月見山の後背地が埴原田城跡です。 明治2年の廃仏毀釈で廃された神宮寺の蓮華院が移築され本堂となった。 麦草平で、古来7月~8月になると小屋掛けし、炭焼を生業としていた。 江戸時代、諏訪から上田、佐久に抜ける近道があった。
月見山から眺める埴原田集落 浄土宗の古刹、埴原田の紫雲寺 山辺の里、北山浦の柏原集落 音無川右岸の柏原山

霧ヶ峰 のぼりつくせば 眼の前に 草野ひらけて 花咲きつづく      島木 赤彦
うれしくも 分けこしものか はろばろに 松虫草の 咲きつづく山      長塚 節

車山・霧ヶ峰峠道            Top

 目次
 1)時代背景
 2)柏原山の草木資源の枯渇
 3)ホーロク坂道
 4)北大塩峠

1)時代背景
 麦草平は芦田等5ヵ村の山で、代々小諸の領主が巣鷹を下した御鷹山であった。巣鷹とは巣にいる鷹の雛で、これを捕らえて鷹狩り用に飼育した。
 昭和30年(1955)年4月1日 、芦田村・横鳥村・三都和村が合併し、立科村が発足している。立科町の前身である。小諸藩は、小諸市中心部のほか、依田信蕃とその子依田康国の城主時代の歴史的経緯から立科町の芦田付近までを領有していた。
 天和2(1682)年徳川綱吉の時代、柏原村から幕府への口上書に、延宝4(1676)年辰年の早朝、芦田村の人々「数百人の人数を催し、鉄砲67拾挺(ちょう)先立て色々道具を持ち来たり、炭焼小屋に押し寄せ時(鬨;とき)の声を揚げ鉄砲撃ち懸け」たとある。その小屋にあった、諸道具、衣類、米飯、2千俵等を奪い、火を放った。芦田村の人々の憤りは激しく、また用意周到で多勢に無勢、一旦は引き下がる。
 翌日柏原村の衆は、「麦草平と申す処にて、鰍原9箇村の者、先規によりて7、8月に成り候へば、小屋を書け置き炭を焼き薪を取り候て渡世を送り申し候」と芦田村の庄屋にかけ合うが、相手しない、それで小諸藩に訴えた。ところが芦田村は既に江戸へ「先規の境より諏訪領へ1里廿7町踏み込み、琵琶石附近を境」と主張し出訴していた。琵琶石附近とは、八子ケ峰の裾野、白樺湖南側で小さな渓流が流れている。
 これにより柏原村は幕府評定所より返答書の提出を命じられ、江戸へ出府した。延宝5(1677)年8月21日の高島藩「大納戸日記」に「帷子1つずつ、諏方より参り候百姓5人に下され候、南大塩十三郎、北大塩吉兵衛、芹ヶ沢長兵衛、久左衛門、弥左衛門」とある。当然評定所事件であるから、江戸へ出府し高島藩の助力を、願い出たのであろうが、「帷子1つずつ」を下賜され激励されただけであった。まして「芹ヶ沢久左衛門、弥左衛門」とは、天和2年の口上書に柏原村の庄屋と年寄りとして署名している。「大納戸日記」の記録の誤りであるが、高島藩の認識と応援もその程度が限界であった。
 速くも延宝5(1677)年9月25日、幕府評定所8人の署名押捺により、絵図と裏書で裁許が下された。それには「同国諏訪郡鰍原村北大塩村南大塩村堀村久保田村鷹目村塩之目村山寺日向村、立科山境論の事糾明せしめ」と関係した村9村の村名が載る。対外的な争論であるので、利害関係する村数を増やしたと見える。しかし当時の村名を知る重要な史料となると同時に、江戸初期から柏原山の入会に関わる村落が既にこれだけあった事実は重要である。
 評定所は町奉行、寺社奉行、勘定奉行と老中1名で構成され、これに大目付、目付が審理に加わり、勘定所留役が実務処理を行った。 次いでその裁許状には「諏訪領より、さいの河原境の由これを申すと雖も、明暦3(1657)年万治3(1660)年麦草近所より小諸領塩沢村八重原村、堀水2筋掘り取り候ところ諏訪領異論に及ばず」とある。かつて塩沢と八重原村が塩沢汐八重原汐を掘った時、諏訪の村からは、何の異論も出ていないという。
 塩沢村は現在の立科町塩沢で、塩沢汐は女神湖の下流域に、未だその名を留めている。東御市の八重原区はかつての北御牧村南西部にあり、立科町に接していた。八重原台地は、雨量が少なく、江戸時代に立科町の蓼科山麓の水源から汐を引き、水田を開発した。
 「その上、深沢川の橋、芦田8ヶ村先規懸け来たり候儀、芦田村の者16年以前寅年の証文、之を差出、証拠分明候、且又立科山叢祠(そうし;草むらなどにある祠)の神主芦田村居住の条、旁々以て小諸領理運(りうん)也」と小諸領である事が理に適っている。そして「即ち小諸領申す所の屋しが峰境これを定めおわんぬ、向後諏訪領の者境越し立科山の内へ入るべからず、後鑑(のちかがみ)として絵図面境筋これを引き、各々印形を加えて双方へ下し置く間、右の旨永く遺失せざる者也」とはっきりと裁許している。絵図の境界に黒筋を引いて明確に示している。その黒筋は八子ヶ峰の峰を下り、池の平琵琶石までとされた。しかし分杭は打たれなかった。
 敗訴以降も幾度か口上書を差し出して入る。しかも依然として侵入して鎌を奪われたりしている。結局、芦田村や大門村から木を買い、炭を焼くようになり、明治以降もそれが続いた。
 元禄時代(1688~1703)には、諏訪郡内に千石内外の村々が発展してくる。矢ヶ崎上桑原下桑原真志野上金子文出(諏訪湖畔近く宮川両岸)等の村々である。山浦では南大塩一村だけであった。

2)柏原山の草木資源の枯渇
 小諸藩では、「麦草平」を小諸領佐久郡として「立科御番所」を設け、番人を置き諏訪からの侵入者を監視した。「麦草平」は、蓼科山西麓にあたり、現在の南平の北側一帯の呼称であった。柏原村の民は、大門道を上り、現在の白樺湖・池の平より手前の「たたら」から「たでし那山道」に入り、餅栗川を遡り、餅栗久保を通り、八子ヶ峰を越え、蓼科山西麓の「すずらん峠」のある麦草平まで草木を採集に行った。特に、麦草平では古来より7、8月になると、柏原村の民は小屋を建て、炭焼窯を営み、薪を採り生業の足しとしていた。
 天明6(1786)年、柏原と北大塩村が郡奉行に差し出した口上書には、「境は雨境峠の途中の割橋(わればし)で、7年に一度、その橋を架けなおしている。この橋の対岸に8年の一度の御頭に際し境注連(さかいしめ)を渡した。また小県郡大門村との境も、峠を半道下った小深沢が境で、同様に、境注連を引いた」と主張している。
 「注連」は、「注連縄(しめなわ)」にも通じるが、「標」とも書くように、土地の領有を示したり、出入りを禁止したりするための「標(しるし)」をいう。杭を打ったり縄を張ったり、木を植えたりする。割橋は今でも架けられている。また大門村の「境注連」には、「注連木(しめき)」を植えたようで、現在の「姫木」の地名の由来となっている。

 延宝の裁許に諏訪郡は敗れたが、その後も柏原村は、執拗に幕府に境界を元に戻すように訴えている。天和2(1682)年3月の訴状には、「巳の年(延宝5年)、小諸領の百姓が大きな偽りを申し掛け、琵琶石の近所を境に立てられた」、そのため「鰍原村より琵琶石まで1里3町の内、一円木草これなく9ヵ村之者難儀」と訴えている。その9ヵ村とは、「同国諏訪郡鰍原村、北大塩村、南大塩村、堀村、久保田村、鷹目村、塩之目村、山寺、日向村」を指す。
 明治10年の「公有地取調帳」には、柏原山は内山が139町余りで、軒別に割り当てられ、5年ごとに割り替えている。外山が661町余りで北大塩が入会し、同じく外山の351町余りが、北大塩が入会の他、中村、上菅沢、山口3ヵ村が札入会をしている。その札入会は、明治34年まで続いていた。江戸時代もほぼ同じ状況で推移してきたようで、柏原山の草木は、枯渇していたようで、天和2(1682)年3月の訴状は、誇張ではなかた。 それで、芦田山や大門山から、代米、代銭を出して、草木を買うことになった。
 広大な音無川の両流域を占める柏原山も、江戸初期から禿山(はげやま)状態となっていたようだ。 柏原村も、生活、生産財の資源不足となり、弘化2(1845)年、芦田8ヵ村から上木と柴、薪を買い取っている。その場所は八重原新田汐下から、南は樽ヶ沢より深沢まで、西北は諏訪道までとされた。池の平の道を通ったようだ。
 武田信玄の時代、鰍原村の両角右近と北沢与市が、池の平に建てた茶屋は、既に存在していなかった。中馬と地域住民相互の物流は、それを必要としなくなっていた。 その3年後、柏原村は南平の茅草を買っている。八子ヶ峰を越え四把坂を下って行った。
 元治元(1864)年には、大門村から、場所を丸山日向に限り、7年季で、炭材の楢、柏、雑木を買っている。明治6年には、ウド、ワラビ、ゼンマイ、秣、萱を買い取っている。

3)ホーロク坂道
 柏原山の山元は、柏原村であったが、北大塩村が古くから入会していた。延宝2(1674)年2月26日「柏原村・北大塩村、山出入り裁許の事」が出ている。それは郡奉行中島甚五兵衛他の名で、北大塩村が柏原山へ入会する範囲を定めていて「柏原山、観音堂つるね峯より一の橋の方へ、川西はホウロク坂より車坂の方入逢に仕るべき者也」とある。大門街道を流れる音無川左岸の山道が、「観音堂つるね峯より一の橋の方へ」の表現になっているのだろう。
  「ほうろく峠道」は、古東山道が米沢を通った名残の道筋で、有賀峠、杖突峠越えの人馬の近道であり、埴原田の棚畑から鋳物師屋の蛇石、八幡坂、北大塩の大桜から上の坂新田を経て、一本木新田北側・北大塩の産土社・十五社神社の西裏側を通り、前島川を渡り、藤原川の右岸にでる。
 そこに道標がある。「右大門ミち」「左山ミち」と刻まれている。この交差点を右折し藤原川の左岸を北上すると、銭小屋平に出る。その先が「ホーロク峠」で、カシガリ山の南方にあるなだらかな峠道となっている。その地形が、平らな焙烙鍋(ほうろくなべ)の底のようだから名付けられたと言われている。
 「ホーロク峠」を越えると、また道標がある。「右善光寺道」「左山道」と刻まれている。音無川右岸に沿って栃窪岩陰遺跡を通り、柏原村から1km先の大門峠よりの所に出、そのまま西岸の山沿いを登り、大門道に合流した。
 「車坂の方入逢に仕るべき者也」で推測されるが、その後の山道は極めて多岐に亙っていた。 「ホーロク峠」を下り大門道へ出、現在の白樺湖の池の平から大門峠を越えれば、大門村から上田へ向う善光寺道となり、東方へ向えば役の行者越雨境峠を越え、佐久に至る古東山道筋となる。
  「左山道」は、カシガリ山の東方へ抜ければ車山への近道であり、本来、当時、大門峠を左折し車山や霧ヶ峰を通る人は少なく、余りに遠回りで現在の車社会であればの通路で、寧ろ、「左山道」は、イモリ沢から霧ヶ峰奥野の物見石へ通じ、さらに八島湿原から男女倉山の西側から、男女倉道を経て中山道への要衝へとつながる。難所の和田峠を越えないで済む要路でもあった。

4)北大塩峠
 北大塩峠は「市峠(いちとうげ)」とも呼ばれた。北大塩三軒屋を上り口に、殿様水から横河川沿いをほぼ西に真直ぐ通り、峠の峰から現在の諏訪清陵高校の北側を下り、上諏訪町に出た。
 文政3年(1820)4月14日、高島藩8代藩主諏訪忠恕(ただみち)が山浦筋の巡見で下桑原より上がり、北大塩峠を越える正規の順路を通り、この湧水の付近に今も名称の残る馬繋場(ばんけいば)で休憩をした。その時に、殿様に生水をくみ差し上げた所、「甘露、甘露、これこそ天下の名水なり」と仰せられたと伝えられている。以来この清水は殿様水と呼ばれるようになった。
 藩主が代替わりする際、通常、領内を回る。これを御巡見といい、村々にとっても大行事となり、特に道作りが大変で村総出の作業となり何日も掛かった。山浦筋巡見の道筋は、下桑原⇒北大塩⇒塩沢⇒柏原⇒湯川⇒飛岡橋⇒南大塩⇒塩之目⇒下古田⇒矢ヶ崎・塚原⇒上原⇒神戸⇒帰城という、一日の強行軍であった。
 下桑原から北大塩峠を越えて、北大塩村に下るため、その道筋には平石を敷いたという。近年、その道路改修活性化のため、その平石の残存を撤去している。
 文政3年の芹ヶ沢では、道作りの仕上げに、御鹿山の青砂を運び帯砂にした。弘化2(1845)年の時は、触れがあって、道筋は丁寧に仕上げるが、諸事改革の折、帯砂敷砂はしてはならないとされた。
 巡見でも分かるように、北大塩峠道は山浦地方の村々にとって、城下の上諏訪への近道でもあり、主要道でもあった。農家の人々は、野菜、山菜、薪炭を馬の背に乗せ売り歩き、帰りに日常品を買って帰った。
  明治時代の農家の人々とっても、下肥は、欠かせない肥料であった。しかし薪炭等の日常品と比べ、値が張るものであったようで、馬の背に薪を1駄6把つけ、自分の背には空の桶を2つ背負い町へ出た。しかし薪を売った銭だけでは、桶2つの下肥は買えず、更に銭を持参しなければならなかった。運んできた下肥は、揚げ壷に空けられ溜められた。
 下肥は、農作物の有機肥料としては有効であり、近場で手当が出来るのが、最大の利点である。現金経済が農村にも浸透してくると、商品作物の栽培が盛んになり、都市部の下肥への需要は高まり、城下町は特に、大きな肥料資源の供給地となった。
 享保8(1723)年、京都近在の百姓総代達が、京都市中の下肥が、他国へ流出するのを禁じるよう、京都町奉行所へ訴え出てた。当時、京都の人口は40万人で、その糞尿は摂津や河内の村々にとっても重要な資源であった。糞尿商までもが登場している。彼らは高瀬舟や牛馬等で、盛んに地方へ運んでいた。京都近郊農家は、その供給が不足し価格が急騰することを恐れていた。京都町奉行所は、その訴えを聞き届け、下肥の他国への積み出しを禁じた。以後、焼印を押した糞尿桶以外の高瀬舟や牛馬への積み出しを禁止した。
 また北大塩峠道は、霧ヶ峰への近道に通じていた。桧沢川からその上流の相之倉沢カボッチョ山の西側、蛙原へと、ほぼ真直ぐ北上する道筋が、古図に記されていた。当時は人馬道であれば、急坂を回避するより、最短道を生業道としていたようだ。      

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