物部氏による神道の起源 Top 車山高原散策 歴史散歩 | |||||||||
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1)物部氏の祭祀 ヤマト政権が全国統一にあたって、その兵卒を指揮してきたのは、主に豪族の首長たちで、各々が私兵を率いて転戦した。景行天皇の熊襲親征などのような大王の親征は、例外的で、重要な戦いであれば、大王の代行として皇族将軍を奉戴した。 その過程で臣系の物部氏や大伴氏が、大王の直属軍として軍功を重ねていく。次第に王権の拡大により、その直属の勢力が葛城・平群などのヤマト土着の勢力と拮抗していった。 天皇の軍隊とされる物部氏は、宗教的な色彩を濃厚に留める氏族であった。物部氏は天理市の石上を中心に本拠地を置き、石上神社を奉戴し、古くから「破邪の剣」を祀っていた。 「布留(ふる)の石上」と呼ばれるように、石上神社の御神体は穂先に神が降臨する神聖な剣であった。それは、神武天皇が東征する途上、天照大神から下された韴霊剣(ふつのみたまのつるぎ)である。「布留」は「フッ」と音をたてて振られる刀剣の断ち切る、その切れ味の意とされている。それには「神降り」の意味も含まれている。 古代の神は常に「ほ」先に降臨する。「ほ」は先端の意である。稲穂の「ほ」も炎の「ほ」も同じである。「穂先」が転じて、刀剣の切っ先となる。特定の剣の穂先に神が降臨すれば、「破邪の剣」として聖化され、神剣となればなお更に宝剣として信奉された。 物部氏は、この神剣を奉じて、皇軍を率いて戦った。この剣に降臨する神は、天照大神である。大和の豪族を率いる大将軍の節刀として、傘下の将兵には、絶対的な権威となったであろう。ひとたび宝剣の鞘を払い、日輪に晒せば、「天照」が「日の光」となって具現された。人々は大いに恐れ畏まったに違いない。 物部氏は、やがてシャーマニズム・アニミズムなどの原始的な祭祀観や卑弥呼以来の道教的観念から脱却し、ヤマト王権に独自の祭祀観念を創造した。その祭儀ことごとくに、ヤマト王権が誕生するまでの歴代の大王が観て来た風景や苦悩する「人々」の姿が彷彿される祭事となっていた。対策が不可能なまま、自然災害が猛威を振るう古代であれば、祭祀は慣習化していった。 それでも物部氏は、「見えざる敵」に果敢に挑戦した。そのため、物部氏が鎮魂の儀式に携わったことが、多くの史料に記されるようになる。「鎮魂」とは「死者の霊魂を慰めしずめること」にあるため、文字通り「魂鎮(たましずめ)」と解すか、「降臨した神を長きに留めようとして鎮める」とか、真逆に「悪霊を鎮める」とかに解する。 一方、「鎮魂」は「魂振り(たまふり)」とも呼ばれた。「魂振り」は、次第に衰弱する霊魂を振って覚醒させ、その霊力を再生させることである。この儀式の前段階として、神を招き降ろさなければならない。これが降臨の儀式であった。 「魂降り」が、「魂振り」や「鎮魂」の原義であったのだろうか。 2)韴靈剣 神武天皇は、遥か遠い地方は、未だ王化に浴せず潤っていない。村々は、それぞれの酋長がその境界を分け、戦いにしのぎを削っている。それを残念なことと思い、「東方に美しい国があるという。青山が四囲をめぐっている。その地方は、国家統治(あまつひつぎ)の大業を成し遂げて、天下に君臨するのに都合のよい、国の中心に位置する」と、九州の高千穂宮を出発し、船で海を渡り、大和に向った。途中幾多の困難に遭遇しながらの征途であった。 『日本書紀』「神武天皇即位前紀、戊午(つちのえうま)年6月」の条に 皇軍は名草邑に着いた。そこで名草戸畔(なくさとべ)という女賊を誅殺した。それから狭野(さの)を越えて熊野の神邑(かみむら)に着き、天磐盾(あまのいわたて)に登った。そこから海を渡ろうとしたが、突然暴風に遭遇し船団は漂流した(『万葉集』によれば、名草邑は和歌山市西南の名草山付近、狭野は和歌山県新宮市佐野、神邑も、新宮市に三輪崎の地名が遺る『万葉集』にある「神之埼」か。天磐盾は、新宮市新宮の熊野速玉大社の摂社神倉神社の地とみられ、その神社は、磐座信仰から発したという神倉山に鎮座する)。 「(神武)天皇は、独り皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を牽いて進み、熊野の荒坂津(あらさかのつ;別名は丹敷浦;にしきのうら)に到着した。ここで土豪の女酋長の丹敷戸畔(にしきとべ;戸畔は女酋長の意)を誅殺した。この時、土地の神が毒気を吐いた。軍卒は皆病に伏し、皇軍に勢いがなくなった。 その時、そこに熊野の高倉下(たかくらじ)という者が来て、夜の夢に、天照大神が武甕雷神(たけみかづちのかみ)に仰せられたことを語った。 『葦原中国(あしはらのなかつくに)は、まだ騒がしいようだ(聞喧擾之響焉を左揶霓利奈離{さやげりなり}という)。お前がもう一度行って征伐してまいれ』。 武甕雷神は答えて「私が行かずとも、私が国を平定した時の剣を降されば、国は自ずと平定されましょう」。 天照大神は「分った(諾は、うべなりという)」といった。 それで武甕雷神は、天上から高倉下にいった。「吾の剣は韴靈(ふつのみたま)という。今、これを汝の倉庫の中に置く。この剣を取って天孫に献上せよ」。 高倉下が「わかりました」と答えたら目が覚めました。早朝、夢の中の教えどおり、倉庫を開けてみると、果して天から落とされた剣が、倉庫の底板に逆さまに立っていました。直ぐに取って進上しました。 この時、天皇はよく眠っていたが、忽ち目覚めていった。「余はなんでこんなに長く寝ていたのだろう」。 続いて毒気に中った士卒も、すべてが再び目覚めて起ち上がった。 皇軍は、中洲(うちつくに;内陸の地)に向ったが、山中、道が険しく途絶え、進路が見当たらない。やがて彷徨うばかりで進退が極まった。そんなある夜の夢で、天照大神が天皇に教えた。『朕が今、頭八咫烏(やたがらす)を遣わす、これを先導者にするように』。果して頭八咫烏が、空から飛び降りて来た。天皇は『この烏が来たのは、祥夢の通りだ。大きくして盛んな吾の皇祖天照大神は、この創業を助けようとしてくれている』」。 高天原から降ろされた一振りの剣、韴霊(布都御魂;ふつのみたま)を、高倉下が神武天皇に進上すると、この剣の起死回生の力によって神武天皇の一行は蘇り、神武天皇は、無事に大和を平定することができた。 3)石上坐布都御魂神社の由来 神武天皇は、国譲りや国土平定に功績のあった韴霊剣を、物部氏の遠祖・宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じ、宮中に祀らせた。この後、第10代崇神天皇の7年、勅命により、物部氏の祖・伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、現在の石上布留高庭に遷し祀られた、という。こうしたことから、物部氏は石上神宮を氏神として仰ぐようになった。 『日本書紀』「崇神天皇7年秋8月の条」に、「天皇がいう。『朕は今、繁栄を楽しんでいる』。物部連の祖である伊香色雄(いかがしこお)を神班物者(かみのものあかつひと;神前に奉げる物を配分する人)にしたいと占ったら、吉と出た。またついでに他の神も祭りたいと占うと、不吉であった。 11月13日、伊香色雄に命じて物部の八十(やそ;たくさん)の平瓮(ひらか;主に米を供えるための平らな皿)を、祭神の物とした。また大田田根子(おおたたねこ)を大物主大神の祭主とし、市磯長尾市(いちそのながおち)を倭大国魂神の祭主とした。その後に、他神を祭りたいと占うと、吉と出た。 それで別けて八十万(やそよろず)の神々を祭り、天社(あまつやしろ)・国神(くにつやしろ)及び神地(かんどころ)・神戸(かんべ)を定めた。こうして、疫病がはじめて終息し、国内は漸く静謐となった。五穀は成熟して、百姓は豊かになった」(神祇令・神戸条には、「凡そ神戸の調庸及び田租はみな、神宮を造り、及び神に供する調度に充つ」とある)。 『古事記』にも「人代篇其の一」第10代崇神天皇(みまきいりひこいにえ)に「また伊迦賀色許男命(いかがしこおのみこと)に仰せがあって、八十の平瓮を作り、神々を立て、天神地祇の社を定めて祀らせた。また宇陀の墨坂の神に、赤色の楯と矛を祭った。また大坂の神には、黒色の楯と矛を祭った。また四方(よも)の坂に坐(いま)す神々と河の瀬の神々に、悉く忘れ残さないように幣帛を奉った。これにより疫病の気が悉く止み、国家が安平になった」。この時期であろうか、「この刀(韴霊剣)は石上神宮に坐す」と記されるようになった。 また神宮の神庫(ほくら)には、「日の御盾(ひのみたて)」と称する鉄楯が2面伝世されている。製作年代については、その技法から古墳時代の5世紀後半と推定されいる。 宇陀の墨坂は、現在の奈良県宇陀郡榛原町西峠で、奈良盆地の東端にあたる。対して西端の大坂が、奈良県香芝市逢坂である。ここを結界として楯と矛を祀り、都に侵入しようとする疫病神を遮った。日本の正月に、家々の門や、玄関や、出入り口、また、神社や村々の入り口などにする注連縄も、厄や禍を払う結界の意味を持つ。 石上神宮は、布留山(ふるやま;標高266m)の北西麓の高台にあり、北側を布留川が流れ、周辺には古墳が密集している。大神神社と同様、石上神宮も神奈備山の布留山を「禁足地」として祭祀の対象としてきた神社であり、本来本殿は存在しなかった。 その禁足地は5世紀の後半に、成立したという。昔は拝殿だけしかなく、拝殿の後方が「禁足地」で、「御本地(ごほんち)」と称した。ここには古代から天皇家の武器庫があった。 明治7年、菅政友(かんまさとも)大宮司により禁足地が発掘された。一振りの太刀が出土した。この大刀が「布都御魂(ふつのみたま)」で、また禁足地の中に埋め戻された、という。大正2年に本殿が造営された。 『延喜式』には、「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」と記されている。 4)天璽瑞宝十種 『旧事本紀』の「天孫本紀」によれば、神武天皇即位の後、物部の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)の遺した「天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)十種(とくさ)」を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。 『旧事本紀』の「天神本紀」によれば、その十種の瑞宝は、瀛都鏡(おきつかがみ)・辺都鏡(へつかがみ)・八握剣(やつかのつるぎ)・ 生玉(いくたま)・死反玉(まかるたま)・足玉(たるたま)・道反玉(おかえしたま)・蛇比礼(へびのひれ)・蜂比礼(はちのひれ)・品々比礼(くさぐさのひれ)である。 「天神の御祖神(みおやのかみ)は、次のように教えられた。『もし痛むところがあれば、この十種の宝を合わせて、一、二、三、四、五、六、七、八、九、十ととなえながら、ゆらゆらと振るわせよ。すると死人も生き返るであろう』。これを『布留の言本(ふるのこともと)』という」と記す。 大阪市平野区喜連にある楯原神社(たてはらじんじゃ)の境内社「神宝十種之宮」に、「神宝十種宮略記」という由緒書に 「布留御魂大神(十種神宝)は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊成れます。 瑞宝十種は、謂ゆる沖津鏡一つ、辺都鏡一つ、八握生剱一つ、生玉一つ、死反玉一つ、道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つにして神代の昔、饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって『若し痛む処あらば、十種神宝をして甲乙丙丁戌己庚辛壬癸一二三四五六七八九十と謂いて布留部由良止布瑠部、此く為さば死人も生き反えらん』と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。 其の御子、宇摩志摩治命は神宝を天皇に奉り、韴霊の御前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代に韴霊と共に石神布留の高庭に鎮り給うた。 付記 十種瑞津の宝の当地に鎮座ましますに至る由来は、其の昔永禄年間室町幕府の末期、足利義昭が織田信長に奉ぜられて入京、そして永禄十一年十月十八日征夷大将軍に任ぜられ室町幕府第十五代将軍となった。 然れども、すぐにその権力はなく、信長の力にたよらねば何事も出来なかった。しかし義昭は将軍となるや大和の法隆寺、石神神宮、山城の大徳寺、紀州の根来寺、摂州の本願寺など畿内の主な社寺や有力な大名に呼びかけて味方につけようとした為に、当然信長と衝突した。かくするうちに、天正元年義昭は、公然と武田、浅井、朝倉、本願寺などと手を組み信長討伐にのりだした。 しかし、信長はたちまち反撃に出てそれをおさえた。それ時、天正元年八月、石上神宮も織田の武将達の焼打にあひ、財宝はうばわれ十種瑞津神宝は持ち去られた。その後、天正十年信長は、本能寺に明智光秀に討たれ、光秀も又、豊富秀吉の為、山崎合戦に破れ天正十三年秀吉天下を取るに至る。 石上神宮の神宝、十種瑞津の神宝は、心ある士に守られて保護されていた。秀吉その士に十種瑞津神宝の話を聞き、餘りの有難さと現実の因果におどろき、十種瑞津の神宝を生魂の森深く永久に鎮まりませと納め奉った。 時は流れ、徳川幕府も終わりの討幕運動が大詰にはいった慶應三年八月下旬、名古屋地方に伊勢神宮のお札が降ったとのうわさをきっかけに、老若男女が気違いのように踊り狂い、乱舞は日に夜につづき、はじめは京都、大阪、大津など、近畿地方に行なわれ、次第に日本全国に及んだ。鳴物入りで「ええじゃないか」のはやしをつけた卑俗な唄をうたいながら踊り歩いた。 これは、かつての「おかげまいり」にみられた宗教的興奮が、倒幕直前の政情不安に乗じて形をかえた「世なほし」騒動の要素も交っており、気にくわぬ地主や富豪の家に踊り込み暴れ廻った。そして暴徒は社寺佛閣にまで押しかけて荒れ狂ひ、生魂の宮も襲われて暴徒のほしいままにされた。 其の時に、神宝瑞津の宝は、二度目の難を受け暴徒に持ち去られて、生魂の森よりお姿が消えた。 其の後、神宝は町の古道具やの店頭にさらされていたのを、喜連に住む小林某なる人により発見され、買いもとめてこれを家にて祭れり。後、小林氏、当地を去るにあたり浅井氏に預け、浅井氏又、この地の旧家増池氏に預けられしが、増池氏敬崇の志厚く、永代御灯明料と共に、神宝を式内楯原神社に奉納と社殿を建立し斎き祭るに至れり。 後に室戸台風にあひ、社殿はたおれ長らく拝殿に祭り居りしも、今里の庄司善雄氏(石上神宮守護職の子孫)が、尋ね来り神宝を石上神宮にかえしてくれる様頼まれしも、この尊き神宝をかえさづに、あたらしい社殿を建立して、これを末永く斎き祭るに至れり。 河内国河上の哮峯(いかるがのみね;大阪府交野市に河内磐船の地名あり)に、天降座りしより幾千年、神宝はよき地を得て鎮まる処を得るなり(之文歴史参照庄司氏談話より)」。 『旧事本紀』の「天神本紀」に「饒速日尊(にぎはやひのみこと)は、天神の御祖神(みおやのかみ)のご命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮峯(いかるがみね)に天降られた。さらに、大倭国の鳥見の白庭山(とみのしらにわやま)にお遷りになった。天の磐船に乗り、大虚空(おおぞら)をかけめぐり、この地をめぐり見て天降られた。すなわち、「虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)」といわれるのは、このことである。 饒速日尊は長髓彦(ながすねひこ)の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を娶って妃とした」。 物部氏の祖饒速日命が、天照大神から10種の神宝を授かり、天磐船で河内の哮峰に天下った。 河内の哮峰とは、北河内郡天の川の上流生駒山の北嶺とされている。 鳥見の地には、生駒市北部から奈良市西部にかけて、登美ヶ丘、富雄、鳥見町など、かつての登見郷・鳥見郷にちなむ地名が多く遺る。物部氏発祥の地であろう。 5)天璽瑞宝十種の鏡と剣の祭儀 瀛都鏡と辺都鏡は、対をなす鏡で、天照大神を招祷(おき)奉る呪具であった。瀛都鏡は神殿の奥深く祀られ、辺都鏡は拝殿に置かれて人間の間近で祀られる。古代の鏡は神の姿を現す聖器で、「日の光」を反射するため太陽神自体とみなされた。 八握剣は、剣の握りの部分が八握りあったわけではなく、剣の全長、時には剣の刃渡りが八握りと言うことである。天皇家をはじめ諸豪族の継承の際には、「破邪の剣」として病魔や死霊などの禍を退散させる呪力がある瑞宝として、必ずといっていいほど八握剣が授与された。古代の「八」は数というよりも、「大きい」とか「多い」を表現する言葉で、「八百神(やおよろずのかみ)」や「大八洲(おおやしま)」などがそれである。 『古事記』第十二話「天照大御神は『今度はいずれの神を遣わせればよいか』と尋ねた。思金神(おもひかね)と諸神が申し上げた。『天安河(あめやすのかわ)の河上の天石屋(あめのいわや)にいます伊都の尾羽張神(いつのおはばり)を遣わすべきです。若しこの神でなければ、その神の子、建御雷之男神(たけみいかづちのおのかみ)を遣わすというのはどうでしょうか。 ただ伊都の尾羽張神が、天安河を堰き止め、道も塞ぎ、他の神が行くことができません。 そのため水を渡れる天迦久神(あめのかく;かこは鹿児の転嫁で、鹿は水を泳ぐ)を遣わすべきです』。 それで天迦久神を遣わし、天尾羽張神を尋ねさせると『恐れ多いことです。お仕えいたします。しかしながら、この度は、吾が子、建御雷神(たけみかずづち)を遣うべきです』と、吾が子を献上した。そのために天鳥船神を建御雷神に副えて遣わした(天鳥船;あめのとりふね;天空を飛行する鳥船)。 こうして、この二柱の神が出雲国の伊那佐の小浜(いざさのおばま)に降り下った。伊那佐へは3度目となる遣いであった。十掬剣(とつかのつるぎ)抜き、波の穗がしらに柄を下に逆さに立てて刺し、その剣先に胡座をかいて、大国主神に向って問いかけた。『天照大御神と高木神(たかぎのかみ;天孫ニニギの外祖父)の命により遣わされた使者が聞く。汝が宇志波祁流(うしはける;支配する)葦原中国は、我御子が統べる国とのお言葉を賜った。このことをどう思う』。すると答えて『僕(やつかれ)は、引退の身であれば申し上げられません。我子の八重言代主神(やえことしろぬし)がお答えすべきです。然しながら、鳥遊びをし、魚を取りに御大之前(みほのさき;美保ヶ崎)に出掛けていて未だ帰って来ません」。 (「鳥遊び」は、祭儀の一つで、出雲氏の国造の代替わりごとに、天皇の前で「出雲国造神賀詞(かんよごと)」という服属の誓詞を奏上し、合わせて「生き御調の玩び物(いきみつきのもてあそびもの)」として生きた白鳥が献上された。「魚を取り」も供物として「すずき」を捕った。) すると、天鳥船神を遣わし、八重事代主神を召して来させた。建御雷神が問い賜うと、父の大神に語った。「恐れ多いことです。この国を天つ神の御子に奉ります」というと、今自分が乗ってきた船をひっくり返して踏みつけた。 青柴垣(あおふしがき)で、天に向かって手の甲を打ち合わせて隠れてしまった(柴を布斯;ふし;と訓む)」。 伊那佐は出雲国風土記では伊奈佐とあり、否か諾か、国譲りを迫られたことに因む地名。また「宇志波祁流」とは、その地を我が物とて領居することをいう。 八重事代主神は、建御雷神の国譲りの問いに、父の大神に向って答えている。その無念さを忖度している記述である。 青柴垣は柴で囲まれた聖域で、現在では毎年4月に美保神社で「青柴垣神事」が行われている。 「天逆手矣」に八重事代主神の無念さが明かされている。呪詛の念が込められていた。 建御雷神の「建」は、倭建命の軍功を明らかにする表現と同様で「猛々しい」という意、神々や大王とその王子などで武功に優れた者を称えるように添えられた。「雷(いかずち)」も、雷電による剣先への降臨とみて、神剣となる状況を表現した。雷は周辺で最も高い所に落雷する。それを誘う高だかく捧げられた穂先に、神霊を感じ平伏した。やがて「雷」が刀剣の象徴となり、建御雷神は威光ある刀剣の神として祀られた。 『日本書紀』の「神代下9段」では「この後、高皇産靈尊(たかみむすびのみこと;天照大神と共に高天原を主宰)と諸々の神が会して、葦原中国へ遣わす神を選ぶ。皆がいうには『根裂神(ねさくのかみ)の子磐筒男(いはつつのを)・磐筒女(いはつつのめ)が生んだ経津主神(ふつぬしのかみ)が、優れていて良い』と。時に、天石窟(あまのいはや)に所住する稜威雄走(いつのをはしりのかみ)神の子甕速日神(みかのはやひのかみ)、甕速日神の子熯速日神(ひのはやひのかみ)、熯速日神の子武甕槌神(たけみかづちのかみ)がいる。この神が近づいて言うには「どうして、唯、経津主神のみが独り丈夫(ますらを)で、吾は丈夫ではないのか」と、勢に任せて慷慨した。それ故、経津主神に副えて、葦原中国の平定に向わせた。 二神(ふたはしらのかみ)、出雲国の五十田狹の小汀(いたさのおはま)に降ると、十握剣を抜き、逆さまに地に植(つきた)てて、その鋒(ほこさき)に踞(あぐら)をかき、大己貴神(おほあなむちのかみ)に問い質した。 『高皇産靈尊は皇孫を降されて、この地に君臨しようとしている。それで先ずは、吾ら二神を遣わし、駆除(かりのぞ)き平定(しずめ)ようとなされた。汝の意向はどうだ。退去するか否か』」と。(「五十田狹の小汀」は、『出雲国風土記』に記される出雲郡の伊那佐之社で、大社町稲佐にある)。 建御雷神とともに出雲国に赴いた物部氏の祖経津主神も剣の切っ先の上に胡座を組んだ。天つ神は好んで霊験ある剣先に降臨した。 6)天璽瑞宝十種の玉の祭儀 生玉(いくたま)・死反玉(まかるたま)・足玉(たるたま)・道反玉(おかえしたま)の「玉」は、『物部氏十種瑞宝秘伝』に、「生玉が天上に退去すれば即ち命無し、是を死と謂う」とあるように、古代では「魂(たま)」そのもの自体を表現した。そのため、すべての「玉」には、生命を左右する呪能があると考えられていた。その呪能により生命を付与し、その生命を充実させる一方、死者の体内に魂を取り戻す蘇生の呪法もあると信じられていた。 十種瑞宝を振り動かすのは、衰えた魂を振り動かし蘇生さえる呪術であった。死を迎えて意識が途絶した人の身体を、激しく揺さぶり覚醒させようとするのが人情である。そうして蘇生に成功した事例に、古代の人々は「魂振り」として、「玉」を振ることを覚醒の秘儀とした。 石上神宮の鎮魂祭では、実際の神宝ではなく、「神宝の名または図を紙に書いたもの」を袋に入れ、それを榊の枝に付けたものを「布留御魂神」として振り動かす祭儀だという。 古代朝廷で秘儀とされた「八十島祭(やそしままつり)」は、天皇の即位礼の翌年に行なはれた皇位継承の儀式の一つだった。平安時代から鎌倉中期まで行なわれた。鎮魂祭では、祭祀を命じられた掌典長(しょうてんちょう)が、天皇が身に着けた御衣(みそ;ぎょい)を納めた御衣筥(みそはこ;おんころもばこ)を難波津で奉げ、琴の音に合わせ、筥の蓋を少し開いて振り動かす、御衣を御魂代と見立て、天皇の御魂を再生する呪礼であった。 この秘儀を難波津で行うのは、日本列島、即ち「八十島」の誕生の地がここであったからだ。難波津には、天孫である天皇の御魂を再生させるに相応しい光景が展開していた。古代から、北から淀川、南からは大和川が難波の海に流れ、それが縄文・弥生・古墳時代と1万年の永きにわたって、多量の土砂を堆積させ難波津に多くの島を湾内に築き、それが「八十島」と表現された。 難波津の眺望を、大八洲(おおやしま)に見立てた後鳥羽院の八十島祭に従う、住吉神社の神主で、歌人でもあった津守経国が 天の下 のどけかるべし 難波潟 田蓑(たみの)の島に 御祓(みそぎ)しつれば 仁徳天皇も、難波の崎に立ち、 吾が国見れば 淡島(あはしま) 自凝島(おのころじま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ 放つ島(さけつ;離れ島)見ゆ (難波の崎から、船出して、淡路島に着いて、わが領土を眺望すると、淡島、自凝島、檳榔{ヤシ科の常緑高木}が生える島も見え、離れ島も見えるよ) 難波、現在の大阪市北区・福島区の辺りには大小多数の島々があり、いつしか葦が茂って「葦原中国」と呼ばれた。八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島(くにじま)などの地名に残る。田蓑島は、大阪市西成区津守町にあったとい御祓の場所であった。 淡路島にある自凝島は、記紀によれば、国土創世の時に伊邪那岐神(イザナギのかみ)と伊邪那美神(イザナミのかみ)が天の浮橋に立ち、天の沼矛(ぬぼこ)を持って海原をかき回した。その時に、その矛より滴る潮が、おのずと凝り固まって島となった。兵庫県南あわじ市(旧三原町)に、自凝島神社がある。 『古事記』に記される天地開闢の最初に登場する「宇比地邇神(うひぢにのかみ)」と妹の「須比智邇神(すひぢにのかみ)」は、最初の男女の神で夫婦とみられている。『日本書紀』では、宇比地は泥土煮尊(ういじにのみこと)、須比智は沙土煮尊(すいじにのみこと)とされ、泥土と砂土で、八十島に「泥砂を堆積させた」神々であった。 2組目の夫婦の神は、「角杙神(つのぐいのかみ)」「活杙神(いくぐいのかみ)」で、「杙(くい)」を神格化し、島のめぐりに杙をうち補強するとともに占有したことを示した。 3組目が「意富斗能地神(おおとのじ)」「大斗乃辧神(おおとのべ)」で、『日本書紀』では、「大戸摩彦尊(おおとまひこ)」と「大苫辺尊(おおとまべ)」とある。「苫」とは、菅や茅などを粗く編んだ筵で、家屋を覆って雨露をしのぐのに用いた。そうした「苫屋(とまや)」が建ち並ぶ風景を語っているようだ。 4組目が「淤母陀流神」「阿夜訶志古泥神」で、『日本書紀』では、「面足尊(おもだる)」と「惶根尊(かしこね)」で、「面足」とは「不足したところのない)」の意があり、島が完成され、それを女神が「あやにかしこし」と褒めた。八十島が誕生する過程を、夫婦の神々の名で語っている。 5組目で「伊邪那岐神」「伊邪那美神」が、漸く登場する。 7)天璽瑞宝十種の比礼の祭儀 『古事記』の「神代篇の其の三」に大国主神が登場する。『日本書紀』の本文によると須佐之男命(すさのお)の息子となっているが、『古事記』や『日本書紀』の一書や『新撰姓氏録』では、須佐之男命の6世の孫となっている。 大国主神には、多くの別名があり、大己貴神(おほなむちのかみ/大穴牟遅神)・八千矛神(やちほこのかみ)・葦原色許男命(あしはらのしこおのみこと)などと呼ばれる。神々の名は、その能力を表現するもので、多くの別名の保有は、様々な能力を持つことを意味する。 大己貴神の「おほ」は偉大なる、「な」は大地、「むち」は男神の意である。八千矛神とは沢山の武器(ほこ)を持つ意で、男根も象徴する。葦原色許男命の「葦原」は地上世界、「色許(しこ)」は勇猛、「男(を)」は男神の意である。 元々は、その別名の神々が、大国主神とは別個に、それぞれ存在していたが、やがて大国主に統合されたと考えられる。また「大国主」とは「偉大なる国の主」の意で、葦原の中つ国を統一した最初の王であることから名付けられた。 『古事記』には、大国主神と対立する「兄弟・八十神坐しき」とあるが、大国主神は、その八十神たちに2度も殺されるが、その度に母神に救われる。母神は、このままでは、息子が八十神たちに滅ぼされるとして木の国(紀伊の国)へ逃がした。ところが八十神たちは、どこで聞きつけたか木の国まで追いかけて来た。そこで須佐之男命が主となっている根の堅州(かたす)へ、「木の虚(きのうろ)」を通って逃れた。 根の堅州の国は、黄泉の国とは別の異界で、大地の下にある堅い砂でできた国であり、あらゆる生命が宿る根源の世界でもあった。古来、神の力や幸・禍なども、そこに客人(まろうど)として訪れ、復活して帰っていったとされた。 「教えられたままに、須佐之男命のもとへ行くと、その娘の須世理毘売(すせりびめ)と出会い、目をかわすと、すぐさま結ばれた。殿(あらか;宮殿)に戻ると父に「とても麗しい神がいらした」と告げた。それで大神も外に出て見るなり言った。「この者は、葦原色許男(あしはらのしこを;地上世界を支配する勇猛な神)という」と、直ちに呼び入れて、蛇の部屋に寝かせた。すると、その妻の須勢理毘売命は、蛇の比礼(長いスカーフ)を夫(つま)に授けて言った。「部屋の蛇が咋(く)おうとしたら、この比礼で三度打ち放ちなさい」。教えられた通りすると、蛇は自ずと静まった。そのため安らかに寝られ、部屋から出られた。 また次の日の夜には、百足と蜂の部屋に入れられた。そのため百足と蜂の比礼を授けられ、教えられたことも先日と同様で、そのため平穏に朝を迎えた」。 「比礼」は「領巾(ひれ)」で、大化改新前から奈良時代にかけて用いられ、女性が両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布帛で、いわゆる現代のスカーフであった。奈良時代には、礼服や朝服に使用された。 「比礼」に「強力な神」やその「霊力」を招き降ろし、それを打ち振るうことにより、邪霊を追い払う呪能があると考えられていた。 『肥前国風土記』松浦郡の条に、大伴狭手彦(さでひこ)が、妻の弟日姫子(おとひめこ)を、妻の地元の九州に留め、任那遠征に船出する別れ際に、弟日姫子は鏡山(佐賀県唐津市の東)に登り、いつまでも「褶(ひれ)を用いて振り招(お)ぎ」したことから、鏡山は「領巾振りの嶺」と呼ばれるようになった。 「領巾」は、女性の大切な装身具の一つで、その姿を憑依する物であるため、夫の魂を呼び寄せようとして振ったのである。「比礼」には「魂乞い(たまごい)」の呪力が込められていた。 「魂乞い」により、弟日姫子が夫の魂を呼び寄せることができたならば、いつまでも離れぬように「魂鎮め(たましずめ)」を願う。そして「比礼」により「安らかに魂を鎮める」ことができたならば、やがて「邪霊の鎮定」という国家レベルの呪能も具有するようになった。 8)石上神宮の七支刀 石上神宮は、百済国王から送られた七支刀を収蔵している。その神庫(ほくら)に伝世した古代の遺品で、社伝では「六叉鉾(ろくさのほこ)」と称されてきたが、現在では刀身に記された銘文により「七支刀」と呼んでいる。この七支刀は『日本書紀』に神功皇后摂政52年9月条に百済から献上されたとみえる「七枝刀(ななつさやのたち)」にあたる。銘文の「支」は「枝」に通じ「七つに枝分かれした刀」という意味である。 鉄製で、身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した特異な形をした剣で、全長74.8cmで、下から約3分の1のところで折損している。 『日本書紀』は、その3年後に「神功皇后摂政55年、百済肖古王薨」と記す。この『日本書紀』の記述は『百済記』を原本としている。『百済記』とは『百済新撰』・『百済本記』とともに『日本書紀』の編纂にかかせない文献資料で百済三書(くだらさんしょ)と略記される。いずれも百済の歴史を記録した歴史書で、現在には伝わっていない逸書であるが、その逸文が『日本書紀』にのみ引用された。 肖古王は、214年10月、靺鞨の騎馬隊により述水(京畿道驪州郡)まで攻め込まれ、その直後に死去した。死因は不明である。しかも年代が合わない。 『古事記』では、応神天皇の治世に百済の照古王の名が記されている。この照古王が、年代から第13代の近肖古王(クンチョゴワン;在位:346年~375年)とみられる。『古事記』では、応神天皇の治世に、百済の照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に献上し、阿知吉師(あちきし)と和邇吉師(わにきし)を使者として日本に遣わした、とある。 『晋書』には、余句(余;徐は百済王族が扶余出身であるため)の名で、372年1月には東晋に朝貢し、6月には鎮東将軍・領楽浪太守の位を授かっている。その前後に、倭国に対しても七支刀を贈り、高句麗に対抗する外交戦略をとった。 七支刀の剣身の棟には表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で刻まれ、その解読が明治以降続けられてきた。冒頭の「泰□」の2字目は、僅かに禾偏(のぎへん)を思わせる線が残っているのみで、旁(つくり)にあたる部分には、この文字を探究した人がつけたと思われる傷痕があって、字は詳らかではない。しかし、『日本書紀』の詳細な記述から、「泰和(たいわ)」として東晋(とうしん)の年号とすれば、七支刀は西暦369年に製作されたとして、ほぼ間違いはない。 百済王から七枝刀一口と同時に、七子鏡(ななつこのかがみ)一面と種々の重宝が献上された。その七子鏡が、米国のボストン美術館に所蔵されている銅鏡ではないかとみられている。その銅鏡では、丸い突起が外周近くで同心円状に七つ並び、七子鏡の名に相応しい。この鏡は、明治8(1,875)年の大雨で崩れた大仙古墳(仁徳天皇陵)から出土したものと伝えられている。 |