茅野市の古代山鹿郷の塩原之牧と山鹿牧
 
    月影の すわの湊に すむ夜半(よわ)は またきにむすふ 氷なりけり       藤原清輔

山鹿牧と後方の神野(上社御射山) 茅野市米沢北大塩 塩沢牧大清水 山鹿牧柳川(左岸が神野、右岸が牧)

1)総説    Top

 諏訪郡は、平安時代の承平年中(931937)に源順(みなもとのしたごう)が撰述した『倭名類聚抄』によると、土武(土無;下諏訪町富部)佐補(佐布;上伊那郡中箕輪村)美和(上伊那郡高遠町)桑原(上諏訪上・下桑原)神戸(上社から四賀村)山鹿(豊平村)弖良(てら;上伊那郡手良村)7郷に分かれていた。古代諏訪郡は、現代の上伊那郡をも含み、駒ケ根市と宮田村境に架かる太田切橋の下を流れる太田切川までに及んでいた。

古代諏訪郡内にあった現在の茅野市内の山鹿郷には、塩原牧と山鹿牧(後の大塩の牧)があった。この御牧周辺には、永明寺山の西端の山麓や上川が諏訪湖盆地に至るまでの河床沖積台地に濃密に存在する釜石(永明寺山公園墓地の標高860mの上段部広場の西側)一本椹(いっぽんざわら;永明寺山公園墓地への台地中段の道路中央)大塚(JR中央線茅野駅南東300mの現在の大塚神社付近)、その他の古墳群、それも7世紀中頃から8世紀にかけての遺跡から、馬具類の鐙(あぶみ)、鞍金具、輪鐙(わあぶみ)、轡(くつわ)、咬具(かこ)、鞍金具、鉄族、直刀、蕨手刀らしき物等が多数発掘されている。

 牧制が初めて公示されたのは、文武天皇4(700)年であったが、以上の遺跡調査から塩原牧山鹿牧、或いはその前段階の牧が、既に存在していたと考えられる。

 日本列島に馬が登場するのは、古墳時代の中頃、西暦5世紀の初め頃といわれている。縄文時代や弥生時代の遺跡から馬の骨が出土している、もっと古くから日本列島に馬がいた可能性があると説く人もいるが、今のところ確証はない。また『魏志倭人伝』も、弥生時代の日本について「馬なし」と記述している。古墳時代に副葬品として古墳に埋納された馬具が現在のところ馬に関する最も古い出土品といえる。
 4世紀の終わり頃、朝鮮半島北部の高句麗好太王(こうくりこうたいおう)の碑文が伝えるように、倭政権は半島で、高句麗と戦うが、その最中、高句麗の騎馬戦力に接し、歩兵の不利さを悟った。また戦場で軍を指揮するのに馬上が有利で、倭人が乗馬を始めるきっかけとなった。したがって、日本列島における馬の使用は、戦いの手段、軍備の一部として始まった。

 6世紀中頃からの欽明・敏達天皇の時期、朝鮮半島では伽耶諸国が滅亡し、その前、527年には筑紫に磐井の乱が起こり、大和朝廷内部には蘇我氏と物部氏の確執が生じ、国内の政治は混乱を極めていた。そこで大陸対策と内乱の備えとして、強力な騎馬軍団の備えを必要とした。方策は東国の適地に飼馬地(牧場の原型)を置き、国造の子弟を舎人として上番させることであった。科野での飼馬は、飯田経由で朝廷に輸送された。後に飼馬地は「御牧」として発展する。諏訪郡では、山鹿牧(茅野)・塩原牧(茅野)・岡屋牧(岡谷)・宮処牧(上伊那)・平井出牧(上伊那)・笠原牧(上伊那)・萩倉牧(下諏訪町)が存在した。

 現在の茅野市の山浦一帯にあった山鹿牧(茅野市豊平南大塩を中心)と塩原牧(茅野市米沢北大塩を中心)が、かつての山鹿郷に牧制度の再編成に伴い開発設置された。士武(とむ;伴部を意味)郷は、下諏訪町から岡谷市の天竜川以北の地域ですが、その郷の周辺、即ち諏訪大社下社の北西部に萩倉の牧が、岡谷市の丘陵部一帯に岡屋牧が開設されていた。ただし桑原郷と神戸郷には、国牧は置かれていない。桑原郷は諏訪氏の上桑原、下桑原一帯をさす。神戸郷は「ゴウド」と訓じ、諏訪市神戸とする説と、「カンベ」と訓じ諏訪大社上社前宮の神原から諏訪湖の湊、そして岡谷市の天竜川以南の川岸東地区に及ぶとする説がある。

 いずれにしても諏訪郡内の郷は、水田稲作に適した低湿地に乏しく、高冷地でもあって当時の稲の品種では、自ずと生産力が弱く、度々襲い来る冷害に苦しんだ。また諏訪湖南岸には、豊田、金子、中洲と広い湿地帯があり、当時の土木技術では、度重なる水害に対応できず、農地開発はできなかった。それだけ、この地域は、古代から郷村生活を安定化できず、幾度かの大変貌を経験した。

 そして、古代には上伊那郡大田切川以北、現在の辰野町・箕輪、南箕輪までは諏訪郡で、それで、辰野町平出にあった平井出牧、同じく辰野町宮所の宮処牧、伊那市笠原の笠原牧も諏訪郡に属していた。

2)塩原の牧

 塩原牧は、上川を挟んで山鹿牧と平行するように茅野市の山浦地方・山鹿郷に置かれた。『延喜式』や『吾妻鏡』よると「塩之原牧」と記され、牧馬が塩気の土を嘗め、湧き出る塩水を飲んでいたようだ。現代にも残る「土地台帳」に塩之原野馬久保の字名が記されている。塩原牧は、東北から南西へ貫流する上川の右岸にあり、北から塩沢北大塩鋳物師屋(いもじや)埴原田(はいはらだ)の各区域で、茅野市の旧村米沢村の平坦地の殆どを、その領域としていた。また牧の中心は、北大塩にあったようだ。北大塩地籍の大清水は、現在でも茅野市水道部最大の水源地で、一日の湧水量は15,000tある。塩原牧にとっても大切な水源であった。北大塩の駒形神社は、塩原牧の守護神の伝承があり、また牧内最高の標高で、ここから牧が一望でき、牧内の馬の監視には最適であった。またこの塩原牧域には、南北に古東山道が通じていた要衝でもあった。

 上川沿いの北の塩沢から南の埴原田までほぼ4km、東西は1.5kmと細長い。北端は大門峠を下る音無川と蓼科山から流れる滝の湯川が合流し上川となる合流域に、朝倉山の東南の岩鼻の崖が接していた。南端は尾根続きである諏訪氏の居城上原城から永明寺山の南東に延びる丘陵の先端部にあり、山浦地方一帯の喉元にあたる要衝の地・鬼場城跡の末端が上川に接していた。東側は総てが上川流域で、西側は霧ヶ峰山系の南部の山地が蔽い、この自然地形が牧馬の逃亡を防ぐ天然の格(牧場周囲の柵)となった。また牧には都合のよい緩傾斜地であり、藤原川前島川桧沢川横河川等水量豊富な河川に恵まれ、牧草の育成と牧田の管理にも最適であった。御牧に牧長牧帳牧子が置かれ、飼育管理をした。

 この地域は上記のように塩乃原と呼ばれていたが、塩沢安兵衛が、信州大門の合戦武田信玄に従い軍功をあげ、朝倉城(塩沢城)の城主となり、またその息子将監もその城主を引継ぎ、その統治の間、当地の産土神(うぶすながみ)瀬神社の荒廃を嘆き、新たに祠を造営して祀り、更に現在の塩沢寺をも開基し、天正5(1577)年3月7日没すると、その功績を称え、塩乃原を塩沢と呼ぶようになった。

3)山鹿の牧

 山鹿牧は上川の左岸、現在の花蒔公園、中大塩団地の丘陵がある東側、茅野市の旧湖東村、豊平村地域の緩やかで広遠な台地上にあった。八ヶ岳の西の裾野にあたる。湖東の現在、茅野消防署北部分署がある新井、堀、中ッ原遺跡の仮面土偶で有名な山口、中村等の地域と豊平の山寺、南大塩、塩乃目、上古田、下古田、福沢等の地域が該当する。牧司屋敷は山寺と考えられている。山寺には中世から白山神社があり、その周辺には相当大規模な密教寺院があったが、正応年間(12881292)に諏訪市中洲の神宮寺に移転された。古屋敷、大坊屋敷、経塚の地名が残り、その白山神社の南側から昭和33年以降の調査で、住居址が5基以上発掘された。この一帯から大坊屋敷、仁王堂、施餓鬼(せがき)山、経塚等の地名が残り、その遺跡の標高は915mで、白山と八幡の2社が祀られている。

 山鹿牧も上川沿いであるため、北東から南西に長く伸び、その長径は3.5km、幅は2.5kmあり、北の端は上川の支流・渋川が広大な緩傾斜地を扼し、西側は上川沿いの長い丘陵が押さえ、東は八ヶ岳の西麓が南北に伸び、牧馬は越えられない。南側は大泉山の南側から、その南に位置する小泉山の北側を蛇行する柳川が、小さな河川でありながら深い谷となり天然の格となって、やがてはその南端ともなり上川の支流として、御座石神社辺りで注ぎ入り塞いでいた。牧の管理にはこの上ない。

 北の端の新井地籍は古来湧き水が豊富であった。更に中村の北、山口新田地籍には六社前清水など諸所に湧き水がみられ、南大塩の東北域の児玉清水や観音前清水の湧き水もあり、特に観音前清水は南大塩の宿中(集落)を流れ、冬季にも凍らなかったという。文字として資料に残るのは江戸時代からで、「白山神社(南大塩山寺)」は、南大塩村と塩之目村の産土神(うぶすなかみ)であった。その地域、堀新田・上場沢新田・笹原新田・須栗平新田・白井出新田・南大塩村と塩之目村を、南大塩地中7ヵ村といった。ただ室町時代の『年内神事次第旧記』には、大塩3ヵ村の名が記されている。比較的平坦な台地で、牧場に関連する地名としては塩之目・バチ村(馬丁)、バチ山(馬丁の転訛)等があり、特に現在の湖東の新井地区には、雑司原駒形社古屋敷の地名が残り、山鹿牧の関係者の集落があったとみられる。また駒形社は山鹿牧が信奉していた。また南大塩村と塩之目村の地籍名から、「塩之原」同様、当時は塩水が湧出していたと考える。現在でも高遠の南、大鹿村の鹿塩の地では、温泉は塩湯で、精製した塩を現在でも、お土産で販売している。

 江戸時代宝暦6(1756)年に高島藩士小岩在豪が編集した『諏訪かのこ』によれば、花蒔の地名は、花牧と表示され、その花牧の原は、御射山の大原(諏訪大社上社の御射山社周辺)高倉()の原(茅野市中大塩団地)とともに、諏訪地方の三原といわれていた。

4)牧の生活

牧では自然地形を利用して馬が放し飼いされる。春には草の生育促進と病虫害対策の配慮から、野焼きが行われた。初夏には、牝馬の発情期に合わせて、優秀な馬を産出するため種馬による交尾が行われた。そのため野馬寄せがなされ、また放牧された。秋にはまた野馬寄せをし、馬の検印と選定がなされる。その際、国司が立会い2歳の駒が新たに登録され、「官」の焼印が押され、牧馬帳に記され中央に報告された。選定された馬は、厩で飼育され馬場で、乗馬ように調教された。その翌年8月、牧監(もくげん)の責任で朝廷に貢上され、天皇の面前に駒牽される。

 山鹿牧などでは、牧の責任者である牧長と事務書記役の牧帳がひとりずつ選ばれ、馬100疋を1群として牧子2人が当てられた。馬の管理責任者は牧子であって、馬が損失すれば弁償させられ、駒を増やせば報奨稲がもらえた。それ以外に、馬の調教にあたる騎士、馬医師の馬医(めい)、貢上の駒牽や厩で飼育に従事する飼丁(しちょう)馬子(まご)居飼(いかい)占部足工(あしく)等もいた。これらの人々は庸や雑徭などの課役が免除され、彼らは朝廷の左右馬寮の管轄下で、駒を京へ貢上する貢馬使となる。その上洛途上、中央の権威を借りて、官道の駅家や郡衙を利用する際に横暴の振る舞いが多かったようだ。官符がないのに駅馬を乗用し、時には暴力に及んでも、地方官の郡司や駅長らも恐れ、その違反を職制から正す事すらできなかったようだ。

 一方、御牧による馬の生産により、その飼育技術は昭和の戦後にまで伝承され、諏訪地方の農村の副業として根付いていく。天正6(1578)年の『古田十五所之宮造宮帳』に、その神事銭を収集する地域として、古田之郷南大塩として、中村、北大塩と共に、湯川芹ヶ沢柏原等の地名が載っている。その「古田十五所之宮造宮帳」の大門峠筋湯川地籍には、「馬流し」、「馬返し」があり、柏原地籍には「駒形」、「大清水」等の地名があり、当時御牧は存在していないが、馬の飼育が重要な生業であったことが知れる。更に騎馬の巧みさと、それに伴う狩猟における弓矢の技術が、「勇敢軽鋭」の勇者を育て、やがて諏訪武士として一時代を築いて行く。

5)その後の御牧

その牧田に関しては、延暦16年(797)は、征夷大将軍・坂上田村麻呂が、東北地方の蝦夷を一応鎮圧した年で、その6月7日の太政官符の条に
 「監牧の司は正職に非ずと雖も而も家を離れ任に赴くこと国司に同じきものあり、宜しく埴原牧田六町を以て公廨田(くがいでん)となすべし、今より以後永く恒例となせ、但し当土の人を以て任せば賜う限りにあらず、其新任の年は便りに(役料として)牧田の稲を以て佃(でん)料町別一百二十束を給せよ」とある。

 この時初めて6町歩の公廨田が支給された。それも埴原牧田という。直訳すれば、赤土粘土質の田に適さない火山灰土といえる。要するに、牧田にするため新田の開発をさせたということか?その牧田では、多数の牧子が、百姓として農耕を営んでいた。信濃国には左馬寮水田が184町5段253歩あったとの記録もある。一般的に牧の経営費は、牧田収入と牧馬の売却で賄われるが、信濃では牧馬の売却が禁じられている。左馬寮荘田の地子(地代)で、諸費用が賄われ、貢馬の羈(おもずら; 轡を用いずに引くため、馬の鼻の上にかける麻または鎖の緒)代にも当てられていた。

 やがて口分田同様、御牧の経営は崩壊し、「延喜馬寮式」は記す。
「課欠駒の直を徴するに牧子の苦しみ堪えず、競って他郷に散る、信濃もっとも甚だし」とあり、ここにも現地調査を根本的に欠く、理不尽な律令体制以降の苛烈な搾取が、民の社会を破綻させていく。太政官符はさらに命じる。
 「国司は政治己に?()ぶ、牧事を兼掌すべからず、須(すべか)らく監牧二員、一員を省き一員を留め、国司一人相共に検校すべし、その監牧の歴は六年を以て限りとなし・・・・」
 牧監の任期を6年にし、国司との連帯責任を明らかにした。天安2(858)年には、牧監を2員に戻している。

 貞観7(865)年頃になると信濃国の御牧は荒れ果てていった。「類聚三代格」に載る貞観18(876)年正月26日の太政官符の全文には
 「まさに牧監等をして牧格(牧の周囲の柵)を検校せしむべき事。右、信濃国の解()を得るにいわく、案内を検するに、太政官去る貞観7年六月廿八日の符を被るにいわく、諸牧の格は料稲を請くるのを停め、牧内の浪人の?(えだち)を以て、破損に随ひ修繕せしめん者(てへり)、しかして牧長等勤守を加へず、或は火の為に焼損し、或は競って以て盗み取る、茲に因りて常に造格の弊ありて、曾(ひい)て圉牧(うまかいまき)の益なし、今ある所の勅旨牧の御馬二千二百七十四疋、格外(柵外)に放散し湟中(堀内)に留まらず、唯に民業を践害(踏み荒す)するのみに非ず、兼ねてまた頻りに亡失を致す、国司須(すべか)らく格によりて検校し、損失せしめざるべし、而して国務繁多にして巡り糺すに遑(いとま)あらず、牧監の職とする所専ら撫飼(なでかい)を事とし、所摂の長・牧子・飼丁等、牧毎に数多にして、守禦に堪ふるあり、望み請ふ、拵造(囲いをこしらい造る)の後件等の人に預け、一向に勤めとなして検校を加へしめん、若し朽損の外焼亡窃失せば、拘(とどめる)に解由(げゆ)を以てし、尽(ことごと)く造り備えしめん、謹みて官裁を請ふ者(てへり)。右大臣宣す、請に依り立てゝ恒例と為せ、上野・甲斐・武蔵等の国も亦宜しく此に準ずべし」(前文漢文)
 以上の太政官符により、公領は租庸調の苛政による逃散浮浪人が続出し、御膝下の御牧にまで流入していて、そのことを朝廷は知悉していた事がわかる。その?役をもって牧の柵の修復を命じている。御牧の状況は惨憺たるもので、牧柵が朽壊その他で破損しても補修しないばかりか、柵が焼かれ馬を盗まれ、あるいは勝手に逃亡して行方不明になる事態が多発した。また牧馬が柵外に出て周囲の田畑を荒らしもする。これは地方政治紊乱の様相の1つで、律令制の崩壊が窺える。遂に同年の貞観18(876)年の太政官符は「牧司懈怠して遂に牽き来らず」、定例の8月15日の「駒牽の行事」は行えなかった。

 この貞観年間は平安時代中期に当たる。既に御牧自体の荘園化が始まっていた。諏訪郡7牧の立地条件を考えてみる。文献上は「庄牧」と称されたが、水田・畑の適地が多かった。放牧草原や周辺地は農耕地となり、荘園化が進む。『吾妻鏡』の治承4(1180)9月10日の条に、「甲斐の国の源氏武田の太郎信義・一條の次郎忠頼」が「諏訪上社に平出・宮処の両郷を、下社に龍市(辰野)・岡仁屋二郷を寄進」した事を、頼朝に事後報告すると記されている。元御牧であった4ヵ所は、既にとなっていた。

 「吾妻鏡」文治2(1186)年3月12日の條には、信濃の御牧は「延喜式」の16牧から28牧に増えている。諏訪郡でいえば小野牧が新たに加わっていた。宮処牧より北に隣接し、同じく現代の辰野町内の小野である。それに山鹿牧が大塩牧に変わっている。しかも御牧は完全に荘園化し、実態は大きく変貌し、牧場の中には村落があり、その域内の河川を利用する田畑が多くなっていた。荘園御牧は、左馬寮の官僚組織が荘園化したのだ。その荘園は近衛大将の馬寮御監(めりょうみげ)を本家とした。その御監の職掌は、左右馬頭(さうのめのかみ)からあげられた儀式用の馬についての報告を、天皇に奏上するだけの職掌で、実際には名義のみが継承されていた。但し、左右近衛大将との兼務が慣例とされたために、その官位相当は従3位と大幅に上昇しており、馬寮では名目上の最高職であった。平安時代後期以後は、実質上の最高職である左右馬頭に、源頼信を祖とする河内源氏の著名な武士が相次いで任じられた。それ以後、源氏に仕える諏訪一族の構図ができあがり、諏訪大祝家為仲が前9年の役に登場するようになる。荘園御牧は、左馬頭を領家とし、牧司・荘官一族が在地領主として武士化していった。御牧の数の拡大は、御牧の隆盛を示すものではなく、むしろ左馬寮官司の荘園の拡大の現われで、鎌倉時代承久の頃は信濃国の牧は19となっていた。荘園化した御牧からは、貢馬と共に、田畑の年貢を本家と寮家に納めたのだ。

 一方慎重に検証しなければならないが、禰津氏は神氏系図によると、「諏訪郡一庄領主」とある。その一庄とは南北大塩付近の大塩牧と塩原牧を指しているが、それが禰津氏の所領となっていた。官牧が荘園の水田に変わる場合もあったといえる。それを基盤として武士が台頭した。諏訪武士の誕生である。望月牧を根拠地とした滋野(しげの)氏も同様である。

 しかし駒牽の行事、鎌倉時代にも継承されていた。承久3(1221)年7月25日左馬寮から信濃19牧への下文(くだしぶみ)があって、立野・岡屋2牧は、頼朝の寄進により諏訪下宮社領となっていたが、駒引役以外の諸役は免除されている。貞治6(1367)年4月13日「十九牧大使幸舜によって駒引役も免除され」となり、完全な社領となる。

6)国牧の経営の意義

7世紀後半に築造された各地の古墳からは、多くの馬具類が発掘されている。この時代から馬の飼育が日本列島で広く行われるようになった。『日本書紀』の天智天皇7(668)年秋7月の条に、近江で軍事訓練がなされ、多くの牧場を設けたとしている。その当時倭政権は、特に対外政策に関していえば、失敗の連続であった。

斉明6(660)年7月、百済が唐・新羅連合軍に大敗して滅亡に瀕し、日本に救援を乞う。

天智2(663)年3月、兵2万7千を新羅に派遣する。8月28日、日本軍は唐軍に敗退。いわゆる白村江の戦であった。9月7日、百済は唐に降服し、滅亡。日本は朝鮮半島の同盟国を失い、長年有していた朝鮮半島の橋頭堡を失う。またこの時百済王氏等、百済から大量の亡命民が日本に渡来する。
 天智3(664)年、唐・新羅の侵攻に備え、対馬・壱岐・筑紫に防人・烽を置き、筑紫には水城(水堀の土塁)を築く。
 天智4(665)年8月、長門・筑紫両国に築城を開始。
 朝鮮半島での大軍を擁しての戦闘には、騎馬戦、兵糧運搬用の軍馬の必要性に、今更のように気付く。こうして官牧(朝廷用の牧場)が設置された。続いて『続日本紀』の天武天皇4(700)年3月の条に、諸国に牧場を置き、牛馬を放牧させる牧制を公示する。

国鉄中央線茅野駅の南東300m、現在の大塚神社で、7世紀末~8世紀初頭の大塚古墳が発掘された。かなり豊富な出土品で、玉類等の装身具、銅鋺、7本の直刀、馬具等であった。そのうちの鉄製柄頭は、かなり錆びていて確証はないが、蕨手大刀ではないかと考えられている。馬具は環状式轡が4組、精巧な輪鐙(あぶみ)、咬具、鞍金具、鉄鎖、大型咬具等があった。馬具の出土例は、茅野市に限るだけでも、釜石古墳、一本椹古墳、姥塚古墳等、数を上げ切れない。

 茅野本町の北、南手前には御座石神社がある鬼場城跡の南西山麓、茅野市本町矢ヶ崎土佐屋敷立鼓柄大刀(たてづつみえたち)が出土している。昭和17年発掘、現在、御座石神社で所蔵されている。刀身は55cm、刃元幅は4.5 cm、共鉄柄刀(ともてつえがたな)で握り部分を立鼓状に絞っている。刀身は短いが外反りが特徴で、後世の日本刀の反りの原型となった。鉄の茎(なかご)に紐を巻いて握りとし、柄頭に近い部分に懸通孔(けんつうこう)が貫通している。外装の復元からは蕨手大刀(わらびてたち)に近いと思われる。伴出物がないのは、原村柳沢鹿垣(ししがき)と同様であるが、8世紀後半の時期のものとみられている。

 蕨手大刀は、宮城県多賀城市に築かれた古代の城柵・多賀城(たがじょう)内、東門西方の竪穴住居からも出土している。刀身に対して柄()が角度をもって取り付き、柄の先端が蕨(わらび)のように円くなることから、蕨手刀と呼ばれている。鞘(さや)もよく残っており、外装に樺(かば)皮を巻いた痕跡が残っていた。鞘部を入れた全長は約47㎝、最大幅約5㎝、刀身の長さは35.6㎝、刀身の最大幅3.9㎝。

 ここで重要な事は、蕨手大刀の存在で、馬を飼い馬上訓練をすれば、強兵を養えるほど単純ではない。蕨手大刀は諏訪全体では、岡谷市湊区大林遺跡・諏訪市真志野中塚・同市大熊荒神山古墳・原村柳沢鹿垣、白樺湖から佐久に通じる雨境峠近辺の桐陰寮上赤沼平そして上田方面の大門峠に出土している。長野県の出土例は17で、上伊那3、諏訪5、小県2、佐久5、松本1、長水1で、諏訪と佐久に多いようだ。一般的に全長は、5060㎝前後で刃幅が広く、茎(なかご)をそのまま柄とし、柄木を用いないで樹皮や糸などを直接巻きつけて用いている。出土例は全国で180数例を数え、東日本を中心に中部・関東・東北および北海道に多く分布し、西日本では正倉院伝世品の他数例と、極めて特徴的な東に片寄った分布傾向を示している。

日本刀に反りがついた理由については多くの学者が研究していて、大陸の影響等いろいろ考えられているが、複合的な理由が幾つか合さっている。そのひとつに戦闘様式の変化が考えられる。蝦夷征伐により、朝廷側は初めて蝦夷軍の騎馬隊に遭遇した。これにより朝廷側も騎馬戦を前提とし始める。今更とあきれる。この状態のまま、朝鮮半島で、唐軍とどう戦ったのでしょうか?長く過酷な戦乱を経てきた唐軍を前にしても、戦術も戦略もなかった。結果、何万といった民が、戦う術も無く、異郷の地を彷徨い果てた。
 また当時弓を防ぐことが第一であり、そのため上級軍士であれば、ある程甲冑が堅固でかつ相当な重量であった。しかし蝦夷の民は、日常的に馬上での狩猟で鍛えられ、至近距離から短弓で、鉄族矢で射掛け、擦れ違いざまに蕨手刀で薙ぎ払う。相手は致命傷に至らなくとも戦闘不能となる。一方、当時の日本刀は直刀で、茎(なかご)も柄木に挿入しただけで、馬上擦れ違いの一度の衝撃で以後の使用に耐えられなくなる。しかも、奈良・平安時代を通じて、閲兵式はあっても、京で軍事訓練が行われた記録を見ない。況して京警備主体の六衛府以外、軍団と呼べる軍兵の存在がない。

元慶2年(878) 3月に勃発した元慶の乱は、秋田県北部の蝦夷が出羽国府・秋田城駐在の国司の苛政を訴え、秋田城と周辺の民家に火を放つ事で始まる。秋田城は出羽柵を拡充したもので、現在の秋田市寺内の丘陵地帯にある。「国司の守・藤原興世(おきよ)は府の城を弃()てて逃げ走りつ」。国司の介(すけ)であった良岑近(よしみねのちかし)は、城から逃れ「草莽(くさむら)の間に伏し竄(かく)れぬ。」 と、藤原保則没後12年の延喜7(907)年に三善清行によって纏められたと『藤原保則伝』に記されてる。

朝廷は、出羽国のほか陸奥、信濃、上野、下野の諸国の兵士を動員して事態を打開しようとするが、反乱軍は秋田河(雄物川)以北の地を領有すると主張し、一時は極めて強勢であった。反乱軍は、秋田市以北から米代川流域にかけての12の村々の連合勢力が主体であった。平安時代、朝廷は支配領域を拡大する政策はとらずに、出羽国では秋田郡が最北の郡で、秋田県北部は朝廷の直轄支配領域ではなかった。それにもかかわらず、反乱軍は国司の苛政を訴えた。

3月、朝廷は陸奥国に出羽を救援するよう勅命を下す。陸奥の守は精騎千人と歩兵2千人を編制し、藤原梶長(かじなが)を押領使(おうりょうし)とする軍を派遣した。

4月、出羽掾藤原宗行(むねつら)文室有房小野春泉(はるみず)等も、また出羽国の歩騎2千人余の軍を発して、陸奥国の兵と共に秋田川の辺に屯(たむろ)した。 この時。賊徒千余人、早船に乗り流れの勢いのまま奇襲攻撃をして来た。押領使の藤原梶長らは、兵を率いて奮戦。「天時に大に霧ふりて、四面昏暗(くら)し。」 この時、賊衆数百人、官軍の背後より攻め、前後から大いに叫び奮戦すると、官軍は狼狽して逃げ散った。官軍の大潰走で、その食料・軍備を奪われた。

「遂に出羽国の弩師神服(かんはとりの)真雄及び両国の偏裨(へんひ)数十人を斬る。軍の士(をのこ)の殺され虜にせらるるもの数百千人なり。軍実甲冑は悉くに鹵獲(ろかく)せられぬ。道に相蹈()み籍()かれて、死する者勝()げて数ふべからず、文室有房は創を被(かぶ)りて殆(ほとほと)に死なむとす。 小野春泉は死せる人の中に潜(かく)れ伏して、(わづか)に害を免るることを得たり。 藤原梶長は深く草の間に竄(かく)れて、五日も食(しき)せず、賊去りし後、歩(かち)より逃れて陸奥国に至りつ。

 5月2日、陸奥国と出羽国の両国、飛駅使(ひえきし)が、京に官軍の壊滅を告げた。陸奥軍大敗の報を受けた朝廷は、藤原保則を出羽権守に、小野春風を鎮守将軍に任じる。陸奥・信濃・上野・下野に動員をかけ、4,000人の兵で秋田へ派兵した。この時信濃からは、30人の勇敢軽鋭の者が、特に選抜されている。やがて彼らの中から、蝦夷の優れた騎馬戦法に接し、騎乗の弓技と刀法を学び、そして重要な事は、蝦夷が使う蕨手刀の威力に直面し、馬を飼い馬上訓練をすれば、強兵を養えるほど単純ではない事を思い知らされる。この経験を経て、諏訪の牧は、武士の発祥地となる。

保則は、朝廷の直轄領域外の住民に対する苛政はありえず、蝦夷に対して不公正な交易を強要したことが原因と見抜いていた。秋田城司良岑近(よしみねのちかし)が、あらゆる手段を用い、権限外の領域まで重税を取りたてた結果、その積年の怒りと恨みが叛逆を生み、追いつめられた賊徒数万が死にものぐるいで戦っていることの重大性を理解していた。律令制下で疲弊しきった農民主体の朝廷軍では、日常、実践的戦闘の経験豊富な蝦夷との主力軍に遭遇すれば、ただ一度の勝利をも選られない状況であった。

「一もて百に当りて、与(とも)に鋒(ほこのさき)を争ひがたし。如今(いま)のことは、坂(従3位坂上大宿禰田村麻呂)将軍の再び生まるといえども、蕩定すること能はじ。 もし教ふるに義方(義にかなった正しい方法)をもてし、示すに威信をもてして、 我が徳音(とくいん)を播(ほどこ)し、彼の野心を変ぜば、尺兵(せきへい;短い武器)を用ゐずして、大寇自らに平かならむとまうす。」

「前右近近衛将監小野春風は、累代の将家にして、驍勇人に超えたり。前の年頻に讒謗(そしり)に遭()ひ、官(つかさ)を免(はな)たれて家居せり。願くは先づ春風をして精衆を率ゐしめ、示すに朝廷の威信をもてせむ。然る後に徳をもて招致せば、数月を歴()ずして、自らに銷()え散ずべしとまうせり。」
 
数日にして進発し、昼夜兼行して飛駅道(ひえきみち)を辿る。出羽国に到着すると、直ちに将軍春風に命じて、各陸奥国の精騎5百人を率いて、反乱軍との陣境を越え、甲冑を脱ぎ、弓を置いて、蝦夷の軍内に入り、その酋長を召して、その言い分を聞かせる。

「かつての秋田城司が、貪欲で欲心が深くて、とどまる事を知らない。もし少しでも、その求に応じなくなると、鞭打ちに処します。その苛政に堪へられず、遂に叛逆を犯しました。」

将軍はそれに応えて、天子の恩命を詔()
「願うことは、将軍の本営に来て欲しい。そして酒食を以て官軍に饗応させて欲しい。」と、
その豪長数10人を伴って、春風が出羽の国府へ案内した。藤原保則は出迎えて慰撫する。

6月 小野春風は、反乱集団の多くを懐柔することに成功。「夷虜は叩頭拝謝し、態度を改めて幕府に帰命」し、先の戦で得た補虜と武器を返した。また帰順を拒否する首長2人の首を斬って献上もした。その上で、秋田城を包囲している蝦夷軍を攻撃した。反乱軍2千人が逃亡した。
 12月 鹿角の反乱軍300余人が降伏して、元慶の乱は終結する。

 菅原道真の詩に「哭(こく)奥州藤使君」がある。延喜元延(901)年に亡くなった陸奥守・藤原滋実(しげざね)の死を悼んだもので、滋実の下僚に、蝦夷との交易によって皮衣等を入手し、それらを都に持ち帰って贈物とし、さらに有利な官を得ようとしていることや、蝦夷との交易はうまく行けば利益が莫大であるため、交易におけるトラブルがもとで、変乱となることがあること、等が述べられている。藤原滋実の父の興世(おきよ)は、元慶の乱の時の出羽守で、滋実も乱の時には父にしたがって出羽国におり、事件の収拾に奔走していた。
 当時、蝦夷の交易品目には、アシカの皮鷹の羽砂金昆布等もあって、秋田城や胆沢城の重要な任務には、交易によってこれらの北方の産物を入手することであり、後に安倍氏清原氏が力を得ることができた理由の一つに、交易ルートを掌握し、その利益を独占し経済基盤を確立したがあげられている。
 これらと交換により蝦夷にわたった品物は、鉄製品繊維製品須恵器等であった。蝦夷の側でもこれらの品物はもはや必需品となっていて、そのためもあって元慶の乱は、年を越すことがなく解決した。蝦夷側もこれらの品目が長期にわたって入手不能とければ、生活が成り立たなくなっていた。徐々に当初12村の結束も緩み、朝廷側の懐柔による分断工作もあったが、藤原保則小野春風らの部下を反乱軍の拠点に派遣し、一方では秋田城司の苛政を認め、反乱軍の酋長たちに対して、国府まで出頭するように求めると、数10人が小野春風に従い出羽の国府にやって来た。保則がそのなかに反乱軍の重要人物2人が含まれていないことを指摘すると、彼らはしばらくの猶予を請い、数日後に両名の首を献上してきた、という。
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