毛野氏の覇権とヤマト政権
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 目次
 1)毛野氏の「天神山古墳」
 2)毛野君の始祖・豊城入彦命
 3)荒田別の朝鮮半島出兵
 4)神功皇后と朝鮮半島
 5)武内宿禰と神功皇后摂政
 6)上毛野君の祖、朝鮮半島での活躍
 7)ヤマト政権から牽制される毛野氏
 



 1)毛野氏の「天神山古墳」
  大化前代に大豪族と呼ばれるに値する豪族は、まずは群馬県・栃木県を中心とする「毛野氏(けぬ)」、次に岡山県を中心とした「吉備氏」、福岡県を中心にした「筑紫君」、熊本県の「火(肥)君」、島根県を中心にした「出雲氏(神門臣;かんどのおみ)」などであった。
  どの大豪族も「毛野」「吉備」「筑紫」「火」「出雲」など大国の地名を冠している。「毛野」は律令時代に「上毛野(かみつけぬ);上野」と「下毛野(しもつけぬ;下野)」に分国される以前の大国であった。
 「吉備」も「備前(吉備の前(くち)の国)」・「備中(吉備の中(なか)の国)」・「備後(吉備の後(しり)の国)」・「美作(岡山県東北部;内陸の山間地で、御坂・三坂に由来する)」に分国された。
 「筑紫」は「筑前(福岡県東部)」・「筑後(福岡県南部)」に分かれた。
 「火君」は、火を忌み肥に改め「肥前(佐賀県・長崎県)」・「肥後(熊本県)」と2国に分かれる以前の「火国」を豪族名に冠した。
 「神武記」の「大分君」、『日本霊異記』の「佐賀君」なども散見されるが、大分君は律令期の豊後国大分郡の国造層で、佐賀君も肥前国佐賀郡の国造層に過ぎない。

 「毛野」「吉備」「筑紫」「出雲」など大豪族が形成される共通の必要条件はいくつかある。
 東日本では最大の規模をほこる群馬県太田市内ケ島町の天神山古墳は、毛野氏の首長を被葬者とする。東武伊勢崎線太田駅東方約1kmの市街地に隣接する平地にある。墳長は210m、堀を含む全域は364m×288mにも及び、近畿地方を除くと全国でも3位の規模を誇る前方後円墳である。天神山古墳は、大阪府羽曳野市にある、応神天皇の陵に治定されている誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)の2分の1となる相似形である。
 鞍部には天満宮の祠が鎮座し、「天神山古墳」の名称は同神社に由来する。
 北東には天神山古墳に付属する陪塚も造られていた。江戸時代に、大型の長持形石棺が出土した。その組合式の長持形石棺には、畿内の大王墓や地方最有力首長層と共有している製作技法がある。
 埴輪は墳丘上のほか、中堤帯の一部にも円筒埴輪が立てられていた。出土した埴輪・土師器から、応神・仁徳紀にあたる5世紀前半から中期頃の築造と推定されている。
    大型の長持形石棺が使われたことや埴輪の特徴から、畿内大和政権と強いつながりを持っていた毛野国の大首長墓とみられている。



 2)毛野君の始祖・豊城入彦命
 『日本書紀』崇神天皇48年条に、「春正月10日に、天皇は皇子の豊城入彦命(とよきのいりひこのみこと)と活目尊(いくめのみこと;後の垂仁天皇)に、『汝ら2人の皇子に対する慈愛は同じである。いずれを嗣子にしてよいのか分からない。それぞれが夢を見よ。朕がその夢から占ってみよう』と申された。
 二人の皇子は、命(みことのり)を承り、川で身を清め湯で髪を洗い、それから祈りを捧げ休まれた。それぞれ夢を見た。曙に、兄豊城命は、夢の言葉を天皇に奏して『自から御諸山(三輪山)に登り、東へ向かって八度槍を突き出し、八度刀を空に振るいました』と申された。
 弟活目尊も夢の言葉を天皇に『自から御諸山の嶺に登り、縄を四方に張り、粟を食べる雀を追い払いました』と申された。
 天皇は夢の見合わせをすると、2人の皇子に『兄は一方向の東に向いている。東国を治めるべきだ。弟はあまねく四方に臨んだ。朕の位を継ぐべし』と仰せられた。
 4月19日、活目尊を立て皇太子とした。豊城命には、東国を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の始祖となった」。

 豊城入彦命は崇神天皇と遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ;紀伊国の荒河戸畔(あらかわとべ)の女)の間に生まれた皇子で、『日本書紀』によれば「上毛野君」、後に「上毛野朝臣」を称し、皇別氏族となる。
 『日本書紀』垂仁天皇5年10月条に、上毛野君の遠祖(とほつおや)となる八綱田(やつなだ)は、開化天皇の孫で垂仁天皇の皇后・狭穂姫命(さほひめのみこと)の兄にあたる狭穂彦王による反乱の際に将軍に任じられ、狭穂彦王の築いた稲城に火をかけて焼き払い、狭穂彦王を自殺に追い込んだ。この功により倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなた)の号が授けられたという。
 『日本書紀』には「上毛野君遠祖」とあるのみで、その系譜の記載がない。『新撰姓氏録』皇別 和泉国 登美首条等から、八綱田は豊城入彦命の子とある。
 景行天皇55年、「春2月5日、彦狭島王(ひこさしまのみこ)は、東山道15か国の都督(かみ)に任じられた。その人は豊城命の孫である。しかしながら、春日の穴咋邑(あなくひのむら)に至って、病に臥し薨じた。この時、東国の百姓(おほみたから)が、その王が来られなかったことを悲しみ、密かに王の尸(かばね)を盗み、上野国に葬った」。
 この彦狭島王が上毛野の祖である。奈良市横井1丁目にある穴栗神社(あなぐりじんじゃ)が、延喜式神名帳にある『大和国添上郡穴吹神社』とある式内社に比定されているため、春日の穴咋邑は奈良市横井古市あったとみられている。
 景行天皇56年、「秋8月、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔があり『汝の父彦狭島王は、任所に向かうことができず早く薨じた。代わって汝が東国を治めることに専念せよ』と仰せがあり、御諸別王は、天皇の命を承って父の事業を成就しようと、直ちに赴きこれを治め、早くも善政をしいた。
 時に、蝦夷の騷動があり、兵を挙げて撃った。時の蝦夷の首帥(ひとごのかみ;首長)、足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おほはふりべ)・遠津闇男辺(とほつくらおべ)らが、叩頭して来て、頓首して罪を受け、その地ことごとくを献上した。それで、従う者は許し服しなければ誅した。これにより東方は久しく無事に治まった。これにより、その子孫は、今も東国に在る」。
 4世紀前半、豊城入彦命の孫の彦狭島王は、東山道15か国の都督に任じられたが、赴任途上、現在の奈良市横井で病没した。代わりに東国に赴いたのが、その子の御諸別王であった。豊城命の後裔による最初の東国入りである。御諸別王こそが実質的な毛野氏族の祖といえる。しかも侵略者としての派遣軍であったようで、抵抗された在地の勢力を「蝦夷」と呼んでいる。このことからも東国にある王化に服しない勢力を、ヤマト朝廷以降、単純に「蝦夷」と民族的に差別をしていた。

 日本列島における旧石器時代から縄文時代・弥生時代と続く数十万年に及ぶ人々の交流は、北海道も含めて、黒曜石などの石材の交易などでも明らかなように、考古学的に極めて広域的でしかも緊密な交流があったことが知られている。当然、そうした「新人」以前に、日本列島にも、「旧人」が流入していたはずであれば、気の遠くなるほどの混血の歴史が存在していた。
 歴代、ヤマト王朝から平安王朝まで、単純に、東国の王化に服さない、しかも水田稲作を主たる経済基盤としない人々を、「蝦夷」と呼び、民族的違いを強調した。それは、地勢が異なることにより生じる民俗的・文化的な差異で、ましや、日本列島の先住民がアイヌであったというのは、「アイヌ」の人々をまさに差別することに繋がる。
 古代中華の四方に居住し、中華の朝廷に帰順しない周辺民族に対する蔑称として、夷狄の語が使われると、東夷・西戎・南蛮・北狄と雑な区分が行われた。中華における支配民族が、漢民族・漢人でない異民族であっても、この夷狄という蔑称が使われた。
 ヤマト王権も、漢文社会にあったためか、中華思想に倣い、未だ王化に服さない集団を、蝦夷・隼人と無定見に括った。

 注)北方ルート
 昭和57(1,982)年に苫小牧市の東部、静川で石油備蓄基地の建設中に発見された静川遺跡群は、B.C.2,000代の縄文中期末にまで遡る環壕集落であった。壕の深さは1~2m、幅2mのV字の空堀です。壕の長さは140mにわたり、南・北東の2か所に幅1m弱の「出入り口」を備えている。平面は瓢箪形で、内部の面積は約1,600㎡ある。
炉を持たない直径8mほどの2棟の大住居跡が環壕内にあり、隣接する丘陵には26軒の住居跡が確認され、そのうち15軒が同時代とみられ、少し離れた静川25遺跡では24軒の同時代の住居跡が見つかっている。縄文時代における一時代の住居址としては、極めて大規模である。墳墓、落とし穴、土器片囲炉等も発掘された。
 静川環濠遺跡から20kmほど離れたところにある千歳市の丸子山遺跡でも、同じく縄文中期末葉にまで遡る環壕集落があり、60×70mの「おむすび」形で、独立丘陵の北半分を仕切るように壕が巡らされていた。弥生時代の環濠集落と違い、壕内には同時代の住居址が発見されていない。しかも、この原始の時代に、人口密度が極端に希薄な北海道で、なぜ環壕集落までも造成したのか。侵入する動物対策であれば、簡単な囲い柵程度で足りているはずだ。
 環壕は弥生時代には多くみられるが、日本列島では北九州で縄文時代晩期(B.C.4世紀)に環濠集落が登場する。通常、縄文人のムラは環濠を造らない。高度な道具を持たない縄文人が、石や木の道具だけで環濠を造作するためには、長い歳月と多くの人手を要したはずだ。
 弥生時代の環濠のように集落を外敵から守る壕ではなく、神聖な祭祀的空間を聖域として取り囲む壕だとみられている。それにしても、当時の北海道の文明段階と希薄な人口密度を鑑みると、余りにも規模が大き過ぎる。

  ここに、粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ)の姿が見えてくる。現在の中国東北地方・ロシアの沿海地方に、古くから住んでいたとされるツングース系民族の存在である。中国東北地方に残る粛慎は、前漢代以降は同属の扶余に従属していたが、同化せず、しばしば反抗を繰り返している。
 その後は高句麗に一部は吸収されるが、後世、靺鞨(まつかつ)として『渤海』を建国する。別流は女真族として、現代の黒龍江省・吉林省・遼寧省で長く独自の文明を育んでいく。12世紀建国の『金』と『清』の王族も、女真族であった。満洲に居住していた靺鞨が、女真と称されたようだ。
 その一族が、日本の縄文時代に樺太の北部と東南部にも広がっていった。さらにこのツングース系民族が、既に縄文時代から、樺太から北海道に渡っていた。
 阿倍 比羅夫は斉明4(658)年から6年にかけて、越国守に任じられ、その国内の兵士を中心にして、服属した蝦夷も動員して日本海沿いに3度の遠征を行いる。その3回目の遠征で、渡嶋(わたりしま;北海道)の蝦夷に遭遇し、この遠征で唯一の武力衝突を粛慎とする。最後は、粛慎を服属させ、朝貢までさせたという。
 国境の無い時代、自らの一族の生存を維持するため、現代人には想像できないほどの民族の大移動が、世界的にそれも遥か遠方へ、大規模に行われ続けられていた。また漸く到達した新天地も理想郷ではなかった。常に現地民との軋轢が絶えなかった。その防衛手段が環壕集落であった。新天地であれば極めて警戒的であっただろう。
 南シベリア地方、現在のハカシア共和国のミヌシンスク盆地に、B.C.3,000年代後半からB.C.2,000年紀にかけて、アファナシェヴォ文化が繁栄していた。小型の銅製品文化を、既に有していた。その後もこの地に、いくつかの文化が誕生するが、紀B.C.700年- B.C.200年は、タガール文化期となる。
 当初は青銅器が主流であったが、初期鉄器時代でもあった。その同時期、中国長城北部・内蒙古自治区の南部のオルドス地方では、中国青銅器文化と融合して誕生したオルドス文化が発展していた。オルドス文化は、西方のタガール文化の影響をかなり受け入れていた。当然、鉄器文化も含まれている。
 オルドス地方は、黄河が北に大きく屈曲した地点にあたるオルドス高原に位置し、華北からモンゴル高原に通じる交通上の要衝で、遊牧の好適地でもあった。
 やがて、環壕集落の北方2ルートの足跡を辿り、朝鮮半島と日本に鉄器文化がもたらされた。
 A.D.6世紀から13世紀にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に、陸獣・海獣狩猟、漁労等の採集活動を生業とする民族集団が居住してきた。その北方の文化形態を、「オホーツク文化」と称している。
 オホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州の靺鞨文化(4~10世紀)と中国東北部の女真文化(10~12世紀)を混在して発展した。回転式銛頭に見られるような発達した漁具や、海獣を象ったり波形や魚・漁の光景を施文する独自の土器や骨角器、また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が高かった。
 回転式銛頭は動物の骨角で作られ、先端がロケットのような形状で尖り、その中央に溝を施し、それに紐をよじり巻き結び、裏側のくぼみに柄を差し込んで投擲した。この手銛は、一度、獲物の体内に打ち込まれると、銛の柄を引っ張ると前もってよじられた紐が回転して抜けなくなり、獲物を容易に引き寄せて捕獲できた。
 同時期の北海道における続縄文文化や本州の土師器(はじき)の影響を受けた擦文(さつもん)式土器を特徴とする擦文文化とは、異質の文化が、9世紀以降になると北海道北部で、その影響を強め始めた。長い冬季、大陸とは陸続きとなり、異文化を伴う異民族の流入も容易であった。
 擦文文化は東北地方の古墳文化の影響をうけて変容した文化でもある。北海道式古墳が、律令政府とかかわりのあった人々が被葬者とみられている東北地方の末期古墳と同形で、出土遺物も、土師器・直刀・蕨手刀・鉄斧・鉄鎌・?帯(かたい)金具・勾玉や和銅開珎など同種の遺物が多い。 そのオホーツク文化も、次第にその特徴を失い、後に刻目状の文様が付けられる擦文式土器も衰退し、煮炊き用にも鉄器が用いるアイヌ文化へと発展する。
 ただ、発見された遺跡の数が少ないせいもあって、擦文文化からアイヌ文化への移行については、はっきりした遺跡による根拠が明らかになっていない。それでも11世紀から13世紀に終末を迎えたようだ。

 紀元前950年頃朝鮮半島から北部九州に上陸した水田稲作は、まず前800年ごろ四国の西部と南部に伝わった。
 古代では、西からの文物は、波が荒い太平洋を使わず、日本海に沿って東へ運ばれた。
 昭和62年、弘前市の砂沢遺跡(すなざわ)で垂柳遺跡より古い弥生時代前期、およそ今から2,300年前の水田跡が6枚発見された。弥生時代の水田としては、東日本ではもっと古く、世界史的に見ても最も北に位置する水田跡といわれている。
 6枚の水田跡は、年代をはっきり特定でき、形もわかるものが2枚あり、垂柳遺跡のものよりずっと大型であった。
 岩木山から流れる冷たい水をいったん溜池にため、少し温めてから田んぼへ入れるという水路も同時に発掘された。
 稲作農耕文化を示す鉄器や青銅器の祭祀に使う道具などの遺物も見られ、その一方、この砂沢遺跡からは、狩猟や漁労に使う石器なども沢山発掘されており、水田稲作のみならず、狩猟・漁労・採集なども依然、重要な生業になっていた。
 この垂柳の弥生中期以降は、突然稲作の証拠がなくなり、水田も見つからなければ、籾殻の付着した土器も発見されなくなる。それは蝦夷征伐が終わる9世紀の初めにかけて迄続いたようだ。
 漸く冷涼な東北の地で、水田稲作は行われたものの、度々起こる自然災害や冷害など度重なる天候不良による不作により、大量の餓死者を出す歴史を繰り返してきた。米所としての東北が定着したのは、稲の品種改良が行われた明治以降になってからあった。

 景行天皇57年、「冬10月、諸国に令して田部と屯倉を興した」とある。
 『日本書紀』允恭天皇(いんぎょう)の条に「2(413)年春2月14日に、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)を立てて皇后とした。この日、皇后の為に刑部(おさかべ)を定めた」とある。
 刑部は各地に広く設置されている。山背・河内・摂津・美濃・尾張・遠江・駿河・武蔵・上総・下総・信濃・越前・丹波・但島・伯耆・出雲・備中・周防・讃岐・豊前・肥後など、残存している地名から推測される伊勢・参河・下野・因幡・備後など、社名から判明する播磨など、ほぼ晋く分布している。
 忍坂大中姫は、応神天皇の子である稚野毛二派(わかぬけふたまたの)皇子の王女であった。母は弟日売真若比売命(日本武尊の曾孫)である。その皇后の権威は高い。
 允恭天皇(雄朝津間和子宿袮王子;在位412年~453年)は、南朝の栄へ元嘉20(443)年、倭国王・済として使者を遣わして、奉献した。よって安東将軍・倭国王に任じられた。
 忍坂大中姫は、木梨軽皇子(允恭天皇の皇太子)・安康天皇・雄略天皇の母でもある。
 ヤマト王権にとって新開発地となる東国に、ヤカト王家の直轄領となる田部と屯倉が、5世紀前半の允恭紀、5世紀後半の安康・武略紀と、次第に拡大していった。



 3)荒田別の朝鮮半島出兵
 神功紀は350~390年頃とみられる。
 神功皇后49(369)年、「春3月、荒田別(あらたわけ)と鹿我別(かがわけ)を将軍とした。百済の調(みつき)の使い久(くてい)らと共に兵をととのえ海を渡り、卓淳国(とくじゅんのくに;加耶の小国;現在の昌原地方)に至り、まさに新羅を襲おうとした。その時にある人が『兵衆が少なければ、新羅を敗れない。それで更に、 沙白(さはく)と蓋盧(かふろ)を、兵力増強を要請するための使者として倭へ遣わし、軍士の増援を要請せよ』という。
 それにより木羅斤資(木刕斤資;もくらこんし)と沙々奴跪(ささなこ)に命じ(この2人の姓は分からないが、木羅斤資は百済の将軍である)、精兵を率いる沙白と蓋盧と共に派兵し、一緒に卓淳に集結し、新羅を撃破した。これにより比自( ひしほ;慶尚南道昌寧の古名 )・南加羅( ありひしのから;慶尚南道金海 )・国( とくのくに ;卓淳の南にあった押梁)・安羅( あら;慶尚南道咸安の古名)・多羅( たら ;慶尚南道陜川)・卓淳( とくじゅ; 慶尚南道大丘県)・加羅( から;慶尚北道の高霊加耶 )の7国を平定した。その後、兵を西に廻らせ移動し、古奚津(こけいのつ;済州島に渡る要津)に至った。南蛮の忱彌多礼(とむたれ;済州島)を葬り百済に賜った。
 そこに、百済王の肖古(近肖古王)と王子の貴須(くゐす)が、また軍を率いて来会した。時に比利(ひり)・辟中(へちゅう)・布彌支(ほむき)・半古(はんこ)の4つの邑(全羅北道~全羅南道の一部)が自然に降服した。これにより、百済王の父子及ぶ荒田別と木羅斤資らは、共に意流村(おるすき;今ではつるすきという)で会して、あいまみえ喜び合った。厚く礼をして送遣した(後略)」
 百済の起源が史料上、明らかになるのは、馬韓の地域を統一し、現在のソウルの漢江の南岸に漢城を築き独立国家となった、346年の近肖古王の時代である。漢城は、蔚礼(いれい)と呼ばれていたが、蔚礼は、意流・意呂に通じる。



 4)神功皇后と朝鮮半島
 金海の良洞里遺跡(りょうどうり)は、2~3世紀を中心とする墳墓群であるが、そこから出土する倭系遺物には、小型仿製鏡(ほうせいきょう)や中広形銅矛(どうほこ)など、弥生時代後期に北部九州で制作されたものが少なくない。
 同じ金海の大成洞古墳群や東(とんね)の福泉洞遺跡(ふくせんどう)など4世紀代の墳墓から出土した巴形銅器・碧玉製石製品・筒型銅器などの倭系遺物は、いずれも畿内のヤマトを中心に分布するものと同一系統であった。
 4世紀になると加耶の金海を中心にする地域との交流の主体が、ヤマトの勢力圏に代わったためとみられ、それは北九州の勢力を倭政権が権力的に支配統合したことが推測される。しかも朝鮮半島と日本列島との人的な交流は一段と濃密になる。古墳時代の列島で日常的に使われて土器といわれるのが土師器で、その系譜に連なる土器が、金海・釜山を中心に慶州(キヨンジユ)・馬山(マサン)などで出土している。
 3世紀頃朝鮮にあった弁韓12国の一つ狗邪韓国時代、倭との交渉は、北九州が窓口であったが、4世紀前半頃になると、倭政権との交流が深まり、その畿内から加耶へ輸出される威信財が増加する。加耶の首長墓に倭系譜の威信財が副葬されるようになった。
 土師器系土器は4世紀後半から5世紀前半の遺物として出土している。その土器形式は、畿内の布留式ないし、その系譜の布留系に限られ、しかも列島内における時代的な変遷を共有しつつも、その一方、朝鮮半島の軟式土器の器形や製作技術の影響もあり独自に発展進化させていた。

 木刕満致(もくらまんち)は木刕斤資の子で、斤資が応神25(414)年の条
 「百済の直支王(ときわう;腆支王;チョンジワン)が薨じ、子の久爾辛(くにしん)が立って王(久尓辛王;クイシンワン)となった。王が幼少であったため、木刕満致は国政を執った。王の母と密通し、無礼な行いが多かった。天皇はこれを聞きお召しになった。(百済記には「木刕満致は、木羅斤資が新羅を討った時、その国の婦人を娶って、その地で生まれた。その父の功で、専ら任那にいて、百済に来ては、倭を往還し制(のり;天子の命令)を天朝に承って、我国の政治を執った。権勢を恣にした。そのため天朝はその横暴を聞き呼び寄せた」とある)」

 久は、神功皇后摂政47(367)年日本に派遣されるが、新羅の朝貢の使者とかち合う。
 神功皇后49年、ヤマトの援軍と共に新羅を破り、加羅7国を平定し、南蛮の忱彌多礼(とむたれ;済州島)を葬り百済に賜った。
 50年「春2月、荒田別らが戻った。夏5月、千熊長彦・久?(くてい;百済の高官)らが、百済より帰ってきた。
 皇太后は、喜ばれて久に尋ね『海の西の諸韓(もろもろのからくに)を、既に汝の国に賜った。今度は何事で頻りに来復する』というと、久らは奏して『天朝の大きな恩恵は、遠く弊(いや)しい我が邑(くに)に及びました。わが王は欣喜雀躍する気持ちを抑えきれず、帰還する使に至誠を託したのです。万世に及ぶことはあっても、年ごとの朝貢を止めることはございません』と申した。
 皇太后は勅により『善き哉汝の言、これは朕の気持ちである』と多沙城(たさのさし;慶尚南道と全羅南道との道堺、蟾津江(ソムジンガン)の河口付近)を増賜し、往還の路の駅舎(うまや)とさせた」。

 これより前の神功47年夏4月、百済の初めて朝貢を新羅が遮るばかりか、その貢物を奪いヤマト王に献上したので、朝廷は千熊長彦を遣わし、新羅の非を責めた。
 『日本書紀』は、それを「時に、皇太后と譽田別尊(ほむたわけのみこと;後の応神天皇)は、新羅の使者を責めて、天神(あまつかみ)に祈り『誰を百済に遣わし、この 虚実を調べさせましょうか。同時に、誰を新羅に遣り、その罪を推問させましょうか』と申した。天神はそれに応え『武内宿禰に議(はかりごと)を行わしめよ。それにより千熊長彦を使者となせば、願いが適うだろう』と宣う。
 千熊長彦は、氏の名が分明でない人で、一説では『武蔵国の人で、今の額田部槻本首(ぬかたべのつきもとのおびと)らの始祖なり』という。百済記にある職麻那々加比跪(ちくまなながひこ)が、この人か。
 これにより千熊長彦を新羅に遣わし、百済の献上物を乱した事を責めた」。
 千熊長彦は52年七枝刀(ななつさやのたち)が献上された際にも登場している。「52年秋9月10日に、久?らは千熊長彦に従い来朝した。その時、七枝刀一口と七子鏡一面及び種々の重宝を献上した」とある。



 5)武内宿禰と神功皇后摂政
 武内宿禰は、紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖で、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代のヤマト大王に仕え、しかも対鮮外交上、重要な忠臣であった。
 神功皇后摂政元(321)年に、仲哀天皇の崩御後、皇子(のちの応神天皇)の誕生を聞いて、応神天皇とは異母兄にあたる?坂王(かごさかのみこ)と忍熊王(おしくまのみこ)が共謀して、自らを名実共に正当な皇位継承者たらんとして、筑紫から凱旋する皇后軍を撃滅する拠点にするため、播磨の赤石(あかし)に名目上の山陵を建てようとした。
 二人の皇子は将軍として東国の挙兵を誘う一方、菟餓野(とがの;大阪市北区兎我野町)で反乱の成否を占う祈狩(うけいがり)を行った。
 その際あろうことか、?坂王が猪に襲われて食い殺されてしまう。忍熊王は余りにも不吉として軍を退かさせ、摂津の住吉に駐屯した。そのため皇后は、武内宿禰に、皇子を抱いて迂回して南海に出て紀伊水門(みなと;海港)に泊まるよう命じた。

 決戦の時が来た。既に、大和国は、忍熊王の制圧下にあったため、武内宿禰は、和珥臣の祖の武振熊(たけふるくま)と共に数万の軍を率い、山背より菟道(うじ;宇治)に出て宇治川の北に駐屯した。
 『日本書紀』はこの後の状況を克明に記している。
 「3月5日、武内宿禰と和珥臣の祖の武振熊に命じ、数万の軍を率いて忍熊王を撃たせた。武内宿禰らは、精兵を選び、山背より進出し、菟道に入って河の北に駐屯した。
 忍熊王は陣営を出て戦おうとした。その時、熊之凝(くまのこり)という者が、忍熊王の軍の先鋒となった(熊之凝は、葛野城首(かづのきのおびと;葛野は地名、城が氏名)の祖である。一説には、多呉吉師(たごのきし)の遠祖とある)。

 熊之凝は自軍を鼓舞するため、歌を高唱した。
 遠くの疎林の松原までやって来て、槻弓(つきゆみ;欅で作った丸木の弓)に鏑矢(矢尻の丸い矢)をつがえて、高貴な人は高貴な人と、親友(いとこ;親族)は親友と、いざ闘おう。武内朝臣の腹のなかに小石が詰まっているはずがない。いざ闘おう、我が軍よ!
 (ヤマト勢力同士の戦いであれば、文字道理、「名族」・「親友」間の争となった。)

 その時、武内宿禰は、三軍(大軍)に命令して悉く髪を椎の形に結わせ、号令を発した。
 「各々、控えの弓弦を髪の中に隠し、木刀を佩け。」と事前に与えられていた皇后の命を宣い、忍熊王を欺き『我は天下を貪らず、唯、幼王を懐に入れて君王(忍熊王)に従うだけです。防戦などいたしません。共に弓弦を切り兵器を捨てるよう願います。
 そして、和睦してから直ちに、君王は天業(あまつひつぎ)に登られ、安んじて地位におさまり枕を高くし、万機を専断して下さい』という。
 その上で、明らかに軍中に命令し、悉く弓弦を切り木刀を解かせ、河に投じさせた。忍熊王はその虚言を真に受けて、もれなく軍兵に命じ兵器を解かせ河に投じさせ弓弦を切らせた。
 ここで武内宿禰は、三軍に命じ控えの弓弦を出して張らせ、真刀を佩かせ、河を渡り進撃した。忍熊王は欺かれたと知り、倉見別(くらみわけ;犬上氏の祖)と五十狭茅宿禰(いさちのすくね;朝鮮外交に活躍した難波吉師部の祖)に語り「吾は欺かれてしまった。今や控えの兵器も無い、もはや戦うことも適わない」と兵を率い次第に退いた。
 (注釈;周礼、夏官、序官に、上軍・中軍・下軍それぞれ1万2,500人、大国は三軍、合計3万7500人の軍隊とある。転じて、大軍をいう。
 原文にある椎結(かみあげ)とは、武人埴輪に数多く見られる髪型で、束ねた髪が耳を覆う形。)

 武内宿禰は、精兵を出撃させ追わせた。たまたま近江の逢坂(京都府・滋賀県境の逢坂山)で出逢い撃破した。故にそこを逢坂と名付けた。軍兵は遁走したが、狭々浪(ささなみ;近江国滋賀郡の総名)の栗林(くるす;大津市粟津の栗栖;大津市膳所)で追いつかれ多くが斬られた。そのため血が流れ栗林に溢れた。故にこの事を嫌い、いまでもその栗林の実は御所に進上させていない。忍熊王は、逃げ場を失った。(後略)」
 逢坂、狭狭浪の栗林と忍熊皇子軍は追い詰められ敗走し、皇子は、ついに進退窮まり瀬田の渡し場で入水した。



 6)上毛野君の祖、朝鮮半島での活躍
  応神天皇15(404)年8月条に、荒田別・巫別(かんなぎわけ:鹿我別と同一人物とされる)は上毛野氏の祖で、百済に派遣され、王仁を連れ帰った、とある。両者は、『日本書紀』に葛城襲津彦・千熊長彦などと共に日鮮関係によく登場する。
 『日本書紀』の本文には、明らかに用字・用語の点で潤色・改竄がなされているが、現代では、既に逸書となっている『百済記(くだらき)』『百済新撰(くだらしんせん)』『百済本紀(くだらほんき)』の3種から、殆どそのまま採録さていたようだ。ただ百済の国史編纂に関して『三国史記』には「古記に言う、百済開国以来、未だ文字の記事有らず、これまで(近肖古王代)、博士高興を得て始めて書記有り、然るに高興は未だ嘗て他書に顕れず、その出自を知らず」とある。ただ近年の発掘調査の結果により、『日本書紀』は、中国の歴代史書にならう信憑性が高い史料として、再認識されている。
 『新撰姓氏録』には、豊城入彦命4世の孫の荒田別命とある。

 『日本書紀』仁徳天皇53(425)年に
 「53年、新羅は朝貢をしない。夏5月、上毛野君の祖である竹葉瀬(たかはせ)を遣わし、その貢上をしない理由を問わせることにした。その途上、白鹿を獲らえたので、一旦、戻り天皇に献上した。
 それで日を改めて出発した。しばらくして竹葉瀬の弟田道(たぢ)を重ねて遣わした。その際の詔で『若し新羅が防げば、兵を挙げて攻撃せよ』と、精兵を授けられた。新羅は兵を起こして防いだ。新羅人は毎日戦いを挑んだ。田道は塞を固めて出撃しなかった。時に新羅の軍卒一人が営外に出て来たので、直ちに捕えて、消息を問うと、『百衝(ももつき)という強力者が、敏捷で勇猛である。いつも軍の右前鋒にあるため、様子を伺いつつ左を撃てば破れるだろう』という。時に新羅は左を空けて右に備えを固めた。それで田道は、精騎兵を連ねて左を攻撃した。新羅軍は潰走した。直ちに全軍を放ち、これに乗じて数百人を殺した。四つの邑の人民を捕虜として連れ帰った。
 (竹葉瀬は『新撰姓氏録』の上毛野朝臣などの条に「豊城入彦命5世の孫、多奇波世君の後なり」とある)
 55年、蝦夷が叛(そむ)いた。田道を遣わし撃たせたが、蝦夷に敗けて、伊峙水門(いしにみなと;上総国夷(いしみぐん)旧千葉県夷隅郡・勝浦市)で死んだ。その時の従者が、田道の手纏(たまき;手にまく玉)を取って、その妻に与えた。すると妻は手纏を抱いて縊死した。時の人は、これを聞きと涙を流した。この後、蝦夷はまた人民を襲い略奪した。
 ある日、田道の墓を掘ると、大蛇がいて、目を怒らして墓より出て、蝦夷を食らったため、忽ち蛇の毒により多くが死亡した。唯一人か二人が免れただけであった。時の人は『田道は既に亡くなったが、遂に、仇に報いた。死者が何も知らないなんてありえない事なのだ』」

 毛野氏の名の由来を暗示するように、その基盤は「禾(か・クヮ)」が豊かに稔る一大穀倉地帯にあった。鬼怒川は古くは毛野川と呼ばれ、古代から平野部は豊かな収穫物があり、侮りがたい経済力を有していた。
 禾穀(かこく)とは、稲・麦・稗(ひえ)・粟(あわ)などの穀物の総称である。元々は「禾」字はイネ科植物のアワを意味し、その穂が垂れる様子を象る。黄河文明の主食はアワであったが、長江文明の主食であるイネは殷周時代を通じて華北では作られなかった。現在、主食にしているコムギも後に伝来した。このため「禾」は穀物一般の総称としても用いられた。
 後代には主に、イネ・アワを意味し、「米」が実だけを指すのに対し、「禾」は茎や穂を含めた全体を指す。

 田道は房総の勝浦まで出征し、蝦夷と戦い、敗死している。朝鮮半島出兵のみならず、毛野は蝦夷と接する地域であったため、強力な軍事力を保持しなければならなかった。そのため毛野氏は、群馬県太田市郊外に、関東一の規模がある天神山古墳など多くの古墳を造営する大豪族になっていた。
 北関東も内陸部を治める毛野氏の最大の課題は、海のルートを開くことにあった。それが、多摩川を下って東京湾で出る唯一のルートであった。毛野氏は古くから海洋に進出していた。毛野氏の祖荒田別・竹葉瀬・田道などが、しばしば百済へ海外出兵できたのも、この多摩ルートを確保していたからである。それも武蔵国造の地位をめぐる内紛のため、朝廷に奪われた。



 7)ヤマト政権から牽制される毛野氏
 『日本書紀』では、安閑天皇(531~535年)の元年閏12月条に「武蔵国造の笠原直使主(かさはらのあたひおみ)と同族の小杵(をき)が、国造の地位を相争い幾年も経つが決着しなかった(使主・小杵は、皆名である)。
 小杵の気性は激しく逆らいやすく、高慢であった。密に上毛野君小熊(かみつけののきみをくま)に援けを求めて赴き、使主を謀殺しようとした。使主は、これを覚って遁走し、京に詣でて事態を言上した。
 朝廷は裁断し、使主を国造とし、小杵を誅殺した。
 国造の使主は、かしこみつつも歓喜し、その感謝の念を示して、謹んで天皇に横渟(よこぬ)・橘花(たちばな)・多氷(たひ)・倉樔(くらす)の四処を屯倉として奉置した。この年は、534年にあたる」。

  『日本書紀』安閑天皇2年5月の条には多数の屯倉設置の記事があることから、この時代、ヤマト王権が各地の豪族の政争に関与しながら各地に直轄領として屯倉を設けて、その経済的基盤を一層強化すると同時に、地方の大豪族の既得権益を削いでいった。
  朝廷が武蔵国造として推す笠原直使主に対抗して、上毛野君小熊が同族の笠原直小杵を担ぎ出して対抗したが敗れて、四処を屯倉として献上せざるをえなくなった、というのが実態であろう。 記事の4屯倉は、ヤマト王権の東国支配の拠点になったと考えられている。
 横渟屯倉は『和名類聚抄』にある武蔵国横見郡で、 現在の埼玉県比企郡吉見町や東京都村山市の一部に比定されている。
 橘花屯倉は、武蔵国橘樹郡(たちばなぐん:現在は神奈川県)の御宅郷や橘樹郷で、現在の神奈川県川崎市高津区子母口付近にあたる。
 多氷屯倉の「多氷」は多末(たま)の誤記とされ、武蔵国多磨郡、現在の東京都あきる野市。
 倉樔屯倉の「倉樔」を倉樹(くらき)の誤記、武蔵国久良岐郡(くらきぐん)、現在の神奈川県横浜市神奈川区、古くから陸上・海上交通の要衝であり、藤原京跡から出土した700年頃の木簡に、久良郡の文字があった。神奈川県の由来も、横浜を流れる「上無川(かながわ)」による。神奈河・神名川などとも書かれた。県名になったのは、横浜開港に伴い安政6(1859)年に「神奈川奉行所」を置いたことによる。
  これらの屯倉は、荒川と多摩川流域に位置している。特に橘花屯倉は、多摩川の河口を支配する場所である。朝廷はこれら流域を押さえ、毛野氏が海に出るルートを遮断し、朝廷の海上ルートとするため、あえて毛野氏に献上させた。

  多摩川が流れる武蔵国は、かつて上野国とともに東山道に属していた。当時の利根川は東京湾に乱入し、南武蔵への行路を妨げていた。ために武蔵国西部を南北に流れる多摩川を遡上し上野国に至るルートが開かれていた。それで武蔵の国府は多摩郡に置かれ、現在の東京都府中にある大国魂神社付近にあった。武蔵国が東山道から東海道に編入されたのは、奈良朝末期の宝亀2(771)年であった。

  三浦半島の東端、東京湾に面した切り立った山の斜面にある走水神社は、景行天皇80年(4世紀半ば)、日本武尊が東征の途上、ここから浦賀水道を渡る際、自分の冠を村人に与え、村人がこの冠を石櫃へ納め土中に埋めて社を建てたのが始まりと伝えられる。この地は東京湾を舟で横断する古代東海道の海上ルートで、日本武尊と弟橘媛の悲話がここに始まる。