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立科町芦田、前方の山が芦田城址 |
芦田城址下の芦田川 |
芦田氏創建の立科町の光徳寺 |
和田村は長野県のほぼ中央部に位置し、海抜は役場の位置で819mである。
和田郷を支配していた大井信定は、天文22(1551)年に甲斐の武田信玄の信濃攻めの際討ち死にし、以後、和田郷は武田氏の支配下に入った。
室町時代から戦国時代、佐久の大井氏盛衰記
1)武士の武技
有力武士は武力をもって大武士団を形成し、所領の拡大を目指していた。そこに所属する武士の長は、首領であればこそ弓馬の武技を鍛えて、部下とその周辺勢力を畏怖させ、その事実上の支配地を拡大させてきた。その武技とは、鷹飼い・弓矢・馬術であった。鎌倉幕府成立時、諏訪大社下社大祝の金刺盛澄は、治承寿永の乱の当時、木曾義仲に従った。そのためもあり、大分遅れて頼朝に参じた。頼朝はその遅参を憤り囚人とて扱い、やがて死罪に処しようとした。頼朝の側近梶原景時は、盛澄が藤原秀郷流の弓馬の武技を伝承する達人と知り、頼朝に盛澄の流鏑馬を高覧するよう願い出た。
頼朝は意図的に、突然、盛澄を召し出し流鏑馬を披露するよう命じた。頼朝は、厩舎で一番気性の激しい馬を貸し与えた。しかも用意された鏑矢(かぶらや)で射る3つの的は、一度使用され破損した檜(ひのき)板であった。盛澄は諏訪では下社大祝・現人神と崇められる身である。余りの事と辞退を申し出ようとしたが、景時に説諭され、已む無く頼朝が高覧する馬場で、この荒馬を乗りこなし、見事不定形の的を総て射って打ち砕いた。頼朝は驚嘆し弓馬の達人として、御家人入りを許した。
同じく鎌倉時代初期の信濃の御家人に桜井五郎がいた。本来鷹飼いの名人で建永元(1206)年3月12日、実朝の御前で鷹を飼う秘伝を語った折、百舌(もず)を鷹のように鍛え、鳥を捕らせる事ができると自慢した。実朝はその芸を見せよと命じた。翌13日、百舌を左手に載せ参上した。早速披露して、鶯3羽を捕獲した。実朝は激賞し、剣を下賜した。当時の有能な武士は、弓矢と馬術と鷹飼いに長けていた。その武士の基本技術を育ててきたものの1つが、諏訪大社の御狩神事であった。その神事こそ戦訓練であったとみる。
2)佐久に進出する小笠原一族
平家が壇ノ浦で滅びた翌年文治2(1186)年2月、頼朝の知行国のうち下総・信濃・越後の3か国の荘園と牧から本所乃貢が滞っているとの「注進」が京の本所に届けられている、と後白河法皇から頼朝へ督促がなされた。治承・寿永の内乱で、その兵糧米の徴収がなされ、京への乃貢(のうこう)が滞っていたが、平氏滅亡により乃貢の復活を要請してきた。信濃国では61か所の荘園と28か所の牧が年貢未納であった。その中に伴野荘と大井荘が含まれていた。
大井荘は『和妙抄』の佐久郡大井郷の地であり八条院領であった。千曲川右岸の岩村田を中心とした地域で、その荘内には義仲四天王の一人根井行親の根拠地であった根々井もふくまれていた。『尊卑分脈』によれば小笠原長清の子時長が伴野時長を名乗り、弟の朝光が大井氏を称し「信濃国大井知行」したと記している。
鎌倉幕府成立時には、大井荘地頭は北条時政であった。時政は元久2(1205)年、後妻の牧氏と謀り、将軍実朝の廃立を企てたが発覚し、政子らによって幕府から追放され伊豆に隠退した。以後、佐久地方は、小笠原氏が中心となっていった。
当時鎌倉と佐久の本拠地を往来する武士たちの通行路は、小諸氏が長倉・碓氷峠・板橋・藤岡の東山道を利用していたが、殆どはそれより南の岩村田から志賀峠を越え、内山峠に続く荒船山下を通り田口峠を越え秩父へ出、下野の児玉から大蔵・入間川・武蔵国府・鎌倉へと進んだようだ。
3)承久の乱当時の諏訪
「承久の乱」に際し、5月22日、鎌倉を出発した。『吾妻鏡』は東海道軍を主力とし、嫡男北条泰時、その弟時房、嫡孫時氏、足利義氏、三浦義村、千葉胤綱を将軍として、10万騎で京へ進軍した。東山道軍は5万騎で武田信光、小笠原長清、小山朝長、結城朝光が将軍であった。甲斐源氏の棟梁は、鎌倉時代になって信義の5男で、頼朝に信任が厚く、石和を拠点にして石和五郎と称した武田信光に引き継がれていた。大井朝光を初め信濃の御家人の多くは、伴野荘地頭の小笠原長清将軍の指揮下に入った。『承久記』には、軍の検見役に諏訪信重、遠山景朝、伊具右馬允入道(いぐうまのじょうにゅうどう)が任じられたとしている。信重はその後嘉禎4(1238)年に上社大祝となり、間もなく信濃権守となっている。
遠山景朝は美濃の御家人で遠山氏の祖、この乱後、後鳥羽上皇方についた参議一条信能を、鎌倉へ押送(おうそう)途上、美濃遠山荘で斬首にした。伊具右馬允は、『守矢文書』などに、14世紀のはじめ伴野庄の一部地頭として伊具氏の名がみえる。
承久の乱後、信濃の数多くの御家人も、恩賞として西国に所領を得た。小笠原長清は当時、大井荘と伴野荘の地頭であったが、与えられた恩賞の地は、佐々木氏が守護職にあった阿波であった。阿波の守護に任命された。
これに先立つ比企一族滅亡事件で、信濃の御家人で比企方として処罰されているのが、中野郷の地頭中野能成(よしなり)、小県郡塩田荘地頭島津忠久、そして小笠原長清の嫡男長経の3人で、『吾妻鏡』では、事件後所領を没収されている。しかし、長清は大井・伴野両荘の地頭のままであった。況して長経は、父長清が承久の乱後の恩賞として任じられた守護地阿波国の麻殖保(おえのほ;徳島県鴨島町)の地頭になっている。『吾妻鏡』は誤解をしている。元仁元(1224)年10月、麻殖保の預所の左衛門尉清基が、承久の乱に際し京方に属し所領を没収されたのは、濡れ衣と主張したが、そのまま長清の承久の乱勲功の所領と認められている。
承久の乱後、長清が阿波国守護になったのを契機に阿波へ移り、その嫡流がそのまま長経、長房と続いた。佐久地方は、長経の弟時長が伴野荘で、朝光が大井荘で勢力を伸ばし分立した。
大井朝光は承久の乱の勲功として伊賀の虎武保(とらたけほう)の地頭職に任じられている。北条政子は建暦元(1211)年、源頼朝の菩提を弔うため紀州高野山に禅定院を建立した。承久元(1219)年、次男の3代将軍源実朝が殺害された。その菩提を弔うため、禅定院を改築し金剛三昧院として寄進し、実朝の遺骨を納めた。以後将軍家の菩提寺として保護された。政子はその際、実朝側近の葛山景倫(僧願性)を由良荘(和歌山県日高郡由良町)の地頭職とし、その得分を院維持の資に当てさせた。その時、実朝の御介錯(世話役)として実に12年仕えて来た大弐局(尼)が、この金剛三昧院に実朝の供養塔一其を寄進した。大弐局の甥が大井朝光であった。朝光は、晩年51歳となる宝治2(1248)年4月6日、金剛三昧院の建立奉行であった安達景盛に依頼して虎武保地頭職を金剛三昧院に寄進し、実朝供養の仏聖燈油料に充ててもらっている。その寄進状の付箋には「朝光、大井太郎と云う、信濃国大井知行(以下略)」と記されている。
景盛は源実朝の時代には実朝・政子の信頼厚い重臣として活躍し、翌建保7(1219)年正月、実朝が暗殺されると、景盛はその死を悼んで出家し、大蓮房覚智と号して高野山に入り、金剛三昧院に籠り実朝の菩提を弔い高野入道と称した。
大弐局は信濃守加賀美遠光の娘である。文治4(1188)年7月4日、頼朝の館に召され若君頼家の御介錯を命じられた。9月1日、頼朝に初めて面謁の機会を与えられ、その時「大弐局」の名を賜った。その後実朝にも仕えた。実朝はその永年の功労に報いるためもあり、建暦3(1213)年5月の和田合戦の勲功として出羽国由利郡を所領として与えられた。大弐局には継嗣がなく、甥の大井朝光を養子とした。後年、朝光が虎武保地頭職を金剛三昧院に寄進したのは、養母大弐局の宿願を果たすためであった。建武元(1334)年10月5日付けで、金剛三昧院長老証道に宛てられた後醍醐天皇の綸旨(三味院文書)には、院領の一つとして伊賀国虎武保が明記されている。現在「虎武保」の地は特定されていない。
4)大井氏の奥州由利郷支配
平安末期以来、奥州藤原氏の譜代の在地豪族として由利氏が支配していたころは、出羽国飽海(あくみ)郡由利郷であった。由利郡として郡名が記された初見がこの『吾妻鏡』であった。由利郡は秋田県の南西部に位置し、現在の由利本荘市・にかほ(仁賀保)市と秋田市の一部に相当する。南は山形県との境の鳥海山があり、西は日本海に接している。おおむね丘陵地の山地で、県内第3位の河川・子吉川(こよしがわ)とその支流域に盆地と踊り場的な平地が複雑に入り組んでいる。そこが居住区となり中世末期には由利十二頭という武士団が割拠した。その多くは信州佐久郡の小笠原大井氏一族を遠祖としている。
由利八郎惟平は頼朝の奥州征伐の際、捕虜となったが、恩赦され御家人として認められた。惟平は翌年の文治6(1190)年1月、大河兼任(かねとう)の反乱の鎮圧軍に参加し戦死している。「東日流外三郡誌」によれば「兼任の反乱は泰衡の忠臣大河兼任が、泰衡の滅亡後、東日流(津軽)に一族を隠住させ、文治5年12月23日、一族を率い挙兵して葛西清重奥州惣奉行を討ち払い、亡君の藤原泰衡の恨を晴らした。兼任の反乱は、すぐさま鎌倉に急報され、早急に源頼朝は、これを鎮圧させるため、小諸太郎光兼、佐々木次郎盛綱、工藤小二郎行光、由利中八太郎惟久ら討伐軍、総鎮伐兵1万6千騎を差し向けた。これに応じて大河兼任、東日流十三左エ門尉秀栄に客遇する源義経及び源義仲、藤原泰衡らそれぞれの旧臣一族及び平氏旧臣を集結、総勢7千845騎を以て、先ず東日流の平賀郡岩楯に鎌倉御家人宇佐美平次実政を斬首血祭りにし、平泉衣川の安倍一族の旧臣を加勢とし、北上する鎌倉勢の先陣、宮方傔伏国平を討ち取り、その首を仙岩峠に梟首した。
2月、頼朝は東日流藤崎城主安東貞季氏に状を発して、源氏への加勢を要請している。貞季はこれに呼応して、十三福島城主十三左衛門藤原秀元が大河兼任と合流するのを、飯積高楯柵及び卒止浜の多宇未伊柵に布陣して封じ、更に金井関にも陣を構え、十三の加勢軍を封じて大河兼任の兵糧及び加勢軍を絶った。その効果もあり次第に大河兼任の軍は敗れ、北上河を北に向へて退いた。十三左エ門尉藤原秀元の居城福島城に、一族共に望みをかけて、糠部に退き更に卒止浜に達するや、安東勢に迎撃され兼任は命からがらに、八頭山麓を阿北に遁走した。栗原寺にて髪を剃り僧となり、再び単騎亀山を北に超えて密かに東日流に入り、東日流十三(青森県北津軽郡市浦村)に至り三王の法場にその一生を終り貞応元年10月7日入寂した、とある。
由利八郎惟平の子由利中八太郎惟久が建暦(1213)3年5月、和田合戦に際し幕府北条義時方で活躍しながら、戦後「造意の企」ありとして、由利の所領を没収されている。その和田合戦を名目にし、その所領を大弐局に与えられた。大弐局には後嗣が無いため甥の佐久郡大井荘地頭の大井朝光を養子としたため、大井氏が出羽国由利郡の所領を継承した。『尊卑分脈』によれば朝光には、一子光長がいただけであったようだ。由利郡へは、一族から代官を選任し派遣して所領の管理を行わせた。
弘安2(1279)年、大井荘地頭光長が創建した大井荘落合の新善光寺に、大檀那として梵鐘を寄進した。その鐘銘に光長が表れている。戦国時代、武田信玄は佐久に侵攻した際、その鐘を奪い取って小海町の松原諏訪神社に寄進した。現在も所蔵されている。善光寺信仰は親鸞、一遍などの浄土宗とも深い関わり合いがあった。一遍は同年、再度善光寺に参詣し、12月佐久郡大井荘の光長の館に迎えている。『一遍上人絵図』に記されている「信州佐久郡の大井太郎と申しける武士」とは、この光長自身である。光長には7人の男子がいた。そのため息子達に一族を率いさせて分流移住させることができた。『四鄰譚薮』には、光長は息子達を佐久郡の大室・長土呂・岩村田・耳取・森山・平原などに配置し、一人は修験道に入り佐久郡岩村田の大井法華堂の始祖となった。佐久市長土呂は古代郡衙推定の地である。しかし出羽国由利郡に移住した大井氏の記録がない。
佐久郡の大井法華堂に伝わる「添手加々美」の「清和源氏信濃国大井之略系」と由利郡に伝わる由利十二頭の一族「岩屋家系図」とが一致している。いずれも『尊卑分脈』と異なり、大井朝光には光長の他に次男朝氏がいて、その後裔朝信、朝兼の3代が一致している。同じく由利十二頭の一族「小助川家系図」では、朝光・光長・時光・光家と継承されている。朝光は大井氏の新たに加わった所領由利郡を支配するため、直系の係累を派遣し土着させたと考えて間違いはないとみられる。佐久郡の大井氏が、出羽国に移住し最初に根拠地としたのは、由利郡矢島であった。その周辺には、矢島・根々井・長土呂・平塚・沓沢・上原・大谷地・鶴沼・大久保・軽井沢・上の原・矢島原など佐久郡内の地名と同じ地区が多く、その由縁の程が知られる。
仁賀保町(にかほまち)の字院内の郷土史料『院内村の沿革』によれば、大井朝光の後裔光家が、建武2(1335)年、北畠顕家に属し、戦ごとに先登武功一品と称され、一品の字を家紋とし賜った。当時既に出羽国にも大井氏が根を廻らし、光家は北畠顕家が陸奥守として奥羽を平定し、建武2年、鎮守府将軍に任じられた前後、顕家軍下で活躍していた。光家の子孫が仁賀保に拠り仁賀保氏を称した。
木曾義仲滅亡後、滋野氏系矢島氏、根井氏、楯氏ら一族は、所領を没収されていた。鎌倉末期、矢島氏は既に大井荘地頭大井六郎入道の支配下にあった。現在佐久市矢嶋の字名が、旧浅科村に残っている。佐久の矢島大井氏が、宗家岩村田大井氏とは別に、由利郡の矢島大井氏の源流となったとみられる。由利郡矢島は、もと津雲出郷(つくもでごう)と呼ばれていた。現在、鳥海山北側登山口に当る矢島口は、秋田県由利郡に在る鳥海山下の一都邑である。鳥海山ろく線矢島駅のある辺から北にかけての子吉川に沿う一帯が昔の津雲出郷の中心であつた。
室町時代の諏訪上社の頭役を記した「諏訪御符礼之古書」で、当時の矢島郷の頭役に、文安5(1448)年矢島沙弥栄春、享徳4(1455)年矢島大井山城守光政、康生2(1456)年大井矢島千代松丸、寛正3(1462)年矢島山城守光友とあり、矢島の地頭も大井氏であり、矢島を称していたことが知られる。
5)伊賀氏の変
比企事件により信濃守護は比企能員から北条時政に移り、承久の乱当時は義時が継いでいた。乱後、義時の3男重時が任じられていた。重時は後に、六波羅探題、そして幕府連署と要職に就いている。信濃守護は以後、重時―義宗―久時―基時―仲時と重時流に相伝された。
元仁元(1224)年6月、北条義時が62歳で死去した。建久3(1192)年、能員と兄弟の比企朝宗の娘姫の前を正室に迎えていた。義時は21歳の時に長男泰時をもうけていたが、母は側室の阿波局で、将軍家御所の女房と記されるのみで出自は不明で、いわゆる庶子であった。
頼朝の仲介により30歳で有力御家人比企氏の娘を正室に迎え、翌年嫡男朝時をもうける。3男重時も誕生している。比企の乱直後に姫の前と離別し、伊賀の方を継室に迎え、元久2(1205)年に4男政村をもうけている。しかし建暦2(1212)年5月、嫡男朝時が将軍実朝の怒りをかったため廃嫡され、長男泰時が嫡男となっていた。
一条実雅は姉婿である西園寺公経の猶子となり、将軍実朝の右大臣就任の鶴岡八幡宮参詣に、京朝廷方として随従してその暗殺を目撃した。姉の孫にあたる九条頼経が次の将軍に決まったため、鎌倉に滞在してその補佐を行うこととなった。貞応元(1221)年には従三位・参議に任じられ、執権義時と伊賀氏の娘を妻に迎えた。ところが、元仁元(1224)年、義時の死により、妻の母である伊賀の方とその実兄伊賀光宗が、義時の後継者と目されていた泰時を倒し、実子の4男政村を執権とし、娘婿の一条実雅を九条頼経に代えて新将軍に立てようとした。その謀議が伊賀氏の変である。事前に発覚、実雅は妻と離別させられた上で越前国へ流刑となった。4年後、配流先にて変死を遂げたと伝えられている。
伊賀の方は伊豆の北条で抑留された。光宗は所領を没収され信濃の麻績へ流された。やがて出家して光西(こうさい)と称した。翌年赦され、寛元3(1245)年には評定衆となり、死去するまで幕府の要職にあった。泰時は、政子が伊賀氏を強引に潰そうとする画策には乗らずに事態を沈静化させた。政子の死後すぐに幕府に復帰させた。後に政村は7代執権に就任している。
6)鎌倉幕府滅亡時の大井氏の動静
鎌倉時代末期、嘉暦(かりゃく)4(1329)年「鎌倉幕府下知状案」によると、大井荘の郷村は安原・香坂・長土呂・塚原・小田井・南市村・平井・田口・崎田・矢島・布施・甕(もたい;茂田井;芦田の東、角間川左岸)・志津田・湯原・小田切と千曲川の川西地方から、元々の地盤である川東から南佐久郡の臼田や八千穂までにも及んでいた。応永17(1410)年の追分諏訪神社の「大般若経」奥書には、大井荘長倉とあり、その荘域が現軽井沢をも含んでいた事が知られる。
大井氏は鎌倉幕府滅亡後、一族の長・信濃守小笠原氏に従って足利方として活躍した。中先代の乱では、北条時行、諏訪頼重の信濃の軍が、3年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉を制覇した。 諏訪軍に守られ、北条時行は3年ぶりに鎌倉を奪還した。
この中先代の乱鎮圧に、京から鎌倉へ東海道を進軍する足利尊氏へ、新たな武家の棟梁としての輿望が高まっていく。総数1万騎にも達する勢となり、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川から鎌倉に着くまで、勢いのある足利軍は敵に留まる余裕を与えず、信濃の軍を鎌倉へ追い込み壊滅させた。以後、尊氏は後醍醐天皇の帰京命令に応ぜず鎌倉に留まった。9月27日、信濃守護小笠原貞宗に勲功として住吉荘(南安曇野郡三郷村)など3か所を与えている。
大井朝行は建武2(1335)年12月、鎌倉で足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと同心し、天皇方が東海・東山両道から大軍を発すると、東山道軍を佐久郡大井荘岩村田の大井城に入り迎撃した。東海道軍は大手の大将が新田義貞で6万7千余騎の大軍であった。東山道軍は大知院宮・洞院実世ら皇族と公家を大将とする5千余騎が、3日遅れで京を立った。途中、美濃国から信濃国に入ると、国司堀川中納言光継が2千余騎を率いて加わり、終には1万余騎の軍勢となった。軍中には仁科・高梨・志賀などの信濃武士の名も記されている。志賀は佐久郡志賀郷の志賀氏で、鎌倉末期、鎌倉幕府奉行人諏訪左衛門入道時光が地頭職にあったため諏訪氏一族とみられる。
東山道軍を迎え撃つ大井城は佐久平の中心岩村田にあり、千曲川を前面に、背後は湯川が流れ碓氷峠・香坂峠・内山峠など関東への要路となる諸峠をひかえている。内山峠を越えれば上野甘楽郡(かんらぐん)、武蔵国笛吹峠・高麗原・小手指原をへて鎌倉に直通する最短距離となる。大井朝行は、足利直義の檄文を受けとった信濃守護小笠原貞宗や信濃惣大将村上信貞など信濃の足利方の支援を受けるも、圧倒的多数の京方と数日間の戦いの末、大井城は落城の憂き目を見る。東山道軍は上野・下野などの兵を集め鎌倉へ迫った。しかし、大井朝行は大井城を復旧しながら、以後も一貫して北朝方としてその勢力を拡大させていった。
小笠原貞宗にしても、伴野荘小笠原系とも異なり、京都小笠原長氏の系統で、その子が小笠原信濃入道宗長で、宗長・貞宗父子が当初、鎌倉幕府の命により、楠木正成の拠る赤坂城の攻撃軍に加わっていた。途中、後醍醐天皇の綸旨を受けて尊氏が裏切り、その書状により天皇方に加わった以来、一貫して尊氏に味方し続けた。
小笠原貞宗が初めて信濃守護に任じられ信濃へ下向するも、支持基盤も実績をない状況下で、一族の大井氏は信頼するに足る強力な在地勢力であった。観応元(1350)年には、大井朝行の甥大井甲斐守光長(光栄;みつしげ)が貞宗の子・信濃守護小笠原政長の代に、その守護代に就任していた。
光長が信濃国太田荘大倉郷(上水内郡豊野町)の地頭職をも兼ね勢力を拡大させていた。同年3月6日、幕府足利直義は、大井光長に島津宗久跡代官高梨経頼らが、武蔵金沢称名寺が荘園領主である水内郡太田荘大倉郷の地頭職を侵している、称名寺の地頭職を安堵するよう厳命している。その命令書には「度々守護人に命じているが、未だ実行されていないのは甚だ宜しくない。はやく武家の乱妨を退け、寺家の所務を全うさせるようにせよ」とあり、この戦乱時代、益々寺社や貴族が本所の荘園が、武士勢力に侵食されていった。一方、信濃では北条氏与党の諏訪・滋野氏などの一族が、侮れぬ勢力として残存していた。足利尊氏は源氏一門の縁故を頼り、小笠原貞宗を信濃守護とし、村上信貞を信濃惣大将として対抗させた。諏訪・滋野氏は、その存続をかけて天皇方となり、やがて南朝の宗良親王を迎え北朝方と争闘を繰り返した。
文和4(1355)年春、越後国で南朝軍が敗退すると、宗良親王は信濃伊那大河原城に戻り、諏訪氏、金刺氏、安曇野の仁科氏などの南朝勢力を結集して、再起をかけて信濃国府中へ進軍した。その途上、8月桔梗ヶ原(塩尻市)で信濃守護小笠原長基(政長の子)の軍と大決戦桔梗ヶ原の戦いに及んだ。激闘の末、宮方勢は完敗して再起不能の状態に陥った。一貫して南朝方の中核として活躍してきた諏訪一族も、以後、幕府に服していく。応安7(1374)
年、終に宗良親王は、吉野へ退いた。
大井氏は大井城を復旧させると共に、以後も室町幕府北朝方の有力な将として信濃の諏訪一族や南朝方と戦いを続ける。
光長の子・大井光矩も守護代を勤めた。光矩も、小笠原一門として重きをなしていた。応永6(1399)年信濃守護に任ぜられた小笠原長秀は、大井光矩を頼り佐久に入り、光矩と信濃支配について相談した。そして、大井氏の館で旅装を整えた長秀は都風に美々しい行列をつくって善光寺に入り信濃統治をはじめた。
室町幕府の有力守護が強大な権限を持ちながら大名化が容易ではなかったのは、幕府の制度として守護の在京義務があり、特に3管領家の細川・斯波・畠山は守護大名になれず、戦国期を迎えた。
応永7(1400)年、信濃国人衆一揆と長秀が対決した大塔合戦では、信濃守護の小笠原長秀に余りにも人望が無いため、途中で中立の立場をとって静観した。戦いに敗れて塩崎城に篭った長秀が、窮地に陥ると漸く救出に動いた。その後、近隣の現立科町を本拠とする芦田氏を永享8(1436)年に降し、文安3(1446)年には平賀氏(佐久市平賀)を滅ぼした。
鎌倉公方足利成氏を擁し、その勢力は拡大し、佐久郡の千曲川以東の大部分を支配し南佐久郡に至り、さらに千曲川以西の矢島・茂田井・芦田にまで及び、その所領は小県郡や西上野にまで達した。
7)上杉禅秀(氏憲)の乱
第3代鎌倉公方・足利満兼の嫡男、第4代の鎌倉公方・足利持氏は権勢欲が強い野心家であった。嫡流である室町幕府とは事あるごとに対立し、あわよくば自らが将軍位に就くことを望んでいた。本来、諸国の守護任命権は京都の将軍にあった。しかし持氏は鎌倉府に属する甲斐や常陸国などの守護の任免を意のままにして、関東に独自の支配体制を築き上げようとした。そんな持氏に歯止めを掛けようとした関東管領12代上杉禅秀(氏憲)と対立した。
この禅秀が、翌応永23年10月に謀叛を起こす。これが上杉禅秀の乱であった。10月2日の夜、鎌倉公方・足利持氏に反感を持つ勢力を糾合した禅秀が、その軍勢を率いて挙兵、持氏が居する鎌倉御所と関東管領・上杉憲基邸を急襲した。
この叛乱の遠因は複雑で、長年に亘る山内(憲基の家系)・犬懸(禅秀の家系)の両上杉氏による関東管領職をめぐる上杉一族の対立や、持氏と持氏の叔父にあたる足利満隆との鎌倉公方を巡る対立などが絡んでいる。直接の原因は応永22(1415)年4月25日、鎌倉府政所評定所が、禅秀の被官越幡(おばた)六郎の病気欠勤を理由として六郎の所領を没収したことによる。
禅秀はこの処分を不当であるとしてその場で抗議したが、聞き入れられなかった。それに反発した禅秀は病気と称して出仕を拒否し、5月2日に至って関東管領職を辞職した。管領家であっても、領国大名として自立していなければ、自家の存続は全うできない時代に入っていた。その被官にしても、主君に対する忠義は、被官の領地と一族の存続を全うできる事が前提条件であった。室町幕府は南北朝争乱を経て、3代将軍義満の時代に頂点に達していたが、4代将軍義持以後、輔弼の任に当たる管領家をはじめ有力守護家の勢力を削ぐため、卑劣な介入策で家督相続を誘発し、それぞれの一族を内紛で疲弊させる策を多用した。義満時代、寺社摂関家を本所とする荘園はもとより、天皇家ですら、京都奈良以外、地方の有力在地武士たちに蚕食尽くされ、経済的に貧窮していた。下克上とは、当時の実力社会の一面を、表現したに過ぎない。戦国時代最後の勝利者・徳川家康は、弱小とはいえ、その上に立つ今川氏や織田氏の先駆衆として、実戦を重ね最強の軍団を育て上げた。上杉禅秀の反乱は、単なる禅秀の被官越幡六郎の所領没収では、済まされない事態であった。 被官たちの奉公があっての管領家である。その利権を絶対に守らなけれ、家長としての真価が問われる。
禅秀が管領職を辞職して間も無くの5月18日、持氏の推挙によって上杉憲基が関東管領職に補任されている。これで禅秀と持氏の対立が決定的となり、京都にも伝わった。禅秀の密使は鎌倉の新御堂屋敷の主・鎌倉公方第2代足利氏満の子満隆のもとにも派遣され、満隆の加担を促した。持氏の弟で満隆の養子となった持仲とも結んだ。さらに、これを聞いた先の3代将軍足利義満の寵愛を一身に集めていた義持の異母弟・義嗣は、兄である4代将軍義持の地位を狙い、禅秀に密使を遣わし、「呼応して挙兵し、京都の将軍と鎌倉公方を討とう」という誘いをかけた、という噂が流れた。
義嗣は、兄との政争に敗れて将軍位に就けなかったことを不満としていた。そこで関東における幕府機関である鎌倉府を自勢力の与力とすべく策した。その密議の末、禅秀と満隆は義嗣の策謀に同心することに決した、という。
しかし事実は持氏から援軍を求められ義持は、どちらを支援するか迷った末、叔父足利満詮の意見で持氏側と決した。その直後の10月29日深夜、義嗣が出奔した。髻(もとどり)を切って遁世姿に身をやつし、京都北西の高雄に潜んでいるところを発見された。困窮し義持に救いを求めても、耳を貸さない兄の将軍に対する恨みを盛んに述べ立てた、という。
義嗣は有力守護の誰かに唆されて出奔はしたのは事実であろう。それは幕府安泰のため義嗣を抹殺する口実にするためであった。裸同然の彼自身が反逆できる環境にはいなかった。
将軍権力は、義満の最盛期の時代であっても、有力守護を圧倒する軍事力は保有していなかった。義持が一族の有力守護畠山満家の軍勢を事実上の直轄軍とし、それに加え大内盛見(もりみ)の軍勢を影の直轄軍として、在京守護及び関東公方の抑えとしていた。室町幕府が軍事的に有力守護の連合政権と評価されるのも、そうした背景があったからである。
義嗣のように、将軍になれる地位を喪失すれば、何の軍勢も保持できず、時には義嗣が悲鳴を上げるほど貧窮を極めることにもなる。禅秀とても、有力な足利一族であり元関東管領であれば、その間の事情には通じていたはずで、義嗣に密使を送る無意味さを充分認識していた。
禅秀は隠密裏のうちに下総国の千葉兼胤、上野国の岩松満純、下野国の那須資之(すけゆき)や宇都宮持綱、常陸国の佐竹与義(ともよし)・小田治朝・大掾満幹(みつとも)、甲斐国の武田信満、陸奥国安積郡(あさかぐん)篠川(福島県郡山市安積町笹川)の篠川御所・足利満直(篠川公方と呼ばれ氏満の2男;満隆は弟)といった鎌倉府に不満を抱く武家や豪族、国人領主らの糾合を図って来るべき挙兵に備えた。
那須資之は那須氏12代当主で越後守を称した。妻は上杉禅秀の娘で、岩松満純、千葉兼胤とは相婿であった。応永21(1414)年頃より弟沢村資重と対立し、那須家の分裂を招いた。資之の上那須家は下野国の福原城(現栃木県大田原市福原)に拠った。資重は、資之により現栃木県矢板市大字沢村にある山城・沢村城を追われ、現栃木県那須烏山市の下那須家烏山城に拠り下那須家と称され、以後併存することになる。この状態は永正13(1516)年の上那須家滅亡まで続くことになる。
佐竹与義は、常陸国久米城(茨城県久慈郡)の城主で、9代当主佐竹義篤の弟師義の子にあたる。佐竹山入家3代目の当主となり常陸国山入城の主となった。山入氏は佐竹貞義の7男・師義が足利尊氏に従って軍功を挙げて常陸国国安に所領を与えられて本拠とし、国安の通称である山入を姓としたことに始まる。師義は観応の擾乱で戦死した。その跡を継いだ与義は「京都扶持衆」に列していた。そのため佐竹一族の中でも特別な位置を占めていた。
応永14(1407)年、常陸守護・佐竹義盛が没したのち、先の関東管領山内上杉憲定の2男・龍保丸、後の佐竹義憲を養子に迎えて佐竹惣領の家督を相続させた。随って憲基の弟に当たる。与義(ともよし)は、これに反発して龍保丸の入部を阻止しようとしたが、鎌倉公方・足利持氏による執拗な攻撃に晒され鎮定された。それで応永23(1416)年の上杉禅秀の乱において、禅秀方に与して義憲の属す鎌倉府陣営と戦った。この抗争は鎌倉府方の勝利となったが、山入氏は京都扶持衆という地位にあったために、持氏も重い処罰を科すことができず、赦免されている。
京都扶持衆とは、室町幕府の将軍家と直接主従関係を結んだ関東地方・東北地方の武士の総称であった。関東公方の管国内にありながら、京都の幕府に通じ、鎌倉公方家のお目付役として、鎌倉府が室町幕府の意に反しないよう監視牽制する役目を担っていた。常陸の佐竹、下総の結城などのように、惣領家が親持氏であると、その庶子家から京都扶持衆に登用し、相互に牽制させた。彼らの少なからずの者が、禅秀の乱に与していた。室町時代、管領家や有力守護家が、御家騒動を繰り返し、やがて応仁・文明の乱となり、混乱の最中、幕府体制が崩壊していくのは、これらの政策を因とする。
関東公方の管国内の守護は、京都の将軍と関東公方合意の上、将軍自ら花押をすえる御判御教書(ごはんのみぎょうしょ)により補任されてきた。足利義持4代将軍は、関東公方への警戒心を強め、その包囲網として、持氏の意向を無視し、宇都宮持綱を上総守護、武田信重を甲斐守護、そして佐竹与義を常陸守護と京都扶持衆を強引に東国守護に登用した。
佐竹与義は、禅秀の乱鎮定後も佐竹義憲に反抗を続け、額田義亮・長倉義景・稲木義信らと山入一揆を結んだ。応永25年、幕府は持氏を牽制するため与義を常陸守護に推したため、佐竹氏惣領の地位をめぐる抗争が再燃する。京都扶持衆の討伐を目論んでいた持氏はこれに乗じて義憲を支援し、応永29(1422)年閏10月、持氏の軍勢により、与義の鎌倉の比企谷屋敷を攻め、その法華堂で子や家臣13人を自害させた。
大掾満幹(みつとも)は、関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に対し兵を挙げると、禅秀の子・教朝を養子に迎えていた事もあって禅秀方に加担した。翌年禅秀が敗死すると降伏する。その後、京都扶持衆となり室町幕府側についたが、応永33(1426)年、江戸通房に水戸城を奪われ、3年後に鎌倉雪の下で実子の慶松と共に殺された。
足利満直は鎌倉公方第2代氏満の2男で、同3代満兼の弟であった。応永6(1399)年、満兼は、新たに関東公方の管轄となった陸奥と出羽両国を統治するため、弟の満直・満貞を陸奥へ派遣した。満直は、安積郡(あさかぐん)篠川(ささがわ)に下向し、篠川御所(篠川公方)と呼ばれ奥州管領に準じた権限を行使していた。永享12(1440)年6月、結城方についた南奥州の国衆に攻められ篠川にて没している。満貞は陸奥国岩瀬郡稲村(現福島県須賀川市)に下向し、稲村御所(稲村公方)と呼ばれた。
応永23(1416)年10月2日の夜、禅秀と足利満隆の軍勢は、鎌倉の禅秀邸と西御門宝寿院に分かれて結集、陣を張って態勢を整えたうえで挙兵に及んだ。このとき持氏は酔って眠っていたとされ、また憲基も邸宅内で酒宴の最中に禅秀決起の報を受けたが、こちらも初めは誤報と疑い、数度の注進で漸く事の重大さに気づいたという。
上杉禅秀の襲撃は成功し、不意を衝かれた持氏は憲基邸へ退避した。両勢の本格的な戦闘は4日になってからだったが、軍勢に勝る禅秀方が持氏・憲基勢を圧倒し、敗れた持氏らはその日の夕刻に小田原へと逃れた。しかし禅秀方は追撃の手を緩めることなく、持氏らを箱根山へと追い込んだ。箱根山中で一夜を明かしたのち、持氏は駿河守護・今川範政を頼って駿河国瀬名の安楽寺に、上杉憲基とその弟・佐竹義憲らは遠く越後国にまで落ち延びた。
この事変を将軍義持は、即座に鎌倉府介入の好機として、公方持氏方の支援を決め、今川範政や信濃守護小笠原政康・越後守護上杉房方に鎌倉府救援のため出陣を命じた。鎌倉府の総帥である持氏、その補佐役である憲基を逐って鎌倉府を掌握したかに見えた禅秀であったが、範政による切り崩し工作によって足利満直や武蔵国の江戸氏・豊島氏らが離反して幕府方に転じたため、戦況は逆転した。これに乗じて今川範政が、同年の暮れより小田原に進軍したことにより、禅秀方は苦境に立たされた。
明けて応永24(1417)年1月5日、禅秀方は武蔵国世谷原で江戸・豊島氏らを撃退したが、上方からの討手が小田原まで攻め下り、最早、負けると噂され、味方は次第に浮足立ち、ほとんどが心変わりして敵に寝返った。9日には佐竹義憲・上杉房方らとの戦いに敗れて鎌倉へと逃げ帰っている。そして翌10日に禅秀、足利満隆・持仲(満隆の猶子、持氏の弟)らは、鶴岡八幡宮神社に付属する神宮寺(じんぐうじ)
宝性院快尊法印の雪ノ下御坊で自害する。禅秀らの挙兵から3ヶ月で終結した。今川勢と江戸・豊島勢は両方から鎌倉へ乱入した。
上杉憲基は11日に、足利持氏は17日に鎌倉に復帰し現北鎌倉山ノ内の浄智寺に入った。既に捕らわれている室町3代将軍義満の次男義嗣も応永25年1月24日、京都において死を賜っている。
翌応永26年3月6日、上杉憲基が病に臥せって管領を辞し、子息の四郎憲実が関東管領職を継ぎ安房守に任じられた。
8)村上氏の台頭
当時、信濃では、信濃守護小笠原政康が反守護の中心村上持清と対立していた。かつて大塔合戦(おおとうがっせん)と呼ばれる、応永7(1400)年、信濃守護職小笠原長秀と有力国人領主の連合軍(大文字一揆)との間で起きた善光寺平南部での合戦で、守護側が大敗した。以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続く。
小笠原氏が、再度念願の信濃守護に補任されたのは、前年の応永6年であった。翌年7月3日、京都を出発した小笠原長秀は北信の中心である善光寺に入り、信濃の国人領主達を召集して対面する。極めて高圧的であったようだ。
ちょうど収穫の時期となっていた近隣の川中島で、守護の所領として年貢の徴収を開始した。川中島は本来、守護領と主張する。守護は将軍の意向一つで任地を変えられる不安定な職(しき)であった。守護に任命される有力諸家は、一族の継続的安定のため、守護大名として任国の領国化を企図していた。室町時代は、鎌倉幕府の貞永式目のような武家支配の制度的な規範を確立しないまま、微かな残滓を留める律令制を無視し、更に国衙と荘園といった古代・中世の諸制度を駆逐し続けていた。
平安時代末期から寺社本所領荘園を、地方の在地領主が押領し続け、室町時代となると院領や摂関家本所領も、事実上の支配者・国衆が年貢を未納にする。村上氏が押領していた川中島同様、殆どの所領が押領地である他の国人領主には、それが脅威となり反小笠原で結集した。
反旗を翻したのは、村上氏のほかに中信の仁科氏・東信の海野氏や根津氏を初めとする滋野氏一族・北信の高梨氏や井上氏一族など大半の国衆で、小笠原氏に加勢したのは一族以外では元々地盤としていた伊那地方を中心とした一部の武士たちだけだった。後に仲介役となる大井氏をはじめ、小笠原氏が守護職を務めていながら、その一族のほぼ半数が加勢しなかったと言われている。小笠原氏は、時代の衰勢を読めず、国人一揆に壊滅的敗北を帰し、長秀は京都に逃げ帰り守護職を罷免された。
応永23(1416)年の「上杉禅秀の乱」が起こると、小笠原政康が中心になって一族・国衆を率いて信濃国の防禦を固めた。この乱を契機として信濃国内の軍事指揮権を掌握する。12月30日、将軍義持は小笠原政康に信濃守護職に任命し本領知行を安堵し、小笠原氏を復職させた。翌年の正月23日、その戦功を賞するとともに「何事も今川駿河入道範政と談合していよいよ戦功を励むように」と申しつけている。
幕府が関東分国に通じる東海道と東山道の要衝を確保すると、その結果、建武の新政下で信濃国内に権益と勢力を拡大してきた村上氏の権勢が相対的に弱まり始めた。村上頼清は鎌倉公方持氏に加勢を求めた。持氏はこれに介入し頼清に助勢するため、側近であった宅間上杉家の上杉憲直(のりなお)や、鎌倉の関東公方衆を束ねる御一家衆の重臣一色直兼(なおかね)と上野国の桃井直弘・那波上総介高山修理介らに派兵を命じた。
鎌倉府の管轄は、本来、関東諸国と伊豆・甲斐・陸奥・出羽のみで、鎌倉府が信州に介入してはならないはずであり、この頃から、鎌倉府と室町幕府の関係は険悪を極めていった。管領憲実は、「信州は今は関東料国ではない。幕府管轄下にある。信濃守護小笠原を討つ事は、幕府に戦いを挑むことになる。」と強硬にこの出兵を諫止した。持氏は折れたが、信濃方面軍は解散しなかった。
9)持氏と将軍義持との関係
応永30(1423)年8月、持氏は幕府扶持衆の常陸国真壁郡小栗の領主小栗満重を討伐している。満重は応永23(1416)年の上杉禅秀の乱で禅秀に味方したため、戦後、持氏により所領の一部を没収された。満重は、失地回復を謀り、応永29(1422)年に宇都宮時綱らと共謀して反乱を起こした。一時は結城城を奪っている。しかし反乱が長期化し拡大する事を懸念した持氏が、応永30年に大軍を率いて自ら出陣すると、反乱軍はたちまち崩壊して小栗城は落城した。大井持光も参戦していて、小栗満重の首をとり、結城氏朝・同時朝などと並んで恩賞を得たが、「持光は軍功第一とす」と賞された。
持光の「持」の字は、大井氏歴代の当主には、見当たらない。この頃、持氏から「持」の偏諱(へんき)を賜ったのかもしれない。『小栗記』に「持光は先君長春院殿(持氏)御おぼえ他に異なり」とあり、鎌倉公方持氏との特別な関係が推測される。天正2(1574)年に渡辺玄忠斎が記した『佐久大井氏由緒』には、大井持光の所領6万貫の中に、佐久郡以外、武州3か所、上州緑野4か村、上州板鼻・後閑(ごかん;利根郡みなかみ町)・原・横川・坂本があるとされている。後年の結城合戦の際、持光は結城方に味方して臼井(碓氷)峠まで出陣している。その不可解さに隠された理由がこの辺りあるようだ。また後閑城は、現群馬県安中市中後閑にあったが、嘉吉元(1441)年、信濃国の依田忠政が築城を開始し文安四(1447)年に完成したといわれる。小田原北条氏の滅亡とともに、廃城となった。依田氏は、大井氏の重臣芦田氏の一族である。
常陸の真壁氏も、謀叛した小栗氏に与力した咎で鎌倉公方持氏から所領を没収された。応永30年のこの時期「京都より御扶持の輩、大略滅亡」という事態になっている。義持は大いに激怒した。7月、義持は評定会議を招集した。評定は管領畠山満家亭で開かれた。京都扶持衆を見捨ててはいけない、積極的支援と決し、幕府は関東国境地帯に軍勢を展開した。持氏はその圧力に屈し義持に和睦を申し入れた。その後持氏は、義持に従順となる。義持唯一の男子、5代将軍義量(よしかず)が早世したからであった。
この応永30年の3月に、義持は38歳で将軍職を嫡子義量に譲り、その翌年出家した。ところが翌年正月、義量は疱瘡を患い、以後快方に向うことも無く、翌応永32年、19歳の若さで亡くなった。持氏は義持の猶子となり、在京奉公することを希望した。以後、義持から後継者として指名されることを期待していた。
幕閣は、関東公方を仮想敵として、常に念頭に置き、九州と関東公方管轄下の東国諸国の守護以外は在京を原則としていたが、越後・信濃・駿河の関東国境諸国だけは在国としていた。
応永36(1428)年正月7日、義持は風呂場で尻の傷を掻き破り、それが悪化し起居もままならなくなった。16日、義満の猶子三宝院満斉に「大略思(おぼ)し食(め)し定められるなり。43にて御薨逝(こうせい)も不足なく思し食さるるなり」と洩らすようになる。後継者を指名しない義持に、已む無く満斉が八幡神前での籤引きにより、「神慮」にかなう者に将軍職を継承すると提案し了承された。義持の弟様は4人、青蓮院(しょうれんいん)の義円(ぎえん)、大覚寺(だいかくじ)の義昭(ぎしょう)、景徳寺虎山の永隆(えいりゅう)、三千院(さんぜんいん)の義承(ぎじょう)であった。正月17日、籤を管領畠山満家が石清水八幡宮へ持参し、神前で1通だけ引いて深夜に持ち帰った。管領以下諸大名が会して、その面前で開封した。「青蓮院」と記されてあった。正長2(1429)年3月12日に、将軍宣下をうけた義満の3男、6代将軍足利義教であった。義持は籤引きが行われた翌18日に没した。
義教が家督を継いだため将軍就任の夢が破れた関東公方足利持氏が再び不穏な動きを始めた。
10)永享の乱
持氏と関東管領上杉憲実との関係が悪化し、永享9(1437)年4月、持氏が憲実を討伐するという風聞が流れ鎌倉が騒然となった。この結果、持氏の援軍を得られなくなった村上安芸守頼清は、信濃国内で孤立した。やむを得ず幕府に降伏した頼清は、永享9(1437)年8月18日、上京し将軍義政に拝謁した。義政は頼清に剣を与えている。ここに東信地方の国人一揆の争乱は治まり、小笠原政康に国衆は服し、関東出兵の準備が整った。
鎌倉公方と関東管領の2人の決裂が決定的となったのは永享10(1438)年6月、持氏の嫡子賢王丸の元服に際してのことであった。慣例では、鎌倉公方は元服の際、本家である将軍から偏諱を拝領するはずであった。しかし持氏は将軍・足利義教にそれを求めず、賢王丸を義久と名乗らせたのである。しかも「義」の字は将軍代々の通字(とおりじ)であり、これまでの鎌倉公方は「義」の字を尊畏し避けてきた。「義久」という名乗りはそれを無視し、公然と将軍に対抗する姿勢を示しものであった。
憲実は慣例に従うよう持氏を諫めたが持氏は耳を貸そうともせず、義久の元服式を鶴岡八幡宮で強行するが、憲実も退かず、元服式に出席することを拒んだ。この後、憲実を討伐するという噂が流れた。これを聞いた憲実は「忠義として持氏の誤りを正そうと諫めたが、それを不忠として討たれることは末代までの恥辱である」と嘆き、憲実は8月14日、鎌倉山ノ内の屋敷を出奔して、分国の上野国白井城(しろい城;群馬県藤岡市西平井)へ帰っていった。
それを聞いた持氏は8月16日、一色直兼とその甥一色持家らに憲実の討伐を命じ、自らも軍勢を率いて武蔵国府中の高安寺に出陣した。憲実は孤立し幕府に救援を求めた。一方、京都幕府はこの持氏と憲実が衝突することを早い段階から見越していたようで、7月下旬から8月初旬にかけて、信濃守護小笠原政康・駿河国の今川範忠・甲斐の武田刑部大輔(ぎょうぶたいゆう)信重・越前守護斯波氏の被官朝倉教景(のりかげ)、篠川御所足利満直や南陸奥の伊達持宗・白川氏朝・石橋義久らに、上杉憲実を支援するための出兵準備を命じていた。さらには8月28日付けで後花園天皇に『持氏討伐』の綸旨を奏請し、憲実・幕府方が「官軍」、持氏方が「賊軍」となり、諸国の有力武士に軍勢を催促する6代将軍足利義教御内書(ないしょ;将軍の直状:じきじょう:将軍の直接命令書)が遣わされ、幕府軍が編成されるという速さであった。
総大将は上杉禅秀の遺児持房・教朝とされ、関東地方以外では越前国の朝倉教景、今川上総介範忠、信濃守護小笠原政康、武田刑部大輔信重なども出陣を命じられている。将軍義教は、事前に信濃守護政康に命じて、鎌倉公方に通じていた村上頼清以下信濃国衆を鎮圧させていた。将軍義教は、また上杉憲実にその策を伝えるなど、周到な準備の下、開戦の切掛けを待っていた。幕府追討軍が、官軍として大兵(たいへい)を率いて来ると知り、関東軍の国衆は、鎌倉方持氏の形勢不利と知り、その多くは又も寝返った。
9月になると上野国において憲実軍と一色軍、相模国においては幕府軍と持氏軍の戦闘が始まった。幕府方の討伐軍2万5千が、持氏軍を箱根山・相模の風祭で打ち破り、鎌倉公方方の上杉憲直らを相模の早川尻の合戦で敗走させると、持氏は和議を申し入れたが拒否され、鎌倉の永安寺に籠った。この時、持氏方だった三浦時高が寝返り、10月はじめに鎌倉に攻め入られ大倉の御所を焼き討ちされた。
上杉憲実が10月19日に武蔵国分倍河原に着陣した。これを知った持氏の本陣では投降する者や寝返る者があとを絶たず、わずかに残ったのは譜代の近臣や宗徒だけだったという。敗走する持氏は、上杉憲直・一色直兼など主だった武将らを討ち取られ、11月2日、憲実の家宰長尾忠政と相模国葛原で遭遇して降参した。讒臣を退けるという約束で保護を受け出家した。
しかし幕府は憲実に対し、保護下にある持氏を自害させるように迫った。これを受けて憲実は、使僧を幕府に派遣して持氏の助命を願い出たが、将軍・足利義教はこれを赦さない。しかも持氏を誅伐しなければ憲実も罪に問う、という強硬姿勢だった。
やむなく憲実は上杉持朝・千葉胤直らに軍勢をつけて持氏のいる鎌倉の永安寺を攻めさせ、永享11年2月10日、鎌倉公方持氏・叔父の稲村御所(陸奥国岩瀬郡稲村;現福島県須賀川市)足利満貞は寺に火を放って近臣30数名と共に自害して果てた。基氏以来、鎌倉府の90年来の幕は下りた。また、持氏の嫡子義久も2月28日報国寺にて自害した。
永享の乱の収束後、憲実は剃髪し、永安寺長春院境内で自刃しようとしたが、家人に気付かれ未遂に終わった。憲実は家督を弟清方に譲り、伊豆の国清寺(こくしょうじ)に隠棲した。
以後関東の武士団は、中枢する権力が無力化すると、在地で実効支配する国衆相互間の戦国大名化へ向けて、弱肉強食の争いとなる。
11)大井持光の結城合戦とのかかわり
大井持光は、永享10(1438)年の「永享の乱」で自害した鎌倉公方足利持氏の遺児永寿王丸・後の古河公方足利成氏(しげうじ)を信濃で庇護した。永寿王丸は持氏の末子で、当時5歳であった。初代鎌倉公方足利基氏が中興開基した鎌倉の瑞泉寺の僧が、2人の被官を供にして、乳母に抱かれて、岩村田に隣接する安原(佐久市)の安養寺に逃れてきた。この寺が信州味噌発祥の地と謂われている。安養寺の住僧が、乳母の兄で、その伝手(つて)を頼って大井持光に庇護を頼んだようだ。
永享の乱の結果、上杉氏は所領を拡大したが、逆に圧迫された在地豪族の反発は、後の大乱の遠因となった。永享12(1440)年3月、幕府と関東管領上杉氏に反発する諸豪族が持氏遺児の春王丸・安王丸を奉じて、下総の結城城(茨城県結城市結城)に立て籠もると、これを越後守護房方の子で越後の上条城主上杉清方が鎮圧しょうとして戦う結城合戦となり、不安定な状態が続く。大井持光はこの時、家臣芦田と清野をつけて、6歳の永寿王丸を結城城へ送り籠城させたという。同年7月、幕府軍の結城城への攻撃が激しくなると、持光は結城方に味方して臼井(碓氷)峠まで出陣している。これに対して、上杉憲実の弟重方が上野の国分(こくぶ;群馬県群馬町)まで出馬して来ると、軍を引いている。
持光の立場は微妙で、将軍義教に小笠原政康が芦田征伐を命じられ、永享8年3月、芦田氏を攻め、その全面的支援により、芦田氏を持光の傘下に加えた。その持光が、なぜ反幕府的軍事行動にでたのか、未だ不明である。
氏朝は小山泰朝(おやまやすとも)の子で、下総結城満広(みつひろ)の養子となった。応永23(1416)年ごろ家督を継承した。下野守護職であった祖父結城基光が死去した永享2年(1430)以降、結城家当主としての活動を開始した。前代から敵対していた上杉氏との対立を深め、永享の乱では足利持氏を支援した。持氏の遺児安王丸、春王丸が挙兵すると、これを結城城に迎え、関東諸家の宇都宮、小山氏の一族や那須、岩松氏らを糾合して幕府・上杉軍と抗戦した。氏朝は、翌嘉吉元(1441)年4月16日敗れ、嫡男の持朝(もちとも)らと共に自決し落城した。安王丸、春王丸の兄弟は捕らえられ、京都への護送途上、美濃の垂井(岐阜県不破郡垂井町)の金蓮寺で殺害された。ところが永寿王丸に関しては特殊で、『喜連川判鑑』『上杉略譜』『足利系図』『永享後記』『足利治乱記』『永享記』など、いずれも永寿王丸は密かに逃れ大井持光に庇護されている。当時、武蔵や上野国にも所領があった持光の懸命な救助活動が成果を顕したのであろうか?『結城戦場物語』には「そののち持氏の末の御子、信濃国安養寺と申す寺に深くしのびてましますを、東国の諸侍たづねだして奉り、成氏と申して鎌倉に御所をたて、京都・田舎(鎌倉)和談して末はんじゃうとさかえり」と記す。『上杉略譜』には、「永寿王は信濃大井持光の家にかくまわれていたが、これを知る者がなく、幕府軍の総大将上杉清方も鎌倉に帰り、諸国の軍もみな帰国した」と記す。
結城合戦後僅か2か月後、将軍義教は「結城合戦平定の祝賀」として招かれた赤松亭の祝宴の席で、首級を挙げられる無残な死を遂げた。
小笠原政康も翌嘉吉2(1442)年8月9日、結城合戦後の事後処理を完了し、信濃の館に戻る途上、小県郡海野で病没した。67歳であった。
先の永享8(1436)年2月の頃であった。将軍義教は、政康に芦田征伐を命じた。義教は政康を信濃守護として重用し、東北信の国衆を統制させ、関東公方の対する防壁として信濃国を位置付けようとした。しかし、埴科郡の村上頼清や東信の滋野3家(海野・祢津・望月)や諏訪郡の諏訪氏らは守護に対する南北朝時代からの敵対意識もあって、また守護の所職の拡大を恐れ、鎌倉府の足利持氏と結んでこれに対抗しようとし、芦田氏を支持する立場を鮮明にした。同年3月、政康は芦田下野討伐軍を動員し、千曲川右岸を遡り小県郡祢津(東御市)を攻め、別府(小諸市別府)・芝生田(小諸市滋野甲)・南城(みなみじょう; 小諸市甲南城)を攻め落とした。5月18日、将軍義教は小笠原政康に、その戦功として太刀を与えている。ここに祢津・海野氏らは降伏し、孤立した芦田氏も守護軍に降った。8月3日、再び、将軍義教は政康に、その戦功を賞し太刀を与えている。
滋野一族海野・弥津両氏は、大塔合戦以後、村上氏ら国人一揆衆と組み、今回も反守護の立場を代えず、強力に芦田下野守を支援していたが、守護小笠原政康に本領の根拠地まで侵攻され降伏し、その勢力は次第に衰退していった。
「諏訪御府礼之古書」は『信濃の一宮』諏訪大社上社の重要祭事の御符入の礼銭、頭役銭を記録しており、信濃の中世における武士の動向と盛衰を知る貴重な史料となっている。
それによると舟山郷の頭役は、文安6(1449)年海野持幸代官平原直光、康正2(1456)年も海野氏代官室賀貞信であったが、寛正2(1461)年以降村上氏一族の屋代信仲が文明17(1485年)年まで頭役を務めている。応仁元(1467)年、村上氏との戦いで海野持幸が戦死して小県郡海野荘が村上氏に奪われ、村上氏の勢力が、海野氏を追い払い舟山郷まで及んでいたとみられる。
12)万人恐怖の世
上杉氏をはじめ関東の武将たちは、鎌倉公方足利持氏の滅亡後、関東の安寧秩序を維持するため、鎌倉府の再興が不可欠と痛感した。幕府に対して持氏の子永寿王丸を鎌倉公方に補任するよう幾度も嘆願した。将軍義教は許さなかった。代わりに、実子を新しい鎌倉公方として下向させようとした。関東に自己の勢力を広げていくためであった。これには上杉氏も断固反対し頓挫している。
義教は有力守護大名の家督継承に積極的に干渉し、大内持世や赤松貞村など、分家・庶子家出身の近臣を当主に推し、幕府の勢威を高める政策を行ってきた。その意に反した守護大名、一色義貫と土岐持頼は刺客を送られ暗殺された。
それも永享の乱の勃発とほぼ同時期に、義教の弟で先代義持の後継候補の一人であった大覚寺義昭(ぎしょう)が京都を出奔し、7月大和天川(てんかわ)で挙兵した時であった。一色義貫と土岐持頼が、義教の命で大和へ出陣した、その陣中で一色義貫は、義教の近習である武田信栄(のぶよし)に朝食に招待され謀殺された。その理由は、持氏の残党を分国三河に匿った罪といわれている。義貫の遺領は、丹後を一色教親(のりちか)に、若狭が武田信栄に、三河が細川持常に、いずれも義教の近習が守護となった。
土岐持頼は、出陣先の大和多武峰(とうのみね)において、伊勢国人長野氏に攻められ、剣を口中へ入れ、うつ伏しざまになり、壮絶に自刃した。持頼は、正長元(1428)年、伊勢守護に再任されると、以来、国内の寺社本所領や奉行衆領を押領し、再三にわたる義教の返付命令を無視したためとされている。持頼遺領の伊勢半国も一色教親に与えられた。有力守護を滅ぼし、近習を新たな守護に取り立てる義教の意図が明白となった。
永享13(1441)年、畠山持国(満家の嫡子)が、自分の家督相続に義教が介入したため、関東への出陣を拒否した。弟持永が惣領を継いだ。
6月18日には、加賀守護富樫教家が、義教の突然勘気にふれて守護を解任される。教家は、兄の先代持春の死去により家督を継ぎ加賀守護となるが、それまでは奉公衆として将軍義教に近侍していた。
富樫の家督は醍醐寺三宝院の喝食となっていた弟の慶千代が還俗して継ぎ、泰高と名乗り加賀守護となった。その直後、6月24日、嘉吉の変がおきた。
「万人恐怖の世」と評される義教の恐怖政治は、その室・日野重子の兄日野義資(よしすけ)の逼塞事件から始まる。義教が将軍家を継嗣した直後、義資の所領近江日野牧の代官職を義資の叔父烏丸豊光(とよみつ)に与えた。日野氏は3代将軍義満以来、日野家から室を出すことが先例となり、外戚として権勢を振るっていた。豊光は日野家の庶流で、足利義持の側近として仕え、義教の意向によって烏丸を家号とした。一方、日野氏の外戚としての重圧は、義持の代から既に重荷となっていた。6代将軍義教は日野氏の勢力抑制に乗り出した。足利将軍家が度々使う、庶子家の登用による権勢家の分断化であった。義資は叔父を突然、自分の所領に介入させる義教の不当に抗議した。義教はそれを待っていた。義資は逼塞を余儀なくされた。
永享6(1434)年2月、日野重子が男子を産んだ。7代将軍義勝である。これで諸家は、兄である日野義資の外戚としての権勢復活とみて、義資亭へ祝賀に詰掛けた。義教はこれを予知し、義資亭を見張らせ、訪問者を記録させた。結果、御室永助(おむろえいじょ)・九条満輔など法親王・摂関家などを含む大量の粛清が行われた。義資もその4か月後、盗人に襲われ不慮の死を遂げている。
この義資の事変直後から、義教より「裏松(日野義資)の事、是非沙汰すべからず」と緘口令が布かれていた。前参議高倉永藤が近習たちの面前で、義資の殺害は将軍の仕業と得意気に語ってしまった。その所領は没収され、なんと薩摩硫黄島へ流罪に処せられた。
参議中山定親のその日の日記には、義教よる処罰者70名以上のリストが記されている。以後、嘉吉の変まで、将軍義教による受難者は200名を超えている。これが「万人恐怖の世」と語られた時代の実相であった。
13)嘉吉の変
大和の越智・箸尾の国衆の征伐に、永享4(1432)年12月、畠山・赤松両氏が出陣を命じられた。この争乱で赤松勢は奮戦し60人とも6百人とも言われる戦死者を出したが、畠山満家軍は終始傍観し無傷であった。このころ幕府の最長老格となっていた赤松満祐は、播磨、備前、美作3か国の守護として、その権勢が高まるにつれ、義教に疎まれる様になっていた。
永享9(1437)年には、満祐の播磨国、美作国の2か国を、義教が没収するとの噂が流れている。一方、将軍の近習となっていた同族の赤松貞村は、妹が義教の側室となって男子を出産したことで、義教に重用されるようになっていった。永享12(1440)年3月に満祐の弟義雅の所領を没収して赤松貞村・赤松満祐・細川持賢(もちかた)の3人に分与してしまった。満祐は、攝津の所領の内特に小屋野(こやの)の地が庶流の貞村に与えられたことに猛抗議した。
同年5月、大和国出陣中の一色義貫と土岐持頼が義教の命により誅殺された。
「次は義教と不仲の満祐が粛清される」との風説が流れはじめ、満祐は病と称して幕府へ出仕しなくなった。
6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電した。23日には吉良持助が出奔している。
6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として赤松氏伝統の演能・松囃子を献上したいとして義教を自邸京都二条亭に招いた。この宴に相伴した大名は細川持之、畠山持永、山名持豊、赤松貞村、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数以下の諸大名と近習、山名熈貴(ひろたか)、細川持春ら義教の近習であった。他に公家の三条実雅が傍らにいた。実雅は義教の正室三条尹子(ただこ)の兄で、義教に寵愛され随行していた。
一同が猿楽を観賞していた時、にわかに馬が放たれ、屋敷の門が一斉に閉じられる大きな物音がたった。義教が「何事であるか」と呟くと、傍らに座していた三条実雅は「雷鳴でありましょう」と答えた、その直後、背後の障子が開け放たれるや甲冑を着た武者たち数10人が乱入、赤松氏随一の剛の者安積行秀が、一瞬にして義教の首を刎ねてしまった。実雅はとっさに義教の前に置かれた将軍に献上された金覆輪(きんふくりん)の太刀を抜き戦ったが、瞬時に斬り伏せた。耳元や股など数箇所斬られたが命に別状はなかった。
居並ぶ守護大名たちの多くは将軍の仇を討とうとするどころか、即座に退出していた。山名熈貴は抵抗するがその場で斬り殺された。細川持春は片腕を斬り落とされ、政治生命を絶たれた。京極高数は重傷を負い帰宅後死亡した。大内持世も瀕死の重傷を負い、1か月後、「赤松父子を誅戮(ちゅうりく)すべし」と遺言し息を引き取った。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちの喧騒とで、屋敷は修羅場と化した。赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を声高に告げると騒ぎは収まり、負傷者を運び出し諸大名たちは退出した。
後花園天皇の父・貞成(さだふさ)親王の『看聞日記(かんもんにっき)』に「赤松を討とうとして、企てが露見して逆に討たれた。自業自得である。このような将軍の犬死は、古来その例を聞いたことがない」と記している。
管領細川持之を始め諸大名たちは、邸へ逃げ帰ると門を閉じて引きこもってしまった。諸大名は赤松氏がこれほどの一大事を引き起こした以上は、必ず同心する大名がいると考え、形勢を見極めていた。実際には、将軍暗殺は赤松氏による単独犯行であった。
教康ら赤松一族はすぐに幕府軍の追手が来ると予想していたが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国に帰って抵抗することに決め、屋敷に火を放つと、将軍の首を槍先に掲げ、隊列を組んで堂々と下国した。これを妨害する大名はいなかった。義教の遺骸は翌日焼跡から発見され等持院に送られた。首は赤松勢が攝津中島へ持ち去っていた。この事変当時、満祐は他所にいたが、教康の後を追い播磨へ向った。その後も満祐の弟義雅・則繁が自邸を焼いて出奔した。惣領家と対立していた赤松貞村・満政・教実ら庶子家の面々は在京した。
突然、義教を失った幕府は、管領細川持之の指導力不足もあって機能停止に陥ってしまった。将軍が殺された時に、管領でありながら戦いもせず、真っ先に逃げ出そうとした持之の臆病ぶりは嘲笑された。持之は赤松家と姻戚関係にあり和歌仲間でもあった。満祐と結託しているという噂まで流れた。
専制化していた義教は、義持時代の政策決定に幕閣たちが一堂に会する評定会議を余り開催しなくなっていた。大名意見制とでも呼ばれる在宅諮問が一般化する。義教が大名に意見を求める前に、畠山満家と山名時熈2人の宿老と管領を加えた3名に意見を諮問し、その後必要があれば、他の大名の意見を聞いた。急を要する場合は、宿老の意見だけで十分と判断された。それらの決定過程を内々に差配していたのが、3代足利将軍義満の猶子であった三宝院萬済(まんさい)で、最高政治顧問とでも言われるような立場であった。
政策決定に宿老が重用されると、管領職に伴う利権が少なくなり、寧ろ公式行事に駆り出され多大な出費が重なり、煩雑で実入りのない外様訴訟の業務を背負わされ、その経済的負担がかなり重圧となっていた。この当時、管領職がいない時期もあった。
永享5(1433)年9月、畠山満家が世を去り、永享7(1435)年6月、「天下の義者」といわれた三宝院萬済が58歳で没し、翌7月山名時熈が69歳で死去した。義教の持病、精神疾患が悪化し、その凶暴化が増していくのを誰も止められなくなっていた。
翌る25日、ようやく持之は評定会議を開き、義教の長子千也茶丸(ちゃちゃまる;足利義勝)を次期将軍とすること、持之が管領のまま、その代官として政務を代行する事が決定された。しかし幕府の対応は混乱し、赤松討伐軍は容易に編成されなかった。
これら幕府の対応の混乱は、義教の将軍専制の結果といえる。独断的政治であったため、その将軍が消滅すると、緊急時に、管領以下の有力守護が指導力を発揮できなくなっていた。実際、赤松満祐を幕政から退ければ、将軍専制はほぼ確立したとみられる。
本拠地の播磨国坂本城に帰った満祐は、足利尊氏の庶子足利直冬(直義の養子)の孫の義尊(よしたか)を探し出して擁立し、一応の大義名分を立てて領国の守りを固め、幕府に対抗しようとした。満祐が推戴した人物は、禅僧として播磨国に潜伏する直冬の子孫と主張し、以前から自らを伊原御所と称していた。赤松家の家臣達は、義尊の擁立にあまり乗り気ではなかったという。
7月1日、赤松氏の支族で臨済宗の僧・季瓊真蘂(きけいしんずい)が坂本城を訪れ、義教の首の返還を求めた。満祐は快く首を返還した。真蘂が京へ持ち帰り、6日に足利尊氏の墓所・等持院で義教の葬儀が行われた。
14)播磨国赤松氏滅亡
漸く7月10から11日にかけて、細川持常・赤松貞村・赤松教実・山名教之らの大手軍が摂津国から赤松討伐に出陣した。山名教清が伯耆国から美作国へ侵入したが、ほとんど抵抗もなく、美作国は山名勢に制圧された。細川持常、赤松貞村らの大手軍は摂津国西宮まで進出した。25日に赤松教康は幕府軍に夜襲をしかけるが、同士討ちが起きて退却していている。大手軍は戦意が低く、但馬口を受持つ山名持豊が、京を動かないため進軍を止めてしまった。持豊は侍所を辞し、7月28日、漸く京を発し、但馬国へ向かった。但馬口から播磨へ侵攻する手はずである。
8月1日、細川持之は赤松討伐のため、治罰綸旨を奏請した。その理由として「管領の下知、人々の所存如何(しょぞんいかん)、心元なきの間、綸旨を申し請うべし」としている。持之は自ら管領としての指導力不足を奏請理由にしていた。朝廷は将軍家が家臣を討伐するのに綸旨とは、発給要件を欠くとする当然の意見もあった。既に天皇、摂関家であっても、地方の国衙領や摂関家を本所領主とする荘園の殆どが、斯波氏・細川・畠山氏など有力守護を初め地頭職その他の在地武士に押領され、3代将軍の義満の時代には、既に政治的に無力化していた。更に将軍家に依存しなければ経済的にも自立しえなくなっていた。23歳の後花園天皇は時来たれりとばかり、自ら添削し治罰綸旨を完成させた。
一度戦端が開かれると、大名や近習衆の所領欲が剥き出しになり、戦況は一気に決する。8月19日、摂津国の大手軍が動き、細川持常、赤松貞村は陸路から、細川持親は海路から塩屋(神戸市)の教康の陣を攻撃した。教康は陣を放棄して蟹坂(明石市)へ後退し、大手軍はようやく播磨国へ入った。24日、教康は逆襲に出て両軍は激しく戦う。翌日、大雨の中を幕府軍は蟹坂の陣へ攻撃を行った。教康は奮戦したが、山名持豊により遂に但馬口が突破されたとの報を受け、戦意を失って坂本城へ退却した。坂本城(姫路市書写溝江)は、姫路市の北方に聳える書写山、その南西麓にある。実は虚報であった。虚報に惑わされるほど、各地の戦況が悪化し、赤松軍は虚報に踊らされ易い瀕死の段階にあった。
8月中旬、山名持豊は4,500騎をもって但馬・播磨国境の真弓峠(兵庫県朝来;あさご;郡生野町真弓)に攻め込み、この方面を守る赤松義雅と数日にわたり攻防があった。28日、持豊は真弓峠を突破し、退却する義雅を追撃しつつ坂本城に向かって進軍した。30日、両軍は田原口で決戦を行い、義雅は善戦するが力尽き敗走した。
9月1日、持豊の軍勢は坂本城へ達し、持常の大手軍と合流して包囲した。守護所のある坂本城は要害の地とは言えず、3日になって満祐は城を棄てて城山城(兵庫県たつの市)へ移る。
赤松一族が籠城する城山城が、山名一族や大手軍に包囲された。9日、満祐の弟義雅が逃亡して幕府軍に降服し、播磨国の国人の多くも赤松氏を見限り降参した。10日、幕府軍が総攻撃を行い、覚悟を決めた満祐は、嫡男教康や弟則繁を城から脱出させ、残る69名揃って切腹した。教康は妻の父伊勢国司の北畠教顕を頼って脱出したが、北畠氏にも見放され自害した。10月1日、教康の首は京に送られ、赤松邸に梟首された。享年19歳であった。
嘉吉の変の直後、細川持之は義教による失脚者を一斉に赦免する思い切った処置をとる。多数の人々が政界に復帰した。その中に足利持氏の遺児万寿王丸もいた。信濃の大井持光の庇護下にあったが、9死に一生を得、やがて鎌倉公方に復帰した。
有力守護家を初め諸国守護は、内紛を助長しその勢威を衰退させようとした義教の策謀により混乱を極めた。特に管領職家、斯波氏と畠山氏は、存亡の極みにあった。この重大時にも、管領家両家は貧窮し、一族として纏まることができず、戦果を挙げていない。
15)鎌倉府再興後
足利義教の死後、幕府は持氏旧臣らによる鎌倉府再興の要望を受け入れ、文安4(1447)年に持氏の遺児永寿王が就任する事に決まり、翌年鎌倉に帰り、文安6年、元服し第5代鎌倉公方成氏と名乗った。
一方、永享の乱後、出家隠遁していた上杉憲実は、結城合戦の際、幕府の執拗な懇請に屈し政界に復帰するが、合戦後再び隠退し、持氏への償いから子息の殆どを出家させ還俗を禁じた。その家督は弟清方が継いだ。その清方が急死した。上杉山内家被官の長尾景仲(かげなか)などの重臣たちは、憲実の意向を無視し、その末子龍忠丸を還俗させ憲忠(のりただ)と名乗らせ家督を継がせた。憲忠は文安4(1447)年、後花園天皇綸旨のより関東管領に就任した。15歳であった。幕府は老臣に補佐を指示、上杉山内家と扇谷家に幕府の下知を受けて政務を執るよう命じた。
憲実は、それを聞き一旦は伊豆に隠退した。その後に生じる公方方と上杉一族との江の島合戦の年の末には、鎌倉に戻っている。江の島合戦の調停ができる人物は、恐らく憲実しかいない状況で、やむなく引き出されたと思う。憲実自身、その後の関東の戦国時代の到来を予想していたようだ。その後漂泊の旅を重ね、長門大寧寺で文正元(1466)年閏2月死去する。京の知識人は「深山大沢(しんざんだいたく)の間に隠居して、看経行道修(かんぎんぎょうどうじゅ)して残生(ざんせい)を送る。人皆その風を望み、敬わざるはなし」と、五山禅院の申次(もうしつぎ;人事と訴訟を司る)・臨済宗の僧・季瓊真蘂(きけいしんずい)が、有馬温泉で遊興しながらも共感している。
しかし、先代公方持氏方であったため結城合戦以来、敗れ逼塞していた里見義実・結城成朝・小山・宇都宮らは、時節到来と立ち上がった。永享の乱や結城合戦後、持氏旧臣、あるいはその子孫や血縁者が再び鎌倉府に集結することになり、今まで抑圧してきた上杉勢力への巻き返しをはかった。成氏の鎌倉公方就任にともなって出仕してきた者の中に、梁田満助と持助の父子らもいた。この鎌倉府再建と前後して、梁田持助が相模国鎌倉郡長尾郷を押領する事件を起こした。この長尾郷は、上杉氏の有力被官である長尾氏の名字の地である。これに憤慨した上杉山内家家宰長尾景仲と上杉扇谷家家宰太田資清らが宝徳2(1450)年4月21日、5百騎の軍勢で成氏の鎌倉御所を襲撃した。
成氏は鎌倉江ノ島へと退避した。長尾・太田勢は追撃するが、成氏方の武将である小山持政・千葉胤将・小田持家・宇都宮等綱(ひとつな)らの迎撃にあって敗走した。敗報を受けた上杉憲忠や上杉持朝・顕房父子は七沢の要害に移って抗戦の構えを取ったが、双方とも鎌倉を見据えて膠着状態となった。成氏が腰越、由比ヶ浜などでの激戦を征し、勝利して鎌倉に復帰した。8月になっていた。
幕府管領畠山持国の調停で、頑なに拒んでいた憲忠も12月末に鎌倉へ戻っている。成氏が誅罰を願っていた長尾景仲・太田資清も赦免されている。
成氏は鎌倉府の管国のうち陸奥・出羽・甲斐を失い、恩賞給与・裁判・徴税など、その政治のあらゆる局面で、幕府の干渉を受けていた。
享徳3(1454)年12月27日、成氏は関東管領上杉憲忠を関東公方亭に招いて謀殺した。ここに享徳(きょうとく)の大乱が勃発した。憲忠は22歳であった。成氏は若い当主憲忠に、上杉山内家内では実権がないと見くびっていた。成氏自身上杉家に対する遺恨もあったろうが、永享の乱以来上杉勢に抑圧されていた持氏旧臣たちの反発が招いた事態でもあった。
これが幕府に報告されると、鎌倉公方が、私の宿意をもって管領憲忠を討ち、関東に大乱をもたらしたのは、幕府への反逆として追討を命じた。幕府は憲忠の弟で、憲実の子息中唯一在俗のまま将軍義政の近臣として仕えていた上杉房顕を関東管領に任じ、そのまま成氏追討軍の総大将として下向させた。信濃守護小笠原光康・越後守護上杉房定・駿河守護今川範忠(のりただ)・幕府奉行衆らも出陣を命じられた。
康正1(1455)年6月、今川範忠の攻撃を受けて鎌倉を焼き払われて逃れ、享徳4(1455)年下総の古河の鴻巣(こうのす)に拠った。鎌倉府は滅亡した。以後その本拠名(下総古河;現茨城県古河市)をとり古河公方とよばれ、関東管領や室町幕府と戦い続ける成氏だった。この乱により旧来の政治体制が大きく動揺し、関東における戦国時代の幕を開けとなった。その後も、政氏・高基・晴氏・義氏と、約130年間引き継がれた。御所は主に古河城であった。
一方、長禄2(1458)年、室町幕府は第8代将軍義政と義視の異母兄足利政知を新たな関東公方として東下させた。政知は幕府権力の衰退と上杉氏の内紛などで鎌倉に入れず、伊豆の堀越(伊豆の国市四日町)を御所としたため、以後、堀越公方と呼ばれた。およそ30年間にわたり、主に上野国・武蔵国・相模国・伊豆国 を勢力範囲とした幕府・堀越公方・関東管領山内上杉氏・扇谷上杉氏勢力と、下野国・常陸国・下総国・上総国・安房国を勢力範囲とした古河公方とそれに与する国衆勢力とが、関東を東西に2分して戦った。
16)大井氏と芦田氏の関係
大井光矩の継嗣が子の持光で、歴代大井氏の最盛期を迎える。持光は芦田城の芦田下野守と争った。芦田氏の宗家は依田氏であり、木曾義仲に属していたため、頼朝の時代に、余(依)田氏自らが余(依)田窪一帯(上田市長和町から旧小県郡丸子町)の地を開発してきたが、その根拠地余(依)田荘を奪われ八田氏が地頭職に補任された。依田氏は北条得宗家御内人になることにより、依田荘を回復した。鎌倉幕府滅亡時には足利尊氏に属し、依田荘全域の所領を確保した。以後、足利幕府の奉行人となり、応安6(1373)年、将軍義満により依田左近大夫入道元信が、幕政の合議裁決機関・評定衆に登用された。この時代の奉行人とは、訴訟を担当する法曹官僚たちである。
その南北朝争乱に際して、諏訪氏とともに南朝に属したため衰運を迎える望月氏に代わり依田川東岸に勢力を拡大して丸子郷に進出した。更に南側の北佐久郡と小県郡との郡境の箱畳峠(はこだたみ峠)を越え虎御前(とらごぜ)・牛鹿(うしろく;立科町牛鹿)と南下し、牛鹿の善正城(ぜんしょう城)を拠点として芦田(立科町)方面に進出、芦田川右岸の芦田古町に芦田城(木の宮城)を築いて芦田氏を名乗った。
大井氏は鎌倉時代から既に、千曲川の川西地方に勢力を拡大していた。鎌倉時代末期嘉歴(かりゃく)4(1329)年の「鎌倉府下知状案」に、矢島(地頭大井六郎入道)・西布施(地頭大井三郎)、志津田(地頭?)・甕(茂田井;地頭大井三郎?)とあり、その上国衙領の芦田と横島(立科町)にまで進出していた。芦田氏にとって、大井氏進出は当然、脅威であり、その最先端部に芦田城を築城し牽制した。大井持光は自領の鼻先に築城され、大井領への進出の布石と理解した。既に下剋上の戦国時代は、始まっていた。守護職ですら領国大名としての軍事力を養えなければ、自家の被官のみならず、在地領主からも自領を守りえなかった。
永享7(1435)年かねてより将軍職就任の野心をもっていた関東公方足利持氏と将軍義教との関係が険悪になってきた。幕府は上野国に通じる佐久郡を戦略的要地として認識しており、同地で対立する大井氏と芦田氏の抗争の調停を守護小笠原政康に命じた。将軍義教は、大井支持と決していて、「和睦がならなかったら芦田を滅ぼし、大井氏と一致して関東にあたれば心強い」と政康に戦略をさずけていた。
幕府は討伐の方針に決し、芦田下野守に芦田城の撤去を命じたが拒否された。芦田氏は村上・海野・祢津氏の国人衆の支援を得て、更に村上頼清は関東公方持氏の与党として強気に出ていた。しかし村上氏家臣団内で、将軍か鎌倉公方かで、両派が対立していた。
両者の和睦が成立しないまま、関東の情勢が急となり、義教は小笠原政康に芦田征伐を延期して持氏の謀叛に備えるように命じた。9月、関東公方持氏が陸奥安積郡(あさかぐん)篠川の足利満貞、常陸の佐竹義憲などを討伐しようとした。将軍義教は、再度、信濃守護政康に芦田方への攻撃を延期し、佐竹氏らの救援を命じた。
将軍義教の瞬息な対応により、持氏の謀叛を不発に終わらせた。永享8年2月、幕府は政康に芦田征伐を命じた。将軍義教は政康を信濃守護として重用し、東北信の国衆を統制させ、関東公方の対する防壁と位置付けた。しかし、埴科郡の村上頼清や東信の滋野3家(海野・祢津・望月)や諏訪郡の諏訪氏らは、守護に対する南北朝時代からの敵対意識もあって、また守護の所職の拡大を恐れ、鎌倉府の足利持氏と結んでこれに対抗しようとした。芦田氏を支持する立場を鮮明にした。
同年3月、政康は芦田下野討伐軍を動員し、千曲川右岸を遡り小県郡祢津(東御市)を攻め、別府(小諸市別府)・芝生田(しぼうだ;小諸市滋野甲)・南城(みなみじょう; 小諸市甲南城)を攻め落とした。5月18日、将軍義教は小笠原政康に、その戦功として太刀を与えている。ここに祢津・海野氏らは降伏し、孤立した芦田氏も守護軍に降った。8月3日、再び、将軍義教は政康に、その戦功を賞し太刀を与えている。滋野一族海野・弥津両氏は、大塔合戦以後、村上氏ら国人一揆衆と組み、今回も反守護の立場を代えず、強力に芦田下野守を支援していたが、守護小笠原政康に本領の根拠地まで侵攻され降伏した。その後、次第に衰退していった。
以後、芦田氏の一族は、大井氏を支え、発展させる原動力となった。
小諸は滋野氏の支族小室氏の本拠地であった。小室氏は治承4(1180)年木曽義仲軍に加わっている。「小諸市誌」によれば、小室太郎光兼は源頼朝の御家人となり、奥州藤原泰衡征討のため出陣を命じられている。建久8 (1197)年3月、頼朝は義光寺参詣の途次、小諸城跡の東側にあったといわれる光兼の当坂の館を宿舎にしたという。小室氏は滋野氏の一族であったため、南朝方の新田義興に属し滅んだとも、大井氏に討伐されたとも言われている。
小室氏は鎌倉時代末期、小室光兼の子孫小室太郎が諏訪大社の祭事の頭役 (とうやく)となっている。諏訪大社の花会・五月会・御射山会 (みさやまえ)などの祭祀費用は、信濃一の宮であれば、信濃国内の国衆が負担し、それを負担する領主を頭役と呼んだ。頭役は、一年前に決まり、明年の頭役が決まると「諏訪大社」から文書が届けられ、それを「御符」といった。「御符」を受け取った明年の頭役領主は、諏訪神に礼銭を差し出した。その礼銭を「御符礼」といった。これを記録したのが「諏訪御符礼之古書」で、室町中期の文安3 (1446)年から延徳元(1489)年までの44年間の頭役の郷名と領主名が記されている。頭役は、自らが属する郷村全体を仕切る奉仕者であるから、祭祀費用額は、郷村内の水田面積を基準にして課せられた。「諏訪御符礼之古書」は、内容が極めて客観的な記録であるため、重要な史料となっている。
「諏訪御符礼之古書」によれば長禄3(1459)年「源徳増丸、依田初めて当、頭役20貫」とあり、寛正7(1466)年には「大井尾張守光頼(中略 )・・・頭役10貫」とある。小諸も南北朝争乱期に、大井氏支配となり、その一族で幼年の徳増丸が初めて頭役を務め、執事の依田氏が補佐したようだ。
大井持光の勢力は、上州にまでも及んでいた。依田光慶は、天文7(1538)年には、依田内匠頭忠政が文安4(1447)年に完成したといわれる後閑城 (安中市中後閑)から板鼻(安中市板鼻)の鷹巣城へ城主として移っている。
芦田氏は戦国時代に至るまで、大井氏の家臣となり執事職を務めていた。文明16(1484)年10月23日の信濃の禅僧知客(しか)の談話の中に「大井の執事は芦田殿と相木殿」とある。芦田氏は、大井氏の最高位の重臣となっていた。かくして大井氏は依田長窪(小県郡長門町古町)に進出して長窪城を築き依田支配の拠点とし、その勢力は佐久郡内に大きく伸張した。
長窪城は中山道以前の古道・大内道(おおないどう)入口の要衝で、守護政康が本拠の府中から武石峠、長窪古町、岩村田、碓氷峠を越え上野国下仁田へ進軍する要路を固めた。
17)大井氏宗家の全盛
嘉吉2(1442)年8月9日、信濃守護小笠原政康が、小県郡海野で病没した。享年67歳であった。結城合戦では陣中奉行を務め、その終結に伴う事後処理を完結させ、漸く関東の陣を引き払い戻る途上に病んだようだ。生前、将軍義教の意向により信濃守護権を確立し国人を統制し、鎌倉公方持氏の討伐軍では、その尖兵として鎌倉で戦功を挙げている。
その死後、惣領家の相続を府中(松本)と伊那(飯田松尾城)を本拠とする2家に分かれて争った。
文安3(1446)年、伊那を本拠にする政康の子宗康が、府中に拠る政康の兄長将の子持長と前光寺付近で戦い敗死した。以後も一門の家督争いが止むことなく続き、信濃動乱となり戦国時代を迎えった。またこの年、佐久平賀で乱があって、大井持光に平賀氏が滅ぼされている。
嘉吉の乱で将軍義教が殺害され、そのあとを8歳で継いだ義勝も2年後に病没した。その弟義政が、またも8歳で家督を継ぎ、宝徳1(1449)年4月元服、4月29日征夷大将軍を宣下され、8代将軍となった。その間管領家の畠山と斯波両氏が、それ以前から続く家督争いで没落し、室町幕府は、辛うじて維持されている管領家細川家だけが頼りとなる。
その間、関東も有力国人間の争闘と管領家上杉の同族争いが止むことはなかった。上杉一門や有力国人は鎌倉府を再興させなければ収拾がつかないとして、京在住の有力守護家を通して幕府に働きかけていた。永寿丸王を庇護する大井持光も、義教謀殺を好機として、持氏旧臣たちの関東公方再興の願いを背景に、嘉吉の変直後から鎌倉への帰還活動を積極化させていた。漸く永寿丸王の鎌倉公方就任が決まった。文安4(1447)年、永寿丸王は8年間身を寄せていた安養寺に別れを告げ、岩村田の大井持光の館で威儀を整え、7月には鎌倉へ迎え入れられた。文安6年6月、16歳で元服し、将軍義成(よししげ;よしまさ)の偏諱を受けて足利成氏と名乗った。
現鎌倉公方を没落の時期から支え続けた大井持光の威勢は、鎌倉公方足利成氏(しげうじ)の勢力を背景として全盛期を迎えた。「京都参勤千騎、在国6千騎、一族の輩岩尾・長窪・矢島・安原・清川・内山・平賀・今井・根井・耳取・両小諸・和田があり、家臣団の主なものとして、芦田・阿江木・依田衆・志賀筑前・長尾安芸(手代塚)・平尾・柏木・平塚・板鼻(群馬県碓氷郡安中市)・後閑(ごかん;群馬県利根郡みなかみ町後閑)・武石・百沢・・・」と記されている。後閑城により持光の勢力が、上野国の現沼田市の西方までに及んでいた事が分かる。天文7(1538)年、依田氏は板鼻鷹巣城に移っている。
永寿丸王は、鎌倉公方になるべく鎌倉に帰り、翌年元服し成氏と名のった。しかし父持氏を討った上杉憲実の子である関東管領憲忠(のりただ)と不和になり、享徳3(1454)年憲忠を殺害し、享徳(きょうとく)の大乱を引き起こした。この結果幕府の追討を受け、康正1(1455)年今川範忠(のりただ)の攻撃を受けて鎌倉を逃れ下総の古河に拠った。これ以後、ここを本拠として反幕府・反上杉氏の行動をとり古河公方と呼ばれた。
文明9(1477)年、成氏は幕府へ和睦を申し出て、文明14(1482)年11月、京都の将軍家と古河公方の和睦、「都鄙(とひ)合体」が成立した。栃木県下都賀郡野木町野渡の満福寺内にある五輪塔が成氏の墓と伝えられる。成氏の没後、大井氏はその頃を頂点として、以後大井氏の勢力は下降した。
18)大井氏宗家の滅亡
村上信貞は建武2(1335)年、足利直義から恩賞として塩田荘を与えられ、一族の福沢氏を代官として派遣していた。
寛正6(1465)年5月5日、幕府政所執事伊勢貞親は、大井持光の子政光が馬を贈った礼状に応え、埴科郡舟山郷入部を認めた。政光は、寺社参詣の名目で、重臣相木越後入道常栄に書状を託し、同年7月2日、舟山郷入部を再度、伊勢貞親に質している。舟山郷は、かつて平家没官領から信濃春近領の一つ鎌倉将軍家領となっていた。南北朝時代、室町幕府は守護領とした。その領域は、坂城の南で隣り合う現更埴市屋代から現千曲市の戸倉の中間と、同じく現千曲市の小船山・寂蒔(じゃくまく)・鋳物師屋付近であった。舟山郷は、南北朝時代、守護所が置かれていた。至徳年間の1384~87に守護所が平柴(長野市)へ移った。以後、舟山郷は市河氏や倉科氏の預所(あずかりどころ)になっていた。
「諏訪御符礼之古書」によると、舟山郷の頭役(とうやく)は文安6(1449)年から康正2(1456)年の間、海野氏の代官が担い、寛正2(1461)年以降は村上氏の一族の屋代信仲が務めている。『御符礼』とは、上社が翌年の頭役へ御符即ち差定書を届け、この差定の文言に従い、頭役が担当する祭事の際、『御符』を捧げて諏訪郡内に入部した、『御符礼』はその礼銭のことである。舟山郷は海野氏が領有していたが、やがて村上氏に奪われた。屋代信仲は、現在の屋代駅付近の一重山(ひとえやま)に屋代城を築き支配していた。
幕府は反幕的な村上氏や高梨氏に対抗させるため、大井政光に舟山郷を支配させようとした。寛正6(1465)年5月5日、幕府政所執事伊勢貞親は、政光に舟山郷入部を申し付けた。それを援護するため幕府は小笠原光康と越後守護上杉房定に、村上政清と高梨政高の討伐を命じた。
高梨政高は古河公方足利成氏と通じていた。越後守護は上杉右馬頭を大将として高梨の本拠の高井郡を攻め込ませたが、高橋(中野市西条)で逆に討ち取られている。その後文明17年まで屋代信仲が、諏訪上社の頭役を務めている。大井政光は村上政清に、自力では対抗し得なかったようだ。
村上氏は、応仁元(1468)年の頃、既に更級郡村上郷から坂木(埴科郡坂城)に本拠を移していた。坂木は千曲川東岸で、塩田荘の対岸に当たる。海野氏は北側両面から、その圧力を受けることになった。
関東公方足利成氏没後北信の坂城の村上頼清が、塩田荘塩田城(別所温泉周辺)を拠点に伸張してきた。文正2(1467)年海野荘を攻め海野氏幸を破り、翌応仁元年10月18日、氏幸を討死にさせ、翌年には海野氏の佐久郡内の城と所領を奪い尽くした。
その勢いのまま村上勢は大挙して佐久郡内に攻め込んだ。佐久郡の代表的史家である岩村田出身の学者吉沢好兼(たかあき;宝永七年~安永五年)の著「四鄰譚藪」には、村上氏が1万騎を率い大井氏を攻め、大井原でこれを撃破し岩村田城下にまで攻め込んだ、大井氏は甲州へ逃れたとある。その影響により「妙法寺記」には、文明元(1468)年や文明4年に大井氏など佐久の国人衆が甲斐国に攻め入り、文明9(1477)年4月12日には、甲斐勢が佐久に侵攻して敗北した記録が残されている。
当時甲斐守護武田氏の力が弱く、隣接する佐久からも侵攻されていた事が分かる。この甲州勢の報復的な佐久侵攻に際し、佐久郡南部の相木谷を本拠とする大井氏重臣の相木氏が軍勢を集め、現南牧村の平沢やその北隣り現野辺山の矢出原で撃退したようだ。当時の武田氏は甲斐守護の職についていたが、それは名ばかりのことで、武田氏に甲斐一国を平らかにする力は無かった。国内は、麻のように乱れていた。しかし、若い守護職の武田信昌が、長い間専権をふるっていた守護代跡部氏を、寛正6(1465)年、西保小野田城(東山梨郡牧丘町)で討ちとり、下剋上の芽を刈り取ったが、その後も有力国人や対外勢力の侵入に悩まされていた。未だ守護大名化には、程遠い情勢下で苦しんでいた。
大井持光から大井惣領家を継いで30年近くなる政光が、翌文明10(1478)年、死んでいる。政光の後嗣が若い大井城主政朝で、翌11年7月、佐久郡内の同族、大井・伴野両氏は諏訪上社御射山祭の左頭・右頭として頭役を勤めていた。ところが、その1か月後の8月24日の合戦で、大井氏は前山城の伴野氏との戦いに大敗し、政朝が生け捕りとなり、大井氏の執事相木越後入道常栄(つねよし)を初め有力譜代の家臣が討死を遂げた。この戦いには、伴野氏方に、大井氏に度々侵攻され劣勢にあった甲斐の武田氏が、報復として加担したといわれている。生け捕りとなった政朝は佐久郡から連れ出されたが、和議が成立して政朝は岩村田に帰ることができた。以後、政朝は勢力を回復できぬまま、文明15年(1483)若くして死去した。子がなく、幼弟の安房丸が継いで大井城主となった。「四鄰譚藪」には「大井孤城となる」と記している。
翌年、村上氏の軍勢が佐久郡に乱入し、2月27日、岩村田は火を放たれ、かつて「民家六千軒その賑わいは国府に勝る」と評された町並みは総て灰燼に帰した。大井城主は降伏し、大井宗家は村上氏の軍門に下った。
村上氏は、南北朝時代の末期に埴科郡坂城を中心に勢力を拡大し、嘉吉元(1441)年将軍足利義教が殺され、翌年守護の小笠原正透が死ぬと信濃国内が騒然となり、その混乱に乗じて自領を拡大した村上政清、義清の時代、北信で最大の雄となった。村上姓の由来については、信濃国更級郡村上郷の地名からとされる。
その村上政清が、この代替わりを好機とし、大挙して大井城を襲撃した。大井氏には、往古以来の有力な家臣が潰えた凋落時、既にこれを撃退する力はなかった。そして、大井城は落城「城主没落にあいぬ」「この節大井殿は小諸へお越し候え在城なされ蹌踉」とある。
かくして、大井朝光が大井城に居住してからおよそ260余年、城は落ちた。しかし、大井宗家は滅びてはいない。その宗家一族の所領の殆どが失わているが、その血脈は存続し、岩尾・耳取・芦田・相木など、各地に居住する一門・家臣の所領は辛うじて維持されている。現代にもその地名を留めている。
宗家は滅亡したが、長窪大井氏の大井玄慶(安房丸の子・政信との説もある)が大井城を継ぎ、先述する岩尾・耳取・芦田・相木など一門が存続した。これら遺された一族の殆どが、最有力豪族村上氏の傘下で一族の存続を全うしたようだ。また依田氏など、大井氏に従属していた有力諸族の多くも、村上氏の麾下とならざるを得ず、実質的に佐久郡の大半が村上氏の勢力下に置かれた。
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