独鈷山(とっこさん)の北麓にある前山寺、右手裏山が塩田城址 塩田城址のある塩田(北条)陸奥守国時と子俊時の墓所 義政の子、国時、その子俊時と三代にわたる約60年塩田を統治

北条時頼は享年37であった。
 業鏡高く懸げ 三十七年 一槌にして打ち砕き 大道坦然たり

村上義清の先代記  Top

 目次
1)村上氏台頭の時代背景 
2)鎌倉幕府滅亡時の信濃国 
3)信濃村上氏
4)四宮荘北条と小坂円忠
5)北信を揺るがす中先代の乱
6)足利尊氏謀反に同調する村上信貞
7)中先代の乱後の信濃
8)香坂氏
9)村上信貞、北越出兵

1)村上氏台頭の時代背景
 後醍醐天皇は隠岐に配流されている。その間、畿内地方では、還俗した護良親王が窮迫しながらも転戦を重ね、河内国では楠木正成が赤坂・千早(大阪府南河内郡千早赤坂村)の山城に籠城し、寡兵でありながら独創的な奇計を駆使し抵抗を重ねていた。それらが鎌倉幕府を絶対的権威とする神話を崩壊させた。
 貧窮する御家人層や荘官が、時代の推移に応じて諸地域に生成されてきた『新儀』を既得権益として主張し、朝廷や幕府から「朝敵」「悪党」と名指しされ、遂には六波羅探題指揮下の武士団に粛清されて来た。楠木正成の籠城戦は、北条一族と得宗家被官達に偏した既存体制を打ち破り、新たな秩序を誕生さようとする諸勢力を勢いづかせ、やがて幕府存立の基盤を根底から崩していった。
 正慶2(1333)年1月、播磨の赤松則村が、後醍醐の皇子護良親王の令旨を受けて反幕府勢力として挙兵する。九州でも菊池氏阿蘇氏が、伊予では土居氏と得能(とくのう)氏らが、令旨の檄に応じている。この情勢下、閏2月、後醍醐は隠岐を脱出、出雲から伯耆国に入り、名和(東伯郡琴浦町山川)で海運業を営む富豪名和長年船上山(せんじょうさん;鳥取県赤碕村)に迎えられた。
 足利高氏は源為義流が内紛を重ね自滅した後、源氏の正統に最も近い血脈となった。八幡太郎義家には、嫡子として義親義国の2児がいた。義親流が、為義、義朝、頼朝、頼家と親子相続で続き、頼家の弟実朝が継ぐと、その嫡流は甥の公暁による暗殺で途絶えた。
 義家の4男といわれる義国の長男義重が新田氏の始祖で、次弟義康が足利氏の初代である。両氏族とも、北関東を本拠としていた。頼朝が鎌倉幕府を開くと、共にその御家人となる。しかし、その後の官位や幕府内の地位から、次弟義康流が、義国以降の嫡流と見なされていた。足利義康は、尾張熱田宮大宮司季範(すえのり)の孫娘を妻として、その嫡子義兼を世子とし、以後親子相伝を重ね義氏・泰氏・頼氏・家時・貞氏、そして高氏と継承される。実は、義朝の嫡男頼朝の母親が季範の娘で、足利義康は、母方の従姉の子となる。その義康が、頼朝の妻政子の妹を妻として、義氏を儲けている。義康は頼朝の源氏嫡流に近すぎた。義経.・範頼の災難をみて恐懼し、頼朝の晩年には狂人を装っていた。
 鎌倉幕府では北条氏に次ぐ格式で名族として遇されていた。その高氏が幕府征討軍を率い、赤松氏蜂起を鎮圧するため伯耆へ赴く途上、丹波国篠村(京都府亀岡村)で反幕府軍として裏切った。この幕府靡下の源氏の謀反は、御家人武士団に決定的な判断材料を与えた。今まで楠木正成軍らの少勢力に依存していた後醍醐が、一気に時代の寵児となり、御家人衆も勝ち馬に乗り遅れまいとして、高氏に転ずる武士達が急増した。これに呼応したのが東国源氏の新田義貞であった。その交名中に、仁科盛宗高梨義繁などの信濃武士が記されている。当時、義貞は新田源氏の惣領でありながら小太郎という通称で呼ばれ、官途名すらもたぬ鎌倉幕府の一御家人にすぎなかった。
 5月、足利高氏は赤松則村・千種忠顕(ちくさただあき)らと連合し六波羅を攻略した。新田義貞の軍勢は上野から南下し、途中、その関東軍勢が膨らむ勢いのまま、各地で幕府軍を撃破し鎌倉幕府を壊滅させた。九州でも菊池武時ら反幕府勢力の攻撃に抗しえず鎮西探題北条英時が自刃し。
 六波羅探題滅亡の報を、後醍醐は船上山で受けると、直ちに帰京を決意し、6月4日、足利高氏の軍事制圧下の京都に戻った。後醍醐は、幕府が擁立した持明院統の光厳天皇を廃し、建武新政を開始した。
 後醍醐の新政は、上皇院政・摂関・征夷大将軍も置かず、天皇が自ら公家・武家両者を統率する天皇親政を理念とした。中央には記録所雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)、武者所などの新設機関を置き、地方の国々は国守・守護併存とし、従来の官位相当や家柄を無視して公武の人材を登用した。また恩賞方を設け、諸将の功績に応えようとした。しかし論功行賞の実態は公家優先であり、従来の所領は、改めて天皇の安堵を受けなければならないという強引な政策を打ち出した。大内裏造営のため、全国の地頭・名主に20分の1の臨時賦課を強行し、そのため在地武士領主の新政に対する不満が急速に高まった。
 記録所には、最重要な評定人を置き、土地関連の訴訟を扱わせた。その上、弁官(べんかん)・蔵人などの優秀な実務官人や律令・明法などの専門家を登用し、先例の調査と意見の具申をさせた。彼らが.実務全般を担う天皇親政となり「朕が新儀は未来の先例」と、公家にしても、伝統的な摂関政治が否定され、権門勢家の権益が奪われた。太政官を中心とした官僚機構から天皇直属の側近公卿による政治が執行されるはずであった。それが平安後期の後三条代の「三房(さんぼう)」と言われた藤原伊房・同為房・大江匡房(まさふさ)に対比される、「後(のち)の三房」と称される万里小路宣房吉田定房北畠親房であった。
 特筆すべきは、京に在留する足利高氏の処遇であった。高氏は六波羅探題制圧の当初から、奉行所を置き、戦後の処理を行った。人心の収攬(しゆうらん)は見事で、各地の軍忠状の殆どは高氏に宛てられていた。武士達の高氏に対する信頼は厚く、旧幕府方にあった武士や奉行人なども頼って帰順している。後醍醐は、その功績と実力を評価し、鎮守府将軍に任命し、北条氏旧領の多くを恩賞として与えた。
 護良親王は楠木正成と共に反幕府勢力の先駆けであったが、護良は後醍醐の帰京後も大和を動かず、高氏に対抗し、六波羅陥落後当初から「将軍」を自任していた。護良は高氏の勢威を恐れ、後難になりかねないと、父後醍醐に高氏追討を願った。後醍醐は、逆に護良に勅使を送り、再出家を迫った。護良が乱発する令旨が、後醍醐の綸旨と矛盾し、天皇親政=綸旨至高の体制の障害となっていた。護良は拒止し、後醍醐とその近臣は、逆に護良を「征夷大将軍」に任じ、ひとまずは慰留した。
 倒幕の最大の功労者は、足利高氏で、元弘31333)年8月、後醍醐の諱「尊治」が与えられ「尊氏」と改名した。翌年10月、護良の専恣な「宮令旨」が止まず、後醍醐は謀叛のかどで捕縛し、11月、相模守足利直義が成良親王の執事として、伊豆国・甲斐国を加えた関東10か国を管轄する鎌倉へ流した。

2)鎌倉幕府滅亡時の信濃国
 後醍醐の新政による最初の信濃の国司は書博士清原真人であり、守護は小笠原貞宗であった。貞宗の父宗長は、元より鎌倉幕府御家人であり、高氏の出馬要請に応え、幕府征討軍に加わり京に上った。高氏が丹波国篠村で翻意すると、そのまま従い六波羅探題討滅軍に加わった。親政後、小笠原宗長は鎌倉幕府御家人であった故か、自らへの論功行賞、信濃国守護職を子の貞宗補任にと願い受け入れられた。建武元(1334)年10月14日に挙行された北山殿笠懸射手交名には「小笠原信濃守貞宗」と記されている。この場合、「信濃守」を国司の「国守(くにのかみ)」でなく、素直に「守護」と解してる。
 同2年3月、市河助房などの着到状に、貞宗が証判をし、「為対治朝敵(朝敵を対治す)、可馳参之由、就被成御催促、去月廿九日、以甥市河三郎助保為代官、馳参船山、付御着到候畢」と記されている。更に7月の貞宗証判の市河助房・倫房などの着到状には、「小笠原信濃守の御手に属し・・・・」とある。
 その3月以降の着到状や軍忠状により信濃国守護所が埴科郡船山郷に置かれた事が分かる。現在まで、守護所の址は発見されていないが、戸倉町小舟山の地籍の三ヶ郷用水の西に舟山の小字が遺る。この小字地、寂蒔(じゃくまく)から鋳物師屋にかかる地に堤防跡があり、中村から寂蒔寄りに守護所が置かれたようだ。千曲川本流とその支流に囲まれた中州が島に成長し、天然の要害となっていた。船山郷は旧五加村の一部小舟山と中村、旧埴生村、旧杭瀬下(くいせけ)村などの地域であったとみられる。
 鎌倉時代末期、執権北条泰時の弟重時は、5代執権時頼の代に連署となっている。その曾孫基時が13代執権で、船山郷の一分地頭職であり、讃岐守・相模守を歴任した。また信濃守護でもあったようだ。
 やがて船山守護所が置かれた意味が明らかになる。東信・北信には北条氏や北条氏恩顧の氏族の旧領が多く、南信地方の北部諏訪郡には神家党の盟主諏訪氏が控えていた。諏訪氏は北条得宗家の御内人重臣であった。
 守矢文書の嘉歴4(かれき;1329)年の諏訪上宮による五月会祭御射山頭役結番下知状には、御射山左頭役を船山郷普恩寺入道が勤仕すると記されている。普恩寺入道とは北条基時で、陸奥七郎を称し、駿河守、相模守となり、六波羅探題に任じられている。元弘3(1333)年5月、北条高時に殉じ鎌倉東勝寺で自刃している。
 『前田家本神氏系図』によれば、基時と同様、諏訪時光も、船山郷の一分地頭であり、佐久郡志賀郷地頭職を兼任していた。時光は、鎌倉時代初期の諏訪上社大祝敦信の弟に諏訪(小坂)助忠がいて、その孫盛忠の弟であった。建治3(1277)年頃から鎌倉幕府の公事奉行人となり、以後左衛門入道を称し法号を大円とした。時光の子が資光で、『前田家本神氏系図』には、神六と幼名が記されているのみで、早世したようだ。時光の曽祖父が諏訪敦忠で、その子・助忠の代に小坂氏を名乗る。その3代盛忠が時光の兄で、その子頼貞を猶子とし後継とした。頼貞こそが、諏訪(小坂)円忠で「諏訪大明神絵詞」の編纂者であった。
 鎌倉幕府滅亡後、船山郷の北条基時領は当然、建武新政府の没官領となった。特に東信と北信には北条氏領が多く、それに伴い北条氏恩願の地頭、地頭代などが、かつての権益を失い生活の糧を奪われた。諏訪時光の一族も佐久郡志賀郷、船山郷などの所領を没収された。
 建武2(1335)年8月、足利高氏は全国を8番に分け、その各々に北条幕府当時の有能な人物を再登用することにした。円忠はこのとき第3番の東山道を担当させられた。その寄人の首席は洞院公賢(とういんきんかた)藤原宗成で、その下に高師直・長井高広・佐々木如覚・斉藤基夏等の名が見られるのが興味深い。円忠は公事実務の重鎮として、彼等にとって欠かせない人材となっていた。この頃、円忠は鎌倉幕府の御内人重臣諏訪氏の名を捨て、実家の小坂氏を名乗っている。

 建武中興の親政は、建武2年7月~8月の中先代の乱を契機に短日月で破れ、円忠も諏訪一族であれば京での立場は困難を極めた。一端は諏訪に戻るが、尊氏の信頼は変わらず、乱後荒廃する諏訪郡の再建に尽力している。その人脈を生かし諏訪守護小笠原と甲斐守護武田の後援を得て、諏訪大社信仰の再興のため豪腕を振るい、庶流の大祝・藤沢氏出自の政頼は現人神になりえずとして廃し、高遠に逼塞する頼継の弟信嗣を大祝とし、その復権を果たした。

3)信濃村上氏
 村上氏は、更埴南部の村上・坂城を中心に勢力を拡大させてきた。おそらく南北朝末期の元中2(1385)年前後に、坂城郷へ本拠を移したようだ。坂城は鎌倉時代、薩摩氏が領有していた。鎌倉幕府滅亡時の地頭職は薩摩十郎左衛門尉祐広であった。南北朝期まで工藤祐経の後裔に当たる武士の活動が埴科郡坂城を中心に見られる。
 伊豆の豪族工藤左衛門尉祐経は、建久4(1193)年、富士野の巻狩で、曾我兄弟に親の仇として殺害されたが、鼓の名手で頼朝の信任が厚かった。その子孫や一族は、執権北条氏のもとで得宗家御内人として鎌倉期にかなり栄え、本国の伊豆のほか、伊勢・日向・甲斐や陸奥の安積・岩井・糠部郡などに勢力を拡大した。埴科郡の坂木北条(きたじょう)・南条(現埴科郡坂城町)、小県郡の有坂(現長門町)、伊那郡の小出(現伊那市春近の小字)などに所領をもち、以後工藤一族が当地に散在する。
 東信の埴科郡坂城の北条及び南条を工藤一族が領有し居住していたことは、嘉暦4(1329)年3月日の鎌倉幕府下知状に「坂木南条薩摩十郎左衛門尉跡」、建武2(1335)年9月22日の市河経助軍忠状に「薩摩刑部左衛門入道北条仁相構城郭之処」とあることで分かる。『続群書類従』所収の「工藤二階堂系図」には、工藤祐経の孫(息子祐長の子)祐氏に坂木北条八郎、その弟・祐広に坂木南条十郎とあげて、上記両文書を裏付けている。    建武2年7月には、大祝諏訪頼重や海野・祢津・望月など滋野一族ら北条党が、北条高時の遺児北条時行を擁して中先代の乱を起こす。このとき工藤一族もこれに加担し、工藤四郎左衛門という名が乱の参加者に見えている。敗れて主謀者の諏訪頼重親子が鎌倉で自害した後の同年9月になっても、仁科氏などの残党が信濃各地に反抗を続け、薩摩刑部左衛門入道とその子五郎左衛門尉親宗も、北条氏恩顧に報いんとして坂城に城郭を築いて抵抗した。しかし小笠原貞宗村上信貞らが攻め落としたといわれている。ここで坂城の薩摩工藤一族は没落し、それ以降の消息が絶える。以後坂城は、村上信貞が恩賞として領有する。更級郡村上から、本拠を坂城に移したのは、元中2(1385)年、船山守護所が水内郡平柴に移転した後とみられる。

4)四宮荘北条と小坂円忠
 北条時顕(円明)の地頭職領四宮荘北条(篠井)が、鎌倉幕府滅亡後、没官領となった。時顕は、北条義時の孫金沢流実時の曾孫顕実の子で、元弘3年5月22日,鎌倉幕府滅亡に際し、得宗家北条高時らとともに鎌倉東勝寺で自刃した。その所領が諏訪円忠の所領となった。後醍醐天皇は元弘3年9月、鎌倉幕府を模倣するように、雑訴決断所を置き、所領相論に裁決を下させた。その構成員は公卿・有力武将・王朝吏僚・鎌倉幕府吏僚であった。鎌倉幕府吏僚の他は、実務経験が全くなく、公卿にしても鎌倉幕府時代、本来の政務を実践した経験がない。『二条河原落書』に「下克上する成出者、器用堪否(かんぷ;堪能如何)沙汰もなく、漏るる人なき決断所」と、その無能を酷評されている。
 建武2(1335)年8月、足利尊氏は全国を8番に分け、その各々に北条幕府当時の有能な人物を再登用することにした。円忠はこのとき第3番の東山道を担当する頭人に任用された。その業績により、円忠に四宮荘北条が与えられた。その建武2年11月9日の施行状が遺る。
 「諏訪神左衛門頼貞(円忠)申、信濃国四宮(しのみや)庄内北条地頭職事、任去年6月18日綸旨之旨、可被沙汰付頼貞之状、依仰執達如件(云々)
建武2年11月9日                   武蔵権守の判 村上源蔵人殿」
 文中の頼貞が、京で尊氏に勤仕する円忠で、建武元年に四宮庄内北条地頭職に補任されたが、村上源蔵人信貞が、実効支配していたため、武蔵権守高師直が、その譲渡を命じた。
 中先代の乱に際し、建武2年7月、北条時行に与して四宮氏と保科氏が挙兵し、信濃守護の小笠原貞宗の船山守護館を攻撃した。逆に貞宗と村上信貞の軍に反撃され敗れ、四宮氏は滅んだ。その論功として、小笠原貞宗は四宮北条内に一分地頭職を得た。その時、同時に村上信貞は、同地内の一分を実効支配していた。
 後醍醐天皇は、暦応2/延元4(1339)年、8月16日、失意のうちに吉野にて52歳の波乱に満ちた生涯を閉じる。同年10月、尊氏・直義兄弟は、夢窓国師を開山として、後嵯峨・亀山・後宇多3代の嵯峨の離宮・亀山殿に天竜寺を造営し後醍醐天皇の霊を弔うことにした。円忠はその造営奉行の一人に任じられていた。この関係もあって、円忠は四宮北条内の地頭職領分28町5段と在家25宇を天竜寺に寄進した。その得分6百貫文の1/3が荘主円忠に改めて与えられ、残り内百貫文が領家仁和寺に進納され、3百貫文が天竜寺用とさだめられた。

5)北信を揺るがす中先代の乱
 鎌倉幕府滅亡に功を挙げた武士たちへの論功が薄く、寧ろ公家・僧侶などが多くの所領を得ていた。後醍醐天皇による失政が続くと、不平を抱く武士達と組んで諸方の北条党が武家政治の復権を謀る乱が多発した。建武元年7月、越後国瀬波郡(せなみ)で、小泉左衛門二郎将長・大河彦次郎将長・立島彦三郎が北条党として挙兵した。同国守護新田義貞は、守護代屋蔵与一、高井郡の市河助房らに勅命を伝え出兵させ、8月10日、これを討伐したが、この余波は北信濃にも及んだ。翌2年3月4日、市河助房は善光寺に出陣し守護小笠原貞宗の軍に合流し、8日、水内郡の常岩北条(とこいわ;飯田市)で決起し籠城する叛徒を陥落させ破却した。すると信濃府中でも北条党が蜂起し国府留守所(松本市惣社付近)を攻撃した。守護軍は直ちに、筑摩郡浅間郷へ発向し、関東廂番(ひさしばん)の目代吉良時衡の下に着到した。関東廂番は成良親王・足利直義を補佐するため、鎌倉に置かれた軍事・検断組織で6番の頭人がいた。吉良満義がその一人で6番組の頭人であったため、一族の吉良時衡を目代として信濃へ派兵したようだ。天皇の凶徒討伐の綸旨が、既に下されている。国司清原真人は京を発し、6月には国府入りしている。
 北条泰家西園寺公宗の計画が露見したのを知ると北条時行と、同じく北条一門の名越時兼が、それぞれ信濃と北陸で蜂起した。越中守護だった名越時有の息子・時兼は、北国の大将と称し越中、能登、加賀で軍勢を集めた。時兼は3万騎を率いて京を目指した。しかし越前、加賀国境の大聖寺で敷地、上木、山岸氏らの国人衆が上洛の行く手を阻ばみ、やむなく大聖寺城に立て籠もり攻撃を防いでいるうちに、越前から瓜生、深町の武士たちが駆けつけ挟み撃され壊滅した。しかしその波紋は信濃にも及び、この北陸戦から、中先代の乱が勃発する。
 亀寿丸は、10歳前後の身でありながら、諏訪神社を中心とした信濃の武士団が結成する諏訪神家党に擁立され、相模次郎北条時行と名乗った。7月上旬、上社前大祝・諏訪頼重と息子の大祝時継らは北条時行を擁立して軍勢を集めると、信濃に幕府再興の狼煙を挙げた。この時、北条氏系の佐久の諸氏や小県の滋野系の望月・海野・袮津らの信濃有力者が呼応した。
 しかし足利尊氏方の信濃守護小笠原貞宗は強敵であった。緒戦敗退にもなりかねないので、挙兵に呼応して集まる各地の豪族が到着するまでは、小笠原との戦いを避け、諏訪頼重は北信濃の保科弥三郎四宮左衛門にそれまでの間、小笠原軍を背後から攻撃するよう依頼した。
 千曲川の河畔に広がる大草原、八幡原(はちまんばら)で、保科・四宮軍と小笠原軍の両軍は激突する。激戦は数日間にわたり繰返されたが勝敗は決しなかった。八幡原、その地は、そののち川中島(長野県長野市)と呼ばれ、その川中島一帯が四宮荘保科御厨常岩牧など、かつては得宗領か金沢流・普恩寺流などの北条一門領であった。保科・四宮両氏はその代官であったので、北条氏没落によりその所領の殆ど失い、その復権のため敢闘な交戦となった。
 7月14日、15日埴科郡船山郷(更埴市戸倉町)に近い青沼周辺(千曲市杭瀬下;くいせけ)で、小笠原貞宗・市河助房の守護軍と北条方の軍が戦っている。これは諏訪頼重の陽動作戦であった。 これにより戦機を得て、同月14日、北条遺臣軍すなわち中先代軍は、まず北上し守護小笠原貞宗の軍を埴科郡内で敗走させ、府中で国司清原真人を自害させ、ほぼ信濃国の過半を支配下に入れ、信濃の諸族を同心させると、その矛先を東に転じ、鎌倉に向けて突き進んだ。
 保科・四宮両軍は青沼の戦い後、一度、八幡方面と四宮方面に後退し戦備を整えた。市河助房と村上信貞の守護軍は、それを追い千曲川を渡河し攻撃をした。北条党は南に進み八幡で迎撃、続いて篠ノ井河原・四宮河原で戦った。翌15日、北条党は村上・福井から小県・佐久方面に向かい、この地域の同党と合流しようとした。そこで八幡と埴科郡福井河原で戦闘となり、その一部は村上河原でも戦っている。
  以後、諏訪氏と小笠原氏との戦いは、長く執拗に続いた。 時行、頼重の軍は途中で諸勢力を糾合し、いまや2万を数える中先代軍となり、上野国に入る際、関東廂番2番組頭人岩松経家が阻止しようとするが、これを敗走させた。これより前に、足利直義は成良親王を奉じて鎌倉を中心に関東を管領していた。再度、岩松経家は、鎌倉より派遣された関東廂番1番組頭人渋川義季率いる5百騎と共に女影原(おんなかげはら;埼玉県日高市)で迎え撃つが、またも敗れ両武将と共に自害した。ときに義季は22歳の若武者であった。
 渋川氏は清和源氏足利氏の一門で、鎌倉時代、足利泰氏の子義顕が上野国群馬郡渋川に土着して、渋川氏を名乗ったことに始まる。元弘から建武の内乱期において、渋川一族は足利尊氏に従って活躍していた。
 中先代軍はさらに進軍し今川範満を小手指ヶ原(こてさしがはら;小手指原)で討ち取った。小手指原には上野国から鎌倉に入る鎌倉街道が通過していた。瞬時に、足利一族を中心にした建武政権軍を破った中先代軍は、後醍醐天皇から下野守に任じられた小山秀朝が、1千騎を率いて駆けつけてきたところを武蔵国府中(東京都府中市)で撃破し、7月13日には秀朝を戦死させた。 22日、足利直義が自ら出馬する軍勢を武蔵国井出沢(東京都町田市)に破ると、北条時行は、7月25日、ついに鎌倉を奪回した。直義は護良親王を殺し、成良親王と6歳の義詮を伴い足利氏の拠点、三河国に逃れた。奉じていた成良親王を京都へ帰した。それは、直義の東国を基盤とする武家政権の再興を果たさんとする意図による。

 時行は正慶の年号を復活させ、幕府再興を宣言した。諏訪頼重・北条時行の行軍は、新田一族の上野国の領地を縦断しているはずだが、新田勢の抵抗は全く見られなかったようだ。つまり、京での新田義貞の微妙な立場は、そのまま上野の新田支族たちの立場でもあり、反北条ではあるけれど、現在鎌倉にいる足利家は、新田の上に君臨しようとしている。
 そういう気持ちが、彼らに中立の立場をとらせた。足利と新田の対立が、頼重北条軍をここまで強くした要因でもあった。諏訪頼重の大軍は、3年前に新田義貞が挙兵し鎌倉を落とした進路と全く同じ道をたどり鎌倉を制覇した。 諏訪軍に守られ、北条時行は3年ぶりに鎌倉を奪還した。のちに中先代(なかせんだい)の乱と呼ばれた戦いであった。鎌倉幕府を先代、足利氏の室町幕府を後代と位置づけし、その間であれば中先代とした。つまり「中先代の乱」とは室町政権が確立された後に付けられた呼び名であった。
 尊氏は後醍醐天皇に征夷大将軍任官を要請したが受け入れられず、勅命も得られぬまま出陣をした。尊氏は三河国で直義に迎えられ、共に鎌倉へ向かった。北条時行軍の名越式部大輔の軍勢は、遠江の橋本の要害に砦を構えて道を塞いだ。尊氏の先陣の阿保丹後守入海の軍が、これを攻撃し敗走させたが、その身に傷をこうむると、尊氏は、その恩賞として、阿保左衛門入道道潭(どうたん) の家督を拝領させた。この合戦を初めとして、同国佐夜の中山、駿河の高橋縄手、箱根山、相模川、片瀬川から鎌倉に着くまで、 勢いのある足利軍は敵に留まる余裕を与えず、七度の戦いに勝利して、8月19日に鎌倉に攻め入った。その間、金刺頼秀も戦死している。
 箱根峠での両軍の戦いは2日間にわたったが、足利有利とみた地方豪族の離散により、諏訪軍と僅かな残兵の北条軍は、ついに鎌倉へと敗走する。「北条軍破れる」鎌倉でこれを聞いた諏訪頼重は、諏訪神家党を主力としてみずから出馬した。寡兵は怒涛の敵軍に、一気に呑み込まれた。
 北条時行は逃走、諏訪頼重・時継父子以下はことごとく自害して果てた。このとき、諏訪頼重以下43名の諏訪武士は、時行を無事に逃がすと、その再挙を願い、ここ鎌倉の大御堂(おおみどう)・勝長寿院(しょうちょうじゅいん;鎌倉市雪ノ下4丁目で現存しません) で時行が死んだと見せかけるため、誰と見分けが付かないように、顔を切ったうえで腹を裂き自刃した。

6)足利尊氏謀反に同調する村上信貞
 建武親政下、足利尊氏は武蔵など3か国の国司と守護職、さらに30か所に及ぶ所領を与えられたものの、征夷大将軍に任命されなかった。これを不満とし、建武政権のいかなる機関にも参加せず、自ら設置した奉行所を強化し、武士達人心の収攬に努め独自の政権構想を固めつつあった。時行軍を撃破して鎌倉を奪回したものの、直義の諫言を受け入れて帰洛せず、奏請をせず随従する諸将に北条党の闕所地を宛がう専断を行った。そして自ら征夷大将軍と僭称し、11月の初め、直義の名をもって、新田義貞誅伐の檄文を諸将に発し軍勢を招集した。君側の奸として義貞誅伐を名目として、建武政権への叛意を表明した。
 ここにいたって後醍醐は尊氏・直義兄弟の征伐を決し、11月19日、中務卿親王(尊義親王)・新田義貞に尊氏追討令を発した。義貞は尊良親王を奉じて東海道を鎌倉へ向かう。この時、東山道軍は弾正尹宮を奉じ洞院実世をはじめ島津・忽那(くつな)氏など西国の諸将5千余騎を従え信濃国に入った。これより先9月の末に信濃国に下国していた国司堀河中納言光継もこれに加わり佐久郡岩村田の大井城に拠る大井朝行らを攻めた。 新田義貞は弟脇屋義助とともに三河国矢作川の戦い(愛知県岡崎市)、遠江国鷺坂(さぎさか:静岡県磐田市)の戦いで勝ち駿河国にはいった。直義は鎌倉軍の敗報を伝えられると、自ら大兵を率い救援に向かった。直義・高師泰の軍は手越河原(静岡市駿河区)の戦いで大敗し、箱根山に退き尊氏の出兵を待って籠った。当時、尊氏は違勅を悔い鎌倉浄光寺で謹慎していたが、12月11日、翻意し自ら出撃した。尊氏は中務卿親王・新田義貞軍と搦め手である箱根・竹ノ下の戦い(静岡県駿東郡小山町)で撃破し、尾張国に敗走させ京へ逃げ帰した。
 この事に関して参考太平記十四、箱根竹下合戦付二条為冬討死の条に
「島津家・今川家・毛利家・北条家・勤勝院・西源院・南都本並云、義貞は一段高き所に打上がりて、分明に是を見給いける間、名を重し命を軽する千葉・宇都宮・大友・菊池が兵とも、勇み進て攻ける程に、始六万余騎(今川家・北条家・南都本作7万、此上作6万、今相齟齬)、有つる筥根勢、討たれては颯と引、手負ては引き落、落るを見ては弥(いや;いよいよ、ますます)引後れじと落ける間、簇の数次第に減じて、今は十分一も見へさりけれは、義貞勝に乗じ、鎌倉勢に向ける時、村上河内守信貞が一族四十余人都合其勢五百余騎にて、義貞の勢を追下し、手負死人数百人に及へり、直義是を感じて、畳紙に恩賞の下文を書て与へらる、信濃国塩田荘(毛利家本云、塩田庄十二郷云々)とそ聞へし云々」と記されている。
 直義の軍中にあった村上信貞の奮戦により鎌倉軍は勝利し、直義はその巧を称え、戦場中、急遽、畳紙に恩賞の下文を書いて与えた。村上氏はついに、小県郡塩田へ進出してきた。
 大井朝行は建武2(1335)年12月、鎌倉で足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻すと同心し、天皇方が東海・東山両道から大軍を発すると、東山道軍を佐久郡大井荘岩村田の大井城に入り迎撃した。東海道軍は大手の大将が新田義貞で6万7千余騎の大軍であったが、東山道軍は大知院宮・洞院実世ら皇族と公家を大将とする5千余騎が、3日遅れで京を立った。途中、美濃国から信濃国に入ると、国司堀河光継が2千余騎を率いて加わり、終には1万余騎の軍勢となった。軍中には仁科・高梨・志賀などの信濃武士の名も記されている。志賀は佐久郡志賀郷の志賀氏で、鎌倉末期、鎌倉幕府奉行人諏訪左衛門入道時光が地頭職にあったため諏訪氏一族とみられる。
 東山道軍を迎え撃つ大井城は佐久平の中心岩村田にあり、千曲川を前面に、背後は湯川が流れ碓氷峠・香坂峠・内山峠など関東への要路となる諸峠をひかえている。内山峠を越えれば上野甘楽郡(かんらぐん)、武蔵国笛吹峠・高麗原・小手指原をへて鎌倉に直通する最短距離となる。大井朝行は、足利直義の檄文を受けとる信濃守護小笠原貞宗や信濃惣大将村上信貞など信濃の足利方の支援を受けるが、圧倒的多数の京方と数日間の戦いの末、同月23日、大井城は落城の憂き目を見る。東山道軍は上野・下野などの兵を集め鎌倉へ迫った。しかし、大井朝行は大井城を復旧しながら、以後も一貫して北朝方としてその勢力を拡大させていった。
 以上の経緯は次ぎの『忽那文書』の「洞院実世証判」で明らかとなった。
「  伊予国忽那島東浦地頭(忽那)弥次郎重清致軍忠子細事
右、尊氏・直義為誅罰、自京都発向山道之処、小笠原信濃前司・村上源蔵人以下凶徒等、為朝敵人之間、被誅伐之刻、去廿3日、於信州大井庄致合戦了、且島津上総入道之手木村三郎入道・東条図書助等、見知之上者、不及子細、所詮被成下御判、為備弓箭之面目、言上如件、
  建武2年極(12)月廿5日」

7)中先代の乱後の信濃
 中先代の乱を契機に、後醍醐の権威は完全に失墜した。軍事的に後醍醐は無力で、倒幕の最大の功労者・足利高氏に、元弘31333)年8月、後醍醐の諱「尊治」を与え「尊氏」と改名させていた。この度の尊氏の戦功を賞した上で、帰京を命じるが、直義は尊氏を制止した。尊氏は10月半ば、鎌倉幕府址に邸宅を新築し、幕府再興の構えを見せた。
 後醍醐の勅命が得られぬまま、鎌倉に下ったが、武士たちは、後醍醐を圧倒する勢いで随従し尊氏の馬前で戦功を競った。尊氏は後醍醐の奏請を経ず、馳参した諸将・武士に、北条氏の莫大な闕所地を宛がった。ついには、自らを征夷大将軍と僭称し、新田義貞討伐の櫢を諸国に発した。
 北条時行軍は潰滅したが、それを契機にして建武親政も崩壊した。建武3(1336)年、尊氏は義貞を追って西上した。小笠原貞宗も甲斐守護武田政義と諏訪に入り、大祝家を廃絶し自家の勢力を扶植しようとした。しかし時行没落後も、東北信地方の各地の北条党の勢いが弱まることはなかった。北埴地方の北条党は埴科郡英多庄(あがたのしょう;長野市皆神山の南麓)清滝城で挙兵した。貞宗は信濃鎮定のため上方から戻ってきた村上信貞・吉良時衡と共に攻めている。寄せ手には、市河左衛門十郎経助・同三郎助泰らがいた。その後も、守護軍は南北に転戦を重ね寧日ない状況となった。
 『市河文書』に載る建武2年10月日付の市河左衛門九郎倫房、同子息三郎助保宛の着到状がある。着到を「承了」する奉行の「花押」は「吉良時衡」であった。
 「着到
右、自(じ;よりの意)7月13日御方馳参、於所々致軍忠、信州(小笠原貞宗)一見状給候、8月1日押寄望月城、致合戦令破却城郭之条、小笠原次郎太郎(小笠原経氏)為同大将所被見知也、同自9月3日奉付守護御手、安曇・筑摩・諏方・有坂(小県郡)以下凶徒等対治之時、於所々城郭致軍忠了、同晦日、為国司(堀河光継)御迎信州浅間参向之間、助保同馳参、伊那郡為対治、小笠原四郎・同次郎太郎為大将発向之時、助保於横河城懸、追落凶徒等了、度々軍忠如此、早賜一見状御判、為備後証、恐々言上如件」とある。
 四宮・保科氏潰滅後、鎌倉時代からの坂城郷の御家人薩摩刑部左衛門入道が、時行の与党と組み坂木北条に城を構え決起した。
 元弘3(1333)年6月、後醍醐天皇が京に復帰した時、高氏は既に六波羅探題の跡地に「奉行所」置き、諸国の武士の着到を受け付けていた。既に武士達の殆どが、次代の「武家の棟梁」として高氏のもとに結集していた。後醍醐は陸奥・出羽両国を合わせ府とし、同年末、北畠顕家に義良(のりなが/のりよし)親王を奉じさせ陸奥守として多賀城へ下向させ、奥羽両国の平定を勅命した。相模守足利直義には、成良親王を奉じて鎌倉へ遣わし奥羽と関東の広域支配に当たらせた。その時の奥州の府侍所別当が薩摩刑部左衛門入道であった。その子五郎左衛門尉親宗に別当を勤仕させ、自身は坂木の本領に戻り、時行党に呼応し挙兵した。
 『市河文書』に史料が遺っている。
 「信濃国市河左衛門十郎経助軍忠事
右、薩摩刑部左衛門入道坂木北条仁(に)、相構城郭之処、先代(北条高時)与力仁(人)等多楯篭彼城之間、当国惣大将軍村上源蔵人(村上信貞)殿御発向之刻、最前馳参御方、経助為大手致合戦忠、責落彼城、為大将軍御眼前分捕二人打取畢、然早賜御判、為備後(後に備えての)証、恐々言上如件、
    建武2年9月廿2日
         承了河内守(花押)」
 その花押は村上信貞のものであった。既に、信濃国惣大将軍を名乗っている。信貞は市河氏などの軍勢を率い坂木北条の城を、攻め陥落させている。小笠原貞宗は先の市河氏宛ての着到状で明らかなように、多発する北条党の割拠に東奔西走していたが、次第に北条党は鎮圧されていき、以後、信濃から薩摩氏などの消息が絶えていく。薩摩氏が拠る坂木北条の城の場所は、坂城町御所沢に登り口・木戸などの地名が遺る、その近くと考えられ、その南に鎌倉の地名があり、それが薩摩氏の館址地とみられている。
 村上信貞は建武2(1335)年、足利直義から恩賞として塩田荘を与えられ、一族の福沢氏を代官として派遣した。

8)香坂氏
 滋野氏の一族が佐久郡香坂に住んで香坂氏を称した。その居住地は現佐久市香坂西地、香坂川流れる閼伽流(あかる)山麓辺りと考えられている。 香坂家の初代宗清は、東信の名族滋野3家の一族で佐久の在地武士であった。鎌倉時代、香坂宗清は将軍家御家人となり、鎌倉6代の最初の皇族将軍宗尊親王の時代に、更級郡の南内、北内の2牧を与えられ、文元(1260)年のころ、その一族が佐久から移り牧之島城(牧城まきしろ;旧上水内郡信州新町牧野島城)を本拠とした。当地で私牧を経営したようだ。馬の飼育は古代から中世にかけ、重要不可欠な産業であった。 鎌倉時代、確立する武家政治の勢威が強まるに従い、功績のある武士が、由縁もない遠隔地の地頭に任じられ、その一族が派遣され、その地の地名を氏名として自立していく。香坂氏は、更埴人名辞書によると、2代目宗敦、3代目宗実、4代目安芸守、5代目出羽権守の時代と続いた。
  元弘元(1331)年8月27日、後醍醐天皇は倒幕計画が漏洩したため、急遽、奈良北東山中の笠置寺へ遷御することになった。六波羅探題は直ちに笠置山へ出兵した。9月11日、楠木正成が御所方と称し赤坂山に砦を構えた。六波羅北方北条仲時は、鎌倉へ幕府軍増援を要請した。9月20日、大軍が鎌倉を出立した。『光明寺残篇』には、笠置山・赤坂山に進発する幕府軍の交名(きょうみょう)のなかに香坂出羽権守の名が記されている。 足利高氏の裏切りにより鎌倉幕府北条高時が滅びた。以後、香坂氏は、滋野一党として諏訪上社大祝とともに反足利尊氏として戦い続ける。
  尊氏は中先代の乱を契機に鎌倉で武家政権を再興させた。後醍醐天皇は新田義貞らの討伐軍を派遣するが、逆に軍は潰走し、建武3(1336)年正月に足利軍は入京した。後醍醐は比叡山へ逃れるが、奥州から下向した北畠顕家に義貞らが合流して一旦は足利軍を駆逐する。
 香坂氏6代の小太郎入道心覚が更級郡牧城(信州新町牧之島)に立て篭り挙兵した。信濃守小笠原貞宗の命により、総大将村上信貞率いる市河経助・高梨五郎時綱・犬甘四郎・毛見源太などが、香坂氏が籠城する牧城を攻めたが陥落できなかった。 この戦いで、村上信貞が市河経助に宛てた軍忠状が「市河文書」に遺り、「香坂小太郎入道以下凶徒等、楯籠当國牧城之間云々・・」、承了と村上信貞の花押がある。
  牧城を攻めている間に、北条時興が筑摩郡で兵を挙げた。時興は高時の弟泰家で、鎌倉幕府滅亡時、高時の子亀寿丸を諏訪盛高に託し大祝諏訪頼重の庇護下に置いた。自らは陸奥に逃れ、やがて京へ上り縁故のあった西園寺公宗の下に身を寄せた。建武2年6月、公宗と謀り持明院統の光厳院を奉じようとしたが、事前に発覚し、泰家は信濃国に逃れ隠れていた。その頃、時興を名乗ったようだ。その時興が同族丹波右近大夫や深志介知光らと共に、香坂氏と事前に相謀り筑摩郡で挙兵した。
 建武3年2月廿3日の市河経助宛ての吉良時衡及び村上貞信の花押の軍忠状には「今月十五日、麻績十日市場致散々合戦」とあり、「於御追伐之大将」村上備中貞信と守護代小笠原兼経が、市河経助らを率いて、八幡山西麓の麻績宿東方の地とみられる戦場で死闘を繰り広げた。その戦果を、いずれの軍忠状も語っていないが、以後、『太平記』はもとより北条時興の事跡を記す史料が絶える。 麻績十日市場の戦いの間隙をついて、香坂氏は兵糧を再準備し、6月、再度挙兵した。村上信貞・高梨経頼などが大将となり、同月25日、牧城を攻撃した。翌日には守護代小笠原経義も市河経助・同助泰らを率いて、27日までの両日、合戦に及んでいる。
 『市河文書』に小笠原経義の軍忠状が遺るが、決着を語ってはいない。 香坂氏は不屈にも戦い続け、後代、武田信玄による北中信の攻略支配に重要な役割を果たしている。永禄9(1566)年、武田信玄は牧城を改築し牧之島城とし、深志城(後の松本城)の城将馬場信房が預かった。

9)村上信貞、北越出兵
  建武2(1335)年、尊氏は箱根竹の下の合戦で新田軍に大勝すると、そのまま上洛した。 北畠顕家は建武新政とともに16歳で陸奥守に任じられ、義良(のりよし)親王を奉じ父親房とともに陸奥に下っていた。辛うじて奥羽両国を平定、評定衆など鎌倉幕府の職制を模した政務機構を整えた。先の11月、尊氏が反すると、後醍醐は義貞に尊氏追討を勅命したが、顕家にも綸旨は下されていた。 鎮守府将軍に任じられ、尊氏を追撃して東海道を西上し、義貞、楠木正成らと合流して尊氏を九州に敗走させた。
  戦局の小康後、顕家は鎮守府大将軍の称を受け、ふたたび義良親王を奉じ陸奥に帰任した。 建武3年、尊氏は京都を去り、丹波から兵庫に出て、瀬戸内海を西行し、博多まで落延びた。しかし、尊氏は着々と次ぎの手を打っていた。 兵庫を去る前の2月初旬、「元弘没収地返付令」を発した。新政府が北条与党の領地を没収した地を元の領有者に戻すという内容であった。これこそ、諸国の武士の望んでいたことであった。武士達はこぞって足利陣営に駆け付けた。
 『梅松論』下では、楠木正成が負け戦の武家はもとより、在京の旧鎌倉幕府の官僚達も都落ちする尊氏に同行している、これでは後醍醐の勝ち戦の意味がないと慨嘆している。現実に、京政府は機能停止状態となっていた。雑訴決断所も前年度末から機能を停止していた。 2月中旬 、真言宗の僧三宝院賢俊が、備後の鞆浦(とものうら;広島県福山市)に、待ちに待った光厳上皇の院宣を尊氏に届けた。『新田義貞与党人を誅伐すべきの由』の院宣で、尊氏は朝敵の汚名を雪ぎ、戦いは「天皇家の分裂」へと構図が変わった。尊氏は兵庫へ向かう途上、上皇に願い持明院殿の院宣の下賜を請うていた。
  播磨の室泊(むろのとまり;兵庫県御津町)で軍議が開かれ、中国・四国諸国に足利一門などの大将を配す事が決められた。四国は伊予:河野通盛、以外は;細川一族  播磨:赤松円心 備前:石橋・松田 備中:今川顕氏・貞国 安芸:桃井・小早川 周防:大島・大内長弘 長門:斯波高経・厚東など地方の軍事体制を固め、これが室町幕府の守護体制の原型となった。
 同年1月、宮方の有力者、万理小路宣房と千種忠顕が出家している。後醍醐に絶望したのだ。楠木正成は、後醍醐天皇に対して次の事を奏上した。『義貞を誅伐せられて尊氏卿を召かへされて。君臣和睦候へかし、御使にをいては正成仕らむ』(梅松論)、『君の先代を亡されしは併尊氏卿の忠功なり。義貞關東を落す事は子細なしといへども。天下の諸侍悉以彼將に屬す』『敗軍の武家には元より在京の輩も扈從して遠行せしめ。君の勝軍をば捨奉る』と奏聞した。しかし聞き入れられず『天下君を背(そむき)たてまつる事明けし、しかる間正成存命無益なり、最前に命落べき』と楠木正成も、終には諦観した。
 再挙した尊氏と摂津湊川・生田の森(兵庫県神戸市)で戦い、後醍醐方は正成らを失い、京都を放棄し比叡山に逃れた。尊氏は京都で幕府を再興させるため、越後の斯波高経、近江の佐々木導誉、信濃の小笠原貞宗らに命じ、東からも圧力を加え比叡山を孤立させた。尊氏は貴族・寺社などの権門の所領を安堵して京勢力の信任を得ると、8月15日、豊仁を即位させた(光明天皇)。こうして光厳院政が始まった。年号も、後醍醐が改元した延元(2月29日)を認めず建武3年とした。後醍醐も比叡山に幽閉されたに等しく、更に招かざる客となり、万策尽き和議を受け入れ、山を下り、11月2日、神器を光明に引渡した。
 その後、義貞は恒良、尊良(つねなが、たかなが)両親王を奉じ北陸に移り、越前金ヶ崎城(福井県敦賀市)を拠点に再起を図った。
  諏訪頼重が、幼少の亀寿丸を擁立して、北条家再興の旗揚げを自らの手でおこなった。亀寿丸は、10歳前後の身でありながら、諏訪神社を中心とした信濃の武士団が結成する諏訪神家党に擁立され、相模次郎北条時行と名乗り、北条再興の期待を一身に受けて挙兵する。結果、悲惨な敗北を遂げたが、それが、北条党の実績となり喧伝され神話化し、信濃国内では、鎌倉幕府復興の活動を拡大させた。中先代の乱は、後醍醐の諸政策に現実味がまく、なによりも恣意的で、建武親政の各施策を執行する実務家を欠き、時代の信任を得られない事を証明した。建武親政は、中先代の乱を契機に、その無能力を露呈し、時代の主勢力武士の離反を招き崩壊した。さらに中先代の乱が、尊氏の武家政権の復興を促した。

 尊氏にしても、北関東の足利が本拠であれば、京都の幕府は本意ではなかった。しかし、尊氏の軍事力の主体は、畿内の武士団が多数派となっていた。足利氏一門勢力ですら西国に、多くの権益を有するようになっていた。 比叡山にしても、その東から京都に通じる要路であれば、既に仏教修行の場というよりも、僧侶・神人(じにん)らが、京の商業・金融・運輸などの流通商人に堕していた。この地を治めてこそ在京する足利氏の経済を支える基盤となっていく。やがて室町幕府法から、所領政策を定める法が姿を消していく。 『太平記』に「今は大小の事、共に只守護の計いにて、一国の成敗雅意に任すには、地頭御家人を郎従の如くに召任ひ、寺社本所の所領を兵粮料とて押へて管領す」とあり、守護が国内武士を被官化し、権門勢家や寺社本所領を侵略していく。最上位の権門、後光厳院の所領ですら例外ではなかった。 室町幕府の経済基盤は土倉役(どそうやく)・関銭など都市型租税が優先していった。
  建武3年10月12日、尊氏は信濃守護代小笠原兼経・村上信貞らに御教書を下し越後出兵を命じた。信貞は11月初め、市河経助や市河親宗などを率いて、越後守護や目代佐々木忠枝など新田党を追い落とした。この時、小笠原兼経も弟経義と信濃府中を発向し、安曇郡仁科口から越後へ出兵している。 信貞は越後討伐後、信濃の本領へ戻ったが、尊氏の命により市河経助・市河親宗・小見経胤らを率いて12月、京へ入り越後守高師泰の軍に加わった。翌年、尊氏は新田義貞らが立て篭る越前の金崎城の攻撃が進展しないため高師泰を発向させた。
 その詳細は建武4年3月の「市河左衛門十郎経助軍忠事」、高師直花押の軍忠状が『市河文書』に遺る。
「右、属于村上河内守信貞手、於信州致忠節、同道参洛之処、為新田義貞誅伐、去正月一日高越後守殿御発向之間、馳参、同十八日、二月十二合戦竭忠(忠を尽くす)畢、十六日者新田・脇屋・菰生左衛門尉等為当城後縮(せまる)寄来之間、任信貞手分而、村上四郎蔵人相共登向上山、悉追返凶徒畢、自三月二日者夜縮合戦、六日者自大手責入城内、捨一命致至極合戦上者、給一見御判、為備後証、言上如件」
  金ヶ崎城は延元2年/建武4(1337)年3月6日落城し、尊良親王、義貞の嫡男義顕は自害し、恒良親王は捕らえられ京へ護送された。
 翌年閏7月2日、義貞は越前藤島で守護斯波高経平泉寺衆徒の軍と合戦、混戦の最中、細川出羽守と鹿草彦太郎率いる300余騎が、義貞が率いる部隊に遭遇した。義貞の乗馬が数本の矢を受け、左足が倒れた馬体の下敷きになり、上体を起こそうとした時、眉間を射られ戦死した。義貞は、鎌倉攻めのため上野を出たあと、ついに一度も上野の地を踏むことはなかった。

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