川中島の千曲川の堤防
北信の雄・村上氏とは?
 目次        Top
 1)村上氏を誕生させた荘園制度
 2)武家の棟梁の登場
 3)信濃村上氏の祖
 4)村上氏と保元の乱
 5)木曽義仲と村上氏
 6)御家人村上氏
 7)源氏再興と村上氏
 8)源頼朝と村上氏
 9)元弘の変
 10)村上氏と後醍醐天皇

1)村上氏を誕生させた荘園制度
 律令体制公地公民を基盤とする中央集権国家をその理念としていた。土地は公地制で、私有は存在しない、一代限りの占有・用益権は認められるが売買は認めないという口分田制が基本であった。しかし人口の増加により口分田要地が不足となり、新しく用水を設け開墾した者には3代限り、元の用水を利用した者には本人1代限り、その開墾地の私有を認めるようになった。これが元正天皇(げんしょうてんのう)の時代・養老7(723)年の『三世一身の法(さんぜいっしんのほう)』であった。
 しかし土地の開墾は期待したほどの成果が上がらなかった。天平15(743)年、聖武天皇の時代、『墾田永年私財法』で、一定の面積に限り永久私有が認められるようになる。私財を以て開墾すれば、その土地の占有・用益権の売買・相続が認められる事実上の私的所有権が復活した。大宝律令制下、国土は天皇を中核とする朝廷が所有する公地制が理念であったはずが、早くも有名無実化していく。
平安中期以後、荘園領地は拡大し止まる事を知らなかった。醍醐天皇の延喜2(902)年3月13日、藤原時平の主導のもとで最初の荘園整理令として太政官符を下した。これが『延喜の荘園整理令』であった。中央貴族が勅旨田(律令制の衰退に対処するため皇室独自の財源として開墾された不輸租の公田、皇室関係の費用に充てた)を名目に荘園を開発することや、諸国新田開発者などの中央貴族、大寺社への寄進行為を禁止し、諸院・諸宮・5位以上の有力者による閑地田宅の買い占めを禁じ、荘家の創建は認めなかった。これが『荘園整理令』の第1号で、律令体制の復活が眼目であった。口分田・墾田の区別を無くして全てを公田とし、その公田を課税単位としての『』に再編して、その『名田』を1年単位で請負わせようとした。これが公田制とか負名制度と称された。口分田として班給した『班田』はこの『延喜の荘園整理令』以降、制度として執行されなくなった。
 しかし荘園の寄進を受ける立場の上流貴族や大寺社は、朝廷の最有力者であり最大なる権益者でもあった。この整理令には当然冷淡となり、以後も新立の不輸の荘園が増加し、かえって寄進行為は以前より盛んになっていた。
 大部分が荘園化しても、荘園一円が領主化されることは少なく、名田や(領主の直営地)が細かく散在化し、他領の荘園や公領が、複雑に入り乱れていた。荘の実態は、散在する名田の総称で、郷や村の行政区画のように纏まってはいなかった。領主は荘官を使い荘民から地子(じし;年貢)を徴収し、佃の経営や土木工事・荷役・警備などの無償の徭役が課され、更に雑公事としての耕作地の副産物、麻・苧(お;からむし)・苧積(おつみ;麻・苧の繊維をより合わせた糸)・布・絹・藁などを納めさせた。
 その後も寛徳2(1045)年、天喜3(1055)年と続いて『荘園整理令』が公布された。前者の整理令は、前任国司の任期中以後の新立の荘園を停止した。天喜の整理令は、寛徳2年以後の新立の荘園を停止した。しかし、それ以前の荘園には譲歩している。
 その思惑とは逆に、その勢力を削がれるはずの荘園は、在地領主から土地の寄進を受ける立場の有力貴族・有力寺社などの権門勢力が、政治の実権を握り、逆に新立の荘園が増加させた。延久元(1069)年、後三条天皇の時に『延久の荘園整理令』が出されることになる。それでも時代の流れを変えることは出来なかった。
 通常、貴族・寺社などは中央から一族や専門職を荘官として派遣した。地方の在地豪族が寄進した荘園は、その思惑通り寄進者を現地荘官として管理され、その地位は世襲された。在地豪族の多くは名田を保有する荘官名主であった。不在地主の本家・領家の有名無実化に乗じ、その荘園を押領し、さらに国衙領の公郷までにも勢力を拡大させた。
 京の朝廷による統制が弛緩してくると、地方の治安は自衛化されていった。荘官でもある在地領主は、小名主・百姓・武芸練達者に武技を競わせ武力集団化した。荘内の治安はもとより荘園間との争闘、やがては他の豪族との勢力相克、やがて国衙領にまで浸食し国司と対抗した。こうして武士階層が登場した。豪族の下、普段は農地を耕作する農民であったが、事が起きると武具を付け領主に従い、自勢力の拡大を図った。

2)武家の棟梁の登場
 下総権介平忠常が安房国衙を襲い、安房守平惟忠を焼殺する事変が生じた。忠常は上総辺りで勢力を張り、国司の官物を掠め取っていたが、安房守を殺すという大事件へと拡大した。万寿5(1028)年6月21日の朝議で、忠常追討使の人選が行われた。前伊勢守源頼信の名も上がったが、結局検非違使右衛門少尉平直方と、同じく志(さかん)の中原成道が任命された。忠常の祖父平良文平将門の伯父で、将門はほぼ90年前、同地で承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)を起こし誅されている。
 この年、平直方は乱を鎮定できず、翌長元2(1029)年2月、東海・東山の諸国にも忠常追討の官符を下し、平直方追討軍の援軍とした。しかし、この年も戦果はあがらず、叛乱は3年目に及んだ。しかも房総3国に拡大し、忠常の勢力はより強大になった。
 9月追討使平直方を京に召し返し、甲斐守源頼信に追討使を命じた。頼信は源経基の曾孫で、満仲の3男、河内源氏の祖といわれる。兄頼光と共に藤原道長に近侍していた。頼信は、かつて上総・常陸介であった。関東の地理に明るく当地の事情にも通じ、それ相当の人脈もあった。頼信は直ちに発向せず、叛乱者忠常の子の一法師を連れて甲斐に赴き、そこから準備を整えて出発する。
 長元4(1031)年4月28日、源頼信が甲斐から板東へ進軍する矢先、忠常は出家して常安と名乗り投降して来た。忠常は頼信に従って上洛の途上、病にかかり、6月6日美濃国野上で死去した。頼信は美濃国司の検死を受け、忠常の頸だけを持って帰京した。同月16日、忠常の首は、京にさらされた。乱平定者頼信は、漸く翌長元5年5月28日になって功が賞され美濃守に補任された。
 なぜ、忠常が頼信と一戦も交えず投降したのか、それを説明する史料はない。ただ長年月にわたる兵乱で、当時の田畑の生産性の低さを鑑み、その耕作者を兵力として長期に拘束すれば、房総3か国の荒廃は極まる。特に忠常の経済基盤は主戦場の上総国で、その損亡は著しく、既に戦える状況にはなかった。房総の疲弊が忠常の戦意を支えられなかったのが実情であったとみられる。長元7年10月24日、上総国4か年の官物免除が定められた。
 当時の関白は藤原頼道であった。藤原摂関家政治の全盛を極めたのが父道長であったが、頼道は天皇の外祖父になることができず、やがて藤原氏と関係の薄い後三条天皇が践祚する。「権力は腐敗する」の典型で、天皇、関白共に優雅惰弱で、当時の世情に無頓着で、追討使を選任し叱咤すれば事は収まるという安易で、既に救いようが無い無能力さを露呈していた。しかし地方の在地武士団は、未だ「あの勇将将門までもが破滅した」事が語り継がれ、それに就縛されていた。源頼信の登場は、坂東武士達に自家の存続を懸ける存在、武家の棟梁を始めて認識する契機となった。以後、平氏に代わり源氏の勢力が東国に扶植され、その結果信濃国にも広く源氏の分流と称し、その源流の根拠が無いまま輩出されていく。
 後白河天皇は、保元元(1156)年に保元の乱を征して政権を確かなものにした。そして、保元の整理令いわゆる新制7ヵ条という荘園整理令を出した。
 これは時代錯誤としか評しようがない。京政府の支配者が、苛烈な権力闘争を重ねながら、内実の生活は呆れるほどの遊惰で無気力であり、その権勢を誇っていても、真の地方の実質的支配者が各地に台頭し、京政府の権力闘争の間、実動部隊としてかりたてながら、自ずと京方の無能を知り、いよいよ自立していった。

3)信濃村上氏の祖
 古くから北埴に関屋氏、更級郡中部に四宮氏、その東部に中沢氏、高井郡南部に保科氏など諏訪神氏一族が割拠する状況となっていた。四宮荘は南北に分かれていた。山城国仁和寺領であったが、後に八条院御領の1つとなった。八条院は鳥羽天皇の皇女で、特に深く寵愛した瞳子内親王に、永治元年3月、天皇が出家する際に与えた。平家滅亡時、その没官領が加わると2百余か所となった。現長野市塩崎西方に四宮の小字名が遺る。
 源頼信流の源氏、盛清が更級郡村上に配流された。その地に土着し村上氏が興り、その一族は諸所に散り拡大した。盛清の祖父が蔵人従4位下仲宗で、源頼信の孫にあたる。仲宗の父が源頼清で、源頼義は伯父にあたる。頼義は陸奥守・鎮守府将軍となり、永承(1051)6年から安倍頼時・貞任父子と戦う前九年の役を惹き起こしている。仲宗の子には惟清・顕清・仲清・盛清などがいて、共に白河院の蔵人であった。盛清は惟清の養子となったが、仲宗とその4人の子は、白河上皇から昇殿を許され殿上人となった。
 『吾妻鏡』では祇園女御は源仲宗の妻と伝えている。宣旨を受けた女御ではないが、『白河殿』とも称された。その複雑な関係からか、関白藤原師通の日記「中右記」によれば、白河上皇を呪詛したことが露顕し、寛治8年(嘉保元年;1094)、仲宗は周防国、後に隠岐国へ、惟清は伊豆へ遠流となり、顕清は越前国、仲清は阿波国、盛清は信濃国へ配流された。
 盛清の信濃国の配流先、その後の事跡・没年・没地などの史料を欠くが、その子の為国が村上氏を称したようだ。後世の口伝か伝承に基づくが、おそらく信濃の更級郡村上郷に土着していた為国の代に、鳥羽天皇の皇后高陽院(かやのいん;藤原泰子)本家の現地の荘官に任じられてから村上判官代と称したとみられる。村上郷は更南地域の後の村上御厨(みくり)で、ここには村上氏の居館址と伝承される大規模な屋形址がある。
 村上御厨は皇大神宮(こうたいじんぐう;伊勢神宮内宮)建久巳下古文書に、その記載がない、神鳳抄(じんぽうしょう)に初めて筑摩郡会田、安曇郡矢原と共に記された。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇、建久3(1192)年には源頼朝が征夷大将軍に任じられている。神鳳抄は、伊勢神宮の内宮及び外宮の領地の諸国一覧表である。史料的価値は高いが、建久4年に、原本の書き出しを始め、その後追記がなされ、延文5(1360)年に原本が完成し注進とある。御厨とは、神々に捧げる御贄を調理する建物、伊勢神宮・賀茂神社でいう御供所(ごくうしょ)をいい、それが転じ、有力な神社の荘園・神領を総称し、後に地名として残った。
 村上御厨は倭名類聚鈔に記載されている村上郷で、鳥羽天皇の皇后高陽院領の判官代村上氏が、在地領主として本家の衰勢を読み押領し、自侭に支配地を領有するため、支配が甘い伊勢神宮の内宮に自ら寄進し、それが受け入れられたとみる。神鳳抄には、敢て『小所』と注記している、その田積のほどが知られる。村上御厨は旧村上、力石、上山田を含む、この地域に散在していたようだ。
 源義経後白河上皇から与えられた官位は判官(じょう)で、律令制下、令外官の一つ検非違使庁の尉(じょう)である。「判官」といえば「検非違使大尉(たいじょう)」を指し相当官位は従6位上で、5位になると「大夫判官」「大夫尉(だいぶのじょう)」と呼ばれた。後に、国衙領・荘園の現地にあって、土地の管理や年貢の徴収などを司った荘官にも使われた。
 国司は大国・上国は四等官制で守・介・掾・目が置かれた。国衙領では三等官の掾を判官と呼ぶこともあったから、その現地管理者が判官代を称した。
 為国を祖とする分流は『尊卑文脈』によれば入山氏、屋代氏、出浦氏、小野沢氏、山田氏、今里氏、栗田氏、千田氏など諸家を輩出した。

4)村上氏と保元の乱
 保元元(1156)年の保元の乱に際し、源義朝に東国の兵3百騎が従った。その内の信濃武士の中で、現佐久市根々井(岩村田の南)を根拠地する根井大弥太行親が、源為朝軍との白河殿の戦いで先陣を切ったが、敵方の首藤(すどう)九郎の矢で胸板を射られて落馬した。続いて海野小太郎・望月三郎・諏訪平五・桑原安藤次・同安藤三・志津間小二郎・熊坂四郎などの信濃武士をはじめ27騎が駆け入り大乱戦となっている。根井氏は望月氏の国親が、根々井を領して居住地を名字の地とした事による。望月氏は信濃武士団として、諏訪一族に並ぶ最大勢力であった。
 『保元物語』では、信濃守行通(ゆきみち)が崇徳上皇・藤原頼長方についている。それ以外に信濃に関係する武士に下野判官代正弘、その子の左衛門太夫家弘、村上判官代為国と同基国父子左衛門尉頼賢の名が表れている。
 下野判官代正弘の本姓は「平」で、崇徳上皇の北面の武士であった。信濃の国府に近い東筑摩郡の伊勢神宮(内宮)領・麻績(おみ)御厨を所領としていた。
 村上判官代基国は、為国の5男で、父同様、鳥羽天皇の皇后高陽院(藤原泰子)の院司判官代に任じられ村上判官代と称した。
 左衛門尉頼賢は源頼賢で、為義の4男であった。義朝の長男義平に大蔵合戦で敗れ信濃に逃れていた。保元の乱では為義に従い、崇徳上皇方として活躍した。義朝軍を相手に奮闘する姿が『保元物語』に活写されている。崇徳上皇方の敗北に伴い、乱の後捕らえられ、義朝の手によって船岡山(京都市北区)で斬首された。
 保元の乱は実質的に7月11日の1日で決着した。戦いは寅の刻(午前4時)に始まり、辰の刻(午前8時)に亘っている。後白河天皇方が白河殿に火を放ち、崇徳上皇・左大臣頼長が逃げたことで、天皇方の勝利が決定した。
 鳥羽天皇の寵臣藤沢通憲(信西)が奏して、崇徳上皇方70余人を斬り、13人を流罪にした。平清盛は六条河原で、叔父忠正を長盛、忠綱、正綱らの子息とともに斬罪に処し、源義朝は父為義の助命を請うたが許されず、家臣に斬らせている。為国・基国の処分に関しは、史料を欠く。

5)木曽義仲と村上氏
 木曽義仲は寿永2(1183)年4月27日、平惟盛軍と越前国燧城(ひうちじょう)で戦い敗れたが、5月9日には般若野で勝利し越中国に入った。義仲は砥波山の東に陣を布き、夜陰に乗じ惟盛軍を大破した。6月10日には越前国府に入った。7月8日近江に至り、かくして義仲と源為義の10男行家が入京したのは、平氏が西国へ逃れた3日後の7月28日であった。
 行家は甥にあたる源頼朝に決起を促しながらも、頼朝の麾下に入らず独自勢力を目指したため不和となった。養和元(1181)年、尾張国の墨俣川の戦い、三河国矢作川の戦いの2回に亘り平家方と交戦し壊滅的な敗北を喫した。頼朝のもとに逃れ、頼朝に所領を求めるも拒否されたため、以降は甥の源義仲の幕下にあった。
 7月30日には、後白河法皇が、義仲・行家に京都守護を命ずる院宣を下した。その時、村上信国が五条北河原東から近江境までの警固を命じられた。この時に義仲挙兵以降、初めて村上氏の名前が登場する。信国は保元の乱に際し、崇徳上皇方に与した為国の長子であり、基国・康国の兄である。
 8月16日、義仲は伊予守に任じられ、平氏の没官領48か所が与えられた。翌8月、平氏に伴われて西海に逃れた安徳天皇にかわり後鳥羽が践祚した。
 義仲はその後、平氏勢追討に失敗し、しかも京中で兵士が乱暴狼藉を働き無法状態となり、後白河法皇はじめ院近臣のみならず京貴賎の憎悪を集めた。その頃の義仲軍中に源仲綱(源頼政の子息)、高田四郎重家・泉次郎重忠、村上太郎信国、源行家、仁科次郎盛家などの名前が見られた。
 寿永2年9月20日、義仲は平家追討の院宣を受けて西国へ向かった。閏10月1日、備中水島(現倉敷市玉島地区)における、義仲軍先鋒の将海野幸広矢田判官義清と平重衡、通盛、教経らが率いる平氏軍との間で行われた水島の海戦で、義仲軍は大敗した海野幸広・矢田義清ら多くの将兵を失った。同月15日、山陽道の平家軍の勢力が強くなり、義仲は法皇のに背き京に引き返した。しかし帰って来た義仲に、頼朝が法皇の使者を受け弟の範頼・義経の軍を上洛させる情報が伝えられた。
 10月14日、法皇は頼朝に頼るため、「寿永2年10月宣旨」を発した。東海・東山両道諸国の国衙領と荘園の年貢は、元のようにそれぞれ国司・本所に進上する事、従わない者は頼朝に処置を任せる旨の院宣であった。これは、義仲はもとより清盛にも与えられなかった、東国に於ける包括的な行政権の委任であった。この大きな権限委譲により、鎌倉幕府が事実上成立したと言える。
 義仲は法皇を奉じて北陸道へ引返そうとしたが、行家に阻止された。法皇の怒りを買った義仲は11月19日クーデターをおこし、義仲四天王の樋口兼光は、搦め手の大将として法皇の御所である法住寺殿を攻め、法皇を五条東洞院へ幽閉した。村上氏の基国・信国ら7人は義仲に従っていたが、法住寺のクーデターの際、法皇に招かれ院方として奮戦した。ついた信国は戦死し、基国は逃れた。
 義仲は摂政近衛基通以下を解任し、藤原師家を摂政に任じた。法皇寵臣の出仕を止め。40余人の官職を解き、その所領を没収した。
 源義仲の破局はすぐにやってきた。11月29日平教盛・重衡の率いる平家軍が播磨国室山で源行家軍を撃破した。義仲・行家の軍は完全に平家に敗れ去った。このような情勢の中、12月頼朝は、義仲追討のため、範頼・義経を代官として兵を授け上京させた。翌元歴元(1184)年1月20日、源範頼・義経軍が勢多・宇治で源義仲軍を打ち破り、源義仲は巴御前と供に奮戦したが近江粟津で敗死した。
 この時、一時は義仲の幕下にありながら、反旗を翻した行家は河内へ走った。兼光は河内へ行かざるをえなくなり出陣をすると、行家は逃亡し行方をくらましていた。兼光は京の異変を聞き、戦地からすぐさま戻るが、時すでに遅く、義仲軍は範頼・義経率いる大軍に近江の勢多と京の宇治で敗れ散乱し、その入京を許し三条河原・六条河原でも敗走し、北陸道へ逃れようとして、近江の粟津で討死していた。
 根井行親とその6男楯親忠親子共々義仲四天王であったが、六条河原で奮戦し討死している。同じく四天王今井兼平も長瀬重綱・高梨忠直・多胡家包などと共に戦死している。最後に残った四天王樋口兼光は、縁者がいた児玉党の勧めで投降し、義経・範頼らの助命の願いもあったが、後白河側が譲らず処刑される。児玉党は武蔵七党のうち、最大の武力と血族を有し、現埼玉県北部を拠点として活躍した武士団であった。

6)御家人村上氏
 義仲の敗死後、後白河法皇は院旨を5畿7道に下し、義仲与党を追捕した。これにより信濃国の諸士の多くが失脚し逼塞を強いられた。法住寺のクーデターの際、法皇方にあった村上為国一族は、頼朝の家人となり平家追討軍に加わり戦功をあげ、村上氏が隆盛する切欠となった。
 村上次郎判官代康国は、義仲滅亡後、源頼朝の代官である源範頼・義経の軍に属して平家追討に参加している。鎌倉軍は摂津に下ると、東西から挟み撃ちにするために軍勢を2手に分け、大手福原の東方を攻める範頼は西国街道を、搦手福原の西方を攻める義経は丹波路を進み、元歴元(1184)年2月7日が矢合わせとなった。播磨国三草山の西方に布陣する平重盛の子資盛・有盛・師盛らに、義経は夜襲をかけ、讃岐国屋島へ敗走させた。この義経率いる搦手軍に村上康国と信濃国大内太郎惟義が従い戦っていた。
 一の谷の城郭は山と海にはさまれた難攻不落の天然の要塞であり、義経軍の鵯越は、平家はもとより自軍の将兵士にも想定外の奇襲であった。義経軍は一の谷城の裏手の道のない急峻な山を駆け下りると、村上基国らの軍勢がすぐさま平氏の館に火を放った。背後をつかれ炎に包まれた平家は、周章狼狽し我先に海岸へと急ぎ、船へ乗り込むが、統制もなく一斉に乗船するため、何隻かは重量過剰で沈み溺死者が続出した。

7)源氏再興と村上氏
 頼朝は、治承4(1180)年8月17日、以仁王の令旨に応じて平氏打倒の兵をあげた。やがて頼朝は相模の鎌倉を本拠とし、11月17日、御家人統率のために侍所を置き、その別当に和田義盛を任じ、遠江以東の「東国」将士の進退を調べさせた。頼朝はこの後3年間、京都の朝廷から独立し東国を支配した。しかし頼朝は、挙兵当初からひそかに後白河法皇と提携していた。寿永2(1183)年平氏が都落ちし、法皇の院政が機能を回復すると、法皇と頼朝との交渉は頻度を増した。朝廷は、当面の困窮を免れるため、寿永2年10月の宣旨によって、頼朝に東海・東山・北陸3道の荘園・公領の知行回復を沙汰し、これに従わざる者共の追討を命じた。ここに東国は朝廷の体制下に伏した。以後武家政権は朝廷の有名無実化した体制と重層的支配を明治維新まで引きずっていく。
 文治元(1185)年、平氏は滅亡した。頼朝・義経兄弟の対立が生まれ、法皇が義経に頼朝追討の宣旨を与えていた負い目に乗じ、頼朝は公文所別当大江広元の献言を採用し、11月29日、朝廷に迫って守護・地頭の設置を聴許させた。それまで頼朝は私的に地頭を設置していた。ここで初めて公的制度となった。守護は国々に置かれ、警察・警備を担ったが、後に大番役催促と謀反人・殺害人の刑事上の事件を審理する検断などにも当たった。制度的には、朝廷が派遣した国司の公事、地頭の諸務などに干渉することを禁じられていたが、実効支配の結果と国司体制の形骸化により、次第に領主化し、苛烈な淘汰の末、戦国大名へ自立していった。
 地頭とは平安時代、荘園領主が土地管理のために現地に置いた荘官のことであったが、頼朝が、行家・義経を捕らえる名目で、勅許を得て各地の荘園・公領の区別なく、御家人が補任され、土地の管理・年貢の徴収・検断などの権限を持ち、次第に在地領主として成長していった。承久の乱以前に補任されたものを本補地頭、以後のものを新補地頭と呼んだ。地頭は荘園・公領の区別なく、1段毎に5升の兵糧米を徴収し、その財源とした。
 建久元(1190)年頼朝は上洛し、法皇より日本国総追捕使・総地頭の地位を確認され、御家人をして「諸国守護」を担わせる事となった。さらに建久3(1192)年7月、頼朝は征夷大将軍に任命された。
 頼朝将軍家御家人になるには、東国武将であれば、頼朝に見参するのが当然でそれにより適った。源平の盛衰を懸けた戦の最中以後、その勢威が西国に及ぶと簡略化され、頼朝の代官に交名を差し出し、これに応え頼朝から下文が与えられ御家人となった。御家人の素性は往昔以来の開発領主が殆どであった。律令制が根幹とした公地制度が原則的に維持され、不安定な立場にあった武家諸士の事実上の領有を、頼朝は『御下文』により安堵した。それにより頼朝御恩地として初めて公認され、それが主従関係の実相となり、その対価として御家人役勤仕の根拠となった。
 「 下 信濃国塩田庄 補任 地頭職事 左兵衛尉惟宗(島津)忠久
   右人為地頭職、 従行庄務、 御年貢以下、 任先例、 可致其勤之状如件、以下
    文治2年正月8日」
 惟宗(島津)忠久は島津氏の初代、「島津家譜」などの系図類によれば、頼朝の庶長子、母は比企能員の妹丹後局、近衛家の家司惟宗家が出自となっている。
 島津荘は日向国諸県(もろかた)郡島津院(宮崎県都城市郡元付近)に発し、日向南部、大隅、薩摩の南九州3国に広がった大荘園で、本所は摂関家の近衛家であった。鎌倉期には8,000町歩あったという。地頭職は鎌倉初頭から、惟宗忠久が補任され、惟宗家は当初からの荘園の目代であったから、公武両所職を兼帯した事になる。
 文治2年正月8日、頼朝は島津忠久小県郡塩田荘地頭職に補任し花押のある下文を与えている。
 文治5(1189)年7月から9月にかけ、頼朝鎌倉軍と奥州藤原氏との東北地方における一連の戦いを総称して奥州藤原氏征伐という。忠久も従軍している。この戦役により、頼朝による全国的武士政権が確立した。この戦功によるのか、建久8(1197)年12月、島津忠久は大隅国、薩摩国の守護職に任じられる。のち日向の守護も兼ねた。
 承久の乱後、後鳥羽上皇を初め京方公家領の膨大な没官地に、信濃や東国の武士達が地頭職に補せられた。それを新補地頭と呼んだ。諏訪氏などが、広く散ったのも多くは、この時期であった。当然、信濃国にも他国から入国してきた。薩摩氏埴科郡坂城郷の地頭に任じられてきた。薩摩氏は、満洲民族の前身である女真族による、寛仁3(1019)年の刀伊の入寇(といのにゅうこう)の鎮圧に戦功があった武人平為賢(ためたか)を家祖としている。この一族に九州総追捕使を務めた肥前国藤津荘の伊佐平次兼元がいて、その子孫から川辺氏、頴娃(えい)氏、給黎(きいれ)氏、薩摩氏、別府氏、揖宿(いぶすき)氏、知覧氏、阿多氏など、今日の鹿児島の地名に残る薩摩武士の一族が派生した。吾妻鏡宝治元年6月の条に、薩摩前司祐長とあり、薩摩守であったと知られる。
 東信の埴科郡坂城の北条(きたじょう)及び南条を薩摩氏の工藤一族が領有し居住していたことは、嘉暦4(1329)年3月の鎌倉幕府下知状に「坂木南条薩摩十郎左衛門尉跡」、建武2(1335)年9月22日の市河経助軍忠状に「薩摩刑部左衛門入道北条仁相構城郭之処」とあることからも確認できる。『続群書類従』所収の「工藤二階堂系図」には、工藤祐経の孫、即ち祐氏に坂木北条八郎、その弟・祐広に坂木南条十郎とあげて、上記両文書を裏付けている。「工藤二階堂系図」によれば、彼らの祖父は工藤祐長で、曽我兄弟の仇である。父祐長は、吾妻鏡建歴3(1213)年2月の条に、伊東六郎祐長と記されている。

8)源頼朝と村上氏
 文治元年10月24日、頼朝は相模国鎌倉大御堂の源義朝の菩提寺勝長寿院の供養に臨み、その随兵14人の中に、村上左馬助経業(つねなり)とその長子左衛門尉頼時を加えている。経業を為国の子とするのが、村上系屋代氏の系譜である。『吾妻鏡』によれば、同年11月には経業の弟禅師経伊が平時実を捕縛した。時実の父は権大納言平時忠で、平家の都落ちに従って解官した。元暦2(1185)年3月、壇ノ浦で捕らえられて京に戻り、まもなく周防国へ流罪が決まった。しかし義経に接近して配所に赴こうとしなかった。11月、義経が頼朝と対立して都を退去する際、同行し西海に奔るつもりが、摂津国大物浦で船が転覆し、離散して京に戻る途上、禅師経伊に捕らえられた。
 建久元(1190)年11月7日、頼朝が権大納言兼右近衛大将に任じられ上洛した時、経業・頼時父子の姿が後陣随兵の中にあった。
 同5年11月27日、頼朝は永福寺薬師堂落慶供養に臨んだ。頼時は畠山重忠・三浦義澄・和田義盛などと先陣随兵の役に勤仕している。
 同6年3月の南都東大寺を参詣したが、この時知行国の将士のほとんどが供奉している。信濃国の御家人たちは3騎ずつ並んで先陣随兵として従った。頼時は開瀬修理亮・高梨三郎と並んで駒を進めた。
 信濃善光寺は治承3(1179)年3月24日炎上した。人々は「王法尽きんとては、仏法まづ亡ず」と嘆いた。文治3(1187)年7月27日、頼朝は信濃国目代及び御家人などにその再興を命じた。建久6(1195)年竣工され、8月、頼朝は善光寺参詣の準備を命じた。立川寺年代記・相良家文書などによると、建久8年3月28日、善光寺参詣のため、頼朝は鎌倉を発したという。その先陣随兵に村上義国・同義直・小笠原長清・望月重隆・海野幸氏らの姿があった。
 村上氏系譜には、既に多くの混乱がみられるが、村上氏の嫡流は頼時の兄弟安信と子信村が承継した。経業の子孫は京へ移り、頼時の後代が不明となり、その弟仲盛の次代以降北信を中心に屋代氏などを称している。
 正治元(1199)年正月13日、頼朝は享年53で死亡した。この前年12月27日、御家人稲毛重成が亡妻の追善供養のため相模川に架橋し、頼朝はその落成式に出席していた。その僅か27日後に死亡している。頼朝の死の前後3年間を記述する『吾妻鏡』が散逸している。脳溢血・急性心筋梗塞などで自失し、落馬したとみられる。いずれにしても、何かを推測するに足る史料を欠けば、すべてが憶測にすぎない。
 村上氏は、この頃前後、幕府内の存在が希薄になる。村上経業は建久2(1191)年6月、後白河法皇から中務権大輔に任じられ、京を中心として活動した。元歴2(1185)年4月、頼朝は御家人の朝廷からの官位は、頼朝の推挙を前提とした。頼朝は、平家追討戦に功があり、朝廷から衛府の尉その他に任じられた御家人に呵責なく制裁を加えた。内許を得ず任官すれば、本国への帰還を禁じ、在京の役に勤仕させ、以後美濃国墨俣以東に下国する者は、本領を召し上げ斬首に処するとした。それでも義経は鎌倉に戻ろうとした。自らの功績と兄弟愛に甘え過ぎたのであろうか。
 『尊卑文脈』は、村上経業は中務権大輔に任じられ、子の仲盛は後白河院の判官代となり、子の兼光もその地位を承継している。経業の子頼時も検非違使に仕え、頼時の弟頼澄は春華門院の判官代となる。春華門院の父は後鳥羽天皇、母は中宮九条任子で関白九条兼実の子であった。幼時より八条院・璋子内親王の養育を受け、その死後、八条院の莫大な所領を相続したが、同年の11月、17歳で崩じたため、後鳥羽上皇の管領となった。経業の弟基国は高陽院(かやのいん)の判官代であった。高陽院は鳥羽上皇の皇后泰子(たいし)で、その院号が高陽院であった。泰子は父関白藤原忠実から、高陽院領として知られる50余ヶ所の荘園群を伝領したが、死後彼女の猶子近衛基実(忠実の孫)に譲渡され、近衛家領となった。経業の弟惟国は上西門院(じょうさいもんいん)の判官代となっている。その弟成国は高松院蔵人となって、京へ勤仕したようだ。
 上西門院は鳥羽天皇の第2皇女、母は待賢門院藤原璋子。恂子(じゅんし;のぶこ)から統子(むねこ)に改名している。同母弟の雅仁親王が後白河天皇に即位すると、保元3(1158)年にその准母として皇后となり、翌年には院号宣下を得て上西門院となる。源頼朝の父義朝は上西門院の女房の妹を妻とし、頼朝も上西門院に仕えてその蔵人となり、右兵衛権佐となる。
 村上経業が中務権大輔に任じられ、経業の子頼時も検非違使に仕える、それ以前から、経業親子は御家人の地位を捨て、後鳥羽院の靡下に属し、信濃国の御家人村上氏の系譜は、頼時の兄弟安信と子信村が承継したようだ。
 中務省は、天皇の補佐役としての執務や詔勅の宣下・叙位など、朝廷に関する職務の全般を担い、8省の中でも最も重要視されていた。『中務』とは『禁中の政務を執る』という意味で、和読では「なかのまつりごと」、『中務省』は「なかのまつりごとのつかさ」、それを略して「なかつかさ」と呼ばれた。「卿」「大輔」「権大輔」の序列であるから、村上経業は武家でありながら、従5位上の上級職に就いたことになる。源義経が後白河上皇から与えられた官位は判官(じょう)で、律令制下、令外官の一つ検非違使庁の尉(じょう)である。相当官位は従6位上であった。
 承久3(1221)年、承久の乱の直前であった。安曇郡の仁科次郎盛遠が2児を伴い熊野大社に詣でた。途中、後鳥羽上皇の行幸に出合い、盛遠の2児がその目に適い、後鳥羽自身が従来の北面の武士に加えて創設した院の西に勤仕する西面の武士に採りたてられた。後鳥羽の思惑が当たり、盛遠は上皇直々の推挙に感激し、2児を伴い自らも上皇に勤仕した。これには、執権義時も激怒し「元歴2(1185)年4月、頼朝は御家人の朝廷からの官位は、頼朝の推挙を前提とした」鎌倉幕府発足当時からの内許に違背する行為として、盛遠の所領仁科荘を没収した。
 武家の不可解さは、政権を確立.した後も、形骸化した朝廷の制度を常に意識していた。さらにその地位の優劣をも、有名無実化した朝廷の位階に頼り続けた。
 承久の乱が起こると当然、盛遠は後鳥羽上皇方に付き、北陸道へ派兵されて越中国礪波山で、北条義時の次男朝時が率いる幕府軍と戦い、敗れて戦死している。村上氏に至っては、京方、信濃方両面に、戦史に遺る武将の活躍が無い。しかし信濃国仁科氏と村山氏は、以後も存続したようだが、一時衰微したようで、承久の乱後の鎌倉時代、両氏の動向は詳らかではない。
 戦国時代、仁科氏は信玄に敗れ、信玄の子盛信が継いだ。以後、仁科氏一族のうち武田氏に帰属した者は、みな盛信の麾下に属した。信玄が死去し、盛信は高遠城主となった。
 天正10(1582)年3月、織田信長軍による高遠城攻めが始まると、城将の仁科盛信は、小山田備中守・飯島民部少輔以下城兵を指揮して、攻め上る織田勢をしばし追い落した。しかし、衆寡敵せず、次第に外郭より打ち破られ、城兵は織田勢に討ち倒され、盛信の防戦はむなしく、ついに自刃し高遠城は落城した。

9)元弘の変
 四条天皇は寛喜3(1231)年2月11日、後堀河天皇の第1皇子として京都室町(京都市上京区)に生まれた。名は秀仁(みつひと)。同年10月に皇太子となり、翌年10月、2歳で天皇に即位した。
 幼帝のため当然、実権はなかった。父の後堀河上皇が後見人として院政を布き、外祖父の九条道家や、その岳父西園寺公経が朝廷の実権を握っていた。在位約10年、12歳で崩御。皇嗣がなく、摂政道家は外孫でもある順徳天皇の皇子忠成王を即位させようとした。鎌倉幕府執権の北条泰時は順徳天皇が承久の乱に関与したとして、その即位に難色を示し、土御門天皇の皇子邦仁王を推挙した。邦仁王の外戚、土御門家の前内大臣定通も、北条義時の娘を妻としていた関係から、泰時の弟で当時六波羅探題であった重時を通じひそかに幕府に運動していた。
 忠成王が即位し、佐渡に存命中の順徳上皇の還京を許すと、反幕府的院政の再現につながる危惧があった。同年3月18日、邦仁王が即位し後嵯峨天皇となった。後嵯峨上皇の天皇在位は4年であったが、第1皇子の後深草、第2皇子の亀山の両天皇期、26年にわたって院政を行なった。嵯峨殿、吉田泉殿、鳥羽殿、その他各地に御殿を造営し、遊宴、歌合せ、管弦、蹴鞠、仏事等の行事を好み、高野山をはじめ各地に美々しい行列をつくって行幸した。
 文永9(1272)年、嵯峨如来寿院で崩御した。その遺詔には、寵愛する亀山天皇の子孫に皇統を嗣がせ、後深草上皇には後白河法皇が院御所六条殿に営んだ持仏堂長講堂領以下皇室領荘園180か所を与え、その子孫の封邑とする、その代り皇位の継承を止めた。後深草のあとは、伏見、後伏見、光厳、崇光(すこう)上皇ら持明院統の後深草天皇系に伝領された。
 後嵯峨法皇の死後、その遺詔がありながら後深草上皇と亀山天皇との間に、いずれが皇統を嗣ぐかについて対立が生じた。承久の乱以降、皇位継承に干渉してきた鎌倉幕府は、両統の勢力の均衡を重視し、亀山天皇の皇子世仁(よひと)親王が践祚し後宇多天皇として即位した際、執権北条時宗は持明院統の煕仁(ひろひと)親王(伏見天皇)を皇太子と定めた。これが両統迭立の端緒となった。後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統の両統が、交互に皇嗣となる皇位継承の原則であった。しかし、これには明確な規定があるわけではなく、その後も皇位継承をめぐる対立が続いたばかりか、一層激化していった。大覚寺統の後宇多法皇の皇子後二条天皇が早世した。持明院統の後伏見上皇の弟富仁(とみひと)親王(花園天皇)が践祚し、後二条天皇の弟尊治(たかはる)親王(後醍醐天皇)が皇太子となった。本来後二条天皇の皇子邦良親王が、立太子するはずだったが、9歳の若年のため中継ぎ役として、傍系の尊治親王推任された。文保2(1318)年、後醍醐は31歳、当時の天皇としては高齢の践祚であった。皇太子は邦良親王となり、院政を執るのは後醍醐の父後宇多法皇である。 後醍醐天皇は『一代の皇位』とされ、父後宇多法皇の相続所領は、後醍醐崩御後、邦良親王に譲られ、後醍醐の子孫は、傍系として、邦良とその後裔に仕えよとした。これに対する憤懣が後醍醐天皇による精力的な諸活動の原動力となり、結局、日本史上最悪最長期の動乱を呼ぶ因子となった。

 持明院統の皇位は後伏見系に、大覚寺統の皇位は後二条系にそれぞれ交互に継承されたが、その後も皇嗣の協議は難航し、北条貞時は10年交代の両統迭立を軸とする妥協案を定めた。それも確たる合意とならず、後醍醐天皇は即位から3年後に親政を実現し、積極的な政治行動を展開した。持明院統は多くの皇室領荘園を領有するが、大覚寺統は退位すれば御領がなく、そのため後醍醐天皇は自からの皇統を安定させるため、その決定権を握る幕府の打倒を企図するようになった。一方この間、持明院統は次第に幕府に接近していった。
 正中元(1324)年、後醍醐天皇の第1回の倒幕計画は失敗した。その正中(しょうちゅう)の変を鎮圧しても幕府の政治は安定せず、陸奥国安東氏の内紛は、蝦夷地にまで拡大した。京都周辺の郷村では悪党が盛行し、中には御家人と通ずる者もあって、鎮定は困難を極めた。また得宗の北条高時は政務を顧みず、内管領長崎高資(たかすけ)の専横を助長させ、御家人の不満を買っていた。このような状況をみて天皇は、再び日野俊基らと幕府討滅を謀るに至った。嘉暦元(1326)年、皇太子邦良親王の急死により、天皇は自分の皇子尊良世良親王(よよししんのう/ときながしんのう)のうちいずれかを皇太子にと望んだが、幕府は両統迭立(りょうとうてつりつ)の原則から持明院統の量仁(ときひと)親王を推し皇太子とした。後醍醐は、ここに自己の政治理念を皇統の継承によって実現するという天皇の望みは絶たれ、以後いよいよ倒幕計画を具体化させていく。
 天皇は正中の変の失敗に鑑み、武士よりも主に南都北嶺(なんとほくれい)の僧兵武力を頼み、その工作を進めた。嘉暦2年には天台座主に護良親王(尊雲法親王;大塔宮)を、元徳元(1329)年には宗良親王(尊澄法親王)を任命した。天皇は、護良親王をそのまま叡山に留め武事に専念させ、北嶺僧徒衆を結集させようとした。翌年には日吉(ひえ)神社、延暦寺に行幸、さらに同年、春日神社、東大寺、興福寺にも行幸、南都の衆徒勢力の糾合に努めた。また中宮禧子(きし)の安産祈祷と称して、かねてより信任のあった円観文観らの僧に命じて関東調伏(ちょうぶく)の祈祷につとめさせた。
 次第に情勢が進展するなかで元弘元(1331)年4月、後醍醐天皇の院執権の吉田定房は、突如、倒幕の陰謀計画があることを幕府に密告した。かねがね急進派の動きに不安を感じていた定房が、事態の激化を憂慮し被害を最小限にとどめようとした苦肉の策であった。幕府はただちに六波羅探題に命じて追及を開始。日野俊基、文観、円観らを逮捕、鎌倉に護送し、埴科郡船山郷一分地頭職の諏訪左衛門時光に厳しく糾問させ、その自供を得てさらに追及の手を広げることになる。円観は奥州へ、文観は硫黄島へ流された。事前にその動きを察知した天皇は、8月、先手を打って神器を奉じて皇居を脱出、南都東大寺に赴いた。同時に計略を用いて花山院師賢(かざんいんもろかた)に供奉を整えさせ叡山に向かわせた。六波羅の軍は東西両坂本口から叡山を攻めた。その眼を欺くことに成功したが、師賢が天皇の身代わりと知れると僧徒兵は散じ去った。両法親王は笠置山へ脱出した。
 一方、東大寺側の受入れ態勢も十分でなく、天皇は東南院から山城国相楽郡和束(わづか)の金胎寺に移り、さらに要害の地の同相楽郡笠置の笠置寺に入り防御を固め、近隣の武士たちに糾合を迫った。
 やがて六波羅の軍も笠置に向かい、9月初め鎌倉幕府も大仏貞直、金沢貞冬、足利高氏らを将とする大軍を派遣、笠置城を包囲した。その軍中には小笠原貞宗などの共に、船山郷の一分地頭職普恩寺入道北條基時もいた。また高時の使者長崎高貞、将軍の使者安達高景、二階堂道蘊(どううん;貞藤)らも入京した。出奔した後醍醐天皇に代わり、後伏見上皇に奏して、皇太子量仁親王を天皇に即位させた。光厳(こうごん)天皇である。
 笠置城では奮戦し幕府軍を悩ませたが、1か月も支えきれず9月28日、陥落した。城の東西に上がった兵火は、天皇の御座所にも及び、天皇は宗良親王(尊澄法親王)、藤原藤房らと、風雨の最中、裸足で城を脱出したという。山城国綴喜(つづき)郡井手の有王山を彷徨中、同国武士深津某、松井某らに捕らえられた。天皇は六波羅に送られ、花園上皇の親裁により、翌年3月、承久の先例に倣い隠岐島に配流となり、その国分寺を住まいとした。
 笠置城を陥れた幕府の大軍は河内国南河内郡の赤坂城を攻めた。楠木正成も支えきれず10月21日、風雨の夜、城に火をつけ自刃したと見せかけ、正成以下は無事に脱出に成功した。護良親王(尊雲法親王;大塔宮)は、四条隆資父子と共に逃れたが、幕府の追捕が厳しく、奈良の般若寺の大般若経の函中に潜んで危機を脱した。
 また佐渡に幽閉中の日野資朝や鎌倉に送られた俊基らは処刑され、親王や公卿で配流となった者は多数に上った。しかし、笠置と呼応して赤坂城で挙兵し、陥落後行方をくらましていた楠木正成や護良親王らは、同年後半から再度、挙兵して執拗な抵抗を続け、やがて諸国の反幕府勢力の決起を誘発して、元弘3(1333)年5月、ついに鎌倉幕府は滅亡する。

10)村上氏と後醍醐天皇
 鎌倉末期の村上義光は『太平記』では義光、『尊卑分脈』は義日(よしてる)と記されている。元弘の変(1331)以後の攻防に際し、子義隆と共に護良親王に従った。笠置城が陥ると、高野山に逃れる親王を助けた。元弘3/正慶2(1333)年、親王の籠る大和国吉野郡の吉野城に幕府軍の攻撃がかけられた際、親王の身代りになって自害し、親王を落ち延びさせた。

 護良親王(尊雲法親王;大塔宮)は、『太平記』巻第五「大塔宮熊野落ちの事」にその名が遺る。般若寺を脱出し、追手から間一髪で逃がれて熊野へ落ちる様子が描かれている。その宮に供奉した赤松則祐・光琳坊玄尊・片岡八郎・平賀三郎ら9人の一人として「村上彦四郎義光」の名が連なっていた。南都の般若寺から山伏姿で熊野へ逃れる護良親王に従う。紀の川に沿って下り紀伊国田辺に出た。ところが熊野3山を統轄する別当定遍(じょうべん)が幕府方で、その兵に追われるようにして道を転じ切目川から日高川の上流を遡り、竜神の里に出て、牛廻山を越え十津川へ出た。
 親王の一行は、十津川の大塔村の戸野兵衛尉定清らに救われ土豪竹原八郎の館に入り、十津川村谷瀬の要害に「黒木御所」を築いて越年した。河内の楠木正成から、漸く再挙の準備が整い、近々赤坂、千早に出陣し紀伊、和泉、大和にも兵を進める所存、就いてはかねての打合せ通り、親王には吉野で挙兵願い、吉野の金峰山(きんぷせんじ)を本城として天下に義旗を翻し、相呼応して朝敵の討滅に邁進したいと、使者が来た。親王は一気に勇躍して、竹原、戸野氏らを中心に千余の郷士や天川弁財天の社人や洞川滝泉寺の僧兵達を糾合し吉野に向った。
 元弘3(1333)年正月、親王が金峰山の執行である吉水院宗信法印の尽力で蔵王堂に本陣を置き討幕の令旨を広く各地に発した。この時、大量の弓矢を備えた川上郷の加藤政通らが真先に馳せつけって来た。
 親王や正成の再挙を知った六波羅の注進で、北条高時は関八州から軍を召集して怒濤の勢いで上洛させた。吉野には大仏高直、正成には阿曽治時(あそはるとき)を大将軍に任じ六波羅軍と一丸となって一気に壊滅せよと厳命した。
 親王の玉置山通過の際に熊野別当定遍(じょうべん)の命を受けた玉置の荘司盛高の兵が道を塞ぎ、戦となって片岡八郎が花折塚(吉野郡十津川村神下)で討ち死にしている。後年道行く人々が、八郎の墓前に花を折って供えた事から折花塚(おりはなづか)と呼ばれ、後に花折塚と称せられた。
 さらにその道中、土豪芋瀬庄司に遭遇し、親王一行は行く手を阻まれ、その通行を請った。芋瀬庄司は親王に向い「鎌倉へ申し開きの為、御供の中で名前の相当知られている人を一人二人頂いて鎌倉へ渡すか、金銀日月の紋入りの御旗を頂き、合戦をしたという証にしたい」と要求した。そこで赤松則祐が親王の御為と名乗り出る。
 しかし、平賀三郎が「宮の御為にも今は有能な武将は一人たりと失ってはいけない。御旗を渡して激闘の末逃げ延びた事にすれば芋瀬庄司の立場も守れる」と進言した。親王はこれを聞き入れて、大事な錦の御旗を芋瀬庄司に下して、何とか戦いを回避した。
 村上義光は片岡八郎の戦死により、熊野別当定遍らの落人狩を恐れ、殿(しんがり)を引き受けていた。はるか遅れて芋瀬庄司の土豪勢に出合うと、そこには錦の御旗が翻っていた。義光は激昂し「こはその何事ぞや。かたじけなくも四海の主にておはします天子の御子の、朝敵御追罰のために、御門出である路次に参りあひて、汝ら程の大凡下の奴原が、さやうの事つかまつるべき様やある」と、旗を持つ芋瀬の下人を投げ倒し、敵方に奪われた錦の御旗を取り返した。
 親王は天ノ川が十津川となる辻堂の集落で軍備を整え、ついに吉野山にある修験道の総本山金峯山寺で兵を挙げた。本堂が蔵王堂である。
 幕府政所執事二階堂道蘊貞藤は甲斐国山梨郡牧庄(馬木庄)を所領としていた。このとき甲斐・信濃両国で7千余騎が東山道で京都へ向かっている。元弘3(1333)年2月16日、大兵を率いて、親王が立て籠もる吉野の城へ押し寄せた。
 吉野の軍勢が二階堂の大軍に抗しきれず陥落寸前となった。義光は、護良親王を逃すため蔵王堂で「天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ」と、自ら親王であると偽り叫び、身代わりとなって切腹して自刃した。
 なお、子の義隆も義光と共に死のうとして、2の木戸の櫓の下まで駆け寄ったが、父義光は大いに諌めて、宮を守るよう厳命した。巻第7「吉野の城軍の事」は「父子の義はさる事なれども、しばらく生きて宮の御先途を見はてまいらせよと、庭訓を残しければ、力なくしばらくの命を延べて、宮の御供にぞ候ひける」、しかし「落ち行く道の軍、事すでに急にして、討死せずば宮落ち得させたまはじと覚えければ、義隆ただ一人踏み留まりて、追つてかかる敵の馬のもろ膝薙いでは切りすえ、平首切つては刎ね落させ、つづら折りなる細道に、五百余騎の敵を相受けて、半時ばかりぞ支へたる。義隆、節石のごとくなりといへども、その身金鉄ならざれば、敵の取り巻いて射ける矢に、義隆すでに十余箇所の疵をかうむりてんげり。死ぬるまでも、なほ敵の手にかからじとや思ひけん、小竹の一群有りける中へ走り入つて、腹掻き切つて死ににけり。村上父子が敵を防ぎ、討死しけるその間に、宮は虎口に死を御遁れあつて、高野山へぞ落ちさせたまひける」。義隆享年18であった。
 護良親王は再び天ノ川方面へ逃れた。
 村上義光に関して『太平記』などの諸書には、系図の記載がない。『尊卑文脈』のみ村上為国4代の孫信泰の子に義日があり、それが村上彦四郎義光に擬えている。しかし信泰の子信貞は足利直義に属し、北信の足利党の領袖として活躍している。義光は、経業が建久2(1191)年6月、後白河法皇から中務権大輔に任じられ、京を中心として活動した、その系譜と考えたい。

 車山高原リゾートイン・レア・メモリ諏訪の歴史散歩

車山創生記 | 八島湿原生成 | 八島遺跡群 |八島遺跡と分水界| 縄文のヒスイ | 縄文時代総説 | 縄文時代の地域的環境 | 縄文草創期 | 縄文早期 | 縄文前期 | 縄文中期 | 縄文時代の民俗学的研究 | 縄文後期 | 縄文晩期 | 弥生時代総説 | 倭国大乱 | 箕子朝鮮 | 扶余史 | 中国からの避難民 | 遼東情勢 | 衛氏朝鮮 | 長江文明 | 黄河文明 | 臨潼姜寨遺跡 | 半坡遺址 | 大汶口文化 | 山東龍山文化 | 中原龍山文化 | 朝鮮新石器時代 | 旧御射山物語 | 諏訪の字源と語源 | 諏訪の古墳群 | 中山道と諏訪の江戸時代 | 阿倍比羅夫と旧東山道 | 大化以降の諏訪の郷村 | 長野県の積石塚古墳 | 諏訪郡の御牧 | 古代塩原之牧と山鹿牧 | 蕨手太刀と諏訪武士 | 信濃武士誕生史  | 佐久武士誕生史 | 諏訪武士誕生史 | 諏訪家と武家の棟梁源氏との関係 | 中先代の乱と諏訪一族 | 室町・戦国の諏訪氏 | 佐久・伴野氏 | 佐久・大井氏盛衰記 |北信の雄・村上氏 | 鎌倉幕府滅亡から南北朝時代の信濃武士 | 村上信貞の時代 | 大塔合戦(信濃国一揆) | 小笠原政康、信濃国を制覇す! | 信濃戦国時代前期 | 信濃戦国時代後期 | 真田幸隆と武田信玄 | 真田昌幸の生涯 |戦国大名小笠原氏の没落!| | 諏訪氏と武田氏 | 諏訪家再興 | 諏訪湖・高島城 | 高島藩お家騒動 | 江戸期の諏訪民俗史 | 江戸期の北山村 | 坂本 養川汐 | 諏訪と浜松を結ぶ中馬と通船 | 富士川通船と中馬 | 大門街道湯川村 | 諏訪の民話 | 車山の天狗伝説 | 天狗党事件前夜 | 天狗党挙兵 | 天狗党中山道へ進軍 | 天狗党と高島藩 | 天狗党高遠藩領を行く | 天狗党と伊那街道諸宿 | 天狗党事変の結末 | 車山霧ヶ峰入会論 | 霧ヶ峰峠道 | 明治の霧ヶ峰 | 大正期の諏訪の農業 | 大戦前の諏訪の国民運動 | 製糸女工の賃金 | 山一林組争議 | 諏訪の製糸不況 | 片倉工業史 | 近世近代の霧ヶ峰 | 霧ヶ峰のグライダー史 | 車山開発史