倭国大乱
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治め、239年難升米(なしめ;なんしょうまい)らを中国の魏に派遣します。「親魏倭王」の金印紫綬と銅鏡100枚などを下賜されます。
それ以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述があります。また、後漢書東夷伝にも、
桓帝・霊帝の治世の間の146年〜189年、倭国が多いに乱れたという記述があり、この弥生時代後期の2世紀の末葉の日本史上初の大規模な内戦を「倭国大乱」と称します。
これらはおおよそ弥生時代後期後半にあたり、この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで、高地性集落が見られること、それが環濠集落化していることなどから、これらを倭国大乱の証拠とするのが、ほぼ定説となっています。
しかし、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外にほとんどなく、大乱にしては、武器数が異状に増えた形跡も無く、受傷人骨の少ないことからも、具体的な戦闘が多発したとまではいえないようです。少なくとも、現在までの出土遺跡の状態をみても、大乱とまでは、言い難いようです。
倭国大乱ついては、これを古事記等の神武天皇の東征に結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動して、大和=邪馬台国を建国したと実証できれば、ことは簡単なのです。しかし、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す遺跡発掘の実績が、まるでないのです。
近年ではむしろ、北部九州勢力が中心となって、鉄等の資源の開発や大陸からの舶載品等を、全国に流通させていた物流の独占を、文化的に後進地であった畿内勢力が、軍事的に大編成されると、先進地・北部九州勢力の資源と利権を奪おうとして、戦いを挑んだものと考えられています。
しかし、弥生時代後期中葉以降に至っても、瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かったとする研究結果もあり、後進地・畿内勢力は、この時代、敗退したのではと考えられています。
むしろ、北部九州勢は、卑弥呼を中心にまとまり、圧倒的な軍事力を背景にして統治されていったと思われます。
ただ、畿内地方でも、時を同じくして3世紀初め、王都が桜井市纒向(まきむく)に出現します。その遺跡規模は巨大で、北九州の伊都倭国のそれとは比較になりません。周辺にも大規模な前方後円墳が築造され、古墳時代の始まりとさえいえ、諸々の祭祀が確立され、広域的な交流が行われ、
この時代の日本列島には、これに匹敵する大規模な政治的・祭祀的な遺跡は発見されていません。
『日本書紀』垂仁28年と32年の条に、埴輪の創始伝承があります。野見宿禰(のみのすくね)が土師連(はじのむらじ)の姓を賜い大王(おおきみ)の葬送を司ります。
大野見宿禰命神社が鳥取市徳尾にあります。その千代川流域に土師氏に関係する遺跡・遺物・地名が集中します。その野見宿禰が、伴部となって出雲の土師部に埴輪を作らせたのです。
こうした専業的技術集団が、3世紀には既に各地に存在し、畿内の大王政権がそれを統括管理し、王権の新たな技術集団として組織化していくのです。それが5世紀後半の伴部制、氏姓制度に整備されていくのです。要するに、子代・名代・品部(しなべ;ともべ)・田部は、天皇家に隷属していた部民で、朝廷が国造(くにのみやつこ)の地方豪族に命じて、出仕させた「伴」が、天皇家の護衛や雑務等を担うさいに、その手伝いをさせたのです。
品部は、農民以外の部民のことで、技能に応じて土師部・馬飼部・錦織部等の各部があったのです。
また特定の仕事に携わる集団を伴ということもあります。それら部・伴の首長が伴部であり、伴造(とものみやつこ)なのです。
そして、土師部が3世紀後葉、箸墓古墳を造営すると、やがて、前方後円墳が各地に広がります。こうして各地の土師氏の本拠地や地名が、埴輪製作地や前方後円墳地帯と重なっていくのです。
その技術的源流は、出雲の四隅突出形方丘墓の造営で培われてきたものなのです。
畿内政権の伸張は、北九州勢力が独占してきた物流を王都の纒向に向けさせます。朝鮮半島の陶質土器・鉄器や鉄素材、中国鏡や鉄製工具等、特に近畿北部では、日本海ルートが確立され、鉄器が多量に方丘墓で副葬されるようになります。
そして弥生環壕集落が解体していきます。集落の首長が富と軍事力支配権を独占していくと、自ら集落外に出て、首長の居館を造営します。その居館を壕・土塁・塀等で方形
に囲むと、環壕集落の壕を埋めさせます。民衆と隔絶した階級的支配者へと変貌していきます。