3)鎌倉幕府滅亡後の北条一族
北条一族の残党は各地に潜伏していましたが、ほぼ同時に蜂起します。建武元(1334)年春、金沢流北条氏の出自で、赤橋流北条氏の執権・北条守時の弟・英時の養子となった規矩(北条)高政と糸田貞義がそれぞれ豊前国帆柱山と筑後三池郡で挙兵します。高政は肥後守として九州へ赴任していました。元弘3(1333)年、京で六波羅探題が滅亡、そして鎌倉が陥落し金沢氏を含む北条氏一門の滅亡などの報が伝わると、元々は東国御家人出自の少弐氏や大友氏らまでが宮方に属し、5月に鎮西探題英時らは滅されます。高政は翌年に豊前国田川郡糸田庄(福岡県田川郡糸田町)を領する甥の北条一門、豊前国守護・糸田貞義とともに九州で挙兵し、家領の豊前国規矩郡帆柱山城(福岡県北九州市八幡西区)で北条氏残党を集めて抵抗します。同年7月には鎮圧されます。北九州は平氏の地盤であったため、規矩・糸田に味方する武士も少なかったようです。後世、規矩・糸田の乱と呼ばれます。
続いて同年3月、本間・渋谷一党が相模で挙兵します。本間氏は幕府の御家人ではなく、大仏流北条氏の被官でした。 『比志島文書』によれば、元弘の乱で鎌倉幕府が滅びると、佐渡六ヶ郷が足利尊氏領に、羽持郡・吉岡が直義領になります。それはいずれも北条氏の旧領地です。佐渡の国衙領や荘園の多くは、北条氏が地頭となり、本間氏が地頭代として所領経営を行っていたのです。建武の新政の発足により、佐渡支配が再編成され、、それら佐渡国の地頭職の多くは足利尊氏・直義兄弟に配分され、新たに足利幕府体制下の守護が補任されたのです。本間氏もこの激動の時代に、一族の存続を掛けて対処していくことになります。
秩父重綱の弟基家が相模国高座郡(こうざぐん;藤沢市と綾瀬市)にある渋谷荘の荘官となります。その孫重国の時、荘を名字とする渋谷氏を称します。重国は、石橋山の合戦では、頼朝征伐軍に属していましたが、後に服属し従軍し、荘園領主への負担をすべて免除される恩典にあずかります。重国の長男光重は渋谷荘、美作河合郷などの地頭職を相伝しています。その一族の分流が武蔵に移住し、渋谷氏をそのまま称し、今日の東京の渋谷の発祥となります。
渋谷氏は実朝将軍時代の和田義盛の乱・建保合戦で、北条義時に敵対し、一族の多くを誅殺され、渋谷荘の地頭職をも失います。しかし寛元4(1246)年の宮騒動(みやそうどう)、宝治(1247)元年の三浦氏粛清の宝治合戦(ほうじがっせん)、弘安8(1285)年の執権北条貞時の命令で安達泰盛が討伐される霜月騒動(しもつきそうどう)などで、北条得宗家側御家人として活躍します。その恩賞として、重国の孫に当たる五郎入道定心(ごろうにゅうどうていしん)は,、薩摩国の入来院(いりきいん)その他の地頭職などに任じられます。ここで重要な事は、渋谷氏は高座郡の渋谷荘の地頭職に返り咲いていることと、新たに鎌倉郡の吉田荘(横浜市戸塚区)の地頭職にも任じられている事です。しかし渋谷氏も建武の新政により、少なくとも相模の地頭職全てを失っていたのです。
渋川氏は足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まりますが、その足利一門・渋川義季が鎮圧に向かい、極楽寺付近でこれを破ります。
伊予風早郡の恵良山で赤橋重時が兵を挙げます。重時は長門探題北条時直に気脈を通じ、恵良山に立烏帽子城を築いて時機到来を待ったのです。しかし、全国的に鎌倉幕府への反旗が広がり、幕府の重要機関である長門探題も激しい攻撃を受けます。しかも4月3日、これまで時直が股肱の臣と頼んでいた豊田種藤・種長父子が離反し、探題館を攻撃した為、北条時直は探題館を放棄して逐電します。当初船で東上しますが、六波羅探題が滅亡したことを知り、九州探題を頼ろうとします。しかし九州探題北条英時も自刃した為、5月26日、豊前国柳ヶ浦で少弐氏・島津氏に降伏します。
結局、赤橋重時軍は孤立無援となり、4月2日に、土居通増・得能通時・大祝安親ら伊予勢は2,800余騎を率いて、重時方の属城楠窪の砦を攻撃、守将阿曽太郎を討ち取ります。次に蜂ヶ森城を抜き、重時の一族金沢蔵人を敗走させ、弟の藤丸を討ち取ります。同7日、さらに赤滝城も落城して立烏帽子城のみとなり、重時は城を抜け出しますが、やがて捕らわれて斬られます。
建武2(1335)年6月、西園寺公宗(きんむね;権大納言)が謀反のかどで捕縛されます。公宗は関東申次の役目を担い、公武の仲立ちを果たしていました。高時の弟である北条泰家は、奥州に落ち延びて潜伏していましたが、京都に出向き西園寺公宗らと共に各地の北条残党と連絡を取り、新政の転覆と鎌倉幕府再興を図かります。
寛元4(1246)年の『宮騒動』で、摂関家の九条家から迎えた先の4代将軍頼経が京へ追放され、更に九条道家が関与していたとの噂によって道家は、関東申次を西園寺実氏に奪われ、九条家一門の多くは勅勘を被ります。これ以降、関東申次は西園寺家に世襲されます。
関東申次西園寺氏と幕府との関係は、実氏以来、逐年緊密となり、廟堂の主流となります。親しく幕府の要路と連絡を取り合い、常時、幕府の京都の出先六波羅とも緊密な関係を維持し、また造内裏等の重要な財務計理の任にも当たります。
その後、朝廷は、大覚寺の内部分裂及び同統反主流派と持明院統の提携など複雑な関係が生じ、和解は不可能な程の泥沼に陷入ります。 幕府は正安3(1301)年の「両方御流断絶あるべからず」との方針以上の定見を持たず、廟堂は関東申次の西園寺氏の思惑に振り回されます。これによって、両統側からの不満が鎌倉時代末期の関東申次公宗に集中するのです。
公宗は、地位の回復を図って北条泰家を匿っていたのです。 西園寺公宗の謀反の計画は、それまでと違い全国規模でした。
まず、北条泰家が畿内で蜂起すると、時を同じくして、北条時行が甲斐信濃で起ち、名越時兼が北陸において再起の旗を揚げ、京都と鎌倉の奪回を謀るというものでした。時兼は、北条一門で越中守護でした。元弘の戦乱において滅ぼされた名越時有の遺児です。公宗は、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて天皇を暗殺し、後伏見法皇を頼り持明院統の光厳上皇を奉じることで新政を覆そうと謀ったのです。しかし、陰謀は露見します。公宗の異母弟の西園寺公重の密告で計画が発覚し、日野氏光らとともに逮捕され、出雲国へ流刑される途中に名和長年に斬られます。
肝心の北条泰家は素早く逃亡しています。 信濃国内でも、建武2年3月、北条氏一族が水内郡常岩(とこいわ;飯山市)で挙兵しています。しかし信濃守護小笠原方の市河氏に制圧されています。市河氏は下水内郡栄村を拠点とする「神氏(しんし・みわし)」を名乗る神家党の一族でした。これも時勢でしょう。 同月府中・松本でも、国衙の有力官人・深志介が反乱を起こします。
その情勢下6月、北条泰家は、ただ一騎で信濃へと逃れてきます。信濃の諏訪には北条高時の遺児・時行が匿われていたのです。7月、諏訪頼重・時継父子が主力軍となり、時行を擁立し、鎌倉を目指します。それは天皇と公家中心の建武政府による一枚の綸旨(りんじ)によって、所領を奪われた旧鎌倉御家人と御内人の所領回復の闘争でもあったのです。
「謀反人の遺領は、鎮圧者に与えられる。」これが中世社会の基本律です。鎌倉幕府草創期の頼朝は、平家追討の賞として、4,5百ヶ所にも及ぶ平家領荘園の本所、領家を引き継いだのです。鎌倉時代、最大の荘園領主は鎌倉幕府でした。将軍家が本所、領家であった荘園は、既に女院領や摂関家の荘園群を上回る規模でした。鎌倉幕府が荘務権を行使する幕府領荘園は関東御領と呼ばれ、特に相模、武蔵、駿河、越後4ヶ国を知行国として支配していました。これを関東御分国(ごぶんこく)といい、特に相模、武蔵、駿河、の3ヶ国は、国衙領、荘園共に関東御家人の本領で埋め尽くされていて、朝廷の介入の余地はなかったのです。またこの3ヶ国の荘園は地頭請(じとううけ)がほとんどで、地頭が現地を支配し、荘園領主はそれに介入できず年貢を受け取るのみでした。関東御分国の国務は、相模国が政所、越後国が正村流北条氏が携わり、そして武蔵、駿河両国は、泰時、時頼、時宗と北条得宗家当主の事実上の分国でした。
信濃国は文治元(1185)年には、既に頼朝が直轄する知行地となっていました。それを北条氏が受け継ぎ、その守護職を、六波羅探題や連署をつとめた義時の3男・北条重時とその子孫が歴任します。守護は国内の要衝地の地頭を何ヶ所か兼ねるのが通常です。特に国衙周辺や他国との境界領域の奥郡(おくぐん)などです。筑摩郡浅間郷、埴科郡船山郷などが守護地頭地でした。また国内の大荘園の殆どは、北条氏一族が地頭でした。信濃国内の諏訪氏をはじめとする武士団の多くは、その現地荘官として、或いは北条氏地頭代として地方領主的権威を得ていたのです。
諏訪上社、下社領は、信濃一国中の荘公領に田地をもち、それぞれの大祝一族が、北条得宗家当主のもっとも信頼できる御内人として仕えていました。諏訪大社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようです。毎年、社頭で催される流鏑馬は、信濃国内の地頭御家人が、こぞって勤仕することになっていました。上社に残る嘉歴(かりゃく)4(1329)年の御射山祭の記録には、14、5番の流鏑馬が奉納されて、北条氏一門のみならず「鎌倉中(かまくらじゅう;鎌倉時代鎌倉内に在住を許された幕府草創以来の名族御家人)」の有力者も勤仕しています。この盛儀には、信濃守護重時流北条氏といえども、主宰者たりえず、他の御家人と共に流鏑馬の役を勤仕するだけです。
諏訪頼重も北条家御内人であり、親政の北条領地召し上げの政策で没落の危機にあり、これを打開する方法はただ一つ、幼少の亀寿丸を擁立して、北条家再興の旗揚げを自らの手でおこなうことでした。亀寿丸は、10歳前後の身でありながら、諏訪神社を中心として信濃の武士団が結成する諏訪神家党に擁立され、相模次郎北条時行と名乗り、北条再興の期待を一身にうけて挙兵します。
4)北条時行遂に鎌倉を制覇
西園寺公宗の計画露見を知ると北条時行と同じく北条一門の名越時兼が、それぞれ信濃と北陸で蜂起します。越中守護だった名越時有の息子・時兼は、北国の大将と称し越中、能登、加賀で軍勢を集めます。時兼は集めた3万騎を率いて京を目指します。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地、上木、山岸らの国人衆が上洛の行く手を阻みます。大聖寺城に立て籠もり、名越の攻撃を防いでいるうちに、越前から瓜生、深町の武士たちが駆けつけ名越勢を挟み撃ちにして壊滅させます。しかしその波紋は信濃にも及びます。この北陸戦から、中先代の乱が勃発するのです。
7月上旬、上社前大祝・諏訪頼重と息子の大祝時継らは北条時行を擁立して軍勢を集めると、信濃に幕府再興の狼煙をあげます。この時、北条氏系の佐久の諸氏や小県の諏訪氏系の望月・海野・袮津・滋野らの信濃有力者が呼応します。しかし足利尊氏方の信濃守護・小笠原貞宗は強敵です。緒戦敗退にもなりかねないので、挙兵に呼応して集まる各地の豪族が到着するまでは、小笠原との戦いを避けます。諏訪頼重は北信濃の保科弥三郎・四宮左衛門にそれまでの間、小笠原軍を背後から攻撃するよう依頼します。 千曲川の河畔に広がる大草原、八幡原(はちまんばら)で、保科・四宮軍と小笠原軍の両軍は激突します。激戦は数日間にわたり繰返されますが勝敗は決しません。八幡原、その地は、そののち川中島(長野県長野市)と呼ばれます。その川中島一帯が四宮荘・保科御厨・常岩牧など、かつては得宗領か金沢流・普恩寺流などの北条一門領でした。保科・四宮両氏はその代官であったので、それで敢闘な交戦となったのです。
7月14日、15日埴科郡船山郷(更埴市戸倉町)の青沼周辺で、市河氏と北条方の軍勢が戦っています。当時戸倉町に守護所があったからです。これは諏訪頼重の陽動作戦でした。 これにより戦機を得て、同月14日、北条遺臣軍すなわち中先代軍は、まず北上し守護小笠原貞宗の軍を埴科郡内で敗走させ、府中で国司博士左近少将入道を自害させ、ほぼ信濃国の過半を支配下に入れ、信濃の諸族を参軍させると、その矛先を東に変え、鎌倉に向けて突き進みます。
小笠原貞宗は、元弘の乱以来足利氏に属し、信濃守護となり、北条氏遺領の伊那郡伊賀良荘(いがらのしょう)を守護領とし、建武年間、その居館を伊賀良の松尾(飯田)に置きます。後に府中南郊の井川(松本)に移し、小笠原氏発展の基を築きます。伊賀良の荘域は、最初は飯田松川から阿知川までの天竜川西岸でしたが、その後勢威の拡大に伴って、現在の下條村・阿南町・天龍村の一部までも含むようになります。
以後、諏訪氏と小笠原氏との戦いは、長く執拗に続きます。 時行、頼重の軍は途中で諸勢力を糾合し、いまや2万を数える中先代軍となり、上野国に入る際、岩松経家が阻止しますが、これを敗走させます。再度、岩松経家は、鎌倉より派遣された渋川義季率いる五百騎と共に女影原(おんなかげはら;埼玉県日高市)で迎え撃ちますが、またも敗れ両武将と共に自害します。ときに義季は22歳の若武者でした。
渋川氏は清和源氏足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まるといわれています。元弘から建武の内乱期において、渋川一族は足利尊氏に従って活躍していました。
進軍し今川範満を小手指ヶ原(こてさしがはら;小手指原)で討ち取ります。小手指原は上野国から鎌倉に入る鎌倉街道が通過していたのです。瞬時に、足利一族の建武政権軍を破った中先代軍は、後醍醐天皇から下野守に任じられた小山秀朝が、一千騎を率いて駆けつけてきたところを武蔵国府中(東京都府中市)で撃破し、7月13日には秀朝を戦死させています。 22日、足利尊氏の弟・足利直義が自ら出馬する軍勢を武蔵国井出沢(東京都町田市)に破ると、北条時行は、7月25日、ついに鎌倉を奪回します。
時行は正慶の年号を復活させ、幕府再興を宣言します。直義は成良親王と6歳の義詮を伴い三河国に逃れます。 諏訪頼重・北条時行の行軍は、新田一族の上野国の領地を縦断しているはずですが、新田勢の抵抗は全く見られなかったのです。つまり、京での新田義貞の微妙な立場は、そのまま上野の新田支族たちの立場でもありました。反北条ではあるけれど、現在鎌倉にいる足利家は、新田の上に君臨しようとしています。 そういう気持ちが、彼らに中立の立場をとらせたのです。足利と新田の対立が、頼重北条軍をここまで強くした要因でもあったのです。諏訪頼重の大軍は、3年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉を制覇したのです。
諏訪軍に守られ、北条時行は3年ぶりに鎌倉を奪還しました。のちに中先代(なかせんだい)の乱と呼ばれた戦いでした。鎌倉幕府を先代、足利氏の室町幕府を後代と位置づけし、その間ですから中先代としたのでした。つまり「中先代の乱」とは室町政権が確立された後に付けられた呼び名です。
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