諏訪大社上社裏の高台・武居城跡より撮影
          

北条時行 中先代の乱           Top
1)北条時行、諏訪盛高とともに鎌倉脱出

当時の諏訪屋敷跡は、現在は鎌倉市役所と御成小学校 元弘3年/正慶2(1333)年鎌倉を攻略した新田義貞の追手を逃れて、得宗家14代執権北条高時の息子北条時行が諏訪に逃げのびて来ました。当時、得宗家に仕えていた諏訪盛高は、鎌倉陥落寸前、北条泰家に北条高時の子で、母は安達時顕の娘、その嫡流・亀寿丸をたてて北条家を再興するよう頼まれます。これにより諏訪盛高は亀寿丸を自領である信濃国の諏訪(伊那に隠したとの説もあり)に連れ帰ります。
 北条泰家は第14代執権・北条高時の弟に当たりますが、泰家は幕府滅亡時には兄の高時と行動を共にせず、兄の遺児である北条時行を逃がした後、自身も陸奥国へと落ち延びています。泰家の妻と亀寿丸の母が安達氏であった関係と思われます。また陸奥国北部一帯の地頭を、北条得宗家を初め北条一族が独占しています。当地には地頭代として、多くの家臣集団がいて、得宗家が代々「蝦夷管領」であり、内紛で衰えたとはいえ、その代官・安藤一族が蝦夷集団の頂点にいました。
 建保6(1218)年に、将軍源実朝の推薦で、幕府の有力御家人である安達景盛が出羽介に任ぜられ、秋田城介を称します。これは、秋田城介が武家にとって栄誉ある名籍となっていたためです。秋田城介は、蝦夷経営の戦略拠点としての秋田城に常駐した出羽介(ではのすけ)にすぎません。久しく任命される者なく、当時としては単なる名誉職でした。 それなのに『吾妻鏡』によれば、景盛は「恐悦、顔色に彰(あらわ)る」ほどの大喜びです。『吾妻鏡』では「永承5(1050)年、平繁盛が初めて、この職に任じられ、その後は絶えていたのを、この度復興した」と由緒を明らかにしています。 繁盛が最初というのは誤りですが、その兄は平将門を討ち武名を挙げた貞盛で、清盛伊勢平氏の租であり、北条氏も当時、貞盛を始祖としていました。秋田城介を世襲することは、武家としては最高の名籍を継ぐ事になります。これ以後、鎌倉期を通じて安達氏は城氏を称し、景盛の孫泰盛の代には陸奥守に任じられ、その最有力拠点とします。泰家はその地で再起を図ったのでしょう。
 泰家は、その後京都に上洛して旧知の仲であった西園寺公宗の屋敷に潜伏し、建2(1335)年6月、公宗と共に各地の北条残党と連絡を取り、後醍醐天皇暗殺と幕府再興を図って挙兵しようとします。しかし事前に計画が露見して公宗は殺されますが、泰家はこの時、追手の追跡から逃れます。
 その後、甥の時行と共に信濃国で挙兵しますが、その後の消息は不明で、一説には1335年末に野盗によって殺害されたとも言われています。
 泰家の命を受け、諏訪盛高はさっそく亀寿丸のいる扇ヶ谷(おうぎがやつ)に出かけて行き、亀寿丸を、母親の安達氏から奪います。諏訪盛高の決意は悲壮で、後日、母親が新田勢に捕らわれ、逃亡の事実を告げられることを恐れて、「大殿様の冥土の旅路へ、ご同行願うためお連れに参った。」と言い残します。安達氏は、驚愕の中、我が子を取り戻そうと追いすがろうとしますが、力尽きて及ばず、やがて近くの古井戸に身を投げたといわれています。
 一旦、鎌倉御成の諏訪の屋敷に戻ると諏訪盛高は、一族一同を集め、事の子細を打ち明けます。亀寿丸様を連れ、奥州に落ち延びて北条再興の機会を窺う、奥州の地理に詳しい者のみが同道し、諏訪一族残余の者すべてが、亀寿丸と共に自害して果てたと見せかけるために、この屋敷に火を放ち、この場で一同自害してほしい、と 。神家党と呼ばれ、武人の鏡と称えられた諏訪武士、盛高の本懐の為に喜んで果てようと、涙ながらに亀寿丸の前に手を付き、やがて屋敷に火がかけられ
 「亀寿丸様は、はや自害なされた。者ども死出の旅に遅れまいぞ。」
 屋敷外に響けとばかり叫び、諏訪武士の殉死体の中に亀寿丸がいると誤認されるように、相次いで火中に飛び込み、自刃していきます。
 盛高一行は、新田の手負い兵に化け、亀寿丸を隠した武具を抱えて、屋敷から密かに脱出します。やがて鎌倉を遠く離れると、奥州とは方角違いの北条氏の守護国であった信濃の地へ、大きく迂回します。これほどの悲劇でありながら、それはやがて訪れる数奇で残酷な運命の、前奏に過ぎませんでした。
 北条泰家が亀寿丸を諏訪氏に託したのは、北条得宗家に、長きに亘り献身的に使える側近的御内人であったからです。その上、信濃の大荘園の多くを北条氏一族が地頭を務め、信濃在住の諸族がその地頭代として、或いは荘園領主として恩恵を受けていたからです。
 亀寿丸は諏訪の地であっても、今や敗残の朝敵、逼塞するしかありません。八ヶ岳山麓諏訪領には、神野(こうや)と呼ばれる諏訪大社の神領で、諏訪明神に捧げる生贄を御狩する神事が行われるため、神人(じにん)以外の立ち入りは許されず、人の手が加わる事も禁じられていた禁猟区がありました。立場川は中世、信濃と甲斐の国境でしたが、そこから東側、現代の茅野市柳川流域に及ぶ広大な森林地帯で、「原山」とも呼ばれていました。
  『諏方大明神画詞』によれば、「中古の比より神事のひまと号して神官氏人竊に神野を犯し狩猟をいたして禽獣(きんじゅう;鳥とけだもの)を見る厳重の恠(怪の俗字)異によりて事顕はれ罪名の裁断に及ぶ」とあります。 鎌倉時代になると、この禁猟の掟を神官氏人自ら破るようになります。しかしそのため、桑原郷の地頭や甲斐国加世上郷の地頭などが、地頭職を失っています。 諏訪大社上社の御狩場として排他的支配権を有し、その検断権も維持していたようです。 亀寿丸が最初に隠れたのは、その神野の雀ヵ森付近であったといわれています。炊事は煙のありかが分からないように、専ら夜中に洞窟の中で行われていました。それでも諏訪一族は危険を察知し、杖突峠下の神原の山中、高遠町南の藤沢の御堂垣内の権堂屋敷、上伊那郡富県村(とみがたむら)の福地の北条屋敷など、居所を転々として亀寿丸を守護します。

2)北条高時の嫡男・万寿丸邦時の最期

 新田義貞が鎌倉を平定すると、関東八か国の有力武士や身分の高い僧侶たちは残らず、彼に対して手をつき膝を屈します。長年北条家に仕え、その忠義を誇示してきた人々でさえこの有様です。ましてや、新田と戦った者たちは、生きるかいもなき命を、ただひたすら繋ぐために汲々としていました。 出家して逃れようとした北条一族の者も、寺々から引きずり出され、その果ては僧衣を血に染めます。あるいは、二夫にはまみえずと髪を下ろして、尼僧姿になった未亡人をも方々から探り出されては、その貞女の心を失わされる有様でした。
 北条氏の嫡流を「得宗」と呼びますが、これは義時の法名「徳宗」からきています。得宗北条高時の嫡男万寿丸は、この乱の前に元服したばかりで、相模太郎邦時と名乗っていました。この万寿丸を何としても逃せと北条高時から命じられたのが、五代院宗繁(ごだいいんむねしげ)でした。
 五代院宗繁が、この困難な役を仰せつかったのは、この万寿丸の母親が五代院宗繁の実の妹であり、万寿丸にとっては叔父にあたり、万寿丸を命がけで守る役目には、最適な人物であったとおもえたからです。北条高時は、五代院宗繁に、邦時を守りいずれかの時に、北条の旗をたてよと、託します。しかし、高時は、歴代得宗家にあって最初にして最後の、資質ガ劣る人物でした。
 歴代執権が、いずれも質素倹約に努め政権の維持に心血を注ぎながらも、二代義時(享年62)、三代泰時(享年60)以後、その嫡流が、時氏 享年28歳(執権になる前に病死)、経時23歳、時頼 37歳、時宗 34歳、貞時 40歳と最高権力者にしては、余りにも異常な逝去年齢である事の重大さを認識していなかったようです。しかも歴代執権が職に邁進し、自身の奢りと堕落が垣間見えない、日本はもとより世界でも稀有な政権であり、その真摯性ゆえに、源氏政権の簒奪者でありながら、数多の政争を克服してこられたのです。
 幕府創設者の執権二代目・義時、その得宗家初代が天寿を全うする時、彼の遺言は「頼朝の墓の東にある山」にひっそり葬れと、命じます。鎌倉幕府最大の功労者の墓を、誰が知りえるのでしょうか?頼朝の墓に隣接する広元の墓の右手山腹で発掘され、かつて細い道がありましたが、現在は藪に覆われ道が見つからない状態です。
  しかし高時は、自堕落な無責任さゆえに、近臣に人物を得ず、最期の大誤算が、嫡男を最悪の事態に追いやります。 こうして万寿丸は、叔父の五代院宗繁に託され鎌倉の町外れの粗末な町民の小屋に隠れます。悟られぬように宗繁は、家臣を一人も伴わず、ただ事情を知らぬ中間を2、3名連れていました。
 北条の鎌倉が猛火に包まれ滅びる様を万寿丸は、そのわずかな隙間から眺めていたでしょう。 新田軍による北条残党狩りは厳しく、北条氏と血縁のある、あらゆる者が連日刑場に引き出され、ことごとく処刑されていました。そんなある日、五代院宗繁が、隠れ小屋に入るなり急迫した顔をして万寿丸に告げます。新田軍の捜索が進み、敵がこの小屋の存在を知るのは時間の問題と、万寿丸はやむなく宗繁の言葉に従い貧しい町民の姿に替え、その夜のうちに中間2人と旅立ちます。
 行き先は、伊豆の伊豆山権現でした。伊豆山権現は、代々北条家が手厚く保護してきた関係で、北条氏に心を寄せており安心して隠れる事が出来る場所でした。 残留した宗繁は、新田義貞の執事船田義昌の元に出頭し、新しい鎌倉の主に忠義の印として、北条氏の嫡男邦時が逃げ行く先を告げたのです。そして五代院の領地の安堵を願い出たのです。  
 武士階級が台頭し、源義家により源氏が武家の棟梁としての地位を確立する前提には、君臣双方に厳格で絶対的な倫理感が存在していたのです。船田義昌はもとより、武士社会では、こういったたぐいの者が一番嫌悪されていました。五代院に大事な嫡男を託した高時の器量の程がこのことで分かります。しかし船田義昌とっては、北条の嫡男となれば、なんとしても捕らえねばなりません。 五代院宗繁は、さっそく兵を伊豆にむけよと進言します。共に船田の手勢が急行し、伊豆山の途中の相模川にたどりついたのは翌朝でした。  
 五代院宗繁は、昨日までの主君を見つけると、主家の「邦時」を呼び捨てにして叫び、貧民に扮装した幼い万寿丸を、船田の手勢に捕らえさせます。鎌倉に護送され、万寿丸はその翌日に刑場で処刑されます。これも武家の宿命です。 新田義貞は当然家臣に五代院宗繁の捕縄を命じます。兵は宗繁の屋敷に迫ると、さすがの宗繁も、この事態を想定していました。捕らえられる寸前に屋敷を逃れますが、新田勢にも北条縁故の者にも見放された宗繁は、流浪の果て、飢えて死んだ物乞いの遺骸の中に見つけられたと伝えられています。

3)鎌倉幕府滅亡後の北条一族

諏訪大社上社前宮の舞殿、高御子屋  北条一族の残党は各地に潜伏していましたが、ほぼ同時に蜂起します。建武元(1334)年春、金沢流北条氏の出自で、赤橋流北条氏の執権・北条守時の弟・英時の養子となった規矩(北条)高政糸田貞義がそれぞれ豊前国帆柱山と筑後三池郡で挙兵します。高政は肥後守として九州へ赴任していました。元弘3(1333)年、京で六波羅探題が滅亡、そして鎌倉が陥落し金沢氏を含む北条氏一門の滅亡などの報が伝わると、元々は東国御家人出自の少弐氏や大友氏らまでが宮方に属し5月に鎮西探題英時らは滅されます。高政は翌年に豊前国田川郡糸田庄(福岡県田川郡糸田町)を領する甥の北条一門、豊前国守護・糸田貞義とともに九州で挙兵し、家領の豊前国規矩郡帆柱山城(福岡県北九州市八幡西区)で北条氏残党を集めて抵抗します。同年7月には鎮圧されます。北九州は平氏の地盤であったため、規矩・糸田に味方する武士も少なかったようです。後世、規矩・糸田の乱と呼ばれます。
  続いて同年3月、本間・渋谷一党が相模で挙兵します。本間氏は幕府の御家人ではなく、大仏流北条氏の被官でした。  『比志島文書』によれば、元弘の乱で鎌倉幕府が滅びると、佐渡六ヶ郷が足利尊氏領に、羽持郡・吉岡が直義領になります。それはいずれも北条氏の旧領地です。佐渡の国衙領や荘園の多くは、北条氏が地頭となり、本間氏が地頭代として所領経営を行っていたのです。建武の新政の発足により、佐渡支配が再編成され、、それら佐渡国の地頭職の多くは足利尊氏・直義兄弟に配分され、新たに足利幕府体制下の守護が補任されたのです。本間氏もこの激動の時代に、一族の存続を掛けて対処していくことになります。
 秩父重綱の弟基家が相模国高座郡(こうざぐん;藤沢市と綾瀬市)にある渋谷荘の荘官となります。その孫重国の時、荘を名字とする渋谷氏を称します。重国は、石橋山の合戦では、頼朝征伐軍に属していましたが、後に服属し従軍し、荘園領主への負担をすべて免除される恩典にあずかります。重国の長男光重は渋谷荘、美作河合郷などの地頭職を相伝しています。その一族の分流が武蔵に移住し、渋谷氏をそのまま称し、今日の東京の渋谷の発祥となります。
 渋谷氏は実朝将軍時代の和田義盛の乱・建保合戦で、北条義時に敵対し、一族の多くを誅殺され、渋谷荘の地頭職をも失います。しかし寛元4(1246)年の宮騒動(みやそうどう)、宝治(1247)元年の三浦氏粛清の宝治合戦(ほうじがっせん)、弘安8(1285)年の執権北条貞時の命令で安達泰盛が討伐される霜月騒動(しもつきそうどう)などで、北条得宗家側御家人として活躍します。その恩賞として、重国の孫に当たる五郎入道定心(ごろうにゅうどうていしん)は,、薩摩国の入来院(いりきいん)その他の地頭職などに任じられます。ここで重要な事は、渋谷氏は高座郡の渋谷荘の地頭職に返り咲いていることと、新たに鎌倉郡の吉田荘(横浜市戸塚区)の地頭職にも任じられている事です。しかし渋谷氏も建武の新政により、少なくとも相模の地頭職全てを失っていたのです。
 渋川氏は足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まりますが、その足利一門・渋川義季が鎮圧に向かい、極楽寺付近でこれを破ります。
 伊予風早郡の恵良山で赤橋重時が兵を挙げます。重時は長門探題北条時直に気脈を通じ、恵良山に立烏帽子城を築いて時機到来を待ったのです。しかし、全国的に鎌倉幕府への反旗が広がり、幕府の重要機関である長門探題も激しい攻撃を受けます。しかも4月3日、これまで時直が股肱の臣と頼んでいた豊田種藤・種長父子が離反し、探題館を攻撃した為、北条時直は探題館を放棄して逐電します。当初船で東上しますが、六波羅探題が滅亡したことを知り、九州探題を頼ろうとします。しかし九州探題北条英時も自刃した為、5月26日、豊前国柳ヶ浦で少弐氏・島津氏に降伏します。
 結局、赤橋重時軍は孤立無援となり、4月2日に、土居通増・得能通時・大祝安親ら伊予勢は2,800余騎を率いて、重時方の属城楠窪の砦を攻撃、守将阿曽太郎を討ち取ります。次に蜂ヶ森城を抜き、重時の一族金沢蔵人を敗走させ、弟の藤丸を討ち取ります。同7日、さらに赤滝城も落城して立烏帽子城のみとなり、重時は城を抜け出しますが、やがて捕らわれて斬られます。
 建武2(1335)年6月、西園寺公宗(きんむね;権大納言)が謀反のかどで捕縛されます。公宗は関東申次の役目を担い、公武の仲立ちを果たしていました。高時の弟である北条泰家は、奥州に落ち延びて潜伏していましたが、京都に出向き西園寺公宗らと共に各地の北条残党と連絡を取り、新政の転覆と鎌倉幕府再興を図かります。
 寛元4(1246)年の『宮騒動』で、摂関家の九条家から迎えた先の4代将軍頼経が京へ追放され、更に九条道家が関与していたとの噂によって道家は、関東申次を西園寺実氏に奪われ、九条家一門の多くは勅勘を被ります。これ以降、関東申次は西園寺家に世襲されます。
 関東申次西園寺氏と幕府との関係は、実氏以来、逐年緊密となり、廟堂の主流となります。親しく幕府の要路と連絡を取り合い、常時、幕府の京都の出先六波羅とも緊密な関係を維持し、また造内裏等の重要な財務計理の任にも当たります。
  その後、朝廷は、大覚寺の内部分裂及び同統反主流派と持明院統の提携など複雑な関係が生じ、和解は不可能な程の泥沼に陷入ります。 幕府は正安3(1301)年の「両方御流断絶あるべからず」との方針以上の定見を持たず、廟堂は関東申次の西園寺氏の思惑に振り回されます。これによって、両統側からの不満が鎌倉時代末期の関東申次公宗に集中するのです。 公宗は、地位の回復を図って北条泰家を匿っていたのです。 西園寺公宗の謀反の計画は、それまでと違い全国規模でした。
 まず、北条泰家が畿内で蜂起すると、時を同じくして、北条時行が甲斐信濃で起ち名越時兼が北陸において再起の旗を揚げ、京都と鎌倉の奪回を謀るというものでした。時兼は、北条一門で越中守護でした。元弘の戦乱において滅ぼされた名越時有の遺児です。公宗は、後醍醐天皇を西園寺家の山荘に招いて天皇を暗殺し、後伏見法皇を頼り持明院統の光厳上皇を奉じることで新政を覆そうと謀ったのです。しかし、陰謀は露見します。公宗の異母弟の西園寺公重の密告で計画が発覚し、日野氏光らとともに逮捕され、出雲国へ流刑される途中に名和長年に斬られます
 肝心の北条泰家は素早く逃亡しています。 信濃国内でも、建武2年3月、北条氏一族が水内郡常岩(とこいわ;飯山市)で挙兵しています。しかし信濃守護小笠原方の市河氏に制圧されています。市河氏は下水内郡栄村を拠点とする「神氏(しんし・みわし)」を名乗る神家党の一族でした。これも時勢でしょう。 同月府中・松本でも、国衙の有力官人・深志介が反乱を起こします。  
 その情勢下6月、北条泰家は、ただ一騎で信濃へと逃れてきます。信濃の諏訪には北条高時の遺児・時行が匿われていたのです。7月、諏訪頼重・時継父子が主力軍となり、時行を擁立し、鎌倉を目指します。それは天皇と公家中心の建武政府による一枚の綸旨(りんじ)によって、所領を奪われた旧鎌倉御家人と御内人の所領回復の闘争でもあったのです。

 「謀反人の遺領は、鎮圧者に与えられる。」これが中世社会の基本律です。鎌倉幕府草創期の頼朝は、平家追討の賞として、4,5百ヶ所にも及ぶ平家領荘園の本所、領家を引き継いだのです。鎌倉時代、最大の荘園領主は鎌倉幕府でした。将軍家が本所、領家であった荘園は、既に女院領や摂関家の荘園群を上回る規模でした。鎌倉幕府が荘務権を行使する幕府領荘園は関東御領と呼ばれ、特に相模、武蔵、駿河、越後4ヶ国を知行国として支配していました。これを関東御分国(ごぶんこく)といい、特に相模、武蔵、駿河、の3ヶ国は、国衙領、荘園共に関東御家人の本領で埋め尽くされていて、朝廷の介入の余地はなかったのです。またこの3ヶ国の荘園は地頭請(じとううけ)がほとんどで、地頭が現地を支配し、荘園領主はそれに介入できず年貢を受け取るのみでした。関東御分国の国務は、相模国が政所、越後国が正村流北条氏が携わり、そして武蔵、駿河両国は、泰時、時頼、時宗と北条得宗家当主の事実上の分国でした。
 信濃国は文治元(1185)年には、既に頼朝が直轄する知行地となっていました。それを北条氏が受け継ぎ、その守護職を、六波羅探題連署をつとめた義時の3男・北条重時とその子孫が歴任します。守護は国内の要衝地の地頭を何ヶ所か兼ねるのが通常です。特に国衙周辺や他国との境界領域の奥郡(おくぐん)などです。筑摩郡浅間郷埴科郡船山郷などが守護地頭地でした。また国内の大荘園の殆どは、北条氏一族が地頭でした。信濃国内の諏訪氏をはじめとする武士団の多くは、その現地荘官として、或いは北条氏地頭代として地方領主的権威を得ていたのです。
 諏訪上社、下社領は、信濃一国中の荘公領に田地をもち、それぞれの大祝一族が、北条得宗家当主のもっとも信頼できる御内人として仕えていました。諏訪大社領全体が、得宗家の家領に組み込まれていたようです。毎年、社頭で催される流鏑馬は、信濃国内の地頭御家人が、こぞって勤仕することになっていました。上社に残る嘉歴(かりゃく)4(1329)年の御射山祭の記録には、14、5番の流鏑馬が奉納されて、北条氏一門のみならず「鎌倉中(かまくらじゅう;鎌倉時代鎌倉内に在住を許された幕府草創以来の名族御家人)」の有力者も勤仕しています。この盛儀には、信濃守護重時流北条氏といえども、主宰者たりえず、他の御家人と共に流鏑馬の役を勤仕するだけです。
 諏訪頼重も北条家御内人であり、親政の北条領地召し上げの政策で没落の危機にあり、これを打開する方法はただ一つ、幼少の亀寿丸を擁立して、北条家再興の旗揚げを自らの手でおこなうことでした。亀寿丸は、10歳前後の身でありながら、諏訪神社を中心として信濃の武士団が結成する諏訪神家党に擁立され、相模次郎北条時行と名乗り、北条再興の期待を一身にうけて挙兵します。

4)北条時行遂に鎌倉を制覇
大祝・諏訪頼重の墓、かつて「照雲」の2字が判読されました。 西園寺公宗の計画露見を知ると北条時行と同じく北条一門の名越時兼が、それぞれ信濃と北陸で蜂起します。越中守護だった名越時有の息子・時兼は、北国の大将と称し越中、能登、加賀で軍勢を集めます。時兼は集めた3万騎を率いて京を目指します。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地、上木、山岸らの国人衆が上洛の行く手を阻みます。大聖寺城に立て籠もり、名越の攻撃を防いでいるうちに、越前から瓜生、深町の武士たちが駆けつけ名越勢を挟み撃ちにして壊滅させます。しかしその波紋は信濃にも及びます。この北陸戦から、中先代の乱が勃発するのです。
  7月上旬、上社前大祝・諏訪頼重と息子の大祝時継らは北条時行を擁立して軍勢を集めると、信濃に幕府再興の狼煙をあげます。この時、北条氏系の佐久の諸氏や小県の諏訪氏系の望月・海野・袮津・滋野らの信濃有力者が呼応します。しかし足利尊氏方の信濃守護・小笠原貞宗は強敵です。緒戦敗退にもなりかねないので、挙兵に呼応して集まる各地の豪族が到着するまでは、小笠原との戦いを避けます。諏訪頼重は北信濃の保科弥三郎・四宮左衛門にそれまでの間、小笠原軍を背後から攻撃するよう依頼します。 千曲川の河畔に広がる大草原、八幡原(はちまんばら)で、保科・四宮軍と小笠原軍の両軍は激突します。激戦は数日間にわたり繰返されますが勝敗は決しません。八幡原、その地は、そののち川中島(長野県長野市)と呼ばれます。その川中島一帯が四宮荘保科御厨常岩牧など、かつては得宗領か金沢流・普恩寺流などの北条一門領でした。保科・四宮両氏はその代官であったので、それで敢闘な交戦となったのです。
 7月14日、15日埴科郡船山郷(更埴市戸倉町)の青沼周辺で、市河氏と北条方の軍勢が戦っています。当時戸倉町に守護所があったからです。これは諏訪頼重の陽動作戦でした。 これにより戦機を得て、同月14日、北条遺臣軍すなわち中先代軍は、まず北上し守護小笠原貞宗の軍を埴科郡内で敗走させ、府中で国司博士左近少将入道を自害させ、ほぼ信濃国の過半を支配下に入れ、信濃の諸族を参軍させると、その矛先を東に変え、鎌倉に向けて突き進みます。 
 小笠原貞宗は、元弘の乱以来足利氏に属し、信濃守護となり、北条氏遺領の伊那郡伊賀良荘(いがらのしょう)を守護領とし、建武年間、その居館を伊賀良の松尾(飯田)に置きます。後に府中南郊の井川(松本)に移し、小笠原氏発展の基を築きます。伊賀良の荘域は、最初は飯田松川から阿知川までの天竜川西岸でしたが、その後勢威の拡大に伴って、現在の下條村・阿南町・天龍村の一部までも含むようになります。
 以後、諏訪氏と小笠原氏との戦いは、長く執拗に続きます。 時行、頼重の軍は途中で諸勢力を糾合し、いまや2万を数える中先代軍となり、上野国に入る際、岩松経家が阻止しますが、これを敗走させます。再度、岩松経家は、鎌倉より派遣された渋川義季率いる五百騎と共に女影原(おんなかげはら;埼玉県日高市)で迎え撃ちますが、またも敗れ両武将と共に自害します。ときに義季は22歳の若武者でした。
 渋川氏は清和源氏足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まるといわれています。元弘から建武の内乱期において、渋川一族は足利尊氏に従って活躍していました。
 進軍し今川範満小手指ヶ原(こてさしがはら;小手指原)で討ち取ります。小手指原は上野国から鎌倉に入る鎌倉街道が通過していたのです。瞬時に、足利一族の建武政権軍を破った中先代軍は、後醍醐天皇から下野守に任じられた小山秀朝が、一千騎を率いて駆けつけてきたところを武蔵国府中(東京都府中市)で撃破し、7月13日には秀朝を戦死させています。 22日、足利尊氏の弟・足利直義が自ら出馬する軍勢を武蔵国井出沢(東京都町田市)に破ると、北条時行は、7月25日、ついに鎌倉を奪回します。
 時行は正慶の年号を復活させ、幕府再興を宣言します。直義は成良親王と6歳の義詮を伴い三河国に逃れます。 諏訪頼重・北条時行の行軍は、新田一族の上野国の領地を縦断しているはずですが、新田勢の抵抗は全く見られなかったのです。つまり、京での新田義貞の微妙な立場は、そのまま上野の新田支族たちの立場でもありました。反北条ではあるけれど、現在鎌倉にいる足利家は、新田の上に君臨しようとしています。  そういう気持ちが、彼らに中立の立場をとらせたのです。足利と新田の対立が、頼重北条軍をここまで強くした要因でもあったのです。諏訪頼重の大軍は、3年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉を制覇したのです。 諏訪軍に守られ、北条時行は3年ぶりに鎌倉を奪還しました。のちに中先代(なかせんだい)の乱と呼ばれた戦いでした。鎌倉幕府を先代、足利氏の室町幕府を後代と位置づけし、その間ですから中先代としたのでした。つまり「中先代の乱」とは室町政権が確立された後に付けられた呼び名です。

5)大塔宮(おおとうのみや)と呼ばれた・護良親王の最後
重要な鎌倉時代の遺跡群が囲む鎌倉宮  ところで、当時鎌倉には中央での政争に破れた後醍醐天皇の子、護良親王が幽閉されていました。足利直義は鎌倉放棄のさい、親王が敵に渡るのを恐れます。結局殺害する方法をとります。
 鎌倉市には鎌倉宮と呼ばれる神社があります。護良親王が幽閉され非業の最期を遂げた場所とし、中にはもっともらしい岩屋があり、足利直義が親王を虐待の上に殺害した事を印象づけるような演出となっています。ところが、太平記には、岩屋に幽閉したなどという記録はありません。
 その時代、二階堂永福寺があった薬師堂谷の御所において護良親王を斬殺します。鎌倉宮は東光寺旧跡と伝えられています。

6)北条時行「二十日先代の乱」
鎌倉市御成町の諏訪神社。かつては諏訪屋敷内にありました。  『梅松論』によれば、足利直義は「(駿河国)手越の駅に御着有し時。伊豆駿河の先代方寄来る間。扈従の輩無勢成といへども。武略を廻らして防戦ふ処に。当国の工藤入江左衛門尉。百余騎にて御方に馳参て忠節を致ける程に。敵退散しけり。則宇津谷を越て三河国に馳付給ひて人馬の息を休めたまふ。」とあります。成良親王と6歳の義詮を伴う苦難の敗走でした。
  関東の敗戦が京都に伝えられると、足利尊氏はすぐさま後醍醐天皇に討伐軍の派遣を奏聞しますが、当時尊氏を中心とする勢力に、後醍醐天皇に反旗を翻す可能性が充分読み取れた事から、京の軍議では意識して足利尊氏を除外していました。尊氏は東下の勅許を得るとともに、征夷大将軍総追捕使(そうついぶし)の官を奏請していましたが、「天下の御為のよしを申捨て」、8月2日勅許を待たず、強引に軍を編成し出立します。後日、進発した尊氏に「征東将軍」の官を与えています。後醍醐天皇は、朝廷の権力維持のため、征夷大将軍には成良親王を任じることに固執したのです。
 
 後醍醐専制の建武の新政が、政権政策の定見も無く、ただ天皇とそれに群がる公家達の節度のない欲望により、翻弄されたのに過ぎなかったことに、武士階層は再び悟ったのです。源頼朝の幕府政治こそ、武士階層の拠り所であった、事を。
 急速に支持を失っていく中、統治能力を欠く公家に、露骨に侮蔑さえ加える武士層が、尊氏を新たな武家の棟梁とする輿望が高まっていくのも当然です。尊氏進発の報に、皆、喜悦の眉を開いて数千騎が従います。三河の矢作で、足利尊氏率いる討伐軍は敗走する足利直義軍と合流し、途中同族の吉良氏、細川氏らの援軍を得て、追走してきた旧北条一族を中心に構成する北条軍と、8月8日、大井川で激突するころには、総数一万騎にも達する勢いでした。
 三河は鎌倉時代、足利氏が守護国でした。それで所領も多く散在し、何よりも名字の地を領する一族、吉良一色今川がいるのです。反攻の態勢を整えるには、絶好の地の利でした。
  『梅松論』は「今当所を立て関東に御下向有べき処に。先代方の勢遠江の橋本を要害に搆て相支る間。先陣の軍士阿保丹後守入海を渡して合戦を致し。敵を追ちらして其身疵を蒙る間。御感の余に其賞として家督阿保左衛門入道道潭が跡を拝領せしむ。是をみる輩命を捨ん事を忘れてぞいさみ戦ふ。当所の合戦を初として。同国佐夜の中山。駿河の高橋縄手。筥根山。相模川。片瀬川より鎌倉に到るまで敵に足をとめさせず。七ヶ度の戦に討勝て八月十九日鎌倉へ攻入たまふとき。諏方の祝父子自害す。相残輩或降参し或攻め落さる。去程に七月の末より八月十九日に到迄廿日余。彼相模次郎ふたゝび父祖の旧里に立帰るといへども。いく程もなくして没落しけるぞあはれなる。鎌倉に打入輩の中に曾て扶佐する古老の仁なし。大将と号せし相模次郎も幼稚なり。大仏。極楽寺。名越の子孫共。寺々にをいて僧喝食になりて適身命を助りたる輩。俄に還俗すといへ共。それとしれたる人なければ。烏合梟悪の類其功をなさゞりし事。誠に天命にそむく故とぞおぼえし。是を中先代とも廿日先代とも申也。」
 直ちに、出立して関東に下向するつもりが、北条方の軍勢が遠江の橋本に要害を構えて道を塞いだため、先陣の軍士の阿保丹後守入海が攻撃します。阿保は敵を追い散らしますが、その身は傷をこうむると、尊氏は、その恩賞として、阿保左衛門入道道潭(どうたん) の家督を拝領させます。これを見た人々は、命を失うことも忘れて勇み戦かいます。 この合戦を初めとして、同国佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川から鎌倉に着くまで、 勢いのある足利軍は敵に留まる余裕を与えず、七度の戦いに勝利して、8月19日に鎌倉に攻め入ります。その間、金刺頼秀も戦死しています。
 箱根峠での両軍の戦いは二日間にわたりましたが、足利有利とみた地方豪族の離散により、諏訪軍と僅かな残兵の北条軍は、ついに鎌倉へと敗走します。これに対して、「北条軍破れる。」鎌倉でこれを聞いた諏訪頼重は、諏訪神家党を主力としてみずから出馬します。寡兵は怒涛の敵軍に、一気に呑み込まれます。
 北条時行は逃走。諏訪頼重・時継父子以下はことごとく自害して果てます。このとき、諏訪頼重以下43名の諏訪武士は、時行を無事に逃がすと、その再挙を願い、ここ鎌倉の大御堂(おおみどう)・勝長寿院(しょうちょうじゅいん;鎌倉市雪ノ下4丁目で現存しません) で時行が死んだと見せかけるため、誰と見分けが付かないように、顔を切ったうえで腹を裂き自刃します。
 諏訪頼重・時継父子
が鎌倉に討ち入った軍勢の中に、かねてからの旧臣であった古老はおらず、大将と称していた相模次郎北条時行も幼かったのです。鎌倉幕府の最期の北条氏ほど懸命に鎌倉を死守し、潔く散った政権は、その前も後にも存在しません。その後に生存する者の程度が、どれほどのものであったでしょうか? 北条氏の名族大仏、極楽寺、名越の遺族も、寺に入って僧喝食(かつじき)になって何とか命をながらえていた者たちが、にわかに還俗したものの、鎌倉では既に名のある武将は死に絶えていました。烏合の衆のようで功をなすことができなかったのです。
 北条再興の夢は、たった25日間の鎌倉支配で消え去ったのです。時行は北条氏の本貫があった伊豆に逃れます。その潜伏中、後醍醐天皇が尊氏と決裂すると、後醍醐方として伊豆で挙兵します。
  諏訪頼重が、鎌倉に出陣後、大祝を継いだのは、時継の子・頼継でした。このため朝敵となった頼継は神野に隠れます。尊氏は大祝の継承を、大祝庶流の藤沢政頼に就かせると、頼継の探索を厳しく命じます。
 頼継は、わずか5,6人の従者を連れて、神野の地をさ迷うが、諏訪の人々による陰ながらの援助で逃れる事ができました。 近年、上社前宮の神殿南の畑の一画で、五輪塔3基が発掘されました。いずれも鎌倉時代の墓標です。その一基に「照雲」の2字が判読されます。中先代の乱当時、頼重は「三河照雲入道諏訪頼重」でした。 しかし、その後も信濃の諏訪神家党、その他の国人衆(こくじんしゅう)は、足利政権の守護小笠原氏及びその麾下に与するに国人衆と、果てしない闘争を続けます。
 佐久の望月氏は、鎌倉陥落以前の8月1日、小笠原勢に城を破却されています。9月3日にも北条時行に味方した国人衆の本拠地が攻撃されます。しかも小笠原勢に与する者は市河一族と村上信貞で、対して諏訪一族は徹底的に交戦を続け、その過酷な試練を乗り越えて、やがて戦国領主として生き残ります。
 天文11(1542)年、同名の諏訪頼重武田晴信に滅ぼされ、武田の分国となり一時家系は耐えますが、武田氏没落後、奇跡的な変転を経て徳川大名として明治まで生き残ります。古代からの名族が、その勢威を維持したまま存続し得た、天皇家と並ぶ稀有な例です。
  諏訪大社下社の大祝家金刺氏は、歴史的意味合いにおいて、神威としては上社に劣りますが、政治的地位で見れば諏訪氏を、その分家とする立場でした。金刺氏は、倭政権と深く関わり勢力を伸張させ、倭政権の朝鮮半島の戦役などの負担で零落した本家にあたる科野氏に変わり、伊那地方を地盤にし、かつて日本列島に生息しない馬、特に軍馬の養成地として経済的基盤を確立します。
 やがて伊那から高遠、杖突峠を越えて諏訪に侵攻し、諏訪大社の祭祀権をも含め出雲勢の建御雷神一族から、その地位を簒奪します。 やがて、その金刺氏が小笠原氏にくみし、諏訪神家党と敵対します。金刺氏の最期も、文明15年(1482)正月、諏訪家総領政満が大祝継満に謀殺された際、乗っ取りを謀り侵攻し、逆に敗れたことに起因します。永正15(1518)年、上社総領家・諏訪頼満が下社に侵攻し、金刺昌春は下諏訪町にあった山吹城で防戦しますが、たちまち破られ、最後は砥川と東俣川の合流地・萩倉の要害に篭ります。終に金刺氏はここに滅亡します。
7)「二十日先代の乱」後の北条時行と諏訪情勢(観応の擾乱と桔梗原の戦い)
諏訪大社上社本宮、北条時行はその生涯において、参拝の機会が得られたであろうか? 時行は鎌倉を脱出し、尊氏が後醍醐天皇と決定的に決裂すると、延元元(1336)年、足利氏を共通の敵とするということで、南朝方に帰順します。
 北畠顕家
は、延元2(1337)年1月8日その本拠を、多賀城から約60キロ南の奥州霊山(福島県伊達市)に移します。当面は防御を重視することにしたのです。
 この時期、後醍醐天皇は吉野に逃れながらも、強い抗戦の意志を示しますが、頼みの新田義貞が金ヶ崎で包囲されるなど、宮方の勢力は急速に衰えていました。陸奥でも、相馬胤頼が拠点を回復するなど、宮方の力は徐々に劣勢となります。
 北畠顕家は、延元2(1337)同年年8月11日、義良親王(後の後村上天皇)を擁して、結城・伊達・信夫・南部・下山諸氏をはじめ、奥州54郡から2万騎を率いて霊山を発します。顕家の遠征中に、宮方の奥州支配が覆される可能性は高かったのですが、戦略眼の無い後醍醐天皇は、自分の身の安全のみを優先にして、上洛を促す勅使を派遣します。已む無く顕家は、遠征をせざるを得ませんでした。これほどの武将です。楠木正成同様、結果は予測していたでしょう。そして、武蔵国に入って安保原で合戦したのは同月16日でした。
 顕家快進撃の報を受け、時行も呼応し50騎を率いて箱根に陣を布きます。やがて時行の軍は、5千騎と膨らみます。 新田徳寿丸(義興)も上野国に挙兵し、入間川に進出します。 味方を得た顕家軍は、鎌倉を占拠せんと、北朝軍を破って利根川を渡ったのは12月13日頃です。『大国魂神社文書』では、「上野国富根河」と表記しています。鎌倉街道を駆け下り、24日、小坪・松本・前浜・腰越など、鎌倉各地で北朝軍を破ります。この時、関東執事にして奥州総大将斯波家長は度重なる敗戦の責を負い、宿老とともに鎌倉市二階堂の杉本観音で自刃して果てます。 足利基氏は逃亡しています。『鶴岡社務録』では、23日に打ち入って、25日に付近の杉本城が落ちたとしています。かくして奥州南朝軍が鎌倉を占領したのは12月25日です。霊山を出発した4ヶ月半後に、ようやく鎌倉を制圧したのです。

 1月8日、顕家は早くも大軍を率いて鎌倉を進発します。その上洛軍に 時行軍も同行しています。途中、今川範国土岐頼遠といった有力な足利一族に追尾され、その上遠征途上に陣を布く北朝方と転戦を重ねます。その麾下の兵が精鋭であるといえども、奈良に到着したのは2月21日のことですから、その頃には長征と連戦の疲労が、兵をすっかり困憊させていました。まして京阪を守護する相手は老巧な高師直です。その後の一連の合戦に顕家は敗れます。師直の勝報が京都に伝えられたのは17日のことです。
 5月、北畠顕家は未だ健在でしたが、その軍兵は満身創痍となり、顕家は自らの最期を悟り、5月15日に後醍醐天皇に文を送り、政道を正すように奏上しています。南朝軍は幾多の合戦に勝利したにもかかわらず、有力な武士は依然として北朝に味方しており、一向に戦局が好転しない。軍略に疎く、楠木正成など数々の有為な武将を死地に追い遣る後醍醐天皇の新政に対する失望を禁じ得なかったのです。血涙をもってしたためられた上奏文を後醍醐天皇に奏請、その一週間後の5月22日、石津川(堺市西区)において、顕家は戦死を遂げます。
 この時も、北条時行は辛うじて追手を逃れ、やがて、吉野に姿を現します。ある計画に参加するためでした。先述した顕家の上奏文に、「九州および東北に有為の人材を派遣して皇化を布き、山陽と北陸に重鎮を置いて非常の変に備えらるべきこと」とあります。これを踏まえて同年9月、伊勢国大湊から東国に出帆した南朝の船団に、時行軍も乗り込んでいます。
 延元4(1339)年、各地に派遣された南朝方は、その活動を活発にします。北朝方も、すぐに対策の手立てを講じます。高師冬を北畠親房が拠る常陸へ高師泰を宗良親王が拠る遠江へ派遣します。対して 宗良親王を奉ずる井伊氏は、三河・遠江国境を厳重に警戒しますが、師泰は水軍を使って国境を迂回し、白羽湊付近に上陸し、井伊氏の防衛線の背後に回ります。7月22日、一挙に井伊氏の裏をかき本城の大平城を取り囲みます。大平城には、宗良親王が在城し、翌年、興国元(1340)年8月24日まで持ちこたえることになります。   大平城が危機に陥っている興国元(1340)年6月24日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城で挙兵します。上社大祝諏訪頼継も参軍しています。大徳王寺城は高遠城辺りではないかと考えられています。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲します。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れます。援軍を連れて来たわけではなく、居城であった大平城が陥落し、尾羽打ち枯らす体(てい)で保護を求めてきたのです。
 北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていきます。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させます。そして、籠城4ヶ月後の10月23日、大徳王寺城は落城します。 北条時行は、またしても潜伏を強いられることとなります。 時行は自刃せず、信濃国を離脱し、直ぐ軍を再興させ戦い続けます。しかしこの敗戦は信濃のみならず近隣諸国の南朝軍にとって大きな打撃となりました。小笠原氏の信濃制圧は確実に進められます。
 康永3(1344)年、宗良親王は伊那に入り香坂高宗の拠る大河原城(長野県大鹿村大河原)に身を寄せます。滋野氏の傍流とされる香坂氏は、以後、31年間にわたって大河原を拠点に、宗良親王を守り続けます。奥地の内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、周囲の桃ノ井氏知久氏など小豪族・土豪をまとめて宗良親王を庇護し続けます。当時の伊那は、天竜川東岸が南朝方の勢力圏、西岸は北朝方の小笠原氏の勢力圏となっていました。高宗は東岸側の大草郷(上伊那郡中川村)から大河原(下伊那郡大鹿村)までを領していました。
 
 室町幕府政権内に、大きな亀裂が発生します。尊氏と直義兄弟の対立、専横著しい尊氏の執事高師直処分問題などで、観応元(1350)年遂に破綻します。直義は尊氏の対抗勢力として旧北条と南朝の武士を糾合します。信濃の南朝勢力の雄、諏訪氏は、宿敵小笠原を駆逐する絶好の機会として、これに応えます。
 観応元年、足利尊氏派・直義派の対立に起因する観応の擾乱(かんのうのじょうらん)に便乗し、南朝は一大作戦を敢行します。北畠親房・顕能楠木正儀は京都を目指し、これを奪回します。関東においても、2月15日、上野において、新田義貞の2男義興・3男義宗、脇屋義治(義貞の甥)ら新田勢が、征夷大将軍宗良親王を奉じて、上杉憲顕をはじめ上野・信濃・越後の直義党の武士とともに武蔵に向い挙兵します。 当時鎌倉にいた尊氏は、新田軍の進撃が急であることを見て、鎌倉を脱出し、軍勢の集結を待って反撃に出る作戦をとります。挙兵からわずか3日後の18日、新田軍は抵抗らしい抵抗も受けずに鎌倉を占領します。 だが、尊氏はすぐに押し返し、江戸・豊島・河越などの諸氏の参陣を得て、19日には谷口(稲城市矢野口)に移動布陣します。それを知った義宗は鎌倉から関戸に向かい、20日の夜明けに義興・義宗の軍は多摩川から国分寺に出陣、谷口(矢野口)を発して府中へ向かった尊氏の軍と金井原(東京都小金井市前原町)・人見原(府中市浅間町)で、28日には小手指ヶ原で、足利新田両軍は合戦します。この合戦では両軍とも相当の損害を出しましたが、尊氏方では石塔義房らが、新田軍に内応して戦場を離脱したことなどにより、苦戦に落ち入り石浜城(台東区浅草付近が有力)まで退きました。石浜で勢力を回復した尊氏は、鎌倉に入った新田義興を討つ前に武蔵北部に布陣する義宗・上杉憲顕を攻めます。25日府中に出陣し、さらに28日小手指原・入間河原・高麗原で新田勢を打ち破り信越方面へ駆逐します。 一方、鎌倉にいた義興・義治は3月2日鎌倉を出て河村城(神奈川県足柄上郡山北町)に立てこもりましたが、15日足利一門の畠山国清に攻められ信濃へ退きました。こうして3月12日尊氏は3男基氏とともに鎌倉に入ります。

 新田軍は敗れますが、鎌倉には踏み止まります。 時行が援軍を率いて鎌倉に入ったのは閏2月20日のことです。既に大勢は決していました。南北朝両軍の主力は笛吹峠(埼玉県鳩山町と嵐山町の境)において対峙し、足利軍の一手は鎌倉へ向かっています。28日、鎌倉と笛吹峠において合戦となります。南朝軍は、鎌倉は死守しますが、肝心の主力が笛吹峠で敗れ、新田・北条の鎌倉軍は、3月2日には撤退を余儀なくされます。義宗ら新田勢は越後に落ちて行きます。時行が鎌倉にいることが出来たのは、わずか二週間足らずでした。

 師直の従兄弟、後に猶子高師冬が、上杉憲顕と協力して尊氏3男の鎌倉公方、幼少の足利基氏を補佐していました。しかし京で師直と足利直義による対立が発生すると、師冬も直義派である憲顕と対立することになります。この戦いに敗れた師冬は、観応2(1352)年、甲斐国須沢城(山梨県南アルプス市白根町)に立て籠もります。この時6,000余騎の軍勢を率いて攻城戦に当ったのが、諏訪上社大祝信濃守直頼です。その軍勢に包囲され、翌年1月17日、逃げ切れないことを悟った師冬は、自刃して果てます。
 その間の6月から8月に掛けて、直義派の諏訪勢と小笠原勢が、善光寺平で激しい戦いを繰広げていました。その間隙をついて直義は、信濃を通過し11月には鎌倉を制圧します。
 
 後世、観応の擾乱と呼ばれますが、その結末は朝廷の存在意義を疑う内容でした。尊氏は南朝と交渉し、和議の提案と直義・足利直冬追討の綸旨を要請します。南朝は、北朝が保持していた三種の神器を渡し、政権を返上することなどを条件に和睦に応じ、10月には尊氏は南朝に降伏して綸旨を得ます。 尊氏は、義詮を京に残して南朝との交渉を任せて直義追討のために出陣し、翌観応3(1352)年には直義を駿河国や相模国早川尻(神奈川県小田原市)などの戦いで破り、鎌倉に追い込み、直義を降伏させます。鎌倉に幽閉された直義は2月に急死、『太平記』は尊氏による毒殺であると記しています。
  吉野南朝の余りの無定見さにより、南朝方の地方勢力は一気に崩壊していきます。諏訪直頼の胸中は充分理解できます。しかし大祝は南北朝期最後となる大反撃に出ます。直義急死の2月、傷心の宗良親王を励まし、北陸の新田氏と連携し、現在の埼玉県金井原と小手指原で滋野氏他信濃勢と新田義宗上杉憲顕の同盟軍を主力にして戦いますが、最早武士諸家の殆どは、南北問わず朝廷を見限っています。軍勢も集まらず、もろくも敗退します。親王は香坂高宗の拠る大河原城に逃れます。
 この時既に、小笠原氏発展の基礎を築いた小笠原貞宗は天寿を全うしています。その子・政長も病に臥し文和元(1352)年4月、「敵将諏訪直頼の滅亡も目の辺りとなったが、不幸病気のため、その撃滅が意に任ぜず残念」と、その書簡で述懐しています。諏訪氏をはじめ神家党の諸武士団は、かなり追い詰められていたのです。やがて神家党の解体が始まります。
   『鶴岡社務録』によれば、時行は遂に足利勢に捕縄され、文和2(1353)年5月20日、鎌倉西郊滝の口の刑場で斬られます。その直後の6月9日、楠木正儀石塔頼房の南軍は、また京都を占拠します。
 文和4(1355)年春、越後国で南朝軍が敗退すると、宗良親王は信濃伊那大河原城に戻り、諏訪氏、金刺氏、仁科氏などの南朝勢力を結集して、再起をかけて府中に進撃します。その途上、桔梗ヶ原(塩尻市)で信濃守護小笠原長基(政長の子)の軍と決戦(桔梗ヶ原の戦い)に及びます。激闘のすえ宮方勢は完敗して再起不能の状態に陥ります。
 上野・越後守護・上杉憲顕は「観応の擾乱」が勃発すると直義派に属します。憲顕は高師冬と共に鎌倉公方基氏を補佐していました。直義方の上杉重能(憲顕の父憲房の養子)が、高師直のクーデターにより、畠山直宗と共に、越前へ流され、師直の命を受けた守護代に暗殺されると、直義方の憲顕は高師冬と対立します。上杉重能の養子・上杉能憲と共に尊氏に敵対し、観応2(1351)年には師冬を鎌倉から追放して、甲斐国須沢城に立て籠もる師冬を、諏訪氏に攻めさせこれを自害に追い込みます。さらに直義を鎌倉に招こうとしたため、尊氏の怒りを買って上野・越後の守護職を剥奪されます。翌正平7(1352)年、直義が死去して観応の擾乱が終結します。越後国内の諸将は憲顕から離反し、憲顕は信濃国に追放され、このとき、剃髪して道昌と号します。
 文和4(1355)年 3月4日、上杉憲顕の長男上杉憲将宇佐美一族は、顕法寺城(上越市吉川町顕法寺)で挙兵します。3月25日、風間長頼と戦い敗れて顕法寺城が陥落。六角峰(上越市元中頸城郡)、更に柿崎城(上越市柿崎区柿崎字城崎山)に拠るも、死守できず四散します。4月16、17日、信濃の小笠原氏は、越後を追われた上杉憲将、祢津弥次郎行貞らと戦いますが、その場所は不明です。翌延文元(1356)年には、憲将は信越の国境志久見郷(栄村)で敗退します。
 尊氏亡き後、将軍義詮鎌倉公方基氏によって、基氏の信任が厚かった上杉憲顕が赦免されると、河内武家の畠山国清の関東管領職及び東国武家の宇都宮氏綱が務めていた越後・上野守護職が公式に剥奪され、上杉憲顕がその後釜に返り咲きます。上杉氏は代々その職位に就くこととなります
 信濃の宮方勢力は駆逐され、残存勢力の多くも、北朝方の小笠原氏に寝返ります。祢津小次郎行貞祢津孫次郎宗直も、かつて足利直義の下で戦い、乱後は将軍足利義詮に仕え、延文41359)年12月23日、義詮による後村上天皇攻撃軍に、その名がみえます。同年12月19日、将軍義詮は下社大祝に御教書を発給して、天下の平穏を祈らせています。桔梗ヶ原の戦い後、下社は幕府に帰順したのです。諏訪氏は「守矢満実書留」によると、貞治(じょうじ)5(1366)年に到っても、南朝側でした。しかし将軍義満の代には、帰順しています。応安5(1372)年、諏訪兵部大輔入道頼貞将軍義満から小井川・山田の2郷を預けられています。永和3(1377)年8月、幕府は信濃守護上杉朝房に、国中の所役である上社造営料の督促を命じています。当時信濃国は鎌倉公方の管轄下に置かれていました。
 その後は次第に強まる守護の領国支配に抵抗する、村上氏など国人領主たちと守護との対立が表面化していくのです。
 応安2年/正平24(1369)年には関東管領で信濃守護職の上杉朝房が大河原に攻め寄せますが、香坂高宗は大河原の地を守り抜いています。
 文中3年/応安7年(1374年)失意のうちに宗良親王は吉野に去りますが、その後も度々大河原の地を訪れていたとされ、親王終焉の地の有力候補となっています。高宗は応永14年(1407年)に大河原城にて亡くなったとされています。

 諏訪氏は中先代の乱後、大祝頼継は朝敵ということで大祝職をうしないます。高遠氏は、南北朝時代の興国元(1340)年、伊那郡大徳王寺城の戦で敗れた諏訪大祝頼継の嫡男信員を始祖とします。高遠氏歴代のうちで実在の確実な継宗・頼継がいずれも「諏訪信濃守」「諏訪信州」を称していることから、諏訪氏の分流であることは確かです。高遠氏の祖・信員は諏訪氏の惣領でしたが、諏訪郡内の主要地は北朝方の勢力圏内にあり、南朝方の諏訪氏としては、南方の山間部にその勢力を維持拡大せざるをえず、その結果高遠を重視し、惣領信員の拠点としたのです。その結果、信員の系統は、諏訪を出て高遠領主となったのです。そのため高遠氏の代々には、本来なら諏訪惣領家であるとの自負があって、戦国時代における諏訪氏と高遠氏の争いの遠因の一つとなっています。
 信員のあと、高遠氏は義海・太源・悦山と続きますが、いずれも法名でありそれぞれの事蹟も不明です。南朝方の相当の混乱期であり、高遠氏の名があらわれてくるのは悦山の子という継宗のころからです。
 南北朝の内乱期は南朝方として足利尊氏に抵抗しながらも、大祝職は頼継の弟系統である信嗣・直頼・信有・有継と伝えられていきます。しかし、有継以後の大祝は惣領家から出ず、ほとんど傍系から輩出するようになります。有継の次代・氏泰は応永8(1401)年に大祝となります。天文11(1542)年、甲斐に送られ自害させられた、諏訪氏没落当時の大祝頼高まで15代を数えます。その間、惣領家と大祝家の系統が分離し、在位期間も長引くようになり、平均11年、次第に社領を基盤とする大祝の力も強まり、ともすれば惣領家と対立するようになるのです。 その背景には、南北朝期の内乱から続く中世争乱の過程で、所領が分割相続から、嫡子(惣領)による単独相続へという変化がありました。惣領へ権力が集中すると、惣領への就任志向が高まり、一族・被官を巻き込んだ相続争いが各地で頻発するようになります。その一事象が信濃守護小笠原氏の内訌であり、諏訪氏もそのような時代世相と無関係ではなかったのです。
 室町中期諏訪郡内における大祝領は、武居庄があった安国寺・小町屋・高部・神宮寺・田辺と大熊など、上社を中心にする宮川以西にありました。
 惣領家領は、宮川以東の上原・神戸・上下桑原・南北栗林・金子を所領としていました。
そして下社には金刺氏、背後には高遠諏訪氏と戦国領主化し、様々な葛藤を生み、またも大きな悲劇を招きます。 
  

 車山高原リゾートイン・レア・メモリー諏訪の歴史散歩

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