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天狗党高遠藩領を行く Topへ
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目次 |
1)天狗党迎撃態勢 |
2)高遠藩兵、戦わずして逃げる |
3)天狗党課役の耐える高遠藩領民 |
1)天狗党迎撃態勢
当時の高遠藩主は内藤頼直で3万3千石の譜代であった。
武田耕雲斎を盟主する天狗党は、11月1日、大子(茨城県久慈郡大子町;だいごまち)を出発し、京都を目標に下野、上野、信濃、主として中山道を通って進軍を続けた。このような動静については、5月頃、高遠藩より御用状によって上伊那郷にも伝えられていた。当時、上伊那郷宮田村の南の境、大田切川までが高遠領であった。
高遠藩の上伊那郷支配役荒川瀬兵衛は、7月17日、触書を出している。
「浪人共罷り越し候も計りがたく候間、其の節は村々にて手筈を致し置き、早速駆け付け差押さえ申し可く候、若し手余り候はば切捨て申しべき事、但し、押込み盗賊にても右同断相心得申しべき事
一、右同断の節、手筈等かねて取極め、左の品々用意致し置き申しべき事
一、盤木或は半鐘など取極め置き、時宜次第早盤早半鐘打ち鳴らし、集まり候場所など定め置き申すべき事
一、猟師共玉薬用意致し置くべき事
一、威し筒用心筒共玉薬用意致すべき事
右之通り備え置き申すべく、尤も其の段村々限り申し出すべき事」
この7月の段階では、その行軍の道筋は不明であった。
遂に11月17日、荒川瀬兵衛名で、公儀御用状の内容が伝達された。
「常州辺屯集賊徒共のうち脱走の者これ有り、甲州路又は中山道の方へ、多人数落ち行き候やに相聞く候間、遂に手筈致し、見掛け次第洩らさず討ち取り申す可く候、万一討ち洩らし候はば他領までも付け入り、討ち取り候様致さる可く候、若し等閑に致し候に於いては、叱度御沙汰これある可く候」と、緊迫の度合いは高まった。
高遠藩では天狗党討伐令が届くや、軍議を開いて防戦の準備を整えることになった。それに伴い11月19日、荒川瀬兵衛から樋口村東割と西割、赤羽村、沢底村の名主宛に、人足100人の用意を要請している。
「浪人共御差押のため、明廿日御人数御繰出しに相成り候間、其の村々に割合、人足百人樋口村東割の場所よき所へ見計い相集め置き、平出村まで持越しの儀申し付け候間、左様相心得可く候、差掛かり沙汰に及ぶ候儀もこれあるべきの間、相心得罷り在る可く候様致す可く候」
高遠藩では、4隊に分け本城の守備隊の他の700人を、天神山に内藤与兵衛、聖天原に岡野小平治、平出宿に野木要人をそれぞれの侍大将に任じ、伊那の入り口を守備した。野木は初め辰野に陣を構えていたが、その後平出の堰山に大砲を配置して陣を移した。平出宿ではその兵火を恐れて2、3日前から家財を片付け、辰野や沢底の縁者を頼り老幼婦女を避難させるなど大騒ぎとなった。「村民事を聞き老幼東西に放ち、人々震駭彩色(しんがいさいしき)を生ず」と記録されている。
2)高遠藩兵、戦わずして逃げる
野木は20日に高島、松本両藩の連合軍が大敗北をし、同夜下諏訪宿に泊まったとの報を得て、21日、野木は早朝斥候を出して探索したところ天狗党が伊那谷へ向かうと知り、直ちに陣を払い、南下して沢底村(辰野町)、長岡新田(箕輪町)を経て、伊那街道を外れて手良村(伊那市)を通って天神山へ陣を退去させた。そして、天神山から後日の弁明のために大砲を1発放った。天狗党には、珍しい冬季雷程度には、錯覚してくれたであろうか? 21日夜、高島藩血気の勇士が、松島宿に宿営する浪士へ夜襲を策したが、藩の重臣に抑えこまれた。平出宿の避難民も高遠藩兵の撤退で戦火を回避でき、漸く安堵をしたようだ。
こうして天狗党は高遠領内を平穏に通過し、21日、平出宿で大休止、やっと落ち着けた思いであったろうか、昼食をとり、以後天竜川沿いの諏訪郡川岸村からの古道・東側の天竜川左岸、赤羽、樋口、小河内(おごち)へ向かう隊と、西よりの右岸、三州街道・宮木、新町、羽場、大出経由の隊とに分けられた。そして松島(上伊那郡箕輪町)で合流し宿泊した。翌22日、松島を発つ。飯島勘六の「懐中扣(ひかえ)」には「水戸浪士千人余り、旗を立て平出を通る、槍は抜き身にて鉄砲は火ふきをきり火縄の火は両口にて通る」とあり、天狗党は、依然として臨戦態勢の緊張下にあった。天狗党の軍師は山国兵部であったが、隊伍の編成、布陣の隊形など、真の軍師による軍容であったという。しかし前日の和田嶺合戦による負傷と疲労、下諏訪急ぎの行軍で、足をひきずりながら黙々と南下する浪士の姿もあった。
当時、高遠藩の民衆は、その前後の課役負担に悩まされながらも、藩初め幕府軍の武士不在の実情を充分認識した。この当時の高遠藩の不甲斐無さを、「親骨(おやぼね)の肝腎要(かんじんかなめ)が逃げ出して、あとの小骨はバーラバラ」の狂歌で表現をしている。「肝腎要」の「要」とは、高遠藩の侍大将「野木要人」を掛けている。
北殿の山崎宇八郎孝輔が書き留めた貴重な記録『今様奇談』全23巻がある。水戸浪士が伊那街道大泉北殿宿(上伊那郡南箕輪村)を通過した際の記録を抄記する。
「同(元治元年)11月廿一日高遠様御固め、平出宿へ野木要(かなめ)様御同勢150人ばかりで御固めなされた。
其の時、和田峠の一戦も終ってしましたので、早浪士も下諏訪泊まり、岡谷弁当で、平出宿へ掛かって来た時、高遠様御同勢、此の体(てい)を見て一戦もなく、沢底村へ逃げ入ってしまった。
一人、諸士岡村元蔵は馬に乗り逃げ出した所、馬がそれて沢底窪(ぼら)へ入らず、長岡村の方へ逃げ入り、字三重園と云う所で落馬し、長岡村の医師にかかり、ようやく少しよろしくなったので、右の沢底村へ参り(皆と)同道でお屋敷へ帰ろうと行く所、小河内(おごち)村と樋口村の間で浪士に出合い生け捕られ、ここで又びっくりした。
又、沢底窪へ逃げ入った諸士は、長岡村へ下り、土民の世話で、漸く夕食の用意をなした。それから無提灯で、山づたいに長岡村土民の案内で、三日町村(箕輪町)へ下り、それから漸く提灯を少しつけて御帰陣の体であった。その一手は沢底村高交(たかうど)へ出、それからさまよい、黒沢へ下る者も、又(手良)野口村畔松(あぜまつ)へ下る者もあって。誠にあわれであった。
又、内藤様一陣は古町、又は上の原へ岡野小平治様、お固めなり云々」
野木要人の部隊は、統制もされず混乱の呈で逃げ散っていた、その上記の様子を揶揄して「そりゃ来たと 逃げる沢底はよけれ共 うろたえ武士の(生)捕の恥」と狂歌にしている。
しかし後年、高遠町の古老が『花畑雑記』で、「干戈を用いずして退く、故に本駅の安きを得たり。是を以て是を見れば、野木氏の如きは機を知ると謂うべし。前車の覆へるを見て其の身に顧る、噫々良将なる哉」と高く評価した。上伊那郡の人々が、後世に考えれば当然の帰結ではある。況して天狗党は明治維新に直接的な成果を挙げ得なかった事を鑑みれば、高遠藩がひたすら守備に徹した事により、戦火による被害を受けず、避難した人々も安堵して戻れた事と、浪士隊も無事通過して去った。その一方では徳川家を頂点とする封建体制を、内部で支えるはずの武士が武士でなくなっていた事実が露呈された。しかも、この事件に関わる人足などの民の負担は、余りにも大きかった。
11月22日聖天原に陣していた高遠藩の岡野小平治の率いる部隊も、通過後大分経ってから数発の大砲を放って天神山へ撤退している。岡野は、藩主内藤頼直が、万延元(1860)年3月、「藩士を養成するには文武を奨励するより先なるはなし」と藩校進徳館を創設、その初代文武総裁であった。
11月23日幕府軍目付江原桂介の出頭命令により高遠藩の野木要人、岡野小平治が北小河内村(箕輪町)に呼ばれ、天狗党への対応を種々弁明し、大砲発射を奮戦の口実とした。
3)天狗党課役の耐える高遠藩領民
下辰野村に所蔵されている「浪士通行之節御賄方扣」によれば、高遠藩が出兵の際、703人分の炊き出しが命じられ、その米は2石8斗1升4合、人足として200人余り、その内容は炊き出し、使い、松明持ち、荷物運び、更には下諏訪まで探索にかり出されている。
天狗党通過後の2日目、幕府追討軍が来た。その追討軍の堤有三という者から、平出宿の名主宛に継ぎ立て人馬提供の沙汰があった。
11月23日、平出村名主は、沢底村、赤羽村、樋口村両割の名主宛に「急廻を以って申し上げ候、江戸御役人様堤有三様より御沙汰是有り候処、明廿4日800人程、此の御継立人足800人、人馬100匹、明廿5日御同勢800人程、此の御継立人足800人、人馬100匹、明廿6日御同勢千人程、此の御継立人馬多分の事に御座候、右之趣御役所へ直ぐ様御届け、右人馬御願い立て致し置き候間、御村々御用意置かれ、早速御沙汰次第人馬御操出願上げ奉り候 以上」、無益無能な幕府追討軍のためこれだけの負担を課せられた。
高遠藩も平出名主から、その沙汰を聞き、上伊那郷支配役荒川瀬兵衛は、同日、上伊那郷村々へ「御旗本御人数平出村より御継立に付き、村中壱人立て候人足残らず平出村へ明5ツ半時迄に出さる可く候以上」の触書を出した。
戦場として蹂躙される恐れが去り安堵したのも束の間、今度は行軍の人足の徴発であった。その過酷な負担は、月末まで続いたと言われている。
昭和27(1952)年、平出栄町の新道開削の折、上伊那郡辰野町平出の見宗寺北側の畑より等間隔に並べられた頭蓋骨12,3個が発掘された。和田峠における高島、松本両藩との熾烈な戦いで戦死した浪士の首を、京まで運ぶ心算であったが、それは余りにも死者への冒涜に繋がると知って、京へ伴えない無念さを噛み締め、この地の林間に已む無く埋めたのであった。同時に和田嶺合戦で深手を負い、その後に想定される厳しい行軍の妨げとなるとして、幾人かは涙の介錯により、ここに埋葬されたと見られる。昭和35年、平出の4辻に「水戸浪士休息跡」と記された碑が建立された。近代では、水戸浪士の痕跡が、観光誘致の手段となっている。
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