岡谷の山一(林組)争議      Top

 
製糸業者の経営の実状は、生産生糸の予想原価計算をし、これに見合う原料仕入れと生糸販売に勤しんできた。一度、糸価が低落すれば、単純に従業員労賃を引き下げて調整し、最終的な製糸の損益のしわ寄せは労賃の決済で行われていた。
 ところが、大正期の普通選挙権獲得運動や、労働者の雇用実態への不満、大正6(1917)年のロシア革命をうけて高まる労働運動と、その一方では、大正9(1920)年12月の米価急落による農業恐慌などで、製糸労働者の供給源を担う零細農家の疲弊は、労賃の減額で帳尻を合わせる経営だけでは、堪えられなくなっていた。
 製糸業者の経営資金の供給者は、第19銀行などの地方銀行のほか、生糸売込問屋
(うりこみといや;生産者から商品の販売を委託されて、輸出商や卸売商に売る問屋)や荷為替商である倉庫業者であった。明治34年、平野村の「陸川製糸」は60釜、従業員は70人、借入金は売込問屋の茂木商店より4,844円、うち荷為替立替3,800円のほか、第19銀行より前貸として6,000円を生産資金として融通を受けている。しかし金利は平均4銭1厘と、想像できないほどの高金利である。一度、恐慌に見舞われれば、生糸業者が破綻するのは当然の状況下にあった。

目次 
 1)紡績女工の決起
 2)争議への弾圧開始
 3)山一林組の勝利
 4)山一林組の声明書

1)紡績女工の決起
  昭和2(1927)年、信州岡谷市中央町の紡績会社山一林組の1,300名の紡績女工が決起、壮烈な闘いが始まった。当時、全国各地で銀行取付け騒ぎ生じ、不景気の嵐が、農民や労働者の生活を根底から崩し始めていた。 日本労働総同盟は大正末期以来、諏訪地方に根差し始めていた。この平野村岡谷の「山一林組争議ストライキ」は、戦前の日本における製糸労働者最大の争議であった。
 全国5大製糸の一つ、山一林組を第15支部とする全日本製糸労働組合が岡谷に出現した。当時の組合員は3千人を数えたと言う。先に日本労働総同盟は、平野村出身の戸沢正一を、オルグとして送り込んだ。2年6月には、岡谷の製糸労働者を中心に組合員6百人ほどで、諏訪合同労働組合が結成されていた。この合同労働組合が、山一林組の大争議を指導した。 戸沢正一と共に組織活動に当っていた佐倉琢二は、『復刻・製糸女工虐待史』で、「まず総同盟の印刷物やビラを配布して歩いた。6月に入って松岡駒吉らを招き大演説会を開いたのを契機に組合加入者が増え、山一林組からは980人という大量の加入があった。特に同工場は劣悪な条件だったからだ」と回想している。
 (松岡駒吉は、戦前の日本の右派労働運動の代表的存在で、昭和22(1947)年5月21日 から翌年12月23日迄、第39代衆議院議長となっている。)
 その動きを知った経営側は、その前日「第15支部」の幹部の一人であり、17年間勤続の再繰部主任山岡益美を呼び出し、「労働組合を脱退するか、自決せよ」と迫ったと言う。 このため組合側は、組織防衛上予定を早め、8月28日朝6時、6名の代表が林社長に嘆願書を提出した。それなのに、その前日27日の夕刊には「林組に労働争議起らん」の記事が、既に載っていた。
  嘆願書に対する理由として、「労働組合を公認せられん事を嘆願するのであります。」とあり、驚くべき搾取の状況の一旦として
 「私達は賃金に依って生活を営む者でありますから、賃金の制定は極めて適法に確立せらるべきものと思ひます。」
 「今迄の如き私達の賃金の預金がありながら、急時の際に於ても払戻し下されず、随分悲しい事も幾多ありました。」
 「吾国の労働者保護法規は極めて不完全なるものであると聞いています。然るに、此不完全なる保護法規さへも厳守せられていない様に見受けます。如何にも情けないと思ひます。」
 「娯楽と修養は私達人間生活に必要なものである事は言う迄もありません。1日の労働を終へ、娯楽に依って新たなる生気を養ひ業務に携はる事は生産能率の上にも効果ある事と思ひます。」
 「失業は私達の最も恐るるものであります。昨年の如く出張先に於て手紙を以って解雇するが如き事は余りにも無情と思ひます。」などが挙げられている。

  その嘆願事項
  ①労働組合加入の自由を認めて下さい。
  ②組合加入なるが故に転勤、或いは職務上の地位を低下せざる様願います。
  ③組合員なるが故を以って、絶対解雇せざるよう願います。
  ④組合員にして万一不都合の行為がある場合は、幹部に申告して下さる様願います(組合は必ず正道に導くべく努力致します)。
  ⑤食料及び衛生に対しまして、改善を願います。
  ⑥私共の体育及び娯楽修養の為に、其設備をして下さる様願います。
  ⑦従来の賃金が一般工場より非常に低廉なるが故に、私共の生活は実に困難があります。可憐なる私共の生活の為に左に記しました賃金を与えて下さ様願います。(中略) 賃金は法規に基き支払て下さる様願います。右7ヶ項目は、可憐なる私共の切なる御願ひであります。何卒御承知下さる様願います。
  宛名は「合名会社林組 代表者 林 今朝太郎殿」で、差出人は「日本労働総同盟」「全日本製糸労働組合」「第15支部従業員一同」が、名を連ねている。

2)争議への弾圧開始
 争議団は、岡谷市中央通りの陸川薪炭商店を借りて本部とした。会社側は、同28日、1~4項までは、工場従業員と組合の関係であるから全く関知しない、5~7項については鋭意改善をはかり、従業員とも懇談し、その希望に沿うよう取り計らう、と回答した。
 その後の9月7日の会社側の声明文では、その罷業に伴い「団体の交渉権の確立、工業主の自主権侵害の虞あるを以って拒絶したり。 然るに、労働組合は全部の要求が容れられるにあらざれば、生法の安定を得ざるに依って、卅(さんじゅう)日午前10時を期して罷業を決行する旨の通知を受けたり。」 とあり、これは欺瞞である。
 既に28日午前8時の列車で、県下各地の警察署から応援の巡査が多数岡谷へ続々と派遣されていた。そして岡谷の各工場へ配置された。組合側はその警戒下午前10時にストライキを決行した。以後、組合側は「罷業心得」を配布し、争議を弛緩させないようにした。 午後7時、岡谷倶楽部で決起集会を開催、千数百名が参加した。 20数名の女工らが次々に壇上に立ち、工場側の虐待と不正をあげ、労働者は団結せよと熱弁をふるった。
 「私たちは身売りされた奴隷ではない!!」
 「私たちは日本産業を担う誇り高き労働者である」
 「募集時の契約通りの賃金を支払ってください」
 「私たちはブタではない。人間の食べ物を与えてください」
  そして最後に立った17歳の女工山本きみが「この最低限の嘆願書を受け入れてくれるまでは、私たちは死んでも引き下がりません」と涙を浮かべて絶叫した時、集会者全員、これまでの怒りを爆発させた。
 当時『信濃毎日新聞』は、「悲痛な演説となるやハンカチで涙を拭う者」もあったと報じている。 1千人近い労働者が岡谷の町に繰り出しデモ行進を始めると、労働歌が夜の街に響き渡った。
 「搾取のもとに姉は逝き、地下にて呪う声を聞く。いたわし父母は貧に泣く。この不合理は何たるぞ。かくまで我は働けど、製糸はなおも虐げぬ。悲しみ多く女子(おなみご)や、されどわれらに正義あり」と歌いながら女工達は寄宿舎へ帰った。
 30日、労資交渉は物別れとなり、組合はストライキを決行した。このストライキに参加したのは、岡谷の平野村の3工場で、1,357人であった。この歴史的争議の支援に、総同盟主事の松岡駒吉、労働婦人連盟の赤松常子、社会民衆党書記長片山哲、プロレタリア作家藤森成吉、東京高商教授福田徳三なども来援した。しかし、これも左翼の有力者と言われる人々のパホーマンスであったみる。戦前有数の本質的に重要な争議であるため、左派勢力の殆どが売名的に顔を出したと思われる。その後、争議が頓挫した時、この内の誰が、若年の女工達に手を差し伸べたであろうか?
 争議団は、会社側の「就業希望者募集」と「賃金支払い」の提案を拒否し、会社側の糸量器の不正を岡谷警察署に告発した。 当時の製糸業界の経営陣側にも、人材はなく、ただ時流に乗り一度は成功したが、その後の逆風に抗すべき策を有していなかった。ただ山一林組の経営側は、争議団の解散を通告すると共に、就業希望者の募集と罷業労働者の父母へ、就業説得を依頼するはがきを出す。 製糸経営者団体である製糸研究会は、経営者協議会を開催し、労働組合を排斥し、争議参加者は雇わない、そのため就業希望者に不自由を来たせば、従業員を融通し合うと申し合わせた。
  岡谷警察署は、争議団の労働歌高唱にまで干渉し組合員4人を検束した。争議団に共闘を申し入れ断られた評議会系の南信一般労働組合も、労農党諏訪支部と共にビラ配布で支援活動をしていたが、その際労農党員5人が逮捕されている。ビラには「わしら労働者は、皆さんの勇敢な行為を両手を挙げて賞賛する。山一の女工を見殺しにするな!」とあった。
 諏訪町村町会は長野県知事へ調停依頼をしたが、後に第34代警視総監に就任した内務官僚出身の高橋守雄知事は最後まで黙殺した。

3)山一林組の勝利
  山一の林社長は、9月7日、解雇通知を送付し、ロックアウトを通告した。争議団は逸早く、寄宿舎に籠城した。同日、平野村新屋敷区では、「人心不穏となり、風紀上及其他思想上についても面白からざる結果に陥る」として、女工を連れ帰るよう郷里の父母に印刷物を送っている。
 軍人分会青年会有志
 「働け稼げ、不平不満は身を亡ぼす」
 「犬の3日養へば主の恩を忘れず」などのビラを撒布し、平均年齢17歳の女工達を痛撃した。 余りにも無残な展開であった。
 当時の女工とは、信州へ糸引き稼ぎに来諏した飛騨の若い娘達が多かった。吹雪の中を命がけで通った野麦街道には、難所、標高1,672mの野麦峠があった。かつて13歳前後の娘達が列をなしてこの峠を越え、岡谷、諏訪の製糸工場へと向かった。父母と離れ孤独と長時間労働に耐え、漸く故郷へ帰れる年の暮れは、雪の降り積もる険しい山中で、郷里の親に会うことも叶わず死んでいった娘たちも数多くいた。現金収入の少なかった飛騨の農家では、12歳そこそこの娘達が、野麦峠を越えて信州の製糸工場へ「糸繰」として働きに行き、そして、大みそかに持ち帰る「糸繰」のお金は、飛騨の人々には、なくてはならない大切な収入源であった。年の暮れから正月にかけて、借金を返すために、あてにされたお金でもあった。そのための厳寒の最中の野麦峠越えは、長時間労働と粗末な給食に体力を損耗させた若年の女工達に多くの悲劇をもたらした。

 岡谷の製糸業経営者達は結束して、女工の両親、地域の消防団、青年団、在郷軍人分会、周辺住民などに働きかけ、争議団を孤立させた。故郷の父母へ手紙を出し、動揺させられた親達を大挙動員した。娘を力づくで無理やり連れ帰る親達、それを阻止しようとする女工労組との必死な攻防が続く一方、経営側は糧道攻めを始めた。
  9月12日、争議団本部が主催した映画鑑賞会へ女工達が寄宿舎を離れた隙に、会社側は門を閉鎖した。警察・消防団・在郷軍人・町の青年団が、竹ぶすまで炊事場、食堂、寄宿舎を占拠した。いわゆるロックアウトで1,000名全員が工場の外にいた。実は、女工達はその映画鑑賞会の入場を拒止されて、豪雨の中に立ち竦んでいた。
 雨中、ふくろだたきにあう女工、雨中、宿舎からの締め出し、濡れねずみになって岡谷の町を彷徨う女工、多くの労組幹部60名ほどが逮捕された。やがてキリスト教社会事業施設「母の家」と陸川薪炭商店に置かれた争議団本部へ分宿した。
 全国から大量の食糧の差し入れ、支援が送られた。山梨県民代表が米2俵を届けた。この時、市川房江が、岡谷のキリスト教社会福祉施設「岡谷母の家」に協力し、女工の闘いを支援した。翌13日、罷業15日目にして第2工場の200余名の女工が脱落した。この日まで賃金精算に応じた者は413人に達していた。14日には、第3食堂も閉鎖され、2百数10名が下諏訪駅前の「母の家」の分室へ寄宿した。この事態に対して、同夜、争議団に共闘を申し入れ断られた評議会系の南信一般労働組合共催の製糸従業員懇談会では、争議団を仕切る総同盟への批判が強く打ち出されたが、女工たちには何の救いにもならない事であった。翌15日、女工の大多数が帰郷をし始め、720名が賃金精算を行った。
 日本労働総同盟で、平野村出身の戸沢正一も以後消息を絶った。16日、争議団幹部が総検束され争議団は瓦解した。 9月17日、21日間、激烈に闘い抜いた争議団は、最後まで残った47人の女工も再会を誓い故郷へ帰ることになり、ついに解散を決めた。全面敗北となった。
  同日、組合側の声明書は 「私共18日間の努力も空しく、遂に一時休戦のやむなきにいたりました。思えば私共の惨目な工場の待遇を改善をして、人間らしき生活を呼び来たらすためには、私共自身の力をまつよりほかに何物もないことを痛感いたしました。私共の嘆願はかほどにあらゆる権力で迫害されねばならなぬのでしょうか。」と前段は、女工達の心情が吐露されている。 その後段は「夜を日についで糸繰る私共のあのわずかな嘆願は、資本家と官憲とが袋叩きにせねばならないものでしょうか。私共は泣きました。初めてこの会社の虚偽を深刻に知ったからであります。強きをくじき弱きを助くる日本人の義侠心は少く共岡谷では亡びました。併しながら私共は屈しませぬ。最後の勝利を信じるが故であります。終りに私共は激励し援助下さった多くの人々に対し厚く感謝します。猶、資本家及び官憲諸士に対しては、人として国民として人間を解し真に恥を知られるように勧告いたします。」とある。 差出人は、山一林組争議団、日本総同盟、全日本製糸労働組合であった。
 前段とは異なり、後段は余りにも教条的で空疎な内容であるのが残念であり、そこに敗北する原因が見て取れた。しかし「女工哀史」の本筋を、革新の組織団体が、語りきれない空しさを禁じえない。 最後まで「母の家」に残り、争議団解散を宣言した47名の女工たちの最後のビラは 「ついに一時休戦のやむなきにいたりました。しかしながら私どもは屈しませぬ。いかに権力や金力が偉大でありましても、私どもは労働者の人格権を確立するまではたゆまず戦いを続けます。私どもは絶望しませぬ。最後の勝利を信ずるがゆえであります。終わりに私どもを激励し援助下さった多くの人々に対し厚く感謝します。」
 この時の信濃毎日新聞記事は 「白昼公然、少なくもわれら長野県において同胞の子にむかって飢餓のいたるをもっておびやかす工場主の存在するを・・・・。実に長野県の大なる恥辱でなくて何であろう。あえて問う、岡谷に人道はありや、なしや」
  「女工たちは、繭よりも、繰糸枠よりも、そして彼らの手から繰り出される美しい糸よりも、自分達の方がはるかに尊い存在であることを知った。彼らは人間生活への道を、製糸家(資本家)よりも一歩先に踏み出した。先んずるものの道の険しきがゆえに、山一林組の女工たちは、製糸家との悪戦苦闘ののち、ひとまず敗れたとはいえ、人間の道がなお燦然たる光を失わない限り、しりぞいた女工たちは、永久に眠ることをしないだろう」
 この争議は、地元でも多くの批判を浴び、労働組合諸組織に売名的に支援されたと言われながら、岡谷の女工達の戦いの実態は、幼くも拙い無防備なままの孤立無援の状態にあった。近代労働史に「女工哀史」と語り継がれた争議団最後の声明は、「労働者の人格権を確立するまで、戦い続けます」でした。
 現実とかけ離れた、決まり文句が、真に理解されぬまま、女工たちが置かれた荒涼とした世界を髣髴させる。 当時、平野小学校が児童600人の作文の題材で、秘かに調査したところ、会社側支持30%、組合支持10%、中立30%、無批判30%であった。組合支持は少数であった。ただいつの時代でも、秩序を乱す者は協調性が無いと言われ理解されない、しかし平均年齢17歳の女工達の悲痛な叫びが、真実、聞こえなかったのであろうか?
  この争議ほどの労働争議は、終戦後まで諏訪地方では、発生していない。しかし争議後も組合側と会社側双方に、根深い対立関係を生じさせた。この争議は製糸職工4万人を超える製糸業者にも大きな衝撃を与えた。当時の記録に「勃発以来進展極めて急にして、最後まで調停者の入る余地がなく、さらにまた会社は一時的にせよ工場を閉鎖し職工は失業して帰郷し、有形無形の犠牲が余りにも大きく社会に及ぼした影響もまたはなはだ大であった」とあるが、多くは無関心中立で、心情的には、一般的に会社側賛同者が世論であった。組合側の賛同者は少なかった。

 昭和2(1927)年の40年来という5月12日の大霜害は深刻で、小作争議は養蚕農家によるものが、稲作農家のそれを上回ったほどで、同年の蔵相の失言をきっかけに金融恐慌が発生し、長野県経済は、それを一層深刻なものとした。
 同年3月14日、国会で片岡直温(かたおか なおはる)大蔵大臣が「東京渡辺銀行が倒産した」と発言したのがきっかけで金融恐慌が発生した。
 この日開かれた衆議院予算総会での答弁の中で、片岡蔵相は「本日昼頃、東京渡辺銀行が破綻しました」と発言した。実際には東京渡辺銀行は、その日の決済に必要な資金を手当てすることに成功して営業を続けていたが、蔵相の発言を受けて預金者が殺到したため、翌日から本当に休業することとなった。
 当時、日本では関東大震災の処理のための震災手形の不良債権化が深刻な問題となっており、中小銀行は折からの不況で経営困難に直面していたが、この「失言」がきっかけで金融不安が表面化し、他の銀行でも取り付け騒ぎが発生した。結局、姉妹行の赤字の貯蓄銀行も同時に閉鎖し、経営破綻した。約1カ月の間に30以上の銀行が休業や倒産に追い込まれた。昭和金融恐慌の始まりである。
 お互いに、ゆとりが無い時代であった。

4)山一林組の声明書
 「今回当会社に突発せる事件は、前組長林菊次郎氏死去以来続く不幸及び原料仕入れのため、幹部不在中に計画されたものの如く、社員は8月廿7日夕刊にて『林組に労働争議起こらん』の記事を見て急遽帰社したる如き状態にして、それ以前に於て労働組合、若しくは従業員よりの交渉を受けたることなく、又、監督庁より特別の注意を受けたることなきに関わらず、突然8月廿8日、日本労働総同盟・全日本製糸労働組合15支部より嘆願書に対する理由並嘆願事項7項の要求を提示されたり。
 しかも同日午後5時迄に既に設けられたる中央通り争議団本部へ回答するよう、申し添えられたり。会社は文書を以ってこれに回答するとと共に従業員を招致し、会社の意のある所を伝へ、待遇改善については、両者懇談して具体案の作成を主張したるに、従業員もこれを諒として充分了解せるも、争議団本部へ帰れば態度一変し、極力これを排し、全項目に対して即時回答を迫りたるも、事、重大なるを以て、若干の考慮を約せり。
 会社は廿9日これに回答し、第一項の労働組合加入の自由及び第5項以下の直接従業員の幸福に関する事項にについて充分希望に副ふやう容認し、第二、第三、第四は労働組合に関する要求にして、別に会社の関知すべきものにあらず、且つ団体の交渉権の確立、工業主の自主権侵害の虞あるを以って拒絶したり。
 然るに、労働組合は全部の要求が容れられるにあらざれば、生法の安定を得ざるに依って、卅日午前10時を期して罷業を決行する旨の通知を受けたり。
 会社は事件の内容及び推移に就いては、深甚の考慮を払い、両者の誤解なきよう、凡ゆる方法を以って理解に勉めたるも、従業員は極力これを妨害し、全従業員及び家族との連絡に対する努力は全く水泡に帰したり。而して理解に乏しき若年の女工を殆ど強制的に組合に加盟せしめ、予定の如く罷業を断行せり。是の如くして労働組合は最初より争議を計画し、これを挑みたるものにして、殆ど衣食住の全部を与えられ、且つ従業員の幸福に関する条項の認容されたるにも関らず、自主権を得るに非ざれば生活の安定を欠くとは甚だ了解に苦しむ所なり。元来、製糸業は家内工業として発達したるものにして、機械力を利用すること少なく、殆ど人力に依るを以って、特にその統制には統一されたる支配権を必要とするものにして、支配権なくして製糸経営は不可能なるを以って、当会社は一時工場を閉鎖するも、自主権を擁護するものなり。
 経営を不可能ならしめ、工場を閉鎖せしめんとするが如きは、労資協調を破り、産業の基礎を危殆に陥らしむるものにして、国民として赦すべからざるものなり。口に労資協調を説き、産業破壊を計るが如き偽瞞なる不良組合は断じて容認すること能はざるなり。当会社は是の如く不道徳を決行せるものに対しては、争議費用日当の如き如何なる解決を見るの日に於ても、絶対支弁せざる事を声明す。
   昭和2年9月7日           合名会社 山一林組 」

 大正期には、製糸業は拡大発展し、特に岡谷には片倉組のような大製糸家も出現した。大正10(1921)年の全国製糸業の首位は片倉組の4万3千余梱で、2位は山十組の3万余梱、3位が京都府綾部の郡是製糸1万8千余梱、4位が小口組1万5千余梱で、郡是製糸以外岡谷の業者であった。その5年後の昭和元(1926)年には、山一林組が急成長し6位に進出していた。
  山一林組は、昭和2年には県外4工場を含む9工場、4,200釜の岡谷第4位の製糸会社に発展している。しかし、昭和4年から始まったニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに始まった世界恐慌は、農産物価格を更に暴落させ。農村の生活難から、工女として就業を希望する者が増え、益々労働力は過剰となった。その一方で、同年末には、県下15の製糸工場が、休業となり、翌5年、全国5大製糸の1つ岡谷の山一林組を初め、山十組、小口組が倒産している。
 製糸業者の自己資本は少なく、その年の生糸の販売代金を以って、次年度の購繭費や従業員労賃に当てる経営であった。その生産システムも明治以来の緯糸主体で、片倉組のように懸命に経糸用優良品の販売を目指し、一代交配蚕種の普及による生糸の品質向上を図ることも無かった。ただ糸価が低落すると、労賃の減額と産繭農家からの仕入れ値を削る経営だけでは、この危機は最早乗り越えられなかった。


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