中世の塩田庄の地、別所線の沿線一帯を塩田平と言い、土地が肥え、気候が良い為、上田藩の米蔵といわれた。
南北朝時代の信濃武士

 諏訪の海や 氷を踏みて 渡る世も 神し守れば あやふからめや
                                  (新葉和歌集;宗良親王 )
 見わたせば あしたの原の 薄がすみ 薄きや春の はじめなるらん

                                         惟宗広言
 目次       Top          
 1)鎌倉時代の小県地域  2)鎌倉時代の塩田平と比企能員・北条重時との関係  3)泉親衡の乱  4)塩田平の仏教  5)塩田平と村上氏
 6)中先代の乱と建武親政  7)足利尊氏自立  8)足利尊氏九州へ敗走   9)足利尊氏再起  10)後醍醐天皇南朝へ去る 
 11)足利尊氏再度
後醍醐を追う
 
 12)新田義貞の最期  13)後醍醐天皇吉野へ  14)南北朝時代の始まり 
 15)北畠親房常陸国より出奔   16)宗良親王、信濃国
大徳王寺城陥落
 17)宗良親王の信濃国南朝軍終焉
 18)足利幕府の制度  19)足利直義と高師直の確執  20)貞和の政変  21)足利直義、高一族を滅ぼす
 22)高一族滅亡後の信濃国  23)観応の擾乱終結  24)宗良親王、更埴地方で奮戦 
 25)宗良親王南朝軍
最期の戦い
 26)信濃戦国時代の前奏  27)足利義満の南北朝合一 

1)鎌倉時代の小県地域
 丸子城址;丸子表の戦い、天正13(1585)年8月2日、真田昌幸は沼田城(群馬県)の明 渡しを拒み、徳川家康の大軍と神川の辺りで戦い、これを撃退した。 その後、徳川軍は丸子城に矛先を変え、八重原に布陣した。丸子城は落城しなかった。
 木曽義仲は、治承4(1180)年、信濃丸子の依田城(上田市丸子)で挙兵した。義仲は依田城を本拠に、小県・佐久、さらに西上野の武士たちを白鳥河原(現東部町本海野;もとうんの)に糾合し、反平家の旗を掲げ都へ向かい進撃した。以後、丸子の長瀬(旧丸子町)に館を置く長瀬氏は義仲と行動を共にした。当時、義仲軍に加わった塩田八郎高光は塩田庄(現上田市西南の塩田平一帯)の荘官と考えられる。他に望月・矢島・海野・小室・根井氏など東信濃の土豪の名も記されている。
 木曽義仲が京都で源頼朝に討たれた後、小県地域も源頼朝の勢力圏となる。頼朝は文治元(1185)年8月平家を滅亡させた。その時、既に三河・駿河・武蔵の3か国の知行国主になっていたが、さらに伊豆・相模・上総・信濃・伊予の5ケ国の知行国主にもなった。同年11月28日、後鳥羽天皇より、諸国守護・地頭の設置と任命権を勅許され、公領荘園を問わず兵粮米の徴収権も得て、実質上全国統治権者となった。

 鎌倉時代の小県地域は信濃国で最も発達した地域であった。大化の改新以前、国造が所在し、塩田平はその国造の治所と想定され、1,200年前の奈良時代には、信濃の国府が千曲川右岸、国分寺の北方の現上田市神代台上に置かれたと見られている。ここから千曲川を東行すれば佐久地方から碓氷坂(入山峠)を越え西上野へ、西行すれば北信から古代の越へ、神川に沿い東に遡上すれば四阿(あずまや)山麓の鳥居峠を通り北上野へ、西は三才山峠を越えて筑摩地方松本へ、依田川上流を南進すれば大門峠男女倉道から諏訪・伊那へ通じる。鎌倉時代になると、その政治の中心が塩田地方の南に聳える独鋸山に移った。

 特に上田市丸子は松本、諏訪、長野、関東方面へとつながる交通の要所で、依田川流域には、腰越(丸子町)の大羽毛山(おおはげやま)の頂に館を置く丸子氏や、長瀬(同町)に館を置く長瀬氏が隆盛であった。
 丸子城は標高684m、比高152mの大羽毛山上にあった。天正13(1585)年8月2日、真田昌幸は沼田城の引渡しを拒み、徳川の大軍と神川の辺りで合戦し、これを撃退した。その後、徳川軍は丸子城に矛先を変え、大羽毛山の3kほど東方、八重原に布陣した。丸子城では真田の家臣・丸子三左衛門が守将として、寡兵でありながら善戦を重ねていた。昌幸は八重原より4kほど北方、大屋よりの手白塚(塩川)に出てこれを牽制した。8月19日、諏訪頼忠が丸子城の攻撃を開始し、合戦が始まる。翌日、昌幸は南進し長瀬河原へ出て鉄砲で諏訪軍の背後をつくが、これを見た徳川の部将岡部長盛は軍を2手に分けて出撃し、昌幸の進路に当たる中丸子寿町近くの河原町に火を放って真田軍を退けた。長盛は、前年、羽柴秀吉を相手の小牧長久手の合戦で戦功を挙げている。
 徳川軍は、主郭を直撃する南東の辰ノ口側から攻城にかかる。しかし、上田城で惨敗した痛手で、士気が上がらないまま攻略できず小諸城まで引き揚げていった。これが「丸子表の戦い」である。
 現在、城址は「丸子公園」の安良居神社奥から登山道があり、元々は「飯盛城」と「丸子城」から形成されている。

 2)鎌倉時代の塩田平と比企能員・北条重時との関係
 元暦2(1185)3月、平家が壇の浦で滅亡した。翌年正月、塩田庄の地頭に惟宗忠久(薩摩島津氏の祖)を任じた。惟宗氏は、平安末期に近衛家に仕え、忠久の父広言(ひろこと)が近衛家領島津荘の下司となり、初めて島津氏を称した。忠久は幕府創建の頃から頼朝に近侍し、その忠を賞され、薩摩・日向・大隈3ヶ国に亘る広大な島津荘の荘官に任じられと共に、その惣地頭として強大な勢力を保持した。一定地域の地頭を統轄する惣地頭とは、領地を分割相続した鎌倉時代、小地頭の庶子たちを統率する一族の嫡流を継ぐ者を称した。
  島津忠久は頼朝の庶子とも伝えられている。 頼朝は朝廷の実力者丹後局と深く交際していた。忠久は丹後局の子とも言われた。忠久も初めは惟宗忠久を称し近衛家に仕えていたが、頼朝やその側近比企能員の信頼を得ると、島津忠久と名乗り鎌倉幕府初期、種々の要務に携わった。
 頼朝が平家を壇ノ浦で滅亡させ、元歴2(1185)年11月、「地頭守護」の設置権を握った。その2か月後、腹心の忠久を塩田庄の地頭に補任した。その時の補任状が今も残る。頼朝の宿敵義仲が依田城を本拠とし、依田窪塩田平を有力な勢力基盤としていたため、忠久に義仲の残存勢力の一掃に当たらせた。こうした経緯から頼朝が没してからも、北条氏は塩田庄を重視し信濃国守護所を当地に置いた。小県郡塩田は現上田市の南西に位置する数k四方の盆地であるが、近世上田領に属し「塩田3万石」といわれ上田藩の穀倉地帯であった。古来、その北辺を東山道が通る要路であり、政治的にも経済的にも重要な位置を東信濃において占めていた。
 八田知家は下野宇都宮氏の2代当主宇都宮宗綱(八田宗綱)の4男であるが、異説として父は源義朝ともいわれている。源氏とは深い縁故で繋がる知家の子茂木知基が、将軍実朝の時代、依田庄の地頭職に補任している。
 信濃の最初の守護職は、比企能員であった。能員は頼朝の乳母の養子であり、その妹は、頼朝の嫡子頼家の乳母、その娘は頼家の室となり、長子一幡を産む。頼朝との深い縁は、能員を御家人筆頭の一人とした。頼朝が政権を握ると、越前・加賀・能登・越中・越後の北陸道と信濃・上野の東山道の守護人となっていた。
 頼朝が没したのは建久10(1199)年1月13日であった。享年53。長子頼家が継いだが18才であった。幕府は宿老会議を組織し、若い頼家に頼朝のような独裁権を与えないよう仕組んだ。その構成員は、北条時政・同義時・大江広元・三善康信・中原親能・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時・二階堂行政の13人で、以後その重臣合議制で訴訟などの採決が下された。頼家は親裁権を奪われ、対抗上、5人の昵近衆(じつきんしゅう)を側役として置いた。そのうち4人、小笠原弥太郎(長経)比企三郎(宗朝)同四郎(宗員)中野五郎(能成)が信濃国と関係が濃い。小笠原弥太郎は甲斐から信濃にかけて勢力を扶植してきた佐久伴野庄の地頭小笠原長清の長男であり、比企三郎(宗朝)、同四郎(宗員)は、信濃守護能員の子である。中野五郎(能成)は信濃国中野を名字の地とする北信地方の雄族であった。こうした経過が頼家の没後、「泉親衡の乱」となり、その結果が「和田合戦」を誘発し、最終的に北条氏の地位を盤石にさせた。
 比企能員の娘若狭局との間に一幡が生まれ、比企氏が将軍外戚の地位に立ったため、時政がこれを警戒した。建仁3(1203)年8月、頼家が急病となり危篤に陥ると、時政は頼家の跡目として、一幡が将軍職と関東28か国を相続し、頼朝の第2子千幡(実朝)には諸国惣地頭職を分与するとした。比企一族は憤懣激昂したが、その年の9月、比企能員は北条時政に先手をうたれ、一幡の屋敷にいるところを急襲され、一幡と共に主な一族は殲滅された。このことを知った頼家は和田義盛・仁田忠常に時政追討を命じた。しかし義盛はこれを時政に密告し、忠常は時政によって誅殺された。頼家は危篤状態を奇跡的に脱したが、孤立した頼家は出家落飾を強いられ、同月29日に伊豆修禅寺(静岡県田方郡修善寺町)に幽閉された。翌元久元(1204)年7月18日、北条時政の討手により殺された。
 比企氏が建仁3(1203)年、北条氏により一族が誅伐されと北条義時が守護職となる。以降、義時の子、極楽寺流の重時、その孫(赤橋)義宗、その子・久時と相伝される。貞応3(1224)年6月13日、義時が享年62で急病死し、六波羅にいた長兄泰時が鎌倉執権に迎えられ、第3子駿河守重時が信濃守護となった。重時はその後も若狭・和泉・讃岐といくつかの守護職を兼務するが、連署を退く建長8(1256)年まで、32年間信濃守護であった。
 塩田地方の南に聳える独鋸山(とっこさん)の北斜面には延喜式内塩野神社、中禅寺薬師堂、前山寺(ぜんさんじ)三重塔などの中世の文化財が集中している、その中央に塩田城跡がある。今でも中世前期の広大な城郭址と町割り遺構が残存していた。上町(かみちょう)・下町(しもちょう)・立町(たつまち)・市町・下城戸(しもきど)・道場・談議所など特異な字名が中世の城下集落の証となっている。独鋸山の北斜面からは広闊な塩野平を一望し、山頂からは善光寺平が望める。その地に北条氏祈願寺の前山寺と、北条氏菩提寺竜光院を左右の要とし、信濃守護所を構えた。

3)泉親衡の乱
 上田原の西部を流れる浦野川、この上流右岸に小泉の地名が残る。
 源氏の将軍が3代で絶えた後、北条氏は、その勢力基盤を信濃に求めて国内の多くの荘園を一族や御内人(得宗家被官)の管理とした。そうした北条氏に反発して、小県郡小泉庄(上田市西部)を本拠地とする泉小次郎親衡らが反乱を企てる事件が起きた。
 小泉庄の中心は現在の日向小泉で、東は上田原・築地・神畑、南は塩田平の保野(ほや)・舞田、西は兵庫・岡・仁古田、北は室賀全体を含んでいた。この辺りは古代東山道と古代北国街道が交わる要衝であった。また浦野川・産川の下流域が沖積した上田・小県地方では、最も肥沃な土地であった。
 泉氏は『尊卑文脈』によれば「源満快(みつよし)系の為公(ためとも;信濃守として下向した際、伊那郡に上ノ平城を築城し、後に為公の後裔が南信濃に勢力を張り地盤を築いた)の第二子伊那太郎為扶(ためすけ)の孫快衡は諏訪太郎を称し、その第一子公衡は泉二郎、大二子盛快は室賀二郎を称した。公衡の子孫はみな泉氏を称し、その第一子が泉小二郎親衡で、第四子の六郎公信は、泉氏の乱によって引き起こされた『和田合戦』に北条氏のため奮戦して討死した。また室賀二郎の子幸快は諏訪部二郎を称し、その子快高・孫快頼の父子は全部諏訪部を称す」と記されている。
 信濃の御家人泉親衡は信濃源氏の祖源為公の後裔で、同族の室賀氏や諏訪部氏と共に上田市の西方地方に在し、その嫡流として信濃源氏の中心としての勢力を保持していた。泉親衡は、将軍頼家を殺害し、源氏に代わり幕府の実権を握らんとする土豪出自の北条氏による専横を、信濃源氏の嫡流として看過できなかった。
 建久2(1191)年3月の鎌倉大火で幕府が焼失したが、村上義国の邸が比企・佐々木・新田・工藤の有力諸士同様焼失した事が『吾妻鏡』に記されている。頼朝以来、当初義仲残党と疑われながらも、弓馬の技術を賞され金刺諏訪藤沢望月祢津などの武士が次第に重用された。広大な信濃の牧野を疾駆し、塁代蓄積継承されて来た弓馬の技術は頼朝に評価され、宿老と対抗する.勢力として頼朝は涵養してきた。2代頼家もその思惑を継いでいた。
『吾妻鏡』には頼朝没後40年後、嘉禎(かてい)3(1237)年、当時の3代執権泰時が、その子の時頼の初の流鏑馬行事に当たり、推定63歳の海野幸氏をわざわざ弓の指南役として呼び出したことが記されているほどだ。幸氏は寿永2(1183)年、義仲の子義高が頼朝の人質として鎌倉入りする時、11才であったが随伴を命じられた。義仲戦死後、義高も誅されたが、その時身代わりとなり義高を逃がそうとした忠勤を頼朝に賞賛され、海野氏の家督を継ぎ、海野氏は滅亡を免れた。幸氏は武田信光小笠原長清望月重隆と並んで「弓馬四天王」と称されたと伝えられるほどの弓の名手で、次第に信任され、諏訪の藤沢氏、佐久の望月氏などと共に頼家の親衛隊の一員となっている。『吾妻鏡』では、将軍の行列・巻狩など幕府の公式行事には欠かさず随行する目立つ存在であった。

 義時が2代執権となった7年後の建歴(1212)2年の暮れ、『吾妻鏡』は「鎌倉中騒がしく、道々やたらざわめき、これは歳末の忙しさによる.だけでなく謀叛を企てている連中がいる」と事変の予兆を記している。『吾妻鏡』は2月15日、千葉成胤が不審な法師を捕らえ尋問した。信濃国住人青栗七郎の弟阿静房安念という僧で、幕府に反逆する一味と判明し、さらに糾明すると、信濃を中心とする越後から関東にまで及ぶ大規模な謀叛計画が発覚した。義時は直ちに追捕に当たらせ、捕らえられ者は
 ・一村小次郎近村 佐久郡市村(小諸市市村区) 泰時に預けられる。
 ・籠山(小宮山)次郎 佐久郡小宮山(佐久市小宮山区) 高山重親に預けられる。
 ・上田原平三父子3人 小県郡上田原(上田市上田原) 豊田幹重に預けられる。
 ・狩野小太郎 結城朝光に預けられる。
 ・宿屋(宿岩)次郎 佐久郡宿岩(佐久町宿岩区) 山上時元に預けられる。
 ・薗田七郎成朝 上条時綱に預けられる。
 ・和田四郎左衛門尉義直 伊東祐長に預けられる。
 ・和田六郎兵衛尉義重 伊東祐広に預けられる。
 ・和田平太胤長 金窪行親・安東忠家に預けられる。
 ・渋河刑部六郎兼守 安達景盛に預けられる。
 ・磯野小三郎 小山朝政に預けられる。

  安念のさらなる自供により、地方在住者にも及び、信濃では保科次郎(高井郡保科)・粟沢太郎父子(埴科郡粟佐;更埴市粟佐)、越後では木曽滝口父子、下総では八田三郎・和田奥田太・同四郎、伊勢国金太郎、上総介八郎・甥臼井十郎・狩野又太郎など、首謀格は130余人、伴類200人に及んだ。当時、北条氏による政権簒奪に、信濃以外でも頼朝以来の源氏恩願の武士たちには、極めて不快であったようだ。義時は小山朝政・二階堂行村・結城朝光ら各国の守護と金窪行親・安東忠家ら得宗家被官に追捕を命じた。
 吟味の結果、信濃国御家人泉親衡が、尾張中務丞の養子となっていた頼家の子千寿を将軍に擁立し、一昨年から北条氏を打倒する謀議をしていた事が判明した。『吾妻鏡』によると、当時、親衡は鎌倉の在していたようで、早速捜索が開始され、3月2日筋違橋(違橋;鶴岡八幡宮東の鳥居近く)付近に隠れていると知らされ工藤十郎を向かわせた。親衡は工藤十郎とその郎党数人を斬り殺し逐電した。その後懸命の探索が続くが杳として知れず。

 この「泉親衡の乱」が未然に摘発され、その首謀者泉氏は潰滅し、小泉庄は、有力御家人で、東信地方の雄族海野氏と薩摩氏が分割支配した。以後、上田・小県地方の源氏勢力は全く影を潜めた。

 北条氏の重鎮である北条重時が信濃国守護に任じられると、小県地域は信濃における北条氏の確固たる中心基盤となり、その守護所が塩田平に置かれた。塩田平は、上田盆地の南西部に当たり、独鈷地区と別所温泉地区とを合わせた総称で、南は独鈷山塊、北は別所丘陵に囲まれている。建武2(1335)年、塩田庄は足利高氏に呼応し功を挙げた村上信貞に与えられた「塩田12郷」とほぼ変わらないと見られている。
 延応元(1239)年執権北条泰時は、別所丘陵を越えた北方の小泉庄の室賀郷内の水田6町6反を、念仏衆12人の不断念仏料(昼夜間断なく念仏を唱えるための料)として善光寺に永世寄進した。 『吾妻鏡』には、泰時は年来善光寺に帰依し、当時病に罹り、特に弥陀の引摂(いんじょう;臨終に際し阿弥陀如来が来迎し引道すること)を頼んだという。泰時は3年後の仁治3(1242)年6月に病没した。
 建治3(1277)年、幕府執権連署北条義政(重時の子)が突然出家した。信濃国に入って善光寺に参詣の後に塩田平に入ったのが5月、その3ケ月後の8月、信濃守護職赤橋流北条義宗が25歳の若さで逝去、その子久時が守護職を継ぐが、わずか9歳であった。その幼少の守護を補佐したのが北条義政であり、守護代として塩田に館を構えた。
 その義政から始まり、北条国時、北条俊時と続く3代約60年間を塩田流北条氏と呼ぶ。北条義政が塩田平に入ると、小県地域の大部分がその支配下に入った。義政の子国時は塩田庄の地頭や幕府評定衆筆頭を務め、諏訪大社の頭役に勤仕した記録も残っている。元弘3(1333)年、鎌倉幕府の滅亡に際しては塩田北条氏も国時が、一族を挙げて鎌倉に駆け付けて戦い、子の藤時俊時、郎党2百余人らと共に鎌倉東勝寺で自刃している。塩田北条氏は北条氏一門と共に命脈を絶った。終末を迎えながら、北条氏ほど一族間の裏切りも無く、最期まで武士として戦い続け見事に果てた政権一族は、歴史上存在しない。塩田庄と小泉庄は北条没収領となり、後に村上氏や安保氏が入部する。塩田流北条氏3代、義政・国時・俊時の墓と推測されるのが、独鈷山の一支脈、弘法山山中(上田市東前山)の龍光院の参道に置かれる「お開基様」と呼ばれる無名の石塔である。
 鎌倉幕府滅亡後、小泉庄は足利尊氏の所領となり、その室賀郷の地頭職が安保(あぼ)光泰に与えられた。尊氏が成良親王を奉じ関東10か国を管轄したのが元弘3年12月中旬であった。その直後の同月29日付の「足利尊氏下文」(安保文書)で、尊氏が拝領した所領の一部「室賀郷」をさいて安保光泰を地頭職に補任した。光泰は足利政権草創期の尊氏にとって信頼するにたる武士のひとりであった。元弘の変以来尊氏に従い、中先代の乱でも、その忠誠は変わらず、北条得宗被官であった宗家の安保左衛門入道道堪が、最期まで北条幕府を支え続け「分倍河原(ぶばいがわら)・関戸河原合戦」で新田義貞軍と戦い討死にしたため、その遺領を継いだ。
 安保氏の本領は、武蔵国賀美郡安保郷(埼玉県児玉郡神川村元阿保)にあった。その館址が元阿保の西方、字上宿を流れる神流川(かんながわ)右岸にある。その武蔵国を中心として下野・上野・相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団武蔵7党の一つ丹党(たんとう)一族の武将であった。その宗家安保宗実(入道して道堪)は、鎌倉幕府の滅亡と共に滅び、その遺子達も中先代の乱に際し北条時行に呼応し敗退、これにより安保宗家は断絶した。安保光泰、つまり安保氏の庶家筋が、安保郷を継ぎ、更に室賀郷の地頭職に補任され家系を保った。
 「室賀郷」は光泰が支配して7年後、その子泰規に相続された。その時の暦応3(1340)年8月22日付の「安保光泰譲状案」が「安保文書」に遺る。「惣領中務丞泰規に譲り渡す分の事、一所、信濃国小泉庄内室賀郷事、但し庶子分これあり」とある。この譲状は惣領中務丞泰規分、次男左衛門尉直実分、3男彦五郎分の3人分を書き連れてあった。この証判には高師冬の花押があり、同年11月24日付である。
 「安保文書」から、惣領は本領安保郷以外、武蔵5郷・出羽2郷・備中1郷・播磨2郷・信濃1郷の11郷に亘るが、「信濃国小泉庄内室賀郷の事」に「但し、此内に女子分在家一宇、田5反之有り」と記されている。この時代の惣領支配と相続分割、女子相続の制度の有様が知られる。室賀郷に現在「緒子田(そしだ)」と「そしいり」の小字名が現存している。中世、庶子を「そし」ともいい、「緒子田」を「そしだ」と呼んだ。安保氏は室賀郷に庶子を配したようだ。
 関東に残る安保氏は鎌倉時代以後も紆余曲折を経ながらも、確証は無いが文明12(1480)年、安保吉兼御嶽城(埼玉県神川町)を築城したという。御嶽城は上野と武蔵国との境目の城として16世紀後半には激しい争奪戦が繰り広げられ、天文21(1552)年初めの御嶽合戦では、安保泰広が守る御嶽城を北条氏康が攻略した。元亀元(1570)年頃には武田信玄家臣として長井政実が城主となっている。以後、安保氏が当地から消えている。

4)塩田平の仏教
 京都南禅寺の開山とされる無関普門(むかんふもん;1212~1292)は、信濃国高井郡穂科(長野市保科)の地村上氏の出身で、若い頃塩田で仏門の修行をし、その後大成、鎌倉時代中期の臨済宗を代表する高僧となった。その南禅寺建立には、因縁話があり、その地は、神仙佳境と呼ばれる霊地で、亀山上皇の離宮禅林寺殿があった。
 北条貞時9代執権の時代、正応年間(1288~1293)の初め、離宮にしばしば九条道家の子、三井寺の長吏で「駒僧正(こまのそうじょう)」と号した道智(どうち)の怨霊が出たという。道智について、道智を神として祀る南禅寺の最奥の地にある塔頭寺院・最勝院高徳庵の寺伝によれば、道智は晩年、世を厭い、この神仙佳境即ち駒ケ滝最勝院の地に隠棲、文永3(1266)年3月3日、秘密の法力をもって白馬に跨り生身を天空に隠した、という。道智はこの聖地に執着していた。亀山上皇は律宗の名僧叡尊をして祈祷せしめたが、一向効き目がなかった。それで、後に南禅寺初代住持となる東福寺第3世の無関普門を呼んだ。普門は弟子たちとともに普通に暮らしていただけで怨霊は退散したという。この伝承は、多く語られているが、語られること自体、禅宗の本義と異なり臨済禅の恥と言える。
 その無関普門は、7歳の時、越後国中蒲原郡村松の正円寺の寂円に就き、13歳の時得度した。その後「信州の学海」と称された塩田平で学問を学んだ。塩田中学校玄関前の「大明国師無関大和尚塔銘」に「信州に却回(きゃっかい)して塩田に館す 乃ち信州の学海なり。凡そ経論にわたる学者、?(とう;かさ)を担い笈(おい;背に負う本入れか)を負いて皆至る。師その席に趨(はし)り虚日なし」と、普門が勉学に励む容子が記されている。鎌倉時代初頭から、信濃守護所が塩田にあり、政治・文化の中心であった。
 19歳で上野の長楽寺の釈円栄朝に師事し菩薩戒を受け、上洛して、栄西の禅風を一歩すすめる禅法と宋学を説く東福寺の円爾(えんに;諱は弁円;聖一国師)の下に参禅し嗣法する。建長3(1251)年、39歳で入宋し、断橋妙倫(だんきょうみょうりん)の印可を受け、在宋12年後、帰朝した。正応4(1292)年、80歳で東福寺の龍吟庵で没した。
 臨済宗の樵谷惟僊(しょうこくいせん)が開山の塩田別所(上田市別所温泉)崇福山安楽寺が建立されている。北条貞時の開基で、本尊は釈迦如来で塩田北条氏が代々信仰を重ねていた。樵谷惟僊は鎌倉建長寺の開山蘭渓道隆と同じ頃宋で修行したようだ。蘭渓道隆は臨済禅宗の渡来僧で、中国蜀(しょく)四川省の人で、寛元4(1246)年、北条時頼の招聘を受け容れ、宋朝の禅宗を、初めて我が国に定着させた。入国後も樵谷惟僊と深い親交を続けていた。京都霊雲院文書『鎌倉建長寺文書』にある塩田安楽寺方丈宛てに「前月参上に際し、大変厄介になり感激している」「杏仁(きょうにん;アンズの種子で漢方では鎮咳・去痰の薬にする)一斗、善光寺上品の鉢花、梨など贈られ誠に有難い」とか記され、『大覚禅師(蘭渓道隆)語録』には「道隆と塩田長老は、宋の国で禅宗を一緒に修行し、道隆は建長寺で、塩田長老は信州塩田で禅寺を本拠にし、100人、或いは50人と、仏・禅・道を指導した」とある。

 小野尾の「塩田安楽寺方丈」「塩田長老」とは樵谷惟僊をさすと言われている。「塩田安楽寺」は禅寺としての開創は、信濃国では劈頭(へきとう)であり、現在の安楽寺八角三重塔は、構造上、第一層に裳階(もこし)がある三重塔で、現存する八角塔としては唯一の建造物である。1290年代に建立されたと推定され、塩田流北条氏が寄進したものと考えられている。安楽寺八角塔は「禅宗様」で、禅宗寺院には塔の存在自体が稀で国宝とされた。安楽寺も、鎌倉幕府が滅びると衰退し、天正8(1580)年、真田氏所縁の信綱寺(小県郡真田町)開山の高山順京が、曹洞宗の寺院として再興した。
 同年、織田信長の命により因幡・伯耆を侵攻していた羽柴秀吉が、22ヶ月に亘る三木城(兵庫県南部の三木市上の丸町)篭城戦を、城主別所長治の切腹により終結させている。

 小県地域は、北条重時の子義政が塩田に館を構えたことにより、信濃国の政治の中心となり、塩田北条氏3代の庇護のもとで、仏教施設が多数造られるなど仏教の中心として更に栄えた。

5)塩田平と村上氏
 弘法山(こうぼうやま;上田市前山)、その北側山麓に、塩田平を一望できる位置に塩田城跡がある。元弘3(1333)年、塩田の地を治めていた塩田北条氏が滅亡した後、建武2年7月上旬、中先代の乱が起きる。望月氏など滋野一族や有坂薩摩氏など上田・小県地方の武士も挙兵した。 7月13日から21日にかけての篠井・四宮(しのみや;長野市篠ノ井塩崎四之宮)・八幡・福井河原の戦いは、保科弥三郎四宮左衛門太郎らが信濃守護小笠原貞宗のいる船山郷青沼に攻め寄せたことで始まる。 小笠原守護軍には市河倫房村上信貞らが加勢している。翌月1日、小笠原経氏が望月氏を攻め、その城郭を破却している。市河倫房は府中にいる小笠原貞宗の下で同月3日から安曇・筑摩・諏訪・有坂と戦い、時行党を壊滅させ、その晦日には松本の浅間に戻った。この間の22日、村上信貞を大将とする市河経助らの別働隊が、坂木北条にたて籠る薩摩刑部左衛門入道を攻め落している。薩摩刑部は得宗御内人薩摩氏の系譜で、坂木南条・北条や小県浦野庄馬越郷を知行する薩摩祐広か祐氏の後裔であった。有坂氏も9月20日前後、小笠原貞宗・市河倫房の一隊に攻められている。昭和52年、長門町有坂集落の南にある不動沢の左岸御嶽山で山城が発掘された。有坂氏の山城と目されている。有坂氏は中先代の乱の敗北後、杳として消息が絶えた。
 村上信貞坂木の薩摩氏を討伐し、村上郷から坂木へ居館を移し領有した。同年、軍功を挙げた信貞が、足利直義より塩田庄を与えられた。塩田庄は、文安5(1448)年、村上氏の代官福沢入道像阿が諏訪大社上社の重要祭事の頭役を務めるなどして、戦国時代の天文年間(1550年前後)まで福沢氏が塩田荘を支配していた。当時、鎌倉時代の所領相続が庶子を含む分割伝領から嫡子惣領の一括相続となり、本拠地以外は代官支配へ移行し、それが福沢氏の塩田入りの時代背景であった。それまでの福沢氏は、現埴科郡坂城町網掛の福沢に館を構えていた。小県郡上室賀から室賀峠を越え更科郷へ下ると福沢氏の館址に出る。ここに、名字の地に因む福沢・福沢川・福沢城などが名残として存在している。

 諏訪大社の「御符礼之古書」には
 文安5(1448)年  御射山 頭役56貫文 福沢入道像阿 此年は福沢殿代官贄田道義勤仕候
 享徳3(1454)年  御射山 頭役60貫文 代官福沢入道儀阿
 長禄3(1459)年  御射山 頭役50貫文 福沢入道像阿 此年は福沢殿代官贄道義勤仕候
 寛正6(1465)年  御射山 頭役50貫文 福沢入道沙弥像阿 代官贄田胤長
 文明元(1469)年  御射山 頭役50貫文 代官福沢左馬助信胤代初而
 文明6(1474)年  御射山 頭役50貫文 村上知行 代官福沢左馬助信胤
 文明11(1479)年 御射山 頭役50貫文 村上兵部少輔政清御知行 代官福沢五郎清胤
 文明16(1484)年 御射山 頭役50貫文 村上福沢入道沙弥頭賢
 延徳元(1489)年  御射山 頭役70貫文 村上福沢左館助政胤
とあり、福沢氏が塩田庄を代々相伝していることが知られる。頭役銭50貫から70貫の「御符礼銭」は伊賀良庄(現飯田市)の小笠原に次ぐ高で、岩村田大井氏・佐久矢島氏・井上郷井上氏・須田郷須田氏・長沼島津氏・坂木村上氏・船山屋代氏と並ぶ。福沢氏の所領は塩田庄内12郷に及んでいたと見られる。

 塩田北条氏が滅びると、千曲川西岸域の殆どが村上氏の所領となっていった。このようにして小県地域は、北部から西部域は村上氏、東部域は海野氏、南部は禰津氏、そして諏訪境にあたる依田川上流域は佐久郡の大井氏が勢力下とした。その後、諏訪頼重らが北条高時の遺児である北条時行を擁立して、諏訪で挙兵したが、塩田流北条国時の子と見られる塩田陸奥八郎など小県地域の武士の多くが従軍した。塩田氏は陸奥八郎だけではなく、陸奥六郎も陸奥国安積郡佐々河城で挙兵し籠城し、宮方の攻撃を受けて落城している。また建武2(1335)年8月14日、中先代の乱に際し、足利尊氏鎌倉東下(とうか)の途上の駿河国国府合戦で、「塩田陸奥八郎」が生け捕られている。塩田北条氏一族の果敢な終末戦は、北条氏武士の表明となった。

真田町の真田本城より砥石城を眺める
 村上氏は、重臣福沢氏をこの塩田城におき、長い間統治してきた。戦国時代の北信の雄義清の時代には佐久郡・小県郡・埴科郡・水内郡・高井郡など信濃の東部から北部を支配下に治め、村上氏最盛期の当主となった。
 天文19(1550)年7月、武田晴信は松本平に侵攻し、信濃の強敵小笠原長時の本城林城を落城させ、その後、1か月位で松本平の全域をほぼ掌中にした。8月19日午前8時に松本を出発、三才山越えで午後9時頃、小県郡の長窪に着陣した。同月29日から砥石城を攻撃したが、葛尾城の村上義清の猛反撃にあい、9月23日には、対立していた高梨政頼と義清とが和睦し、政頼が武田方の寺尾城(長野市松代町東寺尾)を攻めた。守将の清野氏から報せを受け、真田幸隆がその援軍に向かい、武田一族勝沼信元も増軍として出兵した。 寺尾重頼は清野氏と同様松代を本拠にし、村上氏に従っていたが、幸隆の調略に応じ武田氏に降っていた。しかし幸隆らの援軍は間に合わず寺尾城は落城した。
 『勝山記』には「九月一日、信州戸石の要害を御退く候とて、横田備中守をはじめとし、随分衆千人討ち死になされ候。されとも御大将はよく引きめされ候。此のあたりでは小沢式部、渡辺雲州討死。道具は国中みな捨て候。歎き言語道断限りない。されとも信州の取り合いは止まず。」とあり、その日付は10月1日の誤記とされている。9月30日、晴信は諸将と協議して帰陣する決断をする。 翌10月1日午前6時、武田軍は撤退を開始するが、殿(しんがり)をつとめる御跡衆は激戦に見舞われ、午後6時までの12時間、村上軍の執拗な追撃に堪えた。翌2日、晴信はようやく大門峠を越えて諏訪へ戻った。この「砥石崩れ」の戦いで、武田軍は「上田原の戦い」に引き続き、村上軍に2度の敗戦を帰した。
 以後晴信は、武力による正面攻撃を断念し、周辺部を攻略し、次第に葛尾城の義清を孤立させる策に出た。『高白斎記』に「五月二十六日節 砥眉城(砥石城)真田乗取」と記す。当時、真田幸隆は本拠地真田に留まり、懸命な村上氏内部の切り崩し工作を行っていた。天文20(1551)年5月、ついに砥石城を攻略した。
 天文22年正月、武田晴信は小笠原の残党を駆逐するため、再度、中信に攻め入った。「三月二十九日乙亥辰刻深志を御立。午刻、苅屋原(埴科郡坂城)へ御潜陣」「晦日、城の近辺放火」「四月二日戊司午刻、苅屋原の城攻め落とし城主長門守(太田弥助)生け捕る。酉刻に晴吃塔の原城(安曇野市明科中川手)自落」「四月三日己卯、会田虚空蔵山(松本市会田)まで火を放つ。苅屋原の敵城を割り、酉の刻寅の方に向い御鍬立。栗原左兵衛相勤むる七五三(三献の膳で、本膳に七菜、二の膳に五菜、三の膳に三菜を出す盛宴)」「四月九日辰刻、葛尾(村上の本城)自落の由申の刻注進。屋代、塩崎出仕」とある。
 晴信の坂木周辺部での武力制圧と幸隆の村上氏諸将への調略により、屋代正国・塩崎氏が降り、村上氏の本城坂木の葛尾城は孤立し自落させられた。村上義清は高梨頼政の仲介で越後の長尾景虎を頼り落延びていった。晴信は青柳・麻積(おみ)更に八幡方面を平定した。その間更級郡の石川・大須賀・香坂氏などが相次いで出仕すると、当地の諸士のほとんどが晴信に伏した。その直後、景虎は義清の乞いを容れ、高梨・井上・島津・栗田ら北信勢と合わせて5千の兵で南進してきた。晴信は青柳城(東筑摩郡筑北村坂北)にいたが、更級郡八幡で迎え撃った。武田方は敗れ、23日には葛尾城も奪還され城将於曽源八郎は討死にしている。晴信は苅屋原に退き、5月1日、深志へ戻り、11日には甲府に帰陣した。 晴信は甲府に戻ると義清が最期の拠点とする福沢昌景が守る小県郡の塩田城攻略を決行した。晴信は佐久郡の内山城将小山田備中守昌辰・飯富(おぶ)兵部少輔虎昌・真田幸隆らに軍令を発し、前日に弟信繁を先衆として先発させ、天文22年7月25日、甲府を出立し佐久海ノ口を経て、30日望月城に入り、8月1日長窪城に着陣した。 その進撃は速く和田城攻撃を開始し、城主以下皆討果たし、4日高鳥屋城(武石村と丸子町の境)と内村城を陥落させた。長窪城に着陣して5日後の8月5日には塩田城を攻撃している。『妙法寺記』は「此年信州村上殿8月塩田の要害を引けのけ行方不知なり候」と記す。以後義清は完全に失墜した。小泉の城は破却されたが、晴信の戦後処理では『高白斎記』によると「11日室賀・同小泉の所帯の御判形被下」と記されているので、両氏ともども武田の配下となり当地に所領が与えられたようだ。
 外様の真田幸隆には、3男昌幸を甲府に在府させる代償として秋和(あきわ)の地350貫文が宛行われ、先の宛行地諏訪形上条など合わせて現在の上田城跡周辺1,350貫の所領が与えられた。

 同年8月の『高白斎記』に「五日向塩田御動、地ノ城自落、本城に被立旗。七日戌刻飯富当塩田城主の御請被申、滅日。八日本城へ飯富被罷登候」とあり、信玄は、この城に飯富虎昌を常駐させて信濃経略の拠点とした。それも天正10(1582)年、織田信長の苛烈な討伐戦により、武田一族は完膚無きまで駆逐され、ついに塩田城は廃された。

6)中先代の乱と建武親政
 建武親政下、足利尊氏は武蔵など3か国の国司と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかった。これを不満とし、建武政権のいかなる機関にも属さず、自ら設置した諸々の奉行所を充実させ、武士達の人心の収攬に努め、独自の政権構想を固めつつあった。
 元弘3(1333)年12月、尊氏の弟直義は、後醍醐の勅命により、その僅か8歳の皇子成良(なりよし)親王を奉じ鎌倉へ下った。鎌倉幕府崩壊後、関東を統御する建武親政下最初の出先機関となった。これが室町幕府の『鎌倉府』の前身となるが、結果、足利一族にとって重大な画期となった。下野国足利庄を名字の地とする足利氏が、鎌倉に留まる事は、関東武士たちに、次代の武家の棟梁の登場を予兆させた。

 北条得宗家被官、先の諏訪上社大祝諏訪頼重に擁立された鎌倉幕府最後の得宗北条高時の遺児時行が、信濃で挙兵し北関東諸所で足利勢を打ち破り鎌倉に迫った。鎌倉の守将直義も、遂に自ら出陣したが、武蔵国井出沢(いでのさわ:東京都町田市)で敗北し鎌倉へ撤退した。禍根を絶つため幽閉中の護良親王を殺害し、尊氏の嫡子千寿王(義詮)や成良親王らと共に三河国矢作(やはぎ:愛知県岡崎)に撤退した。時行は7月25日、鎌倉を制圧した。
 三河国は鎌倉時代足利氏が守護職に補任されていた関係で、その所領が多く各地に散在し、なによりも主要な一族吉良今川一色家を初め多くが、三河国内に名字の地を領有していた。直義は、その諸勢力を糾合し、武家諸士の人望が厚い尊氏の東下を待つことにした。『大日本史』によれば、大江時古(ときふる)は成良親王を奉じ京師へ還ると記す。明敏な直義は、天皇家は武家勢力に寄生するだけで、武士諸雄族にとって便宜的に利用される道具・権威に過ぎず、最早、主体的に活動する存在ではないと再認識していた。

 元弘3/正慶2年(1333)5月、新田義貞が鎌倉幕府攻めるに際し、当時4歳であったが、尊氏の嫡子千寿王の軍が武蔵国で合流したと喧伝されると、関東の武士がこぞって参陣した。義貞の鎌倉幕府攻めに加わった諸士の多くは、千寿王のもとに参じたと認識していた。『増鏡(ますかがに)』や『梅松論』では、義貞は千寿王を大将軍として推戴したと記している。関東の武家の間では、同じ源氏の血統であっても、足利氏の声望は新田氏のそれを遥かに超えていた。鎌倉幕府陥落後、尊氏は千寿王の補佐として、一族の細川和氏(かずうじ)・頼春・師氏(もろうじ)の兄弟を派遣している。義貞は弾かれるように上洛した。京で後醍醐の忠臣として仕えることで、展望が開かれた。

7)足利尊氏自立
 尊氏は東下の許可と征夷大将軍総追捕使の宣下を奏請したが、後醍醐はこれら総てを容れなかった。勅許が得られないまま京を進発した尊氏に、後醍醐は事後的に征東将軍の称号を与えた。南北朝末期に原型が整った年代記『鎌倉大日記(かまくらおおにっき;編者不明)』によれば、建武2年8月15日、時行軍を撃破して鎌倉を奪回した尊氏は、自ら征夷将軍を称したと記す。
 後醍醐は8月30日の除目で、尊氏の勲功を賞して従2位に叙した。同日、尊氏は斯波家長奥州管領に任じた。斯波氏は、足利泰氏の長男家氏を祖とし足利氏の一族では別格で、家氏は陸奥国斯波郡の所領を譲られ斯波を称した。家氏は父泰氏が得宗家から正室を迎えたため廃嫡され、家督は弟の足利頼氏が継いだが、その後、一門の重鎮として頼氏の子家時の後見役を務めた。建武の新政が発足すると、後醍醐天皇は奥州鎮撫の任に義良親王(のりよし)を就かせ、北畠顕家陸奥守に任じてその後見とした。尊氏は、斯波郡に所領を有する斯波高経の嫡男家長に着目し、奥州管領(後の奥州探題)とし、奥州に下った顕家を牽制した。斯波郡に下向した家長は、高水寺城(岩手県紫波郡紫波町二日町字古館)に拠って顕家と対峙した。以後、家長は相馬氏を味方にするなどして勢力の拡大に努めた。
 後醍醐は尊氏が建武政府から離脱する事を危惧し、帰洛を促す使者を東下させた。尊氏は直義に制止され上洛を思いとどまったという。尊氏は既に、後醍醐に奏請をせず随従する諸将に北条党の闕所地を宛がう専断を行っていた。そして自ら征夷大将軍と僭称し、武家の棟梁の権威により寺社に所領を寄進し、祭礼興行の継続を沙汰した。11月2日、直義はその名をもって、足利武家政権を根拠に、新田義貞誅伐の檄文を諸将に発し軍勢を招集した。君側の奸として義貞誅伐を名目として、建武政権への叛意を表明した。しかし尊氏は、同月18日、後醍醐に義貞追討の綸旨を奏状している。
 ここにいたって後醍醐は尊氏・直義兄弟の征伐を決し、11月19日、中務卿親王(尊良親王)を上将軍(上級の大将軍)、新田義貞を大将軍とし尊氏追討令を発した。義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。この事態に、尊氏は違勅を悔い鎌倉浄光寺で謹慎した。関東の諸士は、なおも動かぬ尊氏に業腹であったが、直義と戦略戦術会議を重ね朝敵の兵を挙げた。
 彼ら武士は、倒幕やその後の建武親政に反逆する諸勢力を鎮圧し、その反対給付として恩賞を得てきた。その後の動乱に乗じ武力行使により獲得した諸権益を、一族の経済基盤として積み上げてきた。武士の所領の多くは、制度的な根拠を欠き、武力を背景に侵食した既成事実の上に居直ってきた、その積み重ねで成り立っている。後醍醐による公家一統」を理念とする建武政府の諸施策は、「武士の基盤」を根底から否定するものであった。尊氏の足利幕府は、なんらの法式も定めず、武士達に現状よりも一歩でも有利に所領利権を獲得させ、それを既成事実化していく過程を黙認する中夏無為(ぶい)を本旨とした。尊氏の無策こそが台頭膨張する武士階級の輿望となり支持を呼んだ。やがて後代の足利将軍達が、諸家への干渉を始めると諸所に争乱が発生し、それが嘉吉元(1441)年に播磨、備前、美作の守護赤松満祐が、6代将軍足利義教を斬殺し幕府の寿命を縮める契機となる。

 後醍醐が発遣する東山道軍は、弾正尹宮を奉じ洞院実世をはじめ島津・忽那(くつな)氏など西国の諸将5千余騎を従え信濃国に入った。これより先9月の末、信濃国に下国していた国司堀河中納言光継もこれに加わり、佐久郡岩村田の大井城に拠る大井朝行らを攻めたてている
 新田義貞は弟脇屋義助とともに、高師泰大将の足利軍と三河国矢作川の戦い(愛知県岡崎市)、遠江国鷺坂(さぎさか:静岡県磐田市)の戦いと勝ち続け駿河国に入った。直義は鎌倉軍の敗報が伝えられると、自ら大兵を率い救援に向かった。直義・高師泰の軍は手越河原(てごしがわら;静岡市駿河区)の戦いでも大敗し、箱根山に退き尊氏の出兵を待ってたて籠った。尊氏も窮地と悟り、12月11日、翻意し自ら鎌倉を出兵した。尊氏は新田義貞軍を駿河国竹ノ下(静岡県駿東郡小山町)の戦いで撃破し、直義も箱根で義貞軍を破り、尾張国に敗走させた。尊氏と直義は駿河国府中で合し、そのまま義貞を追い、翌年建武3(1336)年正月、京へ入った。後醍醐は近江国坂本に避難した

8)足利尊氏九州へ敗走
 建武2(1335)年、尊氏が反すると、奥州に在った北畠顕家は、後醍醐天皇より鎮守府将軍に任じられ、新田義貞と連携して鎌倉を挟撃せよと命じられた。奥州は特に北条氏一族の基盤であったため軍の編成に手間取ったが、早くも建武2年12月、顕家は足利尊氏追討のために多賀国府を進発した。奥州管領斯波家長は、顕家の西上を阻止せんとして相馬氏らと共に北畠軍を磐城国高野郡行方(なめかた)郡で迎撃したが、阻止できないまま追尾して鎌倉に入った。既に顕家が鎌倉を制圧していた。尊氏と直義は上洛中で竹ノ下・箱根方面にいた。
 顕家はその尊氏を追尾して東海道を西上し、足利軍に僅かに遅れ、近江坂本の後醍醐のもとに着陣した。新田、楠木各氏らと協力して京都近辺で足利軍と数度にわたり戦い、尊氏を丹波へ敗走させた。
 戦局の小康後、坂本から京都に戻ると後醍醐は、2月29日、延元と改元した。3月、顕家は鎮守府大将軍の称を受け、あらためて陸奥太守に任じられた義良親王を奉じ、再び奥州に帰任した。一方、新田義貞は尊氏を追うため西国へ軍を進めた。義貞は、はやくも播磨国佐用荘内の白旗城に拠る赤松則村の抵抗に遭い西進を妨げられ、尊氏・直義軍に九州で勢力を挽回する機会を与えた。播磨国佐用荘の地頭職を相伝する則村は元弘の乱に際し、その子則祐から護良親王の北条氏追討の令旨が伝えられ、元弘3(1333)年佐用荘苔縄城で挙兵した。同年5月7日の六波羅攻めに高氏らとともに参戦して戦功を挙げ、同月30日には後醍醐天皇を兵庫に出迎えている。鎌倉幕府滅亡後、建武政府による論功行賞は、佐用荘地頭職の安堵のみであった。恩賞が無いも同然の措置に、前年建武2年、尊氏が建武政府に離反すると、則村も直ちに呼応した。

 尊氏は丹波から兵庫に出て、瀬戸内海を西行し、博多まで落延びた。しかし、尊氏は着々と次の手を打っていた。兵庫を去る前の2月初旬、「元弘没収地返付令」を発した。建武親政は北条氏与党の領地も闕所地として没収したが、尊氏は元の領有者に戻すという。これこそ、諸国の武士が望んでいたことであった。武士達はこぞって足利陣営に駆け付けた。
 『梅松論』では、楠木正成が負け戦の武家はもとより、在京の旧鎌倉幕府の官僚達も都落ちする尊氏に同行している、これでは後醍醐軍の勝ち戦の成果が全くないと慨嘆している。現実に、京政府は機能停止状態となっていた。雑訴決断所も前年度末から機能していない。 2月中旬 、醍醐寺三宝院の僧賢俊が、備後の鞆浦(とものうら;広島県福山市)に、待ちに待った光厳上皇の院宣を尊氏に届けに来た。『新田義貞与党人を誅伐すべきの由』の院宣で、尊氏は朝敵の汚名を雪ぎ、戦いは「天皇家の分裂」へと構図が変わった。尊氏は兵庫へ向かう途上、日野資明(すけあき)の所縁の者を介し、上皇に願い持明院殿の院宣の下賜を請うていた。賢俊は資明の兄弟であり、これが契機となり、日野氏が室町幕府と親密な関係を結んでいく。 重要なことは、京の公家は持明院統の光厳上皇こそ天皇家の正統で、後醍醐は本来大覚寺統の亜流とみられていた。それが後醍醐に焦りを呼び、日本史上最大の動乱を誘発した。
  播磨の室泊(むろのとまり;兵庫県御津町)で軍議が開かれ、中国・四国諸国に足利一門を主体に大将を配す事が決められた。四国は伊予:河野通盛、以外は;細川一族  播磨:赤松円心 備前:石橋・松田 備中:今川顕氏・貞国 安芸:桃井・小早川 周防:大島・大内長弘 長門:斯波高経・厚東など地方の軍事体制を固め、これが室町幕府の守護体制の原型となった。
 同年1月、宮方の有力者、万理小路宣房千種忠顕が出家している。それぞれ、「後の三房」、「三木一草(さんぼくいつそう)」の一人として後醍醐の有力な側近であったが、後醍醐に絶望したようだ。楠木正成は、院宣が無くとも武士達が尊氏に靡く状況下、後醍醐に対して次の事を奏上した。『義貞を誅伐せられて尊氏卿を召かへされて、君臣和睦候へかし、御使にをいては正成仕らむ』(梅松論)、『君の先代を亡されしは併尊氏卿の忠功なり。義貞關東を落す事は子細なしといへども。天下の諸侍悉以彼將に屬す』『敗軍の武家には元より在京の輩も扈從して遠行せしめ。君の勝軍をば捨奉る』と奏聞した。しかし聞き入れられず『天下君を背(そむき)たてまつる事明けし、しかる間正成存命無益なり、最前に命落べき』と楠木正成も、終には諦観した。

9)足利尊氏再起

 延元元(1336)年2月20日、少弐頼尚(しょうになおひさ)に赤間関(山口県下関市)で出迎えられ、足利尊氏一行は3月1日には筑前国に入った。それ以前、九州の後醍醐方菊池武敏は、阿蘇惟直とともに太宰府攻略の兵を進め、足利方の少弐・大友氏を破り、少弐貞経有智山城(うちやま;福岡県太宰府市内山)で自害させ博多を占拠していた。尊氏が筑前に到着した時はかなり不利な状況であった。菊池武敏は兵を北上させると、博多の北、多々良浜(福岡市東区多の津)筥崎に陣を布いた。武敏に対して多々良川をはさんで、尊氏軍はその右岸の高地に陣を構えた。武敏率いる軍には阿蘇惟直・惟成兄弟、秋月種道、松浦党らが加わり、その兵力は尊氏勢を圧倒していた。戦いは菊池・阿蘇軍に有利に展開したが、時ならぬ北からの強風が宮方に向かって吹き始め、突風に目をあけることができず、戦局はにわかに不利となり、そこへ松浦党が尊氏方に転じたため菊池・阿蘇軍は総崩れとなった。菊池武敏はわずかとなった兵を率いて退却したが、阿蘇惟直・惟成兄弟、秋月種道らはことごとく討死した。尊氏の多々良浜の勝利で、九州の大友・島津ら有力諸将は尊氏に帰服した。尊氏は九州に落ちてわずか1ヶ月で、九州を平定し、一色範氏鎮西管領として博多にとどめ、4月3日、光厳上皇の院宣を掲げ大軍を率いて東上の途についた。
 東上軍は備後国鞆津に、尊氏が海路で直義は陸路で二方面から摂津国兵庫へ迫った。赤松則村は、陸軍を指揮する直義軍を播磨国室津に迎え軍勢に加わった。
 再挙した尊氏軍に迫られて、『太平記』によれば、楠木正成は京都での防戦は難しい、一旦京を脱して、誘い込み後、挟撃することを建策した。坊門清忠ら公家たちは、帝が1年のうちに2度まで京から山門へ避難することは帝位を軽んずると批判し退けた。やむなく正成は摂津湊川(兵庫県神戸市)、義貞は和田岬(神戸市)に布陣した。5月25日、正成は湊川の戦いで敗死、義貞は生田の森(神戸市)で戦いに敗れ、西宮まで退き反撃を試みたがまたも敗れ京へ逃れた。後醍醐方は正成らを失いなすすべなく、27日、京都を放棄し近江坂本へ逃れ比叡山に拠った。新田義貞・義顕父子や名和長年ら武士たち、吉田定房・万里小路宣房・洞院実世など公卿官人などが同行したが、光厳上皇は病気を口実に在京し、公卿官人の大方も京に留まり、政務・公事の連続性は保たれた。尊氏は山門攻めの準備が整うと八幡に陣を構え、尊氏が遣いする武士に守護された光厳上皇と弟豊仁親王を東寺に迎え入れられた。光厳上皇の院政は滞りなく行われた。

10)後醍醐天皇南朝へ去る
 近江は、京都に隣接し琵琶湖・淀川の水上交通や、京都に隣接した北陸・東海の陸上運輸の要衝であり、農業生産力も高い地域である。淡水漁業が盛んで、また、古来より鉄生産が栄えていた。山門が物資輸送に関わる水陸運送業者たちや多くの職人を支配下に置き、京の人々の生活を物資の物流と商人間の取引商通の両面から支える商工業の先進地であった。比叡山に拠った後醍醐にたいする攻撃は、6月5日に開始された。一進一退の攻防が繰り広がれたが、山間の険阻を地の利とする衆徒は強豪で、足利勢は20日、撤退した。以後も数か月、京都周辺で争闘が繰り返され、その間、後醍醐方は名和長年千種忠顕らが出兵し戦死し大きな打撃となった。
 尊氏は比叡山膝下の坂本が、東国・北陸からの物流を扼する要衝である事が、逆に後醍醐や山門の命脈であると見た。7月、信濃の小笠原貞宗に命じ、近江国へ進攻させ、越後の斯波高経、近江の佐々木高氏(導誉)と連携させ、北陸・東海双方から圧力を加え比叡山を孤立させた。小笠原貞宗・佐々木高氏らは共に大津の園城寺と連携して東近江を固め、この方面からの叡山の糧道も断った。山門衆・後醍醐方は糧秣が逼迫し進退は極まった。

  尊氏は貴族・寺社などの権門の所領を安堵返付し、武士の濫妨の停止などで京勢力の信任を得る。8月15日、豊仁親王を即位させた光明天皇とした。こうして光厳院政が始まると公家社会の秩序再建に向け補佐した。後醍醐の親政により権門勢家の地位を否定されていた摂関家も、豊仁の即位と同日に、左大臣近衛経忠が関白に就き公家政務が復活した。一方、武士勢力を体制の枠組みに入れる新たな秩序が模索されようとした。
 年号も、後醍醐が2月29日に改元した延元を認めず建武3年とした。後醍醐も比叡山に幽閉されたに等しく、更に招かざる客となり、万策尽き和議を受け入れ、山を下り、11月2日、神器を光明天皇に引渡した。

11)足利尊氏再度後醍醐を追う
 尊氏は後醍醐に使者を差し向け帰洛を促した。後醍醐は10月10日、下山し京都に戻った。この講和は後醍醐の独断で進められ、帰洛直前になって周囲は知らされたようだ。後醍醐皇子の天台座主尊澄(そんちょう)法親王は北畠親房と共に伊勢に下った。代わりに後伏見天皇の第4皇子尊胤(そんいん)法親王が就任した。
 尊澄は翌年還俗して宗良親王を名乗り、翌延元3/暦応1年(1338)9月、南朝再建策の一つ、遠江の井伊道政の井伊谷城を根拠地とするため、奥州を目ざす尊良・義良両親王、北畠親房・顕信、北条時行らと共に伊勢国大湊(おおみなと)を出港、途中暴風雨に遭い、他の親王や北畠と離れた。宗良親王と北条時行は、幸運にも目的の遠江に漂着し、井伊城に入った。同年正月の初め、中先代の乱後、諸所に逃亡していた北条時行が使者を遣い、南朝に赦免を請い許されていた。宗良と時行は、遠江に宮方西園寺公重の浜松荘があり、八条院領内の狩野貞長が拠る駿河安倍城にも近く、宮方勢力を結集し易いとみた。
 公重は関東申次西園寺公宗の弟で、建武2(1335)年、建武の親政下、北条高時の弟泰家を匿う公宗が謀反を企み、公重はこれを後醍醐に密告した。その功績で西園寺家は公重が継ぐこととなった。公宗は流罪となり、出雲国へ配流される途中に名和長年に斬罪に処された。
 狩野貞長は、南北朝時代初期に安倍城(静岡市羽鳥)を築城した。伊豆狩野氏の一族で、建武の親政の発足時、楠木正成らとともに武者所に名を連ねている。尊氏が後醍醐に反旗を翻すと、安倍城を本城として天皇方に属し、周囲の南朝側豪族の中心人物となり活躍した。貞長はこの安倍城に興良親王(おきなが/おきよし;護良親王の第一子)・宗良親王を迎えるなどして、足利一族今川氏と駿河各地で抗争を繰り広げた。今川範国は建武3(1336)年、遠江、次いで駿河の守護職を補任している。
 宗良は延元3(1338)年、奥州の北畠顕家と合流して京へ向かうが戦敗した。暦応3/興国元(1340)年、高師泰・仁木義長らの北朝軍に攻撃され、宗良は信濃に逃れた。信濃伊那大徳王寺城で、宗良・北条時行が諏訪頼継らと挙兵したが、守護小笠原貞宗に敗れている。

12)新田義貞の最期
 『太平記』は、新田義貞が蚊帳の外に置かれたまま締結された後醍醐と尊氏の和睦に猛反発したため、後醍醐は皇太子恒良(つねよし)親王に皇位を譲り、尊良親王と共に供奉させ、北陸道から東国へ脱出させた。恒良親王自身、天皇と自覚していた。延元元(1336)年11月12日、尊氏・直義追討の綸旨を発している。後に京を脱出した後醍醐が吉野で南朝を開き復位した事により、恒良の皇位は無視され、後世、天皇には数えられていない。
 義貞・恒良らの北陸道逃亡は悲惨であった。延元元年の冬はことさら厳寒で、兵力が乏しいのに吹雪に遭遇し凍死者が続出したという。ようやく越前金ヶ崎城(福井県敦賀市)で籠城したが兵糧も不足し、高師泰斯波高経率いる軍勢に囲まれ、翌年3月6日、兵糧も尽き義貞・脇屋義助は脱出するが、尊良は自刃し、義貞の長男義顕一条行房らも命を落とした。恒良・洞院実世らは逃れる途中に捕まり京都へ護送された。恒良は、『太平記』によれば弟の成良(なりよし)親王らと共に京都の花山院第(かざんいんてい;現在の京都御苑敷地内)に幽閉され、恒良は延元3年4月13日薬殺された。享年15前後。
 義貞は延元3年閏7月、北朝方へ寝返った越前国の平泉寺衆徒の籠る藤島城(福井県福井市藤島町)の攻城軍に加勢するため疾駆する途上、小黒丸城から藤島城へ転じる足利方の援軍と遭遇し、燈明寺畷で義貞は乗馬を射られ、倒れた馬体の下敷きになり上体を起こそうとした時、眉間を射られ戦死した。義助はその後も越前で抗戦を重ねるが、やがて吉野の後醍醐のもとに退いた。洞院実世も吉野に戻り南朝の左大臣として重きをなす。
 11月2日、光明天皇に「三種の神器((みくさのかむだから/さんしゅのじんぎ)」、八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ;草薙剣)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を譲渡し、後醍醐は太上天皇の号が贈られ、14日には成良親王が皇太子に就いた。伊勢神宮などでは草薙剣が持ち出されたという記録はないという。それでも安徳天皇が赤間関(関門海峡)で草薙剣と共に水没したとされている。
 後醍醐は花山院第に軟禁された。その僅か2か月後であった。建武3年12月21日、「三種の神器」を携え、楠木一族の案内により壊れた築地から秘かに脱出して、河内から吉野に向かったことが、『太平記』などに記されている。吉野で自身の皇位と延元の元号に復すると宣旨し、足利方討伐の義兵を諸国に呼び掛けた。後醍醐は、先に光明天皇に渡した神器は偽器、本物は吉野にあると表明した。これは北畠親房の進言によるとされているが、後世、後醍醐の不徳を喧伝する根拠となった。「三種の神器」は本来天皇家では秘匿すべき事で、政争の具に使うこと自体、僭越の極みであった。北畠親房の『神皇正統記』では、愚かにも「三種の神器」の授受が皇位承継には不可欠の条件とした。それが、親房の論拠の正当性を疑う根拠となった。『神皇正統記』が「三種の神器」を政争・宣伝の具として、親房がそれを初めて著述した、日本史上の常識を無視した記述であった。
 以後、京都の光明天皇(こうみょうてんのう)を北朝と呼び、後醍醐を南朝と呼ぶ、両朝が対峙する南北朝の時代となる。京に置き去りにされた皇太子成良親王は廃され、花山院第に幽閉され毒殺された。以後、尊氏方の「武家方」対し、南朝は「宮方」と称された。
 後醍醐の皇子以外、大覚寺統の係累、五辻(いつつじ)宮・常盤井(ときわい)宮・後二条源氏などは京に留まり家系を存続させている。

13)後醍醐天皇吉野へ
 北畠顕家は尊氏を追撃して東海道を西上、新田義貞、楠木正成らと協力して京を奪還し、建武3(1336)年1月27日、尊氏を丹波から九州に敗走させた。戦局の小康後、顕家は鎮守府大将軍の称を受け、ふたたび義良親王を奉じ陸奥に帰任した。しかし尊氏が勢力を盛り返すと、奥羽の戦局も悪化し、国府から伊達郡霊山(りょうぜん;福島県伊達市霊山町)に移った。
 後醍醐は尊氏に再度京を追われ近江国坂本に逃れたが、進退極まり和睦し花山院第に幽閉された。顕家は後醍醐の再度の要請により延元2/建武4(1337)年8月、ふたたび西上、下野・武蔵の両国で足利軍を破り、22日鎌倉を制覇した。足利詮義は鎌倉を脱し三浦((現神奈川県三浦市))に逃れた。
 東海道を西上する顕家軍に、遠江国井伊城に拠る宗良親王・北条時行の兵も会し共に上洛した。
 京にいる尊氏は、足利家執事高師直とその弟師泰を大将として美濃国へ派兵した。この時、関東で敗れた尊氏の従兄弟で上野国守護の上杉憲顕が、桃井直常らを率い顕家の上洛軍の後尾に付き、その軍に遠江・駿河国守護の今川範国と三河国の吉良満義の軍が加わり、信濃守護小笠原貞宗も信濃国の兵を率い馳せ参じた。吉良満義は、関東廂番(かんとうひさしばん)6番衆の頭人に任ぜられていた。満義には、顕家軍の鎌倉入りを阻めなかった負い目があった。顕家は上洛する前に、後詰の足利軍と対戦しなければならなくなった。木曽川に陣を敷き、青野原・赤坂で激戦となった。『参考太平記』は「去程に奥勢(顕家軍)の先陣、既に垂井・赤坂辺に著たりけるか、跡より上る後攻(ごぜめ)の勢、近つきぬと聞へけれは、先其敵を対治せよとて、又3里引返して、美濃・尾張両国の間に陣を取り、後攻の勢は8万余騎を5手に分け、前後を鬮(籤;くじ)に取たりけれは、先1番に小笠原信濃守(貞宗)・芳賀清兵衛入道禅可、2千余騎にて渡り馳せ向かえは、奥勢の伊達・信夫の兵共、3千余騎にて河を渡りてかかりけるに、芳賀・小笠原散々懸立らして、残少(のこりすくな)に討れにけり、2番に高大和守3千余騎にて、洲俣河(すのまたがわ)を渡る所に、渡しも立ず、相模次郎時行5千余騎にて、乱合、笠符(かさじるし)をしるべにて、組で落、落重て頚を取り、半時ばかり戦たるに、大和守が憑切(たのみきつ)たる兵3百余人討(うた)れにければ、東西に散靡(ちりわかれ)て山を便(たより)に引退く」とある。

 満身創痍の顕家軍は、伊勢から伊賀越えをして奈良から京都を窺ったが、兵の遠征による疲労も重なり、高師直・師泰兄弟の軍に奈良坂で再び敗れた。同行した義良親王を吉野へ送り、兵力を再結成し3月8日、摂津天王寺に迫ったが敗れ河内国に逃れた。敗残軍となり宗良親王も吉野に逃避した。顕家は、同年5月22日和泉国堺浦石津一帯で奮戦したが堺浦で討死した。享年21であった。
 顕家は死の1週間前、「諸国の租税を免じ、倹約を専らにせらるべきこと」「官爵の登用を重んぜらるべきこと」など、親政を批判した6か条の意見書を後醍醐に奏上している。不徳の天皇にどれほど通じた事か?

14)南北朝時代の始まり
 中先代の乱を契機に、後醍醐と尊氏が争い、南北朝時代が始まった。後醍醐は諸国に綸旨を発し、南朝方の義兵を募り京都への復権を望んだ。北畠親房は東国に南朝方の橋頭堡を築かんとして、延元3/暦応元(1338)年9月、結城宗広と共に義良(のりよし;後の後村上天皇)・宗良両親王を奉じて伊勢国大湊(伊勢市大湊)を出帆した。途中暴風に遭い一行は離散した。義良は三河湾口の篠島に漂着したため吉野に戻り、同4年/暦応2年皇太子になり、同年の8月15日に後醍醐から死の直前に譲位され即位した。
 北畠親房のみが単独で常陸に上陸した。以後興国4/康永2(1343)年まで、常陸に在住して東国経略に腐心した。初めは小田城(茨城県つくば市)に拠る小田治久を頼り、佐竹氏を攻めたりしている。親房は関東と奥州の要路を扼する陸奥国白河城(福島県白河市)の結城親朝に、現存するだけでも70余通にのぼる書簡を送り南朝への奉公を説き参陣を促している。親朝は「三木一草」の一人結城親光の兄であり、建武元(1334)年、北畠顕家が奥州に鎮守府を開くと、出仕して8名で構成される最高合議機関・式評定衆(しきひょうじょうしゅう)に任ぜられている経歴から、寄せる期待は大きかった。しかし親房が関東奥州各地の反幕勢力の結集を呼びかける論拠が、神代以来の日本の歴史を説く『神皇正統記』などに依る天皇家の「大義名分論」だけでは、関東武士が懸命に自家の生存を全うしようと奔走する現実と、余りにも隔絶した論旨で説得力を欠き、また後醍醐による建武の親政は、武家諸勢力の奮起に依存しながらも、彼らの功績に褒賞しない諸施策であった事は自明となっていた。結城親朝は最後まで動かなかった。親房はその態度を名分より実利を選ぶ「商人の所存」と罵った。その親房の見識の無さが、政治的決着を速める事になる。

15)北畠親房常陸国より出奔
 北畠顕家の弟顕信は陸奥介兼鎮守府将軍となり、父親房らと伊勢を出帆したが、途中で遭難し、一旦は吉野に帰った。翌年再び東下し、常陸に入り南朝方の勢力の増大を図った。尊氏は興国3/康永元(1342)年、高師直の猶子師冬(師直の従弟)を、親房一党の討伐軍として発遣(はっけん)すると、状況は一変した。足利氏の大軍勢を目前にすると、親房の重要な拠点であった小田氏の本城が開城し降伏する。親房らは常陸国の関宗祐を頼り関城(茨城県筑西市)に逃れた。大宝城(だいほうじょう;茨城県下妻市)の下妻政泰(しもつままさやす)らと連携し、師冬の攻撃に両城に籠りよく耐えた。この常陸国の戦いに、信濃守護小笠原貞宗が尊氏の命を受け、吉良時衡と共に、市河親房ら信濃の諸士を率いて師冬の軍勢に加わっている。翌興国4・康永2年(1343)3月、貞宗軍は大宝城を攻め、4月7日再び同城を襲っている。漸く11月、ついに落城した。親房は脱出し吉野に逃れた。関宗祐父子は戦死している。

16)宗良親王、信濃国大徳王寺城陥落
 宗良親王北条時行と共に、幸運にも遠江に漂着した。当初から遠江の井伊道政の井伊谷城を根拠地とするつもりであった。やがて信濃国内も南北朝の動乱が激化する。その中心人物が、南アルプスの麓の大鹿村に篭城したこの宗良であった。宗良は征夷大将軍にも任命された親王で、上野宮や信濃宮とも呼ばれていた。
 宗良親王は、興国元(1340)年、遠州国井伊城 に籠城していたが高師泰の攻撃で落城した。北条時行は、それ以前に井伊城を去り東国へ向かっていた。ところが、宗良は、同年6月24日、信濃国大徳王寺城(伊那市長谷)において時行と諏訪上社大祝諏訪頼継らが挙兵したと報らされ、そこへ逃げ延びてきた。「守矢貞実手記」は「暦応三年(興国元年)〈戊/寅〉相模次良殿、六月廿四日、信濃国伊那郡被楯篭大徳王寺城、□大祝頼継父祖忠節難忘而、同心馳篭、当国守護小笠原貞宗、苻中御家人相共、同廿六日馳向、七月一日於大手、数度為合戦、相模次良同心大祝頼継十二才、数十ヶ度打勝、敵方彼城西尾構要害、為関東注進、重被向多勢、時□難勝負付、雖然次良殿、次無御方、手負死人時々失成ケレハ、十月廿三日夜、大徳王寺城開落云々」と記す。
 26日、信濃守護小笠原貞宗は家人を率いて信濃府中から馳せ向かい、7月1日から城の大手を数度攻撃した。大祝頼継は弱冠12才であったが、数十回打勝ち、ために貞宗方は西尾城に要害を構え、鎌倉府に注進し援軍を願った。武家方の援軍が度々来着したため、時行も奮戦を重ねたが、元々寡兵で援軍もなく、次第に手負い死人が生じじり貧となり、10月23日夜、城門を開け落延びていった。高遠氏は、この時の大祝頼継の嫡男貞信(信員ともいう)を始祖とする。

17)宗良親王の信濃国南朝軍終焉
 宗良親王は、越後国、越中国に落ち延びていったが、興国3(1343)年、再び信濃国に入り、翌年信濃の伊那山地深い大河原(下伊那郡大鹿町)を支配する香坂高宗に迎えられ反撃の準備を始めた。
 信濃は在地武士の荘園侵食と北条氏闕所の争奪とが重なり、南北両朝諸勢力の争いが激化した。宮方は、諏訪上社の諏訪氏、下社の金刺氏、上伊那の知久・藤沢ら諏訪一族、下伊那の香坂氏、佐久・小県の祢津・望月・海野ら滋野一族、安曇野の仁科氏で、武家方は、松本・伊那が拠点の守護小笠原氏、更級・埴科・小県郡塩田荘の村上信員、水内・高井の高梨経頼、佐久の大井光長・伴野氏であった。
 宗良は信濃に南朝の一大拠点を築こうとした。糸魚川道筋は「仁科千国口(千国街道)」といい、新田氏の拠点越後など北陸に通ずる交通の要所で宮方の仁科氏がおさえていた。
 大河原は山稜に囲まれた天然の要害で、以降宗良はこの大河原と大草(上伊那郡中川村)を拠点とし、「信濃宮」または「大草宮」といわれた。
 正平7/文和1(1352)年、足利氏の内訌・観応の擾乱に乗じて、南朝軍の武力行動が各地で激化、宗良は征夷大将軍となり、信濃国の諏訪氏、滋野氏、香坂氏、仁科氏らを率いて、越後国方面へ出陣し足利方の上杉憲将を追撃した。さらに足利尊氏が弟の直義を毒殺したのを受けて、東国に身を潜めていた新田義貞の子義興義宗脇屋義治(義貞の弟脇屋義助の子)、奥州の北畠顕信と共に碓氷峠を越え武蔵国へ進出した。鎌倉を攻撃し、一時占拠すると再び足利尊氏追討の旗を揚げた。しかし間もなく人見原(東京都府中市浅間町)・金井原(東京都小金井市前原)で尊氏に敗戦を喫し、小手指原(所沢市北野)でも敗れ、鎌倉を落ちて越後国に逃れた。
 正平8(1353)年11月、越後で宗良は義宗・義治と挙兵し和田義成と戦うが、小国政光に敗れている。翌年も宇賀城を攻めるが、和田義成・茂資に敗れた。正平10(1355)年、宗良は越後国を不利と判断して退去し、再び信濃国の諏訪に入り、南朝後村上天皇方(後醍醐天皇は1338年崩御)の再結集を計策した。その拠点信濃を固めるために諏訪氏、金刺氏、仁科氏を率いて府中へ進軍を開始した。これを迎え撃つ桔梗ケ原(塩尻市)で守護小笠原長基と戦い敗れたため、以降信濃の南朝方は急速に衰退する。その後も宗良は信濃で体勢挽回を図るが、桔梗ケ原の敗戦は信濃国南朝方には致命的となり諏訪氏なども離反していった。後年再び信濃国で挙兵しようとしたが適わなかった。正平23(1368)年には義宗が敗死し、義治は出羽に逃亡して越後新田党が消滅している。応安7(1374)年、宗良はついに信濃国での抵抗をあきらめ、吉野に落ち延びていった。こうして30数年間に亘る信濃国を中心とした宗良親王の闘争は報われる事なく終わった。室町幕府は3代将軍義満の時代で盤石となり、もはや武家はもとより朝廷・山門といえども抗えようがなかった。

18)足利幕府の制度
 室町幕府は、足利尊氏が京都の室町に開いた幕府で、尊氏も京都で政務を執っていた。10月、鎌倉にいた足利義詮は京都に上洛し、代わりに尊氏の次男の基氏(9歳)が、文和2(1353)年に関東公方として鎌倉に下向し、ここで正式に鎌倉府が発足した。
 後に室町幕府と称される足利氏の中央政府の機関は、基本的に鎌倉幕府に倣い建武3(1336)年、政所侍所問注所を置いた。直ぐに政務案件の多様さと増大で、鎌倉時代中期以降同様限界となり、それぞれ特化してゆく。戦功の認定に当たる恩賞方、武士の叙任・任官申請の窓口官途奉行、所領の安堵申請を扱う安堵方、所領関係の訴訟・所務沙汰の審理を担当する引付方(ひきつけかた)など専門に特化した部局が置かれた。その専門の官人達が鎌倉幕府時代、既に吏僚一族となる、二階堂飯尾(いのお) ・(しよう)・布施氏などを形成し、鎌倉幕府・六波羅の各奉行人など枢要の官人を輩出した。それにより枢要な政務の継続性が保たれた。室町幕府初期の尊氏・直義兄弟も、鎌倉幕府末期の吏僚一族を重用した。諸部局からの答申を勘案し、執政者を輔弼し、時にはその政治判断に掣肘(せいちゅう)を加えたのが「評定」であった。様々な利害が錯綜し、政治的に現実的な思惑が絡み、専門的な法実務よりも、政治的配慮が重要であった。
 地方の職制も前代を引き継ぎ、各国の守護が基幹的な役割を担った。その守護は、鎌倉幕府の職制上では、侍所の管轄下にあり、その職掌上も侍所と密接で「大犯三箇条(だいぼんさんかじょう)」に依る重罪犯検断と管国内の御家人に対する指揮権を担った。室町幕府になるとその所管関係が不明瞭となるが、少なくとも鎌倉幕府当時の所管より室町幕府では更に拡張される。

①刈田狼藉の検断
 刈田狼藉とは、他人が知行する田畑を自らの所領と主張して収穫することをいう。その前提には、土地自体の占有権・利用権に対して、百姓職・名主職・公文職・下司職・地頭職・領家職・本家職など、作毛の関する多様な権利が重層的に存在し、その個々の権利が券契(けんけい;荘園所有者が記録荘園券契所へ提出した証拠書類)や安堵状などよって主張されるが、互いに矛盾することが多く絶対的な証拠にはなりえなかった。
 大宝律令が、文武天皇により大宝元(701)年8月3日、選定作業の全てを終えて完成した。その大宝律令に致命的な重大な欠陥があり、その律令に服すれば庶民は、生存自体全うできず、施行後、逐電・逃散などが頻発した。それに乗じるように、事実上の政権担当者・権門勢家自らによる脱法的な利権活動が目立ち始めた。
 その違法性を帯びたまま土地に関する権利「職(しき)」にも2つの思惑が絡むようになった。「永代(えいだい)」と「遷替(せんたい)」である。「永代」は、一度成立すると本所の思惑と関係なく、その了解を得ず相続・譲渡・売却ななどが可能となっていた。「遷替」は「職権」の存立自体に本所の意思が働き、相続であっても本所の承認が必要となった。「永代」・「遷替」共に、既成事実の積み重ねを根拠にしているため絶対的な権益上の差ではなかった。
 刈田狼藉は作毛を目的とした窃盗行為、所領相論の最中の自力強行、所務沙汰(所領関係の訴訟)審議中の狼藉など種々の事例が生じ、鎌倉幕府はこれを重視し、引付方(ひきつけかた;当時最も重要な訴訟であった土地関係訴訟を管轄)に担当させた。延慶3(1310)年には検断沙汰(けんだんざた)として扱い、侍所及び六波羅探題検断方の所管とした。事案が発生すると、侍所・六波羅から当該国の守護に、その狼藉に対して武力による鎮圧を命じた。守護はその経過を侍所などへ報告した。室町幕府では正平1/貞和2(1346) 年、刈田狼藉は所領3分の1の召放(めしはなち)と定め、やがて守護の職権で解決させた。それを契機に守護の国内支配力が強化されていった。中世では根本法となる大宝律令が初段階から破綻し、土地に関する権利が、事実上の支配力を背景にした重層的領有となり、当然法的根拠を欠き、絶対的な証拠も無く、それを決する根本法と権威が存在しない時代が続いた。それを決する権能がはじめて守護の職権とされた。それが支配国内の地頭・国人などの諸雄族を伏させ被官化し領国大名化に導き、それが戦国大名へと成長していく契機となった。

②軍事指揮権
 足利幕府下の守護の軍事指揮権の範囲が、管国内の御家人から国内の武士全体に拡大した。鎌倉時代初期のように、将軍家の「御家人」としてのステイタスが意味を成さなくなり、その主従関係を理念化できず、守護の軍事及び政治・経済の地方主導者として能力が問われるようになった。それが下剋上の実力社会を呼び、戦国大名を育てる要因となった。

③使節遵行(しせつじゅんぎょう)
 所領相論に対し幕府が発した裁定を、守護が現地で執達するための手続きをいう。守護は、幕府の裁定を執行するため、使節を現地へ派遣し所領知行権の譲渡やそれに対する阻害行為などの紛争を解決し、やがて守護は国内の所領紛争へ介入する権限を有する事になった。それが次第に国内の荘園・公領・武家領への支配を強めていき、領国内の地頭・国人・名主らを被官に組み入れていった。そして、室町期守護は 守護大名化し、国内に守護領国制と呼ばれる支配体制を布いた。戦国大名とはそれを成し遂げた成功者が優勝劣敗を繰り返し、家名を維持して来た結果であった。
④闕所地の預置権
 打ち続く戦乱は、国内の武士に参戦を強請することになるが、守護は敵方没収地を所領給付するなどによって私的な主従関係を成立させていった。

19)足利直義と高師直の確執
 室町幕府の特徴は、遠隔地に重層的な広域的出先機関を設置した事にある。武家の故地に置かれ、関東10か国(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸・伊豆・甲斐)を管轄することで、当初は尊氏の子義詮が、次いで弟基氏が継ぎ、以後その血脈が首長となり鎌倉公方(関東公方)に補任された。基氏以後、鎌倉府(関東府ともいう)と呼ばれた。九州には鎮西探題(九州探題)、奥州には奥州管領が広域的地方行政府を構えた。いずれも当然、京都幕府の支配下にあった。
 鎌倉府の設置理由は東国の安定化であったが、その不安定要因が、足利尊氏の執事で、専横を振るう高師直と弟・師泰の一族と、それを憂いた尊氏の弟足利直義との確執であった。その師直と直義の不和は、常陸で苦戦する北畠親房にも伝わっていた。
 高一族は代々、足利家の執事を務めてきた家柄であり、師直は尊氏直属の軍団長でもあった。元弘元(1331)年の元弘の変で、尊氏に従い、六波羅探題を攻撃するなど倒幕戦の武功は著しく、鎌倉北条氏滅亡後その功績で武蔵守に任じられた。建武親政の政府では、窪所(くぼどころ;問注所を引き継ぐ訴訟受付機関)の役人に任じられ、武士の所領確立のために努力したといわれる。その活躍が倒幕後、一段と目覚しくなる。建武5(1338)年、奥州の大軍を率いて西上した北畠顕家を奈良、ついで和泉石津で破り、顕家を敗死させた
 正平3(1348)年には河内四条畷において楠木正行らの軍を撃破し、一族を滅亡させる。こうした足利幕府草創期の功績は、高一族が佐々木道誉らよりも抜群に大きかった。尊氏の執事という立場からも、高一族は強大な権勢を誇り驕ることになる。高師直の一派は、贅沢な屋敷を建てたり、後醍醐天皇の前関白二条道平の妹を誘拐し師夏(もろなつ)を生ませたりもした。その上公卿たちの荘園を強奪した。
 一方、足利直義の政治手腕は、尊氏に劣るものではなく、尊氏が西上し軍政を布くと協力し、共に京にあって諸方へ御教書を発した。直義は北条義時・泰時の謹厳な政治を模範とし、現状を踏まえたうえで武士達を新秩序に組み込み、武家による政務遂行を制度的に確立することが、「天下執権之人」直義の政治課題であった。一方の高師直は対照的で、実力行使によって獲得した新儀が既成事実となるとし、それを無制限に認めようとした。既に「下剋上」の理念が、足利政権の中核に存在していたようだ。『太平記』は、師直や近江国の佐々木道誉(高氏)や美濃国の土岐頼遠などが、天皇・公家などの権威に反撥し、独自の発想で、粋で華美な服装や奢侈な振る舞いを競い、その狼藉無頼の振舞いが洛中の顰蹙をかっている様子を克明に記している。彼らは「ばさら大名」と呼ばれた。
 幕府の基本方針『建武式目』では、「ばさら」を禁止している。一方、直義は禁欲的であり諸将からの貢ぎ物も受け取らなかった。光厳上皇執政下の光明天皇の代に、尊氏・直義兄弟の下で、武家政治の在り方について重要な議論がなされた。建武3(1336)年11月7日付けで、儒者や明法家が提出したその答申が『建武式目』であった。倹約の励行、群飲佚遊(いつゆう;気ままで放埓な生活)の自粛、武士により繰り返される暴戻の停止など京都市中の治安維持に関する事項や、吏僚の選任基準と規律、寺社・諸人による訴訟処理上の心得など政務遂行上の規範など、当面する諸問題への対処を取り上げている。

20)貞和の政変
 高一族は足利氏の執事職を代々務め、足利氏譜代の被官筆頭格であった。高師直も早くから尊氏の執事となり、その信任は篤く、弟の師泰と共に野戦攻城の功は群を抜いていた。師泰も尊氏政権下、侍所頭人の重職にあった。師直・師泰兄弟は、尊氏の軍事統率指揮権の代行者であった。しかもその戦績は赫々(かくかく)たるもので、新田義貞が拠る越前金崎城を陥し、和泉堺浦で北畠顕家を敗死させ、南朝の本拠地の吉野に侵攻し行宮などを焼き討ちし、後村上天皇と廷臣を賀名生(原=穴太;あのう;奈良県西吉野村)に追いやっている。高一族は戦功に驕り、権勢が強まると欲しい物は強引に手に入れていった。有能な軍司令官師直は、守護職は功績(軍忠)のある軍事指揮官が補任されて当然の職とみていた。部下にも「所領など近辺に寺社本所領があれば、境を越えて知行してしまえ」などといい、極めつけは、「天皇など生身は何所かに流して捨ててしまえばよい。どうしても必要であれば、木か金で造ればよい」と言う。
 直義と師直の確執は、所領知行をめぐって一層先鋭化する。既に寺社摂関家本所支配は搾取するばかりで、荘園内の灌漑など農政に無頓着であった。農民にとって、なぜ多大な負担に耐え貢納するのかが分からなくなっていた。師直は代々下野国足利庄が出自であれば、荘園の本所・領家の権益による搾取により、地方の困窮が極まる状況を目の当たりにしていた。師直は、各地の武士たちの貪欲な領土的野心が、むしろ灌漑農耕を育成し生産性を高め、農村経済を活性化させるとし積極的に容認した。直義は、それを武士達の横暴とし、規範を確立し制約しようとして師直方と対立した。『建武式目』でも「軍忠に募り守護職に補せられる(軍功を以て守護職に補任される)」ことを諫めている。「撫民の義」、即ち徳を以て民を慈しむ事が「国中之治否」を決し、「上古之吏務」こそが守護像とした。「上古之吏務」の実態は、卑しい行政官による利権漁りによる「搾民」が実態であったが、直義による執権の理念は有能な行政官吏を「守護職」に任じることにあった。現実には足利幕府も3代将軍義満の代となると、武家の支配が全国の公領・荘園を蚕食しつくし、皇室・摂関家の権益が山城国内に限られて初めて安定した。地方統治は行政的気配りと、秩序を維持する武力が伴わなければ成り立たない「上古之常識」が、以後も繰り返される。
 軍功を誇る高兄弟の専横は、足利政権内部で、特に足利一族畠山直宗上杉重能の反感を呼んだ。畠山氏自体も足利氏の傍流であったが、直宗自身も畠山の庶流であった。直宗は直義から諱の1字をもらっているから、直義子飼いの兵力であったようだ。上杉重能は足利家とは姻戚関係にあり尊氏・直義とは従兄弟で、師直とは同僚で尊氏の執事であり引付方一番頭人であった。師直同様、一時権勢を誇ったようだ。その両人が直義に信任されていた禅僧妙吉(みようきつ)に依頼し、直義による師直失脚を画策した。しかし、高師直は尊氏の執事として、恩賞権限と軍事力にものを言わせて武士諸勢力を掌握していた。高師直の軍勢に所属していた地方武士たちは領地を持たず、それ以前は西日本各地の公家の荘園で働いていた非御家人の下層武士たちであったから、動乱期を好機として、自らが仕える本所領家たちの荘園を奪おうとしていた。
 正平4/貞和5(1349)年の7月、足利直義が兄の尊氏に、高師直を執事から辞めさせるよう迫り、尊氏は高師直を罷免した。後光厳天皇にも師直の出仕停止を願った。尊氏は高一族による反乱を恐れて、師直の後任に師直の甥である師世を就任させた。師直は執事職を退けられ一族存亡の契機と知り、南朝と対峙していた弟の高師泰を帰還さて軍備を整える。直義も、高師直個人の職権を奪ったが、高一族の勢威は温存される、光厳上皇に直訴して高一族の排斥を訴え、院宣を受けて、その完全失脚を謀った。師直は、8月に反撃、兵を率いて直義を急襲するが、直義は逃げ切り、高師直と足利直義の双方が軍を集める。直義軍には山名時氏、今川心省、吉良貞経、仁木頼章、畠山国頼、佐竹師義、設楽兵衛たちが参集した。
 しかし、当時は嫡男だけが先祖代々の土地を惣領が相伝し、次男以下は財産を相続できず、自分で手柄を立てて領地を獲得する必要があった。足利の一門でありながら褒美を目当てに師直軍へ参集した者が多かった。師直の軍勢は、足利直義の軍勢の約2倍にも集まった。直義は身の危険を感じ尊氏の館・高倉殿に逃れ、尊氏に和議を依頼した。
 師直は、集まった軍勢で将軍足利尊氏の屋敷を囲み、足利直義の執事だった上杉重能や畠山直宗らの身柄を引き渡すよう求めた。調停に入った尊氏は、師直軍の要求を受け入れる代わりに、直義の腹心である上杉重能、畠山直宗らを越前に流刑にして、直義の政務を、当時鎌倉に在った尊氏の嫡子義詮を上京させ担当することで決着した。後に重能・直宗両名は師直の命により、越前国江守荘で殺され、師直は再び尊氏の執事の職に返り咲いた。これが"貞和の政変"の顛末であった。なお鎌倉へは義詮の弟基氏が派遣された。

21)足利直義、高一族を滅ぼす
 足利直義は出家剃髪して恵源(えげん)と号した。三条坊門高倉(さんじょうぼうもんたかくら:中京区)の館を出て、錦小路堀川にある足利氏の有力一族細川顕氏邸に逼塞した。これで直義派の政治的失脚が済んだものとして、一応の決着がついた。出家とは、この時代、家長は死んだことと同じ意味とされ、財産や権力は子供に譲られるが、全ての罪も許されるという慣習があった。
 当時中国探題として西国筋を管領する足利直冬が備後国鞆津にいた。直冬は尊氏の庶子で直義の猶子となっていた。直冬は京の異変を知り東上し直義に助勢しょうとした。師直は先手を打ち赤松則村に、それを阻止するよう命じた。さらに尊氏に要請し、高師泰に兵を率いさせ直冬を追討させた。
 直冬は九州に落ち延び、九州の覇権を争う。翌観応元/正平5(1350)年、肥後の豪族河尻幸俊に迎えられ、南朝の征西将軍懐良親王を頂く菊地武光、尊氏に鎮西探題として残された足利氏庶流の一色範氏、地元豪族の少弍頼尚らの三つ巴の争いを好機とし、直冬は少弍氏に近づき頼尚の娘を娶り、少弍・大友などの九州の大族を味方にした。直冬は高師直を退けると喧伝し、更に九州に勢力を拡大していった。その勢力の拡大を恐れた尊氏は、10月、京都を義詮に託し自ら出兵する決意をし、直冬追討の院宣をえた。その出陣の直前に、直義が京を逃れた。師直は尊氏に京に留まり直義の捜索を先行するよう願った。尊氏は首肯せず、予定通り師直師泰を従え進発した。直義は10月26日、大和から河内へ走り畠山国清に迎えられ、「師直師泰誅伐」の直義党を結集した。当時、諏訪大社下社大祝諏訪(金刺) 隆種(たかたね;後に直頼)は在京していて、直義の命により信濃国へ下向し、尊氏義詮父子の討伐軍の結成を策した。同時に直義は、南朝への帰順の意を伝える使者を送り、12月13日には、降伏が容れられ、速やかに義兵を挙げるべしと後村上天皇の綸旨が下った。
 尊氏と師直の主従関係に齟齬があると噂が流れると、直義に呼応し伊勢国守護石塔頼房(いしどうよりふさ)・細川一門を主導する細川顕氏・越中国守護桃井直常(もものいなおつね)ら大勢力が挙兵し、関東でも上野国と越後国の守護職・関東管領上杉憲顕(のりあき)が起ち、師直の従兄弟で、その猶子となった同僚の管領高師冬を鎌倉から駆逐した。直義党は北陸の兵を糾合する桃井直常と策応して京の義詮を挟撃した。やむなく京から逃れた義詮は尊氏が進軍する中国筋に逃れた。尊氏は備後国に達していたが、急遽京へ軍を返した。こうして始まる一連の動乱を「観応の擾乱」と呼んだ。
 金刺隆種は観応2/正平6(1351)年正月2日、諏訪郡の湯河宿(茅野市北山湯川)で、高井郡の市河泰房の軍勢と会合していた。市河氏は志久見郷(長野県下高井郡栄村志久見)を本拠として、これまでは信濃守護小笠原貞宗と関東廂番吉良満義の代官吉良時衡(吉良氏庶流)に従い諸方に転戦し名を馳せていた。市河氏は、この時期直義方の隆種の軍に参じている。隆種は当時、足利直義から、その偏諱(へんき)「直」を賜り「直頼」を称したようで、以後の史料は「直頼」となっている。正月5日、市河軍と共に埴科郡船山郷の守護館を攻め焼き討ちし、更に進軍し筑摩郡に入り、10日には市河経助・埴科郡英多庄(あがたのしょう;長野市皆神山の南麓)の英多弾正左衛門尉(あがただんじょうざえもんのじょう)らを率い、守護代小笠原兼経・政経が立て篭る府中放光寺(松本市蟻ヶ崎)を攻め激戦の末占領している。
 鎌倉公方足利基氏の関東管領高師冬が、同僚の上杉憲顕に鎌倉を追われ須沢城(南アルプス市大字大嵐)に立て篭もった。正月16日、直頼はこれを攻撃した。

 尊氏軍は一旦京を奪還して防戦したが、山名時氏主将とする直義軍の諸将に攻められ丹波口に逃れた。更に播磨国に走り石塔頼房の軍と戦ったが又も敗れ、観応2/正平6(1351)年2月17日、摂津国打出浜でも敗北し、遂に直義と和議を講じた。師直師泰兄弟の命を助ける代わりに、剃髪出家させると言う条件で締結された。尊氏は師直師泰兄弟を従え京都へ向かった。その途上、かつて師直の命により流刑地で殺された上杉重能の養子である能憲(よしのり)が待ち受け、尊氏を他に誘い出しておいて、僧侶姿の師直師泰兄弟をはじめ高一族を襲撃し悉く斬殺した。2月28日の事であった。「観応の擾乱」の凄惨なプロローグであった。
 尊氏の敗北は、軍事的には直義に敗れているが、あくまでも尊氏を首長とする政権内の執権直義と執事師直による主導権争いであった。尊氏の地位は依然として不動で、直義は義詮の補佐役として政権に復帰し、細川顕氏・石塔頼房など直義派が引付衆に加えられ、直義の政務に協力する体制となった。
 足利直義の挙兵は、関東や東北にも飛び火していった。関東では上杉憲顕と高師冬の管領同士で戦い、東北では直義派吉良貞家と師直派畠山国氏が、奥州管領同士で戦った。
 正平5年12月の関東の戦いでは、当初は11歳の関東公方・足利基氏を旗頭にした高師冬が優勢だったが、基氏の家来たちが基氏の身柄をさらって上野の上杉憲顕のもとへ奔ったため、基氏の身柄を押さえた上杉憲顕が関東を掌握した。師冬は途端に形勢不利になって、甲斐国の武田一族逸見孫六入道を頼って甲斐国の須沢城に立て篭もった。須沢城は御勅使川(みだいがわ)をのぞむ急峻な山上の城で、天嶮の要害であった。
 この頃、諏訪下社大祝金刺直頼が直義に呼応し、正平6年正月、更級郡船山郷の守護館を焼き討ちし、その勢いのまま市河一族と英多弾正左衛門尉(あがただんじょうざえもんのじょう)軍、合わせて6千の兵で、師冬のこもる須沢城を囲む。ところが金刺直頼の軍に諏訪真親(まさちか)がいて、師冬は彼の烏帽子親(えぼしおや)であった。真親は師冬の最期に殉じたいとして直頼に願い、城中に入り寄せ手を引き受け、しばし奮戦すると師冬と刺し違えて共に果てた。正月17日であった。

22)高一族滅亡後の信濃国
 師冬の自害後、信濃国内の直義党の主将が金刺直頼であったため、国内の南朝方の陣営は自然直義党となっていった。直頼は直義に近侍するため西上したが、副将祢津宗貞は下諏訪・香坂・市河の緒勢力を糾合し、尊氏党の小笠原為経・高梨経頼らと対峙した。
 同年6月、高井郡の野辺宮原(須坂市野辺)で、祢津宗貞が地元の井上氏と共に挙兵した。29日には小笠原為経・小笠原光宗・高梨経頼らが攻めかかり大いに戦っている。8月にも高井郡の米子城(須坂市米子)や野辺宮原、更級郡の富部河原(長野市篠ノ井戸部)へと転戦し、善光寺横山城を攻める合戦となったと伝わる。
 この8月、直頼が北陸道から信濃国へ入る報せがあった。8月1日未明、直義は再び京を脱出し、若狭から越前国金崎へ逃れた。その直義が鎌倉へ東下する道中、南朝勢を直義党に再結成する目的もあった。信濃の直義党の動きが活発になった。直義党の香坂美濃介は祢津宗貞に呼応して、8月3日、尊氏党の小笠原為経・高梨経頼・佐藤元清らと更級郡富部河原で大いに戦った。香坂美濃介・祢津宗貞らは、横山城に籠る小笠原為経を攻め続け、遂に高井郡米子城(須坂市米子)に撤退させた。金刺直頼は既に、7月30日京を進発していた。北越から信濃に入国した。足利直義の戦略上重要な鎌倉制覇には、小笠原勢が拠点とする米子城の存在は邪魔であり、関東への途上を脅かす、直頼は果敢に攻めるが成果がなく一旦は囲みを解く。9月19日、村上貞信・小中条ら直義党の軍勢が、小笠原為経傘下の佐藤文元の若党金子又次郎を討ち取っているだけで形勢に変化が無い。
 建武3(1336)年10月12日、尊氏は信濃守護代小笠原兼経・村上信貞らに御教書を下し越後へ出兵を命じた。信貞は11月初め、市河経助や市河親宗などを率いて、越後守護や目代佐々木忠枝など新田党を追い落とした。この時、小笠原兼経も弟経義と信濃府中を発向し、安曇郡仁科口から越後へ出兵している。信貞は越後討伐後、信濃の本領へ戻ったが、尊氏の命により市河経助・市河親宗・小見経胤らを率いて12月、京へ入り越後守高師泰の軍に加わった。翌年、尊氏は新田義貞らが立て篭る越前の金崎城の攻撃が進展しないため高師泰を発向させた。その詳細が建武4年3月の「市河左衛門十郎経助軍忠事」、高師直花押の軍忠状が『市河文書』として遺る。その村上信貞までもが、直義党となっていた。
 足利尊氏は、年8月10日、信濃守護小笠原政長に書状を送り、一族と御家人を結集し直義党の信濃入国を阻み、さらに上州へ向かう時には追撃を命じ、10月日5にも重ねて政長に直義の鎌倉入りの阻止を命じた。直義は11月15日、関東管領上杉憲顕により鎌倉へ迎え入れられた。
 香坂美濃介は、正平8年7月には尊氏党と思われる小笠原長基を激しく攻撃している。これも牧城のあたりと思われている。香坂一族は鎌倉時代地頭として諸所へ補任し佐久市香坂から移住した。下伊那郡大鹿村大河原の香坂高宗が、宗良親王に仕え、最後まで大河原の地で親王を守り、上水内郡信州新町牧之島の香坂美濃介も南朝方と活躍していた。応永6(1399)年、小笠原長基の子長秀が信濃守護に任命され、「大塔合戦」を惹き起こす。

 東北の戦いでは、吉良貞家が岩切城(仙台市)で師直派の畠山国氏と、その父の高国を破って自刃させた。

23)観応の擾乱終結
 この間の関東や東北の情勢が影響したようで、京都も、直義派の軍勢が制圧した。観応2年2月、将軍尊氏の軍勢は摂津打出浜で直義派の軍勢と戦い敗北した。これ以降、尊氏と直義との間に決定的な確執が生じた。観応2/正平6(1351)年3月末、直義に信任されていた奉行人斎藤利泰が何者かに殺された。4月3日には直義が、義詮と同宿するため三条坊門に赴くが直ぐに帰宅すると言う出来事があり、両者の軋轢が露呈されはじめた。5月4日には桃井直常が直義訪問の帰途襲撃された。6月になると、信濃でも尊氏方の小笠原為経と直義方の金刺(諏訪)直頼が勝手に戦闘を開始する始末である。直義・義詮両者の政務は、双方に党派を生み暗闘が続き、種々の噂が京中を駆け巡り、相互を疑心暗鬼にさせた。
 尊氏派の細川頼春・仁木義長・赤松貞範・佐々木道誉らの圧力が強まると、直義党の畠山国清・桃井直常・石塔頼房ら諸将の多くが国元に戻っていった。7月初旬には、直義の政治的孤立が明白となり、19日、直義は尊氏に義詮への「不快」を理由に「都鄙静謐(とひせいひつ)のため」として政務辞退を伝えた。同月下旬、尊氏派の武将・細川頼春、仁木頼章、佐々木道誉、赤松貞範たちが国許へ帰り、戦に備えた。
 同月末には佐々木道誉が南朝に通じ近江に城郭を構えたといい、尊氏がその討伐を名目に近江へ進発した。義詮も播磨で赤松則祐が、護良親王の若宮興良親王を奉じ蜂起したとして出陣した。この動きを少納言山井有範が直義に、尊氏義詮父子による東西からの挟撃策と報せる。8月1日未明、直義は京を脱出し、若狭から越前国金崎へ逃れた。従ったのは、上杉朝定、桃井直常、石塔義房(頼房の父)、畠山国清・山名時氏・吉良満貞らの武将とともに、二階堂行綱・問注所太田顕行など鎌倉幕府以来の実務官僚たちや奉行人までもが同行していた。総勢は42人であった。諏訪大社下社大祝金刺(諏訪)直頼もその一員であった。尊氏は8月6日、細川顕氏を越前国に派遣し、直義に再度政務に復帰するよう説いたが、両党の将士が賛同しないため不調に終わった。直義は9月近江の合戦に敗れ、越前から加賀国に出て、北陸道で鎌倉へ向かった。尊氏は直義を討つよう信濃国守護小笠原政長に御教書を送った。
 直義は11月上旬、関東管領上杉憲顕に迎えられ鎌倉に入り、足利基氏は憲顕に補佐され鎌倉に在ったが、父尊氏と叔父直義の関係修復を模索したが果たせず、難を避けて安房へ逃避した。
 当時の天下の形勢は尊氏派、直義派、南朝派の3勢力に分かれていた。尊氏が鎌倉を攻撃すれば、奈良の南朝派が京都を脅かし、尊氏が奈良へ進撃すれば直義派の支持勢力が京都を制圧しまう。直義が鎌倉から京都へ攻め上げれば、東北各地の南朝派勢力が背後から攻撃する。
 尊氏は直義を攻めるために、10月下旬、形式上、南朝に降伏した。この和解交渉は、既に7月から密かに進められていた。尊氏は使者を度々吉野に遣わし帰順と両朝の合体を懇請していた。南朝方は幕府の混乱に乗じて諸方に決起を促し、京都に復帰できるよう働き掛けていた。それが信濃国の直義党決起の背景でもあった。10月24日、後村上天皇は尊氏・義詮の降伏を受諾し、26日赦免の綸旨を下した。
 11月7日、北朝の崇光天皇や皇太子直仁(なおひと)親王は廃され、関白二条良基らも更迭される。また、年号も北朝の「観応2年」が廃されて南朝の「正平6年」に統一される。これを「正平一統」と呼ぶ。尊氏は南朝の後村上から直義を追討するべし、の綸旨を受け諸国に令し、尊氏は京都の守備を子の義詮に任せて鎌倉へ進発した。

 12月、駿河の薩垂峠(さったとうげ;静岡市清水区)で尊氏軍と直義軍が衝突したが、下野の宇都宮氏綱など関東の諸将が、尊氏派について直義軍の背後を襲ったため、直義軍は敗北した。ついで相模国早河尻(はやかわじり;現小田原市早川)でも敗れ、伊豆国北条に逃れた。尊氏は同地で直義と和睦した。翌正平7/文和元(1352)年正月5日、鎌倉に入った尊氏は直義を稲荷山浄妙寺(とうかさんじょうみょうじ;鎌倉市浄明寺)の西北に在った延福寺に幽閉した。直義は、2月26日、不自然死している。浄妙寺の中興開基は尊氏の父貞氏で当寺に葬られている。この寺の西側の山腹に、浄明寺の鎮守熊野神社がある。その石段の上り口辺りに、直義の屋敷があった。そこが直義の菩提所として建てられた大休寺址で、その由来が直義の法号「大休寺殿」に因むと伝えられている。
 直義は享年47にして生涯を終え、観応の擾乱(観応3年→文和元年)と呼ばれた大乱も終息した。直義の殺害が知らされると、足利直冬軍も勢いを失い九州から逃れ、長門へ去り南朝方と提携した。九州の3つ巴の戦いも終わった。
 2月26日、後村上天皇は賀名生(あのう)を発ち、河内国東条(大阪府河南町)、摂津国住吉(大阪市)を経て、閏2月19日、山城国男山八幡(京都府八幡市の石清水八幡宮)に布陣した。その時には、既に直義の訃報が届いていた。翌20日、北畠親房率いる南朝軍は京に攻め入り、義詮を近江へ逐電させた。翌21日、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王を八幡の陣に拉致し、翌月には南朝の根拠地賀名生へ連行した。これに連動して、関東では宗良親王を擁した新田義興・義宗の軍が、直義党であった管領上杉憲顕と結び鎌倉を陥し、南朝方は一旦、東西を制した。しかし尊氏は3月12日、鎌倉を奪回し、畠山国清を管領に任じ、義詮も和議が破れたとして、年号を「観応」に復し、諸国の武士を糾合し京から南朝軍を追放した。南朝軍は糧秣の補給を絶たれ、脱落者が続出し八幡の陣も敗れ、四条隆資(たかすけ)・滋野井実勝(しげのいさねかつ)らが戦死し、廷臣の多くも幕府に降り、5月11日、やむなく賀名生へ逃れていった。
 この観応の擾乱の後、尊氏は、子の義詮に将軍職を世襲させ、関東公方には次男の基氏を配置した。
 鎌倉府の関東公方・基氏は関東8か国(武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸)を仕置する権限を持ち、鎌倉府は関東の独立した政治組織として発足した。
 畠山国清は観応の擾乱時、はじめ直義派だったが、中途で寝返って尊氏のほうに走った。基氏は、貞治2(1363)年、専横が極まり諸将の信頼を失った畠山国清を追討、上杉憲顕を呼び戻して関東管領に復帰させ、鎌倉府の支配体制を完成させた。基氏は、貞治6(1367)年4月26日、享年28で病没。墓所は鎌倉・瑞泉寺。同年12月7日、義詮も家督を9歳の義満に譲り病没した。享年38。

24)宗良親王、更埴地方で奮戦
 金刺直頼は、観応2(1351)年8月、直義方として尊氏方の小笠原と善光寺平で激戦を繰り返していた。尊氏が南朝方と和睦し勢力を回復すると形成は逆転し、直義は翌年2月殺される。
 閏2月6日、信濃に在った宗良親王は後村上天皇より征夷将軍に任じられ挙兵した。これに従った諸勢力が諏訪氏・祢津氏の神家党であった。直頼は観応3(1352)年閏2月16日、宗良親王を奉じて信濃を進発し碓氷峠を越え上州に入る。南北朝期最期の大反撃をする。
 これに先んじて、親王に策応して上州で挙兵した新田義貞の息子義宗・義興兄弟兄弟の従弟脇屋義治を主将とする上州・越後の軍勢が、管領上杉憲顕と結び、閏2月15日、武蔵に入った。尊氏はその鋭鋒を避け鎌倉を捨て沼津港の狩野川に逃れたため、18日、抵抗も無く鎌倉に入った。南朝方は、一旦は、東西を制した。新田義宗は勢いに乗じて追撃したが、尊氏本軍に挑まれ敗退した。義宗は武蔵国小手指原(現所沢市から狭山市)まで退き宗良親王の軍と会した。新田義宗や上杉憲顕と組み、金刺・諏訪・滋野氏を主力とする信濃勢が、宗良親王を奉じて、鎌倉道筋の高麗原(現埼玉県日高市)・入間川(埼玉県入間市) ・小手指原で足利一族、侍所頭人の仁木頼章と戦うが敗退し、親王は越後へ逃れた。尊氏は3月12日、鎌倉を奪回した。同年10月、頼章は幕府執事に起用され、丹波・丹後・武蔵・下野の守護を兼ねた。
 宗良親王は信濃に戻り、新田義宗は越後へ還り再起を期した。足利義詮が男山八幡の後村上天皇の行在所を囲むと、義宗は4月、越後国津有庄で挙兵し越中国から能登へ向かった。先に宗良親王を奉じ「武蔵野合戦」で敗れた金刺直頼は、新田義宗に呼応して信濃国内で南朝党を再結集し、宗良親王を奉じ男山八幡で困窮する後村上天皇救援のため西上しようとした。尊氏は未だ鎌倉に在ったが、従軍していた信濃守護小笠原政長を急遽、信濃国へ帰還させ、これを鎮圧させようとした。政長は直頼と諸所で戦う最中、陣中で病没した。
 5月、宗良親王は諏訪・金刺・滋野・伴野・仁科・祢津・上杉の諸士を従え、後村上を救援するため西上した。その途上、後村上の男山八幡の行在所が義詮により制圧され、賀名生へ還御したとの報せが入り、空しく信濃国内に戻った。

 新田義興・脇屋義治は、文和元年/正平7(1352)年、南朝方の相模国河村一族と共に河村城(足柄上郡山北町山北)に籠城して、北朝方の畠山国清等と対峙した。河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝にあり、南面する酒匂川との比高差は約130mあり要害といえた。翌年、河村郷岸の南原の戦いで南朝方は惨敗を喫して河村一族の多くが討死し、新田義興は越後国へ逃れた。

 文和2/正平8年7月5日、足利尊氏は同日付の軍忠状を先の信濃守護小笠原政長の子長基に発している。長基も信濃守護職に補任されていた。その軍忠状から当時、安曇郡の仁科右馬助が越後国の南朝党の挙兵に呼応し、現小川村の山間を越えれば更級郡西山部の牧城(現長野市信州新町牧野島)を拠点とする香坂美濃守と連携できる地理的関係から気脈を通じ、城郭を構え反抗した。現代の牧之島城は武田信玄が命じ馬場信房に造らせたもので、そこから1k東に普光寺がある。ここが香坂氏の牧城址であり、今も土塁や一の堀、二の堀の址が遺っている。現在普光寺山門の前に香坂牧城跡の石柱が建つ。当時の牧城の領域は、牧野島集落から馬場信房築造の牧之島城域までを含めたかなりの広い範囲で、その勢威が知られる。
 尊氏の軍忠状から仁科右馬助が拠る城が陥落した事が知られる。仁科氏は、大和の古代豪族・安倍(あべ)氏が姫川上流の信濃安曇地方、木崎湖西南の地に「森城」を築き仁科氏を称し始まる。仁科御厨(伊勢神宮内宮領)と皇室領仁科荘の荘官となり、現代の大町周辺を事実上支配した。高瀬川段丘上の仁科神社のある館之内の地に館を築いた。その後も開発領主として積極的に自領を拡大しては、伊勢神宮内宮領として寄進し勢力を拡大させた。鎌倉時代末期か室町時代初期に、支配領域の拡大と利便性から現在の大町市街地へ館を移した。二重の堀に囲まれた屋敷の跡は今でも残り、天正寺(現大町市街地天正院)になっている。一方「森城」は木崎湖畔に突き出た半島状の地形を利用する、三方を湖と沼地で囲まれた「水城」であった。危惧すべき陸続きの南方面には、農業用水をかねた外堀堰を設けていた。この「森城」こそが、仁科氏の「守城」であり「詰城(つめじろ)」であった。仁科氏は承久3(1221)年の「承久の変」に際して宮方の後鳥羽上皇に与し、仁科盛遠は北陸で鎌倉軍と戦って戦死し、一時所領を没収されたが、在地の一族が復興したようだ。
 小笠原長基は文和2/正平8年、仁科氏が拠るその城を陥落させ、勢いに乗じて香坂美作守が拠る牧城を攻撃するが、落城させるまでには至らかった。

 宗良親王は興国5(1344)年当初から伊那郡大河原を拠点にして活動していたが、一時その歌集「季花集秋」の部に次ぎの2首があり、更級郡姨捨山(冠着山)に在していた時期もあった事が知られる。

さらしなのさとに住侍りしかば、月いとおもしろくて、秋ことに思ひやられしことなと思ひ出られければ

諸ともに 姥捨山を 越えぬとは 都にかたれ さらしなの月

あかた(田舎)の住居も、としをへてすみうくのみ覚え侍し頃月を見て

月にあかぬ 名をやたつまし 今年さえ 猶更科の 里にすまはば

宗良親王が当初撰した新葉和歌集
をは捨山ちかくすみ侍し比(ころ)、夜ふくるまて月を見て想ひつづけ侍し

これにます 都のつと(贈り物)は なき物を いさといはばや をは捨の月
 
25)宗良親王南朝軍最期の戦い
 正平10/文和4(1355)年春、宗良親王は越後でも南朝方が敗退すると信濃に逃れて来た。諏訪氏・金刺氏・仁科氏も必死に兵力を結集し、再起をかけて8月、府中の制圧にむかう。しかしその途中、同月20日、桔梗ヶ原(塩尻市)で守護小笠原長基と激戦の末、敗退し、信濃南朝軍は瓦解していく。翌延文元年には、信濃国境志久見郷(栄村)で、直義方の残党・上杉憲顕の子憲将も敗れている。以後、幕府政治が浸透していった。桔梗ケ原の敗戦は決定的で、信濃の南朝方にしてみれば、最早抵抗の限界となった。
 貞治5(1350)年、越後国守護職に補任した上杉憲将は、足利直義を支持したため翌々年には罷免され、宇都宮氏綱に守護職を奪われた。その後南朝方として越後各地で転戦していた。
 正平13/延文3(1358)年、尊氏は背中に腫物ができる病気にかかり、4月30日、京都二条万里小路(までのこうじ)邸で死去した。54年の波乱の生涯であった。同年9月20日、新田義興は尊氏の死に乗じて、鎌倉を攻めようとして武蔵野国で挙兵したが、鎌倉公方足利基氏と関東管領畠山国清により送り込まれた江戸長門・高良や竹沢右京亮らに多摩川の矢口渡で謀殺された。義興主従わずか13騎の小勢が多摩川を渡るため船に乗ったところ、船頭が船底にしかけた穴の栓を抜き沈没させたという。弟義治は孤立無援となり出羽に逃亡し越後新田党が消滅する。以後、ますます南朝党は衰微していく。
 12月、足利義詮が征夷大将軍を継承した。同月22日、将軍宣下のため諸将を率いて参内した。それに供奉する金刺直頼の姿があった。翌年12月、2代将軍義詮は河内観心寺(大阪府河内長野市寺元)に拠る後村上天皇を攻めるべく京都で出陣した。この軍に金刺直頼や祢津小次郎が従っていた。義詮は南朝討伐の際、下社に天下静謐の御教書を発給している。
 正平18(1363)年8月、矢島正忠が宗良親王を奉じ守護小笠原小笠原長基と桔梗が原で戦った記録「沙弥道念覚書」の末尾に「この合戦に下之金刺・山田馳せ加わらず、如何に如何に」と衝撃的な寝返りを述べている。金刺直頼はこの時既に、府中(松本付近)を本拠とする守護小笠原氏とも連携していたようだ。

 「守矢満実書留」では、貞治5(1366)年にも、諏訪氏は南朝方と記す。貞治4(1365)年12月14日、金刺直頼は塩尻金井で、同年2月に信濃守護職を解任された小笠原長基と戦い敗れている。翌年正月20日には、当時の宮方、村上・香坂・春日・長沼等と連合して長基と戦い勝利している。すぐさま長基も反撃している。
 宗良親王は、信濃国大河原(現長野県下伊那郡大鹿村)の地で、なおも信濃の宮方勢力の再建を図った。応安2年/正平24(1369)年には関東管領・信濃守護上杉朝房の攻撃を受け、さすがに進退が極まった。宗良親王の終焉の地は諸説があって定まらない。天文19(1550)年に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から見て、最期の拠点大河原で薨去したようだ。足利幕府の追捕を逃れながら、深山の更なる奥深くに潜伏する日々であったようだ。大河原の山懐の深さが、最期の拠り所となった。宗良の死後、南朝方は、既に九州を失い、吉野周辺に有力公家がわずかに残存しているだけであった。残された現実的な道は「和睦」のみとなっていた。その情勢下で主戦派の長慶天皇(ちょうけい)が退位し、講和派の後亀山天皇が即位した。

26)信濃戦国時代の前奏
 小笠原氏は貞宗以来、その子政長、孫の長基と歴代信濃守護職を継承してきた。貞治4(じょうじ;1365)年2月、京都の幕府の管理下にあった信濃国が、鎌倉公方足利基氏の鎌倉府に属するようになり、上杉朝房が信濃守護に補任した。朝房の父は上杉憲藤、犬懸上杉氏の始祖で、尊氏の従弟であった。摂津で南朝方の北畠顕家と奮戦するが、3月15日、摂津渡辺河で戦死した。享年21。朝房の妻は山内上杉氏憲顕の娘である。貞治7(1368)年9月、憲顕の子上杉能憲(よしのり)と共に関東管領に任じられ、能憲と共に「両管領」と称され、9歳の幼少公方足利氏満を補佐した。
 3代将軍・義満の時代なると、南北朝合一がなり、将軍家による絶対的専制となり、諏訪大社上社も対抗する術(すべ)を失った。応永5(1372)年には、諏訪兵部大輔頼貞に将軍義満から小井川と山田の2郷を与えられている。
 永和3(1377)年8月、幕府は、当時の信濃守護上杉朝房に信濃国所役である上社造営料の督促を命じている。この時代も、信濃国は鎌倉公方の管轄下にあった。

 長基の守護職の解任は小笠原氏にとって、不本意な体制の変換であった。3代将軍義満の時代、至徳元(1384)年、信濃国は幕府管理下に戻ったが、小笠原氏の復権とはならず、幕府管領斯波義将の同母弟義種が守護職に補任された。義種は信濃国に赴かず、在京のまま家臣二宮氏泰を守護代とした。しかし氏泰も下向せず子の種氏を代官として派遣した。この時期に埴科郡船山郷にあった守護所が水内郡平柴に移ったようだ。
 市河文書の中に観応2(1351)年3月日付けの諏方某の証判がある「市河松王丸甥孫三郎泰房宛ての軍忠状」に、同年正月5日、小笠原政長の軍を船山郷の守護館に攻め放火したことが記されている。守護所の移転は、その後に生じた事態を受けての事とみられる。更埴地方の村上頼国小笠原清順(長基)・高梨朝高(全盛期の本拠地;中野市)・長沼太郎(島津氏)らを初めとする諸雄族の活動が活発化し、至徳元年、信濃国に幕府管領家の斯波義種を守護職に補任した。至徳4(1387)年9月日の二宮式部丞(信濃国守護代二宮氏泰の子種氏;守護代の代官)の証判がある市河甲斐守頼房宛て軍忠状で、当時平柴に守護所が在ったことが明らかになっている。
 足利直義が尊氏に敗れて急死したことで「観応の擾乱」は終熄したが、越後の上杉憲顕(のりあき)らは南朝方に属し尊氏に抵抗し続けた。市河頼房も当時の北信の情勢下、上杉氏と同盟していた。下高井郡の高梨氏が中野氏を駆逐して北方に進出、延文元年/正平11(1356)年、市河氏は上杉氏の支援を得て高梨氏の軍に勝利している。その後、憲顕が尊氏方に帰順したことで、市河氏も守護小笠原長基に降伏した経緯がある。
 新守護斯波義種は守護代二宮氏泰に信濃諸豪の押領地の糾明と寺社領の復権を強力に推し進めさせた。二宮種氏は守護代の代官として、平柴の守護所で信濃国に軍政を敷いた。当時諸国の豪族は寺社の所領を押領することが常態化していた。特に信濃国では諏訪上社領の掠奪が横行していた。ひとえに諏訪大社上下社が、鎌倉幕府滅亡後、反足利氏を貫いた結果であった。
 
「守屋文書」に
 「一諏方(諏訪)兵部大輔入道頼寛申信濃国上宮(諏訪上社)神領所之事、(申状具書如此)而近年国人等寄事於左右押領之云々、事実者太(はなはだ)無謂(謂れが無い)、所詮令糾明神領之実否、任先例、可沙汰付下地於社家雑掌、更不可有緩怠之状如件

 至徳二年五月十六日                    大夫殿(斯波義将)御判
  二位信濃守(斯波義種)殿
                     」
 この押領地糾明に恐慌したのが、北信の国人領主村上頼国小笠原清順高梨朝高長沼太郎らで、いずれも建武中興以来足利氏方として、その権力に乗じ専断押領を重ね勢力を拡大してきた諸雄族であった。至徳4(1387)年4月28日、その諸士は一族を率いに挙兵し、守護職斯波義種に叛き、善光寺横山城を拠点とした。閏5月28日に守護所を攻めている。その際、市河甲斐守頼房は守護方に付き、生仁城(なまに;千曲市生萱;いきがや)に逃がれたが、村上頼国らに攻められ落城した。
 守護所にいた二宮種氏は、高井郡の市河頼房を従え平柴の東方・裾花川東岸の漆田(長野市中御所2丁目)に出陣し、村上頼国ら北信連合軍と激戦を繰り返し防戦し続けた。

 その北信の戦況が報らされると、6月9日、足利3代将軍義満は、御教書を市河頼房に下し、守護代二宮氏泰を信濃国へ下向させから、それまで防戦に努めるよう命じている。
「市河文書」に
 「信濃国事、守護代二宮信濃守(氏泰)子息余一(種氏)在国之処、村上中務大輔入道(頼国)・小笠原信濃入道・高梨薩摩守(頼高)・長沼太郎以下輩、有隠謀、及合戦由、太(はなはだ)以濫吹(狼藉)也、早同心之族相共可被致忠節、所詮当国所令拝領也、仍(よって)守護代重所差下也、其間、諸国抽其功者、別可有抽賞(ちゅうしょう;功績が抽(ぬき)んでる者を賞する)之状、依仰執達如件、

  至徳四年六月九日              右衛門佐(斯波義将) 花押
     市河甲斐守殿                    」
 守護代代官二宮種氏は市河頼房の戦功を賞し高井郡犬飼北条(木島平村穂高)と中村の地を宛行った。当時、犬飼郷は北条・中村・南条から成っていた。6月25日、頼房に守護斯波義将からも感状が下された。
 同年9月日の「市河文書」に遺る守護代二宮氏泰の「市川甲斐守頼房申軍忠事」によれば、氏泰が北陸道から信濃へ下って来た。頼房は越後国糸魚川に馳せ参じている。そのまま氏泰に同行し入信すると、反守護派と水内郡常岩中条で共に戦い勝利した。善光寺横山城を拠点として着陣した。8月27日、村上頼国らが馳せ向かい合戦となる。激戦となり頼房自ら馬上太刀を振るい迎撃するが、その乗馬が切られ、若党の難波左衛門二郎討死し、その弟も含む数十人が戦傷を負ったと記す。戦いの結果は村上頼国らが逆に敗れ退き、守護代二宮氏泰は勢いに乗じ、諸所で国衆勢力を敗走させた。頼国らは、その後生仁城を拠点とし再挙を図った。しかし守護代二宮氏泰の軍は、これらを攻め頼国ら反守護勢力を四散させた。斯波種氏は任国支配の失敗で解任され、幕府管領義将自ら信濃守護となった。義将は軍事指揮権をも掌中にし、国人支配を強化していった。9月15日付の斯波義将の市川頼房宛ての感状が下されている。「於横山合戦之時、被致忠節之由、二宮式部丞注進了、当手人々手負打死注文加一見候、殊目出候 恐々謹言」と書かれている。
 南朝方・直義党が跋扈していた時代は、村上氏など北信の諸雄族の多くが、守護方として活躍していたが、今では反守護連合的盟約を結び、その既得権益を死守せんとする。それが信濃国内に諸士連合・国人一揆を生み大塔合戦を勃発さた。
 応永5(1398)年、幕府管領が斯波義将から畠山基国に代わった。翌年、義将は信濃守護も解任さた。代わりに小笠原長秀が任命され、念願の守護職が小笠原氏に戻った。ようやく信濃守護に復帰した長秀を罷免させる事変が信濃で待ち受けていた。

27)足利義満の南北朝合一
 貞治元/正平17(1362)年 斯波義将が細川清氏後任の幕府執事に就任した。斯波氏は足利一門中嫡流に次ぐ家格で、その有力一族が執事職に就任したことにより、伝統的に高氏幕府以来、足利氏被官一族の役目だった時代に比し、その役割と意味合いが変わってきた。執事から「管領」と称されたのも義将以降である。最高位の守護大名斯波氏が「管領」となり、将軍の補佐役として役職上認識され、ようやく安定した室町幕府の統治機構が完成した。以後「管領・守護体制」と呼び、二頭政治が始まる。
 翌年春、大内弘世(ひろよ)が周防(すおう)・長門両国の安堵を条件に幕府に帰伏した。同年9月、観応擾乱以後、南朝方の重鎮であった山名時氏も幕府に降った。山名一族は伯耆・因幡・美作・丹後・丹波5か国の守護職に補任した。幕府は九州を除く全土を掌握した。貞治6/正平22(1367)年、足利義詮は死に臨んで10歳の義満に家督を譲り、讃岐から呼び寄せた西国の有力大名細川頼之(よりゆき)を管領に任じて後事を託した。翌年、義満は元服し、征夷大将軍に任ぜられたが、幕政の実務は頼之の手にあった。頼之は幼少の将軍義満を補け12年間、管領に在職した。室町幕府の管領体制を強化することに努め、管領から守護への命令系統を確立し、幕府の基礎を固めた。

 この間、守護を通じて荘園年貢の半分を、その配下の武士の兵粮料や恩賞として、1年に限って給与させる半済(はんぜい)法の整備をした。観応3(1352)年7月、足利幕府は観応擾乱の激戦地近江・美濃・尾張の本所領年貢を半減させ、残余を兵粮料所(ひょうろうりょうしょ)に1年を限度として預け置くことを守護に命じた。乱の拡大に伴い伊勢・志摩・伊賀・和泉・河内の8か国に拡大した。但し、本家職・領家職共寺社である「寺社一円所領」は半済の適用外として保護した。
 『太平記巻33「公家武家栄枯易地事」』には「今は大小の事、共に只守護の計いにて、一国.の成敗雅意(我意)に任すには、地頭御家人を郎従の如くに召仕ひ、寺社本所の所領を兵粮所とて押へて管領す」とある。応安以前から守護が実施を任されてきた兵粮料所の設置により、経済的優位となり、その守護国内の武士達を被官化させ、荘園経営を疎かにしきた寺社本所・領家領を侵略する武力として育て上げた。実際、最上位の権門後光厳天皇の所領さえ「一.所として未だ遵行の実(じつ)無し」が現状であった。その後、「応安.大法」を最後に、「所領政策」を定める法は、幕府から発布されなくなり、その経済基盤を土倉役(どそうやく)・関銭など京都の市場からの流通税を財源とする。
 頼之は朝廷が大嘗会(だいじょうえ)、内裏造営など臨時に賦課する段銭(たんせん)徴収権などを接収し、河内、伊勢、越中など南朝軍の拠点を攻撃、更には応安4/建徳2(1371)年、鎮西管領(九州探題)として今川了俊(りょうしゅん;貞世;さだよ)を発遣した。
 了俊は西下の途中、安芸守護となり、中国地方の諸雄族を招き軍事力を増強した。その間、子の義範や弟の仲秋を先遣隊として豊後と肥前に送り、征西府攻略の画策をさせた。当時九州は、征西将軍懐良(かねよし)親王、菊池武光(たけみつ)を中心とした比較的安定した南朝方優位の征西府黄金時代といえた。懐良親王は大宰府にあって、九州の過半を勢力下に置いていた。今川了俊は同地の諸雄族にも連絡をつけ、これらの力を結集し翌年8月、懐良親王の拠る大宰府を陥落させた。征西府は筑後高良山(こうらさん;福岡県久留米市御井町)へ敗走した。
 幕府は蓄積してきた権勢力で、有力守護大名を屈服させ、九州の南朝勢力を無力化し、幕府の全国統治体制をほぼ確立した。
 京では、細川頼之の権力があまりに肥大化することを嫌った他の有力守護大名の反発を招き、康暦1/天授5(1379)年、義満は頼之に帰国を命じた。これが康暦の政変で、斯波義将を管領とした。これは、次第に幕政の専制を志向し始める義満自身の意志でもあった。義満は前年の永和4/天授4には、室町に「花の御所」を造営して移住している。義満は将軍権力を絶対化するため、有力守護大名たちの勢力削減に努めた。

 至徳3(1386)年7月、翌年の御射山祭差定(さじよう)には、「聖朝安穏、天地長久、殊には征将軍の宝祚(ほうそ)延長を奉為(たてまつらんがため)に、別しては国事泰平、人民豊永の故なり」と記されている。「宝祚」とは「皇位」の意であるから、諏訪大社上社は将軍義満を事実上の日本国王と見なしていた。

  南朝の存在は、武家内部の抗争の際、幕府反逆の名分として旗印にさ利用されるだけで、両朝対立の実態は既に解消していた。明徳3年/元中9(1392)年、南朝の後亀山天皇は京都へ赴いて、大覚寺で後小松天皇と会見して神器は譲渡され、南朝が解散される形で南北朝合一は成立した。
 室町幕府一統支配となると、諏訪氏の軍事活動も諏訪郡周辺に限定されてくる。動乱による負の遺産は甚大で、かつての勢威は過去のものとなった。  室町時代初期、信濃国内在地領主の諏訪上社頭役は、五月会と御射山祭に、新たに花会頭役が加わったが、室町時代半ば頃から頭役制度が衰退していく。『諏訪大明神絵詞』に「惣て一年中、役人十余輩、皆丹誠そ抽て、一生の財を投ぐ」と述べていたが・・・
 正平10年(1355)8月、宗良親王が大将軍となり、小笠原氏と桔梗ケ原で戦ったとき、仁科氏は諏訪上下の大祝とともに親王方として参戦したことが知られている。しかし、信濃の南朝方の抵抗は次第に弱まり、室町幕府の支配体制が強化されて、守護の圧力が増大してくると、信濃の国人たちは領主権主張の立場から守護権力に反抗するようになった。その中心は北信濃の村上氏を中心とする国人勢力である。
 南北朝が統一された後、信濃の新守護として小笠原長秀が入府するや、あまりに強圧的な領国支配を始めたため、北信を中心に、北東信の国人らが一揆を形成し守護に抵抗した。応永7(1400)年に両勢力は篠ノ井で激突するにいたった。世にいうところの「大塔合戦」である。小笠原長秀に反抗した国人側に、小県地域からは、海野氏、禰津氏、矢島氏、浦野氏、実田氏、横尾氏、曲尾氏など13氏が参戦した。

 永享12(1440)年結城氏朝が常陸国で挙兵した。室町幕府は上杉清方、上杉憲信、長尾景仲らに討伐を命じた。結城城を包囲した軍勢の中に村上頼清と、それに従った真田源太、真田源五、真田源六の名が見える。同じく結城を攻撃した小笠原政康に属する山家(やまべ)氏、武石氏、和田氏がいた。
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