妻女山より川中島を眺める。武田信玄、上杉謙信の時代、千曲川は妻女山の山沿いを流れていた。

信濃戦国時代後期

 晴信は永禄2(1559)年に出家して徳栄軒(とくえいけん)信玄を号した。

 目次            Top
 1)信玄川中島を攻略
 2)森長可が支配する川中島
 3)上杉景勝、川中島に侵攻
 4)北条氏直、信濃侵攻と諏訪頼忠
 5)深志をめぐる小笠原貞慶と木曽義昌
 6)本能寺の変後の小笠原貞慶
 7)小笠原貞慶の深志平定
 8)小笠原貞慶の会田氏討伐
 9)小笠原貞慶と麻績地方
 10)小笠原貞慶、徳川家康に離反
 11)徳川家康、筑北地方制圧
 12)村上義清の子、景国(国清)が海津城の城将となる
 13)海津城代須田満親
 14)海津城から松代城へ
 15)上杉景勝と香坂氏

1)信玄川中島を攻略

 妻女山411mとその後方の斎場山513mが上杉謙信の本陣。

 晴信は、海の口から小諸を経て千曲川を下るコ-ス、次いで林城(松本市里山辺~入山辺)から犀川を下るコ-ス、さらに北安曇から大町街道に沿って流れる犀川の支流土尻川(どじりがわ)を下るコ-スで、中北信の諸城を調略していった。犀川が土尻川と合流する手前の牧城の香坂宗重も、晴信に降った。
 臣従した宗重に晴信は知行替えを行ない、弘治2(1556)年5月12日、埴科郡英多庄(あがたのしょう;長野市松代町東条と西条の辺り)内に移った。この時の朱印状には、香坂筑前守と記されている。そこに館を構えたとされている。翌弘治3年の第3次川中島の戦いで焼亡したが、その館は「弾正館」と呼ばれていた。そのことから、「香坂氏の娘を娶った」とされる香坂昌信(春日弾正忠虎綱)との関係が、この時期には結ばれたと推測されている。
 
 永禄2(1559)年2月、長尾景虎は京に上り、将軍足利義輝から関東管領に補任された。半年ほど滞在し10月に帰国した。この時、海野・真田・祢津・室賀など小県の諸士が太刀を贈り寿いでいる。その間の5月、晴信は信濃から景虎の勢力を一掃しょうとして、佐久の松原神社に戦勝を祈願した。その願文に「信玄」を号している。それが初見とされている。

 永禄3(1560)年に、香坂氏の所領のある松代の東条近くに、武田氏の川中島の拠点となる海津城が築かれ、宗重が海津城に在住する手当として、同年6月15日付けで、更科郡横田(篠ノ井横田)3百貫の新知が与えられた。その晴信の知行宛行状が現存している。
 有名な第4次川中島の戦いの直前、永禄4年5月、上杉との密通の嫌疑で香坂宗重が海津城で誅された。これにより香坂の嫡流は途絶えた。その名跡は香坂氏の娘を娶った春日虎綱が継承する。虎綱が一般には高坂弾正忠昌信と称されるのは、この事変を起因にしている。香坂昌信(春日虎綱)は、武田信玄、武田勝頼の2代に仕え、武田4名臣の1人として、馬場信春内藤昌豊(昌秀) 、山県昌景と並び称されている。だが、同姓を称したのは永禄年間の短期間で、まもなく春日姓に復している。一生の殆どを「春日虎綱」と称していた。

 海津城には原美濃守虎胤小畠虎盛(おばたとらもり)を配しであったが、在城1年未満で、虎胤は永禄4(1561)年の八幡原の激戦に先んじる割ケ嶽城(わりがたけ;上水内郡信濃町富濃)を攻略した際に負傷した。この城は、野尻湖の西南にあり、川中島から野尻湖を経て関山を超え、堀之内に抜けて春日山城に至る北国街道沿いの要衝であり、野尻城とならんで信越国境における上杉方の重要拠点であった。虎胤の傷は癒えず、又60余歳を越える高齢のため、第4次川中島合戦に際し、虎胤は甲斐の留守部隊を預かった。その当時、香坂昌信(春日虎綱)が海津城の守将であった。虎胤は永禄7(1564)年3月11日、躑躅ケ崎館に近い屋敷で病没した。享年68であった。小畠虎盛も既に永禄4年6月に病死していた。享年71であった。

 同年8月、上杉謙信は春日山城を発して海津城の南の妻女山に布陣、海津城将の香坂昌信はこれを甲府に注進、信玄は8月16日にこの報を受け、18日に甲府躑躅ヶ崎館を出陣、24日に川中島には布陣した。その陣地については茶臼山説や八幡原説など諸説があるが原典がない。信玄は8月29日に海津城の北方の広瀬の渡しで千曲川を渡河し、海津城に入城した。9月9日、武田軍は香坂昌信らの別働隊を妻女山の背後を突くため迂回させた。信玄本隊は海津城を出て目前の千曲川を渡り八幡原に布陣した。一方、上杉軍は海津城からあがる炊煙を見て夜襲を察知し、夜半に雨宮の渡しを渡って八幡原に進出、9月10日早朝に両軍は激戦となり、数千名が戦死したとされた。これが第4次川中島合戦物語であった。この合戦物語の争闘戦には諸説あるが、確たる史料による裏付けを欠く。また越後方の史料と比し多くの齟齬があり、戦記物語としては面白いが、軍略家として秀抜な両将の戦術としては、余りにも劇画的で信じ難い。信玄、謙信両者には当然物見役がいて、敵陣の動静を見張るため、物見を各所に配置していたはずである。両将も当然、それを想定し戦術を練っていたはずだ。また海津城と妻女山は指呼の間にあり、直線にして3kもなく、謙信が本当にあの小高い妻女山に本陣を敷いたとしたら、互いの動静は筒抜けで、山本勘助の隠密な用兵は不可能であった。さらに当時の千曲川は、今より東に寄り、妻女山沿いから海津城に沿うように北上していた。1万を超える軍勢が、音を出さず進退する事を不可能にしていた。
 戦後、信玄はこの地方を新知として家臣に分配し宛行状(あてがいじょう)を出している。謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎない。勝利は、事実上、信玄のものと推定される。次第に武田方が、川中島地方を掌握し、その拠点として海津城は重要視され、香坂昌信が城主を務めた。

 元亀3(1572)年に入ると、信玄は遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始した。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方ヶ原で家康と信長の援軍佐久間信盛平手汎秀(ひろひで)の連合軍を打ち破った。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌元亀4年4月、三河野田城(愛知県新城市豊島)を包囲中の陣中で病に伏した。已む無く甲府へ帰陣する途中、信濃伊那谷の駒場(下伊那郡阿智村駒場)で4月12日、享年53をもって病没した。
 高坂昌信は信玄死後も、海津城代として北信濃攻略と上杉謙信の抑えを担当したが、他の老臣たちと同じように武田勝頼からは疎まれていたとされる。天3(1,575)年の長篠の戦いには参戦せずに、上杉謙信の備え1万の将兵で海津城を守備していたが、敗報を聞くや兵を率いて伊奈谷に馳せ参じ勝頼を迎え、衣服・武具などを替えさせる等、敗軍の見苦しさを感じさせないように体面に配慮したという。この戦いでは、昌信の嫡男昌澄が長篠城監視のために城の西方の有海村駐屯軍の中にいた。長篠の戦いで勝利し、勢いに乗る徳川軍に攻め立てられ、昌澄は果敢に抗戦するが大軍に圧し潰されるように戦死した。
 この戦いによって、信玄以来の老臣で生き残ったのは昌信のみとなった。昌信は勝頼を補佐して武田氏の再建に努めたが、織田信長の圧倒的な兵力に対抗するため、宿敵であった上杉謙信との同盟を模索したと言われている。その謙信も天正6(1578)年3月13日、脳溢血により春日山城中で没した。享年49であった。同年5月7日、昌信も海津城で病死した。享年52。
 嫡男の高坂昌澄が長篠の戦いで戦死したため、家督は次男昌元が継いだ。父の昌信も高坂姓を名乗ったのはわずかな期間であり、晩年は春日姓であったことから、春日昌元(春日信達)と名乗っていたかもしれない。武田勝頼はそのまま海津城代の職を引き継ぐことを許した。また、父の担当していた上杉氏との和平交渉もそのまま引継ぎ、成立に漕ぎ着けている。上杉との和睦成立後は、海津城から兵を割いて駿河の沼津城へと移り、徳川・織田の防備にあたった。
 天正10(1582)年2月から織田信長による武田征討が開始されると、昌元は沼津を放棄して本国甲斐を防衛すると称し新府城に馳せ参じるが、戦わずして沼津を明け渡した事を勝頼に疑われ海津へと戻された。長篠の戦いで勇将の殆どを失った武田氏は、余りにも脆く3月には滅亡している。昌元は、信長に降伏し、北信濃の領主となった信長の家臣森長可(ながよし)に属した。

2)森長可が支配する川中島

 
 妻女山より眺める川中島

 2月14日、信州松尾の城主小笠原掃部大輔信嶺が内通を申し出てきたため、信長軍は妻籠口から団平八・森長可が先陣に立って出撃し、清内路口より侵入して木曽峠を越え、なしの峠へ軍勢を登らせた。すると小笠原信嶺もこれに呼応して諸所に火煙を上げたため、飯田城に籠っていた坂西織部・保科正直は、抗戦は不可能と見、14日夜に入って潰走した。
 天正10(1582)年3月27日、織田信長は武田氏攻略に功のあった木曽義昌に本領を安堵し、恩賞として筑摩・安曇の両郡を新知として与えた。同月29日、改めて武田氏の旧領の割り当てが行われた。伊那一郡を毛利秀頼諏訪全郡が河尻秀隆に、小県・佐久両郡が滝川一益に与えられた。海津城には、織田信長の武将森長可が城主に任じられた。更級、高井、水内、埴科四郡が新知として与えられた。信長は、その3月に、甲信両国の国掟を定め、寺社以下各地在所に掲げ人心の掌握に努めた。
  一、関役所、駒口取るべからざる之事。
  一、百姓前、本年貢の外、非分之儀申し懸けるべからざる事。
  一、忠節人を立て置き、外の廉かましき(理屈を並べて懈怠する)侍は殺害させ、或る者は追失す可き事。
  一、公事等之儀、能々念を入れ穿鑿し、落着させる可き事。
  一、国諸侍は懇ろに扱い、油断無き様気遣いす可き事。
  一、第一に欲を構えるに付き、諸人は不足を為すの条、内儀相続に於いては皆々に支配させ人数を抱える可き事。
  一、本国より奉公を望む之者があれば、相改め、前に抱える者方へ相届け、その上で扶持之事。
  一、城々の普請は丈夫之事。
  一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄えす可き事。
  一、進退之郡内請取り、作道す可き事。
  一、界目が入り組み、少々の領地を論ずる間、悪之儀有る可から不之事。
  一、右定めの外、悪しき扱いに於ければ、罷り上り、直き訴訟申す可き候也。

 森長可は4月5日、川中島の修験道の中心皆神山(みなかみやま)和合院や篠ノ井塩崎の康楽寺など領内の諸寺院に国掟を掲げ領内取り締まりに当たっている。長可は海津城に在城し、飯山城には稲葉彦六貞通を遣わし在城させた。すると、その飯山を取り囲む一揆が盛んとなった。これに対し、信長はすぐさま稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏らを援軍として飯山へ遣わした。また信忠の手からも団平八が派遣された。織田本軍の来援を知った敵方は山中へ引き、現長野市豊野町大倉にあった古城・大倉城を修復し、芋川親正を一揆の大将として立てこもった。4月7日、一揆勢のうち8千ほどが長沼口まで進出してきた。一揆の将島津忠直は長沼城(長野市穂保;ほやす)に篭城した。その報に接した森長可はすかさず出撃し、敵勢に出合うと一気に攻撃を仕掛けた。そして7、8里にわたって追撃を行い、敵勢千2百余を討ち取った上、大倉の古城になだれ込んで女子供千余を斬り捨てた。この一戦により森勢の挙げた首は2千4百5十余にものぼったという。こうした惨状を呈し、飯山城を囲んでいた一揆勢も引き上げていった。この不手際で稲葉貞通は飯山城守備の任を解かれ信長の本陣の置かれている諏訪へと召還された。飯山城代には長可家臣の林為忠が置かれた。香坂昌元、小幡虎昌らは、人質を長可へ送っている。長可は長沼城に各務兵庫を城代として遣わし、千曲川以北の土豪の旧領を安堵した。
 長可は、信長より5月27日に越後への侵攻を命じられた。越後国内に侵略し、現新潟県妙高市の関山から二本松まで進軍した。その上杉影虎方と対峙中の6月2日、明智光秀謀反による本能寺の変で信長が自刃した。6日には長可の弟蘭丸(長定)、坊丸(長隆)、力丸(長氏)の3兄弟が京都の本能寺で殉じるとの悲報が届いた。直ちに、長可は海津城に帰陣し上京の準備をする。そこに香坂昌元、小幡虎昌らが来て、人質の返還を迫った。「もし聞きいれないときは、槍先にかけても請取るから、路次、難儀となろう」と脅かすが、長可は「槍先勝負とは笑止、いらざる戯言止め早く帰り、上洛の共の支度をすべし」と睨みつけた。香坂、小幡両人は、その威勢に言葉を返すこともできず立ち去った。
 11日、海津城を放棄し、途中、信濃・美濃の国衆が行く手を阻む中、本拠地の美濃の金山城に帰ろうとした。その報が伝播すると旧武田家臣団による一揆などが一斉に蜂起し逃亡しようとする長可を、香坂昌元らが信濃国人衆を母体とした一揆勢を率いて、千曲川の対岸で阻止した。それで長可は香坂昌元の息子である森庄助(森姓は長可が烏帽子親である為)をはじめとする人質を使って交渉の席を設けた。長可の側近として主に対外交渉などを担当している家臣大塚次右衛門を一揆衆への交渉役として遣わされた。大塚は昌元の裏切りをその席で糾弾するなど終始強気の態度であった。ひとまず深志(現松本市)で人質の開放するから「森軍に手出しをしない」という条件で合意した。しかし一揆衆は、人質を押さえられていた上での合意であれば、当然真意とは違い猿ヶ馬場峠(さるがばんばとうげ;千曲市と麻績村の堺、善光寺街道・現在は国道403号となっており、聖湖の北側)で長可と戦に及び、撃退された。
 そこで再度、大塚と一揆衆の会談の席が設けられ、大塚は手出し無用の事を強く言明した。しかしながら長可は昌元の裏切りそのものに強く不快感を持っており、深志に着くと約束を反故にし、長可自ら香坂昌元の息子森庄助を初め人質の多くを殺し、そのまま北信濃から撤退していった。残りの人質は木曽の木曽義昌に預け西上した。

3)上杉景勝、川中島に侵攻
 長可が北信4郡を空け西上すると、上杉景勝は直ちに、川中島へ侵略した。6月13日、稲荷山北部の清水三河守を臣従させた。次いで水内郡の栗田民部介や更級郡西山部の香坂一族など、北信4郡の武田氏旧臣や国衆に所領を安堵し臣属させた。海津城の城将の香坂昌元、小幡虎昌らもこれに従い、6月14日朱印状が与えられている。同月29日、景勝は遠山丹波守を上州沼田に在城させ、その功として更級郡八幡の松田氏の遺領を宛行い、埴科北部の西条治部少輔に本領を安堵する朱印状を与えている。7月3日、景勝は北信4郡の仕置のため、長沼城に入り、宛行状を与えた諸士と対面し、各所務に励み城普請をするよう命じた。
 天正10(1582)年3月、武田氏滅亡と信長による甲信の平定がなされたが、甲斐はもちろん信濃の一部でさえ、小笠原貞慶に分け与えられることはなかった。旧領の安曇・筑摩両郡は、信長に降った功により木曽義昌に加増され宛行れた。この年6月2日、信長は本能寺で自裁すると、たちまちのうちに甲斐・信濃の信長勢力は、旧勢力の復活により駆逐される。この機会に、越後に居た貞慶の叔父小笠原貞種が、上杉景勝の援助を得て木曽氏より深志城を奪い返した。しかし、景勝は海津城に居て、筑摩地域が容易でない状況を目の当たりにして、これまで上杉に臣服していなかった国衆にも、かつての経緯を問わず、その所領を安堵した。景勝は北信4郡の制圧こそが、当時の情勢下であれば、最悪確保されなければならない要地であった。
 徳川家康の戦略眼と軍事力、家臣団の強靭さは、景勝のそれを遥かに超えていた。小笠原貞慶は本能寺の変の時、家康のもとにいた。家康の要請もあって念願の信濃に入り、馳せつけた小笠原旧臣たちを率いて深志城を攻撃、7月17日、叔父小笠原貞種を追い落とし、ついに深志入城を果した。
 上杉景勝も小笠原貞慶の勢力拡大を阻むため、懸命に、小県郡の諸侍に宛行状を発している。7月24日付けで、小田切四郎太郎に「任望むの旨ゆえ、塩田郷の内下郷・中郷・本郷3か村の内、以上千5百貫文務める所、出し置き候、よって件の如し」と本領を確認している。
 西条治部少輔には7月25日付けで「近年抱え来る知行の儀は申すに及ばず、その上の忠信の間、新地として洗馬(せば;塩尻市大字宗賀字洗馬)、曲尾之を出し置き候、しかる間、いか様の者横合候とも、相違あるかざるべきなり、よって件の如し」と朱印状を与えている。
 屋代左衛門尉(秀正)にも7月25日付けで「近年抱え来る知行は申すに及ばず、忠信誠に比類なく、庄内根津分、並びに八幡の内遠山丹波分、浦野一跡之を出し置く者なり、よって件の如し」宛行状を与えている。景勝が海津城に入り、北条氏直と対峙した時、屋代秀正、海津城の香坂昌元、上田城の真田昌幸ら主だった国衆は、既に北条氏に内属していた。景勝とても、その実情は承知しながらも、それまでの経緯を問わず、諸士の本領を安堵し、その上の新知を宛行った。その結果、川中島4郡の鎮定が進められた。
 7月には、上杉景勝は高井・水内、更級・埴科の北信4郡を制圧し、安曇・筑摩・小県3郡の一部をも領有するに至った。景勝は村上義清の子景国を海津城代に任じ、元来、村上氏家臣筆頭の家柄であった屋代秀正を副将として海津城二の丸に置き補佐させた。同時に秀正は、屋代郷屋代城の守備も命じられている。そのため景勝は、秀正の守城荒砥城(千曲市上山田温泉)に清野、寺尾、西条、大室、保科、綱島、綿内ら7氏に、10日交替の在番を命じ、筑北地方の警備を厳重にさせた。
 秀正の養父屋代正国は、村上義清の重臣であった。武田信玄の信濃侵攻に対し奮戦し、天文17(1548)年の上田原の戦いで嫡男基綱が戦死している。天文22(1553)年4月5日、塩崎六郎次郎と共に村上義清から離反して武田氏に降伏し、村上氏没落の切欠となった。天正3(1575)年の長篠の戦いで、武田勝頼方として次男正長(清綱)を喪い、甥の屋代秀正を養子に迎えて家督を継がせた。秀正はもとより景勝、村上景国いずれも、その間の経緯は知っているはずだ。川中島4郡の鎮定は、極めて脆い一時の均衡であった。
 景勝は天正10年8月12日日付で、秀正へ「兼ねて申し定める如く、源五(村上景国)の事別して入魂任せ置き候、万端仕置き何遍も分別次第、源五と談合これあり、相計らえもっともに候、恐々謹言」と書状を送っている。
 景勝は、信濃の仕置がなると、当地の横目として板屋佐渡守光胤を置き、食邑として更級郡布施の内河野因幡(尚家)分、高井郡高梨領大熊郷料所分、更級郡桑原郷料所分、更級郡今井郷小山田分を宛行っている。

4)北条氏直、信濃侵攻と諏訪頼忠
 この当時、滝川一益(かずます)と戦い、その勢力を駆逐した北条氏直は、それに乗じ碓氷峠を越え佐久郡の依田信蕃(よだのぶしげ)を追い、小県郡海野に達した。真田昌幸もその勢いに抗しえず臣従した。
 天正10年(1582)、氏直は、諏訪の重臣千野昌房に使者を送った。家康も、大久保忠世を派遣して臣従を勧めるが、この当時、高遠の保科氏、木曽の木曽氏など南信濃の小領主の多くは、既に北条方になっていた。諏訪頼忠も氏直から北条氏につくよう要請されていた。この後直ぐ6月28日、徳川家康は大久保忠世を信州諏訪に出兵させた。諏訪や伊那の国人衆を傘下に入れるためであった。酒井忠次の軍は下伊那の小笠原信嶺の軍と合わせて、7月14日高島城(茶臼山城)を囲むが、頼忠はよく耐えこれを防いだ。この危急を知って北条氏直は佐久に出陣した。酒井忠次は北条の動きを見て、一旦は高島城の囲みを解き、甲州の台ケ原(山梨県北杜市白州町の旧台ケ原村)に退いた。7月19日から21日に掛けて、大久保忠世から盛んに帰順を促す書状が届けられた。
 7月24日、駿河にいた家康は、酒井・大久保の軍に加え、伊那の下条と知久氏の与力軍、合わせて3千の軍に決戦を命じた。高島城を攻めるが、諏訪軍は、逆に夜討ちをかけるなどして、よくこれに堪えた。これより前、北条氏直は、6月中旬、真田昌幸が名胡桃城で抵抗するため、佐久郡に侵出していたが、諏訪氏救援のため、真田昌幸に本領を安堵する条件で和睦し、氏直はその兵、4万3千を率い、役行者(えんのぎょうじゃごえ;雨境峠;北佐久郡立科町八ヶ野;長門牧場の東北部)を越えて、梶が原(茅野市柏原)に駆けつけ着陣した。29日徳川勢は、高島城の囲みを解き乙事(富士見町)に引き上げた。8月6日まで滞陣していたが、北条軍が多勢のため新府城へ退却した。北条軍はこれを追い、上の棒道を通って若御子(北巨摩郡須玉町)にまで進出し布陣した。
 家康は甲府から新府に進み、氏直と対峙する。両軍は小競り合いを繰り返しながら、80日近く経って、10月29日にようやく両者の和議が成立した。それは真田昌幸が、徳川と結び、北条軍の諏訪進出の隙を突いて、碓氷峠を越えて上州に進攻し、9月には北条方の沼田城を奪取し、北条軍の糧道を断ったからである。ついに、氏直は形勢の不利を悟り、上州沼田をとる一方、甲斐の都留郡、信濃の佐久郡を家康に譲り、真田昌幸には代替地を与えること約定して和睦した。そして、家康の次女督姫(とくひめ)を氏直に嫁がせた。以後、甲斐と信濃の大部分は、家康が領有する。
 既に諏訪頼忠に対して、家康は、対陣中の9月の時点で、大久保忠世を高島城に派遣して、頼忠に帰順を勧めていた。最早、北条に頼れないと悟り、やがて頼忠・頼水父子は、甲府の家康に拝謁し、次男頼定を人質として差し出し、徳川に帰属を願い出た。家康はこの時「信州の事情がはっきりするまで、帰って待て」と指示、翌天正11(1583)年正月、柴田康忠を高島城に派遣した。3月28日には、諏訪安芸守頼忠殿宛てに、家康の花押のある諏訪郡の安堵状が与えられ、柴田康忠は引き上げた。この安堵状は重く、以後、高島藩は譜代大名に準じた扱いを受ける。
 翌天正12年には、家康の命令で本田康重の娘(後の貞松院)を、頼忠の嫡子頼水が娶り、頼忠の地位は徳川家で不動のものになった。
 頼忠は居城を茶臼山の高島城から下金子に移し、宮川が大きく湾曲した突端に、平城の本丸を築いた。宮川が外堀で、本丸、二の丸、三の丸も備えていた。本丸の東が三の丸で、その堀の外に八幡社を勧請して城の鎮守とした。
 諏訪頼忠が郡主になるが、頼忠は上社大祝・千野氏以下上社系の旧臣を用いた。天正18(1590)年、北条氏の小田原城が開城した年であった。6月10日、家康から頼水宛に書状が届いた。
 「信州諏訪郡のこと、安芸守に先判つかわしたように、今より以後もまちがいなく安堵させるから、いよいよ忠勤を励む事」
 この年に、頼忠が隠居し、長子頼水が領主となった。頼水は家康の命により弟頼定に下社一円の領有を譲るべきとされたが、策謀の末これを追放した。対外的には出奔としている。詳細は歴史の闇の中に消えてしまった。また、下社系の武士は出仕する機会も無く、帰農して村役人におさまったりして、江戸時代を通して、下社系の武士は蕃の重職に就くことはなかった。

5)深志をめぐる小笠原貞慶と木曽義昌
 元亀3(1572)年12月22日、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町周辺)で、徳川・織田の連合軍は、信玄の見事な采配と圧倒的な武田の軍事力に完膚なきまで撃破された。翌元亀4年2月までには三河に侵攻され家康の属城野田城も攻略された。しかし、冬季の遠征により、信玄の積年の病労咳が重症となり帰国をせざるをえなくなった。4月22日、織田軍との直接対決を目前にしての帰府途上、伊那郡駒場で病没した。享年53であった。信玄ほどの武将が、なぜここまで無理をしたのか?馬場信房などの周囲の宿老が、なぜ自重を願わなかったのか?真田幸隆もなぜ説諭できなかったか?
 天正3(1575)年、2月26日、織田信長の武将河尻秀隆から小笠原貞慶(さだよし)に府中深志回復を呼び掛ける書状が届いた。貞慶は父長時が信玄に駆逐され没落すると上京して、父子共に小笠原一族の三好長慶に頼っていた。『書簡并証文集』によれば、小笠原貞慶に「今度信長の直札(じきさつ)を以て申し入れなされ候」とある。この秋に織田信長は信濃国へ出勢する予定であるので、その際に貞慶に還補(げんぷ:かんぷ)することは勿論、「別して其許の御才覚此の時に候」と、その実力を発揮する好機であること、信濃国・美濃国境目の「有事」が発生した際には相応の尽力をするよう伝えている。貞慶は、この府中復帰の誘いで信長に臣属する契機となった。
 毛利氏は織田軍羽柴秀吉の執拗な攻勢に遭い、武田・上杉・大坂石山本願寺を誘い攻勢に出た。天正3(1575)年の長篠の戦、5月21日、午前6時、武田勝頼軍と織田信長軍は連子川を挟んで対峙した。織田・徳川軍より高台に位置した武田軍は、地形の優勢を利用して一気に騎馬隊で駆け下り織田軍を粉砕する作戦であった。信長は敢えて、地形が低位にある地に本陣を構え、武田騎馬隊の破壊力の驕りを誘った。その一方「東三河の旗頭」と呼ばれる酒井忠次らは武田方の後方陣地鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を襲い、長篠城へ援軍を入れた。退路を閉ざされた武田軍は設楽原決戦(したらがはら)に挑みざるを得なく、騎馬隊を中心に次々と攻撃をかけたが、馬防柵に阻まれた進退ままならぬ状態下、信長軍の鉄炮隊の迎撃弾を浴びた。この合戦で信長は鉄炮を3段に構え交替で一斉射撃を行う戦法をとった。戦いは午前8時ごろから午2時ごろまでに及び、山県昌景、土屋昌次、馬場信房などの信玄以来の宿将をはじめとして1万人を失った。多数の将士が名もなき足軽兵に射殺され無勢となった武田軍に向け、午後2時頃、信長の総攻撃命令が出る。滝川一益を一番手とする織田軍と徳川家康配下の三河武士団が次々に武田軍に打ちかかる。勝頼本陣も崩れ、勝頼は主従6騎で落ちていった。これ以後武田氏は往時の勢いを失う。天正10(1582)年滅亡する。
 信長は上杉景勝やその配下の北信の村上国清に書状を送り、甲信出兵を誘っている。天正3年11月28日付の書状を小笠原貞慶に持たせ、上野の小山秀綱に使者として「委曲、小笠原右近大夫に伝達有る可き候。」と伝えている。貞慶は天正5年極月(12月)22日日付で、北条氏政に対抗する常陸の佐竹義重の与党梶原政景から、関東出兵を要請されている。また同国の水谷勝俊・太田道誉からも援軍を頼まれている。天正8年3月23日には、越前いる「其国御滞在」の小笠原貞慶に、柴田勝家が越中の国人衆の調略を要請している。天正9年10月15日、織田信長が越後へ出兵しょうとする際、富田知信に送った書状には「猶貞慶申し可く候也」とある。この間、貞慶は織田方の使者的な役割しか与えられず、信長が抱える多士済済の武将と同列には扱われておらず、軍事力は殆どなかったようだ。
 織田信長の信濃・甲斐討伐作戦は、天正10年2月1日の木曽義昌の要請により始まる。安土在城の信長に美濃苗木城主苗木久兵衛(遠山友政)から「信州木曽義昌御身方之色を立て被れ候間、御人数出で被せ候様に」(信長公記)との書状が届いた。『当代記』には「信濃国木曽の主伊予守義政忠節致し可く之由、東美濃の苗木久兵衛(遠山友政)を以て信忠へ言上」とある。この報せに信長は好機到来とばかり、嫡子信忠以下の武将に、武田追討令が下された。この時、木曽義昌は弟上松蔵人を人質として差し出している。
 義昌謀叛の報は既に武田にも伝わり、2月2日、武田勝頼・信勝父子と勝頼の弟信豊らの兵1万3千が甲斐韮崎の新府城から諏訪の上原城に出兵し本陣とし、信長の諸所の侵入口を押さえた。信長の動くは速く翌3日には、かねてからの武田追討の計画通りの甲斐・信濃への出兵を諸将に命じた。駿河口から三河の徳川家康、関東口から小田原の北条氏政、飛騨口から金森五郎が一斉に進撃を開始した。安土の信忠本軍は、木曽口と岩村口の2手に分かれ侵入した。6日には、伊豆の河尻与兵衛が戦列に加わった。
 一方、勝頼は木曽谷を進撃するが、木曽義昌は2月6日に、伊那谷に在陣する織田信忠の武将塚本三郎兵衛に書状を送り、信忠の出馬が延引するならば、「御近辺衆二三の輩を将と為し、伊奈郡之御人数を遣い立て被れ候者、諏訪・府中一変為す可く候事」と進言した。更に「右御遅延に於かれれば、此の凶事眼前に表れる之事『塚本文書』」と早急の手立てこそが、即効策となると予告している。信忠は木曽勢の援兵として織田源五らを派兵した。勝頼の鎮定は「谷中過半撃砕令し候、然りと雖も、切所に構え楯篭り候之故、没倒遅々、無念に候。」と困難を極め、その間に下伊那の小笠原信嶺と国人衆が織田方に転じ遂に困窮する。義昌の読み通り、伊那衆のみならず安曇郡の古幡・西牧両氏は義昌に内通し、近郷の諸士と連携し大野田夏道(松本市安曇大野田)の砦に陣構えをした。また岩岡佐渡・織部父子も深志城を離間し中塔小屋を拠点とした。翌17日、深志の馬場勢は、中塔小屋を急襲し、安曇の上野原や黒沢馬場で戦闘となり、中塔小屋から細萱の館へ斬り込んだ。18日、寺所河原で戦い、19日には二木一門の岩波平左衛門も武田氏を見限り、古幡・西牧両氏らに同勢し、筑摩郡の下神林で戦い、野溝・平田辺りまで追撃した。漸く2月20日なって、勝頼は上杉景勝に信濃の動静を伝え援軍を要請した。これに応じ3月5日、景勝自らが明日出陣と触れ、松本房繁ら諸将を水内郡長沼へ先発させた。
 ところが、それ以前に信玄の甥で武田家重臣の駿河江尻城主で、郡内小山田氏に並ぶ河内領の再支配という別格待遇を受ける親類衆で、母南松院殿は武田信虎の娘、妻は信玄の娘見性院、その穴山信君が謀叛した。その報せで、『当代記』には、「其れに就き、甲州上下周章不斜(ななめならず)、勝頼陣中無体之関、即ち塩尻自り甲州へ.引退」とある。2月28日、勝頼は諏訪の上原城を撤退し甲斐新府城に籠った。
 2月末、信長の従兄弟織田信益が木曽から筑摩へ進軍し、深志に陣を布いた。同日、木曽義昌も深志の南方、征矢野・鎌田に陣を据え、安曇の国人古幡伊賀・岩波平左衛門・岩岡織部などを呼び付け、深志城の調略を命じた。結局、天正10年3月2日、馬場信春は四面楚歌となり降伏し退城した。天正3(1575)年の長篠・設楽ヶ原の合戦で馬場美濃守信春(信房)が討死し、家督を継いだ子も同じ名を称していた。二木衆も安曇の中塔小屋へ撤退した。義昌は無血開城に成功した。
 一方信忠殿は3月1日、飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原に着陣した。ここから松尾城主の小笠原信嶺を案内に立てて河尻秀隆・毛利秀頼・団平八・森長可の軍勢を高遠へ進ませた。小笠原信嶺の案内で夜間に城の麓の三峰川を渡り、対岸の大手口へと攻めかかった。ところで飯田城主であった保科正直は飯田を脱出し、高遠に入って籠城軍に加わっていたが、この日の夜間に城中へ火を放ち内応する手はずを信嶺と謀っていた。しかし城内は臨戦中であり実行する間隙がなく翌日を迎えた。
 天竜川を越えて貝沼原に宿陣していた織田信忠は、翌2日払暁、尾根伝いに搦手口へと攻めかかった。森長可・団平八・毛利秀頼・河尻秀隆・小笠原信嶺は大手口へ攻撃をした。勝頼の異母弟仁科五郎信盛は、最期まで忠節を貫く諏訪衆と共にこの大手から討って出、織田勢と数刻にわたり壮絶な戦闘を繰り広げた。多勢に無勢、数多の兵が包囲され討ち取られ、やむなく残兵は城中へと逃げ帰った。
 信盛も孤軍奮戦するが高遠城は殲滅された。信盛享年26であった。勝頼は小山田氏にも裏切られ、夫人北条氏の伝手を頼り上州を目指すが、天目山に至り織田軍勢に挟撃され、遂に3月11日、妻子とともに自刃、享年37であった。
 信長自らも驚くほどの短期間で、信濃・甲斐・駿河を制圧した。3月17日に、飯田を発ち、大島・飯島から高遠を経て杖突峠を下り、上諏訪の法華寺に本陣を置いた。すると、甲斐・信濃の国人衆は、引きも切らず参集した。
 小笠原貞慶は、深志城落城を報らされると、すぐさま飛騨から安曇郡金松寺に身を移した。貞慶は愚かにも小笠原旧臣と、信濃逃亡後、未だに疎遠状態に在った。父長時以来の有力臣属二木氏すら貞慶の動静が知らされていなかった。さすがに信長は信濃制圧に何の功績も無い貞慶の入府を許さなかった。信長は同月19日、上諏訪の法華寺に入り本陣とした。貞慶は府中回復の絶好期でありながら、旧臣の援軍も期待できず府中を回復できなかった。翌20日、木曽義昌は出仕し、信長の来援を謝し、太刀一腰・馬二疋・金二百料を献上した。信長は義昌に黄金千両を下賜し、更に寺の縁まで見送りに出るほどの持て成しをした『当代記』。21日には、武田氏滅亡を速めた穴山信君(梅雪)も出仕し、甲斐・駿河の本領が安堵された。24日には、各在陣衆が兵粮などに困り、深志城の城米があてられ、その不足を北条氏政から白米2千石、家康からも石高不明だが進上され、諸陣に配られた。
 同月27日、「信濃国筑摩郡・安曇両郡之事、一色宛行候訖(おわんぬ)。全て領知に令す可し、次に木曽郷之儀、当知行に任せ聊かも相違有る可からず之状、件の如し。」と、木曽義昌が武田氏征伐の切欠をつくり、更に出兵の先鋒となった功を賞した。2日後の29日に、法華寺で甲斐・信濃・上野・駿河の知行割が行われた際、徳川家康に駿河一国が宛行われ、再び義昌の本知の木曽郷と、かねてからの約束通り府中深志を含む筑摩・安曇両郡の新知が下され対外は、殆どが信長の家臣に与えられた。穴山氏本知分は除く甲斐と信濃国諏訪郡が河尻秀隆の新知宛行とし武田氏の本拠を押さえとし、滝川一益に厩橋(前橋)城を本拠とさせ、上野と信濃の小県と佐久の2郡を与えた。以後、川中島の海津城に在城を命じられ、越後の上杉景勝攻略の先鋒として森長可に信濃の高井・水内・更科・埴科の北信濃4郡を与え、次の布石としている。毛利秀頼には信濃国伊那郡を知行させた。帰属した国人衆の旧領を安堵し、各家臣団の新知行地に再編入した。
 小笠原貞慶は、府中の小笠原譜代衆をかき集め、金松寺から上諏訪法華寺にいる信長に謁するため駆け付けたが、「御礼罷り成らず」と門前払いされている。木曽義昌の抜群の軍功の前に屈し、僅かな家臣を連れ京に戻って行った。
 天正10(1582)年3月、信長は甲信両州の国掟(くにおきて)を各郡内に発布した。そこに、「国諸侍は懇ろに扱い、油断無き様気遣いす可き事。」とありが、『当代記』には「甲州之国侍、又は武田の家老共と駿河・信州の侍、小山田・山県を初め、悉く誅戮させ、三川(河)菅沼伊豆守父子同菅沼新三郎、去る元亀3(1572)年より信玄に属し、天正3年の長篠の合戦より信州に在国、此の度降参し河尻肥前守を頼り彼の陣中に居りしを、家康自り信長へ言上あり、則生害せられた。諏訪の祝女(はふりめ)は新三郎の妻たりしか、此の事を聞けば則ち子供指し殺し、其の身も自害させ」とあり、一度信長に歯向えば深酷な仕置が諏訪衆などに及んだ。
 一方、「関役所、駒口取るべからざる之事。」とあり、この関所の撤廃楽市楽座の実施により、『信長公記』は「路次の滞り聊か以てこれなし。誠に難所の苦労を忘れ牛馬のたすけ、万民穏便に往還をなし、黎民戸(いんと)ささず、.生前の思い出、有りがたき次第也と、悉く拝し申し候」と自負している。
 信長は東国の処理を済ませ、4月10日、甲斐から帰陣する際、「進退之郡内請取り、作道す可き事。」と笛吹川に橋をかけさせ、安土城への帰還の道幅を広げ、石を除き道筋を覆う大木を伐り倒させた。この処置は信長の大軍団の帰陣の障害を取り除くためであったが、一方、全国制覇のためには道路網が最重要不可欠な基盤整備となる。信長は既に天正2年の暮れに「国々道を作るべき旨」の朱印状を、分国に触れ出していた。『信長公記』は「江川には舟橋を仰せ付けられ、険路を平らげ石を除き大道とし、道の広さ3間に中路辺の左右に松と柳を植え置き、所々の老若罷り出で、水を注ぎ微塵を払い、掃除を致す可き事」と命じた。

6)本能寺の変後の小笠原貞慶
 天正10年6月2日、明智光秀のクーデターにより信長と嫡男信忠の政権は脆くも崩れ去った。信長政権が確立しないまま、特に甲信地区は.再び無主動乱の地となった。各地の旧主が自領の回復を計り、北の上杉景勝南の徳川家康東の北条氏政が旧領主に調略の手を伸ばした。12日、小笠原貞慶は嫡子秀政を徳川家康の人質に差し出して、徳川家康の支援を得て信濃府中に還着した。かつて小笠原長時幕下にあり、府中北方の伊深城主であった後庁(三村)勘兵衛に「今度石伯(石川伯耆守数正)御取成し故、家康御光を以て入国の行、偏にその方覚悟に候」と促し、本意を遂げれば後庁の名義と洗馬3千貫を宛行うとし忠節を促している。更に2日後14日の信濃入国に際し「当家奉行に相加え候」と貞慶は花押状を送っている。しかし長時の弟・叔父小笠原貞種が上杉景勝の後援をうけて信濃に侵攻して深志城を奪還した。景勝は13日には更級郡の清水三河守康徳(やすのり)を初め、16日には市河治部少輔信房など、主として北信の武将に旧領を安堵し、新たに所領を宛行っている。同様の措置として20日には、小幡山城守景虎に花押状、29日には西条治了少輔にも朱印状を与えている。
 その間、景勝は梶田・八代の両物頭に、2百騎を預け深志城攻略に向かわせた。川中島より麻績・青柳・会田などの諸士を降ろし府中に入った。深志城の木曽義昌を攻め破り、小笠原貞種を城主として置き、小笠原氏の旧臣の所領が多い安筑地方を治めさせた。上杉氏は、謙信公以来、他領支配が稚拙で、梶田・八代の両物頭は、なんの施策も無く代官的機能も果たさず、貞種を表に立てることも無く、驕り高ぶり専横な言動を専らにし安筑地方の人心を失っていった。
 結果、安筑地方諸士の輿望を失い、『二木家記』によれば、二木一門や征矢野(そやの)甚右衛門が、起請文を書き有賀又右衛門、平沢重右衛門を使者にたて、三河の徳川家康の許に寄寓する貞慶の信濃府中への還住を願った。先の3月、信長による甲信制圧に際し、小笠原旧臣と安筑地域の諸士と連携がなされるまま無為に時を逸失し、木曽義昌の後塵を拝した。貞慶は最後の好機と知り、事前に書状で安筑地域の諸士の懐柔策をなし、今回は積極的に所領安堵と新知を宛行い、その他の恩賞を約定した。
 貞慶が家康の支援を得て、三河から伊那谷に入り、その地の下条頼安や藤沢頼親の兵を合わせ塩尻に着陣すると、安筑両郡の諸将が既に参集し迎い入れる用意を整えていた。その塩尻で挙兵を宣言すると、7月17日夜明け、安筑の旧臣を率いて深志城を攻略に向かうと、貞種ら越後勢は戦うこともできず退去せざるおえなくなっていた。貞慶は深志城に入ると深志の地を「松本」と改め、城下の整備に努めた。「松本」の地名は貞慶が命名したのではなく、既に深志付近にある一地名として古くからあった。貞慶が「深志城」を「松本城」と改称すると、「松本城」周辺に広く伝播され、その範囲が広がった。

7)小笠原貞慶の深志平定
 30年振りに旧地に復した深志城主小笠原貞慶は、天正10年から11年にかけて、一つは旧臣たちと寺社への所領安堵および寄進、もう一つは反貞慶の態度をとり続ける地侍の討伐に邁進した。前者に関しては、同年8月3日、筑摩郡の犬甘半左衛門久知(いぬかいひさとも)への安堵状を皮切りに、数多くの安堵状・宛行状・寄進状を発行している。深志城に入ったものの、深志から川中島迄の間、即ち子檀嶺岳(こまゆみだけ)の北西、四阿屋山(あずまやさん)、聖山、冠着山(かむりきやま)辺りの筑北地方と安曇から仁科地方小谷迄も上杉の勢力下にあった。徳川家康にしても一時的措置として小笠原貞慶を利用したようだ。反小笠原の勢力が一揆を結び攻撃して来るか、景勝が南下策を採ればひとたまりもなかった。
 現に木曽義昌が深志城を奪還すべく攻撃してきた。貞慶は深志城から果敢に出撃し、義昌を敗走させた。木曽領筑摩郡本山(塩尻市本山)から福島口まで追撃し、日が落ちたため陣中大いに篝火を焚き着陣を装い帰城しょうとしたが、義昌も予想していて、兵を隠して反撃の準備をしていた。その撤退に乗じられ小笠原孫次郎・犬甘治右衛門政信らの重臣が討ち取られている。家康も、これを報らされ、貞慶の軍事力に期待できずとし、8月30日には、北条氏傘下となった木曽義昌に安筑2郡の安堵状を発し靡かせている。家康も、切迫していた。東の北条の動きは速く高遠の保科氏、・諏訪氏・木曽氏などを初め南信地方の諸勢力を臣従させていた。それがため、貞慶を無視し、中でも信濃の最大勢力である木曽義昌を逸早く調略した。
 なお犬甘政信が、7月中旬、貞慶が本山で木曽義昌と戦い、一度勝利しながら帰城の際、背後を襲われ討死したため、犬甘氏の家督は弟の久知が継承した。天正10年7月20日の犬甘久和宛の貞慶の花押状には「犬甘今度本山に於いて討死、比類無に候、然者(しかれば)、彼の跡目其の方相続申付け被る可き候、家来以下引出、弥(いよいよ)奉公為す可き事専用也」とある。
 一方、貞慶も必死で天正10(1582)年8月初旬から、先鋒として犬甘半左衛門久知と塔原城主海野三河守を任じ、仁科一族日岐氏の制圧に向かっている。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束(ももつか)ら諸士が率いる後軍が深志を発ち安曇郡の穂高に陣を布いた。一方会田方面には赤沢式部少輔を出兵させ、青柳方面からも牽制させている。
 9月5日には、武田氏旧臣水上六郎兵衛に筑摩郡小松郷を、岩間善九郎には「信州野溝・平田・村井庄之内6百俵、名田被官等事」と安堵している。貞慶は父長時の没落の原因が、その傲慢さ故に家臣団が育成されず寧ろ一族譜代に嫌悪され、その上の戦略の欠如が諸所を破綻させた事を知っていた。
 貞慶は深志城から犀川筋を重視し、特に信州新町の牧之島に着目した。当時は東筑摩郡生坂村にある名勝山清路(さんせいじ)が通じてなく、下生坂からねむり峠を越えて込路部落へ出、大岡村・桐山・後沢、そして日向村・麻績へと大道が通じていた。その道筋を仁科氏一族日岐氏が、犀川沿いに小立野(生坂)地域には川はざま城・中野山城・小池城・高松薬師城、その北方の日岐・上生坂・下生坂にかけては小谷城・日岐大城・猿ヶ城・日岐城(ひき城;東筑摩郡生坂村日岐)・白駒城などで山城や砦で固めていた。兄の日岐盛直は犀川左岸にあった生坂の日岐城主で陸郷(池田町陸郷)に、弟盛武は生坂の万平(まんだいら)に居館を構えていた。
 深志に小笠原貞慶が侵攻し、川中島には越後の上杉景勝が反撃して来た。この時、日岐盛直は弟盛武と共に上杉氏に属したため貞慶と対峙した。貞慶は天正10(1582)年8月初旬から日岐氏征伐を開始した。先鋒の犬甘半左衛門久知と塔原城主(安曇野市明科中川手)海野三河守が出陣した。9日には小笠原頼貞・赤沢・百束ら諸将も出兵し安曇郡穂高に布陣した。一方上杉方の会田・青柳方面からの援軍を牽制するため、会田へ赤沢式部少輔を派兵した。貞慶は日岐氏に対し29日の時点では、「大手口之備え如何にも存分如く候、一両日中に日岐之者ども退散申し候可く候と存事候」と当初は一両日中に落居させると楽観視していた。しかし9月6日付の犬甘氏宛の書状で、明日貞慶自ら日岐に出馬すると伝えている。その後も苦戦が続き、翌天正11(1583)年8月初め頃、「日岐之大城御責め被成(なされ)候御積りにて」、大規模な戦略策が採られた。小笠原貞慶軍は3隊に分かれて日岐軍を攻撃した。本隊は小笠原長継、溝口貞康軍合わせて5手で、会田・板橋・西ノ宮そして庄部の赤岩へ進軍した。第2隊は仁科衆2手で大町・新町そして牧野島口に出て、日岐軍が北上して逃げる際の退路を断つという策であった。第3隊が小笠原貞頼・岩波平左衛門5手と旗本衆20騎が穂高・池田から日岐の北方にあたる草尾に出た。この隊の50騎が、徒歩となり草尾から犀川を船で渡り対岸の日岐崎に上がり20計りを討ち取った。すると後続の兵が続々と犀川を乗り越して日岐衆を追い落とし勢い付いて遂に日岐城を攻略し、万平(まんだいら)の居館も陥落させた。降伏した日岐は、以後は小笠原氏に属した。貞慶は日岐丹波守盛武に天正11年8月7日付けの花押状を渡している。「今度之重恩を為す、押野之内定納万疋之所出置可く候、此旨以て、忠信を抽す可き者也、仍って件の如し。」と、その帰属を許している。天正18(1590)年に小笠原氏が家康の家臣として関東に転封になると同行した。

 天正10年の冬、貞慶は会津若松にいる長時を迎えるため、平林弥右衛門を遣わした。長時は、武田信玄により筑摩を追われ越後の上杉謙信を頼った。その後、一族と共に同族の三好長慶を頼って上洛し、摂津の芥川城に15年間逗留した。権大納言山科言継の日記『言継卿記』に「妾がか所へ罷り向ふ、酒これあり。信濃国小笠原牢人(小笠原長時)、三好方これを頼みて芥川に住す。子喜三郎(貞慶)参会す。」とあり、『信府統記』には「将軍義輝公へ長時弓馬の師範」とある。『信府統記』は、享保年間、松本藩主水野氏の家臣鈴木重武・三井弘篤が主命によって編纂した地誌である。義輝は「鹿島新当流」を創始した「塚原ト伝」から剣術を学び、「剣豪将軍」・「抜刀将軍」と呼ばれた。また晩年には「新陰流」の創始者で剣聖とまで称えられる「上泉信綱」にも師事して、新陰流の免許皆伝も得ていた。それほどの義輝が長時に弓馬の師範を頼むだろうか?江戸期に編纂された小笠原家の家伝の原典まで遡り検証されなければならない。
 貞慶は父長時と共に諸国を牢浪し、漸く三好長慶を頼ったが、それ以降も含めて30余年牢人していた事になる。永禄6(1564)年、三好長慶が病没し、翌永禄7年に将軍義輝が暗殺された。そして永禄11(1568)年9月28日から織田信長に芥川城が攻撃され、30日には落城し、三好氏が没落した。『小笠原歴代記』によれば、長時・貞慶父子は「信長上洛の砌、芥川城没落す。長時51歳。而して越後に御下着す。輝虎別して御懇意により、5百貫宛無役に進めらる。」と再び上杉謙信を頼った。
 長時は天正6(1578)年の謙信死後は越後を離れ、会津の芦名氏の許に寄寓した。その間、貞慶は奥州・関東を流浪した末、天正3(1575)年頃、織田信長に属し越前から関東諸国への使者的な役割を果たしたようだ。天正8年3月23日、信長の重臣柴田勝家が、「其国御滞留」と記される越中にいる貞慶に、当国の武将の帰属を働き掛けるよう要請している。翌天正9年10月15日には、信長が越後へ出兵しようとして家臣の富田知信に送った書状に「猶貞慶申し可く候也」と、それを届けた貞慶に詳細を聞くよう命じている。
 その貞慶が漸く本領を回復した事を知り、長時は大いに欣喜したが、69才との高齢であば、陸奥の冬の峠越えは耐えがたく、翌春府中に帰ると使者平林弥右衛門に書状を託し帰した。
 翌天11年3月貞慶は、再度平林弥右衛門を迎えに遣わせた。しかし既に、府中帰府の準備していた長時が、その最中に怨恨を抱いていた家臣坂西弾右門に暗殺されていた。府中の正麟寺(松本市蟻ヶ崎) を父長時の開基として、その菩提を弔った。

8)小笠原貞慶の会田氏討伐
 本能寺の変後松本以北の悉く上杉勢の支配下に置かれた為、貞慶が深志城に入っても、会田・青柳・麻績の帰属は不確かなものであった。会田氏は鎌倉時代から会田御厨の地頭に補任された海野氏の一系譜・小県郡の岩下氏で、武田晴信侵攻に際し同じ海野氏の塔原氏と同様小笠原長時を見限り武田氏に服属し、その治世下軍役に励んできた。貞慶が深志に入城すると地理的な関係からも逸早く報復された。会田氏も「午の11月、会田の城の者ども越後へ内通仕り、河中島より合力を乞う、柳生(やきゅう;松本市中川矢久)の入りに小屋を立居申し候」『岩岡家記』と、当時会田の当主が幼少の小次郎広忠であったため、会田城より小県寄りに新砦を築いた。貞慶は天正10年11月3日から会田を攻め、犬甘半左衛門久知を総大将に犬甘衆20騎、旗本衆30騎、仁科衆10騎、塩尻衆5,6騎の軍勢であった。矢久の砦に小県方面の援軍多数も籠り奮戦したが、日を経ず小県兵ともども守将堀内与三左衛門が討ち取られ落ちた。小次郎は小県郡青木に逃れたが五輪の尾根で自決したという。海野氏系会田氏は完全に滅び、当地は小笠原氏が領有した。この合戦の際、深志城にいた貞慶が犬甘久知に送った書状が載る『御書集』によると、戦地に送る鉄砲と玉薬の手当てに汲々としている様子が窺える。「鉄砲の儀、明日急度指し越す可く候」「鉄砲の玉薬、先づ千放差し越し候」「玉薬あはせ次第、先づ2百放指し越し候、出来候はば追々指し越す可く候」と3日から6日に掛けて苦心して手当てしている。合戦は6日を境にして決着を見たようだ。
 翌天正11年2月12日、苅谷原城主赤沢式部少輔清経が塔原城主海野三河守、小岩岳城主古厩因幡守盛勝らと謀叛を企てたことが発覚し切腹を命じられた。赤沢氏は小笠原長経の2男清経以来の小笠原氏一族で赤沢左衛門尉は武田氏に帰属して、『武田分限帳』によれば軍役40騎で仕えた。元々深志北方、本郷・岡田方面を領有していた。天文17年の塩尻峠の合戦で小笠原長時を見限り、武田晴信に属し上杉輝虎との前線の要である水内郡長沼城に在番した。そして、左衛門尉の子式部少輔清経のとき武田氏が滅亡、清経は信濃に復帰した貞慶に属した。その後、小笠原氏の同族の故をもって、小笠原貞慶の厚遇を受け、会田・小県方面の備え苅谷原を任された。しかし、貞慶に心服したわけではなかった。特に筑北地方の族長は、上杉・徳川両勢力が拮抗する最中、そこに貞慶が絡み、動向を見誤れば一族は消滅する、その切所で迷う状況下にあった。
 2月、赤沢清経は刈谷原在城時に密かに上杉氏と通じ、塔原城主海野氏、小岩岳城主古厩盛勝氏らと結んで貞慶に謀叛を企てる。海野・古厩両氏は武田氏が安筑地方を治世下に入れると忠誠を誓い、本能寺の変後は上杉景勝に臣従した。貞慶が深志城を奪うと地理的にも近く、善光寺平や仁科方面に通じる要衝でもあるがため、古来からの小豪族の宿命で、一族存続のため直ちに臣従した。ところが、同様の立場であった日岐・会田が貞慶に征伐されると、彼らよりも深志に近く、しかもかつて小笠原氏を裏切っている、やがて討伐されると疑心が積り、小県に通じる苅谷原城主赤沢清経を誘い古厩氏の小岩岳城に軍兵と兵粮を集め、上杉の援軍を待つ計画であった。山麓の居館を中心に家臣団屋敷などを配置し、それぞれ独立した防御力を持たせた「館城」形式の小岩岳城は要害であった。
 この謀叛は兵を招集する間もなく、2月12日に逸早く露見し、赤沢清経は切腹を命じられ、新たな苅谷原城主に小笠原出雲守頼貞が任じられた。これで信濃の赤沢氏は滅亡した。貞慶は、深志城に海野、古厩両氏を呼び赤沢氏と同心し逆心ありとして、翌日子の刻(夜12時)、成敗した。2月16日付けの犬甘半左衛門宛の貞慶の花押状に「逆心に加わって以っての外の条、申し付き、悉くうちはたし候、此の方之者には、手負い一人も之無き候」とあるが、同じく犬甘氏への16日の書状では、「古厩平三(盛勝の子)をも、細野之郷(安曇郡)にて討ち捕り候、沢渡九八郎も召し執り候、仁科之仕置何れも思ふ様に候」とある。その書状から塔原城の兵粮が一俵残らず古厩城に運ばれ、「古まやのこやに俵等さいけんなき事に候、悉く兵粮当城(松本城)へうつし、こやをは、やきつくし申し可く候」と小岩岳城は焼き払われた。
 仁科氏の支族で千国の庄沢渡郷(北安曇郡白馬村神城)を本拠とした沢渡九八郎が、貞慶が小谷平定のため派遣した細萱河内守に捕らえられた。沢渡などの仁科氏一族は、奥州の前九年の役(1051‐1062年)に源氏の家人として参戦している、少なくとも5百年を超える地縁があり、一族の諸侍が満遍なく土着している。その仁科・小谷地方を、30余年も牢浪していた小笠原貞慶の一族が早々に鎮圧できるものではない。しかも上杉景勝と直接境を接する枢要な地であり、この地の保全こそが安筑両郡支配を確実にさせる。貞慶は沢渡氏を臣従させることに成功した。天正11年5月には、その相続を安堵している。深志入城の当初、小笠原領国を形成するにはほど遠く、貞慶自らの生存すら危ぶまれていた。まさに「大海に杖打ちたる躰(態)に候」であったが、漸く貞慶は安筑地方と仁科・小谷地方をほぼ制圧した。

9)小笠原貞慶と麻績地方
 青柳城主の青柳氏は筑摩郡の在地領主で、麻績氏の一族であったが、川中島をめぐる甲越の勢力争いに巻き込まれ、去就の難しい立場になっていた。拮抗する甲越の戦力が直接ぶつかる、いわば「境目」にあり、在地領主たちは、上杉・武田の2大勢力の狭間で数々の苦難を強いられていく。「第一次川中島合戦」に際しては、筑摩に深く侵攻し、勢いに乗ずる上杉軍によって青柳城周辺が放火されている。この筑摩郡や埴科郡あたりは謙信、信玄の死後も強力な確たる領主が不在の地で、武田氏滅亡後は上杉景勝と徳川家康の実力者同士が領有を競い、その最中、青柳城は上杉景勝と小笠原貞慶の争奪戦に巻き込まれ、再び戦火に見舞われた。
 築城年間は定かではないが、青柳城主(東筑摩郡坂北村青柳)の青柳氏は、麻績氏の一族で、伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に居館を構え、守護小笠原氏に仕えた。天文19(1550)年、小笠原長時は武田晴信により林城を自落させられ、葛尾城の村上義清を頼った。この後、長時は村上義清とともに筑摩郡周辺で武田軍に抗戦するが、天文21年12月、立て籠もっていた中塔城を自落した。武田軍は小笠原氏の残党を掃討し、天文22年4月、村上義清の本城葛尾城も自落させ、その時、青柳近江守清長、頼長父子も武田に降った。この月15日には晴信の臨席のもと、青柳城は鍬立をされている。
 村上義清は越後の長尾景虎の援軍を得て旧領回復のため筑摩・小県を進撃した。4月12日、更埴市八幡附近で武田軍と戦い勝利し、同月23日、於曾源八郎を討ち取り葛尾城を奪還した。これに対して晴信は青柳城を初め、麻績城、大岡城を重点的に守備すること徹した。8月には村上義清が立て籠もる塩田城を自落させるが、上杉謙信の援軍が川中島に侵攻、9月1日には荒砥城が落城した。同月3日には青柳城周辺を放火された。武田軍は同月13日に越後勢に占拠された荒砥城、青柳城を放火した。これを後世、『第一次川中島合戦』と称した。
 以後、青柳氏は武田軍の傘下となり、弘治4(1558)年4月には青柳清長は晴信より、その本拠地の北方の更科郡の大岡城の守備を命じられている。
 天正10(1582)年の武田氏の滅亡後、青柳頼長は織田信長の支配下に入った。6月2日の本能寺の変で信長が横死すると、筑摩郡には上杉景勝が進出し、青柳氏は上杉氏の支配下に入った。7月16日、徳川家康の支援を得た小笠原貞慶が深志城に入ると、上杉氏を離反してこれに従った。同年11月、会田落城後、貞慶から青柳氏に会田氏の旧領の会田・苅谷原・塔原・明科・田沢などが与えられた。会田氏攻略以前に貞慶は青柳氏を会田氏の旧領を宛行う条件で誘降し、会田氏を孤立させた。そのため青柳氏は会田落城の間、全く動かなかった。貞慶は青柳氏を自陣に引き入れ、麻績地方攻略の拠点とし、その先の川中島を見据えていた。
 翌天正11年2月、貞慶は子の幸若丸(秀政)を家康の許に送り、恭順臣従の意を示した。家康から自ら飼育する鷹が届けられ、近日中に自分が信濃経略のため甲斐に出馬するから、諸境の仕置を存分にするよう申し付けられた。その上、貞慶の申し分に同心を約し、来る7月7には、幸若丸が三河の家康の許へ下着することとなった。貞慶は感激し「とかくに腹を切り候共、家康御前一すじより外当方には覚悟之無き候」とまで、家康に絶対的な忠誠を覚悟していた。貞慶の真意は徳川家康を主君と仰ぎ、その権勢の傘下に入り、それを誇示し、自己の家臣団を絶対的に統制しようとした。
 当時、信濃川中島4郡のみが、秀吉に帰順した上杉景勝の勢力圏にあったが、他の信濃の諸勢力の大勢は家康に靡いていた。家康は柴田康忠大久保忠世などを派遣し、筑北地方の上杉方諸将を調略していた。
  『景勝代記』は「天正11年3月、又しば田(新発田重家の乱)へ御出馬と思し召し候処、信濃海津より屋代逆心仕り、海津を引き払い、汝在所へ引き籠る、麻績・青柳同心にて家康御手に属す、此の静謐に信州へ御出馬也。」とある。これに相前後して、屋代秀正の兄、小県郡室賀の室賀山城守信俊や更級郡佐野山の塩崎氏らが、続々と家康の陣営に走った。家康は秀吉との対決を目前にし、上杉の南下を恐れていた。貞慶が府中から上杉の勢力を駆逐し、さらに筑北への勢力拡大は望ましいことであった。
 景勝も追い込まれていた。下越後新発田へ進発の予定を急遽信濃へ出陣とした。南北信の境目に在る要地を制圧するため、天正11年4月、岩井昌能を初め清野・赤尾・西条・綱島・大室・保科などの諸将に動員令を発し、屋代・麻績に侵出、青柳城を攻めて落城させた。4月8日夜、景勝軍が到着する以前に、塩崎氏は何処かへ逃げ去り、屋代氏は三河の家康の許に、青柳氏は松本の貞慶を頼って逃れた。
 貞慶は麻績への上杉進出の報を受け、4千の兵を率いて青柳へ向かっていたが、鳥居峠で早くも麻績落城と聞き引き返した。
 5月12日、上杉景勝方の小田切四郎太郎が仁科表に侵攻し小笠原軍と戦っている。その際、沢渡盛忠ら沢渡十人衆が戦功を挙げている。盛忠は翌天正12(1584)年安曇郡美麻の千見城に在番し、上杉軍の侵入に備えていた。

 天正12(1584)年3月、徳川家康と羽柴秀吉は尾張の小牧山で戦っている。家康は秀吉方の景勝を牽制させるため、貞慶に麻績地方へ侵攻させた。貞慶は上杉方の青柳方面の備えが堅いため、3月初め、渋田見・細萱・等々力(とどりき)などの仁科衆に上杉靡下の大日向佐渡守(おびなたさどのかみ)が守る千見の番所から小川方面に出て、水内郡の鬼無里を攻略させた。この戦いで仁科衆は30余りの首を討ち取っている。
 貞慶は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
 貞慶は景勝の来襲に備え、青柳頼長に麻績の東方の安坂城(東筑摩郡筑北村坂井下安坂)を守らせ、冠着山に監視哨を置いた。4月16日の日岐城番の犬甘半左衛門久知宛の書状が興味深く、上杉軍が侵入してくれば青柳頼長が法螺貝を吹き鳴らすので、久知は麻績の西方にある大岡の笹久まで出陣すると同時に、即松本へ飛脚を寄越せ、夜中であっても直ちに麻績へ出陣すると伝えている。麻績から景勝の海津城出勢の飛脚は早くも来た。貞慶は4月18日、仁科衆に犬甘氏に従い、即刻睡峠を越え笹久に出兵し牧之島在城の芋川親正らに備えるよう命じた。
 貞慶も犬甘半左衛門に「明日各々召し連れ出馬候」と伝えた当日20日の払暁、上杉の検使役、水内郡の島津左京亮義忠が率いる川中島勢が、先の麻績城主下枝氏友の一族と共に麻績に攻め込み城を奪っていた。貞慶も直ちに麻績城奪還しようとしたが、小笠原頼貞・小笠原長継・二木重吉(ふたつぎしげよし)ら重臣は、今の麻績勢は筑北・川中島・越後の諸勢力を糾合し、侮れず時機を待つしかないと進言したが、貞慶は出陣と決した。青柳城周辺をめぐって上杉軍の大軍と小笠原軍が戦い、貞慶は大敗した。松本城に落延びる間、殿軍を率いた三溝三左衛門は筑摩郡立峠において戦死した。岩岡治兵衛も討ち死にした。松本城の守将二木重吉は、松本周辺の住民数千人をかり出し、紙旗を翻し援軍と見せかけ貞慶の危機を救い城内に迎い入れた。景勝の書状から抜粋すると「小笠原、麻績の地に至って相動き候のところ、各侍衆を引立て、かの地に馳せ向かいすなわち一戦を遂げ大利を得て」「敵百余人討ち捕えられ、首の注文が到来し、心地好き次第に候」とあり、屋代秀正が大功を上げた。この戦いの検使役は水内郡の島津左京亮義忠で、北信の侍衆で構成される景勝軍が、小笠原貞慶に大勝し討ち取った首の注進状を景勝宛に送っている。景勝の感動は大きく「連(つ)れ連(づ)れ忠信を思い詰められるところ、たしかに露顕し、奇特感じ入り候」と秀正に書き送っている。4月11日、景勝の重臣、狩野景治直江兼続は連署して、戦功のあった「おのおの稼ぎの衆へ、明々日の間に、お使を遣わせるべく候」と島津義忠に申し送っている。
 ところが、松本城を包囲した島津軍は、翌日軍を引き揚げた。25日には景勝も越後へ帰陣した。貞慶に方々から、その注進があり、その日の朝、麻績から八幡に出る猿か馬場峠から八幡峠に物見を出し峠を放火させた。景勝は上杉謙信没後の御館の乱(おたてのらん)に戦功があった新発田重家が、その恩賞を不満として乱を勃発させ、景勝は越後に戻らざるを得なくなった。
 当時、秀吉と対峙して小牧山に本陣を置く家康の本拠三河に侵入しようとして、秀吉は羽柴秀次を大将として出兵させたが、事前に情報が漏れて、4月9日、長久手において挟撃され、森長可池田恒興をはじめ2,500人を失い、家康方に完敗していた。こうした情勢下、景勝は秀吉への義理立てで筑摩へ出兵したが、本国の情勢は長期の滞陣を許さなかった。

 
筑摩山地の北部から千曲川沿いの稲荷山・屋代を眺める

 当時、更埴地方に所領を有する国衆の動静は複雑で目まぐるしい。特に家康が小牧長久手の戦いで秀吉に勝利した事が大きかった。小笠原貞慶の大敗北にも拘わらず、麻績・青柳の諸侍ばかりでなく、東筑摩の戦役で上杉方として軍功著しい屋代秀正までもが家康に臣従した。青柳頼長は貞慶に走り合力した。それがやがて青柳一族に悲劇を呼ぶ。景勝の本国越後は未だ不穏であり、帰陣せざるを得ず、已む無く貞慶が八幡方面へ北上する備えとして、千曲川左岸の稲荷山に新城を築かせ撤退した。天正12(1584)年5月には完成したようだ。同月17日付けの書状で、景勝は八幡宮神官松田民部助並びに保科豊後守小田切左馬助らに城番を命じている。保科氏宛には「稲荷之城在城申付けるに就いて、桑原(更科郡西端)半分出し置き候、用心普請厳重に相勤める可き之者也」とあり、元来稲荷山地区は桑原内に在り、保科豊後守に宛行われた桑原半分が在城領として.宛がわれたが、それが稲荷山地区を示す考えられる。その間小笠原貞慶は青柳・麻績の両城とその周辺を回復させ、青柳氏の戦功に応え両城を与えた。貞慶は再び麻績地方を支配下にし、川中島進出の拠点とした。

 天正15(1587)年9月28日、青柳頼長は貞慶により松本城に召喚され、長子長迪(ながみち)他数人の家臣を伴い出仕したところ、二の曲輪内で全員が謀殺された。青柳城は貞慶軍に包囲され落城、貞慶麾下の溝口貞秀が城主に任じられた。事実上青柳氏は滅亡した。
 この間の事情を『信府統記』は「伊勢守の時より武田に属し50騎の軍役たり、甲州没落して小笠原貞慶帰国の後も猶小県の真田等と一味して越後の景勝に志を通ぜるにや、貞慶へ一応の届けも無く無礼の様子なり、殊に怨敵たりし憤りあれば取合い初りける、麻績・会田等一味なり、其上松本よりの路峠あり、然れども要害の地なれば悉く滅し難き」と記している。
 天正14(1586)年12月、諏訪上社神長官守矢信実が溝口貞秀に宛てた『神長官訴状覚書案』には「青柳御取持ち之砌貞慶様に対し奉り逆心を副え候」と、青柳頼長は諏訪上社に貞慶調伏の祈祷を行わせていたことが、既に溝口貞秀を通じて発覚していた。

10)小笠原貞慶、徳川家康に離反
 秀吉は天正13(1585)年7月11日、かねてから二条昭実近衛信尹(このえ のぶただ)の間における関白の地位を巡る紛糾(関白相論)に乗じ、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。天正14年9月9日には豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任した。
 しかも、既に天正11(1583)年、中国の雄毛利輝元が秀吉に交誼を願っていた。翌天正12年、織田信雄と家康は盟約し、家康は小牧・長久手で戦い、秀吉軍に手痛い打撃を与えた。しかし秀吉の老獪な政治的手段で信雄を懐柔し、有利な条件で和議を結び、天正13(1585)年、四国征伐を行って長宗我部元親を軍事力で降した。天正14(1586)年、家康は遂に秀吉に臣従した。翌天正15て年には九州征伐を20万を超える圧倒的な大兵力で島津義久を降している。
 このように各地の名立たる大大名が秀吉に人質を出し、競って臣従する情勢下、天正13年11月、酒井忠次と並ぶ家康の2代宿老の一人石川数正が、家康の許にあった小笠原秀政を連れて秀吉方に奔った。同月19日付けの豊臣秀吉からの真田安房昌幸宛の花押状には「石川伯耆守去る13日、足弱引連れ尾刕迄罷り退く候事」とあり、同文に「信州小笠原人質召し連れ」と家康に人質として出していた貞慶の子秀政を伴っていた。この当時、秀吉は「信州・甲州両国之儀、小笠原・木曽伊予守相談し、諸事申合わせ、越度(落度)無き様才覚尤も候事」と、信州支配を小笠原貞慶と木曽義昌に託し落度の無いように支配を命じている。貞慶は石川数正の裏切り便乗する形となっているが、木曽義昌に倣い天下の権は秀吉にあると、その絶対的権力に服従したとみられる。豊臣政権確立期を迎え、各地の武将はこぞって人質を出し臣従を誓っていた。小大名の貞慶も、秀吉の威信を背景に府中を中心にその勢力の拡大を計った。戦国末期の生き残りを掛け、同年の天正13年に、家康に属する高遠の城主保科正真を攻めている。この戦いに際し。家康が保科正真に与えた感状に「今度小笠原右近大夫逆意を企て」とあり、小笠原氏が敵対した事が明らかになる。
 天正14(1586)年5月、家康は秀吉の妹、44歳の朝日姫を娶る。6月には秀吉の生母が、人質として岡崎城に送られた。10月、ついに家康が秀吉のもとに赴き、臣従の礼を取る。この年、居城を浜松城から駿府城に移した。11月4日の景勝に宛てた秀吉の書状には「関東之儀、家康と談合を令し、諸事相任せ之由仰せ出だされ候間、其の意を得られ、心易くす可く候」と和議を伝え、「真田(昌幸)・小笠原・木曽両3人儀も先度其の方上洛之刻、申し合わせ候如く、徳川所へ返置す可き由、仰せらる候」と、当時の信濃国を統べる勇将達3人は、家康への帰属を一方的に命じられることになる。翌天正15年3月18日、「信州真田・小笠原、関白様御異見にて出仕候」と、『家忠記』は秀吉の命により駿河の徳川家康に拝謁し臣従を誓わされたという。
 小笠原貞慶は秀政に家督を譲り謹慎した。幸い秀吉の取成しがあり、家康の嫡男信康の娘を、秀政の妻に迎え家康の譜代衆となった。

11)徳川家康、筑北地方制圧
 屋代秀正はじめ筑北の諸侍衆は、一族とその家族の生存を懸けて必死であった。これより先の天文10年9月19日、徳川家康は、秀正に書状を送り、当時、北条氏政方であった真田昌幸に対しての軍事行動を制止させている。家康は、信濃の武将たちの帰属を働き掛けていた。昌幸に対して、その弟加津野隠岐守信昌依田信蕃に交渉させていた。一方、秀正は景勝の幕下にあって海津城代として、深志城に拠る小笠原貞慶の勢力の拡大を阻むため、筑摩郡北部と小県郡北西部の郡境を防備していた。
 翌天文11年、信濃方面を総括する家康の重臣酒井忠次に家康の靡下に属する旨を告げた。家康は3月14日、秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送り、そこには「いよいよ此の旨を以て忠信に励む可きものなり」と命じている。4月12日、家康は秀正の幕下入りに際し、前年に服属していた真田昌幸と依田信蕃と談合し油断の無いようにし、委細は大久保忠世に申すよう指示している。

12)村上義清の子、景国(国清)が海津城の城将となる

 松代城本丸、この中に海津城祉の碑がある。

 天正10年、元葛尾城主村上義清の子、景国(国清)が海津城の城将となった。千曲川を東の要害とする長沼城(長野市穂保)に島津忠直、飯山城に岩井信能(いわいのぶよし)、牧ノ島に芋川親正ら諸将を配した。村上国清は上杉謙信の養女を娶り、上杉家一門の山浦の姓を得て山浦景国と名乗っていた。
 家康は3月14日、屋代秀正に更級郡内の所領を安堵する宛行状を送っていたが、その臣属は秘匿されていた。小牧・長久手の戦いが始まるころに合わせるように、上杉景勝に叛き、本領の更級郡荒砥城に籠った。荒砥城は、冠着山(かむりきやま)東方の支脈にある城山(標高895m)山頂を本郭とする城であった。秀正は、家康に臣従した成果を実績で示す必要があった。秀正は、塩崎六郎次郎次と一族の室賀兵部大輔らと同心していた。塩崎氏は桑原の佐野山城に籠った。
 一方、小笠原貞慶(さだよし)は3月28日と4月4日の2度にわたり青柳城を攻撃し二の曲輪まで攻め寄せた。その後青柳城は落城し、城主春日源太左衛門は川中島まで落延びている。4月には麻績城も攻略され、城主下枝氏友は斬殺された。麻績城には小笠原長継を在番とした。
 景勝は下越後の新発田重長を討伐する出陣を目前にしていたが、急遽、信濃へ出陣し水内郡長沼城に入った。
 4月13日、直江兼続が奥州会津に留まる「会津後家来衆」へ送った書状には、要約すると「信州海津在城を申し付けられた屋代と号する者、逆心していた。その仕置のため中途まで出馬したが、その響き承(う)け敢(あ)えず、逆徒の居城荒砥と佐野山の両地53日を経ずして自落した。行くへ知らずの体であった。」とある。それにも拘らず、兼続は屋代秀正の謀反が安曇地方にも波及することを懼れ、水内と安曇の郡境の小川の地士大日向佐渡守に書状を送り、出陣する代わりに「その地要人堅固に候の由肝要に候。参陣に及ばず、その元に之有りて、御番専用に候」と申し送っている。
 麻績と青柳(東筑摩郡筑北村坂北)両城が貞慶に奪われると、景勝は麻績城(東筑摩郡麻績村)に兵を派遣し攻め落とした。城主の青柳頼長は小笠原貞慶方に走った。そこで景勝は貞慶の北上に備えて、稲荷山(旧更埴市)に築城した。千曲川右岸が屋代で左岸が稲荷山の地となる。5月17日には、八幡宮神官松田民部助、保科豊後守、小田切左馬助らに在番を命じ、大岡・麻績方面に備えさせた。同時に岩井靱負尉には高井郡吉田の本領を安堵し、更に坂木領の内の力石(ちからいし;千曲市力石;坂城とは千曲川を挟む対岸)分を宛行い更埴南部の防備に当たらせた。
 一方、家康方の小笠原貞慶は、当面、防備のため城普請に専念し、真田などの佐久衆と談じ合のうえ、川中島へ侵出する時機をみはらかっていた。
 秀正の離反により海津城を預かる山浦(村上)景国は、秀正と同族であった事もあり、城代を罷免され、その地の領分を改易され、越後の山浦分のみ安堵された。
 家康は4月18、秀正に書状を送り「それより芝田七九郎(柴田康忠)殿差し遣わし候、いかようにも相談せられ、(中略)委細は大久保七郎右衛門尉(忠世)が申すべく候」とし、5月2日の書状では、小牧山の秀吉軍を「今度の凶徒等を悉く退治せしむ可きところ、(中略)その表いよいよ油断有る可からず事肝要に候」と、この頃、景勝軍が更級郡に深く侵攻してきたため、その対応を依頼している。秀正はこれに応え景勝軍を攻め、同月19日には、家康から書状で「わざわざ使者を差し越され、ことに太刀一腰、馬一疋、祝着の至りに候、(中略)然らば景勝を引き出すに付き、一戦に及び、敵百余りを討ちとらえの由、比類なき事に候」と賞している。同日付けの書状で、大久保忠世に、秀正に助勢した室賀兵部大輔信俊塩崎六郎次郎を含めた3人の所領は、一任するからと特に命じている。さらに景勝領との境の地には、秀正と室賀の両人が守備するよう申し送っている。

13)海津城代須田満親
 海津城代は(現柏崎市上条)上条城主の上条義春がなり、さらに須田相模守満親に代わった。上条義春は能登畠山家に生まれ、その能登国支配の本拠七尾城が上杉謙信により開城されると、謙信の養子の一人となった。その後、上条上杉家の名跡を継ぐ上条政繁に子がなかったため、改めてその養子となった。その上条政繁が山浦景国の後任として海津城に入った際、義春も同行していた。
 当時、羽柴秀吉は、未だ家康、織田信雄と伊勢、尾張で戦っていた。秀吉は北陸の軍兵を動員しようとして景勝と盟約した。景勝は、実子がいないため義春の子義真を秀吉の許へ人質として送った。景勝は6月11日、上条政繁に「上方へ証人差し登らせし候に就き、軍役の儀は勿論、領中諸役これを停止せしむるもの也」と書状を与えている。しかし、依然として、以後も海津城代として北信4郡を統率させていた。
 8月1日、稲荷山在城の綱島豊後守に、「その地の用心普請、昼夜油断なき勤仕せしむるの由、肝要に候、いよいよ上條舌頭次第走り廻る可き事もっともに候」と朱印状を送っている。このころ筑摩郡深志城の小笠原貞慶が北信侵出を意図し、犀川口の牧之島城を攻めたが、稲荷山城守将の小田切左馬助は貞慶軍を破り首級13を景勝へ送って戦功を賞されている。
 先の天正10年9月4日、景勝は、安曇、筑摩両郡を掌中にするため、仁科盛直に池田・滝沢・荻原・細野・松川・小塩郷の地を宛行い、忠信を励むよう要請した。翌天正11年8月、安曇郡日枝城(生坂村)の城主仁科織部佐盛直の同心衆が、景勝に謀反し貞慶に属した。盛直はこれに与せず、一族を率いて春日山城へ退去した。景勝は「幾千万を超え、之を感じ入り候」と賞し「巨細におけるものは直江に申し可く候」と歓迎している。天正12年6月27日、景勝は更級郡八幡宮の祠官松田分と八幡領の一円を預け、八幡宮の修造祭礼を恒例に従い厳に勤めるよう指示した。また稲荷山城に在城し、他の守将と入魂(じっこん)のうえ城の用心普請をし、油断の無いように命じた。同時に盛直の子孫三郎に仁科惣領職を相続させた。また景勝は、先に盛直に海津城代上条政繁の指図に従うよう命じていた。
 尚、更級郡八幡宮の祠官松田盛直は、文禄3(1594)年当時763石であったが、景勝が会津への国替えの際、1500石に増給された。神主職は在地する一族の松田縫殿助に預けられた。
 翌天正13(1585)年に海津城代が須田満親に代わられた。それが起因か、翌天正14年、政繁が上杉家を出奔し、義春自身も天正16年頃に出奔した。直江兼続との不和が憶測されているが、確証はない。
 須田満親は、信濃国高井郡大岩城主須田満国の子である。満国は村上義清と共に武田晴信の信濃侵攻に対抗したが、天文22(1553)年、武田に敗れ、義清と共に越後の上杉謙信を頼った。以後は謙信の家臣として仕え、第4次川中島の戦いに加わっている。
 天正13年、海津城代須田満親は、度々、真田昌幸の次男信繁(後の幸村)の率いる手勢と川中島辺りで争闘を繰り返している。当時信繁は19歳であったが、寡兵でありながらも、執拗に川中島にまで侵出し、景勝を悩ましていた。当時の信繁が発する諏訪久三宛の安堵状が現存するが、それは、屋代左衛門尉秀正が久三への宛行状を追認する信繁の花押状であった。秀正は、真田氏に従っていた。当時、共に家康の後援を得ている。信繁は後門の狼に怯えることなく、深く川中島までも侵攻できた。

 天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)とは、天正10(1582)年から甲斐・信濃・上野で繰り広げられた家康と北条氏直の戦いの事であった。この天正12年10月29日、家康は前門の虎秀吉と対決していたため、後門の狼北条氏直と対秀吉の攻守同盟を結んだ。北条氏側も関東平野では、佐竹義重が活動を活発化させていた。北条氏と家康は、共に講和を決意した。甲斐・信濃は家康に、上野は北条にそれぞれ「切り取り次第」とし、相互に干渉しない、氏直は家康の次女督姫を娶る、がその約定であった。
 それでも12月12日、家康は秀吉と和睦した。次男の於義丸(後の結城秀康)を秀吉の養子を名目にし、人質として大坂の秀吉に送っている。
 氏直の強硬な要求により、上野を北条に国分した。それにより、同国利根川郡沼田の城邑を北条氏領とした。家康は昌幸に沼田城を北条氏へ渡すように命じた。しかし、昌幸はこれを拒絶し上杉景勝に接近した。沼田は武田勝頼の命を受け、真田昌幸がその配下矢沢頼綱に命じ、天正8(1580)年、上州利根郡の中心拠点である沼田城を攻略した経緯があった。武田氏滅亡後、沼田城は織田信長の重臣滝川一益に明け渡されたが、本能寺の変直後に奪還している。その地をその代償も無く明け渡せの指図に憤激した昌幸は、臆面もなく、かつて景勝に属しながら家康に寝返り、川中島まで領有しようとして戦闘を繰り返していながら、当時羽柴秀吉の傘下に入った景勝を頼った。
 昌幸は海津城代須田満親に、その取り成しを依頼した。景勝もこれを容認し、その旨を沼田城将矢沢綱頼に書状で伝えた。同時に徳川軍が侵攻して来たら、上田表は勿論、上野国の沼田・吾妻にも後詰の援軍を派遣すると、昌幸にも誓詞を送った。しかも信濃の知行は須田満親から宛行うとした。天正13年7月15日の誓詞には、沼田・吾妻・小県の3郡に加え坂木・庄内(旧更級郡村上村一帯)の知行も付していた。更に佐久郡と甲州に於ける1郡と上野国のかつて長野氏旧領の1跡も与えるとした。屋代氏の1跡も加え、小県郡の同族祢津氏の身上、宜しく取り計らえと一任している。先の天正10年10月19日、昌幸が北条方である祢津昌綱を攻めるが、祢津氏の本拠地である祢津城(東御市祢津)は陥落できなかった。翌年7月、昌幸は室賀信俊を上田城に招き寄せ謀殺し、小県郡は真田氏により統一された。祢津昌綱も前後して、昌幸の配下となり重用されるようになる。
 天正13年、真田昌幸は、須田満親のもとに次男の信繁(幸村)を人質として差出した。これにより家康と北条氏直との和解条件、上野国利根郡と沼田城の譲渡が実施できなくなった。氏直との約定の手前、昌幸を討伐する事に決した。8月、家康は、伊那郡の松尾城主(飯田市松尾)小笠原信嶺・松岡城主(高森町)松岡貞利・松本城の貞慶などに、小県郡上田表へ出兵を命じた。ところが貞慶は、徳川方から豊臣氏方に変心し、徳川方の保科氏を高遠に攻め、逆に小笠原貞慶は大敗を喫して松本に退いた。この時松岡貞利は徳川家康に誓詞を入れ臣従していながら、貞慶に味方し高遠の攻撃に向った。形成が不利と見て途中で引き返した。それを靡下の座光寺次郎右衛門が、徳川の伊那郡司として知久平城(ちくだいらじょう;飯田市下久竪町;しもひさかた;知久平)にいた菅沼定利に密告した。そこで定利は直ちに松岡貞利を捕らえた。松岡貞利は駿府の井伊直政に預けられ、後に家康の面前で座光寺氏と対決させられた。天正16年松岡貞利は改易を命ぜられ、その所領は没収された。

14)海津城から松代城へ
 天正10(1580)年3月28日、森長可は、信長より信濃の内、更級、高井、水内(みのち)、埴科四郡を加増され、海津城に入城した。その森長可が、天正12(1584)年、小牧・長久手の合戦で戦死した。慶長3(1598)年、上杉景勝の会津移封により、この地方は豊臣家の直轄領・蔵入地(くらいりち)となり、田丸直昌が海津城代に任じられた。慶長5(1600)年3月、徳川家康は田丸直昌を美濃岩村城4万石に移した。同年9月の関ヶ原の戦いに際し、直昌は西軍に与し大坂城の守備に就いたため、戦後、家は取り潰されて越後へ流罪となり、出家し慶長14(1609)年に越後で没した。
 慶長5(1600)年3月、田丸直昌の代わり、長可の末弟森忠政が北信濃の更級、埴科、水内、高井の4郡13万7,500石で初代川中島藩主として入封した。同年の関ヶ原の戦いでは東軍に属し、家康の宇都宮着陣に馳せ参じるが、真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて、忠政も真田への抑えとして川中島へと帰還するよう命じられた。忠政は「右近検地」と呼ばれる徹底的な検地により川中島領の領国化に勤めた。また、信濃に残っていた香坂昌元の一族を残らず探し出し、18年前に長可の信濃撤退を妨害した罪で一族全員を磔刑に処した。しかし全領一揆などにより十分な成果が上がらぬまま、慶長8(1603)年3月、美作国津山藩へ18万6,500石で加増転封となる。
 その後徳川家康の6男松平忠輝が越後国高田藩へ移る慶長15(1610)年)までの7年間、14万石で領有し、城代として花井吉成が置かれた。後に、高田へ居城を移した後も元和2(1616)年に改易されるまでの間領知していた。この2家の領有期間は、一般に川中島藩と呼ばれる。  元和3(1617)年、松平忠輝は改易となり、松平忠昌、酒井忠勝らの後、元和8(1622)年に真田信之が城主に任じられ、松代城と改称した。以後松代10万石は真田氏によって嗣がれた。真田信之は、上野国沼田領とあわせて13万5,000石を領知した。信之は93で病没した。明治4(1871)年の廃藩置県を迎えた。なお明治6(1873)年に松代城は火災により全焼した。

15)上杉景勝と香坂氏
 天正3(1575)年5月21日、牧之島城将馬場美濃守信房が長篠の戦で討ち死にした。武田勝頼は香坂左馬助を牧之島城将とした。翌年6月20日、更級郡西山部を統轄するよう命じている。香坂氏は香坂弾正昌元流が滅んだが、他の一族は残存していた。武田氏が滅亡した後、北信濃を支配した上杉景勝により香坂能登守が本領を安堵され、更級郡氷鉋郷(ひがなごう)・日名・富部(とへ)、水内(みのち) 郡穂刈(信州新町に山穂刈の字名がのこるている)・夏目郷(篠ノ井石川;夏目城址は湯入神社)を新知として与えられている。この記録により、香坂本家が松代に移った後も一族が遺っていたが知られる。
 『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』、略して『和名抄』などと呼ばれる平安期の承平年間、源順(みなもとのしたごう)によって編纂された、当時の日本各地の主な地名が掲載されている。それによれば、平安時代初期信濃国は10の郡に分けられ、更級郡は「麻績・村上・当信(たぎしな)・小谷(おうな)・更級・清水・斗女(とめ)・池・氷鉋」の9の郷があり、犀川扇状地の川中島平には、「池郷」「氷鉋郷」「斗女郷」という3つの郷があった。麻績は今の麻績村、村上は坂城町内に旧村上村があった。当信は信州新町にある当信(たにしな)で、当信(たにしな)川が流れている。小谷は小長谷(おはつせ)の略で葬地を指し篠ノ井の長谷(はせ)、更級は戸倉、清水は長野市信更(しんこう)の聖川上流域一帯、斗女は今の長野市御厨の富部(とべ)、池郷は長野市小島田町にある頤気(いけ)に名を遺す。「氷鉋」は川中島の東隣、現長野市稲里町に中氷鉋・下氷鉋(ともに「ひがの」)などが現在地にある。
 米沢藩士原田直久による江戸期宝暦年代(1751~63)の著書「米府鹿子(べいふかのこ)」に香坂氏の名と共に「滋野」「本国信州」と記されていることから、香坂庶流の一部が他の北信濃の国人衆らと同様に、上杉家の家臣となって家門を全うしていることが分かる。
 香坂能登守定昌は、上杉景勝から鬼無里500貫、塩田別所1,000貫、大草弥左衛門尉分(地所不明)500貫の新知を与えられている。その定昌と子の紀州守氏昌は、信州で没している。氏昌の子四郎兵衛昌能は景勝の転封により会津へ移り、関ヶ原敗退により慶長6年に米沢30万石に減封され時も、家臣として従っている。
 家康は慶長5(1600)年6月、上杉征伐軍を募り大坂城を出発した。7月に江戸に到着し上杉家をいよいよ攻撃しようとした7月24日、征伐軍は上方で石田三成ら西軍が挙兵したと報らされる。そこで家康の次男結城秀康を宇都宮に在陣させ、上杉軍の押さえにおいて上方へと向かう。家康東軍の主力はいなくなったが、岩出山城(宮城県大崎市;岩出山町字城山)の伊達政宗と山形城の最上義光らが強勢であった。9月8日、米沢城を出発した上杉軍は次々と最上領の城を落とし、9月15日には敵の本城・山形城を支える長谷堂城(山形市長谷堂)に迫った。しかし長谷堂城の抵抗は激しく、いたずらに時が過ぎて行った。同月29日、上杉軍に、石田三成ら西軍敗北の報が届いた。そのため上杉軍は撤退を開始するが、それを今度は逆に最上・伊達の両軍が勢いに乗り追撃を始めた。しかしこれらをなんとか切り抜け自領へ戻っている。
 上杉景勝軍は、この時、東北の戦場で孤立し、北からは伊達政宗と山形城の最上義光と戦い、南には結城秀康軍の脅威があった。徳川家康東軍が関ヶ原へ転戦に向かう背後を、追撃するという実力が本来なかったといえる。

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