麦搗き沢から車山 | 東山筋から守屋山を望む | カボッチョ山から東麓集落 | イモリ沢から蛙原(げえろっぱら) |
蓼科の 出湯の谷間 末遠く 雪御岳 今日さやに見ゆ
ここにして 見放(みさ;遥か眺める)くる空に 雲もなく 秀嶺雪山 天にきほへり
(志都児;しづこ;本名篠原円太;伊藤 左千夫門下;北山村湯川)
明治以降の変わり行く車山、霧ヶ峰
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1)明治時代の入会山の状況 |
2)変わり行く霧ヶ峰入会山 |
3)諏訪郡内の入会山状況 |
4)明治時代の霧ヶ峰入会山 |
5)明治時代の諏訪郡の養蚕の普及 |
6)拡大する諏訪の養蚕と製糸業 |
1)明治時代の入会山の状況
近代になると、明治4(1874)年に上桑原村、赤沼村、神戸村、飯島村、中金子村は四賀村となる。下桑原村、小和田村は上諏訪村(明治24年以降上諏訪町 )に統合された。明治7(1877)年、上原、横内、矢ヶ崎、塚原各村が永明村に、中村、上菅沢新田、山口新田、金山新田、堀新田、新井新田、須栗平新田、白井山新田、笹原新田の各村は湖東村に、埴原田、鋳物師屋新田、北大塩、一本木新田、塩沢各村が米沢村に、柏原、湯川、芹ヶ沢、糸萱新田が北山村に編入された。
明治以降、霧ヶ峰高原の資源をめぐる利用規制は、地元集落の上桑原が主導をした。
明治8年、長野県は県内町村に対して「林野入会慣行成蹟原由取調書」の提出を指示した。それで村や個人の所有が証明できなければ、官有地とした。それにより、各地の入会山が官林、公有地化した。茅野市域でも吉田山、南大塩山、後山、大畑山、高部山等が官有地となり、その後の民有地化運動に長い年月を費やした。なお「公有」とは、市町村、又はその一部もしくは一区が所有し共用する原野をいう。
その「林野入会慣行成蹟原由取調書」によって、入会山の殆どが原野であったことが知られる。長野県の広大な入会山は、肥料、秣や家萱を採集するのが主な用途で、その大部分は原野と化し、所々で雑木が点在するという風景であった。明治になっても30年代までは、その状態が続いた。しかし、次第に人糞を初めとする金肥が普及し、市街化が進み木材の需要が増大すると、原野の山林化が推進されるようになる。その表れが明治30(1897)年の「森林法」の制定であった。
江戸時代から続いた諏訪郡の入会山も、この頃から原野の造林が計られる。以後、営林化が促進されると、以後の管理が必要となり、かつてのように何ヵ所の村々が入り合うよりも、それぞれを分割し区分所有する必要性が高くなった。以後、明治末期まで熾烈な入会山分割と解消が訴訟上争われていく。
メリーパークの南にある西茅野の南側、駒形城跡のある後方の山林一帯の茅野山では、金沢村とその新田の大沢、大池、木舟の4ヵ村が、茅野村とその新田の坂室、二久保、舟久保の4ヵ村とで、江戸時代からの「茅野草山入会争論」を再燃させている。詳細は避けるが、明治7年2月18日、筑摩県へ「入会山経界争論の訴状」を提出し、その後、明治14年6月7日、大審院の判決が下されたが、大正期に漸く、茅野側と金沢側で2分割され解決している。
明治34年7月、長野県令から「公有山林取締規則」、「公有原野整理規則」が下された。後者の2条に「公有原野は柴秣草地または牧草地として存置すべき区域と、新たに林地に編入すべき区域に区分して整備すべし」と規定されている。森林地を設け造林することを督励している。
同40(1907)年に「新森林法」が発布され、森林組合の設立と入会林野の整理統合が推進される。同43年、「公有林野造林奨励規則」が発効された。明治時代当初より特に公有山林が、法律のみが先行し、手付かず状態となり、著しく荒廃した。また払い下げられ、開墾が促進すると周辺林地も、生産及び生活用材として伐採されると、明治40年前後、「関東地方大水害」を初め、大洪水が各地を襲った。それを機に、植樹奨励金11万5千円を予算計上し、公有林野の植林と更新の補助金とした。同44年、第一期森林治水事業が始まり、入会地整理と植樹促進が図られ、補助金が交付された。
なお永明寺山の藩有林の「御林」53町7反8畝22歩は、明治31年1月の「御料地特売規定」により、「特売」即ち「競争入札によらず特定の者へ払い渡す方式」で処分され、種々の曲折の結果、明治34年、前山26町歩が上原区へ、後山26町歩が永明村へ払い下げられた。過去の慣行を尊重したと言える。
2)変わり行く霧ヶ峰入会山
明治12(1879)年6月9日、北大塩耕地外入会旧9ヵ村から長野県令へ「民有地に御 引直し願」が提出された。その間の事情が記されている。「字トコナメの峰塚より車ヶ嵩覗き(くるまがたけのぞき)」まで、秣山200町歩は、明治10年の山野慣行成蹟取調べにより、翌11年に官有地に編入された。各村民一同大いに困惑し、「民有地に御引直し願」を数度、嘆願したが聞き入れられなかった、と・・・・
「車が嵩覗き」とか、「覗石」が霧ヶ峰の字地として、多く残る。それは、「覗」が「字源」ではなく、「除く」という意味である場合が多い。「覗石」のあった地籍を辿っても、それに相当する岩に巡り合わない。寧ろ大地が広がっている。すると「車が嵩覗き」とは、車山山頂辺りを外す周辺地域と考えると、興味深い感慨が浮かぶ。
北大塩山は、当時、カボッチョ山の東から車山の尾根沿いの南側一帯を指したと考えるが、「地元北大塩は一年中藪、草、萱その外を自由に採り、埴原田、鍛物師屋、福沢は干草、薪、萱ばかり採り、上桑原、赤沼、神戸、小和田、上諏訪、下桑原は薪、萱ばかり採ってきた。8月になると荊藪(けいそう)を刈り置き、翌年4月に焼いて灰にした。そして苧種(おたね)を蒔いて、8月に刈り、細布(さいみ;織り目の粗い苧や麻の布で、夏衣や蚊帳等に用いた。)にしてきた。」と嘆願書に記している。
今度も聞き入れられず、同13年8月には、村内の協議により、相当の対価を払う条件で「民有地に御引直し願」を出しもいた。その後も「御引直し願」を重ねるが、終に「再願は不条理千万」と叱責される。
その後も続く執拗な嘆願への回答は変わらず、「聞き届け難く、官有据え置きの御達し」であった。同17年10月にも「詮議に及び難き旨」の指令があり、遂に「訴訟を起こさんか、又は本省へ向け一度請願をなさんかの二途の他なし」として、新たに請願書を作成し、翌18年2月1日、農商務卿西郷従道宛に提出された。しかし農商務省は、本省へ提出する前に長野県庁へ出されるべきとして却下したが、本省から県庁へ通達致してくれると懇篤なる回答が得られた。
その成果か?漸く明治21(1888)年8月23日、県庁及び主務省から「民有地に編入すべき旨」の指令が得られた。
3)諏訪郡内の入会山状況
江戸時代までの郡村は、明治2年の大区小区制(だいくしょうくせい)のもとで無視され、住民の反発が大きかった。大区小区制は、明治3(1872)年に施行され、府県の下に大区を置き、大区の下に小区を置く、地元事情を斟酌しない机上の区分けであった。それで、明治11(1878)年、郡区町村編制法を制定し、旧来の郡を行政単位の基本と認め、郡役所と官選の郡長が置かれた。
大正3(1914)年当時の竹下郡長は、赴任以来、諏訪郡の林野が荒廃し、特に入会山が無立木原野化し有効に利用されていない状況を見て、入会山の解消と植林の急務を説いた。これをうけて、「鳴沢山(西茅野の北西)の分割整理植林の事」で、1月15日、泉長寺で金沢村の村民総会が開かれ、全員一致で賛同された。まず金沢村大沢・金沢・大池・木船4区と宮川村の内茅野・坂室・二久保・舟久保4区は、鳴沢山を両村で分割し、金沢村は区有を止め統一し村有とした。金沢村では、3年計画で植林をし、松、栗等は稚樹であっても伐採を禁じた。諏訪郡では、大正期には、一層、入会山の分割と可能な限りの営林が促進されていく。
第二次大戦後も、5~6ヵ所の入会山の分割と解消があった。その林野の経営管理は、大方区ごとの財産区か、林野利用の農業協同組合等が行った。後者は、戦前からあった財産区を、戦後、協同組合化したものであった。以後、造林は、一層促進され、昭和16年に制定された「公有林県行造林規則」が、戦後の昭和24(1949)年から本格的に実施された。この年から毎年全国植樹祭が行われ、39年5月12日の15回全国植樹祭の中央会場は、柏原山の八子ヶ峰が県行造林地に指定された。県行造林地とは、県が土地所有者との間で契約を結んで造林を行い、木材が売れたときに、収益を分け合う林地をいう。
この時、天皇皇后両陛下が御臨席され、最初に天皇が落葉松を植え、以後、参加者によって植栽面積12haに落葉松の苗7,500本を植えた。しかし現代では、落葉松林の存在が、無用の上、景観を害する存在になっている。
戦後、木材需要の増加に応じるため原野の山林化が促進されたが、次第に廉価な外材の輸入に抑さえられ需要は減退し、国内産木材は搬出しても、その費用を賄えず、山林経営は低迷した。東京、神奈川の消費地に近い諏訪郡は、木材供給に立地的に好条件でありながら、海洋を越える外材に、未だ対抗できない状況下、諏訪郡の広大な旧入会地は、観光開発に活路を求めるようになった。しかし、その殆どは、資本力を誇示するのみで、経営力を持たない企業の挫折と崩壊の歴史を積み重ねるだけであった。西武グループと東急グループの破綻に見られるように、田中角栄の「列島改造」以来、観光開発は、失敗の連続であった。
4)明治時代の霧ヶ峰入会山
大正2年の『諏訪郡梗概(こうがい)』には、「本郡養蚕業の発達は漸く20年来にして、特に日露戦役後に至り著しく其の発達を見るに至れり(中略)、拡張に拡張を重ね、今日に至りては畑地としては殆ど桑園に在らざるものなし」とあり、諏訪郡内のように山間傾斜地の多くも開墾をされ、他作物より反当り収益が高いため、生産性の低い水田は潰され、桑樹畑に変えられていった。養蚕には気象条件が冷涼、乾燥している諏訪郡は適地であり、大正時代にも、引き続き養蚕業は盛況を維持し発展していった。
遡るに、明治20年代の日清戦争、30年代の日露戦争の両戦役後は工業が発達し、それまで自給していた衣類や肥料も、木綿製品や金肥が容易に入手され、その現金収入源として養蚕の発展を助長した。その背景に、両戦役により軍事費がかさみ国費が激増し、地租の増徴と新設の諸税による負担増があった。日清戦争後、国税では明治29年24種の営業税を課し、府県は営業税付加税を課した。日露戦争の軍事費は、日清戦争のときの約10倍で、経常予算の8倍となった。また死傷者も多く国民に強いられた犠牲は大きかった。
交戦20ヵ月間に4万319人が戦死し、17万人以上が負傷、病にかかるもの22万人以上、そのうち6万3601人が死んだ。実に総兵力の4割以上の損耗であった。 戦時には増税につぐ増税で、塩専売制の新設、煙草専売制の強化、献金ないし公債の強制割当て等の負担、そのうえの物価騰貴が生活苦を倍加させた。働き盛りの男たちは次々に兵隊にとられ、軍夫に徴用された。動員兵力は108万人に達した。更に、農家の役畜と荷車までも徴発された。戦後は砂糖消費税等も新設された。明治時代のこの酷税は金納であるから、農村の自給生活は崩れざるを得なくなる。必然的に、金銭を稼がなくてはならない商品経済に巻き込まれていく。明治政府は、農村を江戸時代以上に疲弊させたといえる。
霧ヶ峰一帯は、近世当初、上桑原村の他に小和田村、下桑原村、堀合神戸(神戸村北組)が入会集落となり、17世紀に赤沼村、飯島村、中金子村、18世紀前半に神戸村中組、南組が入会をした。しかし次第に、上桑原村を中心とする集落は桧沢川右岸を肥料として干草の採取に利用しなくなる一方で、新たに植林や酪農による放牧に利用するようになった。踊場湿原周辺からその上部の南向き尾根のすべてを秣の採取に利用するようになった。東麓集落の埴原田、鋳物師屋新田は桧沢川左岸を利用しなくなり、埴原田他4集落は車山西麓とイモリ沢の谷での秣の採取を減少させた。塩沢も秣の採取を減少させ、利用場所を観音沢の谷周辺から車山西麓に移動させた。
そして明治12(1879)年、林野官民有区分が実施され林野が官有地に編入されると、上桑原山は四賀村上桑原共有地となり、四賀村の赤沼と堀合神戸、上諏訪村の下桑原と小和田が入会集落となった。東麓集落も札入会を続けていた。
養蚕が盛んになると、夏秋蚕飼育と草刈り労働との競合や現金収入の増加により、水田への金肥利用がすすみ、厩肥(うまやごえ;きゅうひ)生産を目的とした馬飼育や霧ヶ峰からの刈敷採集が減少した。
5)明治時代の諏訪郡の養蚕の普及
明治以降諏訪地域では、製糸業が発展するとともに養蚕が盛んになり、農家では自給用に稲作を営み、現金収入源の大半を養蚕に依存する、養蚕業により傾斜する形の穀桑式農業が行われるようになった。
諏訪地方の養蚕は古く、諏訪郡は、平安時代の承平年中(931~937)に源順(みなもとのしたごう)が撰述した『倭名類聚抄』によると、土武(土無;下諏訪町富部)、佐補(佐布;上伊那郡中箕輪村)、美和(上伊那郡高遠町)、桑原(上諏訪上・下桑原)、神戸(上社から四賀村)、山鹿(豊平村)、弖良(てら;上伊那郡手良村)の7郷に分かれていた。当時から桑原郷があった。既に養蚕が行われていた証と言える。
江戸時代は飢餓との戦いの歴史でもあり、穀物の増産が各藩の経営の眼目であったため、高島藩でも穀物の作付け可能な良地に桑を栽培する事を禁じた。桑は、米麦に適さない芦原(あわら)や土手等の傾斜地に栽培された。米作地に乏しい山麓地にとって、有難い副収入になっていた。天保10(1839)年、矢ヶ崎村の儀左衛門、春作、善平他、小井川村と有賀村の計7人が、蚕種業者に指定されている。安政元(1854)年、茅野村の庄兵衛は、京都の糸問屋へ送られる、いわゆる登せ糸運上金の取り集めを高島藩から命じられていた。慶応2(1866)年の高島藩内での、生糸改方取扱い数量は、岡谷村が突出し629,860貫、次が下諏訪の友之町の276,351貫、飯島199,921貫で、その他合計で2,613,241貫と記録されている。
では、山浦の養蚕の記録はどうかというと、天保5(1834)年、芹ヶ沢の「乍恐(おそれながら)願上口上書」に、「渋川の香り有て蚕育悪く養飼相成らず候に付き云々」とある。明治7年、筑摩県令永山盛輝の学校巡回日記『説諭要略』に「諏訪の山浦という処、地勢高燥山谷を隔てて村落参差(しんし;入り混じる)たり、山圃披畔(ひけい;畦地の状況)を回顧するに桑樹の一根を栽(うえ)るなし」と記している。ただ視察の際の概観であれば、当時自家用程度の養蚕ぐらいはあり、それを見過ごしていたようだが、ただ当時の風景は伝わって来る。
幕末期の安政6(1859)年、幕府は諸外国との貿易を認めた。当時、最大の輸出品は生糸で、それは明治、大正時代共に変わりなかった。こうして製糸業は、発展していく。それは諏訪地方も例外ではなかった。
明治初期までは、婦女子が農閑期を利用した小規模な春蚕(はるご)程度であった。春蚕は4月中旬に孵化した蚕で、飼育環境がよいので、夏蚕・秋蚕よりも繭の量・質ともに勝るが、その飼育程度では、栽桑量も少なく、婦女子の農閑期の小規模な余業であった。明治維新後、蚕種も繭も糸も藩の統制がなくなると、穀物本位の農業から、明治14頃から秋蚕(あきご;しゅんさん)飼育が行われる。玉川、豊平、米沢等の各村も既存の畑にも、桑を植栽するようになった。その前提は、明治10(1877)年になると、宮川村や岡谷を主に、機械製糸が盛んになり、原料繭の需要が増大した事による。
6)拡大する諏訪の養蚕と製糸業
製糸業の発展は、桑作の奨励を伴う。豊平村では、明治14(1881)年、桑の植栽と養蚕は、国一番の産業であるため、その増産を勧めた。しかし、豊平村は僻地であり、下等の畑地であるから、耕土は3寸(9cm)しかなく、桑の根張りが悪いので成長が悪い。桑を植える際は、深さ2尺(60cm)、幅3尺(90cm)を堀り、周りの栄養分が豊富な耕土と交換して植えるよう指導している。
湖東村は明治10(1877)年頃から物成りの悪い畑に桑を植え、同19(1886)年には、105戸の中村で、桑の植栽農家は40戸となっている。同年、湖東村の養蚕戸数は105戸で、全戸数の28%に当たり、豊平村では蚕糸組合の加盟者が、村の半数となる230名を超え、18町5反歩、全畑の13%になっていた。翌年になると、湖東村の畑の25%近くが桑園となり、22年の豊平村では、全畑の43%、65町8反歩となっていた。やがて養蚕地化は、製糸業の急速な発展に呼応して、大門街道沿いを北上していく。
金沢区に、明治20年7月の『養蚕規定書』が残る。その第7条に「人の植桑及び桑苗を窃盗せるもの亦は其の情を知り買受たるものは、其の筋御処分の範囲の外に、5円以上拾円以下の罰金を差出すものとす」と、厳しい規定を設けている。同年、湖東村では、国や県の奨励により、1戸当たり20坪(66m2)の桑苗の殖産が勧められた。既に湖東村では、明治12年、馬鈴薯、大豆、粟、稗、蕎麦等の作付け面積84.9町歩に対し、桑園は65.8町歩に植栽されていた。これらは、諏訪の製糸業の急速な発展が、その需要を誘ったがためであった。
養蚕が急速に農家経営に取り入れられると、桑樹の植栽と成長が需要に追いつかず、養桑が不足してきた。同22年3月、郡役所の勧業掛の樋口愛之助が、豊平村に来訪し「興産勧業の件に(中略)、この途養蚕より外になし、依って春気桑の植樹を精々致す様、部内の惣代及び有志の人を呼寄せ御注意これあり候」とある。明治20年代から、学校では、蚕休みを設け、老若男女、家族全員の飼育態勢を支援している。
茅野市域の東麓集落の養蚕業が盛んになり、養蚕と稲作が兼営される穀桑地帯化が進んでも、諏訪地方の製糸業者の旺盛な需要には応えきれず、大量な繭が不足し、明治23年には、三重、山梨、埼玉、静岡、愛知の各県ばかりでなく、東北地方からも手当てをしている。明治30年には、朝鮮半島の龍山から、明治33年には、青森からも買い入れている。
明治20年代、製糸業は個人経営の少量販売であった。生糸の品質も安定せず、高級品と評価されず、フランス、イタリア産と比しても、格段に低価格であった。また資金にしても購繭製糸業の生産費の大半は、原材料費の繭代であった。購繭(こうけん)費用が7~8割、人件費、設備費は2割以下にすぎない。なお、原材料繭費の56%が農家の労賃であった。
明治26年の農商務省の実施した茅野市域の製糸工場調査では、既にあった永明村、宮川村、米沢村の外、後発であるが、湖東村、玉川村に製糸工場が創業された。やがて茅野市域全域に製糸工場が出来、かつて東麓集落では麻布の生産が農家の副業であったが、いつしか養蚕に代わられていった。
明治29(1896)年の長野県報告の「諏訪郡役所農商工統計表」によれば、諏訪郡全体の桑園面積は、1,503町4反歩で畑総面積の42%になる。その見積桑量は2,737,182貫とある。特に山浦一帯は突出していて、茅野市域では、豊平村が54町2反歩、玉川村が51町3反歩、湖東村が39町4反歩、北山村が17町2反歩と記録されている。
明治末になると、茅野市域各村の合計1,192町9反歩でみれば、畑全体の90%が桑園となり、玉川村が222町8反歩、豊平村が173町3反歩、宮川村が159町5反歩、湖東村が124町0反歩、北山村が123町2反歩であった。
一方、明治の30(1887)年代、稲作の生産性は向上する。牛馬耕を取り入れ、明治33(1900)年、右反転と左反転が可能な犂(すき)が発明される。操作が楽で、35年頃には普及し量産され価格も安くなり、水田は畜力耕が多くなる。牛馬耕の普及は、深耕によって水田の生産性を高めた。大正時代になると朝鮮牛が導入され犂が引かれると、その有用性が伝播され購入申込みが殺到するありさまであった。その外にも新技術は導入され、中耕除草や苗代設置技術の指導等、さらに病虫害の予防駆除も行われている。結果、反収入は向上したが、その主たる要因は、かつては、その有用性を知りながら購入できなかった金肥の大幅な導入にあった。当時の金肥の主なものは、下肥、鰊のしめ粕(かす)、大豆粕、大豆等の有機肥料が、その殆どを占めている。
当時、北海道は各地で鰊の大漁に沸いていた。鰊の魚油から貴重なエネルギー資源である灯油と石鹸を産し、その〆(しめ)粕は最良質の肥料として稲作農家等に大いに重用された。養蚕の好況により、桑園に多量の金肥が撒かれたが、その多種有用な肥料が、稲作にも適用され、水田の桑作化が進み水田面積は減少したが、反当りでは増収している。
養蚕が盛んになると、夏秋蚕飼育による現金収入の増加により、水田への金肥利用がすすみ、厩肥(うまやごえ;きゅうひ)生産を目的とした馬飼育が減少した。
上諏訪村では製糸業の発展に伴い戸数が著しく増加し 、明治初年 1,595戸であったが、昭和6(1931)年4,600戸となり、同年の集落別の全農家に占める養蚕農家の割合をみると、上桑原・神戸・小和田・下桑原・塩沢は 90%以上,鋳物師屋・中村・上菅沢は80~90%、赤沼・山口は 60~ 80%であった。同年の上諏訪村全戸に占める農家の割合は5%となり、市街地化していた。
明治後期から第一次世界大戦とその後の商品経済の発展の背景に、養蚕中心の農業経営の時代があり、現金決済を伴う商業的農業時代でもあった。それは農村の階層分化を促進した。経済力のある大地主は、益々成長し、養蚕の好況により、畑の桑園化が急進すると、小作料は順次金納となった。
入会集落のうち堀合神戸が明治末の明治43(1910)年に入会権を放棄した。昭和初期、西麓集落の上桑原は桧沢川右岸の標高1,000~ 1,300mの緩傾斜地を刈敷の採取、急傾斜地を植林地に、標高1,300~1,400mを放牧地に、標高1,400~1,500mを秣の採取に、標高1,300m以下の桧沢川沿いを萱や薪の採取に利用していた。下桑原は桧沢川右岸の標高1,300~1,400mを放牧地に、桧沢川右岸の標高1,500~1,600mと踊場湿原周辺から上部南向き尾根を秣の採取に利用していた。小和田は桧沢川右岸の標高1,300~1,400mを放牧地に、踊場湿原周辺から上部南向き尾根を秣の採取に利用していた。一方、東麓集落の埴原田と鋳物師屋はイモリ沢の谷を秣の採取に、中村、上菅沢、山口、塩沢は車山西麓を秣の採取に利用していた。
これらから、近世末に霧ヶ峰高原全域が採草地として利用されたのは、山麓集落が稲作を中心とした生業を営み、その肥料の殆どは刈敷や厩肥で、霧ヶ峰から自給していた。明治以降の採草利用の減少は、養蚕が盛んになり現金収入が増加するとともに肥料としての刈敷の価値が低下したためと、養蚕に忙しく採集するゆとりが無くなったともいえる。下肥、鰊のしめ粕(かす)、大豆粕、大豆等のその多種有用な金肥が、その殆どを占め、それが田畑の生産性を向上させた。厩肥手当てのための馬の飼育も減少した。一方、明治以降も標高
1,500m以上で比較的採草利用が維持されたのは、西麓集落が現金収入を得るために酪農を開始したことと関連していたと考えられる。利用規制の運用の変化は、こうした生業自体の転換に伴う草の資源の用途に変化をもたらした。
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