諏訪地方の縄文時代(前期)縄文文化の発展期
(6千年前~約5千前) |
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琵琶石遺跡は白樺湖南側、先土器時代から続く
縄文時代の全期を通しての史跡
八子ケ峰の裾野、小さな渓流を挟んで
南岸遺跡と隣り合う。
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◆総論
縄文時代草創期
縄文時代期早期
縄文時代前期
縄文時代中期
縄文時代の民俗
縄文時代後期
縄文時代晩期
諏訪歴史散歩
車山高原リゾートイン・レアメモリー |
苛烈な災害に滅ぶ九州縄文化
約1万3千年前に最後の氷河期が終わり、その後約1万年前までは、温暖な間氷期への過渡期といえる比較的温暖な晩氷期が始まる。
一方、この温暖化は、木の実を豊富に生産する落葉広葉樹の森を育成し、必然的に植物性食料へと、人々の目を向けさせるようになった。縄文人の生業は、落葉広葉樹林の高い植物性食料の供給力に支えられるようになる。漸く“縄文文化的定住”を実現するための基盤が整ってきた。
縄文文化確立の前提条件としての「縄文的な定住化」が、はるか1万年以上も前、まず九州地方南部で始まったことにもそれが理由であった。当時は、最終氷期の名残で気候は今よりかなり寒く、極地を被う大陸氷河も厚く、日本列島周辺でも海面が40mほど低かったと言われている。それが次第に温暖化していく過程で、日本列島でまず落葉広葉樹林が形成されたのが、低緯度に位置した南九州の地であった。
最古の丸木舟製造用の栫ノ原(かこいのはら)型丸ノミ形石斧、石蒸し焼き施設と考えられる集石遺構、薫製用施設と考えられる連穴土杭、貝殻文様の土器など、独創的な縄文文化を営々と築き上げる南九州地方だった。突然破綻した。約7,300年前に、九州地方に鬼界カルデラの大噴火の猛威が襲い、縄文先進地・九州全域の文化を壊滅させった。
約2万8千年前の後期旧石器時代にも、鹿児島湾北部の姶良カルデラの大噴火で九州の南半分は火砕流に覆い尽くされていた。それは現代に至るまで最大級の巨大噴火であった。細粒の軽石や火山灰が、九州南部一帯に厚い地層として分布するシラス(白砂、白州)台地が形成された。シラスは酸性の強い土壌で雨水がしみやすいので、農業には極めて不適であった。鹿児島県の出水市(いずみし)上場遺跡(うわば)、日置郡松元町前山遺跡、揖宿郡喜入町の帖地遺跡(ちょうち)など旧石器時代人の生活は潰滅した。
その時、降下した火山灰は、姶良丹沢火山灰=AT(Aira-Tanzawa)と呼ばれ、飛散して北海道を除く日本全国に分布し、遠く極東ロシアや中国・朝鮮半島でも確認されている。噴出される火山灰や軽石・火砕流などの堆積物は広域テフラと呼ばれ、極東及び全国各地の遺跡や出土遺物に共通の時間軸を与える鍵層となっている。
鬼界カルデラを形成した巨大噴火もとてつもない大災害となった。鬼界カルデラは、鹿児島県 南方の薩摩竹島と薩摩硫黄島(鬼界ヶ島)を陸上のカルデラの北縁の一部とし、東西23km、南北16kmの海底カルデラである。大噴火は、まず最初に多量の軽石・火山灰を放出する爆発的な火山噴火・プリニー式噴火で始まり、放出された火山灰などは風下側に広く堆積して広範囲に被害を及ぼした。噴煙の高さは数十kmに及んだことであろう。多量の降下軽石を東方地域に降らせた。続いてやや規模の小さな火砕流を噴出
し、最後に巨大な噴煙柱の崩壊により、幸屋火砕流(こうや)と呼ばれる大規模な火砕流が四方 に流れた。幸屋火砕流は海を渡り、九州本土まで到達し、給源から半径100kmの範囲に分布した。火砕流堆積物は薩摩・大隅半島を覆い、そのアカホヤと呼ばれる火山灰は関東地方まで降り注いだ。赤味がかった黄色のガラス質の地層で、鬼界アカホヤ火山灰=K-Ah(Kikai-Akahoya)と呼ばれている。巨大噴火により、鬼界カルデラは鹿児島県屋久島の北の海に沈んだ。
縄文草創期に花開き、早期の段階で確立した南九州の縄文文化施設を、大規模な幸屋火砕流で飲み込んだ。 鬼界カルデラが鹿児島に残す現在の爪あとは、大隅半島の先端近くの大根占(おおねじめ)町の川田代に堆積する鬼界カルデラから噴出した軽石、火砕流、火山灰が示している。海抜100mを超える尾根筋を走る道路に面した崖に、まず、厚さ1mの軽石層があり、その上に硬い火砕流が1.5mの厚さでつづき、最上部には火山灰が50cmの厚さで積み重なっている。火山活動の1サイクルを示す堆積の順である。合計3m、自然界の生物全てを埋め尽くした。被災地は無人化した。南九州の縄文人は火砕流を逃れ宮崎県南部や熊本県南部へ避難し生活した。この
巨大噴火後、錦江湾周辺の大地は13m以上隆起したという。
大分県でも、 大野川上流域の竹田市菅生(すごう)台地 ・荻町一帯ではアカホヤの堆積が50㎝ほどと厚い。アカホヤ一回の降下量は縄文草創期から現代に至るまで最大で、当時の自然環境に与えた影響は計り知れない。当時の九州縄文文化は、ほぼ壊滅状態に陥った。大隅半島南部や薩摩半島南部の照葉樹林帯は潰滅し、すくなくとも600年間は漸くススキなどが繁茂だけの草原に止まった。
固くしまったアカホヤは作物の根を下へ通さない不良火山灰土で、その後も九州の人々を苦しめまた。 “東高西低”と言われる縄文遺跡分布の片寄りは、実はこの被災が端緒となった。ただの気候環境の変化程度であったなら適応しただろう。
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阿久遺跡の祭祀場
阿久遺跡が知られるようになったのは、発掘調査の結果、桁外れの規模を持つ縄文時代前期の祭祀場が現れたからである。この祭祀場は阿久尾根の最も広い、中心的な場所を選んで作られている。その構造は広場の中央部に設けられた核心施設としての立石・列石遺構と、それをドーナツ状に2重に取り巻く遺構からなる。いわば核と内帯・外帯部分からなる遺構である。
内帯はいくつかの方形柱穴列を取り込んだ土坑群からなり、外帯は環状集石群からなり、内帯と接する辺りでは部分的に重複する。更に環状集石群の南から東側は居住地帯となり、祭祀場の一部分を囲む。このように、阿久遺跡は中央の祭祀場と同心円状に敷設された、さらにこれらを取り囲む、人々の生産の場としての自然林からなる。
環状集石群は、当然石を沢山使って造形されるもので、尾根に沿って長軸120m、短軸で90m、幅が30mほどの範囲にドーナツ状 に密集している。石は乱雑ではなく、直径1mほどで浅い穴に拳大から人頭大の石が、数百個詰め込まれた集石群があり、これが270基以上も集まってドーナツ
状となっている。その景観はまさしく賽の河原のようで、環状に配された集石群で囲まれた中には、板状の石を伴う、直径1mほどの土抗が770基以上あった。土坑は現認数だけで約1,000基あり、未発掘区域の推定数を入れると倍にはなるとみられている。
墓標のような小さな立石を伴う墓抗群と考えられている。 この集石墓抗群の中心部に、石柱を建て、阿久遺跡のいわば心臓部を構成する。石柱は、幅35cmの角柱状で長さは120cmほど、特別な花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)製の角柱状の立石である。集石墓抗群の立石は、30cm前後の安山岩角礫を用いて、径2.5m前後に円形に囲んだ環状石組の内部に横転した状態で出土した。
石柱周辺に火床があり火を焚いた形跡があり、その下部に深い土坑もみられした。阿久縄文人は、祭祀行為の時に、盛大な火を焚いたことを示していす。石柱の一部にはかなり火焼を受けた痕跡があった。
環状石組の中央に石柱のある例は、秋田県大湯町の環状列石他、縄文時代後期であるが、東北・北海道地方でも見られる。
阿久遺跡の場合も、環状石組の中央に石柱が据えられている。深い土坑はそのための穴で、特に立石に用いられた石材・花崗閃緑岩は、八ヶ岳山麓には産出しないもので、十数km離れた茅野市内などから運搬されてきたものだ。
その立石から蓼科山の方向に、直線的に並ぶ、2mおきの2枚で1組となる8個からなる盤状の安山岩塊も発見された。
安山岩塊の大きさは長さが1~1.5m、幅0.5~1m、厚さ20cm前後の楕円形のものが多い。中心の石柱から盤状の列石を見通した先に、八ケ岳連峰の最北に位置する蓼科山が聳え立っている。墓抗を中心とする祭祀場は、山岳信仰とも関連するようだ。ここからは祭祀用と考えられる特殊な台付鉢が出土した。台付土器に御供物を載せ、祭壇に供えた。
蓼科山(2,530m)は諏訪富士と呼ばれるほど綺麗な円錐形をしており、長野県の各地からもよく目立つ中心的な山である。北八ケ岳の北端に位置するが、独立峰のようにその裾野を広げている。
十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡
十二ノ后(じゅうにのき)遺跡・千鹿頭社(ちかとうしゃ)遺跡は、諏訪大社上社の御神体守屋山の北東にあり、諏訪湖を左に眺め、その前方は美ヶ原・鷲ヶ峰・霧ヶ峰・車山と絶景が並び、右手は諏訪の平を見下ろし、その視界を八ヶ岳の峰々が迎える絶好の扇状地の高台にある。背後の有賀峠は古代から近代まで交通の要衝であった。守屋山系の谷や峠が伊那谷と諏訪の平を結ぶ文化の交流と交易の経路であるばかりか、原始の頃から狩猟採集の好個の生業の場でもあった。伊那谷に通じる有賀峠は、現代でも上伊那の箕輪まで最短となる近道で、途中の諏訪市上野の山合いに産する上野大根の漬け物は、長野県では古くから広く知られる沢庵として食通家の食卓には欠かせない。
両遺跡は小字名で名付けられたため独立した遺跡とみられていたが、発掘調査が進みにつれ縄文前期を中心にした大規模集落であった事が明らかになった。
遺跡の存在は畑地として古くから知られていた。昭和49年以降の中央自動車道西宮線の工事に伴い初めて本格的調査がなされた。その結果、縄文前期から晩期を主舞台とするが、以後平安時代にまで継続する集落である事が明らかになった。その後の調査は諏訪市教育委員会が、千鹿頭社遺跡を中心に6次に亘る発掘調査をおこなった。
両遺跡の縄文時代各期の住居址数は、縄文前期67軒・中期18軒・後期8軒である。縄文前期の集落は前期前半の約6千年前の深鉢で尖底といった中越式土器(なかこし)を中心とする時期と、その後半の約5千年前の竹管文を多用する諸磯式土器(もろいそ)を中心する時期とで大きく区分できる。住居址は2~6軒程度のブロックがあり南北に伸びている。各時代の住居ブロックに付属する多数の土坑と土器捨て場やその他の特殊な遺構などが発掘された。だが集落を想定できるような広場の存在は、はっきりしなかった。それでも土器をはじめ出土数の豊富さが、本格的定住生活の存在を確信させる。こうして縄文前期になると各地方で中心となる遺跡が点在するようになる。前期後半の諸磯式土器文化以降、集落遺跡が増大し、生業とその過程の必然としての環境破壊と疫病の発生により、拠点を移動せざるを得なくなり、やがて年月を経て森林環境が復元すれば古里に復帰する。この発展過程の縄文前期には、3、4軒をユニットとする集合集落が構成され、次第に中期の大規模な環状集落(馬蹄形集落)を発展させていく。
昭和63(1988)年、千鹿頭社遺跡から出土した22号住居址は縄文前期初頭の竪穴住居で、その付近には6軒の住居址が集中しており、7軒ほどの集落であったのかもしれない。22号住居址は縦6m、横4mの長方形様の平面であった。南側には浅い掘り込みがあり、出入りの便宜を考えての造作のようだ。住居址内中央付近には、直径50㎝程の掘り込みがあり焼土が詰まっていた。土床を掘り込んだだけの、日常火炊きをする地床炉(ぢしょうろ)である。その炉の周辺には粘土を貼り詰める貼床(はりゆか)処理がなされ、床を平坦にし、人が集うう時に座り心地をよくしている。
竪穴住居は、一部では旧石器からあったが、殆どに太い柱穴がなく上屋は簡易な伏屋作りであった。日常必要な炉も屋外に置かれた。定住はもとより通年を前提しないキャンプサイトととしての活用で、むしろ上屋資材は運び易い移動を前提にしたものであったようだ。22号住居址の竪穴は、40㎝程度の深さであったが、直径30㎝程の柱穴が6基あった。壁沿いの直下の床には周溝(しゅうこう)が回らされ、住居の竪穴の土壁に沿って板を貼って土留めするという極めて堅牢な造りであった。炉は住居内に常設していた。生活に必要な最低の設備が屋内に取り込まれた。定着性が漸く根付いてきたようだ。
十二ノ后遺跡では第一次調査で正方形に並べられたと思われる土坑が3基見つかった。大きな柱を並べたような規模の遺構であったが、調査区域を超えていたり、後世による破壊があり、用途が不明であった。だが同時期、中央道の工事で発見された前述の阿久遺跡の調査で、同様の遺構が完全な状態で17基出土し全容が明らかにされた。その土坑列を結ぶと方形になるのが殆どで、深さ1mの孔が周囲する4m四方あって、しかも土坑から柱痕(ちゅうこん)が検出される例が多い。この遺構は諏訪の平特有で、縄文前期に集中し炉跡や生活用具が伴わず、日常性を欠くことから集会場か祭祀場など諸説あるが定まらない。十二ノ后遺跡では3基・阿久遺跡11基・茅野市阿久尻遺跡(あきゅうじり)20基と、それぞれ千年に及ぶの縄文前期の遺構であれば住居並みに造られているとはいえ、その時代全体に亘る遺構とまではいえない。また同一時代に集中的に建てらわけでもない。時を超えた累積数値である。寧ろ縄文前期前半の遺跡から出土する事が多いので、それぞれの文化的最盛期か、ある特定の時代の集落の発展的広がりか、その造作を必然的に伴う文化であったのかもしれない。現在、方形柱穴列(ほうけいちゅうけつれつ)と名付けられている。
縄文前期の集落は、小規模で定形的ではないが、中期の集落同様、環状集落の形を取る事が多い。十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡や縄文前期後半の武居畑遺跡(たけいばた)でも環状集落の中心部に広場を設けて特殊な構造物を造っている。方形柱穴列群と多数の集石遺構である。武居畑遺跡は諏訪市中洲神宮寺の茅野寄りの場所に位置する。背後の南方には上社本宮の神体・守屋山から始まる伊那山地が連なる。宮川の支流、西沢川と女沢川の沢に挟まれ、東端は断層による崖で区切られた広い平坦な丘陵の上にある。背後には有賀峠と並ぶ伊那谷への要路である杖突峠が控えている。
阿久遺跡は前期前半から作られ始め、後期後半の直前に頂点をむかえる。その住居址に取り囲まれる広場に、径40㎝前後の柱穴11基、それは1辺が約5mとなる3棟分の方形柱穴列群と、270基の集石群からなる遺構がある。集落の祭祀に使われて施設といわれている。
更にこの石柱の前には、2mおきに二枚で一組となるよう8枚の安山岩製板石が並んでいた。板石は高さ1m~1.5m、厚さ20㎝、幅60cmから100cm前後であり、長楕円形のものが多い。石柱と共に発見されたときは倒れていた。環状石組の中央に立石のある例は秋田県大湯町の環状列石の例を持ち出すまでもなく、縄文時代後期ではあるが、東北・北海道地方では知られている。したがって、この場合も、環状石組の中央に立石が据えられていたと考えて無理がない。縄文時代を通して集落の「ハウスホールドクラスター(house hold cluster)」は、当然住居施設を伴い、生業が安定すればするほど貯蔵施設も増え、狭い竪穴住居であれば夏季及びその前後では、蒸し暑く屋内炉での調理は困難で、屋外に集石炉を備える。特に西南日本では、その集石遺構が卓越して出土するのも、その使用頻度が高かった故であろう。炉跡は東北・北海道に多く、大陸のシベリア・朝鮮半島の北部寒冷地では屋内炉が通常で、炉の火は調理用ばかりでなく、暖房と猛獣からの護身も兼ねていた。
定住生活の継続で生活廃棄物処分所も必要不可欠となる。集落内に埋葬施設も欠かせない。しかも埋葬施設は集落の中央に構え、生者がよせる死者への思いを祭祀文化まで高めていた。旧石器時代人や縄文時代人には、死霊を恐れる意識はなく、懐かしみ思いを馳せるための大切な拠り所であった。集落の人々は、その中核に精神的支柱として祀ったのであった。
千鹿頭社遺跡22号住居址から、土器と多数の黒曜石片、及び石器が共伴した。これらの多くは、住居として住まわれなくなった後の竪穴が、自然に土で埋没する過程で、その窪地を集落内のゴミ捨て場として利用したようだ。出土土器は中越式土器と関東地方の関山式土器だけで、その前後の時代のものは出土していない。関山式は縄文前期、約6,500年前の関東地方の土器型式名で、埼玉県蓮田市関山1丁目の綾瀬川左岸の台地の南西縁に所在する、縄文時代前期の関山貝塚が標式遺跡となる。胎土にシノダケの根など多量の繊維を含んでいる。乾燥の際の亀裂を防ぐためよく精製したものを混入した。縄文前期特有の繊維土器で、焼成によってそれが炭化し、断面は漆黒色となる。底部は、平底が殆どである。関東地方から運び込まれた土器であろう。縄文時代から既に長野県の中部高地は文化と交易両面で東日本文化圏に属していた。
伴出した中越式土器片の胎土には繊維が含まていない。長野県上伊那郡宮田村の中越遺跡を標式遺跡とする。尖底で文様に縄文はなく、殆どが無文で、あっても簡易な沈線文が描かれるだけである。その「中越式土器」は、やや薄手で胴がくびれて底部がゆるやかな尖底となり、胴から上に沈線による簡単な文様を描くのが特徴だ。関東を中心とした東日本の土器が厚手で繊維を多量に含み、全面に鳥の羽に似ている羽状縄文を施し、ずん胴形で底が平らな深鉢形であるのに対して、東海・近畿地方などの西日本の土器は、極めて薄手で繊維を含まず、細線文と細い粘土紐貼付文を施し、丸底風の尖底を特色とする。縄文前期初頭の中越式土器の特徴は明らかに西日本的である。同期の静岡県東部の木島式や愛知県の清水上Ⅰ式がこの製作技法を同じくしている。東海地方からの強い影響で誕生した、これまでとは異質な土器である。その技法は天竜川を遡り、伊那地方で地域的独創性を加え、諏訪地方に広く分布した。十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡は伊那谷からの出口にあたる有賀峠口で営まれていた。中越遺跡は上伊那宮田村にあった。縄文前期初頭の中越式期の集落は、その分布圏内には互いに交易上の要路にある両遺跡しか存在しない。十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡には、諏訪では産出されないチャートなどの石器石材が中越遺跡経路で運ばれて来たようだ。
十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡からは、縄文前期中頃から晩期に属する土器などの遺物が出土している。その集落も前期後半の諸磯a・b式期まで、阿久遺跡と同様に継続して営まれていた。だが中越遺跡は前期後半が始まる直前に、忽然として集落は無人となる。その復活は中期まで待たなければならない。一方、諏訪湖西部の西山遺跡群は武居畑遺跡を含めて5ヵ所出土している。当期の十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡の集落は10~20軒程度と前期初頭の中越期より減少する。阿久遺跡でも同様の傾向がみられる。それは集落の集住者が減少したのではなく。定住化の始まり当時は、住民による竪穴住居の長期使用が通常で、住居の補修や改築が同一竪穴内か、その近辺で重複して行われた。前期後半の諸磯a・b式期になると、過剰採集による近隣の植物性食料や燃料を支える森林資源が衰えるなど、季節的な生業転換と住環境の変化に対応するなどの理由で、他の集落への移動が活発になり、やがて元の住居地に復帰すると竪穴を重複して穿った。従って、住居址が戸数的に多量に出土することはない。後者の有様が縄文中期になると、集落単位での大規模な移動が繰り返され、結果、八ヶ岳山麓や諏訪湖周辺に膨大な遺跡群となって遺存させた。
十二ノ后遺跡・千鹿頭社遺跡の石器文化
千鹿頭社遺跡22号住居址から出土した石鏃・石錐・石匙・削器・掻器・打製石斧・磨製石斧・磨石・石皿・ハンマーストーンなどと共伴する剥片石器を得るための石核と石器製作過程に生じる多数の石屑がある。石鏃は全て黒曜石を石材としていた。二股で基部の中央には三角形の抉(えぐ)りがあり、2㎝以下と小形でる。石錐の先端には、回転し抉った摩耗痕が残っていた。石匙は縦長と横形の2種類がある。前者はその鋭利な形状から獣皮の裁断用で、後者はその刃形からも明らかなように獣皮と肉を仕分けし、その上獣皮を衣料用になめす縁辺加工具とおもえる。削器は8㎝を最大にし形状は様々で、便宜的に削器と分類しただけだ。その石材は黒曜石・チャート・凝灰岩などで縁辺に刃部を備えている。石斧は打製石器と磨製石器があり、5㎝超のハンマーストーンの丸い先端には硬いものを敲いた痕が残り、潰れ磨り減っている。石器製作の加工具としての石器で中越遺跡でも類品が多数出土した。
十二ノ后・千鹿頭社遺跡は縄文前期初頭の中越式土器期を中心とする集落遺跡で、県下でも中越式土器の標式遺跡となった上伊那郡宮田村中越遺跡や20基の方形柱穴列を遺構とする諏訪郡原村柏木の阿久遺跡などが本格的な集落を営み始めた時代だ。様々な機能を備える豊富な石器類は、縄文早期に確立されてきたが、これらを技術的に躍進させ、狩猟・採集の生業生活を安定させ、ごく小規模であるが3・4軒をユニットとする集落が営めるようになる。しかし諏訪湖盆地の集落数は僅かで、諏訪湖周辺では、十二ノ后・千鹿頭社遺跡以外は出土していない。八ヶ岳山麓でも茅野市の阿久尻遺跡や原村の阿久遺跡以外は見当たらない。前期後半以降になると集落遺跡の数が増え、3・4軒をユニットとする単位で、集落間を移動し、それを反復し繰り返す。やだてユニット同士が集住し縄文中期の大規模集落群を形成させていった。
中越遺跡出土の玦状耳飾や岩偶(がんぐう)、阿久遺跡からは、石柱・土偶・石棒など、それ自体が神的な存在であるのに対し、釣手土器・有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)などの土器類は、祭祀の際に使われた神器という性格をもっている。千鹿頭社遺跡からは装身具、滑石製の玦状耳飾が出土した。使用中に割れたようで、対になる双方に孔をあけ紐で結んで補修とした痕がある。
縄文早期、装身具は土器の多様性と共に九州南部が先行するが、前期以降、東日本でも出土例が増えてくる。耳たぶに穴をあけて装着する土製耳飾りも九州南部の早期に出現している。これは、中期以降、特に後晩期に関東地方で隆盛するものとは系譜を異にする。早期末、北海道や北陸地方の日本海岸側で目立つようになる玦状耳飾は、ほぼ円形で中央孔が大きく、一ヵ所切れ目があり、比較的扁平なドーナツ形であった。前期になると楕円形や三角形のものも登場する。管玉や垂飾がセットとして伴出している。前期になると、櫛・垂飾(すいしょく)・首飾り・貝輪(かいわ)など縄文時代を特徴づける装身具が、列島規模で出そろうようになった。
大阪府藤井寺市惣社国府遺跡では縄文前期の埋葬人骨がこれまでに80体以上も出土した。しかも玦状耳飾を装着する人骨は一部の女性に限られ、しかも年代差があった。神奈川県の上田浜遺跡からは、縄文早期中葉埋葬されている3基の土坑から、玦状耳飾が1対づつ6個発掘された。これにも年代差があり、特別な女性が3世代にわたる埋葬された可能性が指摘されている。女性祭祀者の出現が予想される。
千鹿頭社遺跡にはリング状の土製品もあった。中越式土器の胎土と同一で、中央に孔があり、リングの外側には細い幾何学的な沈線文が施されている。ペンダント風の垂飾であろうか。
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土坑群と方形柱穴列
阿久遺跡では環状集石群で囲まれた中には板状の石を伴う径1m、深さ70㎝前後ほどの土抗が770基以上あった。墓標として小さな立石をもつ墓抗と考えられている。この墓抗群の中心部には石柱が建てられていた。石柱は、幅35cmの角柱状で長さは120cmほど、遺跡から少なくとも10km以上離れたところから運び込まれた花崗閃緑岩(かこうせんりょくがん)製石材である。この石柱の周りにはかなりの焼痕があり、阿久人の祭時には、盛大な火がここで焚かれたことを示している。丘陵・台地上につくられる開地遺跡の特定の場所に、集中して埋葬される事例は、縄文前期以降に増加する。
土坑群は、規模や形においても様々で、特に小立石を土坑上に立てたものや土坑内に石を入れたものなどは、土坑の直径が80㎝、深さ70㎝前後と、直径に比較して深いものが多く、石を持たないものにも、このような特徴を持つものが見られる。
中には副葬品と思われる玉類や骨を納めた土器もみられるが、数は少ない。 このような土坑群を墳墓と考えるにしても規模が小さすぎる。そこで考えられるのは、縄文時代中期に見られる「再葬墓」である。
「再葬墓」とは、一度葬送した後、骨になった段階で、人骨を回収し納めて再度埋葬する方法である。 他界後、遺体を野晒しにして、骨のみを集めて埋葬する風習と考えてはいけない。洗骨葬は、丁寧に風習に則り遺体を土葬して、何年かして遺体が腐食したあとに、残された遺骨を取り出して洗い、その時、死者の霊が初めて安定した状態に入ると考え、本来の墓地に本埋葬した。沖縄、台湾、香港、ベトナムなどにもみられる葬法である。
香港では公共墓地の年限が5年であり、5年過ぎると遺族は洗骨をして、墓地を返却する。ベトナムでの「洗骨葬」は、まず土葬で葬り、3年後以降の定めの日に掘り返して、死者の骨を丁寧に洗って清めて、改めて新しい墓に埋葬した。最近まで日本各地で行われていた両墓制も、再葬墓の姿を変えたものであるようだ。
両葬墓とは死体埋葬の場と、霊魂の宿る場の2種類の墓地を作る葬法で、遺体よりも霊魂の存在を重視し、「霊魂の宿る場」の方が大切にされる。土坑墓群の規模や数量の多量さからみれば、再葬墓と考えるのが妥当である。立石は一種の墓標で、小さく深く掘られた穴に洗骨をして、世帯などを基礎単位にして埋葬した共同墓地であったようだ。
墓の上に墓標となる配石をすれば集石墓という。石が立っていれば立石墓となる。これらが組合わせられて配石墓となり、それが環状に配石されれば環状配石墓となる。
立石のない土坑には、木など有機質の墓標を立てたために、今日にまで遺存しなかった。それは、埋葬する集団の差、あるいは集団の中での役割の差などに起因するのだろうか。三内丸山遺跡では縄文前期からの墓坑の集石がある。それらに大きさの差があり、環状配石を置くものと、置かないものとがある。しかし大きな墓や環状配石だからといって豊かな副葬品があるとは限らないという。
径60mほどの円形広場に方形柱穴列が、その外周30~70mの域に長辺が7~5m前後の長方形の住居址がめぐらされていた。方形柱穴列は径40㎝ 前後の4本の柱を方形に立てた柱穴と考えられ、主に倉庫として使われネズミや害虫の被害から守るために高床式にしたとも、祭祀的構造物であったともいわれている。最大の方形の掘立柱建造物は例で約36㎡・12坪あり、2、3ヵ所に建てられた。縄文時代の住居は竪穴住居のみではない、地表を床とする土間の平地住居もあり、高床住居も既にあった。平地住居と高床住居では、柱穴しか遺存しないため、掘立柱建物と総称している。自然の洞窟は多くは長野県茅野市の栃窪岩陰遺跡のようにキャンプ・サイト的利用であったが、西北九州では寧ろ主流といわれる地域もあった。 |
環状集石群
外帯としての環状集石群は径が120m、幅30~40mのドーナツ状に巡らされる大規模な構造物である。これらは、径0.5~1.5m、深さ30㎝前後に掘った穴に拳大から人頭大の石をぎっしり詰めた集石墓と土坑からなる。現認するだけでも約1,000基あり、未発掘の物を推定し加えると約倍にはなるだろうといわれている。個々の集石は幾つか集まって、一つのグループをなし、このグループが更に集まって環状集石群を形成していている。
用いられた石は数十万個に達するといわれている。いずれも付近の河原から台地上に運びあげられている。土坑や集石遺構は大小・様態共に統一性を欠き、個々の用途は定めがたいが、土器埋葬や板石・柱石の遺存状態から墓坑が殆どで、阿久遺跡の大規模な環状遺構は群集墓とその祭祀場だったと考えられる。それは環状遺跡群の中央に、長さ120cm、厚さ35cmの花崗閃緑岩の角柱と、30cm前後の安山岩角礫を用いる、径2.5m前後の立石遺構群の存在からも推測される。
環状集石群にそって多量の遺物が出土した。あらゆる石器と土器があり、土器は殆どが破砕されていた。同一固体の土器片が10数mまで飛び散り、祭祀の時の儀式行為に伴うものであったと推測されている。
青森県の三内丸山遺跡は、放射線炭素年代測定に基づく補正年代によれば、縄文前期の約5,900前から中期の約4,300に亘る、実に1,500年間も継続した集落であった。検出されただけで住居址は700軒以上あった。当然、その集落の有様は歳月の積み重ねと、時々の自然の猛威と、人為的な確執などが重なり様々と変移したであろう。その驚異的な永続性は通年定住集落ではなく、夏季の交易センターとして機能していたためと考えられている。三内丸山遺跡は青森湾の波穏やかな湾奥にあり、北海道を含む各地からの船荷を捌く市場に適した場所であった。
縄文中期後半に、三内丸山の集落を去らざるを得なくなり、やむなく人々が去った後、後期前葉に東北地方北部と北海道で、青森県青森市の小牧野遺跡(こまきの)・秋田県北秋田郡鷹巣町の伊勢堂岱遺跡(どうたいいせき)・秋田県鹿角市十和田大湯の大湯遺跡(おおゆいせき)などで環状列石が出現する。大きな礫石が環状に配石されている。既に阿久遺跡などで学習済みで、石組みの下に土坑があり明らかに墓坑と断定できた。またこの遺跡のからペンダント風の円筒形土製品・円盤状土製品・鐸形土製品(たくがた)・動物形やキノコ形土製品・足型石製品などや、供物用の台付土器・赤い顔料の壺など日常性のない祭祀具、或いは嗜好性の強い遺物が多種多量に出土した。
大湯環状列石は、隣接する「野中堂」と「万座」の2つの環状列石と日時計のような特殊組み石から構成されている。2つの環状列石は外帯と内帯からなる2重の輪である。野中堂の外帯の径が約42m、万座の径は約48mとかなり大規模なもので、両者の距離は90mあり、組石は大きい方の万座では48基、野中堂の方は44基ある。野中堂は後世による破壊がかなりあるが、同時代に作られたようだ。それぞれの組石の下に墓坑があることから共同墓地と考えられている。縄文時代以後、数千年間に、特に近代以降に頻発する河川護岸工事や庭石需要などのために持ち去られたものも少なからずあり、実際にはもっと多数の組石があった。大湯環状列石には中央の立石が90kgある日時計状組石がある。この日時計中心部から、「万座」と「野中堂」の環状列石の中心部を結んだ方向は、東西方向から時計回りで約30℃ずれている。そのラインの西北西の方向は、ほぼ夏至の日に太陽が沈む位置を示し、反対に逆方向の彼方は、東南東になり冬至の日に太陽が昇る位置に極めて近い。大湯環状列石の北東には黒又山があり、大湯環状列石からはきれいな円錐形に見える。阿久遺跡における蓼科山の存在を彷彿させる。
大湯環状列石の外側には、集落と呼べるほどの住居が確認されていない。各々の列石の直ぐ外側を囲むように掘立柱建物群が同心円状に展開するが、柱穴が大きく柱も立派過ぎ、また周囲から出土した祭祀用遺物などから、葬送儀礼や太陽を畏敬する儀式を行った「祭祀施設」であったとみられている。
佐々木藤雄は「従来、縄文集落の中で一体のものとして存在していた住居群と中央広場、日常空間と非日常空間、生者の世界と死者の世界の截然とした区別があり、またそのことによる中央広場の祭祀的・儀礼的性格の一層の強化・純化にあったことは明らかである。」と論評している。
縄文前期から中期後半にかけて、集落の中心部に特別な場所として墓坑を設け、遺跡としては環状列石を遺構とした。長く拠点的集落に集住し、周辺環境を破壊し尽し、やむなくムラから離れ小集団に分かれ離村したが、日常を共にできないかつてのムラ人は、血縁などで結ばれた関係の再確認と祖先の墓参りを兼て大集団が結集し、祭祀儀式を行う場所として、離村後の阿久の村人とその子孫が終末後に安息の地として環状集石群を築いていった。その集落の有り方が、広く東北地方に祭祀観も伴ない伝播して行く。
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住居址群
縄文時代の住居は地面を掘り窪め床とする竪穴式ばかりではない。旧石器時代のように地表を床とする平地住居、むしろ床下を高くあげて張る高床住居まであった。平地住居と高床住居との区別は柱穴だけでは区別できないので、先述するように掘立柱建物と総称している。
壁を特別設けず屋根がそのまま地面に繋がるのが伏屋式、屋根を壁で支えるると壁立式、伏屋式の天井に小屋根を組み妻の屋根とするのを2段式伏屋式としている。各地に復元されている縄文住居は立派過ぎて、夏の季節には暑くて住めたものではないと思う。実際には地域環境に合わせて様々であったであろう。屋根の殆どは円錐屋根・入母屋屋根で、寄棟屋根・切妻屋根・方形屋根もあったであろう。入母屋屋根は、屋根の上方が切妻屋根で、その下の台が、寄棟屋根のようになっている屋根形式の一つである。寄棟屋根は4方向に傾斜する屋根面をもつ。切妻屋根は屋根の最上部に、桁行(けたゆき)方向に取り付けられる横木の棟から地上に向かって2つの傾斜面が本を伏せたような山形の形状をした屋根である。壁立式住居は縄文早期末には作られている。
縄文時代になると一斉に竪穴住居が普及するのではなく、早期から徐々に普及し、掘立柱建物は前期以降に伝播する。竪穴住居は樺太アイヌ・千島アイヌやギリヤークなど北方で広く建てられている。そのいくつかの民族例としては土葺の屋根であった事が知られている。
竪穴住居は寒さが一段と厳しい旧石器時代に一般家屋として普及せず、縄文早期以降から次第に竪穴住居が普及し、掘立柱住居は前期以降に広がる。後氷期へむかい次第に日本海が形成され、モンスーン気候になると冬は寒いが、寧ろ雨や雪を凌ぎ、炉の火を保持するため全国に住居が建てられた。一方、萱葺きの竪穴住居は、日本列島の夏季の住居としては暑く湿気にまみれ、さらに夏場に住居内で炉を焚いては誰でも耐えがたい。屋外に共同の調理場としての集石炉を設けた理由であった。
伏屋式住居や竪穴住居でも、草葺きが通常とみられている。現在、日本各地で縄文時代遺跡公園としている竪穴住居は萱などを厚く敷いた草葺きである。しかし八ヶ岳山麓の、その住居に、それも夏の多湿高温期に、狭すぎる4~5人の住居で無くとも過ごせるわけがない。樺太アイヌや北アメリカの西海岸のインディアンは、通常、竪穴住居に住み、通年、平均すれば冷涼でありながら、夏季には掘立柱の涼しい簡易な住居で生活していた。
岩手県一戸町にある御所野遺跡では火災に遭った住居が8軒も発見された。住居が焼け落ちた過程が復元されている。埋土の上下に焼け土と炭化材が重なっていた。床の土質と異なる上部の火山灰土により区別ができた。それで土葺き屋根とわかった。湿気がこもり、草葺き屋根に比して柱などのが腐朽しやすく耐久性は悪いが、寒冷地であれば、屋内の保温にとっては有効である。北海道と東北地方で普及した。千葉県でも広く、竪穴住居祉内から炉跡以外の焼土が検出されている。暖をとるため炉は欠かせないが、土葺き屋根は保温性に優れているため通年の定住は無理である。蒸し暑い夏季は近くに建てられた掘立小屋程度の、簡易で涼しい仮住まい生活に満足していた。
現代に復元された縄文住居の殆どは入母屋屋根で煙出しを備えている。実験考古学者楠本政助の居住体験によると、炉の煙は自然に屋根材の隙間から排出さるため、逆に煙出しがあると、暖房効果を弱め、さらに火炎が高くなりすぎる欠点があるという。更に草葺き屋根では、夏でも夜間の冷気を遮断できず土間ではなく、中2階のベットで寝ていたとみている。小林梅次は後代の草葺き屋根と違い、天井が低いため炉の上には、火棚を設けてたという。炎の熱と煙は一気に上昇する。炉周辺は暖かいが残りにくい。火棚を設けると気流が乱れ、熱気が拡散するとともに滞留時間が長くなり、放出した煙を屋内にでは留められない。その煙の拡散は木材や茅葺の保存にも役立った。屋内の炉は調理・照明・暖房・土間の乾燥・種火の保存・木炭作り・火棚の食料保存・屋根の防腐など多用途で、調理は通常、屋外の炉でなされ、屋内炉は副次的と指摘されていた。
木炭は日本列島では縄文時代の頃から用いられていた。枝材などを積み重ねて火をつけた後、順次枝材を重ねて覆い不完全燃焼物を炭化させ、最後に覆土し蒸し焼きにする伏焼法で作られた。最古の木炭は、愛知県肱川町鹿ノ川の洞窟から人骨や 石器類といっしょに少量の木炭が発見され発見された。それが1万年ほど前のものと推定されてた。
定住化し住居構造が確立されると、寝るだけ・風雪雨対策の機能から、炉による調理と土器製作・矢柄の調整ばかりでなく、蓄積された多用途の多種の土器と石器と備蓄食料・家材道具など身近に置かざるを得ない家財が膨らみ、居住空間を広げざるを得なくなった。
やがて集落がムラとなれば、ムラ関係の諸資材も別途保管の必要が生じ、貯蔵施設・共同作業場・集会所・もがりに必要な葬祭施設が設けられた跡と推測される多数の柱穴の遺構が出土しているが、建物の用途を推測するにたる必要十分な上部構造までも明確に、その全体像を明らかにする程の遺跡が、未だ出土していない。
竪穴住居の建材は炭化材からクリの使用が圧倒的に多い。土間だが敷物があった。千葉県佐倉市井野長割遺跡1号の縄文後期の住居址から、篠竹を裂いたものを、外皮側を上に揃えて並べ、さらにもう一段直角方向に重ね、それを3重の簀の子として床に敷いていた。同県市川市掘之内貝塚の縄文晩期の住居址からは、「むしろ」圧痕のある焼けた床が出土した。植物や毛皮などを敷物にし地面からの湿気や冷気を防いでいた。
建造には、相当の時間と人力を必要とする。大形建造物となれば、事前に構想を定め用材の選別と手立てが必要で、一定の尺度基準がなければ、多数の人力を有効に活用できない。元敬和学園大学人文社会科学研究所客員研究員の藤田富士夫は東北地方から北陸地方の長方形大型建物は35㎝を基本に、長野県では縄文中期であるが40㎝を基準としていた指摘している。日本計量史学会名誉会員岩田重雄は、中指から腕と手のひらの境までとか、指を広げた親指から小指までの長さなど手長(てちゅう)を基準にしたとみている。
富山県小矢部市桜町遺跡からは、渡腮仕口(わたりあごしくち)の技法による建材も出土している。それは一方に凹型に片方を凸型に切り込みをいれ、双方の木材を頑丈に組み合わせる工夫であった。岐阜県高山市久々野町堂之上遺跡(くぐのちょうどうのそら)の縄文中期の火災住居からはほぞ穴のある建材が発見されている。部材を結ぶ紐縄はアイヌ民族はブドウの蔓を利用しているが、遺物としては未発見である。
竪穴住居址が集まった阿久村の住居地は、環状集石群の東から南にり、それは、尾根の東縁辺と南斜面にあたる。最初の住居址は祭祀場内部まで及んでいる。その前期初頭の開拓期の層からは30戸ほどの住居址と8基の方形柱穴列群が発見された。祭祀場の規模が拡大するにつれて、次第に住居は外側に追い出され、しかも、その数は減少していった。縄文前期後半の時の住居数は9棟分以上あったと思われいる。終末の縄文前期末葉には2棟分に減少している。
岩手県二戸郡一戸町にある縄文中期の集落・御所野遺跡(ごしょの)の掘立柱建物は、ネズミや害虫の被害から守るためとして高床式の倉庫に再建されている。
祭祀場が営まれその規模が拡大するにともない、住居地が制限され、阿久村の人々は離村を余儀なくさせられたようだ。それはまた、生業維持のための離村でもあった。
縄文前期末葉の大形住居(直径9.03m)の構造物に見られるような、祭祀場な集会場が出現する。 阿久村は、離村を余儀なくされ、他地域で死ぬ迄生業に励んできた人々の最期の終末地・心の救済地として変貌を遂げたのであった。 |
祭祀行為と阿久村の形
阿久遺跡では住居址から7点、住居址外グリッドから34点の計41点の玦状耳飾が出土していた。中心からやや上方にかけて穴を穿ち、そこから下部に切れ込みを入れ外に解放している。完形品は4点、接合資料はわずか1例だけである。
それぞれの形状、中央孔の位置、断面形など様々で時代間の隔たりがある。原石や剥片類の出土も認められることから、阿久遺跡で制作が行われていたようだ。付近には柔らかい滑石の原産地として、茅野市金沢、岡谷市横河川がある。
径3~4㎝、厚さ7~8mmというのが平均値であるが、ばらつきが多く、断面形もレンズ状、かまぼこ状、長方形など様々である。
関東平野北西縁の高地、碓氷川の南に広がる台地に展開する群馬県安中市中野谷字松原の中野谷松原遺跡は、縄文前期中葉から後葉にわたる大規模な集落遺跡である。住居址は約95ヵ所で、延べ239回、構築を繰り返していた。住居ができ始めの縄文前期中葉では、環状集落にまで至らず、台地の地形や等高線に沿うようにムラが作られていた。住居数も少なく同じ場所で住居を建て直したり拡張する事も無く、また定住期間も短く、未だ遊動生活が主体で、狩猟採集の生業活動に合わせて繰り返して居住していたようだ。鹿児島県南さつま市加世田の 栫ノ原遺跡(かこいのはら)のように、自然環境に合わせ、季節ごとに場所を移して住み替える生活「振り子型定住」であったようだ。縄文中期後葉、中野谷松原遺跡の住居址は、同一場所で頻繁な建て替えが行われる。同時に多くの住居で規模の拡大がなされ、住居址の構築回数も100回にまで及ぶ。この時期こ拠点集落の成長期となるが、特段、大形の住居址は存在しないものの、比較的大形で多数の炉址を有した住居址があった。この住居址が集落の要で、その居住者こそが集落の中心的な役割を果たしていたものと推定される。
当時の土壙墓群は、住居址の南側に帯状となって展開している。土坑墓には、立石を上部施設とするものが多く認められた。また副葬品に耳飾・石匙・浅鉢・深鉢などが出土したものが全体の約14%あり、これらが本集落の指導的立場の墓であった可能性が高く、社会の階層化の萌芽が認められた。その中で1基だけ玦状耳飾を伴い葬られていた。他にも石匙と垂飾を伴出した墓が1基、小形の深鉢形土器が副葬されれいるのが2基と極めて限定された人物の副葬品とされた。同様の耳飾は中国大陸にも分布し極めて興味深い。大阪府藤井寺の国府遺跡では、大正6(1917)年の発掘調査で発見された15体の人骨の3体に玦状耳飾が共伴していた。被葬者はいずれも女性であった。ムラの祭祀を司る女性像が浮かび上がる。
かつて、縄文早期末葉に住んだ先住の阿久村の人々は石器作りに秀で、特に狩猟用の石鏃や、動物の皮をはぎ解体調理し、さらに木や骨を削るほか、穂摘み具にもなる多様な機能がある石匙等を、和田峠や霧が峰産の黒曜石を用いて、多量に製作した。その際に出る石屑が、多量に出土していることからも知られる。
茅野市湯川区、音無川の左岸台地、標高は965m、昭和59年、圃場整備事業に伴い発掘調査が行われた。住居址51、土坑44、集石8、方形配列土坑1が発見された。これが縄文早期末から中期に至る高風呂遺跡であった。遺物は、特に縄文早期末から前期初頭にかけてのものが中心で、尖底深鉢の一群が、特筆される。
阿久遺跡の草創期は、高風呂遺跡の盛期と合致する。諏訪地方の縄文時代前期は、その前半と後半とでは、文化的特色に違いがある。前半期の遺跡は、霧ケ峰の南麓と八ヶ岳山麓を中心に多く分布している。それらの遺跡からは、多量の黒曜石製石器と黒曜石の集石遺構が発見される。要するに、縄文時代前期前半期も、早期の遺跡と同様、霧ケ峰一帯の黒曜石の採取・搬出・貯蔵に深く関わっていた。
阿久村草創期の人々が去った後、再び阿久尾根に村が拓かれた。この縄文前期後半になると、八ヶ岳山麓から山裾に、生業の場が広がり、その遺跡が著しく増加する。縄文中期とでは、集落規模では、劣るが、中期まで継続する遺跡が多いのが特徴である。阿久村を再開した人々は、こうした時代背景の下で、東日本と西日本の文化を融合した上で、独自の文化を伴って再登場した。その人々は狩猟用の石器は作るものの、その量は少なく、替わって盛んに木を切り、土を堀る具である打製石斧を作りはじめた。
打製石斧は縄文中期に多量に生産される植物性食料獲得のための生産用具である。さらに本格的な石皿が、定着した。このような違いは、先住の人々が狩猟重視の生活であったのに対して、後続の人々は植物性食料に重きを置いたことを意味する。 土器作りの面でも、その違いが表れた。先住の人々の土器は尖り底の、物の煮たきに用いる深鉢が多かったのに対して、各種の浅鉢が目立つようになる。同時に尖底土器は姿を消して、すべて平底となり、複雑な器形の土器が発達し、文様も装飾性に富み、縄文中期の土器への萌芽が見られる。そこからも、食料資源の変化を読み取ることができた。
縄文前期後半以降の阿久の人々は焼畑農業を営んでいた。多分、先住の人々の間にもあったであろうが、その比ではなかった。焼き畑農業はその耕地を求めて、出作り村を作る。多分、阿久村から年ごとに家族単位で離れていった人々は、八ヶ岳山麓から諏訪湖盆地にまで開拓していったようだ。
そうした土地で生命を全うした人々を、母なる阿久の土に帰すと同時に、同族集団としての結束を図るために、定められた約束の日に、阿久村の集団墓地に集合して、祖先崇拝の祭祀を行った、その祭祀場が阿久遺跡である。
縄文中期、八ヶ岳西南麓を中心に縄文文化が大発展を遂げた。原村はちょうど、その中央部にあたり、同村内には76の遺跡が確認され、そのうち出土した土器形式などで年代を特定できるものが38遺跡ある。しかし縄文前期に限定すれば、阿久に大集落が出現していながら、同時代の他の遺跡は僅かしかない。しかも最盛期を迎え中期に纏まって形成される集落が群集する尾根にまで継続される遺跡は、大石遺跡ぐらいだけだった。阿久と大石の集落の居住時期と地理的関係から、阿久の人々は時期を選んで大石に拠点を移していったのかもしれない。大石遺跡では、縄文前期から中期前半にかけての住居址53が、径約80mの環状集落をなし、1,313という多数の土坑が、遺跡全体に広くびっしりと分布していた。土器も豊富で、各時代・各型式の特徴を典型的にとらえた秀作が多く、石器を含め遺物も多量に出土している。栽培されたとおもわれるエゴマの炭化種子も検出された。それらは、十分、縄文中期文化の到来を告げている。 諏訪湖盆地に美しい姿を見せる蓼科山を崇拝し、祖先の霊をまつる風習は、だんだん増大する同族集団を収容するには、祭祀場自体、手狭となり限界に達した。日常接する事が無い中で、同族としての意識が薄らいだ者も増えてきた。宗教観も変わった。永続する定住集落は周辺環境を汚染し尽し資源を枯渇させた。焼畑農業による落葉樹林帯の破壊は、照葉樹林帯と違い復元するに歳月がかかる。そして阿久村の役割は終わり、時代は中期となる。
前期から中期へ 、前期と中期の違いといっても、その中にはいろいろな生活文化があり、それぞれ生産基盤の違い(豆栽培・雑穀栽培・麦栽培など)や文化段階、そこに周辺地の系統が異なった文化が入り、集落個々の特徴が形作られていく。
出作り村による焼き畑農業は、その活動範囲をより遠く長期間広げていった。
阿久村でみれば、その位置する八ヶ岳南麓は、山梨県側へ広く開き、境界の策定は不可能である。常に、関東を含む山梨以東の人と文化が進入して来ていた。
その生業が、諏訪湖周辺に及ぶと、難所とはいい難い塩尻峠を越えて、松本平経由で北陸文化が流入して来た。 東海地方・伊那からの交流ルートは、塩尻峠はもとより、小野通り、有賀峠、杖突峠と、極めて多岐である。しかも、後世、諏訪の国ツ神・建御名方神は、杖突峠の麓周辺を、その権力維持の基盤とした。杖突峠と伊那地方との関係は、近世以降も深い関わりの中にあった。
松代・上田・佐久の人々は、古代から続く大門峠越えで、容易に進入できた。
出土する信仰遺物から縄文前期と中期を比較すると、次のような違いが見られる。 まず前期では、阿久遺跡の環状集石群と立石・列石に代表されるように、屋外に石を用いた大規模な祭祀施設を築き、同族集団が周辺地から、それぞれ集まって共同祭祀が行われたと推定されるのに対し、中期になると大規模施設は姿を消し、さらに中期も後半になると、屋内に祭壇が設けられるようになる。これは祭祀の形がかなり大きく変化したことを意味する。中期になって登場する特徴的な信仰遺物には、立体的な土偶とか、石棒、蜂の巣石、釣手土器、有孔鍔付土器、台付土器などのほか、土器装飾として蛇体文、ミミズク把手、顔面把手などが出現する。これらは土偶を除くと、屋内から発見されることが多く、日常生活に儀礼や祭祀が浸透していたが分かる。
石柱、土偶、石棒が、それ自体、神的な存在であるのに対し、釣手土器・有孔鍔付土器(ゆうこうつばつきどき)などの土器類は、神を祀る祭祀の際に使われた神器という性格をもっている。
釣手土器は、大正13 (1927年)年、諏訪地方の遺跡・遺物を調査した考古学者鳥居龍蔵が、浅い鉢の上に「釣手」という装飾を持った縄文土器に注目をして、これを「釣手土器」と名付けた。 以来、縄文時代中期の特殊な土器であるとされていたが、諏訪の考古学者藤森栄一は、釣手土器を家の中で行う祭に使われた“ランプ”と考えた。中期の初め頃に出現した燈火器である。村の中でも特定の家だけにある、神体を照らす神聖な燈明であった。体部は浅い鉢形や椀形で、その上に天蓋状や把手状の釣手をつけている。原村柏木地区の前尾根遺跡では、顔面の意匠のある釣手土器・人面付香炉形土器が出土しているが、器形自体が、神性を帯びている。
縄文土器では高杯とはいわず台付土器という。多用な土器で、深鉢のように煮炊きによる焦げ痕は見られない。台付土器は酒造りに使われた後、供献具として酒と共に祭壇に供えられるとか、祭祀の際の灯火用とか、香炉として用いられたとか、祭祀や儀礼との関連で、その用途に合わせて異形のものが多く作られた。
縄文前期後半から中部から関東地方で口唇部に貫通する孔をいくつか巡る有孔土器が出現する。平らな口の浅鉢形であった。中期前半には、口唇部に鍔のような隆起が巡り有孔鍔付土器と呼ばれた。それには帽子の鍔のように付けられた隆帯もあり、鍔の上側から器内側に穿たれた孔を共通の特徴とする土器である。酒造用の容器であるとか、太鼓の胴体であるとか、諸説があるが、人面や人体文など、一般的によく見られる土器とは異なる文様が付けられていることが多く、祭祀的な色彩が強い土器と考えられている。 |
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