上原城があった金毘羅山 上原城址から見る神原と守屋山 頼岳寺山門 高島藩初代藩主頼水公廟堂

  諏訪平 こめし朝霧 はれゆくに 湖のみが光る ほのけさ
                              二村 傳次(上諏訪出身の歌人)

  志つ可なる 低き曇りの 晴れゆけり 水うみの上 靄たちながら
                                田中周三(大正、昭和の歌人。豊平村生まれ)

戦国時代における諏訪氏と武田氏との争闘史
 目次      Top
1)諏訪頼満と武田信虎 
2)上原城の攻防
3)桑原城の攻防
4)信玄統治下の諏訪
5)武田信玄の諏訪大社信仰
6)塩尻峠の戦い
7)武田氏滅亡時の諏訪

1)諏訪頼満と武田信虎
 文明12(1480)年頃に入ると、諏訪大社の上社と下社の対立が激しくなってり、下社の金刺氏は府中(松本付近)の小笠原氏と結び、上社の諏訪氏は伊那郡の小笠原氏と結び、夜毎、戦闘を続ける動乱の時代となる。上社の諏訪氏の惣領家と大祝家の内紛により一時優勢になった下社の金刺昌春は、社殿等を焼かれたり萩倉砦(下諏訪町東山田)を落とされたりして、甲斐国の武田信虎(武田信玄の父)を頼って落ち延びた。これが甲斐国の武田信虎の諏訪郡への侵攻の口実となった。
 信虎の信濃侵攻は、南の今川、東の北条と幾度かの戦火を交えながらも、決定的決着とならず、3者鼎立の膠着状態となった。
 信虎は明応3(1494)年に誕生した。永正4(1507)年2月14日、病弱であった父信縄が病死する、享年37であった。信虎14歳で家督を継いだが、叔父の信恵(のぶよし)が有力国人衆を誘い反旗を翻した。 翌永正5年、内戦に勝利し守護大名としての地位を守った。『高白斎記』によれば、永正16(1519)年には、甲斐をほぼ制圧し、それまでの武田氏歴代の居館があった石和(笛吹市、旧石和町)より西へ移り、初めは川田(甲府市川田町)に館を置き、後に府中(現在の甲府市古府中)に躑躅ヶ崎館を築き城下町を整備し、家臣を集住させた。現在の甲府の始まりであった。
 大永3年(1523)6月10日、信濃国善光寺に参詣している。大永5(1525)年4月1日、「諏訪殿」に甲府で住居を与えている。「諏訪殿」とは、諏訪頼満に駆逐された金刺昌春とみられる。甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。大永6(1526)年6月19日、将軍足利義晴は信虎の勢威が盛んであることで期待して、上洛を要請した。その際、関東管領上杉氏、諏訪上社大祝諏訪氏、木曽親豊に信虎の上洛に協力するよう命じている。この年信虎は、北条氏綱と籠坂峠の麓、富士裾野の梨木平で戦い大勝している。しかし、互いに決定的勝利とならず抗争は続いた。このため上洛は実現できなかった。
 同年信虎は今川と和睦した。信虎は東を北条氏、南に今川と大国が固め侵出できなかった。その全く逆方向の大国でありながら、諏訪氏、小笠原氏、村上氏、木曽氏等の小大名が分立する信濃に、矛先を向けるのは、信虎としては当然の帰結であった。信虎は一代の英傑であって、武田騎馬軍団を育て、その戦法の基本を確立した。その果実を晴信が継承し、類希なる謀略を駆使し稀代の戦国大名として成長した。
 甲斐と信濃は国境を接し、当時両国を結ぶルートには2通りあった。八ヶ岳の東を抜け佐久郡に至る道と、甲府盆地に隣接する諏訪地方への道である。信虎は、小豪族同士がひしめき合う佐久郡への侵入を試みたこともあったが、これは思うに任せなかった。享禄元(1528)年からは、諏訪地方を治める諏訪頼重と足掛け8年にわたる戦いを続けてもいた。天文4(1535)年には頼重と和睦し、後には娘を嫁がせて諏訪家との同盟を締結し、信濃侵攻の方針を諏訪地方攻略から再び佐久攻略へと軌道修正した。
  天文7年(1538)年7月9日、頼重は、大門峠を越えて葛尾城(埴科郡坂城町)の村上義清信虎と共に海野幸義を討ち取り、矢沢氏・禰津氏を攻め破っている。天文10(1541)年7月、海野氏が逃れて頼った関東管領山内上杉憲政が碓氷峠を越えて海野平に攻め込んできた。頼重はまたも大門峠を越えて長窪(ながくぼ;小県郡長門町)で対陣した。関東軍はこの時突然、軍を引いた。おそらく7月17日に、積年戦い続けてきた北条氏綱が55歳で、小田原城で病没したことと関係してるものと考えられる。

 頼重の祖父諏訪頼満は、のちに諏訪氏中興の英主といわれたが、文明15年(1483)に、時の大祝・継満によって前宮の居館(神殿;ごうどの)で騙まし討ちにあって殺された惣領家・政満の子で、5歳で惣領家を継いだ。頼満は惣領家を継ぐと、父死後の内紛を鎮圧して、東の武田、西の小笠原に対抗し、その戦略戦術の才を遺憾なく発揮した英邁な主君であった。そして永正15年 (1518) 40歳の時、下社・金刺昌春を破り、ここに名族・下社大祝金刺氏を葬り去り諏訪郡の領国主となり、その後の勢いは、武田信虎と拮抗するものとなった。
 享禄元年(1528)8月22日、信虎は逃れてきた先の下社大祝・金刺昌春をたてて諏訪を攻略しようとして蘿木郷先達城(せんだつじょう;富士見町先達区境)を拠点として諏訪に侵入した。その時築造された先達城は、その小東にあった新五郎屋敷を城に取り立てたという。当時は甲斐と諏訪の国境は富士見町の御射山神戸の南の堺川で、ここが合戦の舞台となった。信虎が諏訪侵攻の前線基地として築いた砦である。しかし新五郎屋敷がどこにあったのかは特定されていない。
 頼満は嫡子頼隆を伴い青柳の下のシラサレ山城(茅野市木舟区)に陣を張る。「神使御頭之日記」に「此年甲州武田方ト執合ニ付テ、8月22日に武田信虎堺へ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同26日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になったことが記されている。 8月晦日、御射山神戸での朝の戦いでは諏訪方が負け、朝方の勝利に油断する武田勢を急襲した夕方の堺川では、諏訪方が萩原備中守他2百余人を討ち取るが、千野孫四郎が討ち死にしている。この2度の決戦でも、信虎は堺川が越せなっかた。戦国時代の甲信国境は「堺川」と呼ばれた川と推定されるが、堺川を名乗る河川は現存していない。諸説あるが最も地形的に説得力があるのが両国国境の立場川で、川幅の広さと地形から頼満と信虎の軍事的接点と成り易い。すると現在の富士見町の南半分は、甲斐の領国であったことになる。
 享禄3(1530)年4月18日、嫡男頼隆が頼満に先立って31歳で急死した。享禄4(1531)年正月、甲斐では浦信本(うらののぶもと)、栗原兵庫等の国人衆が再度反抗した。諏訪頼満は彼らの依頼により、甲斐に侵入し韮崎に陣を敷く。4月12日、再度、甲州に討ち入り、塩川の河原(韮崎市)で大井、栗原氏らを敗死させ勝利した。しかし、同年、甲斐の国人領主らを支援した河原辺合戦(山梨県韮崎市)では敗退している。この合戦は守護武田信虎の支配圏拡大を嫌う大井氏、今井氏らの国人衆に、諏訪頼満が荷担したのが発端であったが、次第に国人衆を圧倒する信虎による国内統一が進んだ。翌天文元(1532)年9月、浦信本は再度頼満の助勢を得て、浦城(須玉町)を拠点にして今井信元らの蜂起を誘うが、信虎に攻められ落城する。今井信元も降伏した。こうして信虎の甲斐統一が完成した。
 信濃国では守護小笠原長秀が国人衆に敗れ、群雄割拠となり、信虎の次代・武田晴信に各個撃破され蚕食された。天文3(1534)年、頼満は嫡孫の頼重に家督を譲って出家して碧雲斎と名乗る。天文4(1535)年には信虎と和睦する。信虎の娘を頼重に娶らせると、頼満は、天文6年府中小笠原長棟を塩尻に攻め、その勢力を伊那の北部まで拡大する。しかし天文8年、背中の腫瘍の悪化によって、12月9日67歳で逝去する。墓所は永明寺にあったが、江戸初期、高島藩初代藩主頼水に焼亡されたため、今は定かでない。

 天文4(1535)年9月17日、諏訪頼満武田信虎は堺川北岸で会見して和議をした。この年の6月、信虎は今川氏の駿河に侵攻した。8月、今川を救援する北条氏と都留郡の山中で戦い敗れている。信虎は西隣する諏訪氏との和睦が緊要となっていた。諏訪氏にしても文明14年以降、高遠継宗との攻めぎ合いが続き、当時の当主高遠頼継も、高遠氏積年の野望である諏訪氏の当主に返咲く野心が強かった。諏訪氏にしても大門峠を越えた小名が群拠する佐久には魅力があった。その結果の天文9(1540)年11月30日の輿入れであった。信虎の姫(3女;信玄の妹)・祢々御料人(ねねごりょうにん)を娶った。祢々御料人は14歳、頼重25歳。12月9日、頼重、甲府に婿入り。信虎同月17日、上原城を訪れる。頼重には既に小笠原氏の家臣・小見氏との間に一女があった。当時9歳で、後の諏訪御料人・本名梅であり、勝頼の母、この時、人質交換の意味もあって甲府に送られた。
 祢々御料人は輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参する。以後甲斐との国境が現在のように東に寄る。その18か村とは、稗之底(ひえのそこ)・乙事(おっこと)・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見(つぶらみ)山・千達・小東(こひがし)・田端・下蔦木・上蔦木・神代(じんだい)・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村である。甲六川(こうろくがわ)と立場川の間の領地を持参した。
 甲六川は、長野県諏訪郡富士見町と山梨県北杜市小淵沢町地区の境を始終流れる県境の細い河川で、小淵沢町地区・白州町地区の境目にある。国道20号(甲州街道)の新国界橋(しん・こっかいばし)の橋の下で釜無川に合流する。
 
 頼重は天文3(1534)年に惣領家を継ぎ、天文7(1538)年、叔父の諏訪頼寛から弟・頼高に諏訪上社大祝を継承させた。頼重は郡主になると直ぐ、大門峠を越え小県・佐久に侵入。天文7年(1538)7月9日には、長窪城を攻め取り、さらに海野平の海野幸義を追放し、矢沢城・祢津城を取り、上田の東の台地、総てを手中に治めた。同9年11月、信虎は娘を頼重に娶らせ、同盟関係を強化した年であったが、それに先立つ5月、佐久郡を攻略して一日に36城を落とすという怒涛の勢いを示した。頼重も信虎に呼応して長窪(小県郡長門町)を領有している。芦田城を芦田信蕃(のぶしげ)に預け、7月諏訪に戻る。翌10年は5月、頼重信虎と村上義清と共に小県郡に出兵、海野・禰津氏ら滋野一族を攻めてこれを上野に追放した。13日、頼重は尾山(小県郡丸子町)を制圧し、翌年海野平で禰津元直を敗走させた。同年7月、関東管領・上杉憲政は海野幸義の願いを入れ、兵3千余騎で碓氷峠を越えるが戦わずして去る。 それが、同年6月、武田家で無血クーデターが起きた。武田信虎の長男、晴信が父信虎を追放したのだ。当然、諏訪家当主諏訪頼重は、妻が信虎の娘であったから不快であったであろう。
 そして、晴信も諏訪家に対して態度が豹変させた。それは、晴信が信濃を攻略するためにはどうしても諏訪を攻め落とさなければならない事態が生じた。村上義清の台頭であった。義清は天文10(1541)年、滋野三家の嫡流・海野家の当主海野棟綱(うんのむねつな)を没落させ、真田幸隆を小県から敗走させた領地を奪った。村上義清が晴信にとって信濃侵攻を阻む難敵に成長して来た。そのころ、諏訪の一族である高遠頼継も諏訪惣領家を乗っ取ろうとしていた。
 頼継は諏訪氏と対抗してきたが、諏訪頼満が諏訪を統一すると、その傘下に入った。後に頼満の娘を妻に迎えている。だが依然として諏訪惣領家の地位を狙っていた。

  上社の祢宜矢島満清は神長官と仲が悪かった。享禄2(1529)年、諏訪頼満の6男頼寛が大祝に即いた時、その師匠役をめぐって、両者は激しく争った。このときは、惣領家の嫡子頼隆の調停で、神長官家が禰宜家に譲って事なきを得た。天文6(1537)年冬、新たに大祝として頼隆の子豊増丸(後の頼高)が立つことになったが、その大祝の即位式をめぐって、再び神長官頼真と禰宜満清の間に激しい紛争が生じた。大祝の即位に際して師匠の役があり、師匠の役とは大祝となるべき幼児に山鳩色の装束を着せ、神道の大事を授ける名誉ある役であった。この役は神長官家に伝わる所職であったが、勢力を強めてきた禰宜家がこの職に割込むようになり、大祝の即位のたびに両者は激しく争った。双方とも、惣領頼満の調停を受けないばかりか、禰宜満清は西方衆4郷の力を背景として弾圧をかけ、自己の望みを達成しようとした。これに怒った頼満は禰宜満清を勘当し、神長官を師匠役として即位式を行った。
 こうした諏訪社内の紛争に際して頼継は、憤懣やるかたない禰宜満清および西方衆4郷の一族と結び、諏訪惣領家攻略のための布石を打っていた。 下社の一党も、その計画に乗せた。
  諏訪は天文年間のはじめから天災地変が多く、凶作続きで、天文8年12月9日、頼満の死後直後、14日から2日間豪雨となり、諏訪郡内の橋の悉くが流出した。とりわけ9年がひどかった。8月12日、暴雨風の猛威で磯並社の宮木が40本が根ごと倒木、その後の大洪水で大町は甚大な被害を受け、山野は荒廃し、さらに7百年来の疫病の大流行があり死者が続出して、困窮を極めた。その最中での度重なる佐久.・小県への出兵であった。諏訪の人心が頼重から離れるのは当然だった。
 この状況は甲斐でも同じであった。多年の内乱と自然災害が重なり、生物の不作が続いた。家督を継いだ晴信は、天11(1542)年6月24日突如として諏訪へ攻撃を開始した。それは領土的野心もあったが、食料獲得の経済行為でもあった。

2)上原城の攻防
 天文11(1542)年4月4日、諏訪頼重と祢々御料人(ねねごりょうにん)との間に嫡子寅王が誕生した。その年6月24日夕刻6時頃、武田信玄が堺川を越えて、諏訪に軍勢を進めていると、頼重に報告が入る。更に高遠頼継と下社方残党も同心している事が知らされた。しかし、諏訪頼重は武田との姻戚関係に安心し過ぎたようだ。天文4(1535)年に武田信虎と和睦し、天文9(1540)年、信虎の三女・祢々御料人を妻に迎えているのになぜと、応戦の準備を怠った。6月28日、やっと頼重は、武田勢の侵攻が容易ならざる事態とと知り、夜10時頃、ようやく法螺貝を吹き鳴らし召集をかけ近習ら30人と上原城に入る。上原城は典型的な山城の為、平時は麓の館などに住んでいた。神長守矢頼真も慌てて具足を着けて参集した。後に、一族・家臣も駆け付けて来た。当時の諏訪氏は君臣共々、随分と軍紀が弛緩していたようだ。
 6月30日武田信玄が、御射山(現富士見町御射山;諏訪南IC近く)に陣を張る。2千騎に雑兵2万という大軍であった。信玄は、既に、高遠勢を南から杖突峠を越えさせ、下社勢を西から挟撃させる手配をしていた。さらに祢宜満清を内応させていた。 諏訪勢はようやく矢ケ崎原(茅野市本町福寿院周辺)に7月1日に対陣。その軍勢150騎で800弱しかいなかった。その騎士も「やうやうおかしき馬」 に騎乗していたと記されている。多年に亘る出兵と災害で、村代神主(むらしろこうぬし)が貧窮している様子が窺える。甲州勢は長峰まで侵入。 7月2日、諏訪勢は早朝、ようやく城下の犬射原まで進む。現在の茅野駅東口駅前の仲町JA塚原支所の東側並びにに犬射原神社が現存している。上原城下と言える。甲州勢は木落し下の筒口原(長峰の宮川小学校の西側)まで押し寄せる。 その距離数百m。しかし、この時高遠頼継の軍は、杖突峠を越え安国寺に到着し、ここの門前の大町を焼き払い側面から攻撃してきた。諏訪軍は武田勢と高遠勢に挟撃にされることになった。 7月3日、頼重は仕方なく上原城に火を放って後方の桑原城に退いた。
 武田勢は、諏訪氏落城と知り城下に侵入し、五日町、十日町、上原町の掘り回りに火を放った。天文11年「守矢満実書留」に「五日町、十日町、上原まちほりまわり」が放火された記述がある。当時、上原町には堀が廻らされ惣構えとなっていた。その内部には、諏訪氏家臣や諏訪氏直属の商工業者で居住していたが、一般庶民も幾分混在していた。五日町、十日町が上原町と併記されているのは、当時独立した町とされていたからだ。五日町、十日町は、堀の外にあった。しかも現在の上川橋近くから上川右岸を、北西に向って横内に伸びる八日市場五日市場十日市場が川原に沿って自由市場の月毎の三斎市が行われていた。それが天文11年には五日市場、十日市場が、五日町、十日町として発展していた。それが焼失した。

3)桑原城の攻防
桑原城址から眺める上川と宮川の流域、諏訪の中筋にあたる古戦場の舞台となった。
 武田軍はこの火を見て一挙に攻め入り、上原の城下町を焼き払って、3日早朝桑原城の高橋口(神戸と桑原の境;四賀小学校下)まで押し寄せた。諏訪勢も城を出て迎撃奮戦した。一時は敵を上原まで押し返している。 信玄は、上原に武田勢の備えを置き、武田軍別働隊と高遠軍を大熊城(諏訪市湖南)へ進軍させ、守備陣地に残っていた千野伊豆入道とその弟千野南明庵を討ち取る。 千野兄弟は高齢のため足軽20人ほどと城内にいた。武田軍と応戦して4~5騎を討ち死にさせ、湯の上まで押返した上での敗死であった。
 この夜は酉の刻(午後6時)から大雨で、桑原城の麓一帯は大洪水に浸たった。諏訪頼重は明日に備えて、状況を調査しようと城を出て、尾根伝いに足長神社に下って行った。これを見た家臣達が大将の逃亡と勘違いして、我先にと城を出てしまった。                         
  この夜、諏訪頼重が城に戻ると、弟の大祝・頼高、幼い弟3人と近習の侍など20人足らずがいたのみであった。翌日の朝、茶臼山や大和(おわ;諏訪市)に落ち延びていた家臣達は、頼重が桑原城に戻っているのを知り、慌てて帰えろうとしたが、武田軍は既に桑原城下一帯に満ち武津に迫っていた。その上、諏訪湖との狭隘地赤羽根から武津に掛けて民家に火を放ち、殆どの者が城に戻れないようにした。神長官・守矢頼真も、武田軍に道を塞がれ、真志野に迂回しようとするが、それも果たせず、諏訪湖西岸を右往左往するだけといった状況だった。
 7月4日、頼重は、弟頼高と共に討ち死覚悟で出撃しようとするが、武田軍は城壁まで押し寄せ、和睦を迫る。板垣信方の策で、武田信繁を介して「協同して高遠氏を討つ」との条件で開城を要求してきた。頼重は、ひとまず武田の軍門に下り、機を見て諏訪家を再興しようと思い、城を明け渡した。それは敗軍の将としての言い訳であった。
 7月5日 和睦の条件どおり諏訪頼重が甲府に送られる。諏訪の人たちは頼重が送られても、諏訪大社の大祝・頼高が残ったので安堵していた。ところが、上社祢宜矢島満清に預けられていた頼高も9日に甲府へ送られた。 この後の武田氏と高遠氏の戦いでは、信玄は諏訪頼重の子・寅王を掲げて戦う。また上原城・城代として板垣信方が就き、諏訪の郡代となる。
 頼重は甲府に連行され、板垣信方の屋敷に捕らわれの身となる。その後、武田晴信に会う事もなく、甲府市、妙心寺派臨済禅の東光寺山内に監禁され、7月20日の夜自害を迫られた。
 頼重は
  おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ またも結ばめ
と辞世を残し弟・頼高と共に自害した。ときに頼重は27歳であった。 介錯もなく脇差で十一文字に腹を割き、返す刀で胸を突き刺したという。祖父・諏訪頼満の死後、3年しかもたなかた。しかし頼重は凡庸な将ではなかった。晴信の父信虎が見込んで娘婿とし、現在の諏訪郡富士見村の所領を引き継いだ価値ある戦国領主であった。当時、禅林で詠まれた「野火(やけ)は焼けども尽きず、春風吹いてまた生ず」(白楽天「古原の草」より)がある。頼重の墓は東光寺の裏の墓地に、宝篋印塔(ほうきょういんとう)としてある。2基があるが、それが祢々御料人頼高かは定かではない。
 諏訪市四賀神戸に、その菩提寺頼重院がある。境内には供養塔がある。誰かが密かに東光寺から遺髪を持ち出しこちらのお寺に埋葬し、当時は武田の領地であったので供養は密かに行なわれたという伝承が残っている。すぐ隣にある新田次郎の歌碑「陽炎や 頼重の無念 ゆらゆらと」がある。
    赤焼けに 梶の葉揺れる 東風(こち)の風    
 このようにして、数百年続いてきた大祝家のうち惣領家は滅亡し、諏訪家は武田の地下となった。しかし、大祝は諏訪神社の祭祀にたずさわる大切な神官であるので、そのまま認められ、頼重の父頼隆の弟頼隣(よりちか;満隣)が受け継ぎ、さらにその子頼忠へと引き継がれていった。尚、頼重の妻・祢々御料人は、諏訪氏滅亡の天文11年(1542)、4月4日に、嫡子・寅王を出産していた。寅王は後に甲府で千代宮と名を変えてた。祢々御料人は、天文13年(1544)1月19日、甲府で僅か16歳の生涯を閉じる。
 寅王の姉諏訪姫が晴信の子・四郎勝頼を生んだ後(天文15年)、天文16年の夏、寅王6歳、昼寝中の晴信を刺そうとして失敗、その咎で寺に入れられ僧・長笈(ちょうきゅう)の侍者とされた。その後も成長するにつれ、姉の諏訪御料人にも反抗するようになり、晴信は刺客に殺害を命じた。寅王と従者・小見氏某はかろうじて追っ手を逃れて、深志(松本)から北に向かい上杉兼信に頼った。 川中島の合戦の時、武田勢に挑んだ若武者・諏訪景家が後年の寅王であるとの説は有力である。春日山城下の古図に、本丸近くに諏訪屋敷の一画が見られる。 
 ただ、諏訪氏は、鎌倉時代、北条宗家得宗家に仕えた御内人で、しかも重臣であった。得宗家の所領(北条代所領、得宗領)の代官として現地管理を担当していたし、北条氏の一門が、守護となった国では守護代を務めてもいた。承久の乱(1221年)後の恩賞として新補地頭に任じられ、越後を初めとする北陸地方に広く展開していった事も念頭に置いておく必要がある。
                                           
4)信玄統治下の諏訪
 諏訪頼重歿後の諏訪氏は、大祝の継承と安国寺の住職の地位は認められるが、武士たちは諏訪先駆け衆として武田氏の兵団に組み込まれて、上原城(後に茶臼山の高島城に城代は移る)の城代の軍令に従った。永禄10(1567)年の記録には、武田家旗下諏訪50騎千野同心衆交名(きょうみょう)、高島10人衆の名が記されている。下社系の武士も少なからず武田の軍団に組み込まれていた。兵農分離がなされていない時代の武士は、知行地で農耕を営む大百姓でもあった。彼等の本領は信玄に安堵されたようだ。それぞれ知行を得、身代に応じて騎馬か歩卒として働いた。 武田氏支配の諏訪40年間は、善政を敷き民政の安定に心をくだいたと考えられる。後世、悪政を呪う記録も口碑も残されていない。
 頼重歿後、諏訪は宮川を境にして東が武田氏、西が高遠氏と領土を分断された。諏訪下社一党も武田方であったが、それは名ばかりで、衰微しきっていて兵を出す事ができず、領地は与えられなかった。天文11(1542)年9月10日、高遠頼継は、諏訪上下明神権と諏訪全郡を手中にしょうとして、藤沢頼親と結び禰宜太夫・矢島満清と図り、上原城を攻め奪うと、直ちに上社・下社も支配して、積年の念願を果たした。 信玄は、甲州にいた頼重の遺児・寅王を押し立てて、頼重の遺命と称し、高遠氏打倒の軍を進める。この時、諏訪は割れる。寅王を迎えて、諏訪宗家復興のかすかな望みをつないで武田氏に味方したのは、頼重の叔父・満隆頼隣(頼忠の父)、矢ケ崎大炊守(おおいのかみ)・千野伊豆入道小坂兵部有賀紀伊守諏訪能登守等と頼重の近習20人、社家では、神長守矢頼真権祝花岡氏福島平八等、そして山浦の地下人達であった。一方高遠方は、上社祢宜・満清有賀遠江守有賀伯耆守(ほうきのかみ)、権祝頼重の近習衆等であった。
 新大祝頼隣は武田方の守備兵と茶臼山(諏訪市)にたてこもり、高遠勢に備えた。『高白斎記』によると、武田軍の先発は板垣信方が率いって、9月11日に府中を出陣した。19日信玄も府中の躑躅ヶ崎館から本隊と共に出立した。9月25日上川の南、宮川沿いの安国寺ヶ原で、両軍ほぼ同数の2,000同士で激突するが、上伊那軍の箕輪衆・春近衆を率いる高遠方は大敗北、高遠頼継は高遠に逃げるが弟・蓮峰軒(れんぽうけん)頼宗は討ち死に、禰宜満清は行方不明となり、満清の子は討ち取られている。武田勢はさらに高遠勢を追撃し、杖突峠を越えた片倉で800人近い兵を討ち取っている。26日藤沢集落に火を放った。9月末、諏訪全郡が武田の領土になる。以後40年、武田氏の支配下に入る。
 諏訪を領有した信玄は、西上の志をいよいよ強くし、その通路にあたる伊那谷の攻略に着手した。天文11(1542)年9月末、信玄の命により駒井高白斉は伊那口に侵入、藤沢集落に放火しこれを攻めた。さらに晴信は板垣信方に命じて上伊那口に兵を発し、高白斉とともに上伊那諸豪族への示威運動を繰り返した。
 天文12年、信玄は伊那攻略と同時に、海ノ口から佐久・小県に侵入して長窪城を陥落させ、城主大井貞隆を捕えた。貞隆は
武田氏や諏訪氏と敵対し、天文9(1540)年諏訪頼重に長窪城を奪われていた。 天文11(1542)年、頼重が信玄に殺されると、それに乗じて長窪城を奪回していた。信玄は佐久・小県の諸城を陥落させると、遂に北信濃の雄・村上義清の居城葛尾城に対するようになった。
 天文13年、晴信は本格的に伊那郡攻略に着手、『高白斎記』に「信玄は天文13年10月16日に甲府を出発して、11月1日荒神山を攻め、26日に上原城に帰った」とある。信玄は10月に甲斐府中を出陣した。一方、武田軍の侵攻に対して藤沢頼親は箕輪の北方平出の荒神山に砦を構え、伊那衆とともにこれを守り武田勢を迎え撃った。武田勢は武田信繁を大将として有賀峠を越えて伊那郡に入ると、11月1日荒神山を攻め破った。このとき、信玄は下諏訪に陣していたが、藤沢氏に決定的な打撃を与えないまま甲府に帰陣している。
 翌年4月、晴信は再び兵を率いて甲府を出陣し、14日には上原城に入った。まず高遠頼継を攻め、17日これを落とした。ついで箕輪に軍を進る。これに対し、天竜川湖畔の要害、箕輪の福与城(上伊那郡箕輪町福与)には、城主藤沢氏に同心し、武田の伊那侵攻を阻止せんとする伊那の国人衆も籠城していた。この守備は固く、武田方の攻撃も思い通りに進まず、部将の鎌田長門守が討死するほどであった。
 福与城の創設は鎌倉時代、幕府に仕えた藤沢氏が箕輪郷を中心に、ここを拠点にして威勢をふるっていたと伝えられる。藤沢頼親は上伊那衆を結集し、深志小笠原長時下伊那衆の小笠原知久氏らの援軍を得て抵抗した。信州守護・小笠原長時は、頼親の妹婿でもあり、兵・15百を率いて駆けつけるが、その助勢も空しく福与城は6月10日陥落した。そして城は放火破壊され、そのまま廃城になった。信玄は逃げる小笠原長時を追い、桔梗が原に出、熊井城を獲得、さらに伊那・筑摩も忽ちにして席巻した。『小平物語』 は記す。こ伊那攻略に多くの諏訪衆が先鋒を務めた、と。天文15(1546)年9月、信玄は諏訪上社に寄進状を納めている。伊那の広垣内、百貫文の土地を社領とした。伊那侵攻の際における、諏訪衆の戦功への褒賞と解される。
 松本の小笠原長時は藤沢頼親を支援しようとして龍ケ崎城(辰野町)に陣を布いた。また長時の弟で鈴岡小笠原家を再興した信定も下伊那・上伊那の諸豪族を率いて、藤沢氏を支援するため伊那部(伊那市大字伊那部)に着陣した。福与城の支城で藤沢頼親の養子木下重時が在城した箕輪城(上伊那郡箕輪町中箕輪字木下)の守備も固く膠着状態が続いた。対する晴信は攻囲戦が長期にわたり、軍兵の疲労もあり藤沢氏との和を講じた。そして、その誓約として頼親の弟権次郎を人質として差し出させた。ところが、藤沢氏らが開城したと同時に箕輪城へ火を放ってこれを焼き払ってしまった。下伊那から来た小笠原信定も、府中の小笠原長時も、箕輪城の開城により一戦も交えず兵を引き揚げた。こうして、和議とはいいいながら箕輪城を焼かれた頼親は、実質上、敗北を喫して晴信に降った。
       
 武田信玄は高遠城を伊那地方への進出の拠点とするため、天文16年(1547年)、山本勘助秋山信友に命じて大規模な改築を行ない、秋山信友を城主とした。永禄5年(1562年)には諏訪勝頼(武田勝頼)が城主となったが、元亀元年(1570年)、武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐国に戻らせ、信玄の実弟の武田信廉(のぶかど)を城主とした。
 信玄亡き後、高遠城は重要な軍事拠点として、織田家からの甲斐進攻の最終防衛基地の役割を担い、天正9(1581)年には勝頼の実弟の仁科盛信が高遠城主となったが、翌天正10(1582)年2月、織田信長は本格的な甲斐進攻を企て、長男の織田信忠に6万の大軍を与えて高遠城に迫らせた。高遠城に籠もる城兵の数は3千、織田信忠の降伏勧告を退けて、仁科盛信を先頭に奮戦するもむなしく、凄惨な戦いの末、最後には全員が玉砕して落城した。高遠城の落城により、武田家は瓦解。9日後に武田家は滅亡した。
 織田家の支配のもと、高遠城攻めに功のあった毛利秀頼が城主となるが、そのわずか3ヵ月後に本能寺の変が起こり、高遠城には突如、武田家の旧臣・木曽義昌が攻め込み、これを占領した。以後、徳川家康と木曽義昌の攻防の舞台となるが、結局、家康によって木曽義昌は高遠城を追われて深志城(松本城)に撤退した。徳川の時代となると、京極・保科・鳥居と城主は交代したが、元禄4(1691)年内藤清枚(きよかず)が3万3千石で入封。以後、高遠城は内藤氏8代の居城として明治維新を迎えた。

  信玄は北信濃攻略のための大規模な道路の修築を行った。八ヶ岳の麓に、(かみ)・(しも)の3筋の軍用道路があった。これを信玄道又は棒道といった。今日も、その殆どが使われている。茅野市湯川に足溜まりとして枡形城が作られたのもこの頃で、さらに通信の用として狼煙台も各所に設けられた。
  葛尾城は村上氏の歴代の本城であった。天文22(1553)年、信玄は北信濃の雄・村上義清葛尾城(埴科郡はにしなぐん坂城町坂城)をとると、翌23年、伊那に進み松尾の小笠原信貞と知久氏を破り、木曽の木曽義昌と同盟した。
 村上氏がここに勢力を伸ばしたのは、南北朝時代の末頃で、守護の小笠原氏との争いが絶えなかったが、村上氏も室町幕府に服従し収まった。しかし嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱で、赤松満祐に将軍足利義教が殺され、翌年守護の小笠原正透が死ぬと、後継者争いが生じ信濃国内はまた騒然となった。その混乱に乗じて自領の拡大させたのが、村上政清顕国義清の時代で北信で最大の雄となった。 武田信玄の時代になると義清と互いに激しい戦いが繰り広げられるが、天文22(1553)年落城し、長尾景虎を頼って越後へ落ちのびた。その後戦術の変化により城としての利用価値が減少し、廃城になったといわれている。

5)武田信玄の諏訪大社信仰
  治承4年(1180)7月27日、源頼朝が挙兵し、9月になると甲斐源氏武田太郎信義一条次郎忠頼父子が、頼朝の命により信濃国の平氏を討伐するために諏訪郡に進出してきた。伊那郡の平家の将・菅冠者を討つ途中であった。その時、「東鑑」に詳しく記されている諏訪明神の神験に奮い立ち進軍したところ、菅冠者はその勢いに圧倒され戦わずして、城を焼いて逃げた。頼朝はこの神恩に報いるため上社へ平井弖(ひらいで)・宮処(みやどころ)を、下社には龍布(たつにふ・辰野)・岡仁谷(おかにや)を寄進した。この4ケ所は、皆かつては牧であった。
 武田家は信玄の曽祖父・信昌、祖父・信縄はもとより、鎌倉幕府創生期の頃から諏訪大社を武神として、その信仰は篤かった。信玄は天文11(1542)年7月、諏訪氏を滅ぼし、その後諏訪一円を領有したが、10月、諏訪上社神長官守矢氏の神官の地位を保証し、諸役を免除している。天文15年9月、伊那郡にある百貫文の地を上社に寄進している。天文17年8月には、神長官守矢頼信に書状で「御頭・造営・神領・諸宮公事・造立、其外の諸祭礼、悉く往古を守り、成敗せしむべし。少しも相違あるべからざるものなり。件(くだん)の如し。」と、諏訪社の祭事が失われていくのを恐れ、大祝・神長官に古来よりの神事を調査し、再興することを命じている。 信玄も作戦ごとに諏訪大社に戦勝祈願をして、その後必ず願果たしの寄進を惜しまなかった。また軍中には常に、「諏訪南宮上下大明神」の大幟がひらめいていた。
 永禄8(1565)年と9年に、「諏訪上下宮祭祀再興次第」という11軸に仕立てられた下知状で、具体的な内容の祭事指示を出している。これが「信玄11軸」といわれたものであった。諏訪上下社の大祝及び5官祝や祠官、宮奉行等に、退転した上下社の年間神事祭礼、諸宮造営、公事等の再興執行と、神領・神田の増加、頭役・郷役や郷村の造営銭の負担割当等を命じた。信濃国内は、鎌倉幕府滅亡後の長い動乱期、各地の豪族が割拠し、その勢力を拡張するため神社仏閣の土地と特権を押領してきた。諏訪大社も同様で、祭祀の執行が困難となっていた。信玄は7年に1度の御柱祭も信濃国中に指図してとり行わせている。 こうして諏訪大社は、久しく途絶えていた伝統行事の復活がなされた。
 信玄が伊那、筑摩を征圧すると、その後の佐久、小県方面の攻略は速かった。この間、小笠原長時は、筑摩、安曇両郡と上伊那地方を領有していたが、天文年間(1532~55)の信玄との戦いで、天文19年(1550)には、上伊那と筑摩府中を失い、村上義清を頼り安曇だけを維持した。それも天文21(1552)年には、終に信濃を追われ牢人となり、越後の長尾景虎に身を寄せた。これが川中島(長野市川中島町)合戦の原因の一つとなる。 信玄は、天文22(1553)年4月、北信濃の勇将村上義清を信濃から追放すると、直ちに北信濃へ侵出した。結果、宿敵、越後上杉謙信(長尾景虎)と川中島で、北信濃の領有をめぐり戦う事になる。その幾度かの合戦の総称が「川中島合戦」である。
 合戦は天文22(1553)年から永禄7(1564)年に至る11年間わたる戦いであった。主な対戦だけでも天文22(1553)年弘治1(1555)年弘治3(1557)年永禄4(1561)年永禄7(1564)年の5回が数えられる。もっとも激しい合戦であったのが永禄4(1561)年9月10日の更級郡八幡原を中心とする戦いであった。
 双方が総力戦を展開し、激戦となったが勝敗が決しなかった。その真偽は確かではないが、妻女山に布陣している上杉軍に対して、武田方は初め全軍を2つに分け、一軍が背後より追い立て、信玄の本陣が下の川中島八幡原で挟撃するという「きつつきの戦法」をとったという。 しかし謙信はいち早くそれを察知し、夜のうちに山を下り、川中島の八幡原へ移動し、下で待つ武田方を攻撃した。武田方は苦戦し、副将格の武田信繁(のぶしげ)や山本勘助他の有力隊将が戦死した。合戦なかばで武田方の別動隊が戻り、戦況は一変、上杉軍は武田方の追撃を受けて敗退した。両軍とも多数の戦死者を残して帰国している。この戦いは、江戸時代に書かれた軍書『甲陽軍鑑』の講談的描写で有名になった。しかし有名にしては史料がない。内容的には面白いし、劇的展開となっている。だが信玄と謙信、類い希な戦巧者同士の戦いである。それも9月、長陣(ながじん)とはいえ、互いの偵察隊が、敵陣の動静にそれほど迂闊であるはずはなく、信玄ほどの者が、謙信がその程度の策に嵌ると、そこまで侮っていたとは考えられない。
 川中島の戦いを、諏訪上社関係の史料でみると、弘治3(1557)年2月からの謙信の北信の重要拠点・葛山城(かつらやまじょう;長野市茂菅字富田;戸隠バードラインの南)の攻防戦がある。対峙する武田軍が籠もる旭山城が手の届くような位置に見える。上杉軍がまだ雪深く援軍を出せない早春に、馬場美濃守信春が1万7千余の大軍で、この城を攻撃し火攻めによって落城させた戦である。
 この戦に参軍した将士に与えた信玄の感状が残る。その中に、諏訪清三千野靭負尉(ゆぎへのじょう)、岩波藤五郎等の諏訪武士や、伊那の小井弖藤四郎等の名が見られる。 4月28日には、上社神長官宛に一通の書状が届く。普通の花押を押した朱印状とは異なり、信玄自ら署名していた。その内容は、「謙信の軍が信濃に侵入してきた。自らは嫡子善信を連れて出陣する。この度の戦いは武田家の存亡がかかっている。上社のみならず下社の全神官、心合わせて朝晩祈念を凝らして、10日以内に勝利するよう、お願いしたい。」 信玄は諏訪大社の御利益(ごりやく)を期待している。また戦場での諏訪武士の功績も高かったようだ。
 中世に信濃の国一宮の諏訪社に対する奉仕は、信濃全域でなされていた。いわば諏訪社は信濃全体の氏神様のような役割を担ってていた。 信玄が侵略してきてから暫くの間、信濃国は戦乱下にあり、諏訪社祭祀の御頭役を勤められる状況ではなかった。約20年に亘って、それに関係する史料が残っていない。 信玄が永禄2(1559)年が3月9日に、諏訪上社神長の守矢頼真に宛てた書状には、「当社御頭役、近年怠慢のみに候か。しからば、一国平均の上、百年已前(いぜん)の如く、祭礼勤めさすべきの由存じ候ところに、十五箇年已来兵戈止むを得ざるにより、土民百姓困窮す。殊には嶋津・高梨等今に令に応ぜず候間、諸事思慮の旨あって、これを黙止し畢(おわ)んぬ。必ず嶋津・高梨当手に属さば、それがし素願の如くその役を勤るべきの趣催促に及び、難渋の族に至っては、先忠を論ぜず成敗を加うべく候。抑(そもそも)毎年三月御祭のことは、たやすき子細に候条、当時分国の内へ堅く下知なすべく候」と記されている。
 これは実行された。永禄3(1560)年2月2日、武田信玄は諏訪上社の造営を信濃国中の諸役によってするようにと命じた。おそらく松本平の郷村も、この時には造営の負担をしたものと推察される。これを皮切りに、武田氏が命令を下す形で諏訪社祭の御頭役が復活した。 永禄7(1564)年12月13日、山家(やまべ;松本市山辺)郷等に諏訪社上社の明年の御頭役を定めている。翌年の永禄8年3月15日、諏訪社上社の三月会御頭役を山家郷等に負担させた。このように諏訪社から求められる御頭役は、以前は負担する郷の領主が就いたが、戦国時代になると直接郷にあてて文書が出されるようになり、地域の領主の名前が記されていない。この間に郷村の自治が進展し、武田氏はそうした郷村を基礎に支配を進めたものと考えられる。
 永禄8年11月1日、信玄は諏訪社の祭祀を再興させた。これ以降の諏訪社の神事再興の下知状が「諏訪上下宮祭祀再興次第」で、「信玄の11軸」と呼ばれる諏訪大社上社に現存する古文書である。11軸の内訳は上社が9、下社が2軸で、下社金刺氏滅亡後の状況を反映している。下知状の意味は深い。もとより諏訪大社祭祀の復興にあったが、信玄はこの下知状に従わせることにより、信濃国人衆や郷村民の信玄忠誠の証とした。
 更に、信玄には秘めた意図があった。12月5日には、諏訪社上社の祭礼を再興させた中に、筑摩・安曇の社人が見える。永禄9年5月5日、諏訪社上社五月会御頭役を深志郷等に任じた。 9月3日には信玄が諏訪上社の祭祀を再興させたが、その中に大村・惣社以下の、現在の松本市の入っている地名が数多く見える。また、追って神使路銭(上社の神使の旅費)ということで会田・苅谷原・明科・塔の原・田沢が負担させられている。そして、9月晦日に信玄は諏訪社下社造宮改帳を作るが、その中に春宮宝殿について筑摩郡岡田郷等、春・秋両社の若宮について塩尻西条・熊井北方ほか、四の御柱は氷室・角影等、松本平の多くの郷が見えている。
 永禄12(1569)年5月5日、諏訪社上社五月会の御頭役を筑摩郡埴原郷等に、元亀元(1570)年7月25日、諏訪社上社御射山御頭役を筑摩郡桐原郷等に課している。元亀2(1571)年3月11日には、武田信玄は筑摩郡山家郷等に、諏訪社上社三月会の御頭役を山家郷等に課している。元亀3(1572)年5月5日には、諏訪社上社五月会御頭役を深志郷等に命じている。
 しかし理解できないのは、天文17(1548)年7月19日の塩尻峠の合戦の際、山家氏は三村氏等と共に信玄に味方し、小笠原氏敗戦の一因となっている。天文19年7月、信玄の軍が府中の小笠原氏を攻めた時には、本拠地の山家城を15日に自落している。本城を陥落されても、信玄に味方したのであった。天文23年正月20日、信玄は山家松寿斎(しょうじゅさい)に、彼の父左馬允(さまのじょう)へ与えた大村(松本市)の百貫文の所領を安堵した。山家氏は武田氏の侵入に際して、いち早く信玄に味方をしたからであった。その山家氏に加重な負担となる三月会の御頭役を、何故命じたのであろうか。
 このように、松本地域の郷村は信玄の支配下で、諏訪社の御頭役をしっかりと負担させられていた。これは諏訪社祭祀の御頭役に任じる事により、経済的側面から自立能力を奪ったのであった。

6)塩尻峠の戦い
 天文16(1547)年7月、武田信玄は佐久で唯一抵抗する笠原新三郎清繁志賀城(長野県佐久市志賀)を攻めるために侵攻、志賀城には上杉憲政麾下の上州菅原の城主・高田憲頼父子らが援軍として立て籠った。援軍の西上野国人衆を中心とした上杉軍2万余と武田軍は8月6日に激戦となり、武田軍は上杉軍の兜首14、5と雑兵3千を討ち取った(小田井原合戦)。信玄は討ち取った首級3千を夜間のうちに兜首を槍にかざし、平首は棚に掛け並べさせて志賀城を囲んだ。志賀城の籠城兵はこれを見て戦意を阻喪し、11日正午頃志賀城は陥落、笠原清繁、高田憲頼らをはじめ城兵3百余が戦死した。妻子等生き残った者は売買されたという。この笠原清繁は村上氏の属将であったといわれ、志賀城を後詰できなかった村上義清が武田氏との対立姿勢を鮮明にした。信玄も佐久から小県、北信濃への侵攻の姿勢を見せ、村上義清との対立が避けられなくなった。
 村上義清は天文17(1548)年1月18日、北信濃の反武田勢を集めて、「塩田平」産川下流の西方の天白山(須々貴山)を背に陣を敷いた。武田軍は2月1日に甲府躑躅ヶ崎館を進発、諏訪を経て大門峠を越え、上田原に入り、千曲川支流の産川東方の倉升山に陣を張った。 両軍は2月14日に衝突。武田軍先陣の板垣駿河守信方は村上軍の第一陣を撃破しつつ進軍したものの、敵中に深く入り込み過ぎた上、一説にはこの地で首実検を実施したという。板垣信方は反撃に出た村上軍の包囲を受け、乗馬しようとするところを引きずりおろされ、鑓で串刺しにされて首級を挙げられた。勢いづいた村上軍は村上義清の本隊が武田軍本陣を襲い、脇備えの内藤昌秀、後ろ備えの馬場信春らが奮戦する一方、小山田出羽守信有が村上軍の横腹を衝いたため辛うじて村上軍を押し返した。しかし信玄自身も2ヵ所に薄手を負ったほか、甘利備前守虎泰才間河内守初鹿野伝右衛門(はじかね でんえもん)らの宿将と兵7百を失った。一方の村上義清も、唐崎山城主の雨宮刑部正利、小島城主の小島権兵衛屋代源五基綱らの将をはじめ兵3百を失った。
  武田軍はなお陣に留まったが、敗報は翌15日に諏訪上原城駒井高白斎政武に伝えられ、今井兵部信甫と相談の上、躑躅ヶ崎館にいる信玄生母の大井夫人から帰陣をとりなしてもらうよう画策、3月5日にようやく撤退し諏訪上原城に引き上げた。一方の村上義清も損害が大きく追い討ちはかけなかったという。
 この武田軍の敗戦の結果、村上義清らは4月25日に上原昌辰の守備する内山城(佐久市内山)を攻めて宿城に放火したのをはじめ、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆等が反武田同盟を結んで武田氏の信濃支配は危機を迎えた。
田原合戦で武田軍と村上軍が交戦、決着はつかなかったものの武田軍は板垣信方、甘利虎泰ら重臣を戦死させ、実質的に敗北した(上田原合戦)。
 信玄敗北を知り、佐久・小県・筑摩の在地土豪や諏訪西方衆等が反武田同盟を結んだ。武田氏の信濃支配は危機を迎えた。同盟の中心が松本の信濃守護・小笠原長時であった。長時は、信濃守護・長棟の子。弓馬および礼式の名家として代々信州林の館に住し、信濃深志城主で信濃守護だった。長時は4月5日、村上・仁科・藤沢の諸将と下諏訪に侵入し焼き討ちを行う。6月10日、再度下社に討ち入っている。
 7月10日、小笠原長時は、村上義清、安曇郡の仁科一族、武田方から離反した長時の義弟藤沢頼親らとはかり、約5千の兵を束ねて、諏訪へ進攻、諏訪下社を占領した。この時諏訪西方衆(下諏訪・岡谷)の土豪、矢島・花岡一族は、長時に通じ農民を扇動して一揆を起こし挙兵した。神長守矢氏と千野氏は、急遽上原城に駆けつけ、郡代の室伏玄蕃允(板垣信方の弟)に与力した。佐久地方では村上義清が、上田原の戦いに勝利した勢のまま、武田方の内山城を襲い付近に放火した。信玄は諏訪から佐久へ出馬しこれを退けた。                     
 信玄はこの機会に、上田原合戦以後の劣勢を挽回しようとした。また信濃の反乱軍を一挙殲滅する機会を狙っていた信玄は、甲斐進攻のため勝弦峠(かっつるとうげ)・塩尻峠に小笠原軍が集結しているのを知り、騎馬隊3千をを7月11日進発させた。武田方は7月18日夕刻、甲斐と諏訪の境・大井ヶ森(北巨摩郡長坂町)にひそかに騎馬隊を集結した。夕暮れを待って進撃を開始、途中、上原城で小休止した時には、甲州・諏訪の兵・7千になっていた。翌19日午前2時すぎ、勝弦峠を目指して進撃した。その距離約38キロ。武田軍は一気に峠へ駆け上り、小笠原軍の本陣を奇襲した。寝込みを襲われた小笠原軍は武装する暇もなく、また三村・西牧氏が内応、山辺氏が逃亡と、開戦後2時間で総崩れになり敗走した。
 小笠原軍の戦死者は1千人を数え、死骸が峠道に散乱したという。小笠原氏には致命的打撃となった。武田軍は掃討戦を繰り返し、25日、上原城へ帰城した。武田軍の戦死者は20人足らずであったという。信玄はその余勢を駆って、本拠村井城(松本市)を奪い取った。長時は以後、村上義清に頼らざるを得なくなった。
 花岡氏も、武田軍に討伐された。伊那入口を守る諏訪湖の湖尻の花岡城(岡谷市湊花岡)もこのとき破却されたと推測される。 花岡氏は有賀氏の支族であるから、有賀氏同様、諏訪氏の支族であるので同調した。
 信州 小笠原家も源氏、武田家の祖 信義の兄である加賀美遠光、その2男 長清に始まる。 源頼朝に父 遠光と共に戦って信州に恩賞地を得た。北条得宗家の力が強かったため、信濃守護職にはなれない。その後庶流の一族が、阿波守護職に就いている。鎌倉倒幕の際には新田義貞に従い、後で足利尊氏についた。そこでようやく信濃守護職を獲得した。確かに名門ではあった。しかし格式高い家とはいえない。しかし 始祖 長清以来、代々弓馬に優れた武人を輩出したという小笠原家は、その長い歳月の中で、卓越した弓馬術を『弓法』、『馬法』といった作法にまで高めて『小笠原流兵法』を生んだ。そんな名門・小笠原長時は、武田信玄により、天文19(1550)年5月に、その主城・林城を自落させられ平瀬城(松本市)に落ち延び、更に逃げて村上義清を頼るが、後に上杉謙信の越後に逃れ、建武以来の信濃守護も没落した。後日将軍足利義輝の弓馬の師範となった。義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された。
 信玄は 小笠原長時追放の余勢を駆って、村上義清が北信濃で中野小館(なかのおたて;中野市小館)の高梨政頼と対陣している隙を衝いて小県郡に侵攻し、戸石城攻撃を画策した。戸石城塩田城とともに、小県における村上義清の最重要戦略拠点であった。8月24日には今井藤左衛門安田式部少輔らを派遣して検分、翌25日には大井信常横田高松原虎胤らを再度戸石城に派遣して検分、作戦を練った。武田軍は27日に長窪城を進発し、翌日には戸石城に近い屋降(むねくだり)に着陣、29日には信玄自身が戸石城際まで馬を寄せて検分、敵方に開戦を通告する矢入れを行った。 武田軍は村上方諸将への調略もしている。9月1日、村上氏に属していた埴科郡の清野氏が信玄のもとに出仕してきました。信玄の意を受けた真田幸隆の地元武士に対する工作の成果であった。武田軍は3日に戸石城の城ぎわまで陣を寄せ、9日午後6時頃に総攻撃をかけた。村上方の城兵の防御は必死で、膠着状態になる。10日経っても戸石城は落城の気配がなく、9月13日に村上義清と高梨政頼が和睦し、武田方の寺尾城を攻撃していると注進が入った。この間も幸隆の工作は推し進められ、19日に高井の須田新左衛門が武田方に参軍してきた。
 9月晦日、武田軍はこのままで戸石城の攻略は無理だと判断して、撤退のための軍議を開き、翌10月1日午前6時頃から退却を開始した。これを見た村上勢は追尾して猛攻撃を加え、武田方の横田高松を初め主だった者1千人ばかりを討ち取り、さらに午後6時頃まで、執拗に追撃をした。これが世に名高い「戸石崩れ」といわれる戦いで、村上軍の圧倒的勝利となる。
 しかし、翌天文20(1551)年5月26日、武田の信濃先方衆である真田幸隆の調略が功を奏し、幸隆は戸石城を乗っ取った。戸石城は真田幸隆に預けられ、これにより、信玄は佐久の反武田勢力を掃討し、小県から北信濃へ向けて侵攻が可能になった。
 天正10(1582)年3月に武田氏が滅亡したため、真田昌幸は翌天正11(1583)年に上田城を築城開始し本拠を移すが、戸石城は上田城の背後の固めとして重要視された。天正13(1585)年、徳川氏と北条氏の和睦条件であった沼田領を真田昌幸が引き渡さなかったことから、徳川家康の大軍が上田城を攻撃したが、その際には真田信幸が戸石城を守備、上田城下に徳川軍をおびき出すのに一役買っている。この合戦では上田城の城兵と伏兵を巧みに用いた攻撃により、一説には徳川軍は1千3百余が討ち死にし潰走したといわれる(第一次神川合戦)。 慶長5(1600)年の関ヶ原の役の際には、昌幸・幸村父子は西軍につき、信幸は東軍についた。徳川秀忠率いる徳川本隊3万8千は9月2日に小諸城に着陣し上田城の真田昌幸に降伏を勧告、昌幸は降伏勧告受け入れと見せかけて籠城の準備をし、幸村は戸石城に入った。怒った秀忠は9月5日、真田信幸の一隊に戸石城攻撃を指示、幸村は兄弟の争いを避けて無血開城し、戸石城は信幸に占拠された。6日から上田城攻撃は本格的に始まったが、昌幸は太郎山から西に伸びる尾根の末端近く、虚空蔵山に伏兵を置いて秀忠本陣の背後を急襲、それに呼応して上田城から討って出る。昌幸・幸村の巧みな用兵で攻城軍は挟撃され甚大な損害を受けた(第二次神川合戦)。7日になって秀忠はようやく上田城攻撃を諦め中山道、木曽路を西に向ったが、9月15日の関ヶ原の大会戦には終に間に合わなかった。 役の後、真田昌幸の旧領は信幸(信之に改名)に与えられ、戸石城も支城として存続していたものと思われるが、元和8(1622)年、信之の松代城転封に際して廃城となった。

7)武田氏滅亡時の諏訪
 天正10(1582)年3月11日、武田勝頼木曽義昌初め多くの裏切りに合い、北条氏に頼らうとしての途上、天目山の麓の田野で挟み撃ちに遭い激戦の末自刃した。子の信勝はじめ、妻北条氏、その他一族51人の最期であった。3月2日、高遠城は織田信忠の軍に攻め落とされ、守将である勝頼の弟・仁科五郎盛信が壮烈な最期を遂げたが、多くの家臣も殉じている。諏訪満隣(みつちか)の子頼清もその一人であった。3月3日、織田信忠は上諏訪に入ると諏訪大社の神殿その他の諸伽藍に火を放ち 焼失させた。このころの織田軍は中世的宗教勢力を憎み、いたるところで寺社を焼き払ったが、諏訪大社は武田氏の信仰が厚いためことさらだった。 織田信長は3月5日に安土城を発ち、14日に伊那の浪合で勝頼の首級を確認、19日には 上諏訪の法華寺(諏訪市神宮寺)に着陣。法華寺を本陣にに14日間滞在する。 その間、木曽義昌小笠原信嶺(伊那)・北条氏の使者が謁見。既に20日には、徳川家康も到着。 28日、甲州平定を済まして戻る信忠と父子対面。このように信長方の有力諸侯の殆どが集まる壮観さを、信長公記は『上諏訪3里の間に満ちて連陣、更に尺土を余すなし』と記している。 同月29日、法華寺で信長は武田討伐の論功行賞を行う。
  甲斐一国・諏訪郡・・・・・・・・河尻鎮吉(かわじり・しげよし)
  上野国・佐久・小県2郡・・・・・滝川一益
  木曽・安曇野・筑摩3郡・・・・・木曽義昌
  伊那郡・・・・・・・・・・・・・・毛利秀頼
  高井・更級・埴科・水内4郡・・・・・森長可(ながよし)
  美濃岩村・・・・・・・・・・・・・団 景春
  金山・よなだ島・・・・・・・・・・森欄丸
尚、小笠原信嶺・真田昌幸らは旧領を安堵された。4月2日、信長上諏訪を発つと多年のぞんでいた富士を見ながら本栖湖を経て、駿河で家康の厚い饗応をうけ21日に安土城に戻った。 諏訪はこれ以後、河尻鎮吉(秀隆)が甲府に居たため、信玄が見立てた茶臼山城に城代の弓削重蔵がおかれ、その支配下にはいった。しかし、その治績は余りも短く、何の記録も残っていない。 これにより諏訪の武士団は上社・下社系ともに所領を失った。武田氏統治下以上の悲惨さを味わうこととなった。

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