ゆくさきは いつれ野末の ひとつ石 大発勢時世の名句 水戸浪士・野上大内蔵
支藩宍戸藩主松平頼徳を将とする部隊が水戸にむかった。これを大発勢という。
天狗党始末
1)天狗党越美国境越え
天狗党は、尊王攘夷の志を天朝に訴えんと、京を目指して中山道や伊那街道などを通ってきた。しかし、美濃鵜沼宿(うぬまじゅく;岐阜県各務原市)辺りまできたとき、進路上の長良川対岸一帯に、幕府から追討命令を受けた彦根藩(滋賀県;35万石⇒25万石⇒28万石)、大垣藩(岐阜県;10万石)、桑名藩(三重県;11万3千石)などの諸藩が軍勢を繰り出し、待ち受けていた。このため諸藩との戦を避けて、急遽、越前方面へと進路を変えたため、こんな難所を選ぶしかなかった。
天狗党が越前へ転進すると読んだ幕府側は、11月30日伝令を出して越美国境の諸峠を、関係する諸藩へ出動を命じた。油坂峠には美濃郡上藩、温見峠、蝿帽子(はえぼうし)峠には越前大野藩 、冠峠には越前鯖江藩が急遽、防備陣を構築することになった。第1報が、12月1日、京都守護職の松平慶永が藩主の越前福井藩(32万石;)から大野藩(福井県大野市)へ届いた。「天狗党が美濃から越前へ向かうらしいとの風聞があるので、その方面の警備をせよ。」というものであった。
越前大野藩では、直ちに蝿帽子峠と九頭竜川上流に物見を派遣した。次いで12月2日には幕府追討軍目付の江原桂介名の書状が福井藩から回されてきた。
その要旨は 「天狗党がそちらに向かったから難所々々を断ち切り、すぐ討ち取るように」との下知であった。
12月1日、福井藩からの急飛脚で、天狗党が美濃・越前国境に迫ったことを知った大野藩は大混乱となった。家老の軍事惣督内山隆佐を亡くしたばかりの時期で、しかも2万石の小藩で藩主土井利恒は江戸にあった。
先代藩主利忠は、嘉永6(1853)年のペリー来航後は、内山隆佐を軍師に任命し、弓槍から銃砲へと、洋式軍隊への転換を図った。また、内山隆佐に大砲の鋳造を命じ完成させた。
その軍師を喪った今、在国重臣たちは、藩兵をかき集めても200名ほどしかなく、天狗党に到底対抗できないと判断した。結果、天狗党の予想進路に当たる村落をすべて焼き払うという焦土作戦を決定した。こうして、冬場に、無慈悲な作戦が実行され、12月4日、上秋生村全軒、下秋生村6軒、中島村93軒、上笹又村・下笹又村全軒、民家203軒が大野藩兵によって焼き払われた。このうち、国境に近い上秋生、下秋生は手違いで天狗党の通過後に放火された。村人の怒りは極限に達した。この焼き討ちは「浪人焼け・西谷焼け」と言われ、居住していた村人の子孫は、現在に至っても、土井家関係の祭りには参加しないという。
続いて12月2日夜には、福井藩の急使がきて、200人の援兵を送る旨の申し入れがあった。
12月5日、大野藩は福井藩と勝山藩(福井県勝山市;小笠原2万2千石)に援軍を求め、大野藩兵は後退して天狗党とにらみ合いになったが、やがて大野の町年寄布川源兵衛を使者に立て、大野城下を通らないよう交渉させた。結局大野藩が2万6千両という大金を献金し、天狗党が他領へ去ることで決着した。
天狗党勢が越美国境にある蝿帽子峠を越えて、越前大野藩領であった西谷郷へ進入してきたのは、厳寒の1月Ⅰ日のことであった。福井県の南東方、大野市(旧西谷村)下秋生と岐阜県根尾村大河原を結んだ越美国境にあった標高約978mの峠で、峠名は夏、蝿が多く笠をかぶって峠を越えたと「名蹟考」には記されている。また、一説には鯖江誠照寺本山の門主が美濃布教の途中、急坂を這いながら登ったからともいわれている。今では廃道となり、峠下にあった越前側の下秋生集落、岐阜県側の大河原集落ともに廃村になっている。
2) 天狗党の蝿帽子峠越え
蝿帽子峠は越前の南東方、越美国境にあった峠で、現在の地図に峠名は存在しない。国道157号線上にある温見峠の東方約6キロ付近に位置し、越山(標高1,129m)と屏風山(標高1,354m)の稜線鞍部にある標高978mの峠である。
その頃、天狗党は美濃谷汲村(岐阜県揖斐郡谷汲)辺りから北進して、根尾川沿いの各村を進み、大河原村で小休止した後、12月4日夕方から蝿帽子峠を登った。
武生市図書館蔵「傾城唐繰人形」には、当時の容子を次のように記す。
「美濃国谷汲より西谷越えにさしかかり、蝿帽子、笹又峠など、とても人馬の通るべき道にはあらず。大難所二十里の間、駅村もなく千尋の谷川あり、剣の如き岩石相続き、道は一尺足らずの細道、殊に、この節は師走の初め、厳寒のときなれば雪は七、八尺も積もりて、万山銀世界とはこの時なり。
なかなか打越えのこと、思いもよらずなれど、さりとて後ろへも帰れず、窮余の策として新雪の道に布団を敷いて歩かせ、大小の樹木を切っては橋となし、谷川を渡る。
無情にも雪はしきりと降り、諸浪士、頭より氷付けば、さながら銀の針を植えたるが如し。 踏み外した馬は、哀鳴を挙げて千尋の谷に墜つ。救う策とてあらず」云々。
山に慣れた猟師も避ける厳寒の深雪の中、雪道に慣れない天狗党勢が武器を背負い、女子供を助けながらの行軍は、苦難の連続であった。一浪士の記録によれば、この時の夜間峠越えで5人の犠牲者と馬1頭が谷底へ転落したとある。
3)天狗党降伏
幕府は天狗党を追討するよう諸藩に命じたが、諸藩では天狗党が歴戦の精鋭であることや、藩士の中に天狗党を支持するものも多かったことから、実際にはあまり戦闘は起きていない。諸藩では天狗党が主要街道を通過すれば、戦わざるをえないため、ひそかに路銀を渡して間道を通るように誘導する始末であった。そして12月11日一行はついに越前の国新保(しんぼ)に到着した。
一方、禁裏守護のため京都に駐在していた一橋慶喜は、浪士追討の勅許を得て、12月1日大津へ追討軍の総帥として出陣していた。大津では、加賀藩兵千人を2陣に分け、これに桑名藩兵を加えて先鋒とし、福岡藩兵・見廻組を脇備、会津藩兵を後備として陣容を整え、近江の湖北三港の1つ海津(かいづ)には小田原藩兵を派遣した。また尾張・大垣・彦根・小浜・福井・大野の諸藩は、美濃・尾張・越前の諸口を固めるよう指令していた。
浪士勢は、12月7日には今立郡大本村に宿し、ついで8日・9日池田谷に入り、さらに宅良谷を越え南条郡今庄宿(いまじょうじゅく)に入って宿泊、12月11日、天狗党、一行は二ツ屋から雪の木ノ芽峠へ向かって進軍を開始した。標高628mの厳しい峠、雪の中の苦しい行軍だったが、ようやく峠を越え、山あいの細い坂道を下ってゆくと道沿いに麓の敦賀の街並みが一望できる。敦賀市の新保に到着する。およそ40戸の家が並んでいる。耕雲斎はこの集落で一番大きな問屋の塚谷家に入り、本陣を置く。しかし下に見る風景は浪士たちの期待したものではなかった。
加賀藩の千人をはじめ、小田原、桑名、大垣、会津、小浜、彦根、福井、鯖江、大野、府中など1万を越える大軍が配置についていた。
この日の前日朝、天狗党の一隊が今庄宿に入ったことを聞いた軍監永原甚七郎は、加賀藩兵約千人を率いて敦賀を発って、僅か1.5k先の葉原宿(敦賀市葉原)へ陣を進めた。宿場には午後4時頃到着している。翌12月11日、二ツ屋宿に派遣してあった斥候から、天狗党が新保宿へ進んできたとの知らせをうけ、葉原宿外に出て戦闘体制をとり、天狗党の進軍を待ち受けていた。こうして天狗党勢と加賀藩兵とは、この地で対峙することになった。
この日、天狗党武田耕雲斎から加賀藩陣地へ封書が送られてきた。要旨は「我ら一隊は、大子村を出発して以来、戦う意思はなく、新保宿においても決して敵意はない。だから京都へ上る道を開いて欲しい。」というものであった。加賀藩では、幹部らが封書の内容について協議した結果、「わが藩は禁裏守護職、一橋慶喜の命により出陣したもので、このまま通行させることはできない、一戦のほかなし。」と返書した。その返書で一橋慶喜が追討総督として出向いていることを浪士は知らされた。頼りにしていた慶喜が追討の指揮をとっているという衝撃は大きかった。天狗党は、さらに戦を交える意思なき真情を訴え、重ねて書面を送ってきました。
12月12日、天狗党は浪士3名を葉原宿に派遣し、加賀藩永原甚七郎宛の一書を添えて、一橋慶喜に差し出すべく嘆願書と始末書を届け、これを慶喜に伝達して欲しいと頼んで来た。
これを受け取った加賀藩では、翌12月13日、永原甚七郎以下3名の連署及び嘆願書と始末書を添え、永原甚七郎らは、加賀藩士2名に、それを持たせて大津本陣に行かせた。大目付滝川播磨守は、これは趣意書であって降伏状ではないことを理由に受け取らず、本陣は受理しなかった。
加賀藩は士道をもって浪士勢に対処し、14日には米2百俵、漬物10樽、酒2石、するめ2千枚を贈った。浪士勢は、新保到着以降の加賀藩の対応に恩義を感じ、敵対的な行動をとらずに降伏の議を決し、その旨を加賀藩に伝えた。
12月15日、幕府目付、織田市蔵が陣中慰労の名目で葉原宿に来て、加賀藩永原甚七郎などに引見し、天狗党への総攻撃を12月17日に定めるよう伝達して来た。このため同藩は、直ちに、近くに陣を構える対陣中の福井・小田原両藩に急使を出して、17日の総攻撃を見合わせるよう急使をだした。その一方では、前日の12月16日、加賀藩は、藩士を天狗党本陣の新保宿へ遣わし、総攻撃が12月17日に決まったので、今後は戦闘行為に移ることを通告した。こうした情勢下で、武田耕雲斎は、武田魁介を葉原宿に遣わして、嘆願書及び始末書と口上書を差し出した。永原甚七郎は、これを海津の本陣へ送るが、目付由比図書は、口上書は前の嘆願書を変更しただけで、真の降伏状ではないとの理由で受け取らなかった。
口上書は永原甚七郎預かりとなり、永原甚七郎は、その意を武田耕雲斎に伝え、12月17日降伏状を提出させた。糧秣不足と寒中の過酷な行軍で疲労困憊し、これ以上の悲惨は忍び難かった。こうして天狗党は加賀藩の軍門に降った。
元治2年(1865)元旦、天狗党の浪士達は、ほんのひと時、平穏な正月を迎えることができた。加賀藩から飛脚で運ばれてきた鏡餅と酒樽7荷が一同に配られ、子供には腰高饅頭が与えられた。隊の中に子供は15歳以下10人、20歳以下24人もいた。
4)浪士・武器など受渡し状況
遂に、浪士勢は加賀藩の軍門に下る。その後の20日、永原甚七郎は、敦賀へ出張中の目付織田市蔵に面会し、降伏状を手渡しした。翌21日、永原は海津本陣へ赴き、浪士勢の降伏状を慶喜に届け、寛大な扱いを申し出る。浪士達は、加賀藩預かりとなる。
翌22日から浪士勢の人員・馬匹・武器類の引渡しが行われた。馬52匹、駄馬40匹、大砲12門、50目筒9挺、大小刀8,111腰、槍275本、薙刀21振、弓11張、火銃388挺、火薬53貫目、鉛弾丸40貫目、早具(はやご;火薬を詰めた紙製の小さい筒、現在の薬莢(やっきょう)の役割)2,000発、竹火縄45把、兜27頭、陣羽織57枚、鞍51口、兵卒鎧100具、烏帽子36個、陣太鼓5個、馬標14本、幕4双であった。
総人員は823を数えるが(「葉役目録」『加賀藩史料』)、その後敦賀の諸寺に収容された。その前に病死者が5人でたようだ。女性1人がいた。市毛源七の母みえ56歳であった。
慶喜は24日海津を出発して帰京した。12月23日~25日にかけて、敦賀の本勝寺に武田耕雲斎・山国兵部・藤田小四郎等38人、本妙寺へ武田魁介を初め346人、長遠寺に山形半六等90人が収容された。加賀藩は祐光寺を本陣とし浪士勢の世話に当たり、小浜藩は敦賀町内の警備を担当した。
加賀藩の浪士に対する待遇は、食物は、町内の木綿屋鹿七に請負わせ、士人は1汁3菜、卒は1汁2采のほか薬用と称して1日酒3斗を支給し、そのほか鼻紙、煙草、衣類を支給した。
こうして病死者5人を除き、合計818人の引渡しが終わった。
5) 天狗党の身柄、加賀藩から幕府へ
年が明けて間もなく、浪士達の身柄は幕命により、幕府引渡しと決まる。敦賀町内の警戒がいっそう厳重になった。浪士達が収容されていた本勝寺、本妙寺、長遠寺の前通りや往来の入口には竹矢来が結ばれ、通行禁止となった。その外回りを彦根、福井、小浜3藩の兵により二重三重に固められ、夜間は各所にかがり火をたくという物々しさであった。
1月27日の夕方、加賀藩永原甚七郎は、本勝寺の武田耕雲斎のもとに行き、幕吏への引渡しを告げ、別れを惜しんだ。次いで、永原は寺内の浪士を訪ね、さらに本妙寺・長遠寺の浪士を見舞って別れを告げた。
幕府軍から浪士勢引取りの命をうけた老中格田沼意尊は、1月29日、加賀藩から浪士全員の身柄の引渡しをうけた。同日朝、加賀藩より永原甚七郎らが本勝寺に出頭し、幕府側から吟味役などが出張して、武田耕雲斎はじめ10人ずつを一組として呼び出し、一人毎に姓名札を持たせた。兵士付添いで、同寺門前で姓名札を引き合わせ、幕府役人に身柄を渡し、籠または歩いて3藩の兵が、抜身槍で警戒する中を舟町(敦賀市)の鰊倉へと送られた。こうして浪士勢は、船町の鰊蔵16戸に、1戸に50人ずつ収容された。そこは北前船で運ばれてくる肥料用鰊を入れて置くための土蔵であった。土蔵は間口約6m、奥行き約20mの蔵で、西より1番倉から4番倉までは小浜藩、5番倉から10番倉まで福井藩、11番倉から16番倉まで彦根藩が警備に当った。加賀藩は、当初から士道を以て遇するよう幕府に懇願したが、遂に聞き入れられなかった。これに怒った加賀藩は天狗党警護を辞退した。
本勝寺380余人の引渡しは、夕方7つ半(午後5時頃)過ぎに終り、長遠寺の90余人は夜4つ時(午後10時頃)まで、本妙寺340余人は翌日の明け方まで掛かった。
窓はすべて釘付けにされ、屋内は暗く敷物は莚だけで、便器代わりの桶が一つ置かれたきりで、暖房も布団もない鰊倉は真冬の寒さと魚の異臭が漂い、極めて劣悪な環境であった。そのうえ、武田耕雲斎等30人を除いて、左の足に足枷をかけるという苛酷な仕打ちが重なる。食事は1日2個の握り飯とぬるま湯のみ、食べ物を渡すため、土蔵の出入口の戸に手が入るだけの穴が開けられた。この不衛生極まりない環境のもと、栄養失調などで体調を崩し多くの浪士が病死し、やがて次々に土蔵から刑場に引き出されていった。加賀藩永原甚七郎は、慶応元(1865)年2月上旬金沢に帰っている。
6)天狗党浪士処刑
田沼意尊一行は2月1日敦賀に入り、永建寺を本陣とし、即日永覚寺に仮白洲を設けて、浪士等の取調べを開始したが、それはきわめて形式的なものであった。老中格田沼意尊ら幕吏の手により、浪士が処刑されることを聞いた、加賀藩はじめ会津、桑名、一橋などの各藩や朝廷及びその周辺において、水戸浪士へ同情する動きが見られ、助命嘆願、処罰見合せの申し出など、様々な動きがあった。
しかし、加賀藩士が国元に報告した覚書『加賀藩史料』「諸事留」によると、幕吏が浪士の断罪を終えて敦賀を発った直後の3月5日、「敦賀表浪士」総人数は828人で、そのうち24人が病死、353人が死罪、136人が遠島、180人が追放、125人が水戸藩渡し、少年9人が永厳寺預け、一人が江戸送りとなっている。天狗党処刑時、永巌寺は15歳以下の少年9名を、僧門に帰依させる条件で引き取った。少年達は剃髪し、自らの髪を和紙に結んで住職に預け、刑死した家族を弔った。また、180の追放者は浪士勢の 西上に従った諸国の軍夫で、また水戸藩渡しの者は同藩領下の百姓であった。
これに先だち、福井藩も天狗党を「賊徒」として断罪することには消極的であった。処刑の折、無抵抗の者を斬首するは、武士として潔しとしないと、斬首役を断りさっさと帰国している。
初めから首謀者は極刑と決まっていた取調べの場に、耕雲斎が現れると、「我々の出陣は尊皇攘夷を目的とした正義の出陣である」と強く主張したが、断罪は免れず、田沼はその主張を黙って聞いていたという。
処刑は、2月4日から町はずれの来迎寺境内の刑場で始まり、まず武田耕雲斎を初め24人が斬首された。彼の辞世の歌の一つは、「咲く梅の花ははかなく散るとても 香りは君が袖にうつらん」というものであった。残った胴体は、5ヶ所に掘られた穴の1つに投げ捨てられた。その上には、次々と処刑を受けた同志らの屍「しかばね」が積み上げられていく。続いて、15日に134人、16日103人、19日76人、23日に16人と処刑が続いた。武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・武田小四郎の首級は、塩漬けにして水戸に送られ、3月25日から3日間水戸城下を引き回し、28日、那珂湊にさらし野捨とされた。さらに幕府の厳しい処分は、彼等の家族にまで及び、残虐の極に達するものであった。
天狗党の処刑の後国許では、市川三左衛門ら諸生党の攻撃が過激化し、天狗党に連なる一族の人たちも、老若男女問わず大量に処刑された。武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎ら主謀者4名の家族は殆どが死罪となった。耕雲斎の妻は夫の首を無理矢理抱かされ、処刑された。そのうえ耕雲斎の一族は皆殺しにされている。 こうして天狗党の乱によって水戸藩の尊攘派は壊滅状態となり、以後慶応年間を通じて水戸藩は佐幕藩となった。この同郷の死者と一族に対する異常なまでの処置が、明治に至っても苛烈な争闘戦を呼んだ。
敦賀の禅宗永建寺・永賞寺・永厳寺や天台宗真禅寺は、処刑された浪士をとむらうため、役所の許可を得て、3月4日と15日にこぞって法会を営んだ。この過酷な浪士達への幕府の処分に対し、世間の非難が高まった。その後の政治情勢の推移のなかで、慶応2(1866)年5月15日、幕府は遠島に処せられた武田金次郎(耕雲斎の孫、母は藤田東湖の妹)以下110名を許し、小浜藩に預けられて謹慎処分とした。このため同藩は、浪士の宿所を永厳寺に移した。彼らを准藩士格として扱い、佐柿(福井県美浜町佐柿)に収容のための屋敷を建てて厚遇した。慶応4(1868)年、朝廷より水戸への帰藩を命ぜられ、佐柿を後にした。
さらに、王政復古後の明治元(1868)年2月、北陸道鎮撫使高倉永祐、四条隆歌下向の際、香華料(こうけりょう)を供するとともに、墓所所有者の西本願寺に墳墓の改修を命じた。加賀藩主前田慶寧(よしやす)からも500両の寄付があった。
同年5月北越総督仁和寺宮が下向の際にも、香華料を拠出し、翌年墓所の改築ができると西本願寺から役僧がきて、来迎寺で法要が行われた。
また、明治7年(1875)11月、水戸の根本弥七郎の発起で、水戸で神社創設の儀がおこり、翌8年1月許可を得て、敦賀市に松原神社が創建された。祭神は武田耕雲斎以下天狗党の刑死者352人のほか、戦死、戦病死者合わせて411人で、神となって祀られている。明治11(1879)年10月10日、明治天皇北陸巡幸に際し、墳墓祭典費として金500円が下賜された。
明治22(1890)年5月、武田耕雲斎以下411人は、東京九段の靖国神社に合祀された。一方、松原神社境内には、常陸産の寒水石に滋賀県令篭手田(てこだ)安定の碑文が刻まれ、昭和29(1954)年には90年祭を記念して、かつての鰊蔵一棟がここに移築された。「船町」は現存していない。鰊倉も並んでいない。茨城市の常盤神社の境内にも、一棟移築され現存している。
これが幕末維新史で最も凄惨な事件といわれる天狗党始末である。この時天狗党の処刑を担当したのが、桜田門外の変で藩主を水戸浪士に殺された彦根藩であった。田沼意尊は田沼意次の曾孫にあたり、水戸天狗党を殺戮したのには当時の時代背景と田沼家類代からの家系の重さがあった。水戸天狗党の挙兵当時の日本は尊王攘夷派と尊幕派に分かれており、田沼家は老中にまでなった意次の経緯から、当然、尊幕派である。
7)大政奉還後の水戸
慶応3(1867)年大政奉還が行われ、翌慶応4年正月鳥羽伏見の戦いが起こり、幕府の衰勢が明らかになると、水戸藩の諸生党は苦境に立たされた。明治元(1868)年3月、山野辺義芸を家老に復権させ、藩内の諸生派を一掃させることになる。諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。この時、かつての激派の残党が勢力を回復していく。武田金次郎らも処分を解除され水戸に戻ると、激派が藩内での権力を掌握する。是により水戸藩に戻った本圀寺党をはじめとする天狗党の残党と諸生党の間で抗争が起こり、賊軍となった諸生党は勢力を失い市川らは水戸を脱して会津へ向かった。今度は、諸生党やその一族に対して激しい報復が行われ、領内各地で多くの諸生党士民が処刑されたり投獄されたりした。金次郎のように白昼堂々と襲撃、暗殺する者までいた。
市川三左衛門ら諸生党は水戸を脱出し会津へ向かったが、会津藩は水戸藩より追討の軍勢が向けられていることを知り、入城を拒否した。そこで市川隊は越後各地を逃亡しながら、北越戦争に参戦し、会津の別動隊及び越後桑名藩と合流して柏崎周辺で官軍と戦う。結局敗れた市川派は会津にもどり鶴ヶ城に籠城し会津藩士とともに籠城戦を戦うことになる。しかし9月22日、会津藩が降伏すると市川らは、越後長岡藩兵や回天隊朝倉隼之介など諸隊の敗残兵と合流して会津藩領を脱し、会津戦争参戦のため防備が手薄になっていると思われた水戸城を目指す。25日、出発した一行の人数は500人とも1,000人とも言われる。27日、片府田(かたふた;栃木県大田原市)で大田原藩兵・彦根藩兵などと交戦、戦死者6名を出し退く(片府田の戦い)。更に、佐良土(栃木県大田原市佐良土)にて黒羽藩兵(栃木県大田原市黒羽)と交戦し、11人の死者を出す(佐良土の戦い)。
29日に水戸城下に到着するも、城には改革派の家老山野辺義芸がおり、すでに官軍に恭順の意を表し、水戸城の守りは堅い。入城することが出来なかったため、水戸城三の丸にあった藩校弘道館を占拠して立て籠もる。これに対し家老山野辺派が、10月1日に攻撃を開始、激しい銃撃戦が行われたが、諸生党に同行してきた諸隊は水戸城攻略の戦意に乏しく、諸生党のみが奮戦する形となった。諸生党軍は天狗党軍に戦死者87名と大きな損害を与えたが、諸生党軍も戦死者約90名ほか多くの負傷者を出し、翌10月2日夜になって退却した。世にいう弘道館の戦いである。
水戸を脱した諸生党軍は玉造、潮来を経て下総方面に逃亡した。10月4日に銚子港において小見川藩兵(千葉県香取市)と、それを支援する高崎藩兵の攻撃を受け潰走した。市川ら130名は10月6日、漸く八日市場(千葉県の北東部、九十九里浜沿いに存在した市で、現在の匝瑳(そうさぐん)市)の福善寺に逃れた。ところが、小見川藩などから連絡を受けた水戸藩軍は1千名を派兵し、これを追跡、それを知った市川らは直ちに福善寺を立ち退いて更に逃走を図った。10月6日、水戸藩軍は福善寺を焼き払った上に、松山村にて市川らに追いついて総攻撃をかけ、この2時間の戦闘によって、朝比奈弥太郎以下、多数の戦死者を出して諸生党その他諸隊の残兵は壊滅した(松山戦争)。市川三左衛門は逃亡し、東京に潜伏していたが明治2年に捕えられ、水戸で処刑された。
この時もまた、天狗党の敵とばかり、諸生党の家族への迫害が執拗に行われた。明治になっても両派の争いは収まらず、明治2年に成立したばかりの新政府から、内部抗争をやめるように命令されるほどの状況であった。
こうして幕末の水戸藩は、尊王攘夷思想の魁でありながら、内部抗争で有為な人材をことごとく失ってしまった。明治政府が成立したとき、その要職に就いた水戸出身者はただの一人もいなかったのである。
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