日本古代への影響     Top
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 弥生時代は、古墳時代が始まるA.D.3世紀(西暦300年)ころまで続く、水耕稲作と金属器の使用に特徴づけられる時代である。
    前期 B.C.350~B.C.200
    中期 B.C.200~紀元前後
    後期 紀元前後~A.D.250
       の3時期に区分される。
 日本はユーラシア大陸の極東と日本海を挟んで接すつ地政学的なロケーションから、大陸全ての文化の「吹き溜まり」として、たえず様々な文物を受容してきた。
  日本への稲作も、陸稲栽培を含めれば数千年に亘って伝来している。長江流域の稲作技術が、最も早く伝来した。一方、鉄器文化にしても、朝鮮半島には、B.C.7~6世紀、広大な中央アジアの西トルキスタンから、タリム盆地の北辺を限る天山(てんざん)山脈の北方を通り、モンゴル高原を抜け、直接、中国・遼寧省地域に至るステップ・ルートの交易を通して、その延長上で伝播しており、日本列島への伝来も、相応に早かったと思われる。
 佐賀大学農学部の和佐野喜久生教授は、稲作の伝播ルートについて、日中韓3ヵ国の炭化米を対比調査し分析した結果、同じ短粒米であっても、玄界灘沿岸方面で検出されたものは、丸く小さい、対して、九州西岸や有明海沿岸のものは、やや長めで大きいことが分かったと研究発表している。 そして、玄界灘沿岸は同時代の朝鮮半島の炭化米に近く、九州西岸や有明海沿岸は中国長江と淮河流域のものに近かったという。「稲の道」が2ルート存在していたことが、炭化米により明らかになった。
 即ち、前者は、中国の華北、山東地方から朝鮮半島を経て北九州(玄界灘方面)に至る「朝鮮半島ルート」である。後者は、中国の長江流域の江南地方から東シナ海を渡って、九州西岸や有明海へ入って来る「江南ルート」である。
 また北部九州の渡来系弥生人と同時代、大陸で居住する人骨相互の、ミトコンドリアのDNA分析の結果が公表されている。中国山東半島や江南地方の出土人骨と親縁性が、極めて高かったようだ。同じ北部九州の渡来系弥生人でも、北九州タイプは、長身で顔が細く華奢、山東、朝鮮半島から東北系に似て、西北九州タイプは、横幅が張った彫りの深い顔で、江南地方系に似ている。
 目次
 1)日本の稲の伝来
 2)長江の稲作と都市文化
 3)金属文化の伝来
 4)東方ルート
 5)北方ルート
 6)環濠集落の二重環濠の意味

 1)日本の稲の伝来
 玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡は、湖南省道県にあり、B.C.14,000年頃~B.C.12,000年頃の洞窟遺跡で、1993(平成5)年と1995年に発掘調査された。稲の籾殻が検出されたが、農具が未発見で、栽培稲かは確定できていない。しかし、中国における土器の起源については、暦年代2万年~1万8千年前の最終氷期最盛期後半にまで遡る物が発見され、南部では広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大譚遺跡では暦年代2万年前に遡る土器が発見されている。中国南部では陸稲作なされ、稲の栽培文化が更に遡るようだ。
 仙人洞・呂桶環(せんにんどう・ちょうようかん)遺跡は、江西省万年県でも、1993年と1995年に発掘された。B.C.12,000年頃の旧石器時代末期から新石器時代初期にかけての洞窟遺跡である。石器や大型動物の骨による骨製器や、丸底土器の破片、栽培稲の痕跡が発見された。それにより、中国の農耕が、他地域から伝播して来たのではなく、中国に起源があり、なお且つ、最古のものの一つであったことが確認された。
 八十ダン(はちじゅうだん)遺跡は、湖南省常徳市?(れい)県で1996年に発掘され、B.C.8,000の籾殻が検出、それは栽培稲の形態であった。2,011年11月24日、中国新聞社が「長江中下流にあたる洞庭湖へ向かう水(れいすい)が流れる湖南省常徳市臨水県新安鎮杉竜村の杉竜崗遺跡で、22日、湖南省文物考古研究所・ハーバード大学・北京大学・ボストン大学が稲作農業の起源を探るために結成した中米合同考古学チームが、B.C.7,000の炭化した籾6粒を発見した。」と報道した。

 それまで、水の補給を考えて、住居地は山間部の水辺が適地とされていたが、灌漑農法の確立により、大規模な農耕が可能な平野部へ移動し始める。
 屈家嶺(くつかれい)文化は、湖北省京山県で1,950(昭和25)年代に発掘され、既に稲の痕跡が発見された。B.C.3,000年代前半の文化であった。長江の支流、漢水の流域で、武当山、荊山、大別山等に囲まれた、河南や陜西の省境の近くにある。仰韶(ヤンシャオ;ぎょうしょう)文化との地理的関わり合いが推測される。土器では、直径90cmの鍋、高脚が40cmある鼎、口径50cmを超える甕等で、器壁が1㎜から2mmの薄さであるから、轆轤の使用が想定されている。
 石家河(せつかが)文化は、屈家嶺文化から発展し、B.C.2,500年頃に、湖北省天門県石家河に大規模な都城を造営している。湖北省天門市を中心とするB.C.3,000~2,000の文化で、長江中流域最大級の都城遺跡である。この都城壁は南北1.3Km、東西1.1Kmという大きさで、城外から水を引き込み、運河として使用した跡がある。中心部には宮殿址と思われる遺構もあって、土器、塑像、紡績の用具、玉器が出土している。石家河の住民は苗族とされ、黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と推定されている。黄帝に代表される依然として原始的な黍・稗・粟など畑作が主体の黄河流域の民族と死闘を繰り返していた。
 中国古代の三皇時代、伏羲(ふっき・ふくぎ)氏、女渦(じょか)氏、神農(しんのう)氏の3代の苗族の首長が、稲作文化を伴い、中原まで長江文明の支配領域を広げるが、B.C.2,500年頃、中華に五帝時代の最初の帝・黄帝が、黄河文明の最初の英雄として登場する。
 黄帝は、まず天子・神農氏一族を坂泉の野で3度戦い駆逐する。以後、神農氏の子孫に代わり黄河中流域で天子となり、その時代の苗族の英雄・蚩尤(しゆう)と琢鹿(たくろく;河北省と遼寧省の省境付近)の野で決戦となり勝利する。
 以降、中華は五帝時代となる。だが当時、黄河流域は寒冷化に直面し、農耕民の耕作地の放棄といった事態にいたるまで悪化した。この後、黄帝時代以降の中原の五帝勢力は、軍事力により長江流域を支配し、亜熱帯地方の稲作文明に代表される豊かな生産力に依存するようになった。
 この時既に、丸木舟や櫂など駆使した海洋民族でもあった苗族が、中原による植民地的支配を嫌い、黒潮の潮流を利用し日本に漂着したようだ。その時に野生種の「イネ」が生息していない日本列島に、「イネ」がもたらされた。

2)長江の稲作と都市文化
 長江下流域の浙江省余姚市河姆渡鎮浪墅橋村の河姆渡(かぼと)遺跡が、昭和48(1973)年~78年にかけて2,810㎡が発掘された。遺跡はB.C.5,000~4,000と推定され、四つの古文化層が重なり、厚さは4m位にもなっていた。それは高度な稲作文化を証明する圧倒的な出土量であった。 1973年の発掘だけで、遺跡からの稲の籾の量は150トンにのぼったと報告されている。その上、保存状態が良好で“7,000年前の文化の寶庫"とまで称されている。大量の稲籾、籾殻、稲の茎などが、豆類やはと麦などの栽培植物と一緒に70cmを超える層で堆積し、その中には稲作工具である木製の鋤や木製の柄を付けた170個余の水牛の肩胛骨製の鋤が混在していた。また第二文化層で発見された木造の浅水井戸は、現在では中国最古の井戸遺跡といえる。
 河姆渡の先住民は既に水稻栽培を行ない、その住居は高床式であった。高床式住居を、中国では「千欄」という。第四文化層で大量の杭、梁、柱等の木材が発見され、それは千欄式長屋の建造用材で、中国で最も古い「ほぞ構造」であった。つなぎ合わせる木材双方に、凸部と凹部を加工して、差し込むというものである。「ほぞ構造」と干欄式建築は、多雨な長江以南地方の代表的な建築形式で、その起源であったようだ。富山県小矢部市(おやべし)桜町遺跡からは、渡腮仕口(わたりあごしくち)の技法による高床式建物の柱材が出土している。それは一方に凹型に片方を凸型に切り込みをいれ、双方の木材を頑丈に組み合わせる工夫であった。平成8年から再開した調査でも、縄文時代中期末~後期初頭に亘る様々な加工を施した多量の木材等が新たに出土している。岐阜県高山市久々野町の堂之上遺跡(くぐのちょうどうのそら)は飛騨川上流、標高約700mの高地にあり、その遺跡の縄文中期の火災住居跡からほぞ穴のある建材が発見されている。河姆渡遺跡との関連が想定できないであろうか?
  河姆渡遺跡からは大量の動物骨も出土し、象、犀、虎、狼、熊、鹿、猿、貝、亀、鰐等と各種の魚類及び烏類の骨もあった。同時に、犬・豚・鳥ばかりでなく、水牛の家畜化も行われていた。極めて高度な民間文明が育まれていた。
 遺物には、石器の他に大量の骨で作った器具、たとえば骨の矢、笛、針、鑿等の用具が入念に研磨され、陶器の斧、罐、鉢、盆、盤等が精巧に作られていた。
 その豊富な原始芸術品は、彩陶、木のオール、玉と象牙の藝術品、最古の漆制品、各種玉器等、多分野にわたっていた。大量の陶器、骨器の図案には、花紋、鳥紋、猪紋、稻葉紋、月、太陽等があリ、原始芸術の粋を集めたものといえる。
 発見当時、世界最古の漆器として話題を呼んだ河姆渡遺跡の赤漆塗り木製椀(わん)であったが、河姆渡文化圏の遺跡群では、漆製品は少なく、質的にも粗雑で、良渚文化に至って多種多様、且つ高度な漆製品が作られるようになる。それでも河姆渡から良渚へと、漆の起源を知る重要な手掛かりとなった。
 豊かに茂る森と、それに涵養された河川に囲まれた長江流域の稲作・漁労民は、太陽・樹木・鳥・目玉などを自然を精霊として崇拝していた。河姆渡遺跡の象牙に刻まれた「双鳳朝陽文」にみる、太陽の火炎を中心に二羽の鳥が向かい合っている図は、そうした稲作民の信仰を象徴している。
 太陽の軌跡は、いつの時代であっても、稲作農民の生産のメルクマ-ルである。いつ種籾を播き、いつ苗床をつくり、いつ田植えをし、いつ刈り取るかという農作業は、極めて綿密な気象分析が必要であり、その指標が太陽の循環でる。
 鳥の姿は、長江流域の鵜飼漁とも結びついていたようだ。大河の漁業資源は日々なじんでいた大切な食糧源でもあった。目玉信仰は、神々の目であり、人の目であり、実りの稲穂に襲来する野鳥と野生動物の目でもあり、その意識を読み分ける表象となった。五感の働きが研ぎ澄まされている古代人にとって、十分に、それぞれの観念的で捉えていようだ。
 こうした太陽や鳥や目玉の信仰は、河姆渡遺跡ばかりではなく、長江中流域の湖南省高廟遺跡や上流域の三星堆(さんせいたい)遺跡にもみられる。それと同時に各地の遺跡から丸木舟や櫂などと一緒に鯛や鮫の骨、鯨の背骨も出土している。それは南方の稲作民であると同時に、漁労を営む海の民であり、広大無現に広がる川の幸に依存する民でもあった。
 長江文明は、初期段階から稲作を生業の中核にする事で大発展した文明であったようだ。畑作・狩猟・河川猟を中心とする黄河文明とは起源を異にし、農耕も独自の発展過程をたどっていた。長江文明の発見から、ジャポニカ米の稲の原産が長江中流域とほぼ確定され、稲作の発祥もここと見られ、日本の稲作の初源と見られている。
 その後、昭和63(1988)年に彭頭山(ほうとうざん)遺跡が発掘された。湖南省県(れいけん)の洞庭湖の西に広がる陽平原にあるB.C.7,000~B.C.5,000年の稲作文化遺跡で、環濠集落であり、住居跡、ごみ捨て場、墓、丸底土器、炭化した稲粒や籾殻が発掘された。種子を一様に直播をする散播(さんぱ)農法が行われた、発掘当初は中国に於ける最古の水耕稲作とされた。

 『漢書(かんじょ)』は前漢時代のことを記した歴史書であり、後漢の陝西省咸陽市の東扶風安陵(ふふうあんりょう)の人、班固(はんこ;A.D.32―92)が撰著した。班固による20余年の著作ではあるが、父の班彪(はんぴょう)が『史記』の続編として書いた『後伝(こうでん)』64編が基礎となっており、八つの年表と天文志の部分は、班固の死後、妹の班昭(はんしょう)などにより補われたものである。
 その『漢書』の「地理志」に「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」とあり、「然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。故(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ」
 「欲居九夷」とは、「東方九夷」の世界に、天下に「道」が行われないことに絶望した孔子が、「東方九夷」の世界への居住を考えた。「東方九夷」の中には、海の彼方にある朝鮮半島や日本列島も含まれていた。「九夷」とあるが、「九」とは「多数」を意味し、実際に「九つの異民族」を指すわけではない。当時、まだ中原文化の及んでいなかった中国東北沿海部や朝鮮半島、日本列島など中国東方に居住していた諸民族、さらには彼らの居住していた広大かつ漠然とした東方地域全体を指す言葉であった。
 『漢書』では、「樂浪海中有倭人」とあり、倭は朝鮮半島の南の海の彼方にあると記している。

 後漢代の1世紀に『論衡(ろんこう)』を著した王充(おうじゅう)は、会稽郡上虞浙江省(じょうぐせっこうしょう)の人で、『漢書』の著者班固より5歳年長の先輩で、知人であった。
 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶(周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草(または暢草;ちょうそう;長寿の薬草か)を服用するも、凶を除くあたわず)」という。迷信や不合理を批判した一例である。いずれにせよ、王充の時代には倭人は古く周代から大陸との関わりを持ち、倭国から周に朝貢していた事がしられていた。
 「周時天下太平 倭人來獻鬯草」(論衡5卷異虚篇第18)に周の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず。
 「成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(論衡19卷恢国篇第58)成王(姫誦、在位A.D.1021年? - A.D.1,002年?)の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず。
 「周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(論衡8卷儒増篇第26)周の時は天下太平、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。
 「倭」が中国史に登場する時代が明確になるのが、周代の成王であれば、日本では縄文時代後期末葉である。到底、当時の「倭」が、日本列島を統治出来るわけがない。『論衡』に登場する「倭」とは、長江上中域で稲作文化を繁栄させた描族の流れで、華南・華中の沿岸部に達し、水田稲作を基盤しながら、沿岸貿易を広く拡大させていったようだ。
 中国南朝の梁の沈約(しんやく)が487年に著す『宋書(そうじょ)』の倭国伝で「倭国在高麗東南大海中、世修貢職(こうしょく;みつぎとして、献上する物)」とあり、倭国が日本列島の大和国であると認定されている。「倭」のルーツは描族なのであろうか?

 3)金属文化の伝来
 現在までの調査によれば、中国では、その最古の文明は長江中流域で起こり、稲作が創められ、水田稲作文化の起源とまでいわれています。次いで、黄河下流域では粟作が始められ、南北の両大河沿いに諸文化圏が勃興していった。実は、もう一つ、早くからの文明地域があった。東西文化の交流により涵養された中央アジア文化が、「シルクロード」の1つステップ・ルートによる伝播し東端に、遼河流域を中心とする遼寧文明を成長させていた。早くから発達した中央アジア流域であったが、共通の文字文化を有しなかった。それで、史跡以上の伝承がないのでる。
 新石器時代の中央アジアでは、既に、我々が想定する以上の早い段階から、東西を結ぶ二つのルートが確立されていたようだ。世界史的にも、海上交易が広域的に展開できるほどの技術がない時代、これ以上の交易と文化の伝播ルートは、存在しない。一つは後世に「シルクロード」の1つオアシスルートと呼ばれる、 広大な中央アジアの西トルキスタンから新疆ウイグル自治区にある世界最大の盆地・タリム盆地を経て中国中原に至るルート。
 もう一つが、タリム盆地の北辺を限る天山(てんざん)山脈の北方を通り、モンゴル高原を抜け、直接、中国・遼寧省地域に至る草原のステップルートである。 そのステップ・ルートにより、B.C.6,200紀、興隆窪(こうりゅうわ)文化が最初に結実する。
 金属文化の伝来は、環壕(濠)集落のルーツに通じるのではないかと思われている。そのルーツを大陸に辿ると、最古の環壕集落が内蒙古自治区に集中している。 そのうちの赤峰(せきほう)市興隆窪遺跡の集落は、韓国や日本の弥生時代の初期環壕集落の原型を見るようだと言われている。径は183×166mの楕円形で、B.C.6,200からB.C.5,600年代、日本では縄文時代早期である。
 当文化の範囲は、遼河流域および大凌河(ダリングホ)流域を中心として、北は吉林省の南西部辺縁にまで達し、南は燕山南麓の広大な区城内にまで広がる。これが南下して、B.C.4,500代に仰詔文化圏の西安市半坡(はんぱ)遺跡に、博多区の板付遺跡と同様の外壕と内壕の2重構造の環壕集落を築造させた。
 古代内蒙古の環壕集落は、更に2ルートで伝播した。黄河流域に伝播し、山東半島から朝鮮半島南部へ、そして北部九州へと辿る東方ルートである。もう一つは、渤海湾の北から黒龍江省を北上して、沿海州から樺太経由か、直接、日本海から渡る北方ルートである。
 
 4)東方ルート
 1,990年、大韓民国の南東部に位置、日本海に面し、釜山市から北へ70km離れている慶尚南道(キョンサンナムド)蔚山(ウルサン)市の検丹里(コムタンニ)遺跡で、環壕集落が見つかり、その文化が水稲農耕とともに朝鮮半島南部から日本に伝来した事が明らかにされた。
 検丹里遺跡は、無文式土器時代中期のB.C.5世紀~B.C.4世紀初め頃の環壕集落であるから、その年代から言っても北部九州の環壕集落の元になっていると言えるでしょう。しかも、低い丘陵上に作られた環壕は、幅2m、深さ1.5m、集落規模は平面119×70mの楕円形で、その規模や様相も博多区板付にある遺跡と類似している。
 内側には土塁があり、環壕の内部には一時期に7軒以上、外側には10軒以上の住居跡があった事が推定されている。水田稲作地帯と共に、村を壕で囲むという技術と発想、そして村内を更に壕で分けるという階層的区分も、同一種族の環壕集落とまで予想されている。
 B.C.8世紀頃からみられる水稲栽培と、B.C.5世紀頃の金属文化の定着化により、生産力が向上して生活基盤が安定し、人口が増加して集落の規模が拡大する。やがて、新興勢力と既存の縄文勢力相互で、水稲と畑作の適地の争奪戦が熾烈になる。当時の環壕集落の意味するものは、その緊迫した社会情勢であった。
 やがて、本格的に使用される鉄製武器は、東アジアの争乱を一層過激化し、優れた大量の鉄製武器を所有する経済力のある首長が、他の集落を統合し拡大し、その過程で各地に勃興する大首長層を纏め上げて、小国家を形成していった。日本の弥生時代も、同じ経過を辿った。
 また、検丹里遺跡では、遺物としては丹塗(にぬり)の磨研土器、無文の土器等の198点、石器には石鏃他、粗手斧、各種の石斧、半月石刀等の農具と考えられる224点が出土している。
 日本列島に水田稲作を核とする農業生産が、広く展開し始めたのは、中国大陸における春秋戦国時代から秦漢帝国の統一という、東アジア全体の激動期が画期となり人と文物が大規模に移動した結果による。
 明刀銭と呼ばれる戦国時代のに、文字通り刀形の銅貨が使われた。戦国中期の燕の桓公(B.C.372-362)の頃に現れ、戦国後期のB.C.226年まで流通する貨幣である。北朝鮮平安北道渭原郡の龍淵洞積石塚古墳では積石の墳墓から400枚の明刀銭が埋納されていた。同時に鋳造鉄斧が伴出した。平安北道寧辺郡の細竹里遺跡では住居址付近の土坑から50枚づつ束ねられた2,500枚余りの明刀銭が発掘された。そこからも鋳造鉄斧が出土し、日本の舶載鋳造鉄斧の好例といわれる福岡市博多区の比恵遺跡(ひえいせき)のものと類似している。日本列島本土での発掘事例は未だないが、既に大正12(1,923)年、那覇高校向かいの城岳貝塚で、旧制・那覇商業高校の3名の生徒が明刀銭を発見している。B.C.4世紀になると、朝鮮半島北部で、鉄器の使用が本格化していた。その明刀銭と共に、鉄器製の鎌・鋤・鉋(かんな)・斧・矛・鏃等が北部各地で出土している。B.C.2世紀には、それが南部にも普及した。
 ただ朝鮮半島の20地点でボーリング調査を実施し花粉分析をした結果、朝鮮半島における稲作の開始は、半島の南部の方が早く、北部に行くに連れて遅れている。朝鮮半島の北部の気候は、亜寒帯から寒帯にあり、山地が多いため夏も冷涼である。南部は温暖で、しかも湿潤で夏は蒸し暑い、水田稲作に適している。
 朝鮮半島南部の初期の農業生産は、水田稲作と畑作が一体的に営為されていた。古代日本の農業も、縄文時代の「畑作栽培」を継続しながら、、水田稲作や漁労などを伴う複合的な生産活動が行われていた。コメだけに依存することなく、寧ろコメ以外の食料の調達と摂取が、全体的に比重が大きかった。
 佐賀県唐津市西南部にある菜畑遺跡(なばたけ)の最古の水田期は、縄文晩期後半に遡り、イネの花粉と共にアワ、アズキ、ヒョウタン、メロン、ゴボウ、シソなど主に畑で栽培される種子や、カタバミ、イヌホウズキ、ナズナ、ハコベなど畑雑草の種子が数多く出土している。これは、植物採集・漁労など伴う従来からの畑作に加えて、水田稲作が、小規模に導入されたと考えられる。畑作の幾つかの作物は、水田稲作に同伴してきた可能性もある。
 その上層になる縄文晩期末には、畑雑草が減少し、代わって水田雑草の花粉や種子が急増する。水田稲作が本格化したようだ。
 「魏志倭人伝」に記される「末廬国」は、菜畑遺跡がある唐津を含む松浦半島東側一帯の古代のクニであった。

 5)北方ルート
 昭和57(1,982)年に苫小牧市の東部、静川で石油備蓄基地の建設中に発見された静川遺跡群は、B.C.2,000代の縄文中期末にまで遡る環壕集落であった。壕の深さは1~2m、幅2mのV字の空堀です。壕の長さは140mにわたり、南・北東の2か所に幅1m弱の「出入り口」を備えている。平面は瓢箪形で、内部の面積は約1,600㎡ある。
 炉を持たない直径8mほどの2棟の大住居跡が環壕内にあり、隣接する丘陵には26軒の住居跡が確認され、そのうち15軒が同時代とみられ、少し離れた静川25遺跡では24軒の同時代の住居跡が見つかっている。縄文時代における一時代の住居址としては、極めて大規模である。墳墓、落とし穴、土器片囲炉等も発掘された。
 静川環濠遺跡から20kmほど離れたところにある千歳市の丸子山遺跡でも、同じく縄文中期末葉にまで遡る環壕集落があり、60×70mの「おむすび」形で、独立丘陵の北半分を仕切るように壕が巡らされていた。弥生時代の環濠集落と違い、壕内には同時代の住居址が発見されていない。しかも、この原始の時代に、人口密度が極端に希薄な北海道で、なぜ環壕集落までも造成したのか。侵入する動物対策であれば、簡単な囲い柵程度で足りているはずだ。
 環壕は弥生時代には多くみられるが、日本列島では北九州で縄文時代晩期(B.C.4世紀)に環濠集落が登場する。通常、縄文人のムラは環濠を造らない。高度な道具を持たない縄文人が、石や木の道具だけで環濠を造作するためには、長い歳月と多くの人手を要したはずだ。
 弥生時代の環濠のように集落を外敵から守る壕ではなく、神聖な祭祀的空間を聖域として取り囲む壕だとみられている。それにしても、当時の北海道の文明段階と希薄な人口密度を鑑みると、余りにも規模が大き過ぎる。

   ここに、粛慎(しゅくしん、みしはせ、あしはせ)の姿が見えてくる。現在の中国東北地方・ロシアの沿海地方に、古くから住んでいたとされるツングース系民族の存在である。中国東北地方に残る粛慎は、前漢代以降は同属の扶余に従属していたが、同化せず、しばしば反抗を繰り返している。
 その後は高句麗に一部は吸収されるが、後世、靺鞨(まつかつ)として『渤海』を建国する。別流は女真族として、現代の黒龍江省・吉林省・遼寧省で長く独自の文明を育んでいた。12世紀建国の『金』『清』の王族も、女真族であった。満洲に居住していた靺鞨が、女真と称されたようだ。
 その一族が、日本の縄文時代に樺太の北部と東南部にも広がっていった。さらにこのツングース系民族が、既に縄文時代から、樺太から北海道に渡っていた。
 阿倍 比羅夫は斉明4(658)年から6年にかけて、越国守に任じられ、その国内の兵士を中心にして、服属した蝦夷も動員して日本海沿いに3度の遠征を行いる。その3回目の遠征で、渡嶋(わたりしま;北海道)の蝦夷に遭遇し、この遠征で唯一の武力衝突を粛慎とする。最後は、粛慎を服属させ、朝貢までさせたという。
 国境の無い時代、自らの一族の生存を維持するため、現代人には想像できないほどの民族の大移動が、世界的にそれも遥か遠方へ、大規模に行われ続けられていた。また漸く到達した新天地も理想郷ではなかった。常に現地民との軋轢が絶えなかった。その防衛手段が環壕集落であった。新天地であれば極めて警戒的であっただろう。
 南シベリア地方、現在のハカシア共和国のミヌシンスク盆地に、B.C.3,000年代後半からB.C.2,000年紀にかけて、アファナシェヴォ文化が繁栄していた。小型の銅製品文化を、既に有していた。その後もこの地に、いくつかの文化が誕生するが、紀B.C.700年- B.C.200年は、タガール文化期となる。
 当初は青銅器が主流であったが、初期鉄器時代でもあった。その同時期、中国長城北部・内蒙古自治区の南部のオルドス地方では、中国青銅器文化と融合して誕生したオルドス文化が発展していた。オルドス文化は、西方のタガール文化の影響をかなり受け入れていた。当然、鉄器文化も含まれている。
 オルドス地方は、黄河が北に大きく屈曲した地点にあたるオルドス高原に位置し、華北からモンゴル高原に通じる交通上の要衝で、遊牧の好適地でもあった。
 やがて、環壕集落の北方2ルートの足跡を辿り、朝鮮半島と日本に鉄器文化がもたらされた。
 A.D.6世紀から13世紀にかけて、樺太・北海道オホーツク海沿岸・千島列島を中心に、陸獣・海獣狩猟、漁労等の採集活動を生業とする民族集団が居住してきた。その北方の文化形態を、「オホーツク文化」と称している。
 オホーツク文化は、鉄器や青銅器を有する沿海州の靺鞨文化(4~10世紀)と中国東北部の女真文化(10~12世紀)を混在して発展した。靺鞨も女真もツングース語系諸族の粛慎の末裔である。回転式銛頭に見られるような発達した漁具や、海獣を象ったり波形や魚・漁の光景を施文とする独自の土器や骨角器、また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が高かった。
 回転式銛頭は動物の骨角で作られ、先端がロケットのような形状で尖り、その中央に溝を施し、それに紐をよじり巻き結び、裏側のくぼみに柄を差し込んで投擲した。この手銛は、一度、獲物の体内に打ち込まれると、銛の柄を引っ張ると前もってよじられた紐が回転して抜けなくなり、獲物を容易に引き寄せて捕獲できた。
 同時期の北海道における続縄文文化や本州の土師器(はじき)の影響を受けた擦文(さつもん)式土器を特徴とする擦文文化とは、異質の文化が、9世紀以降になると北海道北部で、その影響を強め始めた。長い冬季、大陸と陸続きとなる北海道では、異文化を伴う異民族の到来は、決して稀なことではなかった。
 擦文文化は東北地方の古墳文化の影響をうけて変容した文化でもある。北海道式古墳が、律令政府とかかわりのあった人々が被葬者とみられている東北地方の末期古墳と同形で、出土遺物も、土師器・直刀・蕨手刀・鉄斧・鉄鎌・帯(かたい)金具・勾玉や和銅開珎など同種の遺物が多い。 そのオホーツク文化も、次第にその特徴を失い、後に刻目状の文様が付けられる擦文式土器も衰退し、煮炊き用にも鉄器が用いるアイヌ文化へと発展する。
 ただ、発見された遺跡の数が少ないせいもあって、擦文文化からアイヌ文化への移行については、はっきりした遺跡による根拠が明らかとなっていない。それでも11世紀から13世紀に終末を迎えたようだ。
 
 6)環濠集落の二重環濠の意味
 板付遺跡(いたづけいせき)は福岡市博多区板付にある遺跡で、縄文時代晩期から弥生時代後期のもので、博多湾に注ぐ東の御笠川と西の那珂川に挟まれた低台地・板付台地上に環濠集落と墓地があり、台地下周辺の沖積地には水田跡が広がっている。板付台地は、東西に伸びる長さ650m、幅200mほどの狭い独立台地である。
 まず昭和13年にJR博多駅の南3kmほどのところ、博多区博多駅南4丁目の地籍で、弥生時代の環濠集落・比恵遺跡(ひえ)が発見された。甕棺や土器等を伴うわが国最初の環濠遺跡の発見であった。
 続いて、昭和29年に比恵遺跡の近くから同様に甕棺、土器を伴う弥生時代の環濠集落跡・比恵環濠集落遺跡が発見された。
 この遺跡が注目されたのは、米作りが始まったのが弥生時代前期で、以後集落や甕棺墓地、墳丘墓が営まれ、後期には環溝集落も出現したことが明らかにされたからである。
 板付台地にある通津寺(つうしんじ)の過去帳に、慶応3(1867)年、寺の境内から銅鉾5本が出土し、郡役所に届けでたとある。しかしこの遺跡が、史学会で注目されたのは、町の考古学研究者であった中原志外顕(しげあき)氏が、昭和25(1950)年1月通津寺近くの畑から、縄文時代晩期の「夜臼(ゆうす)式土器」の破片を見つけたことによる。 それが最古の弥生土器の板付式土器と共伴し、縄文時代と弥生時代の接点にあたる重要な土器であったからである。
 氏は、その発見の重大さを悟り、翌朝、考古学の師である福岡中央高校の岡崎敬先生(後九州大学教授)の家へ駆け込んだ。岡崎氏もその発見に驚き、にわか調査団を召集して、その日の昼過ぎには試掘が開始された。
 その当時、静岡で発見された「登呂遺跡」がきっかけとなって、「日本考古学協会」は、弥生の起源を調査する目的で全国の弥生遺跡の発掘を積極的に行っていた。福岡県でも、同協会の「弥生式土器文化総合研究特別委員会」の代表・杉原荘介明治大学教授が、粕屋郡新宮町で「夜臼遺跡」を発掘中であった。同協会は、直ちに、その発掘をうち切って板付に乗り込んできた。
 以後4年にわたる調査で、弧状溝や弦状溝さらにジャポニカ種の炭化米などが発掘された。
 その後も数次に亙って発掘調査が行われ、昭和53(1978)年に福岡市教育委員会が行った調査で、遂に、縄文地層から水田遺構が発掘された。それは、弥生時代前期初めの水田跡の40㎝下にあった。杭で補強された畔の間隔から、その1区画が400㎡もあり、現代の農村の水田風景と変わらない景観を彷彿させる2,400年前の大規模遺構であった。
 水田の中には、指の跡まではっきりとわかる足跡も沢山遺存していた。また取排水口、板付台地の縁辺に沿って掘られた用水路、その用水を別の用水路に流す井堰も備えた本格的な稲作水田の跡であった。さらに遺構から、水稲農耕の必需農具の諸手鍬、外湾刃半月形(がいわんばはんげつけい)の石包丁、打製石鎌等が出土した。
 当時は「縄文水田」として、考古学上の大発見と報道されたが、学会ではそれを称する自信がなく、「弥生早期」と発表された。さらに遺跡の花粉分析により、ソバやマクワウリ等の花粉が検出され、同時に畑栽培も行われていた事も分った。
 板付遺跡の発見で、日本列島への水田稲作の伝来が、縄文晩期にまで遡ることが確定した。しかも、この時代の水田が1区画が400㎡もあり、土盛り畔で囲まれ水口も備えた灌漑施設が整備されていた。これは故地において高度に発達し確立化された水田農業が、耕具・収穫具を伴なう施肥や土地改良の栽培技術を保持する多数の移住者により、北部九州の一角に、一括して持ち込まれたことを示している。
 水田として決定づける畦畔により、水稲の栄養源となる水を一定量・一定期間湛え用水の肥料効果を高め、水田の耕転・調整・除草などの作業を容易にする。また必要に応じて排水する機能も不可欠である。排水を良くすることで、水深を深くしたり浅くしたりして、水田の温度調整がなされ発芽苗立ちを安定させる。稲がある程度成長してくると、水を抜く中干しを行い生育期間中の湿害を抑制し、土を空気にさらすことで、いわゆる消毒と同時に酸素を供給させ、中干しの後は再び水を引き入れる。こうした作業を繰り返し、最後に水を抜いて稲刈りが行われる。板付遺跡の用水と排水は水口に設けられた堰で調整されている。しかも、その灌漑施設は、一段と大規模になっている。
 そして、板付遺跡の研究により、日本で最も早く米作りを始めた場所として、また弥生時代最古の環濠集落として、注目されたのであった。現在では、佐賀県唐津の「菜畑遺跡」から縄文晩期後葉の2,500~2,600年前のものと見られる水田跡や農機具が発見されたのを皮切りに、岡山市江道(えどう)遺跡、大阪府茨木市牟礼(むれ)遺跡等、各地で縄文晩期の稲作遺跡が発見されるようになり、 再び「縄文」「弥生」の時代区分の齟齬と、日本の「稲作」の起源と流入経路が、大いなる研究対象となった。
 また1,970年代後半以降、北海道と沖縄を除く全国各地で古代水田跡が多数発見され、「菜畑遺跡」のように、大陸系の磨製石器に、縄文的な石器が多数混在する事例も増え、それまでの画一的な時代区分が疑問視されている。

 板付の環濠集落のあるところは、昭和23年中原氏が縄文時代晩期の土器片を発見した場所である。集落は楕円形の二重の環濠に取り囲まれていた。まず外濠が掘られ、それは板付台地の外周ともいえる径370×170mの規模にも及び、やがてその集落内で階層化が進むと、特定の家族集団が110×81mの卵形の内濠を堀、そこで居住するようになる。
 この内濠内と外濠内との2重の階層化は、朝鮮半島でも認められている。しかも外濠の外にも住居跡が発見され、共同墓地や小児用の甕棺墓も外濠外にある。
 板付で興味深いのは、食物の貯蔵穴と見られる40其の遺構が、内濠内にあり、それをその特定家族集団が、独占管理していた形跡がある事だ。また環濠からは小銅鐸も発見されており、内側に舌(ぜつ)があり、銅鐸が元々は小さな鐘だった事を示していた。濠は、幅約 6m、深さ3~3.5mの規模である。
 板付の集落ができて 100年も経つと、集落を取り囲んでいた溝は殆ど埋まってしまう。集落の人々の生活は環濠の外へ展開していく。時期的には、板付をも含む福岡平野が「奴国」と呼ばれるクニを中心に統一された頃に相当し、争闘が沈静化し各地に豪族が出現した時代であった。建武中元2(57)年、後漢の光武帝が「漢委奴国王」に金印を授ける、その前後になる。
 考えるに、環濠のある時代は、所謂「倭国大乱」の時で、その後、首長連合の王が定まり静謐が保たれると、その争乱の過程で蓄積された首長層の富と軍事力の集中により、その権力は絶対的なものになっていく。結果、集落全体を守る発想から、首長階層の居館の防衛の方が優先されるようになる。

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