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1)日根野高吉の諏訪の治世 |
2) 初代藩主・諏訪頼水 |
3) 坂本養川の汐(せぎ) |
1)日根野高吉の諏訪の治世
家康の関東移封の後、甲・信の両国は、豊臣秀吉の勢力下となり、諏訪地方の新来の領主として豊臣秀吉の家臣、日根野高吉(ひねのたかよし)が入部して来ます。日根野氏は美濃出身ではじめ斉藤氏の家臣でしたが、高吉の父の代から織田信長に仕え、信長の没後は豊臣秀吉に仕えていました。
高吉は小牧長久手の戦いに戦功があり、さらに小田原の陣に先方として働いた功により、諏訪の地を与えられたのです。石高は、二万八千石でした。
日根野高吉は、安土城と大阪城の築城に関わったといわれています。また勇武の人で武器・武具にも造詣が深かく、兜の鉢から下がる錣(シコロ)の「日根野錣(しころ)」などは高吉の発明の一端です。 入部した頃、島崎の地は諏訪湖の波に洗われる島で、高島村という漁村でした。城を築く前は、諏訪市内背後にそびえる茶臼山((手長山の後ろの丘陵・茶臼山、今は桜ケ丘という)に有った本城の出城にすぎません。高吉は、直ぐ本城・茶臼山城を廃し、諏訪湖畔のこの小島を選んで築城を開始します。
日根野氏の諏訪在住は父子2代で、慶長6(1601)年までの12年間でしたが、この短期間に高島城の築城を行ないます。それまでは、その近くに諏訪頼忠の築いた金子城がありましたが、よりいっそう堅固な城として諏訪湖の中に突出している洲の部分を選んで築城に着手したのです。
現在、諏訪市中洲の金子城址は、平城であったためか、まったく痕跡を残していません。金子八幡宮から西側一帯が城址で、完全に宅地化されています。ただ、きみいち保育園横の橋は城道橋という名で、周辺にはここが城址であったことを思い起こさせる地名が残っています。諏訪湖へ流れ込む宮川の湾曲部を利用して、三方に天然の水堀を巡らせた城で、諏訪神社上社に近く、大熊城主の千野氏の居館が置かれた場所とも言われています。天正12年(1584)に茶臼山城主である諏訪頼忠がここに城を築いて移りますが、頼忠は徳川家康に属していたため、天正18年(1590)に家康が後北条氏の領国であった関東一円を与えられると、奈良梨(埼玉県)へ移封となります。
諏訪の領主となった日根野高吉は、文禄元年(1592)に高島城を築城する際に金子城を破却し、その石材を転用し石垣を築きます。金子城を壊してその石垣を材料にすべく舟にのせて宮川を下らせ、さらに対岸の有賀村の石船渡から巨石を運び、石垣を造ります。片羽の裏山を崩し、土石を運ばせ、寺社の大木を伐り出させなど諏訪のあちこちから適材を集めたさまは、近くの金子城が石垣までも解体され利用され尽くして、何も残らなかったほどだったそうです。諏訪地方に古い墓石がないのは、この時に石垣に用いられたからだとも言われています。
築城の地は諏訪湖の洲であり、いわゆる軟弱地盤です。その上にそのまま石垣を組んでいくと、すぐに崩れてしまう、そこで大木の生丸太を井桁状に組んでその上に石垣を組んでいくという方法を執ります。工事は過酷を極めた事が文献に残されています。郡下の老若男女を駆り出して酷使し、怠る者は石垣の中に生き埋めにし、人柱にしたといわれています。逃亡者も続出しました。日根野高吉が課した年貢が厳しく、さらに城普請の労役は過酷で、そのために、村をあげて逃散し、結果一時廃村になったという記録も有ります。
朝鮮出兵等により、完成は慶長参3年(1598)になりました。当時の規模は、本丸・二の丸・三の丸・衣ノ渡部の四郭からなり、本丸西北に三層の天守閣を築きます。まさに見事な水城で、諏訪湖と数条の河川が囲むこの城は本丸から北へ郭が続く連郭式の縄張りでした。天守閣の上には高さ2.7メートルの鯱(しゃちほこ)を乗せたそうです。現在は湖岸から数百m離れていますが、当時は湖中に突き出した浮き城で有ったそうです。
信濃なる 衣が埼を きてみれば 富士の上こぐ あまの釣舟
湖の 氷はとけて なほ寒し 三日月のかげ 波にうつろふ
この様な民衆の苦労の元に、三層の天守閣・東御殿などが完成しました。しかし、完成してからの高島城は、軟弱地盤のために石垣が次第に膨れ始め、場合によっては崩壊します。こうして高島城は 11~16年周期で石垣の修復という運命を背負います。現在、高島城は諏訪湖から1㎞ほど離れた所になりますが、これは諏訪氏の代になって、湖水位を下げて干拓工事を行った結果です。
本丸内は藩主の御殿や書院、また一般政務のご用部屋、郡方、賄方などがあり、能舞台、氷餅部屋など多くの建物で埋まっていました。天守閣の石垣と本丸正面と東側の石垣は規模が大きいが、南側と西側の石積みは簡単なものです。衣之渡(えのど)郭・三の丸・二の丸の石垣も比較的小規模でした。石垣は野面積みで稜線のところだけ加工した石を用いています。
文禄元(1592)年3月の朝鮮出兵、13万の大軍のうちの300人を率いて出征します。 日根野氏の民政にかかわる神戸村への5ケ条の掟書が残っています。慶長3年(1598)2月11日付けで、百姓向けの法令としては、諏訪ではもっとも早いものとされています。
一、神戸村は450石とし、7公3民の制で百姓をさせるから精出して働き年貢を納めよ
一、洪水で荒れたところは、秋にできばえをみて年貢をきめる。
一、たいしょう院(寺)分は希望者に耕作させ、秋に作柄を見た上で上納させる
一、未納は許さない。逃散したものの分は3人の代表者(与右衛門・源七郎・神七郎)が代わりに収めよ
一、嘉兵衛・小内に検見をさせ、その帳面で勘定させる
7割上納、高島城構築の課役、朝鮮出兵と諏訪の郡民は辛苦に喘ぎます。 文禄2(1593)年には戦国時代の城下町・上原から奈良屋仁右エ門をはじめ多くの商人を移らせて城下町を作ります。この時から上原を古町とよび、下桑原村にできた城下町を新町とよびます。
明治維新の改革で高島藩は消え、明治8年には天守閣も破却されましたが、翌明治9年本丸跡は、高島公園として公開され、護国神社も祀られています。諏訪市の在城260余年間、一度も百姓一揆などがなく、これといった暴政がみられない高島藩でした。 高島城は衣之渡(えのど)川・中門(なかもん)川など川を掘とし、諏訪湖と沼沢池に囲まれ、縄手だけが城下に通じていました。
2) 初代藩主・諏訪頼水
初代藩主・諏訪頼水は、頼満とも書き、9歳で上社大祝に付き、天正18(1590)年、小田原征伐まで在位します。惣領家からでた最後の大祝です。天正10年、父・頼忠に伴われて、甲府で家康に拝謁し、徳川氏に帰属します。 慶長5(1600)年、徳川家康は会津征伐に向う途上、石田三成が兵を挙げたため、家康は小山で引いき返し、自らは東海道を進み、秀忠には中山道で関が原に向わせます。秀忠軍中には、上州惣社の領主・諏訪頼水が兵360人、諏訪の領主・日根野吉明が兵840人を連れ従軍していました。当時、隠居の頼忠は江戸城本丸の守備を担っています。秀忠は上田城の真田昌幸に翻弄され、木曾の妻籠で関が原の戦いが終った報に接します。この時、諏訪頼水と日根野吉明は上田城を囲む軍中にありました。
10月12日本多正信より頼水宛に書状がもたらされて、関が原の戦いの恩賞として諏訪郡の領主に戻すとの内報を得ます。家康は功労者には旧領地に帰してやる方針でした。10月15日、秀忠から宛行状(あてがいじょう)が下されます。
「信州諏訪郡の事 右当家旧領たるにより宛行われるところ相違あるべからず、いよいよ以って忠信をぬきんずべきものなり 、領地の状凡て仍て件の如し」 こうして、諏訪頼忠の子諏訪頼水が旧領高島藩に復します。当初2万7千石、大坂の陣の勲功で5千石加増、三代諏訪忠晴が、父の死去により後を継ぐと、弟の諏訪頼蔭と諏訪頼久に合わせて2000石を分与したため、高島藩は3万2000石から3万石となります。高島藩は10代を継いで、明治維新まで270年間、諏訪氏が高島城・城主とした明治を迎えます。
頼水は諏訪に戻り、そのまま日根野氏築造の高島城を引き継ぎます。その上で上川を導引して濠とし、藩士を城下町に集めて屋敷を与え、二之丸には家老・諏訪家を、三之丸には家老・千野家を配置します。大手門から本丸の間には、志賀・前田・牛山などの重臣を住まわせ、城南の島崎にはその家格に次ぐ家臣を配置、軽い身分の者は、裏町や片羽に集め、さらにごく軽輩ものは1里2里の郷村にも散居させます。 頼水は新田開発にも熱心で、諏訪湖の釜口の水位を下げる工事を行い、城の付近も干拓させ水田とし、以後、水城の趣がなくなります。戦国の世も終わり、城の堅さより、諏訪は平地の大部分を諏訪湖が占めているので干拓して、水田を一層増やした方が得策と考えたのです。度重なる湖水の水位を下げる工事のため、次第に高島城は諏訪湖から離れ、「浮城」の風情はなくなります。
平城としては日本で最高の 標高760mの地に築かれた高島城も、現在では本丸跡が残るのみで、高島公園として整備されています。 また破却前の天守は、諏訪の寒気に耐えられる瓦が無かったため柿葺(こけらぶき)だったらしく、郭内に温泉もありました。 三之丸本丸跡への入り口には冠木門(かぶきもん)も復元されています。御殿裏門は、藩主の別邸であった三之丸御殿の裏門で、昭和63年に移築されました。ここは、かつて御川渡御門と呼ばれた門があった場所で、城が湖に面していた頃は、ここから舟で漕ぎ出すことが出来ました。
日根野高吉は慶長5(1600)年6月23日病を得て諏訪で没し、慈雲寺に葬られます。高吉の子・吉明が14歳で継ぎますが、関が原で目立った功績もなく、そのうえ豊臣大名であったため、慶長六年(1601)吉明は、下野国壬生(みぶ)に1万2千石に減石のうえ移封され、そののち九州豊後の国府(大分)に移されます。
諏訪氏が11年前に関東に移った時、主だった地主の武士も在来の領地から離れました。関東の新領地の経営は、諏訪氏が近世大名に変わる転機になったのです。いわゆる領主が領民を直接支配し、小地主の介在を許さない蔵方知行を主にした新しい封建社会の創造でした。それで諏訪郡に戻ってからも家臣に与えられるのは、昔の地方(じかた)知行ではありません。中世の名主層が武士化して、そのまま地方知行をうけ、その地域内の検地・貢租率決定・貢租徴収権を維持していたら兵農分離も進まず、藩主の一円支配も難しい、それで藩士を城下に住ませ、純消費生活をする官僚として機能させます。それで頼忠は、新しい知行には蔵方を与え、地方知行を給するときは、石高を指定して幾村かに細かく分けます。そして新規召抱えは蔵方知行にします。武士と農民との結束を嫌ったのです。
かつて諏訪にも在地の武士が沢山いました。ところが既に近世大名化していた外来の日根野氏の11年間の統治は、それを当然のように簡単に崩してしまいました。それで諏訪氏が復帰した頃は、既得権益を無視し、頼忠・頼水の思うまま知行地を与える事ができたのです。ただ、二ノ丸家の岡谷村、三ノ丸家の有賀村・中村は、合給(あいきゅう)のない地方知行で、二つの例外でした。それは家老家に対する特別扱いです。
頼水は公務に厳しく、年貢の催促など細かい政務まで家老に厳しく指示するなど、独裁者的な面が強かったようです。そのためもあって蕃の基礎は、早く固まり、釜口の治水・湖辺の水田の干拓・八ヶ岳山麓の新田開発など目覚しい成果を上げていきます。諏訪市の在城260余年間、一度も百姓一揆などがでるような暴政はありません。 高島城は衣之渡川・中門川などの川を掘とし、縄手だけが城下に通じています。繩手通りは両側が蓮池と言われた沼地で、ただ一筋の道が伸び、その北端一帯が柳口で蕃の役所があり、白州も村役人を呼び付け命を下す役所もありました。その先、衣之渡(えのと)川の手前の曲がり角に大手門がありました。
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藩主 |
官位・通称 |
出自(実父・嫡出関係) |
初代 |
諏訪頼水(よりみず) |
従五位下 因幡守 |
諏訪頼忠の長男(1570~1641) |
二代 |
諏訪忠恒(ただつね) |
従五位下 出雲守 |
諏訪頼水の長男(1595~1657) |
三代 |
諏訪忠晴(ただはる) |
従五位下 因幡守 |
諏訪忠恒の長男(1639~1695) |
四代 |
諏訪忠虎(ただとら) |
従五位下 安芸守 |
諏訪忠晴の子(1663~1731) |
五代 |
諏訪忠林(ただとき) |
従五位下 因幡守 |
分家諏訪美濃守頼篤の二男(1703~1763) |
六代 |
諏訪忠厚(ただあつ) |
従五位下 安芸守 |
諏訪忠林の二男(1746~1812) |
七代 |
諏訪忠粛(ただたか) |
従五位下 伊勢守 |
諏訪忠厚の長男(1768~1822) |
八代 |
諏訪忠恕(ただみち) |
従五位下 伊勢守 |
諏訪忠粛の長男(1800~1851) |
九代 |
諏訪忠誠(ただまさ) |
従三位 因幡守 |
諏訪忠恕の長男(1821~1898) |
十代 |
諏訪忠礼(ただあや) |
従五位下 伊勢守 |
一門諏訪左源太頼威の二男(1853~1878) |
街道整備 慶長6年(1601)から徳川家康は、江戸を中心とした5街道を官道に指定して整備を命じます。配下である大久保長安を中心に、中山道の整備が開始されます。中山道は、日本橋を基点として板橋から大津まで69次131里で、慶長9年に永井白元・本多光重が命を受け1里塚を作ります。この道は和田峠を越して下諏訪に入り、東堀村から旧塩尻峠をぬけて、木曽路に抜ける、これにより諏訪地域には下諏訪宿が置かれるようになります。下諏訪宿は中山道で唯一温泉が湧き出る宿場で、温泉の湧き出る箇所を結んで旅籠が発達した為に、Uの字に曲がった宿場となりました。中山道で最も険しいとされる和田峠を控えた宿場でもあったため、多くの旅人で賑わいました。和田峠は標高1531m、中山道第一の高く険しい峠でした、中山道一番の難所といえます。下諏訪宿から和田宿までの距離は、中山道ではもっとも長い5里半(21.6km)もあります。それで20町約2Kmごとに桶橋・西餅屋・東餅屋などの茶店を設け、その補助として年1人扶持(米4俵)を与え優遇します。また茶屋は立場(たてば【街道沿いで人夫などが籠などを止めて休息するところ】)として人馬の乗換えにも利用されました。
西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の5里18丁の峠路に設けられた「立場」です。ここに茶屋本陣の小口家と武居家、犬飼家、小松家の四軒があり、藩界にあったので、ときには穀留番所が置かれました。
下諏訪側の峠近くは急坂で風雪の時は旅人も人馬も難渋しました。大雪の時には雪掘り人足も出動します。下原村の名主藤五郎は、安政2年(1855) に避難場所と荷置場を造ろうと、幕府奉行所に口上書を差し出し、馬夫の拠出金、旅人等の助成金を乞うて、五十両ほどで石小屋を築きます。石小屋は、山腹を掘り除き高さ約2mの石積みをし、この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので、石垣からひさしの雨落ちまで2.3m長さ55mという大規模な設備でした。人馬の待避所や荷置場には絶好の施設で、その後、慶応3年に修理されますが、現在は石垣の、一部を残すのみです。
また、江戸から甲府を経て中山道の下諏訪宿と合流する街道として甲州道中が整備されました。内藤新宿を第一宿に、甲府に通じた甲州街道も5街道の一つ、それが伸びて下諏訪宿で中仙道と交わります。 諏訪地域の宿場としては、上諏訪宿(諏訪市)、茅野宿(茅野市)、金沢宿(茅野市)、蔦木宿(富士見町)がありました。宿場は旅行者を宿泊させるだけではなく、立場として人馬を継ぎ立てて荷物などを運搬する役目もあります。宿場以外の村が、それを行う事は禁じられています。宿場と宿場の村を、間(あい)の村とか間(あい)の宿(しゅく)といいます。上原村がそれでした。ただ同じ道中ですから、宿場と同じ仕事をして稼ぐこともできます。すると本来の宿場から高島藩へ訴えが出ます。藩は再三、宿泊はもとより食事の提供も禁じるよう命じています。甲州道中を使用して江戸へ参勤交代をする大名は、飯田藩(堀 大和守 2万石)、高遠藩(内藤 駿河守 3万3千石)、高島藩(諏訪 伊勢守 3万石)の3大名で、前者2大名は金沢峠を越えて、金沢宿・蔦木宿を経て江戸に出ます。時折御茶壷道中や地方に領地を持つ旗本が通行する街道でした。
御茶壷道中とは、将軍御用のお茶を、宇治から江戸へ運ぶ行列を言い、9代将軍・家重の頃までは、中山道を下諏訪まで来て、上諏訪を通る甲州街道を使いました。金沢宿・蔦木宿を経て、甲府から笹子峠を通って大月から都留に到り、秋元侯の居城・城山の3棟の御茶壷蔵に納められました。御茶壷道中は、将軍御用なので将軍と同格に扱われ、子供などは、お通りのとき不都合が生じないように、「トッピンシャン」と家の中に閉じ込められました。 参勤交代の制度は、3代将軍家光が大名統制の1つとして寛永(1635)12年の「武家諸法度」で定められ、翌19年に整備され、参勤交代の往還の道筋は諸大名ごとに厳しく指定されています。結果、東海道は159藩、中山道は34藩、日光道中は6藩、奥州街道は17藩、甲州街道は3藩、その5街道以外の水戸街道は25藩とされました。
また家康の命日に、朝廷は日光東照宮に参拝する勅使・日光例幣使を遣わします。道筋は中山道を通り和田峠・碓氷峠を越えて日光に向かったが、帰りは江戸から東海道を使います。日光例幣使は、4月8日に下諏訪宿に泊まります。 この一行は、賃料・宿料を払わないどころか、出掛けに草鞋銭を要求したりします。貧窮にあえぐ公卿の旅稼ぎでした。
文化6(1809)年9月23日に伊能忠敬は和田峠から上諏訪方面を測量し、同8年4月19日に三河から伊那を測量して諏訪に至り、甲州街道を測量しながら江戸に帰っています。
文政3「1820」年、十返舎一九が甲府から諏訪に旅をし、さらに伊那の大出に向かいます。
3) 坂本養川の汐(せぎ)
諏訪の新田開発の勢いは元禄のころに一時衰えます。これは開発できる土地がなくなったためではなく、当時、諏訪地方では水利の技法がなく、自然の河川の流れに即していくしかなかったのです。水さえあれば、開田できる空閑地はまだまだありました。八ヶ岳山麓、柳川から立場川の広大な台地は、水利がなく草刈場として放置されていたのです。このとき新しい用水体系を工夫したのが天明年代の坂本養川です。養川は1736年3月15日に、田沢村・現在の茅野市宮川で生まれ、16歳で家督を継ぎ23歳で名主になりますが、18歳の頃から、近畿一帯を旅し、土地開発の実状を見聞し、その後江戸に出て21歳から8年ほどかけて関東7か国の詳細な開田計画を立てています。これは病を発症して実現できませんでした。
諏訪に戻った養川は、蓼科山から流れる豊富な水量の利用を考えます。滝の湯川や渋川の余り水や各所の出水を繰越汐(くりこしせぎ)の方法で、農業用水として八ヶ岳山麓に流すのです。自然の川が、谷に沿って流れ下るのに対して、汐は等高線に沿うかのように、一部では谷を超えて、山肌を横に流していく、滝之湯堰や大河原堰など新しい用水路の開削によって農業用水を作り、水稲の収穫高を飛躍的に増大させようとするのです。この計画を安永4(1775)年12月、家老・(二之丸家)諏訪大助に願い出します。
養川の一大水利事業計画は、高島藩の混乱期(二之丸騒動)でもあり、その当時の家老に人材を得ず、一方、藩主・6代忠厚は病弱で帰国することが少なく藩政をかえりみない最悪の状態の中で許可が得られません。養川は山浦地方の模型を作って、柳口の役所に説明に出向いたり、郡奉行・両角外太夫の実地見分を実現したりしたが、計画の採用に至りません。そのうえ湯川や芹ケ沢の水元の村々で、自分の水利が侵されると、養川の暗殺計画を図る者まで出現します。
蕃の騒動は、天明3(1783)年、二之丸家断絶と蕃主・忠厚の隠居で結末をみます。高島蕃は多年の財政難の上に、この事件の失費と天明3、4年の大凶作で、流石の頑迷固陋な家老・(三之丸家・二之丸騒動の勝者)千野兵庫も養川の計画に期待せざるを得ません。天明5年2月大見分、7月18日普請の開始、寛政12(1800)年までに約350町歩の開田を成し遂げます。
養川の工夫は単純な用水路の開削だけでなく、渋川の流れに魚住まず、その水は稲作に適さない、それで幾度かの繰越汐をへて他の水と混ぜることにより水質の改良を行っています。
養川は享和元(1801)年、小鷹匠として藩士となり16俵2人扶持と抜高(免祖地)15石を与えられます。大正4年11月の御大典に、従5位を追贈され、歴代高島蕃・藩主と同位となります。養川の汐は山浦地方に膨大な水田を生み、その生産の恩恵は後世に及びますが、もともとあった旱魃時の水争いはより頻繁になり、農民同士の血の抗争はより激しくより拡大します。これは、諏訪湖辺の開拓に通じるものがあり、ただ時代の限界としか言うようがありません。ただ頼水・養川の功績は大きいのです。
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