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諏訪湖は、江戸期までは非常に水質がよく、琵琶湖や河口湖から蜆が放流され漁業も盛んであった。 |
目次 |
1)戦国時代の諏訪氏 |
2)、木曽義昌 |
3)、諏訪頼忠、徳川家康に帰属 |
4)、小笠原長時の小笠原家 |
5)、諏訪頼忠の治世 |
16世紀半ば、諏訪氏には諏訪郡以外にもその所領がありました。文明15年の争乱で諏訪惣領家の諏訪政満が嫡子宮若丸(14歳)と共に、大祝家諏訪継満により謀殺されました。翌文明16年(1484)12月6日、政満の第2子宮法丸が、桑原の高鳥屋城の居館の神殿で精進潔斎をして28日に大祝となります。5歳でした。後の安芸守頼満で諏訪中興の英主と称えられます。ここに諏訪家の惣領家と大祝家の2家が再度統合されます。当時諏訪全域が統一されていたわけではありません。前大祝の継満は大熊(諏訪市湖南)に新たに城を築き、翌19年には、高遠継宗は諏訪に攻め入り、有賀、福島(諏訪市中洲福島区)で合戦をしています。しかし大祝宮法丸は元服し頼満と名を改め、成長に伴い軍事祭事の両権を掌握し、上原城下の居館に拠って諏訪全域を領有します。積年にわたり敵対してきた武田信虎と天文4年(1535)9月17日、両国国境の境(堺)川で和議が成立します。堺川は現在の富士見パノラマスキー場に登る車道の南を、入笠山を源流にして流れています。和睦すると頼満は、天文6年松本の小笠原長棟を塩尻に攻め、その勢力を伊那の北部まで拡大します。しかし天文8年、背中に腫れ物が出来、12月9日60歳で逝去します。墓所は永明寺でしたが江戸初期焼亡し今は定かでないようです。後嗣は嫡子頼隆が早世したため、孫の頼重24歳です。 その頼重が信虎の3女、弥々御料人を室に迎えます。ここが重要なのですが、輿入れの際、化粧料として境方18か村を持参するのです。以後甲斐との国境が現在のように東に寄るのです。その18か村とは、稗之底(ひえのそこ)・乙事(おっこと)・高森・池之袋・葛久保(葛窪)・円見(つぶらみ)山・千達・小東(こひがし)・田端・下蔦木・上蔦木・神代(じんだい)・平岡・机・瀬沢・休戸・尾片瀬・木之間村です。甲六川(こうろくがわ)と立場川の間の領地を持参したのです。 諏訪郡が一つの政治領域として確立したのは、天文11年(1542)、頼重が武田晴信に滅ぼされ武田の分国になり、晴信はその時始めて諏訪一郡を統治単位としたのです。そして晴信は、初めは上原城に、後に茶臼山(上諏訪桜ケ丘:手長山の後ろの丘陵・茶臼山、今は桜ケ丘)に城代をおいて諏訪一円を統治します。 天正10(1582)、織田信長は武田勝頼を滅ぼし、甲斐・諏訪をその支配地とします。この時の甲信進撃には、関東口が北条氏政、駿河口が徳川家康、伊那口が織田の本隊・織田信忠、飛騨口が金森長近ら錚々たる武将が軍平を自ら率いています。信忠は途中飯島で宿営し、28日には破竹の勢いで高遠城へ進撃します。3月2日払暁卯刻(6時)、総攻撃の指令が発せられます。信忠軍は5万、三峰川の勝間、藤沢川の的場、そして大手筋の三方から攻めかかります。対する城兵は、城の東、月蔵山(がつぞうざん)の麓に出て、防戦しますがその数、僅か1千人でした。戦いは壮絶を極め、討死にする者が続出し、守将の勝頼の異母弟・仁科五郎盛信は最期をさとり、桐の葉の鎧を脱ぎ捨て、短刀を抜いて左の脇腹に突き立て、右の脇腹2,3本ごとかっ切り、腸を掴み出し壁に投げつけたといいます。曽根十左衛門が介錯します。彼はその刀を口に含み、前倒れして壮絶な最期を遂げます。敵方の史料である「信長公記」でも、その仁科五郎の戦ぶり、死に様が絶賛され、後世に広く語り継がれます。
切腹後首級は信忠のもとに届けられますが、盛信を敬慕する領民によって胴体は手厚く、三峰川の対岸にそびえる五郎山山頂に葬られ、墓所には現在でも献花が絶えないと言われています。時に盛信は19歳です。 信忠は高遠城攻略後、翌3月3日、杖突峠を越えると諏訪大社上社を焼き、同時に下社社殿も焼失させます。武田氏が崇拝し関わりが深い諏訪明神と諏訪家勢力の根源を截とうとしたのです。これ以後も諏訪家は逼塞せざるをえませんでした。
信長は3月5日安土城を出発して諏訪に向かいます。 3月6日呂久(ろく)ノ渡しで仁科五郎信盛の首実検をし、岐阜の長良川の河原にさらすように命じます。3月14日平谷を越えて根羽で、勝頼、信勝の首実検をし、飯田でさらした後、長谷川宗仁に命じ、仁科五郎と武田典厩と共に京に運ばせ、三条河原にさらさせます。17日飯島、18日高遠と泊まり、翌日杖突峠を越して上ノ諏訪の法華寺を本営として、4月2日まで諏訪に滞在します。 3月20日には木曾義昌が出仕し、太刀1刀、馬2匹、金200両を献上します。信長は義昌の早期の内応を賞し、褒美として梨地蒔の太刀と黄金100枚が与えられ、本領の木曽が安堵され、その上、筑摩と安曇の2郡が与えられます。徳川家康のこの日拝謁しています。その日の晩、信長は、早くから帰属を求めてきた武田氏親族の穴山梅雪の本領を安堵します。翌日、北条氏政の使者が、太刀、馬、酒などを献上します。このほか、飯田の小笠原信嶺、松本の小笠原掃部(かもん)太夫も、馬、太刀を献上して戦勝の祝いに駆けつけ、それぞれ本領を安堵されます。23日には滝川一益が呼ばれ、上野国と信濃の佐久と小県の2郡が与えられます。その結果、梅雪所領を除いた甲斐四郡と諏訪郡を信長はその部将・河尻鎮吉(しげよし)の所領とします。河尻は弓削重蔵を諏訪郡支配の代官に任じます。このとき迄わずかに残っていた諏訪社の郡外の所領は、すべてを失うことになります。また、高井、水内、更科、埴科4郡は、森長可が、伊那一郡は、毛利秀頼が領有します。 頼忠の諏訪氏再興までに、その血脈を武田氏に滅ぼされた最期の郡主・頼重の父頼隆の弟満隣(頼隣)が受け継ぎ、さらにその子頼忠へと引き継がれてきました。満隣は、武田氏40年の諏訪統治の間、安国寺や竜雲寺に僧体となって隠れ、子・頼忠は大祝として軍事には関わっていなかったのです。 武田晴信は、始めは上原城に城代をおきますが、いつかは明らかではないが、茶臼山城にこれを移し、永禄9(1566)年には茶臼山城に城代は既に居ました。政庁は、角間川扇状地、下桑原郷の岡村に置かれて、はじめて上諏訪が政治の中心になります。後に旧臣に擁立された諏訪頼忠は諏訪郡の支配権を取り戻したが、郡外には及びません。同時期、飯田では、小笠原信嶺が毛利秀頼を追い出します。川中島では、坂城の葛尾城主村上義清の子村上国清が、上杉景勝の援助を得て、森長可を追い、海津城に入ります。当時、村上国清は上杉謙信の養子となり、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国と名乗っています。 これより先、甲斐の甲府城代・河尻鎮吉は一揆に殺されています。鎮吉は伊勢の人で、織田信秀と信長の2代に仕え、勇猛な武将として知られていました。天正3年の長篠の戦で武功を立てて、伊勢の河尻を領しながら美濃の岩村城主となります。このたびの武田討伐に際しても、常に先鋒をつとめ戦勝第一の功労と賞され、甲斐と諏訪を賜ったのです。時に、信長の甲府侵攻は苛烈を極め、信長は過去、杉谷善住坊によって鉄砲で狙撃されますが、それを依頼した佐々木承禎を匿ったかどで、信玄の菩提寺・恵林寺(えりんじ)の7堂伽藍すべてを焼き払い、隣の放光寺までも焼き尽くします。その際、住職快川紹喜国師をはじめ、末寺の住職、修行僧ら112人を山門の楼上に押込め炎上させます。さらに武田の残党狩りも徹底して苛烈なものでした。その後城代として赴任してきた河尻鎮吉は、更に強圧的でした。その中で最も甲斐国人の反感を買ったのは、入城早々、布令した廻文とその余りにも残酷な裏切りで行為です。 廻文に云う「――この度、甲州は信長公の御手に入り、家来、川尻肥前守秀隆命に従って城代となる。よって、国内各郷、各村々に武田の士、籠居しあらば、即刻肥前守の宿舎錦(にしき)町まで罷り出ずべき事。罷り出ずるに於いては改めて本知安堵の印形(いんぎょう)を進ずべく、この段触れ申候」 これを見て武田の武将、その他の士は、当然既往はとがめず、従前の知行で召抱えられる解し、錦町の鎮吉の宿舎に続々と名乗り出ます。ところが、これら士が中門を通ると大小を預かられ、奥庭に通されると悉く首を刎ねられます。この酷薄さが甲斐国人の反感を買う事になり、その家臣の信任も失うことになります。6月15日一揆に岩窪の館を囲まれると、2千以上の手勢がありながら、殆どが逃げられ、最期には10人に満たない家臣と伴に一揆の国人衆に撲殺されます。鎮吉の墓はなく、岩窪に河尻塚という首塚があります。香をたむける人影がないといわれます。 7月3日、家康は、浜松から甲・信をめざして出兵し、その秋口には、甲州を全て手中に入れるという驚嘆に値する速さでした。こうして、当時最強といわれた甲州軍団(信玄の親族衆をはじめ近習衆・遠山衆・御岳衆・直参衆・典厩衆、山県衆、土屋衆等)を手中して、もともと東海一と言われた三河衆の譜代とを合わせて、国内最強の軍団を作り上げます。 木曽氏は木曽義仲の末裔で、木曽義昌までに18代を数えるとしていますが、この説を確実に証明するものは存在していません。 木曽氏に関する史料に関しては、武田氏滅亡以前のものは偽文書の疑いが少なからずあるといわれています。史料的な初見は、至徳二年(1385)の、現木曽福島町の神社棟札にある「伊予守藤原家信」と考えられます。この点からも「木曽(源)義仲」の末裔であるということは、「藤原」姓を名乗っていることから疑わしいことが分かります。また、この時代、木曽氏は「家」を通字として、義仲の「義」を通字にするのは戦国時代の頃の当主からなのです。 その後、文正元年(1466)の梵鐘銘に、「源朝臣家豊」があり、この時期から木曽氏が木曽義仲の末裔を意識し始めたようです。また、この家豊が木曽氏の系図と合致する人物の一番はじめでもあります。 応仁の乱では、姻戚関係にあった信濃国守護小笠原家長と協力体制を組み、美濃土岐(とき)氏の背後を襲うように将軍足利義政(東軍)から指令を受けています。共に出兵し、その後、約50年間にわたって東美濃を占領し続けます。 応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると土岐成頼(しげより)は西軍方として京に上ります。成頼は8,000余騎を率いて京都に在陣して戦い、美濃本国は守護代の斎藤利藤が守ります。有力国人の富島氏や当初の守護代で斎藤氏に敗れて追われていた長江氏が、東軍に加わって斎藤方を攻撃して美濃は内乱状態になります。守護代の斎藤利藤の叔父で、しかも実権を握る斉藤妙椿(みょうちん)が富島氏・長江氏を破ると、東軍が幕府と朝廷を擁している以上、敵の拠点になる恐れがあるとして幕府奉公衆の所領をはじめ、公家や寺社の荘園と国衙領を押領し、自らの国内基盤を固めます。妙椿の勢力は尾張、伊勢、近江、飛騨まで広がり、成頼を意のままに動かし、更には西軍を左右するまでの存在になります。 京では厭戦気分が漲り、土岐成頼は文明9年(1477)冬、足利義視・義材(よしき)父子を連れて美濃に下国します。妙椿は尚も三河・尾張への出兵を続けますが、文明12年(1480)に逝去します。 長享元年(1487)に、長享・延徳(ちょうきょう・えんとくのらん)の乱が発生します。将軍足利義尚による近江守護・六角高頼親征が始まるのです。応仁の乱が収束したのち、各地では守護や国人らが寺社領などを押領して勢力を拡大します。山名宗全(持豊)率いる西軍に属した六角氏は、国内の荘園や将軍義尚近臣の所領を押領していました。幕府は威信回復を図るため、長享元年(1487)、9代将軍・足利義尚は六角高頼征伐を決定し、将軍直属の奉公衆を中心とした軍を率いて近江坂本へ出陣します。9月には細川政元、若狭守護・武田国信、加賀守護・富樫政親を近江に召集し、高頼を甲賀へ追いやります。 高頼はいったん観音寺城を出て、山間部でのゲリラ戦を展開します。義尚自らも出陣しますが、はかばかしい戦果が上がりません。ところが、翌年加賀一向一揆の激化によって富樫政親は国許に帰還、その後一揆に討たれるという事件が発生します。義尚は本願寺と一揆討伐を計画するも、細川政元の反対と六角氏討伐中という事で断念に追い込まれます。更に朝倉貞景と土岐成頼が、次の標的が自分たちに向けられる事を危惧して動かず、成頼にいたっては、次の標的は足利義視父子を擁している自分と考え、突如挙兵して美濃山中に立て籠もって幕府軍を迎え撃つ準備を開始します。結局延徳元年(1489)、義熙と改名していた義尚は近江鈎の陣中で死去し、高頼は赦免されます。結果的に義尚の病死によって六角攻撃そのものが失敗し、美濃侵攻にはいたりませんでした。 その15世紀末頃には、義昌の曾祖父の義元の存在が知られ、木曽氏はこの時代あたりからやっと系譜と文書の整合性がとれてきます。 大永6年(1526)には義元の子、義在や上杉憲政に、武田信虎を上洛させるようにとの足利義晴が協力を要請しています。しかし、晴信(信玄)の代になって信州地方に勢力を伸ばすようになった武田氏が、木曽へ数度にわたり侵入を繰る返いします。木曽福島城城主・義昌は、街道封鎖を行う晴信によって次第に身動きがとれなくなります。信濃国内の佐久、諏訪、伊那、安曇、筑摩、小県、埴科、更級郡を制圧した晴信は、木曽地域に強力に侵攻してきます。天文24年( 1555)、塩尻峠から侵入した武田軍は贄川砦(木曽郡楢川村)の千村俊政を攻撃して落城させます。楢川に進出した武田軍を向え討つために木曽義康は、現代の塩尻市奈良井と木祖村藪原を結ぶ鳥居峠で陣を構えますが、 戦わずに退却しました。天文24四年(弘治元年・1555)、終にその軍門に降ります。 武田氏は木曽氏に本領を安堵し、木曽義昌には晴信の娘を嫁がせ、武田一族の穴山氏と同格に配します。併呑した勢力に対してあまりに寛容でありますが、このころ行われていた越後の長尾景虎(上杉謙信)との川中島での睨み合いで、兵力を木曽に割けえず、木曽氏との和平を急いだ、というのが実情でした。 しかし、木曽氏重臣の千村・山村両氏が武田氏から直接、支配地を安堵され、木曽氏の家臣ながら、いわば木曽氏と同格になったという点で、木曽氏が独自に支配を行えず、木曽の代官的な地位に落ちてしまったといえます。 武田氏の上伊那地域の統治は、当初木曽義昌が行ないます。天文16年(1547)理由は不明ですが、木曽義昌が、伊那郡の城主・松島貞実を呼び出して殺害しています。また武田氏の統治は相当厳しいものだったようで、木曽氏と伊那地侍との遺恨は大きくなっていきます。そして、武田信玄が川中島の戦で主力を善光寺平に向けている最中に、伊那衆は団結して木曽義昌を攻撃します。この攻撃は失敗に終わり、娘婿の木曽義昌に反抗した伊那衆に対して武田信玄は、全員を捕らえて伊那の狐島にて磔にします。 磔にされた伊那衆の8名を下に挙げます。長谷村が溝口民部少輔正慶と黒河内隼人政信、伊那市が殿島大和守重国、飯島町が小田切大和守入道正則、伊那市が伊那部左衛門尉重親、宮田村が宮田左近正親房、駒ヶ根市が上穂伊豆守重清、箕輪町が松島豊前守信久です。 磔にされた武将達の領地は、上伊那地域の中でも特に重要な地域で、上伊那地域は、下伊那地域や三河方面へ進出する重要な拠点で、武田晴信は、統治を完全にする為にも、降伏した武将達の抹殺を木曽義昌に命じていたと云われています。 織田信長が、長篠の戦いで武田勝頼を破って後、武田氏配下の豪族を次々と調略し、武田晴信が上伊那地域を占領して37年の月日が経った天正10年(1582)信濃国に侵攻を始めます。下伊那地域より侵攻した織田本隊の信忠軍は、次々と山城を落とす過程で、武田氏に従っていたほとんどの豪族が降伏します。武田氏に虐げられてきた上伊那の豪族達は、戦わずに降伏し、織田軍は無人の野を行くが如く高遠まで到達したのです。
武田信玄の息子である仁科五郎盛信だけが、高遠城に立て籠もり、織田軍と激戦を繰り広げ、その高遠城の激戦は後世に語り継がれるものでしたが、甲斐の武田勝頼の救援も得られず落城します。 天正10年(1582)の木曽氏は、織田信長の信濃侵攻を前にいち早く織田氏と結び、武田氏を離反します。織田勢による信濃・甲斐制圧の饗導をつとめて、戦後、信州のうち筑摩・安曇郡を宛行われます。信長死亡後は、諏訪氏と同様、北条氏に靡き、その後、徳川家康と結び、本領を保ち続けます。一時、徳川氏と羽柴氏の対立の時期には羽柴氏に与して、徳川方に木曽に攻め込まれてもいますが、徳川・羽柴両氏の和平後は再び徳川方へ帰属します。しかし同じ信濃の小笠原・諏訪氏が 、徳川一門と姻戚関係を結び、譜代大名に準じますが、木曽氏はそこにまでにはいたりませんでした。 伊那地域は、織田信長に命じられた毛利秀頼が、高遠城にあって治めるようになります。2ヶ月後に織田信長が本能寺で死亡すると、と武田氏の旧臣などによる反乱の恐れから所領を捨てて尾張に逃亡し、以後は羽柴秀吉の家臣として仕えます。そして小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐などに参陣して軍功を挙げたため、再び南信濃の飯田に所領を与えられ、大名として返り咲きます。 本能寺の変後、信濃国は、信長に領地を奪われた旧領主が立ち上がりますが、それ以上に東から関東の北条氏、北から越後の上杉氏、南から三河の徳川氏が侵攻し、大大名同士の領地の奪い合いの場となります。 三河国と接する伊那地域には、早くから徳川家康が酒井忠次を信濃国の統括者として派遣し、上伊那地域も勢力下に納めます。 天正12年(1584)春、家康と豊臣秀吉との反目がこうじて、小牧.長久手の役が始まると、義昌は家康との盟約を反故にして、次子義春を秀吉の人質に入れ、秀吉に帰属します。小牧・長久手の戦いでは、秀吉に命で、妻籠城の要害により、信濃から家康の応援に向かう兵をくいとめます。諏訪頼忠は高遠の保科正直・飯田の菅沼定利と兵を合わせて妻籠城を攻撃しますが、城は堅牢で寄手に死傷者が続出、そのうち秀吉の大援軍が来るとの報せで兵を引いてしまいます。 その後、家康と秀吉の間に和議が成立し、秀吉は家康に対して関東の差配を委ねるとともに、信濃国諸将の管轄を一任します。これによって、義昌は家康の麾下に組み込まれることになり、凋落の過程へ向かいます。天正18年、家康の関東入部により、下総阿知戸(足戸)1万石(現在の旭市網戸)に移封され、戦国大名としての独自的な領国経営もできず、近世的な封建社会の新秩序の中で家名を全うさせるしかありません。 網戸城は応永年間に北条氏の家臣、大橋山城守康忠によって築かれました。天正18年(1590)、木曽義昌は代々支配してきた木曽を取り上げられ、遠いこの網戸の地に1万石の城主として移封されたのですが、城は東漸寺の西側で、天守があったわけでもなく、館程度で敷地はおよそ十町歩程度でした。現在では、建物跡などは確認されていません。義昌は網戸城に5年間在城し56歳で亡くなり、そして子の義利のとき、粗暴を理由に網戸を没収され源氏の名門と称した木曽家は滅亡します。家臣は四散し義昌夫人・万里姫は木曽へ去ったといわれています。その後、網戸は幕府直轄地となり青山氏・森川氏の領地として代官が支配するようになります。
本能寺の変後、信州でも旧領主の領地回復の反抗に遭い、織田軍団は脆くも崩壊をします。ところがこの機をとらえて、北条・上杉・徳川が信州に果敢に侵出して来ます。 関東の北条氏は、1580年頃から織田氏と同盟関係にあり、当主氏直と信長の息女の縁組も実現間近だったのです。武田討滅に際しても、北条軍は戦意旺盛で参戦します。ただ東海道から駿河方面への進出と甲州街道から甲斐国郡内、あるいは上野方面へかと方針が定まらず、戦略的には右往左往するうち、信長本隊が到着する以前に、武田軍は壊滅します。一応、旧領の駿河東部の武田の勢力を駆逐するなど一定の成果を挙げたものの、大きな戦果に至りませんでした。北条家には領土の加増はありません。武田討滅後、織田からは滝川一益が、上野国と信濃の小県郡・佐久郡を領有し、織田に従った関東諸侯を与力とし、厩橋城を拠点として駐留し、一説には関東管領を自称したとも言われています。滝川家中では北条氏の勢力を「南方」と呼び、友好関係が保たれていました。厩橋城には上野・信濃はもちろんのこと、下野や武蔵らの城主が相次いで挨拶に押しかけてきます。北条と近しい里見義頼、伊達輝宗、葦名盛隆らも友好を求めて来ます。 1582年6月、信長が本能寺の変によって横死すると、その変は、滝川及び北条の陣営に相前後して伝わります。当初、北条は滝川へ友好関係を示し、至急の上洛を勧め、その応援をする姿勢を示します。しかし、信長と信忠の死が確実な状況となると、これに乗じた上野侵攻が企てられます。武田攻めによる被害が殆ど無い北条軍は、即時動員を行います。直ちに北条氏直・北条氏邦勢5万6千が上野に侵攻します。上野を治めてまだ3ヶ月しかたっておらず、軍の統制が十分に取れていない一益は「弔い合戦のため」と称し、2万弱の兵を率い北条と対決することとなります。一益は本能寺の変の事情を、配下の関東諸将に正直に打ち明け、かえって信頼を得て、その2万弱の兵を率い金窪(埼玉県児玉郡上里町周辺)で北条勢を迎えます。6月16日の1次合戦では、勝利を収め、北条勢を武蔵国境まで追い落としますが、上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉県)の境を流れる神流川(かんながわ)の戦い、その6月18日の第一次合戦では、一益勢が寡兵ながらも氏邦率いる「黒備えの軍団」・鉢形衆300あまりや、氏直の近侍衆を討ち取るなど、北条の先遣部隊を追い落とします。6月19日の第二次合戦でも緒戦では、一益勢が優位でしたが、北条勢を深追いし軍勢が著しく伸びきり、退くと見せて反転攻勢に出た北条勢に取り囲まれます。関東諸侯の連合軍ですから、敗色が表れると脆く、一益勢は総崩れとなり、4,000人近くも討ち取られる惨敗を喫します。一益は一旦厩橋城に遁走するも支えきれず、やがて碓氷峠から小諸を経て本拠地の伊勢長島城に逃げ帰ります。その際、配下であった関東諸将の人質を、無条件で解放し、高潔な一益の名を高めます。 北条の大軍はそのまま上野を通過して信濃国の小諸城に入り、川中島4郡を攻め取ろうとします。真田昌幸などの国人衆を傘下にし、小諸城を足掛かりにして、同国の領有をめぐって徳川家康、上杉景勝と三つ巴の対立が始まります。 三河に戻ると、甲斐、信濃の平定の為に家康の打った手は早く、翌々日には武田の旧臣岡部正綱を駿河から甲斐に進入させて、富士川沿いの下山に築城させます。武田氏滅亡後 織田信長は、武田旧臣を取り立てないよう指示しますが、武田氏の遺臣を家康は遠江に匿っていました。依田信蕃(よだのぶしげ)もその一人で、すぐさま本拠の信州佐久郡に帰らせて、その地方の地盤を固めさせます。信蕃は、近隣の士を糾合し春日城(芦田小屋)を拠点として、近郷を制圧します。この手配をした後で、6月14日には信長の弔い合戦と称して岡崎を出発して、尾張の鳴海まで行きますと、19日に秀吉の急使が来て、13日に山崎合戦で明智光秀を討ち取った、との報せが届きます。浜松へもどります。 あまり長く国を留守にすると北条氏が甲斐、信州を狙うのは目に見えていたからです。7月3日には甲斐、信州の経略の為に甲府に向かいます。 甲府は武田氏滅亡の後、信長の武将の河尻鎮吉が封じられていますが、鎮吉は国人衆に憎まれていますから、本能寺の変が伝わると一国をあげて一揆が起きます。家康は北条氏を牽制する為、家臣の本多信俊を派遣して鎮吉に協力を申し入れますが、鎮吉は信用せず、本多信俊を殺してしまいます。しかし、すぐに河尻鎮吉は一揆に殺され、この為、一時甲斐の国は無法地帯となります。 ? 北条氏が佐久、小県、諏訪地方に浸透してきたのに対し、家康は甲府から酒井忠次に5ヶ条の定書を与えて、伊那へ発行させます。6月28日には大久保忠世を信州に出兵させます。諏訪や伊那の国人衆を傘下に入れるためです。酒井忠次の軍は下伊那の小笠原信嶺の軍と合わせて、7月14日高島城(茶臼山城)を囲みますが、よく耐えこれを防ぎます。先に、頼忠は北条氏直から北条氏につくよう要請されていたのです。この危急を知って北条氏直は佐久に出陣します。酒井忠次は北条の動きを見て、一旦は高島城の囲みを解き、甲州の台ケ原(山梨県北杜市白州町の旧台ケ原村)に退きます。7月19日から21日に掛けて、大久保忠世から盛んに帰順を促す書状が届けられます。 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍、合わせて3千の軍に決戦を命じます。高島城を攻めますが、諏訪軍は、逆に夜討ちをかけるなどして、よくこれを堪えます。これより前、北条氏直は、6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していましたが、諏訪氏救援のため、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦し、北条氏直その兵、4万3千を率い、役行者(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を越えて、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ着陣します。29日徳川勢は、高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げます。8月6日まで対陣していましたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却します。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出し対陣します。 既に頼忠に対して、家康は、対陣中の9月の時点で、大久保忠世を高島城に派遣して、頼忠に帰順を求めていました。最早、北条に頼れないと悟り、やがて頼忠・頼水父子は、甲府の家康に拝謁し、次男・頼定を人質として差し出し、徳川に帰属を願い出ます。家康はこの時「信州の事情がはっきりするまで、帰って待て」と指示、翌天正11年(1583)正月、柴田康忠を高島城に派遣します。3月28日には、諏訪安芸守頼忠殿宛てに、家康の花押のある諏訪郡の安堵状が与えられ、柴田康忠を引き上げさせます。この安堵状は重く、高島藩は譜代大名に準じた扱いを受けます。 翌天正12年には、家康の命令で本田康重の娘(後の貞松院)を、頼忠の嫡子頼水が娶り、頼忠の地位は徳川家で不動のものになります。 頼忠は居城を茶臼山から下金子に移します。宮川が大きく湾曲した突端に、平城の本丸を築きます。宮川が外堀で、本丸、二の丸、三の丸も備えます。本丸の東が三の丸で、その堀の外に八幡社を勧請して城の鎮守とします。 諏訪頼忠が郡主になりますが、頼忠は上社大祝、千野氏以下上社系の旧臣を用います。天正18年(1590)、北条氏の小田原城が開城した年です。6月10日、家康から頼水宛に書状が届きます。 「信州諏訪郡のこと、安芸守に先判つかわしたように、今より以後もまちがいなく安堵させるから、いよいよ忠勤を励む事」 この年に、頼忠が隠居し、長子頼水が領主となったのです。 次の頼水は家康の命により弟・頼定に下社一円の領有を譲るべきでしたが、策謀の末これを追放します。対外的には出奔としています。詳細は歴史の闇の中に消えてしまったのでしょうか?結果、下社系の武士は出仕する機会も無く、帰農して村役人におさまります。江戸時代、下社系の武士は蕃の重職に就くことはありませんでした。
小笠原家は、人皇第56第清和天皇(在位858年~876年)を始祖とする清和源氏の分流です。清和天皇は、藤原氏の後ろ盾により9歳で即位し、18年間在位しますが、清和天皇の頃には、既に藤原氏が摂政・関白になって政治の実権を握り、文徳天皇が即位した際に、年長の惟喬親王をさしおいて惟仁親王(清和天皇)が生後8ヶ月で皇太子になったのも、藤原氏の後援があったからです。清和天皇が即位した後の政治は、事実上摂政・太政大臣の藤原良房が行います。清和天皇の第6皇子である貞純親王(さだずみしんのう)の嫡子が六孫王で、延喜15年 (915)源の姓を賜り源経基(つねもと)を名乗り、源氏の正統の祖となります。経基は生まれつき弓馬の道に長じ、武略にも優れ数々の武勲を立てています。940年に平貞盛・藤原秀郷らとともに、関東で起こった平将門の乱を平定し、翌941年には瀬戸内海を中心とした藤原純友の乱をも治めます。この2つの反乱は承平・天慶の乱と呼ばれ、武士の力を大きく印象付けるきっかけとなりました。 その後、経基の嫡子満仲、満仲の嫡子摂津源氏の祖である頼光、満仲の第4子河内源氏の祖である頼信、頼信の嫡子頼義、頼義の嫡子義家へと道統は受け継がれていきます。 この八幡太郎義家は、堀川院にお悩みの際、勅命を受け、弓弦を鳴らし悪霊を払いお悩み事平癒させたとあります。 武田義清の嫡子清光の第3子が加賀見次郎遠光(とおみつ)です。 遠光は、はじめ平家に属して在京しますが、1180年東国に下って源頼朝に従たがいます。文治元年(1185年)の後鳥羽院の平家追討に手柄を立て、その功により信濃守に任ぜ られます。奥州合戦にも従軍し戦功を重ねます。その遠光の次男・長清が甲斐国巨摩郡小笠原村(現在の南アルプス氏小笠原)に拠り、小笠原を称したのが始まりとみるべきでしょう。小笠原長清が小笠原氏の祖です。加賀美長清ともいい、母は和田義盛の娘です。 長清が源頼朝に仕え、流儀として完成した弓馬の芸「小笠原流」は、「糾法的伝(きゅうほうてきでん)」と称され、鎌倉幕府創設の時代から800年以上連綿として継承されていきます。長清は遠光とともに鎌倉幕府の将軍頼朝の糾法師範となっています。 足利・徳川期を通じて、将軍家の師範として礼法・武術の道を一子相伝として守ってきました。江戸時代には幕府の礼式になっていますが、直系である九州小倉の小笠原家に伝えられていきます。 長清が創始した「糾法的伝」の要諦は、誠の心をもって理法に従い、品節をたがわぬように、時、 所、位に従って行えば、当然これが礼法の心となり、行動となり、礼法だけでなく、すべてが、この心から出発すると教えています。そして、長清が糾法師範となった文治3年の8月15日、流鏑馬が行われたのを始めとして、大的(おおまと)、百々手、笠懸(かさがけ)、犬追物等の儀式が武士の手で行われるように制定された、それまでは、これらは宮中の儀式として故実に厳格に倣ってきたものを、今度は武家の儀式として省略できるものは省略し、新しい時代考証のもとに、新しい武家儀式として定められます。 武家としての大的式は、源頼朝が文治5年(1189)正月2日に最も厳格な弓の儀式として弓始の式を行ないました。以来正月4日に年中行事の一つとして執行されたことが吾妻鏡に記載されています。この弓始式も応仁の乱以後衰微しますが、徳川吉宗の命により小笠原平兵衛常春が復興し、騎射、歩射の古儀を集成しました。将軍の御前で大的を射させたことから大的御覧(おおまとごらん)と呼ばれます。その後毎年正月17日に吹上の庭園にて行なわれるようになりました。現在でも、この日に明治神宮の萩のお庭で厳粛に行なわれています。諸藩でも諸流派を庇護し、その形を明治の時代に伝えています。各番方(ばんかた)から射手を選び、射手の人数は6名で前弓・後弓各々3名ですが、時には10名で各々5名ということもあります。服装は、直垂に風折烏帽子(かざおりえぼし)をかぶり、小刀を帯し、浅沓(あさぐつ)を履き、5尺2寸の大的を前弓(まえゆみ)・後弓(あとゆみ)の2組に分かれ、各組ごとに各自一手(ひとて)の矢を順番に射た後、各々の大将が一手ずつ交互に射て、大将の的中を2本として数え合計的中数を競います。的は五尺二寸(約156㎝)と定められています。的中央の小眼(白い部分)は一尺二寸(約36㎝)としており、これは現在弓道場で使用されている的の大きさの元となっています。現在も奉射として大的式が各地において行なわれています。 百々手式(ももてしき)は10人の射手が10手(1手は甲矢乙矢の2筋を言う)を射ることから合計100手となります。この儀式は祈願の場で行なわれることから祭壇を飾り、神通の鏑矢を錦の袋に入れて本尊に安置します。本尊の前には3具足を、盛りものとしては山の芋、麹、餅を置きます。 笠懸(かさがけ)とは、元々は武者が騎乗から敵を射抜くための稽古法で、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を放ち的を射る、日本の伝統的な騎射の技法・儀式です。流鏑馬と比較して笠懸はより実戦的で標的も多彩であるため技術的な難易度が高いといわれています。流鏑馬、犬追物と並んで騎射三物((きしゃみつもの))と称されます。 犬追物(いぬおうもの)は、40間(約73m)四方の平坦な馬場に、1組12騎として3組、計36騎の騎手、「検見(けんみ)」という検分者を2騎、喚次役(よびつぎやく)を2騎用意し、犬150匹を離しその犬を追いかけ、所定の時間内に何匹射たかを競います。実際に犬を打ち抜くことは無く、刃のない「犬射引目(いぬうちひきめ)」という特殊な鏑矢を使用します。打ち方や命中した場所によるいくつもの技が工夫されていました。作法を継承していた有力な守護大名・守護代が戦国時代に次々と滅び、江戸時代に至って作法を持続できたのは島津氏と小笠原氏だけとなっていました。明治14年、島津忠義は明治天皇の前で犬追物の天覧を行ないますが、これが史上最後の犬追物となりました。手間や費用がかかる事、動物保護の観点から現在では行われていません。 鎌倉幕府の基礎とも云える武家の諸儀式を、遠光とともに制定したのが長清で、嫡子長経に伝えられ、長経は源実朝の師範を勤めます。長経には二人の男子がおり、長男は長忠、次男は清経で、糾法は長男の長忠が受け継ぎ小笠原一族の総領家となり、徳川初期の長時、貞慶(さだよし)の代まで糾法の道統となっていきます。 小笠原貞慶(さだよし)は、天文15年(1546)、信濃守護・小笠原長時の三男として生まれます。小笠原長時(ながとき;1514~1583)の官途は右馬助・大膳大夫・信濃守、従五位上。大永6年(1526年)11月5日、13歳で元服。家督を継いだのは天文10年(1541年)、長時の父・長棟が出家したときです。この年ごろから当主として小笠原軍を率いています。居城のある信濃林城(はやしじょう;のちに深志と称す)は、松本市にあった信濃国守護の館(山城)で、大林城(金華山城)と小林城(福山城)からなります。当時信濃では、平家追討以来の守護職小笠原が、諏訪氏・村上氏らを超える勢いがありました。しかし武田晴信が信濃経略に着手すると、常に反武田氏勢力と手を結んで反抗しますが、常に敗れています。天文14年(1545)、長時の妹婿藤沢頼親が武田軍に攻められ、これの救援に赴くも惨敗。天文17年(1548)2月の上田原の戦いで武田方が村上義清に敗退すると、7月には機に乗じて諏訪郡へ侵攻します。塩尻峠で、反撃する武田軍の急襲に合い大敗します。1550年には本拠林城も失陥、1552年にはついに信濃を脱して越後長尾氏を頼ります。大名としての小笠原氏はここで一時、滅亡します。その後同族の三好長慶を頼って上洛し、将軍・足利義輝の騎馬指南役を務めます。ちなみに三好長慶を頼ったのは、三好氏が阿波の守護小笠原氏の分流で、同族だったからです。室町時代は阿波の守護代に任じられています。しかし永禄6年(1564)に三好長慶が病死し、永禄7年(1565)に足利義輝が暗殺され、さらに永禄11年(1569年)に織田信長が上洛して三好氏が没落したため、再び上杉謙信を頼ります。五百貫を知行しています。天正6年(1578)、謙信没後には越後を離れて流浪した末、会津蘆名盛氏を頼ったので、御館の乱では景虎方に属したようです。最期は会津で、家臣坂西勝三郎によって殺されています。享年70です。この前年の天正10年(1582年)に、宿敵・武田氏が織田信長に滅ぼされ、その信長が本能寺の変で横死すると、3男の小笠原貞慶がようやく旧領に復帰します。長時も旧領復帰への準備をしていましたが、その最中に怨恨を抱いていた家臣に殺されたと言われています。 当時、父長時はまだ永らえていて、会津の蘆名盛氏のもとに寄寓していました。同7年、貞慶は会津に赴き、父に会って、小笠原家の家宝および家伝の文書を譲られています。同8年頃には越中に赴き、上杉方となっていた国侍たちを説得して信長に帰属させています。同年3月23日付の柴田勝家書状で、その労をねぎらわれています。かつて上杉氏の元にいたことのある貞慶にとって、越中の士たちにも知己が多かったようです。 青柳城の築城時期は定かではありません。城主の青柳氏はこの地の豪族、麻績氏の一族で、伊勢神宮の麻績御厨(くり)預職としてこの地に居館を構え、この時代には守護・小笠原氏に仕えていました。天文19年(1550)、小笠原長時は武田晴信(信玄)の侵攻により林城を追われて、塩田城の村上義清を頼って逃れます。この後、長時は村上義清とともに筑摩郡周辺で武田軍に抗戦しますが、天文21年(1550)、12月、立て籠もっていた中塔城(なかとうじょう;松本市梓川梓;旧安曇野市三郷小倉)でも防戦しきれず落ち延びます。この後、武田軍は小笠原氏の残党を掃討し、翌年年4月には、村上義清も葛尾城を自落させて逃亡し、青柳近江守清長、頼長父子は武田に降伏します。 村上義清は越後春日山城の長尾景虎(上杉謙信)の支援を得て旧領回復を企て、4月23日には葛尾城を落城させて奪還します。これに対して信玄は青柳城をはじめ、麻績城、大岡城を重点的に守備することにします。8月には村上義清が立て籠もる塩田城が自落するが、上杉謙信の援軍が川中島に侵攻、9月1日には荒砥城が落城、3日には青柳城周辺が放火されます。武田軍は9月13日に越軍に占領されていた荒砥城、青柳城に放火しています。この後青柳氏は武田軍の傘下として、弘治4年(1558)4月には青柳清長は信玄より、大岡城の守備を命じられます。 天正10年(1582)、武田氏の滅亡後、青柳頼長は織田信長に属しますが、6月2日の本能寺の変で信長が横死すると、筑摩郡には上杉景勝が進出し、青柳氏は上杉氏に属しますが、7月16日、徳川家康の支援を受けた小笠原貞慶が深志城に入ると、上杉氏を離反してこれに従います。これにより天正11年(1583)、上杉景勝は麻績城に進出、青柳城を攻めて落城させ、青柳氏を追放します。景勝は青柳城を本陣として、小笠原・青柳と対峙し、青柳城周辺をめぐって上杉軍と小笠原軍が戦い、小笠原貞慶は大敗して深志城へ逃げます。勇将だった新発田重家の乱の鎮圧のため景勝は撤退したため、青柳城・麻績城周辺は小笠原貞慶が奪回します。天正15年(1587)9月、青柳頼長は小笠原貞慶の命により深志城に召喚され、出仕したところを長子長迪(ながみち)とともに暗殺され、青柳城は小笠原氏によって没収され、麾下の溝口貞秀が城主に任じられます。
城主の青柳氏は筑摩郡の在地土豪、麻績氏の一族でしたが、川中島をめぐる甲越の勢力の中間点に位置し、その去就が難しい立場でした。第一次川中島合戦に際しては、筑摩に深く侵攻した越軍によって青柳城周辺も放火されています。この辺りの筑摩郡や埴科郡あたりは甲越の戦力が直接ぶつかる、いわば「境目」にあたる地域で、在地領主たちはその2大勢力の狭間で数々の苦難を強いられたのです。 謙信、信玄の死後も強力な領主不在の信濃の地はなかなか安定せず、武田氏滅亡後は上杉景勝と徳川家康が領有を争います。そんな中で青柳城は上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦に巻き込まれ、ふたたび戦火に見舞われます。その困難な最中、城主・青柳頼長の誅殺事件が生じます。この頃、徳川の後ろ盾で深志城に復帰した小笠原貞慶ですが、疑心暗鬼が強く、度々の在地領主を召喚しては誅殺しています。青柳城主・青柳頼長にもある日、お呼びが掛かります。頼長も疑念が生じましたが、主筋にあたる小笠原氏のお呼び出しとあっては逃げるわけにも行かず出仕します。無残にも、上杉景勝に通じていた、という過度で頼長も、嫡子の長迪ともども凶刃に倒れてしまいます。事実上青柳氏は滅亡してしまいます。「景勝に通ずる」といわれても、境目の領主としてはある程度、敵方や周辺勢力とも外交接触しておく必要性がありました。小笠原長時と貞慶にしても、名族意識が余りにも強い上、長年に亘り恩顧のある上杉家を裏切り、自己の利のみに聡い性格が、他者も自らと同様と感じる卑しさが露呈されたのでしょう。 翌11年2月には、離反した赤沢式部少輔を、その後、同じく古厩(ふるまや)因幡守・塔原三河守を討ちます。貞慶の安曇・筑摩郡支配に競合するのは、木曽義昌です。貞慶は、同11年9月にこれを攻め、義昌の居城福島城を陥落させます。10月5日、家康よりその功を称されます。これに先立つ3月、貞慶は甲斐に入っていた家康に拝謁しています。その年2月、貞慶は嫡子秀政を人質として石川数正のもとへ送ります。 小笠原秀政は小笠原貞慶の息子で、母は日野晴光の娘です。貞慶の逃亡先の山城で生まれ、父・貞慶と共に、秀政は数正と共に豊臣秀吉の下に走りますが、天正18年(1595)の小田原征伐では秀政が榊原康政隊に属して従軍し、その功で下総古河3万石を与えられます。その後、秀政は朝鮮出兵・会津征伐に従軍し、その功で慶長6年(1601)に信濃飯田5万石に移封され信濃守を名乗ります。 慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌・慶長20年(1615)の夏の陣と、2度にわたって豊臣氏と徳川氏の最終決戦が行われます。慶長19年(1614)、大坂冬の陣では小笠原軍を率いて出陣します。このときの出陣で、小笠原軍は軍費に窮し、困り果てたと言われています。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、父秀政が小笠原軍を率いて出陣します。このとき、忠脩は松本城の守備を任されていますが、幕府に無断で出陣し、父と合流します。これは一つ間違えれば、家康の曾孫といえども許される行為でありませんが、家康は処罰も恐れずに出陣してきた忠脩の勇気と決断力を大いに評価し、従軍を許したといわれます。そして天王寺・岡山の戦いで父と共に豊臣軍と戦って、戦死します。享年22、墓所は信濃国の広沢寺(松本市里山辺林)です。 夏の陣の主戦場は、河内で、豊臣方約5万、徳川方約15万5千といわれています。木村重成の母、宮内卿局は豊臣秀頼の乳母で、重成自身も幼少から秀頼の小姓として育ち、秀頼の信頼が厚く、元服すると豊臣家の重臣となります。知行3千石。慶長20年(1615)5月1日、豊臣方の後藤基次、薄田兼相ら平野に出陣、真田幸村ら天王寺に布陣します。5月2日、木村重成隊は京街道を守備していましたが、徳川軍の主力が星田・千塚・道明寺を経由して大坂城南へ来る、という情報を得て城へ戻ります。地形を観察しその情報が確かなものだろうという確信を得た重成は、道明寺方面に出撃しようとしますが、そこにはすでに真田幸村隊らが向かっていました。そのため、「人の後を行くより、別の場所で戦おう」と思い、敵の出撃が予想されない八尾・若江方面から、家康本隊を側面から奇襲する計画を立てるのです。 5月5日、家康は、京を進発。秀忠も伏見を進発します。徳川方の先陣・藤堂高虎は、河内千塚に布陣。井伊直孝、楽音寺に布陣。水野勝成、河内国分に布陣。徳川方の本多忠政、松平忠明、伊達政宗らの諸隊も河内に到着。伊達隊の先鋒・片倉重綱、片山に布陣。 敵の存在を知った藤堂高虎は主力を長宗我部隊へ、右翼を木村隊へ向かわせます。藤堂隊右翼の副将・藤堂良重は、木村隊右翼に突撃しますが重傷を負います。続いて藤堂軍の藤堂良勝が突進していきますが、激しい銃撃戦の後、藤堂良勝は戦死し藤堂軍の右翼隊は壊滅します。勢いづいた木村隊右翼の部将、長屋平太夫・佐久間正頼は藤堂隊の追撃をしようとするが重成はこれを制します。未明から出撃・戦闘をしてきた木村隊に疲労の色が濃いのを感じたからです。重成は負傷者を本隊に収拾すると次の戦闘に備えます。この時、飯島三郎右衛門が、「わが軍は功を収めたのだから帰城しては」と勧めますが、「私はまだ両将軍の首を取ってはいない。局地的な勝利など意味がない」と一蹴します。 一方、藤堂高虎軍と共に先鋒を任されていた井伊直孝軍は当初、道明寺方面に向かおうとしていたが、敵の存在を察知すると、「予定通り道明寺に向かいましょう」という老臣達の意見を退け、八尾・若江方面に転進します。重成はその井伊軍に備えるため、玉串川の西堤上に銃兵360人を配置し、深夜からの行軍であったため食事をとらせ敵の襲来を待ちます。 この日の戦闘で後藤基次は、小松山で徳川方の諸隊と激突して、討ち死。薄田兼相、道明寺河原の戦いで討ち死。豊臣方の残兵は、藤井寺・誉田森へ退却。真田幸村、毛利勝久は大坂城に退却します。 翌5月7日、大坂城南で天王寺・岡山での最終決戦が始まると、毛利勝永・大野治長・竹田永翁軍と衝突し竹田軍の第一陣は破りますが、毛利・大野軍の攻撃によって小笠原軍は敗走し始めます。秀政は体勢を立て直そうと自ら槍を奮って奮戦するが6ヶ所に傷を負い、忠脩が討死、忠真も7ヶ所に傷を負う重傷、指揮官すべてがいなくなり小笠原軍は撤退します。秀政は河内久宝寺に逃れ治療を受けたが、夕方に死亡します。享年47歳で、遺体は京都で荼毘にふされ、松本に運ばれて葬儀が行われた後、室町時代からの小笠原氏の菩提寺である松本市里山辺林の竜雲山広沢寺に秀政父子の墓碑と五輪塔があります。この日、真田幸村は、家康の本陣に果敢に突入して討ち死します。前日、小笠原秀政と奮戦を誓った本多忠朝も、討ち死しています。 忠朝は、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことでも有名な本多忠勝の次男で、父・忠勝に劣らぬ勇将で、関ヶ原の戦いで活躍しています。その戦功により、父が伊勢に移封されると、父がそれまで関東で領していた上総大多喜5万石を与えられます。慶長19年、大坂冬の陣で、酒を飲んでいたため、敵の猛攻に遭って敗退します。それを家康に咎められた忠朝は翌年の大坂夏の陣のとき、汚名を返上しようと毛利勝永と戦って奮戦し戦死したのです。 この日の毛利勝永の天王寺口の戦いは際立っています。まず兵4千を率いて天王寺南門に布陣します。毛利隊はまず本多忠朝隊と戦いますが、死を覚悟した毛利隊の攻めは激しく、瞬く間に敵の大将・忠朝を討ち取り、本多隊を撃破します。その勢いのまま小笠原秀政らも討ち取り、続いて浅野長重・秋田実季・榊原康勝・仙石忠政・諏訪忠恒・酒井家次・本多忠純といった部隊を次々に撃破し、遂には徳川家康の本陣に突入します。しかし家康本人は真田隊に追いたてられ逃げた後で、もぬけの殻でした。勝永達は家康の姿を捜しますが、真田隊が壊滅して戦線が崩壊すると、四方から関東勢の攻撃を受け撤退を決意、退却においても勝永の指揮ぶりは水際立っており、反撃に転じた藤堂高虎隊を撃ち破ると、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防いで城内への撤収を完了します。 最期は豊臣秀頼の介錯を行い、息子である毛利勝家とともに静かに自害して果てます。 毛利勝永は豊臣家には珍しい譜代の家臣で、勝永の父、毛利勝信は織田信長に仕えていましたが、のちに豊臣秀吉の家臣になり、秀吉の累進と共に、勝信の身分も上がり、1587年には豊前小倉で14万石を賜ります。この時、勝永も豊前国内で4万石を与えられています。この時、秀吉は本来、森だった姓を、中国の毛利家に頼んで毛利姓を分け与えたのです。 関ヶ原の論功の結果、黒田家が筑前福岡に移り、そのあとに丹後宮津にあった細川忠興が豊前中津に入って、豊前一国と豊後の一部を領し、小倉もその中津藩領内となります。細川忠興は当初、中津に入るが、小倉に築城して移り、小倉藩が成立します。寛永9年(1632)、肥後の加藤忠広の改易に伴い、更に加増され熊本藩54万石に移封されます。細川家が肥後に移ると、それまで外様ばかりであった九州の抑えとして、譜代の大名を置く必要が生じます。細川家の旧領に、小笠原家一門四家を配置します。家康の外孫、外曾孫たちです。すなわち、豊前小倉には宗家として、小笠原秀政の二男小笠原忠真が播磨明石から小倉城主として豊前北部に15万石に封じられます。忠真の母は徳川信康の娘ですから、家康の外曾孫にあたります。以後小倉小笠原氏は、西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を押さえる九州探題の任を受け外様大名の監視を行ないます。なお、忠真の家臣宮本伊織は、宮本武蔵の嗣子ですが、父子ともに出陣した島原の乱の軍功等により知行4,000石の小倉藩筆頭家老となり、以後宮本家が代々その地位を世襲しています。豊前中津には播磨竜野から小笠原秀政の亡くなった長男忠脩(ただなが)の子小笠原長次が、8万石で入封し中津藩となります。豊後杵築には小笠原秀政の三男小笠原忠知が4万石で入封し杵築藩(きつきはん)となります。豊前竜王には小笠原秀政の四男で、能見松平家に入っていた松平(能見)重忠が入ります。小笠原秀政と長男の小笠原忠脩は大坂の陣で奮戦死しているので、中津は孫の長次ですが、豊前一国を小笠原秀政の子の四兄弟の家で領することになったのです。 幕末の長州征伐では幕府側の九州における先鋒として第一次、第二次とも参戦します。小倉藩と言って、まず記憶にのぼるのは、幕末の第二次長州征伐で高杉晋作の奇策で、脆くも不名誉な陥落をした小倉城です。慶応2年(1866) 8月1日、第二次戦争の際に、奇兵隊に門司を制圧されると、狼狽して、自ら城に火を放って退去し、小倉は長州藩の占領下となったまま停戦、そのため、小笠原家は藩庁を香春(かわら;田川郡香春町)に移し香春藩となります。小倉は占領下のまま、維新を迎えます。一応、この小倉の小笠原家が江戸時代の小笠原家の宗家でした。
諏訪頼忠の子諏訪頼水が諏訪高島藩に復します。当初2万7千石、大坂の陣の勲功で5千石加増、三代諏訪忠晴の代に2千石を分知して、石高は3万石となって、以後十代を継いで、明治に至ります。天正11年(1583)3月28日、家康の安堵状で頼忠の諏訪郡の領有が認められ、譜代大名に準ずる扱いを受けます。翌12年には、家康の命で、本多康重の娘が嫡子・頼水に嫁いで来て、その立場はより手堅いものとなります。 本多康重は、重清-信重-広孝-康重と続く家系の本多豊後守家です(平八郎家・彦八郎家とは同族別家)。本多助定六代の孫重清は、松平長親に仕え明応六年(1497)土井郷を給されます。永禄六年(1563)三河一向一揆の際、広孝は土井城で奮戦し 家康に忠義を尽くします。また、同七年広孝は田原城攻略でも功を挙げ、今川氏を追った後の田原に移り、土井城を離れます。田原には広孝-康重と26年在城するが、天正18年(1590)の家康関東移封に従って康重も関東に移り上野国白井2万石を領します。 康重の居城・上野国白井城(群馬県北群馬郡子持村白井)は、吾妻川に峻立する崖上の堅城で、関東管領の家宰長尾景仲の築城と伝わっています。康重はのち三河岡崎五万石に移封となり、弟紀貞が一万石で白井城に在城するが、その死去により除封・廃城となります。 頼忠はそれまでの茶臼山(手長山)城をやめ、その重臣・千野氏の地、下金子(諏訪市中洲)にあった金子城を大修築して、天正12(1584)年の暮れに移ります。こうして、諏訪も平城の時代になったのです。それと同時に、織田軍に焼かれた社殿の復興に勤めます。天正12年が申の御柱年にあたる、大工・牛山因幡守長家に、神輿の再造を命じます。宮山の洞中で百日の潔斎後、完成します。ただ社殿は未だありません。 家康は、天正18(1590)年1月21日、秀吉より小田原征伐の先鋒を任されて、出兵します。諏訪頼忠・頼水父子は家康の本隊に属し、大久保忠世に従い先鋒を務めます。その際、頼忠は頼水の大祝の地位を末弟・頼広に譲ります。これにより諏訪氏は、再び祭政分離となります。大祝は郡境を越えてはならない、越えれば災厄に襲われると、なぜか現実に諏訪の歴史が、それを証明しています。頼水は惣領家を継ぎ武士になり、頼広は代々大祝家を継ぎ明治維新にまで続きます。大祝は宮田渡村に広い邸宅を構え、宮田渡様と呼ばれます。小田原城は7月に陥落しますが、その小田原陣中のさなか天正18(1590)年6月10日、家康より嫡男・頼水に安堵状がわたされます。頼忠が隠居しての代替わりをしたのです。 小田原役の功により、家康は関八州を与えられたが、部下の大名も国替えとなり、諏訪氏は武蔵国の奈良梨・羽生・蛭川の現在の埼玉県の3ヶ所の約1万石を与えられます。頼忠は再度現役復帰、奈良梨に2年住み、領地は飛び飛び統治の難しさを悟り、それを家康に訴え、文禄元(1592)年12月、上野国惣社(前橋市内)に変えてもらっています。その3年後文禄3年、再度家督を頼水に譲ります。諏訪氏は慶長6(1601)年、諏訪に帰るまで10年の年月を経ることになります。 |
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