第一次世界大戦(World War I)は、大正3(1914)年から大正7(1918)年にかけて戦われた人類史上最初の世界大戦であった。
 大正13(1924)年  1月26日 ソ連が、ペトログラードをレニングラードに改称
              2月 1日  英国がソビエト政権を承認
              2月 7日  イタリアがソビエト政権を承認

製糸不況、その政府と県の救済対策

 目次           Top
 1)不況下の諏訪の製糸業
 2)製糸業界とニュー‐ヨーク市場の関係

1)不況下の諏訪の製糸業
 大正4(1915)年3月、帝国蚕糸株式会社が、蚕糸業を安定させる意図で設立された。
 神戸大学 電子図書館システムの一次情報表示によると、時事新報の大正4年5月19日の記事が
 「帝国蚕糸株式会社にては、十七日午後二時より横浜銀行集会所に於て、評議員会を開催したるが、 出席者は重役全部(小野氏欠席)評議員十発名にて、主務省よりは上山農商務次官、今西技師相談役渋沢男爵、芳川理事等臨席原氏座長の許に開会せられ、原氏は先ず会社創立前後の糸況一般を記したる左記の報告書を配布して、報告に代え終って、蚕糸会社の今後採るべき善後策に就き、重役を代表して左の如く述べたり」(中略)
「帝国蚕糸株式会社創立前後の糸況一般
 大正三年度の生糸市場は、前途頗る有望と目され、新糸当時には巳に上一番一千円以上を稍(やや)へ漸次其好況を期待されしに、計らずも八日、早々欧洲の大乱突発し、以来市況は日に日に其□を加えて、糸価崩落に次ぐに崩落を以てし、十月に至りては、遂に六百八十円□の気配をも塁し、更に一層の低落を見るべかりしに、此時横浜市場に七百円以下売止めの勘定行はれ、一面に於て生糸業者の操業短縮と相俟て、僅かに七百円を維持し居たるが、当時漸く蚕糸業救済の声高まると共に、徐々に糸価上は向き来り、漸く七百二十五円に引返したる折柄、愈々救済法案議会提出の報あるて気配益々夏好に、相場は更に昂進して、上一番七百五重円とはなりたる。然るに不幸にして議会解散となりし為め、一時稍人気を阻害したるも、□て再び救済実行の期待となり、是れに誘はれて実□市場に相当の需要を喚起し、今春一月には上一番途に七百七十五円を示し、定期先物の如きは八十一円二重円をも現出するに至れり。其後救済案の発表手間取れし為め、再び人気消沈し、二月には上一番七百六十円に下落し、月末更に十円方の不味を示したれば、茲に又々七百六十円以下売止めの□行をなすの止むなきに至り、定期市場も亦た、先物七十五円十銭と崩落したり。然るに三月に入るや、愈救済の実行を伝へて、市況頓に活気を呈し遂に当局者より其実行を言明せらるるに及び、市場全般の気配は、全く一変して将来日として相当の売行を見ざるはなく、随て相場も漸次昂騰して、上一番八百円を告げたる。次いで同月二十日帝国蚕糸株式会社の創立総会となり其成立確実する。や□々海外の新注文続到し、日々の売行五六万斤を下らず多きは十数万金に達したるありき、如此にして三月中の総売行は、二万二千二百梱を算するを得たり。四月一日愈当社営業開始の運びに至るや、市況は甚だ好影響を受けて、益々活躍し以前連日海外注文の入電絶々ず、相場更らに上騰して上一番は八百二十円を示し、殊に欧洲向き絹糸弁に折返の如きは一層の好況を告げ、頗る割高に売行きたり、是等を昨秋の最低値に比すれば、実に上一番は百斤に付百二十円方を(七百円売止めの相場に比較して如此なれども当時の気配よりすれば百四十円方の引き返しと見るを得べし)、絹糸の如きは百五十円方を引戻し、其他の各種皆之に準じて相当の引返しを見たり。而して定期市場に在ては、四月一日席もの八十四円二十銭を告げ、之れ亦た最低相場に比して十九円十銭の昂騰を示したり 。
 爾後引続き好況なりし、市況も流石に質疲れの気味を呈し、四月中旬以後に至りては、上一番八百円に下落し気配漸く軟弱に陥り、本場極めて沈静したるに依り、其の二十三日、当社は始めて生糸買収に着手し、当社の買収価格に合格したるものは、市場の全部を挙げて買収す可きを声明したるに、其買収に応じたるもの僅かに一千六百梱に過ぎず。然して市場は早くも其刺激を受け忽ち気勢転換し、再び日々多数の売行を見ると共に、相場上一番八百十円に引返し、暫く何等当社の手を用ゆるを要さざるに至らしめ、今日に及んでは、市場は今後僅かに一万五千梱の浮動荷口を擁するに過ざるに至れり。斯くて自三月一日至五月十一日、売行高総計は六万千七百個の多数を示したり。之を要するに昨秋糸況最も不振の際は、在荷五万余棚の多きを抱き、上一番は七百円以下の気配を呈して、前途尚ほ頗る暗□一時の応□として、或は七百円以下売止めの協定となり、或は操業の短縮となり、其他有らゆる手段を操りて、以て糸価維持に努むる所ありしが、□にして政府は蚕糸業の疲応が、国家に重大なる関係ある所以を明瞭せられ、其救済を実行せられしより市場は全く□へりて、面目を一新し茲に蚕糸業者は大に意を安んじて後、円を蓋し以て新らたなる発展に出でんとするを得たるは実に一般の降伏とする所なり」

 大正4(1915)年3月に設立された帝国蚕糸株式会社は、会社発起人の売込問屋や原三渓(富太郎)など大手の製糸家、銀行、輸出商が出資していたが、総資本7百万のうち5百万円は政府助成金であり、当然政府の監督を受ける特殊法人であった。1915年、20年、27年の3回に亘って設立された。その目的は、助成金を交付し、あるいは低利融資を行って生糸を買収させ糸価を維持することにあった。利益は0.8%の配当で、欠損が生じれば政府の出資金で充当するとした。更に剰余金が生じれば蚕糸関連の公共事業に充てるとした。この年の4月と5月の2度、諏訪などの信州上一番が72,752斤買収された。しかし糸価は一向上向かず製糸業者の困窮度は増した。
 事例研究として、生糸の市場価格の変動を見ると、米・独の国交断絶があった大正6年、2月1俵1,100円が1,270円となり、8月1750円、9月1359円、10月1,200円、翌7年、大戦終結後の操業短縮により1,350円を維持し、当時伊、支、米国などの戦後復興景気により、11月2,470円、12月3,000円、その年末は3,420円となった。
 大正7(1918)年7月22日、富山県で米騒動が起こり、そして11月11日、ドイツが休戦協定に調印し、第一次大戦が終結した。
 第一次大戦が終結により、それまで中国大陸に有していた独占的地位が崩れ去っていった。輸出の増大で急成長した綿糸・生糸などの産業への影響は深刻で、とりわけ輸出依存度が高い製糸業は深刻であった。その後も世界経済の大変動に翻弄されていった。  ところが翌大正9年、欧州各国は、戦後の疲弊に苦しみ、贅沢品輸入阻止の措置を行うと、7月、輸出生糸の本命である上一番が1,100円と暴落した。
 大正10(1921)年5月、横浜港の帯荷8万梱、帝国蚕糸(株)で持荷7万2千梱を抱え、1,150円を漸く維持した。
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災で横浜市場は壊滅した。一時は米国の糸価は、2,500円に暴騰したが、直ぐに急落した。翌年13年、海外のレーヨンなど人造絹糸が普及し、生糸価は大幅に下落する。14年、15年は、1,500円前後で推移して、昭和となる。
 その戦後の恐慌を経て、昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の大暴落をきっかけに勃発した世界大恐慌と翌年1月の井上準之助蔵相の金解禁による経済環境の大変動に、江戸時代末期より日本の輸出産業の花形であった製糸業界も、それまでと異なる国際的条件下に順応できなかった。
 昭和4(1929)年に、政府は糸価安定融資補償法を制定し、政府が生糸千斤(600g)につき12,500円を融資し、最低補償を1,900円とし、全国で18万梱を買収したが、世界恐慌のなかで糸価安定の目的は達せられなかった。
 昭和6年3月、「蚕糸業組合法」が公布された。これは蚕糸業各分野の統一的カルテル立法であった。これに基づき「長野県製糸業組合」が結成され、県の融資を期待して一釜当たり50円合計350万円を申請した。その資金の半分は賃金に充当され、残金は翌7年の事業資金にする予定であった。長野県会では、県債を発行して150万円を限度として、賃金支払に充てるということで議決された。県知事は組合役員の個人保証を融資条件とし、輸出生糸の1割を横浜出張所へ出荷させ、減産を付加条件とした。同年、糸価安定融資担保生糸買収法および糸価安定融資損失善後処理法を制定、政府が滞貨を買収し、政府・銀行・製糸業者の3者で損失を負担した。
 その後でも不況は続き、7年には短期購繭資金156万円、8年200万円、9年139万円が「長野県製糸業組合」から融資されている。
 昭和8年度の購繭資金の諏訪郡への融資状況は
 平野村   47工場 557,500円。  川岸村    13工場 119,300円。
 長地村    6工場  21,800円。  湊村      7工場  45,300円。
 下諏訪町   5工場  48,100円。  上諏訪町   4工場  22,500円。
 金沢村    1工場   7,900円。  水明村     1工場   1,900円。
 以上合計、84工場、824,300円であった。最高融資額は金山社本部の5万円であった。

2)製糸業界とニュー‐ヨーク市場の関係
 大正13(1924)年から15年まで、岡谷の製糸家より欧米絹業視察の目的で派遣された古村敏章は、その著書『生糸ひとすじ』で「紐育(ニュー‐ヨーク【New York】)の糸格と糸価 」について、下記のように書いている。
 「紐育市場は全く公開されておらないので、調査の基礎を異にすれば結果もしたがって異なる。それを米国絹糸業協会商務官事務所或いは新聞社輸入商等から打電されたものであるから、正確な格とそれにたいする価とを知る事は頗る困難な事である。各商館は毎朝呼価(Offer)をお得意へ通知するけども、それが実際の売価とならない、相手の性質や信用に依って千差万別であって同一商館の同じ商標の糸でも必ずしも一定の価で売られるものではない。
 機業家は自己の使用目的に叶え糸であれば、思い切って金を出させるが、万一それに反すならば、如何に横浜に於ける優良糸を提供しても喜ばないのである。その使用の目的は機業家毎に異なっておって、靴下を製造するものは斑のない、ラウジネスのない糸を最高級とするであろう。(ラウジネスとは、肉眼では見えにくい小さな糸屑のかたまりができ、一見ほこりやちりが付いたような状態となり、毛羽状・斑点状を呈し、これは、非常に細かい繊維が分裂して絡み合う為に起こる現象であった。ラウジネスが原因で、染料の吸着は同じでも、繊維が細くなったところは染めムラになり、特に濃色のものに顕著に出る。) 縮緬を織るものは、撚りのきく大節のない糸を喜んで求めるであろう。
 その外あらゆる種類に必要な条件があるのだから、万人に向くような無欠の糸が出来ない限りは、需要者に依って糸格は定められるようになって、横浜で最高級であるから紐育で、必ずダブルエキストラで売らなくてはならないと言うこともない。
 随って一にも二にも粗製乱造下級糸と言われる諏訪の糸でもグランドダブルエキストラで羽が生へて飛んで行くのもある。又甲で取り替えられた糸でも、乙は回してやれば大喜びで納まる様な実例も時々ある。或いは好況来と共に市場が活躍すれば、憂ゆるところは如何にして需要を満たし得るかの一点に期する事になり、下級品と名付けられたものは跡を絶ち、生糸でさえあればよいことになる。
 これに反し不況期に於いては、次第に下級品が現れ苦情取換え値引等のために、市場は悪化し最後は製糸家の不自覚を攻め、一番弱い女工が叱られて終りを告げる。
 こうして、需要者の勝手や供給者の商策や糸況に依り、紐育に於ける糸格と糸価は変転極まりなく、表面次の如き名称はあるが、決して実質を代表すべきものではない。
 グランド ダブル エキストラ
 クラシック ダブル エキストラ
 ダブル エキストラ(最優格相当)
 ベスト エキストラ
 エキストラ
 ベスト ナンバー ワン ツー エキストラ
 ベスト ナンバー ワン」
 そして更に言い募る。
 「世界の5大国とか、3大国とか言って自惚れているが、紐育の財界の一上一下で日本の財界はその波の如く動き、輸出の大宗を誇る生糸も米国の景気に支配され、わが国の製糸業者は明け暮れ紐育の活況ならんことを希い、寸時も脳裏を去る時が無い。殆ど経済界から見れば米国の属国であるかに思われる。」

 まさに当時の製糸業界の実状を端的に語るものである。しかも『一にも二にも粗製乱造下級糸と言われる諏訪の糸』と当然のように述べている。それが一般的な評価であった。諏訪の製糸業が崩壊していく原因でもあった。ただ、当時の片倉製糸郡是製糸における海外にも受け入れられる優良製糸製造のための卓越した経営努力を思うと、卓見にはほど遠い報告であった。単なる現況報告に終わっていた。国内では、既に片倉製糸や郡是製糸が、技術的優位に立ち、寡占化を進めていた。古村敏章のいう状況を、打破すべき解決策は、既に講じられていた。

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