諏訪湖畔上諏訪町 | 宮川西茅野、千野氏発祥の地 | 富士見村若宮にて | 北山村湯川の遠景 |
真木ふかき 谿よりいづる 山水の 常あたらしき 生命あらしめ (今井 邦子)
吾が住める 信濃は天に 近からし 心惑へば 雲に呼ぶなり (岩波 香代子)
大正期の諏訪の農村風景
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1)大正期の諏訪の養蚕 |
2)諏訪郡の米騒動 |
3)大正9年の戦後恐慌と繭価の暴落 |
4)養蚕農家の不況打開策 |
5)組合製糸の登場 |
6)農村恐慌に対応する農業経営の技術革新 |
7)水稲への回帰 |
8)農業機械の導入 |
茅野市史下巻より引用
「湖東村の小平助七の家では、明治38年に20貫、大正5年に59貫、同12年には90貫と収繭量(しゅうけんりょう)をあげている。当時の経営をみると、畑所有面積7反1畝(せ)、水田所有面積は6反4畝で合わせて1町3反5畝である。そのうち1反1畝を小作にだしている。繁忙の時には4~5人の雇人を使っている。これは当時の標準より少し広い耕作地をもつ農家の経営形態で、年3回の上蔟(じょうぞく;成熟した熟蚕(じゅくさん)に、繭を作らせるため、蔟(まぶし;熟蚕になると、繭が作れる部屋に入る。その部屋を蔟と呼ぶ))期になると、給桑や桑摘みなど極めて繁忙となり、雇人の力を借りなければ到底できなかった。
なお、当時郡下一といわれた湖東村笹原区の吉江時蔵の家では、明治末年の収繭量は30~40貫で、大正8~9年には370貫の収繭量があった。水田2町歩と桑畑2町歩を経営していたが、そのうち水田5反歩、桑畑は1町歩を小作していた。労働は家族では足りず、臨時雇を17人、8月(やつき;4月から11月までの8ヵ月間の繁忙期、住み込んで養蚕や草刈、子守を仕事とした)4人(男女各1人子守1人老婆1人)を、村中から雇い入れて経営をしていた。
このように、1町歩以上の耕地を経営して繭を4~50貫以上とるような農家の中には、8月奉公を雇う家も少なくなかった。その賃金は、男でだいたい米2ツナ(1ツナ4俵、大正7相場1ツナ63円)」が相場であった。玉川村丸茂奥太郎の『大正年代記』には、大正7年8月の女衆給料は「小物付百弐十円止めす」とあり、男と同程度の給料となっており、大正10年の子守の8月奉公は、4月8日から11月2日まで雇って、100円の手当てとなっている。
8月奉公には近くの者もいたが、佐久、伊那の県内のほか、山梨県や新潟から来る人もいた。こうした雇用制度は大正から昭和にかけて次第に少なくなり、昭和10年ころには殆どみられなくなった。」
1)大正期の諏訪の養蚕
大正3(1914)年、我が国は第一次世界大戦に参戦した。大戦勃発による輸出減で糸価低落となり、政府は、蚕糸業者・問屋の出資による帝国蚕糸株式会社を設立させ、助成金を交付し、あるいは低利融資を行って生糸を買収させ糸価維持に努めた。大正4年には解散し、翌5年は好況となり、3月、最優等格1,570円と、明治以来の新高値となった。大正6年、茅野市域の農家数は4,191戸で、その内、養蚕戸数は3,976戸で養蚕家率は95%であり、畑面積は1,549町5反歩で、桑園面積は1,334町9反歩で、桑園率は実に86.2%であった。米沢は116%、泉野105%、宮川107%であるから、農家以外の養蚕家がいたことになる。北山村の農家数は474戸で、養蚕戸数は469戸で養蚕家率は99%である。茅野市域は一大養蚕地帯となっていた。畑地には、可能な限り桑園化し、さらに山林部も開墾し桑を植えた。永明村や米沢村は、開墾地が乏しく、水田にも植苗している。多くの農家は、自家消費の野菜や大豆は、桑の樹の間作が専らであった。
諏訪郡全域では、農家数は12,863戸で、その内、養蚕戸数は11,156戸、養蚕家率は87%であった。畑面積は4,458町3反歩で、桑園面積は3,434町、桑園率は77%になる。
大正5年頃から、第一次世界大戦の影響で糸価は急騰した。大正3年を100とすると、同7年178、翌年258と、暴騰といえる景況であった。これに呼応して岡谷の製糸工業は設備増強をし、その需要増で養蚕業も過熱した。それは農家を投機的な拡大に走らせた。養蚕農家は人夫を雇うなどして専業化していった。しかも桑畑に巨額の金肥を投じた。最多施肥料が1反当り30円以上と言われている。やがて養蚕農家は、肥料代や人件費等の費用負担が嵩み、収支の均衡を失っていく。明治30年の(富士見町)境村葛窪の「肥料貸附元帳」には、区資金から肥料購入代金を貸し付けている記録が残っている。同35年の宮川坂室の「肥料配当計算帳」では、肥料購入時に前借りや内入金を行っている事が知られる。金肥の負担は容易ではなかった。
明治43年、茅野市域では全生産枚数は約20万枚であったが、大正6年には25万6千枚と約28%増の生産となっている。中でも、蚕種生産状況によれば、桑園は玉川の3万枚、永明と金沢の各1万枚となっている。逆に北山、湖東は各千枚と減産している。
2)諏訪郡の米騒動
大正7(1918)年7月22日の夜間、富山県下新川郡魚津町の魚津港に、北海道への米の輸送を行うため、「伊吹丸」が寄航した。伊吹丸への荷積みを行っていた十二銀行の倉庫前へ魚津町の婦人仲仕(港などで、船の貨物をかついで運ぶ作業員)10数人が集まり、米の船積みを阻止した。米価の高騰は、米を他県へ移出するからと抗議し、住民に販売するよう求めた。この時は巡回中の警官によって解散させられたが、住民らが集会を始めると、米の販売を要望する人数はさらに増加していき、翌月8月3日には中新川郡西水橋町で200名弱の町民が集結し、米問屋や資産家に対し米の移出を停止し、販売するよう嘆願した。
8月6日にはこの運動はさらに激しさを増し、古くからの漁業、農業が盛んであった東水橋町、滑川町の住民も巻き込み、1,000名を超える事態となった。住民らは米の移出を実力行使で阻止し、当時1升40銭から50銭の相場だった米を35銭で販売させた。この件は地方新聞を通じ、全国の新聞に「越中女一揆」として報道された。これが米騒動の始まりであった。
大正7(1918)年に起こった米騒動は、シベリア出兵にからむ米の買占めも加わり米価が急騰すると、東京・大阪を初め僅か2ヵ月で全国38市、153町、177村で騒動がおこり、約70万人がこれに参加した。青森・岩手・秋田そして兵庫の4県だけが米騒動から免れた。
諏訪郡下でも、米価は6年から上がり始め、7年には1升36銭を越え、8年には50銭に達していた。大正7年8月15日夜、米騒動の最中、山梨県下随一の富豪・甲府の若尾家本家が襲撃され、焼き討ちされた。事件前日、内務省は米騒動に関する記事の掲載を当面禁止する命令を出していた。それで、単なる火災事件として報道された。ところが近日中に暴徒が諏訪に入り、高島公園で貧民大会が開かれるという風説が流れた。
17日、諏訪郡役所課長は、上諏訪警察署警部補の同席を依頼し、上諏訪町内の米穀商30人を役場に招き、米価引下げを要請した。米穀商側も已む無しとして、「白米900俵、350石を限り」「多少の損失を見越しても廉価販売をなす」と応じた。その米価は1升35銭であった。
18日、上諏訪町内各所に貼紙がされ、「東京より壮士20名、焼き討ちのため来諏せり」「停留所前と駅前倉庫に放火すべし」の流言が広がり、夕方7時ころから、高島公園へ人が集まり始めた。付近の住民は引越しをしたりした。しかし公園前の中門川で警察隊に阻止された。その約400人の群集は、衣之渡(えのど)遊郭まで後退したが、堅い警備で実力行使を封じられ、10時頃には、次第に引き上げていった。
19日、上諏訪町内は依然として、不穏な状況下にあった。上諏訪警察署は、町内の区長、青年会長、消防団長等を招集し、町内の警戒と監視を要請した。この騒ぎで、宮下、浜岡、保科の3人が上諏訪警察署に拘置された。茅野市域の各町村では、天皇から下賜された内帑金(ないどきん)、県の救済金、篤志家の寄付金等を原資として、米の安売りをおこなった。
翌8年の県の米自給状況調査によれば、諏訪郡の米の実収は133,000石で、人口は約17万人であった。それでは、諏訪郡在住の工男工女の消費分に相当する米が不足する。県は麦、雑穀、じゃが芋の混食を勧め、全戸へパンフレットを配布し、小学校等でも実施させた。特に諏訪郡下の小学校では、児童の弁当検査が繰り返された。
一方、大正7年の糸価は、大正3年の1.78倍となっている。翌年には、2.58倍と急騰している。明治40年の湖東村養蚕家1戸当たり収繭量(しゅうけんりょう)3石(30貫)であったが、この頃にはその2.5倍の7.5石に達していた。岡谷の製糸工場等は拡張を続け、繭の需要は急増し、繭の供給が間に合わず、「前売り」、「棚売り」等が行われ、養蚕業は農業経営において投機的様相を呈した。
3)大正9年の戦後恐慌と繭価の暴落
大正9(1920)年3月、湖東村役場では、「養蚕経営に関する注意」を農家に発している。その要旨は、「近時、労力が各地で著しく不足し、その賃金は大いに騰貴し、これに加えて桑葉の価格も急激に騰貴を来たす折柄、養蚕経営上、最も注意を要する時に、蚕種の選択に注意を欠き、自家の桑葉や労力の状況を顧みず、種紙(たねがみ)についた卵から孵化したばかりの毛蚕(けご)を、羽箒(はぼうき)で掃いて集め、蚕座(さんざ)へ移す掃立(はきたて)を、無謀に行い蚕児の成績が不良となり、又は桑葉の手当てが賄えず、壮蚕をむざむざ投棄する不利を招いたりしている。」であった。
養蚕は急増したが、それに伴う経営know howの承継と蓄積もなく、蚕種の良否の判断や栽桑と養蚕技術が未熟であったりして、多方面で経営上の諸問題が多発していた。
大正9(1920)年の戦後恐慌、この年3月東京株式取引所で株価が暴落し、翌月から全国の株式取引所が1カ月あまりにわたって停止し、商品取引所も3,4日間市場を閉鎖した。この年、綿糸・生糸等の重要商品は、ほとんど半値以下の価格に下落した。倒産件数は285件に達し、4月から7月の間に、台湾銀行を初めとして169行に及ぶ銀行が取付けにあい、21行が休業した。大戦に支えられた養蚕の好景気は、遂に終焉を迎えた。紡績は6ヵ月間3割の操短を断行、製糸業は78日間休業した。とくに養蚕農家に深刻な打撃をあたえた。政府と日銀は積極的な救済にのりだし、株式市場へ6,OOO万円、金融機関ほか各部門へ合計3億6,OOO万円以上を貸出した。
この年の春蚕から糸価の下落は始まり、それまで1貫12円50銭していた繭価(けんか)が、玉川村菊沢新田村の丸茂奥太郎の「大正年代記」によると「春蚕貫8円、夏蚕は4円となる」 と記している。それまでの農家の経営は、蚕をひと揚げすれば購入費が賄え、資金は潤沢で、生活費や肥料等多額の前借もしていた。それが許される環境にあった。
繭価の暴落により、前借が借金として残った。今までも、糸価は繭価を上回って騰貴をしてきた。繭価暴落に際しても、糸価は繭価ほど下落をせず、むしろその損失の一部を繭価に転嫁したため養蚕農家はより困窮した。
大正9年の恐慌により、茅野市域でも12月、米の売値は1升28銭で、生産者は1石につき10円の損失となった。翌年2月、茅野駅の貨物は不況で減少し、対前年比1月の発送は42%減、到着貨物は52%減となった。繭価は7円近くに回復したが、農家の困窮は続いた。
4)養蚕農家の不況打開策
明治後期、製糸業の好況から労賃が高くなり、その対策から経済育という省力飼育技術が奨励された。蚕は温度管理が難しく多湿を嫌い、新鮮な空気と良葉を必要とした。東北の温暖育と関東の清涼育とを併せた養蚕法で、低温湿潤には火気を使用し、高温には自然光をとり入れ風通しをよくする開放平飼を行う。全芽育と?桑(ざそう)全芽育が広まった。
水力のみならず蒸気力を原動とする器械製糸は日清戦争を境に座繰よりも多くなる。片倉製糸紡績の発展の要因は、当時のアメリカが、動力を備える力織機(りきしょっき)に合う、規格が均一な生糸を求めていた、その要求に応えられたからであった。初代兼太郎は近隣から、多くの業者を集め、平野村に「開明社」を組織した。開明社に同業者をまとめあげ、全国初の本格的な生糸の品質管理に乗り出した。開明社の糸は品質がトップということではないが、量産的なアメリカ式紡績に合う生糸を作った、開明社の功績を大きかった。そのため明治の末期になると、益々生糸の品質の均一性が要求され、明治43年には蚕種を「飛白」、「白竜」、「日錦」の3種に選定し、翌年には、これら蚕種の飼育の統一を試みている。
大正期の養蚕業は、蚕品種の改良で大きく進歩した。明治39(1906)年、蚕児(さんじ)の遺伝研究により、一代雑種の有利さが提唱された。それは須坂町で外国品種が輸入され、一代雑種に成功し、その優良性が証明されたからである。同42年にも高唱されたが採用する業者はいなかった。大正3年、片倉組の今井五介が、一代交配種の有利さを知り、その奨励に努めた。
今井五介(安政6年;1859―昭和21年;1946)は、片倉市助の3男で、初代片倉兼太郎の2番目の弟であった。市助には4人の息子がおり、長男から順に兼太郎、光治、五介、佐一といった。片倉はこの4兄弟が活躍、後に世界最大の製糸会社に発展させていく。3男、五介は隣の平井村今井家に養子に出た。明治19年、農商務省の蚕病試験場に入りが、そこを退いて独力で勉学のため渡米した。
片倉工業社史によると、五介は米国に遊学中に、父・市助が病床に伏したとの知らせを受け、明治23(1890)年に帰国した。帰国すると完成したばかりの松本製糸所主任となり、初代兼太郎の逝去後は、片倉製糸紡績副社長として兄の光治・2代目兼太郎を補佐した。同28年片倉組結成後、その経営に参画した。やがて社長となるが、同32(1899)年には、松本製糸所を346釜に増やし、松本製糸場と改称した。
五介の功績は多条繰糸機導入等多岐にわたるが、最大の功績は何といっても一代交配種を全国に普及させた先見性にあった。大正3(1914)年、一代交配蚕種普及団を組織し、蚕品種の改良に努めた。五介の偉大さは、一代交配種を東筑摩郡の養蚕農家に無償で配布し、且つ飼育指導をした事にある。その結果は極めて良好で、諏訪地方でも、大正の中頃、一代交配種の日支交配種が飼育された。
「資本の蓄積を計り誠実を旨とし天職を完せよ。明朗なること太陽の如く不平は一掃せよ」で始まる16項に亘る、経費節減や能率向上等の心得が続く五介の遺訓は、かつて片倉が経営する全国の製糸工場に掲げられていたという。五介は「片倉王国」を築いた最大の功労者といわれる。
5)組合製糸の登場
明治末から大正期にかけ、片倉製糸ら営業製糸の発展は、原料繭供給地にも大いに影響し、このころになると多くの養蚕家は、副業から脱し本業化した。その結果、養蚕経営は時の景気変動に直結し深刻な影響をうけることになった。
産業組合諏訪部会編『諏訪郡組合製糸』には、当時「繭価は暴落し、而も之に乗じて大小の資本家は悪辣なる搾取の魔手を全養蚕家の上に伸ばし、あらゆる専横的繭取引を散見するに至った。斯かる場合に於いて、いつも惨めなるは、対抗の手段を有せざる原始生産者である。殊に収繭せんか、直ちに之を売却処分せざるべからざる弱点を持てる為、唯購繭者の蹂躙に任する外、何等の武器なき農家であった。」と、こうした状況下、養蚕農家は営業製糸業者に対抗するため団結した。いわゆる「組合製糸」である。
諏訪地方の「組合製糸」の嚆矢は、大正6年1月富士見村の「有限責任信富生糸販売組合」であった。設立申請者は樋口奥平らである。組合員は150人で、区域内の23%にあたる。設備は30釜で資本金6千円であった。富士見村は一大営業製糸地帯である湖北地方からみれば、郡内でも僻遇であったため販売上不利であった。しかも全村農業を主体とし、生産額は年10万円位であり、うち繭販売額が8万円であった。
同年3月、富士見村の隣村・落合村瀬沢新田に68釜の「落合生糸販売組合」が、5月には四賀村神戸に50釜の「四賀生糸販売組合」が、9月玉川村子之神に36釜の「玉川生糸販売組合」が設立された。「玉川生糸販売組合」は大正9年、永明村矢ヶ崎へ移転し「上川生糸販売組合」となった。こうして郡下、上諏訪の東南にあたる地帯が、一大養蚕地帯となった。しかし「組合」といっても規模は小さく、生産技術の練達度も低く、取引上優位には立てず製品の均一性を維持し難く、出発当初から経営に行き詰っていった。それで「信富生糸販売組合」「落合生糸販売組合」「四賀生糸販売組合」は、その生産生糸を合同整理し共同出荷をする「州羽社」を設立した。翌年には「玉川生糸販売組合」が加入し、事務所を宮川村茅野へ移転し社名を「龍上社」とした。この共同出荷は順調に軌道に乗り、横浜市では八王子格になり、大正8年には一等級矢島格に格上げされた。
当時、生糸は日本の輸出貿易品では最大であった。大正11年に輸出した生糸の額は6億8千余万円に達している。これは輸出貿易総額の約42%に相当する。また横浜は日本の生糸輸出の唯一の港であったから、輸出生糸は全部ここに集まった。また内地の機場で扱う所謂地遣いの生糸も、その商取引地を横浜にしているため、横浜には日本生産の生糸の90%以上が集まっていた。
6)農村恐慌に対応する農業経営の技術革新
明治以来、農業経営の有様は、余り変わりなく推移してきたが、明治末期から農業生産をたかめるため郡農会を中心に諸施策が採られた。稲麦種子の塩水選別方法も明治末期から大正初期に普及した。塩水を使い、比重によって稲・麦等の種子を選別する方法で、塩水に種子を入れ、沈んだ実入りのよいものだけを種籾(たねもみ)とした。大正7年には、稲種子では45%、麦種子では22%の農家が塩水選を実施している。これは短冊苗代(たんざくなわしろ)の設置と共に農会の指導により奨励された。
大正9年の恐慌対策として、養蚕農家は限られた桑園から、一層、多くの収繭量を上げて、繭価の値下がりによる現金収入減の補填をしようとした。丸茂奥太郎の『大正年代記』によると、大正10年の秋蚕は1貫が8円50銭、米は10月相場で4俵62円であった。玉川村の1反当たりの収穫量は、桑畑で繭約20貫、水田で米7俵ほどであった。繭価は170円、米価は約110円、すると養蚕経営の方が1反当たり60円強、有利になる。この年は繭価が暴落し、米価が高騰していた。すると養蚕業の方が、それ以前までは高収入であったといえる。
中州村では、明治40年、水田は3,343反、桑園333反であったが、大正14年には水田は2,885反、桑園596反になっている。養蚕よる現金収入の魅力は大きく、畑の桑園化進み、水田も桑園化した。茅野市域では、明治末の1.5倍、500町歩増の1,600町歩となっている。これは山浦地域が、諏訪郡全体の桑園増加率より高く、桑葉増産が山浦の時代的特性となっている。しかし養蚕は多費農業で、桑園投資の大半が金肥であった。桑葉増産のため金肥が盛んに投入された。
明治20年代の日清戦争を境にして、食用の大豆油を搾油した搾り粕で、窒素肥料を中核とする大豆粕が用いられた。明治末には、鰊(にしん)しめ粕、焼酎粕、過燐酸肥料が使われた。大正6年になると、諏訪郡の金肥使用高の第一位が大豆粕で、それも断トツで、次が人造配合肥料、蛹(さなぎ)しめ粕、過酸化石灰、硫酸アンモニア、チリ硝酸等であった。次第に化学肥料の人造配合肥料が増えていった。特に桑肥料特一号、完全肥料四号、信濃肥料一号等の化学肥料は、作物増産に大きく貢献した。
大正期に入ると、蚕蛹(さんよう)を原料とする肥料製造者が登場した。蛹しめ粕や圧搾蚕蛹油粕等の肥料が流通した。日本の繭の85%は蛹で、これを搾って脂肪油の蛹油(さなぎゆ)が採取出来る。然も蛹油には多量のオレーン、グリセリン、燐等の化合物が含まれ、搾り粕からは純良な蛋白質が採れた。従って食料油、醤油、石鹸、グリセリン、バター等の原料としてこれが用途は極めて多方面に開拓出来る。最も効果的なのは石鹸製造であった。大正15年、郡下の製造業者は10名、原料蚕蛹582,978,960貫、生産高273,130円であった。
更に、小作料、蚕種、人夫雇用費、温熱費等、他の耕作物に比して現金支出の多い高度な商業的農業であった。9年以降の農村恐慌により、農家負債が増加し、堆肥、木炭、人糞尿等の自給肥料が奨励されもしたが、当時の養蚕農法の進歩と現状を知らない見解といえた。桑園の拡張は原野の開墾が初期段階であり、それが刈敷採草地を失わせていた。また養蚕業は労働集約型であれば、刈敷採草の余裕はなく、購入肥料に頼るしかなかった。また生産性の向上には、人造配合肥料等は有効であった。
当時、理想的な施肥は、一反当りの収葉量500貫を理想とした。繭1貫を生産するのに、桑葉20~21貫が必要とされていた。通常、1反歩の桑園で繭20貫が産出される。しかも繭の生産費の50%が桑葉代である。養蚕農家にとって、経営上良葉を、いかに廉価に生産するかが、重要課題となった。
外国種は品質的には優良であったが虫質に弱かった。それで在来種と交配すると、その欠点が除去され優良品種となり普及した。大正5年には、一代交配種が全飼育量の95%にもなった。これはわが国蚕糸業界に空前の大革命となり、以後、長野県奨励蚕品種となった。
湖東村では、大正8年頃から、幼虫に寄生するキノコによる白彊蚕(はくきょうさん;かつご)、全体が化膿する膿子、蚕の体が透き通る状態の空頭蚕(あたますき)等により、不良品質が多発して、遂に日支交配種を飼育し始めた。
当時、横浜で行われている生糸の格付は最優等格、準優等の羽子板格、毬格、矢島格、八王子格、武州格、信州上一番等で、郡是製糸(ぐんぜせいし)、碓氷社、金羽子板、三州三竜社等が最優等格で、碓氷社は羽子板、伊那社、国光社等が羽子板格、上州三竜の毬が毬格、仙台片倉が矢島格、岩代片倉、大宮片倉、開国館が八王子格、武州富国館が武州格と定まっていた。製糸業者は当然、日々その品質に改良を加え格付け上昇を狙ってはいたが、原料繭等の品質が安定せず品位が変化し、製糸の品質が常に一定しているとは言えなかった。また日本の製糸には格が多すぎ、なお且つ品質が安定せず、米国の力織機業者の効率的な量産に支障を来たした。伊太利糸は、皆同格以内で、日本の製糸と違い、アメリカの鋼製の梭(さ)に擦れても毛羽立たなかった。支那糸即ち中国製の日本優等格以上に相当するものは金双鹿格とし、羽子板格を三舞踏格とし、矢島格を双鳳格、武州信州格を船舶格として四等級の格を設けているだけであった。
大正8年12月、湖南村田辺に「諏訪中央生糸販売組合」が設立され、翌9年5月、上諏訪大和(おわ)に「上諏訪町生糸販売組合」も続いた。しかし「信富生糸販売組合」と「上川生糸販売組合」の2組合は、経営不振のまま解散した。 経理の放漫や設備への過大投資があった。それ以上に組合員である養蚕農家の身勝手さである。市場の繭価が下落すれば、組合製糸へ大量に出荷され、高値で売れるとなれば営業製糸へ運んだ。大正8年、組合数は5組その員数1,737名、供繭量60,331貫、剰余金9,113円であったが、翌9年には、組合数は6組その員数3,220名、供繭量131,458貫、剰余金2,138円になっている。翌々10年、「信富生糸販売組合」が解散し、組合数は5組その員数2,901名、供繭量98,900貫、欠損金19,172円となった。11年、「上川生糸販売組合」も解散、組合数は4組その員数1,953名、供繭量77,975貫、剰余金16,365円となった。
宮川村茅野の「龍上社」も経営不振で欠損が山積となり、一時は解散の危機に陥ったが、四賀組合長の浜庄左衛門が社長となり、組合員の自覚を促し、経営努力を重ね、一応軌道には乗り「龍上社格」を出すまでに至った。大正末頃から昭和期にかけて、組合製糸も一段と発展し、昭和8年、9組その員数5,413名、供繭量331,224貫、剰余金8,013円となっている。
7)水稲への回帰
稲苗の良否が後々まで影響するので、苗代田には陽当たりと水利の便が良い乾田で、家に近い所が選ばれた。このような条件が揃った水田は少ないため、おのずから各農家の苗代田は特定の場所に集中し、しかも例年使われることになる。これは条件の良い苗代田が限られているからであった。苗代への播種は、田一面に稲種子をばらまくのが古くからの方法であったが、明治中期からは次第に短冊型に床をつくって播く短冊苗代となって、発芽率も良くなった。苗床へ種籾を均一に蒔き、床を高くして回りを水路とした。床が外気で乾燥しても、水分の補給が容易で発芽もよく、腐ることもなくなった。また種もみを土の中にすり込む事により、一層よい苗を作ることができた。種籾を蒔いた後、畑の土を上に薄くまき、発芽した苗の立ちあがりを助けた。
大正期には、米作改良を目的とする農事小組合もできた。大正7年には43組あり、組合員数は618名で、農家の半数に及んでいた。
大正9年5月、諏訪郡農会臨時総会の議決を受けて、従来各農家が独自に行っていた害虫駆除を、諏訪郡役所が主導して、「苗代害虫一斉駆除計画」を郡下一斉に実施された。これは効果的であった。
同12年郡農会は、郡下水田5千8百余町歩に改良品種を普及させようとした。まず5反歩を本会で直営し、畿内早生68号、女渋、渋浚、栃木早生、明神糯(もち)、毛京、樋橋等の原種を増やし、町村農会に採種田を設置させ、これを無償で配布した。麦作でも採種圃1反歩で、改良品種の大麦大六角、小麦渋不知、伊賀、筑後、オレゴン等を生産し、これを一般農家へ無償配布し郡下50町歩に普及させた。
明治中頃から大豆粕、油粕、骨粉、蚕蛹しめ粕や化学肥料等の金肥使用が増大し、作物の増収には大きく貢献したが、その購入費は次第に農家経営を圧迫していった。郡農会は、人糞尿や蚕糞尿の処理として土壷の築造や、堆肥製造のため農芸委員の指導による1町村2ヵ所以上の模範堆肥場を設置した。またレンゲ草の栽培を奨励し、緑肥として稲田にそのまま鋤きこんだ。レンゲ草の窒素固定力は強大で10cmの生育で、おおよそ100m2 1tの生草重、4~5kg の窒素を供給する。レンゲ畑は、昭和末頃までの「春の風物詩」となった。
大正5年から10年にかけて郡下に56の養蚕組合が設立され、組合員数は1,032名であった。肥料と蚕種の共同購入と貯蔵、共同催青、稚蚕共同飼育、産繭共同販売等により、共同化により取引上の地位の強化と条件の向上を図った。催青とは、孵化(ふか)の近い蚕の卵を、適当な温度・湿度と光線の部屋に保護し、孵化をそろえる処置で、孵化直前の卵の殻が透け、青く見えることから言われた。
このころから養蚕業を、再び副業経営に戻す動きもみられ、春蚕中心から夏秋蚕飼育へと分飼育することにより、年間労働力の再配分をし、水稲への回帰を目指した。
岡谷の長地村赤砂は、砥川の氾濫や地下水位が高く、農耕地に適さず養蚕に励んできたが、大正12年頃、果樹栽培や養鯉(ようり)を営み、農業経営に新たな風を吹き込んだ。
8)農業機械の導入
稲作においての深耕して、1株当たりの面積を多めにとってやり、根を広く深く張らせ、茎太の稲を育て、大きめの米粒を稔らせてやるという工夫が重要であった。根は大きな土をつけ、しっかり張れば、茎も太く、たくましくなる。それを、明治末に牛馬耕用の犂を導入するまでは、3本刃鍬使用の人力で行っていた。既に近世には、牛馬耕用の犂が西日本を中心に普及していた。それは長床犂といい、長大な犂床で安定よく操作も容易であったが、小まわりがきかなく、不整形で狭小な水田には不利であった。また深耕に適さず、増収を図るまでには至らなかった。
明治前半期までには北九州で畜力耕転の抱持立犂(かかえもったてすき)という無床犂が広く使用されていた。持立犂は、犂全体が三日月型をしており、底の部分が曲線を描いているので不安定であった。そのため、名前の由来のように、人が抱え持って、耕す角度を調節しながら、均等に耕せるように牛馬と犂の両方を同時に操作しなければならず、熟練を要した。しかし深耕を可能にした。これらの難点を克服したのが短床犂であり、長床犂と無床犂の長所を兼ね備え、各地で改良されながら完成していった。明治末期より、この犂で深耕が可能となり、人力の3倍以上の能力を発揮し、そこへ多量の肥料を施用して、増収を実現した。
代掻(しろかき) は、水田に水を入れた状態で土を砕きかきならす作業で、水田の漏水を防ぎ、田の面を平らにし、田植えをしやすくする。明治期には、木製の平鍬が一般的で、やがて鉄製の鳥居鍬や万能鍬に代わり、畜力による代車(しろぐるま) が、明治39年頃から登場する。
除草作業は、稲作管理作業として最も大切な作業であるが、過酷な作業でもあった。このため、作業の労働軽減と能率的な機器の改良が長年続けられた。除草機の田打車は、中耕効果に重きをおいた転車を付けた器具で、従来の3~5本の内側に曲がった鉄製の爪の付いた雁爪(がんづめ)を回転式に改良したものといえる。諏訪郡下では、大正5年頃までは、この雁爪を使い田の中をこすっていた。
明治25年鳥取県の精農家によって考案された田打車は、一時期を画した回転式中耕除草機であった。明治初年には「田打ち転車」と称する廻転除草機が愛媛県で存在した調査結果が出た。回転中耕除草機は、文字どおり田植後の中耕・除草のための農具である。回転中耕除草機の出現は、腰を曲げた厳しい除草作業から解放され、雁爪での作業より能率は高く、収量も増加した。郡下では、昭和6年頃に導入され、除草能力は1日1反程度から3反歩と向上した。
脱穀は、従来、千把扱(せんばこ)きで稲穂をしごいた。それは、江戸時代中頃の元禄年間(1688~1704)に発明された。千把扱きは、たくさんの竹串を上に向けて並べたような歯があり、脱穀をする時には、稲や麦の穂の束をその歯でしごいて籾を大量に落とすことができた。最初は歯が竹で、麦の脱穀用あったが、やがて鉄製の歯で作られると、稲の脱穀にも使われるようになった。そのしごき作業は、腕力がいる重労働でもあった。1日3俵が限度で、しかも籾粒を完全に落すまでには至らなかった。この千歯扱きも明治の末まであった。郡下でも、大正末期には使われなくなった。
明治43(1910)年に、山口県で足踏み脱穀機が発明された。足踏み脱穀機は、千把扱きの歯を回転させる構造になっていた。稲や麦の束を回転する歯にあてがうだけで籾粒が落ち、腕の力がほとんどいらず、作業がかなり楽になった。大正時代(1912-1926)になると、農家に足踏み脱穀機が普及し始め、昭和8年には殆どの農家が使用した。千把扱きでは、その過重労働から1反歩6人の手間であったが、稲扱機により3人の手間と省力化された。昭和の初めには、歯の回転も足踏みの動力から、発動機やモーターを使うものが発明された。戦後、昭和30年代になると、動力式の脱穀機が広く使われるようになり、50年代になると刈り取り・脱穀・袋詰めと一台で三役もこなすコンバインが登場する。
籾挽(もみひき)の臼は籾から一番外の殻を取り除くのが「臼挽き作業」である。これにより玄米となる。元禄時代に中国から伝来したと言われ、唐臼(からうす)とも呼ばれた。古来、籾搗き作業による半搗米の食習慣が、この時から土臼(どうす;つちうす)による籾摺と杵搗による精米の2作業に分かれて、白米食になった。土臼は、普通上臼、下臼とも側面を竹製の網で包み、摺面を樫材の薄い摺歯と粘土で構成し、乾燥して固める。上臼に籾を入れて、上臼を回転する。籾は、下臼との摺間に落下し、上下臼の狭い間隔で籾殻がとり除かれ玄米となる。当初、臼は一人で回していた。これも重労働で、遣木(やりぎ)をつけて2、3人で回すと、1日1臼、10表から15表が挽けた。明治時代から昭和15(1940)年まで、全国的に利用された。昭和初期、ロール式籾摺機の普及により次第に姿を消した。
臼の回す動力・水車は明治期からあった。明治8年2月、現在の茅野市にあった泉野村の記録では、水車小屋29戸臼41個とある。水車による精米が、既に行われていた。同13年富士見村には、「壱斗張挽臼に対して壱銭の課税・・・」とある。米沢村の水車は明治20年頃にみられ、大正10年頃になると一段と増え、翌11年7月の「新調水車台帳」によると、挽臼と搗臼が増加し精米機も登場していた。
平坦地では風車も見られ、精米のみならず地下水の汲み上げ、排水にも使われた。地下水には、窒素肥料分が多く田畑には有効であった。
こうした農業用具や機械の発達普及により、明治期には稲の脱穀から篩(ふるい)等の調整まで1ヵ月を要したが、大正期には足踏み脱穀機や動力籾摺機の導入により、およそ10日に短縮された。養蚕農家にとって秋蚕飼育と重なる多忙な時期の省力化により、その余剰能力が多方面に活用される様になった。
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