諏訪地方縄文時代後期
縄文文化の転機
(約4,000~3,000年前) |
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星ケ台と星ケ塔
鷲ケ峰より撮影
八島湿原遺跡から一番近い
黒曜石採取場所
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◆総論
縄文時代草創期
縄文時代期早期
縄文時代前期
縄文時代中期
縄文時代の民族
縄文時代後期
縄文時代晩期
諏訪歴史散歩
車山高原リゾートイン・レアメモリー |
諏訪地方の「貝塚文化」
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岡谷市 川岸上3 「鶴峯公園」から撮影 |
諏訪地方は氷河期の終わり頃に、現在の地形が成立したといわれている。ただ諏訪湖盆地帯は例外で、当時、中筋一帯の3分の1までは湖ないしは、その沼沢で、西山地区・長地山地・後山地区・釜無山系はもとより、川筋の平地まで鬱蒼と原生林に覆われていた。
こうした自然景観が、時代ごとの生業活動によって、人文景観に移行していった。その過程で、諏訪湖周辺にも「貝塚文化」が存在していたのでは?実に興味深い。淡水の湖岸の貝塚は、琵琶湖の粟津貝塚などではよく知られている。残念ながら諏訪地方には、原始・古代の豊富な遺跡群から、貝塚といえるものが殆どない。
諏訪湖にはシジミが好む砂地がなく、タニシが住む泥地も発達しなかったと藤村栄一はいう。それでも、わずかに貝塚の存在が確認されていた。岡谷市の天竜川周辺の川岸地区には、38ケ所の遺跡が存在する。ここはいつの時代でも不変の伊那谷文化とその担い手達の侵入ルートでしあった。その遺跡群の中の川岸三沢熊野神社境内で発掘された熊野神社境内遺跡では、オオタニシの貝殻と鹿の獣骨が出土していた。
それ以外には下諏訪町高木の殿村遺跡で、縄文時代中期の竪穴住居址の脇に貝塚がみつかっている。大きさは2m×3mで、たった1つのイケシンジュガイの他は、すべてオオタニシであった。
福井県三方郡三方町鳥浜の鳥浜遺跡は、福井県三方町の三方駅から西方約1km、三方湖に注ぐ、はす川と高瀬川の合流地点に広がる低湿地遺跡である。発掘現場そのものは現在水中に没している。縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、低湿地遺跡の特性から、そのまま破壊・分解されず今日まで遺存した。縄文時代草創期と前期の食材と食物の残渣など多彩な有機質遺物を含み、縄文人のゴミがその生活ぶりを現代に蘇らせる「宝の山」となった。
海抜0m~-4.0mにある低湿地帯貝塚で、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品、石斧の柄、しゃもじ、スコップ状木製品、編物、縄、木や種子、葉などの有機物遺物やヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウなどの野菜類と堅果類の植物遺体、動物骨、骨角器、丸木舟、糞石など、漁労関係では、スズキ・マダイ・クロダイ・サメ・フグ・イルカ・シャチ・クジラの骨なども、通常は腐食して残りにくい貴重な遺物が、水漬けの状態で良好に保存されていた。何度かの発掘で、約5,500年前の遺物層が約60cmの厚さで発見され、その中には、ドングリ・クルミなど堅果類の種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認された。これらの堆積状況から、秋に採取した森の食べ物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝をとっていたことが分かった。また、土をふるいにかけて魚の小骨まで洗い出した結果、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかり、季節毎の食生活の様相が明らかになった。
貝類・魚骨・獣骨・植物質残渣などから食材の重量とカロリーを算出し、縄文人の食生活が調査された。見かけ上、残渣の70%を超える貝類には、極めて低カロリーで全体の比率では、25%にも満たなかった。堅果類を主とした植物食が50~60%を占めていた。魚類が10~15%、獣類が5~10%という割合であった。滋賀県の粟津湖底第3貝塚でも、食料のカロリー換算では、堅果類52%、獣類11%、魚類20%、貝類17%となっている。
人骨にはコラーゲンというタンパク質がある。古代人の骨や軟部組織に含まれるタンパク質を、炭素・窒素同位体比分析すれば、その食生活をある程度類推できる。これによれば、千葉県船橋市古作の古作貝塚人は、主として縄文後期に属するが、堅果類19%、雑穀類3%、陸獣43%、魚類30%、貝類5%であった。長野県安曇野市明科(あかしな)の北村遺跡人は、堅果類74%、雑穀類11%、陸獣7%、魚類2%、貝類6%を食していた。北海道伊達市北黄金町の北黄金貝塚人は、イルカ・アザラシなど海産哺乳動物が30%も占めていた。
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諏訪地方の漁労
諏訪地方など内陸部の湖沼・河川の縄文時代の漁労の痕跡の発見は難しい。縄文時代、以外にも、夏は四季のなかでも食料の端境期に当たる。その確保が非常に難しい時季で、諏訪地方でも湖沼や河川で、魚などの内陸漁労を盛んに行っていた。岩手県の嵙内遺跡からは、「エリ」の遺構が発見されている。諏訪地方でも、「ヤナ」「ウケ」などによる定置網漁法が発達していたとみられる。一度、定置漁具を設置すれば女子供でも漁獲は容易である。その主道具が植物用材の「エリ」「ヤナ」「ウケ」などであるから遺存しにくく、明らかな出土例はない。ただ民間で現在行われている方法は、縄文時代1万年の生活の中で涵養された技術が殆どであると思われる。諏訪湖の漁法「ヤブ」は、ソダ・ヨシなどを束ね湖中に沈め、湖漁が棲家(すみか)する頃、引き上げる。「ウケ」はソダ・ヨシなどを筒状に編み、その中に餌を入れて水中に沈め獲らえた。諏訪湖では網目により呼び方を変える「キヨメ網」と「タケタカ網」がある。対象魚の習性に合わせて、網の浮子(あば)と沈子(ちんし)の数により水深を変え網を張る。浮子は木材、沈子は石錘と土製錘があった。土製錘には粘土で成形し焼成したものもあった。
縄文時代早期から太平洋沿岸の漁労は、貝塚からの出土例で刺突具の骨角製のモリ・ヤス・釣針などで行われていたことが分かる。魚網の石錘・土錘と釣針用の石錘も出土している。土錘には、破損した土器の1部を利用した土器片錘と、手製の長方形の成形土錘がある。成形石錘には、片理に沿ってスレート化し易い粘板岩・泥岩を原材として、砂岩製の刃器でスキー板状に擦り切り加工を行なった精巧なものもあった。石錘・土錘はいずれも両端あるいは4端に糸掛け用の切込みを付けている。
縄文時代、湖岸にあった諏訪市片羽町B遺跡(かたはちょう)の土器片錘は、縄文中期末のもので、厚手で形も大きく、網目の大きい魚網用で、鯉や大きな川鱒を狙ったとみられている。
守屋山山麓の湖南大熊にある荒神山遺跡は、現湖岸から4kmの距離がある。遺跡の北側に隣接するのが大熊城址の尾根である。縄文中期の土器片を利用した土器片錘が多量に出土した。石錘は見られなかった。このことから漁労場は、遠く離れた湖畔になく、遺跡の下の新川から宮川にかけて流れる小田井沢川・武井田川などの河川で行われ、産卵期の5月から6月にかけて遡上するフナ・ナマズ・アカウオ・ハヤ・カワマス・ウグイを漁獲していたようだ。
諏訪湖に流入する横河川の上流では、岡谷市今井上ノ原にある上向(うえむかい)遺跡、同市長地中村の梨久保遺跡など、魚網錘は礫石錘のみの遺跡が多くなる。ここまで遡上するのは、産卵期のヤマメ・ハヤ・アカウオ・アカヅなどであろう。大量に漁獲できるのは、産卵期だけで、その季節に獲れるだけ捕獲して燻製保存をしたものと考えられる。絶え間なく海流してくる海魚と違い、こうした一網打尽の漁労は、やがては資源の枯渇を招いた。
大安寺遺跡(だいあんじ)は、通称西山地区といわれる諏訪湖盆地区の南西部、湖南の北真志野地区(きたまじの)にある。先の荒神山遺跡の北側を流れる砥沢川の対岸にあり、約600m、諏訪湖に近付く。北方に諏訪湖を眺める扇状地上にあり、諏訪湖や諏訪湖に流入する河川の水産資源を利用するのに絶好の場所であった。大正13(1924)年、鳥居龍蔵が記した『諏訪史』第一卷にも取り上げられているほど、古くから石器や土器が散布する遺跡として注目されていた。鳥居は、諏訪地方の考古学研究者とも様々な関わりがあり、その履歴によれば、徳島市東船場に生まれ小学校を中退し、正規の学生ではなかったが東京帝国大学理科大学人類学教室の坪井正五郎博士に師事し人類学その他を学び、後に同大学助教授になっている。国学院大学、上智大学の教授、中国の燕京大学(えんきょう)客座教授も歴任した。鳥居は大正時代における日本考古学の指導者であり、人類学研究の先覚者として大きな業績を残している。
大安寺遺跡はその後、平成年間に至るまで10回は超えるとおもわれる発掘調査が重ねられ、戸沢充則・藤森栄一などによる研究発表に繋がっている。結果的に、縄文時代の遺構としては、縄文中期(約5,000年前~4,000年前)の住居址が8軒、後期(約4,000年前~3,000年前)の敷石住居址を含む8軒の他、数基の埋甕炉(うめかめろ)や墓とみられる小竪穴など、中期から後期の遺存物が特に多かった。縄文後期の無文の「粗製土器」、晩期前半の佐野式土器の破片や石剣も出土した。
昭和62(1987)年の第6次調査は、住宅建設に先立つためで、縄文中期・後期の住居址が4軒発掘された。4号と7号住居址から漁網用の石製の錘がまとなって出土した。特に縄文後期前半の7号住居址からは、4.8cm~7.2cm位の細長い粘板岩製石錘が20点ほど発見された。それは擦切り石錘と呼ばれ、薄板状に割れ易い粘板岩などの原石を板状に剥離させ、片刃の切截具(せっせつぐ)で両面から擦って、溝が深くなったら折り割った。仕上げは砥石で磨き形を整えた。両端には糸がけするための溝を刻んだ。大安寺遺跡や穴場遺跡などでは、擦切り痕が残る仕掛中の石錘や切截具・砥石などの製作用石器も出土している。その擦切り石錘が数点以上同じ場所からまとまって発見される事が多く、また形状や重量が揃っている事から漁網錘と推測されている。
擦切り石錘は、諏訪湖周辺を中心に天竜川上流まで分布し、この地方特有の遺物である。漁場の特性に即した漁具や仕掛けが工夫されていたであろう。縄文早期から太平洋沿岸部の貝塚から、漁獲用の刺突具、骨角製のモリ・ヤスとか骨角製釣針が出土している。また漁網錘や釣針用錘と推測される石錘と土錘も発見されている。ただ遺物として残るのは、通常、無機質材や骨角製の漁労用具が殆どである。諏訪湖水系に面する遺跡では、石錘と土錘が主であり、牙製・骨角製の漁具は、曽根遺跡の「モリ」だけしか確認されていない。
土錘には、土器片を正方形や長方形に擦切り、2端、あるいは4端に切り込みを付ける土器片錘と、手づくねで長方形に成形した成形土錘がある。土器片錘は、諏訪湖岸と湖に流入する河川の下流域に分布する。下流域であれば、流れも弱まり河床も砂泥質であるため土器片でも持ち堪えられたためとみられる。土器片錘は、諏訪地方では約5,000年前頃の縄文前期後半以降から登場する。縄文中期の梨久保式土器使いの土器片錘から増えていき、中期全期間を通して出土している。諏訪湖周辺の遺跡で、集中的に土器片錘が出土するのが、下諏訪町の高木殿村遺跡とそれに隣接する稲荷平遺跡、岡谷市では小尾口の海戸遺跡と湊の舟霊社遺跡(ふなだましゃ;小田井遺跡)、諏訪市では有賀の十二ノ后遺跡と現諏訪湖から約4km離れた大熊の荒神山遺跡である。荒神山遺跡から縄文中期の土器片錘が多量に出土するが、石錘は発掘されなかった。荒神山遺跡から諏訪湖に向かって福松砥沢遺跡(ふくまつとざわ)、真志野では大安寺遺跡・御屋敷遺跡・本城遺跡、有賀では十二ノ后遺跡が並ぶ。それらの遺跡の眼下には、当時、諏訪湖が現在の中筋一帯に広がっていた。中筋一帯に面した湖岸の集落では、岸辺に漁網を仕掛けたと思われる。これら遺跡群から見て、中世まで諏訪湖の対岸にあった片羽町B遺跡(かたはちょう)で出土した土器片錘が、厚手で形が大きい事から、網目が広い漁網を使い、コイや大きな川マスを獲っていたようだ。
縄文後期初頭の約4,000年前から、粘板岩製の擦切り石錘が、土器片錘に取って代わる。細やかな装飾と成形を重視する厚手の精製土器から、実用重視の粗製土器が主流となり、しかも次の時代の弥生土器のはしりのように薄手化し脆くなり、錘として役立った無くなったためである。諏訪湖に流入する河川の上流部では、その河床にある礫石を使い、漁網錘の主流は礫石錘となる。岡谷市横河川の上流の上向遺跡・上ノ原遺跡・梨久保遺跡などや、茅野市域の遺跡では礫石錘のみがみつかる。これら河川上流域に遡上する魚は、産卵期のアカウオ・ヤマメ・ハヤ・アカヅなどであった。
諏訪市の穴場遺跡は、諏訪盆地の北方、霧ケ峰高原の西縁部の八字山から現在の蓼ノ海あたりを源流とする角間川の下流域左岸に積層された扇状地・双葉ヶ丘にあった。標高840m前後に広がる緩斜面上にあって、西側が角間川で、東側には車山から連なる急峻な山地が遮り、諏訪湖までは当時では1kmもなかったであろう。過去10数回に亘る発掘調査が重ねられたが、縄文時代の住居址・石器・土器類と集落の中心部に遺存する数十基の墓穴とみられる小竪穴などが発掘された。特に縄文中期から後期の遺構と遺物が多い。平成4年の12次調査は、アパート建設に先立ち南側の双葉高校寄りで行われた。縄文後期の遺構が主で、霧ヶ峰南麓末端にあたる福沢山を産地とする鉄平石を使用する敷石住居址4軒と祭祀的性格が強い集積遺構などが発見された。縄文中期中葉以降、営なまれ続けられ、その周辺には中期中頃から後期前半の住居址があり、穴場遺跡は、それらの拠点的集落とみられている。
穴場遺跡では、中期後半以降、双葉ヶ丘全体に展開していた集落が、後期には墓域とみられる小竪穴群の、縁辺部に小じんまりと数軒分が遺存するだけとなっていた。昭和57(1982)年、遺跡の東側で県道が拡張されるため発掘調査となった。このようにして、諏訪地方は、昭和の戦後以降の高度成長期、殆どの遺跡が破壊され尽くされていった。
しかし、この発掘調査により、縄文中期の住居址8軒と、その内の18号住居址では、石棒・石皿・石碗・凹石(くぼみいし)・釣手土器などがセットで共伴した。その住居址は特異で、石皿が床面に垂直に立てられ固定され、その東北側にある石棒が石皿方向に横たわっていた。しかも釣手土器がそれに重なるように出土していた。石皿は石棒とセットでドングリなどの製粉具として用いられていた。また石棒は男性のシンボルで、集落内の子孫増加の祈祷具となり、それが生業の糧となる自然資源の生産力増大を直接的に祈願する象徴となった。石皿にしても製粉加工具として欠かせないにしても、各地の民俗例として女性の性器に仮託されている。
穴場遺跡出土の釣手土器にしても、人面・動物など象った祭祀的性格が強いものとなる。
縄文中期に隆盛を極めた諏訪地方一帯では、その当時の遺跡が重畳的に、濃密に発掘されているが、縄文後・晩期になると、遺跡数が著しく減少する。中部地方を中心とした山間部で飢餓の時代を迎え、後期には遺跡が激減し、八ヶ岳西麓とは異なり、諏訪湖盆地区では、中期を継続するような土地と、より標高が低位の場所や諏訪市内の湿地に近い場所に集落の痕跡を留める。縄文後期、かつて隆盛を極めた中期の集落地を継続させ、その文化を受け継ごうとする。しかし縄文中期に完成した生業体系の維持が困難となり、人口もそれに伴い激減し、穴場遺跡や大安寺遺跡では、漁労資源に依存しようと懸命に努力するが、代替できる生業となりえず、諏訪地方の集落は、縄文後期中頃に殆どが廃村となった。諏訪地方で縄文後期後葉以降まで継続できた集落は、諏訪市では大安寺遺跡・十二ノ后遺跡、茅野市では上ノ段遺跡・御社宮司遺跡、富士見町では大花遺跡など極めて少ない。
縄文晩期、諏訪地方に纏まった遺跡は存在しない。ただ縄文時代を通して、おおむね早期から後期まで遺跡の標高が低くなっている。縄文晩期となれば諏訪湖盆の中筋に住居を構え生業に勤しむと思えるが、その地域の地盤沈下が顕著であれば、そこに沈み続ける未発見の遺跡が多く、未だ諏訪地域の全容が把握できていない。
晩期となれば、諏訪市内はもとより八ヶ岳西南麓から富士川流域、及び駿河湾に至る広域と現代の北関東地域全体が、寒冷化と自然資源の乱開発後に襲われる飢餓の時代を迎えた。
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