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車沢汐、養川汐の原水の一つ |
車沢汐は塩沢村に向う |
塩沢村の養川汐から米沢村へ |
大泉山にも大河原汐があった |
義民 いまは神にして 冬の山にあり
ぼんおんと 鳴る鐘きいて 畑をしまいけり 栗林一石路(1894-1961;小県郡青木村)
坂本養川の汐(せぎ)とその時代
1)養川の請願内容
諏訪の新田開発の勢いは、江戸時代の初頭50年間までで、元禄(1688以降)のころには一時衰えた。南大塩郷も広大な地籍を有していたため、いくつかの新田を開発した。堀新田が最初で、延宝5(1677)年には、既に堀村、塩之目村、山寺村、日向村が南大塩村と肩を並べる存在となった。堀新田は糸萱と同年の開発で、寛永15(1638)年、南大塩村の長兵衛、三右衛門、甚右衛門、清左衛門の4人が草分けとなった。開墾の許可を与えた見立人は、中村を知行地とする三之丸家老の千野氏であった。そのため汐も中村と共同で引いている。
新田は順調に発展し、延宝元(1673)年には、村高は188石余となり、16人の百姓が1石ずつの屋敷免を得、本村扱いとなり宗門帳も南大塩村から別れ、また藩と直接交渉が可能となった。文化12(1815)年の宗門帳によれば、40戸193人となっている。
元禄以降、開発が沈滞するのは、当時、諏訪地方では水利の技法がなく、自然の河川の流れに即していくしかなかったので、開発適地に限界が生じた。水さえあれば、開田できる空閑地はまだまだあった。八ヶ岳山麓、柳川から立場川の広大な台地は、水利がなく草刈場として放置されていた。このとき新しい用水体系を工夫したのが天明年代の坂本養川であった。 養川は元文元(1736)年3月15日に、田沢村・現在の茅野市宮川で生まれ、16歳で家督を継ぎ23歳で名主になるが、28歳の頃から、尾張、美濃、近畿一帯を旅し、土地開発の実状を見聞し、その後江戸に出て31歳から7年ほどかけて関東7か国の詳細な水利開田の状況を視察調査した。しかし安永2(1773)年、病を発症して帰国した。病は1年で全快したが、母が老いたため他国へ出ず、宿願の水田開拓を諏訪の地と定め、入念な実地調査をし、測量と計測に没頭した。
僅か2年、それも独力で滝の湯川と渋川の余水を計測し、南の広大な原野開発の水利とする計画を完成させた。 養川は、まず蓼科山から流れる豊富な水量の利用を考えた。滝の湯川や渋川の余水と、その周辺各所の出水を繰越汐(くりこしせぎ)の方法で、農業用水として八ヶ岳山麓に流す方法であった。自然の川が、谷に沿って流れ下るのに対して、汐は等高線に沿うかのように、一部では谷を超えて、山肌を横に流していく、滝之湯堰や大河原堰等、新しい用水路の開削によって農業用水を作り、水稲の収穫高を飛躍的に増大させる計画であった。結果4,000石の米作が可能となり、その上、諏訪湖の湖尻を更に掘り下げて4,000石を開拓、計8,000石の増収となるとみた。
この計画を安永4(1775)年12月、家老・(二之丸家)諏訪大助に願い出た。養川は40歳になっていた。 願書には、「原山筋で約2千石」「深山付きの鹿垣の上下通りで約千石」「柳川より北山浦の所々の村々で約千石」、以上計約4千石の水田開発のため、北から滝の湯川、小斉川、渋川の余水と山間の湧き水と周辺の小河川の豊富な雪解け水を、繰越汐を築き送れば、豊富な水田用水が充分確保されると記している。事実八ヶ岳の山稜と車山を主峰とする霧ヶ峰山脈の水量は、年間を通して枯渇した事はない。
養川の一大水利事業計画は、高島藩の「お家騒動」二之丸騒動の最中でもあり、その当時の家老に人材を得ず、一方、藩主・6代忠厚は病弱で帰国することが少なく藩政をかえりみない最悪の状態の中で許可が得られなかった。養川は山浦地方の模型を作って、柳口の役所に説明に出向いたり、郡奉行・両角外太夫の実地見分を実現したりしたが、計画の採用に至らなかった。逆に湯川や芹ヶ沢の水元の村々で、自分の水利が侵されると、養川の暗殺計画を図る者まで出現した。
安永6(1777)年、7年と引き続き、養川は願書を提出しているが、その都度却下されている。安永6年は信州に百姓騒動が起きている。江戸時代、信州の百姓一揆・騒動は200件ほどあり全国一の発生件数で、中でも宝暦11(1761)年上田藩の宝暦騒動は1万5千人が城下に強訴し、特権商人や庄屋などを打ちこわしたという。現在でも、青木村に対して、近くの平野部の人びとの間には、 「夕立と騒動は青木から」と語り継がれているほどである。
安永8(1779)年6月5日、二之丸家・諏訪大助は失脚し、三之丸家・千野兵庫が実権を握った。大助は「御叱り」を受けた。「御叱り」は「刑の申し渡し」である。内容は「自己の取り計りを専らにし、遊興に耽り賄賂等の風説もあり甚だよろしからざる趣、不届至極、家老職を免じ閉居を命ずる」とある。賄賂の件は「風説」というだけで、大助の一類も「御叱り」を受けるが、この時は、閉居だけの軽い刑であった。
これで期高島藩の内紛も一時、小康を得て、養川は又も願書を提出する。
それは5月1日付け「原山一統の開発并水回しの願帳」といい、願意のみならず、これまでの経過、各村の増加石高の見積もりも詳述している。
一)笹原、小野子新田の用水は、芹ヶ沢村に汐を渡せば水量が豊富になる。
笹原、小野子両新田畑直して、開発300石程
二)滝の湯川、小斉川の水をとこなめ沢に落し、渋川へ樋を掛けて中村汐に入れる。それを広め大日影まで引き渡すと用水が沢山でき、増加石高は次のようになる。
糸萱新田 畑直して50石程、古い田へも増水
芹ヶ沢村 畑直して200石程
金山新田 畑直して20~30石程
中村 畑直して200石程
上記の村々には、花巻の平という、よい開発場所がある。そこへも水を沢山送れば
菅沢村 畑直して100石
新井新田 畑直して20石~30石
南大塩村 畑直して200石
上場沢新田 畑直して100石
塩之目村 畑直して150石程
日向新田 畑直して20石~30石程
上古田村 畑直して100石程
堀新田 畑直して50石程
山寺新田 畑直して20石~30石程
大日影新田 畑直して100石程
下古田村 畑直して60石程
以上15ヵ村のみならず、周辺の村々まで、以後倍々と水が増えるし、この汐の引き渡しに難渋を申す者はいません。
この17ヵ村の畑から田へ改変する情理を尽くした願書であったが、藩からは何の沙汰もなかった。安永9年、5度目の出願がなされている。
2)天明の飢饉下、養川汐着工
蕃の騒動は、高島藩主忠厚の妹婿の奏者番松平乗寛(のりひろ;三河西尾6万石城主、後に老中)の尽力で、幕府の介入一歩手前で解決された。安永10(1781)年10月、二之丸家諏訪大助は解職され罪人として処分された。江戸の罪人16人は柳口牢に送られてきた。10月26日、忠厚から千野兵庫の忠勤を賞する直書が与えられ家老職に復した。閉門中の三之丸邸もやっと門が開かれた。兵庫は翌年まで江戸に留まり事後処理に当たっていた。
天明3(1783)年、二之丸家断絶と蕃主・忠厚の隠居で結末をみる。養川は9月に、6度目の出願をしている。この年の飢饉は卯年(うどし)の飢饉といわれ、3月12日には岩木山が、7月5日の夜亥刻(いのこく;午後10時)には信州浅間山が大噴火し、各地に火山灰を降らせた。浅間山の噴火は5月9日に始まっていた。激しい爆発が7月5日に起こり、その後噴火が続いて灰が降り続いた。噴火は次第に激しさをまし、7月29・30日より後は軽井沢から東の空が真っ暗になったという。
天明の大飢饉は浅間山の噴火で始まった。大地は鳴動し、火口は赫々と赤く燃えたぎり、溢れるマントルの溶岩流は、樹木や岩石そして逃げ惑う人々までも呑み込んだ。漸く吾妻川など豊富な周辺河川に逃れても、その溶岩流は水・泥・火石を押出し、河川までも煮えたぎらせ時速10kmの濁流と化し、千曲川や利根川水系域の2万人を越える人命を簡単に奪い去った。
水泥の押出しは浅間山中腹にあった柳井沼から出たものとされている。沼の水は頻繁に発生した火砕流によって熱湯に変わり、大量の熔岩の雪崩が起こり、その熱湯化した泥水が押出され、沢沿いを流れ吾妻川へ流下した。
『浅間焼出大変記』は「山の根頻りにひつしほひつしほと鳴り、わちわちと言より、黒煙一さんに鎌原の方へおし、谷々川々皆々黒煙り一面立よふすと泥に混じった火石から煙が出て様子がわかる」と記している。泥に混じった火石は高温であり不気味な音を立て水蒸気を噴き上げていた。
群馬県吾妻郡嬬恋村の鎌原は浅間山を直接見る位置に無い。村人は異様な音に気がついたが、まさか火山砕屑(さいせつ)物が流れてくるとは思わなかった。最初は低地の小熊沢に流れた泥水に驚いた。さらに押出してきた泥・火石の流下は、津波と同じくらいの速度であった。観音堂へ登れば助かったが、村人の多くは下に向かって走った。泥の流れの方が速く皆埋まってしまった。火口から噴出する火山灰や火山礫は、山野を覆い、河川・田畑を埋め尽くし、大多数の貧家を押し潰した。翌々日から、天空に留まる火山灰は泥の雨と化し、関東平野の広大な緑野を黒褐色に染めた。
幕府勘定吟味役だった根岸九郎左衛門鎮衛、後の町奉行が記す『浅間山焼に付見分覚書』を集計すると1,124人となる。大笹村名主だった黒岩長左衛門の『浅間山焼荒一件』によると、翌天明4年7月、善光寺から受け取った経木を吾妻川の各村に死者の数ずつ配ったという。それを集計すると、1,490人になる。根岸の集計とおおむね一致するが、根岸の集計が及ばない村が、合計数を増やしている。黒岩の集計を信用して、これに軽井沢宿の死者2人を足して、吾妻川流域各村、合計1492人を天明3年噴火の犠牲者数とみる。
根岸鎮衛は、天明3年、浅間山噴火後の浅間山復興工事の巡検役に任命され、その功績により翌4年に佐渡奉行に昇格し、50俵が加増され、老年ながら寛政10年(1,798)に62歳で江戸南町奉行に栄進し18年の長期にわたって在職した。
浅間山の大噴火は、7月の収穫を期待するばかりの田畑に、灼熱の火山灰・火山礫・火石が降下させ、緑色を深め一段の生育が期待される作物を焼き尽くし灰に変えた。浅間山の降灰はさらに広く、周囲10ヵ国に及び、関東・甲信越一帯の農作物は黄褐色となり、光合成が不能となった。30数里離れた江戸でも、厚さ1寸(約3㎝)の降灰があり、さらに2・3十里も離れた仙台でも灰塵が及んでいた。
浅間山の大噴火と寒冷化、しかも晴天率の極端な低下などにより、天明3年~5年にかけて旱魃と冷害が重なり、連年の飢饉となった。その未曾有の大飢饉は、奥州・羽州の全域で、餓死者13万人を出していた。
浅間山の大噴火により、被害を拡大し長期化したのが、天明7年までに及ぶエルニーニョ現象であった。
その間、徳川家治が天明6年に脚気による心不全で逝去すると、反田沼派の勢力が結集し、漸く田沼意次が失脚した。江戸では米百俵の値段は平年178両であったが、天明7(1,787)年では213両となった。火山活動と天候不順などが原因で飢饉が起こることは防ぎようがない。それにしても幕府や各藩は自領のことのみを考え、余剰米がある藩に対し、飢饉に苦しむ地域へ米を融通する手立てを講じる事も無く、商人達は米を買い込み高値で売ろうとする囲い米を行ったことで米の流通が逆にとどこった。
天明の大飢饉には予兆があった。前年の暮れは、冬になっても雪が降らなかった。年が明けても、生暖かい南風が吹き、東北の豪雪地方ですら雪が降らず、雨すら殆ど降らない、農村の古老たちは、28年前の宝暦大飢饉の再来と脅えた。その危惧が現実となった。3月、4月になると冷雨が続き、雨の降らぬ日は7日だけ、それも薄日が射す程度であった。5月.6月も同じで、雨の降らぬ日はそれぞれ4日~6日という有様だった。雨が少し降った皐月の中旬、田植えの時季になって寒気が襲った。
立夏になっても寒気が去らず、老人たちは綿入れを羽織、囲炉裏から離れられなくなった。盛夏に山風が吹き、未だ青々とした稲田に、季節外れの霜が雪のように覆った。当時、寒冷地では宿命ともいえる、稲が青立ちのまま収穫の秋となった。稲田は稲穂を付けず青々とし、やがて生育の悪いススキのように、淡黄色から赤褐色となり立ち枯れた。
水戸藩では「春頃には麦の作柄が例年になく良いと予想され、農民たちは喜んでいたが、雨続きのため麦の刈り取り期にはまったく結実がなかった」。「稲、大豆、ヒエなどは作柄が良いと見込まれ、経験豊かな老農たちも秋の豊作は間違いないと予測した。しかし異常な天候不順で、七月下旬になっても穂は出ず、わずかに出た穂には実が入っていなかった」。「8月13日夜の厳しい寒気で霜が降り、大豆・粟・ヒエ・蕎麦等は全て穂なしとなり、前例のない大凶作となった」。
年貢の徴収は定免法が多い。起源は平安時代に既にあった。鎌倉時代・室町時代・豊臣時代を通して用いられていた。広く普及したのは江戸時代である。徳川吉宗が享保の改革で取り入れた税法で全国の幕府領で実施されたのが契機となった。それに対して検見法は、年毎の作柄を見分し、坪刈(つぼがり)を実施し、年貢高を決定する方法であった。豊凶作に応じて税率を定めた。
定免法では過去数年間の収穫高を基準として税率を定める。実施当初は、思惑通り年貢増徴に大きな役割を果たした。しかしこの徴租法は、年毎の農地の生産力の増大を勘案していなかった。やがて農民の手元に余剰を残し、貯蓄の運用能力によって、農民にも貧富の差が生じ、それまでの自給自足から、銭を蓄積することによって市場で消費するようになり、新たな需要が誕生し城下町を都市化し発展させた。その商業経済の進捗は、消費市場の実需に応えようと意欲する農村部を育て、新たな産品を誕生させた。
その定免法があだとなった。天明の大飢饉でも、一定の年貢を納めなくてはならない。それを負担する生産力がなくなれば、生死を分かつ苛酷な税制となる。
飢饉が予測された津軽藩では、藩主・津軽信寧(のぶやす)は参勤交代で江戸にあり、側用人の大谷津七郎が、藩政を掌握、さまざまな飢饉対策を行っていた。江戸期は地球レベルで寒冷化にあり、特に寒冷地で藩の実収入が不足がちな東北諸藩の財政は苦しい。津軽藩も貧窮し、大阪商人に藩運用金として借入金が嵩み返せず、京坂の商人に代理返済を願い急場を凌いだせいもあり、この年にはどうしてもコメを京阪へ送らねばならなかった。そのため『お救(たす)け小屋』の準備をしながら、前年農民から藩に上納された米「四拾万俵」を大阪と江戸に送り換金しようとした。飢えの恐怖におののいている領民の見守るなか、40万俵のコメを積んだ船が通り過ぎていったという。このため領内の食料は尽き、農民たちの飢えの恐怖が現実となる。
文政2(1819)年、工藤源左衛門行一が編纂した弘前津軽藩の記録『工藤家記』には、「既に飢餓に苦しむ陸奥国津軽郡では、収穫期なっても青立ちのまま稲穂は実らなかった。やがて元々稲作最北端で収穫力が脆弱であった弘前藩の領民は窮民となり、追い詰められ打ち毀しが散発していた。7月20日、弘前藩領青森湊(みなと)で、年貢米の船出しが知られ、農民から搾りとった年貢米を救米とせず、江戸や大坂へ積み出すことに、領内で飢餓状態にある領民の怒りが頂点に達し、積荷を扱う米屋に殺到し打ち毀しとなった。」と記されている。当時地方の農民は、米を作っても米を食べられなかった。各地藩領の下級武士も同様で、稗・麦や粟などを主食にしていた。7月22日、津軽郡鰺ヶ沢で、27日、木造新田(青森県西津軽郡)などの農民たちが弘前城下に押寄せ、年貢米減免の強訴、30日、深浦町でも打ち毀しあった。天明の大飢饉は、浅間山の大噴火前から始まっていた。
津軽藩の記録では、天明3年9月から、翌天明4年の6月までの餓死者が、81,072に達したと克明に記している。秣すら与えられず餓死した農耕馬は17,211頭と正確に調べられている。農民が餓死し、或いは食料を求め流民化したため放置された水田が13,997町、荒蕪化した畑は6,931間を超えていた。津軽領内の田畑のおよそ3分の2が荒野と化した。
その一方、米商人は、新米の凶作を米相場の好機として、備蓄していた古米までも売り惜しみ、米価の高騰を煽った。それが飢えに窮した人々の怒りをかい、米商人の店や米蔵の打ち毀しとなり、8月27日、白河藩領須賀川の河川敷に2千を超える人々が集まり気勢を上げる事態となった。
江戸期の盛岡藩(南部藩)の財政は、元禄・宝暦・天明・天保の四大飢饉など度重なる凶作、金山資源が枯渇し銅山への転換による大幅な収入減、大井川改修や日光山本坊改修など幕府からの度重なる御手伝普請(おてつだいぶしん)、蝦夷地警護のための負担などが嵩み、内高を幕末に表高20万石に高直しされたが、それが却ってあだとなり、格式と軍役の負担増によって消尽され、商人や農民への苛政につながった。藩政期を通じて約140件という、全国一の『一揆多発藩』といわれた。
『飢餓録』によれば、不作となった年を想定し、救貧や救荒の備蔵(そなえぐち)・郷蔵(さとぐら)などにより各集落や村単位で飢饉の備えとして作物が蓄えられていた。さらに、『救荒略(きゅうこうらく)』、『民間備荒録(みんかんびこうろく)』などでは、ノビル・ナズナ・オオバコなど山野草の食べ方や保存の仕方などを細かく解説し、飢饉対策用のマニュアルも作成されていた。それでも9月19日、『飢餓録』によれば、伊達家仙台領で、払米の不正に怒った群衆が、米商人の店舗などを打ち毀している。
秋田・仙北地方を領有する秋田藩(久保田藩)は、関ヶ原の合戦後の慶長7(1,602)年に、秋田氏を始めとして多くが常陸国へ転封となり、代わって佐竹氏が入封した経緯がある。佐竹氏は常陸一国を領有し54万石の大身大名であったが、一貫して反徳川であったため、20万5,800石に減転封された。米と銀や銅の産出が藩財政を支えたが、過重な貢租のためか、領内9ヵ所へ家臣団を配備していた。その地方家臣への給分が収入の7割を占めるなど、藩は常に財政難にあえいでいた。『町触控(秋田藩町触集)』によれば、8月29日、増え続ける流民の流入を禁止している。
酒井家出羽庄内藩の酒田の本間家は、全盛期には3,000町歩の田地を持っていた。戦後の農地解放により没落地主となった。
三代四郎三郎光丘は本間家中興の祖と言われ、天明の大飢饉の際は、光丘備蓄米として2万4千俵を放出し庄内では一人の餓死者を出さなかったという。
会津藩初代藩主保科正之から7代藩主松平容衆(かたひろ)までの歴代正史『会津藩家世実紀(あいづはんかせいじっき)』には、8月26日、陸奥国白河郡白河領の白河町で打ち毀しがあったと記す。
『浅間山大焼一件』によれば、浅間山の大噴火で被災した農民たちの暴動は日毎拡散し、9月29日には、3千の群衆が上野国碓氷郡磯部町内の米屋悉く焼尽させた。碓氷郡の諸村は、養蚕畑作地帯で、信州の佐久地方から米を移入していた。この年の浅間山大噴火で作物が全滅し、佐久米の移入もとだえ、深刻な食糧不足に見舞われた。
大正8年に編纂された『南佐久郡志』の『天明騒動』によると「此の騒動は同年十月六日まで続きしか、信州に進入せしは十月二日にして、渠等(首謀者)は此の日未明横河の関所を破り、勢いに乗じて碓井(峠)の峻嶺を越え、総勢二百七十人軽井沢に乱入し、口々に叫びて曰く「米があったら炊き出しをしろ」「若い者は一揆の仲間になれ」「言う事を聞かないと焼き払うぞ」と、斯くして騒動は南北佐久および小県に波及せり。」と暴徒による騒動は上野と信濃をまきこみ大規模な打ち毀しを多発させている。
徳川家の公式記録を収めた『江戸炎上鑑』には、12月20日、浅草鳥越町から出火、その炎は浅草寺周辺の下町を焼き尽くし、さらに偏西風が吹き火勢は増し、大川を越え本所・深川近辺の旗本屋敷が軒を連ねる武家町や色街を焼き払った。
松平定信は天明7年、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを機に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
東北地方は、明和の1,770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減し、既に農村部を中心に困窮していた。被害は東北地方の農村を中心に、全国では、推定約2万人が餓死したと杉田玄白の著書『後見草』が伝えている。その推定も極めて過小な値であった。
「然ありしにより元より貧き者共は生産の手だてなく、父子兄弟を見棄て我一にと他領に出さまよひ、なげき食を乞ふ。されど行く先々も同じ飢饉の折からなれば…日々に千人二千人流民共は餓死せし由、又出で行く事のかなはずして残り留る者共は、食ふべきものの限りは食ひたれど後には尽果て、先に死したる屍を切取ては食ひし由、或は小児の首を切、頭面の皮を剥去りて焼火の中にて焙り焼、頭蓋のわれめに箆さし入、脳味噌を引出し、草木の根葉をまぜたきて食ひし人も有しと也。」
高山彦九郎の日記には
「野草の類も食いつくすと、人々はイノシシ・シカ・イヌ・ネコ・ウシ・ウマも食いあさり、それらも絶えて人の肉を食うようになった。親が死ぬと子はそれを食い、子が死ねば親が食う。さらに山中や野外に捨てられた人の死骸も、彼らの食欲の対象になった。その頃、人の肉を食った村人に聞くと、馬の肉の味はサルやシカのそれよりまさり、さらに人肉のそれは、ウマの肉より優れている、と語ったという」とあり、しかも「村内で人肉を食ったものは、それがたたったらしく十人中七人は死んだ」と記されている。
諸藩は失政による改易等の咎を恐れ、被害の深刻さを表沙汰にしていない。そのため実状は不明である。
津軽藩の例を取れば8万人とも13万人とも伝えられ、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。飢餓と共に疫病も流行し、最終的な死者数は全国的で30万人とも50万人とも推定されている。
浅間山に先立ちアイスランドのラカギガルム火山が大噴火、同地のグリームスヴォトン火山もまた同年から1785年にかけて大爆発した。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、おびただしい量の有毒な火山ガスを放出する。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に冷害をもたらし、テムズ川もセーヌ川も凍りついたと伝わっている。それがフランス革命の遠因となった。
天明の飢饉は、全国的規模というより地球規模の飢饉であったが、諏訪郡内の村々の史料には、その深刻さを伝えていない。地球規模での日射量低下による冷害は、高島領内でも、寒冷地であれば、農作物に壊滅的な被害を与えていたろう。高島蕃は多年に亘る財政難の上に、この災害の失費と天明3・4年の大凶作で、流石の頑迷固陋な家老、三之丸家千野兵庫も養川の計画に期待せざるを得なかった。
天明5(1785)年にようやく採用された。2月、関係諸村の協力を得て養川の案内で大見分が行われた。3月、新堰仕立の十数人で、滝の湯川から大日影まで、堰筋新開の定杭打ちと田畑竿切りの測量を行い、15日は終了している。
仕様書帳と工事請負入札の御触れが回った。
その回状に添付された仕様書には
①用材の寸法と数量が規定され、材木の切り出し地は、湯川山猿小屋御林とした。
②敷(汐提の底)3間に石垣を積み、その間に芝等を踏み込んで漏水を防いだ
。
③汐口から236間は汐幅6尺、深さ3尺、汐台は馬踏6尺とし、敷はそれに応じた幅とした。
④樋の寸法、貫(ぬき;水平方向に固定する)の間隔、本数、各用材の寸法、杭の根入の深さ、地固めの方法や工法等、箇所ごとに規定されていた。
⑤山側にある土を欠きとって汐台を作り、そこにあった藪、芝を汐台の土手に植える。岩が阻めば石屋に割らせ、汐底に深い箇所があってはならない。
7月18日普請の開始、寛政12(1,800)年までに約350町歩の開田を成し遂げた。
3)養川汐竣工
養川の工夫は単純な用水路の開削だけでなく、渋川の流れに魚住まず、その水は稲作に適さない、それで幾度かの繰越汐をへて他の水と混ぜることにより水質の改良を行っている。
養川汐を3区間に割り、計100両の申し渡しがあり、入札がおこなわれた。
滝の湯川から渋川までが30両、八ツ手の中右衛門と中沢の覚右衛門が請負う。
渋川から小野子原までは40両、柳沢の幸左衛門と北大塩の仙左衛門が請負う。
小野子原から大日影終点までは30両、養川と弟の平左衛門が請負う。
それぞれが請負証文をだした。工事は7月3日が御普請始めとされ、以後昼夜兼行の突貫工事であった。一部に既存の汐、佐五右衛門汐や横谷汐等の既存設備も取り込んでいたが、2ヵ月半後の10月3日には、崖の中腹や岩を穿(うが)った隧道を流れ下る全長13.5kmの『滝之湯汐』が完成した。
10月17日、大検分役の山中志津摩、両角外太夫、松井小左衛門、岡村覚右衛門等が検見し、鷹狩りを兼ねて、家老千野兵庫以下重臣達が臨検し新汐は完成した。
養川は享和元(1801)年、小鷹匠として藩士となり16俵2人扶持と抜高(免祖地)15石を与えられる。大正4年11月の御大典に、従5位を追贈され、歴代高島蕃・藩主と同位となる。養川の汐は山浦地方に膨大な水田を生み、その生産の恩恵は後世に及ぶが、元々あった旱魃時の水争いはより頻繁になり、農民同士の血の抗争は、より激しくより拡大した。これは、諏訪湖の開拓に通じるものがあり、ただ時代の限界としか言うようがない。ただ頼水・養川の功績は大きい。
山浦一帯に新田が拓け、藩も村も潤った。「天明記珍説」には「北山浦南山浦筋新田おびただしく出来候へば、御上御益は勿論なれども、百姓方所務(得分)米多分にして御国一統豊に罷成り万民よろこびあへり」とある。
4)大河原汐
茅野市の横谷(よこや)峡にある『乙女の滝』は、新緑や紅葉の季節、さらには厳寒の冬に見られる氷瀑を目当てに、四季を通じ観光客が途絶えることはない。実はこの滝が約350町歩もの水田に水を送る『大河原汐』の一部であった。
江戸時代、八ヶ岳西麓の茅野市、原村、富士見町周辺は、高島藩のもとで新田開発が進められたが、もともと水量の豊かな中小河川が多く、谷が深いため鉄砲水のように諏訪湖へ流れくだり、旱魃時になると十分な用水が得られず、行き詰まっていた。
養川は、この地の用水体系を再編成し、天明5(1785)年から寛政12(1800)年にかけて多くの汐を拓いた。その代表的なものが『大河原汐』と『滝之湯汐』である。
水量が豊富な滝の湯川から取水された水は、崖の中腹や岩を穿った隧道を抜け、あるところでは滝に姿を変え、延々10数kmの行程を経て南の農地へ達する。現在の八ヶ岳の裾野に広がる原村の田園風景は、この「養川汐」によって作り上げられたといっても過言ではない。
『大河原汐』は、『滝之湯汐』の後に、養川の計画設計で築造された。滝の湯川の支流小斉川よりさらに上流・大河原川から揚げられたこの汐は、寛政4(1792)年に完成した。長さは『滝之湯汐』よりも長いく、汐筋は、滝之湯川上流、大河原川から揚げられた汐であるが、その記録は少ない。
汐筋は、滝之湯川上流の大河原川との合流地点から横谷まで引き、乙女滝で渋川に落下させ、横谷汐を通して笹原まで流し、ここから新規の汐を築き、滝之湯堰に平行して約2km東方の柳川上流で合流させた。大泉山の東南、下槻之木で、柳川から再度水揚げして、中沢、田道、山田、神之原、荒神、穴山、菊沢、子之神、粟沢へと展開し、そして宮川に至る17ヵ村の田用汐となっている。
5)天保の大飢饉と養川の汐の効用
天保4~8(1833~37)年に起こった大飢饉は、享保、天明の飢饉と並ぶ江戸時代3大飢饉の一つで、中でも天保の大飢饉は、天明の飢饉 (1783~1787) を上回る規模であった。 天保年間(1830~44)の3年、4年、5年、6年、7年と5年連続の大凶作である。 天保4(1833)年春から夏にかけ、西国を除く各地が冷害にみまわれた。特に東北・北関東地方で極端な凶作となり大飢饉となった。
秋田藩の人口、およそ40万人うち死者が、10万人出たといわれている。
この年は異常な冷夏で、田植え後の草取り作業は、通年、炎天下の辛い作業となるのだが、寒さのため綿入れを着て作業を行い、その合間、藁を燃やして暖をとらないと手がかじかんで仕事にならなかったという。南部でも冷気が強く、稲の開花期には暴風と長雨が続き、例年より積雪が早く訪れたという。この年の農民は、前年度からの凶作もあって、その約半数が5月になると自家飯米に事欠き、秋の収穫は良くて半作、稔実(ねんじつ)障害による青立ちで、皆無の農家も多かった。
翌5年になると、飢えた農民は食料を求めて浮浪し、城下町へ集まった。「秋田飢饉誌」は、城下の様子を次のように記している。
「通町橋から6丁目橋の下まで、橋の下は集まった浮浪者で一杯となった。死人を莚(むしろ)に包んで背負いながら歩く者、橋の下で子を産む母親、親子兄弟に死に別れ、悲しんでいる者、途中で子供を捨ててたどり着いた親など様々であった。通町橋など午前10時ころになると、200人以上もの浮浪者が橋の両側に立ち並んで物乞いをし、通行もままならないほどであり、夜などは物騒で外出できない状態であった」
米価は高騰し、村の貧農や、城下町民の生活を圧迫した。幕府や諸藩は御救い小屋を設けたりして救済に努めたが、それでも膨大な餓死者や病人を出した。また商人らの米価つり上げに反発して、一揆や打毀(うちこわし)が各地で頻発した。そのため、諸藩では米穀の領外搬出を禁止したりして飯米確保に努め、秋田・南部藩等は、加賀・越後等から米を買い入れて一揆の再発防止に努めた。
天保5(1834)年と翌6年の夏は、比較的天候に恵まれたが、前年の飢饉により餓死者と病人の続発で労働力が減少したため、生産が復旧しないまま、天保7(1836)年、再び冷害にみまわれ大凶作となり、またも米価が暴騰した。更に商品市場での食糧品以外の購買力が減退したため、特産品産地では、米価暴騰と販売不振という二重苦となり、人々をより困窮させた。このため、各地の都市と農村で打毀が続発した。
特に甲斐(甲州一揆)や三河(加茂一揆)では大騒動に発展した。 甲斐30万石は山地が86%の天領で、郡内地方の農民は、郡内絹の賃織り、養蚕、馬借、棒手振り(ぼてふり;行商)、日雇い、山稼ぎ等で生計をたてていた。天保年代の初めから続いた天候不順による凶作は、米穀類の暴騰と不況による低賃金を呼び、一方、重税の取り立ては厳しく、病人、餓死、投身、逃散、乞食、盗賊等が続出した。甲斐の米穀商は、江戸の米価暴騰の対応策、幕府の江戸廻米(かいまい)令に便乗して、米の買占め、売り惜しみを行い、郡内へ「穀留(こくどめ)」を行った。民は米穀商との交渉や、代官所への嘆願を繰り返したが、彼らに受け入れる意思がなく、やむなく米穀商に対して米の押買(おしが)いを目的とした一揆を起こした。
これとは別に、甲斐の各地で勃発した一揆衆は、打毀の先々で貧農、日雇人、無宿者、浪人等の貧民層の他、村役人層を初め神主、修験者、被差別部落民も加え、武装された甲府勤番士や、代官所の役人らと交戦して、これを撃退し打毀を続けた。一揆衆の数は数万ともいわれ、その標的は、米穀商、質屋、酒屋、太物(ふともの)屋、大地主、豪農等を襲い、甲州全域にわたり、甲州街道筋では信濃境までに及んだ。
中には、金品、酒食、武器等を事前に提供して、その難を免れた者も多かったが、打毀された村数118、家数319という。幕府は信濃の高島藩、高遠藩、および駿河の沼津藩に出兵を要請し、約900の兵をもって鎮圧させた。
大坂町奉行所与力大塩平八郎は、この事件に強い衝撃を受けた。平八郎は、陽明学者であった。清廉潔白な人物で、不正を次々と暴き民の尊敬を集めたが、東町奉行高井実徳の支援があればこそ告発で、高井は文政13(1830)年の7月に自ら病気療養を願う「疏(上奏文)」を提出した。『柳営補任』巻之十九の「大坂町奉行」の項には、「高井山城守実徳 文政三辰十一月十五日山田奉行ヨリ 同十三寅九月病気ニ付為保養参府 同年十月廿七日辞」とある。つまり、7月に病気療養を願い出た高井実徳は9月に病気保養のために参府して、10月27日辞職を願いでた。大塩平八郎は、天保元(1830)年、高井奉行と進退を共にし致仕した。
天保の大飢饉の際、幕府の江戸廻米(かいまい)令のために、大阪から江戸へ送られ米不足となり、豪商達は、それを好機として米価暴騰を狙い米の買い占めを行った。大塩平八郎は、大阪の民衆が飢餓に喘いでいることを、当時の東町奉行跡部良弼に訴え、旗本及び御家人の給料として幕府が保管する蔵米を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。しかしまったく聞き入れられなかったため、豪商鴻池善右衛門に対して、「貧困に苦しむものたちに米を買い与えるため、自分と門人の禄米を担保に一万両を貸してほしい」と持ちかけた。善右衛門は跡部に相談したが、跡部が反発して実現しなかった。 その後は蔵書を処分する等して私財を投げ打ち救済活動を行うも、自ずと資金は限界となり、武装蜂起によるしか解決は望めないと考えた。門人に砲術を中心とする軍事訓練を行ったのち、天保8(1837)年2月19日早朝、飢饉の最中、幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂津、河内、和泉、播磨地域の窮民救済と、幕政の刷新を期して決起した。奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城を目差したが、わずか半日で鎮圧された。乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。
常陸国西北部(茨城県筑西市)下館藩では、天保の大飢饉の後、 領内の人口が半減するほどの惨状で、五行、 小貝の両河川の氾濫を初め、 打ち続く凶作に下館の農民は極度の困窮に陥った。
下館は藩主石川 総承(いしかわ ふさつぐ)以下家臣団の治世能力では、 有効な手立てを講じえず、借財もかさみ藩財政は破綻していた。
その一方、近隣の桜町(栃木県二宮町)では、 一人の餓死者も出さずに大勢の領民を救っている。 この時の指導者が二宮尊徳で、小田原藩の飛び地であったため、小田原藩主大久保忠真の命により、尊徳37歳の時に赴任、疲弊した領内を復興させた。下館藩でも、 尊徳の指導を仰ぐために一年をかけて口説き、 ついにその指導を受けることができ、 藩の財政は立ち直っていく。以後尊徳は26年間に渡り、桜町を拠点とし、周辺諸藩の復興に努めた。
諏訪郡内でも、天保の飢饉について村々の記録が残っている。「天保3(1833)年9月秋不作書上帳」は、名主市三郎他3名の名前で御郡奉行所へ、その惨状を報告した書類である。「下田六畝拾五歩、幸之丞、五割不作。下田七畝六歩、幸之丞、六割不作……」
と1番から73番の田の収穫を書き並べている。通年の4割から7割の出来高であった。
「天保4年11月16日、極貧者名面書上帳(ごくひんものなづらかきあげちょう)」は、各村から困窮者を書き出させた書面で、藩の役人が出張して確認し、「御救い米」が支給された。1日当たり、男は米1合稗3合、女は米1合稗2合であった。
天保7年は「申年の飢饉」といわれた。
11月、高島藩は村々に「米穀融通世話人」を指名し、まず村内で米穀を融通し合い、その不足分を他所から買い入れさせた。翌年正月、「買入米相願わず村方有穀、而して融通いたし一切御厄介米相願わず村町」として、73ヵ村をあげ、「それぞれ御褒賞これあるべき事に候」と最良の村々として褒めている。
一方、他所米を買い入れたが、買い入れが足りなかった村が27ヵ村もあった。藩では、基本的に諏訪郡内の村内の有穀者から融通させ、それで足りなければ他所米を買い入れさせ、その上で極貧者には「御救い米」を支給した。
全国で餓死者が続出したが、高島領内では飢者(うえもの)がいたにしても、絵巻等にあるような骨と皮ばかりとなって彷徨うといった光景は見られなかった。
また天領でありながら、隣国では「甲州一揆」が勃発しているが、高島藩内では百姓一揆は、江戸時代を通じて一度も発生していない。坂本養川の汐の効用ともいえる。
遡る江戸初期の延宝2(1674)年10月9日の「大納戸日記」に、「在々処々不作に付き」に諸事簡略にと記されている。翌年2月14日の「施行銭下され帳」には、「月光院様御追善」として青銅2万疋(20万文)下されたとある。飢餓者、1200人余りに分与されている。 宝暦7(1757)年の凶作時には、高島藩の『郡方日記』に藩では村々から飢餓者を報告させ、稗を支給している。12月18日、各村から飢者救済の願いが出されている。山浦では殆どの村から出ている。南大塩村では、76人のいると申し出されている。直ちに藩役人が見分し、一人に付き稗20日分が支給された。