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江戸時代初期までは、「神野」とされ開墾は禁じられていた |
桑原城址から諏訪神社発祥の地、高部を見る |
大化以降の国評制度
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目次
一) 改新の詔の評価
二) 公出挙
三) 調
四) 中男作物と雑徭
五) 庸
六) 軍団・衛士・防人
七) 〈軍団
八) 律令集落の崩壊
九) 郡衙の消滅
十) 屋代遺跡群の「信濃国」木簡付札木簡の機能
十一) 平安時代の諏訪大社
十二) 寛平の治
十三) 検非違使
一) 改新の詔の評価
皇極天皇4年(645)6月、中大兄皇子は、中臣鎌足らと謀り、蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変(いっしのへん)により政治の実権を握った。翌年正月、改新の詔(みことのり)4ケ条が発布される。日本書紀が引用する改新之詔4条のうち、第1条と第4条は、後代の官制を下敷きにして改変されたものであることがわかっている。このことから、書紀が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。
尚、天平9年(737)12月27日、「やまと」の国の表記を、それまでの「大倭」から「大養徳」に改めた。「徳を養う」を「やまと」と読ませ、それに美称の「大」の字で飾った。天平19年(747)3月、「大倭」の表記に戻り、天平宝字2年(758)、「大和」となる。以下の記述は、これに習う。なお、天平宝字2年に、孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が第47代天皇に即位した。
第1条は、「昔在の天皇等の立てたまへる子代の民、処々の屯倉(みやけ)、及び、別には臣・連・伴造・国造・村首(おびと)の所有る部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(や)めよ。仍りて食封(じきふ)を大夫より以上に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛(きぬ)を以て、官人・百姓に賜ふこと、差有らむ。・・・・」
王族や豪族たちによる土地・人民の私有を廃止するもので、それまでも、土地・人民は天皇の所有が理念的原則でありながら、王族・豪族が部民として、事実上私的に所有・支配していた。天皇・王族の所有地は屯倉、支配民は名代・子代と呼ばれ、豪族の所有地は田荘、支配民は部曲(かきべ)と呼んでいた。
本条は、このような土地・人民に対する事実上の私的な所有・支配の慣行を排除し、天皇による本来的な支配体制、即ち公地公民制への原則的回帰を企図した。しかし、実際にはかなり後世まで豪族による田荘・部曲の所有が持続した一方、公地公民制に伴う諸制度が苛政過ぎて、公民に過酷な負担となり、その疲弊を招き、やがては逃散が多発し継続を不可能にした。
天武元年(672)5月、天武天皇は律令国家建設に向かっての第一歩を実施する。国家機構の中央官僚として、畿内出身の官人層の創出であった。官人として出仕する者は、その出自を問わず、まず大舎人(おおどねり)として宮中の雑役に就く。その仕事ぶりを見て、その能力を判断して、その職種を決める官人登庸法(かんじんとうようほう)を定めた。そのために官人の勤務評定法が必要になった。天武7年(678)、官人の勤務評定の基準となる『考(こう)』と、それによる位階の授与・『選(せん)』の法が制定された。この大改革をなしえたのは、壬申の乱で大友皇子方に付いた従来の大豪族を打ち破った実績に、旧勢力は威服するしかなかったからである。したがって、この時期の考選制度は厳しく、後の大宝令制下と異なり、毎年の考が即選につながり、位階の授与となった。しかし、それはまた畿内勢力の優遇措置でもあった。天武5年(676)、畿外の有力豪族にも、官途が開かれたが、兵衛として宮城の警備にあたるのが最初の任務であった。
第2条は、「初めて京師(みさと)を修め、畿内・国司・郡司・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬・伝馬を置き、鈴(すず)契(しるし)を造り、山河を定めよ。・・・・凡そ畿内は、東は名墾(なばり;三重県名張市)の横河より以来、南は紀伊の兄山(せやま;和歌山県伊都郡)より以来、西は赤石の櫛淵(くしぶち;兵庫県明石市)より以来、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま;滋賀県逢坂山)より以来を畿内となす。・・・・凡そ駅馬・伝馬を給ふことは皆鈴、伝符の剋(きざみ)の数によれ。」
政治の中枢となる首都の設置、畿内・国・郡といった地方行政組織の整備とその境界の再画定、中央と地方を結ぶ駅伝制の確立などについて定めるものである。
最初に挙げられている首都の設置は、白雉1年(650)の難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)への遷都により実現した。前期難波宮とも呼ばれ、日本最初の本格的な首都の宮殿建築とされる。次に挙げられる地方行政組織の整備は、畿内・国・評(こおり)の設置が主要課題であった。
畿内とは、東西南北の四至により画される範囲をいい、当時、畿内に国は置かれなかった。畿内の外側に国が置かれた。以前の国境(くにさかい)は、旧来の国造や豪族達の支配範囲や山稜・河川に沿って境界画定作業が行われたが、事実上、実力次第で、境界はなかなか定まらず、後に天智天皇の即位後に、ようやく国が画定することとなった。要するに、在地有力豪族の国造が世襲支配していた領土ともいえる地域を統合し、時には分割し、新たな広域地方行政単位としての国を策定し、そこを統治するものとして、中央の豪族が一定の年限で派遣される国宰(くにのみこともち)が任命された。そして、その下に在地豪族の支配単位に基づく評(こおり)が置かれ、その中に編成されたのが50戸であった。「評・50戸の制度」である。ただ、それは支配拠点として、行政事務を行う役所の設置であて、行政領域として広域的支配に及ぶのは、天武12年(683)で、この年に、初めて諸国との境界が確定した。
「宰」とは、天皇の命(みこと)を受けて任地に下り、地方の政務を司った官人のことをいう。この時代、まだ国司という官名はなかったはずで、「宰」は飛鳥時代から見られ「大宰(おおみこともち)」のほか「国宰(くにのみこともち)」などがあった。
大宝令制導入で、改めて地方に「令制国」が再設置され、奈良時代の八世紀から平安時代前期の九世紀に書かれた国史書「六国史(りっこくし)」には、中央からこれを治める官職名として「大宰(おおみこともち)」、役所名としての「大宰府(おおみこともちのつかさ」の記載がある。大宰は、筑紫のほかに吉備などに置かれたことが知られている。
国の下に置かれたが評(こおり)だが、大化当時は評であったが、701年の大宝令施行以降、郡と表記を変えている。つまり、日本書紀は明らかに詔の記述に手を加えているのである。これを発端として、日本書紀に残る「改新の詔」の内容について、どこまで信頼できるのか、長年にわたる議論が続いている。いわゆる「郡評論争」で、書紀以外でも、国造、宰、国司、受領、守護と地方の長の官名が、その暦年を不正確に、平然と論じられているのは、残念である。
孝徳天皇(こうとくてんのう)は、第36代天皇である。諱は軽皇子(かるのみこ)で、その在位中には難波宮に宮廷があったことから、難波朝(なにわちょう)といも別称されている。在位すると大化と改元し、その政策を大化改新という。敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王(ちぬのおおきみ)の長男である。 母は吉備姫王(きびひめのおおきみ)という。 皇極天皇(斉明天皇)とは同母弟で、天智天皇(中大兄皇子)の叔父にあたる。皇極天皇の娘の間人皇女((はしひとのひめみこ)を皇后にしている。阿倍倉梯麻呂の娘の小足媛(おたらしひめ)を妃として、有間皇子を儲けている。蘇我石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)をも妃とした。在位は孝徳天皇元年(645年)6月14日から、白雉5年(654年)10月10日であった。
評は、『常陸国風土記』や木簡史料などから、孝徳朝の時代に、全国に評の設置が完了していたことが分かる。それまでは、5世紀初頭の筑紫盤井の乱をきっかけに、継体天皇以降、有力地方豪族を倭政権が「国造」に任じ、その土地・人民の支配を行ってきた。しかし、評の設置は、そのような独立的な支配体制を否定し、有力豪族固有の地方支配権を、倭政権による一元的な支配体制に組み込むものであった。従来の「国造」の支配地を細分化し、あるいは統合して評を設置し、かつての「国造」の多くは、「評」の地方官役として「評造(こおりのみたつこ;ひょうぞう)」「評督(こおりのかみ/ひょうとく)」「助督(こおりのすけ/じょとく)」などに任じられた。地方豪族らは半独立的な首長から、評を所管する官吏へと変質する。その下僚として評史(こおりのふひと/ひょうし)などの実務官がいた。これが後の律令制における郡司(ぐんじ)の前身となる(職名は「評督」)。評の設置は、このように、地方社会のあり方を大きく変革した。
諸国に国司を派遣したとするが、後の律令制下で国司が国衙に常駐したのとは違い、改新の詔における「宰」は管轄区を巡回していた。その任務は、①任地の戸籍を作り、田畝(でんぽ)を調査する。②評(こおり)の官人として任官を希望する者の系譜を調査して報告する。③国造などの在地首長が保有する武器を収納して、武器庫を造って保管し王権の管理の下に置く。
①の戸籍は域内の総戸数を把握して、官馬・仕丁・采女の徴発と「男身の調」と兵器などの賦課基準とする。田畝の調査も域内の田地の総面積を測り、田租の調と調副物(ちょうそわつもの)の賦課基準とした。②は王権の一元的支配体制の確立のため、国造や伴造などの在地勢力の弱体化と王権の地方支配の拡大を企図した。防人・駅馬・伝馬などを置いた。国造の広大な支配領域を細分化し評として、その官人として旧来の国造だけでなく伴造・県の稲置(あがたのいなぎ)などを任用した。そして巧妙にも評には、長官と次官にあたる評督(こうとく)と助評(じょとく)を任命し、それぞれ在地の別の氏族から選任した。しかも両者にほぼ同等の権限を与え、権力の独占化を阻み相互の牽制を意図した。この体制は評の後身の郡体制にも引き継がれた。
③は国造領内の武器の収公である。その主たる対象は、地方最大の権力者・国造だが、武器は在地の武器庫に置き、王権の管理下に置く。この武器の収公策は、クーデター直後実行され、宰(みこともち)が諸国にしきりに派遣さている。
翌年、早くも宰は武器庫建造のために奔走する。大化改新は部民制の廃止にまでは至らなかったが、地方支配に関しては大きく王権の拡大に成功している。大化改新は近年過小評価されているが、日本史上最大のエポックで、後世の天武天皇による律令体制の確立の基礎作りに貢献していた。天智天皇とその弟・天武天皇の改革は、その後の天皇体制を生むと同時に、古代の単なる現世的権力者の大王から、現神(あきつみかみと)としての神格化により、世界に類を見ない王権の継続を可能にしていく。
その他、本条に挙げられている項目では、駅馬(はゆま)制が整備された。駅馬制の確立時期は判然としないが、7世紀後半ごろの古代道路の遺構が広い範囲で検出されていることから、改新の詔により、交通道の整備が進められたことがわかる。特に、北の蝦夷や南の隼人に対する風化政策上、不可欠な整備であった。
7世紀半ば、孝徳朝は在地豪族の支配地の「クニ」を、分割・統合し全国に評を設置した。701年の大宝令施行以降、評を郡と表記を変えた。地方に国、郡、里の3段階の行政組織を設定したわけであるが、その中で最も実態に即し、地方行政の中核をなしたのが郡であった。それまでも評の長官として、在地有力豪族が評造に就き在地支配を続けていた。そして大宝令施行後は、郡司(ぐんじ)として、その任に就いた。その郡を人為的に幾つかを束ねて設定されたのが、新たな広域行政単位としての「国」であった。大宝令施行の頃は約60カ国あったといわれている。その後20年ほどは、国の分置と併合が盛んに行われ、その過程で国名が意味のよい2文字に統一され確立していく。国には大国(たいこく)、上国(じょうこく)、中国(ちゅうこく)、下国(げこく)の四等級があった。戸数や田畑の面積といった規模の大小で決めたようである。
上国
山城・摂津・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・相模・美濃・信濃・下野・出羽・加賀・越中・越後・丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・紀伊・阿波・讃岐・伊予・筑前・筑後・肥前・豊前・豊後
国には中央から国司が派遣され、その政務を執る。在地の者が任命される事はなかったようだ。天皇の言葉を受けて任地の統治に当たる国司の訓読みは、「クニノミコトモチ(御言持ち)」で、その本質を言い当てている。国司には原則、従五位下に叙せられた守(かみ;長官)を置き、その下に介(すけ;次官)・掾(じょう;第三等官)・目(さかん;第四等官)を配置する四等官制をとり、国の等級で定員が異なった。大・上国の国司には守を置き、その下に介・掾・目の四等官制、中国には正六位下、下国には従六位下の守が置かれ、介を欠く三等官制が布かれた。その下に2名~5名の史生(ししょう)以下の下役人もいたが、国司の下で、記録・雑務を担当した下級役人の国掌・国雑掌などは時代が下ってから置かれた。この他に医師、陰陽師、書生などがいた。その他、所在地の事情によって、奥羽には弩師(どし;弓兵)、対馬には新羅訳語(おさ;通訳)などの職が置かれている。官人は通常、自宅から通勤するが、仕事の忙しい「介」などの中には、国衙に宿直することの方が多かったようだ。
国司の任期は6年といわれているが、その実態は勤務評定年限が6年で、その結果の重任は難しく、他官に転任させられることが多かったからである。
国の役所は『国府』『国庁』『国の館〔たち〕』『国衙〔こくが〕』などと呼び、長官の「国守」が赴任しない国では『留守所〔るすどころ〕』ともいわれた。当初は国府所在地の郡家(こおりのみやけ)が常駐施設として利用された。和銅年間(708~715)、即ち文武天皇薨去後、皇太后が即位して元明天皇となった時代以後、独立した国府が造営され、9世紀の桓武天皇以降、礎石建造物となり充実していく。それは同時に、郡司を介さず直接国司が支配する体制が整ていく時期と一致する。
第3条は、「初めて戸籍・計帳・班田収授之法を造れ。(中略)。凡そ田は長さ三十歩、広さ十二歩を段とせよ。十段を町とせよ。段ごとに租の稲二束二把、町ごとに租の稲二十二束とせよ。」
戸籍・計帳という人民支配方式と、班田収授法という土地制度を定めている。この制度は戸籍・計帳に基づいて、政府から受田資格を得た貴族や人民へ田が班給され、死亡者の田は政府へ収公された。こうして班給された田は課税対象であり、その収穫から租が徴収された。この制度は、当時の唐の均田制に倣って施行された。しかし、戸籍・計帳・班田収授といった語は、後の大宝令の潤色を受けたものである。また、全国的な戸籍の作成は、20数年経過した後の庚午年籍(670年)がようやく最初である。これらのことから、大化当時に戸籍・計帳の作成や班田収授法の施行は実施されなかったが、何らかの人民把握としての戸口調査などが実施されただけと考えられている。天武朝までは、「50戸1里」が基本的な賦課単位であり、兵役負担の割り当てがなされていた。律令(田令)下では、口分田・位田・職田・功田・賜田が班田収授の対象とされ、例外は寺田・神田のみとされた。寺田・神田は、寺院や神社が所有するのではなく、神仏に帰属すると認識されていたことによる。
戸籍を作成するために、毎年、暦名(れきみょう)という帳簿が作成される。暦名は手実(しゅじつ)と呼ばれる各戸が提出する自己申告に基づき、郡司が作成する課税台帳であり、戸の構成員の家族台帳でもあった。京では坊条令が作成された。それには戸主との血縁関係、性別、年齢、年齢区分のみならず、黒子(ほくろ)、傷などの身体的特徴も記され、前年度との移動も注記されていた。郡司は暦名に基づき目録という帳簿を作成し、中央政府に送った。目録には個人名の個人記録は無く、課税対象となる人数を集計した。なお、暦名、手実、目録はともに計帳(けいちょう)と呼ばれた。
一方、大倭(やまと)、山背、摂津、河内、和泉の畿内では、郡家(こうりのみやけ;ぐうけ;郡の役所)から送られてきた暦名を清書し、国司が署名をして中央に送った。
畿内、畿外を問わず、暦名、目録から6年に一度、戸籍が作成される。その結果、各戸の構成に大きな変動があれば、戸の組み換えをした。「50戸1里」の編成が全国的に実施されたのは、2度目の戸籍といわれる持統4年(690)の庚寅年籍(こういんのねんじゃく)からといわれている。その後、暦名の作成期間が、徐々に狭まり、大宝令施行後は、毎年作成されるようになった。
律令国家は、すべての6歳以上の子に、班田が実施される。口分田の支給である。ただ初めて班田を受けるのは、6年おきのに行われる戸籍の作成年の2度目に登録されたときとされ、しかも実際の班田の実施は、2年遅れであったという。すると班田年は、9歳から15歳となる。その口分田は、1人あたり男子は2段、女子はその2/3の支給であった。なお、1段は=360歩、1歩=約3.3㎡である。
その田祖(でんそ)は1段あたり二束二把とされた。1束は=10把で、1把から米5合(現在の2合程度)が得られた。田祖はその当時の収穫量の3%に相当するが、祖を差し引くと1日400gが、主食に当てられる事になる。副食が殆ど無い時代であれば、不足分を稲以外の雑穀に頼ったとおもわれる。また田祖は口分田単位で個人に課せられたが、実態は戸ごとにまとめて徴収された。
しかしこの律令体制は、中国の隋、唐の律令制を模倣するだけで、長年為政者に培われた制度的基盤もなく、それを実際上運用する吏員も育っておらず、ただ中国の均田制を移植したに過ぎなかった。むしろ後述するように、律令国家サイド自ら制度自体を破壊するような、公出挙を乱用するようにもなった。しかも中国の均田制はよりきめ細かく運用され、世襲される永業田(えいぎょうでん)と口分田の両用からなり、口分田の支給はその上限を表していた。ところが日本の律令国家は、男子一人に2段を例外なく支給する。したがって既に土地を所有し、あるいは新規に開墾しても、これを制度的に取り込む規定はなかった。民はそれで、雑穀などを栽培し、やっと糊口を凌いでいたようだ。
第4条は、「旧の賦役を罷めて田の調を行ふ。凡絹・フトギヌ・絲・棉、、亦(また)郷土(くに)の出せるに随へ。田一町に絹一丈。(中略)別に戸別に調を収れ。一戸に貲布一丈二尺。凡その調の副物の塩と贄(にえ)とは、亦(また)郷土(くに)の出せるに随へ。(中略)一戸に庸の布一丈二尺、庸の米五斗とす。凡采女として郡少領以上の姉妹及子女で形容端正な者を貢げ。」
大化改新以降地方政治が改革されていき、国評里制が定まっていく。信濃国では、国府が千曲市屋代遺跡付近に置かれ、諏訪を含めて10評(郡)が存在した。郡には、それぞれ政庁として郡衙があり、諏訪の郡司は金刺氏で、郡衙は下社付近と考えられている。
改新の詔は「50戸をもって1里とし、里長をおく」とし、ここに「50戸1里の制度」が施行された。これを「国郡里制(国郡制)」と呼ぶ。元の国造・伴造・県の稲置であった地方豪族が、多く、この「評造」「評督」「助督」などに任用された。後に大宝令が施行され、「評(こおり)」が郡と表記されると、これを管轄する「郡司(こおりのつかさ;ぐんじ)」が置かれた。郡司は大領(だいりょう)・小領(しょうりょう)・主政(しゅせい)・主帳(しゅちょう)の四等官制をとるが、それぞれの地方の実情に通じ、伝来の権力もあって、地方豪族が、それらに任じられた。中央から派遣された官人で任期制のあった「宰」や「国司」とは異なり、終身官であった。
郡司は、毎年作成される暦名に登録された人数分の租税徴発を請負、稲穀(とうこく;稲籾)の保管、班田の収受も任されるなど絶大な権限を有した。しかし、中央は郡の分割や里・郷の編入などで郡の再編を進め、豪族古来の勢力圏と重ならない行政単位としての郡の整備を進めた。また、郡内に複数の豪族が拠点を置く場合、特定の豪族一族に郡司が偏らないように配慮した。また、徐々に郡司の権限を国司に移し、地方豪族の力を抑制していく。ただ、郡司は原則として在地の豪族から選任されるが、家柄が重視される場合と、個人の能力を評価する場合とがあった。
郡司に任命されるためには、中央で行われる「試練」という試験を受けなければならない。郡司は奏任官であって、太政官が候補者を選んで天皇の認可を得て任命した(奏任)。大宝選任令では、奏任官は式部省が「試練」を行ない、その結果を太政官が天皇に奏上して裁可を得て任官すると規定されていた。大宝令施行直後に式部省の「試練」は停止されたが、郡司の大領と小領だけは、そのまま式部省の「試練の制度」を維持した。和銅5年(712)には、主政、主帳にも、それを義務付けた。合格者は、太政官に報告され、主政、主帳は当初は太政官により、後世式部省により任官が決定された。大領と小領は天皇の裁可を経て決した。いずれの郡司も、中央に赴き太政官で任官儀式が行われた。但し、郡司の任官試験を受けるためには、事実上国司の推薦が必要で、郡司候補者は政務報告に上京するする国司(朝集使;ちゅうしゅうし)に伴われて、式部省に直接赴き、「試練」を受験した。しかし国司が推薦する者が必ずしも郡司に任命されるとは限らず、その地方の情勢で判断されることも多かった。
郡司は郡衙(ぐんが)若しくは郡家(こおりのみやけ;ぐんけ)と呼ばれる役所で政務を執ったが、評の役所を引き継ぐため、しばしば郡司に任命された豪族の私的居館が郡衙として用いた。郡衙の施設は郡の政務を執る郡庁(ぐんちょう)、財務を司る厨(くりや)、稲を蓄える正倉(しょうそう)が基本であった。正倉は正倉院と呼ばれ、いくつかの区画に整然と配置されていた。郡司は、”国司の下の地方官”で、立場上は国司よりも下であったが、徴税や軽い刑罰の執行など地方行政の実務を執り行っていたために、律令制の地方支配は、郡司による地方社会の掌握力に、大いに依存していた。8世紀の地方支配は、律令国家が在地地方官を管理し、在地地方官が人民を統制する2重構造であった。中央集権制が貫徹した中国の隋と唐の律令制をまねてみたものの、律令国家への道のりは、未だ遠かった。
郡はその里の数により、五等級に区分された。大郡は20~16里で構成された。上郡は15~12里、中郡は11~8里、下郡が7~4里、それ以下を小郡といった。
郡司には、職田(しきでん)が支給され、子弟を律令制下において、官人育成のために各国に設置された地方教育機関の国学(こくがく)に進め、また健児(こんでい;軍団兵士の一区分)にするなど多くの特権を有した。天平6年(734)4月23日に出された勅(天皇の命令)には、「健児・儲士(まうけひと/ぢょし)・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあるから、かなりの特典であった。しかし、大宝令の施行によって租が成立し、稲穀(とうこく)が新たに各郡に設置された倉(正倉)に保管され、その運用権限が国司に移管されるなど、郡司権力の低下とそれに反比例して国司権限が強化されると、農民とともにしばしば国司に対抗した。やがて、地方豪族層は郡司就任を忌避し、在庁官人として国衙に勤務することを希望する者が多くなる。
天智朝に「評・50戸」と表記されたが、天武朝10~12年(681~683)、里という行政組織の末端が成立する。評の下に里と呼ぶ行政区画を置き、里長(さとおさ;りちょう)一人を任じて治めさせた。里内の戸口(ここう)数の管理、農務の励行、納税の督促、治安の保全にあたらせた。しかし里の設定自体が、地域の実情を斟酌せず、行政単位として大雑把に設定されたため、里とは別の実際的なコミュニティとしての集落・「村」が既に並存していた。
それは、唐の「百家1里の制度」に倣ったものであった。その「戸」という最小単位の行政組織は、現代の家族単位としての一軒ではなく、理論上では郷戸(ごうこ)と呼ぶ大家族的集団で、別棟に居住しながら強固に寄り合う古代の農耕その他の作業の現実に即した最小単位である。正倉院文書として残る大宝2年(702)と養老5年(721)の戸籍によると、戸主の親族だけでなく、その姻族も含み、更には使用人家族、奴隷などもその構成員であった。正倉院文書によれば、1戸の人数は最大が124人で、平均は20余人であった。戸には戸主が定められ、やがて戸口ともども戸籍に登録されていくが、戸の枠組みが、果たして親族・姻族、その他の経済的まとまりで、設定されたとは必ずしもいえず、当時の統治の有様から、単に机上引かれた徴税の便宜的区分であったようだ。
この時代にあたる出土の埴輪や銅鐸の絵で分かる事は、この時代も弥生時代と変わらず、竪穴住居で屋根は切妻形であった。
『日本書紀』などには「調役」という表記がある。調役は、在地の豪族から大和政権に対する服属の証として、定期的な貢納物としての「ミツキ」と労役の提供としての「エダチ」があった。ミツキのうち、山海の珍味を時宜に応じて、大王、天皇の食膳に供するのが「ニエ」であった。ニエは持統3年(689)の飛鳥淨御原令施行後の木簡に、「大贄(おおにえ)」と明記するものが現れる。大宝律令制以前に調・贄の制度が、既に確立していたようだ。律令制施行後、「ミツキ」と「ニエ」は個人単位の賦課である調や調副物(ちょうそわつもの)として、制度化された。
養老元年(717)には、「国、郡、里」という地方行政組織の「里」が「郷」に改称された。「郷」の下に新たに「里(こざと)」が置かれた。従来の戸の中に、より家族形態に近い戸・房戸(ぼうこ)が設定され、従来の戸は郷戸(ごうこ)と呼んだ。それが霊亀元年(715)から使われているのが初見であるが、「房戸」こそが現代の家族で、郷戸に変わる本来的最小単位となる。大宝律令施行後、15年であった。それまでは、郷戸が徴税、徴兵、雑徭、班田戸籍作成などの重要な基礎単位であった。しかしながら、新しい「里(こざと)」はうまく機能せず、740年頃には政治の簡素化が図られ、これに伴って里は外され、「郷(ごう)」だけが残る、「国郡郷制」へ移行した。
大宝令によって設置された郷は、「倭名類聚抄」によれば、当時諏訪郡には7郷しかなかった。この時代、既に現代の茅野市に塩原郷、山鹿郷などが存在していた。
班田が行われ、さらに大きな負担となったのが公出挙の制度であった。世界各地の農業社会では、その早い段階から、播種期に種子を貸与し、収穫期に利子相当分を加えて、収穫物で返済する慣行があった。これを利子の起源とする考えもある。中国でも古くから利子付き貸借の慣習が存在している。日本でも古代からそうした慣習があったようだ。律令制下の出挙は、利息付の一年契約の貸借を指す。主にイネが対象であったが、酒、布、銭の貸借もあった。律令国家が貸主として単に出挙といった場合、イネの公出挙(くすいこ)を指す。私的なイネの出挙は、私出挙(しすいこ)といった。
日本書紀の孝徳天皇2年(646)3月19日の記事に「貸稲(いらしのいね)」の語が登場する。8世紀に施行された養老律令雑令に初めて「出挙」の語が現れた。律令上に出挙が明確に規定されることによって、利子付き貸借が国家により制度化されたと解釈されている。公出挙は春と夏の2回行われ、春は種籾の頒布、夏は収穫までのつなぎとなる食料の供給が根底にあった。いずれも秋の収穫期に、出挙本稲に5割の利息となる利稲(りとう)を加えて返済する。しかしながら、公出挙は官組織の有力な財源となるにしたがって、強制貸与となった。
財物を出挙した場合と稲粟を出挙した場合で取扱いが異なっていた。具体的な内容は次のとおりである。律令では、まず出挙が私的・自由な契約関係に依るべきであり、官庁の管理を受けないことを共通原則としていた。
財物の場合、60日ごとに8分の1ずつ利子を取ることとされ(年利約7割5分)、480日を経過しても元本以上の利子を取ることは認められなかった。さらに、利子の複利計算も禁じられていた。債務者が逃げたときは、保証人が弁済することも定められていた。
稲粟の場合、1年を満期として、私出挙であれば年利10割まで、公出挙であれば年利5割まで利子を取ることが認められており、財物と同様、複利計算は禁じられていた。
財物も稲粟も、非常に高い利子率が設定されているのが特徴的である。稲粟であれば、播種量に対する収穫量の割合が非常に高いため、利子率が著しく高くなるのは合理的だと言える。しかし、財物についても利子率がかなりの高水準にあり、それについて見解は分かれている。正倉院文書の中に出挙の貸借証文が多数のこされており、奈良時代当時の財物出挙の貴重な史料となっている。
稲粟の出挙は、元々、初穂儀礼に由来して、在地の稲を共同体の再生産用として活用した事から始まった。百姓の救済や勧農といった意味合いが強かった。しかし、公出挙でも年利50%と高利が得られるので、国府や郡家などの地方機関は春になると正税(しょうぜい;田租)の種籾を百姓へ強制的に貸与し、秋になると50%の利息をつけて返済させるようになった。この利息分の稲を利稲(りとう)という。律令上、租税の中でも正税は、国府や郡家の主要財源とされていた。正税徴収には戸籍の作成、百姓への班田など非常に煩雑な事務を伴う。しかし、公出挙であれば、事務は容易で、その上多額の収入を確保することができた。そのため百姓に対する強制的な公出挙を行い財源とするようになった。こうして、租の制度と公出挙の制度がかみ合って、律令国家の財源として、稲が機能していくが、公出挙は租税の一部として乱用されるようになる。
公出挙によって、百姓が疲弊し始めたことを知った律令政府は、養老6年(722)4月、公出挙の利息を年利5割から3割に低減、そして養老2年以前に生じた全ての債務の免除を決定し、諸国へ通知したものの、ほどなくして公出挙の利子率は50%へ戻された。更に聖武天皇の天平16年(744)、国分寺・国分尼寺造営のために、各令制国がそれぞれに正税2万束ずつの施入と出挙利息の造営費への転用が命じられた。続いてその翌年には大国40万束・上国30万束・中国20万束・下国10万束を正税から割いて公廨稲(くげとう)として、国司らの給与などにあてる出挙が正税とは別個に開始される。すると国司は自己の収入につながる公廨稲の出挙に力を入れたために、結果的に地方財政が増加する一方で正税管理が疎かになり始めた。しかも出挙と国司の収入が直接関係するようになると、公出挙は益々盛んになった。その後、奈良末期~平安初頭にかけて桓武天皇が、律令国家の再構築を目指して大規模な行政改革したが、その一環として公出挙の利息を再び年利3割へ引き下げた。
平安期にはいると、正税と並んで公出挙が主要な地方財源となっていった。国司は自己の収入につながる公廨稲の出挙に力を入れたために、結果的に地方財政が増加する一方で正税管理が疎かになり始めた。庸として中央に貢進される米も平安時代には滞るようになった。一方、朝廷も奈良から平安初期、非常の場合に備えて不動倉に貯蔵された穀類・不動穀の充実振りに目を付けて、本来であれば中央に送られた貢進で賄うべき経費を、国衙の臨時の支出などに充てられるべき穎稲(えいとう;穂つきの稲)を上供(じょうぐ)させ、それで賄うようになった。中央官司のもとで働く仕丁・衛士・采女らに支給する食料源の大粮米(たいろうまい)も穎稲で補い、また各官司に配分される年料租舂米(ねんりょうそしょうまい;舂米とは臼で搗いた精米)などの制度が導入されたために大量の正税が中央に運ばれた。
表向きは「神の怒り」などと口実が付けられていたが、実態は正税の横領や流用の事実などを隠蔽するため、また政敵追い落としの手段として、「神火(しんか)による正倉焼失」などが多発し、地方政治の腐敗も極限状態で、各地の正税は急速に不足するようになった。そこで平安時代に入ると、朝廷も公廨稲の利息より正税の不足分を補わせ、正税出挙に対する国司の農民への強制的な貸付強制と返済の義務化を規定するなど、中央への上供体制維持を目的とした正税回復政策を取り始めたが、律令制の荒廃による租税・出挙未納も増大し、不動穀などの備蓄も既に底を尽き、平安時代中期には事実上崩壊することになった。
男子は数え年21歳になると、正丁(せいてい:数え年21~60歳の男子)となり、60歳までの40年間、租、庸、調、雑徭(ぞうよう)、兵士役(へいしやく)のすべてを負担する。その余りの苛政ぶりは、律令国家の奴隷ともいえる境遇であった。しかも61歳になり老丁(ろうてい;61歳~65歳)となっても賦課は続く。ただ2分の1に減額されるだけだ。貧窮下、長年の粗食に耐え、医療が全く期待できないこの時代の老丁には、余りにも過酷な負担であった。
最も基本的な賦課が「調」であって、絹・?(あしぎぬ)・糸・綿・布のいずれかの地場の繊維製品で、これを正調といった。正調は大きく分けて絹で納入する調絹(ちょうきぬ)と布で納入する調布(ちょうふ)に分けることが出来る。「調」の訓読みは「ツキ」で、貢物(みつぎもの)の意味である。律令制の施行以前から、百姓と呼ばれる民は、国造から大王へと、種々の捧げ物をしてきた。律令制の税制は、それを原則的に都に運ばせ、中国の調に倣い成人男子に掛かる税とした。古代の日本では「布」とは、植物繊維で作られた物のみを指し、絹織物や毛織物は「布」とは呼ばれていなかった。当時に、絹は天皇などの高貴な身分の人々が用いる最高級品であり、その製品は「布」とは別格視されていた。従って当時の調布とは、麻をはじめ苧(ヲ;お;カラムシ)・葛(くず)などの絹以外の繊維製品を指していた。
時代によって違うものの、大宝律令・養老律令の規定では、「調絹は長さ5丈1尺・広さ2尺2寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。 調布は長さ5丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁2名分の調とする。」
としていた。しかし養老年間に改訂が行われ、「調絹は長さ6丈・広さ1尺9寸で1疋(1反)となし、正丁6名分の調とする。 調布は長さ4丈2尺・広さ2尺4寸で1端(1反)となし、正丁1名分の調とする。」とされ、これを元に貢進した。
しかし令に規定された織幅で織る道具や技術は、未だ普及していないはずだから、郡司の管理下で一括生産されていたと考えられる。
絁(あしぎぬ)とは、古代日本に存在した絹織物で、『日本書紀』に振られた和訓は「ふとぎぬ」、『和名類聚抄』では「あしぎぬ」であった。また、『令義解』では、「(糸の)細きを絹と為し、麁(あら)きを絁(あしぎぬ)と為す」という一文がある。特に美濃国で作られた美濃絁(みののあしぎぬ)と上総国で作られた布・麻織物である望陀布(もうだのぬの)は、古くから品質は上質とされ、かつ東国豪族の忠誠の証を示す貢納品としても評価されていた。いずれも「東国の調」と呼ばれて古くから宮中行事や祭祀に用いられ、特別に美濃絁・望陀布に関する規定が設けられていた。
信濃国からは、絹布や麻布、熊の胆(い)、鹿皮、梓弓(あずさゆみ)等であった。現在正倉院に残っている信濃国の布は、天平10年10月と書かれた布袋と、信濃の国印が押捺された天平11年10月の白布をはじめ、白布芥子(からし)袋、布袴(ぬのはかま)等がある。
繊維製品の代わりに金属その他の鉱産物・塩・魚介類や海藻類の海産物など地方特産品34品目で納めることもあった。これは中国の制度との大きな違いで、調雑物(ちょうぞうもつ)と呼ばれた。畿内と京では、貨幣と同一の機能を持っていた布による貢納に統一されていたが、和同開珎が発行されると、銭貨の貢納に変わった。これを調銭(ちょうせん)といった。
このほか正丁には、調副物(ちょうそわつもの)といって、紙や漆など工芸品や各地の特産物を調に付随して賦課した。いずれも京へ貢進され律令政府の主要財源として、官人の給与(位禄・季禄)や役所の諸費用などに充てられた。大宝令では飛騨だけ、これを免除した。飛騨は調・庸を免除され替わりに匠丁(たくみのよほろ;しょうてい)を里ごとに、10人1年交替で徴発した。いわゆる飛騨工(ひだのたくみ)である。匠丁は木工寮や修理職に所属して、宮殿などの造営を行った。
調庸物の納入期日は地域の遠近によって8~12月と幅があるが、都との距離を考慮して、諸国を近国、中国、遠国に分類して、到着の期限が決められていた。現物は国ごとにまとめて都まで運ばれた。納入の際は調庸を負担する家から運脚(うんきゃく)を選び、国司・郡司に引率されて都へと向かった。彼らは陸路を自ら税を担いで運ぶのを原則とした。馬や車は貴重品であったし、当時の道路事情から、整備されていない畿外の道を荷車でいくことは困難であった。往復の日数は信濃国から往路で21日、復路は空荷であっても10日を要した。武蔵国になると往路で29日、復路で15日もかかった。京まで往復の食料は自弁で、貢進物の納入に際しても、その数量や質の検査も伴うから、日数がやたらに経過し、食料が尽き帰路につくこともかなわず、あるいはその途上で餓死する者も多くいた。養老元年(717)に正丁の調副物と中男(ちゅうなん;17~20歳の男子)の調は廃止され、これらは中男作物(ちゅうなんさくもつ)にうけつがれていく。
ツキとニエを調としたため、天皇の食料の供御(くご)の調達はどうしたか、律令にはその規定がなかった。しかし木簡の解読で明らかになった。一部の木簡に租・庸・調ではなく、贄や御贄(みにえ)、大贄(おおにえ)の文字が見出せる。それで律令制以前のニエが、律令制当初の「贄」であった事が知られた。しかも藤原京跡や平城京跡から出土した木簡の記述などから、志摩国・若狭国・淡路国などが供御の貢進国、いわゆる御食国(みけつくに)に当たることも明らかになった。大宝律令および養老律令には、贄の貢ぎに関する記載が無い。しかし『延喜式』には、御食国による贄として、貢進物の内容が詳細に記述されている。『延喜式』によると、宮内省の内膳司(うちのかしわでのつかさ;ないぜんし;天皇家、朝廷の食膳を管理した役所)の条に、「諸国貢進御贄」、「諸国貢進御厨御贄」などの項目がある。この項には各国に割当てられた食材を、それぞれ毎月(旬料)、あるいは正月元旦や新嘗祭などの節日(節料)に、物によっては毎年(年料)一度というように内膳司に直接納めることが規定されていた。
平城京跡から発見された木簡に「志摩国志摩郡」の表記が見られ、当初は一郡で一国であった。その後の『延喜式』では答志郡(とうしぐん)、英虞郡の二郡になっている。志摩国は小島が点在し、山と丘陵が殆どで、田畑はわずかで、国内の口分田は賄えない。尾張国、伊勢国にあった田が志摩国に割当てられていた。それでも一国でありえたのは、供御の貢進国、いわゆる御食国(みけつくに)として新鮮な海産物を、天皇に届けていたからである。志摩国の守は内膳司の長官を分掌した高橋氏と安曇氏が交代で任じられている。どの国よりも新鮮な海産物を逸早く供御として上供する重要な国として、体制が整えられていたことがわかる。また平城京の木簡からは、志摩国の贄を納めた氏族として膳大伴部の名前が多く見つかっている。膳臣配下の膳大伴部が、志摩国の海人(あま)・海部(あまべ)を支配していたと考えられる。膳氏(かしわでうじ)は天皇家や朝廷の供御を担当した伴造で、後になり高橋氏と改めた。膳氏の出自を示した『高橋氏文』には、景行天皇が東国に行幸したおりに、安房国にて磐鹿六雁命(いわむつかりのみこと;膳氏の始祖)が蛤を捕り、天皇に料理をして献上したところ、天皇の子孫代々まで御食(みけつ)を供するよう膳臣を授かったという記述がある。
御食つ国 志摩の海人ならし
ま熊野の 小舟に乗りて
沖へ漕ぐ見ゆ
『延喜式』によると、志摩国は10日毎に「鮮鰒(なまのあわび)、さざえ、蒸鰒(むしあわび)」を納めることが定められていた。また節日ごとに「雑鮮の味物(水産物)」の献上も定められていた。
もう一つの御食国・若狭国の地理的特長を見ると、海岸線はリアス式海岸で複雑に入り組み、対馬海流の影響で海産物に恵まれている。一方で平野部は狭く限られており、田畑の面積は少ない。また、若狭国は、8世紀に置かれた郡は遠敷郡(おにゅうぐん)と三方郡の二郡であり、一国二郡は志摩国、淡路国とあわせて三国しかなかった。このように田畑の少ない場所が、国と認知されたのは、天皇家・朝廷にとって「御食国」、「御贄(みにえ;天皇の食料)」を上供する大切な地方であったからだ。また神護景雲2年(768)に安曇氏の阿曇石成が若狭国守を務めている。
万葉集においては、伊勢・志摩・淡路などが御食国として詠われるとともに、若狭については、平安時代に編集された「延喜式」に、天皇の食料である「御贄(みにえ)」を納める国として、志摩なとどと共に記されている。また、奈良時代の平城京跡から出土した木簡の中に「御贄(みにえ)」を送る際につけた荷札が発見されている。若狭は、古くから塩や海産物等を納める「御食国」として役割を果たしてきた。
『延喜式』によると、淡路国も旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。淡路国は阿波・吉備・紀伊の海部を束ね、高橋氏と同様に内膳司の長官を分掌する安曇氏が支配していた地域でもあった。若狭国・志摩国と同様に田畑が少ないにも関わらず一国として存立する重要性があった。淡路国では宍(しし;猪・鹿などの食用肉)一千斤(きん;一斤は600g?但し古来品目により一定してない)、雑魚一千三百斤および塩を出すことになっていた。また、毎月の旬料として雑魚二担半、宮中で正月に行われた三つの節会、元日の節会・白馬(あおうま)の節会・踏歌(とうか)の節会、いわゆる正月三節の料として、雑鮮味物五担を天皇ならびに中宮に差し出すよう規定されていた。これらの贄は、都へは、上り下りとも7日間を要したとある。陸路より日数が掛かっており、運搬は船を使って平安京に運ばれたと考えられる。
何故、「調」なのか?といえば、調の主な用途は、官司官僚の人件費はもとより、中央政府の幣料に充てられていた。その「調」の
養老元年(717)の制度改定により、小丁(数え年17~20歳)の調の負担と、正丁の調副物が廃止された。新たに中男作物(ちゅうなんさくもつ)という税が創設された。中男は小丁を改称したので、「丁」は課税負担者の意味があるため、調が免除されたことを受けてはずしたのである。中男作物は中男集団の共同作業で、律令国家が必要とする物資を貢進させるため再編成した。中男の労力だけで、必要量が賄えなければ、郡司が組織する正丁の雑徭で補完させた。
中男の年齢に達すると、正丁の4分の1の雑徭を負担させた。雑徭とは年間60日を限度として課される労役負担である。雑徭の古訓は「クサグサノミユキ」、それは大王や大王の使者に対する様々な力役(りきえき)奉仕を意味した。大王が天皇となり、派遣された使者が常駐する国司となると、国司は唐の雑徭と同様、河川の改修や道普請をさせた。また平安時代に到っても天皇の使者の迎送を担っていた。律令後は郡司が組織し、道路や水利の敷設と維持管理、官衙の造営、行幸や国司巡行の際の奉仕、中央への貢進物の生産などにもあたらせた。
平城京二条大路上の溝状遺構から出土した木簡には、「若狭国遠敷郡青郷小野里中男海藻六斤」の記述がある。ほぼ中男の調の半分が中男作物の一人分で、それが一つの荷にまとめられた。通常、木簡には個人名がない。中男作物は中男集団の共同作業によって、調達するしくみであったことによる。
上記の場所から「因幡国法見郡広端郷清水里丸部百嶋中男作物海藻御贄陸斤天平八年七月」と記された木簡もあった。「中男作物と御贄」という税目が併記されている。中男作物と贄との一体性が感じられる。この木簡には中男作物木簡としては例外で、個人名まで記載されていた。中男作物は通常、国・郡・郷などが貢進主体となっていて、出土木簡の多くは地方特産物の貢進という事例が多く、贄との共通性が高い。前者の木簡が出土した二条大路上からは、多くの贄木簡が出土していることから、若狭国の「中男海藻」も贄的な扱いを受けていたようだ。
平安時代の『延喜式』(延長5年927)には、越中国の中男作物として「鮭楚割(さけすわり)、鮭内子(こごもり)、鮭鮨(すし)、鮭氷頭(ひず)、鮭背腸(せわた)、鮭子」の5種が列挙されている。楚割は魚肉を細長く割いて、塩引きした干し物。内子は子をもった雌鮭。鮨は魚の臓物を除去して飯と酒を混ぜ合わせて詰め、発酵させた熟(な)れ寿司。氷頭は頭部の軟骨。背腸は背骨についた血合いの塩辛。鮭子は筋子。これら鮭加工品が貢租として越中国に割り当てられていた。
同じく『延喜式』に、丹波・但馬・因幡・美作の中男作物に栗が見える。平城京から出土した木簡を見ても、備中国英賀(あか)郡から栗が納められていたことが分かる。安房国から納める調として干しアワビが、また、中男作物としてカツオやアワビが規定されている。一方で、安房国のアワビ木簡が平城宮跡より出土している事実は、『延喜式』の記述と整合する。中男作物として一人紙400枚を納めた国として越中国が記されている。したがって、すべてが贄的とはいえない。
平城宮跡から出土した天平18年(746)の木簡には「越中國羽咋郡中男作物鯖壹伯雙」と書かれてある。この年は、大伴家持が越中守として着任した年で、羽咋郡(はくいぐん)の中男が産物の鯖100本を平城宮に送ったときの荷札がある。羽咋郡は能登半島の一部で、現在は石川県だが、天平18年のこの木簡には、「越中国羽咋郡」と書いてある。
庸は元来、年間の10日間、京へ上って労役が課せられていたが(歳役;さいえき)、かわりに布2丈6尺(約7.7m余)を納めさせた。その代納物として木簡によれば、布・綿・糸・米・塩・鮭などがあてられていた。それらを諸国で徴収した後、大宝令では京の民部省に納入した。現代の租税制度でいえば、人頭税の一種といえる。慶雲3年(706)以降は、米・塩のみは民部省へ、布類は調と同じように、民部省と主計寮の監査をうけて大蔵省へ納入された。布類は大蔵省から官人の位禄・季禄として支給されたが、それ以外の大部分は民部省から衛士の大粮(たいろう;食料)や衣服料として渡され、雇役民への功直(こうちょく;雇用料)や食料に用いる財源となった。
庸の古訓は「チカラシロ」である。これも唐の制度を真似ているが、日本古来からの仕来りも影響し、国造の子女からなる采女(うねめ)・兵衛(ひょうえ)・衛士(えじ)・仕丁(じちょう)達の生活物資となる布・米・塩・綿等を、その郷里から送らせるのが目的ともいえた。元々、国造の倭政権への服属の証としての人質の意味合いもあったが、地方有力者にとって、舎人となり姓を得られれば、末代までの権威であり、況して采女となった娘が御子でも生めば、地元では絶対的な権力を振るえたといえる。律令制下でも、郡司の子女・兄弟姉妹は、宮仕えが課せられていた。
京や畿内、飛騨国は賦課されなかった。代わりに京と畿内は雇役(こえき)が課せられた。雇役は一応雇用であって、功直(こうちょく;給与)が支払われた。4月~7月は4日間で、布一常(じょう;長さは1丈3尺、幅2尺4寸。庸布の半分にあたる)が、2、3月と8、9月は5日間で、布一常、10~1月は6日間で、布一常が支給された。季節による日中の長短で、労働時間に違いが生じ報酬に差を設けた。毎日の給食も出た。1回の雇用期間の上限は50日で、再雇用もあった。雑徭は郡司が徴用し、その国内の労働に充てるのを基本とした。雇役は国司が主導し、他国、特に京での労働に就かせた。平城宮や京の造営は、その労働力を活用した。
庸は、都での10日間の歳役の代わりに布2丈6尺を納入させた。そのため宮都や道路、寺社の造営には、この歳役が充てられたが、当然、歳役が不足した。それを雇役で補充して、東大寺の大仏造営などを完成された。京や畿内のみならず、諸国の郡司を通じて雇役民(大半が農民)を徴発し、庸を財源とした法定の功直を支給して造営などの労役に従事させた。律令の賦役令では、功直は布一常が基準で庸布が充てられた。しかし庸の絶対数が足りなかったので、実際には銭で支給されることが多かった。和同開珎を始めとした銭貨の鋳造の目的は、実はこのような功直を支給するためであったという。支給額は銭1枚=1文で、通貨単位である1文として通用した。当初は1文で米2kgが買えたと言われ、また正丁1日分の労働力に相当したとされる。なお、雇役の際の京と地方の往還の食料は自弁であった。雇役が終わって、故郷に帰る途中で餓死、狼・熊との遭遇、罹病、間道に迷い込むなどで行き倒れが多かったという。
民の負担は、雇役に加え正丁には仕丁(じちょう)という労役も課された。それは50戸(里)ごとに2人が京に上り、官司(かんし)の雑役に従事した。
飛鳥時代の石神遺跡(いしがみいせき;奈良県明日香村)では、約700㎡を発掘調査され、その結果、斉明朝、天武朝、藤原京時代3期の遺構が混在していることがわかった。しかも古代の地方行政区分を示す木簡や帳簿木簡、荷札木簡などこれまで多くの木簡が発見された。藤原京時代、天武朝に造られた池状の遺構を埋めて造られた石敷き、石敷き井戸、溝、建物跡などが発掘された。その溝からは土器や木簡などが多量に出土し、削りくずをも含むと500点以上にのぼる。木簡の中で、特に目を引くのは、「大学官」のように古代の官吏若しくは官司を示すものや、「物部五十戸人」の記述により、物部は尾張国の地名であるが、五十戸は後の里であるから、五十戸という行政単位が大宝令以前、既に使われていた可能性が高いことが分かった。
「乙丑年十二月三野国ム下評」の木簡の表記により、乙丑年(いっちゅうのとし)即ち天智4年(665)、三野国ム下とは美濃の国武芸郡、評(こおり)と読むが、701年大宝令以降になると「郡」と表記されが、それ以前の表記が明らかになり、行政区分と政策の年次と内容を示す文字が多く、時代解明に大きく貢献している。ほとんどが荷札的なものであったが、これらの発見によって、701年以降は「国-郡-里」となる区分が布かれるが、戸籍が始めて完成した天智天皇9年(670)の庚午年籍が出る以前においては、「国-評-五十戸(里)」と表記されていたことがわかった。「五十戸」が「里」に変わるのは682年前後であろうと言われている。
池状の遺構などからも、古代の各種労役の一つ「仕丁」に従事した農民への米支給などを記録した木簡5点を含む、7世紀後半の木簡が100点出土した。それにより、「仕丁(じちょう)」は律令制下で、地方集落の最小単位となる「五十戸(里)」から、租庸調とは別に農民へ課した労役の1つで、官司の雑役に従事する立丁(りつてい)と、その立丁のために食事などの世話をする廝丁(しちょう)と1組で、強制的に徴用された。それは6世紀以前から、既にあった日本固有の古代制度であったことが知られた。
現実は、立丁と廝丁の区別はなく、奈良時代には都や寺院の造営工事などにも使われた。平安時代には形骸化し、銭などで代納されるようになった。「仕丁」の実態を確認できる木簡としては最古の例で、年号は天武朝6年(678)~持統朝6年(692)までの時期が確認できた。『日本書紀』によると、仕丁の原型は政令の大化改新の詔(大化2年【646】)に初めて記述されていたが、これまで藤原京時代(持統8年(694)~和銅3年(710))の木簡までしか確認できていなかった。
木簡の1枚は「方原戸仕丁米一斗」と書いてあり、「方原(かたのはら)」は三川国穂評(みかわのくにほのこおり)、後には参河国寶飫郡(みかわのくにほおぐん)と表記される、現在の愛知県蒲郡市付近にあった里の、仕丁の出身地の戸の名を表している。「米一斗」は、食料として仕丁に支給された米の量で、その仕丁に1斗(現在の4升分、16合)の玄米を支給したことが記された。
別の大型の帳簿木簡の表書きには、「鳥取口二升桜井口二升」と「青見口二升知利布二升 ?久皮ツ二升」とが併記され、裏面には「加牟加皮手五升」と「神久口二升小麻田口二升」とが併記されていた。「鳥取(ととり)」「桜井(さくらい)」「青見(あおみ)」「知利布(ちりふ)」は三川国青見評(あおみのこおり)で、後の参河国碧海郡(あおみぐん)、現在の愛知県安城市・知立市付近にあった里の地名であった。裏面の地名も、同じ青見評の里名と考えられるが、未だ確証がない。いずれにしろ、「仕丁」に1日当たり2升(現在の8合分)が支給されていたことが記されていた。奈良時代の正倉院文書でも、仕丁の米支給は1日2升で、5日分まとめて渡していた記録が残る。支給される食糧は、出身地が負担していた。
天武天皇の時代に、食料支給の具体的運用を含め、仕丁が制度として確立していたことを裏付ける貴重な史料となっている。地方からかり出され、役人の下働きをした人々の実態を示す史料でもあった。大宝令には3年交替の規定がなかった。生涯を都で終えた者も多かったようだ。養老6年(722)に格(きゃく;律令を部分的に改定するために発せられる詔勅や官符)として、初めて3年交替制が施行された。
このほか、『論語』の「有朋自遠方来(朋あり、遠方より来たる)」と文章の練習をした木簡や、公文書の行間をそろえるのに使う定規の破片も見つかっている。
正丁に課される労役に兵士役がある。天武6年(677)以降の東大寺に残る豊後国戸籍の断簡の中に、「 川内漢部佐美(かわちのあやべさみ)年四十三歳、兵士」、「川内漢部赤羽年二十五歳 兵士」という記述が見える。
養老令第十七 軍防令の兵士簡点条には、「同戸の内に、三丁毎に一丁を取れ」と定められていた。規定上は正丁3人に1人の割合で徴用される。しかし天平12年(720)の「越前国江沼郡山背郷計帳」によると、戸主江沼臣族乎加非の戸では、房戸主で37才の江沼臣族人麻呂が兵士になり、戸主江沼臣族忍人の戸では戸主の弟で42才の江沼臣族荒人が兵士となっている。前者の戸は全房戸数48人、そのうち正丁8人いた。そのうち3人は逃亡していた。後者の戸は全房戸数39人、そのうち正丁9人であった。しかし、ともに一人ずつしか兵士を出していない。軍防令兵士簡点条の規定は、事実上履行が困難で、各戸から正丁1人が精一杯であった。しかも40歳を越える高年齢者が選ばれている。
兵士には年限規定はない。したがっていったん兵士になると、いつそれから解放されるかわからない。律令制施行前は10人の兵士で 一火(いっか)を編成し、火長に統率されて各国に置かれた軍団に登録された。大毅(だいき)・少毅(しょうき)・校尉などの軍団の役人の統率下に入り、訓練を受けた。長官にあたる大毅・少毅は、在地の有力者が任用された。兵士となった者は、その間、 庸(よう)、雑徭(ぞうよう)を免除される代わりに、100日間に10日の割合で訓練させられた。軍団兵士は有事には征討に従い、平時には国府をはじめとする国内の要衝の地の警備にあたった。また正倉の修理、国衙の修理、関などの守衛、天皇行幸時の護衛、外国使臣の送迎、囚徒の護送、犯罪者の逮捕などに従事した。兵士はこのような国内での勤務のほかに、都と北九州での任務につくこともあった。前者を衛士(えじ)といい、後者を防人とよんだ。
衛士は、宮中の護衛のために諸国の軍団から交代で、衛門府(えもんふ)・左右衛士府に配属され、宮城や京中の宮門警備にあたった。少なくとも1,300人が必要であったから、各国から20人ないし30人は上京したと思われる。令の規定では1年間の勤務であったが、養老6年(722)に3年となった。しかも3年たてば帰郷できる保証はなく、実際には守られないことが多かった。壮年期に上京し、白髪になって帰ることもあったといわれている。このため、衛士の逃亡がしばしば政治問題となった。平城京造営の際は、余りの過重労働で逃亡者が続出した。それで養老2年(718)、国ごとに、衛士の定員を割り当てた。天平年間では、全国で千人であった。
防人は大宰府の防人司(さきもりのつかさ)の下に置かれ、唐、新羅の侵入を防ぐため壱岐、対馬、筑紫国などの防衛にあたった。軍団(1軍団の兵士は1,000名以下)にして2から3個分が、筑紫国に駐屯した。史料上の初見は大化改新の詔である。養老令制では諸国兵士の中から一定数を3年交替で選び、装備と往還食料は自弁とした。それまでの大宝令には、年限規定がなかったようだ。3年の任期も、衛士同様、実際には守られないことが多かった。「壮年にして役に赴き、白首(はくしゅ)にして郷に帰る」、それが奈良時代の実態であった。白村江の敗北で疲弊した西国に替わって、天平2年(730)に東国の兵士に限られ、『 万葉集 』の中に東国防人歌が数多くよまれることとなった。防人の出身国は、信濃・上野・下野・武蔵・駿河・遠江・相模・上総・下総・常陸の10ヵ国であった。筑紫へは難波津から舟で、そこからは食料が支給されたが、津までの陸路は自弁であった。延暦14年(795)東国からの徴発をやめて九州の兵士をあて、10世紀ころまで存続した。
このように兵士役は正丁を家から長期にわたって引き離し、兵士自らが30日分程度の食料にあてる 糒(ほしいい)6斗と塩2升、弓・征箭(そや)・胡?(やなぐい;矢筒)・大刀・刀子などの武具は兵士自らが備えなければならなかった。しかしこの負担を、当時の貧窮に喘ぐ庶民が担えるわけは無かった。平安時代の11世紀頃に編集されたとおもわれる法令集、『類聚三代格』巻18に、「名はこれ兵士にして、実に役夫に同じ、身力疲弊して兵となすに足らず」「兵士の賤は 奴僕にことならず」「窮困の體、人をして憂い煩わしむ」と記されている。
なお養老3年(719)10月、諸国の軍団・兵士の数を減らす措置が取られたが、この時志摩・若狭・淡路の三国は兵士そのものを停止した。これは三国の規模が小さく、兵士制の維持が困難であったことによる。
延暦21年(802)1月9日、征夷大将軍の坂上田村麻呂は、胆沢城築造ために造陸奥国胆沢城使を兼任して奥州へ派遣される。11日には東国の10か国、すなわち信濃国、駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、上野国、下野国の浪人4千人を胆沢城に配する勅が出された。同年、胆沢の地(岩手県奥州市水沢区)を制圧し、胆沢城の築城が進められていた。おそらく未だ建設中であった4月15日に、奥地へ逃げ込んで抵抗を続けていた蝦夷の大酋長・阿弖流為と盤具公母礼(いわぐのきみもれ)等が、部下5百余人を率いて投降してきた。阿弖流為は、第一次の征討軍を北上川で撃破した猛将で、その名は朝廷でもよく知られていた。造陸奥国胆沢城使として現地に赴いていた坂上田村麻呂は、二人を伴って平安京に上り、天皇に報告した。ここに、30年以上続いた戦乱は終結した。
現地の状況に詳しい田村麻呂は、蝦夷の反乱兵、個々の剽悍さを当然知っていた。馬上での蕨手刀(わらびてとう)を駆使しての斬殺力の威力を、「一以当千」と大和の将兵は称し、これを恐れていた。実際、大和の兵は、東国の10か国からの寄せ集めの浪人と農民の混成軍であり、武技に劣る疲弊した民であれば、戦意も低く数十人で立ち向かっても、蝦夷の兵1人にも及ばなかったのは当然であった。ここで蝦夷側と和平を結び、大酋長・阿弖流為の力を活用した方が有効であると判断したのは当然である。
ところが太政官院(朝堂院)は、田村麻呂に率いられた賊将2人の姿を見て、蝦夷の征討が完全に成就したものと見て、百官は蝦夷平定を祝賀する上表を桓武天皇に奉った。さらに8月に入って、阿弖流為ら降将の処分が問題になったとき、田村麻呂は2人の命を助けることを懸命に申請したが、桓武天皇および太政官達は、「野性獣心、反覆定まりなし。たまたま朝威(ちょうい)に縁(より)て此の梟師(きょうすい)を獲たり。縦(たと)へ申請あるに依り、奥地に放還するは、いふところの虎を養い患を遺すなり。」といって受け入れなかった。8月13日、2人の賊将を河内国杜山(くにもりやま)において斬刑に処した。大阪府枚方市片埜(かたの)神社の境内と比定されている。この9世紀初めに、鎮守府は国府がある多賀城から北上して胆沢城に移転した。
延暦21年(802)12月、太政官符により三関国と陸奥・出羽・越後・長門・大宰府管内の諸国を除いて、兵士は全国的に廃止された。三関国とは三国之関とも呼ばれた不破関(美濃国)、鈴鹿関(伊勢国)、愛発関(あらちのせき;越前国)の三関のある律令国を称した。9世紀初頭に逢坂関(近江国)が愛発関に代わった。しかし天平18年12月には諸国の兵士の徴発を復活している。
延暦24年12月7日、諸国の困窮は最悪となり、参議藤原緒嗣が陸奥進軍と平安京造営の中止を提言し、これを容れる。延暦25年(806)317日、桓武天皇崩御、70歳。
日本の防人は、大化の改新の後の天智2(663)年に、朝鮮半島の百済救済のために出兵した白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に敗れたことを機に、九州沿岸の防衛のため、軍防令が発せられて設置された。大宰府がその指揮に当たった。白村江の戦いでは、日本軍の400隻 総てが、唐の軍船170隻に挟み撃ちされ、火攻めに遭い炎上、殆どの兵は溺死するという文字通りの壊滅であった。その倭の軍勢の主力の出身地は、筑前、筑紫、筑後、伊予、肥後、讃岐、次いで陸奥と、ほぼ畿内から西の国々であった。特に北九州での人的被害は深刻で、これ以上の兵士役の負担は不可能となり、以後、主に信濃国以東の民が徴発された。しかし、その間も税は免除される事はないため、農民にとっては重い負担であり、兵士の士気は低かった。
『万葉集』巻20の防人の歌
『唐衣(からころむ) 袖にとりつき 泣く子らを 置きてぞ来ぬや 母(おめ)無しにして』
この歌の作者は、小県郡の国造・他田舎人大島である。国造にしてこの悲泣、況して農民は歌う術も持ち合わせていない。
平安時代に入り、桓武天皇の延暦11年(792)に健児の制を定め、軍団・兵士役が廃止されたが、国土防衛のため、兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。延暦14年(795)東国からの徴発はやめたが、九州の兵士をあてて、10世紀ころまで存続させた。しかし桓武の子・嵯峨天皇の代、弘仁年間(810~823)に頻発した台風被害と、それに伴う飢饉によって、水田が一気に湿地化し、ほぼ九州全域で集落が放棄される事態が多発する。特に北部九州では、弥生時代から古墳時代にかけて水田が営なわれていた唐津市の中原遺跡(なかばるいせき)などは、松浦(まつら)川が砂丘列を造り、水を堰き止め、一帯が湿地化し9世紀には、薦(こも)で覆い尽くされている。
『三代実録』によれば、貞観11(869)年5月、新羅の海賊船2隻が博多に侵入し、豊前国の年貢の絹綿を略奪し逃走した。この時海辺の百姓5、6人が懸命に戦ったのに、統領や選士は惰弱で役に立たなかったという。この報せに朝廷は、当然大宰府を譴責するが、その対応策に「今後は、降伏した蝦夷である夷俘(いふ)を動員して火急に備えさせよ」とある。この時代軍団兵士制は廃止されていたが、たった海賊船2隻にすら対応できる組織的軍事力は存在せず、少数精鋭の夷俘の武技にしか頼れなかった。
海賊の侵入は別として、実際に外国勢力との交戦は、寛仁3(1019)年に中国沿海地方の女真族が対馬から北九州を襲撃した刀伊の入寇の一度だけである。院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が形成すると、質を重視する院は次第に防人軍団の規模を縮小し、大宰府消滅と共に消えていった。
健児(こんでい)は、奈良時代から平安時代における地方軍事力として整備された軍団であった。8世紀初頭、本格運用され始めた律令制において、国家の軍事組織として全国各地に軍団を置くこととした。軍団は3~4郡ごとに設置されており、正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発される規定であった。しかし、農民の生活状態からみても、事実上は不可能であったようだ。天平6(734)年4月23日に出された勅命には、「健児・儲士・選士の田租と雑徭を半分免除する」とあり、健児は元々、軍団兵士の一区分だったと考えられている。天平10年(738年)には、北陸道と南海道を除く諸道で健児を停止しており、これにより健児は一旦、ほぼ廃止されることとなった。
律令制軍事組織の一つで諸国に置かれた軍団には、軍毅として大毅と少毅、以下主帳(しゅちょう) 校尉(こうい) 旅帥(りょすい) 隊正(たいせい)などが置かれた。軍毅は六位以下の散位(さんい;四位又は五位の者で無官の者)、有勲位者、庶人の武芸達者な者などから任命し、国司のもとで軍団を統制した。平時は、1軍団の兵士は1,000名以下で、兵士5名単位を伍(ご)とし、兵士50名を隊として、隊正(たいせい)1名、弩手(どしゅ)2名を置き、兵士100名に旅帥(りょすい)を1名、200名に校尉(こうい)1名、600名以上に大毅(たいき〕1名、1000人に大毅1名と少毅2名を置いた。
大毅は兵士の検校で、即ち総監、戎具を充備し、弓馬の調習、陳列の簡閲(参集させ査閲)などを職掌とし、少毅がこれを補佐した。主帳は事務官であった。律令軍団の成立は、『 日本書紀 』の 持統(じとう)天皇3(689)年閏8月、庚申条の諸国への詔に「今冬に戸籍造るべし(中略)其の兵士は一国ごとに四分して其の一を点して武事を習はしめよ。」とあるのが、成立に関する最初の史料である。
その後、天平宝字6年(762年)になって、健児が一部復活した。伊勢国・近江国・美濃国・越前国の4か国において郡司の子弟と百姓の中から、20歳以上40歳以下で弓馬の訓練を受けた者を選んで健児とすることとされた。健児の置かれた4か国は、いずれも畿内と東国の間に位置しており、当時最大の権力者だった恵美押勝(藤原仲麻呂)により、対東国防備の強化のため、健児を復活したのだとする見解もある。
8世紀末の桓武天皇は、現状との乖離が大きくなりつつあった律令制を再建するため、大規模な行政改革に着手した。その一環として、延暦11年6月(792)、陸奥国・出羽国・佐渡国・西海道諸国を除く諸国の軍団・兵士を廃止し、代わって健児の制を布いた。この時の健児は天平宝字6年と同様、郡司の子弟と百姓のうち弓馬に秀でた者を選抜することとしており、従前からの健児制を全国に拡大したものといえる。これにより、百姓らの兵役の負担はほぼ解消されることとなった。
なお、軍団・兵士が廃止されなかった地域、すなわち、佐渡・西海道では、海外諸国の潜在的な脅威が存在していたし、陸奥・出羽では対蝦夷戦争が継続していた。これらの地域では従来どおりの軍制が維持され、軍制の軽量化といえる健児制は導入されなかった。
その後、軍団が復活すると、健児は軍団の兵士として位置づけられ、10世紀ごろには、健児維持のため健児田が設けられ、全国定員が約3,600人とされていた。陸奥・出羽・佐渡にも置かれるようになったが、西海道には置かれなかった。
天長3(826)年11月3日の 太政官符(だじょうかんぷ)に「兵士の賎 奴僕と異なるなし。一人点ぜられば、一戸随って亡ぶ」とある。兵士1人の徴発が、なぜその家を滅ぼすほどの重みをもったのであろうか。当時農民は兵役以外に、土地に対してかかる租(収穫の3%)、正丁を基準に課す 庸、調、雑徭、仕丁(じちょう;50戸につき正丁2人を3年間徴発) 、さらには 出挙(すいこ) 義倉(ぎそう)などの負担を背負っていた。義倉は、隋の制度を基にして大化の改新の際に導入され、災害や飢饉に備えて米などの穀物を一般より徴収して保管した。大宝律令賦役令に定められ、親王を除く全人民が、その貧富に応じて納めたという。
天長3年12月3日、西海道の軍団兵士制も廃止された。当時、既に西海道は連年の飢饉と天然痘などの疫病で、庶民を兵役で徴集することは不可能になっていた。大宰府では代わりに衛卒(えいそつ)200人を置き、対外的緊急時に備えた。その上で、主に大宰府や国府の警備に当たらせるため統領・選士(せんし)を、「富饒遊手の児(ふじょうゆうしゆのちご;富豪の子弟)」の中から、弓馬刀術に優れた者を選んで充てた。給与も支払われた。大宰府では、400人の選士に8人の統領が率い、4交代制で警備に就いた。
しかし先述したように、貞観11(869)年5月、新羅の海賊船2隻が博多に侵入し、豊前国の年貢の絹綿を略奪し逃走した際、海辺の百姓5、6人は懸命に戦ったのに、統領や選士は惰弱で役に立たなかったと、記録されている。
奈良時代に 山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ「 貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」の内容は、当時の農民の実態を如実に語るもので、この農民の必死の営みを中断させるものが雑徭と兵役である。雑徭には正丁以外の次丁(61~65歳) 、少丁(17~20歳)も日数を減じて徴発された。また兵役は年間30日の軍団勤務を強いられた。これらにより、農繁期の人手が必要な時に、しばしば働き手を奪われ、田畑の維持すら困難になった。
既に陸奥国に強制移住させられた民の逃亡が繰り返され、その一方、下野国の百姓、870人の集団が律令制の支配に耐えられず、陸奥国に流入していた。
八) 律令集落の崩壊
7世紀後半から8>世紀にかけて、唐の律令制度が導入され、中央集権国家体制の整備が進むと、当時の長野県域には、中央の政治体制に組み込まれた「シナノ国」ができあがった。藤原宮から出土した付札(つけふだ)木簡には「科野国」という記載がみえる。和銅5年(712)に完成した『古事記』にも「科野国」が登場する。時に、「信野」が用いられたこともあったが、やがて国名には「信濃」という文字があてられるようになった。奈良の東大寺正倉院文書や平城京跡などからみつかった木簡には「信濃」が使われている。
長野県千曲市屋代遺跡群からは1994年(平成6)の調査で約3万5千点の木製品に混じって130点の木簡がみつかっている。この遺跡はたびたび千曲川の洪水に襲われている。水田や水路は洪水のたびに泥に覆われた。しかし流路の掘りなおしなど、何度も修復再生された。洪水と再生、この繰り返しによってできた厚い地層の中に木簡や土器が埋もれていた。
古墳時代以来営々と、あるいは断続的に営まれてきた古代集落が、9世紀から10世紀にかけて姿を消していく事例が多い。千葉県八代市で発掘された古代集落跡・村上込の内遺跡(こめのうちいせき)は、奈良・平安時代の8~9世紀、200年間続いた集落であった。下総国印旛郡村神郷(むらかみごう)と呼ばれ、「村神郷丈部国依甘魚」と記された墨書土器が出土している。郷となれば50戸があり、千人強の人々が生活していたはずだ。遺跡の発掘は、村神郷の半分程度の面積であったが、竪穴住居址が180軒、掘立建物址が30軒検出された。印旛沼の西方の、ここの住民はどうして消えたのか?
東京都八王子市の中田遺跡(なかたいせき)も、古墳時代に集落化し、奈良時代にも存続していた。146軒の住居址が発見されている。しかし10世紀以降の痕跡が希薄になる。
世界的に、8世紀末から11世紀末の間、気候の温暖化で海水面が上昇した時期であった。それが日本列島に多雨をもたらしたようで、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇三代の30年間(858年~87年)を編年体で記述する『三代実録』によれば、特に9世紀後半、洪水が頻発していた。
千曲市屋代遺跡は、弥生時代から河川の自然堤防上に営まれた集落址である。その自然堤防の背後にできた湿地で水田化が進められ、8世紀末には集落が膨張し、9世紀後半には水田が条理区画され整備された。その直後、千曲川が大氾濫する。
この大洪水を『日本紀略』の仁和4(888)年5月8日条に「信濃国大水、山頽(くず)れ河溢(あふ)る」と、『類聚三代格』巻17の仁和4年5月28日詔に「今月8日、信濃国、山頽(くず)れ河溢(あふ)れ、六都を唐突(とうとつ;突然不慮の事態が襲う意)す。城廬(じょうろ)、地を払いて流漂し、戸口、波に随いて没溺(ぼつでき)す。百姓何の辜(つみ)ありてか、頻りに此の禍に罹るならん。」と記している。
その結果、条理水田が土砂に埋まり、長期にわたって放棄され、11世紀の平安後期になって、ようやく水田が再開発される。そのため現代にとっては、貴重な遺構と木簡が保存された。ただかつて7世紀~9世紀にかけても、千曲川の水害を数度にわたって被災している。しかも、すみやかに復旧作業が行われている事が、その遺構の検出状態からも十分窺える。それなのに何故、仁和4年5月8日の大洪水後、長い空白期間が生じたのか?
単純に、この大洪水の被災規模が甚大であったからでは、説明がつかない程、畿内をも含めて九州を発端として東日本の各地で、9世紀~10世紀にかけて、古墳時代から営まれてきた集落の大半が消滅している。その後、中世にまで続く集落が本格的に再興されていく時期は、11世紀の平安後期となる。即ち荘園公領制という新しいが複雑な所領編成が、形成される過程を待たなければならなかった。そして国司が受領化していく。
律令体制下では、民は生存できなかった。戸籍に登録され口分田を受け取るより、律令体制外の人間として生きる道を選ぶしかなかった。そして人々は流民化していく。かつて郡司は、国司に従いながらも、実務に通じた能力を発揮し、民との間の中間利益を稼いでいた。しかし、流民化の増大により簿帳制度が崩壊すると、郡司の権威も消滅していく。それに対して、台頭してくるのが富豪浪人で、逃散民同様、口分田の班給は不要、つまり簿帳の支配は受けず、自ら営田(えいでん)を保有し、それを活用して広大な墾田(こんでん)を開発し、それを賃租田(ちんそでん)として経営する。
彼らは9世紀半ばころから、正税(しょうぜい)を滞納し、稲穀(とうこく)などその他の現物を支払えなくなった公民に、私的高利貸し・私出挙をし、その返済不能の補填として、口分田を譲渡させ、所有権移転の権利書、即ち売券を入手し営田とした。時には貸主の権力をかさに、口分田のうち良田を選び、強引に借り受けることもした。その一方では流民化した人々の多くは、最低の生存の拠り所として、富豪浪人の営田へ逃げ込み、奴婢のように使われることとなった。
元々、賃租田とは、律令制で、諸国の公田を国司が民に貸し、その賃貸料として地子(じし)を取った制度で、地子は収穫の5分の1ほどにあたった。「賃」は春先の前払いの地子、「租」は秋の収穫後に支払う地子を意味した。
富豪浪人は、貞観(じょうがん)2(842)年9月20日の官符によると、「国吏の威勢を畏るる事無く、郡司の差料(さしりょう;徴発)に遵(したが)わない」。さらに国司に刃向かい、群党を集め郡司を威嚇するため、彼らの威猛を恐れ、結局、租税が取り立てられなくなり、調庸を貢納できなくなった。9世紀半ば、既に郡司には積年の権威が失われていた。
信濃の国府が、今の松本、筑摩郡に移されている。おそらくは仁和4年の大洪水の結果がもたらしたとおもえる。平安時代中期の承平年間(931-7)に編纂された『倭名類聚抄』の信濃国の項に「府は筑摩郡にあり」と記されている。また信濃には「伊那、諏訪、筑摩、安曇、更科、水内(みのち)、高井、埴科、小県、佐久」の10郡あったとしている。
一方、諏訪盆地周辺の平坦地には、弥生時代や古墳時代のムラを引き継いだ奈良、平安時代の集落がかなり多く存在していた。しかし律令体制の政治支配が、八ヶ岳山麓台地上にまで及んだかというと、奈良時代と特定できる集落、その他の人々の生活の痕跡は、未だ確認されていない。それが平安時代になると、八ヶ岳山麓の山深い地域にも進出していく。遺跡数では、八ヶ岳山麓が40前後と多く、次いで霧ヶ峰山麓、守屋山麓、上川沖積地と続く。縄文時代の中期、大繁栄を極め、その後著しく衰退し、それ以後特に弥生、古墳時代を通じて無人の森林原野と化した八ヶ岳山麓台地上に、再び多数の集落が甦った。この様相は原村、富士見などの八ヶ岳西南麓全体にも及ぶ。
ただ同時代諏訪盆地周辺の平坦地で、長期のわったて発展し、古代諏訪の一つの中心地を形成した高部、阿弥陀堂、永明中学校校庭遺跡などでは、多くの住居址群を伴った大集落であったが、山麓台地上の遺跡の多くは、縄文時代中期の集落地に、数戸の竪穴住居址の痕跡を留める程度の小集落であった。しかも八ヶ岳山麓台地上の総ての遺跡は、10世紀後半から11世紀前半の平安時代中期の100年足らずで消滅している。さらに山鹿郷と呼ばれ、遺跡数70ヶ所を数えた八ヶ岳西南麓の集落も、平安時代後期には、忽然と姿を消した。この時代に、山鹿牧から大塩の牧となった御牧も存続不能となったといえる。
平安時代中期の10世紀後半にようやく無住の地・八ヶ岳西南麓が、なぜ開墾されたのか?一つには、諏訪郡原村の判ノ木(はんのき)山西遺跡の溶解鉄が付着した羽口(はぐち)2本などの小鍛冶遺構、同じく原村、頭殿沢(とうどのさわ)遺跡の煙道と共に石組み粘土カマド、さらに鉄滓(てっさい)、鉄片の出土のように、当時ようやく諏訪地方でも鍛冶生産が行われた。当然農具生産用鉄工具や農具の鉄部品も、ある程度普及した。平安時代も11世紀前後となると、鍛冶址の遺構がみられる住居址が、全国的に多くみられ、鉄製農耕具の鍛冶職人がいる集落が目立つようになっている。当然、鉄器の修理も請け負っていただろう。
三世一身法(さんぜいっしんのほう)とは、奈良時代前期、元正天皇の代、養老7(723)年4月17日に発布された律令の修正法令・格であり、墾田の奨励のため墾田私有を認めた法令である。当時は養老7年格とも呼ばれた。溝や池等の灌漑施設を新設して墾田を行った場合は、三世、即ち本人・子・孫、又は子・孫・曾孫までの所有を許し、古い溝や池を改修する等、既設の灌漑施設を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一代の所有を許す、というものであった。人口増加に伴い食糧不足が生じた、陸奥などの辺境での国防費に係る財政支出の増大、当時実権を握っていた長屋王による権勢誇示的な計画だった、等が考えられている。社寺や王臣家、豪族などの権門勢家は競って荒地を開拓した。それが契機となり、全国に広く荘園が営まれた。
諏訪上社の荘園は、かなり遅れて、諏訪の平坦部に平安時代中頃に形成されたとみられている。10世紀後半、上社の荘園領主の経済的支援を得て、八ヶ岳山麓台地に開拓の手が伸びたとみられる。
判ノ木山西遺跡や頭殿沢遺跡の調査では、農具類は鎌、工具類は刀子(とうす)、鏃、紡錘車等が出土している。鎌は穂刈収穫と刈敷用材の手当てに欠かせない。刀子は弓矢や木工具・籠・銛・ヤス・魚網等の製作道具である。頭殿沢遺跡第一号住居址では、桃と梅の炭化種子が検出されている。刀子はその剪定作業にも使われていただろう。鏃は動物性食料を確保するためのもの。紡錘車は麻や藤、シナの木などの樹皮を原料に糸を紡いだ。材料が豊富である分、かなりの生産量があった。
諏訪の山麓は火山灰台地であるため、鉄器は遺存しにくい。ただ同じ住居址から出土する砥石の量から、かなり鉄器が普及していたようだ。それで農業用具は進歩した。それに伴う形で、荘園開発が盛んに行われた。しかし八ヶ岳山麓台地は、火山灰地で高冷にして高燥、鉄製農具が普及したとはいえ、当時の稲の品種、治水と灌漑土木技術、人的要員などで、せいぜい麦、粟、稗(ひえ)、黍(きび)、大豆などの雑穀を作る程度であった。
ところが諏訪盆地縁辺の平坦地の荘園は、大集落を構成した。当時の灌漑、排水、農機具などの農耕技術は、ここに成果を発揮し、水田可耕地を拡大させた。諏訪上社にしても、中核となる平坦地の荘園を整備し、大規模な条理水田化に、その活用できる労力と資金を集中して投じ生産性の向上を図った。そして八ヶ岳山麓台地は、再び見捨てられた。
その一方では、白樺湖大門峠を源流とする音無川流域、即ち古東山道の道筋に13ヶ所の平安時代遺跡が分布する。氷河期の旧石器時代から継続して、その時代々々の痕跡を留める栃窪岩陰や白樺湖の御座岩岩陰遺跡など、農耕とは別の山間部独特の狩猟と漁労、そして植物採取のキャンプサイト的痕跡は、昭和時代まで継承されていく。さらに狩猟や交通に関わる祭祀的な遺物が、時代ごとに重ねられていく。車山の夫婦岩、その北側の「殿城山」にしても、猟師達が生業の過程で殺害した動物達の霊の鎮魂を行った場所であった。
「殿城山」は「登野城山(とのしろやま)」が語源と理解したい。高原を狩猟する際、夫婦岩のある車山湿原は見晴らしがよい。また鹿の気配が濃密な「殿城山」からの眺望は、狩猟対象となった動物達の鎮魂の霊域に相応しい。そして「城」を「しき」と読めば、「石で築いた際場の意味となる」
それと表裏するように、律令制下の戸籍地をあえて離脱し、その割当口分田を放棄し、それを放棄しも残る調庸を無視し、納税義務として男の課丁が負う公出挙、公廨稲(くげとう)など、国の一方的な高利貸付をも拒否してきた富豪浪人が、一方では墾田を開発し、その営田を増幅させていった。この時代の為政者だけでは無いが、特に律令制の税制は、遣唐使帰還者が唐の制度を模倣しただけの、お粗末で実態調査を欠く机上の施策であった。庶民の生存までも否定する制度で始まり、その壊滅で終わったのです。
この時代、讃岐守をも経験した菅原道真の奏上に
「例えばある国には百万束の正税本稲があることになっているが、実際には本稲の現物を回収しているのはただの50束に過ぎない。残りの50束は、これを返挙と称する。秋に本稲と利稲とを出させる日になると、返挙とされた部分についは、ただ利稲だけを出させ、本稲は借りた人の許(もと)に留めおく。どうせまた翌年返挙をするのだから、これでいいのです。この遣り方は、もう何年にも亘って続いており、にわかに変えられない。」とある。
国司達も、正税の納期を守らない違期(いご)や滞納いわゆる未進(みしん)を、自分に任期中だけでも糊塗しようとする。徴税官たる郡司は、富豪浪人の収穫物から取り立てられず、姑息にも契約書だけを提出させる。つまり彼らが「院宮王臣家(いんきゆうおうしんけ)」、あるいは「権門勢家(けんもんせいけ)」の預かり物と偽り、その収穫物を納めている倉を、名目上「里倉」として中身は国郡の物と見なした。そしてその旨の契約書を受け取り、後生大事に国郡で保管するのであった。その契約書自体、何の権能を伴うものではなかった。
律令体制の崩壊する平安時代後期になると、その傾向が著しくなる荘園の新規拡大で、耕地の開墾が促進され始める。
長野県の北部より、近世は北国街道の矢代(やしろ)宿として栄えた。 |
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