曹叡(そうえい; 明帝)から揚烈将軍の官位を与えられています。

公孫氏は、中平6(189)年に、黄巾の乱以降の後漢末期の混乱期、宮廷で権勢をほしいままにしていた董卓により、中国東北部の遼東太守に任じられた公孫度が、勢力を拡大して自立を強め、郡県の統制が及ばず荒廃した朝鮮半島を侵食して、現在の平壌付近にあった楽浪郡治を支配下に置きました。卑弥呼は建安年間(196~219年)公孫氏に朝貢しています。

黄初3(222)年、魏の呉王であった孫権は、独立して皇帝を称します。同時に表面的には、魏の外臣であった公孫淵にも自立を促します。232年は、孫権は公孫淵に上表文を奉呈させ、燕王に柵封します。魏の背後を脅かそうとしたのです。孫権は、翌233年、「衆万人」を率いた使者を海路、遣わします。結局、魏の圧力に屈し、公孫淵は再度、魏に寝返り大司馬・楽浪公に叙任されます。魏の一時的な懐柔策です。

234、諸葛亮が攻めてくると司馬懿は、徹底的に防衛に徹します。諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣しますが、諸葛亮は病没し、蜀軍は撤退せざるをえなくなります。この結果、蜀漢との西方戦線が好転します。一気に公孫氏討伐の機運が盛り上がります。

景初2(238)公孫淵が太尉司馬懿(しばい)の討伐を受け国都襄平を包囲され、一族ともに滅ぼされたのが8月です。同年6月には、既に卑弥呼が遣魏使を遣わしています。この件に関して、新井白石を始め、いろんな説が紛糾していますが、合理的に説明できる資料は、未だ発見されていません。ただ、卑弥呼の対応が、極めて速かったことは確かなようです。寧ろ、史書に即して解釈する方が、正解ではないかとおもわれます。

魏の征討に対し、公孫淵は呉の孫権に援軍を求めます。それに対して、孫権は書簡を送り「司馬公は用兵に優れ、自在に使うこと神の如しという。」結局兵を派遣しませんでした。その後公孫淵は、司馬懿が下策と評した籠城を行って大敗します。その当時、魏の実権を握る司馬懿に対抗する勢力は、中国及び周辺国には存在しません。

それ以上の論評は、現段階では、憶測にすぎませんが、当時の国際常識として、結果は明らかで、公孫淵の魏に対しての対応は、余りにも無謀とみられています。国都・襄平は取り囲まれるばかりで、なす術がありません。この時、戦乱の地は、限定されていたと考えられます。卑弥呼の対応は、まさに神がかりで、時宜を得、余りにも絶妙といえます。司馬懿は、苛烈な性格の人でした。公孫淵父子やその高官達を斬り、遼東を制圧しますが、中原の戦乱から避難してきた人々が大量に暮らしていた遼東は、いつまた反魏の温床になるかわからないということで、15歳以上の成年男子7,000人を皆殺しにし、その首で「首観(観は楼閣の意)」を築いたといわれています。公孫淵の首は洛陽に送られ、洛陽に留まっていた兄の公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡します。先代の公孫恭は、公孫淵が討たれた際には城内に幽閉されており、これを知った司馬懿は、公孫恭が太守であった時代には魏に忠実であったとしてこれを釈放しています。

卑弥呼が魏王朝に遣使朝貢したのが、まさにこの時期で、それまで服属していた公孫氏の滅亡は明らかで、朝鮮半島の現在でいえば、平壌を中心に平安南道に広がる楽浪郡と黄海南道と黄海北道に展開する帯方郡が復活したのです。狗邪韓国内には鉄鉱山に関連する自前の施設を有するほどに、朝鮮半島南部とは身近な関係にあって、魏の脅威は切実でした。魏の君臣関係を急いだ理由があったのです。

『魏志』倭人伝では「今の倭の海人は水に潜って上手に魚や蛤を採取する。身体の刺青は大魚や水鳥が厭うからである。後にやや装飾的になった。諸国の文身は各自に異なり、左や右、大や小、身分の尊卑で差がある。その道程からすれば、会稽の東冶の東にあたる。」と・・・

当時、魏がいだく倭との地理的な認識は「会稽郡東冶県の東にあたる」でした。現在の福建省の東方海上です。倭は北部九州から南へ長くのびた島国との地理観でした。呉を背後の海上から脅かせる、遠交策上絶好の連合国家にみえたのです。倭人伝に倭の国々の戸数を克明に記し、倭は万戸を優に超える大国の集まりと認めたのです。外蛮(がいばん)にしては、破格の「親魏倭王」金印紫綬を授け柵封した理由です。

「正始八年(247年)、同八年、帯方郡の太守(オウキ)があらたに任官された。

 倭の女王「卑彌呼」と狗奴国の男王「卑彌弓呼」は、もともと不和。倭は載斯(サイシ)、烏越(ウエツ)らを派遣して、帯方郡に詣でて攻防戦の状況を説明した。帯方郡は、塞曹掾史(ソウエンシ)である張政らを派遣し、詔書、黄幢(黄旗)もって行かせ難升米に、これを授けて、檄文つくって卑弥呼に教えさとした。」

「塞曹掾史」とは、「塞」は要害の地で、後漢書に「諸曹事を署する掾史に属するのは二十四人。東西の曹掾は四百石なり。」とありますから、帯方郡城の守備隊長と解釈されます。その軍官の張政が魏の軍旗・黄幢を持参して、倭に派遣されるほど期待されています。

 

朝鮮半島北部の動静

『三国志魏書』斉王芳紀(せいおうほうき)・正始7(246)年条で、「韓那奚(かんなけい)等数十国、各々種落を率いて降る」と述べています。

鴨緑江流域の高句麗は、正始5(244)年、遼東郡の西安平県に侵攻します。同年、魏は、高句麗が呉と連携する姿勢を示した事もあって、幽州刺史の母丘倹(かんきゅうけん)が、自ら遠征し、その王都の丸都(がんと)を陥落させます。翌6年、玄菟太守・王頎(おうきん)を遠征させ、逃げる高句麗王を追跡させます。王頎はその途上、南北沃沮を討伐し粛慎氏の挹婁(ゆうろく)の東界にまで侵攻します。

さらに別途、帯方郡の太守弓遵と楽浪郡太守劉茂は、を攻めます。穢は敗れて、国を挙げて服属します。長城の北の、公孫氏の属国であった夫餘のみが、早くから魏と友好関係にあり安泰でした。

『三国志魏書』夫餘伝 「扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に婁、西に鮮卑族と接し、北には弱水(アムール河)があり、方形は二千里。土着民の戸数八万

丘陵や大河が多く、東夷の領域では最も平坦である。土地は五穀の栽培に適している」

「扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を張り、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台(いきゅうだい)は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の圧迫に苦しんでいたので公孫氏の同族の娘を妻とさせた。

尉仇台は、『周書』によれば、後に百済の王家がそこから出たと伝え、百済が「臣と高句麗はその源を夫餘に出ず(百済王餘慶の上表文)」と主張する根拠とみられています。

「正始年間(240249年)、幽州刺史の母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王を扶余に派遣。扶余の位居は家臣の大加を派遣して、郊外まで迎えさせ、兵糧を提供して王を歓迎した。叔父の季父に二心あり、位居は叔父親子を誅殺して財物を没収し、遣使として、帳簿を作成して資財(や身柄)を没収する職掌の簿斂〔ふれん〕の官の者を派遣する」

古老は、先祖が下賜された印璽には『穢王之印』と彫られているという。国内に故城あり、名を城という。貊の故地で、扶余王は城に居て、自らを亡命者のようだと言った。」 扶余の王族は、王の一族だったのです。

『晋書』には、「晋の武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、鮮卑の首長・慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(いろ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。皇帝は詔を発して『扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う。もし、遺された類族をもって国を復興するなら、それに助力をしてやり、存立できるようにしてやれ』と命じたが、司奏護の東夷校尉「鮮于嬰」が扶余の救援に向かわず、戦機を逸したので、詔を以て嬰を罷免し、何龕(かずい)に代えた。

 翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復興のために故国に戻る救援を嘆願した。龕は兵を召集し、督郵の賈沈以にこれを送らせた。慕容廆は賈沈以の皇軍と戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った。以後も慕容廆は毎度のように扶余人を拉致しては中國で売った。帝はこれを哀れに思い、また、詔を発して官物で彼らを買い戻し、下司、冀の二州で扶余の生口(奴隷)の売買を禁じた。

夫餘は258年に至って鮮卑の慕容氏に討たれ、以降急速に衰退していくが、346年に至って再び鮮卑(前燕)の檀石槐(だんせきかい)によって討たれその麾下に降って完全に滅びます。
 夫餘の王族はその直後から、夫餘氏または餘氏を名乗り、以後、餘姓の記録の残るのは、370年、前秦の苻堅による侵攻により、前燕の慕容氏は滅亡しますが、その時、反旗を翻して前秦に組みし自立した餘蔚( Wei Yu)、そして372年に東晋に朝貢した餘句、即ち百済の13代の近肖古王(きんしょうこおう)です。前者はその後、記録が絶えます。
 高句麗もまた夫餘の系統とみられ、三国史記によれば
B.C.37年、卒本(チョルボン;遼寧省本渓市桓仁)に建国します。高句麗の初代国王・東明聖王(とうめいせいおう、生年不詳 - 紀元前19年?)は夫餘の出で朱蒙(しゅもう、チュモン)といい、朱蒙の名の由来は、東扶余の言葉で弓の達人と言う意味です。扶余の金蛙王(きんあおう、クムワワン)の庶子とされ、朱蒙は名のとおり、弓の達人であった為に7人の王子に睨まれます。成長するに弓矢をよくしたが、その英邁を他の王子達に怖れられ、殺されそうになって、鴨緑江の東北にある淹淲水を渡り、卒本に至ったといわれています。建国直後、辺方を侵略した靺鞨族を討伐して高句麗の民とし、B.C.28年には北沃沮を滅亡させています。その後、吉林省東南部の丸都(集安)に遷都し、鴨緑江中流域一帯に勢力を張ります。

『三国志魏書』馬韓伝「部従事(魏の官職名)の呉林は、楽浪郡が以前に韓族の諸国を統治していたことを理由にして、辰韓の八国を分離して、楽浪郡の領有とした。その際、帯方郡の通訳による説明が、しばしば変更した。これには、韓諸国の臣智だけでなく韓人たち全体が激怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。この時帯方郡の太守弓遵と楽浪郡太守劉茂は、軍隊を率いて臣智たちを伐った。この戦いで弓遵は戦死したが、二郡はとうとう韓族を鎮圧した。」

以上のことから理解されることは、奴国王とその後の卑弥呼の外交戦略は、的確な判断と言えます。島国・倭国から大陸への足がかりになったのが朝鮮半島の狗邪韓国(くやかんこく)でした。