吉備氏と王族将軍の実像 Top 車山高原散策 歴史散歩 |
青い土で染めて 青土(あおに) は、奈良坂で顔料の青土を産した。 奈良坂は、奈良市の北から京都府木津川市木津に出る坂道。古くは、平城京大内裏の北の歌姫から山城へ越える歌姫越えを称したが、のちには、東大寺の北、般若寺(はんにゃじ)を経て木津へ出る坂をいう。それが般若寺坂。 赤い土で染めてれば 赤土(はに) 大和の宇陀の 真赤土の さ丹付かば そこもか人の 吾を言なさむ (人はあれこれ私のことを噂するでしょう) 宇陀は真赤土の採れる土地で、「真赤土」は赤黄色の粘土で、染料などに用いられた。 1)『宋書』の「夷蛮伝」「倭国の条」 目次 5世紀の日本列島の問題を調べるならば、中国5世紀の南朝宋の歴史を記す『宋書』「夷蛮伝」の東夷の条の「倭国伝」は欠かせない。 『宋書』は、宋から斉に仕え、梁の武帝が即位する際に協力した沈約(Shen Yue)という文人・行政官・歴史家が書いた歴史書で、倭国の条の中に、西暦421 年~ 478 年にわたって、倭国の5人の王が中国南朝の宗に朝貢していることを記している。 この「夷蛮伝」は他の中国史書の外国伝と異なり、風俗・習慣など記載がなく、宋朝と諸国の交渉記事に限定されている。倭国伝も同様で、ほぼ宋朝と倭国との交渉、倭の五王の朝貢と、それに応える宋朝による任官記事で占められている。 その交渉は 10 回を数え、その倭の五王の名前は、最初が讃、讃が死んで弟の珍が立つと書いてあり、讃と珍は兄弟であった。そして、『宋書』は、珍と済の関係には触れておらず、3番目に済という王が朝貢する。その済の世子が興、興の弟が武で、この5人の倭王による、中国南朝への朝貢を記している。 讃という倭王については、応神天皇・仁徳天皇あるいは履中天皇と諸説がある。珍も、仁徳天皇・反正天皇、そうではなくて履中天皇であるというように諸説に分かれる。 この珍というのは、反正天皇の名である多遅比瑞歯別尊(たじひのみずはわけのみこと)の「ミズハワケ」に由来すると考えられる。この「ミズ」は、瑞 ( みず ) という漢字で表記されている。「瑞」は「古代、天子が諸侯を封ずるときに、その符節として賜う圭玉」のことで、白川静の「字通(じつう)」では、「圭」は象形文字で、「土」を重ねた意味ではない、最古の部首別漢字字典・説文解字では「瑞玉なり」という。 「珍」は「珍宝」で、「宝」は貴重であるため「珍し」とも訓じるが、本来は「瑞玉」と同義である。 その意味で、外交文書として翻訳するにあたり、珍という表記に変えたようだ。そうであれば、珍が反正天皇ということになる。 「武」というのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)の雄略天皇のタケルという漢字であると解釈され、武は雄略天皇となる。 遅くとも6世紀の前半には編集された天皇の系図を書いた「帝紀」という書物の系図によれば、履中天皇と反正天皇は兄弟で、『宋書』の記述と合う。『宋書』があえて記さなかった済と興は親子とみられ、系図では、允恭天皇と安康天皇は親子、安康天皇と雄略天皇は兄弟、『宋書』の興と武が兄弟という記述と一致する。 讃は履中、珍は反正、済は允恭、興は安康、武は雄略と考えらえる。 『宋書』に記された倭王武の上表文は著名である。 『宋書』倭国伝の昇明2(478)年に、当時、宗主国であった宋の皇帝に奉る「倭王武の上表文」が載る。 「倭という封国(ほうこく;諸侯の領地の一つである日本)は偏遠(へんえん)にして、藩(はん)を外に作(な)す(国境外の属国として存在する)。昔より祖禰(そでい;先祖代々)は、躬(みずか)ら甲冑を擐(つらぬ;身に付ける)き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ;安んずる処)に留まる遑(いとま)もあらず。東は毛人(蝦夷など)を征すること五十五国、西は衆夷(熊襲など)を服すること六十六国、渡りて海の北を平ぐること九十五国。王道融泰(ゆうたい;滞りなく行き渡り)にして、土を廓(ひら;領土を広げ)き畿(王城を中心とした直隷地)を遐(はるか)にす。累葉朝宗(るいようちょうそう;累代の諸王が拝謁)して歳(としごと)に愆(あやま)らず(拝謁を毎年行い、怠ることはなかった)」とある。 5世紀前後であろうか、先祖代々、中国の偏遠にあるが、王族将軍自ら山川を跋渉(踏み渡って)して国内を統一、代々中国に朝貢して怠ることはなかった、と主張する。 その上表文には、沈約が『宋書』を書く際に潤色があったか、ヤマト王権の外交を担った上表文の筆録者が渡来系の人であったか、そこには中国古典からの引用がみられる。 「躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉」は、孔子の編纂と伝えられる歴史書で、紀元前700 年頃から約250年間の歴史が書かれている『春秋』の注釈書『左氏伝』からの引用とみられ、「寧処に留まる遑もあらず」は、周の初めから春秋時代までの中国最古の詩集である『詩経』に、その出典がたどれる。 上表文は、5世紀後半のヤマト王権の勢力圏を「東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海の北を平ぐること九十五国」と誇張してみせる。しかし、『古事記』や『日本書紀』には、四道将軍(しどうしょうぐん)の派遣伝承やヤマトタケルノミコトによる熊襲や蝦夷の征討伝承があり、ヤマト政権の建国には、当然、武力による制圧があったはずで、そのすべてが虚構とは考えられない。 2)ヤマト政権建国期の実相 目次 崇神・垂仁・景行紀の3世紀後半~4世紀に、そのヤマトの王権を各地の貢納だけで運営していたとは考えにくい。 初期のヤマト王権は、畿内のヤマト地域に、後世「御県(みあがた)」と呼ばれる朝廷の直轄領を配置していった。古文献にしばしば載る「倭の六御県(やまとのむつのみあがた)」がそれで、磯城・十市・高市・葛城・山辺・曾布(そふ;開化天皇紀にあり、後世、2つに分けられ添上郡・添下郡となった)である。「県」は国造の「国」より古く、ヤマト王権初期から配置された直轄領で、その密度が最も高いのが畿内ヤマトであった。 ヤマト王権は、建国時の三輪王権の段階から、「倭の六御県」を中核に「県制」を拡大させ、政権支配を進捗させていった。 『延喜式』巻8の祈年祭の「六御県」の祝詞にあるとうに甘菜(あまな;アマドコロの古名)・辛菜(からな;辛みのある野菜の総称)・酒・水などの貢献地が「県」となり、その王領を監察する首長が「県主」に任じられていた。やがて「県」の農民は王民化した。 特に三輪王権の本拠地である磯城県主家の祖先となる后妃が、特に多いのは、磯城地方の首長らを服属させ、三輪山の祭祀権を掌握すると、そこに磯城御県を置き、それぞれに御県神社を祭らせ王領化した沿革が想起される。しだいに十市・高市・葛城・山辺・曾布にも拡大し県主家の系譜を継がせ、その地域にあった奉斎神を御県神になおさせ、祭政一体の王権を拡充させた。 崇神天皇紀に記されるように、新たな貢納物を収奪する体制を拡大させ、男には弓端の調(ゆはずのみつぎ;弓矢で獲った獣皮など)、女には手末の調(たなすえのみつぎ;織物・糸のみつぎ)の貢進が要求された。 『古事記』崇神天皇の条に「この御世、大毘古命(おおひこのみこと;崇神天皇の叔父であり義父)を、高志道(こしのみち;北陸道)に遣わし、その子建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を、東方十二道へ遣わし、その麻都漏波奴人等(まつろはぬひとども)を和平(ことむけやは)さしめた。又、日子坐王(ひこいますのみこ)を、旦波国(丹波)に遣わし、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を殺させた」とある。 『日本書紀』崇神天皇の「10年秋7月24日に、群卿に詔して『民を導く根本は、教化することにある。今では既に天神地祇を敬い、災害はすべて途絶えた。しかし遠国の人々は、なお天子の統治に服せず、未だ王化に導かれていない。それで群卿から選抜し、四方に遣わす。朕の憲(のり;定め・掟)を知らしめよ』。 9月9日に、大彦命(おおびこのみこと)を北陸に遣わし、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海に遣わし、吉備津彦(きびつひこ)を西道に遣わし、丹波道主命(たにわのちぬしのみこと)を丹波に遣わした。その際、詔して『教えを承けなければ、直ちに兵を挙げ討て』といい、それぞれに印綬を授け将軍となした」 (原文にある「不受正朔」の“正朔(のり;せいさく)”とは、“暦”のことで、古代中国では、天子が代わると歳の初めを改め、新暦をしくことから、「治める」・「天子の統治」と同義となった) 『古事記』と『日本書紀』の崇神天皇の説話には、『古事記』が3道で、『日本書紀』が4道と食い違いがあり、派遣将軍の名も相違している。この両書の所伝の違いは、元々、別個に独立し伝承されたヤマト諸家の派遣説話が、天武天皇の勅命を契機に、ようやく集約されたが、集約しきれなかったことを物語っている。 『古事記』の「大毘古命を、高志道(北陸道)に遣わし、その子建沼河別命を、東方十二道へ遣わし」にあるように、東方十二道は東国の伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・伊豆・相模・武蔵・総・常陸・陸奥の十二国であるから、後に国制が整備された以降の説話と思われる。 崇峻天皇は「2(589)年秋7月に、近江臣満(おうみのおみみつ)を東山道に遣わし蝦夷との国境を視察させた。宍人臣雁(ししひとのおみかり)を東海道に遣わし東方にある海辺の諸国の境を視察させ、阿倍臣を北陸道に遣わし越などの諸国の境を視察させた」とあり、6世紀後半に崇峻天皇の時に、阿倍臣を北陸道に遣わし、宍人臣雁を東海道に遣わしたという説話は、『日本書紀』崇神天皇の「10年(中略)9月9日に、大彦命を北陸につかわし、武渟川別を東海に遣わした(後略)」と、強い関連性がみられる。 崇峻天皇が派遣した阿倍臣や宍人臣雁は、大彦命の後裔とされており、武渟川別は大彦命の子とされていた。 3)『古事記』孝霊天皇の条 目次 崇神天皇の祖父にあたる孝霊天皇(こうれい)の時代に「大倭根子日子邦玖琉命(おほやまとねこひこくにくるのみこと;孝元天皇)が、天下(あめのした)を治めた。大吉備津日子命(おほきびつひこのみこと)と若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと)の2人が揃って、針間(はりま;播磨国)の氷河(ひかは)の岬に、忌瓮(いはひへ;斎み清めた甕)を居(す)えて、針間を吉備征途の入口として、吉備国を言向け和した(ことむけやはした;言葉の力で相手と和して平定した)。 この大吉備津日子命が、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)の祖である。次の若日子建吉備津日子命が、吉備下道臣(きびのしもつみちのおみ)と笠臣(かさのおみ)の祖となった。次の日子寤間命(ひこさめまのみこと)が、針間牛鹿臣(はりまのうしかのおみ)の祖である。次の日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)が、高志の利波臣(こしのとなみのおみ;越中国砺波郡)・豊国の国前臣(とよのくにのくにさきのおみ;豊後国国埼郡)・五百原君(いほばらのきみ;駿河国廬原郡;いほはらのこおり;庵原郡)・角鹿済直(つぬがのわたりのあたい;越前国敦賀)の祖である。天皇の御年、壱佰陸歳(ももちまりむとせ;106歳)。御陵は片岡の馬坂(奈良県北葛城郡王寺町本町)の上に在る」 忌瓮(いわいべ)とは、酒を入れて神に供えため、斎(い)み清めた甕である。 4世紀前半に在位したと思われる第12代景行天皇の時代に、東征にあたり、小碓尊は父の大君から「服ろわぬ者共を言(こと)向け和(やわ)せよ」と命ぜられた。相手を武力で打倒するだけでは、憾みが残り、こちらの力が弱まれば、また反逆するだろう。それではいつまでも「安国(やすくに)」は実現できない。「言向け和す」ことこそ、「安国への道」なのだ。小碓尊は、大君の御心を自分のものとしつつあった。 吉備氏は、早くから山陽道の抑えとして、ヤマト王権と同盟ないし服属したようだ。日本武尊の東征の際、景行天皇の命により吉備建彦(きびのたけひこ)が従っている。また日本武尊の生母は播磨稲日大郎女(はりまのいなびのおおいらつめ)で、吉備臣の祖の若建吉備津日子(孝霊天皇の皇子)の娘である。 武略天皇以降の5世紀後半から6世紀初頭にかけて、筑紫君磐井が新羅と結び、朝廷の征新羅軍の渡海を阻む「磐井の乱」をはじめ、大豪族の反乱が起こった。ヤマト王権が豪族を介して民を間接統治する支配形態から、その豪族支配を廃して、中央官僚を地方へ派遣する直接支配に移行する過渡期にあった。旧来の豪族の既得権益が奪われる状況下、その派遣は困難を極め、抵抗も生じた。そのため臣従を誓う豪族は国造に任じ、地方官の末端に置き、過渡期の混乱を弥縫させようとしたが、次第に国造の実権は奪われていった。やがて、大化の改新以降は、現地地方官の末端となる郡司として採用され、中央から派遣された国司の統率に服し、地方行政の実務を担った。 一方、服属した大豪族の権力も強権的に削減されていった。その政策に共通するのが、海へ進出する軍事拠点の奪取であった。吉備最大の豪族「下道臣」に対して、高梁川(たかはしかわ)の河口のある児島に「児島屯倉(こじまのみやけ)」を置いた。しかもこの高梁川を遡る中流域が、下道氏の本拠地であり、吉備一族では、岡山県下第一位で、しかも全国でも第4位の規模となる、前方後円墳の造山古墳(つくりやまこふん)が造営されている。 『日本書紀』によると「白猪屯倉(しらいのみやけ)」は欽明16(555)年 「秋7月4日に、蘇我大臣稲目宿禰と穗積磐弓臣(ほづみのいわゆみのおみ)らを遣わし、吉備の5郡を使い、白猪屯倉を置いた」とあり、吉備の5つの郡に「白猪屯倉」を置いたのである。そこには、砂鉄を鞴(ふいご)により精錬する製鉄の地が含まれていた。 その翌年に 「秋7月6日に、蘇我大臣稲目宿禰らを遣わし、備前の児島郡に屯倉を置いた。葛城山田直瑞子(かづらきのやまだのあたひみつこ)を田令(たつかひ)とした」。 田令は、律令体制以前に、朝廷より派遣され、朝廷が運営する直轄領である屯倉を現地管理し、貢税などに携わった。これが初見となる。 欽明30(569)年4月条には、白猪屯倉の田戸と田部を編成して丁籍(よほろのふみた;戸籍)を定めた功によって、百済から渡来した王辰爾の甥の胆津(いつ)という人物に白猪史(ふひと)の姓を賜い、葛城山田直瑞子の副(すけ)としている。田令には正と副がいた。 5世紀に造山古墳などの巨大古墳造られた時代に、吉備一族は大和の王権に従わざるを得ない選択を迫られていく。 4)ヤマト王権の吉備支配 目次 孝元天皇と大吉備津日子命や若建吉備津日子命・日子寤間命は、異母兄弟である。 9世紀初頭に書かれたと推定されている旧事本紀」によると、播磨国はもと針間国・針間鴨国・明石国の3か国に分かれていた。それぞれ国造が置かれていたという。その針間の氷河(ひかは)の岬とは、兵庫県加古川市加古川町大野の氷丘(ひおか)の下を流れる加古川辺りをいう。氷丘のある日岡神社が旧跡という。 吉備上道は備前国上道郡に因む氏族である。 吉備下道は備中国下道郡に因む氏族である。 鴨別命(吉備鴨別)は、『日本書紀』などに伝わる古代の人物で、吉備氏一族の笠臣(笠氏)の祖とされる。 『日本三代実録』元慶3年(879年)10月22日条では、吉備武彦命の第三男で笠朝臣の祖とする。また『新撰姓氏録』右京皇別 笠臣条では、鴨別を稚武彦命(若建吉備津日子命)の孫とする。また鴨別命(かものわけのみこと;吉備鴨別)は、吉備氏一族の笠臣(笠氏)の祖とされる。 日子寤間命は、針間牛鹿臣(はりまのうしかのおみ)の祖とあり、針間牛鹿に関しては、継体天皇の長子安閑天皇の時代に、播磨国飾磨郡に牛鹿屯倉がみられる。 律令制以前、7世紀後半に、重要な国に設けられ、近隣数か国の政務を監督した地方の長官である総領(惣領;すべおさ)が、吉備・筑紫・周防・伊予の国に置かれた。特に、吉備と筑紫には大宰(おおみこともち)と称され、特に筑紫大宰だけは、「大宝令」施行後にも「大宰府」として維持された。 吉備大宰の勢力は、考古学的な発掘成果により、『古事記』にある「針間の氷河の岬」、即ち加古川辺りの氷丘にまで、その文化圏が及んでいたことが明らかになった。 崇神朝の三道将軍派遣より2代前の孝霊天皇の時代に、自分の皇子の大吉備津日子命・若建吉備津日子命と日子寤間命を吉備に派遣し、兵庫県加古川のあたりに、忌瓮(いはひへ;いわいべ)を据えて祭り、針間(播磨)の入り口として吉備を平定した。ヤマト王権の勢力は、かなり早くから播磨に勢力を伸ばしていたようだ。 吉備の国は広大で、「大宝令」では既に、備前・備中・備後の3国に分かれ、和銅6(713)年4月3日、備前のなかの6郡、即ち東部の英多郡(あいだ)・勝田郡、中央部の苫田郡・久米郡、西部の大庭郡・真嶋郡を美作に分置している。 英多郡は、古来、県(あがた)と訓んだ。また、美作には、欽明16年7月、大臣蘇我稲目らを派遣して、白猪屯倉(しらいのみやけ)を置いた。久米郡美咲町には、錦織部(にしこり)、久米郡だった久米南町には、弓を製作する弓削部(ゆげ)など、屯倉や職業系の部民を多く配置し、吉備氏の鉄資源をヤマト王権の直轄領とした。 5)吉備と出雲における古代鉄文化 目次 温暖な気候に恵まれていた吉備は、弥生時代初期から、水耕稲作が盛業であった。吉備の勢力の背景には、恵まれた海と山の幸があり、吉備のまがね(鉄)の一大生産地として、その勢力を補強した。平成7年1月、広島県三原市八幡町の小丸遺跡(こまる)を、広島県埋蔵文化財調査センターが調査し、西暦200年代の製鉄炉跡が発見された。 中国山地の砂鉄精錬は、応神朝の5世紀前半に半島からの渡来系の人々によって始まったとされているが、それに先立つ弥生時代には、備前、後の美作を源流とする吉井川流域で、砂鉄から精錬する鉄製造が小規模ながらも始まっていたのではないか。吉井川では、古代から良質な砂鉄が産出していた。 中国山脈の風化した花崗岩地帯は、多くの砂鉄を含んでおり、中国山脈を水源とするすべての川は砂鉄を産出していた。「備前長船(おさふね)」は、南北朝時代に備前国邑久郡長船(現在の岡山県瀬戸内市)を拠点とした。 吉備は、既に古代、「たたら製鉄」の生産量では、出雲をしのぐ一大産地だったと推測されている。鉄製の鎌や鍬・鋤といった農業土木用具をいち早く普及させた。もともと岡山の大平野は、気候は温暖で、農業の生産性は高かった。鋭利な鉄製の農具の普及により、この地方の農耕の生産力を、飛躍的に向上させた。 平野部の余剰を生み出せる農業生産力は、後背地の山地で製鉄用木炭製造や樵・狩猟などの生業を営む山部の民や、海上交易や漁業に従事する海人(あま)との交換市場を発展させていた。戦時には、山部の民は、弓矢を駆使する俊敏な兵士として、海人は機動力に優れた水軍として活躍した。 古墳時代の吉備は、その豊かな経済力で、やがて畿内のヤマトの勢力と拮抗する吉備王国を出現させた。 古代、海上交通の要衝である瀬戸内のほぼ中央にあって、しかも児嶋の津をはじめとする多くの良港があり、朝鮮半島・北九州と邪馬台国・ヤマトを繋ぐ、大陸文化と交易の瀬戸内の中継地として発展し、海外との直接交流も重ねて、大陸の先進文化を流入させて来た。 一方、地方豪族でありながら、墳長が約350~360mの全国4位の巨大古墳である造山古墳(つくりやまこふん;岡山市新庄下)や全国9位の墳長約286 mの作山古墳(つくりやまこふん;岡山県総社市)など、全国屈指の巨大前方後円墳を築造するほど、5世紀に一大勢力を形成していた。 その南にある5世紀の榊山古墳から出土した、青銅製の馬の形のベルト・馬形帯鉤(うまがたたいこう)は、韓国慶尚北道永川郡の漁隠洞遺跡の系統に属し、朝鮮半島からもたらされた可能性が高い。韓国などで約300点出土している。 平成13年9月、長野市吉田地区の浅川端遺跡でも、青銅の馬形帯鉤が発見された。大きさは縦6.7cm、横9.2cm、重さは約40g。背に鞍を乗せて、片方の前足を前方に突き出した様子をかたどってある。 6)北ツ海文化と吉備 目次 天平5(733)年の2月、国造兼意宇郡大領の出雲臣広嶋と秋鹿郡人(あいかのこおりのひと;現在の松江市・出雲市・八束郡の地域)の神宅臣金太理(みやけのおみかなたり)により勘造(調べ定める)された『出雲風土記』にある、神門郡(かんどぐん)古志郷の条に、「古志の郷 即ち郡家に属(つ)けり。イザナミ命の時、日淵川(ひぶちかわ)を以ちて池を築造(つく)りき。その時、古志の国人(くにひと)ら、到来(き)たりて堤を為(つく)り、即ち、宿(やど)り居(ゐ)し所なり。 故(かれ)、古志といふ」 古志郷の地名の由来は、北陸の古志の国の人たちが来て、堤を造り居住したことによるという。 『出雲風土記』神門郡狭結駅(さゆいのうまや;出雲市古志町)の条に、「古志国の佐与布(さよふ)と云う人、来たり居(す)めり。故、最邑(さゆう)と云う」と、その地名の由来を語っている。 『古事記』の大国主の事績の段に 「この八千矛神(やちほこのかみ:大国主命)が、高志国の沼河比売(ぬなかはひめ)を婚(よば)はむとして、妻問いの旅に幸行(い)てましし時、その沼河比売の家に至りて、歌曰(うた)ひたまはく 『八千矛神と呼ばれる我は 広い八島国(やしまくに;日本列島)でありながら これはと思う妻に枕(のぞ)みかねていましたが 遠い遠い 高志の国に 賢明な娘がいると聞き及び 麗しい娘がいると聞き及び 娶りたいと旅立ち 通い続けましたが 大刀の緒(たちのを;太刀を腰に下げるための緒で、太刀の鞘についている金具と結びつける)も 未だ解かないまま 襲(おすひ;外套)も 脱ぐのももどかしく 乙女が やすまれる 板戸を押しゆさぶる 我が立ち 強く引っ張り続ける 我が立っていますと 夜も更けて 青々と木々が生い茂った山で ぬえ(夜に鳴く鳥、トラツグミ)が鳴き 時が経ち 野に巣くう雉(きざし;きじ)も鳴き騒ぎ 庭の鶏(かけ;にわとり)までも 夜明けを告げはじめました いまいましくも鳴く鳥か こんな鳥など 打ち殺して鳴くのをやめさせてくれ 慕い従う天馳使(あまはせづかひ)よ この事を 広く 長く 語言(かたりごと)として 歌わせよ』 (原本にある「有り通ふ」とは、通い続ける、しきりに通う、の意。 「襲(おすひ;おすい)」は、頭からかぶって、衣服の上を覆い、下は裾まで長く垂れた外套(がいとう)のようなもの。元々は、男女とも羽織ったが、後には主として神事をつかさどる女性が用いた。一説に、幅広の布ともいう。 「引こづらふ」は、強く引っ張るの意。 「さ野つ鳥」は、野に巣くっている鳥、雉(きざし)に掛かる枕詞。 「天馳使」は、天空を飛んで走る使者の意で、天駆ける神話の伝誦者という。海人部の出身者が担った。) 爾(ここ)に、その沼河比売は、未だ戸を開けないまま、寝屋(ねや)の内より歌を返した。その歌は二首あった。 『八千矛神命よ か弱い萎草(ぬえくさ)に過ぎない 女ですから 私の心は 浦渚(うらす;浦州)で漁(あさ)る鳥のように 今はまだ 波に脅える 鳥の姿が 私といえます やがては 貴方の鳥となります 慕い従う天馳使よ この事を 広く 長く 語言として 歌わせよ 緑濃い青山に 入り日が隠れていけば 檜扇(ひおうぎ)の黒き実にも似た 闇夜が ようやく 出でまいります そんな時あなたは 朝日のように 満面の笑みをたたえて いらしてくれるでしょう 栲綱(たくづの;栲・こうぞ・の樹皮の繊維)のように 真っ白な腕を あわ雪のような 私の若き胸のふくらみを 素手で抱き寄せて その手を背中にまわして 優しく撫でて愛おしみ 私の玉のように美しい手 その玉の手をさして枕にし のびのびと足を伸ばして お休みなさってください つらい恋は なさいますな 八千矛神の命 この事を 語言として 申し上げます とうたひき。故(かれ)、其の夜は合はずて、明日(くるひ)の夜、御合(みあひ)為(し)たまひき』 (萎草(ぬえくさ;ソバナ)のなよなよとした草の意から、「女(め)」に掛かる、枕詞) 八千矛神が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。 新潟県糸魚川市田伏南村の奴奈川神社の祭神の沼河比売の「ヌ」は、玉の意で、「ヌナ川」とは玉を産する川のことである。その翡翠が採れる糸魚川に近い青海町で工房址が発見された。出雲産の玉作と高志の玉生産との交流が想定される。 一方『延喜式』の「神名帳」には、能登郡(中能登町)に、出雲の少彦名命を祭る宿那彦神像石神社(すくなひこのかみのかたいしじんじゃ)や能登国羽咋郡(はくいぐん)の大国主命を祭る大穴持神像石神社などがみられる。 黒潮の分流の対馬海流は、海に突き出た島根半島と能登半島の西側を良好な船着き場とした。江戸時代でも、漂流した朝鮮の漁民の多くは島根半島にたどりついた。出雲沖を回流して能登半島に向う。古代の海路も、その海流に合わせて日本海沿岸地域との交流を発展させていった。 能登半島は日本海に突き出た半島であるから、江戸時代には、より一層海運の要となった。特に、世界有数の先進商業都市であった大阪で荷を集積し、秋田や蝦夷への海運を担う北前船にとって、重要な寄港地となった。 加賀百万石も、海運で栄えた。米穀・木材などの産物の商港としての収益ばかりでなく、加賀の特産品である漆器や金箔工芸品などが大阪・江戸へと送られた。 清やオランダとの抜け荷は、薩摩だけではなかった。加賀はもとより福岡・伊達・南部などでも盛んで、加賀の銭屋五兵衛など豪商は、択捉でロシア船と、竹島・永良部島ではイギリス・アメリカなどと取引を重ねていた。その利益は、御用金として、それぞれの藩に還流した。 7)北ツ海と都怒我阿羅斯 目次 『日本書紀』の垂仁天皇2年に 「一説によれば、御間城天皇(崇神天皇)の世に、額に角が生えた人が、ひとつの船に乗って、越国の笥飯浦(けひのうら;福井県敦賀市気比神社付近))に停泊した。故にそこを名付けて角鹿(つぬが)という。 「どこの国の方か」と尋ねると、答えて『大加羅国(おほからのくに)の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)で、またの名を于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)という。日本国に聖皇(崇神天皇)がいると聞き、ここに帰化した。 穴門(あなと;長門国の呼称)に着いた時、その国の伊都々比古(いつつひこ)という人が、私に『我がこの国の王で、他に王はいない。それ故に他所へ行ってはならない』という。しかし、私がよくよく、その人となりを見れば、王であるはずがないとみて、そこから退去しましたが、地理が分からないまま、島浦をさまよい、北海(きたのうみ)を廻って、出雲国を経てここに着いた』といった(後略)」 この説話は、出雲より越の国に至る、対馬海流に乗る海路の必然性が語られていた。 加羅国の王子都怒我阿羅斯等が、崇神天皇に会おうと出雲を経て笥飯浦へきたが、既に天皇が亡くなったので、次の垂仁天皇に3年仕えた。 垂仁天皇は、御間城(崇神)天皇の名をお前の国の名にしろと命じ、赤絹を与えて阿羅斯等を本国へ帰した。これが、弥摩那(任那)という国名の起源となった。阿羅斯等は賜った赤絹を自国の蔵に収めたが、新羅国がそれを聞き及び、兵を起こして赤絹を奪った。以来この両国は恨み合うようになる。 都怒我は、新羅や加羅の最高官位「角干」を日本風に訓読みして「ツヌカ(ン)」と表記した。また阿羅斯等は『日本書紀』の継体天皇23(529)年4月の条などに、任那(加羅)王の名を「阿羅斯等」としたが、敏達天皇12(583)年7月の条では、百済に居住した達率(たつそつ;百済の官位の第二等)は、百済の王に仕えた倭系百済官僚で、その父の日羅(にちら)は火(肥後国)の葦北(現在の葦北郡と八代市)の国造刑部靭部阿利斯登(おさかべのゆげいべのありしと)と記す。 阿利斯登は、宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人である。靭部は「靫負」とも書き、杖刀人と同様、大化前代の兵士で、ヤマト政権の宮廷武力集団の一つである。矢を入れる道具である靫(ゆき)を背負って、宮廷の諸門を警護した品部(ともべ;しなべ)であった。主に西日本の中小豪族の子弟から編成され、大王の直轄領である名代の部によって資養された。 『日本書紀』には、日本武尊が、常陸を経て、甲斐国に至り、酒折宮(さかおりのみや;甲府市酒折)に居た時、靫部(ゆけいのとものお)を大伴連の遠祖の武日(たけひ)に賜った、とある。大伴室屋が靫負 3,000人を宰領して、宮門を警護したという、故事にちなむ。 「阿利斯登」の原語は朝鮮語の閼智(a-chi)に由来する。朝鮮古代の新羅の初期王は朴・昔・金3姓が交代で即位したとされている。金氏としてはじめて王位についたのが、この味鄒(ミチュ)で、金氏の始祖は金閼智(kim a-chi)である。味鄒はその7世孫にあたる。『三国史記』はその在位期間を262~284年と伝えるが、いずれも伝承で、整合性に欠ける。 8)朝鮮半島南部と日本海沿岸地域との鉄文化の関係 目次 土佐市高岡町の居徳遺跡(いとく)から、縄文時代晩期の2,800~2,500年前の9人分15点の人骨が出土した。その中の3体分には金属器によるとみられる鋭い傷や鏃の貫通痕があると鑑定された。 朝鮮半島南部の釜山周辺の伽耶は、鉄が豊富な地域であった。 『三国史』「魏志韓伝」の弁辰の条に「弁辰 その国、鉄を出す。韓・穢・倭、皆従(ほしまま)にこれを取る。諸市買ふに皆鉄を用ふ」とある。弁辰(弁韓)地域における製鉄は、紀元前4世紀末までに遡る可能性が高く、韓国の考古学的調査により、少なくとも紀元前2世紀のころには、本格的に鉄生産が行なわれたようだ。 弁韓は加耶となり、辰韓は新羅となるが、朝鮮半島南部の鉄文化が、北ツ海沿岸地域にも波及していた。従来は朝鮮半島南部と北九州との交易が注目されたが、近年、出雲から丹波にかけての日本海沿岸地域も、積極的にかかわっており、その地理的なi重要性が、再認識されるようになった。 弥生時代後期の京都府与謝郡与謝野町岩滝字大風呂の大風呂南墳墓遺跡から鉄剣14本と、鮮やかな青の着色が、鉄によるとみられる中国産のカリガラス製(カリウム酸化物の含有量がとくに高いガラス)の釧(腕輪)などが出土した。墳墓は、日本海を眼下に見下ろす小高い丘に築造され、古代丹後の王墓とみられている。 岩滝町とは峠道で結ばれている大宮町の弥生後期初頭に造られた三坂神社墳墓群と左坂墳墓群では、朝鮮半島からもたらされた鉄製のやりがんなや素環頭鉄刀が出土している。 ここから北へ10kmほど行った弥栄町の弥生中期の奈具岡遺跡や、北西側の峰山町の弥生前期末の扇谷遺跡・弥生時代前期末~後期の途中ヶ丘遺跡(とちゅうがおか)などでも、鉄斧・銑鏃などの鉄製品と伴出する諸々の鉄材や、鉄器を加工する痕跡などが見られている。 弥生時代を通じて、この丹後半島のほぼ中央地域一帯には、出雲から丹後半島の中心部に至る日本海沿岸ルートの海路が通じ、その要衝地にあるため、鉄素材など大陸の文物との交易を専有する有力な首長層が育っていった。 9)ヤマト王権と北ツ海の関係 目次 『日本書紀』の垂仁天皇2年に 「一説によれば、御間城天皇(崇神天皇)の世に、額に角が生えた人が、ひとつの船に乗って、越国の笥飯浦(けひのうら;福井県敦賀市気比神社付近))に停泊した。故にそこを名付けて角鹿(つぬが;敦賀)という。 『どこの国の方か』と尋ねると、答えて『大加羅国(おほからのくに)の王の子で、名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)で、またの名を于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)という。日本国に聖皇(崇神天皇)がいると聞き、ここに帰化した』という」 敦賀は能登半島の西側でも、大陸交易に通じる枢要な港であり、早い段階で、ヤマト政権は掌中にし、おさめていた。 この角鹿には笥飯大神(けひのおおかみ)が祭られている。 『古事記』仲哀段に 「さて、建内宿禰命は、皇太子(後の応神天皇)を連れて、(忍熊王の反逆による穢れを払うため)禊をしようとして、淡海(近江)及び若狹国を巡歴した時、高志前(こしのみちのくち;越前国)の角鹿に、仮宮(かりみや)を造り坐(いま)した。 ここでその地に坐す伊奢沙和気大神之命(いざさわけのおおかみのみこと)が、建内宿禰の夜の夢に現れ『我が名を、御子の御名として差し上げたい(国つ神が服属儀礼として、その名を太子に差し上げた)』と仰せられた。それで言祝(ことほぎ)を申し上げて「恐れ多い、御言のままに変え奉ります」といった。 するとその神が詔(の)りたまい「明日の朝、浜にいらっしゃるがよい。名を変える謝意のしるし幣(ゐやしろ;礼物)を献じます」と申したため、その朝、浜に幸行された時、鼻に傷がある入鹿魚(いるか;海豚)が、既に浦一帯に寄り集まっていた。これに御子は、使者に命じ神に申し上げさせ「我に御食(みけ;食事の供物)の魚を給うのか」というと、またその神の御名を称えて、御食津大神(みけつおほかみ)と名付け、それで今は気比大神(けひのおほかみ)と呼ばれた。またその入鹿の魚の鼻血が臭かったので、その浦を名付けて血浦(ちうら)と呼んだ。今は都奴賀と呼ぶ」 本居宣長は、『古事記伝』で、「気比」は「食霊(けひ)」の意という。 第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父である丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと)は、「崇神紀」10年9月条で「四道将軍」の一人として丹波に遣わされた将軍であった。 丹波国は、より古代に遡ると、その領域は曖昧に広がる。本貫地の丹後、それに但馬、若狭、さらに山城や摂津の一部までも含んでいたようだ。垂仁天皇のとき、丹波道主の5人の娘が後宮に召された(「垂仁紀」5年10月条)。ヤマト王権にとっては、若狭へのルートを掌握する丹波の豪族との姻戚関係は、最重要な課題であった。 若狭国4世紀後半には、ヤマト王権の支配下に入った。履中天皇が政治を行った場所が「磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)」であった。 『日本書紀』の履中天皇の条に 「3年冬11月6日に、天皇は、両枝船(ふたまたぶね;二艘を つなぎ合わせた丸木舟)を磐余市磯池(いはれのいちしのいけ)に浮かべ、皇妃(みめ;黒媛)とそれぞれ分乗して遊宴(あそ)ばれた。 膳臣余磯(かしはでのおみあれし)が酒を献じた時、桜の花が、御盞(おほみさかづき)に落ちてきた。天皇は不思議に思われて、物部長真膽連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔して「この花は、季節はずれに散ってきた。どこの花だろうか。汝、自らが探して来い」といわれた。 そこで、長真膽連は、独り花を尋ねて、掖上室山(わきのかみのむろのやま;御所市室付近の山)で手に入れて献上した。 天皇は、希有なことと歓ばれて、即座に宮の名とした。それで、磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)と呼ばれた。これが由縁である。この日に、長真膽連の本姓(もとのかばね)を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)といい、又、膳臣余磯を名付けて、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)といった。 履中天皇は、御饗(みあえ)を司った膳臣余磯を「稚桜部臣」に賜姓し、履中天皇の朝廷部民として、ヤマト王権の日本海側の入口で、海産物を朝廷に献上していた「御食国(みけつくに)」の「稚桜部」の管掌者に任じた。そして物部長真膽連を「稚桜部臣」の姓を与え伴造として、「稚桜部」を支配させた。この「稚桜部」が置かれたことにより「若狭国」と呼ばれた。やがて調・庸で塩を納めるようになる8世紀には、製塩が隆盛となった。 この気比大神が祭られる角鹿から、琵琶湖を瀬田川・宇治川と南下し、淀川を下り、木津川を経て大和川に入り、南に上りヤマトに至る水運が早期から作られていた。大和川は今では、堺市に河口があるが、古代では難波の海に流入していた。上流は泊瀬川(初瀬川)で、大和盆地の数々の河川を吸収し、王寺町の亀ノ瀬を通って河内平野に出て、生駒山脈の西側を北上し古代の難波の河内湖の名残に注ぎ込んでいた。 この入り江近くにあった摂津国百済郡は、現在の大阪市天王寺区の一角にあったが、ここには百済から渡来した王仁(ワニ)の一族の調氏(つきし)・広井造(ひろいみやつこ)などが定住していた。あらたに百済から渡来した王辰爾(おうしんじ)の一族は、大和川流域の各地に定住させられていた。 ヤマト王権は海外交渉の面からも難波津と、そこに流入する大和川を重視し、百済系の文人官僚をその周辺に配し、朝廷の海外交渉の実務を担当させてきた。 島根県松江市宍道町の上野Ⅱ遺跡では、弥生時代後期の鉄鏃・鍬製鋤先・板状鉄素材・鋳造鉄斧などが出土し、弥生時代後期後半とみられる鍛冶炉をともなう工房跡が6棟見つかっている。 雲南市木次町の平田遺跡では、平成11年、斐伊川の近く水田の下から直径が9m近くもある大きな竪穴建物跡が発見され、その建物跡内の地面から熱を受けた場所が4ヵ所検出された。調査により弥生時代後期の鍛冶炉の跡と分かった。建物跡では、鉄鏃やヤス状の棒状鉄器・やりがんなやなどが、鉱石系の鉄素材を含む42点が出土し、鉄器を研磨したとみられる砥石や、鉄器の製作に使用したとみられる作業台の石も出土した。 島根県安来市の弥生時代後期の大規模な集落、柳遺跡・竹ヶ崎遺跡から鍛冶炉が出土した。 最近の韓国の発掘調査から、楽浪・金官伽耶・倭と繋がる国際貿易の仲介基地であり、弁韓及び伽耶の中心地でもあった金海府院洞貝塚や、釜山の東萊(トンネ)貝塚・東萊温泉洞から出土した土器のなかに、出雲系や北陸系の土器が多数みつかっている。 日本海沿岸地域の鉄文化は、北ツ海を海路とし朝鮮半島の弁韓及び伽耶と、古くから密接な関係を示すものであった。 10)吉備と出雲の交流 目次 出雲市の西谷(にしだに)3号墓・同4号墓の四隅突出型墳丘墓から、吉備の容器である特殊器台や特殊壺が出土した。これら祭儀用の土器は、首長墓にしか使われないものだ。吉備と出雲の首長層間に、何らかの交流があったとみられる。特に3号墓出土の土器の1/3が、岡山や北陸地方の特徴を持つ土器であった。 『日本書紀』も吉備と出雲との関係を、充分わきまえていた。その神代巻上の第三に 一書に「これを草薙剣と名付けた。この剣は今、尾張国の吾湯市村(あゆちのむら;尾張国愛知郡;更に古くは阿育知郡)にある。即ち熱田の祝部(はふり)が仕える神である。その蛇を斬った剣を、蛇の麁正(おろちのあらまさ)と名付けた。これは今、石上神宮にある」と伝えられている。 石上神宮は、古代の山辺郡石上郷に属する布留山の西北麓にある物部氏の氏神を祭る神社ではない。 また一書に「名を草薙剣としたこの剣は、昔は素戔嗚尊のもとにあったが、今は尾張国に在る。その素戔嗚尊が大蛇を斬った剣は、今は吉備の神部(かむとものお;令制神祇官には30人の神部がいた)のもとにあり、尊が大蛇を斬った出雲の地は、簸の川(ひのかわ;斐伊川)の上流の山である」と記すように、岡山県赤磐市にある延喜式内社の石上布都魂神社の「石上(いそのかみ)」である。天理市布留町の石上神宮にはない。 『出雲国風土記』に神門郡(かんどぐん)の郡司の三等官である主政に吉備部臣の名がある。 古代の窮民救済法である正税から救援米を支給する賑給制度があったが、天平11(739)年における出雲国の『大税賑給歴名帳』に、神門郡の戸の代表者となる戸主と戸の構成員である戸口に吉備部臣赤井などの吉備部臣や吉備部枚売などの吉備部が多数みられ、出雲郡にも、吉備部井出女などの吉備部や吉備を出自とする笠臣の名がみられる。 出挙(利息付きの貸借稲)の借稲名義人が、その年の返済時期までに死亡すると元利とも免除される規定があった。その死亡人と死亡月日、借稲量を記録した「大税負死亡人帳(たいぜいふしぼうにんちょう)」が作成されていた。その実例として残る備中国『大税負死亡人帳』に出雲部刀や出雲部小麻呂の名が記されている。 庶民段階でも、吉備と出雲とでは、かなりの交流があったことを窺わせる。 11)吉備氏の姿 目次 吉備は、古代ヤマトの畿内地域とならぶ先進地帯で、備中南部には巨大古墳が多い。倉敷市の楯築墳丘墓(たてつきふんきゅうぼ)は、弥生時代後期、それも倭国大乱が終わった2世紀末の墳丘墓で、当時代では最大である。しかも古墳時代より先に築造されていた。高さ約5m、直径43mの円形の墳丘の両側に北東と南西の突出部があり、全長は72m弱の巨大な墳丘墓である。主墳の頂には5個の巨石が並び、斜面にも立石が並び、両側の突出部にも石列が並び、丹塗りの壺形土器が多数置かれていた。 また墳頂や斜面の一部には、こぶし大の円礫が葺石されていた。 主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5mに埋葬されていた木棺が出土した。その木棺は全長約2m・全幅約0.7mで、棺の底には30kgもの朱が厚く敷かれていた。そこから歯の欠片が僅かに2個出土した。 木棺は全長3.5m、全幅1.5mの木槨に納められていた。副葬品は、外箱の中に置かれて、鉄剣1本・首飾り2個と多数のガラス玉と小管玉が共伴した。もう1基の埋葬施設からは出土品は無かった。 墳丘上には、大正時代の初め頃まで楯築神社があった。代々伝世し、ご神体として神体石(亀石)と呼ばれる全表面に毛糸の束をねじったような弧帯文様が刻まれた石が安置されていた。現在は楯築墳丘墓のそばにある収蔵庫に祀られている。 その弧帯文石(こたいもんせき)も楯築墳丘墓で明確になり、この弧帯文は、纏向遺跡の弧文円板や葬送儀礼と共通する。 ここで出土した特殊器台という高さ1mに近い円筒型埴輪は、古墳時代の埴輪円筒よりも早く登場し、その形状やそれに伴う祖霊祭祀の様式は、やがて3世紀の卑弥呼の纒向祭祀の理念にもなったようだ。その特殊器台は、卑弥呼の墓と想定される奈良県桜井市の箸墓古墳や島根県出雲市の四隅突出墳丘墓の西谷3号墓と4号墓からも出土している。しかも纒向遺跡から出土した土器に、吉備系の土器が多数混在していた。 纒向遺跡から木製装飾の円板の弧文円板・弧文杖・弧文石が出土している。吉備の先進文化が纒向の基調となり、やがて前方後円墳という墳丘墓を創始させた。 邪馬台国があった纒向政権に代わり、三輪山の西麓を拠点とする三輪王権が誕生する。崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエ、垂仁天皇の名はイクメイリヒコイサチであるように、この王朝に属する大王や王族に「イリヒコ」「イリヒメ」など「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。 東国の上毛野君(かみつけののきみ)・下毛野君(しもつけののきみ)の祖とされる崇神天皇の王子は、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)で、天皇はその弟の尊(後の垂仁天皇)を皇位の継承者とし、命を東国の支配に任じた。 その 「イリ」は「入る」の意味であれば、倭国大乱が終わった2世紀末には、既に吉備の地方に先進文化を涵養してきた一族が、同じころ邪馬台国が形成してきた卑弥呼や台与の死後の3世紀後半に、ヤマトが再び動乱期に至った時、同じその奈良盆地西南部に、しかも纒向に対峙するかのように、三輪山の西麓に入り、「三輪王権」を確立させたのだろうか。 5世紀代では、墳丘長約350mで全国第4位の前方後円墳である岡山市にある造山古墳(つくりやま)や、約286mで第13位の総社市の作山古墳(つくりやま)などが特に知られる。3世紀の中頃から後半に築造された、卑弥呼の墓と推定される箸墓古墳が墳長およそ272mであるから、吉備地方全域の盟主的地位を占めた首長の墳丘墓と知れる。 その吉備氏も、雄略朝紀の反乱伝承に記されるように、その勢力を大幅に削がれた。 吉備氏は東部(岡山市山陽町付近)の上道氏(かみつみちし)と、西部(岡山市西部・総社市)の下道氏を中心とする氏族連合であった。 雄略天皇7(463)年には、上道臣(かみつみちのおみ) や下道臣(しもつみちのおみ)らの有力豪族がいた。そのなかに吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)もいて、上道臣田狭(かみつみちのおみたさ)の子の弟君(おときみ)と共に、天皇の詔により「新羅を討て」と遠征を命じられている。 この雄略天皇7年に、雄略天皇の官者(とねり)により、下道臣前津屋(しもつみちのおみさきつや)の雄略呪詛が発覚し、物部氏の兵士30人が遣わされ、前津屋と合わせて一族70人が誅殺された。 その後、雄略天皇は、上道臣田狭の妻稚媛が美しいことを知って、田狭を任那の国司に任じて赴任させ、その留守に稚媛を奪った。田狭はこれを恨み反旗を翻した。雄略は、田狭と稚媛との子である弟君に討伐を命じた。弟君は、百済まで赴いたが、父子共に任那と百済を拠点として、反乱をせざるを得なかった。弟君は妻の樟媛に殺害されて、あっけなく謀反は頓挫した。 また『日本書紀』の雄略天皇7年に 「天皇は大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じ、新漢(いまきのあや;新しい渡来人)の陶部高貴(すえつくりこうくい)・鞍部堅貴(くらつくりけんくい)・画部因斯羅我(えかきいんしらが)・錦部定安那錦(まかみのはら;にしごりじょうあんなこむ)・訳語卯安那(おさみょうあんな)らを、上桃原(かみつももはら)・下桃原(桃原は大和市高市郡)・真神原(高市郡明日香村飛鳥)の3ヵ所に遷居させた。或本では『吉備臣弟君が、百済より帰り、漢手人部(あやのてひとべ)・衣縫部(きぬぬいべ)・宍人部(ししひちべ)を献じたとある」 吉備の海部は、近海の水産業に従事しながら、その操船技術がかわれて、ヤマト政権の外交官として活躍していた。 12)星川皇子の反乱 目次 『日本書紀』巻第15の白髮武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、即ち 淸寧天皇の「即位前期」に 「白髮武広国押稚日本根子天皇は、大泊瀬幼武(雄略)天皇の第3子で、母は葛城韓媛(かずらきのからひめ)と言う。淸寧天皇は、生来白髮で長じて民を愛された。大泊瀬天皇は諸皇子の中でも特に靈異ありとし、雄略22(478)年、皇太子に立てられた。 23年8月、大泊瀬天皇が崩御された。吉備稚媛は、密やかに、幼子の星川皇子に告げて『天下の位に昇ろうとするなら、先ず大蔵(大王の財庫を管理)の官を奪いなさい』と言う。 長子の磐城皇子は、自分の母でもある夫人が、その幼子に教える事を聴き『皇太子は、我が弟であっても、安易に欺く可き事ではない』と星川皇子に語り聴かせたが、聴くことなく、輙(たやす)く母夫人の意見に従い、遂に大蔵の官を略取した。 その外門を閉錠し、難事に対し一定の備えをし、権勢を恣にし、官物を費消した。ここに至って、大伴室屋大連は、東漢掬直(やまとのあやのつかのあたい)に「大泊瀬天皇の遺詔どおりの事態が今出来したようだ。宜しく遺詔に従い、皇太子を奉じよ」と命じた。直ちに軍隊を発して大蔵を囲繞し、外から閉じ込め、火を縱(はな)ち焼き殺した。 この時、吉備稚媛・磐城皇子や異父兄の兄君(えきみ;先夫である吉備上道田狭との子;弟君の兄)と名前までは不明であるが豪族の城丘前来目(きのおかさきのくめ)は、星川皇子に従っていたため焼き殺されてしまった。 ただ河内三野県主小根(かふちのみののあがたぬしをね;『延喜式神名帳』御野県主神社は、大阪府八尾市上之島町南にある)は、怯えて震え恐れた、火を避けて逃れ出た。草香部吉士漢彦(くさかべのきしあやひこ)の脚に抱きつき、助命を願い、大伴室屋大連に頼んでもらおうと「奴(わたしめ)、県主小根が、星川皇子に仕えたのは事実です。しかしながら皇太子に背くようなことはしませんでした。どうか、大恩を下し、命を救い賜いますように」といった。 漢彦は、あれこれと大伴大連に申し立て、県主小根を刑の処罰者に入らせなかった。小根が、漢彦を使い大連に申すのには「大伴大連は、我が君です。大きな恵みを下さり、危うい命を、引き延ばさせていただき、陽の光を観ることができました」といい、そこで難波の来目邑の大井戸(おほゐへ)の田10町を大連に贈り、また田地を漢彦に与え、その恩に報いた。 (代“しろ”は、日本古代の土地丈量の単位。大化前代、稲の収穫量を基準に測った田積の単位で、1代とは稲1束、籾で1斗、米にして5升で、現在の2升を生産する面積をいうが、約23平方メートル弱である。10町は5千代に相当する) この月、吉備上道臣(きびのかみつみちのおみ)らは、朝廷で反乱が起きたと聞き、娘の稚媛が生んだ星川皇子を救おうと思い、船師(ふないくさ;水上兵力)40艘を率い、渡海をはじめたが、既に焼き殺されたと聞き、海上より戻っていった。 天皇(白髪皇子)は、直ちに使者を遣わし、上道臣らを叱責しその所領の山部を奪った。冬10月4日、大伴室屋大連は、臣や連らを率いて、皇太子に璽(しるし;鏡と剣)を奉った」 13)敏達天皇紀の吉備氏と百済 目次 『日本書紀』の敏達天皇12(583)年に 「秋七月、詔して『我が亡父欽明天皇の世の頃、新羅が内官家の国(うちつみやけのくに;任那諸国)を滅ぼした(欽明天皇23年に、任那は新羅のために滅ぼされ、ここに新羅が我が内官家を滅せりという)。 亡父天皇は任那を復興させようと図ったが、果さず崩じた。その志は成就しなかった。それで、朕は亡父の神謀(あやしきはかりこと;“あやしき”は“霊妙な”“偉大な”の意)に助力し奉り任那を復興させたい。今、百済にいる肥の国葦北(肥後国葦北郡葦北)の国造阿利斯登(アリシト;加羅王族の出自か?)の子、達率(たちそち;百済官位16階の第2)日羅(にちら;百済に生まれ百済の朝廷に仕えていた)は、賢しく武勇がある。それで、朕はその人と相計ろうと思う』 紀(紀伊)の国造押勝と吉備海部直羽嶋(きびのあまのあたひはしま)を遣わし、百済に呼び掛けた。冬10月、紀の国造押勝らが百済より帰り、朝廷に復命し『百済国の主(にりむ;古代朝鮮語でいう国主)は、日羅を惜しみ肯んじなかった』という。 「この年、また、吉備海部直羽嶋を遣わし、日羅を百済において召した。 羽嶋は百済に之(ゆ)くと、先ずは秘かに日羅を見ようと、独り自ら家の門まで出向く。暫くすると家の裏から韓婦(からめのこ)が来た。韓語(からさひづり;“さひづり”とは外国語や辺境の言葉をいう)で『汝の根(陰部;通常は身体の義)を以って我が根の内に入れよ』と言って家に戻った。羽嶋は便(たちまち)にその意を覚(さと)り、その後について入った。すると、日羅が迎えに出て、手を取って坐所に導いた。 密に告げて『僕(やつかれ)が密かに聞き及べば、百済国の主(にりむ)が疑うのは、天朝(みかど)に臣を遣わせば、その後、留めて帰さないと思い、それを惜しむ余り、進上に肯かなかったのでしょう。 勅(みことのり)を宣旨する時に、厳かにして猛(たけ)き色を現(み)せて、急き立てて速やかに召すのです』という。羽嶋は、その計略どおりに日羅を召した。 ここに、百済国の主は、天朝を怖畏し敢えて勅に背かなかった。日羅・恩率(おんそち;百済の官位16階の第3)・德爾(とくに;個人名)・余怒(よぬ;個人名)・奇奴知(がぬち;個人名)・参官(さんかん;官名か個人名か不明)・柁師德率(かぢとりとくそち;德率は百済の官位16階の第4)の次干德(しかんとく;個人名)や水手ら若干の人らを遣わし申し上げた。 日羅らは、吉備の児島屯倉に着到した。朝庭(みかど)は、大伴糠手子連(おほとものあらてこのむらじ)を遣わし慰労させた。また大夫等(まへつきみ“議政官”たち)を難波の館(むろつみ;室積み:旅人の客舎)に遣わし日羅を訪問させた。この時、日羅は甲(よろい)を着て、乗馬で難波の館の門の下に着いた。直ぐに政殿(まつりごとどの)の前に進み、進退跪拝の礼をした。 歎恨して『檜隈宮御㝢天皇(ひのくまのみやにあめのしたしらしめすすめらみこと;宣化天皇)の御世に、我が君大伴金村大連が、国家(みかど)の御為(おんため)に南鮮に使わした、火葦北(ひのあしきた)の国造刑部靫部阿利斯登(をさかべのゆけひありひと)の子である臣(やつこ)が、達率日羅(だちそちにちら)です。 天皇のお召しがあると聞きして、恐れ畏(かしこ)み、来朝しました』と申した。その時、甲を解き、天皇に奉った。そこで館を阿斗桑市(あとのくはのいち;大和国城下郡“しきのしもぐん”阿刀村)に営み、日羅を住まわせた。その願いのままに諸々の物を与えた。 (大伴氏は各地から出仕する靫負を統率し、宮門を警固する伴造であった。古代、靫負(ゆげい)は朝庭の御門の守衛にあたった武力組織の一つで、靫(ゆき)は矢を入れて背負う道具で、靫負とは靫を背負う者の意であり、弓矢を武器として朝廷に奉仕した。 『日本書紀』には白髪部(しらがべ)靫部や刑部(おさかべ)靫部などみられ、朝廷領である名代(なしろ)の部の集団から資養をうけたとみられる。清寧天皇の白髪部や允恭天皇の皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)、つまり雄略天皇の母のために置かれた刑部など、それらの名称から5~6世紀に成立したものとみられる。 国造刑部靫部阿利斯登は、刑部靫部という名代を管理し、その子を靫負としてヤマト朝廷に出仕させた) また阿倍目臣(あへのめのおみ)・物部贄子連(もののべのにへこのむらじ)・大伴糠手子連を遣わし、国の政(まつりごと)を日羅に問うと、日羅は答えて「天皇が天下を治める政は、必ず須く黎民(おほみたから)を護り養いたまい、俄かに兵を挙げて、かえって失滅させることがないようにします。 それこそ、今、合議して、朝列(みかど)に仕えまつる臣・連・2つの造(二造とは国造と伴造なり)より下、百姓(おほみたから)に及ぶまで、悉く皆が饒富(じょうふ)となり、窮乏する所をなからしめる。こうして3年すれば、食料を満たし兵器を満たせば、悦んで民は使えます。水火を厭わず、同じく国難を憂えるでしょう。 しかる後に、多くの船舶を造り、津ごとに連ね置けば、隣国の客人が見れば恐懼する。その上で、能(よ)き使いを、百済に使わし国の王を召す。若し来なければ、その太佐平(だいさへい;百済最高の執政官)・王子(せしむら)らを召し来させよ。さすれば自ずと心から欽(つつし)み、伏(したが)うようになる。その後に、罪を問うべし。 (『旧事本紀』の天孫本紀に物部守屋の弟、物部石上贄古連公“もののべのいそのかみのにへこのむらじのきみ”とある) 又、奏言があり『百済の人が謀り、船が3百隻あるので、筑紫を承(うけたまわ)りたい』という。若し、それを実(まこと)に願ってくるならば、うわべを装い、賜った真似をなされよ。すると百済は、新たに国を造ろうとして、必ず先ずは女人・小子を船に乗せて参るでしょう。国家(みかど)は、この時に臨み、壱岐・対馬に多くの伏兵を置き、到着を候(ま)って殺すのです。反対に欺かれてはならない。常に、要害の地には、城塞を堅く築きなさい』と申す。 ここで、恩率と参官(さむくわん)が我国から退去する際(『旧事本紀』は、恩率と参官が別人という)、秘かに德爾らに語るに「我らが筑紫を過ぎた頃をみはかり、汝らが密かに日羅を殺せば、我らは詳らかに王に申して、高位の官位を賜るようにし、そなた自身と妻子が後々栄えるようにする」という。 德爾・余奴は、すべてを聞き入れた。参官らは、遂に血鹿(ちか;長崎県五島列島に値嘉島“ちかのしま”あり、古来、大陸への渡航の際には、ここから大海へ出た。遣唐使もここから西を指して渡った)を出立した この時、日羅は、桑市村(くはのいちのむら;日羅のために設けた阿斗の桑市の館)より難波の館(むろつみ)に移った。德爾らは、昼夜、殺そうと相計った。時に、日羅の身に輝く光が火焔のようで、そのため德爾らは恐れて殺せなかった。 遂に12月の晦(つもごり)に、光を失ったと窺い殺した。日羅は、新たに蘇生して「これは、我が使用人の奴(つかひびとやつこ)らの所業で、新羅によりものではない」と言い終わると死んだ。この時に丁度、新羅の使いがあり、それで、かく言ったのであろう。 天皇は、贄子大連・糠手子連に詔して、小郡の西にある畔の丘の埼に、日羅を納め葬った。その妻子や水手(かこ)らを石川(富田林市及び河内長野市に流れる石川の中流域)に住まわせた。 ここで、大伴糠手子連が議定して「一か所に集って住まいすれば、恐らくは報復を誘発します」というと、妻子を石川百済村(『和名抄』に河内国錦織郡百済郷がある)に居住させ、水手らは石川大伴村(富田林市北大伴・南大伴)に住まわせた。 德爾らを捕縛し、下百済阿田村(しもつくだらのかはたのむら;富田林市甲田)に置いた。若干の大夫(まえつきみ)達を遣わし、事件を推問した。德爾らは伏罪して「真のことは、恩率・參官が教唆したのです。僕(やから)らは、下に仕える者ですから、逆らうことはできませんでした。 (『摂津志』に「西成郡、上古の難波小郡。日羅の墓、大坂天満同心町に在り」) これにより、下獄させ、朝庭に復命した。使を葦北に遣わし、日羅の同族を悉く召して德爾らを賜い、意のままに罪を決めさせた。この時、葦北君らは、受け取ると残らず殺し、彌売島(みめしま)へ投げ捨てた。彌売島は、姫島(ひめしま;淀川河口のあった島;大阪市西淀川区姫島町)をいう。 日羅を、葦北に移葬した。後に、海辺の者が『恩率の船は、風に遭い海に没した。参官の船は、始めは津嶋(対馬)に漂泊したが、帰ることができた』 という。 13年春2月8日、難波吉士木蓮子(なにはのきしいたび;吉士は朝鮮より渡来して官吏となった者に与えられた姓であったが、やがて氏名ともなった)を遣わし新羅への使者とした。遂に任那へ行く。秋9月、百済より来た鹿深臣(かふかのおみ;名は不明;近江の甲賀郡の豪族・甲賀臣)は、弥勒の石像一体、佐伯連(名は不明)は、仏像一体を伴った」 (佐伯氏は軍事専門の氏族で、『新撰姓氏録』の左京神別に載る大伴宿禰の条によれば、大伴室屋の子の談(かたり)から分かれた。大伴氏と並んで靫負を率いて宮門を護衛しながら、共に大和政権の伴造として、歴代、武力をもって朝廷に奉仕した。 大伴金村の父と伝わる談は、雄略朝の対新羅派遣軍の大将であった。新羅王と会戦し、数百騎の手勢のみにし遁走させ、その追撃の際に戦死した。 『日本書紀』には、仁賢天皇の「5年、春2月5日、あまねく国郡にちりぢりに逃げ散った佐伯部を探し、佐伯部仲子(さへきべの なかちこ)の後裔を、佐伯造とした」とある。 安康天皇の治世3年10月、天皇が皇后(中蒂姫命;なかしひめのみこと)の連れ子・眉輪王(まよわのおお)により暗殺された際、仁賢天皇の父・市辺押磐皇子と、その舎人の佐伯部仲子は、近江国の蚊屋野で、雄略天皇のために殺され、2人は同じ穴に埋められた。 佐伯氏は、内国に移配された蝦夷を再結集し、佐伯部を管理する伴造となり、中央では佐伯連が宮廷警衛の任にあたり、地方では諸国の国造の一族である佐伯直(あたえ)がこれを管理した。佐伯連は、天武13(685)年に、大伴氏らと共に宿禰に改姓した) 後世、下道真備が唐に留学し、帰国してからは、聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て朝政に参画し、天平18(746)年10月には、吉備朝臣を賜姓される程、重用された。 |