上伊那郡手良村も伊那町から伊那市へ | 片桐字坂戸の坂戸峡、前方の集落が片桐宿 | 飯田市時又からの天竜川 | 箕輪町の赤蕎麦畑、この辺りの伊那谷は明るい |
稲田原 続く限りは 澄み渡り 月に白々し 一筋の川
昨夜(きぞ)の雪 雑木林に 凍るまま 晴れてさやけし 伊那のふか谷 新井 章
天狗党、伊那街道進軍 Topへ
目次 |
1)天狗党松島宿に泊る |
2)伊那谷から美濃国へ・・ |
3)飯田藩、天狗党対応に苦渋 |
4)飯田藩減封 |
1)天狗党松島宿に泊る
『南殿中東文書』は当時の様子を絵にして、「信濃国上伊那郡平出宿甲子11月廿日より21日迄高遠様御固め有増(あらまし)の図、一戦も之無く沢底村へ乱入の場」と表し、高遠藩士が一戦もなく沢底へ逃げ、戦闘時でもないのに、慌てふためき無統制に逃散し、岡村元蔵が逃げる途中で落馬し怪我を負い、動揺して浪士隊に生け捕りにされている事などが絵巻物風に描かれている。
その後伊那街道を進んで天竜川を渡河し、松島宿(箕輪町)に入って、一部は松島宿を南に下った木下村(箕輪町;南箕輪村北殿宿は南隣り)まで進んで分宿した。松島宿の旅籠屋七郎右衛門宅を本陣にした。
「さて又、浪士は松島泊りで、岡村元蔵様は関屋へお預けとなる。村々でも交易したる者、又は金持ち呼び出し、用金を取る者有り。
金百五十両 沢村酒屋儀右衛門 金六十両 同村藤七
金六十両 勝右衛門、浪士へ献金なり。
金七十五両 木下村磯吉 金七十五両 同村土手長十 壷屋万七 二人で献金。
松島宿北村、又は木下等に泊り、木下越後屋二人、角屋に四人泊り、菊一と申す茶屋に一人泊り、お貞と申す水くさき女と一献くみ帰るもあった。木下村青木という茶屋の前で大篝(火)をたき、松島宿は三ヵ所ばかり大篝をたいた。北村で馬をもらった者もあった。」
浪士は松島宿や木下村に泊り、当時生糸などで儲けた者など資産家から、軍用金を献金という名目で取立てた。その額420両にも及ぶ。その際、松島からも14、5名が人夫として連れ去られている。
一方、幕府直属の追討軍が天狗党を追撃しており、11月21日幕府追討軍総督 田沼意尊が茂田井宿(佐久市望月町)を通行した。ヨーロッパ式の装備をした最新の軍用だが、天狗党とは常に2日程度の間隔を保って追撃していた。21日長久保宿(小県郡長門町)には上田藩も出陣しており、はるか遠い伊那谷にいる天狗党に向かって大砲を撃っていた。
天狗党は南箕輪を通過する。浪士隊通行の様子が「元治甲子歳十一月廿二日北殿宿浪士通行の図有増(あらまし)記」に、実に賑やかに描写されている。先頭は吹流しの旗を持ち、続いて「報国」の幟を掲げる徒士組が先頭集団を作り、お祭り道中のように「奉勅」「日本魂」などの派手な旗や幟が次から次ぎへと連なっている。先ずは「浪士医師」が馬上姿で描かれ、駕籠に乗る総大将が「武田高雲斎」と記され、その後に大筒を引く一隊がいて、副将の「浪士田丸稲之右衛門」も馬上にいる。和田嶺合戦で高島藩軍が置き去りにした戦利品、千野新左衛門具足と記された具足櫃、人足4人で持つ陣太鼓にホラ貝を入れ、陣鐘も4人で持ち、小筒玉薬23荷もあった。そして生け捕りにされた高遠藩士岡村元蔵が、カピタン浅黄の無地に染めた織物を着て最後尾に連行されていた。平安中期に青系の浅葱色に“浅黄”と当て字されたのが、混乱の元で、本来の“浅黄”は“うすき”と読み、文字通り薄い黄色であった。
「明日廿二日四つ時(午前10時)北殿村御通行と相成る。月番西問屋(大泉)吉右衛門、御伝馬并びに地方残らず、其の外是迄当って来た村々、南殿・田畑・神子柴・大萱・羽広・上戸・中条・与地・大泉・大泉新田・吹上・富田・中曽根・塩ノ井の人足は皆詰めていた。貫賦と唱えるは荷物又は諸色の世話を致す者の名である。浪士は八人、九百人通行し、内、分持ちに水戸池田氏と書いた物もあった。其の外武田耕雲斎、田丸稲之右衛門、千野新左衛門具足と記しのある具足櫃をそのまま負わせ来た。并びに陣太鼓に法螺貝を入れ、人足四人持って来た。陣鐘は四人持、右小砲玉薬二三荷、諏訪方の諸品を拾って来た様である。人足会所は角屋中町弥惣二、馬会所は千歳屋。
浪士一人、後から切棒駕籠に乗り来る者があった。梅川竹四郎、藤田屋庄兵衛の休む所で、有賀屋又左衛門、問屋三郎兵衛二人、たばこ入れを又左衛門が差し上げた。三郎兵衛は四分一のキセルを頂戴した。
貰った物で松本御役人岡本勝三郎様、森川半平次御出役で御糺しがあり、右三郎兵衛は、松本御役所へ参向の節御持参致して、御役人(御目付)から頂戴して来た。
又、此処に諏訪の医師が逗留していて、浪士通行を拝見していた所、右の梅川に認めがめられ、既に天誅を加えようとした。松林寺へ逃げ入った。此の天誅というは切るという事である。然る所へ、あひる1羽、右梅川の駕籠の中へ入れ持って来た。あひるが糞をしたので、あひるに天誅を加えようとした。仙弥・磯吉両人が夫れは悪(あ)しといって、仙弥があひるの首を捻った。
またまた浮浪士持参道具、大筒十九挺、小砲数知れず、生捕りの岡村元蔵かぴたん浅黄、紋所桐の葉の紋所、たちつけこはく嶋でつれて来た。
夫より、上穂宿泊り。道すがら歌に
芦原の 御国の為と 立出でて 只いたずらに 過る月日を
右の浮浪士神子柴にて詠む」
尚、大泉北殿宿では、東側の北殿「東問屋」と西側「大泉出宿問屋」が、交代で当番を務めていた。水戸浪士通行の22日は、「下十日分、日番」で「大泉出宿問屋」が請負っていた。
11月23日幕府軍目付江原桂介の出頭命令により高遠藩の野木要人、岡野小平治が北小河内村(箕輪町)に呼ばれ、天狗党に対する種々弁明、大砲発射について説明をした。
翌24日、夕七ツ時(午後4時)、浪士通過2日遅れで、老中格田沼意尊の幕府軍の歩兵が来た。慌ただしいが無意味な幕命をおびた追い打ち指示の使者が行き交う中、松島宿と大泉北殿宿共に再び、脇街道であれば、想定外の人馬の手配に奔走させられた。幸い休息だけで泊りは無かった。歩兵方陸軍奉行大井太郎助率いる歩兵500人は、剣付き鉄砲を所持した行動能力を優先にした近代的な装備であった。浪士隊の賑やかな装いも無い、進軍して追い打ちする風情も無い。当然街道筋の人々も呆れ「浪士には追い付かぬよう道法をそろそろ行くは歩兵」と侮っているが、この時かり出された人足は200人、馬18匹で、幕府軍総勢1,384人であった。
2)伊那谷から美濃国へ・・
11月22日松島宿を出立した天狗党は、午前11時頃北殿宿を通過した。伊那街道を南下して伊那部宿(いなべしゅく;伊那市;上牧の南隣;天竜川左岸)へ入った。この宿場には、高遠藩領でも屈指の豪農として知られ、代々造り酒屋を営んでいた井澤家がある。伊那部宿では裃を着用した宿場の衆が出迎え、道を清め、これまでの宿場と違い歓迎に包まれていた。
伊那部宿は天領であるが、勤王の谷と呼ばれるほど、平田国学が普及しその精神が横溢していた。天狗党はここで昼飯を食べ、さらに南下して上穂宿(うわぶ;駒ヶ根市役所の北隣り)と赤須宿(駒ヶ根市)に分宿した。
上穂宿では、北隣の上伊那郷の宮田宿の山浦藤左衛門が、連れまわされる高遠藩士の岡村元蔵を憐れみ、その願い下げを請うと山浦も縄を打たれたが、からくも縄目を解き逃げ戻った。天狗党が12月半ば過ぎ加賀藩で降伏し、浪士達が越前敦賀の鰊倉に幽閉され、岡村はここで漸く釈放された。
翌11月23日朝、天狗党は上穂、赤須宿を出立し、飯島宿(飯島町)で昼飯を食べた。
天狗党は宿から宿への荷物継ぎ送りを近在の村々に人足を割り当て、さらに脅しての献金を生糸貿易関係者へ強要したといわている。上穂宿の木村屋では200両の献金を要求され、路上で150両に値切り、120両は木村屋が負担、残りの30両は町方が負担と決まったが、町方は30両を集めるのに大変苦労をしたという。また、宿の者でそのまま美濃国や越前国まで人夫として連れていかれた者も何人かいた。一般の農民らにとっては勤王など関係なく、強要されたことへの怒りや不満が記録として残っている。
当時、飯田藩は、第11代藩主堀親義で、父と同じように幕閣入りし、奏者番や寺社奉行などを歴任した。飯田藩では、天狗党の通行の道筋にあたる座光寺村(飯田市)と市田原町(下伊那郡高森町)の間にある座光寺村宮崎の原に土塁を築いて大砲数門を据えた。その直前、急遽、領内各村の村役人を集め、「村々百姓は借家者まで銘々得物を持ち力添えするよう」に申し付けている。
対岸の市田原町は白河藩阿部氏(福島県)の飛地領であったため、宮崎の原での戦闘について市田原町が飯田藩に抗議をしてきた。白河藩阿部正外(あべ まさとorまさとう)は、元治元(1864)年のこの年、老中就任している。他領まで構いなく天狗党を討伐し続けよと命じた当事者が、この体たらくであった。
原町宿は、飯田の伝馬町と大島宿の中間にある伊那街道の重要な宿駅であった。奥州白河藩にあって10万石を知行していた阿部播磨守正耆(まさひさ)は村替を命ぜられ、弘化3(1846)年6月伊那郡のうち1万3千8百余石を、飛び地として治めることになった。原町に陣屋を置き、代官を派遣して、各所に散在している領地を支配させた。陣屋のあった所は上市田原町の東北で伊勢神社と近接していた。
3)飯田藩、天狗党対応に苦渋
弱小な飯田藩も、高島、松本両藩の敗戦を知り、領民を鼓舞しても、自らには天狗党に対抗できる戦力も戦意もない事が、本音では分かっていた。それで中山道沿いの各藩同様、姑息にも百姓勢を駆りだそうとした。領民は、既に中山道沿いの他藩の対応情報を、飯田藩よりも早く入手していた。武士集団は最早、徳川家の藩屏と成り得ず、前衛として民兵を組織し利用する弥縫策で、各種御触書を出しても、1万7千石の弱小な譜代大名飯田藩自体、戦える能力もなく意欲もない、それでも領民を狩り出そうとしている、当然、その内情は知れ、村をあげて加勢する気にはなれず、藩召集の村役人会議の出席者は少なかった。いずれにしろ、老中の飛び地の抗議でもあり、これを好都合とするように、飯田藩は、土俵を積み立てた備えを撤去して、飯田城に陣を移した。それでも、その後の話し合いにより、村高百石につき3,4人を出す事になった。
飯田藩にしても座光寺村宮崎の原でくい止めるなど不可能など分かっていた。それで浪士隊が城下へ侵入したら、城下町を焼き払い籠城し、幕府への戦闘による被害の甚大さを語り申し訳にする心算であった。それでは、伊那谷の中でも最も中心的な地域である飯田町民には、大きな被害となる。それで天狗党と戦わずに済むことを考えた。藩内の平田篤胤学統の勤王の者達を動員して、飯島宿迄出向いて内密に協議し、浪士隊に献金を申し出て、この先にある飯田城下の通行を避けてもらう、その条件で、飯田市西部にある山間部、風越山(かざこしやま;地元では「ふうえつさん」)麓の間道を案内することで話しを進めようとした。この日天狗党は、片桐宿(松川町)と大島宿(松川町)に分宿し、ここで飯田藩と本格的な調整を行った。浪士隊にしても京への途上で無用な戦をする余裕もなかった。副将の藤田小四郎は、書簡を飯田藩へ送り、間道があったら、是非案内を頼むと申し入れた。
片桐宿の問屋大沢家に武田耕雲斉、大島宿の酒屋宮下家に藤田小四郎が宿泊した。
片桐、大島宿の天狗党は、飯田藩と市田陣屋に備えるため、哨兵を配して篝火を焚き、ものものしく警戒をした。両宿の者はもちろん近隣の婦女子は皆遠くの親戚に避難をし、沿道の家々は戸を固く閉めていた。
飯田藩士の殆ども戦えない事は分かっていた。しかし、その後に来る幕府の処分が怖い。そこで座光寺村の庄屋で平田流国学の学統北原稲雄とその弟の今村豊三郎に、藩と浪士隊の斡旋を依頼するため飯田城への登城を命じた。藩家中総軍議の席へ呼び出し、両人に浪士隊の軍備、戦意など詳細に問い質した。一旦退席を命じられたが、暫くして、軍奉行物頭役の小林仁蔵の御用部屋に呼ばれ、是非浪士隊の間道へ案内を頼むと言われた。合わせて飯田城下の町人達にも、参千両の献金を要請した。
翌23日、北原稲雄と今村豊三郎は片桐宿問屋で藤田小四郎らと合い、献金と間道案内を申し入れ、「飯田領内には一人も止宿しない。領内通過の折は火種を消し、槍も鞘に納めたまま粛然と通る。」の了解を得た。
11月24日天狗党は片桐宿を出立し、市田原町で両人に合い、その案内により飯田領内の上黒田(飯田市)より野底山道を進んで上飯田を通り、畦道を辿って今宮(飯田市)に出、そこで饗応され昼飯を食べた。そして桜瀬で松川を渡河し伊那街道へ出、大瀬木(飯田市;阿智村寄り)まで道案内をした。飯田城下は一切通らなかった。浪士隊は両人と別れて駒場宿(下伊那郡阿南町)に入り宿泊した。
飯田藩は物見から浪士隊が立ち去ったと知らされると、夕刻城内から軍勢を繰り出し、松川に接する羽場坂頭(上飯田村)で大砲を数発放った。これも向後、幕府の叱責を避けるため戦ったふりをしたものであった。
12月幕府は、飯田藩主堀石見守親義の講武所奉行・清内路関所預かりお役御免、1万7,000石のうち2,000石を没収した。清内路関所は高遠藩の管理となった。藩主は謹慎を命じられたが、その後、京都見廻役を務める。
上新井村(松川町)の北原孟家の日記 によれば「11月24日朝、我等も大島へ行き、天狗党が宿を発つのを見るために南の原へ出て、その行粧を見ると、甲冑は少なく、多くは陣羽織に袴を着て、鉢巻をして種々の旗を立てていた。中には大きな大和魂の旗2本、報国の旗や他に15種程の旗。」、「多くの人足が荷物運搬に使われているが、浪士が多勢なるが故に人足は少分の様に見え、甚だもって痛ましき事なり。馬上の武者も余程なりと近代の見ものと云うはこの事なるべし、この通行の時、大島宿の南の林から増野原(松川町増野)の松陰に入る迄、凡そ6~7町(約700m)は1度に見えて立派なること目を驚かしたり。」とある。
4)飯田藩減封
駒場宿(下伊那郡阿南村)では、「仲満智」を本陣宿とし、他の者は宿内の家に分宿したようだ。抜き身の槍を携え、戦傷で血を流している者もいて、異常な気迫が漂う様子に、当初は宿場住民も恐怖を感じたようだ。しかし、その軍律は厳しく統制されていて、次第に交歓が始まると駒場宿の人々も好意的に接していく。特に天狗党蜂起からの軍談は、厭きる事無く聞き入る歴史的証言であった。又、教養のある浪士も多く、和歌を書いてもらったりしている。現金屋には、当時武士4人を含む15人が泊まった。その一人亀山嘉治から和歌を詠んだ扇面と短冊を贈られている。以後、亀山が処刑された後も、水戸在住の遺族と文通を続けている。木戸脇の花屋では、浪士大和田外記が詠んだ漢詩が載る扇面も残っている。
翌日は伊那街道を南下し浪合(下伊那郡阿智村)へ向かう予定であった。駒場宿では近在の10か村に依頼し、人足260人、馬31匹を招集し、浪士隊の伝馬継ぎ立てを問屋業務の一環として行った。それに対して浪士隊は駅伝馬規定を記す高札に従い、その伝馬の賃料を払っている。人夫役が殆どで、上清内路で解放され、一部は馬籠まで同道していた。
駒場村は、それで賄えない諸費用16両余りを負担している。ところが浪合関所を預かる阿島(下伊那郡喬木村阿島)の知久氏が出向いてきた。知久氏は、戦国期に現在の飯田市の天竜川左岸を基盤とした豪族で、紆余曲折を経て、知久則直は関が原の戦いに従軍し、慶長16(1601)年、阿島に2千7百石の旗本として陣屋を構えた。阿島の他に田村村、河野村、南原村、虎岩村など、父が失った土地の一部を回復して、以後、則直より11代で明治を迎えた。領国を統治する役所として約5千坪40棟の陣屋を阿島に置き、浪合関、小野川関、帯川関、心川関の守衛を幕府から命じられていた。また江戸の屋敷は、四ッ谷信濃町にあり、旗本にも拘わらず1年毎に参勤交代をしていた。こうした参勤交代を強いられる旗本は34家あり、「交代寄合衆(こうたいよりあいしゅう)」と呼ばれ、伊那では「伊那衆3家」があり、他に信濃座光寺家1千4百13石、信濃伊豆木(いずき)小笠原家千石があった。
知久氏としては、浪合関所を通られると責任上困る、また防備につく尾張藩との戦闘を避けることを嘆願し、清内路峠を越えて木曽へ向かうことを天狗党に勧めた。豊富な山林資源を有する下伊那地域は、幕府の天領が多く、天竜川を利用して大量の木材が江戸へ送られていた。そして、取り潰しや減封などにより、次第に天領は増え、下伊那地域では最大の領地となっていた。また、井上氏、近藤氏、宮崎氏、市岡氏などの旗本の領地とともに、尾張藩の支藩にあたる高須藩、譜代棚倉藩(福島県)阿部氏の飛領も存在していた。それで浪合関所の防備を、幕府は尾張藩に期待した。
11月25日朝、天狗党は駒場宿を立ち、南下せず、若干飯田城下へ戻るようなかっこうで山本村(飯田市;阿智村の北、大瀬木の南)を通り、清内路(清内路村)から木曽へ向かった。この当時、昼神温泉は昭和も40年代の開発あれば存在していない。青木から険しい梨子野峠を越え、下清内路村を通り、さらにその先にある飯田藩が管轄する清内路関を抵抗されずに通行し、上清内路村へ入って宿泊した。
この時、清内路関番頭斉藤の「御通りなされい!」の言葉は、浪士隊の心に染みた。後にこの関の番頭斉藤長右衛門ら2人は切腹を命じられ、飯田藩は2千石没収された。
11月26日朝、天狗党は上清内路村を出立して、清内路峠を越え、いよいよ木曽谷へ入った。広瀬村(南木曽町)で昼飯を食べ、蘭村(あららぎむら、南木曽町)を過ぎて、再び中山道に合流して妻籠宿(南木曽町)に入り、一部はさらに進んで馬籠宿(山口村)に分宿した。
11月27日早朝、妻籠宿に宿泊した部隊が馬籠宿に合流し、十曲峠(じっこくとうげ;中津川市落合)を越えていよいよ美濃国へ入った。この時を待っていたように、幕府直属の追討軍田沼意尊率いる軍勢が飯田に到着する。姑息にも、飯田藩士に物見を命じながらも、浪士隊は遥か先に去った2日後を、その田沼軍は追従していく。
この様に、信州における天狗党の動向は、たった11日間であったが非常に雑多なものであった。各宿場や藩の対応などに、地域性が色濃く出て非常に面白い。しかし、武家政治といわれ君臨し続けて来た体制が、体面を糊塗するのに汲々として、武力自体張子の虎で、何ら解決能力の無い官僚組織になっていた事がはっきりと認識された。
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