諏訪地方縄文時代晩期
縄文文化の終着点

(約3,000~2,300年前)
 諏訪湖
 何万年も人々の生活を支え続けてきました
 幾たびもその生態は脅かされ
 人々の葛藤の中、その様相を変えてきました

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縄文時代の終焉 | 大安寺遺跡が語るもの | 弥生時代過渡期

 
縄文時代の終焉 
 諏訪市豊田の十二ノ后遺跡より大熊・中洲・上原を眺める
 北関東や長野県の縄文中期(5,000~4,000年前)の遺跡数は他県と比較してみると異常に突出して、特に諏訪と伊那谷が圧倒的に多い。縄文草創期(12,000~10,000年前)から前期(6,000~5,000年前)までは、遺跡数は徐々に増加するが、中期(5,000~4,000年前)になるとその約3倍になる。後期(4,000~3,000年前)には一転して、特に後期後半に激減して前期と同じぐらいになり、晩期(3,000~2,300年前)にはさらに減少し、やがて壊滅状態になる。
 他県を見れば、岡山県では縄文時代を通してほぼ一定で増減は殆どない。千葉・神奈川・東京などの関東地方全域では、海洋水産資源の漁労と貝塚文化が隆盛となり、山間部は衰微するが中期より後期の方が遺跡数は増加する。
 この縄文時代最後の「晩期」に、関東地方以西で急速な人口減少が進む中、東北地方では、冷涼化が進む厳しい自然条件を克服して亀ケ岡式土器様式の華麗な文化が創造された。約3,000年前に盛行した華麗な赤彩の壺形土器、繊細な文様に包まれた注口土器、そして完成された漆工芸の技術など、それらは東北地方に結実した縄文文化1万年の終着点であり、その繊細さは他の土器様式の追随を許さない。しかしこれ以降、東北縄文人たちも、ついに稲作技術を受入れ、縄文文化の伝統を底流に置きながら、縄文時代に培った農耕技術を基盤にした、次の弥生時代の集落共同作業を日常とする水田灌漑という生産方式を形成していく。
 この縄文後晩期の中部山岳地帯の著しい遺跡の減少と、その後の壊滅は、全国規模での気候の冷涼化により、特に中部高地の縄文中期の文化を支えていた温暖帯広葉樹林帯の著しい後退によると一般的に言われる。だが、それ以上に人為的な環境破壊による要因の方が大きい。縄文中期1千年の間に、拠点集落の人口増大と周辺環境の破壊により分村地を増やし、そのムラ人達は、さらに長期に亘って植物性資源を乱獲し尽す。やがて長期間定住してきた尾根を放棄し、一村をあげて他の尾根に移住する。その間に消費された食料と木材資源の荒廃は容易に想像できる。縄文時代を支えてきた狩猟・漁労・採集という生業は、その採取の季節カレンダーを基礎に営まれていたが、年間を通して安定した食料を約束してはくれなかった。次第に生業活動に習熟し高度化すると、もともと年間の食料の供給にバランスが欠けていたものが、より深刻な破綻の呈をなし始めた。特に堅果類は「成り年」と「不作年」が交互するのが自然界の摂理であるから、採れるときに採ろうとする切迫感に常に駆られている。火災住居祉から度々出土しる大量の炭化ドングリやクリが、それを証明する。
 狩猟はその資源に最初から限りがあるなか、ムラ・人相互の競り合いに陥りやすく、どうしてもオーバーキルになる。その結果、生業に限界を生じ、尾根から尾根へと移住を繰り返せば、その燃料として、また住居用材としての樹木の消費は想像を絶するものとなる。
 こうして「自然界の恵み」を基盤にする縄文文化は、結果的に自然界の再生能力を奪い尽し、自らその拠り所を喪失した。しかも後晩期の冷涼化は植物の様相をも変え、中期以降膨張してきた人口を、漁撈・狩猟・食物採集と原始農耕だけでは支えきれず、遂には飢餓状況に陥ったと考えられる。
八ヶ岳山麓では無人化したとまでいえる状況になり、諏訪地方ではわずかに湖盆近くの河川に遺跡が集まるだけで、たとえば、晩期の代表的な遺跡・茅野市の御社宮司(みしゃぐじ)は沖積低地にあり、岡谷市川岸橋原志平経塚の経塚遺跡は、天竜川口に位置する。経塚遺跡では、籾痕が見られ米作りの可能性が示唆されているが、その地域を最後まで支ええたのは諏訪湖を中心にした湖と河川の漁労であった。
   諏訪地方は約3千年前から約2千年前に至る長期間、その氷河期から続く4万年を超える歴史の中で、唯一の空白期を迎えた。 時折、天竜川・釜無川沿いから乏しい魚を求めて、諏訪湖畔、横河川畔、上川・宮川畔などをキャンプ・サイト的に利用する人影が見られた。
 やがて次に来る弥生時代・農耕文化の担い手、諏訪地方最初の先駆者が、庄ノ畑(しょうのはた)遺跡(岡谷銀座2丁目)に居を構えた。横河川で漁労を営んだ縄文人の庄ノ畑集落は、遥か以前に消滅していた。そこに新たな集落が発達し、ムラを作り農業に従事した。新たなムラは、横河川の氾濫による冠水を避け、居住地を高台に選び、それに接した低湿地に横河川の細流が流れ込む地形を、そのまま水田として、直播を行う原初的な稲作農耕を営み始めた。その生業も縄文的な漁労・狩猟・植物採集も合わせた多様なものであった。だが、その後に登場する海戸(かいど)・天王垣外(てんのうがいと)遺跡のように古代まで続く大集落を形成できるほどの生活基盤にはなりえなかった。
 弥生時代文化は北九州を起源として、ほとんど時を待たずに、近畿地方に伝播し、さらに名古屋付近に達した。そこで停滞すると、伊勢湾地方の縄文時代晩期の文化と混合し、その弥生式土器をも変質させた。そうした伊勢湾地方の特徴をもった弥生式文化が、伊那谷・木曽谷を経て諏訪地方に最初に波及してきた。 今から約2,400年前、九州地方の北部で弥生式土器が成立してから、僅か200年足らずのことであった。弥生文化の更なる北進は、北関東から東北地方南部にかけて紀元前100年頃に分布圏が拡大した。その後、東北北部の青森県にまで広がるのに更に200年近くの時を要した。その頃、西日本や東海道の一部では青銅製利器や銅鐸が盛んに鋳造され、集落形態も初期稲作農耕による共同体組織の社会が形成され、古代国家成立の萌芽期に入っていった。それは日本にも、遂に訪れずれた、圧倒的多数の人々が、少数の苛烈な支配者の暴戻に忍従する新たな飢餓の歴史の始まりでもあった。
大安寺遺跡が語るもの
  大安寺遺跡は、北方に諏訪湖を眺める扇状地にあり、その一帯は通称西山地区と呼ばれる。
 大正13(1924)年に鳥居龍蔵らが著した『諏訪史』第一卷で、既に大安寺遺跡はとり上げられていた。以後、9回に及ぶ発掘調査で、縄文中期の住居址8軒、後期の住居址も同じく8軒の他、埋甕炉(うめがめろ)が数基、墓跡とみられる多数の小竪穴など、中期から後期の遺構・遺物が濃密に発掘された。
 第二次大戦後の復興期以降、宅地化が進み、開発に急かされて緊急発掘調査が行われた。昭和62(1987)年の第6次調査では、縄文後期前半の7号住居址から、石錘が約20点、まとまって出土した。縄文時代のみならず、錘は諏訪地区の各地から様々な用材によるものが発見されている。大安寺遺跡でも、土器の破片を再加工した土器片錘や、粘土から加工し焼あげた土錘などがあり、しかも様々な形状と重さの物がある。諏訪湖やそれに流入する河川における漁労が、縄文時代以降盛んになり、それぞれの漁場の特性の応じ、各種の漁具・漁法・仕掛けが工夫されていた。
 翌昭和63年には、大安寺遺跡の西側の農道敷設に先立つ発掘調査がなされ、同年隣接地で住宅建設が行われるため、再度、緊急発掘がなされ、縄文中期の住居址4軒、後期の住居址3軒が出土した。しかも後期の住居址の2軒(11号と13号住居址)は敷石住居址であった。もう1軒(9号住居址)からは獣骨とおもわれる骨片が多く出土した。また同時代に属する墓跡とみられる小竪穴が10数基発掘された。
 敷石住居址は床に鉄平石などの平石を敷きつめていた。福松砥沢遺跡は大安寺遺跡より東南約2㎞にあり、砥沢川の左岸の扇状地に開けた山裾の緩斜面にある。諏訪市内では角間川の下流域左岸に位置する縄文中期から後期に亘る、双葉が丘上の穴場遺跡に匹敵する規模的大きさがある拠点集落であった。その福松砥沢遺跡では縄文後期に明確に属するとみられる8軒の住居址の中の、7軒が敷石住居であった。いずれも床全面にではなく、部分的な敷石で、44、48号住居では住居の隅に敷かれ、その延長に在る壁に平石による立石がなされている。しかも44号住居では、埋甕遺構があり、敷石上に炭化材が散在し、中央には炉址もあった。敷石の上からは、祭祀的な要素が強い石棒、立石、土偶、凹石(くぼみいし)、石皿、敲石(たたきいし)が出土することが多く、炉の中から焼けた獣骨が出ることもある。この時代から日常生活を送る住居内に祭壇を設けることが多くなる。また縄文中期の曽利式期における諏訪地方の住居は、通常、柱を正方形の4隅に配置し、中央やや奥に炉を備える。その入り口には、埋甕を埋設する。福松砥沢遺跡でも基本的にはこの構造であった。
 福松砥沢遺跡の225号小竪穴では、底部に人頭大の礫をめぐらし、その覆土の中ほどから焼土が多量に出土している。死者を埋葬した後、覆土し、その上で火を焚き、死者を送る埋葬儀礼を行っていたようだ。また顔面付き土器の破片、土偶、ミニチュア土器、浅鉢(あさばち)や注口土器など祭祀的遺物がバラエティー豊かに出土している。
 制御しかねる自然に対して、科学的知見がないのまま、その猛威に晒され、暗夜が大部分を占める世界で、古代人は、それでも不可思議で恐怖に満ちた自然界の恩沢に依存せざるを得ない日常生活を送るためには、あらゆる自然現象や動植物に精霊の存在を感じ取り、畏怖しながらも崇敬する姿勢を示した。古代はギリシャやインド・中国・日本でも神話の本質は多神教であった。その後、民族的な纏まりと統制に比重が移り、独裁的統制者が登場すると、そのモデルとなる唯一絶対神が人類社会の規範を専らにするという神話が主流となる。
 森の生活者・縄文人は周囲のあらゆるものに配慮し崇敬した。縄文前期の北海道釧路市東釧路貝塚では、5個のイルカ頭蓋骨を、口ばしを中心に向け放射状に並べていた。富山湾に面した能登半島の石川県鳳珠郡(ほうすぐん)能登町字真脇の真脇遺跡では、縄文前期に属する遺物が非常に多く、おおよそ3百頭のイルカの骨が、他の獣魚骨とともに狭い範囲で発見された。しかもイルカの頭蓋骨が扇形・並列・向かい合わせと意図的な配列がなされている。
 宮城県東松島市の松島湾の奥にある湾内最大の宮戸島の西部に遺存する里浜貝塚は、縄文前期初頭の小規模な集落から始まり、やがて大規模な集落や貝塚が形成され、浜辺には貝塚や製塩作業場が平安時代にいたるまで営まれていた。
 里浜貝塚から縄文晩期に属する、三叉鹿角の表面に、並列する二重丸がつながる渦巻文的な彫刻を施した三叉鹿角製品が発掘された。その形態は、西日本の埋葬遺構からも出土している。祭具的性格が強いと思われる。この遺跡では、既に縄文後期の祭壇場とみられる積石(つみいし)の上に、イノシシの頭骨が置かれてあった。
 縄文晩期以降の遺跡・福島県いわき市薄磯貝塚(うすいそ)では、弥生前期にかけ約50層に及ぶ貝層が確認された。ここからは縄文晩期のニッホンジカの幼獣の頭骨を中心にすえ、その周囲に約50本の鹿角を配置していた。山梨県北杜市の金生遺跡(きんせい)の縄文晩期の土坑遺構から焼けた118頭分のイノシシ幼獣の下顎骨と脊椎骨数点が出土した。祭祀用にイノシシの幼獣を飼養していたとみられる。東京都町田市のなすな原遺跡では、後晩期の遺構が集中する地点から焼獣骨が多数出土している。日野市の南広間地遺跡からは、住居址の中から、シカかイノシシの焼骨が、祭祀に使ったとみられる亀の形をした土製品と共伴している。遺跡が著しく減少していく最中、獣骨を住居内の祭壇の火で浄化し、その再生を願い埋葬や散布をする行為が広く行われていたようだ。

 大安寺遺跡で昭和63年に行われた8次調査では、先述したように縄文後期の住居址が3軒が出土した。その内2軒、11号と13号の住居址は、床に鉄平石を敷いた敷石住居址であった。もう1軒の9号住居址では、中央部の炉以外に、床面の東隅に焼土が検出された。また床を埋めた土中から獣骨とみられる骨片が多数出土した。住居内に設けられた祭壇で、しばしば獣骨が焼かれたようだ。また9号住居址からは、浅鉢や注口土器なども発見され、祭祀の場が住居内に取り込まれ、祈りを捧げる行為が日常的になされていた事が明らかになった。後世における家屋内の仏壇や神棚的造作が、当時を起源としていたようだ。
 床面に平石などを敷いた敷石住居は、縄文中期末から後期の中部・関東地方で多くみられる。中期後半になると、炉端に石棒を立てたり、入口部に蓋石を被せる「埋甕」を埋設したり、奥壁付近に石を組み祭壇を設ける住居が登場する。住居内に祭祀的空間を備えると、炉の周辺や祭壇の床面に平石を敷き特別な場とする。やがて床面全面に敷き詰める住居も縄文中期末に現れる。角間川の下流域の左岸・双葉が丘にある穴場遺跡や福松砥沢遺跡では、壁側の立ち上がり周囲に鉄平石を立て巡らせる住居も出土している。穴場遺跡8号の敷石住居址は、出入り口が張り出し、平面でとらえれば柄鏡のような形状となる。この張りだした柄の床下には「埋甕」を埋設したと考えられている。諏訪市内では、後期後半の住居祉の半数以上が敷石で、福松砥沢遺跡では8軒中7軒が敷石であった。穴場遺跡など諏訪湖東岸の敷石住居に使われる平石の殆どが、霧ケ峰南麓の末端部にあり、同じ諏訪湖東岸にある立石近くの福沢山の鉄平石である。かなりの労力をつぎ込んで住居内に鉄平石を敷き詰めるのは、大安寺遺跡のように、次第に生業環境が悪化し集落を維持する事も困難となり、周辺の湖川の水産資源に頼ろうとするが、それもままならず、他に環境変化に適応できる生業手段も見いだせず、やがて迎える終末に対する不安と恐怖に、ただ祈りを捧げるしか術がなかったようだ。諏訪地方の大半の集落は後期の中頃に廃絶し尽し、後期後葉以降にまで営まれる集落は、諏訪市内の大安寺遺跡と十二ノ后遺跡、茅野市の上ノ段遺跡と御社宮司遺跡、富士見町の大花遺跡などごくわずかとなる。
 諏訪地方の縄文後期の集落の殆どは、隆盛を極めた中期から種々多様な経過を辿りながら継続していた。それも後期の中頃には途絶えている。諏訪市内では、現在までの後期後葉の住居址の出土例は、大安寺遺跡と、そこから北西に500mほど離れた諏訪市豊田有賀の十二ノ后遺跡だけである。十二ノ后遺跡は約6千年前の縄文前期から古代・中世にかけての集落遺跡があり、奈良・平安時代には、特に諏訪と伊那谷を結ぶ重要な交通路であった有賀峠の入口にある。当地域の中心的な集落として周辺の千鹿頭社遺跡・女帝垣外遺跡(にょていがいと)・鐘鋳場遺跡(かねいば)などと共に大きく発展した。十二ノ后という地名は、大和朝廷の頃、大和の国から移ってきた女帝のお供だった12人の姫女が居を構えた場所という女躰社の伝説に因む。現代でも、有賀峠超えは伊那谷に通じる最短ルートの一つとして交通量は多い。十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡からは、晩期後半の小諸市氷遺跡を標式遺跡とする氷式土器(こおりしき)が出土しているが、後期末から晩期前半の遺物がみられない。
 大安寺遺跡と十二ノ后遺跡で共通するのが、諏訪湖に近い扇状地上にあり、しかも漁網用の擦切り石錘が多量に出土していることだ。いずれもが諏訪湖に北面し、集落が激減する最中、存続できたのが、諏訪湖とそこに流入すり河川に依存する漁労であった。
 大安寺遺跡には、縄文晩期前半に流布する佐野式土器の破片が出土している。それを標式する佐野遺跡は、下高井郡山ノ内町にあり、志賀高原一帯の山岳下の湖沼地帯から流れ出る庭間瀬川の中流域、山の内盆地の南西部に所在する繩文時代晩期の集落であった。
 大安寺遺跡では、晩期後半の遺物が発見されていない、既に終結していた。次いで遺跡地を継ぐ人々が登場するのが、弥生時代初頭の条痕文系土器の時代となる。
 茅野市宮川の南寄り、宮川と上川に挟まれた、両河川の氾濫により形成された沖積低地に立地する御社宮司遺跡では、縄文後期後葉から晩期末(約2,000年前)の遺物・遺構が主体であるが、土器は早期から後期がごく僅か、晩期前半が若干、晩期後葉には氷Ⅰ式と呼ばれる縄文時代最後の型式に当たる土器が多数出土する。形態では浅鉢・深鉢・壺に大別され、舟形をしたものが一点ある。壺は僅かで、大半が浅鉢と深鉢であった。中でも深鉢は浅鉢の倍近い数があり、その大部分は粗製土器で、装飾も少なく薄汚れ、主として煮炊き用であった。
 浅鉢は粘土の粒子も細かく、表面の磨きや作りも精巧な精製土器である。東北方面の工字文(こうじもん)や晩期終末期の浮線網状文(ふせんあみじょうもん)と呼ばれる弥生時代直前の施文があった。数が多い小形の土器は「銘々器」で、特定の人だけが使う各自の食器のようだ。
 御社宮司遺跡出土の10点の土器片から、モミとみられる種子の圧痕が検出された。その土器の器面にのこる圧痕は、土器を作る粘土にモミが混入し、焼いたときに中味がはじけて、その痕跡が残った。御社宮司遺跡は茅野市内では唯一の沖積低地の縄文遺跡であったが、その終末期に諏訪地方で、最初にコメを作ったムラだったようだ。なお同時期の小諸市の氷遺跡からもモミ痕が付着した土器が見付かっている。山梨県韮崎市藤井町の宮ノ前遺跡からは、氷Ⅰ式期・約2,300年前の水田跡が発見されている。

弥生時代過渡期
 約2,400年前頃、大陸から水田稲作の技術を持った人々が渡って来て縄文時代が終わり、弥生時代へと移行する。弥生時代開始前後の時期、中国は春秋戦国時代と呼ばれる群雄が割拠する数百年に及ぶ戦乱の時代で、その事が朝鮮半島など極東地域の人々が日本列島へ移住して来た大きな要因となったと考えられる。
  紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕の5ヵ国の連合軍を撃退し、紀元前221年、秦が初めて中国を統一し、中国と呼ばれる領域がほぼ確立した。それも束の間、始皇帝の子・胡亥の時代に国家的に破綻し、後継の秦王子嬰(しえい)が項羽の部将であった漢の劉邦に降り、伝国の玉璽を捧呈して秦帝国は滅んだのが紀元前207であった。天下統一後、3代15年の治世であった。紀元前202年、再統一したのが前漢の高祖・劉邦であった。
 弥生文化は、縄文晩期に中国や朝鮮から、水耕稲作・金属器文化と巨石を立てる支石墓の風習などと共に九州に渡来し、初期水田稲作農耕文化を定着させ、更に時を置かず畿内に及んで発展する。弥生時代前期は稲作文化を中心に、低湿地を開墾して氏族共同体的な結合を形成しながらも、内部的には階級的格差が生じ、その確執による成否が、所属する集団のその後の興廃に繋がるため、争闘が頻発する利益共同体的な体制であった。

 繁栄を極めた縄文中期から寒冷化の進行が始まり、その後期に食料生産と人口の微妙なバランスの上に成立していた縄文文化の基盤を危ういものにした事は確かであるが、それにしても縄文人が、なぜ水田稲作を受け入れたのか。また、渡来人と縄文人との間で戦いがあったのか。当時縄文人は水田稲作に最適な扇状地には殆ど住んでいなかったようなので、一般的に争いになることは少なかったのではないかとまで言われている。
 当時の西日本では、中部高地同様、多くても2,3軒が寄りそう程度であったため、最低でも数十人単位で断続的に、しかも頻繁に流入する朝鮮半島南部を経由してくる諸勢力に対抗できる術がなかった。
 縄文時代を概観すると、土器と弓矢の発明、狩猟犬の活用、水産・植物資源の生業としての導入などを基盤に、縄文前期の温暖化による生態系の大変動に適合し飛躍的発展を遂げながら、縄文草創期以来、おおむね現代に繋がる、基礎的な技術革新を完成させるという偉業を達成させてきた。それが後・晩期になると殆どの地域で完全に行き詰まっていった。終末期を迎えた縄文人は、種々の周辺環境の悪化に戦き祭祀的な行為に逃避せざるを得なくなっていた。
 この行き詰まりを打開したのが極東からの水田稲作と金属生産技術を伴う朝鮮半島を中核とする大陸文化の流入であった。
 ただ北海道の先住民は、当時の北アメリカ北西海岸の先住民同様に、縄文時代的狩猟・漁労・植物採集などを生業基盤とする社会を維持し続けていた。北海道の人々は、旧石器時代から極東大陸と人的・文化的に交流を重ねられながらも、その縄文文化に画期をもたらすような変動を遂げる事はなかった。弥生文化を支える水耕稲作に使うイネの種自体が、本来熱帯性植物であるために、冷涼な北海道には適さず、むしろ狩猟・漁労・植物採集などと共に豊富な海洋 資源に依存した生業の方がより生産的で、本州の弥生・古墳時代と対比し続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)と呼ばれる文化を紀元後7世紀まで営み続けた。
 沖縄諸島も、本土の縄文中期頃から集落遺跡がみられるようになるが、弥生時代の要件の一つ稲作水田は遺存していないようだ。沖縄の先史時代は、後期旧石器時代と土器出現後の貝塚時代(縄文時代 - 平安時代)に区分されている。更に縄文時代にあたる貝塚時代前期と、弥生時代から平安時代にあたる貝塚時代後期とに大きく区分される。現時点では、弥生時代にあたる時期の水田は見つかっていない。農耕が本格的に始まるのは、貝塚時代後期末である。依然として狩猟採集経済で、漁労を生業の中心に置いていた。遥か以前から海洋民で、貝の腕輪などを製作し本土と交易していた。弥生時代に九州北部で盛んになる「貝輪文化(かいわ)」には、沖縄産のゴホウラ・イモガイ・スイジガイなどが使われ、交易が一段と活発になっていった。これらの貝の多くは奄美群島以南に産するもので、南方産の貝で作った飾りなどが、沖縄県うるま市与那城伊計島(いけいしま)の仲原遺跡などから出土している。他の沖縄諸島などでも出土事例が増えてきている。沖縄諸島原産地の貝輪が、九州北部では、弥生時代初頭から台頭してきた支配階級の徽章となっていたと見られる。その各地の首長などの需要に応えることにより、沖縄諸島の「貝塚文化」時代の生業の支えとなった。
 「貝塚文化」は縄文文化と同じ狩猟採集文化の一形式であり、島嶼の宿命で沖縄の狭い土地では、大型獣が生息しないため、生業の中核に海を置いた。沖縄諸島の水産資源は無尽であり、しかも黒潮の源であれば、極東方面への重要な交通路が広がり、それが当然のように交易路となり発展した。このことが、沖縄諸島が交易を前提にした独自の「貝製品製作文化」を主業とする地域に育てあげた。
 縄文中期、奄美諸島や沖縄諸島では独自の文化が育まれていた。縄文後期には九州との交流が盛んになり、中国とも関わるようになる。縄文晩期は集落が形成され、九州との交易がより活発となると、本土とは違う、独自色が強い沖縄文化が形成されていく。やがて中国・日本を中核にする東アジアから東南アジアにかけて多角的な交易中継基地として発展していく。
 当時から南シナ海へ漕ぎ出した舟は、海岸沿いに広州や福建、台湾西岸、浙江を経由して東シナ海を漂い、先島諸島辺りで黒潮に拾われ、やがて対馬海流に乗り五島列島へ到着したと思われる。沖縄諸島からの廻船航路は、このルートを基本にしていたようだ。

 当時の航海のネットワークを利用し、沖縄、南西諸島特産の貝や佐賀県の腰岳の黒曜石などを交易財として、朝鮮半島から南は沖縄諸島にまで広い交易圏を展開してきた西日本の縄文人が、朝鮮半島を含めた大陸の政情不安、農耕もままならぬ戦乱に伴う不条理な徴用と田畑への蹂躙など、当時の極東情勢を、意外にも、その多くを知っていたとみるべきである。そして、縄文中期以降も過疎化状態に在った西日本と、寒冷で東日本の縄文人が漸減していった状況を考慮すると、むしろ当時の日本列島は、水田稲作に適した扇状地や沖積低地などの多くが無人に近い状態にあって、移住に最適な地域が多かったかもしれない。
 視点を変えれば、縄文人の多くは交易の民でもあり、当然、大陸の水田稲作の有効性を知悉しており、縄文的生業の行き詰まりをわきまえ、むしろ積極的に誘致し、あるいは自ら採用開発した勢力もあったかもしれない。
 ところが縄文後期後半の西北九州では、熊本県菊池市泗水町(しすい)の三万田遺跡(みまんだ)や同熊本市の上南部遺跡(かみなべ)など熊本県下の40遺跡から、土偶が約300点も出土しており、その内、阿蘇外輪山の麓の肥後台地で約半数を占めている。土偶は縄文中期になると東日本全域で活発になるが、西日本一円では低調であった。それが後期になると九州から近畿に分布圏が拡大する。困窮する東日本から、西日本への移住が根底にあったのだろうか。
 次第に縄文的世界が破綻していく最中、朝鮮半島から新しい集団が異質の文化を伴い流入し、西北九州でも交易情報に疎い多くのムラ人が大いに社会的動揺をきたしていた。当時の縄文人は土偶と祭場を中心にした宗教的な世界観を共有し、集団内の精神的一体感を覚醒させようとした。しかし土偶の製作は晩期には途絶した。新文化の流入を阻むことができなかった。
 福岡市早良区四箇田団地一帯の四箇遺跡(しか)は、標高22mの微高地にあり、縄文時代後期から古墳時代にまで継続している。この遺跡の縄文後期の層からヒョウタンとマメのほか、ごく少量のハダカムギとアズキの炭化粒が出土した。さらに焼畑が想定され、その周辺に生育する雑草や樹木類の炭化種子が数多く検出された。花粉帯Ⅰの古い地層から、この地域が、その時代、鬱蒼とした照葉樹森帯であったことが、その数多い花粉の分析により証明できた。縄文時代後期の層、地下深度120~135㎝における花粉帯Ⅱになると、アカガシ亜属やシイノキ属は一割にまで減少し、エノキ、ムクノキ属は殆ど出現しなくなる。すなわち、森林の存在を示す花粉が激減し、土中からは炭化した木片などが急増する。人為的に森林が伐採され、焼き払われたことを証明する。
 この花粉分析の結果と、ハダカムギとアズキなどの焼畑雑草の種子が多数検出されたという事実から、縄文時代後期、この四箇遺跡周囲で焼畑が行われていた事が明らかになった。四箇遺跡からさらに30数km西方の、唐津市の菜畑遺跡(なばたけ)は、菜畑字松円寺(しようえんじ)にある衣干山(きぬぼしやま)の東麓に展開する丘陵の先端部に営まれていた、縄文晩期の水田を伴う集落遺跡であった。ここでは縄文晩期、日本における最初期の水田稲作跡が発見された。実は水田稲作が営まれる前に、ある種の畑作農耕、イネ(陸稲)・アワ・アズキ・ヒョウタン・ゴボウ・シソなどが栽培されていた。しかも縄文晩期の土器の胎土の中や、遺跡の土壌の中からイネのプラントオパールが多数発見されている。
 こうした雑穀の農耕跡を残す遺跡のひとつに、熊本県上南部遺跡がある。この遺跡は白川流域にあるが、河岸段丘の上に立地しており、水田には向かない土地であった。かつて、この周辺地域では、イネが栽培されていたとしても、陸稲を想定する方が自然な地形であるとみられている。畑に育つ陸稲は、干魃にはきわめて弱い。収穫量は降雨量に左右され、水稲に比べると収量は半分以下程度で、しかも年毎の収量の変動が激しく不安定であった。

 九州で姿を消した土偶が、古くから西日本を代表する縄文晩期の遺跡として知られる奈良県橿原遺跡(かしはら)から、200点近く出土している。しかも在地の土器以外に、東北地方を中心に分布する大洞式系土器(おおぼら)が多量に共伴している。環境悪化が進む東日本から移住してきた人々が、この地で弥生文化と衝突し、遂に奈良盆地で弥生文化に屈服したと推測される。
 同時代、東日本側で弥生文化流入の障壁となったのが、加賀・越中・飛騨・美濃から東海で、土偶のみならず石剣(せっけん)・石刀・石棒・石冠(せっかん)・御物石器(ごもつ)・装飾石器など祭祀・儀礼用の「第二の道具」が数多く製作された。
 御物石器は、石川県鳳至郡(ふげしぐん)比良村(現穴水町)の比良遺跡から出土したもので、明治天皇が明治11年、北陸東海を巡幸された際に献上された。その後、明治天皇の「御物となった石器」と札が付けられ展示されたことから、そのまま学術名称として用いられている。御物石器は、縄文後期に始まった可能性があるが、殆どが晩期に属する。石冠と同様、岐阜県飛騨地方から北陸地方にかけて多いが、東は新潟西部から静岡、西は鳥取・和歌山からも出土している。御物石器に共通する形状は、長手の器体で、全体的にまっすぐ伸び、中央の部分には鞍部のような窪みがあり、その両側は膨れ上がるという形状である。長さはいろいろで20~40㎝ほどで、幅は長さの半分から4分の1ほど、高さは幅と同じくらいから2倍ほどである。文様のない粗製品もあるが、多くは自然礫を敲打して概形を作り、それを磨いて仕上げる精製品で、中には赤色顔料で塗彩した例もあり、その形状から実用品とは想定し難く祭祀・儀礼用と考えられている。
 装飾石器も特異で、三日月形やバナナ形の弧状に湾曲し、表面に文様を彫刻した磨製石器である。縄文晩期に北陸・中部・東北南部でみられる。こうしてみると石冠・御物石器・装飾石器など、極めて異形の石器が、東日本に広域的に流布している事から、その呪術的な宗教観が縄文人間で共有されていたように思える。残念ながら、その宗教観までは知る術がない。しかも、御物石器や装飾石器を、祭祀用のオブジェと解釈されているだけで、その石器固有の用途は、未だ不明である。
 縄文人は、落日の晩期に、朝鮮半島から急激に流入する水稲稲作と青銅器を中核とする新しい文化の侵入を阻止するため、縄文文化の再認識と再開発で対抗しようとした。だが縄文時代には、殆ど顧みられなかった低湿地を大規模に開発し、しかも集落全体で生産活動に勤しみ、土地資源を集団力で積極的に変える大規模な灌漑を着実に成し遂げ、圧倒的な生産量を達成する弥生人集団の経済力の前に屈せざるを得なくなった。
 関東地方にまで弥生勢力が侵入する頃には、既に弥生文化の実力は十分、熟知されていた。その侵入に伴う緊張状態も既に学習済みのように緩やかで、晩期後半にはその抵抗も消滅している。この時代、四角形や楕円形を基本とする扁平な土版(どばん)が、縄文晩期の東北地方から関東地方にかけて出土する例が多い。かつて東北地方では石製の岩版がまず作られ始め、後に土版へと変わる。土版には顔や身体が立体的に表現される例や、女性を示す乳房や正中線(せいちゅうせん)が表される例もあり、土偶と共通するような役割を果たしていたと考えられ、また紐を通すような孔をもつことから護符として使われたようだ。そのため土偶や石剣と異なり、祭祀行為として破壊されずに、完成品やそれに近い形で出土している。その土版も縄文晩期後半には登場しなくなる。
 土版と土偶の製作終止が、弥生文化が浸透し、縄文時代の終末を告げる証明となった。その消滅は東北南部から、やがて津軽海峡にまで達する。
 金関丈夫(かなせき たけお)は、九州大学教授時代、自ら指揮した山口県下関市豊北町の土井ヶ浜の発掘とその後の研究による業績で知っている。土井ヶ浜遺跡は、朝鮮半島南部の釜山や対馬に近接し、本州最西端にあたる山口県の響灘に面する西海岸沿いで発見された弥生時代の埋葬遺跡である。昭和28(19 53)年から32年にかけて、この日本海岸の弥生遺跡から157体の人骨を出土させた。これ以前に出土したものや、昭和55(1980)年からの発掘の分も加えると、300体にもなる。金関は、土井ヶ浜人の方が縄文人骨より身長が高く、額も高いが、その割に幅が狭いなどの相違点から、土井ヶ浜人は弥生文化を伴ない朝鮮半島南部から渡来した人々であり、縄文人と弥生人の混血によって、その後の西日本人が形成されたのだと考えた。その混血は北部九州や山口県下に広がり、間もなく近畿地方にまで達した。
 本格的な水稲水耕栽培が弥生時代初期、西日本に急速に伝播しえたのも、既にイネ科のアワ・イヌビエ・シコクビエなどを焼畑栽培がなされていたばかりか、陸稲の畑作も行われていたからとみられている。中国地方の内陸山間部にあたる岡山県真庭市美甘(みかも)の姫笹原遺跡の中期の土器の胎土から、イネのプラント・オパールが多数検出されている。コムギ・ハトムギも検出されたという。岡山理科大発掘チームは、平成11(1999)年4月21日、岡山市津島東の朝寝鼻貝塚(あさねばな)から、以前に採取していた縄文時代前期初頭・約6千年前の地層から、栽培種イネのプラント・オパールを検出したと発表した。それらのイネは陸稲(熱帯ジャポニカ種)で畑作であった。

 鈴木尚(ひさし)は、明治45(1912)年に生まれ、東京帝国大学医学部に入学し、解剖学教室で古人骨を研究指導していた小金井良精(こがねいよしきよ)教授の下で研究し、それが契機となって解剖学から人類学に転じた。縄文時代から現代に至るまで、日本人の形質を人類学や解剖学の面から緻密に研究し、それまで知られていなかった、時代ごとの日本人の形質変化を微細に明らかにした。鈴木尚は東日本の縄文人と弥生人の形質人類学的研究を、東京大学人類学教授として指導し、大量の人骨を調査分析してきたが、各時代いずれも少しづつ変化はしているも形質的差異がなく、生活環境に伴う推移程度とみている。東日本の縄文人は、その晩期、自然資源に依存する縄文的生業が限界に至り、次第に近づく青銅器と水稲稲作文化が、寧ろ生業の転換期としてわきまえ積極的に導入したようだ。
 それを容易にしたのが、縄文時代に培ってきた植物や動物利用の知識や、それらを基盤にして生活技術を編成するノウハウや集落形成など、殆どのものが縄文時代に開発されていた。ヒョウタン・エゴマ・イヌビエなどの栽培種を育種し管理栽培もなされていた。弥生時代を迎え新たに導入されたものは、金属器の利用と水稲水耕栽培の2点だけであった。稲作が導入されても比較的早い段階でなじめたであろう。むしろ稲作が、日本列島各地の気候や地質条件に、順化するのに時を要した。
 諏訪地方の縄文時代遺跡は、主に広大な八ヶ岳西南麓と上川の流域に沿った台地上に集中していたが、弥生時代以降になると稲作に適した沖積低地が乏しいため、その主要な遺跡は天竜川流域の岡谷市域や諏訪湖盆地域と永明寺山麓・守屋山麓部に集中する。