佐久武士誕生史 Topへ
文治の勅許と言えば歴史上重要な画期となる文治元(1185)年11月28日、後鳥羽天皇より源頼朝に与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免権であった。
「およそ今度の次第、関東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、はなはだ思めし煩うところ、因幡前司広元申して云く、世すてに澆季(ぎょうき;非道な乱世)たり、梟悪の者、もっとも秋を得るなり。天下反逆の輩あるの条、さらに断絶すべからず。しかして、東海道の内においては、御居所たるに度東士を発し遣されば、人々の煩いなり。国の費なり。このついでをもって諸国に御沙汰を交え、国衙・庄其のごとに守護地頭を補せられるれば、あながち怖るるところあるべからず。早く申し請わしめたもうへしと云々」 『吾妻鏡』文治元年十一月十二日条 』
「廿八日丁未陰晴定まらず。伝え聞く、頼朝の代官北条丸(北条時政)、今夜経房に謁すべしと云々。定めて重事等を閉めすか。又聞く、件の北条丸いかの郎従等、五畿・山陰、山陽・南海・西海諸国を相分ちて賜い、庄公を論ぜず兵粮米段別五升を宛て催すべし、啻(ただ;それのみならず)に兵粮の催しのみにあらず、惣じてもって田地を知行すべしと云々。凡そ言語の及ぶ所に非ず」
『玉葉』文治元年十一月二十八日条』
九条兼実は頼朝及び鎌倉幕府のよき理解者であった。その兼実自身も驚くほどの、守護地頭の設置申請であった。天武天皇以来、課題とされていた大宝律令が、確立されて久しいが、それは庶民を困窮疲弊させた酷薄な制度であった。その朝廷による諸国支配制度を大きく変える権能を頼朝が要求した。
実際この申請後、守護地頭の設置任免権により、鎌倉幕府は全国的な軍事警察権を行使し、事実上の在地支配権者であった御家人層を統率して、現実社会に適合する武士団を中心にした統治制度を確立していった。
目次 |
1)信濃武士 |
2)鎌倉初期の信濃国 |
3)頼朝の信濃御家人 |
4)佐久伴野氏の盛衰 |
5)南北朝以降の伴野氏 |
6)観応の擾乱と伴野長房の戦死 |
1)信濃武士
承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)における平将門・藤原純友の乱のように10世紀前半に頻発した地方の乱は、国衙と荘園双方の確執の狭間で、自らの存続と利権を拡大しょうとする武士団が起した事変で、その鎮圧も成長しつつある武士たちであった。
専ら民を搾取する中央で腐敗しきった天皇・院・摂関家は、武士たちを自分たちを守る単なる番犬程度としか認識していなかった。平将門の没落は、台頭し始めた武士達に相当な心理的打撃となり、一種の無力感が伝播し、朝廷支配に隷属し続けた。その後一世紀以上、中央を脅かすような事変は生じなかった。ところが、奥州武士として成長した安倍氏・清原氏が、11世紀中期以降、古代から続く中央の恣意的な政策に耐え切れず反旗を翻した。それが前九年の役であり後三年の役であった。
かつてこれを蝦夷の乱として人種的な反乱と認識していたが、日本列島は北海道から九州・沖縄まで人類学的にいえば混血列島であった。数万年を超える最終氷河期から大和政権が国境を意識し始めるまで、国境は存在していなかった。隼人・倭人・蝦夷・アイヌとの違いは、その時々の民俗的な差異を表現したに過ぎない。当時の認識で言えば、僻北の地・奥州の武士団が、中央政権の暴虐的な施策に耐え切れず、その威光に従わなくなっただけであった。
源義家を初めとする中央の番犬と蔑まれた武蔵・信濃などの東国武士団が、源氏の棟梁として義家を英雄視したのは、国家的権威に認知されず、実効的強権力で地方豪族として成長し、その実権を拡大してきた武士たちの経済基盤を保障してくれる権威が欲しかった。それが奥州戦役で名声を上げた武家の棟梁・源義家以降の血脈であった。
源頼朝が敗残の将として真鶴岬から船で安房国へと向かうが、その地で、圧倒的な武士団勢力上総・千葉両氏などの支持を得た頼朝に、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従わざるを得なくなり、まさに東国武士団が待ち望んだ源義家の再来、彼らの輿望を担える武家の棟梁の出現であった。平清盛を初め平氏は、新興勢力でありながら、自らが依拠する武士勢力を顧みず、地方では形骸化している過去の権威・朝廷に身内一族の登用を図った。
平氏は元々中央と繋がり勢力を伸ばしてきた。それが伊勢以西を中心とした武士団を率いる平家の棟梁清盛の限界であった。源氏の棟梁源頼朝は、その限界を超えた新たな統治組織を鎌倉に確立し、千年に近い王朝政権から、初めて武家政治を確立した。
2)鎌倉初期の信濃国
信濃国は文治元(1185)年、源頼朝の直轄領として「関東御分国」と称される知行国となっている。平安時代末期、有力な公卿などに特定の国の支配権を与え、そこから自らの収入を得る制度を布いた。これを知行国制といった。その支配権者を知行国主と呼んだ。信濃国は、源頼朝が政権を確立する過程で重要視されていた。ただ頼朝が知行国主であったのは、1,190年頃までであったようだ。当時、既に信濃各地に頼朝の御家人は、200人ほどはいた。そのため知行国主である意味がなくなり、以後公卿にその地位が移っていった。
知行国主は、自分の近親者を国守(信濃守)に任じ、国務に当らせ収入を確保した。ところが、承久の乱後、信濃各地の御家人達が地頭化して、国守の最初の重要な職務、税の徴収をするための土地面積の調査、いわゆる国司の検注をしようとするが、国人衆が力をつけ、最早それも不可能となっていた。
国守は通常、国務に明るい実務家を目代として派遣した。それは国務の請負で、国守はその対価としての目代から請負料を得、それが国守の収入となった。
安貞元(1227)年閏3月28日、歌人として有名な藤原定家が、当時の信濃守藤原隆雅の提示する銭500貫を値切り、300貫で請け負っている。この時代、信濃は皇室の祭祀を司る斎宮寮の費用を調達する国であったため、その税収は斎宮寮と折半であったせいもあって、徴税の実績を上げるのが一段と難しい国であった。
建仁3(1203)年、比企事件により、2代将軍源頼家の外戚として権勢をふるった比企能員暗殺と比企氏一族が瞬時に葬りさられた。結果、信濃国守護が能員から北条時政に移った。その守護職は、承久の乱当時、子の義時、3代執権泰時へ継がれ、その死後はその3男重時へと引き継がれた。重時は5代執権時頼の叔父で六波羅探題から幕府連署となった。この背景があったため、承久の乱には、信濃の御家人が多く参軍し、その後も北条氏に従う者が多かった。
3)頼朝の信濃御家人
文治(1189)5年12月、源義経・木曾義仲の息子・藤原秀衡一族が同盟して鎌倉を攻めるとの噂が立った。頼朝は信濃・越後の御家人に戦仕度を命じた。信濃へは「小諸光兼(忠兼)以下の御家人」に通知が出されている。光兼は佐久地方の中で最も早く御家人として登場している。その名は、木曾義仲に従軍し、養和元(1181)年6月の川中島千曲川河畔・横田河原の合戦にみえ、その後の倶梨伽羅峠では、大将として活躍した。やがて義仲は、頼朝との確執で、嫡男志水義高を鎌倉へ人質として差し出す際、側近として光兼の意見を入れたという。光兼は義仲軍の信濃御家人衆の代表格となっていたようだ。
その後光兼は、文治(1186)2年正月、頼朝が二位に叙せられ、鎌倉八幡宮で直衣(のうし)初めの盛儀が行われた際、その随兵となっている。信濃御家人衆の多くは、木曾義仲の挙兵に従軍した。やがてその残党として、頼朝の硬軟両面の対応に苦しんだ。先の横田河原の合戦で、奇襲策で義仲軍に勝利をもたらした井上光盛は、上高井郡井上(現須坂市)を本拠にしていた。義仲の死後京に滞在していが、甲斐源氏の台頭を恐れた頼朝が、武田信義の嫡男一条忠頼を鎌倉で謀殺した際、乱に与したとして駿河国蒲原で暗殺される。一方、光盛の一族保科太郎や小河原雲藤三郎などは、頼朝に許され御家人になっている。8月には、失脚した武田信義の弟・甲斐源氏の加賀美遠光が信濃守に任じられた。遠光の次男の小笠原長清は小笠原氏の祖となる。
建久元(1190)年5月、頼朝の第2次奥州攻めに、信濃・上野の御家人に従軍命令が下った。小諸光兼は、高齢で病気であったが、信濃の「勇士」なので特別に出陣を命じられ、昨年7月の第一次奥州攻めで、光兼に従った信濃国御家人は、再度光兼に従うよう命じられた。
建久4(1193)年3月、頼朝は下野の那須野と信濃の三原で狩倉(狩競;かりくら)を実施した。この時、「弓馬に達し」「隔心なき」者として御家人から22人が選ばれた。この中に望月太郎・小笠原長清・諏訪(金刺)盛澄・藤原清親の名がある。望月氏と藤原氏は小諸氏・志賀氏、金刺氏などと義仲の挙兵に参軍した信濃武士であったが、義仲の子義高が頼朝の人質として鎌倉に赴いた際、従っていた。金刺盛澄は義仲の挙兵に従ったため、頼朝に処刑されかけたが、盛澄の弓馬の腕を惜しむ梶原景時の嘆願もあって、流鏑馬でその妙技をみせて御家人入りした。
小笠原長清は加賀美遠光の次男で、甲斐源氏でありながら、当初から頼朝に従った一族で、義仲滅亡後、伴野荘の地頭として信濃へ入ってきた御家人であった。
狩倉が行われた信濃の三原とは、上野の三原荘のことで、浅間山北麓に広がる吾妻川流域、現在の群馬県長野原町と鎌原村附近である。
仁治2(1241)年当時、三原荘の地頭は海野幸氏であった。この年、幸氏は信濃の長倉保(ほう)の地頭武田信光と境界争いをしている。長倉保は古代の長倉牧、中世の長倉郷、戦国時代以前には東山道の長倉駅があり現在の軽井沢町域内である。甲斐源氏の信濃への広がりが知られる。
鎌倉幕府には、年頭に将軍の前で行う「弓始め」の儀式があった。御家人にとってその射手に選ばれることは、大いに名誉であった。その射手には信濃の御家人が多く選ばれている。海野幸氏・金刺盛澄・藤原清親・望月重隆・中野能成(よしなり)などである。中野能成は志久見山(栄村)の地頭で、2代将軍頼家の近習となっている。吾妻鏡では、政変で頼家近臣として所領を没収され、遠流とされたが、比企氏滅亡の2日後の日付で、時政によって所領を安堵されている書状が残っている。時政の密偵であったといわれている。また寛喜元(1243)年、能成は、木島山の地頭木島兵衛尉が、鷹の子4羽盗んだと鎌倉幕府に訴えでいる。
この時代の佐久武士に、春日・小田切・志津田・布施の各氏が登場している。
4)佐久伴野氏の盛衰
佐久地方には、伴野荘と大井荘の2つ荘園と国衙領平賀郷があった。『吾妻鏡』に文治3年3月、後白河法皇は、源頼朝の知行国・関東御分国内にある自分の荘園、伴野荘をも含む後白河領からの年貢が滞っていると、これを督促してきた。もう1つの大井荘は鳥羽上皇の皇女暲子(しょうし)内親王八条院の八条院領であった。2つの荘園は院政が最も盛んな12世紀に成立した荘園であった。両荘とも『吾妻鏡』に左馬寮(さまりょう;ひだりのうまづかさ)領の牧として記されているから、御牧が少しずつ開発され荘園となったとみられる。安元2(1176)年2月日の八条院領目録に捧荘(ささげのしょう;筑摩郡;松本市、塩尻市)、常田荘(佐久市常田)を含む、大井荘はその重要地として記されている。『和名類聚抄』にある佐久郡の郷は「美理」「大村」「大井」「刑部」「青沼」「茂理」「小沼」「余戸」の8つで、現在「大井郷」以外、「美理郷」「青沼郷」の地名がかすかに残っている。大井荘は当時の岩村田を中心にして耳取、与良、小諸、平原、塩野、小田井、根々井、平尾、沓掛、軽井沢、安原の12郷とみられている。
伴野荘は佐久市を流れる片貝川左岸に伴野の地名が残るが、建武2(1335)年の大徳寺史料『伴野荘郷々村御年貢存知分事』で、伴野荘の領域と年貢高を知ることができる。伴野上中下3ケ村1,000貫、大沢村250貫、野沢郷1,300貫、野沢原300貫、小宮山500貫、春日郷520貫、桜井郷800貫、縣沢300貫、三塚郷350貫、臼田原180貫、上臼田村300貫、下臼田村280貫、高屋木80貫、畑物村100貫、大日向村100、貫余地村60貫、保間250貫、海野口63貫、平沢村4貫、下縣田、大石、岩郡、宿屋の4ヵ所で80貫、鷹野郷800貫、合計で7,617貫となる。千曲川左岸から片貝川右岸を中心に佐久平へ広がっていた。
小笠原氏の祖となる小笠原長清は加賀美遠光の次男で、甲斐源氏一族でありながら、当初から頼朝の御家人として従った一族で、義仲滅亡後、やがては7,617貫年貢高になる伴野荘の地頭として信濃へ入ってきた。
平賀氏は源氏一門の有力者で、平安時代の後期に新羅三郎義光の子盛義が佐久郡平賀郷を本拠とし、平賀冠者と名乗ったことに始まる。惟義の代に伊賀国に赴任した時期に大内姓を称した。鎌倉幕府内では執権北条氏の権力が確立し、惟義の権威は揺らがなかったが、当初は御家人筆頭であった席次も北条氏の下座に着くようになった。惟義の後を継いだ惟信は、承久3(1221)年の承久の乱では京方に付き、平賀氏は没落する。伴野氏は、その後継となり千曲川右岸の佐久郡平賀邑もその所領とした。
弘安8(1285)年、15歳の若年執権北条貞時の命令を擁して、その御内人の筆頭内管領平頼綱が、御家人の重鎮・安達泰盛・宗景父子を初め安達一門とその与党の御家人を討伐する霜月騒動(しもつきそうどう)が起こる。北条得宗家による、幕府政権を担う御家人階層の粛清であった。現代でいうクーデターであった。
これにより佐久郡内伴野荘の地頭で小笠原家惣領・伴野氏が没落した。泰盛の母の実家にあたる小笠原惣領伴野長泰一族は、この騒動で、弟の泰直、嫡子盛時、二男長直ら父子3人が殺された。幼い泰行だけが死を免れた。長泰の父時長の娘が安達泰盛の母であったため、まさに一族悉く誅滅され、佐久郡伴野荘の伴野氏の所領は没収され、北条氏一族の所領となった。ただ伴野弥三郎長房・三塚新三郎・跡部又三郎光時など僅かが、荘内に多少の所領を持ち続けたようだ。地頭地が隣接する大井氏はこれを契機に佐久郡内に勢力を拡大したとされる。伴野弥三郎長房は泰行の子で在地に潜んで、父祖伝来の伴野荘の奪回の機会を窺っていた。
元徳2(1330)年2月15日、京都大徳寺開山・宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)に篤く帰依した寺明院統の花園上皇が、伴野荘と下総葛西御厨を永代、大徳寺領として寄進した。しかし、土民が従わず、翌年7月2日、再度院宣(いんぜん)を下すが、伴野弥三郎ら国人衆や荘内の名主・農民が年貢の徴収に応じなかった。院宣など朝廷の権威は、地方ではとっくに有名無実になっていた。
この状況下、鎌倉幕府を滅ぼした大覚寺統の後醍醐天皇尊治(たかはる)は、元弘3(1333)年6月15日、大徳寺に伴野荘の地頭職までも寄進した。当時の伴野荘年貢注進状によれば、各郷村年貢高合計は7,667貫で、それが領家と地頭の取り分の合計であった。そのうち領家分の年貢は1,504貫で、残りの6,163貫が地頭分となる。その比率は1対4で、領家分が過少すぎるのは、当時の荘園の事実上の経営管理者・雑掌が、貢米賦課の査定を過少評価して、本家や領家を欺き、自らの実績を取り繕うとした為であった。
特に鎌倉幕府の滅亡後から南北朝の争乱期に、荘園本家・領家の権利は形骸化しつつあった。各郷村の農民は、領家をはじめ荘官がただ一方的に搾取するだけで、その管理を怠っているため、田畑用水など河川の灌漑を自主管理する過程で、有力農民と地侍化する名主や小領主は自立していく。やがて彼らは団結し、年貢の減額や不正を専らにする荘官の解任請求をする「一揆」に繋がっていった。
伴野荘では、麻や米をはじめ主要農産物や手工業品を、自ら市場で換金し、領家大徳寺への年貢は為替手形に替えて送っていた。直接物納する農民の往復の負担など、当時の朝廷や大徳寺などの僧侶たちは無視していた。農民自らの努力により生産は向上し余業が発達し、そのため商品流通が高まり、隷属小農民も独立自営し村の構成員としての地主に成長していた。さらに、領家・荘官が無力化すれば、農民自ら武装化し郷村の自衛の当たるようになった。それで荘園領家の一方的都合による増徴に応じなくなていった。
『大徳寺文書』の『伴野庄内子細申す所々の事』では「濫妨(らんぼう)」と記している。そこには春日郷高萩山布施弥次郎・同舎弟津布羅田孫三郎の濫妨、沓沢地頭小笠原彦六が沓沢の在家2字と田畠を濫妨、甲斐の布施孫次郎が伴野荘平沢(南佐久郡南牧村平沢)の土地を押領しようとしたなどが記されている。これに対応する能力は、京都・奈良の朝廷・寺院は腐敗しきっていて為すすべがないのが実情であった。それが、地頭支配に依拠した鎌倉幕府御家人層と対抗できる新たな土豪や地侍などの有力者を育てた。鎌倉幕府はこの新興勢力を「悪党」と呼び取り締まったが、「悪党」の最大の知恵者楠木正成の反抗に因り滅んだ。かつての名家伴野弥三郎長房も「悪党」に仲間入りしていた。後醍醐天皇はその勢力に頼り、鎌倉幕府を倒したが、それが日本史上、最大にして最長の混乱を生じさせた。後醍醐天皇は「悪党」を利用しながら、旧王朝勢力の復権を図り、それに貢献した諸勢力を、功なり遂げた途端軽視した。
元弘3年/正慶2(1333)年、新田義貞は鎌倉を攻略し幕府を滅亡させた。伴野弥三郎長房は、伴野荘地頭職奪還の絶好機到来と考えた。同じ源氏一門として足利尊氏の指令をうけ、一族国人衆や悪党層を指導し、伴野荘内外の北条勢力の掃蕩に奮戦していた。ところが後醍醐天皇は、6月7日、大徳寺に伴野荘などの寺領を安堵した。追って15日、その伴野荘地頭職をも大徳寺に寄進した。
鎌倉末期、伴野荘の領域は佐久平から南に大きく伸びていた。建武2年には畑物村・保(本)間(南佐久郡小海町千代里本間)・海ノ口・平沢と野辺山高原に広く広がり、現在の南佐久郡南牧村平沢で甲斐国と接していた。この地方は高冷地で稲作には適さないが、その高原台地では、雑穀や麻栽培が盛んであった。松原湖の南にあたる八那池(やないけ)には麻干場の小字名が遺っていた。ここは佐久甲州往還の咽喉を扼する交通の要衝であった。松原諏訪神社所蔵文書の中に、現在紛失しているが、かつて尊氏の花押のある『足利尊氏御判御教書』が遺っていた。文和元(1352)年12月15日、尊氏は伴野出羽守(長房)に『諏訪上宮大明神が5月4日、所領内の大松原に降臨されたのは霊場まことに厳粛この上ない事である。これから一層尊崇して神威を輝かすように致せ』と命じている。長房は先に伊那古大明神(松原神社)の神主和泉太夫の筆で、『諏訪大明神伴野庄御影向(ようごう;神仏が仮の姿をとって現れること)之事』として、「諏訪大明神の御正体が伴野庄伊那古の松原に飛び移り、同庄二日市場の某女をとおして御託宣がありました」と尊氏に注進していた。長房は松原湖畔に松原諏訪神社を造営し、所領経営と諏訪大明神信仰と祭祀の拠点とした。
室町幕府政所代蜷川親元の『蜷川日記』に、寛正6(1465)年、信州伴野弥四郎貞棟が将軍足利義政に上総介受領を願いで出て受け付けられ、同人から礼物が差し出されたことが記されている。その貞棟など伴野氏代々が松原諏訪神社を信仰し続け、造営維持に努めていたことが現存する同社の宝物、祭祀資料や大友(伴)野神社の社号からも窺える。現在、松原諏訪神社は猪名湖(いなこ)畔を挟んで南に上社、北に下社と向き合っている。
領家大徳寺は伴野荘の現地管理者として、雑掌・水沼実真を赴任させた。雑掌は年貢や公事などの徴収役の任に就くほか、土地・水路・営農などの維持管理と治安維持にまで及ぶ強大な権能があった。建武4年5月10日の年貢徴収分の報告が残っている。年貢銭など1反歩あたり527文のほか、牛腹帯・尻繋(しりがい;牛の胸から尻にかけて取り付け、車の轅(ながえ)を固定させる緒)など麻製品の現物納や輿車代という名目の銭350貫文などとなっている。その頃雑掌水沼実真が「伴野庄内子細申す所々の事」と大徳寺へ報告している。
一、春日郷内では高萩山の布施弥次郎と弟津布羅田孫三郎らが指示に反抗する。
一、下県村の小笠原六朗入道時長の女子岡田後家の跡を吾妻彦六が横領して年貢を納めない。
一、沓沢の地頭小笠原孫二郎政長が出作(でさく;ある地域の住民が別の地域にある田畑を耕作すること)の年貢を納めない。
一、沓沢の隣の日向の地頭平賀弥七が越境して沓沢郷内に侵入している。
一、鞍沢村内には小笠原六朗入道時長の女子相伝の田畠在家があって、鎌倉幕府以来の安堵状があるとして雑掌の意に従わない。
一、野辺山原を越えた甲州境の平沢村では甲斐国の布施小次郎が押領をはかっている。
一、伴野庄内には諏訪上社の神田3町5反が散在し、その内1町5反は諏訪上社の大祝が現在所持し、残りを三塚新三郎・有坂左衛門五郎(薩摩五郎左衛門尉)ら以前からの給人が所持し、大徳寺雑掌の支配が行き届かない。
伴野荘内の国人たちは、自己の固有の権利を主張し、あるいは自力で押領し領家大徳寺の支配権を認めなかった。
建武2年7月上旬、上社前大祝・諏訪頼重と息子の大祝時継らは北条時行を擁立して軍勢を集め、信濃で幕府再興の狼煙をあげた。この時、北条氏系の佐久の諸氏や小県の諏訪氏系の望月・海野・袮津・滋野ら神党の信濃有力者が呼応した。中先代の乱の勃発であった。それは南北朝動乱の火蓋が切られたことでもあった。この時の伴野弥三郎の動静は明らかでない。時行・頼重の軍は途中で諸勢力を糾合し、いまや2万を数える中先代軍となり、上野国に入る際、岩松経家らに阻止されるが、これを敗走させた。22日、足利尊氏の弟直義自ら出馬する軍勢を、武蔵国井出沢(東京都町田市)で破ると、北条時行は、7月25日、ついに鎌倉を奪回した。
尊氏軍は京を進発すると、遠江の佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川から鎌倉に着くまで、勢いを加速させ北条軍に留まる余裕を与えず、七度の戦いに勝利して、8月19日に鎌倉に攻め入った。その間、金刺頼秀が戦死している。北条軍は大敗し、諏訪頼重・時継父子とその一族は、北条時行の身代わりとなって自害した。
9月29日、後醍醐天皇政府の雑訴決断所は、雑掌水沼実真から、荘内の倉沢弁芳(さだよし)が大徳寺の命に従わないという訴えを受け、信濃守護所に対して弁芳の違乱を停止させ、大徳寺雑掌の荘園管理を全うさせよと命じた。佐久市大字前山に明和5年(1768)に建立
された前山貞祥寺に倉沢薬師堂がある。そこは蓼科山大河原峠附近を源流にする布施川の右岸に小字として残る地である。倉沢弁芳は伴野荘内伴野郷倉沢村住民と考えられる。
10月21日、雑掌水沼実真は伴野荘内の年貢員数を大徳寺へ注進している。荘内の郷村は24ヵ所、年貢総数は7,667貫であった。
『大徳寺文書』の『伴野荘野沢郷年貢銭為替証文』は、伴野荘二日町屋に居住する商人太郎三郎入道成阿が、大徳寺への年貢として京都の金融業者と為替を組んで送金した際の証文である。伴野荘では麻の産額が多く、二日市も開かれていた。
5)南北朝以降の伴野氏
大徳寺は後醍醐天皇の祈願寺となり、建武元年には、南禅寺と共に五山の上として最高の寺格を得た。そのため堂宇の建造や大規模な拡張工事が行われた。大徳寺は領家の権限で、伴野荘から造営人夫を食糧持参で上京させた。『大徳寺文書』の『伴野荘百姓等借用証文』は、伴野荘内の9郷から、人夫として農民三塚の五郎太郎ら10人が上京させられたが持参した食糧が尽き、交代が来れば返しますからと、大徳寺から麦1石を借りた、その際の借用証文であった。「もし返せない場合は、各々の郷村から、それも米にして倍にして貰い受ける。それもできなければ10人の田畠を没収する」と書かされていた。このような大徳寺の非道な荘園支配に対して、農民達は大いに反発した。建武の中興により公家一統政治を回復させようとする後醍醐天皇の政策は、地頭の地位を奪われた御家人階層だけでなく、その他の地侍や農民にとっても耐え難いものであった。当時既に、有力名主(みょうしゅ)層は郷村運営の中核をなしていたばかりでなく、在地武士として地侍化していた。かつての地頭職の係累・伴野弥三郎長房を中心として、反旗を翻すのは当然であった。それに対して又もや大徳寺は訴えた。後醍醐天皇は建武2年5月、信濃国司に伴野弥三郎を糾弾させた。
弥三郎は屈することなく、後醍醐天皇と対立し新たな武家の棟梁として人望を集めていく足利尊氏に属し、地頭職回復を目差して、戦功に励んだようだ。
延元4年(1339)、後醍醐天皇が吉野で薨去した。尊氏はその供養として京都に天竜寺を造営した。天皇7回忌にあたる興国6(1345)年8月29日、その落慶供養が盛大に行われた。武門の誉れとされる、その行列に小笠原惣領信濃守政長など各国の守護たちと並ぶ伴野出羽前司長房の姿があった。既に出羽国司に任じられていた。長房は足利幕府に仕え京都に常駐していた。しかも地元には代官秀慶を置いて伴野荘を実効支配していた。
正平元(1346)年9月20日、幕府奉行所から伴野出羽前司長房に「大徳寺雑掌宗秀から、信濃国伴野荘の年貢を年々抑留していると訴えが出ている。明確に申し出よ」と達しがあった。翌年、それも10月11日になって、伴野出羽前司代官秀慶は「訴状には動乱以後年貢を抑留しているとあるが、動乱以後とは何年以来のことか、抑留年限の明示を待って申し上げる」と奉行所を小馬鹿にした返答をしている。既に、幾年も領家大徳寺は、長房自身の名田だけでなく、伴野荘全域の年貢をも押領されていた。幕府奉行所への返答からみても、足利尊氏は幕府存立の基盤が、公家一統政治に反発する地方武士団に依拠している事を承知していた。彼らと利害が反する荘園領家の権益を積極的に擁護する意思はなかったと見られる。やがて大徳寺も、荘内の農民や地侍たちを実効支配する地頭的立場の伴野長房に年貢徴収権を与え、せめても年貢の半分でも得ようとした。この年貢の半済化は、この時代各地で行われていたが、伴野荘のように実効性はなく、南北朝争乱の過程で領家支配は無力化していった。
6)観応の擾乱と伴野長房の戦死
その後、尊氏と弟の直義の間に、高師直・師泰兄弟がからんで幕府内に深刻な対立が起こり、ついに尊氏と直義の兄弟が生死を掛けて争う「観応の擾乱」が起きた。
正平4(1349)年4月、足利直義の養子足利直冬が、長門探題として備後国へ赴く。閏6月3日、足利直義が足利尊氏に働きかけ、高師直を失脚させる。8月13日、高師直兄弟は直義を討とうとして京都に入った。この師直軍のなかに信濃守護小笠原政長、伴野長房らが加わっていた。幕府内の足利直義派の上杉重能・畠山直宗が捕らわれて殺され、足利直義は出家した。9月、足利尊氏は、長男・足利義詮を鎌倉から呼び寄せ、代わりに次男・基氏を鎌倉公方に任じ鎌倉へ派遣した。高師直は、配下をして足利直冬を襲い、九州へ逃亡させた。
翌正平5年(観応元年)10月16日、直冬が師直を討つべく九州で挙兵した。同月26日、足利直義は南朝と和を結び、高師直に対抗した。
諏訪頼重が鎌倉で自害した後、諏訪氏は逼塞していたが復活し、時の大祝諏訪直頼は南朝方へ帰順した直義方を応援した。観応2年1月1日、直義派の若狭・伊賀・越中の守護で足利一族の桃井直常が北国より入京し、足利尊氏・高師直らを播磨国へ駆逐した。同月17日、大祝直頼は信濃の直義方を結集し、高師直派の関東方面の主将高師冬を甲斐国須沢城に攻め自害させた。さらに上洛し、直義方として高師直派の軍勢に対抗した。2月17日、直義らが摂津国打出浜で高師直派の軍勢に大勝した。高師直らは出家し、命を助けられるが、同月26日、直義派の上杉能憲(よしのり)により、摂津武庫川で高師直・師泰ら高一族は殺害された。能憲は越前に配流される途上、師直の命により殺させた直義派上杉重能の養子であった。その後、足利尊氏・直義兄弟の争いとなり、8月1日、直義は京を出奔した。大祝直頼は北陸から信濃に入り、直義が鎌倉入りするのを援護した。10月、今度は尊氏が南朝へ帰順し、足利直義を追い詰めた。11月、京を発し、奥州の結城氏らを誘い、鎌倉の直義軍を挟撃した。12月、直義は降伏し、翌観応3年正月、尊氏は鎌倉に入った。2月26日、直義は幽閉先の鎌倉浄妙寺で毒殺された。
翌閏2月、南朝の新田義興、新田義宗らが鎌倉を奪還し、楠木正儀(まさのり)や北畠顕信、千種顕経らが京都を陥落させる。これに呼応して大祝直頼や滋野氏らが、宗良親王を擁して挙兵したが、2月28日、武蔵野の笛吹峠で激戦の末、大敗した。5月には、足利義詮は、京都を奪還し、尊氏も鎌倉へ復帰した。
伴野長房は南北朝内乱のなかで一貫して尊氏方に属し、高師直と結んで次第にその力を伸ばして、伴野荘の地頭的権能を事実上掌握する。そのことは、足利尊氏が長房にあてた「御判御教書」からもうかがうことができる。
尊氏が鎌倉へ復帰した翌年の文和2年(1353)、旧直義党の吉良・赤松・石塔が南朝楠木正儀軍と合して、山陰道の山名時氏・師氏と共謀して6月9日、南北から京都に攻め込んで来た。この時、尊氏は武蔵野の笛吹峠で、南朝の諏訪直頼軍に大勝していたが、未だ鎌倉を離れられなかった。京都の義詮軍は、佐々木・細川・土岐などが主力であった。この戦で、義詮は京都神楽岡に陣をとり、激戦となったが、尊氏が不在のため守勢一方となり、結果大敗して、後光厳(ごこうごん)天皇を奉じて東近江まで落ち延びた。伴野長房は義詮に属してこの戦いで討死した。洞院公賢(とういん きんかた)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』によれば、この時、京の主要な南北の通りの一つ土御門油小路(あぶらのこうじ) にあった長房の屋敷は焼かれたという。
長房の討死後の長房系伴野氏の動向については明らかではない。長房が戦死してから39年後の元中9年(1392)8月28日、将軍足利義満の相国寺落慶供養の先陣随兵に伴野次郎長信の名が見られた。相国寺は義満が、夢窓漱石を開山として創建した。その相国寺を5山の中心とする慶事であった。同年10月に予定されていた南北朝合一を目前にした将軍足利義満による、幕府が名実共に不動となった事を喧伝し、自らの実績を誇示する幕府最大の盛儀といえた。その行列の先兵随兵(ずいひょう)に、『相国寺供養記』では、一番武田伊豆守信在・小笠原兵庫助源長秀、二番武田五郎源満信・伴野次郎長信の名が記されている。当時の守護大名と同列にあり、この伴野長信を若狭守護代小笠原三河長房とする説もあるが、おそらく伴野出羽守長房の眷族、佐久の伴野氏であったと考えられる。
相国寺落慶供養から73年後の寛正6(1465)年、信州伴野弥四郎貞棟が将軍足利義政に上総介受領を願いで出て、受け入れられ、同人から礼物が差し出されたことが、蜷川親元の『蜷川日記』に記されている。親元は室町幕府政所の執事伊勢貞宗の代官として政所代に就いていた。『蜷川日記』には、寛正(かんしょう)6(1465)年4月8日、伴野弥四郎源貞棟の上総介受領願いが受理され、同月14日、将軍義政に礼物が差し出された。6月3日、義政から伴野上総介貞棟に御教書・長光の刀・萌黄の緞子(もえぎのどんす)・桂しょう(けいしょう;地が赤く彫目を黒く塗ったもの)の盆等が与えられた。
6年後の文明3(1471)年、信州国人伴野上総介貞棟が将軍足利義政に太刀一腰・が目(がん)銭10貫文を贈っている。これは上総介推挙に関する謝礼であった。ただ当時、『介』には実権は伴っていなかった。松原諏訪神社所蔵文書に、永仁元年五月晦日「源貞棟敬白」と署名された『神祇講式』という表題の古記録が遺っている。
『蜷川日記』にも、信州国人伴野上総介貞棟とあり、この貞棟こそ長房の系統を継いで伴野荘の領主と思われ、伴野氏の嫡流は在京して奉公衆を務めていたようだ。一方、伴野荘の在地における伴野氏の活動をみると、伴野上総介貞棟と同時代に、前山城主伴野光利がいたことが知られている。
前山城は伴野時長の子長朝が築き、数代続いて時長10代の子孫伴野佐渡守光利が相続し、光利は延徳元(1489)年85歳で没し、その跡は光信が継ぎ、光信は永正12(1515)年に没した。その後も子孫が相続し、戦国時代末に至ったことが『洞源山貞祥寺開基之由」に記されている。貞祥寺は大永元(1521)年、武田信玄に属していた前山城主伴野貞祥(さだよし)によって創建された曹洞宗の寺院で現存している。そして、この貞棟と同時代に伴野荘に在住した前山城主光利との関係が微妙となる。光利は佐久郡跡部(佐久市跡部)を拠点とした小笠原総領家時直の弟の跡部長朝系であり、小笠原総領家時直とその子の伴野長泰―長房系の貞棟とは系統の異なる小笠原氏であった。室町時代の伴野荘には、2系統の小笠原系の氏族が存在していた。しかもともに伴野氏を称していた。長房系は足利幕府の下、在京して奉公し、跡部長朝系は在地にあった。そして十郎時泰系は前山城(佐久市前山)に拠って南朝宗良親王方として活躍していた。
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