弥生時代の国際関係と交易


 森将軍塚古墳から、千曲川流域に発達した善光寺平!信濃有数の穀物地帯を見渡す。古墳は4世紀中期 ~末期にかけて、千曲川を見晴らす有明山の尾根上に築造された。標高490mの山頂である。科野氏は、当地を拠点として大発展した。
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目次 
 1) 弥生時代の武器と争乱
 2) 弥生中期から後期の高地性集落
 3) 倭のクニグニ
 4) 弥生後期の東アジア情勢
 5) 銅鏡
 6) 鉄器
 7) 卑弥呼は何故シャーマンであるのか?
 8) 卑弥呼の墓
 9) 弥生時代の集落
 10)池上曽根遺跡
 11)弥生時代の鉄器の流通
 12)箸墓古墳の木製鐙

弥生時代前期】紀元前350年~紀元前200年頃

  北部九州に朝鮮半島からの渡来者が流入。

  佐賀県菜畑遺跡などで水田稲作が行われる。

  北部九州に大規模な環濠集落が現われ、以後西日本に広がる。

  北部九州に鉄器の普及、環濠集落同士の戦闘が激化。

【弥生時代中期】紀元前200年頃~紀元前後

  北部九州で前漢鏡を副葬した大首長墓が出現(福岡県須玖岡本・三雲南小路遺跡)

九州で銅剣・銅矛など武器型青銅器が、近畿地方で祭祀用銅鐸が鋳造される。

北部九州に鉄器が普及。

瀬戸内海地方に高地性集落ができる(八堂山遺跡・紫雲出遺跡など)
沖縄や奄美を含む南西諸島から九州、本州、北海道まで伝わる『貝の道』ができる。

『貝の道』により貝製の斧やナイフ、首飾りなどが、穀物や金属器・布などと交易。

八重山諸島に出るシャコガイ製斧は大型で、木材の伐採や丸木舟の製作道具。

倭人が100余国に分かれ、一部が楽浪郡に朝貢。

【弥生時代後期】紀元前後~250年頃  

   57年 倭の奴国王、後漢に朝貢し、光武帝より金印を授けられる。
   107年 『後漢書』に「安帝の永初元(107)年倭の国王帥升(すいしょう)等、生口160人を献じ請見を願う」と記される。
   2世紀末ごろ、倭の諸国が卑弥呼を女王とする。
   3世紀前半、前方後円形・前方後方形の墳丘墓が出現し、列島各地に広まる。
   239年 卑弥呼、魏()の明帝への奉献を願う。
   247.8年頃 卑弥呼没す。

1)弥生時代の武器と争乱 
 環濠集落は縄文時代晩期、弥生時代前期からみられるが、紀元前5世紀~紀元前3世紀、水田稲作の流入により土地の囲い込みが始まり、在地系の人々と土地占有をめぐる戦いが生じた。新来者は自分たちのコロニーを防御するため環濠集落を築いた。環濠は中国を淵源とする。
 依然として石剣・石鏃などの石器製の武器が主流であるが、縄文時代とくらべ格段に銅鏃・銅矛・銅剣などの武器の種類と数が増した。
 日本列島に、初めて青銅器がもたらされたのも北部九州であった。福岡県宗像郡津屋崎町の弥生前期初頭の今川遺跡から、銅鏃と銅鑿(のみ)が出土した。これらは、中国東北の遼寧省を中心に朝鮮半島全域に分布する遼寧式銅剣を再加工したものであった。その銅剣の鋒先(きっさき)を銅鏃に加工し、茎部すなわち根元の方を銅鑿としたものである。
 遼寧式銅剣の両刃の剣身は、鋒先が鋭く伸び、中央部が左右に突出し、剣尾に向かって幅広く膨らむ特有の曲刃形で、中央の鎬(しのぎ)は棒状をなし手元まで伸びて短い茎(なかご)となっている。遼寧式銅剣は韓国忠清南道扶余郡の松菊里遺跡(ソングンリ)の石棺墓から出土しており、同年代の全羅南道の積良洞(チヨンニャンドン)の支石墓からも、7本の遼寧式銅剣と1本の遼寧式銅矛が出土した。紀元前5世紀~前4世紀と考えられている。
 吉野ヶ里遺跡では、細形銅剣・銅矛・銅鏃など多くの青銅製の武器が見つかっている。甕棺から出土した有柄細形銅剣は、柄の部分までが青銅で作られる一体型であった。銅剣は、弥生時代中期までは実用の武器として使用されたが、次第に鉄製の剣や刀に取って代わられた。
 紀元前2世紀~紀元後1世紀がクニの成立期にあたる。水田稲作は母なる森と大地を素材として開発管理するため、大きな人間集団ほど生産性が上がる。それぞれの集団は常に耕地や居住地を拡大しムラ人を増やそうとする。そのため隣接境界地との紛争が絶えず、優勝劣敗が節理となり生存競争を掛けた戦いが日常となる。大規模な環濠集落を築き、そこに当面、自足可能なムラ社会を築き、周辺の外敵に備える一方、勢力拡大の拠点とした。周辺集落を征服すれば『魏志倭人伝』に再三記される無償の「生口」を使役できる。負ければ「生口」である。苛烈な生存競争が西日本各地で繰り広がれていた。 青銅器製に鉄製武器が加わり殺傷力が増し、その傷痕が残る人骨が多数出土する。環濠集落も北海道・東北・沖縄以外の地域で、巨大化していく。特に顕著となるのが弥生中期、紀元前2世紀の終わりごろで、大阪湾岸から瀬戸内・北部九州にかけて集中する。その時代の被葬者には、戦いの傷痕を残す例が100体以上ある。それまで大規模集落は、低地に営まれていたが、弥生中期以降、田んぼも無い狭い尾根筋にたくさんの建物が建てられる。これを高地性集落とよぶ。いわゆる山城で防御を最重要視した。
 かつて利器を転用し凶器として活用してきた。その日本列島で最初に人体殺傷を目的とする武器が種々開発された。更に目的・用途により分化し、個々の戦人の工夫が加味され、戦法も複雑多岐になっていた。弥生時代の遺跡の多くから出土する遺骨体から体内残留の武器片が伴出する事例が増える。 神戸市西区玉津町新方の新方遺跡(しんぼう)は、明石川と伊川の合流する地点の北側、標高8~10mの沖積地に位置している。この遺跡から弥生時代の人骨が11体出土した。特に平成9年の調査時に出た弥生時代初期の成人3体の人骨が興味深い。顎が頑丈に張るなど、その体格の骨格は縄文人的な特徴を有し、抜歯なども縄文時代の風習も残されていた。また、骨に突き刺さった多数の打製石鏃から、弥生時代の極めて初期に近い集落間での争いによる戦死者で、その3人は、伏臥伸展という極めて特異な埋葬形式で葬られていた。
 生駒山の西麓に、かつてあった河内湖の東南端にあたる大阪府東大阪市西石切町・弥生町・宝町に広がる鬼虎川遺跡(きとらがわ)からは、弥生前期中頃の土坑墓に20歳代前半の高身長の青年が仰臥伸展で埋葬されていた。その頸部には骨製刺突具が嵌り、腰部脊椎骨付近には凹基無茎式石鏃が入り込んでいた。大阪府内では、他にも八尾市の山賀遺跡や大阪市平野区の亀井遺跡からも人骨と石鏃が共伴していた。 福岡県嘉穂郡穂波町椿字スダレのスダレ遺跡で出土した、弥生中期中頃にあたる第3号甕棺に埋葬された熟年男性は、背後から肩を石剣で刺されていた。その右の推弓板(ついきゅうばん)には、輝緑凝灰岩製石剣の切っ先が残っていた。同県筑紫野市永岡の永岡遺跡では、密封された甕棺から成人の男性17体・女姓23体・性別不明1体、合わせて41体と、小人・幼児が計12体発見された。その中に銅剣の切っ先が骨に突き刺さっていたものが2体あり、その1体には石剣の切っ先も体内に残っていた。石剣の切っ先のみが刺さったままの木棺も1基あった。吉野ヶ里遺跡でも、弥生中期の人骨の腹部に多数の石鏃が射込まれてあった。他の甕棺からは、首が切断された青年男性の人骨も出土している。戦死者のようで手首と肩に、骨まで達する傷痕があった。
 石鏃や石剣の断片が人骨と共伴する例は、北部九州の弥生前期から中期に多出し、次第に筑後平野・佐賀平野・唐津平野と拡大し、中期後半になるにつれ近畿とその周辺でも多数みられる。ただ大規模な会戦や激戦が想像されるまでの遺跡例は未だ出土していない。
 佐賀県神埼市千代田町下板の高志神社遺跡(たかしじんじゃ)の弥生中期前半の甕棺内には、銅剣・銅剣の切っ先・磨製石剣・打製石鏃・サメ歯鏃などが一緒に遺存していた。この埋葬者が戦死者であったとすれば、まるでなぶり殺しである。大阪府の雁屋遺跡は雁屋南町から美田町にかけて広がる遺跡で、その方形周溝墓から、木棺や葬られた人骨がそのままの状態で見つかっている。その弥生中期中頃に埋葬された木棺の骨の胴付近から12本の石鏃が集中してみつかり、磔にされ至近距離から一斉に矢で射られたようだ。
 山口県下関市豊北町神田上の土井ヶ浜遺跡は、響灘(ひびきなだ)沿岸の小平野中央の海岸線と直角方向に風成砂丘が形成されており、その狭長な砂丘の稜線沿いに広がっている。埋葬は仰臥屈葬(ぎょうがくっそう)が一般的で、仰臥伸展葬、俯臥屈葬例も若干みられる。土井ヶ浜遺跡出土のゴホウラ貝製腕輪を装着した主導者的立場の男性の人骨には、頭蓋に鉄鏃が2本射込まれ、周囲には石鏃12本・サメ歯鏃2本があり、さらに顔面が破壊されていた。王権の簒奪か、敵国に敗北した首長の末路であろうか。

2)弥生中期から後期の高地性集落
   兵庫県芦屋市三条町の会下山遺跡(えげのやま)は表六甲山系の南面する一支脈上にある弥生中期から後期の高地性集落である。眼下には大阪湾を眺める標高199m~170mの間の尾根上に円形竪穴住居、祭祀跡、焼土坑、柵跡、土坑墓などがあり、典型的な高地性集落として注目されている。水田稲作を基盤とするこの時代の集落の立地条件とすれば極めて不適で、「倭国の乱」にかかわる近世における詰城的性格をもつ高地性集落と考えられている。
 それは弥生中期後半以降、武器としての石器が発達し高地性集落が盛行し、近畿から瀬戸内かけて政治的統合に向けて激しい抗争があったことを物語るもので、やがて大和を中心に収斂していく過程とみる。大阪府和泉市弥生町の観音寺山遺跡は、和泉山地から槇尾川沿いにのびる丘陵の尾根上にある。標高60~65m、周囲との比高差は約25mという高台に作られた弥生集落跡である。大阪府東大阪市の山畑遺跡は河内平野を一望できる標高約100mの場所にある。紫雲出山遺跡(しうでやま)は、香川県三豊市詫間町に所在する高地性集落である。瀬戸内海の中央部、燧灘(ひうちなだ)に突出する岬上の先端にそびえる標高352mの紫雲出山山頂にある。岡山県岡山市宮浦貝殻山の貝殻山遺跡は岡山市内の南に位置する児島半島にある。兵庫県神戸市灘区篠原の伯母野山遺跡(おばのやま)、兵庫県宝塚市の五ヶ山遺跡、広島県の西山遺跡など、大阪湾沿岸から瀬戸内海にかけて眺望豊かな尾根筋や島嶼地の高地に高地性集落が築かれた。その後の発掘成果により、紀伊・山城・大和・河内の淀川水系・近江の湖西地域の内陸部でもみられている。北陸や北関東でも高地性集落の発掘例が増えている。
 『魏志倭人伝』に「その国、本亦(もとまた)、男子を以て王と為し、住(とど)まること七、八十年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち女子を共立して王と為す。」と「倭国の乱」が記されている。この『魏書』より後世に編纂された『後漢書』には「安帝の永初元(107 )年、倭国王帥升(すいしょう)等、生口百六十人を献じ、請見を願う」「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、歴年主無し」とある。桓帝・霊帝合わせて、その在位は146年~189年であるから、「倭国の乱」はほぼ2世紀後半にあたる。
  弥生末期、近畿の邪馬台国で卑弥呼が女王に擁立される過程でクニグニの諸勢力が収斂され、戦乱の時代が閉じられ高地性集落の役割が終える。その一方、日本海沿いの能登・越中・越後で高地性集落が広く分布し、新潟県新潟市秋葉区の古津、金津および蒲ヶ沢にまたがる古津八幡山遺蹟は、弥生後期から古墳時代前期にかけての遺跡で、信濃川と阿賀野川に挟まれた丘陵上に立地する高地性環濠集落であった。この時期には、高地性集落が日本海側にも新潟県村上市の山元遺跡(やまもと)など点々と認められるようになり、北越の地域でもクニグニ同士の戦争が激化していた。山元遺跡は、周囲を堀でめぐらせた弥生時代の高地性環濠集落で、旧岩船潟を中心に広がる低地に向かって北東から南西に延びている丘陵上に位置し、遺構のある標高は約40m、周辺の低地との比高は36~37mである。日本海側最北の高地性環濠集落である。山元遺跡により、阿賀野川を越えた北部で、しかも「東北系土器文化圏」で初めて確認された高地性環濠集落として注目されている。東北南部の会津地方ルートとの交流が想定されている。 古墳時代前期の古津八幡山古墳は、遺跡の北西部にある直径60メートルの円墳で、同時期の住居は見当たらず、単独で古墳のみがある。 首長の墓としては新潟県内最大規模である。弥生時代の出土遺物では、北陸系、東北系、両者折衷の在地系の3系統が共存し、日本海沿いに東西につながる北陸地方中西部や阿賀野川やその支流日橋川などを介した東北南部の会津地方ルートへと多岐に通じていた。また信濃川とその上流千曲川流域の北信から中部高地ルートへは、弥生後期に北陸系土器が南下、それに続いて東海系の土器が北上して北信系の在地勢力は抵抗むなしく平定されている。 関東では2世紀末の「倭国の乱」により、外来系土器の流入が阻害された。市を開く余裕もない争乱が繰り広げられ、交易ルートの秩序維持も困難となった。弥生中期、関東圏で環濠集落が濃密なのが現神奈川県の鶴見川流域で、特にその左岸に集中している。
 千葉県内房の市原市域の環濠集落も濃密で、村田川下流域、養老川下流域右岸、養老川中流域に分布上のまとまりが認められる。とくに、国分寺台地区の根田代遺跡(ねだだい)・台遺跡・向原台遺跡、菊間地区の菊間遺跡・菊間深道遺跡・菊間手永遺跡、大厩地区の大厩遺跡や大厩浅間様古墳下層遺跡(大厩遺跡群)など、いずれも近接し濃密に環濠集落が群生している。台地上の根田代集落の環濠はV字形でムラの周囲を巡っているが、その環濠は弥生中期末には埋まってしまう。この地域にクニの王が登場したのか。
 弥生後期になると荒川中流域が主で、そこから多摩川から鶴見川沿いの東京湾沿岸部近くに集中する。一方、千葉県市原市にある村田川下流域と養老川下流域では著しく衰退する、この時代の関東地方の様相も複雑で、東海と畿内をバックボーンとする2大勢力が互いに拮抗する。2世紀後半の弥生後期以降、東海西部との結び付きが強まる。それは3世紀初頭にも継続し、やがて有力な首長を登場させたようで「乱」が終息していく。南関東地方は濃尾勢力に属する東端の地域となった。3世紀初めには、関東の環濠集落は消滅する。平和な時代の訪れで集落を囲む濠は埋められたようだ。
  3世紀中葉には前方後方墳の首長墓が出現する。ここでも東海系の首長の東征がなされていたのか。前方後方墳は特に上総と上野に集中し、木更津市請西千束台(じょうさいせんぞくだい)にある高部古墳群の内の2基から後漢鏡が出土し、関東では最古とみられている。
  畿内では大阪府高槻市美しが丘の古曽部・芝谷遺跡(こそべ・しばたに)は標高80~100mの丘陵上に営まれた高地性環濠集落跡で、その規模は東西600m、南北500mに及び、100棟以上の住居や木棺墓がみつかっている。その周囲、丘陵の中腹部に幅約5mの環濠が巡る。水や米を貯蔵する数多くの壷・煮炊き用の甕・個人の食器用の高杯や鉢などの土器と鉄製の斧や鏃などが伴出した。山口県でも清水遺跡など高地性環濠集落があり、紀元前1世紀~紀元2世紀では、広く瀬戸内から大阪湾岸に分布している。紀元3世紀以降になると近畿とその周辺部にほぼ限られてくる。畿内の高地性環濠集落の多くは、地理的に大阪湾や瀬戸内海、それを囲む平野部を広く眺望する高台に営まれる。その多くに火炊き場跡が検出された。のろしによる通信跡と推定されている。
 邪馬台国の国際交易の窓口は、「常に伊都国を治め国中において刺史の如くあり」で明らかとなる。邪馬台国の外交及び交易の窓口として、邪馬台国から遠離であるが、中朝に地理的に近い伊都国が暦年、大陸と交易を重ね、その圧倒的な実績から交易の窓口として重視され、その主眼として監察の要地となった。
  ただ、高地性環濠集落のすべてが、「倭国の乱」を前提としていない。旧石器時代以来、山間部の「山棲みの遺跡」は、狩猟・漁労・植物採取が有効で、縄文以降は清流に恵まれているため畑作も営まれていた。

3)倭のクニグニ
 朝鮮半島に現存する最古の歴史書であるが、第17代高麗王仁宗の時代、1145年に完成した『三国史記』の「新羅本紀」には、「戸数は1,000余戸あり、長官を爾支(にき)、副官を泄謨觚(せもこ)、柄渠觚(ひここ)といい、帯方郡使が常駐。」とある。 福岡県糸島市にある三雲南小路王墓(みくもみなみしょうじ)はB.C.1世紀中ごろと推定されるほか、井原、平原遺跡(ひらばる)などでも原始的王墓がみられる。伊都国の王墓は、三雲、井原、平原と推移し、弥生終末期の2世紀末には、平原遺跡と繋がり伊都国3代の王墓となった。卑弥呼が登場する3世紀には、福岡県糸島郡前原町にある平原が伊都国の王都だったようだ。三雲・井原遺跡は、『魏志倭人伝』に記される伊都国(いと)の王都で、王墓と目される墳墓が、弥生中期後半の紀元前1世紀後半にあたる三雲南小路(みくもみなみしょうじ)と紀元後1世紀の井原ヤリミゾ遺跡で発見されている。ヤリミゾ遺跡は約200年前、福岡藩の国学者青柳種信が歴史書『柳園古器略考』で、18世紀後期の天明年間に怡土郡(いと)井原村で、鑓溝という溝の中から、古鏡数10点を副葬したつぼが発見されたと記し、銅鏡の破片や巴形銅器の拓本を残している。その後の伊都国の王墓は西に移り、糸島市東部にある瑞梅寺川(ずいばいじ)と雷山川(らいざんがわ)にはさまれる曽根丘陵地帯に分布し曽根遺跡と継承される。卑弥呼は、国際関係の窓口として伊都国を最重視し、邪馬台国から遠隔の地であるため、出先機関を充実させた。
  福岡県春日市では、牛頸山から福岡平野に突出した低丘陵地帯に多くの弥生遺跡が集中するが、須玖遺跡はその丘陵の北端にある。丘陵上には墓跡群を中心とした遺跡が発見されている。その副葬品は豊富で、前漢鏡が約30面、ガラス璧、勾玉、銅剣、銅矛、銅戈などがあった。須玖遺跡の北、現在の博多駅の南に広がる地、那珂川と御笠川に挟まれた洪積台地上に奴国の中心集落跡とみられる比恵遺跡那珂遺跡があり、比恵遺跡は那珂遺跡がある丘陵の北にある。
 那珂遺跡は弥生時代後期の3世紀頃、幅5~6mある一直線上の道路が南北1.2kmにわたり部分的で検出された。現在では市街地と重なり、それ以上の全面的発掘は困難である。 那珂遺跡の南東側約1.5kmには水田稲作を営む弥生時代の到来を象徴する環濠集落・板付遺跡があり、その南側約3kmには『魏志倭人伝』に登場する奴国の中心とされる須玖岡本遺跡(すぐおかもと)がある。須玖岡本遺跡がある丘陵北端部一帯では、紀元前1世紀~後1世紀の奴国王墓やその王族墓、青銅器製品やガラス勾玉などの装身具を製作した工房などが集中している。明治32(1899)年には、巨石の下から奴国王の王墓とみられる甕棺墓が出土していた。
 唐古・鍵遺跡では、弥生中期末(紀元前1世紀)~後期初頭(紀元後1世紀)、その遺跡の南東部で銅鐸・銅釧・銅鏃などの青銅器生産が大量に行われていた。弥生後期後半にはその青銅器の生産が停止する。衰退期に入った。
 弥生時代、『魏志倭人伝』の記述で明らかなように、クニグニの王が世襲制を布くほど、絶対的な権力と周辺勢力を威服させるほどの軍事力を有していなかった。
  『後漢書』の建武中元((けんぶちゅうげん))2(57)年、光武帝劉秀が「倭奴国奉朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜るに印綬を以ってす」。天明4(1784)年、筑前志賀島の百姓・甚兵衛が、田の溝の中から日本考古学史上希有な遺物、国宝「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」の金印を発見した。弥生時代の農村は、旧石器・縄文時代同様、決して自給自足だけの経済社会ではなかった。人の集団の営みは、人類史が語られる以前から交易が経済の根源にあった。
  『魏志倭人伝』では「その行来、渡海して中國に詣(いた)るには、恒に一人を使(し)て頭を梳(くしけ)らず、蟣蝨(きしつ;しらみ)を去(のぞ)かず、衣服は垢(あか)づき汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、喪人(そうじん)の如くせしむ。これを名づけて持衰(じさい)と為す。もし行く者、吉善なれば、共にその生口・財物を顧(むく)ゆ、若し疾病有り、暴害に遭わば、便(すなわ)ち之を殺さんと欲す。その持衰謹まずと謂(い)えばなり。 真珠・青玉を出(いだ)す。その山には丹あり。その木には檀・杼・豫樟・・櫪・投・僵・烏号・楓香あり。その竹には篠・・桃支あり。薑・橘・椒・荷(じょうか)あるも、以て滋味となすを知らず。猴(みこう;さる)・黒雉あり。」 「その俗、国の大人は皆四、五婦、下戸もあるいは二、三婦。婦人淫(みだ)れず、妬忌(とき)せず、盗窃せず、諍訟少なし。その法を犯すや、軽き者はその妻子を没し、重き者はその門戸および宗族を滅す。尊卑各々差序あり、相臣服するに足る。租賦を収む、邸閣あり、国国に市あり。有無を交易し、大倭(だいわ)を使(し)てこれを監せしむ。女王国自(よ)り以北には、特に一大卒(いちだいそつ)を置き、諸国を検察せしむ。諸国、之を畏憚(いたん)す。常に伊都国を治す。 国中において刺史の如きあり。王、使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣(いた)り、および郡の倭国に使するや、皆、津(しん)に臨みて捜露(点検)し、文書・賜遣(しい)の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯(さそ)するを得ず。」とある。

4)弥生後期の東アジア情勢
  『後漢書』には「安帝の永初元(107)年倭の国王帥升(すいしょう)等、生口160人を献じ請見を願う」とあり、「帥升」は、史書に名の残す最初の倭人となる。2世紀初頭、日本列島に初めて「倭の国王」が登場し、後漢の第6代安帝と外交関係を結んだ。その当時の「倭国」は北部九州を中心とする大勢力とみられている。 その2世紀後半には「倭国の乱」となる。
 朝鮮半島の北部は、前漢の武帝により置かれた楽浪郡により、漢帝国の植民地的支配下にあった。2世紀になると、南部の各地の農業共同体にも、楽浪郡の柵封体制が布かれる。当地の何ヵ所の墳墓が、木槨構造を有し、前漢鏡が出土している。これらの墳墓が、3世紀の魏の時代の三韓のクニグニの王墓の前身となる。
 184年、黄巾の乱が起こり後漢は衰微していく。その2世紀後半、もともと後漢の遼東の太守だった公孫氏が、王朝の混乱に乗じて独立し勢力を拡大した。3世紀になると、楽浪郡の南に、新たに帯方郡を設置し、遼東半島から朝鮮半島西部まで支配する。220年、後漢が崩壊する。

 『後漢書』の東夷列伝倭条に「倭は韓の東南大海の中に在り。山島に依りて居を為す。凡そ百余国。武帝、朝鮮を滅ぼしてより使訳(通訳)漢に通ずる者三十許国なり。」とある。同じく『後漢書』馬韓伝では「韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。」とあるように、倭国と同様、朝鮮半島南部でも、建国の途上の混乱期にあった。
  『魏志倭人伝』は、「景初二(238)年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む」。その当時、魏の皇帝は第2代の明帝で、帝はその年の正月、遼東の公孫淵を討伐するため、大尉の司馬懿(仲達)に出撃を命じる。司馬懿軍勢は、同年9月に公孫淵を誅殺し公孫氏を滅ぼすと渡海し、楽浪と帯方の両郡を攻め領有する。
 「その年十二月、詔書して倭の女王に報(こたえ)て曰(いわ)く、親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使いを遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝が在る所は踰(はる)かに遠きも、乃ち使を遣わして貢献す。是れ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀(いつく)しむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮(か)し、装封して帯方の太守に付し授を仮せしむ。汝、それ種人を綏撫(すいぶ)し、勉(つと)めて孝順を為せ。汝が來使難升米・牛利、遠きを渉(わた)り、道路にて勤労せり。今、難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見して労(ねぎらい)い賜いて遣還(かんかい)せしむ。今、絳(赤)地交竜錦五匹・絳地縐粟罽(こうちすうしょくけい)十張・(せん;あかね)絳十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文錦三匹・細班崋罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀しむを知ら使(し)むべし。故に鄭重に汝に好(よ)き物(立派な物)を賜うなり、と。」
 当時、魏は蜀と呉と覇権を争い、最終的には魏(後の西晋)が中国を統一するが、景初二(238)年、卑弥呼が朝貢した当時、蜀は既に青龍2 (234)年、五丈原で諸葛亮を失い、国勢を支える柱石を欠き衰え、東南の呉が最大の難敵になっていた。
  『魏志倭人伝』に「男子は大小と無く、皆黥面文身す。古よりこのかた、その使いの中國に詣るや、皆自ら大夫(たいふ)と称す。夏后小康の子、会稽に封ぜらるるや、断髪文身して以て蛟龍の害を避く。 今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう)を補え、文身し亦以て大魚・水禽を厭(おさ)えんとしてなり。後に稍(ようやく)く以て飾りと為す。諸国の文身各々異なり、あるいは左に、あるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑差有り。その道里を計るに、当に会稽の東治(とうや)の東に在るべし。」と記される。 魏は倭国の列島が呉の会稽の東海にあると理解し、呉との連携をおそれていた。現に呉の孫権の年号、赤烏(せきう)元(238)年が入った神獣鏡が、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳や山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳から出土している。魏にとって大いなる脅威で、その出先機関の帯方郡を介し、朝鮮半島の南を領有するクニグニと日本列島の倭のクニグニの動向を注視していた。 当然、地理的な近さから交流が濃密となり、山陰・近畿・瀬戸などと比べて、北部九州の主な遺跡から、青銅器・鏡・土器など朝鮮・中国の資料が多く出土している。その一方では、貝輪を入れれば南西諸島の資料も含まれている。 日本列島では北海道と沖縄、そして東北北部などを例外とするが、それでも広域的な弥生文化圏が形成されていた。前方後円墳の登場は3世紀後半期とみられ、纒向石塚古墳纒向矢塚古墳ホケノ山古墳などが、その嚆矢とみられている。
 今まで地域的特性が強かった祭祀や墓葬礼が西日本を中心に統一された儀礼となってきた。銅鐸の破棄がそれを象徴する。邪馬台国の時代にはクニグニの連合がなり、巨大な環濠集落が次第に役割を失い、狗奴国連合邪馬台国連合同士の戦いとなり、武器は基本的に鉄製品となり、中央の大集落が都市化し連合国の軍事戦略・政治・経済の一大拠点となり、信仰のみならず大規模な手工業製品の生産地として発展し、海外産品をも交易品とする大規模な常設市場が形成されていった。
 卑弥呼が朝貢し「銅鏡百枚」をもらった魏の皇帝は、魏の2代皇帝明帝曹叡(そうえい)であったが、第3代皇帝曹芳(そうほう)の嘉平元(249)年には、司馬懿(仲達;ちゅうたつ)がクーデターを起こし曹爽一族を追放・誅殺し、これ以降、魏は司馬懿一族が支配する。
 司馬懿は230年、大将軍・大都督(だいととく)となり、蜀を率いる諸葛亮(孔明)の侵攻を防ぐことで軍事権を掌握した。青龍2(234)年、諸葛亮が5度目の北伐を敢行してきた陝西省渭水盆地付近の「五丈原の戦い((ごじょうげんのたたかい)」で、司馬懿は郭淮、辛?らと共に防衛に徹した。諸葛亮も長期遠征に伴う補給を屯田でまかない、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣する。やがて諸葛亮は病没し、蜀軍は撤退した。退却したのち、司馬懿はその陣跡を見、「諸葛亮は天下の奇才だ」と漏らしたという。司馬懿は撤退する蜀軍に追撃をかけようとしたが、蜀軍が魏軍に再度攻撃する様子を示したので司馬懿は追撃しなかった。その事で後世、「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」と酷評される。司馬懿は「私は生きている者のすることの見当はつくが、死人のすることは分からぬ」という言葉を残している。

5)銅鏡
 銅鏡の表面は当然磨かれて物が写すだけであるが、裏に文様が施されており、その文様が特異で、種々命名された。大きさは、直径が15cm~20cmが殆どで、前漢鏡などのように10cm未満の手鏡もあれば、三角縁神獣鏡のように20cmを超えるものもある。最大のものは、福岡県の平原遺跡から出土した日本製の銅鏡で直径は、46.5cmある。 三角縁神獣鏡は、鏡の縁の断面が三角形で、なかに神仙思想に基づく東王父や西王母などの神々と龍虎・駱駝・象などを霊獣とし浮き彫りにする大型鏡である。中国の洛陽博物館には後漢時代の径18.2cmと小ぶりの「王公王母画像鏡」が展示されている。内面の図柄は神獣の浮き彫りで、あきらかな三角縁である。三角縁神獣鏡の淵源とみられる。
 京都府木津川市山城町の椿井大塚山古墳(つばいおおつかやま)は3世紀末に築造された山城地方最大の前方後円墳である。後円部の竪穴式石室から偶然発見された、三角縁神獣鏡32面・内行花文鏡(ないこうかもんきょう)2面・方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)1面・画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡が出土した。 奈良県天理市柳本町の黒塚遺跡の前方後円墳は、3世紀後半から4世紀前半の古墳時代前期前半頃の築造と考えられている。その後円部中央の竪穴式石室から三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面が出土した。その約2km南には箸墓古墳がある。黒塚古墳の1面の画文帯神獣鏡だけは、棺内の頭部付近から出土した。この種の鏡は楽浪郡の遺跡からも出土している。画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡より古く楽浪郡を支配していた公孫氏から倭にもたらせた伝世の鏡とみられる。
 3世紀の前方後円墳などの墳墓からは、三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡・内行花文や方格規矩鏡などの後漢鏡系の鏡などが出土しているが、卑弥呼が魏から下賜された「銅鏡百枚」とはどの種類だったのかが明らかになっていない。かつて三角縁神獣鏡が有力であった。発掘調査が進むにつれ、他の銅鏡の可能性が高くなった。
 邪馬台国時代以前には、伊那国・奴国それぞれの領域内では、発掘調査から、青銅器を大量に生産できる設備があった事が知られている。画文帯神獣鏡は3世紀前葉に作られたようで、奈良県桜井市の纒向遺跡でも出土している。三角縁神獣鏡となると纒向型前方後円墳からは出ていない。後漢鏡は2世紀までは北部九州を中心に分布し、3世紀前葉からは画文帯神獣鏡が畿内地域を中心に製作されと、中国鏡も広く展開する。
 弥生時代は、北部九州が先進地として日本列島を主道していたが、「魏志倭人伝」が2世紀末にあったと記す「倭国乱」が契機となり、3世紀になると、畿内地方が優勢となり、やがて古墳時代を迎える。「倭国乱」の結果、畿内地方に倭のクニグニを治める政権が登場し、ようやく終結する兆しみえてきた。 三角縁神獣鏡の方は、製作年代の推移が型式の違いに現れ、3世紀中葉以降500年間に亘り倣製鏡(ぼうせいきょう)が製作されてきたようだ。このためか、三角縁神獣鏡は現段階で「銅鏡百枚」どころか520面以上出土している。
 三角縁神獣鏡はわが国から出土し、中国からは殆ど出土していない。また、三角縁神獣鏡の大半は、4世紀の古墳時代の遣跡から出土し、邪馬台国時代の3世紀の古墳からは1面か2面ていどで、それも共伴する土器から卑弥呼死後の3世紀末とみられている。さらに、鏡の直径も平均22㎝ほどで、中国で出土する後漢・三国時代の鏡よりも、はるかに大きい。 三角縁・神像・霊獣などの道教的要素は、洛陽付近で出土する銅鏡にはみとめられない事もあり、華南の鏡のデザインや江南の銅が用いられている事などから、「三角縁神獣鏡」は、中国から輸入された鏡ではなく、魏に征服された呉の工人が渡来してきてわが国で製作したという見方もある。その一方、朝鮮半島の楽浪郡を製作地とする説もある。
 画文帯神獣鏡は内陸部の奈良県と京都の南、それに瀬戸内の徳島県と香川県では3世紀の土器と共伴している。福岡県でも2例ある。画文帯神獣鏡は三角縁神獣鏡よりも早く倭国に舶載されていた。
 中国の銅鏡は、単に化粧道具であったが、漢の時代や三国時代の中国では、権威を象徴するものが鉄鏡で、皇族などが所有し、その多くは金銀の象嵌が施されていた。日本列島で、鉄鏡が出土するのは極めてまれで、それでも大分県の日田市からは金銀の象嵌が施された金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)が発掘され、その直径は21.1㎝ある。
 北部九州と比較すると、畿内地域の鉄器の遺存例は少なく、期待されながらも纒向遺跡でも鉄器の出土例は、顕著とまではいえない。ただ倭国の中心が畿内の纒向に移ったとするならば、当時道具材の主流となりつつある鉄器の素材ルートも北部九州勢力から奪い、新たな物流網を構えたとみなければならない。 北部九州の主要な遺跡からは、山陰・近畿・瀬戸内・南九州など日本列島各地の土器が出土し、そればかりか当然のように大陸から舶載された青銅器・鏡・中国製銭や土器が出ている。依然として沖縄との交易も深く、南西諸島産の貝輪の出土例も少なくない。
 魏志倭人伝が記す「一支国」は壱岐島で、九州と「対馬国」の中間に位置する。「対馬国」は長崎県対馬島であるが、大陸系の青銅器が多量に出土する。しかし権力と文化を担う機関の存在が、考古学資料として未だ不明となっている。「一支国」にあたる長崎県壱岐市の南東部、その平野部に広がる原の辻遺跡では、弥生時代の集落跡や墓地・水田・船着場の跡などが発見されている。その遺物は豊富で、後漢初期まで流通していた、前漢と後漢の間にあった王莽の新の時代(紀元8年~23年)の貨幣『貸泉』や、前漢の武帝 により初鋳された紀元前119年からの青銅銭五銖銭と戦国式銅剣・内行花文鏡・楽浪系土器などの中国系遺物と、朝鮮半島が産する無文土器などと日本列島各地の土器が伴出している。
 中国の銅鏡は、紀元前15世紀位からあった。既に殷や周の遺跡から出土している。しかも種類が多い。銅鏡などの銅製品を作るときの鋳型は、それほど丈夫ではないため、1つの鋳型から数多くの銅鏡を作ることはできないため、極めて貴重であった。 日本の銅鏡は、中国から伝わり、その時期は、B.C2~3世紀頃とみられている。そのため、中国鏡の分布は、地理的にも中国との交流が盛んであった北九州に集中している。 倭に関する確実な資料として最古の正史は、後漢の初頭時代に班固が書いた『漢書』地理志であり、同じ後漢時代に王充が著した『論衡(ろんこう)』がある。『漢書』は「樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云」と記す。また「魏略云『「倭人自謂太伯之後(呉の始祖と言われる太伯の子孫だという)」』、『倭在帶方東南大海中、依山島爲國、度海千里、復有國、皆倭種。』」 倭人は、銅鏡を入手するため頻繁に渡海し、中国鏡を大量に入手していた。しかも1世紀頃に製作された銅鏡の鏡面が摩耗していることから、何世代に渡り愛用され、またクニグニの首長を権威づける伝世鏡であったようだ。 直ぐに銅鏡は、日本でも模倣された。三角縁神獣鏡は、500面以上出土しているため、中国製と日本製が混在しているとも考えられる。既に銅鐸など、かなり精緻な青銅製品を作り出していた畿内では、銅鏡も作られ、日本製の模倣鏡は数千点に達していたようだ。古墳時代、首長の世襲制が確立され、また銅鏡の希少性が薄れ、伝世する必要がなくなり、首長が埋葬される際に、古墳に故人の愛用品として副葬されるようになった。

6)鉄器
   鉄製の武器・道具の優位性は、石器を一切放棄させるほどに際立っていた。比較的容易に素材を入手できる石器の使用をあえてやめ、当時の日本列島の膨大な需要を賄う鉄鉱山を採掘し、それを精錬し量産している歴史上の事実がある。奈良県桜井市の纒向遺跡では、3世紀後半に属する鉄器を鍛冶する資料と痕跡が見つかっている。近畿地方周辺でも、何ヵ所かの遺跡で、最古級の鉄器製作のための鍛冶資料が確認されている。特に瀬戸内の兵庫県淡路市黒谷の五斗長垣内遺跡(ごっさかいと)で、工業生産的鍛冶工房跡が、弥生後期の大型鉄製品と共伴している。
 纒向遺跡で北部九州ツクシ型の、鞴(ふいご)の羽口が出土した。その羽口は筒状の土製の送風管で、製鉄炉や鍛冶炉で使われる。ツクシ型の羽口の断面は特徴的なかまぼこ形で、それにそっくりなものが纒向から出土した。邪馬台国は、北部九州の技術を承継していた。
 中国の前漢時代(BC202年~AD8年)、塩と鉄は専売制が布かれ国家機密であった。邪馬台国は逸早く、その技術を伝承している。卑弥呼が女王になったのが、西暦180年の終わり頃である。その邪馬台国の成立時直前まで、祭祀用に北部九州のツクシでは銅矛、ヤマトでは銅鐸が主要祭具であった。出雲や吉備では、弥生時代中期末から後期初めのAD 50年頃までには、大きな銅鐸を使用しなくなっている。この時代、列島各地では、朝鮮・中国との関係において、独自に交易関係を維持していた。
 「魏志倭人伝」には「その地に牛馬虎豹羊鵲なし」とある。カササギはスズメ目カラス科に分類されるカラスである。ユーラシア大陸と北アメリカ西部に生息する。それがことさら「鵲なし」と魏の使者に報告されたのだろうか。現在、日本では佐賀平野一帯や筑後平野一帯など有明海を取り囲む平野部でみられる。通常のハシブトカラスのように群れをつくらない。カササギは、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1,592~1,598)の際、佐賀藩主、鍋島直茂が朝鮮半島より持ち帰り、逃げ出したものが野生化したという。近年では糸島市や福岡市西部にも分布を広げている。ちなみに朝鮮半島では野生の猿は棲息していない。
 カササギは朝鮮半島では霊鳥であるため、魏の使者に同行した朝鮮や帯方郡の使者が、ことさらのように伝えたのであろう。福岡県博多湾岸の2~3世紀の遺跡からは、通常朝鮮半島の土器が沢山出る。早良区西新の西新町遺跡では、渡来人のカマド付き住居や頻繁な往来を物語る多量の朝鮮半島の瓦質土器が見つかり、国際交易の港津として栄えていたようだ。この遺跡からは地元の土器はもとより近畿系の外来土器も少なからず出土している。
 弥生時代の鍛冶は、鉄の鏨を切って加熱して鍛造する技術であったが、博多のツクシ型羽口による高温操業の鍛冶技術は、鉄板を重ねて鍛え丈夫な鉄器を作る。纒向遺跡にもこの高温操業の技術による鍛冶工房跡が遺存している。この先端的技術は、またたく間に南関東にも伝わる。鉄器の需要がいかに盛んであったかが知られる。 鉄は九州の遺跡から豊富に出土する。京都府北部の丹後地方でも弥生後期から3世紀にかけてかなりの量が出ている。京丹後市大宮町三坂の三坂神社墳墓群は、弥生後期初頭から前葉にわたる、標高68~82mの尾根上に階段状に立地する6基の方形台状墓からなる。そこから39基の墓壙が発掘された。この中で三号墓は一辺18m不整形な方形で築造され、その5.8×3.7×2.0mあり巨大な墓坑に、大きめの木棺が埋葬されていた。被葬者は黒漆塗りの儀杖を持ち、腰に大陸製の素環頭鉄刀を差し、頭部を豪華な玉類で飾り、立派な鉄製と弓矢が副葬され、鉄鏃などの武器、農具などの鉄製品も出土した。しかし近畿では出土例が極めて少ない。
 平成12(2000)年4月7日、大和古墳群学術調査委員会は、第4次発掘調査で出土したコウヤマキ製の刳抜式木棺(長さ5m、幅1m)の破片を、放射性炭素(C14)年代測定法で分析した結果ホケノ山古墳の築造年代が、3世紀半ばから3世紀第2四半期の225~250年頃に遡ると発表した。その石積木槨からは、銅鏃60本以上、鉄鏃60本以上、素環頭大刀1口、鉄製刀剣類20口以上、鉄製農工具類、完形で副葬された画文帯神獣鏡一面のほか、意図的に打ち割られた画文帯神獣鏡、内行花文鏡などの破片23点と加飾壷などが出土した。大和・河内では、宮内庁の規制で発掘が困難になっている前方後円墳に、大量の鉄製品が副葬されているようだ。
  『魏志倭人伝』には「五尺刀二口」を「鄭重に汝に好物を賜うなり」とある。魏の1尺は23㎝余りで、5尺であれば1m20~30㎝となる。2世紀末から3世紀に掛かる約120㎝の長大な鉄刀が、福岡県前原市(まえばる)にある伊都国の上町向原遺跡(かみまちむかいばる)から出土した。同年代では日本海沿岸の福井県吉田郡永平寺町の乃木山古墳(のぎさん)から素環頭鉄刀が4点出土している。各々25~58㎝あり、その内2点は木製の柄が付いていた。鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内の宮内第1遺跡1号墓からは全長 94 ㎝の大刀が出土している。大阪市東淀川区東中島の崇禅寺遺跡(そうぜんじ)からは、長刀の柄が出ている。かつて大阪平野には大きな河内潟(かわちがた)があり、崇禅寺遺跡は大阪湾から河内湖に入る潟湖(せきこ)の入り口にあたる。

7)卑弥呼は何故シャーマンであるのか?
   「三国志」の『蜀書』には前漢の皇族の末裔である劉焉の伝記が記されている。そこに書かれる鬼道とは道教である。卑弥呼が「鬼道を事して」、それ以前の宗教・政治・文化の全てを覆す画期となった。道教では悟りを開いて到達する神仙のシンボルは鏡と剣である。玉は含まれていない。
 卑弥呼が君臨して統治する30ヵ国があった時代、九州全域で約50ヵ国あり、その内先進地北部九州では40ヵ国を超えていたとみられている。卑弥呼は「倭国乱」を、朝鮮半島が自律的に統合されるはるか前に、ヤマト国として統治制度を確立し、朝鮮半島との交易と中国王朝との朝貢関係を育て、その舶載品を纒向の市場に集め、倭国乱を鎮静化した女王である。
 卑弥呼がシャーマンであれば、各種の祭祀を行いながら神懸りとなり、神霊から託宣を戴き政治をする。なれば、海外の政治情勢を踏まえながら交易ルートを再構築してきた卑弥呼の政権とは余りにも異質である。

8)卑弥呼の墓
  巨大な墳丘を特徴とする古墳が、4世紀になると全国一斉に築かれるが、弥生時代後期には山陰地方で、首長墓として独特な形態をみせる巨大な四隅突出型墳丘墓を出現させている。
 邪馬台国では弥生終末期に埴輪や葺石を伴う巨大な前方後円墳が、既に定型化しながら最古として箸墓古墳が存在する。しかし、近年、纒向石塚古墳やホケノ山古墳のように前方部が低く、後円部が高い墳丘になっている纒向型前方後円墳と、その墳形に近い墳墓が関東から九州で多く確認されている。 纒向型前方後円墳は弥生時代の墳丘墓なのであろうか。畿内を中心とする広域首長連合の政治・祭祀と流通経済を統合する象徴として、墳丘をもたない地域でも、纒向の前方後円墳を体系的に受容していく。それはまた箸墓と相似していた古墳の形態や諸地域の様々な墓制などが昇華され、箸墓で集大成されていたことでもあった。それにより各地の首長層の墓制となり、常に畿内で進化する前方後円墳の規格が、また新たな規格となって多くの地方で縮小され形で受容されていった。
 卑弥呼の墓は「魏志倭人伝」によれば「径百余歩」である。それは直径150mとなる。箸墓古墳の後円部の径に近い。九州には、これに比定できる巨大古墳がない。しかし箸墓古墳やホケノ山古墳から出土した土器は「布留0式(ふるぜろしき)」で280年から300年頃である。近年、国立歴史民俗博物館が、箸墓古墳の周濠から入手した土器に付着した「お焦げ」を炭素14年代測定法で分析したら260年頃と報告している。年代的に卑弥呼ではむりで、台与なら相当であろう。  「径百余歩」が円形で150mとすると、3世紀の中頃から後半にかけて、その規模の円墳は日本列島に存在していない。

9)弥生時代の集落
   平成21(2009)年、纒向遺跡から4棟の高床建造物跡が出土した。3世紀の建造物の出土例は、圧倒的に弥生先進地の北部九州に集中し、佐賀県の吉野ケ里はもとより、大分県宇佐市大字荒木字小部の小部遺跡(こべ)、同県日田市の小迫辻原遺跡(おざこつじばる)など環濠集落が多数あり、しかも太陽の運行を意識した配置であった。 小迫辻原遺跡は、日田市大字小迫の通称辻原と呼ばれる台地上にある。そこで発見された2基の環壕居館は、出土した土器から布留式最古相期とみられ、3世紀末~4世紀初頭の年代と位置づけられる。しかも、ここに出土した2基の居館には時代差はなく、同時代に併存していた。古墳時代の居館跡は、これまで北関東や近畿地方を中心に発掘されているが、小迫辻原遺跡のように壕に囲まれた居館が2基並んで発見された例はない。 小迫辻原遺跡の台地は、東西約700m、南北約400mの平面三角形の独立台地で、標高は約124mある。周辺にはほぼ標高を同じくする宮ノ原・草場・山田・朝日・吹上といった台地遺跡が続き、弥生時代から古墳時代の大規模な集落や墳墓が発掘され、その斜面や崖面には数多くの横穴墓が発見されている。

 チグリス川・ユーフラテス川周辺の肥沃な台地に恵まれメソポタミア文明は、エジプトなどよりも早く農業が行われていた。その祖は紀元前9,000年頃に移住してきたシュメール人であった。その文明発祥の地は、今のイラクのユーフラテス川の下流域で、気温が高く降水量の少ないため、人工灌漑によって麦作を中心に農耕が行われていた。 ウルク遺跡は、農業が始まって5千年を経た、紀元前3,200年~3,300年頃の世界最古の都市として遺存している。その都市は周囲9kmを超える城壁を廻らせ、その中心部には神殿・宮殿あり、その他の公共施設が密集し、その周りには非農耕民の一般家屋が取り囲み、石器や金属の加工場があり遠方から送られて来た物の荷捌場もあった。最盛期の面積は450haほどある。そのウルク市は、各地に商業拠点として衛星都市や包領地を設け、広域的な都市間の物流ネットワークを形成していた。
 一方、奈良県磯城郡田原本町唐古及び鍵にある唐古・鍵遺跡では、石器・土器・木製品・糸魚川産のヒスイなど、弥生時代の遺物の殆どが豊富に出土し、弥生時代の前・中・後期に亘る日本有数の大環濠集落遺跡と知られた。特に京都大学と奈良県教育委員会が行った昭和11(1936)年からの唐古池底の発掘調査では、湿地であったため遺物の保存が極めて良好で画期的成果を挙げた。貯蔵穴100余基と多数の土器、鋤・鍬類、中央に握り部分があって縦方向に搗(つ)き、脱穀などに使われた棒状の竪杵(たてぎね)・臼・田下駄・槌(つち)など農耕に関連する木製品の出土により、水耕稲作を生業の主体とする弥生時代の実態が具体的に彷彿される成果を挙げた。その他にも、木製武器類・用途不明の斧頭状木器・槌形木製品・箆(へら)形木製品・両把形木製品などが発掘された。鉄器製工具の登場により、多種多様にして細部にまで拘る精巧な加工を可能にし、新たな木製品の文化を築いた。
 唐古・鍵遺跡では、大型建造物跡や青銅器鋳造炉など工房跡が発見されている。東西600m、南北700mの不整円形な範囲であるが、周りには一番多い時で9重の環濠が巡っていた。奈良盆地のほぼ中央部にあり、 初瀬川寺川に挟まれた沖積地に営まれた弥生時代の大環濠集落跡である。環壕は弥生の集落が日常の防御のため備えたが、その淵源は中国にあり、本格的な水田稲作の到来に伴い普及した。 弥生中期初頭の紀元前3世紀と中期中葉の紀元前2世紀、それぞれの大型建物跡が1棟ずつ発掘されている。それに付随する施設は未だ発見されていない。弥生中期末の紀元後50年前後の土器には、2階あるいは3階建ての楼閣か城門の絵が描かれてあった。屋根には3羽の鳥がとまっていた。吉野ヶ里でも二階建てや三階建ての大きな建物が復元されている。奈良県でも、そのような建物が建造されていたようだ。 弥生中期末紀元前1世紀から後期初頭紀元後1世紀に掛けて銅鐸・銅鏃・銅釧(くしろ;青銅製の腕輪)が量産されていた。唐古・鍵集落の南の出入り口には、小さな橋が掛かっていた。その近くに青銅器の工房があった。しかし後期後半になると、その青銅器生産は低調になったようだ。 近畿地方の弥生時代の拠点的集落は、縄文時代の環状集落同様、同心円的で、発展・拡大するのも同心円的、しかも縄文的集落の文化・風俗も根強く、それが秩序体制を維持していた。弥生後期後半になると、北部九州や山陰地方のように巨大化・拡充することなく、その環濠集落は衰退した。 唐古・鍵の集落が衰退期を迎えた直後の2世紀末頃から、そこから東南4km初瀬川の上流の纒向で土地造成が開始された。ヤマトに「倭人」の集団が到来した。

10)池上曽根遺跡
 池上曽根遺跡は近畿地方屈指の大規模な弥生時代の巨大環濠集落で、南北1.5km、東西0.6kmの範囲に広がる遺跡の総面積は約60万㎡あり、大阪府和泉市池上町を中心に泉大津市にまでまたがりっている。阪和線信太山駅(しのだやま)から昔ながらの町並みを歩いて10分位である。この地域では条里制が早くから整い、本遺跡が形成・展開され時代の旧地形は辿りにくくなっている。多年にわたる調査により、当時、信太山丘陵よりに流入する1河川が池上の現遺跡付近で2岐に分流し、北西と南西に流下していく。池上曽根遺跡は、この2岐に分かれる分流点の西方の微高地上を占有地とした。
 弥生時代の近畿における大規模集落の構造の基本は、首長の居館を中心にする同心円的展開で、祭殿や金属器・石器・木器などの手工業製品の工房が重視され近接されている。池上曽根遺跡では中央より、やや北寄りに首長の居館があり、その南側に祭殿・大井戸・金属器工房があった。それらの重要施設に南接するのが石器・木器などの工房群であったようだ。これほどの大集落の人口を支えるには、環濠外にある近隣の水田稲作や畑作だけでは賄いきれない。おそらく未だ発掘はされていないが集落の中心に市場があったとみられる。
 昭和36(1961)年に竪穴住居祉が出土した。一番南側にある内濠辺りに竪穴住居群があったようだ。 平成7(1,995)年の調査では、集落の中央に東西19.2m・南北6.9m、床面積は133㎡と推定される弥生中期後半の大型掘立柱建物跡が発見された。建物の柱には、直径50~60㎝あるヒノキの大木が使われていた。26個の柱穴のうち柱根が17本残されていた。平成8(1996)年に奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏が、腐らずに遺存した柱の年輪を調べた結果、この内の一本の伐採年が紀元前52年と判明した。大型掘立柱建物跡の両妻側に独立棟持柱(どくりつむねもちばしら)があった。 その建物の南には1本のクスノキの丸太を刳り抜いた直径2.3m、高さ約1m程ある枠が遺存する井戸が掘られていた。井戸の周囲には4本の柱穴があり、覆屋(おおいや)があったようだ。調査の時も井戸の水は湧いていた。大型掘立柱建物と一体で行われた祭祀施設とみられる。その付近には、大型蛤刃石斧・サヌカイトの剝片・タコ壺などを埋設した土坑があった。稲作とタコ壺漁労があり、漁網用の土錘や石錘なども散漫に出土している。 この集落は、弥生前期~後期(B.C.300~A.D.200)にかけて営まれ、二重から三重の環濠に囲まれた拠点集落と考えられている。 首長居館や神殿・工房などを中心施設とし、ぐるりと取り巻くように一般の人々が住んでいたと推定される。
 吉野ヶ里遺跡では、集落の居住地の広さから500人は超えないとみられている。文化人類学によれば、弥生時代以前では、集落の維持には住民の交流関係が基本となり、500人が構成員の最大限という。池上曽根遺跡の調査担当者の見解では、集落の最盛期にあたる弥生中期末の紀元前1世紀には、1,000人を超える住民がいたという。しかし、池上曽根遺跡内にある居住区は当面発掘が困難で、調査の全容は解明できないままにあるため、人口の推定は困難となっている。 池上曽根遺跡では石包丁が多数出土している。和歌山県の紀ノ川水系で取れる緑泥変岩という石を運びこみ、石包丁に加工していたようだ。ここで作られた石包丁は大阪東・南部の集落でも使われていた。近畿地方の弥生時代の拠点的集落は、木製農具を作る大型蛤刃石斧、武器などの打製石器、木器、青銅器などの手工業的生産がなされて、相互に交易を重ねるネットワークが存在していた。 それでも青銅器生産が大規模におこなわれたようにはみえない。タコ壺が埋納坑に整然と並べられ、漁網用の土錘や石錘などの生業具が遺存し、漁労や農業の産品が拮抗している。
 池上曽根では交易商人や運搬人を育て上げているが、手工業品が十分に生産され、第二次産業が第一次産業から離陸し都市を形作ったとまでにはいえない。街中に遺存する池上曽根遺跡では、発掘調査もままならず、未だ周辺から弥生の水田も現れていない。タコ壺・土錘・石錘などで生業を営む漁労民が環濠内で生活をし、その住民でもあった農耕民が水稲や畑作野菜を運び入れる、食料の殆どを自給する縄文時代の拠点的集落そのものの構造であった。農耕・漁労・狩猟と青銅器・石器・木器といった各種手工業職人も共存する池上曽根集落は、自給自足が根底にある巨大な農村風景を描き出していた。

11)弥生時代の鉄器の流通
  『魏志倭人伝』に記される「倭国の乱」は2世紀後半にあったとされている。その「倭国の乱」を契機として倭国の中心が畿内へ移ったと見られる。その時から、石器に代わり鉄器へ全面的に転換する画期を迎える。それまで鉄器の流通を掌握していた北部九州に代わり倭国を統轄する勢いにある畿内勢が統制下に入れる。ただ生産の拠点まで、畿内へ移ったとはいえない。弥生時代後期における畿内での鉄器の出土例が、鉄鏃・鉇・釣針・釧その他などを含め極めて少ない。刀・剣・槍では、ようやく北部九州の半分近くになるが、中部・東海を含めた地域と比べると、やや劣る。
 弥生時代には鉄器を再加工する技術はなかったようだ。 「景初二年(238)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将(ひき)い送りて京都(けいと)に詣らしむ。」 卑弥呼が魏の明帝曹叡から下賜された「銅鏡百枚」は、3世紀の墳墓、特に前方後円墳から出土する後漢鏡画文帯神獣鏡三角縁神獣鏡にしぼまれる。画文帯神獣鏡は3世紀前葉に製作されていた。纒向のホケノ山古墳でも出土している。三角縁神獣鏡の方は前方部が低く後円部が楕円形の纒向型前方後円墳では、未だ確認されていない。然しながらこの特異な墳墓に倣う墳形が、東は関東から西は九州へと広く伝播している。
 184年に勃発しる黄巾の乱により後漢は事実上崩壊する。その後漢鏡が3世紀の墳墓とその後広く倭国に普及する前方後円墳で出土している。当然、伝世鏡か模倣鏡である。 弥生中期に拡大した拠点的集落では、近畿・北部九州・東海・関東でも、首長がクニの王となるまでの階級的支配が期待されていなかった。ずば抜けて都市化の多くの要件を備える福岡県須玖遺跡や佐賀県吉野ヶ里遺跡が、池上曽根遺跡同様、弥生後期には衰退する。関東地方でも同様で、この時代に未だ明らかにされていない画期的事変が生じていた。それを単に「倭之乱」といえば極めて楽である。
 近畿地方では、弥生中期に首長の墓が大きく作られる傾向があるが、副葬品に関しては、東海・関東・山陰でも特別な量と質に差異がなく、むしろ家族墓として集落内の住民と共にする墓域内にある。工業の拡大とそれに伴う交易市場の発達は、次の時代を担う纒向都市と比べればはるかに未熟であった。
  『魏志倭人伝』が記す卑弥呼の墓は「径百余歩」とある。それは直径150mの値となる。それほどの巨大古墳は、九州全域で発掘されていない。だが直径150mは、箸墓古墳の後円部の直径に近い価を示す。『魏志倭人伝』の「大作冢(つか)」を「大きな墓を作った」とも、「大いに墓を作った」とも解される。いずれにせよ、九州地方では「径百余歩」の墓は存在しない。 ウルフ遺跡は、農業が始まって5千年後、紀元前3,200年~3,300年頃に世界最古の都市として建設された。日本の弥生時代は紀元前350年頃に、ようやく水稲栽培が本格化されていく。日本列島における西日本と東海・関東圏の都市の建設が、いかに急速であったかがしられる。その解は縄文時代に既にあった大規模な拠点的集落の存在であった。
 水田稲作を生業の重点としながら、依然として等質的に横並びする集落間の縄文時代当時のままの交易物流が維持されていた。それでも弥生中期の特徴として、北九州・山陰地方や近畿方面では、戦いの痕を留めるいくつもの遺跡がある。後期になると、やがて収束へ向かい2・3世紀になると西日本では石器が使われなくなる。その画期となったのが、鉄素材の入手であった。日本列島の主要な地域に鉄器が完全に普及したのがこの時代であった。青銅製であれば殆どが遺存するが、錆びるためごくわずかに鉄製の鍬や斧が出土するだけだ。
 石器・木器に代わり鉄器が武器や道具素材の主流となると、その鉄素材は朝鮮半島の南端・伽耶や中国大陸から入手せざるをえなかった。日本海を越える海外交易ルート漢文による朝貢外交を原則とする中国王朝との繋ぎは、一朝一夕では無理で、各地に割拠する首長層では対策のたてようもなかった。
 『魏志韓伝』の弁辰の条に「弁辰 その国、鉄を出す。韓、 、倭、皆これを取る。」とある。長野県下高井郡木島平村の根塚遺跡(ねつか)から、弥生時代終末期の鉄剣が3振り出土した。その内の2号剣をX線写真でみると握りの柄頭に1か所、柄尻に2か所、蕨のような渦巻文装飾がみられた。この渦巻文装飾は日本列島の弥生時代の他の遺跡からは出土例がない。それは朝鮮半島南部の釜山周辺の伽耶地方独特のものであった。
 長野県の北部では、弥生後期の北陸系土器が多量に出る。それだけ北陸との交流が頻繁であった。長野県北部、それも内陸深い木島平村にも、伽耶と北陸を経由する日本海ルートを通じた物流が寄与していた。 それに対応できた首長層間で、対外的流通を尚一層発展できる首長が選ばれ、クニグニの王となる。国内・国外の交易流通網を築き、それに伴う海外の先端技術と嗜好品を導入する能力がなければ、各地方に割拠する諸勢力をまとめることができない。近畿の邪馬台国の女王・卑弥呼は国際的交易と外交を進める能力があり、そのルート上の各地首長が靡けば、他の首長も対抗する術がなく、むしろ積極的に服属し、邪馬台国を発展的に築き上げる一員として参加し、その原動力となろうとした。やがて日本列島を支配することを視野に入れる古墳時代を迎える。
 中国の湖南省長沙にある紀元前2世紀・漢代の墓葬群、馬王堆漢墓(まおうたいかんぼ)の柳行李(やなぎこうり)中に「利蒼」と刻まれた玉材私印が1個、「軑侯之印」「長沙丞相」と刻まれた鍍金亀鈕銅印が各1個ずつ、計3個の印章が見つかり、これが被葬者を特定する決定的証拠になった。「利蒼」は長沙王の丞相で、BC186年に没している。その柳行李のロープの結び目に、蒲鉾板のような木がとりつけられ、その台面に3㎝位の溝を切り、そこに粘土を貼り付け判を押していた。その封泥がたくさんなされていた。魏の皇帝から卑弥呼に与えられた「好き物」にも封泥が押されていただろう。その封泥の台木は、未だ奴国しか出土していない。

12)箸墓古墳の木製鐙
   2001年12月1日(土)『西日本新聞』は報じた。 「奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市教委は30日、「輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄されたと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」と発表した。
 国内での乗馬の風習は、副葬品の馬具や日本書紀の記述から、4世紀後半以降、朝鮮半島の百済などとの交渉を通じて伝えられたとする見方が有力であった。実用品である鐙が見つかったことで、定説を50年以上さかのぼり、乗用馬が4世紀初めに存在した可能性が高くなった。初期ヤマト政権の交通事情や対外交流をさぐる上で重要な資料になりそうだ。
 箸墓古墳は卑弥呼の墓とする説もあり、市教委が3年前に後円部の周濠跡を調査した際、埋土の中から輪鐙が出土。アカガシ型で残存長16.3㎝、最大幅10.2㎝。鞍からつり下げるためのほぞ穴(縦1.5㎝、横1㎝)が付いていた。足を掛ける輸の下側が失われているが、復元すると長さ23㎝、幅13㎝の台形のつり革に似た形とみられる。輪鐙は落葉などが20~30年にわたってたい積して固く締まった層から、4世紀初めの大量の土器とともに出土。同時期に投棄されたとみられ、後世に混入した可能性は低いという。鐙は、乗馬が得意でなかった農耕民の漢民族が3世紀ごろ、馬にまたがる際の足がかりとして発明したとされる。現存する最も古いものは、天安斗井洞(朝鮮半島・百済時代初期)の木芯鉄板張輪鐙とされている。箸墓の鐙もこれに並ぶ現存最古級とみられる。」
 箸墓古墳の濠の上層部から、4世紀初めの物とみられる乗用馬の木製鐙(あぶみ)や、大陸性の銅鏃をまねた木製の矢尻などが出土した。円丘部東南の内濠は幅が100mあり、完全に硬い層で覆われ、その最下層から布留Ⅰ式土器と伴出した。布留Ⅰ式土器の始まりは3世紀末ないしは4世紀初めといわれている。鐙は、乗馬を日常とする中央アジア系の騎馬民族に必要はなく、通常、乗馬する習慣がない農耕民族が馬に乗るときの足踏みとして利用したものが発達したようだ。
 鐙の発明が中央アジア系の騎馬遊牧民ではなく中国と推定されるのは、遊牧民は子供の頃から馬に乗っているので、騎乗するときは馬と共に早駆けし飛び乗ることができる。片足を掛けて馬に乗る必要なかった。 馬上姿の選良一族が、既に登場していたのであろうか。農耕民族が馬に乗るというのは特権階級や軍人などでは不可欠で、鐙や鞍などの馬具の開発が切実になっていた。 箸墓で4世紀初めの鐙が出土した事実は、それ以前に中国から鐙は伝来していたとみられる。
 現に3世紀には中国で既に発明されていたとようだ。実際、昭和33(1,958)年、中国・湖南省長沙市で永寧2(302)年と記された磚(セン;れんが)が残る墓の中から陶製の騎馬俑が多数出土し、その中で3騎だけ鐙が装着されていた。明確な年代が分る鐙では最古のもので、少なくとも鐙は西晋時代に存在していた。現に昭和49(1,974)年、河南省安陽県孝民屯の西晋墓より出土した1組の馬具の中に、金メッキをした金銅製の鐙が含まれていた。
 鐙という馬具の機能は、騎乗する際の足場だけでなく、戦闘中には極めて有効で、馬上固定された硬式の鞍から下げられた鐙に両足を踏ん張れば、両手は自在となり、馬上で弓を引き・槍を突いて投げ・剣を諸手で振るうなど、戦闘時の動作が多様となり威力を増した。

 漢の武帝時代、中国の北隣から駆逐された匈奴の末裔とみられるフン族が、中央アジアキルギス高原に達して定着した。多数の家畜を抱え遊牧し、草原資源が枯渇したため、2世紀以降、中央アジアより西のヨーロッパ方面に移動した。350年ころには南ロシア草原地帯に移動した。在地のイラン系騎馬遊牧民族サルマート人を支配下におさめた。375年ころにはサルマート人と共にボルガ流域の東ゴート族を征服した。これが隣接する西ゴート族を東ローマ領内へ追う要因となり、西ローマ帝国を滅亡させたゲルマン民族の大移動の契機となった。
 この時代にユーラシア大陸の西部に猛威を振ったフン族が、鐙を使い騎乗弓射で馬上戦を有利に展開していた。

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