諏訪地方縄文時代後期
縄文文化の転機

(約4,000~3,000年前)
 星ケ台と星ケ塔
 鷲ケ峰より撮影
 八島湿原遺跡から一番近い
 黒曜石採取場所

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縄文時代の晩鐘 
 縄文時代は、1万年以上も続き、最終氷期末期の晩氷期から後氷期にかけての時代であった。植生や動物相も地域や時代により大きく変化した。縄文草創期には、現在、関東地方以西に繁茂している照葉樹林は南西諸島に限られ、関東地方の海岸部でかろうじて落葉広葉樹林帯がみられる程度であった。関東地方以北や内陸部では亜寒帯針葉樹林に殆どが覆われていた。その後の温暖化により、縄文前期の6,300年前から5,000年前をピークにし、現在よりはるかに暖かかった。しかし植生は、気候の変化に即応できず、縄文後期初頭の4,000年前に、現在とほぼ同じ植生になったとみられている。気候の温暖化と落葉広葉樹の恵みに支えられ、縄文中期に縄文時代は最盛期を迎えたが、縄文後期になると、一大転機が訪れる。その背景に、様々な環境変化があった。6,300年前の最温暖期を境に寒冷期へと向かうが、急速に寒冷化したわけではない。それで人口が直ちに減少することなく、むしろ縄文中期には著しく増加していた。しかし、後期(4,000-3,000年前)に入り、それも3,000年前頃の最寒冷期となると、人口が極端に減少し、特に中部地方で顕著となる。ただその気温は昭和時代全期と比較すれば、むしろ高めであった。 
 この時期、気候の再度の寒冷化により、前期の“縄文海進”で数m高くなった海水面が次第に低下した。前期には海進により海底となり、侵食が拡大もしたが、温暖化に伴う埋積作用により谷が埋まり、沖積地や沖積扇状地を拡大させた。中期以降再び陸地なったのが、埼玉県大宮市寿能町の寿能泥炭層遺跡(じゅのうでいたんそう)や愛知県南知多町の先刈遺跡(まずかり)などである。東日本の海山の豊かな生産力も、人口の増加に伴な乱獲と無秩序な自然資源の乱用により、再生産の限界を超えた。その結果、中部地方の縄文社会は、停滞期に入るというよりも、崩壊期に至る。  
 他方東北地方では、縄文前期、土器でいえば、綱取式(つなとりしき)、新地式(しんちしき)、十腰内式(とこしないしき)土器様式が盛んに作られている。それでも、前代までの活力は見られない。この時期以降、呪術的な土偶や鐸形土製品(さなぎがた)など、直接の生活用具ではない、所謂“第2の道具”が増えてくる。”祈り”という行為が、日常生活に不可欠となる、当時の不安定な社会生活の有様を反映するものとして興味深い。

 縄文時代では、40歳を過ぎれば老人とみられただろう。縄文時代と年代が重なるアメリカのノウル遺跡のインディアンの死亡数割合と比較すると、40歳以上の男女共、縄文人の方が2倍近く生存を維持している。縄文集落には年長者が相当数いたようだ。第一線を退いても、集落内で生活を共にし、子供たちに、それまでの多くの経験で蓄積してきた技術・知識・知恵を伝承し、長年月、集落内に豊かに育まれて来た文化の蓄積を継承するという大きな役割を果たしていた。
 東京都老人総合研究所の鈴木隆雄氏は、縄文人の骨折は3~7%と決して少なくはないが、その治癒例は多いという。縄文後期の北海道虻田郡洞爺湖町の入江貝塚から出土した、「入江9号」と名付けられた約4,000年前の人骨は、指や足の骨は、分解し消えていたが、頭部は普通の大きさでありながら、両腕と両脚が極端に細かった。何らかの理由で四肢が麻痺して寝たきりとなり、筋肉が衰えて骨が発達しなかったとみられる。鑑定した鈴木隆雄氏は「おそらく、ポリオ(小児麻痺)の患者だろう」とみている。ケルンのように石が積まれた墓に埋葬されていた。幼児期に小児麻痺にかかり寝たきりであったが、成人に達し死ぬまで介護されながら生活をおくっていた。定住生活により、集落内に、骨折・寝たきりの障害者・老人などが共に生活できる相互扶助の環境が育っていた。
 茨城県霞ヶ浦沿岸では、縄文後期末から晩期初頭、全国にさきがけて製塩土器による塩づくりの技術が発達する。無文薄手の製塩土器が大量に出土する。茨城県法堂遺跡では9,000点に達する製塩土器片が出土し、塩の生産が集中的に行われていた事が知られた。多量の製塩土器が出土した「特殊遺構」には厚い灰の堆積があり、製塩炉跡と見られている。その後の調査で、製塩遺跡は関東地方で100ヵ所を超え、太平洋沿岸から奥東京湾岸まで広く分布している事が分った。この時代、関東一円では製塩土器を多量に出土する製塩遺跡と、少しだけ出土する集落遺跡や内陸部でも多くはないが出土している集落が分布している。塩の生産地と消費地をめぐる交易が想定される。しかも、これら製塩遺跡の貝塚から出土する石器材に、太平洋神津島産の黒曜石が多く含まれている。単純な物々交換という図式では描ききれない交易内容があった。仙台湾周辺でも縄文晩期に製塩が行われている。
 それ以外に集落内では、到底消費しきれない大量の貝殻が投棄されている貝塚も発掘されている。それは、貝類が物々交換ルートの重要な商品であったからである。ただし、貝類の持つカロリーは意外に低く、堅果類のそれに比べると、同じだけの労働力をかけても摂取できるカロリーはその1割程度にしかならないという。
 愛知県豊橋市牟呂大西町の大西貝塚は、晩期になると貝の約90%がハマグリとなり、その剥き身を海水で煮、その後、天日干しをするという東海地方最大の干し貝加工所と見られている。発掘調査で、地床炉109ヵ所、敷石炉5ヵ所のほか、土器・石器・骨角器・貝輪などが若干出土するだけで、日常品も少ない点から集落から離れた加工所と推測された。
 「製塩文化」「貝塚文化」「鮭・鱒文化」のように豊かな自然の恵みを受けて、東北地方の縄文文化は、その晩期に豊かに輝き、そして複雑な内容を持ちながら、「亀ケ岡文化」に代表されるように、河川に遡上する鮭・鱒に支えられ文化的な高揚期を迎える。いつの時代でも人口密度の多寡は、自ら文化要素の伝承力に粗密の差としてあらわれてくる。
 一方、関東平野の沿岸部では、遠浅の海岸に多産する豊富な貝と、海流する魚類により食料依存が保障され「貝塚文化」を維持した。
 新石器時代を特徴づける農耕や牧畜ではなく、多種・多様な資源を開発し生活の安定を図り、石・大木・土を運んで巨大な建造物や構築物を造る大土木行事を実施し、様々な祭祀具や装身具を駆使した祭りや儀式、それら共同作業や共同祭祀により集団の原理を育て上げ、その過程で蓄積された高い技術文化が形成された。また交易を通じて他地域の多種多様な文化を導入し、縄文時代の制約された自然経済の中で、高度な文化を発展させる原動力とした。
中ツ原遺跡
 
 諏訪郡富士見町  井戸尻遺跡
 八ヶ岳西麓は、北八ヶ岳の火山活動により形成された広大な裾野高原となっている。横岳・阿弥陀岳・赤岳などが起点となり、大小の沢の流水が集まり深い柳川の渓谷となり、その柳川は裾野を南北に分断するように、泉野から大泉山と小泉山の間を穿ち、城山の御座石神社あたりで上川と合流する。この高原台地には、古くから北山浦と呼ばれ、かつて北山・湖東・豊平の各村があった。ここに平安朝廷の御料馬を飼育する「御牧」が拓かれていた。『延喜式』による信濃16牧の1つ、大塩牧(山鹿牧)があった。
 この広大にして高燥な山麓の中央部付近には、かつては「広見原(ひろみはら)」と呼ばれるほど、広やかで美しい高原風景があった。現在の豊平の広見地区と重なると思われる。その一方では、北八ヶ岳の谷川を源流とする、東西に数条に流れる大小の河川の浸食作用により、深い谷筋が刻まれ、その狭間に長く平らな台地が西方向に緩やかに下り、その先端部は上川沖積地にまで達している。
 縄文時代の茅野市東嶽(ひがしだけ)にある尖石遺跡や中ツ原遺跡など、大小の集落遺跡が濃密に群集しているのも、この台地上であった。
 中ツ原遺跡は茅野市湖東山口の北側台地上にあり、その標高は950mである。台地の南北両側は浅い谷の水田で、幅は約120m、長さ250mあり、近くには松原・山口・新井下・花蒔などの各遺跡が、隣接する台地に分布し、さながら縄文集落群の観がある。東嶽(ひがしだけ)にある中ツ原遺跡との関係を共有しながら、中ツ原集落を中心として拡散展開していたとみられる。中ツ原遺跡が立地する台地がそれほど広くないため、規模としては大きくない。縄文前期初頭からの生活痕があり、前期前葉の木島式土器も出土している。その土器は静岡県庵原郡富士川町にある木島遺跡を標式遺跡としている。
 昭和48年、山口区が農道を開設するため、記録保存を目的として茅野市教育委員会が発掘調査をした。既に縄文時代の遺跡の存在は知られていて、昭和4(1929)年には伏見宮博英が尖石遺跡と共に発掘調査をしていた。その時は何も出土しなかった。今回は山口区民全戸の出払作業で行われた。縄文中期中葉から後半にかけての竪穴住居祉10、小竪穴4、土器多数が出土した。後期初頭まで集落が営まれていた。ただ住居址は完掘にまでいたらなかった。3号小竪穴に縄文後期の無文土器が押しつぶされてあった。縄文後期中葉に関東地方を中心に、中部、東北南部、東海、近畿地方まで広く分布する堀之内式土器も出土した。
 中ツ原遺跡は、昭和初期から現在まで発掘調査の結果、中央の土坑群約3,400ヵ所と、それを囲む竪穴住居址約200軒からなる環状集落があり、拠点的ムラであったようだ。縄文後期前半に柱が建てられた痕跡のある8ヵ所の大型の土坑群は、長方形に並ぶことから、集会場址か高床住居址と考えられている。土偶やヒスイ飾り玉を副葬する墓も発掘された。
 遺物は磨製石斧と打製石斧が目立つ。土器は中期中葉の藤内式、曽利Ⅱ式、勝坂Ⅰ式に属するものが出土している。 ここでの埋甕は底部を欠き、正位に埋められていた。
 中ツ原遺跡のように洪積台地に立地して、その丘陵地帯の豊富な植物性食糧に依存する縄文文化も、中期末から後期にかけて、急速に衰退し転落する。人口増に伴う動植物資源の乱獲と、焼き畑原始農業による森林資源の破壊は、その再生能力を遥かに超えるものとなっていた。
 縄文晩期(3,000~2,300年前)の2,500年前から現代の温度位に移行する。この寒冷化に向かう過程で、前述の天然資源の極端な減少が促進され、遂には従来の採集生活すら維持できなくなり、居住地環境は悪化し、彷徨うように集落が大きく分散して小集落化とその移動が繰り返えされた。やがて、長期間の定住化が不可能となり、流離う民人となる。ムラをとりまく環境の劣悪化は、出産率の低下と乳幼児死亡率の増加を招き、その人口の減少は、諏訪地方の大半の集落を後期中頃までに廃絶させてしまった。飢餓の時代の到来であった。
 昭和23年、藤森栄一は「八ヶ岳西南麓に尖石遺跡を代表とするような大集落遺跡が、ところせましと分布している状態に注目し、この地域には狩りとか植物採集などといった、自然物の獲得だけで生活を支えるような生業、すなわち、食糧採集経済では養いきれないほどの人口があったと推定し、八ヶ岳の火山灰台地という広大な高原を舞台として、原始的な焼畑陸耕が行われていたという意見を発表したのである。」(茅野市史上卷)
 それより以前に、昭和2(1927)年、「大山史前学研究所」創設者の大山柏(おおやま かしわ)が『神奈川県下新磯村字勝坂遺物包含地調査報告』で、原始的な農耕の存在を推測した。大正15(1926)年、自らが発掘調査した相模原市南区磯部の勝坂遺跡(かっさか)では、立体的な装飾の文様や顔面把手などによって注目をよび、後に「勝坂式土器」として縄文時代中期の標式土器とされた。同時に共伴した多くの打製石斧が、物を切り割るなどの機能を欠いていたため、土掘り具・石鍬と考え原始農耕論を唱えた。我が国の考古学史上、極めて重要な研究であった。大山柏は公爵で明治の元老・陸軍大将大山巌の次男であるが、長男高(たかし)が海軍少尉候補生として遠洋航海中の台湾で、乗艦中の巡洋艦松島の爆発事故の巻き添えとなり死亡し、ために大山家を継いでいる。
 こうした背景がありながらも、藤森栄一の「縄文農耕論」は、未だに学界からの厳しい反論と批判が絶えない。その後の縄文遺跡の膨大な発掘結果から、「縄文農耕論」を意識せざるを得なくり、現代では益々、縄文時代を語る際には、ほぼ引用される学説となっている。
 その後も藤森栄一がたずさわった、諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡群の研究が着実に実を結び、縄文時代の農耕具の研究が、その学説に実証的な裏付けとなりつつある。諏訪地方でも複数の遺跡からエゴマとおもわれる栽培食物を検出するのに成功している。諏訪市湖南大熊の荒神山遺跡では、縄文中期の火災住居址から種子状炭化物が発見された。現在栽培されている粟とよく似ていたが粒は大きかった。種子状炭化物の粒子は極めて小さいため、植物の表面細胞に珪酸が多く含まれ、しかも熱に強い珪酸の特質を利用して、その炭化物をさらに炭化させ、光学顕微鏡でその表面細胞の珪酸形骸を観察し、植物の分類分析をする。これが灰像法で、荒神山遺跡の種子状炭化物は「シソよりエゴマの方が高い可能性が認められる」と鑑定された。その後原村の大石遺跡、同前尾根遺跡でも炭化種子が発見された。大石遺跡の方も同時に同様な報告結果が出た。
 エゴマの原産地は日本でなく中国雲南省の高地と推定され、しかも野生ではできないというから、日本で栽培された可能性が高い。エゴマは日本最古の油脂植物で、1万年~5,500年前の縄文時代から作られ食べられてきたようだ。エゴマが油として使われるようになったのは平安時代初期で、山城国の大山崎神宮宮司がエゴマから油を搾ったことに始まると言う。諏訪地方ではエゴマを磨り潰し砂糖を加え、餅に付けて食べる。
 全国各地からも、福井県三方郡三方町鳥浜の鳥浜遺跡のヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウなどの野菜類、滋賀県の粟津湖底遺跡では、ようやく栽培種として確実視されたヒョウタン、山内丸山遺跡ではクリ林の育成などで、有用な作物を管理栽培していたことが明らかになっった。その反論として「農耕」と断じるには、専業若しくは主様な生業でなければならないという。そうだとすれば、日本では「農民」が殆どいなくなる。農家の優遇税制までも見直されなくてはならない。なぜ考古学者は「縄文農耕論」に及び腰になるのであろうか。三内丸山遺跡のように、集落周辺に二次林として栗林に変える事が、長野県で営まれるリンゴ農家と内容的に違いがあるのだろうか。一方、縄文時代の管理栽培は、本格的な農業に発展しないまま、弥生時代の水稲栽培を迎えた。
 八ヶ岳山麓を絶好の生業の地として、堅果類を主体とした植物性食料の採集経済を安定化させ、縄文前期以降急激に伸張し、中期には、管理栽培などの工夫を加え生産性を高め、縄文中期に最盛期を迎えた。それが自然に依存する生業体系でありながら、自然界の復原能力までも奪う費消状態になると、全体を統治する組織がないため、飢餓の呈となり、自然界の食料源を我先に食べ尽くし壊滅した。後期後葉以降まで継続する集落は、茅野市上ノ段遺跡・御社宮司遺跡、富士見町大花遺跡、諏訪市大安寺(だいあんじ)遺跡・十二ノ后(じゅうにのき)遺跡などごく僅かになった。それ以後、晩期にかけて住居址を伴う遺跡はほとんどなく、土器片・石器だけをとどめる生活痕的なものになる。諏訪地方の縄文人は、当時の環境を破壊するばかりで、変化に適宜適応できないまま、以後、諏訪に土着した人々により縄文集落が再建される事はなかった。
 縄文後期以降、御社宮司遺跡の出土例のように、食物の煮炊に使われる土器が徐々に粗製土器となり、装飾も少なく薄汚れた感じになっていく。それは間もなく登場する弥生土器と共通する傾向でもあった。御社宮司遺跡は茅野市の南寄り、宮川と上川に挟まれた宮川の御社宮司神社(みしゃぐちじんじゃ)が鎮座する地点を中心に、東西320m、南北130mに展開していたと推定されている。標高は780m~783mで、上川が南流して宮川との距離が1kmほど近付くになる辺りに、両河川による氾濫地域で、それにより形成された沖積層上に遺存していた。
 御社宮司遺跡は、八ヶ岳山麓の台地上に、殆ど人影が消えた縄文後期後半から晩期にわたる、縄文時代最後の集落遺跡である。土器も土着の型式のものではなく、関東や北陸、なによりも多いのが東海地方から天竜川を遡って来た、持ち込まれた土器群であった。しかも縄文中期、茅野市域では非常に数が少なくなった石鏃が422点も出土した。しかも黒曜石の原石・石核・剥片などが、自然の窪地にまとめて貯蔵された場所が11ヵ所も確認された。植物性食料に依存する生業がままならなくなり、狩猟や漁労を生業にする僅かな人々が、漸くたどり着いた沖積低地であったようだ。彼らは、霧ヶ峰や蓼科山麓で狩をしながら、キャンプサイト的に栃窪岩陰や池の平の御座岩岩陰を利用していた。これらの遺跡からは、縄文後期と晩期の土器が、かなり多量に発見されている。
 

仮面土偶
 大正11(1922)年、地元の南大塩の研究者宮坂春三は、自分が管理していた尖石の原野を発掘し、ほぼ完形に近い土偶を発見した。土偶は、小石で径約50㎝の円形に囲んだ中に遺存していた。当時、東京帝国大学人類学教室の助手であった長野県岡谷市平野出身の八幡一郎は、『諏訪史(第1巻)』に「とくに頭髪をあらわした部分、眉と鼻との状態などの表現はすばらしい。さらに頭部背面の複雑な立体的文様は、結髪を示すものであり、顔面には下瞼から外側に向かって二条の並列刻線が頬の上にほどこされていることは黥(いれずみ)をあらわしたものであろう。手は短く写実を離れたもので、刻線三条により指をあらわし、乳房は比較的小さく、足はなく、張った腰の部分が台の役目となっている。背丈は15㎝、底部は楕円形を呈している。背面には頸部から朝顔の葉のような浮き出し模様を附している。体の両側には右巻の渦巻きを起点とする沈紋が均等に附され、その一端はおのおの背面の下底に近いところで半円を描き、互いに連続している。上半身はきわめて扁平なつくりであるが、下底の腰部に近付くにしたがって、いちじるしく殿部を張らせた傾向がある。土偶の裏面頸部に孔がつらぬかれ、紐を通して上方につるせば平均のとれた状態に静止するようにできている」と記した。
 この土偶により、縄文女性は平安貴族の女性のように垂髪ではなかった事が知られる。第一線で生業に勤しむには、豊かな髪をたくし上げなければ動きがとれない。結髪の習慣が推測される。長崎県佐世保市福井洞窟で出土した、1万2千年前の日本最古級に近い隆線文土器片を利用した有孔土製円板が、ロシアのレンコフカ遺跡1号墓の埋葬例のように、額に嵌めるヘッドバンドの部品と推定されている。三重県多気郡大台町の出張遺跡には、より薄手の厚さ4mmほどで千枚岩という石材が利用されている板製品である。石製の類品は旧石器時代にもあったから、縄文草創期の遺跡で散見される有孔石製品も頭飾りとみられる。同時代、沿海州のオシポカフ文化にも類例がある。やがて縄文時代に素材が粘土に変わると石製は消滅した。縄文時代の髪飾りの主体は、櫛(くし)・簪(かんざし)・笄(こうがい)である。櫛では、福井県三方町の鳥浜貝塚から出土した縄文前期の木製赤漆塗りの櫛が最古例である。9本歯の短い挽歯式(ひきば)の飾り櫛で、堅いヤブツバキの1枚板に溝を刻んで歯を削り出している。角や骨製が主で、北日本の前期から晩期のものまである。
 また女性にまで黥の風習が及んでいた。尖石のように中部高地の縄文中期の土偶の両頬に「ダブル・ハの字文様」が刻まれるものが多い。後期や晩期のものにも散見される。宮坂春三が発掘した土偶は、明らかに女性像であるため髭とは考えられない。またこの土偶の容子から、同時代の身近な女性を捨象したものとみられる。晩期末の中部から関東地方の土偶には、頬を中心に多数の沈線を施しているのが特徴で、今までは有髯土偶とされていたが、黥面土偶が正しいようだ。

 それ以前にも、村民が耕作中に偶然、畑から表面採取していた。「妊婦を象った座像で、首と左脚は欠けている。右脚は屈曲し、豊満な腹を張り出した臀は妊婦を表現したものである。左腕で壺を抱え、右腕は折り曲げてかるく腹をおさえている。腹部の中央に正中線を描き、先端を渦巻文としているが臍を表現したものであろう。脚の外側には中央の渦巻を中心に上下に三条の刻線がある。高さは9㎝、座幅は7㎝である。『諏訪史(第1巻)』」
 諏訪史(第1巻)が発行されると、尖石遺跡は俄然注目され、地元の研究者や好事家による表面採集や試掘が繰り返された。
 茅野市豊平上湯沢の新水掛遺跡(しんみずかけ)は、尖石遺跡の台地から、幅約100mの大きい谷を隔てて隣接する台地に遺存していた。台地の最頂部周辺は、約250m~300mの広い幅がり、その北側は極めて急崖で、その比高は最大で14mもある。標高は1,030m~1,050mで尖石よりやや低い。新水掛の台地からは、中央部あたりで土器がよく採取されていた。かつて、ここは死馬を葬った場所でもあった。上湯沢の「新水掛」の由来は、古来、農耕馬や販売目的の当歳馬生産の飼料として、さらに田畑の刈敷用として重要な緑肥の生育を促進するため、冬期、流域の谷川から清水を引いてかけ流した一帯であったため名付けられたという。北山浦から車山・霧ヶ峰・八島ヶ原高原にかけては、古来から山焼きを行い採草地として維持していた。
 昭和12(1937)年6月、宮坂英弌はかつて泉野小学校に勤務する近道として尖石と新水掛を通いながら、土器片などを表面採集していた。学校の田植え休みを利用して新水掛の林道で初めて試掘してみた。その林道の路面に土器片が露出していた場所をジョレンで掻くと、僅か10㎝の深さから、土偶の頭部と縄文中期の土器が出土した。その土偶について同年『中部考古学会彙報(いほう)』で「土偶は地下10㎝の黒土層中より得た。それは斜めに切断された円柱の頸部と盤状の頭部とよりなり、顔面は下底平に、上部半円形をなす。眉端は長く垂れて下底に達す。柔和なる眼、微笑せるかの如き半開の口が素朴に写実的に表現されている。(後略)」と報告している。
 翌昭和13年6月、再び表面採集を試みた。前回に土偶を発掘した場所から20m西の畦畔(けいはん)の草地が試掘対象となった。僅かな土器片や打製石斧と共伴したのが、2番目の土偶で胴部が高さ7㎝、幅5.5㎝あった。その上半身は単純で、乳房は簡単に円形に描き、下部は豊な妊婦の腹部を表し、へそは渦文で済ましている。脇腹には三角形の文様が、はっきりと3段階で重なり描かれている。その表現の意図が分らない。出土場所は約5mに亘る木炭粒が混入する黒土層であった。なんらかの住居祉であったようだ。
 8月にも近接する路面下から第3の土偶の頭部が発見された。前回出土した同じ住居址であった。頸部で破断され、残部の高さ3㎝、幅4.5cmの楕円形で中央にボタン状の団子鼻を付けている。その下に溝を刻み開いた口とする、極めて素朴である。特異なのが、やや吊り上がる細い眼の上に弧を描く凸状の眉で、そのまま左右の渦文で表現する耳にまで達している。この土偶の両頬にも黥とおもわれる「ダブル・ハの字文様」が刻まれていた。
 新水掛遺跡の土偶はすべて故意に破壊されていた。現代でも素焼きや日干しの土器による「かわらけ投げ」で厄除け・願掛けを演じている。宴席終了後に、使用した酒杯や皿を敲きつけ破壊し、行事を完結する際の景気付けにもしている。上記胴部の土偶と共伴したのが、打製石斧の完品3点、その破片8個であった。打製石斧の殆どは、農耕に不可欠な土掘り具であろう。

 土偶の存在は、世界史的レベルで検証されるべきである。土器が作り始められた始原に迫るとおもえる。チェコスロバキアのドルニ・ヴェストニッツェでは、土器が登場する遥か前、2万7千年前頃の旧石器時代に粘土で作られた人面・妊婦・ゾウなどの動物類が焼成されていた。

 長野県茅野市教育委員会は平成14(2000)年8月28日、同市湖東(こひがし)山口の尾根状台地にある縄文時代の「中ツ原遺跡(なかつぱら)」で、顔に逆三角形の仮面をかぶった「仮面土偶」をほぼ完形で発掘したと発表した。
 この土偶は、約4,000年前の縄文後期のものとみられ、全長34㎝の比較的大型な土偶で、細部にわたって縄文時代の見事な造型技術が見られ、現代でも立派に通用する斬新なデザインである。芸術的であるが、簡潔の美があり、国宝級の発見と評価された。 この発見より14年前、ここから数㎞離れた茅野市米沢の埴原田の工業団地の造成に伴い、昭和61年に発掘された棚畑遺跡(たなばたけいせき)で、縄文中期の妊娠した女性をかたどった妊婦土偶が発掘されている。全長27cmあり国宝に指定され、現在、茅野市尖石縄文考古館に、『縄文のビーナス』と名付けられ展示されている。
 「仮面土偶」の発掘場所は、八ヶ岳の南西の麓 、標高約950mの台地で、高台の八ケ岳を一望出来る花蒔公園近くの畑の中にあり、6,000年前の縄文前期から4,000年前の同後期の集落跡であった。ここでは、過去に県内最大級の翡翠の飾り玉が出土した。中ツ原遺跡では、昭和初期から数次にわたって発掘調査が行われて、今回の調査は前年度から約1,3000㎡を対象に実施していた最中であった。
 仮面土偶は8月23日、遺跡の中央付近にある墓域と推定される土坑が密集する場所で、長さ約1.3m、幅約1m、深さ約45cmの土坑の中に横向きの状態で出土していた。約4,000年前の縄文後期前半の作で、土偶は体全体がボリュームのあるどっしりとした立像で、肩から大きく左右に張り出す両腕、極端に太い台のような脚、やや膨らみのある腹部、女性器も露出させ鮮明に表現する。胴部と腕には、縄文時代後期に特有な細かな渦巻きや同心円とたすき状の模様が施されていて、特徴は顔に付けた逆三角形の仮面で、二つの点を結ぶつり上がった目、小さく尖った鼻、小さな穴で表現される口などが特徴である。右足が壊れて胴体から 外れていたが、研究者の中には、人為的に取り外したものとみる人もいた。
 縄文時代後期、中部では団子鼻付きの土面が出土している。この土偶も仮面をつけた祭祀者の形を象っているのかもしれない。土偶は壊れたものが出土することが多く、祭祀や呪術に使われたとする説が強く、それと関係ある墓域から出土することが多い。墓に一緒に埋葬されたものか、あるいは土偶だけが単独で埋められたかは、現在は不明である。
  既に国宝土偶「縄文のビーナス」を保有し、集積する縄文時代の遺跡の多さやその価値の高さから「縄文王国」を名乗る茅野市での、新たな「縄文の宝」の発見に、土偶は調査の途中であったが、発表は「出土した状態を生のまま見てもらいたい」(矢崎市長)という観点から急遽行われた。それでも、未だ土の中から全身を現していないものの、露出した部分だけでも分かる価値の高さに、現地を訪れた研究者たちの間からは感嘆の声が上がった。
 北方向を向いた体の前面と上を向いた右側面が露出しただけ、それでも黒光りする全身の群を抜く大きさや、頭部や手足に欠損部分はなく、胸や腹部には紋様がくっきりあり、美術的、学術的な価値の高さは容易に推測でき、右足が胴体からとれているが、頭、手足がそろう完形土偶であった。
 桐原健・県考古学会長は、土偶は遺構の中からの出土例が少ない点を指摘しながら、「出土状況がはっきりしている点がすごい。土偶自体も素晴らしいし、すべての面で土偶研究の大きなプラスになる」。樋口昇一・県文化財保護審議委員も「こんないい土偶が完形で出るとは」と驚きの表情であった。一方、発掘調査に携わった人たちの興奮も計り知れない。作業中、最初に見つけた発掘作業員の柳平年子さん(同市上場沢)は「丸みを帯びた黒いものが出てきたのが最初。後で土偶と分かってその夜は眠れなかった」。調査を指揮している同市文化財課の守矢昌文さん(43)は「とにかくえらいものが出たというのが最初の感想」と詰め掛けた関係者の対応に追われていた。その造形の素晴らしさとともに、出土した場所や状況が明らかなで、土偶が見つかった土坑の左右には、死者の埋葬形態の一つである鉢かぶせ葬の浅鉢が残っており、出土場所が墓域であることが知られ研究価値が高まった。
  身を土の中に横たえた状態で一般公開された仮面土偶は、土中から取り上げられ、その年には修復を済ませ、尖石縄文考古館(同市豊平)に展示することになる。矢崎和広市長は「国宝土偶である縄文のビーナスに勝るとも劣らない価値があり、調査後にレプリカを埋め込むなどして出土場所の保存を考えたい。『縄文のビーナス』のような愛称も公募できれば」と話していました。  
 仮面土偶は、縄文後期の特徴的な土偶で、長野、山梨など中部山岳地帯に多く見られる。頭部に付けた仮面が特徴で、辰野町泉水遺跡から出土した土偶(県宝)や、山梨県韮崎市後田遺跡の土偶が有名だが、いずれも高さが20cm程度で、今回見つかった土偶は倍近くの大きさがあった。同種の土偶の中では国内最大級である。尖石縄文考古館名誉館長の戸沢充則・元明治大学学長(岡谷市出身)は「国宝級の素晴らしい出土品」と高く評価していた。


諏訪地方の「貝塚文化」
 
 岡谷市 川岸上3  「鶴峯公園」から撮影
 諏訪地方は氷河期の終わり頃に、現在の地形が成立したといわれている。ただ諏訪湖盆地帯は例外で、当時、中筋一帯の3分の1までは湖ないしは、その沼沢で、西山地区・長地山地・後山地区・釜無山系はもとより、川筋の平地まで鬱蒼と原生林に覆われていた。
 こうした自然景観が、時代ごとの生業活動によって、人文景観に移行していった。その過程で、諏訪湖周辺にも「貝塚文化」が存在していたのでは?実に興味深い。淡水の湖岸の貝塚は、琵琶湖の粟津貝塚などではよく知られている。残念ながら諏訪地方には、原始・古代の豊富な遺跡群から、貝塚といえるものが殆どない。
 諏訪湖にはシジミが好む砂地がなく、タニシが住む泥地も発達しなかったと藤村栄一はいう。それでも、わずかに貝塚の存在が確認されていた。岡谷市の天竜川周辺の川岸地区には、38ケ所の遺跡が存在する。ここはいつの時代でも不変の伊那谷文化とその担い手達の侵入ルートでしあった。その遺跡群の中の川岸三沢熊野神社境内で発掘された熊野神社境内遺跡では、オオタニシの貝殻と鹿の獣骨が出土していた。
 それ以外には下諏訪町高木の殿村遺跡で、縄文時代中期の竪穴住居址の脇に貝塚がみつかっている。大きさは2m×3mで、たった1つのイケシンジュガイの他は、すべてオオタニシであった。
 福井県三方郡三方町鳥浜の鳥浜遺跡は、福井県三方町の三方駅から西方約1km、三方湖に注ぐ、はす川と高瀬川の合流地点に広がる低湿地遺跡である。発掘現場そのものは現在水中に没している。縄文人が湖岸から水中に捨てていた日常生活のゴミの山が、低湿地遺跡の特性から、そのまま破壊・分解されず今日まで遺存した。縄文時代草創期と前期の食材と食物の残渣など多彩な有機質遺物を含み、縄文人のゴミがその生活ぶりを現代に蘇らせる「宝の山」となった。
 海抜0m~-4.0mにある低湿地帯貝塚で、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品、石斧の柄、しゃもじ、スコップ状木製品、編物、縄、木や種子、葉などの有機物遺物やヒョウタン・ウリ・アサ・ゴボウなどの野菜類と堅果類の植物遺体、動物骨、骨角器、丸木舟、糞石など、漁労関係では、スズキ・マダイ・クロダイ・サメ・フグ・イルカ・シャチ・クジラの骨なども、通常は腐食して残りにくい貴重な遺物が、水漬けの状態で良好に保存されていた。何度かの発掘で、約5,500年前の遺物層が約60cmの厚さで発見され、その中には、ドングリ・クルミなど堅果類の種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認された。これらの堆積状況から、秋に採取した森の食べ物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝をとっていたことが分かった。また、土をふるいにかけて魚の小骨まで洗い出した結果、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかり、季節毎の食生活の様相が明らかになった。

 貝類・魚骨・獣骨・植物質残渣などから食材の重量とカロリーを算出し、縄文人の食生活が調査された。見かけ上、残渣の70%を超える貝類には、極めて低カロリーで全体の比率では、25%にも満たなかった。堅果類を主とした植物食が50~60%を占めていた。魚類が10~15%、獣類が5~10%という割合であった。滋賀県の粟津湖底第3貝塚でも、食料のカロリー換算では、堅果類52%、獣類11%、魚類20%、貝類17%となっている。
 人骨にはコラーゲンというタンパク質がある。古代人の骨や軟部組織に含まれるタンパク質を、炭素・窒素同位体比分析すれば、その食生活をある程度類推できる。これによれば、千葉県船橋市古作の古作貝塚人は、主として縄文後期に属するが、堅果類19%、雑穀類3%、陸獣43%、魚類30%、貝類5%であった。長野県安曇野市明科(あかしな)の北村遺跡人は、堅果類74%、雑穀類11%、陸獣7%、魚類2%、貝類6%を食していた。北海道伊達市北黄金町の北黄金貝塚人は、イルカ・アザラシなど海産哺乳動物が30%も占めていた。
 


諏訪地方の漁労
 諏訪地方など内陸部の湖沼・河川の縄文時代の漁労の痕跡の発見は難しい。縄文時代、以外にも、夏は四季のなかでも食料の端境期に当たる。その確保が非常に難しい時季で、諏訪地方でも湖沼や河川で、魚などの内陸漁労を盛んに行っていた。岩手県の内遺跡からは、「エリ」の遺構が発見されている。諏訪地方でも、「ヤナ」「ウケ」などによる定置網漁法が発達していたとみられる。一度、定置漁具を設置すれば女子供でも漁獲は容易である。その主道具が植物用材の「エリ」「ヤナ」「ウケ」などであるから遺存しにくく、明らかな出土例はない。ただ民間で現在行われている方法は、縄文時代1万年の生活の中で涵養された技術が殆どであると思われる。諏訪湖の漁法「ヤブ」は、ソダ・ヨシなどを束ね湖中に沈め、湖漁が棲家(すみか)する頃、引き上げる。「ウケ」はソダ・ヨシなどを筒状に編み、その中に餌を入れて水中に沈め獲らえた。諏訪湖では網目により呼び方を変える「キヨメ網」と「タケタカ網」がある。対象魚の習性に合わせて、網の浮子(あば)と沈子(ちんし)の数により水深を変え網を張る。浮子は木材、沈子は石錘と土製錘があった。土製錘には粘土で成形し焼成したものもあった。
 縄文時代早期から太平洋沿岸の漁労は、貝塚からの出土例で刺突具の骨角製のモリ・ヤス・釣針などで行われていたことが分かる。魚網の石錘・土錘と釣針用の石錘も出土している。土錘には、破損した土器の1部を利用した土器片錘と、手製の長方形の成形土錘がある。成形石錘には、片理に沿ってスレート化し易い粘板岩・泥岩を原材として、砂岩製の刃器でスキー板状に擦り切り加工を行なった精巧なものもあった。石錘・土錘はいずれも両端あるいは4端に糸掛け用の切込みを付けている。
 縄文時代、湖岸にあった諏訪市片羽町B遺跡(かたはちょう)の土器片錘は、縄文中期末のもので、厚手で形も大きく、網目の大きい魚網用で、鯉や大きな川鱒を狙ったとみられている。
 守屋山山麓の湖南大熊にある荒神山遺跡は、現湖岸から4kmの距離がある。遺跡の北側に隣接するのが大熊城址の尾根である。縄文中期の土器片を利用した土器片錘が多量に出土した。石錘は見られなかった。このことから漁労場は、遠く離れた湖畔になく、遺跡の下の新川から宮川にかけて流れる小田井沢川・武井田川などの河川で行われ、産卵期の5月から6月にかけて遡上するフナ・ナマズ・アカウオ・ハヤ・カワマス・ウグイを漁獲していたようだ。
 諏訪湖に流入する横河川の上流では、岡谷市今井上ノ原にある上向(うえむかい)遺跡、同市長地中村の梨久保遺跡など、魚網錘は礫石錘のみの遺跡が多くなる。ここまで遡上するのは、産卵期のヤマメ・ハヤ・アカウオ・アカヅなどであろう。大量に漁獲できるのは、産卵期だけで、その季節に獲れるだけ捕獲して燻製保存をしたものと考えられる。絶え間なく海流してくる海魚と違い、こうした一網打尽の漁労は、やがては資源の枯渇を招いた。
 大安寺遺跡(だいあんじ)は、通称西山地区といわれる諏訪湖盆地区の南西部、湖南の北真志野地区(きたまじの)にある。先の荒神山遺跡の北側を流れる砥沢川の対岸にあり、約600m、諏訪湖に近付く。北方に諏訪湖を眺める扇状地上にあり、諏訪湖や諏訪湖に流入する河川の水産資源を利用するのに絶好の場所であった。大正13(1924)年、鳥居龍蔵が記した『諏訪史』第一卷にも取り上げられているほど、古くから石器や土器が散布する遺跡として注目されていた。鳥居は、諏訪地方の考古学研究者とも様々な関わりがあり、その履歴によれば、徳島市東船場に生まれ小学校を中退し、正規の学生ではなかったが東京帝国大学理科大学人類学教室の坪井正五郎博士に師事し人類学その他を学び、後に同大学助教授になっている。国学院大学、上智大学の教授、中国の燕京大学(えんきょう)客座教授も歴任した。鳥居は大正時代における日本考古学の指導者であり、人類学研究の先覚者として大きな業績を残している。
 大安寺遺跡はその後、平成年間に至るまで10回は超えるとおもわれる発掘調査が重ねられ、戸沢充則・藤森栄一などによる研究発表に繋がっている。結果的に、縄文時代の遺構としては、縄文中期(約5,000年前~4,000年前)の住居址が8軒、後期(約4,000年前~3,000年前)の敷石住居址を含む8軒の他、数基の埋甕炉(うめかめろ)や墓とみられる小竪穴など、中期から後期の遺存物が特に多かった。縄文後期の無文の「粗製土器」、晩期前半の佐野式土器の破片や石剣も出土した。
 昭和62(1987)年の第6次調査は、住宅建設に先立つためで、縄文中期・後期の住居址が4軒発掘された。4号と7号住居址から漁網用の石製の錘がまとなって出土した。特に縄文後期前半の7号住居址からは、4.8cm~7.2cm位の細長い粘板岩製石錘が20点ほど発見された。それは擦切り石錘と呼ばれ、薄板状に割れ易い粘板岩などの原石を板状に剥離させ、片刃の切截具(せっせつぐ)で両面から擦って、溝が深くなったら折り割った。仕上げは砥石で磨き形を整えた。両端には糸がけするための溝を刻んだ。大安寺遺跡や穴場遺跡などでは、擦切り痕が残る仕掛中の石錘や切截具・砥石などの製作用石器も出土している。その擦切り石錘が数点以上同じ場所からまとまって発見される事が多く、また形状や重量が揃っている事から漁網錘と推測されている。
 擦切り石錘は、諏訪湖周辺を中心に天竜川上流まで分布し、この地方特有の遺物である。漁場の特性に即した漁具や仕掛けが工夫されていたであろう。縄文早期から太平洋沿岸部の貝塚から、漁獲用の刺突具、骨角製のモリ・ヤスとか骨角製釣針が出土している。また漁網錘や釣針用錘と推測される石錘と土錘も発見されている。ただ遺物として残るのは、通常、無機質材や骨角製の漁労用具が殆どである。諏訪湖水系に面する遺跡では、石錘と土錘が主であり、牙製・骨角製の漁具は、曽根遺跡の「モリ」だけしか確認されていない。
 土錘には、土器片を正方形や長方形に擦切り、2端、あるいは4端に切り込みを付ける土器片錘と、手づくねで長方形に成形した成形土錘がある。土器片錘は、諏訪湖岸と湖に流入する河川の下流域に分布する。下流域であれば、流れも弱まり河床も砂泥質であるため土器片でも持ち堪えられたためとみられる。土器片錘は、諏訪地方では約5,000年前頃の縄文前期後半以降から登場する。縄文中期の梨久保式土器使いの土器片錘から増えていき、中期全期間を通して出土している。諏訪湖周辺の遺跡で、集中的に土器片錘が出土するのが、下諏訪町の高木殿村遺跡とそれに隣接する稲荷平遺跡、岡谷市では小尾口の海戸遺跡と湊の舟霊社遺跡(ふなだましゃ;小田井遺跡)、諏訪市では有賀の十二ノ后遺跡と現諏訪湖から約4km離れた大熊の荒神山遺跡である。荒神山遺跡から縄文中期の土器片錘が多量に出土するが、石錘は発掘されなかった。荒神山遺跡から諏訪湖に向かって福松砥沢遺跡(ふくまつとざわ)、真志野では大安寺遺跡・御屋敷遺跡・本城遺跡、有賀では十二ノ后遺跡が並ぶ。それらの遺跡の眼下には、当時、諏訪湖が現在の中筋一帯に広がっていた。中筋一帯に面した湖岸の集落では、岸辺に漁網を仕掛けたと思われる。これら遺跡群から見て、中世まで諏訪湖の対岸にあった片羽町B遺跡(かたはちょう)で出土した土器片錘が、厚手で形が大きい事から、網目が広い漁網を使い、コイや大きな川マスを獲っていたようだ。
 縄文後期初頭の約4,000年前から、粘板岩製の擦切り石錘が、土器片錘に取って代わる。細やかな装飾と成形を重視する厚手の精製土器から、実用重視の粗製土器が主流となり、しかも次の時代の弥生土器のはしりのように薄手化し脆くなり、錘として役立った無くなったためである。諏訪湖に流入する河川の上流部では、その河床にある礫石を使い、漁網錘の主流は礫石錘となる。岡谷市横河川の上流の上向遺跡・上ノ原遺跡・梨久保遺跡などや、茅野市域の遺跡では礫石錘のみがみつかる。これら河川上流域に遡上する魚は、産卵期のアカウオ・ヤマメ・ハヤ・アカヅなどであった。
 諏訪市の穴場遺跡は、諏訪盆地の北方、霧ケ峰高原の西縁部の八字山から現在の蓼ノ海あたりを源流とする角間川の下流域左岸に積層された扇状地・双葉ヶ丘にあった。標高840m前後に広がる緩斜面上にあって、西側が角間川で、東側には車山から連なる急峻な山地が遮り、諏訪湖までは当時では1kmもなかったであろう。過去10数回に亘る発掘調査が重ねられたが、縄文時代の住居址・石器・土器類と集落の中心部に遺存する数十基の墓穴とみられる小竪穴などが発掘された。特に縄文中期から後期の遺構と遺物が多い。平成4年の12次調査は、アパート建設に先立ち南側の双葉高校寄りで行われた。縄文後期の遺構が主で、霧ヶ峰南麓末端にあたる福沢山を産地とする鉄平石を使用する敷石住居址4軒と祭祀的性格が強い集積遺構などが発見された。縄文中期中葉以降、営なまれ続けられ、その周辺には中期中頃から後期前半の住居址があり、穴場遺跡は、それらの拠点的集落とみられている。
 穴場遺跡では、中期後半以降、双葉ヶ丘全体に展開していた集落が、後期には墓域とみられる小竪穴群の、縁辺部に小じんまりと数軒分が遺存するだけとなっていた。昭和57(1982)年、遺跡の東側で県道が拡張されるため発掘調査となった。このようにして、諏訪地方は、昭和の戦後以降の高度成長期、殆どの遺跡が破壊され尽くされていった。
 しかし、この発掘調査により、縄文中期の住居址8軒と、その内の18号住居址では、石棒・石皿・石碗・凹石(くぼみいし)・釣手土器などがセットで共伴した。その住居址は特異で、石皿が床面に垂直に立てられ固定され、その東北側にある石棒が石皿方向に横たわっていた。しかも釣手土器がそれに重なるように出土していた。石皿は石棒とセットでドングリなどの製粉具として用いられていた。また石棒は男性のシンボルで、集落内の子孫増加の祈祷具となり、それが生業の糧となる自然資源の生産力増大を直接的に祈願する象徴となった。石皿にしても製粉加工具として欠かせないにしても、各地の民俗例として女性の性器に仮託されている。
 穴場遺跡出土の釣手土器にしても、人面・動物など象った祭祀的性格が強いものとなる。

 縄文中期に隆盛を極めた諏訪地方一帯では、その当時の遺跡が重畳的に、濃密に発掘されているが、縄文後・晩期になると、遺跡数が著しく減少する。中部地方を中心とした山間部で飢餓の時代を迎え、後期には遺跡が激減し、八ヶ岳西麓とは異なり、諏訪湖盆地区では、中期を継続するような土地と、より標高が低位の場所や諏訪市内の湿地に近い場所に集落の痕跡を留める。縄文後期、かつて隆盛を極めた中期の集落地を継続させ、その文化を受け継ごうとする。しかし縄文中期に完成した生業体系の維持が困難となり、人口もそれに伴い激減し、穴場遺跡や大安寺遺跡では、漁労資源に依存しようと懸命に努力するが、代替できる生業となりえず、諏訪地方の集落は、縄文後期中頃に殆どが廃村となった。諏訪地方で縄文後期後葉以降まで継続できた集落は、諏訪市では大安寺遺跡・十二ノ后遺跡、茅野市では上ノ段遺跡・御社宮司遺跡、富士見町では大花遺跡など極めて少ない。
 縄文晩期、諏訪地方に纏まった遺跡は存在しない。ただ縄文時代を通して、おおむね早期から後期まで遺跡の標高が低くなっている。縄文晩期となれば諏訪湖盆の中筋に住居を構え生業に勤しむと思えるが、その地域の地盤沈下が顕著であれば、そこに沈み続ける未発見の遺跡が多く、未だ諏訪地域の全容が把握できていない。
 晩期となれば、諏訪市内はもとより八ヶ岳西南麓から富士川流域、及び駿河湾に至る広域と現代の北関東地域全体が、寒冷化と自然資源の乱開発後に襲われる飢餓の時代を迎えた。