縄文時代のトチの実料理
トチの実は、渋味が強く、灰汁を抜くのが大変だ。それでも縄文時代から今日まで採集され続けられてきた。
木の実の殆どが隔年毎の豊凶に左右されるが、トチの実は安定的に採集できた。その灰汁抜きに、木の灰を使うが、ワラビのように単純な作業では食しえない。そんな面倒な事までしても、日本では古代から主要な食料としていた。なぜ餅にトチの実を入れたのであろうか。それは味もさる事ながら、餅が冷めても硬くならないからである。これは、冷蔵庫・電子レンジ・保存剤がない時代、かけがえのない当座の食べ物であった。それで、これほど迄にも灰汁の強いトチの実を、苦労して加工保存する事が全国的に広まった。
トチの木は、東北地方や北海道南部に多いが、四国・九州にも自生する。縄文時代の生業は、旧石器時代の狩猟・漁労をより進化させ、加えて土器の創造により灰汁抜き技術を向上させ、植物採集を生業の主要基盤にまで高め、長期間の定住生活を可能にした。トチやドングリなどの堅果類が安定的な食料資源として急浮上した。その成果により長期の定住生活が保障され、縄文時代の1万年を超える長年月、それを支える文字通りの原動力となった。最近、開発された古人骨の炭素・窒素同位体分析によれば、千葉県船橋市古作の古作貝塚人(こさく)は、蛋白質の約30%、カロリーの約80%を堅果類に依存していた。これは他の貝塚人にも、ほぼ当てはまる結果であった。
三内丸山遺跡で先述したように、千年を超え、永続的にしろ、断続的にしろ、定住すれば、住居の建材・薪材・その他の道具材などの用材として、周囲の落葉広葉樹林帯や照葉樹林帯の濃密にして深い森林は伐採され消尽された。東日本に限れば、多くのブナ・ミズナラなどの極相林は伐採され、その後地にクリ・クルミ・トチなどを植生する人為的な二次林が形成された。それにより直射日光を好む陽性植物の最たるヤマウド・ワラビ・ゼンマイ・フキ・クズ・ヤマイモ・ギボウシ・アマドコロ・ツリガネニンジンなどを繁茂させた。その自然界の現象が、縄文人の知識として伝承された。自然に積極的に働き掛ける事こそ、多くの付加価値を伴う生産性の向上に繋がり、同時に管理栽培の有用性を知らされ、縄文前期からリョクトウ・ヒョウタン・エゴマが積極的に栽培され、縄文晩期にはソバ・コメなどが栽培植物として浮上してきた。
<トチ餅の作り方>
1 集めたトチの実は、天日で乾かす。トチの実は、拾ってから1年間かけて十分に乾燥させて保存し、トチ餅にして食べたい時に、 その必要量だけ取り出して調理するのが原則である。
2 トチの実を水にさらし、灰汁を抜く作業は、信州では2月から行う。どういうわけか、水が冷たい時期でないとうまくアクが抜けない。その理由は現代でも分っていない。ただ水に漬ければ、アクを抜くのと同時に、厚くて堅い皮を柔らかく剥くことができる。
3 トチの実を沸騰させない程度、90度℃位に保ちながら火にかけ、5分間ほど炊き皮を軟らかくして、皮をむく。熱い状態で、1つづつ皮を剥くのがが大変な作業となる。カシの木を2枚合わせたもので押し割る。この道具の名前を「トチオシ」とか「クジリ」と呼んぶ。当然地方各地で呼称は異なり、その方法も変わる。
4 むいたトチの実を網に入れ、川水に5日から1週間程さらす。
5 トチの実とたっぷりの水を土器に入れて2~3時間煮る。
6 水9カップに、木灰を15カップほど入れてこね、この中に5の熱いトチの実を混ぜ込み、3日間落ち着かせる。
7 取り出したトチの実を川につけ、灰を洗い流す。
8 米と混ぜて蒸す場合の割合は、昔はトチの実1に対し、もち米1であったが、今では1対2が多いようだ。縄文時代、粟との比率は、各住居の伝承で様々である。
9 石皿に載せ餅状につく。そのための石棒であった。
10 石皿にトチの粟餅を敷き、そこに蒸した胡桃・栗の餡を入れる。炉で焼く。トチの実のほろ苦さと香りが食味をそそる。
灰汁抜き後のドングリ・トチの実はすりつぶして団子状で調理した。まず木の実を、すりつぶし、団子状に練ったものを石皿にのせて焼き、できれば練る際に、鹿の骨髄液を入れた。塩味が加わり、栄養価も高くなり、格好の保存食にもなった。その「縄文クッキー」が発見された遺跡も多い。
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